尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2014年6月08日

法会の開始前、2011年9月11日に皈依した弟子夫婦が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受けた経過に感謝し、それを称揚した。

まず、妻が口から、貴き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する感謝の言葉が述べられた。彼女はかつて、脳梗塞を患い発声が困難になったが、経験を分かち合う際は自分の言葉で語るリンチェンドルジェ・リンポチェが度衆の大いなる慈悲が心にみなは心から感動し、さらに夫がみなと経験を分かち合った。

2011年4月9日午後、彼らがテレビを見ていたとき、妻は突然話をしなくなり、目は前方を見ながら、右手右足がしびれて力がなくなった。彼は二ヶ月前と同様、一眠りすれば回復すると思った。しかし夜の7時すぎになっても、妻の右手と右足は少し力を取り戻したものの、話はできないままだった。妻に食事をするかと聞いたところ、妻は頭を振っておなかがすいていないという意思表示を行った。彼は気にせず、妻がもう少し眠ればよくなると思った。

翌日の朝9時過ぎ、妻が目覚めた後、状況は改善しておらず、彼は可笑しいと感じ、急いで近くの病院に検査に連れて行った。その時、主治医にしかられた。「脳梗塞だ。なぜ今になってようやく連れてきたのか」ここで彼は、低血圧で僧帽弁閉鎖不全を患った妻が脳梗塞になったことをようやく知った。彼の無知から、脳梗塞治療の黄金のタイミングを逸し、話ができず、鼻からの管で栄養摂取をせねばならい状態にしてしまった。妻は右手と右足に力が入らなくなったのみならず、右側の顔面神経も失調を来たし、よだれが無自覚のうちに流れ出し、常によだれでぬれたシーツや枕カーバーを変えねばならなくなってしまった。

17日の入院期間中、抗凝血剤の注射のほかに、妻は高圧酸素や針灸などの治療も試したが、初期に若干の改善があったものの、後になると進歩は見られなかった。この期間、彼の弟と弟の嫁が道教の兄弟子とともに見舞いに訪れた。この兄弟子は、彼の妻は霊に付きまとわれているが、もう一方おりに中つ国のものでない菩薩が守っている、と言った。このとき彼は、妻が以前に「チベット仏教直貢噶舉派阿弥陀仏無遮大済度法会」に参加したことを思い出し、法会の菩薩が守ってくれたのではないか、と思うようになった。そこで、ただちに妻を大法会に紹介してくれた兄弟子に連絡した。彼は、この兄弟子の助けに感謝し、これから大いなる徳を備えた大修行者——尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとめぐり合えたことを喜んだ。

兄弟子の助けを得て、4月23日に彼は病院に申請して、妻を連れて寶吉祥仏法センターに赴き、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を受けるべく面会を求めた。当時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く彼に、菜食しているか、とたずねた。彼は、菜食するるようになって、すでに7日が過ぎた。今後は永遠に菜食する、と答えた。話のできない妻は、うなづいて菜食する意欲を示した。続いて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛杵で彼の妻の頭上で長い時間加持を行った。その週、妻の顔面神経失調も明らかに改善し、よだれも流れなくなり、手足にも少し力が入るようになった。全体の情況も安定し、退院できる運びとなった。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持が、妻の病状の驚異的な速さで回復させたと感謝した。

退院したばかりの時、妻は鼻からのチューブで栄養摂取しており、朝と晚は彼が食事を与え、昼食は大学生の息子が講義のないときに責任を負った。しかし息子に講義のあるときは、昼間に妻の面倒を見るものがおらず、彼はこのことが気がかりだった。しかし退院後二日目の夕食時、妻は鼻のチューブをはずし、口で食事をしたいという医師を示した。しかし医師からは、食物を誤嚥して肺炎になる可能性があるので、はずしてはならないと申し渡されていた。しかし妻がどうしてもと言って聞かないので、その通りにし、芋粥を買ってきて食べさせた。このとき、不思議な事が発生した。入院して17日間、ずっと鼻から胃に通したチューブで栄養を摂っていた妻が、口で一口ずつゆっくりと食事したのだ。さらに翌日には十穀米を摂取し、見舞いに来た妹も不思議がった。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、妻の回復がこれほど早いはずはない。

退院時は一言も話をすることができず、外に出て他の人と向き合うことを嫌がった妻が、今では一部の記憶喪失と言語や発音が不明瞭であるほかは、以前同様に街に出て買い物をし、家事をこなすまでに回復した。彼らは、これらすべてが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの絶え間ない教えと慈悲の加持によって、深刻な言語障害の妻が迅速に回復し、人々とも向き合えるようになったものと感謝している。彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大いなる威徳の力の加持に感謝している。

彼はこの機を借りて懺悔した。幼かったころ、父母が家計のために努力して仕事しているとき、弟や妹の面倒を兄である彼が見なければならなかった。しかし彼は気が荒く、頻繁に弟や妹に暴力を振るったため、弟や妹は彼を恐れ、さらに父母に口答えすることも多かったことから、彼は自分がとても不孝で、大逆不道な悪行を行ったと思い、ここで父母に懺悔した。青少年時代、ポルノ刊行物や覗き行為を好み、社会に出た後も飲む打つ買うなどのさまざまな悪習に染まり、みだらな行為や飲酒、喫煙、賭博などの悪行にうつつを抜かしたことを懺悔した。職場においてもまじめに精進せず、貢高我慢で、時には上司を批判し、同僚の非をあげつらい、経営者と細かなことを争い、公の資源を公的に利用し、サボったり悪口や妄言、窃盗などさまざまな悪行に身を染めたことも懺悔した。そして自分の欠点を反省することなく、ただ天と人を怨み、悪人が常に自分を落としいれようとしていると思い込み、長年怒りっぽく恨みっぽい情緒を溜め込み、家族の生活を不安な気分に陥れたことをも懺悔した。

