尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示– 2014年3月30日

法会の始まる前、夫(皈依弟子)に連れられた弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べ、リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を褒め称えた。並びに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによって一家が救われた過程を皆に分かち合った。

2006年より、彼女は一番上の姉に誘われてチベット仏教直貢噶舉派の阿弥陀仏無遮大超度(済度)法会に参加した。最初、彼女は、他界した全ての親類や累世の怨親者を済度して頂こうと考えていた。心中、根本的に全く仏法を学び悪を断ち切ろうという考えはなく、まして輪廻からの解脱は言うまでもなかった。法会の当日、彼女にとり深く印象に残っているのは、会場に入った途端に感じた立派な厳粛さと素晴らしさだった。しかも、法話者――慈悲深い尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、修法して一区切りつくと、参加者がはっきりと理解できるようにと、この部分の意義を説明された。彼女は本当に特別だと感じ、心が捉えられた。時には複雑な感情が起きたが、強いて心の波動を抑えていた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが会場を回りながらお清めをされている時、彼女はやせ細った身体で手に甘露水を含ませた吉祥草を持ち参加者のために長くお清めをして加持を授けられ、全身がびっしょりになっている慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェを目にした。さらに、進行役が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは脊椎が大きくS型に曲がり右肩の関節に問題があると語っているのを聞いた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは命を惜しまずに衆生を利益し、全く自分の事は気にかけない。こんなにも慈悲深いのだ。その場で彼女は、眼に溜まった涙をこらえ切れなくなり、頬から滴り落ちるのを自然に任せていた。心の中でなぜこんなにも慈悲深い尊者がいるのかと思った!

仏は縁がなければ済度できないと言われる。彼女はずっと大法会に参加していたが、一向に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学ぶ縁がなかった。それは、彼女の心が清らかでなかったからだ。福徳因縁及び懺悔心もなかった。2011年になり、彼女の夫は友人の忠告を聞いた。もし、仏道を学びたいなら必ず徳を具えた上師につかなければいけない。そこで、彼女の夫も希望どおりに法会に参加する許可を得て尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依した。この時、頑固な彼女は頭の中が自分の考えでいっぱいだった。家庭に対する執着や煩悩が心で交差し続け、夫と共に法会への参加を求める事もなかった。よって、仏道を学ぶ因縁をまた逃していた。リンチェンドルジェ・リンポチェに出逢ってから現在まで、彼女は丸々6年の時間を無駄に過ごしていた!

今思い出すと非常に後悔される。彼女の夫は法会に参加している期間、いつも彼女に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な説法について話をした。例えば、どんな事もすべて批判してはならず、感謝の気持ちを持たなくてはならない。自分の問題をはっきり見て、仏法を日常生活に応用しなければならない。自分の人生経験、法則によって一切の物事を見てはならない。仏法を学ぶとは、仏の一切の思想、言語、行為を学ぶことであり、常に変わりなく因果、無常についてを思考しなければならない。逆境の時には深く因果法則を信じ、順境の時にはさらに慎重に行ない、我慢を起こさないようにする。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの説かれたこれらの貴重な話は簡単であるが、彼女にとっては無限の意義を含んでおち、彼女にとっては非常に役立つ貴重な御言葉であった!好奇心いっぱいの彼女はいつもこう聞いた。「それから?尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは他に何を言っていたの?」後に、寶吉祥仏法センターの公式サイトを見つけてからは、夫をしきりに問い詰めることなく、自分でサイトを見るようになった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの行事日誌、衆生済度の事跡、及び著作「快楽と痛苦」を恭しく拝見することが彼女の重要な勤行の一つとなり、読めば読むほど止められなくなった。同時に、心の中では自己反省もしていた。元来自分はこんなにも酷く、こんなにも悪かったのだ。どこに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子となる資格があるだろうか?

2012年8月、彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに深い信心を持っていると自分で考えていた。堅い信念によって彼女は勇気を奮い起こし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに法会への参加を求めた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く許可して下さった。これは彼女にとって生まれてから嘗てなかった印象であった。それは、生まれ変わったような歓喜であった。過去の彼女はいつもぼうっとした日々を送っていた。何をするのも、自分が好きだったらそれでいいでしょうという態度だった。問題にでくわしたら他人の欠点を見るだけで、自分の間違いを見落としていた。彼女はいつも独りよがりで、気が強くおごり高ぶり、自分の見解を貫こうとしていた。よって、数え切れないほどの悪業に自分で気付かいていなかった。

2013年4月、彼女の息子は入浴している時にどうも白い影を見たらしく恐怖に慄いていた。親の身である彼らのアドバイスにも効果はなかった。突然、彼女には貪欲が起き、夫に息子を連れて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めようと言って後へ引かなかった。心中、自分では管理し切れないので尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに教え込んでもらった方がいいという貪欲が起きた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの目の前で、一切の憎悪の顔つき、自分勝手な考え、及び貪欲は、どこにも隠れる場所はなかった。彼らは息子が悪行するとしても、好きな勉強であればどんな事でも彼の好きなようにさせていた。息子は調理科に行き肉食業でアルバイトをしていた。殺生業と関係のある業界であった。一切合切が五毒によって心を攻撃するものであった。彼らは全く尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを考えもしなかった。口では仏法を学んでいると言い、実際には心の安楽や加護を求めていただけだった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法話の一言一言の中に親としての彼らの心のあり様が説かれていた。因果を信じず、悔い改めようとする心がない、羞恥心もない。たとい信仰があったとしても同じ様に間違いを犯す。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは子供を叱責して言われた。「お母さんが十数年も小言を言っても全く恐がらないのに、白い影だけで恐がるとは」そして、こうも言われた。「子供は18歲以前は両親に養ってもらい、教育してもらう必要はある。親として絶対に躾をする資格がある。これは親の責任だ」子供の目の前で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼ら夫婦に説かれた。子供の事で喧嘩するのは最も価値のないことだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが仏法上で少しも精進していないことを叱責された。彼ら夫婦は悔いて無言のままであった。最後に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは叱責される力も無くなるほどにお疲れになった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を見捨てることなく、出家者に彼らを導くよう指示された。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのこれらの貴重な叱責により、子供は心から尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対する尊敬の念を起こした。リンポチェは本当に不思議だ!どうして家の中のあらゆる状況を知っているのだろう。その後彼は元来、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが大能力と大慈悲を具えた行者であることを知った。彼女は適時に厳しく猛省を促し、貪欲な二人の親を再び目覚めさせてくださった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大摂受力、大威徳力、大加持力のもと、息子はその当日即刻レストランに離職願を提出し、それと同時に学校の授業も全て白紙に戻すこととなった。それは、産学連携のカリキュラムであったからだった。帰宅後、子供は茫然として力なく、「どうしたらいいだろうか」と母親に聞いた。彼は学業も仕事も全てなくなってしまい、頭の中が真っ白になっていた。母親は彼に「尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに信心を持ちなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェを信じて、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いていればいい」と言った。彼女は、衆生を見捨てることなく、自分達が適時悔い改めて悪を断ち切り悪の共業の中で沈淪(ちんりん)しないように慈悲深く救ってくださった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。

しばらくして、彼女と家族は再び尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの混乱した心の動きをみてとり彼女の息子に尋ねられた。「何時に起きているのか?」息子は9時だと答えた。リンポチェは「どうしてそんなに遅くまで起きていて何をしているのか?」そして「何時に寝ているのか?」と尋ねられた。息子は11時だと答えた。リンポチェは「そんなはずはないだろう?部屋のドアを閉めてから何をしているのだ?」この時、彼女の息子はまたも驚愕した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにもすごい。リンポチェは生活パターンを変えるよう息子に要求し、彼らが苦しみと執着から逃れられるようにと奉仕の弟子に自分の体験を話させた。

慈悲深く、仏と全く同じ存在である尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈父の如く大きな思いやりを示して彼らに加持を授けられ、彼らの心を落ち着かせた。これにより子供は学力検定(台湾の統一試験)を受けておらず、編入試験にも間に合わないという状況の下で、好きな学部がすぐに見つかり入学することができた。また、子供が法会への参加を願うと、慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは父と子の二人に懺悔の機会を与えられ、その場で夜の勤行が終わるまで大礼拝(五体投地)を行なわせた。次の週、息子が再び衆生を代表して法会に参加することを求めた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの偉大な加持、慈悲深い済度なくては、子供はこんなにも順調に学校を見つけられ、法会に参加し、仏法を聴聞することはなかったであろう。これは全て、御仏と全く同じ存在の尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによって授けられたものだった。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝を捧げた。

