尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2015年1月3日

法会の開始に先立ち、既に皈依している娘を伴い、一人の弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが自分をお救いくださったあらましについて語り讚揚申し上げ、同時に自分がこれまで行ってきた悪行悪業について懺悔した。さらにその前に、ここ二週間の間に、自分の身の回りで起こった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を苦難からお救いくださることに関する非常に殊勝で不可思議な出来事について話した。

「これは私の姑の妹に起こったことだ。私たちは、彼女をおばさんと呼んでいる。おばさんは顕教に皈依して40年になる。右眼の視力を失う前は、桃園の仏教社団へ行き敬虔に読経し拝仏していた。また、三寶に対する恭敬と発心供養についてしばしば口にしていた。社団で活動があるとなると、おばさんは必ず多額の供養をし、その額は十数万元にもなるほどで、私はそれを何度も聞いていた。実は普段の生活では、おばさんは気前のいい方ではなく、支出のすべてを細かく管理していた。ただ、三寶に対する発心供養についてだけは、高等教育を受けたこともない80歲のこの老婦人は、非常に立派だと人に思わせる態度だった。おばさんの右眼が失明した原因は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがかつて法座で開示くださったように『我々が行う事はすべて福報と関係がある。医者に診てもらい薬を飲むことなどは、なおさらそうだ』ということだった。

おばさんは家族性の緑内障で、定期的な診察を受けていた。10年前のある晚、おばさんは、突然右眼に強い不快を感じたため、北部のある有名な大病院の救急を受診したが良くならなかった。そのため、翌日同じ病院の眼科を受診したが、依然として改善しなかった。それで、いつも診てもらっている町のクリニックで検查してもらったところ、ここの老医師により、単純な緑内障ではないということが分かった。そして、すぐにもともと受診した大病院で再検查を受けるよう勧められた。検査の結果は網膜中心静脈閉塞症とのことだったが、初期的な処置をすべき24時間を過ぎていたため、右眼の神経は既にすべて壊死しており、光を失うこととなってしまった。

11月初め、おばさんは自分の脊椎に骨棘ができていることに気づいた。痺れや痛みで日常生活に影響が及ぶため、子女の強い勧めで、台北のある大病院の名医に診てもらったところ、医師は『簡単な手術なので絕対に問題はない』と言い、おばさんも手術の後に手術成功の喜びを伝えに私たちに会いに来ていた。ところがその喜びは長くは続かなかった。わずか10日余り後、おばさんは再び劇痛に襲われ、同じ名医を受診した末に、脊椎の再手術を行い、ボルトを入れることとなった。この時おばさんはひどく怖がっていた。80歲の高齢者が一ヶ月に2度も手術を受けることになったのだ。おばさんの恐怖と心細さは想像に難くない。

11月15日2度目の手術を二日後に控え、私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが書かれた『快楽と痛苦』をおばさんに持って行った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真のページを開き、詳しく見るようおばさんに言い、そして『今この地球上でおばさんを救い加持できるのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけなのよ。衆生が恭敬心と懺悔心で祈求するだけで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはそれがお分かりになり、慈悲深く加持くださるのよ』と告げた。

おばさんは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが主法なさる法会に参加したことがなかったのだから、その時はおばさんがどれだけ理解できたかは分からなかった。もともとおばさんは昨年(2014年)の大法会に参加しようとしていたのだが、弟子達が至らないため、大法会は行われなかったのだ。そのため、おばさんは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかったことがなかった。おばさんは私の話を聞いた後、目に涙をためて頷いた。11月18日の手術は午後1時から始まり夜の8時まで続いた。7時間に及ぶ手術に、おばさんの娘は非常に緊張し、涙さえ流しながら、万が一の事態を恐れていた。

二日日後私は病院におばさんを見舞った。おばさんは私を見るや否や、とても不思議なことを教えてくれた。おばさんは台湾語で『私は リンポチェが救いに来てくださったのを見たの。リンポチェと12尊の仏が救いに来てくださったのよ』と言うのだ。私は感謝のあまり言葉が出なかった。おばさんはとても詳しく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの荘厳な法相を語り、自分は確かにはっきり見たと強調した。『尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法衣は黄金色で、一面の光明のようだった』と言う。おばさんは高等教育を受けたことがなく、座禅が何かも知らなかったが、二本の腕を交差させて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが結跡跣座なさるお姿を形容した。そして『尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは帽子を被っておられた』と言い、帽子の様子を形容するのに、焦りのあまり『媽祖が被っているような帽子だった』と言っていた。

おばさんは法会に参加したことはなかったし、『快楽と痛苦』中の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法照も帽子を被っておられない。おばさんは続けて『尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは幅10センチの長い板を持って黒い影に向かって振っておられた。12尊の護法も手伝っておられ、中でも一尊の護法は倒れてもすぐに起き上がっておられた。リンチェンドルジェ・リンポチェと12尊の護法は私を守り、冤親債主を遮ってくれていたのよ』と言った。ここまで聞き、私は思わず嗚咽し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのとてつもなく遠大な大慈悲力と大威徳力、自己を犠牲にし苦難にある衆生をお救いくださることに感謝申し上げた。この宇宙で、地球上で、誰であろうと苦しんでいる衆生がいれば、それがたとえ弟子でなくとも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかったことがなくとも、恭敬心、懺悔心、信心さえあれば、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはお見捨てになることはなく、慈悲深く加持くださるのだ。おばさんは『自分は顕教に皈依して40年になるが、こんな殊勝な光景は見たことはなく、聞いたことさえない』と言った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが主法くださる共修法会に毎週参加する機会をくださり、いつでも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳大海の庇蔭の下、平凡、平安に毎日を過ごせていることを私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい。これがどんなに貴重であるかは分かっているが、どんなに得難いかを理解していないことが私は恥ずかしい。空気のように重要なのだ。目には見えないけれど、空気無しには一分だって生きられないのだ。この末法時代、衆生の福は薄く業は重く縁は浅い!尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったように、もし上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い救度がなければ、我々は今頃どこに堕落していたか分からないのだ。おばさんは40年も念仏してきたのに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのような大修行者に皈依する因縁がなく、大病院では誤診され、名医に執刀してもらったにもかかわらず手術は失敗した。けれども、最後におばさんは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する恭敬心と懺悔心を起こしたおかげで、最も危険な時に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頂戴し危機を脱することができた。