彼は幼いころ、水に溺れさせたり、火で焼くことで無数のありを殺し、数え切れないくらい多くの蚊やゴキブリ、ネズミ、スズメ、ヘビなどを殺した。またニワトリやアヒル、ガチョウ、ブタ、ヒツジ、ウシ、ウサギ、カエル、ハクビシンなどの動物を食べ、またエビやカニ、ハマグリなどの海産物が好きだったことも懺悔した。結婚した時、肉や魚の大宴会を催し、妻が出産し、産後の肥立ちを助けるためにトリや魚で栄養をつけるなど、食欲や滋養強壮での欲望を満たすために、無数の衆生を殺傷した事を告白し、彼に殺され食べられた衆生について懺悔した。彼は自分ほどすべての悪行に手を染め、殺害の業の深い者にもかかわらず、この世で幸いにも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに生命をかけて正法を弘揚してもらえたと感慨深く語った。そして、衆生を救う得がたい上師であり、その 上師の絶え間ない教えと導きと加持のもと、彼の人生も変化し始めた、と語った。

皈依する前の彼は、情緒の起伏が激しく、常に小さなことで家族に当り散らし、妻とけんかするなど、家の中では時限爆弾のような存在だった。家のなかには長期間低気圧が漂い、子どもたちの過度に抑制的な性格を起し、彼との関係も次第に疎遠になっていった。また、心の中ではこの家を離れたいと考えるようになり、家庭内の空気は凍り付いていた。しかし皈依した後、彼と家族の関係は次第に改善され、弟や妹との間の感情はうちとけたものとなった。最近一年来、宜蘭の実家で年越しをする際のお供えはすべて精進料理となり、法会に参加したことのなかった父親も、去年は「阿弥陀仏無遮大済度法会」に参加した。ここで彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの彼と家族に対する世話に感謝するろろもに、彼の父母がこの仏法を聞く福報にめぐまれたことにただひたすら感謝した。彼は今生 上師に従い、仏法を学ぶよう努力することで、 上師の恩、仏の恩、父母の恩、衆生の恩に報いることができると語った。最後に、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ法体の安らかですこやかであり、法輪が常に回転し、仏法の事業が永遠に栄えるよう祈念した。
続いて、二番目の弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが家族を助けたプロセスの経験と自分のさまざまな悪業を発露懺悔したその過程についてみなに分かち合った。

彼女の父母はみな皈依して弟子となり、彼女は2009年3月22日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、その後まもなく米国に留学した。

最近彼女の父親は陶芸の仕事の際に転んで背中を怪我した。当初は大したこともないと思ったが、針灸を一ヶ月ほど続けるうちにいよいよおかしいと感じ、病院でレントゲンを採ってもらったところ、検査の結果、医師から父親の脊椎は圧迫性骨折であったことを告げられた。医師はさらに、父親は必ず二ヶ月横になって安静にせねばならず、コルセットをつけねばならないといわれた。父親は、病の痛みは自分の業に対する報いだと感じ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェをわずらわれてはならないと考えたため、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにこのことを報告しなかった。

あるとき施身法の法会を開始する前、彼女の父親は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが頚椎をもんでいるのと見て、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎はS字型に大きく曲がっており、コルセットをして横に成らねばならないはずなのに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回の法会で法座に数時間の長きにわたって座り、自分の辛さを省みず、ただ一心に衆生の利益のためだけを考えておられるのを思い出し、自分の背中の痛みなど大したことではない、と考えた。ちょうどこのとき、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大衆の面前で彼女の父親に背中を負傷したのではないか、とたずねた。そして、慈悲深く彼女の父親に貴重な的チベットの薬用入浴剤で入浴するよう教えた。彼女の父親は、陶芸の仕事に従事しており、いつも腰を曲げていた。幸いにも貴重なチベットの薬用入浴剤で痛みを軽減することができた。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいつも衆生のことを思い、衆生の利益のために自分の事をまったく省みないことを称賛したうえで、このことからも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ初音にいつも最高のものを弟子たちに分け与えており、弟子たちもこれを大切にしなければならないと語った。

1年少し前、彼女の父親は検査の結果肝炎をわずらっていることがわかった。西洋医学の医師は、精々あと3年の余命だろうと言った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、彼女の父親が道場を訪れて面会を求めた時、何度も加持をした。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の救護によって、本来は西洋医学の医師に3年の余命と宣告された病状も、現在では検査医師も安定しているといい、ほとんど何の兆候も見られなくなった。

一度、彼女の父親が道場に来て面会を求めた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父親に、何か心配事でもあるのか、ときいた。すると、彼女の父親は、娘の学業を終えさせることができるかが心配だ、と答えた。彼女の学ぶ大学は学費が高く、いちど父母に学費が支払えなくなりそうになった時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、その場で彼女の学費を支援してくれたため、順調に学業を継続することができた。さえらに、兄弟子に対して、彼女が国外で就学する際も家人に心配をかけず、学習に専念し、ボーイフレンドと交際しないよう注意した。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが国外で学ぶ弟子の細かなことにまで関心を寄せ、また生活や交友情況にまで心配してくれることをありがたく思った。