2013年6月、彼女は、驚きの中で人生は無常であることに気付いた。ただ徳を具えた上師について次第(階梯)に従って仏法を修習して初めて輪迴から解脱できる。彼女は、自分を門下に皈依させて下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。彼女は人生をさまよい、50年もむなしく日を過ごし、悔いる事のなかった過去の諸々について思索した。まだ他に何に執着することがあるのだろうか?ただ今世での仏法を学ぶ因縁を把握するだけだ。彼女は、インド、ネパールの法会に参加する機縁によって仏道の資糧を積ませていただいた金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩大徳に感謝をした。

海外の法会において彼女は、具徳の上師に随う縁がもてた事をどれほどの幸せか!と、さらに深く感じていた。その地に住む人々は殊勝な得難い法会に参加し仏法を聴聞するために、苦難に満ちた環境の中、山を越え水を渡り辛苦を厭わず法会の場所に到着した。寶吉祥の弟子達は毎週日曜日、雨風を凌いで快適な場所で仏法を聴聞することができる。まさに身は福中にあり福を知らずである。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェツァン法王と教派に対し力を尽くして護持されている。寶吉祥の弟子達は海外の法会でなぜ、こんなにも手厚いもてなしを受けられるのか?なぜ、尊き直貢チェツァン法王に直接謁見できる福徳をもてるのか?また、弟子達は尊き直貢チェツァン法王により四臂観音と尊き直貢チェツァン法王より聖なる贈り物を賜り説法していただいた。これは全て尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの尽きることのない恩徳であり、あちらこちらで仏法を学ぶ資糧を蓄える機会を弟子に与えてくださった。

彼女は、三恩根本上師・尊き直貢チェツァン法王に対して恭しく教えを賜り、恭敬心を余す所なく表現され、注意深く仕え、上師を気遣われる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを直接拝見し、弟子として非常に慙愧の念を感じた。彼女は最高の模範を示されている上師に感謝した。これにより、いかに上師に依止し、三宝を恭敬するかを弟子達はさらに明確にすることができた。人身得難し、仏法聞き難し、上師遇(あ)い難し。彼女は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教法の下で、身、口、意を供養し、謹言慎行、依教奉行(教えに依り行動)、五戒、十善、「37の菩薩の実践(中国語:仏子行三十七頌)」の修習に励み、輪迴を解脱し、上師の恩、仏の恩、父母の恩、衆生の恩に報いることを祈願した。また、彼女は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康、法輪の常転、仏法事業の永遠なる伝承、一切有情衆生が利益されることを祈願した。

続いて、二人目の弟子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによって救われた事跡を分かち合い、感謝を述べた。今年(2014年)大晦日当日のお昼、彼はアルバイトに行く途中、バイクで重新橋まで来た時に中央分離帯に衝突してしまった。彼は、正月前に沢山の法を修法してくださり、殊勝な加持を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べた。果報が現れる時に転重軽受となり、他人に影響を与えることがなかった。もし、彼が橋の上から地面に落ちていたなら、身体がバラバラになるのでなければ、行き交う車に踏まれて逝ってしまったであろう。自分がただ膝蓋骨骨折及びわずかな軽傷だけであったことを喜んだ。この一切は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持、庇護のお蔭であったことを感謝した。

彼はその当時、衝突して立ち上がれず、通る人もおらず、心の中で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を救ってくれるのを観想したことを覚えている。祈り終わると、善良な娘さんが止まって警察に電話をしてくれ、病院に運ばれた。レントゲン撮影後、看護師は手術が必要だと言った。彼はすぐに看護師に次の日(旧暦の正月)は重要な事があって出掛けなければならないので外出許可をお願いしたいと言った。彼の考えは、絶対に正月の法会に参加しなくてはというただ一つだけがあった。看護師はそれを聞くと、あまり喜ばない様子で、自分で医師と相談するようにと言った。手術前に、看護師は彼のために傷口を洗った時に、いつもお酒を飲んでいるか何か藥を飲んでいるのか?どうしてあまり痛みを感じないのか?と、冗談で聞いてきた。彼は自分にはそれほど痛みのないことをはっきりと理解していた。心中で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想しており、拠り所があるので勇敢に受け入れることができた。

その後すぐに、彼は兄弟子に電話をして自分の状況を知らせた。兄弟子はこれを知り、すぐに電話を掛けて来て「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに信心がありさえすれば、すべては順調に解決される。手術前に必ず甘露丸を一粒口にふくみ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想するように」と注意を促された。彼は法話テープの尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法音を聴き、口には尊きリンチェンドルジェ・リンポチェから戴いた貴重な甘露丸をふくみ、家族が横で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェより伝授された六字大明咒を唱えていた時、彼の心中に拠り所である尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいたので、何も恐れることはなく、順調に手術を終えることができた。

彼に順調に法会に参加してもらうためにと、兄弟子達は車椅子を用意し、病院まで届けてくれた。その時、病院には彼と父親だけがいた。兄弟子が病院を去った後、父親は「車椅子で何をするのか?」と聞いた。彼は「明日の旧暦元旦の法会に出席するためだ」と答えると、父親は「手術を終えたばかりなのによく休まないで、法会には絶対に行かなければならないのか?そんなに重要なのか?」と聞いた。彼は「そうです!はってでも行かなければならないんだ!」と強く言うと、驚いたことに、ずっと頑固で反駁されることのなかった父親は、怒らず反対もしなかった。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と段取りに感謝した!

手術を終えたその日、彼は予め医師、看護師に旧暦元旦は外出することを話した。彼らは外出することを聞くと少し怒ってこう言った。「健康保険局の規定では、入院したら一日に4時間の外出しか認めていない。もし規定に基づかず外出したら、担当の看護師及び医師は処罰されることになる」。この時、彼は心の中で法会に参加することを決意していたが、他人を害することになるのを心配していた。

旧暦元旦の朝、彼は早めに準備を済ませ、早番の看護師に外出を告げようと待っていた。時間は過ぎていき、すでに8時40分になっていた。法会はまもなく始まり、もう少しで間に合わない時間となったが、看護師達は交替の引継ぎをまだやっていた。彼は心中非常に焦りを感じ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を祈り続けていた。この時、どこからやってきたのか、看護師が何をしたいのかと尋ねたので、彼は、看護師に、外出したいと告げると、看護師は、医師の同意が必要となるので、医師が病室に来てからでないと離れることはできないと言った。もう9時を過ぎ、法会はすでに始まっていた。どうしたらよいのか?彼と母親は施す術がなく、再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を懇求した。その後、医師の態度が軟化した。だが、4時間だけだと言い続けた。最後に看護師が「もし1日外出したいなら、自主退院の手続きをしなければならない」と言っていたので、少しも迷わずに署名し同意した。

彼らが道場の階下に急いで到着した時、法会はすでに始まっていた。彼は慌てて階上へ行った。エレベーターが道場の入口に着くと兄弟子は彼に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお伺いしてあるので道場内に入ってよいと言われた。彼はその場で滝のように涙を流した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは本当に何でも知っているのだ!彼は非常に慙愧した。依教奉行(教えに基づいて実行)していないのでこの様な沢山の障碍が出ることを理解し、彼は懺悔と感謝の気持ちを抱いて法会に参加した。

お昼休みの時に、彼の母親は医師をしている兄弟子に尋ね、病院は自主退院の患者をあまり受け入れたくないという事を知った。すぐに、彼の母親は少し心配になった。ちょうど彼の姉がトイレへ行く時に組長をしている兄弟子に会った。組長は彼の状況を尋ねられ、姉はありのままに話した。法会が終わったら病院に戻れない苦境に立たされたが、病院で看護師をしている兄弟子がちょうどその場にいたので、すぐに電話をして医師に引き継いでくれるようお願いし、入院の段取りをつけてくれた。これは全て尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭であり、これにより順調に病院に戻り治療を受けることができたのだということを深く理解した。彼と家族は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに心から感謝した。

