尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年03月09日

法会開始前に、弟子の一人が発露懺悔を行なった。彼女は2013年10月、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見をして発露懺悔を求め、リンチェンドルジェ・リンポチェはグループ全員が同意することを指示された。彼女は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲及び同グループの兄弟子たちの協力と同意のお蔭でここで発露懺悔できる機会を得たことを心より感謝した。

2011年、彼女の母親は施身法の法会に申込み参加した後、身体の体調が悪いからと、一時法会に参加しなくなったので、入場を禁止された。2013年5月、彼女は母親に代わって尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見をした。リンチェンドルジェ・リンポチェは、母親が法会に参加するためにはグループ全員の同意が必要だと語られた。そこで、彼女は母親のために兄弟子たちに同意の署名を求めた。だが、最後にある一人の兄弟子が同意しなかった。そこで、2013年7月、彼女は再び母親のためにリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、このようでもいいかどうかを試しに尋ねてみようと思った。彼女は過ちを犯したのだった。

リンチェンドルジェ・リンポチェはグループ全員の同意が必要だと自ら語られたのだが、彼女は自分勝手に、自分の問題を再びリンチェンドルジェ・リンポチェに押し戻したのだった。彼女は皈依して7年余りにもなるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを生活に全く溶け込ませてはいなかった。当日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「彼女の母親が2年余り道場に入れなかったのは、十分な福徳を積んでいなかったからだ」と説かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、福徳を累積する最も迅速な方法は、布施、供養だと語られたことがあったが、彼女は行なっておらず、問題を引き渡して、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼ろうとしているだけだった。上師の偉大な教えについて深く会得しようとは思わず、母親に代わって懺悔を求め、供養を求めようとは思わなかった。よって、当日彼女の四手観音の法本は回収され、密法を修習することができなくなった。

彼女は自分には根器がないことを知り、本当にリンチェンドルジェ・リンポチェに申し訳ないことをしたと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェが説かれる一文字一文字がすべて仏法だった。彼女は心を込めて会得し、実践し、完全に恭敬し、完全に投降すべきだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が輪迴から解脱できることを望んでいる。彼女には何の能力もない。このような能力のないものは、ただよく話を聞くだけだ。その後、命が尽きた時に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの話をよく聞いていさえすれば生死を解脱できる。だが、現在、彼女はすべて自分の考えだ。その後どうやって生死から解脱するのだろうか?密法を修習できず、法本を回収されたのは、すべてリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲による。だから、彼女は深く自分の行為を懺悔した。自分が非常に大変劣った弟子であり、ただ口だけで言う事を聞くといい、何かの状況にぶつかると元に戻ってしまうことを懺悔した。全ては自分の怠け、自己の心を放縦し、自分をよく改めていないことからこのような状況が起こったのだった。

法本を回収されてから次の週の月曜日、彼女は旅行社からの電話を受けた。ある者が沖縄ツアーに申し込んでいたが、急に用ができて参加できなくなったので、家族が参加できるかどうかと聞いてきたのだった。その後、母親のために申し込みをし、リンチェンドルジェ・リンポチェも母親の参加を認めてくださった。彼女は旅行社に感謝した。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドにおられたのだが、旅行社が協力して通知してくれていたのだった。母親が沖縄から戻って時をおかずに、もともと署名を拒んでいた兄弟子は、日本の大文字祭に参加して帰国したその日に、母親のために署名してくれた。それにより、母親は道場に入れるようになった。彼女は、母親に福徳を積ませてくれた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。しかも、母はその後、大礼拝を伝授されたのだった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに心より感謝した。

彼女は一人の出家者の指摘に感謝した。「発露懺悔は非常に大切だ。真心を込めた懺悔が必要だ」。それからグループリーダーが二度と自分勝手にしないようにと注意してくれた。ある兄弟子は、自分の懺悔の経過を分かち合い、彼女の状況を気に掛け、このような状況が起こるのは絶対に一つの事ではなく、必ずや徐々に積み重ねられた状況であることをよく考えるようにと促してくれた。これによって彼女は、自分が初めて発露懺悔をしようという心を発した時、何かを求める気持ちがあり、清らかな懺悔の心ではなかったことに気づいた。その時、心の中では法本を返してもらいたいと思い、発露懺悔を一種の儀式、一つの過程としてとらえ、不敬極まりなく、全く発露懺悔の真の意味を深く思索することはなかった。だから、兄弟子の同意を願い懺悔を始めたこの期間、この一生で為した事を、どのような方法で懺悔すべきかとずっと考えていた。

彼女は、考えがまだはっきりしていない11月に、ネパールの法会に参加した。出発前に生理が始まり、帰国後、次の日に出勤したが、出血がまだ続いていた。夜の授業が終わった時に突然大出血し、直接、救急室に行き一晩入院した。医師が内膜が厚く生長しているので、悪性の内膜ガンかどうか組織を採って検査しなければならないと言った。彼女は決めることができず、漢方医に診てもらうことにした。1ヶ月余り診てもらっていたが、やはり恐くて、著名な病院数軒に行き、4、5人の医師に診てもらった。

前に彼女が語った医療過程から見ても、彼女が全く教えを聞かないことが分かる。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに信心がない弟子は、最後に一人の医師である兄弟子に、組織検査をしてくれる医師を紹介して欲しいとお願いした。医師は異常な生長は見られないので、プロゲステロンを飲んで半年間、体内調節をしなさいと言った。だが、一ヶ月余り服用した後、効果には限りがあった。1月27日、コーヒーショップで夕食を取っていた時、幸いなことに、尊勝なる直貢チェツァン法王と尊きリンチェンドルジェ・リンポチェをお迎えすることができた。その晩、彼女は再び漢方医のところへ行き、風邪の発熱症状を診てもらった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭で、黄医師は進んで7日間の止血薬を出し、風邪薬を飲んでから止血薬を飲むようにと言った。その時、彼女は心の中で、もうすぐ治るのでは?とまた考えていた。

1月29日、家で家事をしていると、姑が薬の山を見て「こんなに沢山薬を飲んで、胃が耐えられるはずがない」と言った。彼女は口から出任せに、「薬を飲まなかったら死んでしまうかもしれない。二人の子供が成人していないのに、どうしたらいいのか?」と言ってしまった。その後、1月30日の大晦日の早朝にまた大出血をし、びっくりして目覚め、すぐに漢方医の止血薬を飲んだ。薬の粉をお湯に混ぜている時、突然、自分は死ぬべきだと思った。今世を棄てて、輪迴を断ち切ろうとする勇気がまったくなかった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真の前に跪き大泣きした。リンチェンドルジェ・リンポチェの福徳を無駄にしたことを悔いた。この7年が完全に無駄に学んでいたことを悔いた。生を貪り死を恐れ、日々を恙無く過ごすことだけを思い、しっかり修行しようとせず、業報身によって返済することを恐れ、心は親族に執着していた。

『37の菩薩の実践(中国語:仏子行三十七頌)』には「親方貪心如水蕩(身内に対しては愛情を水のように注ぐ)」と説かれる。明らかにただ今世だけの縁であり、縁が尽きる日が必ず来る。彼女は身内を貪愛し、自分にできないことはないと思い、因果を信じず、修行の上で、自分が自分に障碍を与えていたのだった。彼女は、2月9日の法会の時の開示で彼女の問題を指摘してくださり、衆生は輪迴の火宅を二度と貪愛しないようにと説かれた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。夫と二人の子供への執着を棄て、浄土への往生を発願しなければならない。

彼女はここで懺悔をし、関節リウマチが2012年8月の施身法の法会後に明らかに良くなったことを皆に話した。病院の炎症値も下降を続け、正常となり、自分で薬の量を減らしたが、飲むのをやめなかったが、今回の大出血で初めて自分の間違いを知り、薬をストップした。大出血も、リンチェンドルジェ・リンポチェが主法される阿弥陀仏、観世音菩薩、蓮師の三合一の法会三日後に止まった。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝した。ここ数年、何度となく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに救われ、仏教修行が続けられる機会をいただいていた。リンチェンドルジェ・リンポチェによって救われた事跡については台北寶吉祥仏法センターのサイトの「衆生済度の事跡」の554番に詳細されるとおりである。

続いて、彼女は過去になした罪業の一つ一つを懺悔した。母親に対して忍耐がなかったことを懺悔した。母親は、難題を出して後始末させているといつも感じていたことを、この場で深く懺悔した。また、若い時に仕事に夢中で、子供を姑に任せ、姑に大変な苦労をかけたことを懺悔した。2005年、夫の事業のパートナーが運転資金を必要とする時、平均に分けるのに、ボーナス時には肩書きによって分けるのを不満に思い、夫とパートナーが高校時代から一緒の仲の良い友人であるのに構わず、夫に18年間頑張ってきた事業をやめさせて、上場企業で働かせようとした。また、離職した後は以前の顧客の会社で働かせ、悪縁をつくらせた。そのため、夫は現在に至るまで仕事はスムーズでなく、意志消沈し、奮闘する勇気を失ってしまった。これはすべて彼女の過ちであり、夫に深く懺悔した。そして、彼女はいつも彼に対して恨みを持っていて、彼の立場に立って考えることができなかった。それから、ネガティブ思考でこれは借金の返済だと考え、心の中で同僚を羨み、心で他人の夫と邪淫戒を犯した。

彼女は、事業に熱中していた時、いつも子供に対して忍耐がなく、子供が彼女と話していても、心の中ではいつも会社の事ばかり考えていて、処理するように子供に答えていただけだったことを懺悔した。彼女は子供にいい母親ではなかったことを懺悔した。そして、いつも他人を嫉妬していたことを懺悔し、心中いつも他人を批判していたことを懺悔し、高慢で自分勝手であったことを懺悔した。しっかりと自分を改めようとしなかったため、父親は道場に半年来たが、肉食を諦めきれずに二度と法会に参加せず、年二回の大法会にだけ参加していたことを懺悔した。

