尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2014年10月26日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、自ら施身法法会を主法し、参会者達に珍貴な佛法開示を与えた。

今日の修める施身法は、中国語完全翻訳で、「施身断法二資糧速成法」と言う。施身法はチベット密法八大成就法のうちのひとつで、今生でこの法を修持して生死を解脱する。「断」は一切の煩悩を断つということで、「二資」は仏を学ぶには累積した福と智慧の資糧が必要であるということである。福は供養布施によって、智慧が戒、定から来る。戒は清淨を守ることで、定が発生する。定の定義はそこに座って動かないということではなく、妄念、雜念をしないということで、このようにすれば智慧が拓ける。もしも、煩悩を断つことができないなら、どんな布施供養をしても、福報は起こらず、僅かな人天福報が得られるだけである。人天福報はこの一生で絶対に使えない。布施供養をいくらしようとも、煩悩を断つ方法で供養布施をしなければ、出世の資糧は絶対に累積されない。

最近の食用油の粗悪事件は、いわゆる仏教団体の大功德主でもある。道理から言うと、こんなにも供養をしているのだからこんなにも大事になるはずがない。しかし、彼は戒めを守っていない。現在、台湾の多くの人が、左手で悪事を行い、右手で善事を行うという行いを犯している。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示しているが、善と悪は相殺できない。悪事ひとつをしても善事をひとつすれば、それで埋め合わせできると考えてはいけない。もしも、それが可能なら、正義がないし、因果もないことになる。けれども現在多くの仏教団体はこの方法を吹聴していて、多くの善事を行うことを説いても、悪を断つことを教えない。ゆっくり行えばよいと説く。彼はこんなにも多くの従業員を養わなければならないのだから、ある日因縁が成熟したらしなければ良い。あなた方はこのような話を聞いたことがあるし、多くの人がこのように言ったことがあると思う。あなたに先に言っておく。菩薩と縁を結べば、福報は自然に業に転じる。それは殺人犯に対して、彼は殺人を犯したのにそれでもあなたはゆっくりと殺しなさい!ある日、あなたが殺したいと思わなくなるまでと言っているに等しい。

事実、毒物を人に食べさせるのは殺人よりも怖い。今年年初,リンチェンドルジェ・リンポチェは、台湾で毒食品の問題があると予言した。けれどもリンチェンドルジェ・リンポチェは明らかには言わなかった。発生する前の事を言えば、人は彼を呪う。幸いにもリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に菜食することを要求しているので、この種の件の関わりは非常に少ない。けれども過去は食べてしまっている。なぜなら人は皆安さを貪るからである。法を人に弘める者であるなら、在家や出家に関わりなく、仏法の教えを守らないのなら、それは仏法を潰すことである。現在、世論は攻撃を始めた。仏菩薩に罪はない。けれども彼らはいわゆる慈善事業をしているので、事が起これば業がある。仏を学んでいても、慈善事業は世俗者に与えるものである!中国古代から今に残る仏寺、日本を含み、見てみれば、大雄宝殿はどれも皆小さいし、何の慈善事業もしていない。ただ災難があった時に、自分の有限の能力で罹災者を救済しているだけで、いつでも募金をしてはいない。けれども現在の仏教界全体は皆この様は雰囲気である。

この時、或る一人の信者の座る様子が不恭敬であったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは即座に叱責した。もしも、彼女は足が痛いのなら、立って離れれば良い。彼女は言い訳をする必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、1997年から仏法を弘法して今日に至るが、一人として座っていて足が折れたという人を見たことがない。彼女は足が痛いなら今、離れれば良い。彼女はまったく仏法を尊重していない。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示したが、彼女はそのようにした。足が痛いのが辛いのなら、仏を学ばなければ良いし、法会に参加する資格もない。彼女がもしもお金をあげる場所に行けば、叱られたりしない!法会に参加するのにこのように座っていいのか?足を組んで座ってもいいのか?彼女は自分の理由で足が痛いと思っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前痛くなったことはないか?あなた方が痛いだけで、リンチェンドルジェ・リンポチェには神経がないというのか?

あなた方は間違えている。リンチェンドルジェ・リンポチェは信者から始めたのだから、あなた方が言う事情はよくわかっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは信者の時、足は痛かった。けれども一度もあなた方のように足を伸ばしたりしたことはない。なぜ、しないのか?なぜなら敬意があるからだ!来るなら、それは苦を受けなければならないはずなのに、あなた方は楽を受けようとしているのか?寶吉祥仏法センターは費用を取らないのに、何の理由があってあなた方に楽をさせなければならないのか?あなた方がもしも、楽が欲しいのなら、1萬元を与えてあなた方に入らせない。仏法は、真にあなた方によって滅ぼされるだろう!他所ではあなた方にソファに座らせ、音楽を聞かせ、空調をかけている。チベットで仏法を聞きたいのなら、野外、草地、石頭上に座れば良い!今はこのようにきれいな場所があり、きれいな板場もあり、マットもあなた方にある。あなた方は、まだ自分の足が痛いと言うのか!リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに67歳になった。何も怖いものはない。ただ輪廻を断てないのが怖い。あなた方のお金を重要と思わない。あなた方を不快にさせるのを怖いと思うのか?