このことを、私は深く懺悔したい。弟子として、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する自分の恭敬心と懺悔心はおばさんのように真剣で真摯だったろうか?尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと三寶に対する恭敬供養に心と力を尽くしていただろうか?私のこのちっぽけな命だって、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが救ってくださったものなのに。

私は2005年7月尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げた。皈依の因縁は、大腸癌が重篤な父が苦しむのに耐えられず、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜ったことだった。父は病院で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を賜った後、一週間以内に穏やかに往生したが、火葬後の遺灰には鮮やかな瑞相が現れていた。その後の2年間は私が自己の行いをしっかり改めなかったため、夫と親族が私の学仏に反対し、そのため2年間私は日曜日の共修法会に参加することができなかった。2009年7月夫がクアラルンプールに転勤になり、一家で転居した。

クアラルンプールへ向かう前から私には子宮筋腫があったが、漢方薬を飲んで抑えていた。けれども、2012年の1、2月より大量出血するようになり、その回数は3、4回に及び、東洋医学でいう『血崩』の状態となっていた。私は非常に驚き恐ろしかったが、当時は異国にいたため、どうしたらよいかわからず不安で、ただ黙って心の中で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想申し上げ、異国で倒れることがないよう加持を祈求申し上げた。すると一分もしない内に、出血は止まった。これは西洋医学ではありえないことだ。西洋医学ではすぐに強力な止血剤を注射するか、手術室で処置するかしかないのだ。

4月私は台湾に戻り、血液検查をしたところ深刻な貧血であることが分かった。指数は4だった。正常な人のヘモグロビン値は12で、12以下は貧血とされるが、私はそのわずか三分の一しかなかったのだ。この状態なら病床に横たわる生活になっても不思議ではないのに、私は4、5時間のフライトの末台湾に帰ってきたのだ。これはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救護のおかげに間違いない。マレーシアで出血のために死ぬこともなく、飛行機の中で大量出血を起こすこともなかった。私の状況は危険だったため、医師の勧めで手術することとなった。当時医者は夫に『筋腫内には400CCの血液が溜まっており、いつ爆発するかわからない風船のような状態であるため、非常に危険です』と言っていた。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持がなければ、私はマレーシアで失血死するか、機内で命を落としていただろう。

私は懺悔したい。自分はまじめに学仏せず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法座上での開示を心を込めて聞かず、さらに『上師から離れてはならない』との箴言を忘れていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが我々を必要とされているのではない。業が重く福が薄い弟子が上師から一旦離れてしまえば、業障が現前に現れた時どうしたら良いのか?私は懺悔したい。自分は因果を深く信じず、死の無常など信じることもなく、加護を求めるだけの貪念で学仏してきた。また常に怠慢で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが伝授くださった教えをしっかり修持することもなかった。

私は今では過ちに気づき心から悔い、今後は努力して必ず自己の悪習を改め、この生で必ず生死を解脱し、西方浄土に生まれることを目標とすると決心した。また私はここで、自己がこれまで為してきた身口意、五戒十善に背く悪行敗徳のすべてを発露し懺悔したい。私は、他人の物を盗み、欲望を放縦し不良図書や映画を見、何度も堕胎し、衆生の血肉を貪り、五戒十善を破ってきた。敗徳かつ地獄へ堕ちるべき悪行悪業を懺悔したい。私は当初、法会参加の功徳を貪欲に求めるあまり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法座における開示を聞き入れていなかったことを懺悔したい。リンチェンドルジェ・リンポチェは『そなたの法会への参加に家人が同意しない。それはそなたがきちんと自己を改めていないからだ。家人を騙して法会に参加してはならない』と開示くださった。私は利己的で家人を騙し福報を求めたため、親族は煩悩を起こし悪口を犯し、学仏慧命を絶ってしまった。これはすべて私が為したことだ。衆生を傷つけた自分の罪は悪辣極まりなく、それなのに己を知らず思い上がっていた。自己が犯した悪行悪業を懺悔し、二度と再び犯すまいと硬く決心したい。

私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、悪業が重大で福が薄いこの弟子を憐れみくださり、加持くださって、心を強くしてくださるよう祈求申し上げたい。業力が現前に現れても萎縮して後ずさりすることなく、常に清浄な本性を保ち、おばさんの例のように、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して100%の恭敬心、懺悔心、供養があるかどうか、常に己を顧みるようにしたいと思う。今後私は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださる法教をまじめに修持し、努力して怠けず、生死解脱を人生最大の目的として行こうと思う。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、いついかなる時も弟子のためにご尽力くださり、弟子の親族にさえ目をかけてくださる。夫、家族、娘まで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を頂戴しているのだ。以前、娘はアメリカで勉強していた時、身体に不調を感じ、帰国して検査したところ甲状腺乳突状腫瘍と診断されたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のおかげで今では健康を取り戻している。今後機会があれば、この辛い経験を皆に話したいと思う」と述べ、最後に「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、直貢噶舉の法脈が永遠に流伝し、仏法事業がより興盛となり、六道の一切の有情衆生に利益し、より多くの衆生が得度できるよう恭敬してお祈り申し上げる」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、長寿仏法会を自ら主法くださり、参会者に貴重な仏法の開示をくだされた。

「今日は長寿仏を修める。これは藏伝仏教だけにあるもので、顕教儀軌にはこの法門はない。長寿仏は阿彌陀仏の報身仏で、行者が生生世世で六度万行、菩薩乗、大乗仏法を修めたなら、長寿仏の修行に役に立つだろう。過去世はあまりにも遠いなどと言ってはならない。だれでもこの一世で母の子宮に宿った瞬間に悪業を始めているのだ。母が肉を食べ我々の肉体に滋養を与え、我々の肉体を成長させようとする。けれどもそれは殺生であるため、殺生の共業は胎児の頃から始まり、物事が分かるようになるまで、たくさんの肉を食べることになってしまう。

