尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年11月30日

法会開始前、一人目の弟子は息子に伴われ、彼女とその家族が尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに救度された事蹟を分かち合い、更に尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女と息子に懺悔を発露する機会を与えたことに感恩した。

彼女が初めて、因縁によって尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したのは、父の病気が原因だった。父は退職後、いつも小さな病気から大きな病気まで何かしらずっと患っていた。しかし、検査をするといつでも正常であったのだが、父は信じなかった。なぜならいつでも体の具合が悪かったからだ。更に父の証書と医師免許が晩年勤めた病院の責任者に盗用されて健康保険料が請求されていた。父はそのことを知って非常に責任を感じ、今までずっと清廉潔白で過ごしてきたのに、なぜ晩年になって汚点を被ることになったのかと思った。最終的に父は法律上の責任がないことを証明できたが、その間父はずっと苦しんだ。彼女の記憶では父の泣いた姿を見たことがなかったが、その時にはよく父が泣いているのを見た。彼らがどんなに慰めても効果はなく、長期間にわたる喜びをほとんど感じることなく常に憂鬱の中にあったため、父は鬱病に罹り、その状況は数年に及んだ。体の器官で検査できるところはすべて検査したが、その甲斐はまったくなく、最後は睡眠薬の服用が益々増えていった。なぜなら、父は寝ている時だけが安らかな時だったから。父は良くなったり悪くなったりを繰り返し、非常に辛そうだった。彼の子供である自分たちは、何も助けることができず、学生の親(皈依弟子)の紹介によって、彼女は土曜日に上師への接見を申し込んだ。その時、父の状況は非常に悪くなっていた。

彼女が初めて尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、リンチェンドルジェ・リンポチェにとても慈しみを感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く尋ねた。「何かありましたか?」彼女は父の状況を説明すると、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を見てただ「彼の子供はあなたただ一人ですか?」と尋ねた。彼女は「他に姉と弟がいます。」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて尋ねた。「彼らはあなたがここに来ることを知っていますか?」彼女は「知っています。」と答えた。すると、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは「姉と弟が来たら話しましょう。」と言った。後日、彼女は、上師が様々な方法で衆生を助けることが分かった。初め、彼女は姉と弟が来ないかもしれないことを心配したが、不思議なことに彼女が彼らに謁見の結果を説明すると、姉と弟はどちらも一緒に謁見することを了承した。

その時の彼女はただ非常に不思議に感じた。それは特に上師の津々浦々に知れ渡った加持力である。彼らは翌週上師に会うと、上師は彼ら姉弟三人に先ず観世音菩薩の前で100回頂礼して父のために福報を貯めさせた。上師は父親の干支、氏名を聞き、入定後開示した。「あなた方の父親は良心的な医師だと言える。しかし、父親は仏教を学んでいないし、菜食ではなく、業もある。あなた方は何を求めるのか?」弟は「父を苦しませないようにできますか?」と答えた。上師は父を非常に慈悲深く、長い時間加持した。続いて彼女は「父は後どのくらいの時間がありますか?」と尋ねた。上師は「農暦の年明け前後。」と開示した。つまりそういうことだ。福報がない彼女は如何にして父母のために祈り、なぜ上師との因縁を断ったのかわからなかった。

その後、果たして上師の言ったとおり、父は発熱で病院に行き、年明け前に往生した。往生の前日、父は体の苦しみはそれほど受けなかったが、悪臭のする血がずっと排出された。父を苦しませないように、彼らは救急措置を放棄する同意書に署名した。それは彼女が初めて向かい合う親の死であり、彼女はぼんやりとして救いがなく、誰に頼れば良いのかわからず、生命に対して大きな疑問が生まれた。父は臨終前に母の面倒をよく見るように言いつけた。それなのに、父が亡くなって半年後、母の大腸癌が再発した。彼らは非常に驚いた。なぜなら定期追跡検査はいつも正常だったから。信じることができず、民間療法、健康食品、レーザー治療等、すべて試しても諦めることができなかった。大きな期待からどんな望みも持てなくなるまで、母は辛い治療を一年余り続け、そして最後にはやはり有名な大型病院に送られた。医師が提案した一連の医療計画である手術やバイパス手術等を聞いた母はただ黙って何も言わなかった。そして夜になってから彼女に、もうどんな治療もしたくないこと、ホスピスに入りたいことを告げた。

それを聞いて、彼女は堪らずにベッドに伏して大泣きした。彼女は自分はこんなにも努力し、母も努力しているのに、どうしてこのようになるのか?命は多くの苦しみを受けた中でやっと学べることなのか?と思った。毎日、彼女は悲しみ続けた。その時、嘗て父親のことで上師に謁見した時、上師は彼女に、「以後何かあれば、また私を尋ねなさい。」と言った。この時、彼女の頭は何かに容赦なく叩かれた。すでに、上師は知っていた。もう一つの命の問題が彼女を待っていた。彼女は続けて自分を責めた。どうして自分はこんなにも愚かなのだ?

上師に謁見した時、跪いて彼女は母親の病状を報告し、ポワ法を求めた。上師は慈悲深く尋ねた。「ポワ法が何なのか知っているのか?」彼女は横に振り、「母を苦しませないようにする事を知っているだけ。」と言った。上師は「先ずはお母さんをここに連れてきて会わせなさい。」と開示した。その後、慈悲深くお母さんに代わってじっくりと加持した。彼女は母に一週間説得を続けたが、母はやはり心配し続け、どうしても首を縦に振らなかった。それで彼女はまたひとりで上師に会いに行った。上師は「お母さんを連れてくることはそんなにも困難なことなのか?どんな重病でもベッドに寝かせ、救急車で連れてくれば同じである。」と開示した。そしてまた非常に慈悲深くお母さんを加持した。病院へ戻ってから彼女は引き続き母を説得したが、母は最後にまた反故にした。彼女は台中から救急車で台北まで来る途中で死んでしまうことを心配した。その時彼女が思ったことは、自分がしっかりと仏教を学んで福報を貯めなかったので、お母さんがこんなにも障害を受けているということだった。三回目の謁見も彼女はやはり一人だった。彼女は真に上師にどのように向かい会えばよいのかわからなかった。上師はただ慈悲深く言った。「私と会わない因緣でどのようにあなたの母親を助ければよいのか?」彼女は非常に耐え難く、どのようにすればよいのかわからなかったが、上師が、「先ず三回大礼拝をするように。」と言うとも思っていなかった。彼女は感恩の上に更に感恩し、明らかに自分に問題があるのにもかかわらず、上師はやはり慈悲深く彼女を助けて道を開いて下さった。

翌週金曜日の夜、母は皆を呼んだ。彼女は慌ててどうすれば良いかわからなかった。兄弟子はすぐに《快樂と痛苦》という一冊の本を病院にいる彼女に送った。そして彼女に本の中に上師の法照があると言い、法照に向かって心から祈ればよいと言った。そして母は往生室に送られた。夜中、彼女は上師の法写真を見て、心の中でずっと祈り続けた。「尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェ,お母さんを助けてください。三回大礼拝をすると約束しましたが、まだ拝んでいません。私は母を無理に引きとめようと思いません。私に母のためにわずかでも福報を貯めさせてください。」

二日目の朝、思いもよらず、母が突然に目を覚ました。医療スタッフはこれは死の直前のつかの間の元気と思い、急いで病室に返さなかった。しかし、彼女ははっきりとそうではないと分かった。そして急いで道場に向けて北上した。一回目の大礼拝が終わった時、上師はやはり慈悲深く彼女に尋ねた。「辛いか?」彼女は首を縦に振った。上師は「あなたのお母さんがあなたを産んだ時は更に大変だった。」と言った。上師は真に偉大だ。彼女が難産の末生まれたことを母は何度となく言ったのを聞いていた。彼女が病院に戻った時、母はすでに病室に戻っていた。すべての人、同じ病室の人も非常に驚いていたし、医療スタッフも、こんなことを見たことも聞いたこともないと言っていた。

彼女は心の中でこれは上師の加持のお陰だと分かった。この間、《快樂と痛苦》の本を開き、母にこれはリンチェンドルジェ・リンポチェの法照だと教えていた。母はいつも見ると元気を取り戻していた。そして首を縦に振って「私はあなたの大法会に参加したことがあります。」と言った。彼女は思い返してみて上師に謁見を求めてから母は非常におとなしくなり、喚き散らすこともなくなり、モルヒネも打たなくてよくなった。また病室に行き来している患者はすぐに亡くなるわけでなく、いつも号泣している。そのような哀しい声に彼らは耐えられず、看護師にモルヒネを打つように頼むことになる。「このような痛みはモルヒネを打っても収まらないのです。」と思いもかけずに看護師は言った。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェはまさしく患者の最上の良薬であると思った。子どもたちが代わりに受けることができない病苦を慈悲のリンチェンドルジェ・リンポチェが加持で軽くしてくださっている。父母の苦しみを少しでも和らげることが出来ることは何も勝ることだ。それは上師が天よりも恩徳が高いということだ。

