尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年5月18日

法会の開始に先立ち、カナダから訪れた外国籍の弟子が、自分が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げた因縁について参会者に語った。

「私は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して今日で8ケ月になる。非常に謹厳なカソリックの家庭で育ったが、東方文化と仏教に昔から興味があり、また成長の過程で、カソリックに対して多くの困惑と疑問を感じていた。ある時、自分の死後は遺体を火葬し、遺灰を家の近くの海に散骨して欲しいと兄弟姉妹に伝えた時、私のカソリックに対する困惑が露わになった。35年前大学に入学後、私は教会へ行かず、カソリックと関連のある一切の儀式に参加しなくなった。

自分が台湾に来たのは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに巡り会い、仏教徒に成るためだったのだ、と私は今信じている。5年前新しいアパートに転居した後、たくさんの不気味な事が発生した。中でも私を最も不安にしたのは、浴室内で何かが頭頂にあると感じることだった。しかも、なんとも言えない悪臭が漂うこともあり、それはガンで亡くなった姉が療養していた部屋のような臭いだった。当時私は恐ろしくまた当惑していたが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに巡り会った後、これらはすべて私の冤親債主によるもので、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェだけが彼らを済度させられるのだと知った。

私にリンチェンドルジェ・リンポチェを紹介してくれた兄弟子に、心から感謝したい。初めて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった時、私はリンチェンドルジェ・リンポチェに、自分が過去の人生に囚われているように感じるとご報告申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、『快楽と痛苦』を五回読んだ後にもう一度来るよう開示くださり、仏法は人心を改めるものだと開示くださった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかる前、私は紹介者である兄弟子に、自分は仏教徒になるつもりはなく、仏教に好奇を感じているだけで、しかも菜食など不可能だと言っていた。だが、この一切は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった後すべて変わってしまった。

皈依より今日まで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェについて最も賛嘆を禁じえないのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの物事に対する公平性だ。しかも、衆生に平等に対しておられる。言行一致をここまで貫く人に私はかつて会ったことがない。幼い頃から、私は権力を濫用するたくさんの人を見てきた。そのため、これまで一度も完全に人を信じたことがなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは具徳の上師だと私は信じていたが、上師に対して完全に降参するまでにはいくらかの時間がかかった。これはすべて内心に深く凝り固まった恐怖によるものだと私は分かっている。ある時、私は道場で訳も分からず何時間も泣いてしまったことがあった。だがかつて私は、人前で泣いたことはなかった。自分が傷つくのを恐れていたのだ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった時、辛かった子供時代について尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにご報告申し上げ、これら経験に起因するその後の多くの困難についてもご報告申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも『一切は終わった。過去は過ぎ去ってしまったのだ!』と仰せくださった。私は心から尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを真に信じた。そして新しい命が、その瞬間から始まったのだ。

仏教徒となった後、私の毎日は一日一日良くなっていき、自分がようやく正道を歩き始めたことに私は気付いた。以前私は自分は善人だと考えていたが、今では私は自己の内心の頑固な自我、そして自分がいかにして自我を隠していたかを観照し始めている。また私は、自分にはたくさんの過ちがあることに気づき始め、必ずしっかりと改めなければならないと考えている。私は懺悔したい。かつて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対して不恭敬で、恭敬な心で拝謁賜る準備が全くできておらず、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの貴重なお時間を無駄にしてしまった。最近私は、深く衝撃を受け強く反省を感じる深刻な過ちを犯した。それは英語版法本を家に持って帰り、道場に戻さなかったことだ。この過ちは、私が三寶への憶念を疎かにしていたことを示している。

私は、仏弟子でありながら、なぜ仏法の大切さを常に意識しなかったのか?と自分に問いかけ反省し、己の欠点と過ちを直ちに改める決心を下した。

不可思議な法身慧命と虚懐若谷(心を谷のように広くして何のわだかまりもない)を世人に感じさせてくださる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを私は心から賛嘆申しあげたい。この様な大修行者に皈依でき、私は大変うれしく思う。また、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェから賜ったこの宿世での得難い貴重な機会を忘れることは永遠に決してないだろう。私は每週この聖者、上師、領袖を自ら目にし、また開示くださる貴重な仏法を自ら聞いている。私の感謝と賛嘆をより明らかにするため、私はより良い弟子となることを祈願したいと思う。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの無限の偉大さと希勝を、私の限られた言語能力では十分に表現できないことを申し訳なく思う。最後に私は再度、真の恭敬心を以って尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げたい!」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず、アメリカから来ている弟子の最近の背中の問題についてお尋ねになった。弟子は「自分の背中の問題は大したことはなく、しかも状況はすでに好転しています」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、チベットの薬草で作った浴散を用いるよう開示くださった。弟子は感激して、上師のご指示に従う旨お答え申し上げた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは漢方医である弟子に、この種の浴散がアメリカから来ている弟子の背中の問題に有用であると知っているか、とお尋ねになった。漢方医である弟子は「知っていました。けれども一度も処方したことがありません」とお答え申し上げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはアメリカから来ている弟子に「この種の浴散を使用する時には、いかにして用いるか、漢方医に尋ねるように」と仰せになった。

「今日修めるのは施身法だ。顕教にはこの法門はない。なぜなら施身法は密法だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、好奇心で見に来ている人がいることを知っている。このような心構えでは、どのように見ても理解することはできない。密法も顕教も同じように仏法だ。リンチェンドルジェ・リンポチェも以前、顕教を学ぶ信者であった時には、密法に対してたくさんの誤解があった。密法は唐の後、中国から消えてしまった。どこに問題があったのか?密法は唐朝以前に中国に伝わった。だが、中国に至った後、歷史的な変遷と宗教間の対立により、唐密は唐の後の世に伝わることはなかったが、唐代に日本に伝わり、今日俗に言う東密を形成した。

