尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年1月31日

旧暦の元旦、台北寶吉祥仏法センターにおいて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ御自らが主催され、午前中に黒水財神、象頭財神の法会、午後に上師供養法の法会が行われた。

法会が始まる前に、米国籍の弟子が英語で、彼と家族が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにどの様に助けられたかの経過を分かち合い、彼の妻(彼の妻と娘も皈依弟子)がその場で中国語の同時通訳をした。

彼は、2012年9月27日に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに救われた過程において、恐らく人の目からは通常の事に見えるかもしれないが、彼にとっては貴重で特別な事が沢山発生した。また、皈依したばかりの弟子である彼は、理解できない事が沢山あり、過ちを犯すことを心配していたが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの説法を聴聞した後、彼は自分には責任を必ず負わなければならない間違いがあったことを理解した。

長年、彼はずっと仏法を学びたいと思っていたが、仏法は完全無欠で、完璧、明瞭であると固く考えていたので、至上の仏に学ぶだけでよいと思っていた。当然ながら、上師は経験を弟子達に伝えることができるが、最後はやはり自分で修行しなければならない。彼は、仏陀は、衆生は皆、自分で解脱の道を修行する必要があると言っていたのではないか?と自分勝手に考えていた。長い間、自分の皈依した上師達が、口で語っているほど実修していない事にずっと気付いていた。

彼の妻や娘が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの事跡についてどう話そうと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ御自らが上師に近づく機会を与えられ、上師のために陶器を焼かせてもらっても、彼は依然として自分の考えに固執していた。慈悲深い尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼に陶器の注文を与えられた時、いかなるプレッシャーも与えず、完全に彼の思うままにさせ、最後に彼の不完全な作品を注文書に基づき全て受け取って下さった。彼は、機会を作り続け、福徳を積ませて下さった上師の御恩に感謝した。

さらに彼は、皈依する前に、両親の面倒をみて下さっていた上師に感謝を捧げた。彼は、当時、妻の話を聞かず、年輩の両親のために、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに祈らなかったことを懺悔した。そして、その時、前後に他界した両親を依然として加持して下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。両親が他界してすぐに米国に到着した時、両親の身体は柔らかく緩んでいた。まるで「こっそりと」去っていったかのようであった。彼の兄弟達も悲しむことはなかった。両親が病苦から離れたので嬉しく思うこともあった。また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法の法会の時に両親を済度して下さった(父親の出棺の日、ちょうど施身法の法会であった)。法会後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法をまだ聴いていない衆生を天界に導き修行させる金色の瑞雲があると説かれた。ここで彼は、再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

彼は、西洋の教育を受けており、客観的に物事を見ていた。さらに、自分の人生経験が加わり、世の中に恨みを持っている人でもあったので、変わるのが遅かった。だが、土曜日、寶吉祥仏法センターにて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、仏法の問題について尋ねた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、はっきり明瞭な言葉で、修行及び禅定には必ず上師が必要であり、しかも、彼が修行したいと思う方式は出家者に適していると説かれた。これによって彼は出家したいと考えるようになった。毎回、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した後、彼は、心が非常に静まるのを感じ、座禅がしっかりできるようになった。また、睡眠、目覚めた後には、歓喜の感があった。次の週、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに報告すると、上師は微笑まれ、喜びの表情をされた。

ある時、彼が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、信者が多いので、彼のために長く説法できないとおっしゃられた。そこで、彼は皈依を願うと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに「よろしい!登録して来なさい」と言われた。その当時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェも長い間、彼の妻の供養を受けられていなかったのに、その後供養を許可された。更に彼の妻に「夫を連れてきた!」と告げられ、次の日の共修法会の中で皈依の法会を執り行われた。

彼は世間の難問を簡単に言葉で解釈できないことを知っていた。だが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、衆生の状況に基づいて最も明瞭な説法をされた!彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに気軽に説法を求めることを望まず、問題は自分で解決し、本当に理解できない時に上師に教えを請うことを望んだ。

以前、上座部仏教を修していた彼は、チベット仏教の多くの教法及び規則を理解していなかった。そのため、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼が仏法を学び、仏法を受け入れられる手助けをされた。仏法はただ一つであり、衆生は悪習から因果の輪迴に深く陥っているので、仏法を学んでエゴから離れなければならない、と説かれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに、「私は嘗て自分の事を考えたことはない!」と説かれた。勿論、エゴを離れることは簡単ではない。だが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「言う事を聞くだけでよい!」と説かれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがこの様に説かれたのは、彼に上師に対する信心を持たせ、説法が理解できずに気が萎える事のないようにし、さらに上師から学ばせるためであった。

ある時、彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに教えを請った。いかにして、本当の慈悲心を生起させるのか?智慧に頼るのか?尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。「実際に上師の慈悲のやり方に関わり、それを分かち合うだけで、上師の慈悲の功徳の大海の中にいることになるのだ!

彼は、仏法に対して非常に多く誤解していたことを懺悔した。彼は以前、衆生を殺生したり傷つけることは間違っているとは思っていても、自己防衛のために殺生を合理化していた。ここで、自分の無知によって無数の衆生を傷つけたことを懺悔した!彼は、自分の過ちを見せてくださった上師の教えと導きに感謝した!

彼は物質的な物は心のあり様によって新しい価值が得られることを深く感じ取っていた。ある時、彼は、自分で珍しいと思った布を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに供養として捧げた。だが、当時過ちを犯したために、土曜日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することができなかった。そこで、土曜日に道場に入ることができるよう特に求め、これによって自分の心を表すことを願った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔した後、上師は布の源を尋ねた。彼は家に伝わる物だと答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは最後に「彼の供養の心のためにこの供養を受け取る。この供養によって、彼及び家族に福徳がもたらされるだろう」と説かれた。

一時が過ぎ、彼の家は大きな困難に向き合った。彼はもともと知らなかったのだが、あの時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼の家がこの大きな問題を乗り越えられるようにと助けられていたことを後になって知った。感謝と慙愧の念をもちながら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた時、上師は、何も慙愧することはないと言われた。それは、仏のように、「上師は家の中で最も身近な家族だ」と説かれたからだった。彼は、上師の無尽の加持に感謝をし、彼の信心は益々高まっていった。

長年、彼は仏法に集中し生活を反省することを試みていたが、結果は得られなかった。彼は常に執着し、好悪に邪魔された。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼に恭敬心、感謝の心、従順の心を持つよう諭された。この三つの宝は、時に彼が私欲の深い淵に陥りそうになるのを助けてくれるものであった!また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、因果を恐れるようにと彼に促された。彼は、これが最良の修行であり自己反省の道具となることに気づいた。だが、自分はやはりよく迂闊になり、自分勝手、好悪、欲望によって修行への集中を妨げたことを懺悔した!

また、彼が皈依したいと思った時、自分が重病であることに気付いた。彼の肝臓は長期的に炎症を起こしておりC型肝炎に感染していた。皈依後、病状が非常に重いことが分かった。当初、医師でさえも、助ける薬はなく、3年しか生きられないので、アメリカへ行き生態肝移植を考えるべきだと言っていたが、彼はこの様に思わなかった。上師の加持と仏法の薫陶によって今までこの様な心配がなかったことを感謝し、毎日、死の無常について修習することができた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した後、上師は、貴重な説法を授けられた。「それ程重くない」そして更に「冷たい物を食べてはならず、コーラを飲んではならない」と説かれた。

ある時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「あなたの状況をよく理解している。債務を返済し終わらないなら歩いていけない!」と説かれた。彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て加持を与えられて「あなたは上師のために、更に10年間焼き続けられる!」と説かれた。病はまだあるが、彼は永遠に、上師の加持がずっとあることを忘れていない!