二回目の大礼拝を終えた時、上師が慈悲深く「お母さんが三悪道に落ちないことを約束する。」と言った。その時、彼女は心から感激して顔は涙と鼻水だらけとなり、感動でいっぱいだった。緊張で張り詰めていたものが崩れた。リンチェンドルジェ・リンポチェが母をもう苦しまないようにしてくださったので、父が亡くなって二年後の中秋節後、母は午後4時に安らかに往生した。リンポチェは母の神識を保護し、施身法法会で超度すると言った。病院の遺体担当者は、母はまっすぐ上に上って行ったと言った。なぜなら頭のてっぺんは温かい。師兄も甘露丸を一粒彼女に与え、母の舌下に載せた。遺体は念仏後に担架に載せたが、その時、母の体は非常に柔らかいので垂れていたし、以前あった腹水はなくなっていた。母の友人たちは母の遺体を見て若くなったと言った。火葬後、遺骨は淡綠色結晶が表れた。

母の片付けをした後、彼女はそれでも第三回目の大礼拝に参加し上師が母を助けてくれたことに感謝を捧げた。そこで生命無常、無力、無助を体得したことで、彼女は母の往生後に皈依を求めた。上師に皈依した後、彼女はなぜ母の神識を保護するのか、また往生後になぜ瑞相が現れたのかわかった。それは、すべて上師の恩徳であった。彼女は上師の言う「仏教を学ぶことが真の親孝行であり、生生世世父母の恩に報いることができる」という含義を更に深く体得でき、彼女が仏教を学ばないことで父母のために福報を貯めなかったため、親不孝をしていたことに深く感じ入り、更に懺悔した。

父母が立て続けにこの世を去った後、見たのは人の最後は「一塊の骨」にすぎないことであった。一生で得たすべての努力で得た者は、少しも持ってあの世に行くことはできない。そして毎週日曜日、道場へ行って上師の開示を聞く。それは彼女にとって人生の中で最も重要な事となった。上師は時に厳父のようであり、時に慈母のようであり、そして懇々と教え諭す老師である。毎回の開示は神奇のパワーのようで、それが彼女を思念や痛みからゆっくりと導き出す。更に重要なのは、彼女に前を向いて歩く力を与え、輪廻解脱の道を歩かせる。愛別離のようなものは、終わりのない痛苦であり、彼女は自分にもう受け入れてはならないと言い聞かせる。それによって、彼女はずっと自分は上手くやっていると思っていた。宿題も、国内外の法会も、組聚もすべて行った。そのため、今年8月にこれほど大きな間違いを犯すとは思いもよらなかった。その日道場へ行く途中、彼女は寶吉祥弟子のベストと識別証を失くしてしまった。更には息子の物さえ一緒に落としてしまったのだ。その時やっと自分を見直すことをした。なぜ命よりも大切なベストを落としてしまったのか?考えてみる。一つ一つ思い返してみると、工作室では次から次へと事が起こっていた。

先ず、或る教師が病気で来られなくなり退職することになった。病気の状況を理解した後、彼女はそれでも意志が変わらなかったので了承した。間もなく思いもかけず、彼女は労働局からの協議通知書を受け取った。原因は、その月の費用未払い、解雇手当、解雇証明、残業代、職業傷害費だった。(当月は確かに給与を一部しか支払わなかったが、急に来なくなり、そのせいで損失が発生したので控除した。)。しかし、その他の部分に関し、心に疑問が残っていた時、自分が因果を信じていないことに気づいた。そして協議の日、彼女は異議を唱えず、この教師が当月の費用を計算して来た時、その場でその教師に支払った。

協議に立ち会った弁護士は非常に驚いた。彼はこんなにスムーズにいくと思わなかったと言った。その時、心でずっと上師を観想し、自分に対して、「果報を受け入れる,それで返すことができ、決着を着けることが出来る」と告げ、決して争わなかった。弁護士は彼女は非常に誠意ある人だと思った。元々弁護士は中立的立場ではあるが、常に彼女の立場に立って話をした。なぜなら相手方は解雇費用、残業代、職業災害賠償を請求しており、訴訟も辞さない立場だったから。心の中で上師に頼ることで本来、乱れた心を安定させることができた。まるで母親の懐の中にいるようで、温かく安全な気持ちが彼女にパワーを与え、彼女に恐れるな「受け入れなさい、向い合いなさい」と告げていた。そして上師がいわゆる不平や屈辱に出会った時、上師の一切の態度を思い出し、上師がすでに最も良く身をもった教え及び言葉による教えを我々がどのように対するかを教えていたことに気づいた。

相手方が彼女は違うと訴えた時、《佛子行三十七頌》の13、14、15条の開示を聞き、深くショックを受け、どのように説明すればわからなかった。そして心の底から懺悔の気持ちが湧き上がってきた。そして相手に対して怨嗔恨の心を持ったことを懺悔した。懺悔は彼女が相手を火地獄のような痛苦の中で活かすようなもので、そしてすべての衆生がそのような痛苦から遠ざかることを祈った。ある日、そうだ、上師が説いたのは、佛法を実際の生活の中で活かすことだったのだということを悟り、非常に驚いた!この二年間、彼女はただ本を暗記することしかしてこなかった。そして上師の「寶」のような教法を浪費し、上師を利用して自分のバリアを作っていた。彼女は懺悔してやまなかった!

続いて、協力する大型学園において、ずっと以前から一部の学園では彼らに源泉徴収票を渡さない。彼女が思ったことは相手が渡さない時には人に強要できない。ずっと人に代わって理由を探し続け、実際の問題に向かい合わず、お茶を濁す。そして自分の比類なき貪念を目にする。そしてもしも表面で利益を貪れるなら、輪廻し続ける。彼女はそれを望むのか?そして、毅然と学園と協議し、彼らの立場を表明した。彼女は上師の加持を感恩し、協議して3社が彼らに源泉徴収票を発行することを了承したが、二社は対応しなかった。そして彼女はグループのプレゼントを持って学園に与えるチャンスを感謝した。そして今学期は協力するが新学期は協力しない事を告げた。学園側は非常に彼女の決定に驚いたが、彼女は彼らに一人の偉大な上師に出会い、その上師は彼女に正しいことをするように要求したことを話した。その後、彼女は授業の教師が話したことを聞いた。園長は「仏教を学ぶとはこんなにも人を影響するものなのだ」と思った。彼女は上師の教えに感恩し、彼女を一筋の善の道に導く。さもなければ、彼女はきっと生生世世の輪迴苦海の中に溺れ続けただろう。

次々と起こる様々な事から彼女はやっと自分がなぜチョッキ落としてしまったのか分かった。こんなにも大切な物を失くさなければ、彼女は心の中が極悪な自分に向かい合うことができなかった。そして向かい合わなければ、徹底して改めることができなかったのだ。彼女はいつも上師に対して不恭敬であること、上師が開示した佛法をただ聞くだけで実践しなかったことを懺悔した。仮に彼女がこんなにも間違いを犯しても、上師は彼女に返済の機会を与えた。彼女がまだ信徒だった時、上師は彼女及び父母に多くの助けを与えた。皈依後、彼女は尊貴で得難い佛法を生活の中に用いて上師の恩に報いていない。更には上師を心配させている。彼女は実のところ、上師が彼女に与えた加持と助けに申し訳を立てていない。

周りの親戚らの態度に注意して見ていると、彼女が菜食になって毎週日曜日に道場に行くようになってから、夫の両親は邪魔をしたり悪口を言ったりすることがなくなったことに気づいた。夫も認めるようになったが、彼女はそれを当然だと見て、真に彼らに関心を払わなかった。仏教を学んで身勝手になってしまった。彼女は懺悔した。彼女は自分の恭敬が足りないことを懺悔し、自分の犯した間違いの果報を引き受けることを願った。戒守の清浄が足りないために、多くの妄念、雜念が生まれたことを彼女は懺悔した。更に自分の表面的な仏教を学びのせいで冤親債主が彼女を信じず、彼女に仏教を学ぶ障害を与えた。彼女は更に累世以來、多くの衆生を傷つけ殺してきたことを懺悔した。上師は業が重く、根器のない彼女にも福報をずっと与え続けてきた。しかし、彼女は手を伸ばして受け取らなかったことに彼女は後悔してしきれない。彼女はこの期間,上師が彼女のために示現した数々の無常に感恩した。彼女は上師が弟子に代わって福德資糧を貯め、輪迴の苦を解脱するためにしたこと及び教化したことに感恩し、今後彼女は必ず五戒を守り、《佛子行三十七頌》を力行し、真の佛弟子として上師の恩に報い、上師の教導をあがめて規範とし、上師の唯一彼女及び彼女の身後の一切衆生と共に輪迴解脱する佛線をしっかりと掴むことが出来る!