本来なら手術後から元旦の朝までは痛み止めの薬を服用する必要があったのだが、元旦の法会では痛み止めに頼らずとも痛みを感じることはなかった。午後になり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座から下りられると初めて痛みを感じた。法会後、組長の兄弟子は車で彼を送ってくれた。母親と別の兄弟子は病院へ行き繁雑な入院手続きを手伝ってくれ、夜10時過ぎまでかかってやっと病院から帰っていった。この時彼は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがかつて、「金剛兄弟弟子は家族よりもさらに親しい関係にある」と話された事を思い出し、それを心で理解した。その日の夜、彼は熱を出し、寝返りを打って寝付かれなかったが、甘露水を飲んだ後やっと落ち着いて眠ることができた。次の日にはベッドからおりて杖を使って歩く練習ができた。三日目に退院した時は杖を使って階段を上ることができた。これら一切を全て尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持として感謝いたします。

2月15日、彼と家族は道場へ行き、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「彼らは何の用があるのか」と慈悲深く尋ねられた。彼の母親は「リンポチェに感謝するために来ました」と答えた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが「何に感謝をするのか?」と言われたので、彼の母親は「事故に遭った息子を助けてくれました」と報告した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、「母親の話を聞かなかった、当然のことだ!」と彼を叱責された。確かにそうだ。彼は事故の前日の夜、母親にバイクで出かけると言っていたのだが母親は同意しなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはやはり慈悲深く彼に加持を与えられた。彼は、自分がしっかりと依教奉行(教えに基づいて行動すること)をしておらず、親孝行もせず、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの体力と福徳を無駄にし、それと同時に両親に心配をかけたことを非常に心苦しく思った。

彼は元来、足が水ぶくれで二倍に腫れあがっていたが、漢方診療所の薬を服用し正常になり、しかも足の後ろ側に窪んで骨の見えた傷口があったので、関節箇所を縫合できず、漢方の膏薬を厚く塗るしかなかったが、今は既に肉が出てきて、窪んだ箇所と手術箇所も回復して平たくなった。これら一切、一切について彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの庇護と加持、多くの兄弟子達の助けと思いやりがあったことを感謝した。

この機会をかりて、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに向かい、自分の過去に為した罪業を懺悔しようと思った。彼は皈依前に多くの衆生の肉を食べ、多くの衆生を傷つけ、しっかり仏法を学ばず、親孝行をせず、自分の為した過ちを検討せず、常に他人は間違っていて自分に非はないと思っていた。上師の恩、両親の恩、衆生の恩に報いるために、彼はしっかり依教奉行(教えに基づいて行動すること)を行い自分を改めることを決意した。最後に、他は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康、法輪が常転され、直貢噶舉派の伝承法脈が永らく流伝されることを祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、自ら施身法の法会を主催され、参加者に貴重な仏法を説かれた。

台湾のその他には寶吉祥仏法センターのようなやり方をしている所はない。法会に参加して1年半を超えても皈依を求めない人は、続けて法会に参加できない。多くの人がおかしいと思っている。自分で来て聴き、法会に参加するだけでよい。なぜ皈依しなければならないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げられた。多くの人が大学で学び、大学の時に聴講したことがある。聴講なら単位はあるだろうか?ないのに、なぜ、仏法を学ぶ際にはただ聴きに来ただけでリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子、仏の弟子に成り得るのか。仏法は世間法を離れることはない。例外はない。自分は別の場所で皈依したことがあるので、同じではないか?と言う者もいる。違う。それぞれの上師が教える仏法の階梯(次第)が異なるからだ。それぞれに修行の経験法があり、必ず自分の修行経験によって弟子を導く。

古代の寺院は非常に厳格で、あなたを信者にはしたが、本当に仏法を学ぼうとするなら、非常に厳しかった。お経も自分勝手に見させなかった。なぜこうしたのか?それは、あなた達にあれこれ考えさせないためだ。心が複雑になると比較を始め、貪欲が増え、自分が沢山法会に参加して、沢山の法を聞いたら悟りを開けると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもある物語を語る。当初、リンチェンドルジェ・リンポチェが尊き直貢チェツァン法王に接触したのはある親友の紹介によってだった。この友人は各大教派の法王に会ったことがあり、各大リンポチェ及び著名なリンポチェにも会った事があり、台湾の著名な道場の中で若干知名度のある全ての出家者にも会っていた。彼の毎日の仕事は法会に参加することだった。彼が他界する半年前、リンチェンドルジェ・リンポチェに話したことがあった。彼は少なくとも500回の灌頂を受けており、その後、彼の仕事は法会へ行くことであった。毎日どの道場で法会が行われているかを知っていた。その結果、彼は最後に北京で中風、麻痺となったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり彼のために台湾に連れて帰って来た。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこの話をするのは、それらの貪欲が強く、法を貪ろうとする人に注意を促すためである。一人の上師について法に随い仏法をしっかり学ばないなら、生生世世の業力を変えることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を学ぶことで他の人と異なる点は、一人の上師だけに随ったことである。実際には、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェツァン法王について仏法を学んだ後も、沢山の誘惑はあった。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当によい器であったので、多くの教派のリンポチェ及び法王が皆、リンチェンドルジェ・リンポチェに会うと留まることを希望された。

仏法の中のいわゆる「精進」とは、数よりも質であり、それぞれの法を聴き、本尊を修したり、他人が伝えるある護法を受け入れれば修せるものではない。実際には護法は多くの種類に分かれ、各教派にはそれぞれ共(共通)或いは不共(非共通)の護法がいる。不共の護法は寂静或いは忿怒の護法に分けられる。あなた達は門外漢であるが、リンポチェがある護法を伝えたり簡単な儀軌を授けたからといって、自分は密法を学んでいると思ってはならない。ただ単に、リンポチェが台湾におらず、寶吉祥仏法センターもいい所だからといって、ずっと来ているのではあってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様な方式を好まない。これでは、あなたを害することとなり、今生で生死を解脱できない。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェが寶吉祥仏法センターにいて、出家者を含めたいかなる信者が来てから1年半経った後も、まだこの伝承に帰依するかどうかを決定できないなら二度と来なくてよい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今日とても喜んだ。それは、突然、200人余り減り、こんなに苦労する必要がなくなったからだ。あなた達が皈依しようと思わないのは心中に悪があり、信じず、恭敬しないからだ。少し前、リンチェンドルジェ・リンポチェが「恭敬」について説法した後、すぐに出家者が二人いなくなった。それは、彼らは自分には在家を恭敬する必要はないと思っていたからだ。修行者にこんなにも酷い分別心があるなら、どうやって修したらよいのか?釈迦牟尼仏は仏法を学ぶには必ず出家者でなければ修せないとは説かれていない。『大蔵経』全体には取り上げられていない。しかし、釈迦牟尼仏はかつてこう説かれている。もし、未来世で輪迴を出離し、成仏果を得ることを望むなら、必ず決意して出離心を発(お)こさなければならない。即ち、世間、輪迴から出る心である。出家は剃髪したなら良いのではなく、輪迴の家を出る事を決意したかどうかにある。もしあるなら、それは出家したことになる。もしないなら、沢山の法門を学んだとしても役に立たない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、台湾では真に密法が伝えられた所はあまりない。あなた達がチベットの大リンポチェを見ても、リンポチェはあなた達に密法を伝えてくれると愚かに思ってはならない。自分は出家者であるから、リンポチェは沢山あなたに伝えてくれると思ってもならない。伝えることはない。少し前にリンチェンドルジェ・リンポチェは、『宝積経』の釈迦牟尼仏が、もし根器がないのなら、これらの経典を公開して教えてはならないとはっきりと説かれていることを話した。まして密法は尚更である。あなた達は自分が出家者だからといって、リンポチェがあなたを好み、密法を伝えると考えてはならない。以前、ある弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に厳しいからといって、インドまで行って出家を求めた。現在になってもまだ分かっていない。なぜ、彼女はやはり分かっていないのか?それは、彼女は仏法を学ぶことは何のためなのかをやはり理解していない。現在に至るまで決まった上師がいない。あちらこちら駆け巡り、法会があるとすぐに行く。何れの一人のリンポチェも彼女の根本上師となっていない。チベット人が見たなら、彼女は自分が元々仏法を学んでいた所にも続けて行っていないのに、どうして彼女の根本上師となり得るだろうか?