あなた方は法会に参加することでも悩みとなり、前の方でやっと煩悩を断つことを話し、あなた方はやって来た!自分の足が痛い、足が悪いと思うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方と条件をつけて、あなた方が満足するまで話せば、あなた方は法会に参加するのか?現在はあなた方が必要なのであり、リンチェンドルジェ・リンポチェが必要なのではない。けれども誰もが好奇心で試してみようとする。リンチェンドルジェ・リンポチェは試されるのか?試せるのは菩薩、尊勝なる直貢チェツァン法王で、、あなた方にはその資格が無い。

弘法人であるのに、信者と弟子に一切の悪を断つことを教えずにいたら、彼らは絶えずに煩悩を起している。弘法人であるのに、人の供養を受け取り、それでいて人に悪を断つことを教えないのは、供養を受け取る資格がない。寶吉祥仏法センターでは、皈依していない信者に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を受けない。なぜなら彼らから借りを作りたくない。皈依したのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは条件をつけて叱ることができる。なぜなら、その人は弟子だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは叱っても、借りを作ったことにならない。なぜならあなた方の行為をはっきりと見ているから。

人はひとつ悪事をしても経を念じれば相殺できると思っている。皈依文の中にはっきりと書かれているが、「諸悪するなかれ。小悪ならばすることができると思ってはいけない」。先ほどの信者は口答えまでしたが、それはすでに習慣化しているからである。彼女だけでなく、今の世の中の人は誰もが口答えをしたがるが、それは間違った考えである。自分の何処が悪いのかは、相手はわからないと思っている。だから、この世は益々乱れていく。仏法を弘める人が衆生に悪を断つことを強制しないのなら、衆生はどうやって仏法を学べばよいのか?弘法人自身の中でも含む。もし、衆生に悪を断つことを教えないのなら、それは悪に従うことである。彼を褒めるのは、供養を得るためで、彼が話を聞くかどうかはどうでもよい。だから《寶積経》の中ではっきりと述べているが、末法時代の僧衆は名聞利養のために、人に阿諛迎合し、仏法を捻じ曲げる。なんとひどいことだ!

仏を学ぶのに、なぜ煩悩を断たなければならないのか?なぜなら、我々の一切の煩悩は、自分の私利私欲と、貪、嗔、痴から始まるからである。もしもこの種の事を断たないと、福報は起こらないし、福報はないと、智慧も開かない。或る人は座禅を組めば智慧が開くと思っているが、ただ智慧があるだけで、福がないといけない。なぜなら菩薩になれず、成仏もできない。仏を学ぶのは、必ず福慧両者修めなければならない。それは上師の仕事である。もしも弟子が悪を断たなければ、福德を累積することができない。もしも弟子が悪を断たなければ戒めを守ることができない。戒がなければ福もない。福がなければ定力が現れない。定とは何か?即ち、心が如何なる情誘惑にも引き込まれず、世俗八法によって自分の心が影響を受けない。人が何か言うとすぐに飛び上がり、直ぐに反応し、すぐに言い訳をする。自分は傷つけられては行けないと思う。それが八風である。もしも智慧が開かなければ、福報は累積しない。そして累世の一切の業は今世で解決できない。今世で解決できなければ、絶対にまた輪廻し、念仏をいくらしても同じである。

多くの人は、淨土宗を修めれば業を持ったまま往生できると誤解している。それは善業であり、絶対に悪業ではない。何を根拠にしているのか?淨土五経でははっきりと説いていて浄土で生きているのは諸大善人であり、小悪人が行けるとは説いていない。生きている時にずっと悪を断たずにずっと悪を続ければ、今世で唱えたこと、拝仏は人天福報を生み出し、おそらくずっと後の累世でやっと用いることができる。今世で解決できずに来世まで待つのか?ミラレバ尊者はかつてこのように開示したことがある。もしも今世で輪廻を解脱できなければ、来世では地獄に堕ちる可能性がある。なぜ可能性があるのか?なぜなら、仮にあなたが今世で良く修行しても、来世であなたを監督する明師に会えなかったなら、あなたは地獄に堕ちる可能性があるからである。

もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが今世で因縁がなく、仏法に触れなければ、福德がなく尊勝なる直貢澈贊法王に会えなければ、必ず地獄に堕ちたと確信する。多くの人は、自分が今世で肉を食べたからと言って地獄に堕ちるとは思っていない。《地蔵経》の中ではっきりと述べているが皆はそれでも信じずに、地蔵菩薩の身の上にだけ起こったことで、自分には起こらないと思っている。地蔵菩薩のある一世の時の母親はすっぽんの卵を食べるのが好きだった。そして死んだ後、地獄に堕ちた。あなたが今世でどれほど食べたかを考えてみなさい。堕ちないわけがないだろう!なぜ現代人の多くは病気になるのだろうか?それはあなた方に代わって地獄に堕ちる根を断つからである。あなたは今世で仏を学んだが、煩悩を断っておらず、悪を綺麗さっぱりと断たず、だから病気になる。けれども皈依弟子なのであなたに浄土へ行くまで修行をする時間を与えている。

あなた方は、肉を食べても懺悔すればそれで良いと思ってはいけない。懺悔は何の意味があるのか?即ち、先ず責任を持ち、以後は決してしない。あなたは責任をもつと言ったのだから、人はあなたに催促せずに、あなたに時間だけを与える。懺悔すれば、それでよいと思ってはいけない!それはあなたが人から金を借り、人には金を借りたと言いながら、次には返金しなくても良いかと尋ねるに等しい。あなた方の現在の観念は懺悔しながら返さない。懺悔しても返さなければならない。ただ利子を退いてもらえるだけで、借金の額は減らない。例えば、100万元借り、あなたはそれを認め、責任を持った。それなのに、あなたは30萬元しか渡さない。けれどもあなたはすべてを返さなければならない。

歴代の祖師と修行者は何度も今世で向かい合う障害を示現した。あなた方の多くはおそらくチベット仏教の修行者を知らないが、あなた方は、六祖慧能が、その六祖慧能の根器で多数の障害を経て一代宗師となったことを知っている。あなた方はどんな素質があるというのか?座禅を組み、目を閉じ、仏教学院で学べば自分は修めることができると思っているのか?あなたは今世で苦しみを味わっていないのに、どうして債務を返せると思うのか?あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェがゆったりとしていると思ってはいけない。毎日リンチェンドルジェ・リンポチェは苦しみを受けている。衆生に代わってこんなにも多くのことを受けている。肉体はこれだけのことを受けている。ただ、あなた方は知らない。見ていないだけなのだ!