続いて、彼女の息子が懺悔を表した。今回の事件は表向き、母が無くしたのだが、自分にも間違いがある。だから識別証も一緒に失くしてしまったと彼は言った。彼は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対し、彼は今回の事件に拠って以前よりも生活の中の悪い行為に反省することが出来るようになったことに感恩した。例えば、食べることへの貪念で、彼はいつも食べ物を見ると、先ず食べてから考えていたが、その後中には食べてはいけない成分が入っていたり、すでにお供え済だったりしたことに気づいた。しかし、それはいつも後の祭りだった。また他の例として、彼は毎日悪口を言っていて、いつも口が減らずに人と言い争いをして、言い争いで4、5個の穴が開いても自覚しない。また父母に対しても恭敬せず、いつも何かというと彼らに逆らい、口答えした。彼は今回自分の欠点を見つけた後、一つ一つ改善し、継続することを望んだ。そして仏教を学ぶ路で彼は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに着いていき、生死輪迴の苦海を解脱することを望んだ。最後に彼は上師の法體が安康し、佛法事業が興盛し、十方の一切の衆生を利益し、直貢噶舉の法脈が永遠に伝承することを祈願した。

続いて、二人目の分かち合いの出家衆弟子は、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝と稀有で得難いことを賛辞する機会を与えたことに感恩した。

この毒を喰らい、魂が空虚になる時代、多くの人は「嘘を聴き、勧めを聞かない」。また多くは、「和尚が奇妙なことをしないと、信徒が拝みに来ない」状況で、正法を弘めることは簡単ではなく、最も殊勝な密法とは何ぞや?台湾に於いて、多くの人は密法を聞くことは崇拜であり、傷つくことを恐れる。更に自称「活佛」はたくさんいて、彼らは騙財、騙色をする。だから尊貴なる上師は、このような環境において在家身分のリンポチェとして正確な密法を弘法することは困難な上に困難を極める。現代人は善根がないだけでなく、更には自分を非常に大切にするので、自分の間違いを認めようとしないし、更には正確な生活観念を受け入れようとしない。皆の考えは「私が好きでさえあれば、何もいけないものはない!」だからこれらの自称活佛が優遇される空間が生まれる。

如何にして具徳の上師を見分けるのか?六祖壇経にははっきりと書いてある。威音王佛の以前には自証自悟できたが、威音王佛の後には例え悟りを開いても、傳承を備えた上師の印證を受ける必要があるようになった。さもないと天然外道に属し、最悪は魔となる。だから六祖大師は千里はるばる五祖に会いに行った。近代の祖師が悟りを開くと、更に偈頌を説いて自分が悟りを開いた事を証明しなければならない。我々の尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは正式であるだけでなく、更には公開の坐床儀式を経ており、更には尊勝なる直貢澈贊法王直筆の長寿祈請文がある。それは尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝成就を修めた大リンポチェであり、出会えることが非常に稀有である事を示している

更に、「寶吉祥」はジッテン・サムゴンの名前からとったものであり、それは尊勝なる直貢澈贊法王が自ら授けた。祖師ジッテン・サムゴンも嘗ては尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを救ったことがある。それらは尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢噶舉を弘法し、伝承する重要地位にあり、アキおばあさんからが自ら授けたものであり、これらの清淨なる教法の傳承は継続されるべきである事を示している。

寶吉祥佛法センターは、灯明を点けさせないだけでなく、大位牌、小位牌はなく、更に大功德主、小功德主もなく、貧富貴賎の区別もなく、一律に平等である。寶吉祥佛法センターは今まで注意をひくことや宣伝をすることはなく、有るのは尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持と、苦労を厭わない佛陀の清淨な教法を説き、無辺の衆生を利益するだけである。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教法は、内容は奥深いがわかりやすい表現であり、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの證量でなければ、このような奥深い空性を簡単な例えで皆に理解させることができただろうか?もしも尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲心でなければ、我々を深く暗い無明悪念から引き上げることができただろうか?

彼女が初めて寶吉祥佛法センターの地を踏んだ日、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法に深く深く更に深く攝受された。彼女は感動で舌がもつれるほどだった。なぜなら、顯教は99.9%が「師父が引き寄せ、これから、自ら修行する」ものだったからである。長きにわたって、佛陀の清淨な教えをこんなにも真実に教えた人はいなかったし、佛教界では誰一人として一人の弟子に苦労して教育したりしなかった。

覚えているのは、ある日一人のお年寄りの兄弟子が一生で蓄えた物を尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに供養として差し出した。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く言った。「年寄りがお金がないのはいけない。」その兄弟子はどうしても供養したいと願ったので、最後に尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはその兄弟子の出した一番上の一枚を受け取った。その一幕を見て彼女は感動し身につまされた。他の寺ならば、このようなお金は一も二もなく受け取ったことだろう。誰が老人にお金が無くなることの恐怖を考えたりするだろうか?

毎週日曜日に弟子の心が乱れないように、自ら仏陀の教えを開示し、決まって毎月、衆生に代わって殊勝な八大成就法のひとつである施身法を修持し、傷ついた衆生を利益する上師はひとりとしていない。我々は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがそれによって体力と勢力を消耗していることを知らなかったが、我々は大きな利益を得ることができた。我々の悪念、悪習は上師の攝受の下、成佛の種が一念一念溶かされていく。皆は気付かないが、寶吉祥佛法センターの人は、皆ブランドのクリームを塗っているわけでもないのに綺麗だ。寶吉祥佛法センターの人は永遠に年齢不詳になっている。それは我々が尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えの中の彩りである。

我々が尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを傾聴する時、正しくないのは、靈山勝會、佛陀說法の情境なのか?名利のためでなく、ただ佛陀の清淨な教法を世間に流布し、無辺の有情を利益するためだけを目的とする大修行者に我々が今生で会うことができたのは何という福報であろうか。我々に安楽な生活を与えるだけでなく、更には我々に生死解脱の法門を伝授することで、我々をこの混乱の世の中困ることがなく、我々の無知と愚痴の心智に一筋の光明を照らし、生生世世光明の路を歩くことが出来る。

尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会う前、彼女は自分を変えたくて、自分を持戒精舍の道場に閉じ込め、更には道場のすべての事、掃除、煮炊きから朝晩の課までをする決心をした。修行を真面目に行えば行うほど、問題は非常な勢いでやって来た。そして自分は自分が作った悪果に対峙できる力がなく、半年間で不眠症になり、仕方なくそこを離れ、実家に帰って両親と住んだ。心を閉ざし無味な生活をした。彼女は食事とは何のためなのかわかっていなかった。そして、癌に罹ることを心配した。

彼女がなぜそんなにも癌を恐れたかというと、嘗て彼女は癌で亡くなった友人や法師の世話をし、彼の最後は痛苦と苦しみだったからである。それは一般の人には理解できるものではない。彼女が世話をした或る法師は、台中ではかなり有名で、毎週信徒と共に、《華嚴経》を読経していた。しかし、業力が眼前に現れた時、受け入れる勇気さえなく、毎日の心身の苦しみから注意を逸らすために、その法師のためにマッサージをした。最後は癌患者の最期の特徴と同じで、上半身は細りながら、腹水は溜まった。往生する時には腹水がベッドや床に溢れだし、拭いても拭いても溢れた。亡くなる時の哀しみ恨む目つきが忘れられず、彼女は時折悪夢を見た。

反対に、以前寶吉祥道場の亡くなった出家衆は病気の間痛みに苦しむことがなく、変わらずに毎日朝晩の課を行っていた。最後は紅斑性狼瘡から全身水腫を引き起こし、更には帯状疱疹も患った。しかし、この出家衆は少しも痛がらなかった。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、この出家衆が母親を気にかけていることを知っていた。だからこの出家衆に「あなたの母親は私の弟子だから、私が彼女の世話をする。」と言った。それを聞いてその出家衆は何も心配事がなくなった。最後はこの出家衆は往生前に尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから殊勝なるポワ法を受けた。

尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、三寶を恭敬していて彼女らの出家相を憐れみ、そして別の弟子に、この出家衆の弟子は夜中の一時に往生するだろうと言った。その弟子はまだ病院に行ってなかったが、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはすでにポワ法を修めていた。往生した出家衆弟子はこの時すでに前とは異なっており、顔は喜びに満ちていて若々しく、全身のむくみも消えていた。そしてベッドは濡れることなく清潔だった。

彼女は慌てて往生した出家衆弟子の死後の容貌を見たが、彼女に癌になることを恐れなくさせた。これら一切の変化はすべて彼女が尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会ったことが始まりで、ここで癌になった兄弟子は、ただ話をよく聞き、上師に対して恭敬心と信心を備え、絶対的に上師を依止する心を持つことで、楽にあの世に逝くことができ、更に人の足手まといにならない。これはすべて尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが与えた加持と依頼であると感恩した。最も重要なことは尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に人生で最も珍貴な目的は生死輪迴を解脱することだと明らかにしたことで、更に衆生を利益する修行スタイルを念じ、彼女の心には最大の依頼があり、それは即ち、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェである。

尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法は殊勝なる八大成就法の一つであり、「稀有、逢い難い、遇し難い、修め難い、求め難い、得難い」である。更に彼女に、西方へ往生することは妄想ではないことを知らせる。彼女を最も感動させるのは、ここで苦難の衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェの面前で助けを得るのを見ることができ、無依の魂が法喜を得るのを見ることができ、それは一切の金の取引や利益の往来がなく、こんなにも尊く清浄なのは困難である。

《菩薩戒経》で説くとおり、「聖人の出世は草木が茂り合い、風雨順調、五穀豊穣だ」更にこの十数年来、台湾では毎年、台風の災害が大きくない。それは尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの福德護佑であることを感恩する。台湾において尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを知っているか否かに関わらず、我々は皆尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳の大海の中で生きている。

要するに、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの我々に対する恩徳は語り尽くせず、数えきれない。我々は必ずしっかりと覚えておかなければならない。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは我々の生生世世の法身の父である。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えがあるから、我々は佛陀の清淨な教法を理解すること出来る。我々が生死解脱できるのは、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが与えた福報である。我々は自分自身の心に注意を払い、広く果てしない煩悩の大海の中で、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに聞き従い、必ず尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会うことができたこの大福報を惜しまなけれなければならない。最後に彼女は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法體康泰、長久住世、無量の衆生を利益することを祈願し、上師の慈悲を惜しみ、弟子を生生世世に攝受して上師の大功徳の海の中に生まれることを願った。

尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に上がり自ら施身法の法会を説き、会場の大衆に向けて珍貴なる佛法を開示した。

今日は修密法の中の施身法を修める。密の定義は神祕ではなく、その中に秘密があるわけでもない。仏経の中で、釈迦牟尼仏は経典と密法を分け、それは即ち顯教と續部のことである。續とは仏陀の教えを続けることで使えるようになる。密法にとって、凡夫は仏と菩薩の境界を理解することができないので、仏経の中では常に仏の境界は不可思議であり、人類の生活経驗法則を以って仏陀の境界を体得することはできないと提示している。だから菩薩の境界も凡夫が理解できるものではないのだ。

しかし、菩薩は衆生を済度するため、《普門品》中の観世音菩薩ははっきりと述べていて、菩薩が衆生を済度するのに、衆生の姿形になって現れる。だから水陸大法会に参加した人は、焦面大士に会ったことがある。焦面大士はつまり観世音菩薩のことであり、地獄の衆生を専門に済度する。もしも、観世音菩薩が慈悲深い様子で地獄に現れたのなら、地獄の衆生は怖いとと思う。なぜなら彼らと異なった種類であるから。もしも、あなた方が自分の観念で発心し且つ一連の閉關修行した修行者を見たなら、理解することができない。

施身法は、一般人がちょっと学んで修められるようなものではなく、必ず智慧、空性これらと共に把握して体得でき、それでやっとこの法を修めたと言え、且つ自身が福報を備えていてこそ、福報で衆生を利益出来る。多くの人は、済度は簡単だと思っていて念仏を唱えれば済度できると思っている。もし、念仏を唱えて超度できるのなら、仏経の中で釋迦牟尼仏はきっと話しただろうし、あなた方を待って発明したり思いついたりする必要がなかった。どのように衆生を助けるのか?既に密法を修めている以外で。密法を修める行者はなぜ衆生を済度する能力があるのか?なぜなら密法を修める行者は既に発心した菩薩だからである。

顯教と密法の最大の違いは、顯教が因から修め始めるのに対して、密法は果から修め始める。この理論の根拠は、仏が一切の有情衆生には成仏する條件を備え、一切の有情衆生の心には仏の特質があると説いたからで、そのため因から始める必要がなく、直接果から修めればよい。密法を修める人は、すぐに菩薩と仏となるわけではなく、やはり幾世もの修行を経てやっとできる。なぜ、あなた方はいわゆる密法に騙されるのか?なぜなら彼が密と言ったので、あなた方はそれを神秘だと思い、彼があなた方が見たこともない動作をすることで、あなた方はそれを密宗だと思う。その実、チベット仏教に於いて、密法を伝えるのは非常に厳格であり、10年間顯教の基礎もなく、まった密法を教えない。それは仏陀が経典の中で説いている。

續部、多くの大乘経典、《寶積経》を含む中でも提示しているとおり、もし衆生に大乘仏法を学ぶ根器がないなら、経典でさえも見せてはならない。だからチベット仏教では、経典を見るなら、上師の許可が必要であり、非根器の者ならば大乘の経典を見せても意味が無い。仏が嘗てある話をしたことがある。仏が《妙法蓮華経》について話そうとすると、ほとんどの弟子が逃げてしまい、残って聞いたのはたった一人だった。仏の弟子はなぜ聞かなかったのか?なぜなら彼らは仏が以前に話した法ではないので、それは自分とは関係ないと思ったからで、だから聞かなかった。

大乘教法と小乘教法は異なり、大乘教法と金剛乘教法も異なる。何処が異なるのか?あなたの心と関係がある。あなたの心がその段階に達しておらず、累世の福慧がまだその段階に達していなければ、伝えることはできない。密法は気ままに外伝しない。だから下心をもつ人だけが利用できる。顯教を学ぶ時、ただ今世の上師を選ぶのであり、それは例えば今生でどの法師に皈依するか、またはどの法師が自分の得度を助けてもらうかであるが、しかし、以前の伝承上師を選ばない。禪宗では六祖慧能を伝えた後、禪宗の受け継ぎは伝承されなかった。だから現在、もしもだれかが自分は禅宗の宗師だ、何代目の伝承者だと言ったなら、皆は気をつけなければならない。なぜなら、六祖慧は明らかに伝承しなかったのだから。中国、インドへ伝わった禅宗佛法が六祖へ伝わった後、受け継ぎは伝承されなかった。あなた方はきっと受け継ぎの何が重要なのだと言うだろう。自分でやってもいいのだから。受け継ぎと言っても、事実は中に心法がある。

当時、六祖が詩を一首書いた。五祖はそれを一目見て六祖は既に「明心」したことが分かった。しかし、後からやはり六祖に心法を伝えた。もし五祖が六祖に心法を伝えなかったら、六祖は今世で悟りを開くことができなかった。多くの人は、「明心」とは悟りを開くことだと思っているが、「明心」は見性を表さない。「明心」とは自然に持ってきた心は何かを明らかにすることで、その作用が明らかになる。あなたが自分と衆生の心を明らかにすると、初めて仏性が真に見えてくる。明心見性ができて初めて悟りが開ける。多くの人は、禅宗は參話頭、數息、テーラー座り、心不要起念頭であると思っているが、それは正確ではない。多くの人がそのようにしているのに、なぜ誰一人として六祖慧と同じように大悟ができないのか?それは即ち心法が欠けているからである。禅宗の心法は即ち、チベット仏教の密宗であると言うこともできる。

多くの人は密法を学ぶのは、長篇大論であり、中には多くのことが書かれているのだと思っているが、その実、そうではなく、一句、二句で終わってしまう。尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに施身法を伝えた時、どのように修めるのか、どのように鼓を打ち、鈴を鳴らすのか、そしてどのように観想するのか教えなかった。おそらく、リンチェンドルジェ・リンポチェは前世で修めていたので知っていたのだろう。教えられなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの観想はすべて正確である。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが不正確であるなら、尊勝なる直貢チェツァン法王は特別に密かに關房でリンチェンドルジェ・リンポチェに灌頂を授けなかったことだろう。密法の定義は行者自身の顯教の基礎が足りていたなら、慈悲心はすでに育成され、菩提願も発せられ、上師は密法を伝えることができたのだろう。だから、あなた方の話のように言うと、密法のパワーは大きいので、もしあなたの心が正しくないのなら、そのパワーが自分を傷つけ、衆生も傷つける。

多くの人は、我々も含め、過去を話すことを好み、誰もが自分が若い時の事績を話す。例えば自分が若い時にはどんなにきれいだったか、周りの人は皆自分のことが好きだった等。過去はただの記録でしか無い。過去のことは即ち現在得たことだが、現在のことは未来である。もし、あなたがいつも過去を懐かしがっていると、現在を変えることに積極的にならず、あなたの未来は現れない。密法の定義として、密法を学習し、修行する行者はすでに衆生の未来を変える決心をしている事を指している。一般人が能力さえあれば学べるものではない。なぜ能力がないのか?ちょうど先週開示したとおり、慈悲喜捨のこの四つのことができなければ、菩提心は永遠にパワーを発することができない。

多くの人は、菩提心に対して、はっきりと解釈できない。道理に沿って仏陀の智慧を見ると、多くの名詞は菩提心の定義を解釈することが出来る。しかし、経典の中の菩提心の定義はどれも曖昧である。なぜはっきりと言わないのか?なぜならそれが密法だからである。多くの人は菩提願を発するが、自分はできないと思っている。もし、出来るのなら、法本の中で提示するはずである。一人の密乘、金剛乘を修める上師が成就したなら、自然と多くの弟子ができる。しかし、弟子ができたら、それは上師の業力が始まる時である。これは何を意味するのか?上師が注意しないと、弟子によって引きずり降ろされる。どの信徒も欲望で祈っている。もし上師の心が金剛のようでないと、内と外の変化を受け入れられず、自己の心に影響を与え、それで弟子と信徒に引きずられ、叱らず、仏法を教えず、隨縁を説き、以後もまた彼に機会を与える。それは即ち上師に騙されたということである。

