尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2014年11月23日

先ず、一人の出家衆弟子は彼女が尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェから救度を得た経過を話した。彼女は今年7月20日に皈依した。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会って皈依できたことは、彼女の今世の中で最も幸福な事であり、諸仏菩薩が小さなアリのような彼女を見捨てなかったことを感謝し、上師はこの上なく尊い慈悲で彼女を攝受し、尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのもとで仏法を学ぶことが出来ることを感謝した。

彼女は福が薄く、慧が浅く、業障が深く重い人であると自認していた。顯教に於いて出家してすぐ、恩師は圓寂し、20年来、師父の指導がなかった。修行に於いて一人で模索し、訳もわからないまま修め、身の程もわきまえなかった。ずっと母の世話をしながら、母の老、病、苦に向き合い、彼女は自分の修行が功徳になり、母の苦しみを消すか、少なくとも和らげることはできていると思っていた。しかし、現実は全く何も作用しておらず、その時、彼女はやっと分かった。彼女の修行はまったく問題の核心を着いておらず、解脱の縁すら触れていなかった。当然他の人を助けることはできず、彼女自身に対して何も作用しなかった。毎回、困難に遭ったり、横暴な目にあったり病気に苦しんだりした時、彼女はいつも自分に焦らないよう、恐れないよう、傷つかないよう、怒れないよう言い聞かせることができず、これらの感情の波に飲み込まれ、煩悩の苦海の中に零落し、どうやって抜け出せばよいのかわからなかった。経典で言うところの境地は、彼女にとってこんなにも遥か遠く——六根功徳、六根互用等々は、今まで一度も彼女の身に起こったことがない。

母親が往生した時、読経幇助は、母の体を柔らかくし、死相は穏やかで、読経幇助をした法師も母は必ず極楽世界に行ったと言ったが、彼女の心はどうしても納得することができず、極楽世界に往生するのがこんなにも簡単ならば、彼女は苦しみながら修行し、業障を消す必要がなかった。母がもしも離苦していないのなら、彼女は安心できない。ちょうどその時、或る師兄が彼女に尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを紹介し、彼女は姉と共に行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の母は極楽世界へ行っておらず、母の心は二人を気にかけていて、一人は母が堕胎もしくは流産した胎児、一人は彼女の兄を気にかけていると慈悲深く開示した。更に経典によれば、善根を減らしてはいけないし、福徳因縁の善男子善女人こそが彼の国に生まれることができる。母親は生前發願してないし、真言を唱えてないし、十善を修めていない。読経幇助の人でさえ證量がないのだから、母親も極楽世界に行けない。読経幇助の長所は、母が三悪道に堕ちないことである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が母親のために仏事をひろめてすることを強調し、合わせて彼女に隔週の施身法法会に参加することを指示した。愚かな彼女は仏事をひろめてする事とは何かわからず、人に尋ねることもできなかった。そしてそれを母のために多く経を読むことや、母のために多く読経法会に参加することだと理解した。この疑問について、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示と法話テープを聞いた後、彼女は急に悟った。元々、仏事をひろめてすることとは広大な心量を持ち、一切の衆生を利益するために修行することで、自分の加護のためにしてはいけない。自分の生死解脱のためにだけではなく、一切の衆生の生死解脱のために修行する。たとえ、1本の線香を立てることや1杯の水を捧げるだけでも衆生利益のために行う。そうすることで、仏菩薩の心と呼応し、成就することが出来る。これこそが、彼女の長年の盲点であり、彼女は自分の宿題が分かった。困難に出遭った時、苦しみながら菩薩に加護を求めるが、仏菩薩は彼女を相手にせず、彼女に苦痛をなめさせ、多くの教訓を受けた。「感応道交」この言葉は彼女の仏を学ぶ生涯に於いて、遥かに遠く感じる。今日に至るまで、仏菩薩は彼女を相手にしていないが、ただ尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが彼女を相手にしてくれる。

彼女が道場に来たばかりの頃、ちょうど3、4ヶ月前、亡くなったばかりの母親の49日法要が終わったばかりで、彼女は心身ともに非常に疲れていて、話をする気力さえなく、寿命が間もなく尽きるように思っていた。加えて仏教の修行をこんなにも長くしているのに、少しも力にならず、生きる気力さえなくなっていたが、どのようにすれば早く極楽世界に行けるのかもわからなかった。もし、上師の加持がなかったら、彼女は今、この場に立って話をする気力も勇気もなかった。彼女は上師が彼女の命を救い、彼女の法身慧命も救ったことを感謝した。彼女が仏教を学ぶのに行き詰っていた時、彼女の大力導師を務め、彼女を煩悩生死の苦海から引き出し、寶吉祥号という船に乗せ、彼女の心を安定させ、すべての心配と恐怖を無くした。もしも、助けがなかったなら、彼女はどれほどの災難に遭ってから岸に上がれたかわからない。

この機会を借り、彼女は師兄にも感謝した。面倒がらずに彼女に上師の功徳を分けてくれた。彼女が初めて寶吉祥に来た時、20年前に知り合った師兄に出会った。師兄は自ら彼女の家を訪れ、彼女に尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの数々の修行と衆生を済度した事蹟及び20年間の彼女が仏教を学んだ経験、更に彼女に尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェに出会った後の数々の改善と感想を分け与えた。それらがなければ、愚かで頑固な彼女は絶対に前の皈依師父の教法に執着してチベット佛教を受け入れることができなかっただろう。

出家者として、彼女はこの目で仏教界の乱れた状況を目にした。そして過去には彼女も乱れた状況を作る一人であった。それに彼女は深く心を痛め、穴があったら入りたいと思う。表面上、台湾の仏教は非常に盛んであるが、よく見ると、多くはただ仏教のようであるか、まったく仏法ではないものだと彼女は言う。例えば、或る団体は寄付を募って慈善事業をすることを専門にしていて、仏陀の教えが人の生死解脱を教えるものである事を忘れているか全く知らない。また、或る人は仏教を学術として研究している。或る派閥のボスは信徒を引き入れる時についでに商売したりすることもあるし、またはまったく商売だけの事もある。或る仏寺は法会を開くのは、信徒に位牌を立てるためで、それは寺廟の収入源になっている。或る出家者は俗世の欲のため、金持ちにおもねり、佛法を捻じ曲げる。或る新出家者はすぐに経懺佛事を開始し、それは純粹に生活のために行い、修道のためではない。

最も残念なこととして、比較的しっかりとした道場が、偉大な和尚が亡くなったり歳をとったりすると、新しい後継者の弟子は利益争奪戦の渦に巻き込まれ、真面目に修行したいと思っている人たちが次々に離れていく。後に残った人たちは更に多くの問題に直面する。例えば、邪師説法に会って正道を離れたり、または経済的な問題から、托鉢乞食をしたり、経懺佛事をしたり、または客観的な状況を無視して主観的に物事を行ったり、訳もわからないまま修めたりする。彼女自身は、経懺佛事、訳もわからないまま修めをしたことがある。経典によると、末法時代の衆生は佛から遠ざかり、邪師説法はごガンジス川の砂ほどに大量にあり、彼女も嘗て師兄弟が、見るからにおかしな佛法を学ぶのを見たことがあり、それで彼女はすぐに10年来居た道場を離れ、それからは人から学ぶ事ができなくなり、どの仏寺にも近づかず、自分が正邪を見分ける智慧がない事を恐れた。なぜなら、彼女は、間違った法を学ぶと無駄になるだけでなく、法身慧命を失い、初めの小さな間違いが取り返しの付かない間違いになることを知っていた。悪道に進んで苦を受けることは怖ろしい。だから彼女は慎重になり、自分で修行した。一人で修行すれば、どのような進歩もない。だから出家して20年になっても師父の指導がないので、今も彼女は煩惱と業障の深い凡夫であることを彼女は知っている。

尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会って、すべてが変わり、彼女は自力で修行しないことを決めた。何度かリンチェンドルジェ・リンポチェが信徒に接見するのを見たが,苦難を受ける衆生に加持を与え、衆生の業力因果を見抜くことができ、適切に開示したり、叱責したりして上手に衆生を仏門に導く。因果の法則に背くことには、決して感情や俗世の欲望に妥協したりしない。皈依弟子への厳しい指導、並びに最も適した因縁の時機、弟子に重い一撃を与え、弟子の無明積習を消し、重障を逆さにし、弟子の三悪道門を閉じる。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子の家庭、経済の世話をする他に、同時に弟子の家族の生老病死等の世話をして弟子の修行のための障害を取り除く。リンチェンドルジェ・リンポチェは更に弟子が非時死せず、悪道に堕ちず、淨土へ往生できる事を保証する。これらはすべて大慈悲であり、大神力であり、大智慧だからこそ、することが出来るのである。以前聞いたことがある仏を形容するのに用いる「大」字の形容詞は、すべてリンチェンドルジェ・リンポチェに用いることが出来ると彼女は言う。彼女は自分が尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの膝元で最も正しい仏法及び生死解脱の法を学習できることは幸せである。

仏門では、権力や利益の奪い合い、陰に陽に闘争する現象がある。末法時代は闘争堅固な時代なので、我々は他人が嫉妬して邪魔しないことや、貢高我慢しないことや慢心しないことを期待してはならず、そして自身がリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに着くことを望み、常に上師を戴き、上師の話を生活の中の一言、一行為にして、如何なる一起心動念の中に置くと彼女は言った。もし、何かリンチェンドルジェ・リンポチェの言論を排除したり、中傷したりすることがあったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子である我々は、リンチェンドルジェ・リンポチェの大悲心を学び、彼らの背後にある憂慮と恐れを理解し、哀れみと同情を寄せ、気にかけないことであると彼女は呼びかけた

リンチェンドルジェ・リンポチェの修行果位はすでに、教派の中で多数の社会的に名声のある大リンポチェから認められている。彼女は早くに皈依した師兄から、彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェに着いてチベットへ行った時、二名の大修行者ユンカ・リンポチェとテンジンニンマ・リンポチェは同時にリンチェンドルジェ・リンポチェに会うことを指定したと言っているのを常に聞く。この二名の教派の大修行者は、長期に人がいない山で閉關し、外部の人を入れない。リンチェンドルジェ・リンポチェに着いて同行した弟子は非常に幸福を感じた。二名の尊者の加持を得ることができ、二名の尊者の眼の色が紺青色なのを見た。それはちょうど常に念じる阿弥陀仏の紺目が四大海の説く紺目のように澄み渡っていた。更に師兄はユンカ・リンポチェが空中から佛像を取り出してリンチェンドルジェ・リンポチェに贈ったのをこの目で見た。更に120歳過ぎの老ヨギーニは、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に会ってくれるのを待っていて、すでに長時間になると言った。これらは彼女を羨ましがらせるだけで、彼女はただ自分に福報がないのを残念に思うばかりで、こんなにも遅くなってから皈依したので、これら大名士を見る機会はない。

