尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年5月11日

法会の開始に先立ち、一人の弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが心臓病の危機を乗り越えさせ、速やかに健康を回復させてくださった経過について語り感謝申し上げた。

「およそ24年前、私は心筋梗塞の発作を起こした。左前支冠動脈の90%以上が詰まっており、医者は心臓カテーテルを用いてバルーンを狭くなった冠動脈に送り込み、加圧して血管を広げようとした。けれども血管壁が厚過ぎたため、30%しか広げることしかできなかった。30%以上広げれば、血管が破裂する危険があったためで、その後私は酸欠の状況で生活することとなった。その10年ほど後、病院からの連絡を受け心臓カテーテル検查を行ったところ、冠動脈に5ヶ所の狭窄が発見された。妻がその場で同意書に署名し手術が行われ、5個のステントが装着された。その2年後私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依申し上げ、学仏、菜食し、活血化瘀(血流を良くし流れの悪くなった状態を改善する)漢方薬を服用した。3ケ月毎に病院で血圧と心臓の薬をもらっていたが、病状をうまくコントロールできていると感じたため、その後は主治医に診察してもらうことはなかった。

昨年(2013年)7月私は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い、インドのラダックで法会に参加した。一日目の夜、私は突然胸の痛みを感じた。それが一時間も続き、よくなる兆しが見られなかったため、これは心筋梗塞の前触れに違いないと気づき、悪化させるわけにはいかないと考え、直ちにベッドの上に座り尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想申し上げた。お救いくださるよう心中で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに祈ったところ、10分ほどすると疼痛は完全に消えてしまい、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに私は深く感謝申し上げた。二日目午前の法会終了後、私たちはラダックを離れ、インドのある景勝地に向かった。午後はホテルで休息するよう、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは仰せになった。弟子達は十数軒のホテルに分かれて宿泊するが、私は30人余りの弟子と共に上師に従い同じホテルに宿泊した。昼食後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが他のホテルに宿泊している弟子を見回りに出かけられると聞き、兄弟子を通してお願いし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお許しを頂戴した後、弟子達は上師の御座車の後に従った。どこへ行くにも、私を含むすべての人は付いて行くために早歩きにならざるをえなかったが、私の心臓はなんともなかった。

法会の終了後、私は数人の弟子達と共に、上師と同じホテルに宿泊した。上師が絶えず隨縁度衆なさるご様子を目にし、私は感動しながらも、上師の歩みに付いていけないのではないかと心配になり、部屋で大礼拝を開始したが、心臓には何の異状も現れなかった。同行者の一人、王兄弟子は『上師が赴かれるところは、どこでも仏光が普照し、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に仏のようであられる。弟子である我々の福報はこの上もなく大きい』と言われていたが、私も心からそう感じた。

インドから戻った後、私は毎日大礼拝を行ったが、健康に問題はなかった。ところがある日、荷物を送るよう海外の友人に頼まれ、手伝ってくれる人がちょうど見つからなかったため、自分で荷物を持って郵便局へ行ってしまった。しかし、心筋梗塞を患ったことがある人にとって、重いものを持つことは最も忌避すべきことだったのだ。大きな過ちを犯した後、私は歩くと息切れするようになったため、病院で主治医の診察を受けたが、すぐに入院するよう言われ、二日目には心臓カテーテル検查を行った。その際には妹と義弟が付き添ってくれた。普通は、検查中に血管に狭窄が見つかり、医師が治療の必要があると判断すると、その場でバルーンで血管を開き、ステントを挿入する。だが、20数分後、治療を行うこともなく、私は心臓カテーテル室から送り出された。けれども妹は深刻な表情で、医者によれば、私の右前支冠動脈はすべて詰まっており、左前支血管には6ヶ所の狭窄があり、どのように処理すべきか検討中とのことだった。私は妹に兄弟子に電話し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに報告申し上げたかどうかと尋ねてもらったが、上師はとっくに加持くださっていたことを後に知った。入院三日目、主治医は私に『医師団で三回会議を開き、最も安全な方法を採用することに決めた。それは心臓カテーテルを利用し、右前支冠動脈を開通する方法だ。これは万一失敗しても命の危険はない。なぜなら左前支の冠動脈から一本の血管が右前支の梗塞した血管の下方へと通っているからだ。血流量は十分ではないが、短期的には命に別条はない』という。私は先ずは退院して上師にお目にかかり、来週再入院して治療することに決めた。土曜日尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪くと、上師は微笑を浮かべて私をご覧になり、経典、仏像を私の頭上に置き長い時間加持くださった。そして一本の小さな木の棒を私の左胸で動かし非常に長時間持咒くださり、最後に穏やかで前向きな口調で『手術せよ』と仰せになった。

私は再び入院し、朝9時前に3人の医師、3人のアシスタントが待つ心臓カテーテル室に入った。医師は針先で右冠動脈の梗塞場所を探り、通路を開こうとした。最初の2時間、血管が硬化していて石のように硬いと医師が言うのを、私は絶えず聞いた。私は胸が痛く、ムカムカして非常に苦しかったが、2時間後、医師が『進んだ』というのを聞いた。血管がついに開通したのだ。バルーンを挿入し加圧して血管を広げ、3本のステントを装着し、ようやく手術は完了した。6人の医療スタッフが一緒に拍手して成功を祝ってくれた。前後3時間あまり、私はこれは相当困難な手術だと思っていた。

病室に戻った二日目、私は友人からの電話を受けた。この友人は国際的に著名な心臓移植の大家で、外国から戻ってきたばかりだった。友人は私のカルテと治療のビデオを見た後『君の上師リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に素晴らしい。十万人が受けても一人も成功しないような難手術だ。上師の加持がなかったなら成功は難しかっただろう』と言った。退院後私は再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁申し上げ、医師である友人の言葉をお伝え申し上げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはただ淡々と『私が手術したのではない。私とは無関係だ』と仰せになり、しっかり休養するよう仰せくださった。

3〜6ケ月休養後にもう一度心臓カテーテル手術を受け、左前支冠動脈狭窄部位に再び3本のステントを装着するよう、医師からは何度も言われたが、私は気が進まなかった。今年2月、私は食後に歩いていて胸苦しさを突然感じ、それが10日間余りも改善されなかった。医者である友人には言えなかったが、友人は、何かあったら必ず病院へ行き、特に心臓カテーテル術を行うなら、必ず上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を求めるようにとひたすら強調していた。そのため私は再度尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった。上師は、先ずは東洋医学クリニックで診察を受け、漢方薬を飲み鍼灸を受けて、二週間後に再び決めるよう仰せになった。もし病院に行くなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず加持をくださるとのことだった。