経典では、寿命がどう決まるかについて説いている。それは、健康であるかどうかで決まるのではなく、豊かな家庭に生まれれば必ず長寿となり、貧しい家庭に生まれれば必ず短命となるというわけでもない。寿命は生生世世中に一世があるのであり、殺生せず肉を食さないことで、この一生の寿命を得るのだ。寿命を用いて何をするのか?この一生の寿命の根本は、借りを取り戻すためと借りを返すためにあるので、すべての恩と怨が終わればそれでこの一生は終わるのだ。生きている間は、誰もがさまざまな方法で長寿を得ようとする。世間法から言えば、この一生で努力し行善し、自己の考え方を持たず、行うことすべてが衆生を救うためであるなら、この一生の寿は伸びるだろう。

修仏から言えば、寿命を用いて何をするのか?地球上で何年か長く我々を生かすためにだけ寿命があるなら、何の意味もない。老犬が役に立たない身体を最後の一秒まで永らえているようなものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本でたくさんの老人が孤独な生活を送るのを見た。日本は長寿国だと言われるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような長寿を目にし辛かった。さらに寿命があるだけではダメで、財も必要だ。ここで言う財は金銭ではなく、食べるもの、着るもの、住むところがあるなどの、寿以外にこの一生で用いるものである。財はどこから来るのか?過去世の供養布施から来るのだ。つまり、過去世で殺生せず肉を食べず供養布施し、寿と財が結びつかなければ、この一生の福報とはならないのだ。

けれども、毎日每分每秒我々は常に福報を用いている。福報は使い切ってしまえばなくなってしまう。福報とは金銭のようなものである。例えば、この一生で金を貯め銀行に預ける。この一生はこの金で十分だと考え、そのため使い切ってしまう。世間のさまざまな方法は、寿命と財や富の累積を助けてくれはしない。突然大儲けする人がいるじゃないかと思うだろう。それはその人の過去生での修行の結果なのだ。

今日の話のポイントは寿だ。寿を用いて何をするのか?どうしてチベットでは長寿仏の儀軌を修めるのか?それには二つの理由がある。一つは、衆生が地球に来れば寿命は減っていくばかりだが、この一生で仏法を学習し生死を解脱するためには十分な時間が必要だからである。時間が十分でないなら、大願を発し精進しても役には立たない。長寿仏は修行者のために修めるのだ。修行人でないなら、何のために長寿仏を修めるのか?『地藏経』では耗命鬼王について触れている。この一生で肉を食べ、他人の金銭を騙し取り、殺生し、嘘をつき、正直でなく、五戒十善を行わない等の人がいるなら、耗命鬼王は小鬼を遣わしそなたの命を吸わせる。肉食し殺生するなら、その人を長く生かしてどうするのだ?

『90歳、100歲まで肉食している人もいる』と反論する者もいるだろう。だが、こんな風に生きたいだろうか?100歲を越え、一所に泥のように留まり、歩くこともできず、何をするにも他人の手助けを要し、だれも助けてくれないなら小さな子供にも及ばない。このような長寿ならあってもどうしようもないのではないか。なぜ『地藏経』では耗命鬼王について特に言うのか?なぜなら我々はこの一生で誰もが耗命鬼王と親しくしているからだ。肉を食べたところで、そんなに深刻な事態には陥らないと思っている人が多いだろう。けれども、『地藏経』にははっきりと書かれている。地藏菩薩のある一世の母は因果を信じず、衆生の肉、特に海鮮を好んで食べた。かつては『海鮮』という文字がなかったため、経典中では『魚鱉』という字を用いている。ここで言う『鱉』とはいわゆる『すっぽん』ではない。インドにはカメはいるが、すっぽんはいない。経典で言う『鱉』とは実はカニ、エビの類のものなのだ。例えば、日本人は魚卵を明太子と呼び好んで食べる。『地藏経』では、このようなものをたくさん食べるなら、地藏菩薩の母であっても死後は地獄へ堕ちるとはっきり説いている。それなのに誰も信じない。

毎日地藏菩薩を拝んでいるのに、全く信じない。それどころか地藏菩薩が説くのは物語だと考え、自分にも巡って来るとは信じようとしない。そのため『地藏経』では『因果を信じなければ、それは邪命、邪見で、死後地獄に堕ちる可能性が高い』とはっきり説いている。多くの人が『地獄に堕ちると言われても今は何も感じない。死んでからまた考えよう。今は食べることの方が大切だ。先ずは自分の口腹の欲を満たそう』と考えている。地獄に堕ちるなら、死の前には、医療の苦痛を含むひどい苦しみを必ず経ることになる。法会の前に話した弟子が言っていたが、彼女の父はガンだった。ガンなら苦痛なく死を迎えることなどあり得ない。なぜガンは苦しみをもたらすのだろうか?それは、その人が地獄に堕ちるからだ。穏やかに死ねるなら、その人は地獄に堕ちず、冤親債主もそなたを困らせることはない。

この生で肉食する人々は、肉を食べる度にその分の寿を減らしており、最後にはなくなって死んでいくのだ。現在健康だからと言って、カニ、エビを食べれば死に近づくなどと信じない人が多い。今日のニュースで、アメリカのガン研究者が『癌細胞は遺伝ではなく細胞の突然変異だ』と発見したとあった。さらに続けて『ガンになる人は運が悪い人』と言う。仏法的には『福が残り少なくなったので、食べられ体内に取り込まれた魚、エビ、カニ等の力が食べた本人より大きくなり、復讐できるようになった』と言うことだ。この理論は細胞の突然変異について触れており、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示と符合している。そなた達が食べる魚、エビ、カニの栄養はどこへ行くのか?細胞内へ行くのだ。深海魚は何十年も生きられるが、そなた達がいつも食べているエビはたった数ヶ月の命だ。十年も二十年も生きられる魚は多くない。短命な生き物を一日中食べて長生きできるだろうか?当然できない。