密法は基本的には、事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部の四部分に分けられる。現在日本では事部と行部が残っており、ほとんどは曼達拉、持咒、打手印を修める。打手印こそが密法だと盲信している人が多いだろう。仏法中には手印についていくつかの定義がある。第一に、我々は仏菩薩のご様子を存じ上げないので、持咒、読経する際に、本尊をお迎えするため、シグナルを使用する必要があるということだ。手印は各仏が残されたマークであり、ある手印はある仏を代表する。そのため、阿彌陀仏を修めるなら阿彌陀仏の手印を結び、観世音菩薩を修めるなら観世音菩薩の手印を結ぶのだ。

手印を結べば、幽鬼は恐れるだろうか?それは絕対にない。幽鬼は手印を恐れず、慈悲を受け入れる。幽鬼より強ければ、幽鬼は退くが、いつか幽鬼の方が強くなれば、幽鬼はやって来る。仏法は慈悲を用いるのであって、脅威を感じさせたり脅迫したりするのでは絶対にない。金剛部では忿怒相を現すが、忿怒を用いて衆生を恐れさせるというのではない。顕教を学んでいる者、顕教で出家したことがある者、または出家しようとしている者は、水陸大法会というものがあると皆知っているだろう。水陸大法会には、焦面大士とお呼びするご本尊がおられ、地獄の衆生を専ら済度させておられる。実は焦面大士は観音菩薩であられるのだ。ではなぜ、こんなにも恐ろしい様子をしておられるのか?それは仏と菩薩は衆生を済度させるからだ。四攝法の内の一つは、同類だ。衆生と同じ様子となるのだ。あなたは人なので、仏菩薩は人相を現し済度に来られる。『普門品』には『この一生で居士なら、菩薩は居士のお姿で済度させてくださる』とはっきりと記載されている。

金剛部は忿怒相を現すが、忿怒によって衆生を恐れさせるのではない。手に負えないほど悪辣な衆生であっても、自分より強そうな同類を目にすれば、自然に従順になるのだ。つまり、密法を誹謗してはならない。密法は恐怖を用いる、或いは密法は幽鬼を修めるなどと言ってはならない。これらは全く正しくないのだ。仏は、六道内の衆生をすべて済度させると仰せになった。幽鬼道も衆生なのだ。密法は幽鬼だけを済度させると批判するなら、水陸大法会中の焦面大士は存在しないはずではないか。水陸大法会に参加したことがない人もいるだろうが、参加したことがあるなら、焦面大士を必ず見たことがあるはずだ。焦面大士は幽鬼を済度させる。だが、経典にはこの本尊について書かれていない。ではなぜ現れたのか?それは唐密だからだ。密法において伝わってきたのだ。

実は、顕教におけるたくさんの動作、シグナルはすべて密法と関係がある。今日は一先ず詳細な説明はしない。顕教は、学仏の理論と仏法の一切の基礎を定義する。顕教の基礎がないなら、学密することはできない。寶吉祥仏法中心を例とすると、皈依して三年以上にならない弟子には、リンチェンドルジェ・リンポチェは不共四加行を伝授しない。皈依して三年以上経てば開悟できるのか?そうではない。そうではなく、基本的な概念が身につき、誤った道を歩むことがなくなるので、上師は密法の伝授を始められるのだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが伝法しない弟子もいる。なぜか?伝法すると言ったのに、とあなた達は思うだろう。だが弟子の根器が間違っており、改めず、怠惰であるなら、やはり伝法しないのだ。

先ごろ皈依して非常に長くなるのに、大礼拝を完了していない弟子達を破門した。このような事は、聞いたことがないだろう。他のところではこのような事はない。他のところでは信衆、弟子が足りないと心配している。だが、寶吉祥仏法中心そうではない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を教えているのであって、仏法を講じているのではないからだ。仏法を教えるなら、理解させるまで教える。だが、学生が教師の言うことを聞かないなら、教師はその学生をいつまでも止めておくだろうか?決してそんなことはしないだろう。そのため、あなた達が信衆、聞いてみようというような気持ちでいるなら、今日限りで来ないでもらいたい。

寶吉祥仏法中心の施身法法会には一時期1600人が参加していたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは300人余りを破門した。彼らに来てはならない、と伝えたのは、彼らが一年半も法会に来ているのに、学仏しないからだ。なぜ来てはならない、と彼らに言うのか?それは、他のところでもたくさん法会があるからだ。ここに来ても学仏しないなら、場所を占拠するだけでどうしようもないではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェのような仏法弘揚の仕方は大変なのだ。

密法では、理論を学んだ後、自分が生死を解脱でき、それによって衆生に生死を解脱させられる、と定義されている。そこまで成し遂げるには方法が必要だ。理論に頼って衆生に生死を解脱させるのではない。たくさんの人が禅修行、念仏すれば良いと思っているようだが、念仏に頼って阿彌陀仏のお側に行けた者がどれだけいるのだ?『阿彌陀経』には『仏在五濁悪世宣説此難信之法(仏は五濁悪世において、これは信じ難い法だ、と仰せになった)』とある。仏の仰せは非常に簡単だと多くの人が思っている。一心不乱になるまで念仏すれば行けるのではないか?と考えている。仏はなぜ後にこのように仰せになったのか?仏は実語者、真語者であられる。仏法と無関係の言葉は一言たりとも仰せにならない。口を開けば、その仰せは必ず仏法と関係があるのだ。

なぜ仏は五濁悪世と特に仰せなのか?五濁で最も深刻なのは『見濁』だ。自己の経験法により世間の種々の物事を見る。それには仏法も含まれる。念仏すれば他人を済度させられる、と思っている人が多い。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは浄土五経でこのような言葉を見たことがない。誰が発明したものなのか?浄土五経で釈迦牟尼仏は、いかにして浄土宗を修めるのか、どのような心を以って修めるのか、どのような条件を備えれば行けるのか、を説明くださり、浄土の種々の景象についても紹介し説明してくださっている。

浄土五経には、助念団が亡者を浄土に往生させられる、とは書いてない。もし経典中でこのような記載を見つけたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに教えて欲しい。仏はなんと仰せだ?修行せよと仰せだ。なぜ仏は、これは信じ難い法だと仰せなのか?なぜならみな修めないからだ。十善法でさえできていない。『阿彌陀経』にはっきりあるし、たくさんの経典中にも記載されているように、仏が、一切の修行人に仏法を聞かせると仰せなら、必ず『善男子、善女人』と仰せになる。『善』とは良いことをすればそれで良い、というのではない。十善法を円満に修めた人でなければ、善男子、善女人と呼ばれることはない。