しばらくして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの予想していた事が、彼女の生活の周辺で発生した。キャンパスの中では仲間たちが学業のプレシャーから飲酒はドラッグなどの悪習に染まったが、弟子である彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と助けのおかげで、まったくマイナスの影響を受けず、心静かに勉強に励むことができた。彼女の学ぶ学校は実習を重視し、彼女も実習の機会を渇望していた。喜ばしいことに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の願いをかなえ、夏休みに会社の室内装飾部で実習する得がたいチャンスを与えてくれた。装飾部で出勤する時、アルバイトの彼女はその中で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいかにスタッフを大切にしているかを知った。

そして、彼女は自分の犯した数々の悪行を懺悔した。彼女は、自分がずっと自己中心的な考え方で、自分が他人よりも優れていると感が、虚心に帰って教えを受け入れることがなかった、また自分は努力しており、よい結果が得られると思っていたが、因果の無常を完全に忘れていた、自分の思うような結果が得られず挫折した時、先生に不満を抱いたことなどを懺悔した。彼女は自己中心的で親不孝であったことから、授業のあった時期に忙しさにかまけて何日も家に電話をかけなかったこと、父親が背中を怪我したことも知らなかったにもかかららず、自分が不如意な時に父母に電話出口をこぼしたことを懺悔した。また、自分の不注意と無責任から費用の支払いを忘れたり、物をぬんだことを懺悔した。また自分の行き届かない心遣いと不注意から、帰国前にパスポートの期限切れに気づき、もう少しで台湾に戻れなくなりそうだったことも懺悔した。

彼女は、自分が教えに従ってしっかり実践せず、仏法を生活の中で運用せず、また上師および三宝に誠の尊敬の心を起せず、また常に自己の経験に頼って自己中心的に他人の行為を批判していたことを懺悔した。毎日仏法で自分の言動を仔細に検討せず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示にしたがっていたかも検討していなかったことを懺悔した。また、他人に対してだけ厳しく、自分に対しては厳しくないこともざんげした。同時に、彼女は自分が自分を改めることをしっかりと決意せず、つねに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けにだけ頼り、自分悪習を直視しようとしなかったことも懺悔した。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えと思いやりに感謝した。彼女は懺悔するとともに、これからは自分の問題を直視し、しっかりと修練し、悪い因を造ることなく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェからしっかりと仏法を学ぶことを願った。彼女は人の身を得る事が難しい、仏法を聞く事が難しい、上師に会うことが難しいと思い、この一生を大切にし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学ぶ得がたい縁を大切にせねばならないと思った。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安らかですこやかであり、法輪が常に回り、直貢噶舉法脈が永遠に伝わることを祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座に上って自ら殊勝なる縁度母(縁多羅菩薩)法会を主法し、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

今日は縁度母四曼達供奉儀軌を修める。この法本は蓮師が自ら伝えた岩伝法であり、法本中の特色は二十一度母の祈祷文を包括することにある。仏経のなかで取り上げている観世音菩薩は衆生を済度する事が難しいのを見て、急いで2滴の涙をこぼした。そのうちの1滴は白度母となり、もう1滴は縁度母となった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を始め、また修法が円満に終了した後、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

今日唱えたのは縁度母本尊咒で、多くの咒語の最後に「ソハ」の二文字がある、以前中国では「娑婆訶」と翻訳していたが、これはどういう意味か。以前リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時、ずっと「ソハ」と唱えていたが、そこでなぜ多くの咒語の後とにこの二文字があるのかを考えたが、誰も知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは無上の瑜伽部を学んだことで、ようやくこれが重要であることを理解した。もしこれを念じなければ、この一生は生死から解脱できないのだ。この二文字はどこで使うのだろうか。それは密法を学んでいない者には教えることはできないが、これがとても重要なことは教えておこう。

もし咒語で金儲けでき、魔除けや厄除けができると思うのであれば、それは間違いだ。どの咒語も、体の中の業気に向けられており、私たちがよくない心を起こして悪事を働くのは業気と関係している。咒語を唱えることで、よくない気をきよめることができる。念頭を起こすのは気短だからで、もし貪欲であれば欲が重いほど一日中他者の日をあげつらうことになり、気も短くなり、呼吸と心拍も他人より早くなる。

簡単に言えば、さきほどリンチェンドルジェ・リンポチェが皆を率いて本尊咒を唱えたとき、あなたたちは自分で何句ごとに息継ぎをしたかわかっているか。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家した弟子に何句ごとに息継ぎしたか聞いたところ、その出家した弟子は12句読んだだけで息継ぎが必要になったとこたえた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、出家した弟子にもう一度試みるよう指示を下したところ、結果は12句を超えずに息継ぎをしていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き、いま弟子に百字明咒を伝えても、もし百字明咒を息継ぎをナシで唱えることができれば、定力があるといえる、でなければ出家した弟子がいった12句は、その間に息継ぎをしたことになる、と開示した。どうすれば、自分が息継ぎをしたかどうかがわかるのか。リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛を唱える時、つまり念じる時に口は動かさないのだ。百字明咒を唱える時、もし100個の字の中間で息継ぎをしないのであれば、その定力は十分と見なされる。

