尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年3月16日

法会の始まる前に、妻と娘に付き添われた一人の弟子が、彼の父親を救い、済度してくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を込めて、この経過を在席の大徳及び兄弟子たちに分かち合った。

彼の父親は今年(2014年)2月4日午後2時に他界した。その時、彼はすぐに兄弟子にお願いして、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに報告してもらい、迅速に回答をいただいていた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く父親のために修法してくださった。彼と家族は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに心から感謝した。彼が父親を見た時、父親の口は開いたままだったので、すぐに口の中に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェから授かった甘露丸を放り込んだ。それと同時にリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに基づいて、父親の近くで家族が一緒に六字大明咒を唱えた。

とても不思議なことに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが父親のために修法された後は、父親の顔は普段よりもふっくらとしただけでなく非常にきれいになり、皺くちゃ、黒ずんで痩せていた以前のようではなくなった。もともと開いていた口も閉じ、父親は普段寝ている時よりもより落ち着いて幸せそうに見えた。彼らは、これら一切が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い修法によって現れた瑞相だということを理解した。

彼の父親は民国元年(1911年)に生まれ、享年103歲であった。歯の問題以外はかつて医者にかかったことはなく、たとい病気であっても薬を飲まず、身体はずっと健康だった。だが、10年前に重病を患って入院していた。その時、父親は呼吸困難のため雑音があり咳が止まらず、家族は非常に緊張して父親を無理やり病院で検査させた。病院で一週間検査したが、原因を突き止めることはできなかった。彼は父親の病苦の様子をみて、大慈大悲、大能力をそなえたリンチェンドルジェ・リンポチェだけが父親を助ける力があると感じ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこう伝えた。「父親の肺はすでに三分の二が纖維化している。だから呼吸困難になったのだ。しかも命は危険な状態だ」と。彼はそれを聞いて非常に嘆き悲しみ、すぐに跪いて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求め、父親を救ってくれるようにお願いした。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに父親のために修法することを承知された。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが修法された後、父親の病は瞬く間に改善され、数日後回復して退院した。彼らは心から尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。その時から、亡くなるまでの10年の間、肺にはいずれの問題も起こらなかった。

昨年末、父親の体力は急激に弱まり、階段の上り下りや歩行が以前のようにはいかなくなった。だが、父親の性格は非常に頑固、強情だったので杖をつくことを拒み、車椅子を使いたがらず、他人に面倒をかけることを望まなかった。生活はすべて自分の力で行い、しかも以後は緊急治療を行なわない、対外的な葬式をしない、化粧をしない、一切を簡略化するよう言い付けた。父親が他界した後、子供である彼らも父親の遺言にしたがい身内内の葬式だけにとどめ、その後は火葬した。

彼は、父親を救い、済度してくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べた。父親は、2月16日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な施身法の済度を受けた。この間、家族は穏やかな心でいられ、哀しみにくれるという気持ちはなかった。あるのはただ懐かしい思いだけだった。これはすべて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによって父親がいいところへ往けるようにと救ってからだと考え、深く尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。

父親の他界によって、彼は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが普段口をすっぱくして諄々と諭されている教えをより深く感じ取った。両親が他界する前、最も苦しく、最も助けを必要としている時、子供である彼らは役立たずで、どんな事をするにもまったく力がないのを感じた。たとい一家が父親を取り囲んでも父親の解脫を助けられる者はいなかった。だから、彼は自身の経験をもとに在席の兄弟子たちに、弟子である者は言う事をよく聞いて、依教奉行(教えに基づいて行動すること)をするだけだと呼びかけた。仏とまったく同じである、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを敬い遵守し、いかなる疑いも抱いてはならず、上師に対して十足な恭敬心をもち、努力して仏法を学び、上師の恩、両親の恩、衆生の恩に報いなければならない。最後に彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の健康、法輪が常に転じられ、仏法事業が興盛し、六道一切の有情衆生が済度され、直貢噶舉の法脈が永遠に伝えられていくことを祈願した。

続いて二人目の弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳をほめたたえ、リンチェンドルジェ・リンポチェが面倒をみてくださったことを話し、上師に対して恭敬心がないことと、100パーセントの依教奉行(教えに基づいて行動する)ができていないことを懺悔した。

彼は2011年9月11日に、あらためて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。最初に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、幸いなことにインドへ行く法会団でリンチェンドルジェ・リンポチェの護衛を担当したことがあった。彼は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの護衛であったが、実際にはリンチェンドルジェ・リンポチェはこの役立たずの弟子の面倒をみてくれていて、VIPのチケットも戴いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェツァン法王に対して、いつも非常に恭しく至れり尽くせりであったが、それに反して自分はリンチェンドルジェ・リンポチェにいつも叱られるのを恐れ、間違うのを恐れ、その差は天地の差ほどもあった。

インドでのある午後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼、もう一人の兄弟子、それから数名のセキュリティ担当の教官に「馬歩」のやり方、側近のカンフーを教えてくださった。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに歌を献上した。思いも寄らないことに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは歌にも通じていて、歌う時の問題点を指摘された(詳しくは寶吉祥仏法センターの公式サイト、衆生済度の事跡第69篇を参照)。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが以前、法座で説かれたことを思い出した。「リンポチェをするのは本当に大変だ。それは、様々な領域の問題にすべて答えなければならず、こうして初めて衆生の異なる問題を解決できる。ある専門用語が出てこないこともあるかもしれないが、理論はすべて理解していなければならない」。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェのお蔭でこのような得がたい学びの機会が得られたことを感謝した。

インドでのある晚、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に機会を与えてくださった。彼の楽団をグループの忘年会で演奏させるとおっしゃってくださり、感激のあまり承知してしまった。だが、数ヶ月後、リンチェンドルジェ・リンポチェの秘書に「バンドの人たちはそろったのですか?」と聞かれたとき、彼は「不可能です」と答えた。その後、元々リンチェンドルジェ・リンポチェはとうの昔に彼の団員が兵役に行っていることを知っておられてこう尋ねられたのだと気がついた。なのに彼は、バンドのメンバーに聞きもさえもせずに直接婉曲的に断わってしまい、彼自身で上師との縁を断ち切ってしまったのだ。ひどい解決法で、これが彼の最大の問題点だった。上師に対する約束にさえも背いたのだ。どんな人との約束もこうであるのを後悔した。まったく誠実に話しておらず、すでに戒律を破っていた。

昨年(2013年)12月、日本の長寿仏の法会団に参加した最終日の夜、兄弟子たちは、幸いにもホテルで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと共に食事をとる機会があった。ホテルの女性オーナーは日本の女将ベストテンの一人であり、リンチェンドルジェ・リンポチェに舞踊を献じたいと望んだ。舞踊は10分にも満たないものであったが、その後、リンチェンドルジェ・リンポチェの法話を通して、その舞踊こそが真の供養であったことを知った。しかも、踊り手は弟子ではなかったのだ!弟子として、身の置き場がないのを感じた。この時初めて、数年前に、上師が彼に与えてくれた最良の供養の機会を見逃してしまったことを思い出した。その場で非常に後悔し、すぐに、台湾へ戻ったらリンチェンドルジェ・リンポチェに再び機会を与えていただくことを願おうと心に決めた。

台湾に戻り、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた時、「何の用か?」と尋ねられた。彼は、「グループの忘年会で、自分の率いるバンドが演奏することをリンポチェに願いたい」と述べると、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、「私には関係のないことだから、グループの主管に聞きなさい」と言われた。彼はただちに「リンポチェありがとうございます!」と言った。元々心の中で繰り返し何度も練習していた台本は全く使われなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の問題にすぐに答えてくださったので、彼も嬉しくて感激していた。数日が過ぎ、グループに電話をすると、グループの主管は、彼のバンドが忘年会で演奏することを尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが承知してくださったと話してくれた。彼は上師に心から感謝をし、こんなにも過ちを犯し、上師の衆生済度の時間と機会を消耗し無駄にしたのにもかかわらず、やはり彼に機会を与えてくれたことを慙愧した。

忘年会の当日、彼は尊きチェツァン法王も参加されることを知り、ただちにこの知らせをバンドのメンバー達に知らせた。メンバーは〔想像できないことに出会って〕不思議な気持ちがしていた。大修行者たちの前で演奏する機会が得られたことに、みんなは緊張していたが、喜びを感じていた。彼は自分が太ってぶくぶくしていないようにと、演奏の数日前は晩御飯を食べなかった。思いもよらないことに、力なく2曲歌い終わったところで、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「ご飯を食べたのか?」と尋ねられた。彼は、「食べていません」と言うと、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは笑って、「あと2曲」と言われた。そこで、力を尽くして最後の2曲を歌い終わると、リンチェンドルジェ・リンポチェが頭を縦に振っているように見え、マイクを持って彼に「早くご飯を食べなさい」と言われた。その日の夜、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが自ら歌われるのを聞く貴重な機会を得た。どの歌も本当にすばらしく、特に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがエルヴィス・プレスリーのMy Wayを歌われた時、彼は感動すると同時に慙愧した。感動したのは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは歌を歌っている時も、やはり仏法を忘れず、尊きチェツァン法王を忘れず、ひたすら彼と衆生を加持し続けられたことであった。慙愧は、彼がどんなに愚かであっても、どんなに話を聞かなくとも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を放棄することなく、常に正しい方向へと導いてくださったことにあった。

彼は懺悔した。こんなにも大回りをしてやっと気づいた。自分が仏法を捨て、上師を捨てた時、失ったものは目前に見えるものよりも多かった。彼が100%上師に臣服することを決めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に与えた加持及び助けは、100倍、一万倍も超えていたのだ。彼は再びリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

続いて、3番目の弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに救われた経過を分かち合い、並びに過去になした悪業を懺悔する機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をささげた。彼は2012年4月8日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに帰依した。数年前、仕事の関係で彼はある兄弟子と知り合いになった。この兄弟子は、慈悲で衆生を救われた尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの事跡を何度も褒め称えた。そこで、2007年、初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。しかし、彼は謁見した時、恭敬せず、傲慢で、リンチェンドルジェ・リンポチェが主催される法会がいかに素晴らしく貴重であるのかを全く理解できずにいて、単に好奇心にあおられて、施身法の法会及び日曜日の共修法会への参加を求めた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは厳しく彼を叱責し、並びに、彼には根本的に恭敬心、慈悲心がなく、福徳もなく、すべては自分勝手に自分の利益だけを考えていることを直接指摘された。その時の謁見によって、彼は自己反省しなければならないことを知った。