彼女は、大きな善知識を持つ尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会えたことは多大なる幸運であると深く体感した!経典上において、それはまるで一眼の亀が浮木孔に会うほどに値するという確率であると形容している。確かにセンターには1300名余の弟子がいるが、それは生きとし生けるものの中で少数である。仮に更に別の天体と別の世界の衆生を加えたなら、我々は更に極めて少数比率で幸運にも仏と区別ない金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの膝元で正法を聞くことが出来る。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の灯台であり、灯台があることで、苦海の中の衆生はどこに行けば岸にたどり着くかを見ることができ、そして苦海から抜け出す機会を持つことができ、世の中は長い夜に陥ることがない。

経典にある以下の文字は、釋迦牟尼仏の弟子が釋迦牟尼仏に対しての思慕と感恩を表したものである。

世尊大恩 以希有事 憐憫教化 利益我等
無量億刧 誰能報者 手足供給 頭頂禮敬
一切供養 皆不能報 若以頂戴 兩肩荷負
於恒沙刧 盡心恭敬 又以美膳 無量寶衣
及諸臥具 種種湯藥 牛頭栴檀 及諸珍寶
以起塔廟 寶衣布地 如斯等事 以用供養
於恒沙刧 亦不能報 諸佛希有 無量無邊
不可思議 大神通力 無漏無為 諸法之王
能為下劣 忍於斯事 取相凡夫 隨宜為說
諸佛於法 得最自在 知諸眾生 種種欲樂
及其智力 隨我堪任 以無量喻 而為說法
隨諸眾生 宿世善根 又知成熟 未成熟者
種種籌量 分別知己 於一乘道 隨宜說三

最後に、彼女は、上師の貴体勝妙康,尊身寿命極長久,度衆事業圓滿盛を祈願し、同時に自身が生生世世生まれ、上師の大功徳の海に於いて、成仏することを望んだ。

二番目の分かち合いの出家弟子は、2013年6月に皈依した。実のところ、遡ること2011年7月に彼女は皈依しているが、当時は生死解脱の決心がつかずに、上師から離れた。彼女が初めて皈依したのは、或る師兄が阿彌陀佛無遮大超度法会に参加した時、一人の旧知に出会った。その旧知が師兄に尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会うことを紹介し、日曜日の法会に参加したことに始まる。その師兄は初めて法会に参加した時、ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが亡者のためにポワ法を修めた。亡者の安らかな顔を彼は今まで見たことがなく、彼は感動して彼女たちにリンチェンドルジェ・リンポチェに会うことを強く薦めた。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェの同意を得た後、彼女と他の師兄は法会に参加するようになった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうど《普門品》について説いていた。彼女は出家してから仏法を聞くことが少なくなっていたので、彼女の枯れた心を潤した。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法は彼女の心の悪い癖を説いていて、その症状に対する薬の処方であった。彼女たちは非常に殊勝に感じ、毎週台南から台北へ行くのも辛く感じることはなく、例え毎回台南に戻るのが夜中を過ぎても、ある時は翌日、寺の仕事をした。

そのようにして半年が過ぎ、その間、リンチェンドルジェ・リンポチェは四臂觀音を自ら伝え、毎回法会の最後には時間を取って、皈依弟子に觀想の部分を解釈したが、皈依していない者は席を外さなければならず、それは彼女の心に何とも言えない失望感を残し、早く皈依しなければならないと思った。ある時、彼らが立ち上がって出て行く時、リンチェンドルジェ・リンポチェが「あ、これでは疲れるのではないか?」と言った。彼らは彼らに対して言っているように感じ、皈依を要求するべきだと思った。皈依後、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「慧寶」という法名を与えた。彼女は下がった後、もう一人の慧寶という出家衆に、私達の名前は同じなので、どう呼ぶべきか?と言った。そして、彼女はまたも前に出てリンチェンドルジェ・リンポチェに「二人の慧寶。」を伺い立てた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「何がいけないのか!」と言った。元から、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の心が定まっておらず、更に上師に対して恭敬心、信心がないので、いつか必ず離れる事を知っていた。思った通り、それからすぐに、彼女は台南の常住寺廟の空気は良く、居住環境も良く、毎日の食も良い、またお金も受け取ることができるので諦めたくなかった。そして彼女は上師を裏切り、再び法会に参加しなくなった。

彼女は離れてから元の常住寺廟に戻り、師兄たちと連絡を断ち、師兄が電話をかけてきても受けず、非常に傲慢で不遜だった。なぜならば彼になんと言えばよいかわからなかったからである。彼女は台北と台南を往復していたその時期、或る常住師兄は彼女が常住寺廟を離れて尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して仏教を学ぶことを反対した。そして周囲はリンチェンドルジェ・リンポチェを中傷した。特に骨董店に電話をかけて騒いだり台北直貢センター総会に電話をかけ、リンチェンドルジェ・リンポチェがいるかどうか?と尋ねたりした。彼らは、リンチェンドルジェ・リンポチェは貢噶舉教派の人ではなく、直貢チェツァン法王も認めていないと言い、この常住師兄が事を大きくし、ひどい時には彼女の仏像、法写真、皈依證、法本等を焼いた。ある時、阿彌陀佛無遮大超度法会の前であったので、弟子は連続7日の夜道場へ戻って護法を修めた。彼女は毎日、高速鉄道に乗って台北に向かい、帰りはバスで帰った。常住師兄は彼女が台北に行くのを阻止するため、ジュースの中に精神安定剤を入れて彼女に飲ませた。彼女はそのことを知らずに飲んだが、彼女は護法を修めて戻り、途中眠らなかったので、彼らを驚かせた。元々、彼女の上師は大きな加持力を備え、いつでもどこでも彼女を守っている。彼女は、これらすべてのことは、彼女が精進しないので、リンチェンドルジェ・リンポチェにすべての仕打ちを受けさせることになることがわかった。彼女は自分は三昧耶戒を犯し、金剛地獄へ堕ちるべきであると思い、救いはなく、毎日恐れでビクビクしていた。そしてどうすればよいかわからず、いっその事、北上して法会に参加せず、もう台北からの電話も受けたくないと思った。

彼女は、常住寺廟に戻ってから、また安逸な日々を過ごしたが、毎日がだらけているように感じた。悩みが多く、貪嗔痴は益々高まっていき、最も基本的な五戒十善すべてを守ることができず、心の中は空虚でそわそわしていて、出家者のようではなかった。また、寺院に住む衆でも臨終の時に恐怖を感じ、四肢が散り散りになる苦しみを感じ、助けを得ることができないのを目にし、更に毎年多くの人が往生していくが、大部分が病気に苦しみ、良い最期を迎えられずにいる。そのため、彼女の法話テープがまだ回収されていなかったので、彼女はそれを聞くようになり、そして兄弟子からの電話も受け始めた。兄弟子は度々電話をかけてきて彼女にわかち合いをした。そのうち、慧陽師と游兄弟子が往生し、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修め、瑞相を目にし、彼女は非常に感動した。游兄弟子は非常に重症であったが、最後までに法会に参加することを望み、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して固い信心を持ちつづけたため、往生してすぐに、リンチェンドルジェ・リンポチェの超度を受け、非常に安詳で、静かで痛苦がなく、恐怖もなかった。比較して彼ら寺院の兄弟子とはまさに雲泥の差である。彼女は出家してから、未だかつてこのように大慈悲、大威徳、證量を備えた大修行者に出会ったことがなく、彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェだけが彼女を救ったことを知っている。

彼女と共に皈依した姉も、度々彼女と共に上師についてインド、チベット、日本へ行って法会に参加し、数々の物事や殊勝な事蹟に触れ、彼女を感動させた。その期間、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の気がかりの家族も加持した。このような上師は百千萬劫でも出会うことは難しい。初めて皈依した後の二年目、2013年2月に彼女は再び台北に向かい、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して彼女は上師の三昧耶戒に背いた事を懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に三昧耶戒を犯していない、そして犯したのは比丘尼戒の中の三寶に対してで、上師に対して不恭敬であり、先ず戒を受けた上師を探し、改めて彼女のために比丘尼戒を誦するようにと慈悲深く言った。彼女は、上師が彼女を見捨てたことがなく、改めて彼女に法身慧命を与えたことを感恩した。

最後に、彼女はやっと物欲、更に感情のこだわりを放す決心をした。そして再びリンチェンドルジェ・リンポチェに法会に参加し皈依することを求めた。彼女は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに如何なる一人の衆生も見捨てることなく、再び彼女が皈依するのを認め彼女に法號の慧續を与え、彼女の法身慧命を継続したことに感恩した。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依した出家衆を宿舍に住まわせ、衣食を与え、同時に彼らの修行が未だに功徳の芽を出さずにいて、施主に返済できずにいるので、おそらく再び輪廻すると思われ、彼らから如何なる供養も受け取らずにいて、すべての生活費用はリンチェンドルジェ・リンポチェ個人が一人で彼らを支え、完全に協会は一円の金も出していない。なぜなら、協会の会員衆は非常に多いため、もしもその内の一人が起心動念したら、彼ら出家者はまたも返済しなければならなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェも僅かの機会を作って彼女に福報を貯めさせている。彼女は顯教寺院に於いて幾らかの金を蓄えていたので、皈依の後、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養しようとしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。なぜなら、彼女の供養の心が正しくないとわかっているから。

彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェツァン法王に対してこんなにも恭敬していることを思い出し、すべての真心と命で上師を供養し、お金の多寡を考慮しない。それに引き換え、彼女は真心の供養がなく、細かい事を気にかけ、福報を計算ばかりしている。だから、二度目に供養に行った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く彼女に「これらのお金を常住寺廟に持って行き供養し、彼らに世話になったことに感恩しなさい。」と言った。上師の心は非常に細やかである。常住寺廟の金は様々な施主からのものであり、もし彼女が功徳なしに修行すると、返済することができず、おそらく彼女は修行の時に障害を生み、輪廻解脱できなくなる。上師は彼女ために周到に考えている。彼女は今生を逃したなら、どの世でこのような上師に出会えるかわからない。

彼女が知っているところ、出家者だけでなく、多くの在家兄弟子もリンチェンドルジェ・リンポチェの加護を受けている。慧陽師が往生した後、彼女の母親はすでに100歳のおばあさんであったが、ずっと尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェからの看護と加護を受けていて、漢方医におばあさんの健康を看るように指示し、同時におばあさんの生活費をケチることなくすべての支出はリンチェンドルジェ・リンポチェが別に支払うと指示した。そして黙っておばあさんを加持し、おばあさんが病苦にならないよう、常に配慮している。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは真に弟子のため全方位に包み込み、何でも包む上師であると彼女は賞賛した。