この時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、発言するのをやめるよう、彼女に指示された。続いて、別の弟子が話をした。

二番目の弟子は、ここで発露懺悔をする機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。彼女は、2012年12月9日、リンチェンドルジェ・リンポチェに弟子としての資格がない、ただ一般信者になれるだけだと叱責されていた。それは、彼女が教えに従ってしっかり実践せず、自分の感覚に頼って物事を行なっていて、最後には大きな過ちを犯したからだった。2012年12月8日土曜日、リンチェンドルジェ・リンポチェが信者に面会した時、彼女は奉仕をしていて、謁見を求めにやってきた信者及び兄弟子のために番号札を配る担当をしていた。その日彼女は、リストで二人の兄弟子の名前を見た。ずっと以前に過ちを犯したために謁見できなかった兄弟子であった。その時、彼女はもともとリスト担当の兄弟子に確認しようと思ったが、兄弟子の怒りを買いたくなく躊躇し、偽善者を装おうとしただけだった。さらに、自分勝手に、自分は番号札を担当しているだけだから、他の事にはあまり関わらない方がいいと思った。利己主義な考えと責任を負いたくない態度によって、二人の謁見できない兄弟子に番号札を与えたことを懺悔した。

案の定、彼女のこの悪行はリンチェンドルジェ・リンポチェの仏眼から逃れることはできず、捕まえられてしまった。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは「彼らが面会できないことを明らかに知りながら、なぜ先に指示を求めなかったのか?」と尋ねられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女が教えに従ってしっかり実践せず、分別心があり兄弟子の顔色をうかがったからこのような過ちを犯したのだと説かれた。彼女は上師が任せた事を心を込めて行なっていなかった。自分が悪人になりたくなかったために、上師を悪者にしてしまった。彼女は利己主義で、自分のことしか考えず、自分を守ろうとして、却って上師を陥れてしまったのだ。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがさらにこう説かれたことを覚えている。「皈依して長いからといって、上師があなたによくしてくれると考えてはならない。上師は因果と因縁にもとづいて物事を行なうからだ」。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェの目前に跪いていた彼女は、本当に、リンチェンドルジェ・リンポチェの言われたとおりだった。分別心及び因果を信じない心で、上師は皈依して長い彼女に対して罰を少し軽くしてくれるのではないかと考えていた。彼女は今、自分が心からの懺悔をしていなかったことを思い出していた。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは「外観はとても恭敬している様子だが、実際は偽物だ」と言われた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに、彼女は小さな悪が絶えず、自分が地獄に堕ちることを信じていないと説かれた。自分がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してから、伝授された日課をやったりやらなかったり、しっかり実践しておらず、ふらふらと日々を送り、自分は皈依して十数年になるので修行していて、自分を改めていると考えていた。境界が目前に現れて試された時に初めて、自分が仏を学んでいたのはただ、加護を求め、道場で友人をつくるためだったことを懺悔した。

彼女は自分がずっと全く教えに従ってしっかり実践していなかったことを懺悔した。心の中の悪念は途絶えたことがなく、因果を信じず、自分勝手で、他人のすることは自分よりも劣っていると思い、高慢な心はかつて断ち切れたことがなかった。彼女は自分は皈依したから地獄へ堕ちることはないと思っていた。どんな事が起ころうともリンチェンドルジェ・リンポチェは自分を助けてくれると思っていた。彼女は、自分が上師を利用し、仏菩薩を利用したことを懺悔した。心中の考えはすべて利己主義で、欲望と貪欲が溢れていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生が地獄に堕ちるのに耐え切れず、戒律を守らず、自分勝手な彼女を指摘した。さもなくば、彼女は自分の過ちがどこにあるのかをずっと知らずにいただろう。

彼女は自分が朝晩の日課リストを間違ったことを思い出した。朝晩の日課の機会を失ったことこそが一つの警告だったことを思い返した。朝晩の日課リストを非常に重要なことだと認識していたなら、必ず何度も確認したことだろう。今回番号札を配った時、自分の考えで物事を行なっていなかったら、きれいさっぱりと責任逃れをせず、番号札を配布する前に再度確認していたことだろう。寶吉祥仏法センターの赤いベストを回収し、信者として認めてくださり、深く反省する機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲、晴天霹靂の教法に彼女は感謝を捧げた。

最初赤いベストを回収された時、彼女は世界の末日に臨んだように感じた。自分は救いようがなく、一体どうしたらよいのか分からなかった。頭の中は、いつになったら再び寶吉祥仏法センターのベストが着られ、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になれるのかという思いでいっぱいだった。彼女は、欲望が満たされない時、心の奥底に潜んでいた悪念が心に浮かんできて自分の苦しみは他人が作ったものだと考え始めたことを認めた。しかし、赤いベストを失い、ただの信者となったとしても、上師の仏光は始終止まることなく彼女の身を加持されていた。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの説かれた仏法テープ及び珠玉の著作『快楽と痛苦』によって、上師の慈悲がまるで一つの良薬のごとく沈み込んだ彼女の心を救ってくれるのを深く感じていた。彼女は突然、自分が本当に憎たらしいことに気づいた。自分勝手に上師を恭敬していると思っていたが、それは元来虚偽だったのだ。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがかつて、上師に対する真の恭敬とは何かを説かれたことを覚えている。それは、「上師に対してわずかの懐疑心ももたず、わずかの不誠実もなく、わずかの貪欲もない」ことであり、自分が全く実践していなかったことを懺悔した。ただの信者であることの苦しみを拒み、果報が熟した事実を変えたいと、居ても立ってもいられなかった。彼女は初めて、自分の心はリンチェンドルジェ・リンポチェに真に投降していなかったことをはっきり理解し、境界が目前に現れた時初めて、自分の心がどれほど汚れ、どれほど醜いものかを知ったのだった。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが以前語ってくれた話を思い出した。それは、あるラマが寺院のバターを盗んで外で売り、食料に取り替えていたという話であった。悪事が暴かれた時、彼は寺院の観世音菩薩が訴えたのではないかと疑い、さらには箒で観世音菩薩を叩こうとした。この時、観世音菩薩は、彼に悪行をさせないようにと、空中に舞い上がった。寺院の人がそれに気づき、緊張して観世音菩薩に下りて来て欲しいと願うと、観世音菩薩は慈悲深くこう言ったのだった。「下りて来いというならば下りよう。だが、このラマを処罰してはならない」。この話を聞き終わった時、このラマを極悪のふとどき者だと思った。この世にどうしてこんな者がいるのか。自分の過ちを他人のせいにするとは。事もあろうに、仏菩薩を責めるとは。

今、彼女はやっと理解することができた。心中で最も不埒で、最も面の皮の厚い恥知らずは、なんと自分自身だったのだ。彼女は他人の過ちしか見ておらず、自分の過ちを認め、向き合うことを望まなかった。自分が犯した過ちは、他人を超えることはあっても、及ばないことはなかった。彼女は、もともと道場で番号札を配るという簡単な一つの事であったが、自分が教えを聞かず、上師を敬わない心と自分勝手によって、全体を複雑にしてしまった。自分の考えで物事を行ない、衆生済度という上師の仏法事業を邪魔し、さらには上師を害し、衆生を害してしまった。上師の慈悲は観世音菩薩のごとく、衆生が間違いを犯したために憂い、各々の法門を使って彼女を助けようと尽くされていた。彼女は前述の話の中のラマと同様、過ちを犯して処罰を受けることに、自分が可哀相だと思い、あれこれ責任を転嫁し、なぜ自分の赤いベストを回収したのかと上師を咎めた。実はすべての過ちは自分でなしたことであり、自分こそが本当の悪の根源であった。

彼女は自分が上師に怒りを感じ、兄弟子を責め、一切の過ちは他人の過ちだと考えたことを懺悔した。そして、自分に一途に加護を貪る心があり、いわゆる“恙無く暮らす”には苦痛を受け入れず、自己の行為を改めることを認めず、顛倒夢想、因果を信じず、目前の欲望を満足させることだけを願い、ずっと上師の力を浪費していたことを懺悔した。また、上師の貴重な開示を聞き流し、悪念については、ちょっと考えて問題にはならないといつも思っていて、自分のなした過ちを簡単に許し、よく話を聞かず、迂闊に暮らしていたことを懺悔した。だから、果報が目前に現れた時、自分で苦痛を舐めて初めて、上師の苦心を会得したのだった。

彼女は、2001年3月31日に皈依して以来、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを敬わない多くの悪行を犯していたことを懺悔した。そしてここで、面の皮が厚く恥知らずの諸々の悪行を発露懺悔させてくださったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。

以前まだ旧道場であった時、法会が終わり、一袋のゴミを階下で捨てようとしていた時のこと、ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェは、尊き直貢チェツァン法王を見送るために階下へ行こうとされていた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女がゴミを横に置いたのを振り返って見て、ゴミをそこに置かないようにと注意した時に、彼女は上師に言い返したのだった。偉そうな顔をして、自分はすでに仕事を手伝ったと感じていて、上師が彼女のことを言うのを許さなかった。彼女は自分の貢高我慢、利己主義が極めて酷かったことを深く懺悔した。

彼女は自分が初めて上師を害したのではないことを懺悔した。もう一度は旧道場で、兄弟子たちが階下の門を遮っていて、他の階の住人の出入りを不便にしていた時に、階下にいた彼女は待っているのが煩わしくなって、なぜ早くみんなを上に行かせないのかと、上師を責めたことがあった。その後、階下の住人はみんなが入口を塞いでいるので、不満を募らせ、上師を咎めた。彼女は、極めて大きい自分の罪を懺悔した。