もしも、仏を学べば安楽な日々になると思っているのなら、あなたは来てはいけない。法会に参加したらあなた方の病気が治ると思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方の病気を止める能力を持ち、あなた方が病気を発症しないようにすることはできるが、あなた方の果報を止める能力はない。仏でさえも衆生の果報を変更することはできない。それはあなたが自分で改めるしかないのだ。よく話を聞き、確実に行い、適当にあしらうのではなく、先にしても後から菩薩にごめんなさいと言えば、構わないと思っている。我々が拝んでいる菩薩はどれも皆古仏が転じたものであるため、現代話はおそらく聞いてもわからない。けれども皆がこのような気持ちで仏を学ぶ。四衆とはそのようである。

あなたは自分に対して自己の悪を見る覚悟を持たない。いわゆる悪とは悪人のことではない。仏教で定める悪の定義は、あなたに輪廻をさせる様々な事情を指す。悪は良し悪しを指すのではないし、仏法の善悪の定義は、善人または悪人でもない。あなた方の善人、悪人の定義は、あなた方を傷つけたら悪人で、あなた方に良くしたら善人である。だからあなた方がニュースを見て、ある子が間違いを犯した時、父母は「そんなことはない!あの子は素直な子だ!」と言う。なぜなら彼は、子供は家族で、家族は皆善人と考える。選挙は間もなくあるがそれも同じである。あなた方が自分が好きな人であれば、彼がどんな間違いを犯しても問わないが、それは間違いである。

仏を学んで資糧出現を学ばなければ、絶対に生死の解脱はできない。どのように福徳資糧を貯めるのか?必ず一人の上師に従っていかなければならない。上師が厳格にあなたを監督し、あなたを気づかせる。場合によってはちょっとしたことでも間違いがある。ちょうど先ほど現れた懺悔の弟子のように、人が変われば大丈夫だと思う。カメラを横にずらすだけで良い。カメラを置くことはそれ程に問題なのか?針小棒大ではあろう!けれども、もしもリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女にこの件を言わなかったなら、この二年あまり、彼女は絶対に自分を考えることがなかったろう。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の代わりに移動させなければ、彼女は絶対に気にもとめず、叱った後で自分が間違ったことに気づいたことだろう。

悪の定義は何か?それは私利私欲であり、なんでも先ず自分のことを考え、人のことは考えない。あなたがアルバイトでも商売でも関係なく、永く続けたいなら、金銭面での争いを起こさずに、先ず人のことを考え、あなたは人の要求が叶えられるかどうかを考えることだ。できないのなら、いっその事相手にこの商売をしないと言ったほうがよい。それは先に良いという、やってみると言う、できるだけという、可能ならというのではない!それらは皆、人を騙す言葉であり、署名した後変更してはいけない。煩わしいことか?中国にはちょうどよい言葉がある。「先に小人後で君子」。好きでないなら、始めからはっきりと言ってしまえば、後で面倒な事にはならない。仏を学ぶ心はつまりそういうことである。自分が累世で積み上げてきた悪業は須彌山よりも更に高い。須彌山を消し去るのは簡単だろうか?もしも佛法の中、上師の功徳大海の中にないのなら、あなた自身の一人の力ですることは無理なことである。

チベットであれ、中国顯教であれ、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くを見てきた。もしも一人の力に頼るだけなら、わずかの人が修めることができるだけであり、それはすべて上師が助けたからである。それ故、中国唐朝後、淨土宗が盛んになったのは、六祖慧能の以外、自分に頼るこの種の根器の人がいないのだ、。故に、他力に頼ることは、諸仏菩薩と上師の加持である。けれども、中国顯教では上師の傳承はただ一世だけであり、次の一世はなく、再び転生した時、上師の加持はない。そして、密教の上師はと言うと、弟子への加持は生々世々であり、途切れることがなく、弟子が成仏するまで、絶対に加持される。それはつまり、あなたは衆生を済度するため、此の世に戻し、上師が見つからなくても上師は仏土であなたを加持する。仏経に於いて、この種の多くが提示されている。

今日は施身法を修めるが、人の煩悩が多すぎる。法会に参加するかどうかで煩悩し、法会に参加すると自分にとって良いかどうか、参加後はどうかと煩悩する。それはすべて煩悩である。更には自分は良くなったかどうか、より理解したかどうか、よりわかるようになったかどうかと考える。もしも、そうならば、あなたは本当に天才児である。たった一回の法会に参加しただけで、わかるようになると言うのか?六祖慧能ですら、詩を書くのに、すでに心は明らかであったが、もう一度五祖と共に、改めて心法を学習した。その詩はリンチェンドルジェ・リンポチェでさえ、書くことができない。あなた方のような凡夫俗人が何を以って自分が学んだから悟りを開けた、生死を解脱できたと言えるのか?