彼は、慈悲によるリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のおかげで、心の中に羞恥および慙愧の念を生じさせた。また、菜食する考えが生まれたが、彼がその時菜食しようとしたのは、生を貪り死を恐れたからだった。仏と全く同じ存在の大修行者――尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが説かれた全ての字、全ての句は、自分の真の問題を指摘していたので、彼は、自分の真実の状況をより理解し、自分が過去に行なった法律及び道徳に反する行為も必ず報いを受ける日が来るということを心から恐れた。

彼は菜食というこんなにも良いことさえも依然として、自分の利益のために自己の欲望を満足させたいという考えを抱いて菜食していたことを懺悔した。両親は彼ら兄妹4人を小さいころから可愛がって世話してくれた。誤った考えゆえに、子供達の栄養が不足するのを深く恐れて、食事にはほとんど魚や肉を出した。両親は子供達を養育するために、知らぬ間に多くの衆生の命を傷つけていた。これに対して彼は懺悔し、並びに、施身法の法会において彼ら一家が傷つけた衆生を慈悲深く救ってくださったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。

彼は、若い時に自分の身体を大切にせずに、良くない本を読む悪習があったことを懺悔した。だから、身体が丈夫でなかった。大学のセンター試験の時に試験のプレッシャーから、身体の調子が悪く終日不快感を感じ、医者も原因を突き止められなかった。そのような状況の中で、漢方による体質改善を数年し、両親に心配をかけたばかりか、かなりの金銭を使わせ、自分も大学に合格できず、学習の過程でスムーズでない果報を受けた。

以前行なった邪な行為のために、両親及び妻は彼の菜食に反対した。彼は菜食の真の意義を伝える智恵がなく、両親及び妻とうまくコミュニケーションをとれず、消極的に沈黙で応えるだけで、家族を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、親近することなど全く考えなかった。彼の邪見及び仏法に対する誤解があったため、自分で随意に経典をめくり、経典を解説するテレビ番組を見れば修行できると考え、彼の傲慢な心を助長した。日常生活の事、子供の教育さえも両親、妻に任せ、両親、妻と彼の関係が益々緊張したものとなった。また、知らぬ間に三宝を敬わず、親不孝で、妻を大切にせず、子供を教育しない悪業を犯していた。

半年後、兄弟子が何度も励ましてくれたので、彼は再び勇気を出して、妻と共にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、彼らが施身法の法会に参加することを認めてくださった。だが、妻は菜食しておらず、因縁が不足していたので、施身法の法会に一度だけ参加すると、二度と参加しなくなった。彼は施身法の法会に3、4回参加した後、家族が同意しなかったため、やはり続けて参加することはなかった。彼は、大慈大悲のリンチェンドルジェ・リンポチェがその時の施身法の法会で説かれた殊勝な仏法によって、仏道は、自身の行為を改めることから始めるということをはっきりと知ったことに感謝した。自己の役割をしっかり演じ、背負うべき責任を実行する、うまく行なってこそ人に影響を与えられ、家族や友人に仏法を学ばせられる。仏法を生活の中に溶け込ませ、信受奉行(教えを信じて受け入れ、実行すること)しなければならない。

彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求める以前、よく小さな事で両親や妻と衝突し口喧嘩になり、両親が財産を分配する時、自分の希望に合わなかったので逆恨みをしたことさえもあったこと、両親や兄弟姉妹たちに長期間冷たくして心をかけず、親不孝をし、両親の養育の恩に感謝しなかったことを懺悔した。彼は外島で兵役についていた時、貪欲、軽慢のために、退役した先輩の外島手当を自分のポケットに入れ、偷盗の悪業を犯した。また、かつて何度も両親のお金を盗んだこともある。彼は妻が妊娠した時二度も子供を堕胎させて殺生業を犯し、結婚の前後、他の異性と邪淫し、邪淫業を犯した。

彼は友人とともに不動産会社を開き、市場価格よりも安い委託販売物件を購入して利益を稼ぎ、家主が急いでお金を必要としているか否かを考慮しなかったことを懺悔した。彼はかつて路上で事故に遭遇し、緊急援助が必要であるのを目撃したのに、手を差し伸べなかったことを懺悔した。以上の懺悔は、記憶していて話すことのできるほんの少しの事柄であり、今世および累世で犯した殺生、偸盗、邪淫、妄語の悪業をあげたなら枚挙に暇がない。衆生が地獄に堕ちていくのを耐え切れずに慈悲の加持を与えられ、疲れを知らずに教え導かれる、大慈大悲の、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなかったなら、自分は必ず愚かにも地獄の深い淵へと堕ちて、自分で抜け出す術が全くなかったことを深く知っていた。

2011年7月、同僚の父親が他界した。彼は同僚を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、家族が他界者を済度するために施身法の法会に参加するのを認めてくださるようにとリンチェンドルジェ・リンポチェに願った。そして、慈悲深く承知してくださったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。この因縁によって、彼は再び素晴らしい施身法の法会に参加しリンチェンドルジェ・リンポチェの法話を聴くことができたのだ。また、施身法の法会に続けて参加することで、彼と両親、妻の関係にも変化が見られ、さらにリンチェンドルジェ・リンポチェへの皈依を求め得ることができた。

彼は、皈依したこの二年間、加護を求める気持ちで仏法を学んでいて、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭敬心をもっていなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一時も忘れずに尊き直貢チェツァン法王に仕え、弟子及び衆生を導く仏法事業に尽力しておられたが、彼の心は自分、家族、仕事上に置かれていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法事業、道場に対して、彼は全力を尽くして護持し、リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳及び済度の事跡を褒め称えることはなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの教えをいつ何時も生活の中に着実に応用することはなく、今世及び累世の怨親者と苦しみを受けた母の如き衆生が輪迴から解脱することを望むのを忘れ、リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏、諸菩薩が身口意によって教え導かれた恩徳に背いていた。彼は、ただ、リンチェンドルジェ・リンポチェに依止し、身口意の三門で永遠にリンチェンドルジェ・リンポチェを敬い供養し、依教奉行(教えに基づいて実践すること)を行なってこそ、生死から解脱できることを深く知ったのだった。

彼は、今世で必ず両親への孝養を尽くし、家族や友人を大切にし、彼らに仏法を学ぶことをすすめ、道場の護持に力を尽くし、リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法事業を護持し、身口意の三門によってリンチェンドルジェ・リンポチェを敬い供養し、並びに、『37の菩薩の実践(中国語訳:仏子行三十七頌)』の教えを実際に日常生活に応用することを誓った。最後に、彼は再びリンチェンドルジェ・リンポチェ及びアキ仏母の加持に感謝し、リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康、法輪が常に転じられ、仏法事業が円満に興盛し、直貢噶舉派の法脈が永らく流伝されることを祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座にのぼられ、共修法会を自ら執り行われ、在席の衆生に貴重な法話を授けられた。

仏法を学ぶこととその他の宗教を学ぶことには、非常に大きな相違点がある。他の宗教について言うならば、どんなものを学ぼうとも、全てはそれ自体が主体となる。ある物事を神から授けてもらい、助けてもらったり、主にはあなたが救われることを願う。仏法はこうではない。みんなは仏法の教えは、我執を破し、無我の境地に至ることにあると聞いたことがあるだろう。一般の凡夫について言うなら、我執を破して無我の境地に至ることにはとても奥深い意味がある。無我とは肉体がないことや思想がない私を意味するのではない。無我を一切はすべて仮のものだと考えるなら、「頑空」の範囲に入ることになる。もし、この我が真実であると執着するなら、「有」の範囲に入ることになる。仏法を学ぶ者はどちらに入っても、「空」或いは「有」であっても、生死からの解脱はできない。

仏が説かれた無我の境地は、仏には世間の諸々の真相がはっきりと見えて、自己の修行をとおして証した悟りの経験に基づくものであり、修行者に、仏法の中で精進することを希望するなら、無我の境地を理解し、探求し、実践する必要があることを教えている。甚深の無我の意義を理解するには、自分の根拠のない考えに依る方法だけで理解することはできない。仏法を学ぶ人の中には、自分で聞いたり見たりすれば、どのように行なうのかを考え出せると誤った考えを持っている者も多い。仏法の中で説かれる「聞、思、修」は、入門したばかりの人に対して言うが、たとえ10年も20年も学んだとしても、悟りを開く前であるなら、「聞、思、修」とは何か、どのように実践するのかをはっきりと理解しなければならない。仏法を聞き、家に帰ってからすぐに自分ができるかどうか、またはその中の意義を理解したいと考えることではない。

いわゆる「聞」とは、いかなる欲望もなく、清浄な心によって仏法を聴聞することを意味する。「思」は、仏法を聴聞した後に、自分の一切の身、口、意が仏法と同じであるかを思考しなければならないことを意味する。もし、自分の身、口、意で表現されるもの及び聴聞する仏法が同じではないなら、一切の身、口、意の行為を改めようとしなければならない。これこそが「聞、思、修」である。自分が仏法を聴聞した後に、どのように礼拝するかを教えられたので、自分が礼拝したら、それは修行だと考えてはならない。「聞、思、修」はテレビで仏法を聞くだけでよいのではない。これはただの参考だ。「聴聞」は、必ず徳をそなえた上師の教えと導きをとおさなければならず、あなた達自身の人生経験の法則によって無我の真の意味を考えるのとは異なる。仮に自分の考えで行なおうとするなら、変わった意見が生まれ、盲滅法に物事を行ない修行を誤ることになる。

なぜ現在は、仏法に対してこんなにも多くの奇妙な修法、説法、講法があるのだろうか?中途半端に理解しているだけで、長い間仏法を学んでも自分を改められない者が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の中にもいる。仮に、あなたがやはり変わった意見を出して、自分の考えにより盲滅法に物事を行なうなら、絶対にどんな良い結果も生まれないだろう。経典に説かれるように、私たちは必ず善巧方便に基づいて行なわなければならないのだ。「必ずしなければならないこと」とは、自分で取り決めたものではなく、仏陀の教え、上師の口伝という修行の方法によることこそが、「必ずしなければならないこと」だ。自分で考え出した方法は絶対に正しくない。たとえあなた達が、ほんの少し上師の教えに基づいて自分を変えたとしても、すべて間違っている。悟りを開き、心の欲するままに自在となる以前は、話をよく聞いて、自分の考えを入れない必要があるのだ。

いわゆる「善巧方便」とは、仏法の概念の中ではすべての世間一般の事だ。仏法修行を含むすべての事は無常である。無明、愚かな衆生を輪迴から解脱させるために、仏陀は8万4千種の法門を説かれ、各法門にはすべて方便法がある。よって、あなたが悟りを開いたなら、これらの法門は不要となる。海を渡る時のように、道具がなければ海を渡ることはできない。だが、渡りきった後は、この工具は不要となる。仏土に到着したなら、いわゆる善巧方便の方法は不要となる。よって、仏はこの名詞を定めたのだ。「善」は、あなたが一切の悪を対治するのを助ける。私たち凡夫、世俗の子が考え付く一切の方法はすべて愚かなものだ。わずかの巧妙さはない。仏法で語られる「巧」とは、あなたの欠点を対治し、改めさせるものだ。「方便」は単なる道具ではないが、道具がなければ成就できない。よって、修めなくていいのではない。修めなくていいのなら、すでに成仏したことになる。