なぜずっと息継ぎをするのか。それはあなたたちがまだ定まっていないからだ。あなたたちの持咒の速度は遅めであることから、息継ぎをせねばならなくなる。息継ぎは心が動き続けていることを示し、もし心が動かなくなると気も動かなくなる。もし咒語に専念すれば、息継ぎを繰り返す必要はなくなる。唱える声の大小にかかわらず、いずれも息継ぎをしていない事を意味しない。多くの人は唱える時、半分ほど唱えると口をあけて息継ぎするが、感覚的に息継ぎをしていないように感じるだけだ。

金剛誦の口は動かさないが、声を出して読まねばならず、これには禅定と自分の気脈のコントロールが必要になる。禅を修める人は体で憶えており、膳を通じて自分の血圧や心拍、呼吸をコントロールする事ができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分でも何度も試しており、一旦禅の境地に入ると血圧は下がり、心拍もゆっくりと也、呼吸もゆっくりとなる。多くの人は、仏を学ぶことは懺を拝み、念仏を唱えることと考えているが、このプロセスで最も重要なことは自分の心が変わったか否か、純善さを修めることができたかだ(いかなる考え方にもあくがあってはならない)。

金剛乗の中には厳格な戒律──自己が凡夫の念頭を起こせば、菩薩の戒めを破ったことになる、という一条がある。なにが、凡夫の念頭か。どんな事情も現在のためであり、衆生のためではなく、いずれも自己のためだ。多くの人は仏を学ぶというが、実際には何も学んでいない。あなたたちが持咒とすると学んでいないことがすぐにわかる。それはあなたたちの呼吸がまだ凡夫の呼吸だからだ。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェだから、当然できるのだと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは当然これを修めているが、あなたたちは誰でも仏の教えるすべての方法を学ぶ資格と時間があることを信じなければならない。

如果もし仏を学ぶ人までもが、自己の身体の健康をコントロールできないのであれば、福を修めたとはいえない。福を修めていなければ、自分で切り開く能力も持てず、門外漢であり続け、表面的なものしか得られない。仏法は試練に耐え得るものであり、検収でき、口先だけのものでもなく、人が多くても表に出さないものだ。仏の言うところのすべての事情は私たちの身体、意識、法性と関係しており、余分なものはなく、歩くだけでも啓示がある。なぜ菜食するのか。もし菜食しないと、体内のすべての細胞は動物と同じでだ。では、止めることはできるか。動物は眠っていなければ食べており、すべての意識の反応は食事と睡眠、伴侶探しだ。しかし動物にも霊性はある。

このたび国外において、リンチェンドルジェ・リンポチェはといことを目にした。火の供養を終えて多くの米を撒いたとき、リンチェンドルジェ・リンポチェは一羽の老いたスズメが階段の上に立っており、3羽の小スズメが順番に階段から草地に飛び降り、米をくわえて老いたスズメにたべさせているのだ。階段はそれほど高くないが、老いたスズメは跳ねることができないのだ。小鳥でさえ老いたものの食事を助けている。もし何羽かで食事を助けているのであれば、一羽だけでないことを意味する。私たちは人間ではないか。現在の台湾では大な問題が発生しており、年長者や高齢者を尊重しない風潮がある。仏法やすべての人を等しく尊重せず、自分だけを信じている。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、病いはどのように起こるか、それは自分の心に病気があるからだ、と開示したことがある。多くの人は手術をすれば病気がよくなると思っているが、実はそれは余計なことで、かえって問題を悪化させている。縁度母の咒文がわずか10文字と短いにもかかわらず、いまだに灌頂を授けていないので、これを修めることができてない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェはみなと縁を結び、みなに縁度母と深い縁を結ばせている。法本の記載によると、持咒の時、もし唱える声が大きすぎたり、声が出ていなかったり、乱れていた場合、効果を生む事ができない。声が大きすぎつのは奔放に過ぎ、己の心を修めていないため、大声で読むことで自分のことを思う心を抑えていると考えているのだ。ある人は自分が上手く読めていると思っているが、まだ所定のレベルには達しておらず、声を出して唱えるにしても、他者の邪魔にならないよう似せねばならない。

今年の大法会が取り消しとなったことで、多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェが怒ったためだと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが、なぜ怒るものか。すでに気がなくなったのだ。最も重要ないくつかのポイントを挙げよう。参加者の多くが、菜食していない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを責めないが、あなたたちを責めている。これらの人はあなたたちの友人や親戚で、彼らが菜食しないのは、あなたたちが福報を修めず、他人に影響を与えていないためだ。さきほど法会の前に経験を分かち合った弟子も、阿弥陀仏無遮大済度法会に参加すれば護法の保護があり、彼女も死ぬことがない、リンチェンドルジェ・リンポチェのいっていることはすべてできている、と言っていた。しかし、あなたたちは仏菩薩と約束した事情はできているだろうか。