もう一度は、上師があらゆる弟子に面会せず弟子の供養を受け取らなかった期間、突然ある兄弟子が来て、彼ら夫婦を食事を誘った時だった。彼女はその兄弟子は上師に非常に忠誠だと思っていたのだが、上師を批判し、思いもよらず、まもなくして道場から離れて行き、さらに、その事をあちこちで言いふらして上師を攻撃したのだった。彼女は上師の是非を問うことは金剛地獄に堕ちることで、その上、この事によって、上師と弟子の関係を挑発し、断絶させることにもなると知っていた。こんなに酷い罪業を犯していたのに、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔する勇気はなかった。上師が説かれるように、彼女は自分が地獄に堕ちることを信じていなかったので、因果を恐れる考えを今迄起こしたことがなく、破戒を続けていたのだ。

彼女はこんなにも多くの悪行を犯していたが、衆生を見捨てない上師は、彼女を助け続けた。2006年、彼女の父親が病気になり、入院してから他界するまでのすべてを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御加持と御世話に頼りきった。これにより、父親の苦しみも軽くなり、入院して3ヶ月であったが、かかった医療費は1万元に満たなかった。父親は、他界する前に昏睡状態に陥らずに往き、その後、上師は神識(じんしき)を守ってくれたばかりか、上師による殊勝な施身法の済度を受けることができた。しかし、彼女は、上師に対して何の感謝の念をも起こさず、上師の加持及び助けを当たり前のように感じていて、今まで一体どのような恩徳があって上師の助けを得ることができたのかについて自己を検討し、反省したこともなかった。

彼女は、清らかな心で上師の貴重な開示を受け入れたことがなく、上師を利用し、仏法を利用して、自分の欲望を満たしていたことを懺悔した。さらに、自分の心がこんなにも汚れていて、父親がポワ法を修法してもらえなかったことで上師に怒りを感じていたことを懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して懺悔心がなく、感謝の念も起きなかったことを懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子及び衆生に対する心遣いは、諸々の仏菩薩及び十方法界の衆生がすべて賛嘆し感動することであったが、彼女の心はただ石のように硬く、どうやっても上師に投降できなかったことを深く懺悔した。

彼女は自分が幼い頃から利己主義で、両親や祖母に孝行しなかったことを懺悔した。以前、母親のお金を盗んだこともあった。自分の家族に無関心で、自分だけで楽しく過ごしていればよく、家族は放っておいた。飼っていたペットは一時的な興味だけで、よく面倒をみなかった。小さい時から両親が傍にいなかったが、大人になるまで彼女を助けてくれた恩人に対しても感謝の念は起きなかった。いつも自分勝手に、他人に自分の欲望を満たさせていたが、実行できないと怒り、他人は当然、自分に良くするべきだと思っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、やっと分かった。自分の貪欲と欲望が多くの衆生を傷つけ、衆生を苦しませていたのだった。すぐに悪行を断ち切り善行を行なうことを決意できるよう、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めた。また、あらゆる有情衆生が自分と同じようにリンチェンドルジェ・リンポチェに救われ、早く輪廻を解脱し、浄土に往生できるようにと願った。彼女は最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法輪を常に転じられること、法体が御健康で、長寿をまっとうされ、仏法事業が興盛すること、直貢噶舉派の法脈が永遠に伝承されることを祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られて共修法会を主催され、参会者に貴重な開示を授けられた。

先週、上師を敬うことの重要性について説かれた。二つの恭敬が取り上げられたが、その一つは偽物、もう一つは真実の偽りのない恭敬であった。真実の偽りのない恭敬は、心身にすでに生じている善行の体験を源とする。善行の体験とは、非常に立派だ、修行すればするほど素晴らしい、観音菩薩のようだ、今は怒らなくなった、姿格好がよくなった、顔色がよくなった等と、人から称賛されることではない。仏教修行は、仏法を学ぶことを通して仏法によって自分の心をコントロールすることだ。みんなが間違ったことをするのは、自分を放任しているからだ。放任とは、一般世間の道徳の範囲を指すのではない。私たちは、一念無明を起こすために輪迴を繰り返す。どのようにしたら無明煩悩を生じさせないのか、どのようにしたら、たとえ煩悩を生じさせてもすぐに察知し、煩悩を菩提に転じるのか、これは仏法の薫陶が必要だ。

仏法の薫陶を通して、私たちはこの放埓で放逸する心を徐々に元に戻し、コントロールすることができる。そして、元に戻し、コントロールできてこそ、定の境地が自然に生じるのだ。定の境地が生じる時は、智慧が始まる時だ。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求める時、自分は仏法を学びたいと言う。なぜ仏法を学びたいのかと彼らに聞くと、仏法を学ぶことで自分の性質を変え、苦しみを生じさせたくないと言う。一般にこう言う者を、リンチェンドルジェ・リンポチェは来させない。それは、仏法はこう説いているのではないからだ。ある者は、ある師父に師事してから、自分の気持ちが明るくなったと感じ、この師父は偉大だと思っている。実際には、こう思う必要はない。通常、本を読んだり、海へ行ったり、講演を聞くこともあなたの気持ちを明るくする。だが、気持ちは明るくなったり暗くなったりする。良いことの中に必ず悪いこともあるからだ。

仏法はこう説いているのではない。根本的な根源となるものを探し出し、その後、どうやって止め、二度としないようにするのかである。止めて二度としないことは、即ち悪行を二度と犯さないことであり、こうしてこそ善の力が生じてくる。自己の善行の体験をどう検討すべきか?人からあなたの修行はとても立派だと言われたり、最近家族から性格がよくなったと思われることではない。気性が良くなった人は非常に多く、性格が変わった者もいる。善行の体験とは何か。過去に悪い行ないをし、物事をおこなったが、意識しておらず、自分の過ちに全く気付かず、自分の考えが自分を傷つけ、衆生を傷つけていることに全く気付いていなかったが、仏法を学んだ後、努力して善行をおこなうことだ。また、善はお金を寄付するような簡単なことではない。最も基本的には十善法だ。努力して精魂込めて善を修行する時、善の力は悪の力を押さえ込み、あなたは徐々に、自分の過去の悪の考え、行為、言葉が少なくなったことを感じ取る。知らぬ間に行なわなくなる。これこそが、善行の体験というものだ。

最近、家庭の状況が好転し、子供と家族が話を聞くようになり、仕事がスムーズになったことが善行だと思ってはならない。これは、仏法を学んだ後に福徳が徐々に戻ってきただけであり、新たに福徳が積まれたのではなく、あなた達に少しスムーズになったと思わせるものだ。みんなはこれが善行だと誤解してはならない。善行は自分の身、口、意の行為を検査する能力を持っている。誰があなたにこのような能力を持たせるのか?経典に説かれるように、功徳を具えた上師の助けが必ず必要だ。善行の体験はこんなに単純にあなた達自身が気付くものではない。上師が絶え間なく導き、あなた達に対応していく必要があるのだ。

経典には、心身に「善行の体験」を生じさせるのに必要な条件は、急所を突くことのできる教えだと説かれている。毎回、リンチェンドルジェ・リンポチェが手段を講じて初めて、みんなが痛みを感じ、自分の過ちを知るようなものだ。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェは厳しいと感じている。これこそがガムポパ大師の教える、仏の教えるものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏の教えたことを皆に教えないなら、これはリンチェンドルジェ・リンポチェの過ちだ。この事を覚えておきなさい。寶吉祥仏法センターという道場では、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を教える。仏法を語るのではない。語るというのは、話し終わった後は、互いが無関係になるという意味だ。あなたは私の話を聞いて、私は自分のことを語るというようにだ。教えるというのは、あなたは必ず話を聞かなければならない。聞かないなら、学生になる資格はない。あなた達は小学、高校、大学の時に他人の講演を聞いたことがあるだろう。講演を聞き終わった後は、その中の一つの文字、一言だけしか覚えていなかった。自分の好きなことしか記憶していないからだ。だが、あなたが導師、先生の話を聞かないなら、導師、先生は、全ての方法を使うだろう。

仏法を学ぶことと人としての道を二つに分けてはならない。自分には身分、地位があるから、経典を理解できる、自分で理解できると思ってはならない。あなた達は少しも仏法を知らない人たちだ。だから、修行の経験が必ず必要であり、自分で改めたことのある行者によって教えられる必要がある。完璧すぎる修行者なら、あなたを改めさせることはできない。どこに誤りがあるのかが分からないからだ。多くの人は完璧な修行者を望む。それは、釈迦牟尼仏だけであり、次には大菩薩の転世となる。即ち大菩薩の転世は、まだ弘法を始める前は、同じようにある人が間違うようなことをする。なぜだろうか?それは、行者はこれらが衆生を害することを悟らなければならないからだ。単純に聞いて知るのではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常にこのような例を挙げている。あなたにご飯の炊き方、料理の作り方を教える者がいて、すべての調味法を教えたとしても、あなたが料理を作ったことがないなら、絶対にこの味を出せるはずはない。他人がどうやって料理するのかを教え、あなたが料理したことがあってこそ、どうやって作るのかを本当に理解できる。仏法を学ぶことも同じだ。苦しみを感じたことがなければ修行できない。いわゆる「要点に的中する」ことについて、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、みんなの面倒を専門に引き出す。もし、面倒を引き出さないなら、上師ではない。あなた達が最も嫌う事を、リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと行い、みんなに見せる。あなた達が好きなことをリンチェンドルジェ・リンポチェはわざと行なわない。これこそが真の上師だ。あなたのステップに合わせて踊ることはなく、あなたの欲望に合わせてあなたを満足させることもない。もし一人の上師があなたの欲望に合わせてあなたを満足させ、財神法を修めたいなら修法する。これは絶対に上師ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一年で数回修法する以外は、弟子のために修法することはほとんどない。なぜか?それは、あなた達に修法を受ける資格がないからだ。