経典には、私たちは教えをとおして善巧方便が得られた後は徐々に修行を積まなければならないことと説かれている。つまり、階梯に沿って一歩一歩修行を進めていかなければならない。今日来て、明日理解し、一ヶ月したら悟りを開くのではない。多くの邪師はこのような方法を用い、あなたに告げている。「安心しなさい、すぐにあなたに悟らせ、見性の境地に至らせる」と。こんなことがどこにあるのだろうか?六祖慧能のような大修行者でさえも、詩を書いた後、五祖について長い間学んでいた。すぐに伝法できたのではない。多くの者が自分はすごいと思っていて、聴いたらすぐに伝法できると考えている。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもこう言っている。「みんなは学問を修めるのに10年も20年も学ばなければならないが、上師の教導があるなら、10年20年で仏法を理解できることを信じていない。10年20年で仏法の中でどんな福徳も累積できることも信じていない。10年20年で智慧が得られるということも信じていない。上師の教導があるなら、話をよく聞かなければならず、言う事を聞かないのなら問題が出るのだ」。

昨日、弟子の二人に問題が出た。一人は皈依して9年、一人は皈依して10年の弟子であった。皈依して9年の弟子は、両親を連れて謁見を求めに来た。父は高齢なので死ぬのを恐れていると言い、リンチェンドルジェ・リンポチェも、彼女が気に掛けている事を山のように話すのを聞いていた。彼女は皈依して9年経っているのに、リンチェンドルジェ・リンポチェにまだこのような事を言っていたのだった。山のような話を終えると、「父は最近、心臟の筋肉が厚くなっています」と言い、リンチェンドルジェ・リンポチェが「心臟肥大だ」と言うと、彼女は「そうです」と答えた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェが、「お父さんは必ずタバコを吸っているはずだ」と言うと、最初の反応は、「父は以前からタバコを吸っています」であった。彼女がこのように答えたのには、どんな問題があるのだろうか?その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、出家弟子に、この弟子がこのように上師に回答することにはどんな意味があるのかを、仏法での見解から話すよう指示された。

出家弟子は、「彼女がこう回答することは、彼女が上師を敬っていないことを示し、上師の話を信じていないことを意味します」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「出家弟子は半分しか語っていない。最も重要なことは、彼女が因果を信じていないことだ」と説かれた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは医者の弟子に説明を促した。「もしタバコを吸っていた人が、10年20年タバコを吸わなかったなら、身体には後遺症は残らないのだろうか?」。医者の弟子は、「タバコによって肺はすでに傷つけられていますので、回復することはありません。続けて吸っていたなら、悪化しないというのはなかなか難しいことです」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き尋ねられた。「もし心臟肥大なら?」医者の弟子は、「治すのは難しいです。すべては慢性的に累積された状況ですので」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。前の週から上師を恭敬しなければならないことを説いている。彼女がこのような反応をしたのは、上師を敬っていないからだ。因果法則はリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのではなく、仏が説かれたものだが、彼女は聞き入れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが「肉を食べているか?」と多くの人に尋ねているようなものだ。彼らは「長い間食べていません」と答える。実際のところ、彼らは食べていないのか?当然食べている。食べているのに、たとえ今食べていなくても、過去に食べたものは数に入れないのか?あなた達にはこのような考えがある。過去世で多くの善行をしたが、今世で善行をしていない場合、あなた達に聞くが、善行はしたのだろうか?あなた達は「過去世でした」と答えるだろう。意味は、今世では善行していないという意味だ。なぜ、悪の因を捨てて、善の因を捨てないのか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは、この弟子が自分の父親を庇おうとしたことに賛同する。だが、彼女がこの言葉を言ったので、後ろの話をリンチェンドルジェ・リンポチェは言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を助ける方法はあるが、縁がなかったので話さなかった。皈依して9年余りが経つ。不共の四加行を伝えているが、大礼拝(五体投地)後の金剛薩埵の百字明呪を2万回しか唱えていなかった。もう何年経っているのだ?なぜこのような問題が起きるのか?それは、「私」に対して執着があるからで、「私」を傷つけることはできない、「私」の家族は攻撃を受けてはならないと考えているからだ。

皈依して長い弟子は、お正月から今まで、リンチェンドルジェ・リンポチェの息子が法会に来ていないことを知っていると思う。彼の以前の身分は、リンチェンドルジェ・リンポチェの息子だった。間違いを犯した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは少し彼に対してよくした。だが、皈依した後は、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子となった。あなた達が簡単だと思うことを行った。誰でもできる事だ。だが、自分で間違いを犯したのにもかかわらず、責任を他人に転嫁したことをリンチェンドルジェ・リンポチェの前で話した。その日から、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に会わず、彼と話をしない。大晦日の夜でさえ、家で食事させなかった。父母であるあなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェのように厳しいだろうか?ある弟子の息子は言う事を聞かないが、その弟子は息子を追い出せなかった。母親も皈依弟子だ。もし息子がこんなにも言う事を聞かず、母親も息子を溺愛するなら、彼女が追い出さなくとも、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を追い出すだろう。

それは、息子は皈依弟子であるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に対して厳しくする。皈依した時にみんなには五戒を伝授した。その中に、妄語を言ってはならないとあるが、それは、人の是非を問うことも含まれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の家族に対する方式を批評する者もいる。家族が皈依弟子でない時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を管理する権力はなかった。彼はもう大人だ。だが、皈依弟子となり、間違ったことをしたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに行動する。しかも、他の弟子と比べて、さらに厳しくする。それは、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェの姓を名乗っているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親が口をきいても、リンチェンドルジェ・リンポチェは同意しなかった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは善人でない者を家に来させないようにするためだ。道場なら尚更だ。

在席の両親の中に、このようにできる者がいるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、現在に至るまで彼に会っておらず、話をしていない。先ほど階下にいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼がもともといなかったように見なした。リンチェンドルジェ・リンポチェには親の愛情がないと考えるかもしれない。『37の菩薩の実践(中国語訳:仏子行三十七頌)』の中には「親方貪心如水蕩(身内に対しては愛情を水のように注ぐ)」と説かれている。彼は親の愛情を盾に、自分はただ小さな間違いをしただけ、そんなに深刻なことなのか?と思っている。当然非常に深刻なことだ。自分の過ちを他人に責任転嫁したのだから、軽ければ口業を犯したことになり、重ければ相手を落し入れることになる。リンチェンドルジェ・リンポチェが許すことがあろうか?もし、これがあなた達なら、こうできるだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェのようにこんなにも厳しく、一家団らんの食事を食べさせない親がどこにいようか?

仏法を学んでいるあなた達が、もし、親の愛情と仏法をはっきりさせていないなら、常に問題が出ることだろう。皈依して9年余りのその弟子に話を戻すが、もし、彼女が皈依していたその期間に一生懸命に伝えた法を一生懸命に行なっていたなら、父親の身体は少しよくなり、死を恐れることもなかったであろう。このようであるのは、娘としてうまくやっていないからなのだ。実際に、日常生活の中から、あなた達が修行しているかどうかを見て取ることができる。

また、もう一人の弟子に問題が出た。アキ護法は本当にすごい。リンチェンドルジェ・リンポチェは先週、上師への恭敬を説いたばかりであるが、上師を敬わない者が続けて暴露された。一人は皈依して10年の弟子であった。弟子には三人の子供がおり、家には妻、母親がいた。夫婦は共働きであるので、収入は少なくないはずだ。昨日、彼の家族全員がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。跪いた時は真に恭敬しているかのように、リンチェンドルジェ・リンポチェが母親を加護してくれ、また1年が過ぎたことに感謝したいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなにいつも何と言っているのか?その場で、出家弟子がこう答えた。「リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、皆は仏法を学び修行しなければならず、上師に加護を求めるべきではないことを教えていらっしゃいます」。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。この弟子はすでに皈依して10年経つ。すでに、大礼拜(五体投地)を伝えているが、ただ3万回しただけだった。彼は、家のためにやることが多く忙しすぎて、供養もできないことを示していた。リンチェンドルジェ・リンポチェにも高齢の母親がいた。だが、今まで仏菩薩に母親の加護を求めたことはない。なぜだろうか?それは、修行者が自分でしっかり修行をし、人の話を聞き入れ、福徳や功徳が生じれば、周囲の家族には多少なりとも助けがある。母親なら尚更ではないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェの母親も何度も転んだことがある。だが、骨は折ったことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達のようではない。母親は尊き直貢チェツァン法王に何度も会う機会があったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊き直貢チェツァン法王に母親への加持を願ったことはなかった。尊き直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの母親に加持を与えられたことが一度あった。一度だけだ。

彼はなぜいつも加持を求めていたのだろうか?それは、上師を信じておらず、敬わなかったからだ。昨日、彼は感謝するためにやって来た。なぜだろうか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェのおかげで、彼は多くのお金を節約し、一生懸命お金を稼ぎ家族を養えたからだった。3人の子供がいたが、育てるのは容易ではない。子供達に勉強させ、海外留学させなければならなかった。夫婦二人も恙無く日々を過ごす必要があった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは最も安上がりの仏の召使いで、彼らの家を守ってくれるはずだった。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、病院で看護士をしている弟子に尋ねた。もし、老人のために看護を雇ったなら、毎日どれほどのお金がかかるのか?看護士の弟子はこう答えた。「病院で知り得たことですが、看護を雇う費用は、もし一日12時間なら、毎月2万元余りのお金がかかりますが、これにはその他の費用は含まれていません」。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き語られた。「この弟子が多くのお金を節約するのを助け、彼の母親を長い間加護し、彼ら夫婦に極力お金を稼がせたが、昨日彼ら一家はとても薄い1000元の御布施をしただけだった」。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼がお金を節約するのを助けたが、最低でも半分は彼が使ってしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日、お金のことを語っているのではなく、この弟子は本当に弟子ではなく、ただ仏法を利用しているだけだと言っているのだ。彼は、家族と3人の子供が留学できるようにと、一生懸命にお金を稼いでいた。これは当然のことだ。しかも、子供は、大学、マスター、ドクターを学び、2、3千万使わない子供は一人もいないのに。どうやって解決できようか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは再び、病院で看護士をしている弟子に尋ねられた。「さきほど話したのは表面的に使われるお金だが、もし家にいる老人が病気になったら、その他の費用を計算するのは難しいのではないか?」看護士の弟子が答えた。「その他の費用は、少なくとも数十万、多くて数百万かかります」。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。「この弟子が数十万供養するのを見たことはない」。また、彼がもし大礼拝(五体投地)をすべてやり終え、百字明咒を唱え終わっていたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日、彼を厳しく叱責することはなかった。だが、ちょっと見ただけでこの弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェから利益を得ようとしているのが分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼ら夫婦が繁栄し、お金を稼ぎ、平安無事でいられ、子供が勉強できるよう加護した。だが、法を伝えられた彼は、修行しなかったのだ!それは、彼が仏法を尊重せず、師を敬わなかったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、すぐに寶吉祥の弟子のベスト、法本を戻し、ただちに道場を離れるように、彼はもうリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子ではなく、彼の妻は一般信徒となったので、すべての法本を返却するようにと指示された。