たくさんの人が皈依していない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日簡単に十善法を紹介しよう。一は『不殺生』だ。施身法法会に参加し親族を済度させるなら、なぜ一生菜食しなければならないのか?それは、殺生すれば善男子、善女人ではなく、また親族に阿彌陀仏の救いを受けさせる資格がないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに求めれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが与えるのは当然だと思っている人が多い。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェが与えたいと思っても、仏がお教えの方法に背くことはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ仏ではない。仏法は釈迦牟尼仏がお創りになったものでもない。経典中で仏は、過去にはたくさんの仏がおられ、未来にもたくさんの仏がおられる、と何度も仰せだ。仏法理論に基づけば、一切の修行人はいつか必ず成仏できるのだ。そのため、釈迦牟尼仏が仰せの仏法に必ず従わなければならない。必ず仏の仰せに基づき行わなければならない。自らブランドを設立してはならないのだ。不殺生も必ず為し遂げなければならない。

十善法は『不偷盜』を含む。細かく言えばこれには、他人のものを複製する、模倣品を購入する、他人のものをついでに持ち去る、まじめに働かない、他人のものを不法に搾取する、チャンスがあれば他人を騙す、ことも含まれる。自分は人を騙したことがない、などと思っているだろう。だが実は、毎日偷盜しているのだ。得をできるなら得しようとする。これも偷盜だ。仏法的に言えば非常に厳格となる。万物には皆主がいる。主がいないものなど一つもない」と仰せになり、さらにユーモアを交えて「一輪の花にさえ主がいるのだ。そのため、小説に出てくる花を摘むシーンを決して真似してはならない。花を摘み、ゆっくりと走って行って女性にプレゼントする。だが、これは『偷盜戒』を犯しているのだ。なぜこのようなシーンが出現した後、二人は必ず別れるのか?それは物を盗みながら、ロマンチックだなどと思っているからだ。これはすべて小説家に騙されているのだ。一本の草にさえ主がいる。つまり、誰もが偷盜を犯したことがあるのだ。

次に『不邪淫』だ。仏は一夫一妻制について仰せになっていない。経典にあったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに教えて欲しい。一夫一妻制は他の宗教の決まりだ。仏法の決まりではない。仏法で言う『不邪淫』とは主に、男衆は、夫がいる婦人、誰かに養われている人、動物、或いは同性と邪淫してはならない、ということだ。してはならない、と言っても、行えば罪人だということではなく、善人になれないということだ。そのため改めなければならない。この他、出家衆、或いは父母がその場にいる状況もいけない、などと内容は非常に細かい。

では、一妻多夫、一夫多妻が可能かどうかだが、これについては仏は仰せになっていない。だが『地蔵経』には、情欲が重い人は死後地獄に堕ちるとある。そのため、自己の情欲を放縦してはならない、ということがこの記載から分かる。かつて顕教を学んでいた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの言葉の意味が分からなかったが、密法を学んでようやく理解できた。情欲が重い人は死の際、気脈が下降する。そのため神識も下降するので、地獄に堕ちる可能性が非常に高くなるのだ。なぜ出家の戒律が生まれたのか?それは、行者がこの一生でたとえ成就できなくとも、男女欲を戒めることで、地獄に堕ちる可能性を低くすることができるからだ。破戒すれば別だが。それがこの戒律の由来だ。

『邪淫戒』を破ってはならない他、あれこれ言って争い事を起こしたりしてはならない。さらに『綺語』も許されない。仏法は、仏法と関係のない言葉は何であろうとすべて『綺語』と定義している。あなた達においては、他人に貪欲や欲望を起こさせる言葉を口にしてはならない。不悪口は、みなも知っておろう。人を罵ってはならない、ということだ。あなた達は、自分は国罵(国を代表する罵り言葉)など言ったことがないと思っているだろう。だが、文字で毒づいたりしても、この範囲に入るのだ。あなた達はしばしば『あの人はこんな悪いことをして。いつ死ぬか見ものだ』などというだろう。これもそうだ。あなた達は、自分は立派だなどと思っているのではないか?あの人は悪いことをしているが、今後どうなるか見ものだ、などという。この種の言葉も言ってはならない。その人にはその人の因果があるのだ。学仏人としては、その人を哀れんでも足りないくらいなのに、呪うのか?

この種の習慣がある人が多い。自分は善人で、相手は悪人だと思っている。仏菩薩の眼中には悪人はいない。因果だけがあるのだ。仏菩薩は誰を済度させるのか?それは、過ちを犯した人、つまりあなた達みなだ。自分は立派だなどと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえも、自分は立派だとは思わない。立派なら成仏できるはずなのだ。ここでこんなことをしているはずがない。そのため、二分法があるなら、自分は善人で、相手は悪人だと思っているなら、簡単に悪口が出てくるだろう。悪口を犯す人には慈悲心がない。慈悲心がなければ仏法を学ぶことはできない。仏法が学べないなら、何一つ得ることはできない。

続いては『不打妄語』だ。嘘を吐かないのは最も簡単だ。修行人が証できていないのに自分は証できた、という、或いは証できたのに教えようとしない、これもいけない。実は台湾の学仏人が最も容易に破るのはこの戒なのだ。なぜか?念じれば病気が治るので、『薬師経』を念じよ、と人に言う。これこそ『打妄語』だ。なぜ『打妄語』なのか?『寶積経』に基づけば、人に仏法を説くには、20の条件を備えていなければならない。人に読経せよと教えるだけで何か問題があるのか?と思うだろう。だが何を以って人に読経せよと教えるのか?あなたは法師でなく、法座にも上っていない。こうすればその人に良く、その人を結縁させられると思っているのか?仏法が毀損されるのは、このようなことのためなのだ。たくさんの人が読経した後、予期の効果が得られないのを発見し、法を誹謗し、仏を誹謗する。

