尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2014年11月9日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に上がって自ら共修法会を主持し、法会参加大衆に珍貴な佛法を開示した。

本日継続の六字大明咒の唸誦は第十週目である。皆も知ってのとおり、仏法は小乗、大乗、金剛乗に分けられるが、大乗仏法を修めるには如何にして資糧を貯めるのか?それはつまり六波羅蜜を修めることだ。仏経には「六度万行」があるが、いわゆる「万」はただの数字に過ぎず、意味はずっとし続けるということである。多くの人は、六波羅蜜を修めれば平常で使用できると考えているが、その実24時間すべての行為、思想、語言が六波羅蜜の中にあってこそ、福慧資糧を即座に貯めることが出来る。だから、我々が仏法を修める時、もしも自分で菩薩道を修めるのなら、六波羅蜜は資糧を貯める手段である。

多くの人は、六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禪定、智慧)は六門に分けて修めると思っているが、その考え方は正しくない。いわゆる六波羅蜜はただ説明しやすくするためだけであり、その実六個は一体であり、一体は六個である。簡単に言うと、もしも布施の心がないなら、絶対に持戒はできない。布施は一切を捨てることを表す。もしも捨てなければ、自我の執着心が存在し、執着心のある人は、清浄に戒めを守れない。布施は財施、法施及び無畏施に分けられる。財施は比較的簡単に出来る。もしも密法として言うと、財施は外財、內財と祕密財に分けられるが、それはあなた方は学ばなくてもよく、あなた方に説明する必要もない。皆は、法施は人に少しの仏法を説いたり、人に経を読んだり、懺悔をしたりすることと思っているが、仏が如何なる名詞を言っても、それは絶対に字面を以って含意を理解できない。仏法として言うと、法施はすべて衆生に利益し、生死を解脱する方法である。

もし衆生を連れて仏を学び、経を念じ、皈依するのなら、それはただ彼に代わって縁を結ぶだけで助縁であるだけである。もし助縁が即ち法施であると考えるのなら、それは間違いである。財施をしない人は自然と法施もしない。なぜならあなたは自分のために修め、自分を良くすると考えるからである。もし、自分が悪ければ、仏菩薩、上師には霊験がないと考える。但し、仏が我々に教えるのは、自分のためではない。個体は自分のものであり、遺伝子が異なってもこの身体の元素を結合すれば、どの人もみな同じであり、区別はないと多くの人は考える。もし、仏法を以って言うのなら、本来それは同じであり、業力が生まれるので、異なる業力の果報が生まれると考える。財施を惜しむのなら、自然と法施もない。

多くの人は無畏施とは話をして他の人に恐怖の心を取り去ることと思っていて、《寶積経》の中でも述べているとおり、菩薩道を行う菩薩は何処へ行っても恐怖も恐れもない。これはどんな意味なのだろうか?菩薩はすでに生死を見破っていて、更に生死が自在で、生死を理解しているので、何処へ行っても怖くない。更に菩薩は布施を主とするので、誰かを傷つける心配はなく、自分に対処する。衆生が生死を輪廻するのを解脱すると恐怖がなくなる。もしも衆生が生死を解脱することを助けることができないと、素直に財施から始める。財施とは財とは限らず、外、内、祕密財に分けられ、あなたがある事に対して貢献したことがあれば、それは財施と言える。

もしも、布施を始めなければ、その後の持戒は絶対にできない。多くの人は持戒は新しい悪業を作りたくないと思っている。それは一般の信衆にとってそのような説法は正しい。但し、もしも菩薩道を修める修行人であるならば、そのような言い方は間違っている。なぜなら、持戒は自分のためではなく、自分が以後良くなることを望むためでもないからであるし、もしくは持戒が福報をもたらし、修行でよくなるわけではないからである。修行の考えは布施と同じであり、衆生を傷つけない以上、もしも戒がないのなら工具が間違った事をする。だから戒は最も基本的な五戒からずっと沙彌、比丘、比丘尼戒まで、続いて菩薩戒と菩提心戒等まで派生する。