彼女の家族も、慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救度を受けた。今年9月、彼女の母親は帯状疱疹を罹患した。体の関節が非常に痛かったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持があったので、母の辛さはずいぶんと軽減された。漢方薬診療所で治療し、二三週間経たずに治った。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなかったら、彼女の母はどれほどの苦しみを受けたことだろう。比較して外衆法師の母も同じように帯状疱疹に罹ったが、半年たっても治らず、胸のあたり一面の痛みが強かった。リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めたが信心が足りず、帰ってから間もなく入院した。

毎週土曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェが信徒に接見するのを見て、彼女はいつも感動で涙が溢れ出る。リンチェンドルジェ・リンポチェは平等にすべての衆生に対している。信徒は恭敬心、懺悔の心を持ちさえすれば、体の悩み、心の悩み、どのレベルの悩みでもすべて解決することが出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは各人の因果と業力を熟知していて、ある時には諭し導き、ある時には慈悲深く導き、ある時は厳しく叱責し、ある時は大いに笑い、ある時は怒って怒鳴る。大慈悲の心はいつも衆生が因を知って果を達し、二度と同じ業を作って同じ果報を受けず、徹底して根本から苦の因を引き抜くことを望んでいる。彼女は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこの世の真の大医王であると賞賛した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、確かに人のために病痛を軽くして苦しみを引き抜く能力を持っているが、自分をひけらかすことなく、ただこの種の因縁を借りて多くの人を仏門に引き入れている。大慈大悲はいつも、衆生に近視眼的に利益だけを求めず、ただ眼前の苦難と病痛を取り除くことだけを求めず、自己の業報を引き受けようとせず、修行することなくただ加護を求めることをせず、衆生が心から業障を懺悔し、徹底して発心修行し、生死輪迴を解脱する事を望んでいる。

何という幸せであろう!今生において、一人の仏と違わない上師に出会うことができた。我々は、幸いにもリンチェンドルジェ・リンポチェの法船に乗り込むことができたが、苦海の中には依怙がない千万の衆生がいることに思いを寄せる。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは間違いなく更に気苦労や骨折りをすることだろう。これも我々が微力ながら精一杯頑張る時、上師の教えを日常生活の中で実践し、上師に我々のことで心配をかけないようにして、更に多くのパワーで衆生を利益出来るようにする。そして、一致団結し、協会の事も力を合わせて完成させ、センターを踏み固める。リンチェンドルジェ・リンポチェは更に多くの衆生を利益することが出来る。尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体安康、法輪常轉、事業旗幟の圓滿興隆を祈願する。

三番目の分かち合いの出家衆弟子は、上師から彼女が上師の恩徳を賜ったことを報告する機会を与えられたことに感恩した。

先ず、皆の知るとおり、教派の今日の興隆は、尊勝なる直貢チェツァン法王、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェ及び多くの人々が十数年、二十年間、困難に耐え、苦労して開拓した成果であると彼女は述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、その特殊な在家身分及び個人の特別に巨大な慈悲心、菩提願心によって、いつでも教派の経済的重責を後に退かずに背負っている。或る時は手元にお金がない。それでもリンチェンドルジェ・リンポチェは数百万の布施を了承する。彼女は問う。誰がそれを出来ると言うのか?この種の心量、信心と情熱的なパワーに拠って、教派を今日の局面にまで大きくした。しかしながら、物事一つ一つが完成すると、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも黙って裏方を務めて、一貫して控えめで、忍耐心を持ち、自己を犠牲にして、大修行者となる。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と比類なき菩提心は、衆生を見捨てることなく、完全に大菩薩捨身救人の大無畏精神を堅持し、長きに亘って黙って一切を受け入れる。

直貢噶舉教派800年の伝承は、このように清浄に途切れることなく維持されてきたのは、非常に稀有なことであり、今日、それを途切れることなく継続し、且つ清淨に汚染されることなく伝承していくことは弟子の責任であり、上師の最も重要な考えである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仏法を弘める故が、尊勝なる直貢チェツァン法王から認めを賜ったのお陰様で、その上、寶吉祥仏法センターをスムーズに運営できき、祖師ジッテン・サムゴン及びアキ護法の加護と加持できたと言ったことがある。直貢チェツァン法王も早くに尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが如何なる善縁のところでも運に任せて行き、自在でないものはないように授記した。リンチェンドルジェ・リンポチェは珍貴な仏法及び悲空雙運の菩提心を開示し、今までも或る場所や或る特定の対象の施設に制限することなく、このように空性と呼応し、何処にでも存在し、何処にでも留まる。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去からずっと変わらずに最も厳しい態度で正信仏法を弘め、衆生教化を堅持し、俗世の欲望のために妥協せず、弟子の数をむやみに増やしたりしない。

続いて彼女は言った。出席している弟子の中の多くは上師がいないと生きていることができない者であり、多くは、上師の加持がないと、おそらく家庭、事業、生命財産すべてが危険となり、残るものは僅かになる。誰もが皆上師の恩澤を受けているのだから、決して恩返しの機会を逃してはならない。今、弟子たちは一致団結し、心を一つにして、上師の悲願をミッションと心して、上師がいなければ仏法がないと言うことを永遠に覚えておき、各拠点に於いて更に基礎を固める努力をし、それぞれが良い役を演じる努力が必要で、それによって上師の仏法事業が成就する。そして、上師の広大な功徳大海の中で生死輪廻の苦海から逃れる資糧を貯めることができる。

最後に、彼女は尊貴なる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが、直貢チェツァン法王自らが賜った祖師ジッテン・サムゴンの名である「寶吉祥」を名称とし、古佛示現の維摩詰居士のように、現代の仏教界で異彩を放つことを祈願した。

尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に上がり、大衆に向けて珍貴なる仏法の開示を与えた。

今週は第11週なので六字大明咒を持誦する。今日、開示する佛法を、あなた方は理解できるだけ聞けば良い。あなた方の根器では、それほど理解できないと思う。しかし、この因縁を利用して話そうと思う。台湾で多くの人は、釋迦牟尼仏は密法を教えたことがないと言い、また多くの人が多数の論文や著作を記し、多くの歴史的背景から釋迦牟尼佛は密法を教えたことがなく、密法はインド教、バラモン教に沿って生まれたものだと言う。チベット伝承四大教派の如何なる本尊の法本も必ず「皈依発心」を唱え、続いて「四無量心」を唱える。どの法本でもすべて同じである。

「四無量心」は慈悲喜捨を修めるもので、理論上多くの解釈があるが、真の作用は何なのか?もしも、慈悲喜捨がただ単純に菩薩道を修めるためのものならば、どの法本の前にも必ずこの部分が載るはずはない。リンチェンドルジェ・リンポチェの上師も、なぜ「四無量心」を唱えるのかを解釈したことがない。あなた方は《金剛經》を唱えたことがあり、経の中で無人相、無衆生相、無壽者相、無我相を提示しているが、どのように「無」にするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仏學院の出家弟子に尋ねたところ、仏學院は必ず、《金剛經》と言い、釋迦牟尼仏は経の中で、何度もこの四相を口にした。出家弟子は言った。仏學院にいた時、こんなに深く話したことはなく、ただ我執を突き抜けるためであると知っていただけで、どのように我執を突き抜けるのかは知らなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示した。その実、多くの経典には菩薩道を行うには、必ず無我、無壽者相、無衆生相、無人相にならなければならないと提示している。しかし、一体どのようにするのか?多くの法師と上師は何も言わず、ただ慈悲法門は諸仏菩薩の感応を修めないので、理論基礎が何処から出現するのか分からないとだけ言う。二日前、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏經を読んでいる時一箇所をめくった。リンチェンドルジェ・リンポチェは他の人と違い、仏經を見る時は手の思うままにページをめくる。釋迦牟尼佛は法を49年説いたので、もしも始めから最後まで見ても見つけ出せないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは縁のままであり、自分がどの境地まで修めるのか、諸仏は上師となって意見を与える。けれどもそれはあなた方を指しているのではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは中国人であり、尊勝なる直貢チェツァン法王はチベット人であるからかもしれない。直貢チェツァン法王は中国語を話せるが、中国語を学んだのは文革時代であった。当時の言葉の含意は台湾で学んだのと違ったかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも直貢チェツァン法王の通訳官を担当しているが、自分の中国語はそれほど上手なわけではない。しかし、少なくとも台湾で30数年暮らしているので、言葉の含意はつかむことができている。それでいつも直貢チェツァン法王の通訳官を担当する。なぜなら直貢チェツァン法王は時に、第三者の話を即座に理解することができないことがあるから。いくらかのリンチェンドルジェ・リンポチェの境界は、たとえ直貢チェツァン法王にお尋ねした時でも、直貢チェツァン法王ははっきりとした意義を余り言えない。なぜなら、以前に学んだチベット文から中国語に通訳しなければならないから。名相はよく使用するのを除き、すぐに説明するのは難しい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は慈悲喜捨を修めたとはっきり言えるし、自分は四相方面に於いてある程度突き抜けた事を知っている。なぜなら、もし四相を抜けていいなければ、衆生を助けるたことは不可能であるから。いわゆる能力とは、福があるから能力があるのではなく、智慧も必要とする。智慧の根本は何処から来るのか?即ち、この四相を抜けるから、空性に対してある種の体得が出来るのであり、それを使うことができ、そして衆生を助けることが出来る。簡単に言うと、もしも空性を証することができないのなら、亡者の側で超度することは出来るはずもなく、今でも亡者の梵穴で洞を開けているだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた方に何を修めるのか、何をすれば四相を突破出来るのかを、ずっとひとつの根拠を探している。なぜなら、自分がずっとしていることを知っていて、自分が進歩していることも知っているから。おそらくリンチェンドルジェ・リンポチェは、今回日本で本尊を修めた時、発願したからだと思う。そして戻ってきてリンチェンドルジェ・リンポチェは《寶積經》の中の一段を見た。もし菩薩が慈行を行えば、無我相ができる。悲の行動ができれば、無衆生相ができる。喜の行動ができれば、無壽者相ができる。捨の行為ができれば、無人相ができる。

だから、もし、チベット仏教は仏が説いたものではないと批判するのなら、それは正確ではない。なぜなら、チベット仏教は毎日、慈悲喜捨を念じている。なぜ、慈悲喜捨がこの四相を突き抜けることが出来るのか?本日、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを簡単に開示する。もし、真に話せば、一切の経論を以って話しても話終わらない。