理論は別件であり、方法がないとは別件である。懺悔さえ、多くの方法があるが、懺悔すれば成功できると言う簡単なものではない。今日、施身法を修めるのは、皆に如何にして煩悩を断ち切るかを教えるためである。我々の最も珍貴なことは自分の身体であり、毎日多くのことをするのは、自分の身体のためにする。施身法だけで身体のすべてを諸仏菩薩に奉じて供養し、一切の衆生に布施する。あなたが自分の身体に対してはっきりと認識すると、生々世々で行う善業、悪業によって生み出した今世の肉体にすぎないことがわかり、その肉体をあなたに与えたのは、あなたに今世で債を返し、債を催促し、返し終わったら終了し、あなたは行く。もしも我々が今世で身体がなければ、仏法を学習して修行することができない。すべての諸仏菩薩は人道から修めてきたのであり、絶対に神明、仙ではなく、あるいは畜生が妖に変わって、妖が修行したのでもない。たとえ仮に仏経の中で提起した竜神であっても人の身を変換しないと修められないが、人の体でなければ仏法を修行することができない。

この身体は我々にとって複雑であり、悪いところがある。なぜなら我々はこの身体の功能と機能の要求を満足させるために、悪いことをし続ける。けれども、もしこの身体がなければ、我々は生々世々輪迴の後にやってくる後果を理解することができない。だからあなた方にこの身体を諦めることを教えるのではない。以前、釋迦牟尼仏は出家衆に「白骨観」を教えたことがある。現在はわずかな出家衆にこの法門を修めさせる。「白骨観」は自分の生老病死を観想するもので、老から始まり、自己の死まで終わってから、虫がどのように身体を咬むか、身体が水に変化するか、そして白色の骨に変化することで、出家衆が無常、死を観ることを教える。しかし、あの時代多くの人が深く観想しすぎる状況に入り、自殺したので、釋迦牟尼仏は、その時からこの法門をあまり教えなくなった。なぜなら各衆生の根器は、それぞれ異なるから。

だから皆はこの身体が重要であることを理解しなければならないが、あなた方に悪いことをさせるのではない。我々はこの身体があるので、毎日の生活でいわゆる人としてしなければならないことー出勤する、金を稼ぐ、ごはんを食べる、水を飲む等々がある。けれども人がしなければならない事と倫理道徳の他、もしもその範囲を逸脱したなら、皆ははっきりと見なければならない。例えば、僅かな金を得るために人が食べるべきでない物を人に売るのは、絶対に人がすることではない。なぜか?地獄に堕ちる準備をしているのだから。仏経中でも述べているように、もしも手抜き材料をごまかすと、死んだ後地獄に堕ちる。或る人は、仏はそんなにも厳格でないと考える。手抜き材料をごまかすだけで地獄に堕ちるというのか?これは仏が定めたのではなく、因果である。

なぜか?例えば、現在誰もが彼を詰っている。2千万人余りの人が皆、その人を罵っている。叱らなくても死ぬものだ。。その念力は非常に強い。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼は引き続き良いままでいられるかどうかは言えないが、その念力は真に重いということは言える。なぜ、おそらく地獄に堕ちるのか?なぜなら、こんなにも多くの人を傷つけ、人を傷つければ堕ちる。仏は一切の悪を断つことを教えていて、皆は小悪、大悪が何なのか分ける能力を持たない。だから、いっその事、しないことだ。何に基づく範囲なのか?即ち在家五戒、《仏子行三十七頌》に基づく。あなたは仏門に皈依して仏の弟子になったのなら、理解すべきことはこの37個の行為を生活の中で行う方法である。この種の行為は出家を表すものではなく、身、口、意の心態、行為、語言が仏弟子らしくある事を表す。仏弟子の行為ができないのなら、当然煩悩を断つことはできない。

仏法は我々に煩悩を断たせるのであって、煩悩を増やすのではない。もし、あなたが仏を学べば学ぶほど痛苦を感じるのなら、学ばないほうが良い。なぜならあなたは学び方を間違えている。仏法は我々を苦しめない。そして我々を自在にしていく。もし、あなたが仏菩薩はあなたを助けないと思うのなら、あなたは間違っている。なぜなら、それは仏菩薩と関係がない。なぜ、あなたを助けないのか?仏は「仏光普照」とはっきりと述べている。仏の光はずっと十方法界の一切の有情衆生を途切れることなく広く照らし続けている。衆生は仏光を感じることがない。なぜなら心が貪嗔痴で覆われているからで、どのようにすれば光に触れることができるのだろうか?盲になってしまったようである。仏の光は途切れることなく射していて、太陽と同じくずっと地球を照らし続けている。闇夜は太陽が見えないのではなく、回転しているので見えないだけなのだ。人も地球と同じく、半暗半明であり、心が明るい時には仏法は良いと思い、心が暗い時には仏法は悪いという。

或る一部の世界で白日闇夜の区切りがない。もし、淨土が分かれていずに、すべて明るいのなら、それは浄土だからである。どうして夜があるというのか?淨土に生まれ変わった人も寝る。蓮の花の中で横たわる。ベッドを用意しなくてもよいし、枕を交換しなくてもよいし、服を洗濯機に入れなくてもよいし、洗剤を足さなくてもよい。なぜ、淨土はそんなにも清淨なのか?なぜなら善なので、清淨なのである。なぜ地球は五濁悪世なのか?なぜなら人類の心が、そうだからだ。人類の心は邪見、煩悩で満ちている。

なぜ、我々は仏を学ぶのか?仏を学ぶことは我々に何かを増やすことではないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示してきた。仏を学ぶことは仏が我々に何かを与えることではなく、仏を学ぶことで多くの能力を得るものでもなく、我々が煩悩を減らすこと、断つ事を助ける。煩悩を減らすこと、断つ過程に於いて、福と智慧の資糧は成長する。もし、煩悩が断てなければ、福慧資糧は成長できない。道理は何処にあるのか?煩悩が断てない人は自然と自分勝手で、自分勝手な人は絶対に自分のために、供養布施し、三輪体空の供養布施ではない。

所謂体空はないのではなく、感じないのでもなく、今日供養布施はひとつの縁起を表し、一旦供養すると、縁は滅す。もしも、あなたが嘗て供養した事に執着すると、その供養空性の福を人天の福に転じ、自分が今世で生死を解脱するのを助けることができない。いわゆる空性は存在しないのではなく、縁生縁滅を意味する。もしも、供養の対象、人、物がないなら、供養は表れることができず、けれども供養の後、縁は滅し、供養無しの状態に戻るのだ。。