厳格に言うと、戒とは即ち、上師が教えたすべての仏法を聞き行うことで、あなたが悟った場合を除き、どんな変更もしてはいけない。所謂変更は変更ではない。ただ各人の修行経験に従い、調整する。しかし、それは仏法を変更したり、なんらかの門、派、宗を創り出したりすることではない。だから持戒、特に菩提心戒は、絶対に自分のためでなく、衆生のためである。だから布施ができない人は自然と持戒もできない。なぜならば彼は執着するからで、必ず戒を犯し、修行方面には多くの問題を起こす。

第三は忍辱である。多くの人の観念は、忍辱とは人が自分をなじっても怒らない、人が叩いても癇癪を起こさずに我慢することだと思っている。仏門で言うところの忍は忍耐でなく、受け入れるでもないが、修行したにも関わらず、それでも如何なる衆生に対して羨みや暴力の思いが生まれるのだろうか?まだあるのなら、絶対に忍辱を修める法門ではない。衆生を傷つけないことは簡単であるが、名聞に対しては難しい。仏門が言うのは、逆境の時に我慢することでなく、順境の時でさえ我慢する必要がある。あなたは順境すぎる時、自分に業報が間もなくやってくると知らせなければならない。人は順境だと、自分を甘やかす。ちょうど良い男性に巡り会って結婚し、家はすべてが順調だと思っている。明らかに毎日108回唱えていると、すぐに半分に減る。なぜなら自分は修め終え、有能であるのだから更に真面目にすることはないのだと考えるように。

だから、忍ばないなら、その後の精進は絶対にできない。精進はどのくらいの時間したかではなく、どのくらい緻密か、正確かということである。もし、乱れた心で経を読んだなら、精通できない。進の意味は、することが正確ということで、だから進歩する。進歩は自分が考える現在と違うのではなく、登地菩薩、二地菩薩、阿羅漢に成果を示せば思いのままで、心はまっすぐに成仏の路へ進み進歩すると考える。心を変えることが出来れば、成仏の機会が生まれ、たとえ、あなたの禪定功夫が深く、神通があったとしても、あなたが成仏するとは限らない。精進の定義は勤勉ではなく、多くの時間をさいて法門を苦しみ修めることでもなく、佛が説く一切の仏法の要点を行うということである。

仏経は非常に膨大であるが、仏が説く一句一句はすべて要点をかいつまんだもので、形容詞が少なく、ただひとつの境地を説いているだけだが、その中の形容詞は非常に少ない。拠って、精進ができない人は、禪定もできない。なぜなら心を改めていないから。心を改めなければ、たとえ下に座って座禅を組み、目を閉じても、やはり禪定はない。禪定はどのくらいの時間が必要か?もしも空性に入れば、時間は存在しない。時間が長いと思えば、禪定の腕前は良いというが、それも正確ではない。なぜ、今世で必ず禅を修めるのか?往生するその瞬間のために準備するのだ。我々が事切れてから往生善道と阿弥陀仏淨土までの間の時間は短い。あっという間の瞬間で決まる。なぜ禪定を修行するのか?なぜなら、あなたは心を或る物、例として仏像、咒語、仏号、上師など定めることに慣れ、事切れる時、その観念はあるが、妄念はない。

禪定がなければ、自然と智慧は開かない。六波羅蜜は分けて修めてはならず、六個が一体で用いる。あなた方は、今日は禪定がないと思っているが、我々は持咒がある。もし、すべての真言が衆生利益のためならば、それは法施である。もし、持咒の時、上師が説く事に聞き従い、心が乱れず、上師が言う方法に従って行ったなら、それは持戒である。持咒の時、もし時間が長いことや体の具合が悪いことや、家族が外で夕食を食べる等について心配しないならば、それは忍である。もし心が集中し、心が乱れず、心の中で満たされた思いを持咒するなら、それは精進である。もし、持咒に集中するのなら、それは禪定の境地である。持誦がたまって咒語が十分となれば、智慧は自然に開く。以前、正しいと思ったことは、おそらく以後二度としない。以前間違いだと思ったことは、もう一度見ることになる。自分の人生に対して、いくらか調整できる。以前執着した正誤や快楽と痛苦等々のことはもう一度、仏法の観念で考えてみる。