多くの人は自分がチベット語を理解できると思っている。チベット人が何を言っているか分かると思っている。皆ははっきりさせなければならない。チベット語の中にもカム方言というチベット地区以外で話されるチベット語、チベットの中は前蔵、後蔵とに分けられ、ラサで話されるチベット語、ラサで話されるチベット語もまた現代及び古代に分けられる。あなた達はどうやったら理解できるのか?ネパールや雲南で話されるチベット語も異なる。あるチベット人は正しいチベット語を学ぶために、直貢噶舉派なら必ずディクンティ寺の近くに数年留まらなければならない。それは、他人の話すのを聞いて分かるようになるためだ。簡単に言えば、台湾語は元々福建語と同じであったが、福建人が来て話し出すと、皆は彼が地元人でないことがすぐに聞き分けられる。南部と北部で語ったのも皆違う。

これは同じ道理だ。皆は愚かになってはいけない。自分で毎日水を撒き自分では水供養を修していると思っている。学び取れないなら、却って自分を害する。仏法を学ぶには必ず次第(階梯)に随って修さなければならない。なぜ、台湾にはこんな事が発生するのか?簡単だ。それは、チベットから来た弘法者が、もし台湾に留まりたいなら、唯一つの生計を立てる方法は仏法を用いなければならないからだ。それで、仏法は売買される。リンチェンドルジェ・リンポチェは違う、それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分でビジネスをしてお金を稼ぐことができるからだ。以前は無上瑜伽部は公に語ってはならないという規定があった。だが、ある者が信者の要求に応えて公開してしまった。語ったなら、三昧耶戒と金剛乗という非常に厳しい戒を破ってしまう。

多くの者が、密法を学んだらあっという間に他人と異なるようになると考えている。実際のところ、密法を学ぶには自己の慈悲心が不足しているなら学び取ることはできない。多くの者が自分は修行していると考え、菜食、人を害さないことこそが慈悲だと思っている。もし、慈悲がこんなにも簡単なら、釈迦牟尼仏も『普門品』の中で特別に観世音菩薩を紹介しなかったであろう。多くの者が『普門品』を唱えたことがあるだろう。だが、その中の一句「慈眼視衆生(慈眼をもって衆生を視る)」がよく軽視されている。「慈」は行者が自分の良いもの全てと他人の悪いものを交換することだ。「眼」は肉眼ではなく、法眼、智慧眼である。観世音菩薩は古仏の再来であるので仏眼をそなえている。この眼によってこそ衆生の苦しみがはっきりと見えるのだ。なぜ釈迦牟尼仏は特に『普門品』でこの句を取り上げているのか?みんなに慈悲を学び、慈悲を修することを告げている。慈眼で衆生を視(み)なければならない。毎日護法を修していれば慈悲が生まれたり、これによって護法があなたを保護するのではない。

慈眼をもって衆生を視ることを修し得た者こそ、自分がほんの少し慈悲を学び得たと言う資格が持てる。慈眼をもって衆生を視ることは、目に見える一切は全て因果、因縁、空性であることに定義されるので、衆生の一切の事情に執着することはない。『普門品』は特に観世音菩薩の功徳を特に取り上げていて、それは即ち皆、もし慈悲を学ぼうというなら、少なくとも一つ、二つの条件を実践しなければならない。もし、そうでないなら、なぜ自分が観世音菩薩の化身であると思うのか?『普門品』に説かれているが、牢獄の災いに出遭った時に、観世音菩薩を唱えれば問題が解決される。リンチェンドルジェ・リンポチェは観音法門を修し、多くの者の訴訟上の問題について助けたことがある。どうやって物事を完結させたのか?観音菩薩の慈悲により彼を牢屋に入れる必要をなくしたのではない。その中には沢山の条件があるが、少なくとも修法者は彼らを助けることができる。

あなた達が現在病気になり、問題が起こるのは当たり前のことだ。法会に参加するほど病気になる。だから来なくてよい。あなた達は一生でこんなにも沢山の肉を食べている。元々地獄に堕ちるはずだった。現在、あなた達を病気にし、あなた達はまだ受け入れない?参加者の皆は、皈依弟子の子供の中で、母体の中にいる時から菜食であった者を除いて、肉を食べたことがない者がいるのか?あなた達は因果があることを信じず、法会に参加すればそれらの魚、豚、鶏が済度されて問題はないと思っている。間違いだ!済度は彼らにとっては良いものだ。それは、あなたが法会に来て彼らをすっかり済度したので、あなたの果報は軽減された。明らかに『地蔵経』にはっきりと説かれているように、衆生の肉が好きなら必ず地獄へ堕ちる。地蔵菩薩のある一世の母親はすっぽんの卵が大好きだったので地獄に堕ちた。自分がどの位食べたのかを計算してみなさい?

なぜ、1年半も法会に参加していた者を続けさせないのか?それは、彼らは因果を信じず、法会に参加すれば問題はないと思っているからだ。祖師・ジッテン・サムゴンははっきりと語られている。すべての具徳のリンポチェは衆生の病苦を軽減する能力をもっている。だが、多くの者は病気がよくなればそれでよいと思い、続けて精進しない。なぜ、あなた達を好転させたのか?あなた達に体力をもたせ、仏法を学ぶ身体をもたせてこそ、この一生で生死輪迴から解脱することができるからだ。多くの者は自分が法会に参加することで福徳を生じさせられると考える。法会に参加することで確かに福徳はできるが、生生世世の業を転じるにはまだ不足している。皆はミラレバ尊者がどのように修したのかをみてごらん?上師がミラレバ尊者に山中の洞窟を離れてはならないと指示したら、たとい上師がこの世を去っても洞窟を離れなかった。こうして初めて成就を得たのだ。あなた達はどのように修しているのか?

リンチェンドルジェ・リンポチェが説くものには全て依拠がある。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの様にするのを好むからではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の心を放任できない。皆が貪欲を起こすのを放任することもできない。あなた達が仏法にさえも貪欲を起こすなら、それは間違いだ。皈依する際、あなた達に「法に皈依します、離欲尊」と教えている。欲望から離れられないなら生死から解脱できない。今日、この世界はなぜこんなにも混乱しているのか?それは、皆に自分の欲望があるからで、他人が自分の欲望を満足させることを望んでいる。もしあなたの欲望を満足させられないなら悪を為すことになる。

たとえば今日は、リンチェンドルジェ・リンポチェは一周回って戻って来なければならなかった。ほんの少しの欲望のために、どれ程の人の不便を招くのか?表面上は他人のよかれであるが、実際には誰によかれなのか?皆は深く考えなさい。親となる者がお金をあげて子供に勉強させて子供にこんなふうにいい加減にさせている。こうすべきでない。私達は投票をして政治家を否決できる。もしこの様なことを続けていたら、以後、どの様に学校を作り、会社を開き、国家を管理するのか?管理できなくなる!いかなる者もこの事に参与するか意見を表明するば全て悪を犯すことになる。物事が正しいか間違っているかを今、皆は結論を出せない。皆には未来が見えるのか?あなた達が正しいか間違っているかは全て、自己の利益に基づいて見ているのだ。他人が自分は正しいと思うのは、自己の利益に基づいて見ているだけだ。

いずれの事も絶対に偶然起こることはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはある人を批判したり言いたいのではない。仏法の特色は一切の因を作った後には必ず果がある。果がないということはあり得ない。現在、情報が発達しているのは却って良くない事だ。中国人は以前は悪を隠して善を発揚しようとした。現在はちょうど反対だ。善を隠して悪を発揚しようとする。ほんの少しの事も世界中のみんなが知っている。スマホを発明した人はなぜ短命だったのか?それは、多くの子供に口業を犯させたからだ。現在、人と人の間の礼儀はすでに消失している。なぜこの様なのか?それは、皆が相手とあれこれ語る必要はなく、メールやタブレットパソコンを使ってやり取りをするだけでいいと考えているからだ。相手を好まないなら、電源を切る。人がどうすることもできないと考えたなら、表情を見る必要はない。だが人類で最も重要な事は向き合ってコミュニケーションをとることだ。