上師でも出家衆でもよいが、たとえお金を受け取らなくても、人があなたに対して頂禮するのなら、あなたは相手に借りを作っている。もしもあなたが彼に妥協すれば、彼は仏教を学ぶと思っているのなら、それは正しくない。例え、今世であなたがおべっかを使って彼を仏門に入れて皈依させても、あなたは彼の身口意を糺すことがないので、彼は魔物の心で仏教を学び、あなたは彼の輪廻を断つことができない。仏法を説く人を魔物ではないと思ってはいけないし、人を伴い仏を拝む人は魔物ではないと思ってはいけない。ただ言えるのは衆生が輪廻を断つのを助けられないのが魔物である。魔物は大福報、大能力そして一部分の智慧を備えているが、魔物の智慧は衆生が輪迴を断つのを阻止するのに用いられる。

魔物は嘗て仏に言った。末法時代、魔物は多くのピープルを仏の弟子になって派遣して、佛法を殲滅し、魔法をかけた。魔法とは何か?それは即ちあなたの欲望が増えることである。どのようにすればあなたの欲望は増えないのか?何かというと責め、あなたが口を開けば欲望を満足させるように言うと、上師が責める。なぜならあなたの欲が留まることなく増えるのを阻止するからだ。もし弘法人として、衆生の欲望が減るのを助けず、反対に衆生の欲望が増えるのを助け、たった一回でも仏菩薩が彼の欲望を満足させるために願いを聞かなかったなら、彼は仏菩薩は力がないと言い、口業をつくる事だろう。あなた方は外の人が仏を誹謗すると思ってはいけない。仏を誹謗するのはいわゆる仏教を学び修業をする人なのだ。この種の人たちは仏教を学び始めた時には仏菩薩の前にいて、上師の耳元にいる。1年後、仏菩薩は何処へ行ったのかわからなくなる。自分は既に学び終え、修行を終えたと思っている。たった一度欲望を満足してもらえないと批判を言い始める。

修行人、弘法人は、衆生が三悪道に堕ちないように助けることどころか、更には上乗せして衆生を三悪道に落としているのではないか?法会前に分かち合いをした出家弟子は自分が世話をした法師は、臨終前腹水が流れ出たと言ったが、それは何を意味するのか?それは即ち、地獄に堕ちたということである。なぜ、地獄に堕ちたのか?なぜなら彼は衆生の欲望を止めなかった。仏経に於いて何度も開示しているが、往生前にもしも少しでも執着があったなら、浄土にいくことはできない。我々は仏教を数十年学んでいるが、今世で良い生活が出来るようにお願いしているわけではなく、今世で健康であることをお願いしているのでもない。そして往生する時のその一瞬のために準備をしている。自分がまだ死ぬその時になっていないと信じてはいけないし、自分は敬虔に仏を拝んでいると思ってもいけない。あなたの心の準備ができていないと、その時に生生世世の冤親債主があなたを探して面倒を与える。

なぜ、癌末期の衆生が三寶と上師に対しての信心があると痛苦がなくなるのか?それは冤親債主が痛苦を与えないのだ。なぜなら彼は済度できると知っているから。冤親債主が病人に痛苦を与えるのはどういう意味があるのか?ちょうど分かち合いをした出家弟子が提示した自分が面倒を見た法師には、恨みの心がある。だから堕ちた。誰を恨むかに関わらず、たとえ自分がこんなに多くの衆生のために仏経を念じても、なぜ功徳がないのか?それは怨があるからだ。

まさに多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会うとこう言う。「私は悪いことをしてきていないし、多くの人を助けてきた。それなのになぜこのようなのか?それは因果なのか?前世のせいなのか?」ただこのようなことをいう人を、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも出て行ってもらう。彼は自分には良いことがたくさんあると思っているのか?もしもそうならば、少なくとも既に法座にあがって講話していることだろう。しかし、誰もが自分は間違ったことをしていないと信じている。仏法は非常に殊勝である。あなたが生生世世どんな悪いことをしてきていても、ただ、あなたが懺悔の決心をして、しっかりと修行すれば、どんなことでも今世で解決し、変えることが出来る。

あなた方は、ミラレバ尊者ほどひどくはない。尊者は母のために、持咒して十数人を殺した。果報に照らすと、ミラレバ尊者は今世で地獄に堕ちなければならない。しかし、尊者は因果の恐怖を知り、因果の恐ろしさを知っていた。具徳の上師に出会った時、上師がどのように彼に罰を与えようとも尊者は黙って上師の加持を受け入れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、現在あなた方を責めたがそれが何になると言うのだ?ミラレバ尊者はマルパ尊者によってたくさんの罰を与えられたのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェも多くの方法を持っている。気分がいい時は相手にするが、気分が悪い時には相手にしない。しかし、やはり相手にすることになる。

だから、皆は密宗に対して珍しがったり、学べばきっとすごい者となると思ったりしてはいけない。あなたはそのような根器ではなく、絶対に事が起こってリンチェンドルジェ・リンポチェに見つけられてしまい、密法をあなたに伝授するのを止めることになる。根器はどのようにして定まるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが定めるのではなく、あなたが累世の修行で定めるのであり、今世で自分が決心するのである。あなたがもし、今世で決心をしないのなら、例え転生した某リンポチェであったとしても、今世ではできない。リンチェンドルジェ・リンポチェも転生したリンポチェがテーラー座りできないのを見たことがあるが、皆はいわゆる転生とは迷信である。転生したリンポチェの唯一の長所は、今世の修行が他の人より早いということで、しかし、今世でも努力して修めなければならない。もし転生したリンポチェが風雨を呼ぶことが出来るのなら、閉関する必要ないだろう?しかしながら、転生したリンポチェも閉関をしなければならない。

衆生は皆、ブランドを盲信していて、ブランドがあれば、正しいと思っているので、人に何度も付け入る隙を与える。仏は嘗て法に依り人に依らず、彼が伝える法は生死解脱の助けになるかであり、それとも毎日唱えれば良いというのはただの目眩ましかどうかを見るべきだと言った。唱えるのは良いことだ。しかしそれは未来の福報にすぎない。もし上師が毎回、長期的にあなた方を監督しなければ、あなた方は自分の心を改めることができない。あなた方は生生世世備わったのは傲慢と驕り高ぶりと慢心があり、それがあなた方の条件である。驕り高ぶり慢心がある人は、来世は餓鬼道であり、場合によっては餓鬼王になり、更に悪ければ鬼の兵士となり、浄土へ行く資格が無い。あなたは、自分は人よりよく修行していると思い、人より行いが良いと思い、人より良い事をしたいと思っている。驕り高ぶり慢心のある心が出て来ている。

仏経には良いとも悪いとも説いていない。仏はただ自分が今世でどのようにして生死解脱するかを説き、更にすべての衆生の生死解脱を助けることを説いているだけである。それならばなぜ、壽者相を破ったのか?それは、衆生は無涯であるからで、もしも時間を定義するならば、有為法に落ちいる。もし空性を説くのなら、真に時間がない。時間は心が動いてこそ初めて存在する。心が動かなければ時間も存在しない。もし、あなたどのくらいの時間で修行できるかと思っているのなら、或る果位に至れば、壽者相が現れる。あなた方はきっと言うだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは我々に早く拝むように急かせるではないか?それは仕方ないことなのだ。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの寿命は益々少なくなってきている。当然、命があるうちに、一部の法を伝えることが出来るように、あなた方を急かせるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、来世は真に来ない。ちょうど尊勝なる直貢チェツァン法王が授記しようたように、どこにでも善縁があり、そこに行く。リンチェンドルジェ・リンポチェが見たところ、ユンカ・リンポチェが嘗て予言していたが、密法は後700年間伝えるとなくなるそうだ。700年はすぐにやって来る。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが阿彌陀佛のところへ行って、蓮の花の中で寝ていて、目覚めたなら、もう700年は経っていることだろう。それでは戻ってきてもひどいのではないか?だから、今世でリンチェンドルジェ・リンポチェと縁があるのなら縁があるということで、もし今世で決心しなければ、佛法の入り口で出たり入ったりしているだけで、あなた方にとって真の助けにならない。助けにならない状況の中、来世の別の上師があなた方と縁ができるのを待つしか無いのだ。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにもひどいのか?来ないと言って来ないのか?なぜなら借りがないのだから来る必要もない。佛がリンチェンドルジェ・リンポチェを遣すことを除いて。もしも佛がリンチェンドルジェ・リンポチェを遣わしたなら来るだろう。さもなければリンチェンドルジェ・リンポチェは来ない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは今世で絶対に衆生に借りを作っていないので離れることだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは100%の自信はないが、自分でかなり確信している。