なぜ彼の妻さえも信徒にならなければならないのか?それは夫のした事であり、妻として彼の上師に対する不敬をしらないわけはないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなに、「加護を求めるなら一度だけ助けるが、みんなは自分で修行しなければならない」と話したことがある。通常皆には、尊きチェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの上師であるが、もし加護を求めるだけでいいのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは一日中、チェツァン法王に加護を求め、修行する必要はない。ここから理解できるように、あなたが三宝を恭敬しないのなら、問題は常に出てくるだろう。あなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェに会わなかったら問題はなかったはずだと思うかもしれない。たとえこうであっても、物事は非常に奇妙なことに、やはり全くわけがわからず、目前にある状況が起こる。

今日はこの二名の弟子がひどかった。皈依してはや10年の二人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが語り、教えた仏法を、ほんの少しも受け入れず、自分勝手であった。経典に取り上げられているが、これが「自分の考えをもつこと」であった。あなた達は自分は唱え、礼拝していると思っている。皈依10年のその弟子は、大礼拝を3万回余りしかしなかった。こうなら、一日何回の計算になるのか?みんなに法を伝えなければならない。だが、伝えても実行しないなら、伝えた法は役に立つのだろうか?このようにやっていったなら、法を駄目にしてしまう!みんなは来世でどのように返したらいいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェに返せとは言っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェには返す必要はない。

上師が教えず、法を伝えないなら、他の話になる。寶吉祥仏法センターは他のところのように皆に座禅を教え、遊びに連れていくのとは違う。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェは厳しいと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日あなた達の生活を凝視しているのではないが、教えた仏法をみんなが修めないなら、当然問題が出るのだ。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依して9年余りになる弟子の両親を加持し、彼らに来世で仏菩薩との縁をもたせただけで、この弟子が昨日要求したことを承知したわけではない。

なぜ助けないのか?それは、彼女が上師を恭敬していないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはどう助けたらいいのだろう?だが、彼女の両親も衆生であるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは来世で彼らが恙無く日々を送れるようにと願った。今世では絶対にない。たとえ彼女が求めても得ることはできない。彼女はこんなにも解釈するのが好きで、上師の話さえも解釈するのが好きだ。上師の話が間違っていたなら、どうやって仏教を学ぶのだ?それなら、家で両親に付添っていた方がいいだろう。

引き続き、リンチェンドルジェ・リンポチェは記録担当の弟子に聞いた。第一レベルで不共四加行を伝えた弟子の中に、今日までで大礼拝(五体投地)を終えていない者は何人いるのか?弟子は「5人です」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これらの弟子に、起立し寶吉祥のベストを返却するよう命じ、重ねて叱責された。こんなにも長く皈依しているのに、リンチェンドルジェ・リンポチェに冗談を言っているのか?そんなに忙しいなら仏法を学ばなくてよい。身体を悪くして仏法を学ばなくていい。皈依の時、みんなに話したことがある。もし上師が法を伝え弟子が怠けているなら、同じところにはおらず、共通の言葉もない。

この時、起立していた弟子の一人が自分で腰をおろした。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ坐ったのかと厳しい声で尋ねられた。彼は「自分は第一レベルで大礼拝(五体投地)を伝えられた弟子ではない」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェが「いつ伝えられたのか」と尋ねると、「3年前です」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き説かれた。「3年前に伝授しているのに、今までまだ終わっていないとは。もともと追い出そうとは思わなかったが、言い訳をしたので、ただちに寶吉祥仏法センターから出て行ってもらうしかない」。

なぜ彼を追い出すのか?それは、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが間違っていると思い、言い訳をしたからだ。もし彼に我慢しようという気持ちがあるなら機会はある。リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなに、六波羅蜜を修めるには「忍辱」を修行しなければならないといつも言っている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは言い間違い、報告した弟子も言い間違ったと思っていた。大礼拝(五体投地)は伝えて3年余りにもなるが、彼はまだ終わっていない。冗談ではない。

さらに弟子が怠けていることについて語ったが、上師は仏法を教えないのではない。あなた達が皈依する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはその前に話している。「どんなことも事前に話さなければならない」と。あなた達が他のところで皈依した時に、彼らはこの事を言わなかった。あなた達が学ばない、修行しないのは構わない。法会にちょっと行って、御布施をして、記念法会に参加すればそれでよかったのだ。みんなもこういう所に行ったらいい。こんな所はあちこちにある。だが、寶吉祥仏法センターはこうではないのだ。あなた達が仏法を学ぼうし、リンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝えてもらった後、修行しないなら申し訳ないことになる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて、記録担当の弟子に尋ねた。「第一レベルで、百字明呪を伝えた弟子の中に、今日までまだ終わっていない弟子は何人いるのか?」。弟子は、「32人です」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に、いつ伝授したのかを尋ねられた。弟子は、2004年2月15日だと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、それらの弟子に起立するよう指示され、この中で最も長く皈依している弟子は誰なのか?なぜ唱えないのか?忙しくて時間がないからか、それとも加護を求めるからなのか?と尋ねられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、さらに一ヶ月の時間を与えるから、もし唱え終わらなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェの前から自然消滅するよう言われた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの言い訳を聞かなかった。彼らも自分が忙しくできなかったことを言う必要はなかった。できないなら出て行けばよい。他にも行くところがある。他のところはこれほど厳しくはない。あなたに行く気があるなら、彼らはとても喜ぶだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは記録担当の弟子にリストを作るよう指示された。明日から一ヶ月、土曜日、日曜日は含めない。彼らがもし唱えないのなら自然消滅だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような弟子は不要だ。あなた達は供養もせず学びもしない。ここに残って何をしているのだ?まさか人が多く勢力があればよいのではないだろう?皆は自分は忙しいのだと言うが、リンチェンドルジェ・リンポチェ以上に忙しい人はいるのか?その他の弟子も合理的な時間内に、10万回の大礼拝(五体投地)を行なわなかったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはある日、抜き打ち検査をすることを、みんなは知らない。なぜこれらの弟子たちに一ヶ月の時間をあげるのか?それは、彼らが10万回の大礼拝(五体投地)を行なったからだ。

怠けている人は仏法を学ばなくてもよい。仏法を学ぶことは大変だ。みんなが安穏とした日々を送りたいのなら修行しなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も言っている。在家の修行は出家の修行よりも大変だ。だがあなた達には理解できない。あなた達が様々なことを実践できるようになれば自然に変わる。今日はここまでにする。来週の日曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなことをするのかは分からない。その時、アキ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェの後ろで指摘するだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在、多くの人を淘汰している。1995年より衆生救済を始めた。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに多くの人を助け、心をこめて弟子たちを導いているが、今、本当に、教えて続けることができなくなった。

先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ大師の説法を見たが、みんなのレベルを考えると、リンチェンドルジェ・リンポチェが教えても、みんなは聞いても理解できない。なぜ理解できないのか?それは、みんなが通常、人の話を聞かず、みんな一人一人がまだ加護を求めているからだ。仏法を学ぶことにはそれほど困難なことはない。もしそんなに困難なら、チベット語さえも分からないリンチェンドルジェ・リンポチェに、尊ち直貢チェツァン法王はどうやってこんなに沢山のことを教えられるのか?問題はどこにあるのか?問題はリンチェンドルジェ・リンポチェの機根が良く、あなた達の機根が悪いことにあるのではない。問題はあなた達に恭敬心がないことにあるのだ。まさに先ほど説法したことだ。みんなは自分の考えで修行している。

上師が教え導く仏法は、必ず上師自身の修行の経験による。しかも伝承されたもので、さらに自己の感想を加え、濃縮して簡単な概要をみんなに告げる。絶対に上師自身の生活方式ではない。みんなは誤解してはならない。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの生活方式だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは実践できたが、みんなの生活方式はこうではないので実践できないと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなと同じように在家だ。子供も母親もいて、ビジネスをしている。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは実践できて、みんなは実践できないのか?それは、みんなは自分にはまだ時間があるから、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼っていればそれでいいと思っているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはある日死ぬ。どの日に死ぬのかをはっきり言うことはできない。もしかしたら明日にはいないかもしれない!

みんなのようなレベルなら、もしリンチェンドルジェ・リンポチェがいなくなったら、どうなるのか!みんなは構わないと思う。どうせ台湾には、他にも行くところがあるし、心地よくさせてくれるところもある。怒鳴られることもない。勤行もしなくていいし、あれこれ学ばなくてもいい。あなた達が行って、御布施をすれば喜んでくれる。皈依して10年の弟子さえも追い出されるのだ。だから、まだ皈依していない信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しなくてよい。なぜ追い出すのだ?もし学ばないなら、水道電気を無駄にし、みんなには分からないが必要な費用を取って置く必要はない。これらのお金は衆生のものだから、無駄にしてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ、1997年から現在に至るまで、道場のお金を一銭も使ったことはない。

仏法を学ぶには自分の決意が必要だということを理解しなければならない。決意というのは何も要らないというのとは異なる。究極的なあなたの人生に仏法が必要かどうかである。もし仏法が不要だというなら、問題が現れる。怠けることもそうだ。法を伝えられて、リンチェンドルジェ・リンポチェが試験をしないなら、ゆっくりやればいい、試験があったらその時考えればいいと思う。今日は二つのステップについて語った。来週リンチェンドルジェ・リンポチェには、また別の方法がある。或いは最後にはたったの数百人しか残らないかもしれない。寶吉祥仏法センターにはまだ家のローンが残っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分で支払うことができる。その時になって誰もいなくても構わない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは実行する。みんなはリンチェンドルジェ・リンポチェの忍耐力をテストしなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう年を取った。残された時間は多くない。みんなのような方法で仏法を学んでいたら、リンチェンドルジェ・リンポチェが死んだその日、一人も大丈夫な人はいないだろう。驚いたことに皈依して10年の弟子さえも大礼拝(五体投地)が終わらず、百字明呪を唱えず、こんなにも長い時間かかっている。一ヶ月2000回やれば終わるはずだ。なぜそんなにひどい事があるのだ?一ヶ月2000回なら、1日何回すればいい?彼は怠け者なのだ。どんなことも人に与えられ、自分はただ座って回収すればよい。簡単な問題をみんなに聞く。みんなはサラリーマンだが、1日出勤して、1年の給料をもらえるものがいるだろうか?これは不可能です。仏法を学ぶことも同じなのだ。もし実践しないなら、生生世世の福徳も得られません。