昨年、満62歲になってから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、長年、解脱を得られる正法をあちらこちらと捜し求めていたが、ずっと見つからなかったこと、この世での最大の成果は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したことであり、もし生き続けても解脱のための修行に役立たないのなら、生きることは不要だということ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに仏法を学ぶことができるなら、何も後悔することはない!と報告した。これに対し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲の笑顔で応えられた。

西洋医学の薬では病気を治すことはできなかった。現在、彼は、漢方の病院で病気を診てもらい定期検診を行なっている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある時彼に「状況はどうか?」と尋ねられた。彼は「安定してます」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはただ笑って「不思議だ!」と言われた。

彼は、医師がどの様にして自分の病状を分析するのかを知らなかった。昨年、医師が彼の肝臓を助ける薬はないので、再生できないと言っていたのであるが、最近の定期検診で、医者は「肝臓は損傷しているが再生している。病気であるが徵兆はない」と言った。彼は、これら一切を、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝すべきである!と思っていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼に貴重な仏法を教えられ、修行する時間を与えてくださった。感謝という二文字では気持ちを表現することはできない!

彼は、病気であっても十分に正常な生活を送れることを知っていた。そして更に、貴重な仏法を学ぶことができた!彼は、自分の毎日の行為全てが善であり、他人及び衆生を助けることを望んだ。自分の因果を見ることはできなかったが、仏道を得ることは難しいことを深く知っていた。よって、悪業を止めて、しっかり仏法を学んだ!仏法を学ぶ道で最大の貴重な宝は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェであった!最後に彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康と、法輪が常に転じられ、直貢噶舉派の伝承が永らく続くことを祈った。

午前9時半、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、殊勝な黒水財神及び大象財神法門の修法を自ら執り行われた。まず最初に、出家弟子ら代表が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダを献上されて求法し、続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参加者に対して貴重な開示を下された。

今朝、皆のために二つの財神法を修法する。財神法は、密法の中では、息、懐、増、誅の中の「増」法に属する。多くの人が、財神法の修法が終われば、すぐに大きな富が得られ、給料が上がる等と思っているが、この考えは正しくない。世俗の人から見れば、財はお金であるが、仏法から見れば、財は世間財と法界財に分けられる。世間財は、私達が得られる一切を指し、人、人間、一切の有情衆生に対して利益のある物質だ。だから、財は単純にお金を指す。

人、畜生、或いは一切の有情衆生にかかわらず、もし、この一生の運命の中に財がないなら、苦しい日々を送ることになる。例をあげると、皆は、餓鬼道の中の衆生が食物を食べられないことを知っているだろう。だが、餓鬼道の中にも異なるレベルがある。もし、運命の中に財のある衆生は一時食べられる。財のない餓鬼道の衆生は、食物が喉元に来ると火になってしまう。仏典の中には、鬼道の衆生が物を食べる事さえも彼に財があるかどうかによる。財は六道衆生の福徳の中の一部である。私達が今世で人間界に来て享受する一切が財である。

お金をあげれば物が買えると思ってはならない。お金があっても必ず物が買えるとは限らない。財がないなら、手元にお金があっても良い物は買えない。良い食べ物も食べられない。お金があっても、良い物を食べるのを惜しみ、200元のバイキングで吐くまで食べる者もいる。お金のある者もLCCの航空会社を選択する。今日のニュースでは、あなたが乗ったLCCの飛行機に何らか問題が起きても、その後のサポートをしないことが報道されていた。この様な人は、一生の中でお金があるように思われるが、このお金を使う福徳がないのでお金がないのである。

お金が銀行にあるから財があると思ってはならない。また、この一生で御布施を沢山したから財があると思ってもならない。財は、生生世世の修行で得られた福徳である。中国人が書く字はとても面白い。「財」という字の一方には貝があり、もう一方には才がある。それは、古代の貨幣には貝殼が用いられ、貝殼こそが物事を行なう能力を持っていたからだ。少し簡単に言うなら、この一生では、私達が行なおうとする何れの事にも能力が必要だ。この能力は、生生世世の修行で得られた福徳である。ある人は、非常に裕福な家庭に生まれたがお金を使えないこともある。ある人は貧乏であるが、よく人からご馳走される。よって、財の定義はこんなに狭いものではない。今日、財神法の法会に参加したからと言って、年を越したら社長が給料をアップしてくれる、ビジネスがうまくいくと思ってはならない。これは、私達の全ての財の中のほんの少しだ。医者がちゃんと診てくれるかどうか、薬を正しく飲んだかどうかも全て財の中に含まれる。

経典に基づくなら、財は供養、布施から来る。供養、布施の定義は、何かをあげたから、それが戻って来るというのではない。現在、多くの者が、あなたが供養をするだけで、今後、10倍、100倍、1万倍になって戻って来ると宣伝している。経典の中で釈迦牟尼仏は供養の功徳について説かれているが、これはあなたの目標ではない。もし、この様な気持ちで供養するなら、得られるのは、ただ、とても小さな世間財となる。世間財は、この一生で使い切ってしまう。死んだ後は持っていけない。この世を去る時に、ほんの僅かなお金さえも持っていけない。100万、1000万の紙のお金(注釈:紙のお金を燃やすと他界者があの世で受け取れると考える風習)を燃やしたとしても、あなたは一円のお金も受け取ることはできない。

もし、紙のお金を燃やさなかったら祖先がもらいに来ると言う者がいる。実際には、祖先がもらいに来るのではなく、彼が生前にこの様な教育を受けていたのだ。中国人には数千年前からこの様な風習があり、この様な、死んだら財をもらう遺伝子がある。実際に、燃やした紙のお金は受け取ることができるのか?絶対に受け取れない。試しに考えてごらんなさい。紙が燃えたら灰になる。相手はどうやって受け取るのか?彼は心の中で、自分は受け取れると思っている。だから、一年燃やさなかったらやって来ると考えるのだ。この様な風習的な物は、衆生の苦しみを徹底的に解決できない。

仏は、嘗て、どのような心持ちで、生生世世、供養、布施をするべきかを教えられた。即ち、供養者、布施者は「三輪体空」が必要である。リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいる時、「三輪体空」についての解釈を聞いたことがある。それは、供養するという感覚がなく、供養する物が空性であると感じ、供養する対象も空性であるとの解釈であった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの言い方に疑問を持っている。もし、仏が、供養者、供養を受ける者、及び供養の中間にある媒介物(即ち供物)が空性であることを指しているなら、「相」を用い「輪」は語らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を学んで初めて、仏がなぜ「輪」を語ったのかを理解した。よって、「願解如来真実義(願わくは如来の真実義を解せん)」は、字から解釈するものでは全くない。

「輪」は車輪ではなく、輪迴でもない。密法を学ぶ者は、人の身体に脈輪があることを知っている。今日は旧暦の一日であるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは特に少し話す。これは密法には数えられず、ただの常識だ。私達の身体には「身輪」、話をする箇所には「喉輪」、意識には「心輪」がある。三輪体空は、供養する時に最初に想念し、想念の後に話し、話した後に行なう。何も言わないで持って行くことは不可能だ。上師は必ずあなたに聞くので、あなたは「上師に供養いたします」と答えるだろう。三輪体空とは即ち、供養する時の身、口、意の本体が縁に因(よ)り生じ、縁に因り滅することを意味する。供養を終え布施を終えると、この事は終了する。自分がどれ程の事をしたかとずっと考える必要はない。あなたにこの考えが浮かび、自分が供養、布施をしたかどうかに執着するなら、修行者は来世でまた戻って来なければならない。あなたがこの善業の業力に執着したからだ。

よって、仏法では、供養する時には三輪体空でなければならないと説く。供養する身、口、意を指すが、供養する人、供養する物、供養を受け取る人を指しているのではない。縁起は、あなた達が供養、布施をすることであるので、本体は空性である。因縁がなければ供養できず、対象がなければ布施できない。本体(即ち法性)は清らか、空であり、ある見返りを求めて行なうのではない。この様な供養、布施は法界財となり、全て使うことができる。もし、善事や、野良犬を助ける事や、お寺の中の煉瓦にあなたの名前が付記されることで自分が供養していると思い、執着するなら、これらの供養は全て有為法に堕ちる。

有為法の考えは、即ち、あなたがあの煉瓦は自分が供養したのだと思うことにある。一つの軽率な考えによって、その煉瓦の上の虱になって煉瓦の上で成長するかもしれない。それは、あなたが、それは自分のだと固執するからだ。なぜ、夫婦や子供になるのか?それは、前世であなたが相手を助け、この一世で債務の返済に来たからだ。今日は、皆のために財神法を修法するので、皆にはっきりと言っておかなければならない。最初に皆のために長寿仏を修法する。寿があり財がないのではいけない。世間財或いは法界財を問わず、一人の修行者にとっては、どちらも必要だ。資糧がないなら修行しようとしてもできない。当初、釈迦牟尼仏が成仏する前、奥深い山の中で6年間何も食べなかった。そこから出て来た時に、最初に一人の羊飼いの女が山羊の乳を供養として捧げた。これも財施であり、これによって仏は体力を取り戻し、座禅を続けることができた。