仏教を学ぶことは困難なことではないが、自分の心に負けないことが難しいことだ。修行は何をするのか?つまり自分の心を修行する。自分の心がコントロール出来ないと、たとえあなたがどれだけの読経をしても、仏を拝んでも、禮懺しても、ただ幾らかの人天福報を作るだけで、それは来世で使われる。輪廻からの解脱を自分に決心させなければ、今世で拝んだことや学んだことはただの人天福報だけである。輪廻解脱を決心しないと、結婚できなかったり、商売できなかったりするのか?そんなことはない。いわゆる輪廻解脱を決心することの定義は、過去の借りを今世できれいに返済するということだ。今世の借りも死ぬ前までに返したい。そして今世で作った業を止めたい。業は悪業、善業に分かれ、多すぎる業も輪廻する。現在、某団体を自称する人は輪廻しなければならないです。なぜなら善業が多すぎるので、衆生は彼らに借りを作る。

仏法の中では、布施供養を三輪体空と提示しているが、それは布施をする人、対象者とその物がないと言っているのではない。布施供養の時は身口意供養であり、身口意三輪の本体は空性である事を理解しなければならない。なぜそんなことをするのか?なぜなら、そのようにすることで執着をなくすのだ。執着がなければ、この種の業力は功徳に変わる。だから、もしあなたが、自分が修行して衆生を助けると思っているのなら、それはまずいことだし、業力が発生してしまう。もし、願をかけて自分の病気が治ったら、しっかりと修行をして衆生を利益しようと思うなら、それも業力である。或る人がリンチェンドルジェ・リンポチェの面前でこのようなことを言ったなら、絶対に叱る。なぜならそれは、仏菩薩を脅迫して強く求めていることになるからだ。彼の病気を治せなかったら、彼は修業をする必要がないのか?多くの人は跪いてリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、病気が治ったらしっかり修行して衆生を利益すると言う。自分の問題が解決しないのに、どうして衆生を利益するのか?嘘ばかり言ってはいけない。仏菩薩にさえ脅迫して強要するのか?

時には、外道も良いものだ。主に対して祈る時、主が何をしようと、それは主の彼に対する計らいだと言う。あなた方はどうか?仏菩薩がどのようにしようと、あなたに対する計らいだではない。なぜならあなたが望んだものではないから。あなた方は皆そのように求める。だから、末法時代は真に哀しいのだ。他の宗教はどのように求めるか?良いものは主が与えたものであり、悪いものも主が与えたものだと信じている。しかし、あなた方は良いものは自分が修めたものが返って来たと言い、悪いものは仏菩薩が不慈悲であり、上師は助けてくれないと言う。あなた方はそんな考えを持っているだろう?そのような心は真に怖いものだ。なぜならそれは魔物の心だからだ。

現代の社会の大衆は彼らに良くなければならない。なぜなら票が欲しいから。過ぎてしまえば人の恩も忘れてしまい、そしてまた新しいものを探して人に与える。今は全世界で、留まることなく人の欲望を満足させていく。そんなことをしていれば未来はなくなる。なぜなら如何にして欲望を満足させるかだけを知っていて、如何に教育するかを知らないからだ。どの衆生も貪念に満ちている。だから仏教を学ぶ人でもよし、自分は仏教を学ぶ人だと考える人でもよし、毎日、自分に貪念があるかないかを見なおさなければならない。もしあるのなら、それを止めるべきである。

仏は我々に求生動機をなくすことを教えないし、我々に何もしないことや出勤しないことを教えないので、今は何も得たものはない。それならば一日中考えていてはいけない。先ずは今日やらなければならないことをすることだ。ご飯を作るのなら、心をこめてご飯を作る。出勤しなければならないのなら、しっかりと働く。そして今日は良かったかどうか?明日はどうか?を考えてばかりいないことだ。あなたが良いと思っても、或る人は良くないと思う。各人の評価は同じではない。ただ自分の良心に恥ずかしくないように物事をすれば、良いも悪いもあなたの福報と関係がある。福報が足りている人は、人が皆あなたはよくやっていると言うことをしない。福報が足りない人は、地面に這いつくばり、人は地面に寝て事をしないと言う。だから因果を信じず、自分は福報があるかないかで苦しむ。なぜなら、自分はこんなにも一生懸命にやっているのに人にそのように言われるから。それで人と争うか、または諦めることになる。人は更にあなたの何処が良いのか見えなくなる。多くの人は仕事場で自分は一生懸命やっているのに人はそれが見えないと思う。なぜならあなたは福報がないので、人は見えない。福報がある人はそのようにしなくてもよく、人は知っている。

この時、ある弟子が目を閉じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは即座に叱責した。彼女は目を閉じて英気を養っていたのか?たった今開示したことは彼女と関係のないことなのか?彼女は皈依して12年になる。だから自分は何度も聞いたことで自分は修めたことだと思ったのか?このようにめちゃくちゃな話なので、寝ていたのか?その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子の属するグループ長に指示し、彼女から寶吉祥のチョッキとすべての法本を回収し、以後信徒にさせるように言った。リンチェンドルジェ・リンポチェにはこのような弟子はいない。自分が聞いたことがあると目を閉じて気を養ってからまた聞こうと思い、聞いたことがないときには話を聞くというのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を即座にこの場を立ち去らせるように指示し、開示を続けた。

先ほど開示したのは、仏教を学び始めた時、仏は眼前にいるということであるが、この弟子は皈依して12年になるので、仏は彼女から離れてしまったのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜそんなにも厳しいのか?なぜなら死ぬ時、考えがたったの0.000001秒行けないことを考えただけで行くことができない。彼女の観念はリンチェンドルジェ・リンポチェに見つかるはずがないと思っていた。1000人以上いるのに、どうして彼女を見つけられたのか?それはつまり業障がきたから、見つかったのだ。心が正しくなければ人に見られてしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも振り返ってアキに、もしも誰か間違ったことをしていたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに言ってくださいと言っている。それは他にもいるのだ。あなた方は後ろに座っていればリンチェンドルジェ・リンポチェには見えないと思っているが、突然見つかってしまう。いつかアキはリンチェンドルジェ・リンポチェに目を開かせ、別の人を見つけさせるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは名声や蓄財の欲望のために弘法しているのではないので護法がリンチェンドルジェ・リンポチェにあなた方の問題を見せるのだ。仏法を長く聞けば自分は問題がなくなると思ってはいけない。問題ばかり起こすのは実のところ、いわゆる修行が長い人だ。なぜなら自分は長きにわたって読経し、礼拝していると思っているので、少しも自分を見直すことがないからだ。もし仏教を学ぶ人が毎日自分の心を見つめなおすことがなければ、善から悪へ変わりやすい。なぜなら自分は良い人で、何事もないので、しっかりと修めていると思っているから。あなたの心がちょっとでも緩むとすぐに問題が起こる。仏教を学ぶのは苦しいか?実のところ、苦しいことは何もない。自分の心を見つめることのどこが大変なことなのか?自分は良いと思ってしまうと、自分を見つめることは非常に苦しい。

もし、仏教を学ぶ人が自分を見つめなければ、真に進歩できない。いわゆる禅定、精進、智慧はどこから来るのか?禅定は自分の心を見つめることで、念頭が生まれてくる度にそれは善か悪かを自分で見なければならず、そうすることで定を得ることができる。定が現れた後、智慧が開く。もし禅定が悟りを開くためならば、それは正確ではない。善悪がはっきりできないのに、どうして悟りを開くことが出来るだろうか?もし、自分は長く座禅し、長く目を瞑り、參話頭をうまくしているので悟りを開くことが出来ると思っているのなら、自分の心さえはっきり見つめないのに、どうして悟りを開けるのだ?