さらに、先月リンチェンドルジェ・リンポチェへの報告のなかで、現在までのところ登録者数は唯数千人とあった。こんなに大変なのに、なぜやらねばならないのか。ある人は8月なので、多くの人は最後の一ヶ月に決定すると言う。もしそれほど無理をせねばならないのなら、法会に来なくてもよい。これは、彼らが拝みに来たいだけであり、法会を尊重していないためで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが数ヶ月前からアレンジできないなどと信じてはいない。リンチェンドルジェ・リンポチェも高齢で慎重だが、リンチェンドルジェ・リンポチェと護法に頼れば、人数が大幅に増えると思わないで、もし誰もいなかったらどうなると言う事を考えたことがあるか。さきほど、5月末までに大法会を護持する必要な経費が700万あまりであることを知った。もし各人が毎月2000元を貯金すれば、1年で24000元たまるのだ。これでもまだ足りないだろうか。しかし、誰もそのように馳せず、ある物は自分には金がないを思い、お金を持つ人が多く出せばいいからかまわない、その時になえば誰かが必ず金を出すと考えている。この種の心理状態は健全ではない。大法会は功徳主を設けておらず、完全に寶吉祥の弟子の力で運営されており、もしみなにこのことをなす能力がなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは9年前から大法会を開催することはなかった。開催したのは、みなにその能力があったためだ。

寶吉祥仏法センターは誰も餓死せず、誰も流浪せず、食事できるようにしている。苦しいか否かを問わず、少なくとも食事はできる。これ衆生のことで、もしみなが気にしなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは何ゆえに気にする必要があるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは功徳を貪る修行者ではなく、他の人のように大きな寺を立てて多くの衆生を引き寄せようとする事はない。経典のなかでは、仏菩薩は衆生を済度する事について、縁に従うと書かれており、縁がなければ衆生を済度しないのだ。なぜ釈迦牟尼仏は70数歳で亡くなったのか。仏の能力があれば、700歳まで生きることもできるのだ。それは善い縁が具わっておらず、地球の人類の福報が不十分であったためだ。信じないかもしれないが。リンチェンドルジェ・リンポチェもいつかはこの世を離れるのだ。

これほどど多く語ったのに、昨日すでに共四加行を伝われた弟子がやってきてリンチェンドルジェ・リンポチェに彼女が皈依境で一角を焼いたと告げた。もしリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたたちに皈依境の法写真の価格が1000万だと告げた場合、これを燃やせば1000万が亡くなってしまうとなれば、あなたたちはこれを燃やすだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼いころから道教を学び、36歳に仏法を学びはじめたが、これまで何かを燃やされたことはなかった。それはなぜか。それは、護法の神がいるからだ。なぜあなたたちの護法の神は家にいないのか。それは、あなたたちの心にいないからだ。あなたたちは護法アキを修めているつもりのようだが、アキはあなたたちの家に来ただろうか。

あなたたちは今日、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたたちに親切だと思うか。実際は、尊勝なる直貢チェツァン法王がこの晚会を主催するに当たって、かならず法を修めねばならないのだが、あなたたちにさまざまな問題があることを心配している。仏が語る衆生を見捨てずとは、あなたたちが言うことを聞かなくとも、あなたたちを抱きしめ続けることだ。もし話を聞かなければ、仏菩薩は早晩離れてゆくだ。仏法を聞きたいと言えば、教えてもらえるなどとと思ってはならない。そんなことはないのだ。もし生死から解脱する決心がつかず、善縁をそなえていないのであれば、すべての上師は離れてゆく。これは経典で述べられていることで、リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したものではない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが縁度母を修めたのは、あたたたちのためだ。これからリンチェンドルジェ・リンポチェは仏法について語ることがますます少なくなる。言っても意味がないからだ。十数年語ってきたが、昨日ある弟子が皈依境で一角を焼いてリンチェンドルジェ・リンポチェに見せたが、これは不当なことだ。もし仏法と関係のあるものを重視し尊重するのであれば、焼くなってとんでもない事だ。尊勝なる直貢法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに書いて寄越した一枚の紙でさえ、リンチェンドルジェ・リンポチェはありがたくしまっているのだ。ましてや皈依境にいたってははなしにならない。ある人はさらにひどく、護法とリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真さえも焼いてしまうのだ。幸いリンチェンドルジェ・リンポチェは苦しみを畏れないが、そうでなければあなたたちに焼き尽くされてしまうだろう。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を焼き、また護法の法写真も焼いてしまった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたたちが五体投地をすることに敬服していた。これほど多くの仏を学ぶ人に出会ったが、寶吉祥の弟子の家にある法写真が火で焼かれるのは目にしなかった。少し聞こえをよく言えば、もともと家で火事が発生するかもしれなかったのに、上師と仏菩薩、護法がそれを防いだのだ。しかし、結果はみんな心から学ぶことをせず、したいようにし、自己中心的になっただけだ。みんな自己本位で、リンチェンドルジェ・リンポチェが法会を取りやめることを信じなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが冗談を言っていると思い、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲の心を見せると思っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは当然慈悲深いが、衆生に仏法を利用させる事はない。これは仏を謗ることよりも深刻なのだ。

もしリンチェンドルジェ・リンポチェが9年間大法会を行ったにもかかわらず、みなが改めないのであれば、続けて行っても他の人は仏法を誤解するだろう。もっとも、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの9年来、大法会を行ったことで、いまひとつの現象が見られる。それは各地の法会で見かけたのだが、済度にいくらかかるか、名前を書いたのがいくらなのかを口にしようとせず、また齋僧大会の広告に「済度消災無料」とかかれたものも見たことがある。このようなことは以前には発生した事がなかった。しかし、いかなるものであれ、仏を学ぶ人ははっきりと知っているが、寶吉祥仏法センターは仏法を売買するようなことはしないのだ。