地球上で菜食する動物はどれも大きく成長する。どうして肉を食べたいかが分かっただろう。大きくなりたくないからだ。太りたくないからだ。ある皈依弟子の夫は既に亡くなっているが、耳たぶが特に大きく、下庭(顔の下三分の一部分)は豊満だった。面相から言えば、短命であるはずはないのだが、旅行業を営み、毎日酒を飲み毎日海鮮を食べていた結果、肝癌になり死んでしまった。享年50歲ほどだった。初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た時には、因果を信じず、それが自分の身の上に起こるはずはないと思っていたようだった。他人は彼の大きな耳たぶ、豊満な下庭を見て、老いるまで働けると言っていた。けれども、殺生し、衆生の肉を食べていたので、自分の福報をあっという間に消耗してしまったのだ。酒とタバコを口にすれば、その消耗はより多くなる。彼がガンを患ったとは誰も信じなかった。そしてそうしている内に突然亡くなってしまった。

面相的に言えばリンチェンドルジェ・リンポチェは50歲までは生きられないはずだ。香港で育ったので、海鮮が食卓に上らないことはなかった。カニ、エビは特にたくさん食べた。こんなにも長い間エビの殻を剥いてきたが、エビに手を刺されたことなど一度もない。若い時はあまりにも多くの海鮮を食べていたので、夏になると関節に水泡ができ、しかもそれが痒くなった。これは肝臓、脾臓が海鮮の毒に当たったからだ。『自分の肌は別に悪くなっていない』と考える人もいるだろう。ところが、実はそれはなおさら良くないのだ。なぜなら別の炎症が発生するからだ。女性なら子宮に現れる。子宮は悪いものを排出する臓器だからだ。それが積み重なれば筋腫になり、さらに肉食をやめなければガンになってしまうだろう。

誰もが死を恐れるが、聞き入れる人はいない。男性が海鮮をたくさん食べるとどうなるのか?肝癌、大腸癌を発症するだろう。今日長寿仏を修めるのは、そなた達を延寿するためではない。修行人でない人については、耗命鬼王に『この人の命を奪わないでください』と告げるだけだ。真の修行人については、寿が不十分なら長寿仏が加持くださり、自利利他の境界まで修めることができるよう、この一生に十分な寿をもたらしてくださる。既に発願し、二度と再び悪を為さないと誓っているなら、あらゆる鬼神は当然離れて行き、二度と近寄って来ることはない。鬼を見たからと言って鬼が来たと思ってはならない。もし鬼神が取り憑いたなら、一切何も感じないだろう。海鮮をたくさん食べて来たなら、当然鬼神は近寄ってくる。ところで、鬼神が近寄ってくるのは良いことなのか悪いことなのか。一概には言えないが、似た者同士が集まると言うことだろう。

鬼は幸せに暮らせるだろうか?もちろん幸せには暮らせない。似た者同士集まるのは、自分で招いたことだ。今日修めた長寿仏は通常は真言を唱えるだけで良いが、この法本はいくらか特殊だ。後に補撮が付いているが、この部分を修めないリンポチェが多い。なぜならかなり危険な動作があるからだ。撮では、修法するリンポチェは本尊と無二無別を観想する。すると本尊は、この一生で仏法を学べるよう、自己の地風水火のエッセンスをそなた達に与えてくださる。よって、修法者本人が本尊と不相応なら、自己のものを衆生に与えることになるのだ。チベット仏教には自他交換の法門がある。良いものとは金銭や財ではなく、一言二言の励ましの言葉でもなく、そなた達に真に行わせることができるものなのだ。

寶吉祥仏法中心は設立から今日まで、長寿仏法本のある言葉のように、そなた達を『非時而死』から守ってきた。死ぬべきでない時、例えば、事故や災難にあっても、なお命があるなら、治療も含めて、その期間にそなた達を死なせることはない、ということだ。先ほどの弟子は叔母について話した。弟子の叔母は供養の福報があったので、自然に法像が見え保護が出現したのだ。さもなくば手術室内で亡くなっていただろう。どこの病院でも、手術室には血を吸う鬼がいる。この一生で肉を食べ殺生したことがあるなら、それに出遭う確率は非常に高い。手術室で死ななくとも、手術室から出て来た後に傷口がなかなか癒えない、発熱する、転移するなどのさまざまな後遺症が現れる。これらはすべて、手術室にいる時から鬼がちょっかいを出していたからなのだ」

リンチェンドルジェ・リンポチェは「手術室の中はどんな様子だ?」と外科医である弟子にお尋ねになった。外科医である弟子は「手術室は市場の豚肉屋台、屠殺場のようです」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続け「手術室に入るということは、そなたの殺業が重いということだ。この一生で先ずそなたを殺しておこうと言うのだ。簡単に言えば、この一生で累世の殺業を懺悔し、悪を再び為さないなら、手術室に縁はないだろう」と仰せになった。外科医である弟子は「『地藏経』でリアルに形容されている地獄にある恐ろしい道具のようなものが、手術室にはいくらでもあります。手にしたいと思うなら、簡単に手に入ります」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「手術を受ける人は麻酔を打たれているのだから何も感じないはずだ、と考えている人が多いだろう。けれども実は感じるのだ。弟子の外科医によれば、10人中3、4人が『手術中意識があった』と言うということだ」と開示くださった。外科医である弟子は「確かにそうです。『手術の最中はっきりしていた』という患者がいます。外科医も麻酔医もあり得ないと思いますが、患者は手術のプロセスとかかった時間などをはっきりと言うのです。事実、手術中の患者は、見かけは寝ているのと変わりません」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「麻酔医は病人の神経を麻痺させられるが、病人の意識を麻痺させることはできないということだ。意識ははっきりしているのだ。死ねば地獄に堕ちると思っている人が多い。手術の全過程で意識がはっきりしていたなら、怖くないだろうか?皈依していない者は頑張って肉を食べ続けるが良い!いつか必ず手術室へ行けるだろう。死を待たなくとも、手術の後に苦痛が待っている」と開示くださった。弟子の外科医は「確かにその通りです。患者本人が手術前に病状をはっきり自覚し、医師も自信を持って『手術すれば大丈夫だ』と思っていても、本当に辛いのは手術の後ということもあります。傷口が痛む、炎症を起こすなど、さまざまな後遺症は手術前には想定できないものです」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに「なぜ炎症を起こすのか?それは手術室中から手出しを始めるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めに来る時『手術を受けなければならないので』と言う人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず『分かった』と言い、また『手術室で死にたくないだろう?』と先回りして聞く。すると信衆は『そうです』と答える。リンチェンドルジェ・リンポチェは『大丈夫だ。保証する。だが術後の事には責任は持てぬ』と言うと、おかしなことに、ほんとうに術中に死ぬことはなく、傷口もすぐに良くなるが、他の後遺症に関してはどうしてやることもできない。なぜならその人は『手術室で死にたくない』とだけ求めていたのだから。人はこんなにも愚かだ。先ほどの弟子の叔母は40年供養し、拝仏してきたのに、冤親債主はやはりそばにいた。なぜだろうか?それは具徳の上師が済度させてやっていなかったので、何も良いものを得られなかった冤親債主は離れられなかったからだ。『自分だけ加護を求め、自分がうまく行けばそれで良い。念珠していれば彼らは必ず離れて行く』と思っているだろうが、そんなことはないのだ。