いわゆる外道禅は口で言うだけではない。あなたがある目的を追求するとそれは外道禅である。仏教の禅は絶対にあることを追求することではなく、自分を見つめることである。もし、仏教を学ぶ人が自分の心の変化に気づかなければ、自然と自分の業力を変えることはできない。自分の一つ一つの心の動きに気づいてこそ、業力をどのように動かすかを知ることが出来るのである。しかしながら、人はどうしても眼耳鼻舌身意によって、自分の感覚という武器として、常に間違いを起こしてしまう。仏経に於けるいわゆる眼耳鼻舌身意とは六賊のことで、即ちそれらがあなたを害し、あなたを間違ったところへ導く。

我々は眼耳鼻舌身意が必要ないわけではない。なぜなら人はこの六個の物が揃っている必要がある。いわゆる六波羅蜜は眼耳鼻舌身意を退治し、ただ六波羅蜜の修行をする人は眼耳鼻舌身意のあなたに対する影響が減ってゆき、ただ肉体を生存させるためだけの道具になっていき、あなたの心を動く賊とならなくなる。だから、修行に於いていつもそれが盲点となる。確かに眼耳鼻舌身意はあるのに、どうやってそれらが自分に影響を与えないようにするのか?目を閉じても心はやはり動く。目を閉じても耳はやはり聞こえる。例え耳が聞こえなくても風が吹けば首に風を感じる。だから、肉体が一秒間でも存在すれば、眼耳鼻舌身意は必ず我々の心に影響を与える。

仏法が困難なのはこの箇所である。なぜなら他の外道は眼耳鼻舌身意を用いて修行するが、仏法は心を用いる。ただ心を掌握しさえすれば、眼耳鼻舌身意を掌握できる。眼が見るのは良い物だけで、耳が聞けるのは本尊の咒語だけである。密宗の成就が早い訳は、心で時間をかけて努力しているので、眼耳鼻舌身意を克服する必要がない。または禅定を通して六個の意識に作用を起こさせないようにするのは、非常に大きな努力が必要で長い時間が必要になる。真に密教を学ぶ人が禅定する時、眼は見開き、閉じない。閉じれば幻覚を生みやすく、朦朧としやすい。

だから、密法を学んだ人ならば、禅定の時、目は見開くが、見開くのは人を驚かせるためでない。もし、目が物を見るだけで制御できないのなら、禅定後、目を開いて見たものはすべて悪いもので心が動く。それは禅定したと言えるのか?なぜリンチェンドルジェ・リンポチェの目つきは鋭いのか?つまり、リンチェンドルジェ・リンポチェの心は動かないので、あなた方の誰が動くのもはっきり見えるのである。

今日は施身法を修める。大事な点を皆に話すと、マジラ尊はこの法を伝え、大きな感恩心を残した。なぜなら、般若部と慈悲喜捨一切の顯教理論はこの法の中に濃縮されており、加えて密法のいわゆる自分の良い物と衆生の苦及びポワ法と取り替えた。もし、ポワ法を修めて成就しなければ施身法を修めることはできない。もし、閉関、本尊灌頂をせずに、観想、生起圓滿次第、持咒100万遍超えをしても、施身法を修めることはできない。

今日、あなた方は因縁があり、この法会に参加した。あなた方に対し、将来世間法と出世法は必ず助けになる。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方にどの程度助けになるか言うことができないが、それはあなたの業力、決心、懺悔心及び恭敬心に拠るもので、衆生が得る利益はそれぞれ異なり、だからこそ、自分を見る必要があるのだ。

尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは、殊勝なる直貢噶舉施身法の修持を始めた。修法が円満となると、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き、出席大衆に開示を授けた。

一生施身法を修めるわけは、必ず成就するからで、どうやって修めるかはあなた方に言えない。しかし少しばかり簡単に説明すると、法本の後ろ数段祈請文はあなた方に施身法が特別であることを理解させる。法本の中で述べているのは、上師が加持して私に与えるのを祈るとある。それはつまり、釋迦牟尼仏の教え、マジラ尊と一切が施身法を伝える上師の加持を求め、身体を以って食物とする。身体を食物とすることで、身体が道となり、それは即ち修行の道である。身体すべてを布施供養し、そのように加持祈祷することで、我々すべての業力一根を抜き去る。眼耳鼻舌身意全部が一根に帰納し、それは即ちすべてが一度に抜け去り、我々が修行する一切の障害となる善惡業が抜け去る。多くの人は障害を誤解している。抜け去れば自分は病気をしなくなる、問題が起こらなくなると思っている。しかし、それは正しくない。抜け去るの意味は、あなたが生死解脱するための修業の道の障害とならないことを指している。もし、このような願いがあるのなら、修行は力となる。

法本の後ろに示すとおり、加持祈祷は自分の身体の血肉で供養することで、要義に入ることができ、それが空性である。そのことから、施身法を修める行者はより早く空性を理解するが出来る。他に、加持祈祷は一切の鬼神に利益し、一切の殊勝と一般の成就を得ることが出来る。殊勝は即ち、成佛した成就であり、一般は一切の有情衆生を利益する。法本に依ると、加持祈祷は無死長寿持明を得ることが出来る。無死は生死解脱、不生不滅であり、それは長寿の時間のことではなく、永久普遍の寿命である。寿があっても智慧がなく明心見性がなければ、意味が無い。だから長寿でも明心、見性がなければやはり愚昧である。更に加持祈祷が無病快楽の青春を得る。

この言葉は我々に我々施身法を修める成就とは何かを告げている。しかし、あなた方は聞いてはいけない。自分で毎日考え、自分の身体を以って供養するのだ。あなた方の今の肉は臭い。心が清浄になる前、一切の供養は臭い。テレビで一日中、あなた方に持咒、供養布施を教えるのを見てはいけない、供養布施は水をふくと思って、それは役に立たないで、ただ手指の運動にすぎない。なぜ効果が無いのか?なぜならあなた方は、その前にやっていないことがたくさんあるので、福が現れず、智慧が開かず、すべて一切は作り出したもので、有為法でもある。

鬼は我々よりも有能である。仏経においても提示しているとおり、ただこの身を無くしただけで、鬼道の衆生の感覺は我々よりも100倍強くなる。だからあなたの心が正しいか否か、彼らははっきりとわかっている。だから気軽に布施供養をしてはいけない。ここで言うのは、鬼道に対してという意味で、上師や佛菩薩に対してという意味ではない。だから、自分は慈悲深いと思って食べ物を餓鬼道の者に食べさせてはいけない。佛経で示すとおり、もし如何なる食べ物も加持しなければ、鬼道衆生は食べることはできない。何が加持なのか?即ち、慈悲心を以って食物を甘露に変える。衆生が見ているのは食物だが、それは甘露であり、食べると彼の貪嗔痴を滅することができ、彼にお腹いっぱい食べさせれば恨まないようにすればよいというわけではないのだ。さもなければここでお腹いっぱいにすると、次も欲しがって食べたがる。

出家人は毎日の昼に飲食を施し、ガルダに食べさせる。これは仏が竜族を保護しているからで、ガルダに竜族が食べられなくするためだ。そしてガルダに殺生をしてはいけないと言った。するとガルダはそれでは以後自分は何を食べればいいのか?と尋ねた。それで仏は、これからは弟子が昼時分に飲食を施すと答えた。帰宅後、あなた方は仏経をちゃんと読んだください。ガルダは鬼のような恨みを持っていない。だから仮にたった少しの差だったとしても仏が言いつけたのだから、たった少しの差であっても食べれば,あなたに復讐できない。なぜなら仏がそのように言ったからだ。もしあなた方が主動的であったなら、例として、「お施餓鬼法要」は銅板を投げて下の人に拾わせる。しかしながら、仏経では銅板を投げると書いていない。どうして台湾では銅板を投げることが食べ物を投げて鬼に食べさせるということになったのかわからない。リンチェンドルジェ・リンポチェの以前の師父は「お施餓鬼法要」をしなかった。するのなら人に頼んでした。なぜならこのような利害関係が衆生の済度に役に立たないことをわかっていたから。彼らは決してあなたを探さない。

たった今開示したこれらの祈請文をあなた方に聞かせたのは、あなた方に施身法の成就は何かを知らせるためであるので、リンチェンドルジェ・リンポチェが身体を以って布施をすると言ったからと、あなたは毎日身体で布施をしたいと思っても、家に帰ってから自分で始めてはいけない。身体で布施をするには、多少の空性を体得してこそできるのだ。衆生が本当に食べ、食べ過ぎると、あなたはある日突然に病気する。そうするとおしまいである。だから今日開示したこれらをあなた方に聞かせたのはあなた方にその法門の殊勝と重要な要点は何かを知らせるためである。しかし、上師は伝えない。決して自分勝手に行ってはいけない。

なぜ、釋迦牟尼仏はガルダに食を施すことを出家衆にするように言いつけたのか?なぜなら少なくとも彼らは清淨戒を守っているから、ガルダは彼らが他の戎を守っているか否かを気にしないのである。その実、経典によると、布施供養は必ず齋戒沐浴しなければならない。ちょうど閉関の時、ただ物を食べただけでもすぐに口をすすがなければならないように。あなた方が《地藏経》を読んで半分読んだところでご飯を食べ、食べ終わってから引き続き読み始めるのとは違う。多くの人は歯を磨かないし、口をゆすがないし、手を洗わない。大部分がそのようである。あなた方は仏菩薩は許すと思っている。確かに仏菩薩はこれらのことにいちいち文句を言わない。しかし、仏菩薩には多くの眷屬がいる。あなた方は仏教を学び始めた時、読経は仏菩薩に聞かせるのではなく、あなたの住む周り一帯の鬼神に聞かせる。或る人は《地藏経》を読んで後半までくると、頭にヒヤリとしたものを感じ、それは鬼がきたのだと思う。実のところ、汗を出し終わって汗が出なくなると涼を感じる。鬼が来てもあなたは分かることはできない。鬼があなたに知らせたいと思う事を除く。