もし金がなければ、法会を行わず、自分の精舍や仏寺でしっかり修行すればよろしい。中国のことではなく、日本についてみればよい。日本の古代の禅寺の大雄宝殿はいずれも小さく、傍らはすべて寮房で、すべての出家衆は寮房で修行しており、毎日行き来したりあれこれかまけることもなかった。自分が修めてもいないのに、他人がの修行を助けることなどできない。功夫がなければ、修められない。ちょうど先刻リンチェンドルジェ・リンポチェが修縁度母を1時間あまり修めたが、もし一般のリンポチェならまる一日かかるだろう。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは早く修めることができるのか。それは中のものを削減したのではなく、集中力によるもので、他の心がないためだ。だから集中でき、早く唱えることができるのだ

早く唱えることは、はっきり唱えないことではなく、やはりはっきり唱えねばならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは2人の弟子が大学でチベット語を教えおり、来て長い時間がたっている。もしリンチェンドルジェ・リンポチェのチベット語に間違いがあれば、彼ら二人がリンチェンドルジェ・リンポチェに告げる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの生涯においてチベット語を学んだことはなく、すべての法本はいずれも翻訳を通じて学んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェもかつて尊勝なる直貢チェツァン法王にチベット語を学ぶ必要があるかどうか開示を求めたが、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに対して、学ぶ必要はないと示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、なぜ尊勝なる直貢チェツァン法王が学ぶ必要はないと考えたのか、もしくはチベット語も漢文も同じく仏法なので、チベット語がわからねば修めたことにならないと考えたのかどうかはわからないが、最も重要なことは仏法の原理を理解することだと語った。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を率いて縁度母を修めた。あたなたちも唱えられる祈請文を聞いたとおり、法本の中に書かれたものが縁度母で、私たちすべての人のこの世にける事故を減少させるものだ。この法本のなかでその一部が提示されているが、これは以前に開示したものであり、今日もまた開示してみる。通常、法本では「授記」の二文字は書かれていないが、それは縁度母は観世音菩薩が現れたもので、縁度母の根本の本尊は阿弥陀仏なのだ。法本では、行者が縁度母を修めて力を得るのは、阿弥陀仏が実際に現れるからであり、行者がこのよ世とあの世を行き来する時だ。これはつまり、縁度母を修めることは、阿弥陀仏の導きを受けることを意味し、真実が前に現れるためだ。法本の中の祈りの言葉によると、どの時まで祈れば授記を得ることができ、また阿弥陀仏を目にすると、阿弥陀仏が授記してくれ、縁度母を本尊とするようになると書かれている。

ここの段落の意味は、行者が縁度母の本尊を修めているとき、往生する時の阿弥陀仏が直接に行者の上師となり、直接に行者に授記を授けることを指す。授記」の意味はすなわち未来仏であり、仏に従って学ぶことは、当然ながら未来仏となる。そのほかの法本では、この部分が取り上げられておらず、縁度母の法本において特別に提起されており、本当に見えさえすれば、阿弥陀仏は授記をしてくださるのだ。どの法本にもそれぞれ特色があるので、経典において提起されていないと考えれはならない。釈迦牟尼仏が話を終えるには間に合わなかったので、多くの法本はいずれも蓮師が釈迦牟尼仏を代表して伝えたのだ。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを率いて、アキ護法を修め、また修法が円満となった後、慈悲深く引き続き開示を下さった。

今はもう一つのことを取り上げる。法本のなかで、1匹の蛇を殺した罪は100頭のブタを殺した罪に等しいと述べた。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去のこの数十年、多くの衆生を助けたが、その多くの蛇を殺し、傷つけた報いによるものだった。多くの人は、仏を拝めば解決すると思っているが、みな考えてみてほしい。100頭のブタの命は、100回死んで返すことができるのではないか。みな因果を信じなければならない。

今日、法を修めるプロセスはすべて供養であり、絶え間なく供養することだ。なぜ供養が必要なのか。それは私たちの福報が浅いからだ。あたなたちは、自分が多くのことをすでに行ったと思ってはならない。少しも多くはない。私たちが一生のうちにできることなど、少ないものだ。みな仏経のなかで諸々の菩薩がいかに供養するか見ただろうか。以前の仏を学ぶ人はいかにして供養したのだろうか。現在はみな金の問題を話すが、問題は供養の心があるか否かであり、これ以上自己中心的であってはならない、ということだ。さっき皆を率いて唱えた回向はとても簡単だが、とても重要だ。みなが法会に参加するのは自分のためではなく、法会に参加することで縁度母と縁を結ぶためだ。すべての衆生は縁度母と縁を結び、最後には彼仏の地に安置し、すべての衆生は淨土に安置されることが済度であり、念仏を唱えればすむものではない。もしこのような気持ちがなければ、念仏をいくらしようと意味がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまでに多くの供養を行い、持咒もしており、リンチェンドルジェ・リンポチェとして1000回唱えてきた。今日1200人がもし1000回唱えたとすれば今日120万回おこなったことになる。もしみなの心に菩薩のように慈悲心を持てば、この120万回の心咒はみなのために功徳を積んだことになる。しかしもしみなが自分本位であれば、自分1人の1000回の功徳でしかない。あたなたちはこの一生で、120万回も唱える時間はないと思う。120万回よな得ることができれば、金剛乗についちえば絶対に閉関が必要で、関房を離れることができず、唱え終わって初めて離れることができる。,現代の商業社会において、あたなたちが台湾を1、2ヶ月離れて閉関を行うのはあまり現実的ではない。