そのため、私は東洋医学クリニックへ行き、医師の細やかな脈診、舌診を受け、薬を処方してもらい鍼灸を受けた。漢方薬を服用すると、健康状態は日増しに改善したが、食後に歩くとやはり圧迫感を感じた。ところがある日の昼食後、従兄弟と共に駐車場に向かって歩いている時、いつも感じる心臓の不快感がなくなっていることに気づいた。日数を数えてみると、漢方薬を服用し鍼灸を受けてからちょうど2週間だったので、非常に不可思議に感じた。東洋医学クリニックの医師によれば、上師はしばしば電話で、薬や鍼灸の状況など私の状態を尋ねておいでだとのことだった。天下広しといえども、このように弟子に心を寄せてくださる上師は他には決していないと感じた。

私は、自分は下下根器の弟子だと自覚している。学問においても何かを行うにしても、学仏にしても、ことが至って初めて気づくような有り様で、しかもたくさんの過ちを犯してきた。幼い頃は田舎で昆虫や魚を捕まえ、衆生を傷つけてきた。大学時代は比較解剖学の授業で多くの衆生を傷つけた。製薬会社に勤めていた頃には、抗生物質の力価を測定するため無数の細菌を培養し、実験後はこれら細菌を処分していた。また私は、乳酸菌を利用して土壌の改良を行おうと考え、それを培養していたことがあった。スライドガラスに培養液を垂らし、顕微鏡で彼らの活性を観察する。観察を開始したばかりの頃には、無数の細長い乳酸菌が培養液内で動き回るのが見え、その活発な様子は愛おしくさえ感じだ。だが液体が乾燥すると、スライドガラスの上には屍体の群れが残された。私は悲しくなり、科学とは、生命とは一体何なのか?と思った。かつては営業を司ったこともあったが、営業では接待による飲食はどうしても避けられなかった。営業を辞めるまでの10年もの間に口腹の欲が習慣となり、多くの殺業を重ねることとなった。違心の過ちもたくさん犯した。これらが重なり、24年前には心筋梗塞の発作が起きたのだ。これは自らが犯した罪の当然の報いだと深く懺悔したい。

金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、私の懺悔心は不十分で修行に力を尽くしていないとかつて開示くださったが、私は全く仰せの通りだと感じた。一切の俗事から離れたいとひたすら願っていたが、やはり世俗の目的を捨て去ることができなかった。一日も早く一切を捨て去り、学仏に努力し、先ずは自度を求め、次に他を求めることを願う。私の両親は晚年、外国で何度も病気になったが、幸運にも金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを得て、臨終時にも速やかに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なるポワ法による済度を頂戴できた。この恩この徳を、私は永遠に忘れることはできないだろう。

私はかつて、友人に代わり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの救いをお願い申し上げたことがあるが、利益を得た後に忘れてしまっている人もいる。けれども、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは気にしておられず、衆生を救ってさえそれを覚えてはおられない。上師は決して攀縁なさらず、強求したりもなさらない。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは因果、因縁をご存知で、無私であられ、最良の方法で衆生をお救いくださるのだ。私は兄弟子のみなさんに呼びかけたい。ともに努力し、いつか必ず上師の法教を発揚し、より多くの有情に利益し、上師の心願を満願としようではないか。最後に私は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに再度感謝申し上げ、上師の吉祥如意と法教の長存を祈願申し上げたい」と述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者に貴重な仏法の開示を下された。

仏法を学ぶ者は、ある重要な点をはっきりさせなければならない。それは世界のすべての宗教において、仏法だけが違っているということだ。どこが違うのか?『信』があるだけで、仏弟子だと言えるのではない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは、『信願行』、『聞思修』が仏法の特異な点だと開示したことがある。仏の慈悲を信じ、仏の教導が我々を救ってくださると信じ、そして衆生の解脱を助け、しかも上師と仏菩薩の加持の下、自分は必ず成し遂げられると信じ、そのため自己の行為を改めなければならないのだ。

上師と仏菩薩の加持は、累世の業障に阻害されないよう助けてくださるだけだ。だが、仏果を証するまで永遠に仏法を学習しない限り、この種の阻害は永遠ではない。もし、そなたが絶えず一進一退しているなら、仏法の加持はそなたとは関係がない。加護を求めるためだけなら、学仏は不要だ。自分の性格をはっきり掴むためだけなら、やはり学仏は不要だ。他の宗教でもいいだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの亡き父は道教を修行していた。これら世間の事情なら道教でも良い。カソリックでもプロテスタントでも良い。

仏法の特色は仏法、上師の教導を聞いた後、着実に実践しなければならないということだ。聞けばそれでおしまいで、好めば来て、好まないなら来ない、というのではない。学仏は生生世世の事なのだ。仏法を確実に日常生活に生かすため、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまですでに多くを教導してきた。自己の行為、自己の一切の考え、言ったことのすべてが、仏陀の教法に背いていないか、日々検視する。仏法と相いれないなら、そなたはその日は仏弟子ではない。

台湾では大乗仏法を修行すると簡単に言うが、最も大切なのは、大乗仏法では自己の慈悲心を養い、学び、鍛錬することだ。慈悲心とは善事を行い、ボランティアを行うことではない。たくさんの利己的な考え方と行為を改めてしまわなければ、慈悲なる力を生み出すことはできない。ガムポパ大師は『串習熏修自他平等、推己及人』とお教えくださった。ここでいう平等とは、社会的な地位や、学問や財や富における平等ではない。この一生の財と富、学問と社会的地位は、過去世で自身で修めた福報が、この一生で果報となって現れたに過ぎない。そのため、この面で平等であることは有り得ない。なぜなら、過去世で修めたものを、この一生で得るのだからだ。

仏が仰せの『自他平等』と『推己及人』とは、虚空無量無辺の有情衆生の中で、離苦得楽を願わない者は一人もいない、ということだ。この種の苦とは輪迴の苦だ。世間的には、すべての人に八種の苦『生、老、病、死、求不得、愛別離、怨憎会、五蘊熾苦』がある。この八種の苦はどこから来るのか?それは生生世世の業力によるのだ。動物にもある。ただ、彼らはそれを口に出さないだけだ。だが、やはり同じようにこの八種の苦を経験しなければならない。生死を解脱しなければ、この八種の苦は生生世世にそなたに付いてくる。天界に生まれようと、この八種の苦はあるのだ。輪迴を解脱し、浄土に生まれ、菩薩から修行を始め仏果まで証しなければ、この八種の苦から逃れることはできない。