それではなぜ供養するのか?供養の後無くなったと言ってないか?いわゆる無いのであり、指しているのは動作が停止しているが、エネルギーは存在し、あなたの福報に変わる。けれども、もし、あなたが嘗て供養した事に執着するのなら、意識田の中で、その事情を覚えていて自分は善人なので、来世で善の果報を受けると思っている。だから、この種の供養の福は修行の資糧とするのに用いられない。資糧の定義は、運転と同じで、先に稼いでから車を買い、車を買ってからガソリンを買って入れ、それで車が動く。資糧とはそういう意味である。

もしも、資糧がなければ、それは空説白言であり、毎日念じても意味が無いし、何度拝んでも意味が無い。なぜなら資糧が貯まらないから。誰がずっと、あなた方のために、資糧を貯めるのか?それは上師である。上師が毎回修法するのは、あなた方に代わって資糧を貯めるためである。どのようにすれば資糧を早く貯めることができるのだろうか?自分の悪が減ったかどうかを見ることか?自分の心が不恭敬だと、心の中は多くの疑惑が起こると多くの人はいうが、それはどういう意味なのか?それは即ち、あなたの福資糧が起こらない。もしも、あなたの福資糧が起きたなら、自然にそのような考えはなくなる。なぜなら、この種のピュアな福はピュアな善から起こるものだから。あなたの心念が純善となり、悪がなくなったのなら、求めず、考えずに恭敬の心が出てくる。。もしも、煩悩を断つことから始めずに、仏を拝むことさえ、たくさんの要求をするのなら、それが煩悩である。

仏経上にははっきりと述べている。あなたが仏を敬い、仏を拝むことで、この種の功徳が始まることで、いつか悟るや実践できるなどを尋ねる必要がなくなる。《金剛経》の中で提示するように、もしも菩薩が、自分が衆生を済度すると思うなら、菩薩ではない。《寶積経》のなかで、釋迦牟尼仏は、菩薩道を行う人は同じように苦集道滅を修めなければならない。けれども修めるのは、智慧であると開示している。彼が四聖諦法の智慧を知った後、如何にしてこの種の事情に対面するか、処理するかを知らせ、理解しなければならない。けれども、證量を求めず、中に住まない。阿羅漢道は四聖諦法を修めて自了漢になり、自己の生死を断ち、それでも他人の生死を断つことはできない。なぜなら、中にいることを止め、自分は悟りを開いたと考えるから。菩薩と一般人が仏法を修行した差異はそこにある。通達が指すものは理解できるが、その境地の中に留まらない。あなたがずっと自分の悟りを追求して、その境地を追求するので、成仏できない。なぜなら、あなたは或る境地の中に定住する。

この種の体得は、もしも、あなたに開示する上師が一人もいなかったなら、あなたは自分を知らずにいるだろう。そして自分はよく修行していて境地の中にいると思っているだろう。そのことから、禪宗を修めるのに、もし歴代上師の心法を得ることができず、ただ座禅を組んで数呼吸しただけで、最高の境地である非想非非想天に入れると思うなら、きっと戻ってくるだろう。なぜなら、あなたはその境地に至ったことに執着しているから。あなたが執着心を生むだけで、一切空を破ることができず、十八空を破ることができず、法身になる資格もない。法身になれないのなら、何をもって成仏するのか?そのため、末法時代、この種の五濁悪世で修行する人は先ず、ひとつの目標を定めておく。それは仏土へ行くことだ。どの仏土へ行くことを望んでも、自分の期待が高すぎてはいけない。自分は他人と違うと思ってはいけない。他人はできないけれども自分はできると思ってはいけない。このような考えを持つ人は貢高我慢であり、貢高我慢の人は何を以って菩薩になるのか?もしも、自分は人よりも、うまく修行すると思ったら、人よりもうまく座禅を組むと思ったら、人よりも長く座禅を組めると思ったら、それは貢高我慢である。仏を学ぶことは、まったくひとつの心であり、心が明らかでないと危険であり、もしも主観だけで物事を進めれば、道を間違えやすく自分を知ることができず、自分は正しいと思ってしまう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が生きている間に、施身法を伝えたいと望んでいるが、誰もできないのではないかと危惧している。なぜなら、施身法は非常に辛いもので、多くの修行法門を経てやっと、自分の心の状態を調整できるようになり、完全に犠牲的に捧げることができ、慈悲心を養うことができ、その後菩提心を発する。慈悲がなければ自然と菩提心はない。もしも慈悲心を修めるのなら、先ず一切の戒律、《仏子行三十七頌》をやり遂げ、やっと慈悲心を養えるようになる。慈悲は絶対に良い事を言うのではなく、良い人になるのではなく、人に寄付を勧めるのではなく、人にスーツを着せるのではなく、絶対に違う。施身法は、広く大衆に利益できるものであり、衆生の離苦得楽を助ける。離苦とは輪廻の苦から離れ、永遠に不生不滅の楽を得ることを指す。世間の人に対しては、常に施身法を修めることで体が健康になり、自分が今世で生死を解脱する助けになる。六道の衆生に対しては、彼が必要で、輪迴の苦を離れたいのなら、施身法は有用であり、不慮の死を遂げた衆生に対しては特に殊勝であり、最も良いものである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、直貢噶舉施身法の修持を開始し、参会者達を率いて、六字大明咒を持誦し、無数の有情衆生を利益した。修法は円満となり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはアキ護法法本を新皈依弟子に配布するよう、慈悲深く指示し、護法儀軌與修持方式を口伝し、傳法前に開示した。

顯教では護法を修めない。ただ寺廟の中に韋馱と伽藍護法を置く。自分の家の精舍に韋馱と伽藍護法を置く人もいる。このようにすることは如法ではない。なぜなら韋馱護法は天帝のひとつであり、如何なる正法を修持する佛寺を護持すると宣誓し、伽藍護法は一切の守戒如法修行の比丘と比丘尼を護持する。。そのため、家で韋馱と伽藍護法を祭ることは適当ではなく、道場または寺廟ならばよい。顯教において、在家衆は護法を修めない。