急所を突くことであなたの問題をさぐり出す。あなたに貪欲があるなら、貪欲をつく。あなたに瞋恚があるなら、その瞋恚をつく。あなたに痴があるなら、痴をつく。絶対に妥協しない。このような上師には滅多に出会えない。心地よい話を聞きたいというなら、多くの者がこうするのだが、昨日、男性信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェが「どんな用か」と聞くと、運転している時に、ある子供が災難にあったことをラジオで聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェにこの子供を助けてくれるようにと祈ると、その後、この子供が本当に助かったので、感謝に来たのだと言った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、その場で出家弟子に答えるよう指示された。もしこのように聞いたなら、どう反応するかと。出家弟子はこう答えた、「こう聞いたら自分はすごいと思います」。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。確かにその通りだ。彼が感謝に来たのだから、多くの修行者は、みんなも含めて、この様に感じるだろう。名聞利養は修行者の最大の敵だ。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが少しも修行の体験がないなら、昨日は罠にかかってしまっただろう。この信者は名聞利養の問題を表出させてくれた。その場では彼を否定できない。ではどうしたらいいのだろうか?修行者として、少なくとも、仏法を非常によく理解し、ほんの僅かでも「他心通」してこそ、相手が何を必要としているのかを知ることができる。相手の欲望に沿って答えるのではない。このようなら、続いて、この人はリンチェンドルジェ・リンポチェに近づき続け、自分とリンチェンドルジェ・リンポチェは繋がっていると言い、その後、彼はいわゆる“大兄弟子”となるかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような事を恐れているのではなく、彼が傲慢になり、自分は人と違うと思ってしまうことを恐れているのだ。明らかに彼は次第に修行を行なっていないのに、上師の慈悲心の現れを感得できるのであろうか?修行について言うならこのようなのだ。また、衆生には衆生の縁がある。ちょっと願えば衆生が無事だというなら、世間には事故死する人はいないはずだ。毎日、観音菩薩に救いを求める衆生がどれほどいようか。それなのに、なぜこんなにも沢山の者が事故死するのだろうか?なぜペットは死ぬのか?多くの者が自分の家のペットに何かあると、一日中、犬息子、犬娘のために観音菩薩に助けを求めが、ペットはやはり死んでしまう。

仏を学ぶ者は、仏法に対して誤解している者を放任してはならない。絶対に受け入れてはならない。幸いリンチェンドルジェ・リンポチェはずっとはっきりと目覚めていて、船酔いすることはなかった。相手がどんなに心地よいことを言っても、リンチェンドルジェ・リンポチェは相手が何を求めているのかがはっきりしている。もし、昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の為に急所を突かなかったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェを害したことは勿論のこと、少なくとも、彼は、自分は人と違うのだと貢高我慢をつのらせ、彼自身を害することとなったであろう。衆生は平等である。仏法の教え、次第の修行なくして、人と異なることはありえないだろう?輪迴の中にいるだけで、やはり凡夫なのだ。あなたにどんな能力があったとしても、この能力は消失してしまう。だが、人はこのような感応を好む。自分の考えが起きただけで、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに助けに来ると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェには分身はない。ただ慈悲の力があるだけだ。だが、衆生に縁がないなら助けることはできない。

先週、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある家族を叱責した。その後、彼らは叱責されて目覚め、昨日面会を願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの父親も助け、彼らにどうすべきかを教えた。リンチェンドルジェ・リンポチェが先週彼らの考えどおりにしていたなら、彼らが再び来たとしても、恭敬心を起こすことはない。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェは息子に300回の大礼拝をするように教えた。彼は喜んで礼拝した。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがやっと、父親を助ける方法を教えてくれたからだった。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの怠け心にしたがって助けたなら、彼らは恭敬心を起こすことはない。いわゆる、急所を突くとは、相手の一点を探し出し、余すところなく打ちのめすことだ。相手が怒ることがあっても、少なくとも彼の誤解、仏法への誹謗を許す事はできない。

だから、正真正銘のリンポチェをつとめるのは難しい。もし、偽物なら分からない。上師として、その場で正しく急所を突くのも、みんなを教え導き、心中の妄念及び誤りを浄化する考えによるものだ。みんなの心の中には多くの間違った情報及び経験等が占拠していて、自分では全く気付かない。そこで、徐々にあなたをそこから抜け出させる上師が必要となるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがなぜ弟子を罰して、寶吉祥の弟子に与えるベストを回収するのか。これを罰し、あれを罰してこそ、弟子は、ベストを回収された理由を考え、自分の間違いがどこにあるのかを考えようとする。さもなくば、毎日恙無く日々を過ごしていて、考えようとするだろうか?

あなたの心が清らかでないなら、上師の説く清らかな法を受け入れることはできない。なぜみんなに恭敬することを教えるのか?あなたが敬うことで上師を喜ばせるためでは決してない。あなたに自然に恭敬心が芽生える時、一心に仏法を聴き、自分の間違った考えが清らかな仏法に混ざることがないからだ。なぜ、学び取ることができず、修行を成就できないのか?それは、自分の考えがその中にあるからだ。祖師ジッテン・サムゴンの著作『一意』には、仏法を学ぶ者にはただ一つの意味があることが説かれている。つまり、――仏法の聴聞だ。個人のもつ、正しい、間違っているという意識を混入してはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、仏法を学び始めたばかりの時、みんなと違っていた。師父に、「師よ、私はいつ実践できるのか?こうやることは正しいのか、間違っているのか?どうやったら師を喜ばせることができるのか?」とは聞かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように聞いたことはなかった。自分に伝えられた、いかなる法に対しても、後には尊勝なる直貢チェツァン法王によって伝えられた法であっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは伝えられた法で自分を観察し反省するだけだった。一切の法はすべて清らかで、極めて善であったので、自分を顧み、学び得た法に背くことはないかを観察し反省するだけだった。もし、法に背くことがあれば、修行で成就することはなく、学び取ることはできないので、聞く必要はない。伝えられた清らかな法に背くなら、仏法を学んでいるのではなく、依然として人天界の福徳となるだけだ。

徳を具えた上師が、急所を突く方法であなたの心を浄化する時、あなたははっきりと、自分が祈る相手を知る。現れたのが上師の姿であっても、これもまた心が化現したものだ。もし、あなたがこの上師を必要としないなら、思い出すことはない。あなたが上師を必要としないなら、上師によって自分の心の中に影響を及ぼしてもらおうという考えも起きない。なぜ、さきほど法会前に発露懺悔をした一人目の弟子に懺悔を続けさせなかったのか?それは、彼女が自分の息子に申し訳ないと思ったからだ。前半で彼女自身が『37の菩薩の実践(中国語:仏子行三十七頌)』中に「身内に対しては愛情を水のように注ぐ」と説かれていることを話したばかりだったが、後半では自分は心を傾けて聞いていなかったと息子に懺悔した。私たちは後輩に懺悔する必要があるのか?彼女は教えがなってないので、もう一度新たに教えればよい。この点からみてとるように、彼女が前半で懺悔したことは全て偽物だ。やはり二人の子供を気にかけていて、懺悔はただ、上師が今後自分を不要とし、自分のために修法してくれなくなるのを恐れてのことだった。

上師は、経典に説かれるように清らかだ。あなた達が上師に誤りがあると思うなら、実は自分が間違っているのだ。なぜだろうか?上師の伝法には絶対に誤りがなく、清らかであり、あなた達に対して何も求めていないからだ。あなた達が自分は上師のある行為を受け入れられないと思うなら、それは、あなた達の心が清らかでないので、上師が清らかでないと感じてしまうのだ。いかなる上師のなす行為が衆生を傷つけてしまうなら、あなた達が批判するには及ばない。特に、密法を学び、密法を伝える上師なら、その行為が偏っていたなら、あなた達の批判は不要だ。アキ護法はあなた達よりも早いのだから。護法が乗っているのは空を飛ぶ天馬だ。あなた達が口を開くのを待たず、護法はやってくる。あなた達が上師は清らかでないと思うのは、あなた達の心が清らかでないからだ。

なぜ、恭敬を修めなければならないのか?あなた達が恭敬するなら、仏法を聴聞する時に自然と一意となるはずだ。他の考えは起きない。心が清らかであれば、自然に清らかな仏法が心中に入り込む。よって、あなた自身が上師が清らかだと思うのは、あなたの心から来るのだ。上師があるところは間違っていると思うなら、それもあなたの心から来るものだ。上師が間違っていると思うなら、上師が衆生のために行なっている事を考えなさい。あなたがそれらを実践できてこそ、上師が間違っていると言う資格がある。そうでないなら、何も言ってはならない。『地蔵経』にはこれについての因果が説かれている。一般の人を批判してさえも地獄に堕ちる可能性がある。わずかに修行した修行者を批判したなら尚更だ。なぜ、チベット仏教では弟子を3年間観察すると言うのだろうか?それは、弟子が余計なことを言わないかどうか、おしゃべりを好むかどうかを見分けなければならないからだ。おしゃべりを好むなら不要だ。この後で、なぜなのかを話すことにする。

経典にはこう説かれている。心がすでに浄化された時にはじめて、上師に祈ったあらゆる事が上師の加持を受けた大きな流れに入る。すなわち、奇怪な考えが山積みになっていて、上師を疑い、上師を信じないなら、心は清らかではない。心が清らかでないなら、突然何かが起きて上師に助けを願っても、上師の加持力は届かない。よって、みんなが皈依する時に伝えたことがあるが、上師に対して怒ったり、上師と議論するなら加持は得られない。道理はここにある。あなたの心が清らかでないからだ。

なぜチベット仏教では、上師を3年間見なければならないと言うのだろうか?この3年間で、弟子は、上師は慈悲によって衆生を利益しているのかどうか?名利のために衆生を利益しているのか?を見分けなければならない。もし、名利のためなら、上師は清らかでない。また、上師が法に基づいているのかを見分けなければならない。法に基づかないというのはどういうことなのだろうか?会員となる時に、会費を支払ってこそ上師に会えるなら、これは法に基づいていないことになる。経典には、会員になってこそ仏法を聴聞できるとは説かれていない。ただ仏法を学ぶ気持ちがあり、様々な試験を経て、上師が大丈夫だと認めたなら、あなたに仏法を伝える。会員になることを要求はしない。