仏法を学んだら、身体は偽物なのだから気をつけなくて良いと言う者もいる。そうは言うものの、この身体がなければ修行はできない。自分が神になってから修行しようと思わなくてよい。あなたが氏神になったら、毎日誰かが供養を捧げてくれるので、傲慢な心が益々高まる。福徳のある餓鬼道に堕ちてしまったら、神や氏神になったら、生死からの解脱は難しい。供養、御布施の重点は、差し出した後に何かに交換することにあるのではなく、元々捨てなければならないことが大切だ。捨てるのであれば、虚空の中であなたと縁のある事物、縁のない事物は自然にあなたとの関係ができ、関係が生じると、あなたが衆生を助けようとした時に自然に物事が実現できる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの数年、尊勝なる直貢チェツァン法王と教派のために何かをしようとすると、助けてくれる人が沢山現れた。これも財だ。なぜ、この様な人が現れたのか?前世で、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェに借りがあり、リンチェンドルジェ・リンポチェは今世で自分のためでなく、全て衆生のためであるので、この人達が現れて解決してくれたのだ。当然ながら、中心的に物事を執り行う者が過去世で沢山の法を修し多くの衆生と結縁しているなら、今世で何かを行なうのがスムーズになる。

会社での仕事がスムーズでない、他人とコミュニケーションをとるのが好きではないと感じる者もいる。ある弟子はこの様であった。彼は今まで、供養、布施をしなかったので、この一生で人縁がなく、自然に閉じこもり、他人と結縁しなかった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を追い出そうとした。彼は皈依してから、もう何年も経っていたが、やはりこの行為により、会社の中で他の同僚とコミュニケーションをとらず、話をしなかった。自分のしている事は正しい、間違いないので、人とコミュニケーションを取らなくていいと思ってはならない。私達は衆生と善縁を結ばなくてはならない。人が理解できないなら、忍耐強く解釈しなくてはならない。あの弟子は、なぜこの様な奇妙な性格だったのか?それは、彼が累世で供養、布施を修さなかったからだ。捨てられない、独りよがり、プライドが高く、自分の考えは全て正しく、他人より優れていると考え、傲慢だからだ。

どんな人が傲慢なのか?捨てられない人こそが傲慢なのだ。供養、布施をする人は傲慢ではない。既に手放したからだ。怒鳴ってばかりいて自分を改めようとしない人は話を聞かない。彼に必ず何かが起きて、ここから出て行くことになる。寶吉祥仏法センターは非常に霊験あらたかだ。何に対してなのか?話を聞かない人は必ず出て行くことになる。非常に霊験あらたかだ。ある弟子が日曜日に教会へ行ったのを、別の弟子がバスに乗っている時に見かけた。彼女は朝、教会へ行き、午後法会に参加していた。朝は歌を歌いに行き、次に罵られても構わない、イエスが助けに来てくれ、釈迦牟尼仏も助けに来てくれる。その結果、ある弟子がちょうどバスで通りがかった時に、笑いながら教会から出てくる彼女を見た。アキ護法は本当にすごい。あなた達が仏法を学んでいなかったなら、他人があなた達を見る機会は絶対にあるはずだ。

財神法に話を戻す。密教の財神は五つだ。黒、黄、白、紅、緑、これは中国人の五路財神とは異なる。密教の中の財神は八地菩薩まで修し、まだ法身菩薩を証していない。よって、ほんの少しの無明が残り、少しの考えが存在する。法本の中にはっきりと提起されているが、財神法を修する行者は、観音法門を成就し衆生を益してこそ、財神法を修法できる。誰が財神咒を唱えても役に立つとは限らない。「普門品」には、お金がないなら観音菩薩を唱えなさい、こうすればお金が得られると説かれているが、これを意味している。こんなにも沢山の人が大悲咒、普門品を唱えているのに、なぜ、財がないのか?普門品には財神は語られていない。釈迦牟尼仏は通常、密かに隠して全てをはっきり語ることはない。

仏はなぜ、はっきり語らないのか?実のところ、仏は、観音菩薩に求めれば財が得られると説いている。財はどうやって来るのか?観音菩薩があなたにあげるのではない。財神が助けてくれるのだ。どの様な人が財神に助けてもらえるのか?それは、過去世及び今世で供養、布施の気持ちが非常に強く、金銭や物品で仏法或いは上師を助け、非常に強い使命感をもってこの事を行う人である。この様な人のために財神法を修法したら、彼には必ず益がある。もう一つの場合であるが、生生世世、常に修行している者であって、嘗て広大な衆生を益したことがあるなら、今世で財神法を修法すると相応することができる。

観音法門で成就が得られてこそ財神と感応できる。修法者の観音法門がまだ成就していないなら、財神は来ない。六字大明咒や大悲咒を唱えても来ることはない。どのような状態が観音法門で成就したと言うのか?観音菩薩の大慈悲を既に少し始めたなら、財神はやって来る。そうでないなら、財神は来ない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが修するのは黒水財神であり、憤怒相を現している。なぜ、憤怒相なのか?私達がこの一生で元々得られるはずの財産は、今世、過去世で犯した一切の悪業のために、冤親債主や諸々の状況等によって減らされている。ある種の財は、子供や政府機関によって消費されたり、泥棒に盗まれたり騙されて失われる。自分は騙されたと言う者もいるが、なぜ、そんなに簡単に騙されるのだ?仏はあなた達を騙して仏法を学ばせようとしたが、何千年騙そうとしても騙されなかった。どうして、人がちょっと話しただけで騙されてしまうのか?これは貪欲のためだ。

最近、リンチェンドルジェ・リンポチェのある職員は気がそぞろだった。交際している人がいたのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に聞いた。「彼は、コックになったら二人で小さなレストランを開き、彼が調理をして彼女は受付をしたら、どんなにいいだろう!と聞いたのではないか?」と。すると、彼女は、彼は確かにそう言ったと認めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなた達はそんなに騙され易いのか?男でも女でも、この種の話を聞くが好きだ。以後は二人で必死になって頑張れると思っている。何を頑張るのか?福徳がないなら、頭を割っても何も出てこない。何を必死になるのか?特に、現在はこの様な商業時代である。誰も真に支持する者がいないなら、分をわきまえて雇用される方がいい。

あなた達は、他人がネットサイトで物を売っているのを見て、うまくやっているようだと思ってはならない。彼が良心に背かないで仕事をしているかどうかをどうやって知ることができるのだ?商売や株式で大儲けした人がいると思ってはならない。最近、世間に知られているある人物の夫が問題を起こした。親子二代で株をやっていた。なぜこうなったのか?それは貪欲だ。頭が良ければもう少し儲けられると思ったからだ。頭がいいのとお金があるかどうかには絶対的な関係はない。頭がよければ元々あなたに属していた財産を全て受け取れる。頭が悪いならちょっと少なくなる。簡単に言うならこの様である。

午前に黒水財神を修法する。それは、あなたは悪業を為したが、黒水財神は憤怒相であるので、鬼神達はあなたの財を奪うことはできない。財を奪わない事は、のんびりと享受させてもらえる事ではない。財神法の修法が終わったら、マイホームのローンが一件落着し、金銭の援助者が現れたり、白馬に乗った王子が現れて家をプレゼントし嫁に迎えてくれる等と考えてはならない。頭を正常に動かしなさい。財神法の修法は、この一生での修行上の資糧を得る手助けとなる。直接的な話をすれば、もし、あなたに住む家もないなら、どこに修行する気持ちが起きようか?食べる御飯がないなら、あなたに修行させて騙すことになるのではないか?もし、こちらも駄目、あちらも駄目なら、修行できるだろうか?