第一に、慈行は無我相になることができる。慈を行うとは何なのか?つまり、自分の良い物を衆生の悪い物と交換することである。良い物は財物や思想ではなく、定説はそのようではなく、無縁大慈に基づく。無縁は縁がないのではなく、無の定義は空性であり、ブッダによると、縁生とは縁滅であり、縁起は即ち生であり、縁盡は即ち滅であるが、縁は自然にあるのではなく、因があって生まれる。いわゆる無縁とは、菩薩があなたと縁がないからあなたを済度するのではなく、仏菩薩は元々心が動かなくても誰かを済度し、縁起を行うが、心は動いたことがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ここであなた方にわかりやすい例を挙げよう。例えば、我々は車に乗っている。高速道路で車を運転する時、人は動かなくても車は動いているので、道路の周りの木はずっと後ろ向きに走っている。しかし、木は動かない。どうして動いているように感じるのか?なぜなら車が動いているからで、車がちょうど我々の眼耳鼻舌身意のようなもので、それが外に触れたように感じて動いているように感じる。しかし、本体は動いていない。あなた方は少しその感覚が理解できたと思う。

無縁大慈は、佛菩薩の心が動いてないことを指し、ただ因縁法だけである。だから行者が慈を修めてその行為が表れると、その主観体のわたしは存在しなくなる。なぜ、わたしが必要なくなるのか?もしあなたは「わたし」が経を詠み、「わたし」が佛を拝み、「わたし」が業障を消し、「わたし」が病気を直すと思うのなら、それは「わたし」の存在は慈ではない。なぜなら自分が良い事を期待しているから。慈の定義は他人が良い事や衆生が良い事を期待することであり、自分が良い事を期待するものではない。所謂良い物を悪い物と交換するということは、自分のすべての珍貴であると考える物を衆生の悪い物と交換する事である。このようにできない人は、即ち慈がない。空性を理解できない人は慈を修めることができない。だから慈と空性の雙運は、雙運だが2つ一度に用いるのではなく、同時間に発生するものである。

もしも無縁大慈を理解できないのなら、一切の動作はすべて表面的であり、漏れの善であり、それはあなたを輪廻させる善の業力である。理解し、空性を体得してやっと一切の衆生にどんなに遠くても助けることが出来る。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは数千キロ離れたところから、ポワ法を修めることが出来るのか?それはわたしの存在がないからである。わたしの存在がないということは空間の存在がないということである。空間の存在がないと、慈のパワーが表れる。空間がなく、わたしの存在がなく、一切は他であり、他はあなたのものであるので、事を変えることが出来るのである。更にもう少し深く説明すると、もしも科学から言うと、すべての物質の組成はすべて小さい小さいquarkからできていて、小さい単位がこのような多くの物を生み出し、本体は同じであり、変わらない。

だから我々の行為が大慈ならば、「わたし」は消え、空性になり、ただのひとつの名詞になり、それは個体ではない。「わたし」が名詞になった時、衆生はすべて同じなる。もし、あなたが自分は念じている、拝んでいると思うのなら、衆生の中にいない。そして佛菩薩は毎日衆生の加持力を加持しても、あなたの分はない。なぜならあなた自分で念じていて、衆生ではないから。これは簡単に言うと、もしも衆生について言うのなら、当然六道等々はあり、たったの一日で輪廻解脱はせず、やはり衆生のままである。もし自分が修めているので衆生ではないと思うのなら、「わたし」の存在があり、衆生と一体ではないので、自分を衆生との間に境を作る。慈を行うことが出来る人が無我になることが出来る。

なぜ悲は無衆生相になるのか?四無量心によると、一切の衆生は具楽及び楽因を願う。具楽及び楽因とは何か?即ち、彼に引き続き悪因を作らないようにさせることで、善因を貯めことで、その条件が備わる。彼の具楽及び楽因を助けるには多くのいわゆる良い物で交換する。たとえば、リンチェンドルジェ・リンポチェは土曜日に信徒に接見する。それは自分の体力、時間及び多くの物と交換することである。ひどい時には人に殴られる危険があるし、悪霊を取りつかれた人や精神病者がやってくることもある。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでも彼らを助ける。このようにすることで、彼の具楽及び楽因を助ける。

悲の定義は衆生が輪迴苦海から抜け出すのを助けることである。最も苦しいのは、世間の苦ではなく、輪迴の苦である。だから、我々は衆生が一切の輪迴の因を消すことを助ける必要がある。衆生を苦因から離脱させるのは、口で言うのではなく、彼を引き出す能力が必要である。例えば、或る人が不注意で目を閉じたまま道路を渡ろうとしたとする。もしもあなたに体力があったなら、どうやって彼を引き戻すのだろうか?引き出す力が必要である。なぜ彼を引き戻さなければならないと感じるのか?良い事をするのではなく、一瞬で彼がぶつかるとあなたは感じる。彼がぶつかれば、あなたは自分がぶつけられたと感じる。だから手が自然と彼を引き出すのだ。もしもそれがあなたの息子であったなら、あなたはすぐに引っ張るだろう。しかし、もしも別人であったなら、あなたは先ず口を押さえて大声で叫ぶだろう。もしも、その人があなたの夫であったなら、あなたはやはりすぐに引っ張るだろう。なぜなら夫は同体であると思うから、手は自然と伸びる。息子でも手は伸びる。しかし、別人ならば口で叫ぶだけである。なぜ手は動かないのか?なぜなら自分とは無関係で自分の家族でないと思うからである。万一、彼を引っ張りだして反対に彼に引っ張られたらどうするのか?なぜ、息子や夫ならば引っ張れるのか?なぜなら、彼らはあなたが管理できる人だからである。このように解釈することで、あなた方は理解することが出来る。出家者はこのような感覚を理解し難い。もしも、母親が道路を渡ろうとする人ならば、あなた方は理解することが出来る。自分の母親は引っ張ることが出来る。それがもしも他人の母親ならば叫んでから引っ張る。

だから、我々がおおよその大悲を理解するには、すべての衆生の本体は同じで、分けない。衆生が苦海から離れて抜けだすと、あなた自身も衆生であり、衆生と同体である。もし、あなたが輪迴苦海から離れることを決心できないなら、何を以って引っ張ることが出来るというのか?先ほど開示したとおり、もし体力がないなら、どうして引っ張ることが出来るのか?また、もしも眷屬が100キロを超えるなら引き上げることができない。だから眷屬には太らせてはいけないし、必ず減量させなければならない。子供がもしも太っていたなら引き上げることができない。この意味は、あなたは彼よりも功力を多くもたなければならず、それは即ち生死解脱の決心をすることで、更にその方向に向かって事をすることで、衆生が苦海を離れて離脱することが出来る。

なぜなら自分も衆生の中にいるので、生死解脱の法門を修め、同時間に体内のすべての衆生もあなたと共に修めるが、癌細胞に修めさせるのではなく、癌細胞があなたに痛みを与えないようにして、あなたを許すようにする。あなたの癌細胞がもし輪廻から離脱しないのなら、どうやってあなたを許すというのか?だから、もし我々が悲の行為を理解したなら、自然と衆生の相を抜け出す。衆生の相を抜けるのに足りず、衆生に永恆の喜を与える。

いわゆる衆生に不離無苦の妙楽にさせることの定義は即ち衆生の成佛を助け、衆生を不生不滅の境地に至らせる。「妙楽」のこの二文字は密法のことであるため、公に話すことができない。禅を学んだことがある人ならば、「輕安」の二文字を知っていると思う。「軽安」は妙楽の前の始めの二段階のことであり、軽安を感じることができたなら、妙楽を修める機会がある。衆生に不離無苦の妙楽にさせるには、衆生が成佛するまでずっと助け続けなければならない。衆生が成佛するまで助けることで、無苦の妙楽を離れることが出来る。衆生が成佛するのを助けるのに、時間で計算することはできない。もし、人類の時間に当てはめて言うと、三大阿僧祇劫でやっと尊佛が現れる。これは非常に長い時間である。しかしながら、慈と悲ができたなら、自然に空性が発生し、時間は存在しない。時間はあなたが作り出したものにすぎない。多くの人は、無壽者相の「壽」は寿命だと思っているが、実のところ、それは人が創りだした時間である。

だから佛はいつも宇宙の時間をなんと言っているか?例えば、天界の一日は地球の500年に等しく、地獄の1日は地球の数百年に等しい。それは寿命というもので人が体感する感覚である。なぜなら、古代には光速、音速がなかった。今は光年と言う。もしも古代の人が人と光年について話すなら、人は言っていることが理解できないだろう。もちろん、寿命について話せば体感できるが、いわゆる500年の壽であるため、無壽者相の「壽」は時間の意味である。

あなた方はこのような解釈を聞いたことがない。佛経は智慧を以ってやっと読んでわかるようになる。当時、佛は絶対に光年について話さなかった。なぜなら、当時このような科学用語はなかったからで、今でも佛と相談するのに光年を用いる。しかし、佛は今はいないので改めることができない。壽者が相互に示すのは、人が定めた時間である。どのようにすれば時間の区別が生まれないようにできるのか?心と行為は衆生が成佛するのを助け、その時間は存在しない。なぜ存在しないのか?簡単だ。それはちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に代わってポワ法を修めるのに、インドから台湾までの時差は4時間あるが、時差があると思っても、その唸咒語4時間経たないと届かないのか?そんなはずがない。なぜすぐに届くのか?それは無壽者相なので、時間の区別がないのだ。

地球の時間は,人心が動くのであり、もし人心が動かないのなら時間はない。例えば日本と台湾には時差が、1時間があるが、リンチェンドルジェ・リンポチェが日本でポワ法を修めると、1時間早いのだから、1時間後に台湾に届くのか?いや、そうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが唸咒するとすぐにOKとなる。それは前の三相はすでにないので、ポワ法は成功するのだ。

最後に人相を抜けることについて、人相の定義には対象があり、それは彼がいる、あなたがいると思うことである。どうやってこの相を抜けるのか?それは即ち、捨である。捨は布施のように簡単ではなく、一切の衆生が愛憎を離れ平等捨を常住することを願う。我々の最大の問題はこれが好きで、あれは好きでないというように、一生の悩みはすべてここからやってくる。来週の選挙も含め、この悩みからやってくる。我々は或る人を好きか嫌いかではなく、彼の行為がそのところに適しているか否かを見なければならない。もしも行為に不適当なところがあったり、英語が流暢でなかったりするのならば、皆は考えてみよう。なんであれ、ここは国際都市なのだから、行政の長は多くの人と接触する機会がある。当然、通訳者を使うこともできるが、少なくとも相手の言葉がわかる必要がある。

だから、もし我々が慈悲喜捨の中で「捨」の行為を修めないのならば、人の相は抜けられず、それは即ち自分が彼を助けると思い、三輪体空の布施はなくなる。いわゆる一切の平等を常住して捨て去ることは我々が一切輪迴の行為をすべて愛これと恨のそれから来ているからである。あなたが今生で死にきれないほどの愛や恨みがなく、二度と繰り返さないのなら、ずっと前に淨土にいるだろう。

愛と恨は対人、対物で起こるとは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前一人の女の子を助けたことがある。彼女は非常に端正で、古琴を習っていた。しかし、突然に精神に問題が起こった。多くの人は見ても分からない。その後、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに出会った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に古い古琴を持っているか?と尋ねた。彼女は持っていると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に古琴を持つようになってから、精神がぼんやりするようになったのではないか?と尋ねた。彼女はそうだと言った。これはつまり、古琴の前の持ち主の霊が取り憑いているのだ。古琴を非常に愛していて時機が来ていないのに死ななければならなかった。だから、骨董を買ったり、質屋で安い装飾品を買ったりするのは注意が必要だ。この世に安い物はない、どこにあると言うのか?しかし、おかしなことに、ここの人たちは値段を聞いて安ければば良いと思い、儲けたと思う。金を稼ぐのがそんなに簡単だと思うのか?