あなたとリンチェンドルジェ・リンポチェの遺伝子は異なる。リンチェンドルジェ・リンポチェが修行して得られた福徳をすべて、あなたに与えることがあろうか?たとえリンチェンドルジェ・リンポチェがこの発願をしたとしても、あなたは得られない。みんな一人一人がリンチェンドルジェ・リンポチェはすごいと思っている。尊き直貢チェツァン法王がいつも寶吉祥仏法センターに来られ、自分は特別だと思っている。どのように修行しても問題ないと思ってはならない。試しにリンチェンドルジェ・リンポチェと対峙してみなさい。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなと対峙する時間はない。どうやって一日中、あなた達のような人と対峙するのか?みんなが実践できたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェがみんなのために死んでも心残りはない。だが、みんなは実践できない。

以前、中国に浄土を修行する顕教の法師がいた。弟子の修行はその法師よりもよくできていた。ある人が、なぜ弟子の方が先生よりも修行ができているのかと聞いた。法師はこう答えた。「これは簡単に説明がつく。弟子は話をよく聞くので修行もよくできている。自分はする事が多く、弟子も沢山いるので、心が集中できないからだ」。みんな一人一人はいろんな事をリンチェンドルジェ・リンポチェに見せる。ただあなた達1000人余りに対応するだけで十分だ。何か希少で奇妙な、訳の分からない事もたくさんある。誰でも自分には起こるはずはない、自分には回ってこないと思っている。だが、来週は誰に回るのかは分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前みんなに話したことがある。こんなことは起こらないと思ってはならないと。皆は、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆に必ず要求すると思っている。何を要求するのか?ここに残って仇となることをだ。

ガムポパ大師はこう説かれた。円満な仏陀が私たちに無量無辺の、不可思議な数ほどもある教えと、次第(階梯)のある法門を授けられた。だが、これらの法門すべては、実は、調伏しようとする相手の機根と異なるレベル、及び受け入れ能力の差異に応じているのです。すべての法門の重点は、みんなの心を調伏することにあるのだ。それぞれの衆生の機根、基礎、業、縁は全く異なる。よって、様々な法門が必要となるのだ。どんな法門であっても、重点は同じだ。受け入れ能力の差異とは、仏法の受け入れ能力の違いを指す。リンチェンドルジェ・リンポチェはある人には密法を伝えない。それは、彼らが受け入れる能力がないからだ。この能力はどこから来るのか?必ずしも天賦ではなく、本をたくさん読んだ、専門だというのでもない。この能力はあなたの決意なのだ。

ミラレバ尊者は母親の言う事をきき、30数人を殺した。仏法の因果論から言えば、ミラレバ尊者は今世で必ず地獄に堕ちたはずだ。しかもたくさん病気をし、短命のはずだ。だが、ミラレバ尊者には累世の慧根があったので、自分のしたことが間違っていて、自分は必ず地獄に堕ちることが分かった。よって、マルパ尊者の門下に入り、一生修行した。ミラレバ尊者は仏を修めた。仏を修めることで数十の命に取って換えようとしたのではなかった。非常にはっきりと今世の業力を変えなければならないことを知っていた。果がまだ熟する前、非常に大きな福徳と無限の悟りの智恵を累積しなければならなかった。よって、ミラレバ尊者は一生の中で、上師がこの世を去るまでずっと洞窟修行をやめたことはなかった。それは、マルパ尊者がミラレバ尊者に一生、洞窟修行をやめてはならないと命じたからだった。

ミラレバ尊者が有名になった後、国王が何度も尊者を請じようとした。だが、尊者は洞窟を離れることはなかった。あなた達なら、リンチェンドルジェ・リンポチェがまだこの世にいる時も、言う事を聞かない。リンチェンドルジェ・リンポチェが他界したなら尚更なことだろう。ミラレバ尊者はこれにより、四大教派が公認する大修行者、大成就者となった。これは、上師を恭敬したからだった。ミラレバ尊者はなぜ上師を恭敬できたのだろうか?それは、尊者が輪迴を恐れ、ただ上師だけが導き、輪迴から解脱させてくれると知っていたからだった。あなた達は輪迴を恐れず、お金がない、病気、結婚しない、子供がいないことだけを恐れている。誰一人として生死の大事に怖れを抱く者はいない。輪迴を恐れる心がないなら、当然三宝に対する恭敬心も起きない。それは、三宝の教えはいかにこの一生で生死輪迴を解決するかだからだ。

法門とは、仏法を聴聞する人の心を調伏することが重点だ。ガムポパ大師はこう説かれた。「諸乗の善巧方便は衆生を利するために説かれる」。小乗、大乗、金剛乗はどれがすごいというのではなく、衆生の機根に応じているだけだ。小乗、大乗、金剛乗は、積載する容量がどれほどかという意味だ。小乗の修行者の心量は比較的小さいので、積載する容量も小さく、果も仏の境地には至れないものだ。大乗と金剛乗の心量は広大であるので、積載できる量も異なってくる。だが、これもまた金剛乗が最もすごい、小乗はあまりすごくないということではない。この考え方は正しくない。修行者自身がこの法門を学び得る条件があるかどうかによるのだ。

ガムポパ大師はこう説かれた。「仏陀が教え導かれる一切の宗派と見解に対して、私たちは絶対に自分の自分勝手にその良し悪し、賢惡を識別してはならない」。自分が密教を学んでいるからと言って、顕教よりも優れていると思ってはならない。自分は顕教を学んでいるが、必ず密法を学ばなければならないと思う必要もない。まず最初に自分に法を求める心があるかどうかを聞いてみなさい。もし密法を学ぶ心が、他人よりも上になるため、他人よりもすごい人になるため、もう少し多くのことを学ぶため等のような有り様なら間違っている。

ガムポパ大師はこう説かれた。「仏陀が私たちに授けてくださった各種法門は、良くないということは絶対にあり得ない。誤りがあるということも絶対にあり得ない」。だから、絶対にこのような口業、恐らく地獄に堕ちることになるというような言い方をしてはならない。仏が自ら伝え、上師が口伝によって伝えた法には、大法、小法の区別はなく、良し悪しもなく、誤りもない。誤りはあなた達の心に間違いがあるのだ。経典の中には「仏教の次第(階梯)法門に各種レベルの異なるものが現れるのは、前文で述べたように、一切の法門が衆生の機根の違いに応じて、広く説かれたからだ。機根の低い声聞、縁覚のような種性の修行者に対して、仏陀は声聞、縁覚乗の教えを授けた」。

「善」というのは、金剛乗が最善だという意味ではない。声聞、縁覚乗の善が金剛乗に及ばないという意味でもない。特定のある一乗の教えの中で、修行者が実践できたのなら賢、善なのだ。ここでの意味をよく理解しなければならない。たとえば大学教授が善人とは限らない。小学校卒業でも悪人とは限らない。大学教授は必ずしも最高の知識をもっているとは限らず、小学校卒業でも必ずしも知識がないとは限らない。仏はかつて言ったことがある。たとえ子供であっても、時には大人よりも智恵のある話をすることもある。私たちは世間の学問をもって小乗、大乗、金剛乗がいかに勝れたものか、その乗の積載量を決めてはならない。声聞、縁覚乗の修行者であってもそれ自身の法門の中から最も勝れ、最も賢いものを修めることができる。だが、積載量が比較的小さいので、広大な一切有情衆生を利益できない。金剛乗は積載量が比較的大きいので、多くの有情衆生を利益することができるのだ。

簡単に言うなら、金剛乗と大乗仏教の修業者は、現代の言葉で言うなら、あくせく働く宿命だ。苦労を厭う者はこの法門を修めない。よって、みんなが安逸を求め、日々をのんびりと暮らしたいなら、この法門を修めない方がよい。他のところに行きなさい。他の場所はあなたに修行させない。六字大明咒を唱えるだけで灌頂を授けてくれ、みんな喜んでいる。彼らは法本をくれるだろうが、あなたにどこまで修行したのかを聞かない。あなたがよく修行していなくても、追い出されることはない。あなたがよく修行する、しないに拘らず、追い出すことはない。

寶吉祥仏法センターは、間違ったことを一言言ったなら寶吉祥のベストを返却させられる。苦労が多いのではないか?他の道場から来た者は、やはり戻った方がいい。寶吉祥仏法センターではややもすると寶吉祥のベストを返却させられ、出て行かせられる。どうしてこんなに苦しむ必要があるのか?あなた達は別の場所にこんな法門があると聞いたことがないだろう。お寺が信者を追い出すことも聞いたことはないだろう!もし、お寺が信者を追い出すなら、人は慈悲心がないと言うだろう。だから、現代の弘法は非常に大変なのだ。

ガムポパ大師はこう説かれた。「私たちが自分の宗派の見解を認めた後は、絶対に他の法門の見解を貶めてはならない。他の法門に対しては尚更、無理やりでっちあげ、確かでないことを言って誹謗中傷してはならない。このようにした過失は非常に大きく、罪も非常に重いことを知っておくべきだ」。―――もし、顕教経典にしたがって言うなら、「法を棄て謗る」という悪業を積む事になる。密教のタントラにしたがって言うなら、「自他の見解を貶める」という過失だ。これより理解できるように、仏陀の教えに対して、私たちは絶対に我們千萬不要失之於片面、而偏墮於一方一類。」

みんなは自分が灌頂を受けたから、人よりも修行ができている、小乗は心が狭いと思ってはならない。小乗を修行する者は、仏陀は金剛乗を語っていない、小乗は鈴を鳴らしたり太皷を叩いたりせず、数珠を使って唱えることもないと思ってはならない。このような批判は現れるべきではない。修行者が仏陀の話に基づき、その行為が深く因果を信じ、輪迴の過失を理解し、真に正しく衆生の苦しみを体得するなら、どの一乗を学んでも、それはすべて仏陀の教えである。私たちは人を批判してはならない。