家庭に問題が起きた者がいたら、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも助けている。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェこそが財神だ。だが、通り掛かりの財神だ。皆は、ほんの僅かな供養をリンチェンドルジェ・リンポチェの手に渡し、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために受け渡しをする。どのように、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養を捧げたらよいのか分からない者もいる。実際のところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆のためにまとめている。さもなくば、皆の500元、200元をどうやって供養したらよいのか?一つにまとめれば、500元、200元ではなくなる。皆のためにこの様な事をしている。

とても奇怪な者もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェが皆のために何をしているのかを知りたがる者もいる。実際のところ、この様な事は不要だ。なぜか?経典にはっきりと説かれているからだ。あなたが歓喜の心をもって供養するなら、徳を具えた上師は、あなたを上師の功徳の大海と一緒にさせる。あなた達が細かく計算して供養し、供養を指定し、供養した後、上師があなたに向かって微笑むことを願うなら、それは間違いだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ微笑まなければならないのか?笑いを売っているのではないのに。もし微笑まなければならないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの笑顔は価値のあるものとなる。ちょっと笑っただけで、あなた達から100万元受け取らなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が笑うと見栄えが良いことを知っているから。

この様な考えを持ってはならない。つまり、自分が少し多く供養をしたならリンチェンドルジェ・リンポチェは気に留めてくれるといったものだ。尊勝なる直貢チェツァン法王はあなたを知っている。この様な考えは不要だ。あなた達も尊勝なる直貢チェツァン法王が御自ら語られた言葉を聞いたであろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの供養が多いからでなく、上師に対する心、これこそが真の供養だ。ある時になって、リンチェンドルジェ・リンポチェが言ったのだと口にしてはならない。「心」を込めて供養すればよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもあなた達を助けていることは前に話している。もし、能力がないなら、真心を込めて供養すればよい。だが、能力があるのに供養しないなら、それは正しくない。能力があるとは、リンチェンドルジェ・リンポチェがお金を欲しがっているのとは違う。あなた達も知っているとおり、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも、供養を断わっている。家も現金も断わる。例え2000万、500万だとしても同様に断わる。なぜ断わるのか?それは、供養の心が正しくないからだ。

皈依した者もまだ皈依していない者もよく聞きなさい。供養の心は非常に重要だ。絶対に計算してはならない。何かを得ようとする気持ちでなく、見返りを求めない供養は、以後、皆に役立つものとなる。どんな事も見返りを求めようとするなら、この種の供養は有為となる。有為法の供養は、その中に必ず障礙がもたらされ、あなたが要求する目的を実現させないようにする。特に仏法上においてである。

本日は二つの財神法を修法する。まず先に黒水財神を修める。この修法は非常に難しい。それは岩蔵法であるからだ。蓮花生大士によって伝えられたもので、顕教の経典の中の法ではなく、財神より直接伝法されたので、加持力が特に大きい。この法の修法には特別な規定がある。清らかな場所でなければならない。即ち、殺生のない場所だ。よって、肉食を売っているレストランがリンチェンドルジェ・リンポチェに財神法の修法を願っても、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に行かない。それは、殺生のある場所に行ってはならないと規定されているからだ。なぜ行けないのか?それは、殺生には慈悲がないからだ。慈悲がないなら観音菩薩は来ない。観音菩薩が来ないなら財神はなぜ来られるのだ?だから、家がまだ殺生事業に関わっているなら、財神法を修法してもあまり役立たない。

また、「清浄」の意味は、その場所で殺人事件や不慮の事故の発生がないことを指す。だから、道場は必ず清浄だ。以前、寶吉祥仏法センターで他界した者もいるが、殺されたのではなく自然死だった。皆はこの事を聞いたことがないであろう。法会の最中に他界した者がおり、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに彼を済度した。お寺ではこの様なことを忌み嫌う。本殿で人が死んだなら大変なことだ。病気であっても中に入れない。しかし、寶吉祥仏法センターでは救急車で運ばれたり担がれて来ることはよくある。

清浄な場所は、因果に背かない事業のない場所を含む。酒や煙草を売ったり、風俗関係の場所は不適当だ。黒水財神は八地菩薩であるので、身近に沢山、有情の眷属がいる。即ち、沢山の護法神は輪迴から解脱していない有情衆である。これらの護法はまだ執着心がある。彼には仏法を護持しようという善念があるのだが、生前の執着はまだ存在する。もし、あなたが不善を働いたなら、彼はあなたを助けない。あなたが話を聞かないなら、彼が来る事はない。これらの護法と輪迴を解脱した法身菩薩とは異なる。

黒水財神の本尊は不動仏である。不動仏は、五方仏の中で非常に特別な仏であり、心を動かさず、どんな状況に対しても少しも瞋心を起こさず、どんな事に対しても、しなくてよい癇癪を起こすことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生で、不動仏の法門を修めた。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが一日中人を殴ったり、癇癪を起こしていると思ってはならない。実のところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは全く心を動かしていないのだ。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を責めて叩くのか?それは、彼は頭が悪いからだ。先ほど彼に、法写真があるかどうかを聞くと、一枚だけあると答えた。その結果、叩いたらもう一枚出てきた。もっと叩く必要はないか?

もし、お金ならどんなに良い事か。一回叩いたら1000元出てくるなら、多めに叩けばよい。その弟子はこの様であった。集中できなかったので、上師は本当に苦労した。財神法を修法する時、皆は、リンチェンドルジェ・リンポチェが唱えるのを聞いていればよかった。財神が入ってくるかを心配しないで。今日、道場で三宝に対する絶対的な恭敬心、信心をもつ人に、財神は必ず助けを与える。どのレベルまで助けるのか。人によって異なるのは何故なのか。あなたの縁と福報を見ると、非常に複雑である。

本日は財神を修法する。皆は財神法の重要性を知った後、私達がこの一生で享受する一切は全て、過去の修行による財であることを理解した。この種の財は使い切る。だから、私達が生のある年は、供養、布施を続けなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身の経験から、供養、布施は計算してはならない。計算とは何か?それは、いくら包んだらいいかと考えることだ。考えてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に一つの方法を教える。あなたが最初に考えるのは正しい。少なすぎてや多過ぎるのも申し訳ないのを考えない。もし、あなたがこの様に考えるなら、わざとこの事を行なうことになる。

「寶積経」には、菩薩道を修める行者は、他人を恐喝、脅迫して財産を供養させてはならないと説かれる。恐喝、脅迫とは何か?現在、一般に流行っているのは「お寺に供養したいのだが、あなたには現在お金があるのだから、夫なら私にお金をくれるのは当たり前だ。もしくれなかったら、因果に背き悪業を犯すことになる」。これは、恐喝、脅迫だ。女性信者に「沢山お経を唱えてあなたの夫に迴向し夫に善良な心が生じたなら、自然にあなたに供養するお金をくれるだろう」と勧告するところもある。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様な説法を聞くと怒る。それは、仏菩薩によって彼女の夫を脅かしているからだ。仏菩薩はお金が必要なのか?不要だ。

供養、布施は自分の財産を使わなければならない。いかなる物であっても、あなたが盗んだ物、騙した物、拐かした物は全て供養してはならない。盗む、騙す、拐かすとは何か?明らかにあなたは他人のお金を盗み、半分をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養して、リンチェンドルジェ・リンポチェに障碍を遮る手伝いをさせ、他は自分で使う。この様であってはならない。必ず自分の財産でなくてはならない。供養の量は、経典に説かれているとおり、五分の一、四分の一の収入であり、他にも沢山の話があるが、ここでは説明を省くことにする。最も重要なのは、仏法はお金で買えないという事をあなた達は理解しなければならない。お金がないなら来られないと勘違いしてはならない。沢山の人がお金がなくても同様に来ている。必ずどうやって行なってこそ供養だと勘違いしてもならない。この様では全くない。供養は私達が必ず行わなければならない事だ。呼吸するのと同様である。私達は呼吸が止まったら命はない。だから、供養、布施を止めたなら、財運もなくなる。