それに加えて、現在は便利すぎるので、すぐに一群の人たちが出てきて、騒ぎたくない人達をいじめる。仏法を学ぶことは個人に利益があるだけでなく、家庭、社会、国家、世界のいずれにも利益をもたらす。末法時代の衆生の見濁はますます酷くなっている。よって、皆は自分の見方、考えが正しいと思っている。しかも、他人に自分の考えを受け入れさせようとしている。お正月の時、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに、今年は非常に混乱した一年となることを予言している。しかし、混乱の中で、皆は仏法を学ぶ者として、自分がその混乱の中に入らないことを見て学び、混乱の中で仏法が貴重であることを見ることができるだろうか。もし見ることができないのなら仏法を学ぶ資格はない。私達は身を局外に置き、無関心で、こちらまで騒ぎを起こさない態度をとる。実際にはやはり影響がある。先ほど皆が来た道は非常に混んでいた。交通も不便だった。皆は頭を使ってどうやって一周回って来るかを考えた。こうして影響を受けている。

なぜ現在皆は騒ぐのが好きなのか?それは、多くの者が頭となってテレビで騒いでいるからだ。大騒ぎし、皆は騒ぐのに慣れている。家の中で、喧嘩が盛んになるのなら、国家も同じ道理だ。あなた達は仏法を学ぶ者として、この事が起きないようにと止めに行くのを要求しているのではないが、あなた達は少なくとも模範となりなさい。なぜ法会に1年半参加している者を続けて来させないのか?それは、彼らは仏法を学ぶ者ではないからだ。だが、外では自分は法会に参加していると言い、人は彼が改めず、やはり前と変わらないのを見ると、仏法に影響を与え、仏、仏法、修行者に対して誤解を生じさせる。他人が彼にどこの法会に参加するのかと聞くと、彼は、寶吉祥仏法センターだと言う。相手はこれを聞いて「寶吉祥は厳しいのではないか?なぜあなたという人はまだこんなふうなのか?」と言うであろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは見栄を張っているのではない。三宝を極めて尊重しているのだ。私達は三宝を擁護しなければならない。いかに三宝を擁護するのか?即ち、自己の身、口、意によって行なうのだ。彼らは来て1年余りになるが、まだ皈依の準備をしておらず、ゼロから仏法を学び始める。これも傲慢だ。自分が理解できると思うまで聞こうとする。彼の知らない、彼に役立つリンチェンドルジェ・リンポチェの説法を聞こうとする。もしこうなら来る必要はない!なぜ来る必要はないのか?それは、寶吉祥仏法センターはデパートではないからだ。ただ1セットだけ、あなた達を生死から解脱させるかを教えるその1セットだけだ。

あなた達に生死を解脱させることを教えるからには、リンチェンドルジェ・リンポチェには沢山の方法がある。あなた達は全く思いつかなかったが、突然、リンチェンドルジェ・リンポチェは法務を担当している弟子に出てきて話をするよう指示された。あなた達は彼だけだと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは随時、沢山の方法を使う。一人の上師として、沢山の方法で全ての皈依弟子に応じる。古代・禅宗の禅師が弟子を改めさせる方法は様々であった。まず、弟子にこれは白だと言う。弟子は白だと答える。続いて禅師は頬を叩き「私が白だと言ったら白なのか?」と言う。彼らは理不尽だ。現在、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ道理を語り、根拠があってこそ罰する。

以前の禅宗の弟子に対する方式を、現在皆は使おうとしない。それはすぐに訴訟を起こされるからだ。弟子を叩いたといって。仏法の中では弟子を叩いてはいけないと誰が言ったのか?古代の時、チベット仏教或いは禅宗ではいずれも弟子を叩いた。それは、言った後に弟子がやはり話を聞かないので叩くのだ。彼に痛みを与えてこそ自分の間違いを知ることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に対して非常に遠慮している。ただあなた達に、クーラーの部屋の中で前に出て立って2時間話させるだけだ。以前の上師は棒を持って叩くまでとことん追いかけた。弟子に能力があれば逃げた。もし上師が弟子に追いつかなかったら弟子を止まらせて叩いた。なぜこの様な方式を用いるのか、衆生の業が重すぎるので、多くの事は人類の思想によって必ずしも解決され得ない。

また、皆のために一つの疑問に答えよう。なぜ済度の法会に参加するのに、この一生を、必ず菜食しなければならないのか?これを理解できない者が沢山いる。法会に参加する人は必ず福徳を少し積み上げる。もし、これらの福徳を未来の修行面に用いないのなら、必ずしも人天界の福徳とはならない。もし、あなた達が法会に参加した後にまだ肉食しているなら、この一生が終わった後に鬼道に堕ちる可能性は大きい。鬼道の中には福徳を有する鬼がおり、鬼道に堕ちるのは生前に肉食をしていたからで、鬼を拝むのには肉を用いる。肉を用いるのは必ず鬼である。非常にすごい神は皆、必ず鬼である。鬼道に堕ちるのはなぜ良くないのか?たとい彼に力があろうと、やはり非常に苦しむ。それは、彼には自分の未来が非常に苦しいことを知る能力があるからだ。鬼道が終わると必ず地獄に堕ちる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは鬼王を作ることはできない。あなた達が法会に参加するのは他界者のためであり、法会で済度を求める99%の他界者は如法(法に基づく)修行をしていなかった。如法の修行をしていないなら、どうして地獄、畜生道に堕ちないことがあろうか?修行者であっても三悪道に堕ちる機会はある。あなた達が求めに来たのであるからには、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず他界者のために福徳を積み上げる。たとえば『地蔵経』に説かれるように、眷属は他界者のために広く仏事を行なわなくてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に説いている。「広く」は沢山の場所へ行ったり沢山の事をすることではない。前回ある人が他界し、彼の家族は違う教派にお願いする必要があると考えていた。実際にはその必要はない。「広く」は心を広大にしなければならず、一切の仏が教え導く事を受け入れることを指す。最も簡単な事は不殺生、他の事はあなた達に教えるのは難しい。不殺生は肉食しないことを実践しなければならない。このようにしてこそ、殺生の機会を減らすことができる。肉食しないことは殺生する機会がないことを示してはいない。だが、沢山減らすことができる。あなたが慈悲心を生じたなら三宝に対する恭敬である。三宝に対して恭敬してこそ供養を生じさせる。供養が起きると福徳を生じさせる。福徳を生じさせると、他界者は済度を受け入れる資格が持てる。

あなた達はお金をあげることが供養だと思ってはならない。こうでは決してない。リンチェンドルジェ・リンポチェの能力なら、一人の他界者の済度にあなたから1千万を受け取ってもよい。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆にお金を語らず、仏法を語る。次に、皆に縁があるかどうかを見る。多くの者が菜食をしなくてはならないと聞き、背を向けて逃げて行く。これは他界者にこの縁がないことを示している。口と腹の欲さえも改められない人なら、自己の性格を改められる事は信じられない。皆は幼い時から大人になるまで、食べる物は絶対に変化している。以前好んで食べていた物を今は嫌いになった。以前嫌いだった物を今は好んで食べている。口と腹の欲は随時変化している。変化できるからには、なぜ肉食から菜食に変えられないのか?なぜ変えられないかは、やはり因果を信じていないことを表している。

今日は皆にはっきりとお話する。皆が親友を連れて済度を求めに来た時、法会に来たこの一生を通して菜食しなければならない。当然ながら、事後にリンチェンドルジェ・リンポチェ、仏菩薩を騙してもよい。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前では必ず承知しなければならない。もし承知しないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に済度をしない。あなた達は「阿弥陀仏大法会への参加はどうなのか?」と聞くであろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も話しているが、阿弥陀仏大法会は衆生を阿弥陀仏と結縁させるためのものなので、大法会に来た者がその後菜食しないのは彼自身の事だ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回、大法会には必ず皆に菜食するよう告げている。言わないことはない。よって、以後、済度の法会に参加する人は徐々に減って行くだろう。