もしも10数年修めながら、未だこの徳行であったなら、簡単言うと、六波羅蜜を使うことができない。やはり自分中心で自我の観念の下、自分は修めたことがあると考え、より多く念じればますます健康になり、理解が出来るようになり、悟りを開き、衆生を済度できると考えるが、これらはすべて六波羅蜜を使えない。もしも仏がこれらを修めれば衆生を済度出来ると考えるなら、六波羅蜜の後ろに、もう一つ加えるだろうが、それはない。六波羅蜜の始めから三つ目は福報を修めるのを助け、後の3つは智慧を開くのを助ける。福はあるが智慧がないと、永遠に悟ることができない。智慧はあるが福がないと、永遠に菩薩になれず、成仏できない。六波羅蜜は大乗仏法を修める人が、早く資糧を貯めるのを助ける。けれどもそれは1、2日や10、20年ではなく、今生である。もし浄土へ行きたいと思っても資糧がなければいけない。自分が念じて行きたいと思えば行けると考えてはいけない。行くには元手が必要なのだ。

福慧資糧は浄土へ行く条件のひとつでしかない。或るおばあさんは一生の間に、善事をしたわけでもないのに、なぜ行けたのか?とあなた方は尋ねるだろう。それは六波羅蜜だから。彼女たちは、おそらく何が六波羅蜜かわからない。多くは人のためであり、自分のために念じるのではない。大乗経典において、皆に六波羅蜜を修めるように促している。だからもし、あなたが自分勝手な思いを抱き、今日はよく念じられたので病気が良くなると思ったなら、今日は修めていない。あなたが思いを抱き、念じ終わったらがん細胞が小さくなると思うのなら、それは修めていない。あなたが思いを抱き、念じ終わって家に帰ったら、家族は私を叱ったりしないと思うのなら、それは修めていない。何を修めるのか?修めるのは来世での少しばかりの人天福報であり、その来世はどの世なのか分からないし、もしかするとずっと先の転生世かもしれない。なぜならあなたは上師と仏が説く仏法を聞かない。それは痴である。痴の因が出れば、痴の果が実る。おそらく畜生道に堕ち、犬娘や犬息子になる。

気をつけなさい!仏菩薩を信じ、加持すれば十分だという、このような思いを起こしてはいけないし、このような奇妙奇天烈な思いを起こしてはいけない。もしも仏がこのような思いを持っても良いと思うのなら、皆に六度万行を修めることを教えない。六度万行が自分のためなのかをよく考えてみなさい。たとえ、智慧が開いてもあなたが良い生活を出来るわけではない。多くの人がやって来て尋ねる時、リンチェンドルジェ・リンポチェに智慧を開く助けを頼まれ、彼になぜ智慧を開きたいのかと尋ねると、彼らは自分にそれらの人間関係を向き合わせたいと言う。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに、智慧を開くこととそれらは無関係であり、もっと勉強すれば人間関係も良くなる。なぜなら人を理解するようになるからと言う。佛仏が説く智慧は如何にして衆生を利益するか、衆生を如何にして輪廻の深淵に陥らせないかであり、その中の学問が非常に大きい。