寶吉祥仏法センターは、皆によって道場は護持されているものの、かつて値段を決めたことはなかった。貧しい者は1元、お金のある者は少し多めに出し、寶吉祥の弟子たちに毎月一定の金額を支払わせたことは全くなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえも同じであった。ここから理解できるとおり、問題はあなた方自身から出ているのだ。上師ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働き、間違いを犯したなら、仏を学ぶことはできないと噂する者もいる。なぜだろう?これは彼がすでに沢山の間違いをし衆生を傷つけたのに、改めないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で間違いを犯して仏を学べなくなったのではない。

弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働き、給料を支給されなかったことはないばかりでなく、最近、リンチェンドルジェ・リンポチェは全職員の給料をアップした。現在、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある事に気付いた。外から雇い入れた職員は、仕事や態度がいわゆる皈依弟子よりもずっと良いことだ。それは、彼らはこの仕事を重視し尊重しており、社長を敬っている。いわゆる皈依弟子は、この仕事を尊重しないことがよくあり、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深いから、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェの仕事を助けているのだと考え、以前仕事の経験があり、今は数千元減ってしまったが、自分はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養しているのだと思っている。彼らは自分が供養しているのだと誤解している。実際のところ、リンチェンドルジェ・リンポチェに問題が出ないのは、仏菩薩が守ってくれているからなのだ。

数年をかけて、リンチェンドルジェ・リンポチェは今気付いたのだが、皈依弟子であればあるほど、問題は大きく、皈依していない職員の方が会社の中ではよくやっていて、細かい気配りをし、しかも社長に感謝をしている。いわゆる皈依弟子は、会社の規定に従わず、自分の法を自分勝手につかい、各人が社長となり、自分は皈依弟子だから他の人よりも偉いのだと思っている。ある者は沢山叱られたら辞職しようとし、リンチェンドルジェ・リンポチェもそれを承知するはずだと考えている。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働くのはプレッシャーが大きいと言う者もいる。実際には、リンチェンドルジェ・リンポチェのプレッシャーこそが大きいのだ。儲かってなくても年末のボーナスをあげなければならない。なぜ、彼らはこういうことを言わないのか?その場でリンチェンドルジェ・リンポチェはこう指示された。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働き、プレッシャーが大きいと言ったことのある者はすべて、密法を学ぶことを認めない。

これらの弟子たちは、リンチェンドルジェ・リンポチェの企業の事業であることを明らかに知っているのに、プレッシャーが大きいと他人にわざわざ言っている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはプレッシャーを彼らにかけたことはなく、会社で働くようにと強要したこともなく、会社に入ってからお給料を出さなかったこともない。確かに給料は他よりもよくはないが、他よりも劣ることもない。なぜ、この者たちはこうなのか?上師を敬わず、他の事を話しだすと、上師を脇におく。みんなの仏を学ぶ心は本当に恐ろしい。組長は、リンチェンドルジェ・リンポチェの会社でのプレッシャーは大きいと言っている弟子がいたなら、名前を記録しておきなさい。もし、組長が書けないのなら、組長は仏を学ばなくてよい。これらの者たちには密教を学ぶ資格はないからだ。

社長として、給料、手当て、年末のボーナスを出し、年末には籤引きも設けている。社員であるあなたたちは更に何が欲しいのか?しかも、お昼は無料で提供している。一つ110元をレストランに注文しているのだ。暴利な会社だけができることだ。一般の会社では社員の昼食に110元も使わない。しかも、昼食は給料から差し引かず、会社が出しているのだ。ここまでやって、まだプレッシャーを感じている?話にならないのではないか?弁当を食べる時、彼らがどうしてプレッシャーだと言おうか?ボーナスをもらう時、彼らがプレッシャーだという話を聞いたことはない。みんながリンチェンドルジェ・リンポチェの仕事は注意深く行わなければならない、とても厳しいからと噂話をしている。厳しいのは当然だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは法律を犯さないのだから。もし、法律を犯すことをするなら、厳しくする必要はない。もし、このような事を言ったことがあるのなら、たとえ自分が認めなくとも、リンチェンドルジェ・リンポチェは遅かれ早かれ知ることになる。アキ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェに知らせるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働いたことがあり、プレッシャーがある、慎重にやらなければならない、ある人に怒鳴られる、社長に怒鳴られるなどのような話は、全て含まれる。

なぜ、このような事を言うのか?それは、上師は法律を守って仕事をするということを、あなたが信じていないからだ。同じく法律を守って仕事しているなら、どこにプレッシャーを感じるのか?なぜプレッシャーがあるのか?それは、あなたが法律を犯そうとしていて、間違いを犯そうとしていて、一日中、社長にあなたの間違いを捕まえてもらおうとしているからだ。正しい事をしていて、プレッシャーを感じることがあろうか?会社のある職員は、アルバイトで入ってからずっと仕事を続け、今は総務主任にまで昇格し、給料もアップした。彼は弟子よりもよい。彼はどんなことも社長を保護し、社長は彼の衣食の父母であることが分かっているからだ。

なぜ、上師を敬わなければならないのか?それは、急所を突くこれらの教えは、上師から来るからだ。自分で修行しても、成果は絶対に得られない。また、毎日、自分自身で念仏を唱え続けて業障を取り除いて悟りを開けるものでもない。これは正しくない。ここにいる皆が唱え、礼拝した数は、リンチェンドルジェ・リンポチェが以前に行ったより多いはずは絶対にない。だが、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェの業もすっかり取り除かれてはいなかった。いわゆる業障とは、財産を失うこと、クビにされることでもなく、離婚することでもない。これはただのあなたの縁なのだ。仏法で語られる業障とは、私たちの修行を妨げる事であり、それには悪業も善業も含まれる。いわゆる悪業が清められるとは、これらの業が二度とあなたの修行を妨げないことだけであり、やはり業の報いはある。

懺悔の礼拝をしたから業の報いはないと思ってはならない。こう誰が言ったのか?以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさん「梁皇宝懺」の礼拝をした。水陸大法会など、皆が思いつく懺悔の礼拝をリンチェンドルジェ・リンポチェはすべて行なった。だが、やはりガンにかかり、ビジネスに失敗し、離婚し、子供は親不孝だ。あなた達なら、それを早く知っていたなら懺悔しないと思うだろう。懺悔をすればするほど事が多くなる。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェにとってはよい事だ。ダメになるものは、全てきれいにダメになって、以後は自分の修行の妨げにならないようにする。業障を取り除くとは、懺悔したから病気にならず、何かが起こらないということでは絶対にないことを、みんなはしっかりと理解しておかなければならない。

簡単にいえば、もし、家族があなたを大切に思い、とても愛し、可愛がるなら、必ず仏を学ぶ妨げとなる。ある人はこういうかもしれない。「今日、息子があなたを恋しがっている。どこに行ったのか?仏を学びに行ったのだろうか?それなら、息子があなたを恋しがっていると考えなさい!」もしこうなら、法会に参加したあなたは、静かに三時間座っていられるだろうか?少しすごいのは、息子があなたを恋しがっていることは語らずに、法会に参加して帰ると、彼は、「数時間、本当につまらなかった。何をしたらいいのか分からなかった。法会に行ったから、出かける気にもなれなかった」と言う。家族がこれを聞いたら、心が痛んで法会を一週間欠席して、子供に付添うために、観音菩薩に休みをとろうと思うだろう。誰が観音菩薩に休みを取ってもよいと言ったのだ?観音菩薩はあなたに給料をあげていない。どんな休みを取るのか?自分が怠けているだけだ!こうやって妄語をはき、破戒している。経典には、一切の教えはすべて上師よりもたらされるとある。絶対に自分自身で修行をして成果が得られることはない。絶対にあなたが礼拝して成果が得られることは絶対にない。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、重要なことを公表した。もし、連続1年半以上来ている信者で皈依を求めない者は、来週から来なくてよい。なぜ二度と来なくてよいのか?それは、仏法を学ぼうとせず、仏法を聴いて心の安らぎを求めるだけだからだ。ある者はここに来て長いのに皈依しようとせず、実行できないことを恐れていると言う。実行できないことを恐れるなら、行なわなくてよい。来る必要もない。今言っているのは、以前の弟子で、ベストを返却させられた者は含んでいない。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したことがなく、1年半経ったが皈依を求めていない者のことだ。この人たちは以後、施身法の法会に参加してはならない。

みんなは必ず、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲がないと言うだろう。実際にはそうではないのだ。寶吉祥仏法センターは貧しい道場で、場所も狭い。本当に仏法を学びたいと思う気持ちがあるなら、どんなに混み合っても皆を中に入れる。だが、みんなは仏法を学びに来たのではなく、一日中加護を求めているだけだ。新しく来た人も入れない。ウロウロしているのはあなた達だ。なぜ必要なのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったら必ず行なう。あなた達は慌てて来週、皈依を求めなくてよい。役に立たない。すでに公表したのだから実施する。なぜ1年半と言ったのか?あなた達は恐らく、1年は少し短いと思うだろうから、1年6ヶ月とした。よって、これらの者たちは二度と来なくてよい。多くの者が自分で修行して成果が得られると思っている。以前、別の師父に皈依した者が今は、師父がいなくなったからとここに来た。もしリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したなら、以後はそっちに戻れなくなる。こうであるなら、苦しまなくてよい。前のところに戻りなさい!

リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に選択を迫らない。あなた達は戻りなさい!なぜ両方に気をかけているのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に、いかなる道場、リンポチェ、寺院から信者を奪うことはしない。もし奪いたいなら、毎年、大法会の時に、皈依を行なってもよいと言うだろう。簡単なことだ。一回の法会で2万人、5000人が皈依したなら、10年で5万人だ。リンチェンドルジェ・リンポチェも自分には10萬人の弟子がいると豪語できる。実行するのはいとも簡単なことだ。なぜ事を複雑にして、弟子はたったの1300人なのか。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェには不要だ!何が不要なのか?仏法を学ばない者たちだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは他の人とは違う。この一生で学んだものを皆に教える。さもなくば、なぜ来たのか?おもしろいからか?リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に面白がって来たのではない。

実のところ、皆にある事を漏らそうと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の中学以前の事を覚えていない。ほんの少しの記憶力もなかった。それが中学までずっと続いた。それでも生きてこられ、記憶力が始まったのだ。自分の以前の先生が何を教えたのか、姓は何であったのか、クラスメートの名前をリンチェンドルジェ・リンポチェは全く覚えていない。リンチェンドルジェ・リンポチェの今世はこんなふうだ。だから、仏法を聴いた後に家に帰り、自分で修行をして成果が得られると思っている者、以前、別の道場に行っていて、断わるのが申し訳ないと思っている者は、来なくてよい。そんなに苦労しなくてもよい。人生を選択しなければならないのは本当に辛いことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは運がよくて、顕教はただ一人の師父、密教もただ一人の師父、しかも、上師がリンチェンドルジェ・リンポチェを探してくれたのだ。あなたたちには無理だ。なぜ上師が探すのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェと過去世で深い縁があったからだ。

経典には、こう説かれる。「教えは必ず上師よりもたらされる」と。私たちが得られるいかなる一切の深い教えは、他の人、他の場所からもたらされるのではなく、上師だけが与えてくれる。あなた達は少し聞いただけで、家に帰って毎日お経を唱えれば、成果が得られると思ってはならない。噶舉派は、修行面の教えをはっきりと説いている。これは
ガムポパ大師が語ったもので、いい加減なものではない。なぜ、必ず上師からなのか?あなた達は自分の能力に頼ると思っているが、このような考えは不可能なことだ。あなた達は上師のような方法で打ちめかすことは不可能だからだ。未練なく、自分を改めることができる者がどこにいるのか?自分に過ちがあると言える者がどこにいるのか?自分がはっきりと見える者がどこにいるのか?他人のことははっきりと見えるが、自分のことは絶対にはっきりと見えない。特に細かい、小さなところはだ。

昨日、ある弟子である職員が妻と幼女を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた。娘は大悲咒を唱えることができると言い、大悲咒を唱えた後に、「人は老いたら死ぬのでしょうか?」と質問した。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、昨日その場にいなかった出家弟子に、あなたならどう答えるかと尋ねられた。出家弟子は「人は皆、死にます。老いたから死ぬのではありません」と答えた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた。「その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、出家弟子が言ったようには答えなかった。「これはリンチェンドルジェ・リンポチェとは関係のないことだ。彼の娘なので、娘が彼を信じているから聞いたのだ」と、彼に告げた。

みんなは、彼はなぜこの事を聞きに来たのかを知っているだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは少しの他心通で分析してみた。彼は、この子供は観音菩薩の傍の童女に違いない、だから、大悲咒を唱えると感得する。リンチェンドルジェ・リンポチェに会って、どうなのかを確認してみようと思ったのだ。もしこうなら、しっかりその才能を育てて教主にしよう。こうなったら、お金を取れると思った。だが、彼は、子供が続けていくうちに出家してしまうのも恐れていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、他の人とは違う。信者に合わせることはない。もし、彼の意のとおりにしたなら、彼はこの娘の能力を培うよう育て、毎日より多くのお経を唱えさせるだろう。だが、彼の娘は転生した修行者ではなく、誰も認定する者はいなかった。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェに認定してもらうことを望んだのだった。だが、尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェに認定の法門を教えていなかった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェも認定しない。

娘は父親を信じて聞いたのだから、当然、父親が答えるべきだ。だが、父親はわざわざ他の人に聞いた。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの娘には善根、慧根があると言ったなら、あらゆる問題が現れる。よって、智慧なくしては衆生を救えない。もし、智慧がないのに衆生を助けようとしたなら、衆生を害するだけでなく、自分をも害することになる。続いて、彼の妻もまた、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を望んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは同意しなかった。「望む」ということは一種の欲望だからだ。彼女は入室した時、信じていなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェが変わっているのを見て、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を望んだのだ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持しなかった。みんなは、リンポチェに出会った時に、いい加減に話しさえすれば、加持してもらえると思ってはならない。あなた達の縁によるのだ。縁がなければ加持はしない。後でその原因について話そう。

経典に説かれているが、ここまで行なうには、必ず長い間、上師に依止しなければならない。上師に依止する時は、上師を一般の友人のように見てはならない。私たちの身、口、意の一切の不浄の行を断ち切ってくれるのであるから、身、語、意の三方面から心からの尊敬をもって依止しなければならない。みんなの中に、この点を実行できる者がいるだろうか?この点を実行できないなら、それに続く修行はすべて偽物となる。浄土宗は三福を修行しなければならない。第一は、師や先輩を尊敬すること、師を尊重しなければならない。上師に対しては言うまでもなく、あなた達は一般のお坊さんを尊重することもない。もし、長期的に上師に依止するのでなければ、自分の身、口、意を清めることはできない。

経典には続いてこう説かれる。依止するだけで万事成功するのか?多くの者が自分は修行しなくてよい、その時になったら、リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いしてポワ法を修法してもらえばよいと思っている。経典には全くこうではなく、心を込めて尊敬の心をもって行なう必要があると説かれている。私たちは一切の教えを求めるべきである。深く信じまったく疑わずに、何とかして縁にそむく一切の法を取り除く教えを得ようと考えるべきだ。しかも、常に進歩を続け、一切の教えを得るために、方法を考え、一生懸命に努力して学ぶべきだ。方法を考えるとは、あなた達に騙しに行けと言っているのではなく、会社に勤めない、結婚しない、仕事しない、勉強しないと言っているのでもない。

例を挙げると、ある医者である弟子は、最初の頃、非常に威張っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェに毎週金曜日に行なわれる施身法の法会を木曜日に変更させようとしていた。その当時、自分は医者で、道場は非常に小さかったからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に言った。「ダメだ。自分で方法を考えなさい。仏を学びに来て、修行したいなら、障碍や様々な事をどのように克服するかを自分自身で考えなくてはならない。方法を考えるには、円融な方法を用いなければならず、ある人の恨みを買ったり、人と喧嘩したり、無理矢理行なってはならない。この事をいかに行なえば非常に円融となるか、家族があなたの邪魔をし続けさせないようにするかを考えなければならない。簡単に言えば、あなたの表現方法、悪習を改められたかどうかだ。もし、改められたなら、人は、あなたは仏を学んだので、悪い習慣がなくなったと感じ、あなたを支持することだろう。

家族が支持しないのには他にも原因がある。普段あまり話をせず、言わなくてもいいと思っているので、彼らは信じないのかもしれない。彼らが信じるかどうかは、彼らが決めることだ。だが、あなたが仏法、上師を称えないなら、自分の福徳を積み上げることはできない。称えるとは、毎日口にすることではなく、機会、時間、因縁が合い、話せる時が来たなら、話してみる。リンチェンドルジェ・リンポチェは迷信を提唱しない。すべて、仏教の理論に基づいて皆を導く。寶吉祥仏法センターの規定は非常に厳しい。もし、既婚の女性信者が皈依するなら、夫は必ず、リンチェンドルジェ・リンポチェの前で同意をし、妻がこの道場で仏を学ぶことが明白であることを示さなければならない。逆に、既婚の男性信者も同様だ。こうすることで、上師はわずかな方法を使って、皆が仏を学ぶ上での障碍を減らすのを手伝っている。

あなた達には仏を学ぶことを妨げる様々な要因がある。ある弟子は、仏を学ぶために仕事を換えた。日曜日に来られなくなるからだ。だが、これは上師が要求したものではない。彼が来たいと思い、来ようとしたのだ。非常に重要だということを理解したので、障碍は自然に消え失せた。もし、方法を考えず、仕方がないと思うなら、本当に方法は見つからない。自分は忙しいと言うなら、本当に忙しい。仏を学ぶことは、ただ敬えばいいというのではなく、一切の教えを探し求めなければならない。上師が法会を開き、上師が法座に上って説法するなら、できる限り欠席しないようにしなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、人情を語らないのではなく、皆に必ず来るようにと言っているのだ。合理的な状況のもとで、上師は、皆が仏を学ぶ際の心のあり様を実際に理解し、知ることができる。因縁が現れ、上師はあなたを見、あなたが故意であるのか、または本当に縁が熟したのかを見ることもあるだろう。

求めるとは、一日中、リンチェンドルジェ・リンポチェにある法を伝授して欲しいと望むことではない。伝授されたなら、しっかり学び、しっかり修行しなければならない。修行しようとしないなら、たとえ次の教えを聞いても、実行できない。前に教えたことを実行できないなら、その後、どう教えようと役に立たない。皆は自分で方法を考え、精進し、努力して修行の道を歩み続けなさい。一日は24時間、時間をどうにかコントロールして、念仏を唱え、礼拝する時間を作りなさい。方法は全て、あなた方が考えなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆の家に住んでいないのだから、皆の日常の生活方式は分からない。もし出家者なら簡単だ。朝4時に起床し、皆で一緒に食事する。食事が終わったら朝の日課だ。すべてスケジュールが決まっている。各人の家庭での生活方式は異なる。だから、自分自身で方法を考えなさい。自分で考えないなら、仕方ない。こうだから、ああだからというのもあなたの方法だ。

尊勝なる直貢チェツァン法王は、こんなにも多くの法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝授された。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが方法を考えないなら、どうやって修行するのだろうか?自分自身でまず先に時間を割り振りし、リンチェンドルジェ・リンポチェが尻を叩いてからやっとするということのないようにしなさい。もしこうなら、あなたが何も考えていないことを表している。仏法の特色は、聴聞した後に思惟することにある。自分の身、口、意と、仏法がどれほどかけ離れているのかを注意深く思惟しなさい。もし、非常にかけ離れたものなら、自分の身、口、意の行為を改めなければならない。また、自分の時間をどのように振り分けるかを考えなければならない。全てを仏菩薩、護法にお願いし、しっかり修行する時間を作ってもらうというのは、不可能なことだ。自分自身でやらなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一日中、こんなに忙しいが、なぜまだ、休む時間があるのか?自分でしなければならない事をする時間がなぜまだあるのか?これが、自分の時間の振分けなのだ。