慈悲喜捨この四つの行為が出来るようになったなら、この四つの相は突き抜けられる。この四つの相を突き抜けると、真に空性の慈悲に入ることが出来る。空性の慈悲を持つと、真の菩提をすること出来る。もし空性の慈悲がなければ、ただ口で唱えたり、発願したりするだけである。法本最終面の祈願文は菩提心を提示している。もし菩提心の生起がないならば、あなたの代わりに菩提心を生起し、ずっとそれを続ける。それは上師の仕事である。歴代の上師は皆弟子に代わってそれをしてきた。なぜなら菩提心がないと、絶対に成就できないからである。

佛法は見たところ奥が深い。しかし因縁が揃わないと、たとえ上師があなたに説いてもあなたは何を言っているのが理解できない。因縁が揃えば、境地は眼前となり、あなたは聞いてわかる機会を得る。拠って、法本の前ページの皈依発心と四無量心は、チベット佛教では前行である。修法の前、前行は非常に大切である。前行は即ち、動機と願であり、もしこの二つのツールが欠けたなら、例え如何なる佛号や咒語を一億万回または十億万回唱えても意味がなく、ただ或る人は世間の人天福報を貯めることができるだけで、来世に用いることはできないし、今世でも用いることができない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、正統な佛學院や出家の道には進んでいないが、おそらく生生世世収めてきた業力があり、自らの因縁で佛経の中から、必要な境地と方向を見つけ出した。《寶積經》は、祖師ジッテン・サムゴンがすべて著作した根本であり、多くの論と思想はすべて《寶積經》に基づく。《寶積經》は主に二つのことを教える。ひとつは中観であり、もう一つは菩薩になる身口意である。確かに我々は大乘佛法、金剛乘佛法を学ぶと言っているが、それは一般の拝む事や加護してもらう気持ちとは異なる。たとえ、あなたは今日、できなくても、リンチェンドルジェ・リンポチェが何を言っているのかさっぱりわからなくても、少なくとも加護を願ったり、健康を願ったりする気持ちで仏教を学んではいけない。それはあなたにとって意味がない。それが納得できなければ、早く別の道場に行ったほうが良い。

なぜ、意味が無いのか?佛が説いた方法をしない、聞かないのに、あなたは意味があると言うのか?当然ないのである。今世では生生世世の業力を処理することができないので、またやってくる。それは来世の事だと思ってはいけないし、今世のことを処理できてから考えるべきだ。もし、このような考えがあるのなら、全くの間違いである。なぜなら、もし今世で生生世世の事情を解決できなかったら、来世でたとえ人天福報があっても、業力もあり、善悪が混じり、ちょうどあなた方の今世のようである。物心がついてから今日までそうではなかったか?堕ちる時には深く、上がるのは僅かではないか?

あなた方は何事も無いことは良いと思っている。親族はあなたを愛し、子供はいうことをよく聞くと思っている。ある日、病気になると、怨が始まる。一人が病気した時、それは累世の福がほぼ使い終わったことを意味する。今世では先ず病み始める。病気が始まった時、仏教を学ぶ人のように病気を用いて修行するのでなければ、病気があなたを三悪道に落とし入れる。なぜならあなたはすべての方法を用いてその病気に対処しようとするから。ある人達は皈依して数十年後に病気になると、人は彼にあれを食べろ、これを食べろと言う。良くなった後、後悔し、体を修行する。このような話をあなた方も聞いたことがあるだろう。なぜそのようにするのか?即ち、慈悲喜捨を修めないから、生死解脱を決心しない。

慈悲喜捨を修める人の人生観は消極的、悲観的でなく断念することではない。そして更に積極的に自分の一生涯を利用して衆生の業力を動かす。なぜなら、自分も衆生であるから。各人が動き始めれば、わずかでも幾らかの人に影響を与える。我々は今世で一人でも仏教を学ぶ決心させるよう影響を与えることが出来る。たったひとりできれば、その人は別の人に影響を与えることができ、影響力は大きい。いわゆる影響とは、毎日ブツブツ念じることではなく、人が佛法を必要とする時に現れて彼を助けることである。我々名利に執着せずに佛法を弘法し、ただ佛の真実を皆に知らせることを望んでいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、その日、《寶積經》の中の一段を読み、諸佛菩薩の慈悲に非常に感嘆した。時間が来た。出家弟子が多いので、経論を説く事に多くの時間を割かなければならず、さもなければ言わないほうがよく、在家に聞かせる必要もない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に素晴らしいので、彼らは必ず信じる。もし、一分の出家者が聞かないのなら、彼ら自分が学んでいないと思う。なぜ多くの場所では《寶積經》の中のこの部分を話さないのか?なぜなら《寶積經》で福報を得た人を見ていないから。菩薩道を学ばないのなら、半分は読むことができず、読み進めることができない。なぜなら中の全ては空性と中観を説いていて、言っていることは、左はいけない、右はいけない、真ん中もいけないと言っていて、それではどこなのか?すべてがこれらを説いていて、あなた方は見ても理解できず、こんなに分厚い経がそれらについて説いている。何度も菩薩道を学ぶ事、菩薩道を行うのに必ずしなければならない事について何度も重ねて説明していて、聲聞縁覺を修めた阿羅漢よりもずっと多いと説いている。

聲聞縁覺は、《阿含経》と《雜阿含経》に基づく。しかし、この二つの経も多くの世間の事について説いていて、経文は大量であり、すべて読むこと、目を通すことで広学を表すのか?それは正確ではない。もし、各経文を読んだから衆生を助けたのなら、それは広学、博聞である。しかし、もし自分の好奇心と学究心を満足させるために読むのなら、それは廣聞多學と言わない。リンチェンドルジェ・リンポチェが他の人と違うのは、修めた程度であり、経典と上師が説くことを以って自分ができたかどうかを認証する。各段階はすべて佛経の中に答えを見つけることが出来る。それはリンチェンドルジェ・リンポチェの発明ではなく、すべて佛経が説いたことである。

本日の開示は、四無量心を念じることは、つまらないことや法本の順序にすぎないことではなく、菩薩道を修めるのに非常に重要な手立てであることを皆に知らせることだ。ただ願力を発し続ければ、遅かれ早かれ或る日その行為はできるようになる。その行為を行うには、ただ考えるだけではなく、多くの装備が必要だ。五戒十善、六波羅蜜等々のように。それらの装備を行うことで、すべての持咒が自利利他となる。もしそれらの条件が整わなければ、自己を自利する人天福報ができるだけで、生生世世の自己が貯めた善悪業を変えることはできない。

拠って、これができるようになるため、今回は一億回の六字大明咒を念じ、あなた方に代わって資糧を貯める。もし、寶吉祥佛法センターが一億回の六字大明咒を念じていないのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一段を見ることがなかったかもしれない。観音菩薩は菩薩道を行う大菩薩であり、我々に慈悲喜捨、破四相を修めることを必ず要求する。或る弟子は一日中、間違いをする。彼女は二つの博士号を持っていて、自分の頭は人よりも良いと思っている。だから彼女は仏教を学ばず、毎日、リンチェンドルジェ・リンポチェによって間違いを指摘される。人が間違いを犯すのは、自我観念が重すぎるからだ。

その実、慈悲喜捨は生活の中で用いることが出来る。もし、あなたが佛陀が教えた方法に従い、「わたし」の観念が減っていたなら、会社が定めた規則通りに事ができ、会社を前提にして会社のために働くことができ、それならば間違いなどすることがあるだろうか?間違いをするのは、自分の立場を考えるからだ。佛法は見たところ修行のためにしているが、実のところ地球では一分一秒常に業を作っている。それは善業ではなく、悪業である。佛法の基礎に基づくだけで、我々は自分が何をするべきか判断がつけられる。さもないと、あの弟子のように起心動念で自分は最も素晴らしく、自分は二つの博士号を持ち、勉強しに戻ってきた。だからわからないはずがないと思い、しかし、おかしなことに、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日、彼女の間違いを引っ張りだす。リンチェンドルジェ・リンポチェはいわゆる二博士号の人を捕まえ、博士号ひとつの人は捕まえない。なぜなら彼女は二つ持っていることを自慢し傲慢であるから。人は傲慢になると、世間法でさえ問題を起こす。

我々は佛法を用いて自分を助け世間法の中で多くの面倒を減らす。我々は面倒を恐れるのではなく、自分と他人が新しい面倒を作るのを恐れるのだ。だから、もし慈悲喜捨を修めないなら、絶対に具楽と楽因を衆生に上げられず、絶対に具苦と苦因を衆生に与え、それが即ち、あなた方がいつもしている方法である。慈悲喜捨を証することができ、さきほど出家弟子が法会前にリンチェンドルジェ・リンポチェの心が非常に細やかであることを分かち合ったが、彼女の供養を受け取らなかった。供養を受け取らないのは、彼女の供養金源のせいではなく、彼女が他人や住人の物を食べ、返さなければならず、そこで稼いだお金はそこで返さなければならないからである。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェの心が繊細でなければ、彼女が供養を出すのを良いと思い、彼女に代わって福田の種を植えるだろう。しかし、福田はリンチェンドルジェ・リンポチェの体に種を植える必要がなく、どの場所でも福田の種は植えられる。

慈悲喜捨を修めないと、自然と「わたし」の念は重くなり、人があなたを世話するべきだと思うようになり、あなたは病気になり、可哀想になり、一人で暮らし、姉はいつもあなたを世話にしに来ないと思う。しかし、なぜだかあなたの病気は自分が引き出したもので、あなたのお姉さんと何の関係があると言うのだろうか?あなたの姉があなたの世話をするのは、彼女が仏教を学んでいるからであって、彼女は必ずあなたを世話しなければならないわけではない。昨日、或る信徒がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。跪いて悲しそうに自分はシングルマザーだと言った。結果リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに「シングルマザーは絶対に可哀想なのか?私はシングルファザーになったことがある。必ずシングルマザーを救い、シングルファザーは救わなくてもいいのか?」と責めた。彼女は跪いて脅して強く求めるのに、どこが可哀想なのか?それはすべて自分の業だ。片親家庭は悪いという現在の世論が大嫌いだ。何が悪いと言うのか?現在の流行ではないか!現在、全世界にどれだけの片親がいると思っているのか?