皆に小さな物語を一つする。今回リンチェンドルジェ・リンポチェが日本へ行った時、700~800年の歴史のある寺院を訪れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは寺院の中でこんなにも沢山の鬼を見たことはなかった。寺院の中にこんなにも沢山の墓があるのも見たことがなかった。中には少なくとも数千の墓があり、たくさんの鬼がいた。寺院の中の主尊は阿弥陀仏であり、寺院の中央にはマンダラが安置されていた。つまり壇城だ。それらの鬼は全て囲いの中にいた。あなた達は阿弥陀仏の仏像を一尊安置すれば彼らを済度できると思ってはならない。また、毎日、阿弥陀仏を唱えていれば済度できると思ってはならない。以前、これらの日本の出家者は、これらの鬼衆を済度する能力はなかったが、あちらこちら飛び回らせない能力はあり、一つの場所にいさせるようコントロールしていた。もし、あなた達が行ったなら必ず恐がるだろう。そこの森は非常に陰鬱であった。リンチェンドルジェ・リンポチェが上に行ったばかりの時、寺院の上方には黒雲が立ち込めていた。リンチェンドルジェ・リンポチェが上へ行くとすぐに太陽が出た。奇妙な事にただその場所だけに黒雲があり、他の場所にはなかった。

皆は見ることができるが、鬼道に堕ちて数百年であるなら、たとい仏像が前にあったとしても役に立たない。多くの人は仏像があれば済度できると思っているが、やはり不可能だ。縁がないなら済度できない。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に参加する人は必ず菜食しなければならないと厳しく規定している。あなた達のために縁を結ばせる。少なくともあなた達の次の世の健康はよくなる。殺生を断ったので、未来世は必ず健康である。多くの者が、明らかに皆はこうしているのに、なぜ自分は人と違うのだろう?と思う。実際のところ、皆がこの様なのではなく、この様である皆は地獄に堕ちる可能性が大きいのだ。あなたは一緒に堕ちたいのか?地獄は死を待つ必要はない。多くの者が死ぬ前に病院で手術等をしている。これはまさに地獄の中にいるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは沢山見て来ている。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために施身法を修する。どんな人でも三宝を恭敬し、十分な信心がありさえすれば、他界者は必ず済度される。済度できないのは絶対に修行者の問題ではない。仏菩薩の問題でもなく、あなた達の中にある動機が正しくないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに沢山、説法している。最後の結論としては信じなければならない、迷信ではない。しかも、自分が本来、仏と同様の成仏できる条件をそなえている事を信じなければならない。ただ私達は忘れてしまったのだ。「忘れる」という字を用いるのは、実際にはとてもこじつけのようだが、あなた達はこの字を理解することができるだろう。

さらに、皆は諸々の仏菩薩の慈悲を信じなければならない。私達に対して何らかの交換条件もない。交換条件がないのに、なぜ諸々の仏菩薩はあらゆる苦しむ衆生を済度しないのか?私達は仏の語られる事を信じなければならない。衆生には縁が必要である。即ち、できるかどうか、受け入れるかどうか。良医の出す薬のようだ。あなたが意地でも飲もうとしないなら、もっといい医者でもあなたの命を救うことはできない。仏法にも同様の観念がある。あなた達は仏が非常に慈悲深いと思ってはならない。よって、必ず彼らに話を聞かせなければならない。仏はいかなる人にも話を聞くよう強制することはなかった。ただ勧め続けるだけである。

仏がいかなる人にも話を聞くよう強制できたなら、仏の家族全てが絶滅することはなかった。よって、皆ははっきりさせなければならない。仮に仏が強制的な方法で人に仏の話を聞かせようとするなら、最も基本的なことを言えば、仏の一族が絶滅することはなかった。一族の者全ては釈迦姓である。仏は彼らを強制し、毎日彼らを脅迫し、「人が殺しに来る、まだもたもたしているのか?」と彼らに告げるべきであった。あなた達は毎日この様な話を人に聞かせている。だが、仏は言わなかった。それは、仏は因縁がないことが見えたからであった。仏は道の途中で3日間止まり、最後にはやはり出発した。なぜ3日間止まったのか?それは、仏は恩に報いるためであり、一族に3日間の時間を与えたのであった。彼らに転じる因縁があるかどうかを見ていた。3日間見つからなかった。即ち、なかったのだ。よって、なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに1年半あげるのか?来てから1年半、皈依を望まないのは、転じることができないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも彼らにお別れを言う。

仏は立ち上がってそこを離れた。リンチェンドルジェ・リンポチェもあなた達を出て行ってもらう。それは、この様では法会に参加しても役に立たないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがむごいのではなく、あなたが悪を断ち切らず、一人の鬼王を造り出すのである。鬼王が出て来るのはとても良くない事だ。仏典にこう説かれている。力のある鬼がどこかに出現しただけで近くの小鬼を吸いこみ、これらの小鬼をすぐに輪迴させないようにする。これらの小鬼は、鬼王の力が消失してから輪迴する。鬼王は通常、貪、瞋、痴の事をする。よって、これらの小鬼の業を強める。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつてある信者の診療所で彼を助けたことがある。彼は迷信を信じて廟から旗をもらって来ていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは中に入ってから見ると、本当に可哀想だった。鬼王によって鎖で旗に縛り付けられた小鬼は、いろいろな所に送られていた。

小鬼は子供の鬼ではなく、階級が鬼王よりも低い鬼である。皆は考えてみなさい。もし、鬼が鎖で縛られていたら、気分はいいだろうか?きっと不愉快なはずだ。多くの者は廟の旗を持って帰って来たら遮れると思っている。だが、廟の旗の上の鬼の能力が不足しているのなら、やはり別の鬼を打ち負かすことはできない。それは、ある鬼の力は非常に大きいからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、外道の鬼のために施身法を修してあげた時、彼は修法中にリンチェンドルジェ・リンポチェが手で持っている鈴を引っ張った。その力は非常に大きかった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲心が彼を感動させたので、その後、彼は二度と動かすことはなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェがなす事は慈悲がない、来ようとしているなら時間をたくさん与えるべきだと思う者もいるかもしれない。それなら、誰がリンチェンドルジェ・リンポチェに時間をくれるのだ?リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも年をとっている、1年半をあなた達に無駄に過ごさせる人は少ないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの動作は徐々に早くなる。それは、時間がもう多くないからだ。器になれないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの時間を浪費してはならない。早めに帰り、あなた達が好きな事をした方がいい。リンチェンドルジェ・リンポチェは鬼王を作りたくない。だから、あなた達がもし仏法を学びたくないなら、何か疑う事があるなら来なくてよい。

自分は菜食し、肉を食べていないという者もいる。だが、心に悪があるならやはり鬼道に堕ちる。ただ、以後は、肉食しない、花のよい香りをかぎ、ご飯の香りをかぐ鬼となる。この様な鬼は沢山いる。街中いっぱいだ。今日は、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆にした法話は、あなた達が法会に参加したからといってうるさく言ったのでは絶対にない。リンチェンドルジェ・リンポチェは見ればみるほどはっきりし、はっきりすればするほどうるさくなる。あなた達が道を誤るのを心配するからだ。もし道を誤ったなら、再び戻ってくるのは本当に大変な事だ。

実家が廟である弟子がたくさんいる。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェにほんの少しの慈悲の力もないなら、着いた途端に、彼らの家の神が「北部のあの一尊は非常に大きい。私は小さい一尊、彼は大尊だ」と言うことはない。かつてある弟子が著名な道教の廟で台湾式のポエ占いをした。その後、「リンチェンドルジェ・リンポチェこそが修行者である」ことを五回も肯定する結果が出た。簡単に言うと、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェを知らないが、鬼神はリンチェンドルジェ・リンポチェを知っている。なぜ、鬼神はリンチェンドルジェ・リンポチェを知っているのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェには慈悲の力が現れるからだ。どれほど恐ろしくて、どれほど剽悍(ひょうかん)で、どれほど有名だからではない。鬼道の世界と人間の世界は異なる。人間の世界はこの人がどれほど有名で、どれほど話ができるかだ。鬼道の世界はエネルギーと慈悲をみる。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修法する時、皆は深く体得しなければならない。施身法を得るのは容易ではない。修し得るのも容易ではない。直貢噶舉派の中にはこんなにも沢山のリンポチェ、ケンポス、ラマがいる。しかし、現在、施身法の修法を公開している者はおらず、恐らくただ一対一の修法である。暫く前に別の教派のリンポチェが台湾に来られて施身法を修法していたが、人数はそれほど多くはなかった。人数が多いのは、リンチェンドルジェ・リンポチェがすごいのではなく、施身法の本尊、護法、及び観音菩薩が縁のある衆生を今回の法会に参加させているからである。