皆は大人なのに、人にこんな事まで教えてもらうのか?時間を作ろうとしないのは、怠けだ。沢山の理由を自分に与えて、今日は時間がないからと、アキ護法に向かって「今日は時間がないから、数珠一回りしか唱えられない、或いは、お茶を供養するだけしかできないが、明日補います」と言っている。こういう事をしたことがあるだろう!何を補うのだ?アキは血も不足していないのに、補う必要があるのか?アキ護法は子供を生んだことはあるが、すでに仏の境地に至っているので、補う必要はない。あなた達こそが補う必要があるのだ。このような話は、まったく話にならない。自分自身で時間を振り分けなければならない事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが皆の上師だからといって、どんな事もリンチェンドルジェ・リンポチェが教えてくれると思ってはならない。自分のことは自分で段取りしなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、分身して皆の家にいることはない。

自分の生活方式をどのように段取りしたらよいのかを聞かなくていい。何を考えているのだ?皆はもう大人なのだよ。毎日自分は間に合わない、時間がないと考えてはならない。自分が毎日浪費している時間は何なのかを、少し考えなさい。ある者は歯磨きをしながらテレビを見ている。時間の浪費ではないか?ご飯を炊きながら、携帯電話をそばに置いている。時間の浪費ではないか?時間はこんなにも沢山あるのだ。いかに時間を充分に利用するかは、すべて自分が段取りし、自分で考えることだ。誰も助けてくれない。たとえ、ある人が隣で見張っていたとしても、1秒遅れれば、1秒少なくなるのだ。1分遅れたら、1分少なくなる。自分がどう決めるかによる。

恭敬は根本的な条件だ。あなた達自身が、恭敬した後に得られた教えなのだ。自分で頭を使って実行したのか?このような事は人に教えてもらわなくてよいのだよ。以前、時間を盗んでデートしていた時、時間をどれほどうまく段取りできただろうか?時間の合間の30分でこっそりと出掛けられた。このような精神で仏を学ぶことはできないのだろうか?皆は以前、こっそりと出掛けたことがある。たとえ交際していなくても、両親を騙してどこかに出かけたことがあるだろう。時間を盗んで出かけるような能力があるなら、なぜ、あなたにとり、将来の人生の助けになることをする時間を段取りできないのか?明らかに、怠け、たるんでいて、のんびりして動けなくなっているのだ。帰宅したら疲れが出るので、まず先にちょっと横になろうと思ってはならない。横になっただけで、30分はなくなってしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェの習慣は、帰宅してどんなに疲れていても、先にすべき事をする。修法すべきなら先に修法する。時間もほぼ30分だ。皆は、容易に一気にたるんでしまう。一旦たるんでから何かをしようとしても、元気がなくなってしまう。

やりおわったら休むのなら、心の中に気掛かりとなるものはない。皆はまったく違う。それぞれがこのようだ。帰宅したら横になり、お茶を飲み、テレビを見る。それからやっとアキ護法を思いつく。だから、アキは本当に可哀相だ。幸い、直貢噶舉派にはこんなにも沢山の弟子がいるので、皆の供養がなくてもたいしたことはない。今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示は非常に重要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは叱責ばかりしていると思ってはならない。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは心から尊勝なる直貢チェツァン法王を敬っていると言う人が沢山いるのだろうか?彼らは表面的に見ているのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが行動上で直貢チェツァン法王を敬っているのでもない。簡単に言うなら、弟子が上師を敬わないのなら、上師は法を伝授することはないのだ。たとえ法を伝授されても、弟子が上師を敬わないのなら、法を円満に修めることはできない。弟子は必ず、心から敬い、しかも怠けず、時間を作り修行しなければならない。

皆は、そうでないなら、棒で尻を叩いても修行せず、自分の家族、子供の用でと沢山の言い訳を言い立てる。毎日、どれ程の人がリンチェンドルジェ・リンポチェを尋ねてくるのか?人の他、多くの衆生もリンチェンドルジェ・リンポチェを尋ねてくるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつ、暇にしているのか?だから、問題はすべて、あなた達自身にあるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが転生のリンポチェなら、言うことはない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは転生の化身ラマやリンポチェではなく、今世で修行し成就を得たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの一生で修行をして、ほんの小さな果位を得られたということは、皆も成就できるということだ。成就できないのは、自分の心のあり様に問題があるのだ。

あなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼り続けてはならない。自分が死んだ後にリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修法してもらうことに頼ろうとしている。それはまるで、多くの人が一日中、ミスをしてリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔するようなものだ。なぜ、一日中、ミスをするのか?ミスをする必要はない。皈依したその日から、上師、仏法を敬うのなら、ミスをせず、しっかりと自分を見つめるはずだ。皆の問題は何が原因なのか?それは、仏法を語る時に初めて、リンチェンドルジェ・リンポチェを上師とみなし、仏法と関係ない時に上師と思わないことにある。どんな事も、仏法と関係ないものはない。道場を離れて他の事を行うことは、仏法と関係ないと思ってはならない。自分がその人達を罵ったことを皆は知らないと思ってもならない。実のところ、皆は知っているのだ。地球はこんなにも小さいのだから。

あなた達が皈依したかどうかに関わらず、以後、続けて来るかどうかは、全て、自分自身が決めることだ。だが、三宝への恭敬は必ず培わなくてはならない。三宝を敬まわないのなら、供養もなく、供養がないなら福徳はない。福徳がないなら何を修行しても役に立たない。自分はとても精進していると思ったり、そこで真っ直ぐ座っていれば、禅定がよくできているなどと、思ってはならない。こうではないのだ。重要なのは、恭敬心だ。恭敬心があれば、傲慢な心は去っていく。傲慢な心がなく、慢心と疑心がないなら、貪、瞋、痴が生じる機会も少ない。傲慢な心があるなら、たとえ真実の仏法を語ったとしても、心に善がなく、善の法は入ってこない。ただ、一部の自分の好きな話だけが聞こえて、一部の聞きたくない話は聞こえず、一部は役に立つが、一部は役に立たないものとなる。

仏法は、すべてが衆生に有益なのだ。一つの文字、一つの偈文、短い言葉であっても、私たちに悟りを開かせる。御仏は綺語を言わない。つまり、いい加減な話をしたり、修行と関係のない話は言わないのだ。ただ、清らかな心で、経典の中のそれぞれの文字を聴聞するなら、ある日必ずその中の奥深い意味を悟ることができる。御仏の語る意味を検討し続ける必要はない。検討できないのだ。なぜ、仏法を学ぶには必ず、上師が必要なのか?上師は経験のある修行者で、このような修行の経験があり、あなた達の問題がどこにあるのかを知ることができるからだ。修行者は、明らかに問題があるから修行するのだ。自分の問題を徐々に減らしていった後に、衆生の問題をはっきりと見ることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェが先に取り上げた数人の信者の例のようなものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分で修行の過程を経ておらず、自分の貢高我慢の心を取り除いておらず、名聞利養を重視しているなら、信者に弄ばれてしまう。よって、一人の上師となるのは、そんなに簡単なことではない。容易に人に影響されてしまうからだ。

先週、ある男性信者が謁見を求めてやって来た。昨日も来た。彼は先週来た時、一日中、身体に衆生がいるようだ、どんな事が起きるのか等と言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を見たところ、精神病や邪気に当たったようでもないので、彼が話し終わった後に、「帰ってから『疑心暗鬼』という言葉を一週間考えるように」と告げた。昨日、彼は、二人の男の子を連れて、本当にやって来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼の友人に、「なぜ一緒に来たのか」と尋ねられた。彼は、「何でもないんです!彼の問題が解決したかどうかをちょっと見に来たんです」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「どこかで皈依したことがあるのか」と聞いた。彼は「ある」と答えた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは叱責した。「まだ肉を食べているではないか。肉食しているのに仏弟子と言えるのか?『地蔵経』を唱えたことがあるだろう。地蔵菩薩の母親は、ある一世でスッポンの卵が大好きだったので、死後、地獄に堕ちた。まだ肉食しているなら、仏弟子とは言えない」。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、もう一人の友人に「どんな用なのか」と尋ねられた。彼は、「何もありません」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に告げた。「おめでとう。御仏だけが何も問題がないのだ。他には、転生の大菩薩だ。だが、たとえ転生の大菩薩であっても、菩薩となる前には必ず、世間の諸々の苦しみを体験する。こうしてこそ、衆生の因縁にもとづいて助けることができるのだ。通常、リンチェンドルジェ・リンポチェに、自分には問題がないという人には二つの状況がある。一つは、三宝を敬わない人。もう一つは傲慢な人だ。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、友人を連れてきたその人に、やはり加持を与えなかった。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが一週間前に加持を与えていたなら、昨日は問題が起きた。彼は偽物だからだ。本当に鬼がいたのではなく、わざと、問題を提起してリンチェンドルジェ・リンポチェを試すつもりだったのだ。多くの人は、彼は精神病、業障、祖先の鬼だということを信じ、「問題ない、法会に参加して済度してもらえば大丈夫だ」と彼に告げた。彼は試しに来たのだった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが言った言葉は本当に霊験あらたかだ。まったく他心通がないなら、法座に座ることは本当にできない。

その二人の友人は、昨日、なぜ一緒に来たのだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは意味ありげに、友人に「疑心暗鬼」と一言いい、他は何も語らず、加持もしなかった。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に加持を与えていたなら、その後には問題が出たはずだ。彼は恐らく、「私には鬼がまだついている。何の加持を与えたのか?霊験なしだ!」と言ったことだろう。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日、加持を与えなかった。彼らは試しに来たのだ。その結果、リンチェンドルジェ・リンポチェによって試され返された。この数人は、大学の仏教学サークルの、世間一般でよく言われる先生、偉大な兄弟子というような人で、自分は仏法を聞き、仏法を理解していると思っている。仏法、禅定、経典を教える先生がいて、道場破りにやって来たのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘆いて言われた。「リンチェンドルジェ・リンポチェという仕事はやり難い。恐らくまもなく退職すべきだろう。この人は、彼に鬼道衆生がいるかどうかをリンチェンドルジェ・リンポチェが見られることを知らない。だから、試しに来たのだ。リンポチェをするには、ごまかしは効かないのだ。