もしも、あなたが片親を可愛そうだと思い、子供も可愛そうだと思うなら、学校ではあなたは異色のものになる。仏教を学ぶ人なら、それは業力だとはっきりわかる。子供の運命が良いのなら、そのような家に生まれない。子供にその業がないのなら、どうして片親の家にやって来たのか?両親が揃っているのは良いとは限らない。なぜなら片親なら叩くのは一人だが、両親なら二人が叩く。だから誰が良くて誰が悪いかはわからない。しかし、脅して強く求めることはしてはいけない。あの信徒は跪いて泣き、自分はシングルマザーだと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェにできるだけ早く彼女の手に代わってリハビリしなければならない、それでやっと子供の世話ができると言う。

問題はどこにあるのか?それは即ち慈悲喜捨である。慈悲は必ずだが、一切の因果と因縁から外れてはいけない。なぜ佛菩薩は懺悔心を求めるのか?もし懺悔心がなかったら、あなたは如何なる果報も受けないということを表す。如何なる果報も受けないとしたからには仏教を学ぶ事で得る良い果報を受ける資格があるだろうか?あなたは愛憎を遠ざけて平等捨を住まわせる心がないのだから。ただ良いとか悪いとかだけでは何もない。永遠に分別心がない。永遠に分別心がない人は慈悲を学ぶ事ができない。慈悲を学ぶことができなければ、当然佛法と関係がない。慈悲を修めることがないと、当然佛が説いた空性の本質を体得する能力を持つ機会もない。

佛法の困難はどこにあるのか?人類数千年の経験法則に違うからである。あなたは彼に自分のことだけ考えてはいけないと言う。すると彼は一言答える。「自分のことばかり考えて、他人のことを思いやらないと、天と地がその人を滅ぼす」。リンチェンドルジェ・リンポチェが1995年、衆生を利益した時、或る人が言った。「なんてバカなんだ!お金を取らないなんて。」リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にお金を取っていなかった。だから自分にもお金がなく、歩くにも人に助けてもらい、一杯の水さえ飲まなかった。なぜなら自分には福報がなかったから。

慈悲喜捨を修めない人は佛法において、永遠に素人である。《金剛経》では特に四相を抜けるか、もしくはその日の佛の時間が十分であることを提示している。だから後は言わずに、《寶積経》の中で提示している。巷で《寶積経》という経を説く人は非常に少ないし、聞ける人も少ない。なぜなら内容が人にはできない事なので、見ただけでしまってしまう。特に歴史的にも《寶積経》を努力して弘めておらず、多くは《華嚴経》、《大般若経》等々を弘めている。これはちょうど、博士でありながら、自分の思想がはっきりしていないので、読み続けることができないのと同じである。

今日、あなた方が菩薩道を修めると決めるどうかに関わらず、それでもリンチェンドルジェ・リンポチェが弘揚するのは、大乘と金剛乘の佛法なので、あなた方に基本理論を話す。あなた方がどれだけ吸收、理解できるかについてだが、それは真にあなた方の縁、福報と自分が上師と諸佛菩薩に対する信心に依る。もしもないのなら、佛が説いたことは誰でも方法があり、いつか出来るものだと言うことを体得するのは難しい。もしも時間を基準にするのなら、あなたは失望するだろう。ある人達は発願10年以内に何法を修めると思っているのと同じに。なぜなら仏教を学ぶのは、生生世世の事であり、最も大切なのは、今世ですべての業力を処理できたなら、往生する時に痛苦を感じない。

なぜ多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに会った後、この世を去る前の痛苦を感じないのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェがその人の業力を押さえこみ、累世の冤親債主等を超度した時共に去るので、彼を懲らしめることがない。なぜ、多くの人はこの世を去る時にこんなにも痛苦を感じるのか?それは業力を押さえることができず、押さえる方法もない。なぜなら善の力が足りないから。押さえ込めないと彼を苦しめ、彼が事切れる前に念頭に集中させず、念頭は逃げると無くなってしまう。いわゆる念頭の一念、二念、三念は、平時の訓練の中にある。もし、自分の身体に対してこだわり、人に対して恨みを持つと、その人が去る前、業力は必ず眼前に現れる。上師を信じる必要があるのは、上師があなたを助ける、あなたを連れて行くと信じることが出来れば、痛苦は自然と減るからである。あなたがそのような念頭を持つので、冤親債主もそれを感じ取り、上師が来るのを待つことができ、それが例え4時間であったとしても、すぐに時間は経つ。

佛法の観念からみると、修行上の経験がないと、佛経の解釈をはっきり理解するのは困難である。いわゆる経験が指すのは、行者の生活での経過であり、更に世間での様々な苦を味わう事である。苦しみを味わうと、衆生の苦は自分と同じだと体得できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは離婚したことがあり、シングルファザーになったことがある。なので、このような気持ちがはっきりわかる。離婚したことがない者はいくら言ってもだめだ。あの信徒は泣きながら自分はシングルマザーだと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを見て笑止千万と思った。なぜなら、自分もシングルファザーになったことがあるが、泣いたりはしなかった。なぜならそれは自分の責任であると知っていたからである。シングルマザーであれ、シングルファザーであれ、全てはあなたの責任であり、責任を背負ったならば、当然自分で責任を負わなければならない。なぜ泣くのか?あなたがシングルマザーだと、あなたに親切になるのか?あなたは責任を背負い、訴訟をおこす等々の責任は最後まで負うものであり、自分は片親だから可哀想だと思うものではない。

もし、片親が可哀想ならば、さっさと責任を下ろしたら良い。しかし、10人の離婚した女性のうち9人は皆、良い母親になり、子供を自分のように惨めにしないと言う。しかし、1、2年は何もなくても、三年目には先にわかっていたなら子供を連れてくるのではなかった、そうすれば再婚できたと後悔する。そのように思ってはいけない。自分のしたことは自分で責任を取らなければならないのだ。結婚するかどうかはあなたの事で、子供のことではない。或る人は、子供が片親家庭では可哀想だから、再婚すると言う。再婚して2、3年後に子供に、継母、継父が子供を傷つけないように離婚すると言う。結果、全ては子供の責任になる。

これらの話をあなた方は聞いたことがあるだろう。親戚友人が尋ねると、その人は「子供が可哀想なので私は我慢して再婚する」と。数年後、その人は、自分が我慢して離婚すると言う。或る信徒はリンチェンドルジェ・リンポチェのところへやって来て自分は子供のために離婚すると言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場でその人を責めた。「あなた方は嘗てうれしい時、子供のためと言わなかった。今、人に対して不愉快に思い、子供のために離婚すると言う。そんな子供が可哀想だと思わないか?多くの子供はそのような原因から問題を起こすようになる。自分の行為は自分の責任だ。天や地を恨んではいけないし、人が自分の世話をしないと恨んでもいけない。それはあなたの福報なのだ。あなた自身の福報が足りていたなら、多くの人がやって来てあなたを世話する。また、あなたの福報が足りないから、多くの人がやって来てあなたを世話し、あなたはそれを煩わしいと思うかもしれない。人生とはそういうものだ。

今日の開示は非常に多いのだが、皆は以下の点を理解しなければならない。仏教を学ぶのは絶対に今の短期的なメリットを得るためではない。あなた方の病気を良くする等々は簡単であるが、これらはすべて短期的なことで、永久的なことではない。寶吉祥に来て仏教を学ぶことにしたのだから、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方が今世、未来で苦しまないようにすることを助ける。苦はどうしてやってくるのか?全ては自分が導き出したものである。だからここであなたに新しい苦因が生まれるのを止めることを手伝う。

あなた方は、よく考えてみて欲しい。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの十数年でしたことは、以下の4点である。1にあなた方の具楽と楽因を助ける。だからなんでも面倒を見る。2にあなた方の離苦及び苦因を助ける。だからあなた方が正しくなければあなた方を追い出す。そしてあなたは自分が間違ったことにやっと気づく。だから、皈依していない者は皈依してはいけない。なぜなら間違ったことすれば、絶対にあなた方を追い出す。3にあなた方の不離無苦の楽を助ける。即ち少なくともあなた方が阿彌陀佛の傍にいることを助け、成佛の修行をさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは少なくとも点数を数える。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが送り出したから。その後成佛すれば戻ってきてリンチェンドルジェ・リンポチェを済度する。なぜ、いつでもあなた方に好き嫌いを分けてはいけない、批判ばかりしてはいけないと教えるのか?それが第4番目のことであり、我々は日常生活の中で愛憎を平等に捨てる訓練をするべきである。確かにすぐにはできないが、我々は数百世の間、ずっとそうなのだから、訓練を始めなければならない。いつも愛するものを少し少なくする。息子を小さい時から世話をして息子を見れば、眉をひそめてどこか気分が悪いか?と尋ねる。このような言葉を言うのは減らすべきだ。息子はすでに大人になったのだから本人がどうして知らないことがあるだろう?赤ん坊は話せないので、保護する必要があるが、大人になっても構うのか?一日中愛し続け、愛した後に問題がやって来る。

我々は嫌いなものを少し少なくする必要がある。だからあなた方は一日中、テレビドラマを見ていてはいけないと教える。人の離婚を批評し、たくさん見ると見慣れていく。一日中、人を動物呼ばわりする。あなたがしょっちゅう呼んでいると、自分もいつか狐になる。だから見てはいけないし、自分をドラマの中のメンバーと思ってはいけない。だから、男性は可哀想だ。明らかにテレビのことなのに、自分のことになってしまう。そして親族が言うことを聞かなければならない。あなたは気をつけなさい、見てごらんなさい。