我々は生まれれば、なぜ物を食べ、楽な日々を過ごそうと考えるのか?それは我々は生生世世において何度も輪廻しているので、苦があると知っているからだ。他の宗教は、この種の苦の出処、或いは解脱の方法を説明し、我々に理解させることはできない。そのため信衆に、信じれば良い、信じれば救われると教えるのだ。信じれば救われるなら、なぜなおこんなにもたくさんの衆生が苦海にいるのか?信じれば救われるなら、なぜ対象を区別するのか?あらゆる人を愛すというなら、区別などないはずではないか。すべて同じ人類なのだ。医学、科学の面から言えば、あらゆる人類は遺伝子が異なるだけで、成分はすべて全く同じだ。同じものなら、なぜ区別する必要があるのか?これこそ一種の矛盾だ。

仏は『虚空中の無量無辺の有情衆生も六道中の有情衆生も、離苦得楽を願わないものはいない』と仰せだ。つまり、誰もが幸福になりたいと願うのと同様、有情衆生もすべて実は安楽を得ることを願っているのだ。我々は学仏人として、他人の感覚は自分とは異なると考えるのではなく、他人の苦は自分とは異なると考えるのではなく、確かにそうであると確実に実感し知る必要がある。そなた達は、異なるのは世俗の苦であり、これは業力の出現だ、と考えているが、他人の苦が自分より少ないからといって、自分の苦を理解できないという訳ではない。苦は多くの種類に分けられる。今日言っている苦で最も重要なのは輪迴の苦だ。六道内のすべての有情衆生は生生世世にこの種の苦を経験する。

一人の学仏人が、自らを仏弟子だと思うなら、しっかり考えなければならない。なぜ我々はいつでもすべてが自己の安楽のためなのか。なぜ他人の幸福を考えることは全くないのか?そなた達が学仏に来るのも、自己の安楽のためだ。健康のためでなければ、学校の成績のためか、良い配偶者を探すためだ。すべてこの種の事のためだ。これでは仏弟子ではない。仏弟子と呼ばれる資格はない」と仰せになった。

この時リンチェンドルジェ・リンポチェは、集中していないある弟子に気づかれ、叱責なさり、「何にかまけているのだ?」とお尋ねになった。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは真剣な口調で「道場に問題が起きるのは、まさにこのような有様だからだ」と仰せになった。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェはその弟子に『土下座する必要はない。そのまま出て行くように』とご指示になった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を継続された。「幼い頃から現在までの我々の思想のすべては、『地蔵経』で言うように、すべて業で、すべて罪だ。いかにして少しでも楽に日々を過ごすかだけを考え、他人の幸福など考えたこともない。儒家思想では『独楽楽不如衆楽楽(大勢での楽しみは、独りでの楽しみに勝る)』という。だが、これはただ世間の常識であって、『自分が楽しみたいなら、みな一緒に、仲間となって楽しもう』というだけだ。仏法のレベルはそうではなく、みなすべてが一体なのだ。表面的には違う個体、民族、氏名だ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば開示している。もしそなたに名も身分証も免許証もないなら、そなたは誰だというのか?みなと同じだ。違いはない。見た目は違っているかもしれないが、やはり同じように五官がある。目、鼻、口、耳がある。

なぜ我々は自分のことしか考えないのか?簡単に言えば一念無明だからだ。無始以来いつ念頭を起こしたか分からない。因果を信じず、少しの貪欲のために先ずは行ってから考えようとし、今のところは結果は分からないと考えている。我々が世間で為す事のすべては損人利己だ。もし、この世間の衆生がひたすら損人利己であるなら、この世界、この国はすべて滅んでしまうだろう。なぜこんなにもたくさんの紛争や争いがあるのか?すべては、他人より少しでも多く得ようと考えるからだ。このような考えがあるなら、仏弟子ではない。

『入菩薩行論』には『任時自與他、欲楽既等同、自他有何別?為何勤自楽?』とある。いつであろうと、衆生は同等の快楽を得たいと永遠に願う。それなら、衆生と我々とに別があるだろうか?なぜ我々は快楽を得たいと常に願うのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば開示する。利己的な人が欲望において一時的に快楽を得たとしても、それはごく短い間だけで、その後にはたくさんの後遺症がある。人は利己的なので、他人が死のうが生きようが、自分が良ければそれで良い、と考えている。この種の人が理解していないのは、今日自分だけが幸せで、他人が不幸せなら、自分も幸せを得られない、ということだ。なぜ幸せを得られないのか?なぜなら我々は単独でこの世間に存在しているのではないからだ。地震が発生すると、あちらも揺れ、こちらも揺れるように、そちらの空気が悪ければ、こちらにも影響が及ぶようなものだ。

そのため誰もが自己の心を学び、鍛錬する責任があるのだ。衆生は平等だ。この種の平等は身分、地位の上ではなく、男女の別でもない。業力によって異なる相、外観、過程を生じているだけで、一切の有情衆生の本質はすべて同じだ。衆生の本質はすべて清浄だ。ただ、貪念を起こし、自ら絶えず煩悩を生み出しているだけだ。絶えず煩悩を生み出すなら、快楽を追い求めるだろう。快楽を追い求めるなら、煩悩はますます多くなる。煩悩が絶えることがないなら、苦が訪れる。学仏人であるなら、自分は学び安楽を得たので、他人が学べていなくとも自分とは関係がない、自分と相手とは無縁だなどと思ってはならない。仏法で最も重要なのは自己の心を鍛錬することだ。そなたが自己の心を調整せず、自己を鍛錬しないなら、行為も思想も言葉も仏弟子らしいものとはならず、菩薩道を修めることなど到底かなわない。灌頂を受ければ金剛乗を修められるなどと思ってはならない。