読経の前には供養、斎戒、恭敬しなければならないと理解していない人が多い。たくさんの儀軌を経なければ読経を開始することはできないのだ。だが今では誰もそうしていない。毎朝30分、空いている時間に読経し、念じたところに栞を挟み、経典を閉じて、急いで出勤する。このような読経の方法は、別のことを言うよりは良い。だが実は、役に立たないのだ。人に教えたがる人が多い。他人にあれこれ教えたがり、こうすれば人に尊重されると思っている。仏法はおしゃべりではない。他人に、あなたは人とは違うと思わせたり、それを利用して攀縁するようなものでもなく、自らの修行の法門なのだ。修行の法門を為し遂げられれば、人は自然に知ることになる。あたかも本当のように、一日中特別な振る舞いをする必要はない。

『十善法』の最後は『不貪、不嗔、不痴』だ。『貪、嗔、痴』は三毒だ。貪欲が起きれば、自然に嗔恨の心が起き、やってしまってから考えよう、となり、その後は因果を信じない。『痴』とは白痴ということではない。因果と仏法の真理を信じないことだ。『十善法』ができて初めて、自分は浄土を学び始めたという資格があるのだ。『十善法』が学べていないなら、そう言う資格はない。これは何に基づいているのか?浄土五経中には『阿彌陀仏のお側は諸大善人』とある。つまり、在世中にすでに十善法を修めた人だ。十善法を修めた人に福徳因縁があり、発願して初めて往生できる。これが『阿彌陀経』で説くことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日修める法は、『阿彌陀経』と関係がある。あらゆる法門は釈迦牟尼仏が仰せの仏法と関係があり、独自に作り出された法門などない。施身法は『大般若経』中の空性(つまり智慧)に基づき書かれた法門だ。その中では、釈迦牟尼仏が仰せの一切の菩薩道に基づき、修めなければならない六波羅蜜の第一—布施について触れている。施身法でいう布施には外布施、内布施、秘密布施があり、供養も同じだ。施身法の理念は、釈迦牟尼仏が生生世世に菩薩道を修めた際に行われた布施『捨身餵母老虎、割肉餵鷹、挖眼給仇人(メストラに己の身を与え、肉を切って鷹に与え、目をえぐって敵に与える)』に基づくという点が最も重要だ。

施身法を学ぶには、この考え方があれば修められるというのではない。必ず10年以上顕教を学び、不共四加行を修め、本尊閉関を円満としなければ、この法を伝えられることはない。伝法を受けた後は、自身で必ず修め、この法門と相応するまで修めなければ、他人を手助けすることはできない。相応とはなんだろうか?それはいかなる衆生にも恐怖の心を起こさないことだ。なぜなら施身法を修める際には衆生がやって来るからだ。法本には、修法者は修法時、一切の保護聖物を身につけてはならない、とある。護輪、仏像等を含め、一切を身につけてはならないのだ。なぜダメなのか?それは、衆生に修法者に対する恐れの心を起こさせてはならず、衆生を近寄らせ、行者は身体をすべての衆生に布施して食べさせなければならないからだ。

あなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェは言っているだけで、見せてくれていないじゃないか、と思っているだろう。だが、あなた達には決して見えない。なぜなら、あなた達は幽鬼ではないからだ。幽鬼であれば、目にすることができ、また仏菩薩であれば、同じように見ることができる。この他にもう一種の人も見ることができる。それは子供だ。子供はなぜ見られるのか?それは、彼らの心には偏見がないからだ。あなた達のように身構えていないからだ。相手が何をするか見てやろう、何を言うか聞いてやろう、相手の言うことが分かるだろうか、相手の言うことを知っているだろうか、などと思っている。すべてにおいて偏見を抱いているのだ。仏法においては、これこそ『心不清浄』だ。子供の心は清浄だ。子供はあれこれ考えないからだ。父母が法会に連れて来るので、来るだけだ。仏法と有縁なら、自然に恭敬心を起こすだろう。

施身法では衆生の願望を満たさなければならない。顕教には『蒙山施食』があるが、衆生に施食し、彼らの嗔恨の心、煩悩の心を一時的に鎮め邪魔させないようにするだけで、済度はない。施身法では布施を終えた後には済度させる。それはどの法門に基づくのか?蓮師から阿彌陀仏浄土までにお越し頂き、阿彌陀仏がお教えくださった法─ポワ法を用いるのだ。つまり、施身法を修める行者自身がポワ法をしっかり修めていないなら、施身法を修めることはできない、ということだ。ポワ法は阿彌陀仏が自ら伝えられた法だ。出典はいずれまた開示しよう。

ポワ法の後には、さらに禅定も必要だ。直貢噶舉において、禅定を学ぶ法門は『大手印』という。これは四つの次第に分かれており、各次第はさらに三つに分かれ、全部で12の次第がある。12の次第とは少ないように聞こえるが、この一生で六つ目か七つ目の次第まで修めることさえ、十分に困難だ。法本には、施身法を修める行者は、禅定において大手印中の『離戲瑜伽』まで修め、世間の森羅万象すべてがドラマの一シーンであり、すべては仮のものだと弁えなければならないと、はっきりとある。演劇やオペラのように、幕が降りればすべてなくなってしまうのだ。

行者はこの禅定の果位まで証しなければ施身法を修めることはできない。この果位まで証しなければ、恐れを感じてしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェのようにこの果位まで証した行者にとっては、衆生が来るのを見ても仮だと分かる。ただの業力の顕現であり、実在しないのだ。あなた達はなぜ幽鬼を恐れるのか?それは、慈悲心がないからだ。学仏人であれば、苦海の衆生を済度させるだけでも不十分なのに、幽鬼を恐れるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは幽鬼を大歓迎する。なぜなら人は済度させ難いからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年より度衆を始めた。幽鬼は本当にとても分かり易い。彼らは、よくすれば、必ず恩返ししてくれる。だが人はそうではない。恩には報いず、仇には報いる。人は本当に済度し難いのだ。