今、多くの者は現在、金剛乗を批判する。これはよくない。彼らがこう言うのは、金剛乗を学んだことがなく、金剛乗では何を言っているのかを知らないからだ。だから、前で取り上げたように、無理やりでっちあげてはならない。あなた達は路上で密教を批判する書を見かけ、理解していない人が見て、いろいろな事を言っている。こんな本を見てはならない。真に密教を理解している修行者は、絶対にこのような本は書かない。すでに他界したが、著名な僧侶がかつてチベット密教を批判したことがある。だが、チベットに一度行き戻ってきた後は、二度と批判することはなかった。さらには、チベット文化を研究する学校を開いた。それは、彼がチベットへ行ったからだ。人がどのように修行しているのかを見て、彼はプロなので、見たらすぐに理解した。だが、見えずに、ただ人が言った事をそのまま話しているだけの者もいる。

今、多くの者は現在、金剛乗を批判する。これはよくない。彼らがこう言うのは、金剛乗を学んだことがなく、金剛乗では何を言っているのかを知らないからだ。だから、前で取り上げたように、無理やりでっちあげてはならない。あなた達は路上で密教を批判する書を見かけ、理解していない人が見て、いろいろな事を言っている。こんな本を見てはならない。真に密教を理解している修行者は、絶対にこのような本は書かない。すでに他界したが、著名な僧侶がかつてチベット密教を批判したことがある。だが、チベットに一度行き戻ってきた後は、二度と批判することはなかった。さらには、チベット文化を研究する学校を開いた。それは、彼がチベットへ行ったからだ。人がどのように修行しているのかを見て、彼はプロなので、見たらすぐに理解した。だが、見えずに、ただ人が言った事をそのまま話しているだけの者もいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き説法された。みんなは必ず覚えておきなさい。人が言うのを聞いたとしても、彼と論駁する必要はない。その場を離れて聞かなければいい。このような話をする人は、彼が悪だとは言う気はないが、少なくとも口業を犯すことになる。『地蔵経』に説かれているが、たとえ一般人を批判し、沢山批判したなら地獄へ堕ちる。修行者を非難したり地球上で1、2千年の歴史のある宗派を批評したなら尚更だ。こんなにも長く続けられるなら、絶対に全部が偽物だとは言えないだろう。多くの人が好奇心を抱いて、密教は何かを知りたがっている。もし、あなたが見えるものなら、密教ではない。見なければならないのは、上師がどのように仏法を弘法しているか、名利のためなのか?、衆生に対する慈悲はどこにあるのか?である。

昨日、その皈依して9年になる弟子は過ちを犯したのに、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり彼女の両親に加持を授けた。それは、謁見を求めた彼女の両親の心には、加持を受け入れたいという気持ちがあったからだった。加持とは何かを理解していなかった。娘はそれを両親に伝えていなかった。娘は今まで仏法とは何かを両親に伝えることはなかった。それは、彼女自身も分からなかったからだ。なぜ、仏法とは何かを理解していなかったのだろうか。それは、上師を恭敬していなかったからだ。なぜ上師を恭敬していなかったのか?それは彼女は先生で、自分はすごいと思っていて、加えて、彼女は以前、つまらない噂話を聞いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は彼女のいた学校で勉強していた。だから、彼女には先入観があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の子供さえもきちんと教育していないと思っていた。彼女をどうやったら教育できるだろうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にすごい。9年経って初めて彼女にこの事を気付かせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは忍耐力がある。リンチェンドルジェ・リンポチェが一日中叱責していると思ってはならない。実は忍耐力はものすごいのだ。ゆっくりと皆を待つことができる。人を待っている時、リンチェンドルジェ・リンポチェは少し長く生きる。あなた達の原形が現れるまでだ。普段どうやって恭敬したふりをしても役に立たない。境界が来た時、突然表に出る。仏法はなぜ、私たちに良くない言葉を聞いた時に聞くなと言うのか?たとえ論駁しなくても、第八意識の中に種を植えつけることになる。

だから、みんなは、テレビで独りよがりの苦情劇を見てはならない。沢山見たら、すべての女性、男性を怨まなくとも、自分もこのようになってしまう。だから見てはならない。もし、自分が仏法を学びたいと思うなら、これらを見てはならない。見続けたら全く訳が分からなくなる。こんなにも多くの物語があるはずがないだろう?すべて自分で考え出したものだ。世間の物事はもともと因縁による。人は視聴率のためにしているのに、あなたはまだ、つられて見て泣いている。奇妙なことではないか?悲しく感情的な話をたくさん見てはならない。見すぎると一日中悲観的になる。

ガムポパ大師はこう説かれた。「もし人がこう思っても、『入菩薩行論』の中で『瑜伽行者は勝れた心をもって、上から下を看破した』という偈頌を用いて私たちを教えられている。つまり、さらに上の一乗の教えを用いて、それより下の一乗の宗派の見解を破さなければならない」。勝れた心とは、他人を負かそうという心の状態ではなく、仏法は一切の障碍のある心を克服、降伏することができるということだ。「実際には、論中でこのように私たちを教え導く目的は、ただ、比較的下の一乗である修行者をさらに上の一乗の教えに段階的に進ませる必要性によって、作り出された必然的な破斥であった。よって、まったく過失はない」。これこそがリンチェンドルジェ・リンポチェの教えだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛乗の修行者として、金剛乗の方法によってあなた達のような金剛乗を学んでいない人に対応する。

その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、出家弟子にこの部分に包含される内容を説明するよう指示された。出家弟子はこう答えた。「これは、リンチェンドルジェ・リンポチェが各種の教えを用いて、私たちのような劣悪な弟子に善道、解脱の道を歩ませようとしていることを示されたものです」。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き語られた。簡単に言えば、昨日弟子が自分の父親は「ずっと前にタバコを吸っていた」と言っていたようなものだ。あなた達はおそらく、言い終わったらそれで問題はなくなると思っているだろう。彼女は、父親はずっと前にタバコを吸っていたが今は吸っていないと言っていただけだ。父親は今は悪くなったのではなく、良くなったのだという意味だ。仏法から言えば、これは下乗の考え方だ。それは彼女が因果を忘れたからだ。仏法は因を探し出さなければならない。因を探し出した後は対治しなければならない。修行者が彼女の因にはなにも問題がないと認めたなら、彼にも後に仏法を学ぶ因が現れることはない。

一人が間違ったことを行い、自分は間違っていたと言い、修行者がそれを認め、間違ったら改め、再び出発したらよいと言ったなら、この人は自分が以前になした因を忘れてしまう。「再び出発する」ことは、彼自身が警戒心をもって二度と間違いを犯さないことを意味してはいない。繰り返し間違いを犯すのだ。それはある人が法を犯し、裁判官は彼に法を犯したなら牢屋に入れると告げた。だが、彼には警戒心がなく、自分はまだ死んでいないから再び出発できると思う。仏法も同じだ。金剛乗の上師はいかにして、衆生の心を徹底的に見抜くのか?修める法門が異なる。上師は上の機根の法門から下の機根の衆生の心を見ているのだ。よって、非常にはっきりと見えるのだ。もし相手と同等ならば、完全に見抜くことはできない。

あなた達は、昨日彼女の話を聞いても、絶対に問題はないと思っている。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに反駁したのではなかった。ただ、「以前は吸っていたが今は吸っていない」とだけ言った。だが、仏法の考え方から入るなら、この人が因果を信じていないことが分かる。今日、心臓肥大となったのは、タバコを吸う因のためだ。彼女はずっとこの言葉を言っていたのは、因果を信じていないからだ。父親の心臓肥大には他の原因があるのではないかと思っていた。もしそうなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも言うはずだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに彼女の父親はタバコを吸っていると言ったのに、彼女はまだ聞く耳を持たなかった。それは、考えが非常に凝り固まっているからだ。タバコは以前の事だと思っている。以前タバコを吸っていなかったら、今日、心臓が肥大することはない。みんなはいつも、以前つくった因を捨て去ろうとする。このようであるなら、繰り返すのだ。これこそが、上上の機根の方法を用いてあなた達のような下下の機根の仏教学習者を打撃するということだ。

経典に説かれているが、あなた達をよりレベルの高い一乗の教えに高めるためには、上師が必ず必要だ。上師がいないなら不可能だ。自分であれこれ考え、考えをめぐらしても自分の問題がどこにあるのかが分からない。昨日のことであるが、あなた達は自分は問題ないと思っている。彼女も自分に問題はないと思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが間違ったのだと思った。恐らく、彼女の父親が現在どうしてこうなのかをリンチェンドルジェ・リンポチェは知らないと思ったので、彼女は再び、父親は以前タバコを吸っていただけだが、今は吸っていないと説明した。もしこの言葉があるなら、私たちはなぜ懺悔しなければならないのか?懺悔する必要はないのではないのか!

彼女の言い方でいうなら、ミラレバ尊者は苦しい修行をする必要はなかった。以前人を殺したことはあったが、その後は殺していない。ただ10年前に殺したことがあるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがみんなは殺生したと言っても、あなた達が自分は長い間殺していないと言っているようなものだ。みんなは肉を食べたことがあると言っても、自分は長い間食べていないと言う。これは同じ考えではないのか?このような人は容易に過ちを犯す。なぜだろう?彼女は自分に間違いがあると思っていないからだ。自分は今していないのに、人はまだ彼女のことを言っていると思う。このような態度は子供のようではないか?皆は子供だったことがある。以前は間違いを犯すと両親に怒鳴られ、怒鳴られ終わったら事は終わる。そして、また間違いを犯す。間違いを犯して捕まえられたのに、「もう殴られているのに、まだ何の用があるのか?」と言っている。皆は今、仏法を学びにきても同じ心のあり様だ。リンチェンドルジェ・リンポチェに罰せられても、だからと言ってどうなのだ?何が偉いのか?と思っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に偉くない。ただ仏法の方法であなたの問題がどこにあるのかを教えているだけだ。あなた達は自分の問題が見えず、上師によって指摘されたのに、それを受け入れないなら、この一生で生死から解脱できるのだろうか?門がないなら絶対に不可能だ。仏法を学ぶ事は非常に奥深いことだと思わなくてよい。奥深くても、自分自身の傲慢な心でそれを覆ってしまう。末法時代に声聞、縁覚乗を修めるのは非常に困難なことだ。在家のことは言わなくてもよい。出家さえも修行は非常に難しい。世俗の事柄から離れて禅定に専念することが不可能だからだ。

だから、私たちには、下の一乗の考えに対応できるより一乗高い修行者が必要なのだ。上と下であり、良し悪し、高低ではない。勝心とは、この方法が末法時代の衆生を利益できることが、非常に明らかであることを指す。もし、私たちが理論だけに頼るのなら、多くの人が、法師が上に座り下にいる信者が仏法の名相等を質問するのを好むように、推敲し続けるだけだ。これは修行ではなく、ただ名相のロジックがどう動いているのかをはっきりさせただけである。だが、たとえ名相のロジックを理解したとしても、自分の問題がどこにあるのかをはっきりさせたとは言えない。絶対に見えていない。