施身法は密法であり容易には伝えられない。施身法を修して成就しなければならない。そのうち、阿弥陀仏のポワ法、噶舉派のマハームドラー、離戯ヨーガの部分を含む。施身法を修法する修行者は、禅宗についていうなら、十分な禅定の技法を修し得ている必要がある。『金剛経』について言うなら、すでに無我相、無衆生相、無寿者相、無人相を証していなければならない。禅宗について言うなら、少なくともこの境界を証してこそこの法を修することができる。

「無寿者相」が指しているのは時間と空間がないことで、寿命ではないが、誤解している人が多い。「無人相」が指しているのは、人のために仕事することでは決してなく、六道の一切有情衆生が助けを必要とする時にいつでもすることである。「無我相」が指しているのは、修法時に「我」がないことだ。「我」がないというのは何か?慈は自分がよいものを衆生の苦と取り替える。もし、あなたが「我」が修法していると思うなら、自分をよく保護していて、慈悲、功徳が出て来ることはない。よって、修法時には絶対に我執及び法執があってはならない。「無衆生相」とは、菩薩の眼には衆生と仏の区別はなく、衆生にも仏性が具わっているが、業力と一切の果報により苦海の中で輪迴しているに過ぎない。

修行者がこの四つの相を体得でき実行できて初めて、施身法を修法することができる。どうしてなのか?それは、施身法の中で最も重要な事は修行者は自分の骨と血を諸々の仏菩薩に供養し、衆生に布施して食べさせるのを観想しなければならないからだ。これは口で言うのではなく、考えるのでもない。この四つの無相を実行できるなら、自然に得られる。なぜ、この様に行なわなければならないのか?それは、釈迦牟尼仏は以前に何度も演じたことがあるが、仏が菩薩道を修行している時、かつて自分の肉体及び一切を衆生に布施したことがある。釈迦牟尼仏はこの様にしてきたが、私達の後代の仏法を学ぶ者もこうすべきだ。私達がまだ空性を証する前に仏の如く肉を切り取り、眼をほじくり出し、虎穴に飛び込み虎に食べさせることはできない。だが、禅定の中と心中で実行できる。それは、私達は身体が仮のもので、空性であることを理解しているからだ。ただ、過去の一切の種々の業力が集まり肉体が生じ、肉体は一秒毎に変化している。あなたが自分を長寿にしたいかどうかに拘らず、身体は一秒毎に変化している。

その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは医師である弟子に「身体が一秒毎に変化している」という定義について説明するよう指示された。医師の弟子は「私達の身体は一秒毎に呼吸し、循環し、代謝する過程の中で、身体は実にゆっくりと変化している。7年毎に全ての組織が全く新しく変わる。よって、酸素を吸入する循環過程、或いは腎臓肝臓の代謝をとわず、身体は常に変化している」と語った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説法された。いわゆる無我相とは、「私達はこの肉体を具えているが、この肉体は常に変化を続け、「我」に属するものでもない。釈迦牟尼仏はなぜ、生まれてすぐに7歩歩いたのか?顕教の解釈では、身体は7年毎に一度変化していると言う。密法の解釈には他の意味もあるが、ここでは公に說明しない。あなた達がかつて顕教を学んだ事があるなら、釈迦牟尼仏はなぜ生まれてすぐに7歩歩いたのかについて弘法者は話したことがあるだろうか?仏は1歩多く歩く事はない。1歩少なく歩く事もない。7であるのは、全て私達、人間と関係がある。仏のそれぞれの動作とそれぞれの言葉は、私達の修行、身体、一切と関係がある。もし、密法について言うなら、仏の各動作は気脈明点と関係がある。あなたが仏の為した事を体得できてこそ、盲信及び執着がなくなる。現在、医学は7年毎に一つの身体に変わることを発見した。仏は数千年前にすでに知っていた。よって7歩歩いて皆に見せたのだ。言いかえれば、皆の身体の寿命はたったの7年、7年後は別の身体の寿命である。

中国人はなぜ、10年に一度変動があると言うのか?このロジックを推論していくと、7年で変化し、準備として3年必要である。皆はちょっと回想してみなさい、こうではないか?本当にそうだ。身体の健康状態が良くなる或いは悪くなるのは、およそ7、8年で変化が現れる。子供のことを考えて見なさい。7歲、8歲は明らかに異なる、14歲、15歲もまた変化した。21歲はさらに異なる。それは身体が変化しているからだ。身体が変化しており、禅定と観想を通して身体を別のものに変えることができる。人の肉眼では見えないが、衆生には見える。どうやって身体を変化させるのか?それは、慈悲の力だ。

嘗てある人が釈迦牟尼仏に説法を請うた事がある。仏が地球で仏法を弘める。地球は五濁悪世であるからには、いかにして仏法を弘めたらよいのか?仏は清らかな仏土を説かれているが、仏土はどこにあるのか?顕教の中には「心浄国土浄(心は清らかで国土も清らかである)」と説かれる。皆も、どうやって実行すべきか、自分はいかに心を清めるのか、心を清めた後に国土は清められるのか?以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時、この言葉に対する考えは皆と同じだった。実際に、釈迦牟尼仏はこの事を演じて菩薩に見せたことがあるが、凡夫には見せなかった。なぜだろうか?それは、凡夫の心が清らかになるのは不可能であり、仏の心と違っていた。たとい仏眼で見えるのが清らかであっても、凡夫が見るものはやはり不浄であった。よって、「心浄国土浄」は、修行者の修行段階を指しており、わざと心を清めようとし、ここは仏土だと思うことではない。

密法の修行時、リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修法する際、この地こそが浄土であると観想しなければならない。前で先ず観空咒を唱え、一切は空性に回帰し、まだ因縁が生じる前の清らかな本性に戻ってこそ、さらに仏土が出現するまで観ずる。いわゆる「心浄国土浄」は、先ず修行と禅定の境界がどれほど清らかであるかを自分に聞いてみる。どれほど清らかであるかの度合いによって清らかな国土も見える。仏典の中では、仏はかつて菩薩に見せ、菩薩が見るとそれは仏土であった。だが、凡夫が見るのは仏土ではなく、やはり五濁悪世である。これは私達の心と関係がある。ただ一日、まだ輪廻からの解脫を決意しない日があるだけで、心は絶対に清らかにはならない。もし世間のある楽しみや心のひっかかりに執着するなら、心は清らかにならない。心が清らかでないなら、絶対に仏土を見る資格はない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために施身法を修した。皆が福徳と智慧の資糧を積み上げる手助けをすると同時に、最も重要な事は迅速に一切の煩悩を取り除く。煩悩を断ち切ることができてこそ、清らかな仏法を理解し、接触することができる。仏法を学ぶ者に一切の煩悩が満ちていたら、それらは全て煩悩だ。それにはもう少しはっきりさせたい、もう少し理解したい、もう少し明らかにしたい等を含む。この後の修法の過程では、皆はどんな事も考えなくて良い。ただ三宝は衆生にとって利益があることをしっかりと信じ、今日は一切の苦しんでいる衆生を代表して法会に参加しなければならないという事を明確に知っているだけでよい。この様な清らかな考えがあってこそ、あなた自身と苦しんでいるあらゆる衆生に役立つものとなる。

いわゆる「有求必応(求めがあるなら必ず応える)」は、世間の様々なものを求めることではない。もし、衆生が苦しみから離れられるようにと諸々の仏菩薩に願うなら、必ず相応する。もし自分の夫が話を聞くように、子供がよく勉強できるようにと願うなら、叶うだろうか?恐らく叶う。あなたの福徳が十分なら、その事は自然に変わる。だが、必ずしも菩薩の助けとは限らない。福徳が十分というのは、あなた自身が修行する福徳が十分であり、周囲は全て菩薩と護法によって保護されることを指す。あなたに悪いことがどうして起こり得るだろうか?あり得ない。皆は仏法を明確に認識しなければならない。いい加減な事を言い間違いをしてはならない。一旦間違ったなら二度と戻れず、大変なことになる。