今日は長寿仏を修める前に、先ず言っておく。肉食を続けるなら、今日の法会に参加したところで、なんの役にも立たない。ただ未来世で長寿仏と結縁できるだけで、この一生ではやはり手術室に入ることになるだろう。術後の傷口の苦痛は想像に難くない。なにもそんなに大きな手術でなくとも、ちょっと手を切ったくらいでも、何日間かは不快に感じるだろう。それに比べ『あっちを少し、こっちを少し』と切られたらどうだろうか?そうなりたいと言うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も言うことはない。なぜ外科にたくさんの患者が集まるのか?内科医がどんどん減っているのはなぜか?それは衆生の殺業がどんどん重くなっているからだ。今では医師の基本給が設定されていない病院も多いため、医師は手術しなければ給料がもらえない。この類の病院へ行ったなら、午後に診察を受けて、夜には手術となってしまうだろう。十分注意することだ。

ある日リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある社員の顔色が普通でないことに気がついたので、どうしたのか尋ねた。彼女は、生理にいくらか不快があり、家庭医に診てもらったところ、有名な産婦人科医を紹介されたということだった。ところが、その医師はすぐに子宮を切除すると言ったという。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の状態はその類のものではなく、一般的な生理不調ではないかと思ったので、別の病院で検查をするよう勧めた。検査の結果は大事ないとのことだった。彼女はもしリンチェンドルジェ・リンポチェに出会わなければ、子宮が切除されていたのだ。けれども彼女は離職した。リンチェンドルジェ・リンポチェは一度しか救ってやることはできない。二度目はないのだ。縁がないのだから。

今日は長寿仏を修める。それはそなたの寿命を永遠に永らえ、不死とするものでは決してなく、この一生で輪迴の因を変え、地獄に堕ちる因を変えるために必要な十分な時間をもたらすだけだ。こうすることで初めて、修法は役立つようになる。そうでなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなに念誦し、どんなに修めたところで、結縁ができるだけである。ここにいる者達は『自分は菜食しているので、集中治療室に入ることはないだろう』などと思ってはならない。三寶と上師に対して絕対的に恭敬でなければ、手術を免れることなどないのだ。一度手術室に入れば、身体にメスが入れば、密法の学習は困難になる。なぜなら障礙が現れるからだ。けれども、アキはやはり慈悲深くておいでだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに外科医を弟子としてくださった。彼らは、手術室は屠殺場のような所だと皆に知らせることができる。屠殺されたことがある人などいないだろう。

手術とは病を治療するものだと皆思っているだろうが、実はそうではないようだ。実は、地獄に堕ちる因の花が開くということなのかもしれない。術後に懺悔せずしっかり学仏しなければ、地獄に堕ちる果報が必ず現れる。誰でも親属の一人や二人は手術を受けたことがあるだろう。術後の状況が良くなかったら、親属は医師を恨むのでなければ親族を恨むのではないか?外科医はこんな状況をよく聞くという。このような埋怨、嗔恨の心を抱けば、『地藏経』によれば地獄に堕ちるのだ。『別にいいじゃないか。行ってからまた考えよう。そうなっても地藏菩薩が助けに来てくださるのだから』という人が多いが、『地藏経』にこのような部分があるかしっかり読んでみよ。

『地藏経』では『この因を為してはならない』と説く。また、もし不幸にして機会があるなら、親族はいかにして亡者を助けるかについても触れている。しかし、現在台湾の親族は全く助けない。『地藏経』中の言葉によるなら、親族は臨終を迎えようとしている病人のために家を売り、大布施、大供養を行わなければならない。こうしなければ、病人は福報を起こすことはできないのだ。今もしそなた達がこのようにしようとし、病人に『家を売り払って供養しよう』と言うなら、病人はすぐに跳び起きて、そなたを殴るだろう。よって、仏がどう説かれようと役には立たない。誰も聞き入れない。数万元を出して出家者に念珠してもらえばそれで往生できると思っている。経典が説くことを誰も信じないなら、なぜ仏法を学ぶのだ?学ぶ必要などない。経典が説くことから離れ、自分の考えで仏菩薩を求めるなら、それも求める必要などない。

『地藏経』では、経典が説く方法で修めるようはっきり説いている。けれども、それでもそなた達は聞き入れない。菩薩までが仰せになっている。誰も聞き入れないと釋迦牟尼仏が心配し、慈悲の修行を主となさる観音菩薩をお呼びして地藏菩薩を助けていただいている。観音菩薩と地藏菩薩は仲の良い友人同士だ。釋迦牟尼仏が二人の菩薩に友達になるよう仰せになったからだ。そのため、観音法門を修める者は必ず地藏菩薩を修める。地藏菩薩を修める者は必ず観音法門を修める。よって『自分は地藏菩薩を修め、向こうは観音菩薩を修めている』などと区別してはならない。『地藏経』はこんなにもはっきり説いているのに、それでも区別するのか?これこそ分別心だ。大慈大悲がなければ、地藏菩薩はどうして志を完遂できるだろうか?地藏菩薩と観音菩薩は最後には共に、阿彌陀仏の所のことを説いておられる。