一切すべては心が為すのだ。心を調整しないなら、一切の現象はやはり凡夫俗子の現象だ。そのため、いつでも自己とすべての他の衆生が安楽を得られるよう願うのだ。みながこのような考え方を持つなら、自分と他人とに何の別があろうか?みな揃って安楽の追求を好む。この思維は同じだ。同じ思維なら、誰それを区別する必要があるだろうか?自分が修めている、念仏している、などと考える必要などあるだろうか?自分が浄土へ行けるように、息子が健康で仕事がうまくいくようにと、自分のために念仏していると思っているのではないか?このように仏法を念じるのでは、100世、1000世、10000世念仏しても、生死を解脱することはできず、この一生で生生世世の業力を転じることなど到底できない。なぜならそなたは区別しており、自分の念仏は他人とは無関係だと思っている。それでは、そなたと関係のある一切の衆生は無関係となってしまう。我々と関係のある衆生は、そなた達が思うような冤親債主ではない。実は我々に敵対するのは、冤親債主だけではないのだ。真の冤親債主は家にいる。借りがないなら、どうして同じ家に生まれるだろうか。借りがあるからこそ、同じ家に生まれたのだ。

どうしても区別するなら、仏法の平等、慈悲を学ぶことも修めることも絶対にできない。修められないなら、生生世世にそなたと関係のある衆生は、そなたの慈悲心を感じることができない。それなら、そなたを許し、そなたに安楽な日々を過ごさせることなどあるだろうか?有り得ない。なぜ多くの修行人が臨終前にこんなにも苦しむのか?表面的には、彼ら自分は借金を完済したと思っているが、実はそうではない。彼らは生前に、この一点を修められていなかったのだ。自分は修行人で、たくさんの衆生を済度させ、たくさんの仏法事業を行ったと考えているからだ。

『金剛経』では、菩薩が自分は衆生を済度させていると考えるなら、それは菩薩ではない、という。なぜそうなのか?それは菩薩は区別できないからだ。自分は菩薩なので、自分は他人よりレベルが高く、他人は自分を必要としている、と考えることはできないのだ。衆生がいないなら、菩薩など必要だろうか?衆生が苦海内にいないなら、菩薩も仏も必要ないのだ。仏菩薩が現れたのは、衆生が苦海にいるからなのだ。つまり仏は、衆生に苦があるからこそ成就できるのだ。なぜ仏は成就できるのか?それは仏には区別がなく、衆生の苦は自己の苦と同じで、自己の楽は衆生の楽と同じだと実感できるからだ。

つまり毎日自分で拝んでいても役には立たないのだ。大礼拝をたくさん行えば智慧が開けると、誰もが考えている。智慧を開くことなどできるはずがない。なぜならそなたはやはり自己のために行っているからだ。そなた達は、たくさん拝めば、母を健康にできると思っている。だが、これはやはり自己のためだ。そなたの母の健康に問題が生じているのは、殺生のためだ。衆生は命を落としたのだ。どんなに苦しかったことか!これら衆生の苦を思いやろうとせず、母親が病気で苦しんでいると思いやろうというのか?実はそなたは、母が病気で苦しんでいると思いやっているのではなく、母親が病気になると自分が看病しなければならず、自分も大変なので、リンチェンドルジェ・リンポチェに泣いて見せているのだ。

道場で拝めば、母の健康を回復させられるなどと思ってはならない。それはやはり利己的で、やはり自分の母の身体のために拝んでいるからだ。この種の平等心を鍛錬しないなら、何を拝もうと何を念じようと、少しの人天福報を累積し未来世で用いることができるだけで、この一生では使えないのだ。自分はたくさん念じ、たくさん拝んだなどと思ってはならない。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェより多いはずはない。同じように、我々はしっかり考えなければならない。なぜ自分は、己のちっぽけな苦難を何とかしようとばかり闇雲に考え、他人の不幸について考えないのか?菩薩道を修めたいなら、自分に何事もなければ修行がうまくいっている、というのではない。菩薩は様々な事を顕現して見せてくださる。何事もなければ菩薩だというのでは決してない。

経典に記載された修行の過程では、種々の世間の事情が現れ、多くの菩薩がたくさんの苦にぶつかる様子を衆生は目にすることができる。菩薩の修行過程は、決して平坦ではない。福報が良ければ、この一生では何の障礙もないと思っているだろうか。もしそうなら、悲惨だ。なぜなら絕対に修められないからだ。この一生では大和尚で、たくさんの仏寺を持ち、世界中に弟子がいるなら、この人はひたすら再来しなければならないだろう。金剛乗と大乗の特色は区別してはならないことだ。なぜ『金剛経』は経中の王と呼ばれるのか?それは『金剛経』は菩薩を教えるのであって、そなた達のような凡夫俗子を教えるのではないからだ。自分は禅宗を学び『金剛経』を読んだが、『金剛経』は経中の王なので、自分は王になった、などと思ってはならない。ただ、顔色が黄色くなっただけだ。なぜ黄色くなるのか?それは座禅をうまく組めないなら、最後には肝臓と担臓に問題が起きるからだ。顔が黄色くなった人をそなた達もたくさん見たことがあろう。それは、座禅の方法が正しくなく、また利己的なためだ。

なぜ我々はひたすら自分のことを考え、どうすれば他人もこうなれるだろうか、と全く考えないのか?考えるのと実際に行うのとは違う。今すぐにあれこれ助けに行こうなどと思ってはならない。これは世俗人が慈善事業を行うやり方だ。事があれば必ず業もある。修行人は自己の心を調整しなければならない。済度させるのは地球上の人類だけではない。虚空中には無辺の有情衆生がたくさんいる。これら衆生は我々と直接的或いは間接的に関係がある。過去世が悪縁であろうと善縁であろうと、すべては一つの縁だ。衆生がこの一生で我々と結んだ縁は、悪であろうと善であろうと、未来ではすべて一つの縁だ。そのため、分別心がある人は、いかなる縁が訪れようと、未来には善縁を向善の善とすることはできず、悪縁を善縁とすることはできない。なぜならこの一世で区別を始めているからだ。

経典で、他人を批判してはならない、と教えるのは、一度口に出せば、縁が悪に変わり、未来世が悪縁となるからだ。この一世で誰かが我々に敵対したとしても、『仏子行三十七頌』に基づき、我々はすべて受け入れなければならない。どうしてなのか?なぜなら我々はこの一世で菩薩道、大乗を学んでいるからだ。少しの小事さえ受け入れられず、あの人は悪縁だなどというなら、これこそ悪であり、自分が分別心を持つようひたすら訓練することとなる。学仏人は物事を見る際に因果から見る。因に応じた果を得るのだ。それは変えることはできない。だが、この一生で出現したのが善縁であろうと悪縁であろうと、学仏人にとってはすべて一つの縁だ。今日そなたにとって相手が悪であっても、行者の心が悪念を起こさないなら、これは善縁であり、未来世ではこの人を済度させることができる。