事実、真に仏教を学ぶ者は、このような番組を観てあなたの心に影響を与えるのを少なくしなければならない。なぜなら、あなたの心は強いものではない。だから我々は遠ざかり、離れるべきなのだ。人が喧嘩をしていた場合、参加してはいけないし、双方の意見を聞いて彼らを調停しようと思ってはいけない。他の人が喧嘩していた時、助けるなと言っているのではない。しかし、家で喧嘩が始まった時、父親に味方しても良くないし、母親に味方しても良くない。それならば、どうするのが良いか?二人の間に座って彼らが喧嘩し終わってから話し始めるのだ。

言い合いが終わったなら、あなたを呼ぶように言う。あなたは双方に同じ話をする。片方には言って片方には言わないということはしない。あなたが彼に良くしても変わらない時、我慢しなさい。このように言うと火に油を加えるようだ。巷で見かける女性たちはそんな感じである。あなたはこんなにも賢い女性なのに、彼は相変わらず見かけがそんな感じであるが、彼にチャンスを与えてあげようではないか!見たところ、あなたはその男性に良かれと思ってしているが、事実は彼をダメにしている。なぜならこのような女性は、自分は永遠に良く、男性は間違っていると思っているから。

仏教を学ぶ人の特色は即ち、人の悩みに参加しないことである。なぜなら解決することができないからだ。佛法の観念から言うと、もし、あなたが過去世にこのような行為がなかったなら、今世では絶対にそのような伴侶は出現しない。しかし、二人で老いていくとは惨めなものである。二人のうちのどちらかが先に死に、生き続けることはできない。結婚は人生の過程である。結婚しなければ跡継ぎは生まれないという、致し方ないことなのである。しかし、それを人生の最重要事項にしてはいけない。あなたが結婚を重要だと思うと、多くの問題が発生する。

《佛子行三十七頌》の中の「親方貪心如水盪(親が家族に水のように愛情を注ぐ)」において、眷属に対する貪念は実のところ水と同じだと提示する。水は我々を助けるが、我々に害をもたらす。水がないと死んでしまうが、水が多すぎるとやはり死んでしまう。我々は眷属に関心を持ち、思いを寄せることは必要なことであるが、一定のレベルを超えてしまうと、自分を傷つけ相手を傷つける。《寶積経》の中で、もし今世に眷属の因縁があるのなら、それを拒否してはいけないと述べている。しかし、それはあなたがその眷属を恋しく思って、つきまとうという因縁を表しているわけではない。或る人は、皈依後に仏教を学び、しばらくして離婚することがある。そして、それを自分は修行が足りないと思うが、その実それは関係ない。もしも、そうならば、リンチェンドルジェ・リンポチェも修行ができていないということになる。ずっと昔、尊勝なる直貢チェツァン法王が台湾にやって来て灌頂した。一人の信徒が走り寄って来てリンチェンドルジェ・リンポチェに言った。「あなたは離婚したのに、仏教を学ぶことが出来るのか?」。

皈依後の離婚は、良いことではないが悪いことでもない。それはあなたの因縁であり、あるいはこのことは「共に白髪の生えるまで」よりも良いと早めに事が成熟したのかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは「共に白髪の生えるまで」を批判しているのではない。しかしながら、或る夫婦は一生を互いに慈しみ合い過ごした。結果一人が亡くなった時、ずっと隣にいて手を片時も離さず、繋いで眠っている。佛教徒であるならば、眷属に冷淡になれということではないが、決してこのようなことではいけない。誤解しないで欲しいのは、ただこのような執着心を解き放ち、相手にとって自分の眷属は縁であり、悪縁が良縁になることもあれば、良縁が悪縁になることもある、それはあなたがどのように見るかにかかっている。

本日開示するのは、皆にどのような佛法を学ぶのかを明らかにする。我々は金剛乘と菩薩乘を学ぶのだから、心の持ちようは非常に大切である。もしも一日中、リンチェンドルジェ・リンポチェに加護をお祈りしたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはどのくらい加護できるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ八地以上、法身の菩薩を修めておらず、変化自在まで修めていない。今日は、皆と共に六字大明咒を唸誦するのは、皆に代わって福徳資糧を貯めるためである。ひとつの道場で一人の上師から同じ尊本尊を以って唸誦することは、自分で念じるよりも有用である。しかし、念じた後、無敵の鐵金剛になるわけではなく、往生時の資糧を貯めるためである。資糧がないと、往生時に干渉が多く、あなたの念頭を乱す。自分はもうすでに返済を完了したと思ってはいけない。もしかすると別の星に冤親債主がいるかもしれない。なぜなら佛経に依ると、人がいるのは地球だけではなく、宇宙にも人がいて、もしかすると、ある世では別の太陽系、星にいて遠く離れ、突然にあなたの念頭を見つけ、あなたを見つけ出し、あなたに干渉してくるかもしれない。

だから、我々は自分が何をするのか、なぜなのか、未来はどうなのかをはっきりとさせなければならず、そうしてやっと仏教を学ぶ道を間違えなくなる。道を間違えなければ、今世で生死解脱の希望が生まれるが、さもないと非常に困難である。

続いて尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは、1300名の弟子を伴い、六字大明咒3000回を各自持誦した。持誦が圓滿に終わった後、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは出席大衆に佛法の開示を続けた。

今どきの多くの人は、仏教を学ぶ、または廟に行くのに関わらず、誰もが人と違うことや感応することを望んでいる。もしもそうであるならば、そのような人は次から来ないで欲しい。仏教を学ぶとは、感応を学ぶことではない。《金剛経》の中で述べている通り、仏教を学んで何かが見えたり、聞こえたりするのはすべて邪見である。

尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは一人の目を閉じた信徒を叱責した。もし、気分が悪いなら家に帰り、手をそのように置き、頭を揺らせば、佛菩薩が彼を加持すると思ってはいけない。佛菩薩は彼を加持しない。彼は唸咒すると、健康によいと思っているのか?その時、信徒は反駁の言葉を吐いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示した。このような人に来てもらいたくない。ここまであんなに多くを話して聞かせたのに、彼は一言も聞く耳を持たず、自分の考えを主張した。家に帰ってよく考えなさい。寶吉祥佛法センターはあなたに向いていない。信徒は再度、言い訳を試みた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。彼はそれが習慣なのか?まだ口答えを続けるのか?彼にその習慣がないなら、タンキーのような動きはできないだろう。

再度強調する。あなた方は密宗道場へ来れば、法力は無限で、あなたには神通感応がつくと思っていないか?思ってはいけないのだ。数日で佛菩薩があなたを加持する?彼は以前の道場へ戻るべきだ。なぜなら現在多くの道場は信徒が足りない。彼は遅かれ早かれここを離れるだろう。彼は寶吉祥佛法センターへ来れば感応や神通があるようになると思っていたではないか?それを佛法と言ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェの古い師匠は道教を学んだ人で、以前、その場で揺れている人を見た。リンチェンドルジェ・リンポチェの師匠は、手のひらで叩いた。心が不動なら、体も動かない。多くの人は、加持を受けると体が動くと思っているが、それはデマである。明らかに、自身の腎氣が不足していて、健康でないのである。病気ならば医師に診てもらうべきで、大道場へ来れば、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持をしてあなたの体を健康にすると思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身ですら、全身が病気であるが、今まで佛菩薩に加持を求めたことがない。自分が有用であると知れば、佛菩薩は自分を死なせない。

あなた方はそのように仏教を学ぶのなら、いっその事学ばないでほしい。先に山ほど開示しながら、頭をゆらゆら揺らす。まったく佛法の手印ではなく、インド教の手印を弄んだにすぎない。ある人達はヨガを学んだことがあり、両手を広げると、このように感応があると思っている。台湾は名人が山のようにいて、ちょうど佛経で説く附佛外道も多すぎるほどいる。どれも皆佛の看板を上げているが、やっていることは佛のことではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがちょうどした姿勢は皆も外で見たことがあるだろう。全く同じであり、彼に何をしているのかと尋ねると、彼は自分で禅定をしていると言う。彼にどうして禅定するのかと聞くと答えられない。真の邪師はこのように星の数ほどいる。

自身に福報がなく、行き先を間違え、リンチェンドルジェ・リンポチェに二言言われると言い訳をする。それは彼が上師に対して恭敬がなく、自我観念が重いことを表している。そのような人は来ないでほしい。多くの人は自分が正しいと思っている。もしそうならば慈悲喜捨と関係がない。多くの人は、自分は手術をしなければならない、手術しなければ家族が悲しむからとと考える。癌細胞はどこから来たのか?それはあなたが傷つけたのだ。それをあなたは切り取ると言う。切り取ると、体重はすぐに落ちる。それは心に毒が生まれ、福報が消耗し尽くしたことを表す。リンチェンドルジェ・リンポチェは治療に反対しているのではないが、あなたは佛教徒であるのに、因果の関係を受け入れられずに頑張ると、手術の後、生活レベル全体の質が変化する。だから、上師を信じる人はわずかで、誰もが自分を信じ、自分は病院に行くとVIPだから、偉い医師が必ず彼に会いに来ると思っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは医師弟子に彼の常識でビックブラントの医師とは何なのかを説明するように指示した。医師弟子は、「医学を学ぶのは同じ鑑定、テストを経て、有名になるかどうかは、おそらく彼個人の因縁福報と関係する。または話すのが上手だと人を気分よくさせるかもしれない。」しかし、事実はそのようではない。いわゆるビックブランド医師は、おそらく嘗て研究論文を発表している。しかし、過去の文章を手にとって見ると、多くは現在の観念と大きく異なる。だから、20年後の観念と現在は必ず大きな差がある。だからビックブランドか否かはどのように説明すればよいかわからない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを以って話した。「人はあなたより福報があり、金運はあなたよりよく、金持ちに出会う」。リンチェンドルジェ・リンポチェは医療制度に反対しているのではない。これは法律の制度であるから、反対したり拒否したりできない。しかし、皆に気づいて欲しい。仏教を学ぶ人ならば、因果を深く信じるべきだ。我々の体に如何なることが起ころうとも、それはすべて自分が蒔いた種の因が関係する。徹底的に懺悔することは受け入れることであり、命を認めることはそんなに簡単ではなく、厳格に言うと、受け入れるという言葉も用いることはできず、即ちそのようなのだ。あなた方は家族が手術を受けるように迫り、受けないと彼らに申し訳ないと言う。しかし、手術をすれば、慈悲喜捨はなくなり、貯めてきた阿彌陀佛の福徳資糧もなくなる。そしてそれは未来世の人天福報となる。あなた方は未来世の人天複方になるのなら、それは良いことだと言うが、それはいつの世なのかはわからない。