地藏菩薩の願力は深厚であられ、衆生が地獄に堕ちることを最も恐れておられる。地獄に堕ちれば、そなた達が考えているように『18年後は立派な大人』どころではない。一度地獄に堕ちれば、少なくとも人類時間で1000年なのだ。反駁する者もいるだろう。『現在地球上には70億人もいるのに、これらの人はどこから来たのか?』と。それは六道から戻ってきたのだ。今の人が行う事は人らしいと言えるだろうか?3ヶ月前、外道を信奉する国で報復に出た者達がいた。彼らは100人余りの子供を殺した。これは人の為すことだろうか?これらは皆六道から戻ってきた者達なのだ。仏の仰せによれば、地獄の衆生は、降雪時の雪の結晶のように数え切れないほど多いという。仏でさえはっきりと数えることはできないのだ。

今日そなた達は福報がありこの法会に参加することができた。それはリンチェンドルジェ・リンポチェを知っていたからではなく、加護を必要としていたからでもなく、生生世世に接触してきた仏法及び冤親債主と関係があるからこそ、今日ここに来られたのだ。寶吉祥仏法中心には一つの特色がある。弘揚しているのはチベット仏教だが、顕教を基礎としている。別のところでは、顕教の経典については触れないし、触れるとしても、顕教の法師を呼んで講じる。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて念誦し経典を修めたことがあるので、経典中で学び知った事をそなた達に教える。経典に依拠していないなら、転世するにしろしないにしろ、過ちを犯してしまうだろう。

実は誰でもみな転世するのだ。しない者がおろうか?しないなら、ここにはいないはずだ。だから転世をやみくもに信じず、この一世で自分が何を行うかを見定めなければならない。自分は経典で説く事を行えているか、行為は経典で説く事に近づけているか?答えがイエスでなければ、修行人とは言えない。実はすべての経典は口語文で書かれていいる。唐の時代の言葉であり、難しい言語ではない。そなたがこれを難しいと感じるのは、準備ができていないからだ。準備ができれば、少し見るだけで何を行うべきかが分かり、また過ちを犯すこともない。釋迦牟尼仏の何らかの教法に背き、思い上がるなら、顕教を修めようと密法を修めようと、それは仏法ではない。密法はすべて釋迦牟尼仏が説かれたことであり、諸仏が説かれたことである。誰かが発明したものでも、ある教派に属するものでもない。次第と方向が違うだけで、ただ一つの教法なのだ。

長寿仏法会に参加する意義がどこにあるのかが今日ははっきりしただろう。諸仏菩薩と上師は一人たりとも衆生を見捨てたりはしない。どんなに済度させ難く、どんなに救い難くとも、上師は諦めたり、見捨てたりすることはない。この一世で救えないとしても、少なくとも極めて深い縁を植えつけてやるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはよく罵倒する。なぜならこうしなければ、そなた達は覚えていられないからだ。こんなに大きくなって罵倒されれば、自分を罵倒した人を忘れられないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェを覚えていさえすれば、もう逃げることはできない。

そなた達は人に大切にされる習慣が付いているので、リンチェンドルジェ・リンポチェがじっくりと話して聞かせても、大切にされていると考え、思い上がるだけだ。けれども罵倒されれば、『なぜ罵倒されなければならないのか』と思い、少なくともリンチェンドルジェ・リンポチェの様子を覚えることは覚えるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの様子を覚えているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの願力と繋がりができる。『衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェの相を見られ、リンチェンドルジェ・リンポチェの声を聞け、リンチェンドルジェ・リンポチェの名号を聞けさえすれば、必ず得度できる』というこの願はリンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に従い閉関し無上瑜伽部を証した時、極く自然に発したものだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこの発願を行ったために、アキは大変お疲れになっておられるだろう。毎日そなた達に着いていなければならないのだから。ところで、化身であるかないかだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分はそんなに優れているとは思わない。なぜならアキの様子が出現し、アキがリンチェンドルジェ・リンポチェの様子で現れたなら、そなた達は恐るだろうからだ。アキとリンチェンドルジェ・リンポチェとは関係がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分とアキとは一体であるとまでは言わないが、少なくともアキと相応している。今日のこの開示は、誰が優れていると言うのではない。経典中で説くように衆生に利益できるかどうかなのだ。

每年年末、来る年にそなた達が事故で死んだり、訳が分からない内に亡くなったりし、時間が足りなくなってしまわないよう願い、リンチェンドルジェ・リンポチェは長寿仏を修める。そのため、長寿仏を得たなら、一切の悪を為さず身口意を清浄に保つよう、今まで以上に自己を戒めなければならない。美味しそうなものを見ても、口腹の欲を起こしてはならない。衆生の肉を食べると、なぜ財をあっという間に使い切ってしまうのか?なぜならこの財はもともとは過去世の清浄な供養により得たものなので、この財を用いて悪を為せば、財はあっという間に無くなってしまい、そなたの命もあっという間に尽きてしまい、残りはしないのだ。天が寿を引き取ると考えている人が多いが、実はそうではなく、『地藏経』でいう耗命鬼王の仕業なのだ。

観察してみるが良い。海鮮を好みよく食べる人は晚年貧乏になる。いくらか貯金があり、『これで十分だ。政府も高齢者福利を提供してくれるので不足はない』と思っても、不思議なことに、晚年はどうしても金に困る。日本にはこのような人がたくさんおり、台湾でも増え始めている。儒教では『老有所養』というが、誰がそなたを養うのか?子女と国がそなたを養うが、それにはそなたに福報がなければならないのだ。若い内に福報を使い切ってしまえば、老いた時に福はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの一生にはある特徴がある。若い時には、あまりあちこちへ出かけなかった。けれども、縁のままに、老いてからは健康なおかげで衆生に尽くし続けている。そうでなければ、今まで持つことなどなく、とっくに無くなっているだろう。もしかしたら、そなた達は運が悪いかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの年になっても、こんなにも気が満ち満ちており、そなた達を叱責することができるのだから。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは長寿仏を修めた。みな大切にするように。なぜなら修めたのは岩伝法だからだ。法本の完全な名称は『瑪吉珠貝傑摩仏母賜予無死長寿仏儀軌』だ。実は幼い頃からこの法を専修したなら、肉体は滅びることなく、宇宙において五彩光を自在に操れるようになる。直貢噶舉法王の伝記に記載されている。第二十三世直貢法王は無死の身まで修められた。五台山で修行されたのだ。年長者はみな言う。五台山のある地点へ行き、第二十三世 直貢法王の長寿文を恭敬して念じると、直貢法王が出て来てくださり、『今の直貢噶舉の法王は誰だ』とお尋ねになることもあると。けれども、今ではそれを念誦する人はいなくなり、その場所の伝承も途絶えてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように聞いている。若い人たちは知らないだろう」と開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる長寿仏法会の修持を始められた。最初に出家弟子が衆生を代表し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダラを献上して仏法を伺いを立てた。続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けられた。修法の過程には薈供と供茶の儀軌があり、参会者は誰もが尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださった供物を頂戴し、法会において仏菩薩と共食する得難く殊勝な因縁を得ることができた。