そのため、釈迦牟尼仏が地球にお生まれになる前、菩薩達は会議を開き、釈迦牟尼仏に来てはならないと申し上げたのだ。それは、娑婆世界の衆生は非常に済度させ難いからだ。『地蔵経』にも『全宇宙で最も済度させ難いのは地球の衆生だ。剛強で自己流を通し、調伏し難い』とある。仏は実に偉大であられる。これは自分の果報だ、必ず衆生を済度させる、と仰せになり、娑婆世界へお越しになった。以上の種々の条件を備えていなければ、施身法を修めることはできない。施身法は病人を救うことができる。なぜなら大部分の病は肉を好み、殺生し、他人に害を及ぼすなどの因果と関係があるからだ。病に対して救いになるとは、病苦に修行の心を障礙させないということだ。

病の最も重要な目的はなんだろうか?それは清浄な心を不清浄に変え、この一生で仏法を修行し、生死を解脱する機会を失わせることだ。例えば、死を恐れて手術を受ける。手術を受ければ何ヶ月もの間念仏する時間がなくなる。こうして、ひたすら障礙するのだ。施身法法会に参加した後、十善法を修め、懺悔するなら、病を抱えていたとしても、この病が修行を障礙することはない。密法では『病為道用』と言う。病こそ修行の法門だというのだ。そのため、病を追い払おうとはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎には側弯の症状がある。47歲で皮膚ガンに罹ったこともある。だが、そのために修法したことも、医者に掛かったことも、仏菩薩に祈願したこともない。この病を道用としたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは『自分が病を得たのは、自分が過去に為した事と必ず関係があるはずだ。病に対処するために時間を浪費せず、その時間を用いて発心懺悔し、慈悲心を養い、菩提心を発し、広大衆生に利益した方がずっと有用だ』と考えたのだ。

肉体は非常に重要だ。なぜなら肉体がなければ学仏できないからだ。だが、自己の病に対処するため時間を浪費するなら、心はどんどん狭くなってしまう。あなたは病を抱えている。衆生も皆病を抱えている。あなた一人だけが病を抱えているのではないのだ。凡夫であれば誰でも病を抱えているのだ。この一生で肉を食べたことがあるなら、必ず病気になる。現在自分は菜食し念仏しているので、病気にならない、などと思ってはならない。体内に残っている毒は排出され切っていないだろう。なぜなら、現在食べている食料の大部分は有毒だからだ。農薬を使っていない食料などあるだろうか?農薬が残留していない土壌などどこにあるだろうか?汚染されていない水などどこにあるだろうか?過去に身体に取り入れた毒、毎日累積している毒は膨大だ。どうしてガンになるのか?それは毒素の為だ。数年間学仏したのでガンにはかからない、などと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェであってもガンに罹ったのだ。自分はどの程度まで修めたと思っているのか?

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェのガンは良くなったのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェがガンに対処しなかったからだ。ガンと共に生きて行こうとしたというのではなく、それをドラマの一シーンだと捉えたのだ。この一生でガンに罹り治さなければ、次の一世でもガンに罹る、という人がいる。だが、このような言い方は正しくない。経典にはこのような記載はない。この一世である病に罹れば、次の一世でも同じ病に罹るとは書いてない。仏が仰せになっているなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも当然その通りに講じる。だが、この一世である病を治さず、その病により死んだなら、次の一世で同じ病にかかる、と仏は仰せになったことはない。経典にはこのような開示はなく、『心だけが病を治せる』と開示している。そのため、仏は医王を呼ばれるのだ。それは、仏が真に何かの薬や方法を用いて肉体の病を癒されるからではない。仏は心の病を癒されるのだ。心に病がなければ、肉体の病は心を障礙することはない。

なぜ病に罹るのか?それは心に貪、嗔、痴、慢、疑の病があるからだ。十善法を修めないなら、当然病気に罹る。なぜなら心に病があるなら、肉体に影響が及ぶからだ。だが、心が清浄を回復し始めれば、肉体の病は心に影響しなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身の脊椎側弯を例としよう。当初は医者である弟子までが、リンチェンドルジェ・リンポチェはコルセットを着用し、ベッドで絶対安静にし、大小便を失禁し、足が麻痺する、と言っていた。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェにはこれら状況は全くない。リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎は現在も矯正されていない。曲がっていても影響しないのはなぜか?簡単だ。心がゆっくりと調整されたので、肉体の事が継続しているからだ。この一世で生生世世の借りを完済できるなら、こんなに嬉しいことはない!

自分の身の上に何が発生したとしても、それが善であろうと悪であろうと、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべてを借金返済だと考える。臓器移植すれば良くなる、などと思ってはならない。こうすることで、反対に他人に借りを作ってしまうのだ。死者からの移植であろうと、生体からの移植であろうと、すべては他人に借りを作ることだ。我々がひたすら輪迴しているのは、衆生に借りがあるからだ。借りがなければ輪迴する必要はない。学仏で最も重要なのは借金返済だ。そして新しい借りを作ってはならない。新しい借りを作ってはならない、と言っても、衆生に慈悲をかけないということではない。みな誤解しないでほしい。ここでいうのは、何も求めず仏法を広めることだ。

『金剛経』では『無衆生可度』という。自分の任務は衆生を済度させることだと思うなら、それは菩薩ではない。『寶積経』で、仏は菩薩道を修行する行者に必ず四相(寿者相、我相、人相、衆生相)を破るようお教えになる。破ることができないなら、自分は菩薩道を修める、または菩薩戒を受けたことがある、と言ってはならない。なぜこの四つを破らなければならないのか?破らないなら、どんな善を行っても、相手はあなたに借りを作ることになり、あなたはたくさんの衆生に借りを作らせたことで、再来しなければならないことになるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが再来したのは、リンチェンドルジェ・リンポチェに借りがある人があまりにも多かったからだ。もしかしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らに借りがあるのかもしれない。二年前、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に引退したいとお伺いを立てた。だが、直貢チェツァン法王はお許しにならなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に引退したいと思っている。なぜなら、この時代、真に修行する人が数人もいないからだ。どうであろうと、リンチェンドルジェ・リンポチェは話し終わればそれで良いのだ。