韋馱護法は、非常に霊験が高い。以前リンチェンドルジェ・リンポチェが顯教を学んでいる時、師父はリンチェンドルジェ・リンポチェに一対の韋馱と伽藍護法の金身を供養するのを教えた。リンチェンドルジェ・リンポチェが供養した後、ある夜、韋馱と伽藍護法がすでに出来上がっているのをはっきりと見た。けれども金箔はまだ塗られていなかった。二日後、師父がリンチェンドルジェ・リンポチェを伴い、仏像を作る過程を見に行くと、結果リンチェンドルジェ・リンポチェがまたに見たとおりであった。

リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学ぶようになった過程は他の人と異なる。仏を学ぶ前の年の春節二日目、友人がリンチェンドルジェ・リンポチェを連れて廣欽老和尚に会いに行った。その時、廣欽老和はまだ存命で、毎年年初2日目は信者に加持をしていた。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェが廣欽老和尚に加持をして頂き終了した後、 廣欽老和尚の左手に立った。廣欽老和尚はずっとリンチェンドルジェ・リンポチェを見つめ、約2、3分見つめ続けた。その当時、廣欽老和尚はすでに喋らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは家に帰り、肉を食べると吐いてしまった。結婚した男性の誰もが通る苦しみがあった。家族は菜食になることに反対した。なぜなら女性がおかしい癖があるのだ。菜食にする男性は男らしくないと思っている。。リンチェンドルジェ・リンポチェの方法はとても簡単だった。彼女に吐く姿を見せた後、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに無理に肉を食べさせようとしなくなった。

リンチェンドルジェ・リンポチェが仏門に皈依した後、ある日、自分とたくさんの友人が一緒に食事をしているはっきりとした夢を見た。テーブルの上にはリンチェンドルジェ・リンポチェが以前好きだった海鮮がたくさん載っていて、それらの友人は、ずっとリンチェンドルジェ・リンポチェに海鮮を食べろと薦めている。すると突然、韋馱菩薩が出て来て金の剣を持ってテーブルを打ち砕いた。その後は何もなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の前世は顯教の出家衆であったと言い切ることができる。さもなければ今世で韋馱菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェを訪ねてくるはずがない。

昆明市には寺廟があり、リンチェンドルジェ・リンポチェは1991年に訪れた。その寺廟は非常に古く、本殿には霊がいた。リンチェンドルジェ・リンポチェが中に入ると、中には一体の建物二階ほどの高さの韋馱菩薩がいた。この仏寺は元朝時代に建立した寺廟だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは韋馱菩薩に跪いてこの寺の興隆を祈ったところ、言い終わると同時に光が表れ、霊は去って行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も試したが、幾つかの雲南信者は簡単な事をリンチェンドルジェ・リンポチェに頼んでくるので、彼らに韋馱菩薩に頼むように言うと、拝んだだけで直ぐに解決する。けれどもあなた方が真似て拝んではいけない。韋馱菩薩はあなた方を認めたりしない。なぜなら、いつでもリンチェンドルジェ・リンポチェは信者にリンチェンドルジェ・リンポチェの法号を呼べば有効になり、、さもないと効果は無いと言う。

なぜ護法を修めるのか?護法顧名思義は仏法を守る。喧嘩から守る、夫婦安泰または子供学業守、妻を娶ること、嫁ぐこと、それらとは関係ない。チベット仏教の護法は大きく二種に分けられる。一種は世俗の護法であり、或る人は健在の時に修めていて、発願し、或る教派、上師を守ることを誓う。往生後、彼は阿羅漢を証せず、鬼道と天道之間の護法を介在するものになり、世俗護法と称する。あるものはただ一家族だけを保護する。

他に、出世の護法がある。この種の護法は世間のものではなく、すでに法身に悟りを開いた人の護法であり、主に、修行を助け、仏を学ぶ障害を消去する。この種の障害は悪いことだけではなく、良いことも障害である。例として、突然にあなたが金持ちになったり、結婚したりすることも障害である。護法は主に、修行をする上での障害を消す助けをする。もし、世俗型の護法であるなら、人の習性が少しはある。もし、あなたが彼に対して恭敬でないなら、供養の物を置き間違えたことで怒ることだろう。そのようなことから、アキを修めることは比較的安全である。台湾の密教を学ぶ多くの人は、護法を修めれば無敵な鉄金剛になれると思っているが、そうではない。護法は主に今世で生死解脱が決まった修行者を保護し、あなたの起心動念さえも護法に守られる。

アキは、直貢噶舉祖師ジッテン・サムゴンの祖母であり、真に人間の祖母であり、石から飛び出たわけでない。アキは青海省に生まれ、父母は嘗てネパールの蓮師仏塔繞塔へ行って子を求め、求めたのは男子であったが、生まれたのは女だった。あなた方に置き換えると、それは霊験しないと思う。ある時、あなた方は菩薩を求め、上師を求めるのに、ほしいのと違うものをあなた方にあげた。。なぜなら、因果には逆らえず、更にあなた方は未来を見ることができない。だから、アキは生まれた時も人と違った。ちょうど《普門品》の中で提示しているように、娘を求めて娘を得た。そして美しく生まれたので、人々は皆敬った。アキが結婚して子供を産んだ後、その後、ジッテン・サムゴンが生まれた。法本の記載に依ると、アキは法身で悟りを開き、それは十地以上の菩薩であり、自分の浄土があった。今世ではもっぱらアキを修め、アキの淨土へ往生する。