経典ではこう言っているが、自分は実践できないと多くの人が誤解をしている。だが、経典は私たちに聞かせるためにあるのではなく、少なくとも四果の阿羅漢である仏の弟子に聞かせるためにある。私たちのような人ではない。よって、経典の中で修行の論理を見つけ、ずっと実践できなかったが、その前に多くのことをしているので、最後のこの一世で釈迦牟尼仏に出会う福徳が得られ、仏が彼の機根に応じて一回ではっきりと語ると、彼は悟りを開いたのだった。

経典では、仏が説法すると、どれほどの阿羅漢が証果し菩薩となったと説かれているのか?なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに長く説いているのに、まだ一人も現れないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは仏ではない。だが、少なくとも学んでいる最中だ。なぜ今まで一人もいないのか?それは、みんなにはこの因がないからだ。みんなは自分で仏法を聴聞し、菜食し、多くの法会に参加すればすごいことだと思ってはならない。人は毎日仏陀の説法を聴き、睡眠、食事以外は、食事や睡眠している時さえも修行していた。こうして初めて、一生で成就できるのだ。あなた達は一日何時間修行しているのか?叱られない方がおかしい。

出家弟子は自分で以前唱えたお経を思い出し、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が言ったお経の名前を聞いたことがなかったので、その他の出家弟子に聞いたことがあるかどうかを尋ねられた。一人の出家弟子が答えた。「聞いた事がありますが、おそらく偽経でしょう。正統な経典ではありません」。リンチェンドルジェ・リンポチェは説法を続けられた。なるほど、その出家弟子が病気になるはずだ。皆が一緒に読誦するものを唱えず、このような偽経を唱えている。聞いたことがないはずだ。『大蔵経』の中にないお経はすべて間違いだ。『大蔵経』には日本版、中国版、モンゴル版、チベット版もある。『大蔵経』にないお経はすべて後の人が書いたものだ。みんなが聞いたことのある『白衣神咒』も偽物だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは会場に白衣神咒を唱えたことのある人がいるかどうかを尋ねられた。沢山の人が手を挙げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは説法を続けられた。「こんなにも多くの頭の悪い者が唱えたことがあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは唱えたことはない。この真言を見た事はあるが、唱えたことはない。経典に書かれていないからだ。みんなは貪欲ゆえに、白衣神咒をどれだけ唱えれば、ある種の目的を達成できると聞き、唱えたのだろう。上師が口伝した真言でないなら、間違って唱え、聞き間違い、誤ってしまう。この真言はない。学んだことのある人は忘れればよい。

皆は、小乗を修行する人や機根の悪い人と仏が話されたのをよく聞いている。だが、仏はこれらの人を叱責したのではない。皆は誤解してはならない。実際、仏は、鉄が鋼にならないように、成功すべき者が成就できないのを残念に思っているのだ。修行者が修行しているのなら、なぜ仏果を得ようとしないのか?なぜそんなにも心が狭いのか?生死を解脱すればそれで十分なのか?仏が説かれたことは彼らの迷いを破すためである。よって、彼らの心量が十分でないことを罵り叱責したのだ。だから、仏がこのように行なっても過失はなかった。皆はこれをはっきりさせなければならない。批判することと、相手のために話すことは全く異なる。仏の語ったのは相手の誤りを指摘することではない。心の狭い修行には、成仏する機会をなくすので、こう彼らに告げたのだった。だが、密教は偽物、小乗は偽物だと言うなら、このような言い方は正しくないので、こう言うべきではなく、言ってはならない。

ガムポパ大師はこう説かれた。「さもなくば、いかなる仏教の宗派の見解をむりやりでっちあげた悪意の中傷、及び確かでない誹謗中傷はいずれも許されないことだ」。この法話の意味は、皆は信じなくても修行しなくてもいいが、誹謗してはならないということだ。この罪は非常に重い。上師や仏菩薩があなたを罰するのではなく、善いものを批判したので重い果となるのだ。悪人を批判しても果はある。善人を批判したなら尚更だ。

ガムポパ大師はこう説かれた。「法門にはこのように多くのレベルがあるが、全てのレベルの中で、特に勝れた道は、この大乗の教えである。このようであるため、大乗の種性をそなえたフトガラが大乗の門に入り、実際に修持する時は、まず、私たちは勝妙なる正見によらなければならない。一切諸法の甚深なる空性、この無我の実義によって、確実に『有為の戯論である辺見を遠離する』ことが選択される。次に、私たちは『正見をもって選択する真実の義理』を、一時も忘れずに心に刻みつけ、着実に実修を行なわなければならない」。

私たちは大乗法門の真の意義を理解するために、勝妙なる正見にしたがわなければならない。要するに、一切の森羅万象はすべて空性であるというものだ。空性の意味は、数言ではっきりと言い表せるものではない。「はっきりと」とは、諸法無我を指す。一切の現象の現れは「我」の主体によるものではなく、必ず異なる因縁の結合によって生じる現象なのだ。仏の説かれた「法」は修法ではなく、一切の現象を意味する。聞いたもの、触れたもの、感じたもの、或いは見たものはすべて一つの法であり、一つの相だ。相は、「我」が主体となって生じるのではなく、単独の一つの事によって生じるものでもない。

ある事をみんなは必ず知っている。一人の人を愛するには、必ず対象があってこそ愛することができる。愛する対象がないなら、愛は生まれない。たとえ欲望で愛したとしても、愛するという行動にも対象が必要だ。たとえば、私はあなたをとても愛しているというなら、「あなた」がいないなら誰を愛するというのだ?だから、必ず「あなた」が生まれる。次の段階で「彼があなたを愛し、あなたが彼を愛すること」を望む。その結果、「私が彼を愛し、彼が彼女を愛し」歌のように歌えば歌うほど複雑になる。主体のない愛は不可能だ。私があなたを愛することは不可能であり、彼があなたを愛することも不可能だ。たとえ妻が夫を愛し、夫が妻を愛したなら、子供が生まれるのではないか?一生が終わると、愛は分かれる。だから、みんなは子供に「知っていたらあなたを生まなかった。生んだら、お父さんはそんなに優しくなくなった」と言う。さらには、「お母さんは自分にそんなに優しくなくなった」と言い、一日中、心はあなたの上にある。

だから、愛は一つの不動なものではない。随時変化していて無常だ。いかなる物事も宇宙の中やあなたの周囲で起こったことは、絶対に単独の個体として現れることはない。以前、「私」という考えを用いていた。なぜなら、みんなは「私」についてはっきり理解し、「私」という存在を認め、「私」は偉かったからだ。だが、世間の諸々の事柄は絶対に「私」だけではない。「私」は単独で存在せず、他の衆生が一緒にいないなら、あなたは生きていけないのだ。外の世界だけでなく、みんなのお腹の中に良い細菌がいないなら、明日、明後日には死んでしまうだろう。細菌は生まれた時からあるものではない。あるものは生まれてからできる。母親によって与えられたものもある。母親のものを食べたら、母親のお腹の中のものがあなたの身体の中に行く。もし私たちの身体の中にこれらの消化を助ける細菌がないなら、何を食べても役に立たない。

その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは医師の弟子にこうではないかと聞いた?医師の弟子は「まったくその通りです」と答えた。細菌自体は身体の中の護衛兵だ。私たちの身体の中で病気となる細菌に抵抗するのを助ける。また、私たちの消化を助ける過程において、私たちの排便の中には三分の一以上の細菌代謝の物質が含まれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて尋ねられた。「細菌は人のために自然に生じるものなのか?」医師の弟子は「細菌は自分で生じることはなく、外から入ってくるもので、外からもたらされるものです」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて尋ねられた。「今、皆ははっきりしただろうか?」この身体があなた自身のものだと思ってはならない。たくさんのものがこの中に住んでいる。私たちにとって有益となる細菌の他、『寶積経』には私たちの眼、眉、首には必ず寄生虫がいると説かれている。どれほどきれいに洗っても、やはりいるとある。現在の科学でも確かにいることが証明されていて、かなりの倍数の顕微鏡で見ることができる。経典にはずっと以前に、小さな寄生虫のことがはっきりと記載されていた。

それは、あなたは自分一人でこの世界に生きているのではないことを意味している。あなたがある物に執着する時、たとえば「我」に執着する、「我」に執着することは苦しみの始まりだ。苦しみが始まった後、苦しみたくないので、この苦しみを取り除こうとすることを行なう。それが他者を傷つけることに構わずだ。仏法を学ぶことはこれを学ぶ。加護を学ぶのではない。衆生を傷つけず、どんな事も衆生に借りを作らない。衆生があなたを傷つけにくるだろうか?あなたが衆生を傷つけることを止めたなら、「私」に固執することを止めたなら、自然に衆生に対して慈悲が生まれてくる。これは、小さい私が大きな私になることではない。この考えは正しくない。小さな私が大きな私となることは、自分を犠牲にして、ある一群の衆生を助けることではない。仏が語られた「無我」は、肉体を消し去ることではなく、この「我」が間違った見解であることを明らかにするものだ。

私たちは生生世世の経験をとおして、それぞれの感覚が「我(私)」の感覚だと思っている。この感覚が生じた後、あなたは自分が主体だと感じている「我」を失いたくないと思う。もしこの「我」を「無我」に変化させずに、空性を理解しないなら、間違いを続け、悪行を続けることになる。この皈依して9年の弟子は、彼は「我(私)」の父親であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の父親と一緒に住んでいないので、娘であるなら自分なら当然よく知っていると考えて、口を開いたのだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父親を見て、空性、因果の角度から見ると、彼が誰であるかは分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも沢山の人を助けているが、これらの人たちのことを覚えていない。再び会いに来ようとも、リンチェンドルジェ・リンポチェは覚えていない。彼女はなぜこんなにも執着するのか?なぜなら、上師を恭敬していないので、口を開いて失礼なことをするのだ。

「無我、甚深なる空性」の実際の意義は、私たちが毎日の生活の中で体験し感じ取ることができる。私はお腹がすいたというようなものだ。なぜ自分はお腹がすくのかを考えてみなさい。この問題について考えたことのある者はいるだろうか?あなた達は自分がお腹がすいたと思うなら、食事を済ませた後、「私」はおなかが一杯になったと感じる。とても奇妙なものだ。ただ口で噛み砕いた食物は、胃の中に入り、胃によって完全に消化される。なぜ「私」が満腹になるのか?誰によって信号が与えられ、あなたに満腹だと教えているのか?たとえあなたが満腹を望んでいても、お腹がすいているという信号がずっと出されたなら、やはり止まらずに食べ続ける。たとえお腹がすいていて、空腹でいたくないと思っても、あなたをずっと空腹にさせる。これは誰が与えている信号なのか?自分を空腹にさせないように自分をコントロールできる者がいるのか?実行できる者がいるのか?禅定を修めてこそ、実践できる。

この信号をずっと与えているのは誰なのか?もしこの身体があなたなら、なぜこの感覚をコントロールできないのか?簡単に言えば、もしあなたがこの身体は自分だと思うなら、この感覚をすぐにスイッチオフしなければならない。みんなはこの問題を考えたことがあるのか?考えたことはないだろう。お腹がすくのは当たり前だと思っている。お腹が一杯になるのも当たり前だと思っている。それは人だからだ。なぜ考えないのか?仏法を学ぶ者なら、思考方面は他人と異なって当たり前だ。あなたがこのように思惟したなら、この「私」は絶対に真の「私」でないと感じるだろう。なぜなら、コントロールしきれないからだ。他のものはまだいい。だが、空腹をコントロールすることは本当に不可能だ。

それから、喉が渇いたので水を飲みたいと思う。明らかに口の中にはよだれがあるのに、なぜ喉が渇き水を飲みたいと思うのだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェも話しているうちに飲みたくなってきた。こんなに長く話しているのだから。仏法の中で説かれる甚深なる空性は、単に推論に基づいて少しの意味を説いたものではない。みんなが理解したいなら、必ず自分の思惟を通して、非常に深い禅定と非常に大きな福徳があってこそ体得できるものだ。この一生の中で非常に大きな福徳を累積しなければ体得できないものだ。福徳は、法会に参加し、それをずっと続けたならできると絶対に思ってはならない。そんなに簡単なことがあろうか?