あなた達は自分にはお金を必要とする事が沢山あると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェにもお金を必要とする事が沢山ある。尊勝なる直貢チェツァン法王が口を開いたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに実行する。なぜ実行しなければならないのか?それは、尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの上師だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに実行する能力があるかどうかを必ず知っている。尊勝なる直貢チェツァン法王が口を開いたなら、実行しなければならない。必ず実行しなければならない原因がある。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時もまた、この様であった。師父が電話をかけてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェに40万を持って来るように言われた。リンチェンドルジェ・リンポチェは何に使うのかを聞かずにすぐに持って行った。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェの顕教の師父は、リンチェンドルジェ・リンポチェに一つの法門しか教えなかった。--それは供養、布施だった。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に出逢う福報が得られた。リンチェンドルジェ・リンポチェの以前の顕教の師父は、何をするのかをはっきり言わなかった。面白い人であった。電話を掛けて来たので、リンチェンドルジェ・リンポチェは持っていった。それは、数十年前のことであったので、当時の40万は少なくなかった。民生社区に数軒の家を買うことができた。リンチェンドルジェ・リンポチェは家を買ったり、家賃を払わなくても、まず先に供養、布施をした。人の物を取ったり、人に借りを作ってはいけないのではないか?と言う者もいる。しかし、時に大家に借りを作っても構わない。大家は入居者のお金を稼いでいるので相談できる。

リンチェンドルジェ・リンポチェのこの様な話は本当に多い。嘗て他人が仏法を学ぶ因縁を成就させるために、自分は行かず、他人に行かせたこともあった。この種の話は限がない。実際には、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学ぶ前もこの様な性格であった。自分はお金がなくても、苦しんでいる衆生を苦しませることはなかった。これも父親の遺伝であった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も見た事があるからだった。当時、歴史的な原因で、沢山の人が中国から香港に逃げてきた。リンチェンドルジェ・リンポチェの父親は以前、情報局にいたので、沢山の人が父親を尋ねてきた。以前は、どう言っても長官である。長官なら部下の面倒をみなければならない。よって、お金のない者が沢山、父親を尋ねて来た。

リンチェンドルジェ・リンポチェの父親は以前、あまり収入はなかった。ただ一つの仕事だけであったので、自分の皮靴、オーバー、背広を相手にあげて質に入れさせた。以前、香港では、上質の皮靴、オーバー、背広なら質に入れられた。だから、家庭教育は非常に重要だ。もし、家庭の中で一日中、節約と言っていたら、この人は必ずしみったれになる。お金は確かに節約が必要だ。これは無駄遣いをしてはならないということであり、供養、布施をしなければならない時はしなければならない。皆にリンチェンドルジェ・リンポチェに供養しろと言っているのではないが、社会の中で、合法であり、人情にかない、道理にかなうのなら、皆は助けなければならない。だが、ニュースを見たからと言って慌てて行く必要はない。もし、ニュースを聞いたのなら、相手が知っている者、知らない者に拘らず、少しでも助けるのは当たり前のことだ。

次に、供養、布施は、もし福報がないなら実行できない。何年も前、ある者が非合法の財を稼いだ。その結果、奇怪な病気を患いリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼のお金を一円も受け取らず、彼にそのお金を病院に持って行き、治療費のない人を助けるよう言った。彼は各大病院に人を送ったが、2ヶ月経っても一円のお金も布施できなかった。不思議な事だろう?皆は、自分にお金があるなら、あげたい時にあげられると思ってはならない。絶対にそうではない。もし、因縁、福徳がないなら、供養、布施をしたくても全く不可能だ。毎月500元、1000元を基金会に寄付したら、供養、布施をしていると思ってはならない。実際にはそうではない。あなた達の基金会への寄付は、彼らが職員に支払うお金を助けているだけだ。基金会は非常に多くて、沢山の人を雇っている。

ある仏教団体の職員は毎月5万元だ。お金はどこから来ているのか?他人のところから来ており、これで給料を5万元支払っている。これは10年前の相場である。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは現在、全てを衛生福利部に寄付しているのか?それは、政府職員は既に給料をもらっているので、もし寄付金を盗ったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を刑務所に入れるまで告訴できるからだ。基金会であるなら、相手を罰する勇気があるか?告訴したなら十数万人が出てきて、あなたを追い払うことだろう。

だから、供養、布施はいかに行うかを知っておかなければならない。間違ってはならない。悪行であるなら、絶対に手助けしてはならない。相手にビジネスするお金が不足したので、貸してあげるような事はよい。これは良い事ではない。ある者の弟が仕事を探していたが見つからなかったので、お金を貸そうと思っていた。これも悪事だ。ある者は交際している相手が仕事がなく可哀想だからと、彼をサポートしようとしていたが、なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェをサポートしようと思わないのか。皆はもう少し頭を使いなさい。

男性は、それなら、なぜお金を妻にあげなければならないのかと聞くだろう?これは当たり前のことだ。仏も語られている。人の夫になったなら、妻の面倒をみなければならない。この他、お経には非常にはっきりと書かれている。自分の妻には、一定時間過ぎたら宝石を送らなければならないと説かれている。なぜ、この様に言うのか?それは、仏は女性の性格を知っているからだ。もし、彼女の機嫌をとらないなら、のべつ幕無しとなる。よって、釈迦牟尼仏は非常にヒューマニズムだ。皆が想像するような、毎日全く世間の事に構わないのとは違う。

皆は家に帰ってから、自分の眷属に知らせなさい。仏は沢山のことを教えられた。それには、いかに姑、嫁、子供に対応するべきかも含まれる。単純に生死を解脱することだけではない。世間の事が処理できないなら、あなた達はどうやって生死を解脱しようと言うのか?不可能だ。ある時は、リンチェンドルジェ・リンポチェの用いる説法方式は、あなた達に世間の事を解決できるようにするためにある。時間がなくなってしまうので、修法を始めることにする。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは黒水財神の法門の修法を始められた。修法を始めて少し経った後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、法本の「皈依発心」の内容について説かれた。

この法本中の「皈依発心」は他の法本とは異なる。数句について皆に説くことにする。
「諸(もろもろ)の衆生を利益しようと発心する。これにより財神尊を成就し、縁に随い諸の事業を調伏し、諸の有情を済度し尽くすことを誓願する」。よって、もし、一切衆生を利益する発心を起こしていない行者は、財神尊を修めても成就は得られない。「随縁」とは衆生の縁に随うことである。リンチェンドルジェ・リンポチェが本日、財神法を修めたのは、衆生全てが財産を得られるようにするためではなく、あなた達各自の縁を見なければならない。「調伏」は、本日修法する目的は、皆の不信、不定の心を調伏することにあることを意味する。「諸の事業」は一切の仏法事業を指す。あなた達の心が調伏されないなら、仏法を学ぶ事は非常に困難である。本日、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法する財神法により、慈悲深く、皆に財産をもたらしてくれると思っているだろうが、実際には皆を済度するものである。岩伝法の皈依発心は少し異なるものである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続けて黒水財神の法門の修法され、修法が円満に終了した後、法本の後ろに記載されている「いかに相応するか」の内容を説かれた。

全ての法本の後ろには「自分が相応するまで修めたか否かを、行者がどの様に知るか」が説かれている。簡単に言えば、黒水財神の法門を修めるには閉関が必要であり、1000回、10000回、甚だしくは100000回も修し、ある特徴を夢で見て初めて、この修法が成功し、財産が一杯に溢れる。あなた達はそうなりたくないだろうか?もし、そう願うなら本当に大変だ。先ず最初に観音菩薩、不共の四加行を修め、ほんの少し気脈明点があってこそ、この法を修めることができる。

法本の中に特にこう説かれている。「祈求財神大悲化身済貧窮(財神の大悲化身に貧窮を救っていただくよう祈り求める)」。もし、あなた達が御飯を食べるお金もないほど貧窮したなら、財神は助けに来てくれる。最後に、「財富資糧祈豊饒、如雨降諸種財宝(財や富の資糧が豊かであることを祈ると、雨の如く様々な財宝が降り散る」と説かれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは法本の中に説かれている事が全て正しい事を証明された。実際には経典の中に説かれるとおり、行者は修法によって、ある成就が得られると、求めなくとも自然に来る。苦心して求めることなく、福報が満たされれば自然に得られる。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、少しも休まずに、苦労を厭わず続けて大象財神の法門を修法され、この法の殊勝な点を説かれた。