続いて、非常に大切な事を説かれた。多くの人は、密法はなぜ、いい加減に伝授しないのかを理解していない。皆にどう言っても聞く耳を持たない。ちょうど少し前に、リンチェンドルジェ・リンポチェが『寶積経』を見ていた時に、その中に取り上げられていた一節がある。これは『寶積経』の第十四、密迹金剛力士会(みっしゃくこんごうりきしえ)第三の七の後半である。御仏はこう説かれた。「阿難,勿持是法授非法器。莫得授與諸悪知友(阿難よ、法器でない者に法を伝授してはならない。諸々の悪友に伝授してはならない)」その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏教学院の出家弟子に、法器とは何かを説明するよう、指示された。出家弟子は、法器とは、法と相応でき、しかも修持(修行を持続すること)できることだと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは法話を続けられた。法器の定義は、因果を信じ、仏法を信じ、三宝を恭敬する人のことである。御仏は、『寶積経』の中で、はっきりと説かれている。「法器にあらざる者には伝授してはならない。〔これには〕悪友を含む」。

仏を信じている者は皆、善だと思ってはならない。真の悪友は、仏教団体の中にいるかもしれない。仏法という名を語る、仏に付く外道だ。外道とは外を求めることだ。師に皈依して心を安らかにする、これこそが外道だ。内側に向かって自分の心の修行をするのでないなら、外道なのだ。続く経典には「是経不帰非法(経は非法に帰さず)」と説かれる。この経典は法であらざるものには属さないということだ。つまり、御仏の語る一切の仏法を信じない者には、伝授してはならないのだ。「当帰応器(まさに、器に帰し応じる)」である。はっきりと語られている。この経典は法器を具えた人にだけに語るものである。よって、法器者でないなら法を伝えない。自分が法を求めれば上師は与えてくれる、ここに来たなら教えてもらえると思ってはならない。

現在、法会への参加を求めに来る者がいたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、必ず、なぜ来たいのかを聞き、彼は法器であるかどうかを見る。もし、違うなら、来なくてよい。アキ護法は慈悲深く、数名の出家弟子をリンチェンドルジェ・リンポチェのところに派遣してきた。彼らは、別の所からここに来たので、皆をそこへ紹介することができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは互いを分け隔てているのではない。あなた達の基礎、縁法、根器によっては、伝えない法もある。『寶積経』の中に説かれるようにだ。しかも、これは経典であり、まだ、密法ではない。

ある者は自分で見ることができると言う。見えるのは、伝授と同じではない。お経を唱えることが本経を伝授したことであると思ってはならない。ただ単に解釈説法する者がこの経典に対して悟ったという以外は、ただ単に解釈しただけだ。経典は、みんなに研究させるものではない。修行させるものだ。もし、経典に説かれている方法を次第に基づいて修行しないなら、たとえ唇が裂けるまで毎日唱えたとしても、やはり修行していないことになる。御仏が阿難尊者に告げられた。阿難尊者は阿羅漢だ。道理にしたがえば小乗を修行したことになる。なぜ、大乗仏教を阿難尊者に聞かせたのだろうか?御仏の弟子について言うなら、大乗、小乗、金剛乗の別はなく、ただ皆の根器が異なり、異なる法門に接触したに過ぎないからだ。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある者は密法を修行してはならないことを宣言した。多くを語ったとしても、多くの人はやはり、聞いても理解できない。なにが素晴らしいのだ、なぜ密法を語らないのか?と思う。これは経典に説かれていることだ。釈迦牟尼仏はリンチェンドルジェ・リンポチェに対して、非常に慈悲深い。リンチェンドルジェ・リンポチェが経典を見る時、経典を開くといつも、説法の内容がある。今日、御仏が語られたことは非常にはっきりしている。皆も調べてみなさい。御仏は特に、阿難尊者に言い付けている。阿難尊者が人だからだ。阿難尊者に、法器でないなら、この経典を伝えることさえもしてはならないと説かれた。これは、上師である者は、最低一つの条件を具えなければならないことを意味する——衆生が法器であるかどうかを知ることができる、という条件だ。

法会への参加を求める信者一人一人に、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ、参加を求めるのかと聞く。多くの者が面倒だ、なぜ参加させないのかと思っている。心が正しくなければ参加させない。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがお金のため、名誉のためではないからだ。お金、名誉のためなら、当然参加させる。法器とは何なのか?最低レベルでは、三宝に対する恭敬だ。後ろの事は、まだ話す勇気はない。話したなら、皆はすっかりいなくなってしまうだろう。一人残らずだ。こうでもいいだろう。それなったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、アキ護法と共に修行しよう。

今日特に、この部分について説法し、密法は神秘的なものではなく、語ってはならないものなのではなく、あなたの根器、縁が熟していないので、法を語れないのだということを皆に話した。語ったなら、皆を害することになり、自分でうまく修行していると思わせてしまう。密法は、一刀両刃の法門であり、衆生を利益できるが、自分と衆生を傷つけることもできる。だから、心のあり様が間違っていて、福徳資糧が不足しているなら、たとえ、聞かせたとしても修行で成就を得ることはできない。たとえ、あなたが法会に参加しても、福徳資糧を具えておらず、三宝を恭敬しないなら、自然に去っていくことになる。本当に奇妙なことだ。来ていた法師がしばらくして、いなくなってしまったこともある。後ろまで語ったら、彼は、とても実践できない、自分は一人の在家の修行者を敬うことができないと感じたからだった。間違った理解をしたのだ。八大菩薩の中で、地蔵菩薩が出家相で現れた他、七名の菩薩は皆、在家相で現れ、すべて髪の毛があった。頭髪のない菩薩はどの菩薩だったのか?もし、在家の修行者を敬えないのなら、菩薩すべてを拝むことができないのではないのか?菩薩は在家だからなのか?

彼らが去って行ったのは、恭敬心がないからだ。後ろを聞いて、来る気がなくなった。実際には、出家か在家かは重要ではない。これは全て、あなたの縁なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去世において、二世は出家者だったはずだ。今世で戻ってきて返済をしている。在家の身は容易に返済できる。出家の身では返済は難しい。在家でのビジネス、結婚、子供を持つことはすべて返済できる。だから、子供と夫婦はすべて借金の取り立てだ。皆は、仏法は世間一般で考えられている宗教ではないことを理解しなければならない。宗教が必要なら、他の宗教もいいものだ。だが、真に生死から解脱する修行をしたいなら、必ず仏法でなければならない。他の宗教では絶対に実践できない。

数週間後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、人の死ぬ間際の様子がどの道へ往くのかを証明することを話す。皆は、一つも実践できないので、聞いたら恐がるだろう。だが、話さないわけにはいかない。言わなければ、仏がすでに語っていることを信じないだろう。現在、世の中には仏法に対する沢山の誤解がある。皆は経典を気に留めないからだ。特に、『寶積経』を気に留めることはない。『寶積経』は発心をし菩薩道の修行をしている菩薩に語り、聞かせたものだ。だから、内容には奥深い仏理があり、一般の修行者でない者は理解及び解釈できないものだ。現在、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの方面について多く語っている。『寶積経』は直貢噶舉派における多くの仏理の根本である。

昨年、尊勝なる直貢チェツァン法王が、今後は『寶積経』を沢山説くようにとリンチェンドルジェ・リンポチェに言い付けた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で承知した。恐らく尊勝直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを重く見たのだろう。『寶積経』を語るのは容易ではないのだから。寶吉祥仏法センターは小乗及び大乗を学ぶ道場では絶対になく、金剛乗の教えを修行する道場であるのだと言ってもよい。『寶積経』を説くからには、上師の弟子に対するパンチ攻撃は益々激しくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて話された。ワンパンチであなた達を叩きのめすかもしれない。だが、構わない。もし、叩きのめしたら、あなた達の済度を助けることになる。

皆はこの事を理解しておきなさい。仏法は、聞いて分かる者もいれば、聞いても分からない者もいる。完全に、法器であるかどうかに拠るのだ。御仏は、『大蔵経』のタントラ(tantra)にも根器でない者には伝授してはならないと説かれている。話すことさえもしてはならない。御仏もかつて、「もし、衆生が今世で「空性」を学ぶ資格がないなら、空性について語ってはならない。もし衆生に、空性の法門を学ぶ因縁があるなら、「有」について語ってはならない」と説かれている。有部と空部は、以前、常に争論されてきたが、これは正しくない。御仏は、「有」或いは「空」のどちらが正しいのかを語らず、法は、衆生の根器によって伝授したからだ。数千年を経て伝えられ、多くの錯綜、複雑な伝法方式があり、錯綜、複雑な方法も現れた。だが、これらを御仏は説かれていない。経典には、「是経不帰非法(この経、非法に帰さず)」とある。簡単にはっきりと言うなら、この経典は、私たちを輪廻させるものではなく、必ず、私たちを輪廻から解脱させ、空性を会得させる経典であり、あなた達が一般に外で体得したような仏法ではない。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは皈依していない信者、密法の伝授を許可していない弟子、皈依して3年未満の弟子に、この場から退場し、不共の四加行を伝授した弟子に残るよう指示された。並びに、不共の四加行を、皈依して3年になる84名の弟子に慈悲深く伝授された。

法会は円満に終了し、弟子たちは声をそろえて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによる慈悲の伝法および素晴らしい開示に感謝を込め、起立して、法座から下りられるリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。

<« 昔の法会開示 – 法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2019 年 02 月 02 日 更新