アキは生きた時、母であり、祖母だった。だから子供を守ることができる。それはアキが大人を保護しないことを言っているのではなく、子供に対する慈愛が表れているということである。アキが往生する時、遺体を残さず、虹の光になって離れ、悟りを開いた山は今でも青海にある。離れるときに修めた法は、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが修める施身法であり、当時、アキが施身法を修め終えてこの世を離れた。アキは嘗て誓ったことがある。ただ直貢噶舉の弟子なら護持すると誓った。でも、心配することはない、,あなた方が悪事をするなら、アキは助けない。あなた方が悪事をするなら、罪が一層加わる。

法本を手にした弟子が悪事を行ったなら、例えリンチェンドルジェ・リンポチェが見ていなくても、アキは見ている。リンチェンドルジェ・リンポチェが、今日弟子に伝えるのは、寂靜尊のアキであり、起立している。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めたのは、武のものであり、馬を駆るアキである。アキの周りには、数えきれないほどの眷属がいる。だからリンチェンドルジェ・リンポチェがアキを口伝した後、もしも弟子の心の持ちようが正しくないならば、つまり上師、教派、仏法に対して恭敬でないならば、あなたがどんなに上手に隠そうとも、アキはあなたを表に出して、何回を試しても霊験だ。。だから、よく考えてからこの法を修めよう。アキに近づいてほしくなかったら、、修めないほうがよい。アキを修めるだけなら、アキは近づく。リンチェンドルジェ・リンポチェとアキの関係はあなた方よりも良いので、アキは必ずリンチェンドルジェ・リンポチェにわからせるだろう。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはアキ護法を修める儀軌を説明し、並びにアキを修めた後は、往生時に必ず保障すると開示した。なぜならアキはあなたを保護し、例え、今世で大福報を修めなかったとしても、アキはあなたの冤親債主があなたを浄土へ往生するのを邪魔したりせず、必ず役に立つ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、自らアキ法門を口伝し、皆に忠告した。リンチェンドルジェ・リンポチェが口伝した後、もし、あなた方が覚えられないなら、周りの人や師兄弟に尋ねてはいけない。なぜなら、彼らは伝法師ではなく、伝法の資格もない。仏を学ぶ人はいつも犯す戒がある。それは即ち、「打妄語」である。伝法人ではないなら、仏法を説いてはいけない。多くの人は、ただ人にあれこれ唱えることを教えるだけなのだから構わないと思っている。あなた方は、《寶積経》の内容を見たならきっと驚くだろう。法座に登って説法をする上師は20個の条件に符合しなければならず、どれかひとつが符合しなくてもいけない。多くの人がずっと修行をしているのに修めることができないのは、打妄語のせいである。打妄語の定義は、その果位でない者はその種のことを説いてはいけない。だから、あなたの身分が伝法する人でないなら、条件に合わず、それなのに、人にあれこれ唱えるのを教えているならば、それは戒を破っているということである。

灌頂と口伝の違いは、口伝後に法本を見る、唱える、修める権利が生まれ、灌頂は灌頂を経て本尊法を修め、今世で相応成就できると、伝法を始めることを指す。だから、灌頂を得ることなく勝手に伝法するということは、如法ではなく、特にそれは咒語方面にある。つまり、多くの人が大悲咒を念じても念じて成就する人は少ない。それは灌頂がないからである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、法本の一部内容を慈悲深く開示した。

アキは、三界(欲界、色界と無色界天)すべての衆生に対して別け隔てなく、仏陀の教えを護持した。あなたは仏陀の教えの道理にもとづいて衆生の願を満たさなければならない。この部分は非常に重要であり、もしも、あなたは仏が説く因果因縁から離れてアキを求めたなら、アキは滿願できないし、再び求めても意味が無い。例えば、或る人がポワ法を求めたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、毎日アキに求めよう教える。なぜなら、福報が足りないから。例え、リンチェンドルジェ・リンポチェが了承しても、それは因縁と果報があることを表しているわけではない。或る人は簡単だと思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが一言言いさえすれば、供養ができるが、リンチェンドルジェ・リンポチェが口に出さないと、アキも聞いてくれないと思っている。多くの人は、自分が求めると思っているがそれは間違いである!多くの人は、自分が求めたものだと思っているが、皆は仏経を見て釋迦牟尼仏は、弟子と多くの菩薩が法を求める前に、どうするかをと教えたか?釋迦牟尼仏は或る菩薩に何処へ行って仏法を聞くかを告げたので、自分が衝動的に行ったのではないし、自分がしたいから、したのでもない。

あなた方は、護法の祈りに対して、仏理から離れることはできない。それはちょうどある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに自分に代わって仕事を見つけることを求めているようだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに何の関わりがあるというのか?あなた方が仕事を見つけても、給料の半分をリンチェンドルジェ・リンポチェに渡すわけではないのに。確かにリンチェンドルジェ・リンポチェに関わりのないことであるが、リンチェンドルジェ・リンポチェを盲目に信じてもいけない。あなた方は皈依した後、当然ながら多くの障礙が消えるだろうが、どんなことでもリンチェンドルジェ・リンポチェと関係があると言ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは真に大変である。あなた方の仕事、出産、結婚、不病、淨土へ行くことを請け負わなければならない。

法本の中で提起される事業は、世間の事業ではない。多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェのところへやって来て商売が良くないので、リンチェンドルジェ・リンポチェに修法してほしいと言う。或る人は自分の事業が順調でないと言う。尋ねてみると、彼が言う事業とは、会社勤めのことだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の商売のことすら、財神法で自分の商売が良くなるように修法したことがない。法本の中で述べる事業は、仏が教える仏法は我々が自分でやることを指しており、病院を建てたり、罹災者を救済したりすることが仏の事業であるとは述べていない。仏は我々に生死解脱、自利利他を教え、それは即ち、人に代わって苦海を離れる手伝いをすることである。もし、あなたが自分で離れなければ、何を以って利他するのか?多くの人は、仏法を人に教えることは利他であると思っているが、それは正確ではなく、彼に代わって縁を結んでいるだけである。