この時、法務の責任者である弟子は仏龕(ぶつがん)の扉を開けるのを忘れてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、毎年しなければならない事を忘れた彼を叱責された。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェの頭髪は抜け落ちるのか?それは、この様であるので、あっさり坊主頭にし、こんなにも多くの煩悩を防いでいる。弟子が増えれば増えるほど煩悩も増える。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。「次に修法するのは、白マハーカーラの大象財神の法門である。白マハーカーラは黒マハーカーラのもう一つの報身であり、マハーカーラはチベット仏教共通の護法であり、即ち、四大教派全てでマハーカーラが修められる。法本の中には、マハーカーラは中国語で「大黒天」と訳され、以前は非常に凶暴な魔であり、人を食べ一切有情を傷つけ、法力は計り知れない程強大であった。当時、観世音菩薩が彼を降伏させようとして、「どんな願があるのか。もし、観世音菩薩が彼の願いを満足させられるなら、仏法に皈依して仏法の護法となるように」と言うと、マハーカーラは承諾し、「全宇宙で最も美しい女性を与えてくれたなら、仏法に遵う」と答えた。そこで、観世音菩薩は神通力を用いてマハーカーラにとって美しいと感じる女性を生み出した。同様に非常に凶暴だったかもしれない。マハーカーラはこの空行母を得た後、仏門に皈依し仏法を護持するに至った。

マハーカーラは、比較的個性のある護法であり、気軽に衆生を助けない。本日修めたのは白マハーカーラであり、チベット仏教では白財神の一つと称される。「白」は息を意味し、即ち、一切の災難を鎮める意味がある。ヒンドゥー教では大象財神(ガネーシャ)を修めるが、チベット仏教の大象財神とは異なる。チベット仏教の大象財神は白マハーカーラの眷属であるので、白マハーカーラと親しくないなら、元に戻ってもう一度言うが、大切な事は、観音法門を修して成就が得られていないなら、どんな財神を修めても役に立たないということだ。行者と観音菩薩が相応していないなら、いくらマハーカーラを呼んでも、マハーカーラは来ない。マハーカーラが来ないなら、大象財神も来ない。

この財は、唯あなたに、送るべき生活をさせるためのものであり、生活のために煩悩を生じさせない。煩悩が生じなければ、あなた達の心は安定し、落ち着いて仏道を歩み、仏法を聴聞する等の事ができる。どのようであれ、人には基本的な欲望が存在する。基本的な欲望を解決できないなら、心は当然ながら仏法にはなくなる。皆は、密教は一日中、人が財を修め、財をなす手助けをしていると誤解してはならない。寶吉祥の弟子達は、リンチェンドルジェ・リンポチェが一年でただ一回だけ、毎回、旧暦の正月の一日に財神法を修めることを知っている。弟子達は過去の一年にいつも三宝、上師に供養を捧げているので、皆のお金が不足し、供養を継続できないのを心配して行なっている。話を戻すが、諸の仏菩薩は衆生に借りを作らない。皆が心を込めて供養するなら、諸の仏菩薩及び上師は、必ずひたすら、あなた達を助けようとする。

財神法の修法は、財を無理やりに手に入れるのを助けるのではなく、いわゆる“五鬼運財法”でもない。財神法の修法が終わったら、突然に何かが起きて宝籤に当選するということもない。全くこんな事はない。私達が母体に入ってから、この一生で使う財である。突然大儲けする方式を好み、突然大金持ちになるのを望む者もいる。こんなのは良くない。これは、未来の財を先に集めて一気に使い切ってしまうからだ。一番良いのは、ちょろちょろ流れる水のように、いつもあることだ。あなた達は、突然全てがうまくいくようになると愚かな妄想を抱いてはならない。もしそうであるなら、うまくいかない所もあると心の準備をしておかなければならない。

沢山の教派がお金を必要としている。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分で各種宝くじを買って何億円かを当てようとして修法したことはない。実際に、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの様な修法はできるが、これをしたら誤りだ。財神が最も重要とする事は、皆のあらゆる障礙を取り除く手助けをし、あなたに属するべき物をあなたに属させるようにし、仏法をしっかり学ぶことができるよう、あなたの心にこの様な煩悩を持たせないようにする。そして、十分な資糧を具えさせて、皆がこの一生で供養、布施を行う能力を継続させる。重点はここにある。皆は誤解してはならない。財神法を修法した後、一年を通して昇給がなかったのは財神とは無関係だと思うことだ。実際にはやはり関係がある。もしかしたら、本来なら解雇されるところだったが、財神法を修法したので、あなたを余計に一年ぶらぶらと過ごさせ、これによって財が与えられたのかもしれない。

大象財神の由来についてであるが、大象財神の前世は非常に富裕な王子であり、財産を捨てられる人であった。誰かが聞きに来たら何時でもあげた。だが、相手がお金をもらって何をするかを気にしなかった。兵器や弾薬に使らせたかもしれないし、殺生や多くの悪事を行なったかもしれない。善行する際は、はっきりさせなければならない。間違ったら同様に地獄に堕ちる。お金をあげたら構わないという事のないようにしなさい。この様な考えは正しくない。お金を渡した相手が間違った事をしたなら、同様にあなたとちょっとでも関係がある。あなたが聞き入れただけで関係ができるのだ。だから、布施、供養は、はっきり理解する必要がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、布施、供養をあちこちに探し回ることはなかった。皈依した師父が口に出しただけで実行し、尊勝なる直貢チェツァン法王が口に出しただけで実行した。現在はリンポチェの身として相手の善悪等を判別し、正しくないなら助けることはない。これは慈悲がないのではない。もし悪人を助けたなら、彼はもっと悪事を行なう力を蓄える。こうなら慈悲深いのか?例を挙げると、もし、ある漁師があなたに「漁船を買うお金がない」と言った。「漁船を買ったらもう少し沢山儲けられる」と言うので彼にお金を貸したとする。彼が後にお金を返したとしても、あなたには必ず問題が出る。彼の殺生を助けたからだ。お金を貸しただけでも問題が出る。それは、お金を貸すことも布施の一種だからだ。多くの者が人から恨みを買うことを恐れるが、因果に背くことは恐れない。あなたは明らかに、相手がバーを開くためにお金を借りようとしているのを知っているのにお金を貸す。儲けるべきでないお金を儲けようとしているのを明らかに知っているのに、あなたは義理のためにお金を貸す。この様では駄目だ。多くの後遺症が残る。

マハーカーラは王子がこんなにも滅茶苦茶にやっているを見た。だが、やはり善根を有しており高い能力を持つ人であるので、思い切って彼を殺し、続けて悪を累積させないようにし、象の頭をのせてあげた。象は力の代表であり、陸上動物の中で一番力が強いので、彼に修行を続けさせて財神とした。大象財神はちょっと羽目をはずしてもよい。だが、黒水財神は違う。先程皆は、リンチェンドルジェ・リンポチェが黒水財神を修法するのを見て簡単だと思っただろうが、修法者が福報を修めていないなら、黒水財神を修めても皆の役に立たない。それは、多くの動作が全て密法だからだ。多くの観想内容を含むのだが、これは話せない。

よって、黒水財神は比較的厳格である。蓮師が比較的厳格であり、蓮師が伝えた法も比較的厳格なものだった。大象財神は比較的話が分かる者だった。過去世の習性が人にお願いされたら助けるものであったので、財神となってもやはり助けている。ただ、以前と異なるのは判別する点にある。もし、悪因となる事なら助けない。善因となるものなら助ける。しかもちょっと羽目をはずしてちょっと騙してもよい。もし、家のローンを支払うお金がなく、来月、銀行に部屋を差し押さえられると言っても、以前は銀行がなかったので、大象財神も、あなたが何を言っているのか分からない。実際には、銀行はなぜ差し押さえるのか?もしあなたが早めに銀行と相談していたなら、問題は発生しなかった。だが、あなた達がずっと隠れていた。こうすれば銀行が探し当てることはないと思っていたのだが、そんな事はない。