読経している時に鬼神が来たかどうかを如何にして証明するについてだが、《地藏経》に記載しているとおり、もし、あなたが毎日地蔵菩薩聖號を一万回恭敬に唱えたなら、1年後あなた周りの土地の鬼神はその一家を保護する。その意味は彼らはあなたが唱えたのを聞いたということで、それはあなたが彼らに対してした良いことである。どんな心で唱えるのか?即ち、慈悲心、持戒の心であり、それは親戚が病気をしたので毎日彼に代わって唱え、病気が治り、彼の冤親債主に回向するように祈るということではなく、それは意味が無い。

あなた方は先ず、自分が一般の凡夫俗士であることをはっきり知るべきだ。何を根拠に読経で仏が知ることが出来るというのか?空間から見ると、我々は仏から遠く離れている。空間として考えなければ、仏は我々の心の中にいる。なぜ仏菩薩が聞いてないことがあろうか?なぜなら、あなたは未だ清浄な心に至っていない。なぜ読経が有用なのか?なぜなら鬼神は聞いている。あなたは布施供養している。いつ有用なのか?それは即ちあなたがあなたを責める修行者に出会った時である。あなたを責めないのはあなたにとって良くない。おそらくお金がほしいか、信徒が足りないのだろう。寶吉祥佛法センターの信徒は多すぎるくらいだ。おかしなことである。追い出しても追い出してもまだこんなにも人がいる。一部の人が離れても、また何も恐れない人がやって来て、そしてまた一部の人が離れていき、また別の人達がやってくる。

仏教を学ぶには、必ず一人の善知識あり、密法として具徳上師に付くことが必要だ。ここで言う徳とは道徳のことではなく、功徳のことを言う。如何にして功徳があると知るのか?言ったらそのとおりということではない。すべての修行過程がはっきりとされているかどうか、突然に某の生き仏になったということは絶対にない。仮に転生しているのなら、あなたは彼が閉關したのを見たことがあるか?それともただ法会に出て、仏寺を建てているだけなのか?もしもそうであるのなら、それはおそらく徳を備えていない。なぜならお金さえあれば佛寺を建てることができ、出家者に行かせればよいだけである。誰でも佛寺を建てることが出来る。お金さえあれば良いのだ。もし自分が修行していなければ、多くの出家者がいて、彼らに行ってもらえばよいのだ。

チベット語を喋れるのは修行になるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはチベットに何度も行ったが、95%のチベット人は仏法を聞いていないと言える。ただ、六字大明咒を唱え、そして仏寺へ行って拝んでいるだけである。いわゆる法会は一年に一回開くだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェのように、毎週仏法を開示してあなた方に聞かせたりしない。なぜなら、チベットに仏法は出家人の特許であり、仏法を学んだ在家の人は比較的少ない。だから皆が理解した後は仏法を迷信の道具にしなくなった。ただ敬虔、恭敬、懺悔の心,があるだけで何を唱えても有用であり、未来の生死大事、成仏について必ず有用になる。世間の種々の事情はあなたが過去に蒔いた因であり、現在の開花は結果なのだ。あなたはこの果を変えることが出来るのか?

癌になったということは花が咲いたということで花が咲いて実はなったか?実は必ずあるはずだ。花が咲いたなら、あなたは今世もしくは過去世で幾らかの善を行い、仏菩薩の名前を唱えたのだ。仏菩薩はあなたを見捨てることはなく、あなたにこの果報の味が良くなる機会を与える。だから、癌末期の人はただ上師に対して信じるだけで痛くなくなる。これは果報の味が変わったのだ。しかし、果報は同じく現れる。無くなることはできない。ミラレバ尊者のように修行する以外には。上師が何かを言えば何でも聞く。上師が彼に洞窟へ行って修行するように言うと、例え上師が離れても彼はやはり洞窟へ行く。あなた方このように言うことを聞いているか?だからミラレバは多くの人を殺したが、上師言うことすべてを聞いて今世で成就を得た。

仏法の中では多くのことを説いている。あなたが決心さえすれば改めることができ、改めることを決心さえすれば必ずでき、出来ると肯定すれば今世で成就を得ることが出来ると説く。この点、外道は異なる。外道は待たなければならない。死んだ時に主が迎えに来るかどうかに依る。もし待ちきれなかったのならどうするか?厳密に言うと、主はユダヤ語で話し、中国語で話すのではない。だからおそらく聞いても分からないだろう。今日は外道を批判するのではなく、あなた方は仏教を学ぶのだから、仏法の含意をはっきりさせなければならず、「附仏外道」になってはいけない。つまり表面的には仏を学びながら実はそれは外道であるということだ。仏法の真は因果を以って根本とし、基本の条件とする。もし、あなたが因果を信じず、因果はあなたが思うものであると考えるのなら、それは間違いである。どんなことをしても因果がある。もしあなたが因果を信じないのなら、今日仏教を学ぶのにも因果はないということである。もし、あなたが良い因によって良い果が現れるのは良いが、悪い因によって悪い果が現れるのは良くないと考えるのなら、それは間違っている。そのようなことはない。

密教の中で提示する病は道用である。つまり病気は修行なのだ。だから病気が治ったらよく修行するということではない。それは嘘である。他の人はおそらくあなたを言い負かせない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が皮膚癌になった時、あなたを恐れたか?リンチェンドルジェ・リンポチェは始め皮膚癌になった時、仏菩薩に助けを求めず、上師に知らせず、正如法本の中で説く病を以って道用した。病気になって初めて自分が過去にして来た悪の悪業を知り、懺悔しても間に合わないのに更に癌に対処するのか?リンチェンドルジェ・リンポチェの皮膚癌になったのは良いことで、仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェに慈悲をかけたのではなく、冤親債主と一緒に生活するのではなく、癌症と仲良くやっていくのでもなく、つまり自分の修行の助けなのだ。

仏教を学ぶ者であるのならば、我々が生活の中で起こった良い事、悪い事はすべて自分の修行にし、良いことは自己に警戒を与えなければならない。良い果報が成熟したなら、私はまた良い事が少なくなったと考える。良くない果報が成熟したら、自分に対して私はまだこれだけの借金があるのだから、更に努力して善を行おうと考える。良い時には自惚れてはならない。自分はちゃんと修行をしているしここ数年何も悪いことはないから自分はよく修行しているのだと思う。あなたのこのような観念は、すべてが福報に変わったが功徳ではない。功徳がなければ絶対に累世の業を動かすことはできない。

上師は、あなたに福報を教えてはいけない。ただ如何にして功徳を修めるかということをあなたに教える。もし、あなたがこの種の説法を認めないのなら、仏法はあなたと関係ない。梁武帝が、菩提達磨に自分には功徳があるか否かと尋ねたところ、菩提達磨はないと答えた。あなた方は自分が仏教界でどれだけのことをしたのか聞いてみなさい。何をもって功徳や福報と言うのか?梁武帝でさえ、ないと言われ、最後は餓死した。現在、仏教の出家衆は菜食するがそれは梁武帝が定めた。だから、或る人が自分はベジタリアンレストランを開いたから功徳があると言ったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず認めない。彼が金をもらわず、誰にでも無料であったなら、それは功徳がある。お金をとっているのに、自分は損をしていると言うのなら、もうやめなさい!

多くの似ているようで似ていない仏法の常識は台湾で、はびこっていて、更に対岸に影響を与えている。だから皆は慎まなければならない。我々は身を以って則とする。法に基づき人に基づかない、義に基づき語に基づかない。我々が生死解脱する助けになる含意こそが受け入れることが出来るのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは凄いのかそれともリンチェンドルジェ・リンポチェのことなのか。あなた方が学ばず、修めないのなら、例えリンチェンドルジェ・リンポチェが一時的にあなたの冤親債主を取り除いても彼らを追いやることはできない。釋迦牟尼仏は自分の種族が滅ぼされ、道の真中に何日座って妨害しても軍隊を追いやることはできない事を知っていた。仏には大神通があるのだから、少しばかり入定すれば鬼神によって軍隊に石を投げることはできた。真にこのような方法は道教では行う。しかし、なぜ仏は使わないのか?なぜならそれでは衆生の業を改めることができないからだ。

だから、密教を修めればあなたに何が起こってもマジンガーZになると考えていけない。不可能なのだ。金剛乘上師には特徴がある。即ち死を恐れない。そしてあなたに死を恐れないことを教え、死亡を恐れず、受け入れ、死と向かい合う。死亡によって修行の方向とする。誰が死なないのか?座っている誰もがこの方向で修行し、人生無常、死亡無常を受け入れることで、学んだ仏法が役に立つ。一日中、口から衆生を済度すると言わないことだ。どの衆を済度するのか?自分が死亡することでさえ、解決することができないのに、誰を済度できるのか?自分を騙してはいけないし、衆生を騙してもいけない。地に足をつけて修行することで、ある日必ず役に立つ。リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を伝えることが出来るかどうかわからないが、あなた方の様子を見ておそらくそれは難しいだろう。

法会は圓滿となり、弟子たちは声を揃えて尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な修法と開示に感恩し、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りるのを起立して恭しく見送った。

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2016 年 04 月 04 日 更新