あなたは自分で生死解脱を捉えているか?もしも、捉えているというのなら、利他する資格がある。これは簡単な道理である。あなたがアメリカに行ったことがないのに、人にアメリカはきれいだと言うか?どのように言おうとも、なぜそう言うのかを説明することはできない。ただ、本を見たとか、映画で見たから人に説明しているにすぎない。だから事業は仏が教えた一切を指し、我々はすべてを行わなければならない。このような修行方面はすべて吉祥であり、奇妙奇天烈なことは発生しない。いわゆる如意とは、あなたの夫が帰ってくることでなく、あなたの意のままに、あなたが浄土に行くことであり、障礙をあなたの意のままに減らすことで、それは護法の主な意図である。

皆は、迴向文をはっきり見たいと思う。迴向は眷属に迴向することではなく、眷属もあなたと共に仏を学ぶことで、一切の迴向文はそれを提示していない。迴向文の中で、この功徳を以って一切の障礙を遠ざけたいと願うと提示している。意味は、毎日アキを修めると、自然にこれらの障礙があなたから遠ざかり、求めなくても叶える、ある人が面倒であるからアキに彼を追い出させることを特別に求める必要はない。それは悪の心である。それは自然に離れる。なぜなら、アキがあなたを助けるので、あなたは信じさえすればよいのだ。

法本の最後は「輪迴の苦を受けない」である。なぜ護法を修めるのか?即ち、輪迴の苦を受けないためであり、病気のためでも、気分が良くなるためでもない。仏法が説くことは、すべて簡単で要点がまとめられていて自分で更に加える必要がない。仏陀にとって、我々に仏法を教えることは、即ち、我々に輪迴の苦を受けさせないためである。釋迦牟尼仏は、この大事のために、地球に降りてきた。だから、あなたが求める別のことは受け入れない。もし、あなたが輪廻の苦を受けない事を求めたのなら、ただ離心を肯定さえすれば、絶対にあなたの願いは満たされる。もしも、あなたが輪廻の苦を受けない願いが満たされたなら、すべての障礙は自然に減り、消えてゆく。しかし、愚かなあなたたちは求めることさえもできない、一日中、世間の小さな問題を求めている。

あなたが、もし輪廻の苦を断つ決心をしたなら、諸仏菩薩、すべての護法はあなたを成就する。当然、危険があり、友人がいなくなるかもしれないし、親戚がいなくなるかもしれない。だから、あなた方は少し慎重になり、はっきり考えるべきだ。けれども話をもとに戻すと、我々は在家である。《寶積経》の中で提示するように、もしも今世に眷属の縁があるのなら、それは受け入れなさい!だから、家に帰って、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたは、眷属がないと開示したと家族に言い、離婚の理由を作るようなことは正しいことではない。

いわゆる障礙の重要な点は、あなたの心が最も大切である。一切の人事物は妨げることはできない。最も大切なのは、あなたの心であり、自分の心はこのような決定をしない。仮に障害がなくても修めることはできない。だから世間の理由を探し出してきてリンチェンドルジェ・リンポチェが今日解釈した仏法としてはいけない。あなたの心がもし、決定しない、出離心が強くない、無常を深く信じないなら、それは障害である。なぜなら、あなたは仏法を世間の物として用いているからである。しかし、おかしなことに、あなたが輪廻解脱の決心をした人ならば、自然に世間法はあなたの障礙に対して減っていき、場合によってはなくなる。これらの障礙はゆっくりと少なくなる。なぜなら、あなたの心はすでに決めているから、それらは元々あなたを誘惑しようとしていたが、その人がすでに決めたことを見て、面白く無いと思って離れた。だから、大切なのは自分であり、心を定めなければ、100萬年間話しても変化はなく、成就できない。迴向文は簡単で簡潔である。けれども十分に大切である。最後の一句は仏法すべての精華である──輪迴の苦を受けない。

だから、もしあなたがもう少し加え、息子の健康がよくなり、彼に修行させる事を求めても意味は無い。アキを騙してはいけない。アキは騙されにくい。なぜならアキにはたくさんの眷属がいて、あなた方はどのくらい眷属がいるのか知ることもできないほどだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの子供でさえ、後ろには派遣した護法がある。あなた方がアキを修めると、世間の災いはなくなる。ただ、あなた方が悪を断つだけで、仮に世間の災難が表れても、《普門品》の中で提起したように消えていく。例え、現象があってもあなたを傷つけたりしない。それは即ち、或る人があなたを傷つけようと用意をしていてもあなたから離れるという事である。

去年,リンチェンドルジェ・リンポチェは急にネパールに行くことを取りやめた。なぜなら、アキがリンチェンドルジェ・リンポチェに言ったから。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢澈贊法王に報告し、直貢澈贊法王はリンチェンドルジェ・リンポチェは敏感すぎると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢澈贊法王にアキに尋ねてほしいと頼んだ。出て来た結果は全く同じだった。アキは先ず、リンチェンドルジェ・リンポチェに行くなと言った。だから、あなた方は怖がらなくてもよい。ただ、あなた方がアキに対して信じさえすれば、上師が伝えた法について、説いた話に対して信じさえすれば、あなたは今世で絶対に事故で死なないし、非時死もないし。例え、病があなたに痛みを与えても、絶対にあなたが今世で福徳が足りて浄土に往生できるのに足りる時間を与える。

法会は円満となり、弟子たちは声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに殊勝な修法、伝法と開示に感恩し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りるのを恭しく送った。

  • 法会の始まる前、弟子の分かち合い内容(衆生済度の事跡No.691

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    2019 年 02 月 24 日 更新