多くの人は、上師の話は聞かないが、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方の手術を止めない。しかし、手術後の結果がどのようになるのかは自分がはっきりしている。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身が癌に罹ったことがある。手術せず、切らず、薬を飲まずに、仏菩薩にお願いしたこともない。なぜ、求めないのか?なぜなら自分が蒔いた種の因だからそうなったのだ。だから修めて学んだものは累世で行った善悪業を返済するためである。あなたは念頭を起こすだけで、仏教を学ぶのは病気を治すためであると考えると、往生の福徳資糧はなくなり、功徳は人天福報に変わる。簡単なことで少しも複雑ではない。

慈悲喜捨最後一句話は、愛憎を離れ平等捨を住まわせる。この言葉をよく参考にするべきである。あなたがこんなにも嫌いなあなたの癌細胞は嗔であり、それを切ることは殺業である。あなたは、これは私の体なのだから何がいけないと言うのか?と思うだろう。しかし、あなたの体はあなたのものではなく、一個の細胞は体内で多くの因縁に拠って生まれたものである。我々どのようにして自分を好転させるのか?科学の原理に基づけば7年ごとに細胞は新しくなり、何度も元の細胞にコピーされる。7年で生まれ変わるというのは、細胞の寿命が7年だからであり、新しい細胞はどこから来たのか?答えは古い細胞の遺伝子である。中国人は、風水は7年で周り巡ると言い、つまり7年で新しい細胞に代わり、およそ3年で運が変わる。

もしもあなたが継続して悪をコピーしていると、細胞は益々悪くなり、癌はそのようにして成る。なぜ良くなるのか?簡単である。つまり一切の悪を止めるのだ。細胞内に悪の遺伝子がないので、新しい細胞は善となる。医学的に言うと、或る人は一生の間に癌の遺伝子が生まれるが、一生の間に癌にならない。なぜなら、彼は細胞に悪の機会を与えず、善にしているからである。佛門に皈依したり、幾らかの金を寄付したりすれば善となると思ってはいけない。あなたが以前株を操作した悪のせいで相殺することなどできないのだ。

多くの人は因果を信じないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に来て3年目、或る人がリンチェンドルジェ・リンポチェに1元が24元になる株券があると言い、リンチェンドルジェ・リンポチェに世話になっているからそれをリンチェンドルジェ・リンポチェに分けてあげると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時、仏教を学んでいなかったが断った。結果、本当に24元に値上がりした。しかし、そのような操作は良くない。リンチェンドルジェ・リンポチェは株売買に反対しているのではないが、操作するのはよくない。金儲けは自分の資本で儲けるべきで、株ではない。

今日まで弘法してきてリンチェンドルジェ・リンポチェは様々な弟子を見てきたが、自分が菩提心を発しなければ、真に教え続けることはできない。言うことを聞かない人が99%を占め、言うことを聞く人は数人いるかどうかである。皆は、自分の気分で佛法を聞いたり、佛法を学んだりしていて、自分の観念を他に置かずに、自分が良くなることを期待する。どういう理由があってだろうか?ちょっと来れば良くなる?数十年間悪いことをして来て、たった一日で良くなる?もしも、それが出来るなら、あなたは佛菩薩に自分の死を以ってすべての悪業を相殺してほしいと頼めば良いし、リンチェンドルジェ・リンポチェにあなたを浄土に行かせるように再度頼めば良い。リンチェンドルジェ・リンポチェは了解するだろう。しかし、あなた方はそれができるか?言えないのなら、言うことを聞くものだ。仏教を学ぶのは一滴一滴少しずつ貯めるものであり、それは金儲けを少しずつためていくのと同じである。もし、突然にあなたが一攫千金を得たならば、それは絶対に良いことではない。

言うことを聞かない人は大量にいて、言うことを聞く人は非常に少ない。佛経で説くように、真に発心した菩薩に供養することは、十億万の佛に供養した功徳よりも更に大きい。なぜなら非常に稀有だから。現在リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方にどんな発心菩薩も要求しない。しかし、話すら聞かず、更にはリンチェンドルジェ・リンポチェに自分は体が悪いと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェの体はあなた方よりもどこが良いと言うのか?現在、まだ累世の業を返していないので、佛菩薩はこの体を支えているが、返し終わればすぐにあの世へ逝くことになるだろう。

仏教を学ぶことは子供の遊びではない。我々の財産、寿命、眷屬よりももっと重要である。重要なのはどこなのか?佛法、諸佛と上師だけが我々の生死解脱を助ける。人の世間の様々な事情はすべて煩悩から起こる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、最近一人の中国大陸の有名な人に四つの言葉を贈った。「世事は麻のごとし,それは皆煩惱、佛陀聖教,皆煩惱を對治(退治)する。」だから仏教を学んで体が揺れるのは煩悩であり、健康になりたいと思うのも煩悩であり、佛法はあなたのひとつひとつの煩悩を對治(退治)する。對治(退治)とは何か?つまり向き合い、治療するのがあなたの煩悩である。煩悩を断つと、体が良くなる。煩悩を断たなければ、何を以って咒を念じ、体が良くなると言うのか?どんな藥師佛を修めると体が良くなるのか?なぜ、藥師佛に灯明を立て、十二神将を置くのか?神将はあなたのお母さんに薬を持ってきてはくれない。彼女に代わって福報を貯める。そして、彼女の本来の清浄な本性を灯明のように明るく照らすように回復させ、佛法を受け入れさせる。一日中頼んだりしない。

だから、末法時代に佛法を弘める上師の業報は比較的重い。なぜなら業報が良いのならばリンチェンドルジェ・リンポチェは釋迦牟尼佛と同じ時代に生まれただろう。その時代の衆生は済度しやすい。末法時代になって今はまだ良いが、もしも、100、200年後は衆生の業が益々重くなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは真に来たくない。

皆は自分に注意を払いなさい。今はすでに11月になり、すぐに一年になる。あなた方も、リンチェンドルジェ・リンポチェもその中に含まれるが、この世での時間は益々減っている。あなたに修行をさせる時間がどこにあるのか?自分の体やこの事、あの事に気を使う時間がどこにあるのか?いつもあなた方に言うが、出世法を修めれば、世間法は間違いなく修められる。リンチェンドルジェ・リンポチェが即ち良い例であなた方に見せているのに、誰も受け入れず、誰も聞かない。そして自分の考えで話を聞く。姉が来るのが少ないとなじるのか?それが仏教を学ぶ人なのか?あなたは皇太后で、人があなたのお世話をするのは絶対なのか?あなたを世話しなくても悪く言ってはいけないそれはすべて貴方自身の福報なのだ。我々が一切を受け入れれば、人生は煩悩から煩悩が減ってくる。もしも受け入れないのなら、ただ痛苦があるだけだ。痛苦がずっと貯まり続けると、自然に悪が発生する。なぜならあなたは痛苦を受けたくないので、すべての方法を使って痛苦から逃げるからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、一人の年長の出家弟子を呼び、引き続き開示した。この出家弟子は皈依して8年経つが、経がわからず、本人は肝癌を患っている。しかし、手術することなく今日まで生きている。どこかのVIPは病院へ行き、自分はVIPなので医師は自分をよく診てくれると思っているが、実のところはVIPこそ殺されるのだ。この出家弟子も仏教を学ぶ者であり、息子と娘がいる。しかし彼女は佛法を信じ、上師を信じている。結果8年生きている。この8年間に彼女は資糧を貯めたので、時間を無駄にしていない。即ち言われるままに念じる。もし、気分が悪くなるとリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求める。彼女は痛いと思ったことがない。ただ時々気分が悪くなるだけである。

彼女が出家衆だからあなたと違うのではなく、それは彼女の決心である。彼女は今世で返せるものは返し、残った時間でまもなく浄土へ往生する。何も構うものはない。ただ念じているだけである。あなたは彼女と読経してみなさい。彼女は知っている字が多くない。しかし彼らは字を学んで覚えた。あなた方のような知識分子は真に学ばなくてもよい。それらのVIPも来なくて良い。寶吉祥佛法センターにはVIPはいない。SIP (Small Important Person)がいるだけである。実のところ、VIPであればあるほど、病院での死に様は見るに耐えない。

一人の医師弟子は、それは本当のことであると言った。多すぎる世話、多すぎる意見、多すぎる治療があると、全身は傷だらけである。場合によっては救急(DNR)も拒否する。受け入れるのは薬だけである。そのような人は、亡くなるときの体重は往々にして生前よりも5㎏近く増える。その5㎏はすべて水であるので、その人が亡くなる時、服も靴も入らなくなり、皮膚からは常に水が滲み出て来て非常に凄惨である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはひとつはっきりとした例を挙げよう。リンチェンドルジェ・リンポチェには以前仲の良い友人がいた。初めて彼が尊勝なる直貢チェツァン法王をリンチェンドルジェ・リンポチェに紹介してくれた。彼は北京との関係が良かったので、脳溢血になった時、すべての人が関わった。結果はひどいものだった。すべての名医が出て来た。すべて最も良い薬が使用された。西洋医学のいわゆる最も良い薬とは何か?医師弟子が答えた。即ち副作用が強い薬のことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示した。彼はとにかくVVVIPであったため、皆は良くない薬を使うことはできず、薬を投下したならすぐに反応が表れることを望んだ。最後に、彼は脳溢血で死んだのではなく、呼吸衰弱と敗血症が原因で、良い薬を使いすぎて亡くなった。だからVIPは戻ってまたVIPになってはいけない。すべての衆生は佛菩薩の前ではVVVVIPなのだ。佛菩薩は如何なる衆生も見捨てずに絶対に我々を見守っている。他が病院のVIPであったのは金持ちであったことの他に、更に病院を設立したオーナーだったからだ。だから反対に彼を傷つけた。強烈な薬は時に副作用も同じく大きくなる。それは常識である。

あなたはすぐに良くなりたいと思うが、そのような佛法は存在しない。あなたがそれを望むのなら、宮廟へ行きなさい。なぜなら宮廟はあなたを一針で治してしまう。しかし、後から彼に返さなければならなくなる。人は耐性がないものだ。自分は数十年間悪業をしてきていながら、どうしてすぐに良くなると言うのか?リンチェンドルジェ・リンポチェも現在に至っても完全によくならないのに、あなた方はどうして出来るというのか?何があって良くなると言うのか?あなた方は真に耐性がなく、自分が悪を行う時には知らずにいる。佛経に依ると、我々が生生世世した業は固体であるので、虚空がこんなにも大きく入りきらず、更に馬の顔が長いことを理解できないのか?もしも善人なら、阿彌陀佛のところにいるはずなのに、どうしてここにいるのか?

尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェは、来週施身法を修持することを発表した。法会は圓滿となり、弟子たちは声を揃えて尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェの開示に感恩し、尊貴なるリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りるのを起立して敬い見送った。

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2017 年 08 月 05 日 更新