先ほどのわずかな数時間は閉関に等しいが、もしあたなたちの心理状態が正しければ、動かすことにできないものなどない。今日あたなたち個人の事情で動かせないのは、原因は彼にはなく、あなたたちが因果を信じないためだ。上師の話しを信ぜず、仏法を信じないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、一部の病気は治すことができるが、二種類の病気については医師でも治す事ができない。一種は過去で犯した悪事で、もう一種はこの世で犯した悪事だ。自分が何も悪いことをしたことがないと思ってはならない、と開示した。ここで、エビ一匹を食べれば一匹の命を、魚一匹を食べれば一匹の命を奪ったことになることを注意しておく。

私たちのいう供養とは、仏菩薩の必要な供養ではなく、衆生を代表した供養であり、衆生が福報と仏菩薩の幇助を得られるようにするものだ。だから、供養が十分でなく、今日を唱えるだけではだめなのだ。経典のなかに記載されている当に、念仏の前に必ず供養するのは、自分のためではなく、すべての衆生のためだ。もしこのことをいまだはっきりわからないのであれば、永遠に門外漢のままで、永遠に個人のことも解決できない。個人の事情が解決できない原因は、他者にはない。一に福報がなく、二に知恵がないためだ。知恵を修めれば、世間で処理できないことはなくなる。自分で修めることができたかどうかを見るのはとても簡単で、どれだけの問題を抱えているか、どれだけのことに悩んでいるかを見ればいい。もし一つでもあるようなら、上手く修めていないことを示している。他者を見る必要はなく他人を検討する必要もなく、自分を見さえすればいいのだ。

仏法を学べば、何をしてもいいというものではない。普通に生活していても、一般人と違い仏法の中で生活するのだ。こうすれれば、世間は安らぎと静かさを得ることができる。そうでなければ、多くのことが続けざまに発生するだろう。みな一日中争っているが、何を争うのか。何をそんなに争うのか。あたなたちが勝ったとしても、それは永遠のものではない。負けても、それは敗北を意味する者ではない。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは縁度母を修めたが、縁度母は慈悲に溢れたもので、世俗の人のすべての事情も、縁度母はすべて関心を示すが、これはあたなたちが貪婪であってもよいということではない。

皈依を準備している信衆が、もし仏教偽装の外道の人と友達になろうとしていれば、皈依の必要はないとすするだろう。仏教偽装の外道は何のものか。それは表面上は人のためのように見せ、その実は自分ことを解決できないので、あたなたちは注意せねばならない。自分が病気になったとき、あれこれ求める人がいる。病気はどうして発生したのか。いずれも自分と関係している。さっきの法本にもはっきりと書いているが、あたなたちの病気が少しよくなっても、あたなたちが信じなければ、福報がなければどうしようもない。

今日は尊勝なる直貢チェツァン法王のお陰で縁度母を修め、みなもその恩恵に浴した。もしそうでなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは修めることはなかった。それは、あたなたちに修めても意味がないからだ。なぜ意味がないのか。それはあたなたちが修めないのだから、役に立つはずがない。今回、大法会を取り消したのは、あたなたちにすべての諸仏菩薩と上師にとって法会が必要でないことを見せるためだ。。衆生を済度するのは法会で実現する必要はなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定のなかでも衆生を済度する事ができる。ちょうど、何羽かのスズメが老いたスズメを食べさせるような感じだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも引き続き彼らを済度している。時として、動物の行為は人間のそれよりもよいことがある。何羽かの小スズメが老いたスズメを食べさせている時、15分間ほど、米を1つぶずつ運んで食べさせていた。あたなたちはこのように自分の父母に忍耐強く向き合うことができるか。すぐに病院に送るだけでは、悲しすぎないか。

もし子どもがしたい放題し、父母を敬わず、孝行しなければ、この世界は滅びてしまうかもしれない。修行者はどのような事情を目にしようと、修行している。リンチェンドルジェ・リンポチェもあれらのスズメを目に、仏の言っていることに間違いがなく、有情衆生はいずれも仏性を備えるものであり、スズメは話をしないが、老いた鳥を食べさせることを知った。あたなたちはどうだろう。いま、なにをしているだろう。動物にさえ及ばないのではないか、みなが自分のことだけを顧み、自分のみを思い、他人のことを考えないのであれば、なんとも悲しいことではないか。ある人はリンチェンドルジェ・リンポチェが法会を必要とするのは、自分の功徳を積むためだというが、それは間違いだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳は、法会に頼っているのではない。もし法会で衆生を済度することができなければ、法会を行って何をするというのか。

大法会を取り消したのは、あたなたちが衆生を助けず、彼らに肉食を止めさせることもなく、みんないい人でいたいために、言えば罵られるので何も言わなかったかだではないか。なぜほかの宗教は他人から罵られることを畏れず、仏を学ぶ者がコソコソしているのか。他の宗教はマメマメしいく、あなたが信じなければ信じるまで話をしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あたなたちにそうしろとは求めていないが、すくなくともあたなたちこそ仏弟子だと感じさせるべきなのに、あたなたちはそれを言わない。あたなたちは出かけていっては、金銭の話をするが、もし相手が別の宗教であれば、すぐに萎縮してしまう。まえに、リンチェンドルジェ・リンポチェはある設計士を責めたが、それは彼が金持ちで別の宗教を信仰する相手に対して、もし嫌われたらビジネスチャンスがなくなることを恐れ、自分が仏教徒であると名乗らなかったためだ。