今日はみなに月に一度の施身法を修める。これが、あなた達の親族と将来の学仏の道に助けになることを願う。施身法の真の名は『断』という。煩悩を断つのだ。煩悩とはなんだろうか?煩悩の一つには『所知障』がある。これは『自分は知っている、はっきりしている、理解している、聞いたことがある、学んだことがある』と思うことだ。一切の煩悩はどこから来るのか?それは仏法で言う一念無明からだ。一念無明とは、理解していない、分からない、ということではなく、心に貪念が起き、清浄な心を覆い隠してしまい、光がなくなることだ。無明が起きれば、煩悩もそれに従い起きる。煩悩が起きれば、どんな悪であろうとできるようになる。

今日修める法本は『二資糧』について触れる。資糧とは成仏を助ける資本だ。一つは福であり、もう一つは智慧だ。学仏人が福を修められないなら、生生世世の業を抑え、さらには変えることはできない。どうやって福を修めるのか?簡単に言えば、六波羅蜜の前段三項(持戒、布施、忍辱)を修めるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在忍辱を修めている。誰がリンチェンドルジェ・リンポチェを批判しても、全く反駁しない。六波羅蜜の前段三項は福を修め、後段三項(禅定、精進、智慧)は智慧を修める。

智慧がなければ、仏が説かれた仏法の真の意義を理解することはできない。智慧は根本智と後得智に分けられる。根本智とはあらゆる衆生が本来備えている智慧だ。根本智があれば、この一生で仏だ、ということではない。輪迴している一切の衆生は皆、仏と同様に成仏の智慧を備えているのだ。現在智慧は顕露していない。それは生生世世で修めなかったからだ。自己を輪迴させる行為を改めなかったからだ。そのため、二つの資糧で最も大切なのは後得智だ。この一生で仏法の薰陶を用いて改めるので、この一生で智慧が開かれる。智慧とは仏菩薩がお与え下さったのではない。このように修めたので、生生世世に備えていた智慧が開かれたのだ。

後得智と根本智は二つではなく、実は一つなのだ。だが、仏法の薰陶を受けなければ、根本智は顕露しない。なぜなら生生世世の悪業に覆い隠されているからだ。どんなに勉強ができても、頭が良くても、博士号を持っていようと、仏法においては智慧ではない。これらは世間的な賢さに過ぎない。なぜ、この一世で学校の成績が良いのか?もしかしたら、過去世でたくさん読経したのかもしれない。この一生で反応が素早いなら、過去世では無駄口を叩かず、おしゃべりが少なかったのかもしれない。この一生で起きるたくさんのことは、過去世での学仏と関係があるのだ。学仏したことがなかったなら、この一生で出現することは絕対になかったはずだ。

あなたがAmericanになろうと、Canadianになろうと、仏法に触れたことがあるなら、それは過去世で仏法に触れたことがあったということで、だからこそ、この一生で来たのだ。仏が慈悲で、あなたをGermanyやUSAやCanadaに送り、種を播かせたのかもしれない。実は西洋人こそ仏法が必要なのだ。なぜなら、彼らは東洋人とは異なり、内心世界を着実に変えることができる方法を持たないからだ。東洋人にはこの宝がある。だが大切にしていない。あなた達の誰が仏法を大切にしているだろうか?一人もいない。仏法を盲信の道具としているだけだ。あれを求めこれを求め、毎日求めている」と仰せになり、「唇が切れるほど言っているのに、あなた達はやはり聞き入れようとしない」とリンチェンドルジェ・リンポチェは嘆息して仰せになった。

「昨日一人の弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。この弟子は皈依して六年になるのに病気になり、リンチェンドルジェ・リンポチェに『私がしっかり修行しなかったばかりに、母を巻き添えにしてしまった』という。リンチェンドルジェ・リンポチェを巻き添えにしてしまった、とはどうして言わないのだ?この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに会い、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得たいと願っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日この弟子に加持を与えなかった。この弟子は皈依して六年になるのに、自分でできないのか?依存しているのだ。何から何までリンチェンドルジェ・リンポチェに頼ろうとする。彼の家族は人数が多く、また皈依している者もたくさんいる。だが、みな揃って依存している。こんな有様なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは引退すべきだろう。

この後リンチェンドルジェ・リンポチェは骨のラッパを吹く。密宗ではなぜこんなにもたくさんの骨を用いるのか理解していない学仏人が多い。実はそんなにたくさんは用いていない。骨の数珠があるという人もいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに長く密法を学んでいるが、骨の数珠を用いたことはない。尊勝なる直貢チェツァン法王もお使いにならない。直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェが用いる数珠は木製か水晶製ですべて非常に簡単だ。実は骨の数珠は、チベット密宗で用いるものではなく、苯教が残したものなのだ。

なぜ法器の中には人骨を用いるものがあるのか?人骨を用いるのであって、動物の骨を用いるのではない、ということを先ずははっきり言っておく。何人であろうと、人であるなら、含まれる染色体がいくらか異なるだけで、遺伝子は皆ほとんど同じだ。人骨を用いて法器を作るのは、六道内の一切の衆生を済度させるためだ。六道内のあらゆる衆生は過去世で人であったことが絕対にある。なぜなら、人だけが最も良い善を行う能力を有しており、人だけが最も大きい悪を為す能力を有しているからだ。動物はどれほど悪だろうとたかが知れている。たとえニシキヘビであっても一年に一回食べれば十分だ。ニシキヘビは殺生するが、一年に一度動物の屍体を食べるだけで、あとは食べなくともいいのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェを含め、みなかつては肉を食べたことがある。毎日どれだけ食べていただろうか?本省人であろうと広東人であろうと、子供の頃にはシラスを食べたことがあるだろう。何匹食べただろうか?これらは返済しなくとも良いのか?