修法が一段落すると、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法本の内容に基づき開示を下された。

「仏法で最も重要なのは縁起である。縁起が来るのは善なのか悪なのか。衆生のためには善であり、自分のためには悪である。尊勝なる 直貢チェ・ツァン法王の御聖体に差し障りがあった時、直貢噶舉の多くの道場とラマは、自ら直貢チェ・ツァン法王のために動こうとしなかった。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法中心の弟子を率い、24時間交代で絶えず長寿仏咒語を念じて 直貢チェ・ツァン法王に供養申し上げた。その日は教派内のラマも参加していたので、後になって直貢チェ・ツァン法王のために長寿仏法会が行われることとなったのだ。

この縁起がなかったなら、後のものもなかっただろう。なぜならみな思いつかないからだ。衆生のために縁を結ぶのは、新しく福報を作るのだ、ということもできる。その時、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に念誦しに来るよう強要していると思っただろう。そのため、適当に念じている者もいた。リンチェンドルジェ・リンポチェもそれは分かっていた。けれどもどうあっても、寶吉祥仏法中心が最初に長寿仏儀軌を念じ尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に供養申し上げたので、ネパールでも法会が行われたのだ。もしこのスタートがなければ、後の法会もなかっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの世を去らない限り、寶吉祥仏法中心は毎週日曜日必ず法会を開く。重要なのは、衆生に学仏の縁起を絶えず積ませることなのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつ因縁が成熟するか知らない。仏もご存知ない。

悪事を為し、肉食する等すれば、寿命は損耗してしまう。法本中では、『散』とは寿命が堅固でなく病気だが原因が分からないような状態で、『破』とは短寿で、『彎』は寿命が十分なら老いても不健康になったりしないことだ、と説いている。老いと健康とはイコールではなく、老いれば必ず不健康になるというものでない。老いの現象は現れても、健康に問題が生じるというものでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェがいい例だ。今年2015年リンチェンドルジェ・リンポチェは68歲になる。そなた達は30歳、40歲で既に高血圧、心臓病の症状が出ている。つまり寿が既に『彎(曲がって)』してしまっているのだ。曲がってしまえば、胃に腫瘍ができるなど悪道へ落ちてしまうだろう。『裂搖動破』とは寿が破裂してしまうことで、脳卒中で突然意識を失い、5〜10年も病院で寝たきりになるなどがこれだ。『給魔鬼偷盜(鬼に盗まれる)』とは我々の地風水火のエッセンスが盗まれるということだ。

そのため、仏は我々に菜食し殺生しないよう勧めておられる。適当に仰せなのではない。『肉を食べずにはいられない』とそなた達は考えているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェも以前は肉が好きだった。けれども、考えてみれば、肉食は気持ちが悪い。生肉を食べる人などいるだろうか?普通は火を通すが、肉に火を通せば、醬油や調味料を必ず使うだろう。つまり必ず調味料を口にするのだ。肉は美味だと思っているだろう。肉を一分間噛んだ後、地面に吐き出してまた食べてみよ。これができるなら、それは肉好きの証明だ。家に帰ったら試してみるがよい!どうして魚を食べる人は体臭が強いのか?なぜならあらゆる肉類の中で魚が最も早く腐敗するからだ。そのため、魚を食べる人の身体は臭うのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの叔父は魚を捌いていたため、遠くからでも臭いがしたし、叔父の家にはどこもかしこもなんとも言えない臭気があった。叔父は毎日入浴していたのに、どうして臭いが取れないのか?それは魚の味が身体の中に入りこんでいたからだ。牛を好む者は牛の臭いがし、豚を好む者は豚の臭いがし、鶏を好む者は鶏の臭いがし、魚を好む者は魚の臭いがし、海鮮を好む者は海鮮の臭いがする。修行人には嗅ぎ分けることができる。なぜ『魔鬼に盜まれる』なのか?なぜならそなたは彼らと同類だからだ。特に一日中、神の加護を求め、あれもこれもと祈願している者の寿はみな盗まれてしまうだろう。宝くじを買う前には、先ず祈願に行こうと思うだろうが、たとえ宝くじに当たったところで、命はない。なぜなら彼らはそなたの命を盗むからだ。そなたの命には財はない。金を儲けたいなら何と交換するのか?それこそ寿だ。じっくり見てみるが良い。突然大金持ちになった人には、奇妙なことに何かよくない事が起きている。だから、ゆっくり儲けた方が良いのだ。

法本では『我々は諸仏菩薩、本尊、空行、護法の加持を祈求し、六道衆生の寿、福、財、命、生、権、気の一切の力のエッセンスを祈求し、さらに多瑪に入る』と説いている。もし上師の真摯な祈請がなければ、そなた達がどんなに念誦したところで役には立たない」と開示くださった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けられ、法座を降り、自ら法器を持って1300人余りの参会者に加持を下された。その最中リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えず長寿仏心咒を唱えられ、慈悲なる眼差しは深広無辺で、一切の有情に心を砕かれておられた。参会者は皆感激して跪き、低頭合掌して殊勝なる加持を賜った。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に戻られ、弟子達を率いてアキ護法と迴向儀軌を修持され、修法が円満になった後、皆に開示を続けてくだされた。

「続けて開示しよう。長寿仏を修めるのは、そなた達に長命をもたらすためではなく、そなた達を長命とすることで、やるべきことをやり遂げさせるためなのだ。長寿のポイントは、この一生で修行のために十分な寿命を得るということだ。修行に用いないなら、あるべき寿を取り戻してやったとしても、この寿は非常に辛いものとなる。なぜなら財がないからだ。ここで言う『財』とは金銭ではない。寿を享受できる福報が備わっているかどうかだ。経典でも触れている。人はどうやって死ぬのか?それは、寿と財がなくなれば死ぬのだ。けれども、寿も財もあっても死ぬこともある。寿と財がなくなって死ぬのは理解できるだろう。けれども、なぜ寿も財もあるのに死ぬのか?それはこの一生で多くの悪業を為すので、早めに死なせられるのだ。