大象財神はほんの少し羽目を外してもよい。だが、やはり先に観音法門を修めなければならない。観音法門を修めないならやはり駄目だ。それは、法本の最初の句にあるが、観世音菩薩に頂礼しなければならない。ここで再び皆に証明してみせよう。「普門品」の中で説かれていることは全て実行できるものである。だが、密法を加える必要がある。ただ念誦するだけでは実行できない。釈迦牟尼仏は私達を騙したのではない。多くの事は、以後改めて皆に話そう。元々問題が出るはずであったのだが、修法したら問題が出なかったことも含まれる。それは全て「普門品」に依拠することだ。

チベット仏教は、顕教の基礎が安定していることが必須だ。観世音菩薩の説かれた一切の願は、密法の中では即ち、完全に、息、懐、増、誅の四つの法を実践しなければならない。多くの者が観音法門を修めておかしいと感じている。なぜ自分は毎日、大悲咒を唱えているのに成就できないのか?それは、息、懐、増、誅の四つの法を用いておらず、閉関をしておらず、事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部の密法を修めていない故に、観世音菩薩の説かれる方法を実践できないのだ。

皆は観世音菩薩が法身菩薩であり、十地を証した菩薩であることを忘れてはならない。経典に説かれるとおり、一人の菩薩が十地まで修めた時、諸の仏菩薩がやって来て、早く仏の境地に至れるようにと密法を修めるよう勧める。早く成仏したいなら密法を修めなければならない。よって、観音菩薩のあらゆる法門は全て密法だ。皆は、釈迦牟尼仏が悟りを開く前に、魔王が自分の娘達を送って艶美な舞を躍らせたことを知っている。釈迦牟尼仏はどんな方法で彼女達を去らせたのか?単純に禅定に頼ったのではない。絶対に特別な法門だ。

皆には座禅の経験があり、定印を用いるのは、心を落ち着かせて入定するためだということを知っている。だが、なぜ定印を胸におかないで、お臍の下の位置に置くのか?あなた達の法師は教えたことがあるだろうか?以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは少し羽目を外して法師にこの問題を尋ねた。その結果、法師はただこう答えただけだった。「言われた通りにやればいい!」リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を学んでから、なぜかが分かった。道理から言えば、定印は心を落ち着かせるものでお腹を落ち着かせるものではない。なぜ、この位置になったのか?多くのリンポチェさえも何故かを知らない。それは、最後の無上瑜伽部を学んでいないから理解することができないのだ。

仏が示現された事はどんな事でも修行と関係がある。もう一つ例を挙げるが、顕教の「問訊」はなぜ眉間を指すのか?問うのは口で問うので口を指すべきではないのか、なぜ眉間を指すのか?しかも、なぜ三角形を作るのか?皆は法師に聞いてもよい。伝法したのだから、その道理がどこにあるのかを聞いてもよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは気脈明点を学んだ時、その理由がやっと分かった。皆は独断的に自分は顕教を学んでいるが、仏は密法を語っていないと言わなくてよい。実際のところ、仏法の中の多くの動作、思想はすべて密法と関係がある。顕教と金剛乗を歪曲してはならない。皆は、仏菩薩の行ったどんな事が自分達に役立っているのかを知らないからだ。はっきりさせれば、以後、修行の障礙も少なくなる。続いて、白マハーカーラの修法を始める。もしあなたが観音菩薩法門を修し成就が得られないなら、この法門はあなたの役に立たない。

一定時間修法した後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、法務を担当する弟子に、この修法に用いられる沈香はいくらであったかを聞いた。弟子は、8万元だと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。寶吉祥仏法センターにとっては大きな出費である。今回の修法のために沈香に8万元も費やした。初めて大象財神の修法を行った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、別の弟子に沈香を買ってくるよう依頼したが、その弟子は、数千元の沈香を買って来た。それは彼にとり大きな数字であったかもしれないが。

この法を修法するには、黒沈香を用いることが特に規定されている。以後は、この法を修法しないかもしれない。それは、沈香が益々高くなるからだ。それぞれの護法と金剛部で用いられる供物はすべて異なる。世間の多くの神もこのようであるが、通常、供物を間違っておいたなら、世間の神は好まない。土地の守り神やインドの神もすべてこうだ。インドでは供養を間違うことがよく見られる。神は生前好んで食べていたものを死後も好む。大象財神は前世ではお金持ちであったので、必ず黒沈香の香りが分かる。よって、今世でも黒沈香を好む。黒沈香は現在、益々高価になっているので、寶吉祥仏法センターの犠牲は大きい。この後でリンチェンドルジェ・リンポチェがお線香を点ける時、後の者は香りが分からないかもしれないが深呼吸しなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェがお線香を点けて真言を唱えている時、皆はちょっと図々しく、自分の事業がうまくいっていないので助けてほしいと大象財神に祈ってもよい。大象財神は助けてくれるだろう。

修法が円満に終了し、リンチェンドルジェ・リンポチェは参加者に対し説法を続けられた。

本日修する法本は、直貢噶舉派の数年前に往生されたユンカ・リンポチェによって伝えられたものである。ユンカ・リンポチェは、一般の出家者から修め始め、今世でリンポチェの果位を証された。直貢噶舉派にはこの一生で成就された多くの修行者がいる。ユンカ・リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師の一人であり、特にこの法門をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えられた。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェには沢山の在家の弟子がいて、皆には財が必要であることを知っていたからだった。この法本はリンチェンドルジェ・リンポチェだけが所持しているもので、他の人は持っていない。

皆はこの法を受け入れた後、もし皈依していないなら、以後は絶対に肉を食べてはならない。自分の身分は肉を食べなくてはならないと思ってはならない。これはあなた自身の考えだ。もし、この事があなたに有益であることを望むなら、仏の説かれる話を聞かなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に、象は何を食べているのか?と聞いた。参加者は草を食べていると答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて改めて言われた。「菜食だ。菜食だって大きな力が出る」象は草だけを食べているのではなく、樹の各部分も食べる。法本の中には、大象財神が猿に化けたことが説かれている。多くの猿はベジタリアンだ。もし信者が再び肉を食べるなら、今日修めた法は効果がない、相応することもない。あなた達は、法会に来るとリンチェンドルジェ・リンポチェに加護してもらえると考えている。この加護には制限がある。それは、あなた達が殺生の考えから離れていないからだ。殺生の考えから離れれば、諸の仏菩薩はあなた達が善行を始めたことが分かり、自然にあなた達を支持し助ける。だが、あなた達が殺生の考えからも離れられないなら、どうやって求めたものを得ることができようか?

以前、ある者が土地の神を祀った有名な廟に参拝し、沢山の財神に求めた結果、財が得られた。また、沢山のよくない事も起きた。仏法の中の財神はあなた達に後遺症を残すことはない。だが、話を聞かなければならない。自分に自分の方法があってはならない。もし、自分の方法があり、仏には別の方法があるなら、あなた達に益はない。仏は当然、慈悲深いものだ。もし慈悲深くないなら仏ではない。だが、仏は因果法則に背いて、あなたを助けることはできない。あなたがまだ殺生の中にいるのなら、当然悪がある。よって、あなたの善は純粋な善ではなくなる。人生にはなぜ起伏があるのか。それは、あなたが一時的に善を行い、一時的に悪も行なうからだ。よって、善と悪はあなたの人生の中で交互に現れる。この一生であなたが穏やかで、煩悩のない境地に至りたいなら、全てにおいて、純粋な善を行なわなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が純粋な善を行なっていると言う勇気はないが、とても真面目に努力して、自身の生命をかけて行なっている。よって、悪が出現しても、それは全て一時的なもので、まとわりついて離れないものではない。早朝、皆のために二つの財神法を修法した。もし、別の場所で行なったら、沢山の収入が得られたことだろう。だが、寶吉祥仏法センターでは皆を大功徳主にしない。更に8万元も使って沈香を購入し皆にこの香りを享受させる。後ろの人は嗅ぐことはできないが、空調を介して空気も少しきれいになったであろう。沈香は気脈にとても大きな働きをし、体内の濁った気を少し排出させるので、こんなにも高価なのだ。

沈香は益々高くなる。それは、古い沈香は現在輸出不可能となり、新種の沈香はまだ生長していないからだ。本日皆は財神と共に沈香の香りを享受できた。これも、皆の累世の福報であろう。参加者は一斉に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べた。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に、お礼は言わなくてよいと言い、これはあなた達が自ら修行したものであり、累世に福報があってこそ8万元の沈香を享受できる福報が持てた。だが、寶吉祥仏法センターに来て初めて享受できる。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に惜しいと思わないからだ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが食べるお金がなかった時、ある人がリンチェンドルジェ・リンポチェの仏像を買うと言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは売らなかった。あなた達のように、まず先に計算してから残りを投げ捨てる事はしない。