つまり感情は面倒なのだ。すべてはここから来る。動物ができることは限られている。人類のように毎日殺したりしない。アメリカの大型屠殺場を見たことがあるだろうか?一日に数万の命が失われるのだ。今では台湾も彼らの後塵を拝している。そのため面倒な事態がどんどん多くなっている。たくさんの人が菜食は異常だと思っている。済度を求めて訪れた者に、リンチェンドルジェ・リンポチェが、この一生で菜食できるか、と訊ねると、たくさんの人が踵を返して去って行く。他の寺ではこのような要求はされない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずこのように要求する。菜食できないなら、この一生で法会に参加し親族を済度させたところで、あなた自身には少しの利益もないし、済度された親族の未来にも利益はない。なぜならあなたは諸仏菩薩の恩徳を受けながら、言いつけに従わず、殺生して肉食しているからだ。衆生があなた達一家を許すだろうか?絕対にそんなことはない。

仏菩薩や祖先が罰しに訪れる、などと思っているのではないか?地球上にはたくさんの衆生の神識がフワフワ漂っている。一匹の蚊を殺す。だが、その蚊の神識は、あなたが済度させることができないなら、残っているのだ。つまり、法会に参加する人に必ず菜食するよう求めるのは、リンチェンドルジェ・リンポチェのためではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに67歲だ。あとどれほど生きられるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは80歳や90歳、100歲まで生きたいなどと思ったことは一度もない。なぜなら非常なる疲れを覚えているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのように仏法を広める人はいない。他のところでは、あなた達は行くだけで良い。そして『お名前は?書いてあげましょう。菩薩のようですね。立派な発心です!では、失礼して、3000元です』などと言うのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような事はせず、学仏する。仏菩薩は衆生に生死を解脱させるよう我々にお教えだ。あなたは肉食をさえ改めることができないで、どうして生死を解脱できるだろうか?自分に嘘をついてはならない!家庭が不和でうまくいかない、という人が多いが、これこそ殺生して肉食しているためなのだ。生生世世で殺生したことがあり、祖先が殺生したことがあるなら、この一世では必ずこうなる。それでも次の一世もこうなることを願うのか?誰も聞き入れようとしない。仏が仰せの仏法を聞き入れないで、仏に何を求めるのか?得られるはずがないではないか!

いわゆる恭敬とは、言いつけに従うことだ。仏が仰せの事に従わないで、済度は何の役に立つのだ?何の役にも立ちはしない!リンチェンドルジェ・リンポチェにどんなに能力があっても、仏が現れて済度させようとなさっても、その人に福がなければ済度させられることはない。福はどこから来るのか?それは三寶に対する絕対的な恭敬心からだ。我々東洋人は三寶に対して不恭敬だ。リンチェンドルジェ・リンポチェには数人の西洋人の弟子がいるが、彼らは本当に恭敬だ。この一生で学んだことはないが、良いものが分かっているからだ。自分は毎日仏法を聞いているので分かっている、と言うだろうが、あなた達は仏法を大切にしない。自分が望むなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその通りにしなければならない、と思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達の好みに合わせて行うことなどできない。それは、経典で教えないからで、そうであるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそうすることはできない。

今日開示する仏法は、リンチェンドルジェ・リンポチェのためでは絶対にない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに67歲だ。あと何年生きられるだろうか?それなのに、あなた達は機会を捉えて自己を改めようとしないのか?時間はどんどん少なくなっている。末法時代はますます乱れている。今年の初め、リンチェンドルジェ・リンポチェは今年は特に乱れる、といったが、その通り、あらゆることが発生しているではないか。我々はこの良くない共業の中にいる。いかにすれば、自分を巻き込まないでいられるのか?仏号を念じるだけでは駄目だ。行わなければならない。何を行うのか?これら良くない共業から離れ、修行を始めるのだ。皈依しなくともよい。だが十善法は必ず行わなければならない。さもなくば、これら良くないことと距離を置くことはできない。距離を置くことができれば、友人や親戚は減るだろうが、金銭は増えるだろう。なぜなら接待や付き合い、冠婚葬祭の誘いが減るからだ。これだって、あなた達に金を儲けさせてやっているのではないか?

仏教の方法はすべて我々に金儲けを教えている。だが、みな聞き入れようとしない。親戚、友人が多ければ、金儲けの機会が多いと思っている。実は、そうではなく、最後には自分の命と取り替えることになるのだ。金儲けができて、たくさんの人に知り合えたとしても、それが良いとは限らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏の後、本当に縁に従い日々を過ごし、できるだけ他人を助けている。その人が恩返しするか、学仏するか、信じるかは、リンチェンドルジェ・リンポチェとは無関係だ。なぜなら、それは彼ら自身の事だからだ。

だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩と上師の恩徳に借りがあるので、生きている間は必ず仏法を説かなければならない。あなた達が聞き入れるか聞き入れないかは、あなた自身の事だ。受け入れるかどうかもあなた自身の事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じ、輪迴過患をよく知っているため、お世辞を言ったり、仏法を捻じ曲げたり、信衆を持ち上げたりしない。そんなことをするくらいなら、出て行くあなたに『このリンポチェはなんて無慈悲なんだ』と罵られた方が良い。これはとても良い。それはこれにより、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたに結縁させたからだ。こうしたおかげで、次の一世であなたを済度させることができる。あなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェの名前を覚えたら、それは縁が結ばれたということだ。

善縁が必要だと思っている人が多い。実は仏菩薩のお考えでは善も悪もない。大切なのは縁があるかどうかだ。誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェを罵倒すれば、それは縁があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェをやり込めることができれば、それも縁があるということだ。以後リンチェンドルジェ・リンポチェが仏、菩薩に成れば、先ずこれらの人を済度させるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの方法は、他の人とは異なる。一日中ニコニコ笑ってお世辞を言っていることはできない。これは、このような動作ができる人にやってもらえば良い。リンチェンドルジェ・リンポチェにはできない。できないのだから、おとなしく上師と釈迦牟尼仏の方法に従い仏法を広めれば良いのだ。当然こうすればとても大変だ。こんなに苦労しようと思う人は誰もいない。

今日修める施身法も非常に大変だ。これほど大勢の人の前で施身法を修められる行者は多くない。話は戻るが、なぜ骨を用いて法器を作るかだ。同類でなければ、同事だ。同事とは同じ会社で働いている人ということではなく、同じ事をするということだ。骨の意味は『人生は無常であり、諸法は無我だ』と衆生に教えるためなのだ。あなた達が生きている時にどれだけ優れていようと、死ねば残るのは骨だけだ。火葬されてしまえば、骨さえも残らず、灰だけだ。こうすることで、頑固で悪辣な衆生を救うことができるのだ。