よって、殺業を為した者、或いはかつて人と共同で殺業を為したことがある者の寿は、大懺悔心を起こし、自分の心中の殺の思いを徹底的に変えてしまわない限り、損耗してしまうのだ。また、寿はあるが財がなくて死ぬ、財はあるが寿がなくて死ぬ場合もある。寿は福報の一部である。寿がなければ、何かを行うことはできない。けれども、衆生への利益については、寿の長短は重要ではない。自己の修行を含む団体、個体のために、寿を求めるなら、特に大きな作用はない。遅かれ早かれ寿命は尽きるのだ。受け入れようと受け入れまいと、数日前ニュースになったように、28歲で歌を唱って亡くなった人もいるではないか。

真の学仏人は自分の死を恐れず、死後どこへ行くのかだけを気にかける。死の前には、生生世世で作った借りを完済できたかどうかを心配すべきなのだ。これが学仏人が心配すべき事だ。学仏人でありながら自己の死を恐れるなら、当然死んでしまうだろう。死なない人がいるだろうか。学仏人は父母の健康に陰りが見えたと知っても驚かず恐れず、父母をできるだけ早く仏法に触れさせようとする。こうであってこそ父母に対する孝行を尽くしたと言えるのだ。父母の寿は必ずいつか尽きる。親族であってもそうだ。そのため仏は常に『悪業を為さず、殺生肉食をせず』としつこいくらいに諭してくださるのだ。なぜなら福のない寿は享受しようとしても役に立たないからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母は90歲代だ。既に歯もないが、寿命はある。もし福がなく、リンチェンドルジェ・リンポチェという子供が常にかしずいていないなら、こうはいかなかっただろう。これも母自らの過去世とこの一世での修行の賜物なのだ。そなた達の父母がこの一生で善事を行ったことがなく、道徳にもたくさんの瑕疵があるなら、彼らの晩年が穏やかであるようにと願っても不可能だ。父母を病院や老人ホームに入れるではないか。自己の修行は父母に対していくらかプラスになるが、父母を生死から解脱させられるほどではなく、晚年の苦しみを軽くできる程度だ。学仏は自己の健康のためだけではなく、家庭の一切の事情のためなのだ。

長寿仏を修めることで、報身仏がいつかお迎えに来てくださる種子を皆に植え付けたが、大乗と金剛乗仏法を修めていないなら、報身仏はお迎えに来てはくださらず、『阿彌陀経』で説くように化身仏がお迎えに来てくださるだろう。化身仏さえ来てくださらないよりは、もちろん良いだろう。今日は長寿仏を修めたが、その意義は非常に深奧で、単に寿命のために修めるのではない。長寿仏の法門は事、行、瑜伽、無上瑜伽部に分かれる。瑜伽と無上瑜伽部は伝えないものだ。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは四つの法をすべて用いたが、そなた達には見えない。なぜなら清浄な心がないからだ。

そなた達のために長寿仏を修めたのは、この一生で『非時而死』が起きず、仏法を学ぶための十分な時間があるよう願ってのことだ。また、菜食を勧めるのは、仏の要求ではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの要求でもない。肉食を続ければ、いつになるかは分からないが、いつか必ず悪い事が起きるからだ。自己の悪業を絶えず積み重ねても、『別に何も感じない。どうせ医者が治してくれるだろう』という人もいるだろう。けれども、医師が治せる病には限りがあり、『自分は治療を受けている』と気休めにしかならないこともあるのだ。

そのため、自己の長寿、健康、福報を願うなら、修行で得るより他はない。誰かが面倒を見てくれたとしても、そなたが言いつけに背いて悪業を為せば、いつかはやはり福報を使い切ってしまうのだ。『自分は計画的に生きている。しっかり貯金すれば何かを為せるだろう』と思っているかもしれないが、地震や天災があれば、金は無くなってしまうのだ。特にここ数年は面倒な事がさまざまに起きている。平安に過ごせていることを、仏菩薩に感謝しなければならないが、それに対して、仏菩薩がお教えくださる事はしっかり心を決めて行わなければならない。口腹の欲のため衆生を傷つけ続けてはならない。『衆生は我々に食べられるために生まれて来たのだ』と思うなら、釣られた魚は、食べられるために、おとなしく死ぬはずだろう。釣られた時、捕まえられた時に、魚はなぜ逃げようとするのだろうか?ナイフを入れようとする時、魚はなぜジタバタ動くのだろうか?それは痛いからだ。怖いからだ!彼らの肉を噛むなど、鬼が血を吸っているのと同じだ。そのため、肉食する人は、自然に鬼道へ行くのだ。

『鬼になれればすごいじゃないか。あれこれ変身できるんだから』という人もいる。もしそうなら『すべて菩薩を修める者は鬼道の衆生を救わなければならない』と経典にあるはずはない。鬼は人より苦しい。この一生で人の身体を得られたのは簡単なことではないのだ。だが、失うのは非常に簡単だ。次の一世で再びこの人身を得るのは容易ではない。この一世で決心しないなら、指をパチンと弾いている内に過ぎ去ってしまうだろう。この一生で何歳まで生きられるとしても、生の質が低ければ、生きていても何の意味もない。死を待つだけの老犬がいたずらに生きながらえているようなものだ。よって決心しなければならないのだ。仏菩薩がどんなに我々をお諌めくださっても、どんなに優れておられても、どんなに加持くださっても、そなたが決心しなければ、どうにもならないのだ。経典には『地震が多い地方の人は傲慢で思い上がり、風害が多い地方の人は因果を信じず、水害が多い地方の人は貪欲だ』とある。我々の近隣諸国は、経済は発展しているが、天災が非常に多い。なぜなら殺業が重いからだ。

法会が圓満に終了し、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と開示に感謝申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお見送りした。

« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る新しい法会開示 »

2015 年 05 月 05 日 更新