釈迦牟尼仏は仰せになった。過去世で、ある人が仏にとてもひどく対したので、成仏の後には先ずこの人を済度させると仏は発願した。そなた達なら、菩薩に成ったなら先ずこの人を懲らしめる、と発願するのではないか。そなた達は仏とは違う。自分がうまくいったら、目に物見せてやる、と思うだろう。これはどのような訓練で為せるのか?つまりこの方法を用いて自己の平等の心を鍛錬するのだ。そなたに敵対する人がいるなら、それはすべてそなた自身が生生世世で行った事の果であり、そなた自身が準備を十分に行ったかどうかをも示している。道場が集金に熱心だと告発した人がいる。1997年の寶吉祥仏法中心設立以来、リンチェンドルジェ・リンポチェは一銭たりとも道場から金銭を得たことはない。道場を買った時も、リンチェンドルジェ・リンポチェは一坪当たり8万元を儲けることができたが、それもしなかった。しかも、道場はリンチェンドルジェ・リンポチェの名義ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは協会の財務について口を挟んだことはないし、帳簿の管理もしていないばかりか、すべての項目を公開し、決して隠さないよう、弟子に言いつけている。

末法時代にはあらゆることが発生し得る。修行人の最大の敵は名聞利養(名誉や財産に対する欲望)だ。名聞利養は末法時代において修行人を傷つける最も強力な武器だ。寶吉祥仏法中心が光明灯を灯さず、功徳主を設けないのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが1997年にすでに目にしていたからだ。そのため最初からこの種の事を行っていないのだ。こんなことをしてどうするのだ?そして、金に執着していると言われないよう、リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依していない信衆の供養を受け取らない。弟子であれば、供養するのは当然だが、供養の金額に決まりはない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはすでにできているのだから、彼らもどうすることもできない。この世界でリンチェンドルジェ・リンポチェに対峙できるのは因果だけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの年まで生きてきて、執着するものなど何もない。すべて過ぎてしまった。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはできたのか?それは、ひたすらこの一点を学んだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにこのようにするよう教えた人はいなかった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこうした。そのため今日この一段を目にし、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に驚いたのだ。なぜ自分はすでにできているのか?と。

『入菩薩行論』では『任時自與他、厭苦既等同、自他有何別?為何僅護己?』とある。そなた達が現在毎日行っているのはすべて自分の保護で、自分の保護でないものなど一事もない。こうしていれば輪迴する。自己を保護してはならないのか?そうではない。仏法が言うのは、個人の私見のために衆生を傷つけてはならない、ということだ。菜食しなければならないのは、菜食しないなら、必ず衆生の命を損なうからだ。自他平等の法門を学び、鍛錬する資格がどこにあるのだ?今日ある衆生が苦にあるのを目にする。この種の苦は我々の苦と同じなのだ。ただ、彼の業力は成熟し出現したが、我々の業力はまだ成熟していないに過ぎない。

有情衆生であれば、必ず悪を為したことがある。有情衆生で悪を為したことのないものなどいない。自分は常に非常に善だ、などと思ってはならない。もし、そなたが非常に善なら、とっくに菩薩、仏に成っているはずで、ここに座って叱られているはずがあろうか?そなたはいくらかの小善を為したので、この一生で仏法を学べているに過ぎない。この種の方法から手をつけず、やはり盲信し、何であってもリンチェンドルジェ・リンポチェに加護を求めるなら、修めることなどできない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは現代語で経典の内容を開示しよう。どんな時であろうと、自他両者の厭悪苦難の面での気持ちはすべて同じだ。そうであるなら、自己と他人にはいったいどんな区別があるのだ?だが、我々は他人の安危を全く顧みようとせず、苦難の侵害を免れられるよう、小さな自己を何とか保護しようとする。

先ほど言ったのは、まさにそなた達だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは覚えている。台北市が大洪水に襲われた時、民生コミュニティは2階の高さまで浸水した。若い人は知らないだろうが、25歲以上の人なら知っているだろう。生まれたばかりだった者は知らないだろうが。当時広い範囲が浸水したのは、台風のためだった。それ以前に、毎日出入りするオートバイの便のため、堤防のゲートのレールがコンクリートで塞がれてしまっていた。これこそ自分の便のためだ。コンクリートでレールを塞いでしまっていたことに加え、普段検查していなかったため、最後には市民が被害を被ったのだ。これも経典上の記載と同じだ。自分のためなら他人などお構いなしだ。だが、その際には彼らも被害を受けたはずだ。なぜなら皆、近所に住んでいたのだから。

その年深刻な浸水被害が起きた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうど民生コミュニティに住んでいた。当時はまだ密法修行を始めておらず、顕教を学んでいた。浸水しているので早く車を移動させるよう管理人から電話があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは降りて行って見たが、これはいけないと思った。みな車で出て行ってしまったなら、誰が保護するのか?そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは家に戻り大悲咒を非常に長く念じた。リンチェンドルジェ・リンポチェの功力は当時それほど大きくなかったので、やはり大浸水した。だが、非常に奇妙な現象が出現した。あれほど大規模に浸水したというのに、一人の老婦人が亡くなっただけだったのだ。あれほどの浸水なら、たくさんの人が亡くなってもおかしくないはずだ。あの辺りに住んでいた者なら、あの時の事を覚えているだろう。当時は病院内の注射器さえ流されてしまったのだ。あの状況は実に恐ろしいものだった。そしてその大浸水は、仏法の面で、リンチェンドルジェ・リンポチェを進歩させてくれた。

学仏人は何らかの危機を目にしても、逃げようとは思わず、いかにして衆生を救おうかと考える。お尻に火がついてもひたすら読経せよというのではない。心構えを調整しなければならないのだ。自分は学仏していると思うなら、衆生が苦にいる感覚は、我々の感覚と同じであり、我々が苦にいる感覚も衆生と同じなのだ。そのため利己的であってはならない。利己的な動作が多すぎれば、学仏人らしくはない。