次に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な直貢噶舉派の施身法の修持を始められた。修法後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは説法を続けられた。

参加者の中には黒い服を身につけている者もいる。帰宅する際には少し気をつけなさい。そっちを歩いてはならない。あなた達はテレビを見ないで閉関しているのか?誤解をしてはならない。まず、家に帰ったなら服を着替えなさい。あなた達は何でもリンチェンドルジェ・リンポチェに注意してもらうのか?この事については、皆は自分のほんの少しの影響力を利用してもよい。もし、政府を信じないなら、この国家も存在しない。実際には過去数年の間、もしこの方法で政府を倒したなら、当地の人々は長い間苦しまなければならなかった。あなた達はこの様に考えるのか?もしこう考えないのなら、私達は反対したり、彼らが悪いと言わなくてよい。だが、支持する必要はない。

ある時、国家もある事についてはっきりと言わないこともある。あなた達は家の事でさえもはっきりと言わないのに、国家の大事なら尚更ではないか?人の話の受け売りをしなくてよい。特に大学生だ。他人の話を聞いて調子を合わせなくてよい。もし、台湾が安泰しないなら、あなた達の要求が自分達の考えに符合したとしても、その後恙無く日々が送れるとは信じられないだろう。なぜだろうか?もし、今回、この様な方式を用いて要求を達成できても、以後はどんな事もこの種の方法を用いることができる。そういう国家にまだいられるだろうか?

よって、学校の先生は恐がったり、この事を話すとどうなると思わなくてよい。子供に法を守らせ、規則を守らせる教育をすべきだ。この土地はすでに全世界で最も民主的なところだ。皆はさらにどうしたいのか?他の所では、全てのニュースを封鎖して、人々に国家がニュースをコントロールしていると思わせないようにできる。他人はいじめ易いと思い、いじめ続けてはならない。よって、教育界に従事する人は、ただ試験だけでなく、真に子供に一つの観念を与えなければならない。

仏法を学ぶ者は、縁は生まれ縁は滅するということを明確にしなければならない。当然ながら、これは彼のしたことが良くないという意味ではなく、それをゆっくり消滅させる。だが、こんなに酷いレベルまでいっていないだろう!英語では“cannot please everyone”と言う。それは、各人を全て満足させることは不可能という意味だ、必ず反対する者もいる。自分の利益を考えたなら、必ず反対する人がいる。反対の中から利益を得る者もいる。私達は愚かに他人について行動しなくてよい。たといあなたが「そうだ!不透明な手段だ」と意見を言ったところで、不透明な手段を使わない政府がどこにいるのか?不透明な手段を使わずに、どうして政府と言えようか?どれほど民主的であろうと必ず不透明な手段はある。ある事は語ることができない。それは悪い事が起こるのを恐れてのことだ。

あなた達の家には両親と兄弟姉妹がいる。誰があなたにはっきりと話すのか?あなたが「どこへ行っていたのか」と尋ねると、彼は「どこへも行ってないよ!ちょっと歩いていただけだ」と言うだろう。どこを歩いていたのか?誰があなた達にはっきり話すのか?彼は明らかに外に行って電話をかけていたのだ。あなたが彼にどこへ行っていたのかと聞くと、彼は「コンビニに買い物に行っていた」と言う。自分の家の中だって実行できないのに、なぜ政府に実行するよう要求するのか?この事に利益が多くて損失が少ないなら、まずみてみなさい!まだ間に合う、私達はまだ投票できる。投票でさえも受け入れず、一日中この様な方法を使って、この国家は生きて行けるのだろうか?

私達は悪に従ってはならない。智慧を使って物事を見なければいけない。騒いではいけない。あなた達は上位にいないのではっきりしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは1000人余りの弟子を監督し本当に大変だろう?こうしたりああしたりしなければならない。だから、平穏無事に日々が送れる。食べる御飯がある。本当に悪劣な事が起きないなら、私達には本当に福徳がある。全ての事が私達の意に叶うことはありえるのか?自分の思い通りにならないことは当然のこと、正常なことだ。もし全て自分の思い通りになるならここは絶対に地球ではない。西方極楽世界だ。あなた達は現在、まだ死にたくないのに、ここが西方極楽世界になることがあろうか。絶対に娑婆世界だ。娑婆世界は必ず思い通りにならない事が常に80~90%ある。これが私達の生活だと受け入れなければならない。受け入れた後に初めて、その中の問題がどこにあるのかを見ることができる。もし、受け入れないなら、自分の方法を用いて対抗し、問題の所在を知ることができず、すればするほど問題は徐々に多くなる。

皆がもし信じないなら、帰宅してからサイトをみてごらんなさい。過去10年の間、この様な方法で政府を打ち倒した国の中で、どの国が現在はよいのか?最近ではエジプト、現在に至るまでまだ混乱している。皆はこの様な方式が民主的だと思ってはならない。これは最も民主的ではない。民主的でありたいなら、少数が多数に従わなくてはならない。現在は多数が少数に従うようになった。寶吉祥仏法センターは多数が少数に従っている。それは、リンポチェがただ一人だからで、仕方のないことだ。だが、外の世界はこの様ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにも沢山の法を修したのは、ずっと今年を心配しているからだ。今年、皆が平穏無事に日々を送れることを望む。

もしこの土地が安泰でないなら、どうやって仏法を弘めたらよいのか?不可能だ。仏弟子であるなら、皆は少し力を出して、この事を悪化し続けさせてはならない。もし、語る人がいるなら、彼と弁論する必要はない。家の中にでさえ不透明な事はあるのだ、政府にどうやって要求するのか?あなた達はいつも父親に尋ねる。「お父さん、一ヶ月いくら稼いでいるの?」と。父親は「子供は構わなくてよい」と言うだろう。不透明ではないか?実にこういう事はあるのだ。国家は一つの大家族で、皆は家庭の中の一分子だ。もし、家庭が壊されてしまったなら本当によくない。もし好まないなら、2年後に投票して彼にやらせないようにすればよい。皆が社会のコストを浪費するまでやる必要はない。毎日この様に、納税者はお金を納めなければならない。特に、リンチェンドルジェ・リンポチェは規則を守って納税している。考えれば考えるほど妥当ではない。

この事が発生したのは全て私達の共業だ。それは、皆が争っていて、何でもはっきりさせようとしている。この種の共業こそが続いていくのだ。皆は現在の次の世代を見ている。即ち、私達が自分で作り出したものだ。私達が心を込めて我慢強く子供を教えなかったので、子供は幼い頃より倫理道徳を知らない。話さなければ、子供は自分が吸収した学問、知識、利害得失によって物事を処理するようになる。仮に今日、大人がサポートしていなかったら、これらの子供もこの様なことをする勇気はなかったであろう。これには必ず利害関係がある。私達がこの利害関係の中にいないなら、入り込む必要はない。皆は平穏無事に日々を送る。これが最も良いことだ。今日はちょうどある事に遭遇し、リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を修法した。これによって、この事の面倒を減らすことができるだろう。

参加者は心から感激し、声を揃えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による修法に感謝を述べた。リンチェンドルジェ・リンポチェは謙虚にこう言われた。「感謝しなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェには関係ない。功労はみんなにある。それは、もし、あなた達が法会に来ないなら、この法会はなかったからだ。一切の縁起は全て衆生より来る。『金剛経』がなぜ衆生相はないと説くのかは、皆がもし自分が衆生を済度していると思うなら、菩薩ではない。それは、衆生はみな平等であるからだ。これらの子供も可哀想だ。これらの人も可哀想だ。可哀想(中国語は可憐)と憎らしい(中国語は
可悪)は違う。憐憫の心でこの事を見なければならない、絶対的な正誤はない。皆には自己の主観性がある。ただ皆はこの国に生きていて、この国が安泰で、物資が豊富な中で日々を送りたいと望んでいる。私達は自分の能力を尽くし、自分の仕事をしっかりと行い、この国を守り、続いていくようにすべきだ」。

法会が円満に終了し、弟子達は声を揃えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの修法と説法に感謝を述べた。そして、起立し、法座から下りられた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。

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2017 年 07 月 24 日 更新