悟性がある人は骨製法器を見れば開悟できる。開悟とは成仏ではない。開悟はたくさんのレベルに分かれる。少なくとも悟ることはできるだろう。どこに争うべきことがあるのだ?どこに不公平なことがあるのだ?極めて公平だ。誰でも死ねば残るのは骨だけだ。公平なことこの上ない。つまり、彼氏に捨てられようと、あなたが彼氏を捨てようと、その後はみな同じなのだ。男性の骨と女性の骨という違いだけで、何れにしても骨なのだ。心に留めおくべきことがあるだろうか?今日彼にどんなにたくさんの良くないことがあったとしても、最後には骨が残るだけなのだ。

仏が用いられるあらゆるものは仏法と関係がある。人生は無常だと、ひたすら我々に警告してくださっているのだ。良いものを求めており、得られれば良い、と思っているのではないか?だがこれも無常だ。変化するのだ。良くないものは欲しくない。だが良くないものがやって来た。だが、あなたはそれが欲しくない。そのため、たくさんの面倒を起こし、苦痛がひたすら増加する。良くないものは、変わらないのだろうか?そんなことはない。変わる。そのため、骨を用いて法器を作ることで、『人生は無常だ。諸法は無我だ』と教えてくれているのだ。あなたというこの我も仮のものだ。皮と肉が無くなってしまえば、残るのは骨だけだ。誰でも骨の本質は同じだ。大した差はない。生前美しかったので骨も美しい、ということはなく、生前醜かったので骨も醜いということもない。すべて同じなのだ。

特に人身を失った衆生が骨を目にして思い出すのも無常だ。そして、一瞬にして嗔恨心を放棄するのだ。仏は、我々が人身を失い、中陰にいるか、地獄に堕ちた後、知覚(敏感度)が人の100倍強くなる、と開示くださった。経典には、仏はかつて地獄、天界、阿修羅界へ行かれ、さらには龍に仏法を開示なさったことさえある、と記載されている。仏が一言語ると、彼らはすぐに阿羅漢まで証した、という。なぜなら彼らは真に苦を体感していたからだ。現在の人世間の苦は苦苦というほどのものではない。一般的な苦に過ぎない。なぜ我々は苦しいと感じるのか?それは死を恐れ、死にたくないと思うからだ。死にたくないと思えば、死なないのか?そんなことはない。人は必ず死ぬのだ。

今日我々はこんなにもたくさんの仏法を修めた。それは、長寿無病、万事順調、白馬の王子や黒馬の王子のためではなく、人生における最も重要な事の準備をするためなのだ。結婚や出産や金儲けではない。死だ。我々が数十年準備するのは、この数秒間のためなのだ。行者がうまく修行したかどうかは、往生時にはっきり現れる。決して欺くことはできない。大和尚であろうと、大リンポチェであろうと、往生時にどんな様子であるかを見れば、はっきり分かる。今日はみなのために施身法を修める。みなこの法縁を大切にしなければならない。心の中でブツブツ言ったり、信じるだの信じないだのと思ってはならない。施身法はリンチェンドルジェ・リンポチェが書いたのでも、作り出したものでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を学んだが、それにはすべて依拠、伝承、次第があり、それに基づき修行した末に、修めるようになったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じる。リンチェンドルジェ・リンポチェが学んだことがない法門、授権されていないものを、衆生に修法することはない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身が法門中で少しの成就も得られていないなら、衆生に修法することはない。なぜなら仏法は冗談ではないからだ。売買とすることも、商売とすることもできない。完全に布施なのだ。後で修法する時には、リンチェンドルジェ・リンポチェのためではなく、あなた自身のために、あなたの親族と一切の有情衆生のために、三寶に対して恭敬心を起こし、自己が生生世世に為した悪に対して懺悔の心を起こし、一切の衆生に対して慈悲なる心を起こさなければならない。この三種の心を携えて法会に参加しなければ、あなたに対して意義を生じ、あなたと関係のある衆生に対して意義を生じることはない」と仰せになった。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる直貢噶舉施身法の修持を開始された。修法が円満になった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法の開示を続けて下された。

「法本の後の方で念じたのは祈請文だ。上師の加持を祈願するものだ。三寶に対して恭敬で、上師に対して信心を持つなら、法本中の祈請文は『内因悪業と業障、つまり内在の因、学仏を障礙する一切の業、あなたと有縁の一切の邪魔と鬼衆、生じた病痛と苦痛は、慈悲と威力で、直ちに消えてしまう。加持をくださるよう上師に祈願する』という。法本の後の方では念じるのはすべて、上師の加持を願うものだ。そのため、もし上師を凡夫として考えるなら、得られるのも凡夫の加持だ。密法は顕教と少し異なる。功徳を備えた上師を凡夫として考えてはならない。上師が法座に上り、清浄な心で衆生を救うなら、上師と本尊、仏を無二無別としなければならない。

我々は仏をこの目で見る福報がないので、仏像を見るだけでは、信心が起こらない。そのため、この方便法はあなた達に上師に対して信心を起こさせるのだ。上師は諸仏菩薩、本尊、歷代上師の伝法を代表するので、あなたがもし法座上に腰掛けている上師に対して何らかの疑惑を抱くなら、上師に害はないが、あなた自身の以後の法の面に障礙が生じるだろう。法会への参加は自分の事だと思っている人が多いが、実はそうではない。宇宙で行われた一切の善と悪は、法界のすべての衆生に影響を及ぼすのだ。あなたが利己的な心で法会に参加しているなら、得られるものは限られている」と仰せになり、リンチェンドルジェ・リンポチェは済度リストをご覧になって「あなた達が済度させたいと願う衆生は、全く何でもありだ。ウサギにニワトリに女幽鬼。白いスカートを履き、肩まで届く黒髮の夢に出てきた目の大きな女の子、古風な服装をした衆生、ネズミ、ネコ等」と嘆息して仰せになった。

法会が円満となり、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と開示に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを起立して恭しくお送り申し上げた。

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2017 年 04 月 22 日 更新