経典では『所以、我們要由衷地思維発願:就像自己以前積極地成全自己的幸福一様、今後、我也必須如此地設法、来成辦一切衆生的安楽』という。今日そなた達が念じ、拝むのが、自己の安楽のためでなく衆生のためなら、慈悲なる力量は上師、仏の慈悲と相応する。このような相応を生じなければ、加持を得ることはできない。加持を得られなければ、慈悲心を養うことはできない。それでもなお、健康のために、毎日たくさんの時間を費やし、自分の血液や胆臓の状態を研究するなら、なぜその時間を用いて衆生のために念仏しないのか?だが、人は非常に愚昧なので、ひたすら時間を無駄にするのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェも病を抱えている。だが自分の身体についてはほとんど時間を使わない。なぜならこの身体は遅かれ早かれいつか必ず使えなくなるからだ。どんなに長く生きようとどうということもない。自己の心構えを変えることさえできれば、修め、念じる前行も四無量心もゆっくりと福と慧を累積する。ここまで言ってもやはり自分のためにと考え、每土曜日に大礼拝を行う際にも、何か過ちを犯してリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られませんように、とばかり思っているなら、どんなに拝んでも役には立たない。やはり同じように叱られることになろう。なぜなら利己的だからだ。何を行うにしても、自分について思いが至れば、それは利己的だ。つまり皆、自己の心構えを鍛錬しなければならない。いつになったら為せるかは重要ではない。大切なのは自己の心構えを鍛錬することなのだ。

経典には『今後、我也必須如此地設法、来剔除一切衆生的不幸!』とある。この言葉は自分とすべての親族を含む。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは、たくさん読経し特定の対象に回向する必要はない、としばしばみなに言った。これはすべて衆生の範囲内なのだ。生死を解脱できなければ、つまり衆生の範囲内だ。対象を指定するなど、なぜこんなにバカなのか?そなたの願力が十分であれば指定でき、またこの人はこの生で学仏できると考え、その人を指定することはできる。もし、自分の何かの欲望のために、ある特定の対象に回向するなら、それは不要だ。何の役にも立たないだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんの回向文を見たことがある。どれも、子供が健康でいられるよう子供に回向する、自分が結婚するまで母が健康でいられるよう母に回向する、などというものは全くない。すべて衆生の成仏を願うとある。そなた達は自分の心構えを改めることができていなくとも、口で言うだけで有用だと思っている。心構えを改められておらず、口で言うだけなら、テープレコーダーと同じだ。必ず自己の心を調整しなければならない。

経典には『這様修持時、假如在自心中突然升起了這樣的念頭:無論他人不幸遭遇了怎様的苦難、還是有幸獲得了怎様的安楽、対自己而言、都是既無益処、也無弊処;但是、即便本身出現了些許的苦楽差異、対自己而言、也都有著直接的利害関係。由此可見、我当然先要設法成全自己的安楽、先要設法剔除自己的苦難了!』とある。

この一段で述べるのは間違った考え方だ。我々はしばしば『自利利他(自らの悟りのために修行し努力すること と、他の人の救済のために尽くすこと)』しなければならないという。『自利』とは自分に利益することではなく、『自己の苦を消滅させ、自己を安楽としなければ、衆生を救うことはできない』ということで、『そなたの学仏を障礙する業を停止させる』ということだ。業には善業と悪業がある。病は良くない業力だと思っている人が多いが、実はそうではない。誰かがとてもそなたを愛しており、そなたが大金持ちなら、これは善の業力だ。だがこれも良くない。なぜならそなたの学仏を障礙するからだ。

なぜ先ほど、あの弟子は叱責されたのか?なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが開示していたのに、あの弟子は自分の子供を見ていたからだ。先ほど言った部分は、一般人に存在する思想だ。他人が苦にあっても自分には関係ない、他人にいいことがあっても自分はそれを受けられない、と考える。そのため、先ずは自分のことを処理しようと考える。リンチェンドルジェ・リンポチェは学仏を始めた日より、この種の念頭を持ったことがない。時下のいわゆる自利利他とは思わないが、学仏により自己の人生に向き合うことができ、苦難でもなく快楽でもなく、自己の人生の未来をはっきりと理解することができた。未来は何なのか?金儲けでも長寿でもない。成仏か輪迴を続けるかだ。未来で輪迴を続けることがないよう、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の事を自分の事として考える。なぜなら自分も衆生であると知っているからだ。

いわゆる『自利』とは、厳密に言えば、衆生に利益することだ。この心構えで衆生に利益するなら、衆生はそなたの修行を障礙しない。一つの小事が、そなたの再来を無くす。とても容易なのだ。今日この段について触れたのは、みなまさにこうだと、教えるためだ。よって、この間違った方法への対治を思考しなければならないのだ。

経典では『也因而,我們並不真正瞭解成辦安楽及遣除苦難的良方』と言う。我々は長い間いつでも自己の考え方により、自ら正しいと考える快楽を探しながら、安楽を実行し、苦難を取り除く良方を真に理解していない。かつて我々は業、因果に従い日々を過ごしていた。そして、良くない果報が出現すると、変えようと考える。変えるために、より利己的な方法で変えようとする。例えば、金に困ると、法を犯して金を儲けようとしたり、名声を得ようと様々な手段を取ったりする。ここの意味は『これまで我々が知っていた方法にはすべて後遺症があり、快楽を追求した後には必ず煩悩を起こす。だが、我々は良方を知らない』ということだ。歷史上の文学者や哲学者が残した経験法則も教導も、衆生の苦難を徹底的に解決することはできない。かつては学仏していなかったが、現在は学仏しているので、仏は良方をお教えくださる。

経典には『雖欲棄諸苦、而実速趨之;求楽以癡故、毀之猶摧敵!雖然人人都希望拋棄各種各様的苦難、但是、由於他們把拋棄苦難的真正方法給弄反了』とある。

先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェも開示した。快楽を追求し手段を選ばず得ようとする。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは閉関するのか?閉関は非常につらいものだ。みなが想像しているように、閉関が完了すれば天下無敵だ、というようなものではなく、閉関の過程では、身体の種々の面でつらいことが非常に多い。だが、学仏するからには、絕対に快楽から始めるのではない。法会への参加が快楽の始まりだと思っているなら、それは勘違いも甚だしい。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば開示する。皈依前はどうということもなかったのに、皈依後には、良くないと感じることがたくさん出現しているかもしれない。もともとはうまくいっていた恋人が、突然離れて行ったかもしれない。ずっとうまく育っていた息子が、皈依後には問題を起こしたかもしれない。これは世俗人の見方だ。なぜ皈依後に問題が起きるのか?それは仏が、この一生ですべて借りを返済させ、次の一世まで影響を及ぼさないようにしようとしてくださっているからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが非常に明確な例だ。皈依から金剛乗を学ぶまで、そなた達が挙げられる一切の世間苦を経験し、それは今もまだ続いている。なぜ苦は出現するのか?それは行者が衆生を救おうとするなら、苦を理解し、先に借りを完済しなければならないからだ。借りを完済し切っていなくて、どうして衆生を救う能力があるだろうか?衆生を救おうと言うなら、なんらかの事情により、仏が教導くださった一切の方法を動かしてはならない。すなわち、ひたすら皆を試しているのだ。