なぜ、ほかの宗教は言えるのか。なさけないことだ。あたなたち仏を学ぶのもコソコソとしているが、ならば来なければよい。何をしに来ているのだ。別の宗教の信者はその教義の宣伝に努めているのに、あたなたちはどうか。自分は皈依そたのに、親戚や友達に会えばコソコソして、菜食していることを知られるのを畏れている、ほんとうに、リンチェンドルジェ・リンポチェから見ると、仏教が破滅するとますます悲しませるのもおかしくはない。みんな勇気がないが、勇気のない者は仏法を学ばなくてよい。みな金儲けや感情、結婚の話ばかりして仏法の何たるかを語らず、放り出したままにしている。

昨日、ある一人の皈依した弟子が自分の将来の夫を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求め、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼らの婚姻を祝福してくれるよう頼んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は祝福しない、仏教の中でリンチェンドルジェ・リンポチェがどうやって結婚を祝福するかについて教えていないからだ、と語った。簡単にいえば、仏法を学び菜食する者と、仏法を学ばず菜食しない者がいっしょになって,あたなたちの将来はどうなるのか。それなのにリンチェンドルジェ・リンポチェの祝福を求めるのか。なぜ別の宗教では必ず同じ宗教を信仰する人と結婚するのに、仏法を学ぶ人はそうしないのか。相手がよければ、今後自分が相手にも菜食しよう影響できると考えている弟子がいるようだが、結婚する前に影響を与えることができないのに、今後どのように影響を与えるというのか。

あたなたちは、仏と菩薩はいなしやすいと思っているのか。あたなたちは仏法を宗教とするなら、なぜほかの宗教にできることを、自分たちはできないと思うのか。リンチェンドルジェ・リンポチェが、何のために残してくれるというのか。さらにはリンチェンドルジェ・リンポチェの祝福を求める者もいるが、何をどう祝福するのか。今後、このようなことが断じてあってはならない。なぜほかの宗教はこんなに厳格なのか。あたなたちは別の宗教の信徒に効いてみればいい。彼えらは絶対に信じないだろう。あたなたちはどうか。上師があたなたちの欲望を満たせなければ、あたなたちはすぐに信じなくなってしまう。

台湾は表面上は仏教徒が多そうに見えるが、なぜ別の宗教の勢力がますます大きくなるのだろうか。これは彼らの信心が強固なためだ。ではあたなたちはどうか。あたなたちには強固な欲望があり、だれもが仏菩薩に物をくれるよう願うかもしれないが、もしそうならば仏を信じず、ほかの宗教を信じたほうがいい。仏は私たちに何もくれず、私たちに改めることのみを教えてくれるからだ。あたなたちは仏があたなたちの望むものをくれることを願うなら、仏を信じてないほうがいい。あたなたちは教えを聞かず、教えに従って実行しないが、どんなこともそんな風だ。皈依した弟子には仏法を護持する責任があり、仏法の護持は金を与えるものではないのに、あたなたちは上師と仏菩薩からいい思いをしているのに、恩に報いるとか言っているが、どこで恩に報いているのか。しっかり学ぶなどといっているが、何を学んでいるのか。家族でさえあなたが仏を学んでいることを知らないのに、何を学んでいるというのか。

多くの人は普段よい生活をしているが、何かあると大騒ぎする。みな彼が仏を学んでいることを知らないのだ。あたなたちは、寶吉祥仏法センターが恥ずかしいと思っているのか。もしそうなら、道場など閉めてしまえばよい。あたなたちは、寶吉祥仏法センターの知名度が低いというのか、それともリンチェンドルジェ・リンポチェの資格が足りないというのか。もし後者であればリンチェンドルジェ・リンポチェは離れてもよい。ほんとうに、あたなたちはますますひどくなっている。みな利用するだけで、利用し終われば口先だけはいいことを言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは67歳まで生きて、今日は金剛乗の修行で若干の成就を見たが、みなにリンチェンドルジェ・リンポチェは頑固であり、尊勝なる直貢チェツァン法王のほかに、誰もリンチェンドルジェ・リンポチェの決定を変えることはできないのだ。

みなは少し前まで、リンチェンドルジェ・リンポチェに求められれば、取り消さないと思っていたようだが、あたなたちは取り消したのはリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲がないと思うか。リンチェンドルジェ・リンポチェが取り消したことで、衆生に申し訳が立たないと思うか。あたなたちが功徳を積ませないと思うか。あたなたちは、すべて間違っている。あたなたちはリンチェンドルジェ・リンポチェが次に何を取り消すかをわかっていない。高齢のため、あたなたちには予測ができない。一般人が行う方法ではなく、あたなたちの誰にも予想が付かない方法でリンチェンドルジェ・リンポチェは大法会を取り消したのだ。口先だけではないのだ。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは理事長に、リンチェンドルジェ・リンポチェが大法会の会場貸切料金の150万元の手付金の損失を負担し、もし誰がリンチェンドルジェ・リンポチェは支払う必要がないと言えば、寶吉祥仏法センターで仏を学ばない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったことがすべてであり、リンチェンドルジェ・リンポチェが取り消したからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは理事長にリンチェンドルジェ・リンポチェが1ヶ月後、すなわち7月7日に道場へ150万の手付金を返すかどうかについて開会決議するよう求めた。理事長は、開会決議の手順に従うと語った。
法会は円満となり、弟子たちは声をそろえて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と開示に感謝の言葉を述べ、起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを恭しくお送り致した。

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2019 年 01 月 24 日 更新