こんなにも簡単なことなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも沢山の事をする必要はない。歴代の修行者もこんなに多くの事をする必要はない。あなた達に学べばいいはずだ。みんなは日曜日に法会に参加し、夜、アキ護法を修法し、気持ちよく2、3千回の六字大明咒を唱え、大礼拝(五体投地)をゆっくり行なっている。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェがいつまでにするようにと言っていないからだ。みんなはこんなふうだ。なぜなのか?それは、みんなは「私」が決定できると思っているからだ。実際にはあなたは決めることはできない。この一生のあらゆる事は業力の現れだ。業力によってひっぱられる力は非常に大きい。あなたが決定するのではない。

なぜ私たちは福徳因縁を積まなければならないのか?それは、十分な福徳を積むことで、業力を転じることができ、業力を止めることさえもできる。ミラレバ尊者が最もよい例だ。リンチェンドルジェ・リンポチェも一つの小さな例を挙げてみよう。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前食事するお金がなかったことがあり、ガンにかかったが、これを転じることができた。何に依ったのだろうか?ご加護ではない!諸仏、諸菩薩はもちろん、リンチェンドルジェ・リンポチェを加護してくれている。諸仏、諸菩薩は、リンチェンドルジェ・リンポチェが以後、衆生を助けられることを知っていたからだ。だが、このような加護はリンチェンドルジェ・リンポチェを修行させるものであったが、このような事を消し去るためではなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母親はやはり病気している。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の母親を加持することはない。みんなのように、両親を連れてきて加持を求め、帰宅したら両親に肉を食べさせて、加持を無視するようなことはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親は、息子がリンポチェだから、毎日加持を得て、食事の時はリンチェンドルジェ・リンポチェに口笛を吹いてもらっていると思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようにはしない。なぜしないのか?それは、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの母親だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が何をしているかをはっきりと知っている。経典には「一人が道を得れば、九族は天に昇る」と説かれている。もし、母親が良くならないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行ができていないことを意味する。一日中、尊き直貢チェツァン法王の加持を求めても、母親の業力を蔽うだけだ。

家にいる両親がやはり信じていないなら、かかった病気はやはりコントロールできない。それは、あなた自身に福徳がないことを意味する。多くの人は自分はたくさん修行していると思っている。なぜまだ福徳がないのか?たくさん供養として捧げた!ある弟子の母親は以前、長い間床に臥し、死に切れず苦しんでいた。当時、彼女は仏法を学び始めたばかりだったので、すぐに福徳を積む事はできなかった。彼女はずっと供養を捧げ、何度も来ているうちに福徳が十分になり、母親は安らかに去っていった。

その場で、この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。自分の母親は確かに十数年も床に臥しており、子供達にはなす術がなかった。ただ母親が一日一日とやせ細って行くのを見ているだけだった。彼女は以前、母親をつれてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めたことがあり、大法会にも何度も参加したことがあったが、やはりどうしようもなかった。その後、母親が他界する時にリンチェンドルジェ・リンポチェの加持をいただき、安らかに去っていった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの功労に他ならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは説法を続けられた。この弟子はベジタリアンレストランを経営していて、多くの著名な道場に行った事があり、功徳というものも積んでいた。自分で積んだこれらの功徳によって、彼女は寶吉祥仏法センターに来る福徳を積んだ。その後、彼女は供養を続け、求め続け、福徳が得られたならそれで十分だった。母親は他界した。どんな時が十分なのか、リンチェンドルジェ・リンポチェにも分からない。諸仏、諸菩薩だけがはっきり知っている。だから、絶対に自分は十分やっていると思ってはならない。自分が十分だと思ったなら、大変なことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは今までこんなにも沢山のことをしてきたが、自分で十分やっているとは言えない。成仏するまでは自分が十分やっていると、どうして言えようか?

あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが修行していないようだと思ってはならない。実のところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは24時間、自分の心の修行をし、仏法にしたがって自分の誤った見解を改めているのだ。仏法を学ぶことは本当に大切だ。日常の生活方式に影響を及ぼすことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなに模範を示している。仏法を学ぶことはリンチェンドルジェ・リンポチェの生活に影響を与えない。かえって生活をよりよくする。物事がよりはっきりと見えるからだ。それぞれの物事を思惟し、間違いなく行なってこそ、将来には多くの不必要な煩悩を減らすことができる。ここまで実践できるのは、「無我」からで、それぞれの物事はまず先に相手が受ける感じ、相手はどう思うか?を考えてから行なっているからだ。みんなは他人があなたにどう対応するかを考える。必ずしもこうではない。相手を考えなければならない。相手の考えを思うと、何をしても当然、相手を傷つけることはない。相手を傷つけなければ、当然ながらどんな事もスムーズに行なえるようになる。

多くの人はよく、自分は相手を非常に愛していると言う。愛の定義は一切を犧牲にすることだ。どんなことも相手に見返りを要求するなら愛ではなく、占有だ。これは愛の最も狭い定義だ。あなたは最低ここまで行なうべきだ。もし実践できないなら、愛だと言わなくてもいい。だが、あなたはこの人、この事を自分のものにしようとしていて、自分が人に捨てられるのは面子がないと思っている。実は、人から高く放り出されるのはとても快適なことだ!誰かが誰かを棄てるということはないのだ!男も女もよく覚えておきなさい。縁が尽きたなら縁が終わるのだ。振り返ってみたら、首がねじ曲がってしまう。

今日の法話の内容は奥深い。だが、みんなは毎日思惟しなければならない。どんな事も自分の能力に基づいているのか?他人によるサポートが必要なのか?もし必要なら、人には遠慮すべきだ、「(こうする)べき」という二文字はない。家の入口を出る必要はない。家の中でのどんな動作さえもあなたを助けているのだ。使える電気、水道がある。すべて、人が助けてくれている。電気や水道がないなら、どうやって暮らしていけようか?簡単なこともできなくなる。闘争する必要はない。水道担当者がスイッチの起動を忘れるだけでよい。みんなは水が飲め、電気が使える。私たちにお金があって人がしてくれるのではない。みんなはこの点を考えたことはない。自分はお金をあげたのだから、人は供給すべきだと思っている。供給しないなら大声で怒鳴る。

皆は毎日、うっかりして間違いを犯す。なぜ彼はうっかりしていないのか?もし彼がうっかりとスイッチを切ってしまったなら、どうなるだろうか?彼も牢屋に入る必要はない。出勤できなくなるだけだろう。みんなは自分が単独の個体として存在しているのではないことを思惟し、衆生すべてに感謝の念を感じなければならない。この世界に昆虫がいなかったら、私たちにも食べる野菜や果物がない。仏はなぜ私たちに殺生するなと言うのか?みんなが殺生し、衆生がいないなら、私たちは何を食べたらいいのか?何も食べられなくなる!よって、殺生には必ずその果がある。他人に食べさせなくするので、自分も食べられなくなるのだ。

人に心臟病があるのは、過去世で悪いことを行なったからだ。多くの人は医学で治療すればいいと思っている。実際には、医療とは心理上の慰めで、実質の作用よりもかなり多い。もしあなたの福徳が十分なら、病も自然に転じられる。福徳がないなら、たとえ著名な先生に治療してもらっても問題が出る。仏法を学ぶことは小さな事のためにするのでは絶対になく、非常に大きな貢献なのだ。

今日みんなに教えた法門は、将来の修行または人として物事を行なう方面のいずれにも、非常に大きな助けとなる。他人と衝突するのは、「我」ゆえだ。この「我」を少しはっきり見ることができたなら、相手が自分と同じで、氏名、着ている服、ID番号が異なるだけだということを理解する。実際には最後までこうなのだ。あなた達は今日、はっきり知ることができたので、仏道修行はより前進するだろう。さもなくば、毎日、自分のため、自分の病気のため、母親等の対象のために唱えているだけで、これこそが自分勝手なのだ。人が自分勝手なら、仏の慈悲と少しも関係ない。慈悲がなければ、仏法はいかなる作用も生じさせることはない。

なぜ、弟子たちは間違いを犯すのだろうか?それは、自分勝手だからだ。自分の家族は最も重要なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは家族によくするべきだと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深いので、自分たちが言う事は何でも、リンチェンドルジェ・リンポチェは実行してくれるはずだと思っている。実行しないなら慈悲はない。経典の中で多くの弟子が尋ねた事を、釈迦牟尼仏が実行しなかったことは多い。ある王子が仏に尋ね、仏は答えなかったことさえもあった。あなた達は自分が皈依弟子なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは答えるべきだと思っている。少しの御布施をしたからと、リンチェンドルジェ・リンポチェは助けるべきだと思っている。あなた達のような人は外の人に騙されたことがあるのだろう。会員になっていくらの会費を納めると、何か喜ばしいことがあるからだ。あなた達はお金をあげて、何かの報いがあることを期待している。リンチェンドルジェ・リンポチェがお金を集めないのは、最も処理が難しいからだ。お金を受け取らないので、リンチェンドルジェ・リンポチェのことを言ってもどうしようもない。今日の法話はここまでとする。

法会は円満に終了した。弟子たちは声をそろえて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの勝妙なる法話に感謝を述べ、起立して、法座からおりられる尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。

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2015 年 07 月 10 日 更新