我々が普段用いている方法はどれも反対だ。経典では『所以、実際上他們所作的卻是不断在迅速地趨向於苦難』と言う。例えば、栄養を摂取しようと、妊娠すると殺生し、肉や魚を食べ、麻油鶏等を食べる。子供がものを食べられるようになると、シラスを食べさせる。台湾人のガン罹患が特に多いのは、そのためだ。子供の頃シラスを食べたことがないと言う人は非常に少ない。なぜなら、シラスは栄養豊富で噛みやすく、骨もなく、食べれば大きくなって肌がきれいになる、などと考えられているため必ず食べるからだ。だが、肌がきれいな者など数人もいないではないか。『心経』では『顛倒夢想』という。我々はしばしば過ちを正しいと考え、正しいことを過ちだと考える。今日仏法の教導がなければ、我々はよりいっそう苦難に向かうだろう。

経典では『雖然人人都希望求得各種各様的安楽、但是、由於他們的無明愚癡、卻把獲得安楽的真正方法給弄反了、所以、実際上他們所作的卻是像摧滅自己的仇敵一様、来摧毀著自己的安楽』という。

先ほど法会前に語った弟子は、自分は心筋梗塞の発作を起こしたと言ったが、それは殺生によるものだ。かつてはみな、このようにしなければならない、父母もこうしていた、田舎ではこうだ、このように食べなければ栄養が足りなくなる、と考えていた。医学が発達した現在、西洋医学で牛肉と魚肉はある細胞に良い、という研究結果が出ている。だが、彼らはこれが殺生であるとは分かっていない。もし方法をはっきりさせていないなら、この一生でひたすら自己を毀損しながら、自分の過ちに気づかず、自分は正しい、みなこうだ、自分一人だけ悪くない、と思っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェの面前に跪き、リンチェンドルジェ・リンポチェが、どうしたのだ、と問うと、『なんでもありません』という者がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは『それなら、そなたは仏だ。なんでもないのは、仏だけだからだ』という。なぜ、なんでもない、というのか?それは、この人が自己に過ちがあるとは思っておらず、自分は毎日念仏し菜食しているのに、それでも過ちがあるのか?と思っているからだ。当然ある。なぜなら大乗を修めながら、やはり利己的で、自分のためで、衆生について思いやっておらず、衆生と自分とを区別しているからだ。そのため『金剛経』には、衆生相を破らなければならないとあるのだ。衆生相を破らないなら、平等空性の慈悲心を修めることはできない。平等空性の慈悲心を修められないなら、もう来なくとも良い。今後たくさんの廟に参拝すれば、中には縁がある神明に巡り会い、義理の娘にしてくれるかもしれない。この方がよっぽど有用だろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも長く学仏しているので、この点ははっきり理解している。経典上に記載された方法による学仏でなければ、仏法を誹謗するということだ。真に仏を誹謗するのは外道ではなく、すべていわゆる学仏人だ。善人になろうとし、学仏して善人になろうとしている人だ。なぜなら彼らは言いつけに従わないからだ。先ほど言った『盲修瞎練』のように、自己流の方法と心構えで学ぶことだ。仏法の特徴は、見たところどれだけ良くし、どれだけたくさん念仏するかではなく、攻心─そなたの心と専ら対峙するということだ。心が調整できていないなら、仏法はそなたと少しの関係もなく、そなたは永遠に門外漢であり、仏門をくぐることはできない。

仏は、仏門は永遠に開け放たれている、と仰せだ。だが、そなたを捕まえて中に入れる、とは仰せでない。他の宗教のように片手に経典を持ち、片手に剣を持ち、というのではないのだ。そなた自身が改められなければ、この門をくぐることはできない。改めず、やはり自分勝手で、自己流の方法を用い、自分は法会に参加している、とても敬虔だ、皈依していると考えているなら、ただの信衆に過ぎない。絕対に仏弟子ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは再度強調したい。自分は仏法を教えているのであって、仏法を講じているのではない。仏法を講じるならあまりにも簡単だ。かつて二時間講じて3000元徴収していた人がいた。今ならもっと高いだろう。

仏法を聞いたことがあると満足できるので、仏法を聞くのを好む人が多い。だが、改めよ、というと、自己に過ちがあるとは認めない。誰もがみなこうだ。そして『人不為己、天誅地滅(自分を顧みないなら、天地が誅滅する)』などと言う。仏教徒はこのようには言わない。こんなことを言うならそれは仏教徒ではない。仏教徒は仏教の信徒ではない。仏がお教えになった弟子だ。心構えを変えず、変わらず自分勝手で、自己流の方法で学仏するなら、永遠に力を得ることはない。この『力』とは慈悲なる力だ。慈悲がなければ、菩提心を発することは絶対にない。菩提心がなければ、成就し、衆生に利益する力がどこにあるのか?

たくさんの人が『自利利他』というが、ここの『利』とは、自己の心をひたすら改め、自身の凡夫俗子の思想と間違った考え方、やり方を、仏法の慈悲と教導にゆっくりと近づけていくことだ。『自利』とは、そなたがこのように行えば、危難は自然に離れていき、求めなくともよく、要求しなくとも自然に離れていく、ということだ。事態が発生したとしても、雷鳴が轟いても降雨は少ないというように、すぐに過ぎていくだろう。なぜ菩薩はどんな場所でも恐れないのか?なぜなら、菩薩はどこででも衆生に利益しているので、衆生を恐れず、衆生が自分を傷害するなどと恐れないからだ。たとえあったとしてもそれは縁なのだから、縁であれば縁生縁滅だ。この縁がこの一生で終わらなくとも、次の一世では終わるだろうし、いつか必ず終わる時が来る。善縁や悪縁にひたすら執着するなら、それは無限に続いていくだろう。