拠って、今日、皆と共に念じる六字大明咒は、皆に代わって資糧を貯める。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェよりも若い。リンチェンドルジェ・リンポチェはおそらくあなた方よりも先に逝く。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはいなくなり、あなた方に代わって資糧を貯める人はいない。懺悔すれば資糧を貯めることが出来ると考えてはいけない。懺悔するのはただあなたに殊勝な佛法を聞く機会を与えるだけであり、それはただの助縁である。仏法の修行に基づく修行ではないのなら、それはただ助縁を山のようにするだけで、生死を解脱する資糧は貯まらない。だから、今週はもう一度言う。皆の心がはっきりすることを願う。もしも信衆が平穏を願うのなら、あなた方は来ないことを勧める。多くの道場は信衆を欲しがっている。あなた方はそちらへ行っても仏菩薩はあなたを罰しない。なぜなら仏法を弘める宗旨はそれぞれ異なる。寶吉祥仏法センターの宗旨はリンチェンドルジェ・リンポチェが学んだこと、修めたことを自分の利益にして、どうして衆生に利益しないのか、するべきではないか?と考えるからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法に於いて、非常に考えを堅持していて、必ず仏が説く方法でなければならない。もしも、《寶積経》または佛が説く方法を違えて開示したならば、リンチェンドルジェ・リンポチェも法座に座る資格が無い。

反対に、仏法を聞くことは何か言ったことを聞くのでは決してなく、自分が過去に聞いたことは生死の大事に対して役に立つか?過去に修めたものは生死の大事に対して役に立つか?もしも役に立たないのなら、すべて捨てて始めからやり直す。自分は多くの名相を学んだので、自分の生死解脱の助けになると考えてはいけない。多くのいわゆる大法師は亡くなる前、非常に苦しむ。なぜなら大量に学んだために、所知障が生まれるから。知ることは障害でもある。まだ浄土に達していないのに、どうして仏と菩薩の境がわかるのか?どうして自分が今世でわかると思うのか?あなたが今世ですでに菩薩果位を得ているのなら、少しはわかるかもしれないが。仏が仏の境地は不可思議だと言っている。なぜならそれは人類の経験法ではないので、幾千万、幾億万年説いても、あなた方は言っている意味を理解できない。リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしてわかるのか?それは仏が教えた方法でその順番通りに行い、自分がわかる物を捨てているからだ。

我々はただごはんを食べること、寝ること、喧嘩することを知り、その他何を知ったのか?あなた方は何一つとしてわかってない。まさにリンチェンドルジェ・リンポチェがいつも開示しているとおりである。お腹が空いた時、あなた方は自分のお腹にお腹が空いてはいけないと言うのか?直貢噶舉には出家弟子がいて、物を食べなくても良いように修行した。禪を食として禪をすることで食べたことになった。チベットにおいて、禅を学ぶことは当然有用である。けれども台湾のような環境でこのレベルまで修行するのは不可能である。なぜなら、空気が悪いし、食べ物には毒があるので、難しい。例えチベットであっても、今では汚染も始まっている。更にそのレベルまで修めることが出来るのは僅かな人だけである。

修行者にはそれぞれ自分の過去の因縁と衆生利益の修行方法がある。あなた方は今日、縁があって寶吉祥に来た。それは寶吉祥と縁があることを表していて、自分の方法を用いることができない。あなた方の方法が正しいか正しくないか、リンチェンドルジェ・リンポチェは批評することはできない。しかし、少なくとも、自分の心に疑問が湧き上がる。どうして仏が説いたことを自分はできないのか?それはつまり、教える上師がいないからで、ただ自分だけで毎日念じている。なぜ念じ続けているのに、観世音菩薩は現れないのか?阿彌陀佛は夢枕に立たないのか?と考えている。仏経で説いていることは簡単だと思ってはいけない。ただ1日から7日間念じただけで、阿弥陀仏が現れるには、その前に条件がある。それらの条件ができなければ、毎日念じてもできないのである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、1300名の弟子たちを伴い、六字大明咒10000回を持誦し、法会参加大衆を引き連れ、アキ護法と回向儀軌を修持し、法会は円満となった。

  • 法会の始まる前、弟子の分かち合い内容(衆生済度の事跡No.693)
  • 法会の始まる前、弟子の分かち合い内容(衆生済度の事跡No.703)
  • 法会の始まる前、弟子の分かち合い内容(衆生済度の事跡No.732)
  • 法会の始まる前、弟子の分かち合い内容(衆生済度の事跡No.744)

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    2018 年 12 月 29 日 更新