今日の開示では、自己の心構えを調整する必要について述べた。経典では『因此、我們就応該此様地去想一想:由於我們自己希望獲得安楽、所以、我們就応該努力地設法去成辦獲得安楽的根因;由於我們自己希望遠離苦難、所以、我們就応該努力地設法去断除苦難的根因。那麼、造成我們苦痛的根因、究其為何呢?其実、這個痛苦的根因、就僅僅只是我們那種唯求自利的、狭隘自私的心理状態而已!』という。

我々の苦はどこから来るのか?それは利己的なためだ。相手は自分を愛さなければならない、浮気してはならない、外に愛人を持ってはならないと思っているためだ。そなたを供養せよ、というのではない。だが、利己的な心がないなら、どうして苦しむだろうか?これはそなたの業だということができる。この一生でこのような人に巡り会ったのは、必ずそなたの業と関係があるのだ。そなたが利己的に、他人に向かって動物に変わってしまえと罵倒する。罵倒すればするほど、次の一生はそなた自身が動物に生まれるだろう。このようなことは二度と言ってはならない。良くない言い方だ。学仏人であれば、他人が行う事には前因後果があると弁えなければならない。他人が何かを為しても、ごく消極的になんとかして転じようとしないのではない。だが、心構えにおいて、その人に対して悪念を生じてはならない。

世間事において衆生を傷つけてしまったなら、釈迦牟尼仏も動かれる。だが、仏の心中では、相手を悪だとは思っておられない。相手が継続して悪を為さないよう、そのために止めに行かれるのだ。仏は、相手を悪だと考え、相手を殺してしまおうと考えるのではない。このような考えはない。相手が継続して悪を為すことで、振り返る日が訪れないのを恐れるのだ。仏教徒は決して消極的なのではない。自己に善念があればよく、他人が何をしても止めない、というのではない。誤解してはならない。学仏とは深山に隠れて世事に関わらないのではない。だが、心構え、心中において、相手が善人だの悪人だのという区別がなく、ただ物事について判断するだけなのだ。

自分が植え付けた因に応じた果を負わなければならない。これは間違いない。二人の人間の間の関係であっても、非常に複雑な要因がある。そのため、我々は偏った考え方を持ってはならない。あの人は他人に迷惑をかけているなどと考えてはならない。他人に迷惑をかけない人などいるだろうか?非常に難しい。部外者であるなら批判してはならない。それは彼らのプライベートな事だ。非常に悪劣で手が出たりすれば、法律の面から助ければ良い。だが、心に嗔恨を抱いてはならない。特に女性は女性を助けなければならないなどと思ってはならない。これは非常に良くない。どうして分かるだろうか?もしかしたら、家庭内で夫は一日中虐げられているかもしれないではないか?このような事は非常に難しい。

学仏人には良い点がある。それは物事に対する見方が特殊だということだ。因果から物事を見る。相手が悪の因を植え付けたと目にすれば、どんな果報を受けるかは相手次第であり、遅かれ早かれどうなるなどと、相手を呪ったり罵ったりする必要はない。我々は隨喜(他人の良い行いを見て、心に歓喜を生じる)であるべきで、誰かの行為が団体を傷つけたなら、因果を傷害しない方法を用いて相手を阻止しなければならない。なぜ修法するのか?護法を用いて相手を打ちのめすためではなく、修法を通じて、相手の継続した行悪を阻止し、この人の悪果を軽減するためだ。これが慈悲であり、自己の利のために行うのではない。自己の利のために修法するなら、いつまで経っても終わらないだろう。どこにそんなにたくさんの事があるのか?

学仏の心構えを確実にしなければならない。正法は読経、拝仏、菜食だけではなく、心構えにおいて、自分が一般人とはどこが異なるのかをはっきり弁えなければならないのだ。依然として、それまでのやり方で毎日を過ごしているのか、それとも自分の心構えをすでに調整したのか?仏法の教導を通して、自ら調整し、毎日自らを検視しなければならない。そなたが毎日自らを検視するなら、いつか必ずどんな行為が自己と衆生とに利益できるかが分かるようになり、リンチェンドルジェ・リンポチェに聞きに来る必要がなくなるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて開示した。堕胎薬を売った者であっても死後は地獄に堕ちる可能性が非常に高い。ところがある弟子は、人口妊娠中絶の業は非常に重いと分かっていながら、産婦人科に移り、医者の堕胎の手助けをして、多めに金を得ようと考え、リンチェンドルジェ・リンポチェに聞きに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはまったく相手にせず、答えを与えることもしなかった。その結果、彼は今では離れてしまった。その有様では当然離れるだろう。少しの金のために悪を為すことを恐れないのだ。後で懺悔すれば良いと思っているようだが、後があるのか?この種の事が発生するのは、金が衆生より大切だと考えるからだ。二万元多くなるのだ、良いではないか。他の人もこうしているが、彼らが地獄に堕ちたのを見たことがない、と思っている。

仏法を信じない訳にはいかない。仏が我々を欺くことなどない。信じないなら、それはそなた達の損失だ。仏には何の損失もない。自分の利己的で狭い心構えをゆっくり調整すれば、いわゆる供養、善事、野良犬を引き取る、どこかのテレビ局に寄付するなどを含め自分がこれまで追い求めていた一切のものは、すべて損人利己(他人を損して己を利する)だったと理解するだろう。こうすることがなぜ損人利己になるのか?とそなた達は奇妙に思うだろう。これはかなり複雑なので、リンチェンドルジェ・リンポチェはなかなか言えない。

学仏とは、たかが数千元を寄付すれば、自分は相手を救えたというようなものではない。このような心構えを持ってはならない。台湾の現在の社会で、数千元など何ほどのこともないではないか?学仏とは物質の面から見るのではなく、単純に行為の上から見るのでもなく、行者の心を見るのだ。しかも、時間をかけて観察しなければ、行者が真の修行人であるかどうかは分からない。何か一つの動作によるのではない。そんなに簡単ではなく、試練を経なければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェにはある特色がある。あらゆる情報をすべて公開している。何一つ隠していることはない」と仰せになった。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、皈依していない者、不共四加行を伝えられていない者、十万遍大礼拝を完了していない者、密法の学習を許されていない者に道場を出るようご指示になった後、慈悲深くも金剛薩埵伝法と観想をお授けくださった。

法会が円満となり、弟子達は声を揃えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示と伝法に感謝申し上げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを起立して恭しくお送り申し上げた。

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2017 年 04 月 22 日 更新