不要な物をリンチェンドルジェ・リンポチェにくれなくてもよい。供養、布施は清らかな心で行わなければならない。絶対に供養の物や量ではなく、重要なのは清らかな心だ。寶吉祥仏法センターは今日その能力があるので、最高の物を用いることができた。仏は最高の物を使いたがるのか?決してそうではない。ただ、今日、私達は仏と三宝の恩徳を得たが、仏は見返りを望まない。私達が法に基づいて仏法を学ぶことだけを願われる。よって、私達はその御恩に対する感謝の心が必要であり、最高の物によって供養を捧げる。法本には、仏は私達に最高の供養を要求するとは説かれていない。本当にない。それなら、なぜ私達はそうするのか。それは感謝の心があるからだ。私達が人に感謝をする時は、当然ながら最高の物を捧げる。自分が不要なもの、もう捨てようと思っている物ではない。

多くの人は果物を買って仏にお供えする。それは全て、両親と子供がスーパーで相談し、子供が何を食べたいかによって仏にお供えする。皆はこんな事をしたことがあるだろう。この様であってはならない。能力があるなら、最高の果物を買ってそれをお供えする。仏はあなたのお金を見ているのではなく、あなたの心を見ている。仏は果物を選んで食べるだろうか?あなた達が選ぶのだ。お供えが終わったら誰が食べるのか?やはり、あなた達だ。これは、あなた達が礼拝さえも分別心を持ち、あれこれと選んでいることを示す。よって、慈悲心を修せない。いわゆる最高の物は、恭敬の心をもって、最高の物によって自分にお金があることを示すものでは絶対にない。能力範囲内で最高のものであればよい。

以前、釈迦牟尼仏がインドのある村を通った時、身に纏う一枚の衣服しかないほど貧しい若い娘がいた。彼女には何もなく、外に出て供養を捧げる勇気もなかった。貧し過ぎたからだった。その時、泥道に水があった。彼女は、仏が水を踏まないようにと自分の衣服を投げ、仏にその上を歩かせた。彼女はたったの一枚の服しかないほどに貧しかったので、それは彼女にとって最も貴重な物であり、自分の最高の物の供養であった。その後、ある王子がすぐに彼女を娶り、彼女は王妃となった。
皆はよく聞きなさい。白馬の王子はこうやって現れたのだ。夢物語でもなければ、整形によるものでもなく、まとわりついて現れたのでもなく、あなた自身の福による。福がなければ全て黒馬の王子になる。だが、黒馬の王子も好男子だ。午前の部の説法はここまでにする。時間が少し長引いてしまったので午後の法会は2時半から始める。約束のある人は来なくてもよい。構わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日は怒らない。

午前の法会は円満に終了した。参加者は一斉に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な修法と説法に感謝を述べ、起立して、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座から下りられるのを恭しく待っていた。

午後2時半、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座に上がられ、上師供養法を慈悲深く修法され、参加者に向けて貴重な仏法を説かれた。

顕教では上師供養法の法門は修めない。噶舉派のガムポパ大師はかつてこう説かれている。「福徳、因縁を最も早く積み上げる方法は即ち、上師を供養することだ。以前、多くの仏法を学ぶ者は自分の力で修め成就できると思っていた。或いは、説法を聞いた後に、自分でよく考えれば結論が出せると思っていた。仏教の経典の中に、釈迦牟尼仏が「修行は個人的な行為である」と説かれたことが記載されている。この考えは正しい。釈迦牟尼仏はかつてこう説かれている。「修行で成就が得られるかどうかは個人の修行による」。この考えも間違いない。だが、釈迦牟尼仏はこうも説かれている。「この門に入るには人の教えが必要である」。

仏法では「解門」と「行門」に分かれる。多くの者は、「解門」は仏教の経典及び名相の解釈で、どうやって仏を礼拝するか等を教えるものだと考えている。実際には、仏教の経典の中に説かれる「解」は、いかにして生死を解脱するかを指す。もし、誰も私達に教えなかったら、私達は生死を解脱する方法を全く知ることはできない。経典の中で仏が生死からの解脱を説いても、私達はこの門に入ることはできない。なぜ、入れないのか?歴史的な背景から見ると、当初、釈迦牟尼仏が成仏した後、まず先に済度されたのは最初に仏について苦行をした6名の侍者であった。この6名の侍者は少なくとも——自分は、どのようにしたら二度と輪廻をしないかという考えを持っていた。だが、当時仏法を学んでいた者にはこの考えはなかった。少し良ければ、自分が衆生を済度しなければならないという考えであった。しかし、自分が生死を解脱できないのに、どうやって衆生を生死から解脱させる手助けをしようというのだ?

「解門」は、成就した、功徳を具えた上師の教え、導きを通してこそ、生死を解脱する門に入ることができる。入った後に、仏法を学び生死を解脱することの重要性を深く会得した後に初めて「行門」に入る。即ち、修行である。修行は、お経をあげ、座禅を組み、仏を礼拝し、懺悔の礼拝をする等ではなく、自分を再び輪迴させる一切の行為を改めることにある。この行為には身、口、意を含み、釈迦牟尼仏の説かれた「自らの修行による」の部分である。

あなたが仏法を体得し、理解することができても、もし、自ら行わなかったなら、やはり役に立たない。それは、仏は私達にいかなる物も与えないからだ。仏は自分の修行を通して仏果を証悟した経験を人に教え、私達にどうすべきかを伝えた。よって、上師は一人の修行者にとって非常に重要である。修行は菜食することでも、善人をすることでもない。輪迴する行為を改める人は、絶対に一人の上師が隣で監督することを必要とする。監督は監視ではない。あなたがほんの少しでも修行の方向からそれたなら、上師はすぐにあなたを矯正する。上師が矯正しないなら、やはり、あなたは同じ事を続けて行き、今生で輪廻の苦しみを解脱する機会は持てない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に常に、「上師の説法を信じなければならない」と話している。いわゆる「依法不依人(法に頼り人に頼らないの意)」は、上師の説法は上師が自ら発明したものではなく、上師が自ら正しいと認めたものでもなく、伝承、上師の教え、自らの修行の経験及び法則によって、修行する機会のなかった人を再び改めて教え導くからである。チベット仏教の中では、私達にとり、上師は仏よりも更に重要である。私達は直接仏の教えを受ける福徳や因縁がないからだ。自分は仏の夢を見、見(まみ)えたことがあると言っている者もいるが、これは全て嘘だ。なぜ嘘なのか?例えあなたの過去世が菩薩で願に乗じて再来したとしても、現世では凡夫の身からスタートしており、顕現したのが人相だからである。

釈迦牟尼仏は生生世世、菩薩道を修めているので、あなた達の理論で言うなら、出生したら仏のはずである。だが、釈迦牟尼仏は、出生後も生離死別の苦しみを経験した。二十歲を過ぎた頃、仏は因縁が熟して生、老、病、死の苦しみを見、一切の富貴栄華から離れて修行することを決意した。この考えは私達にある事を告げている。それは、自分の過去で既に善の因があるからといって、現世では修行しなくてよいと思ってはならないという事だ。自分の過去世で修めたから現世で自然に成就できるのではない。やはり、上師の教えを通して学ばなければならない。釈迦牟尼仏は私達とは唯一異なる点がある。仏は以前、菩薩となった。よって、菩薩の願力と生生世世で為した功徳により、現世では十分な資糧を持っており、悟りを開き、仏の境地に至ることができた。

だが、仏以外に、凡夫が上師の教えなしに現世で生死を解脱しようとするのは、そんなに容易な事なのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、1997年から表に出て衆生を助け始めた。多くの、いわゆる修行者や出家者も見てきたが、自分で生死を解脱できる者はいなかった。皆、仏菩薩及び上師の助けがあってこそ解脱が可能となる。弟子であるなら、一心に上師の教えを思惟しなさい。自分の行為、言葉、思想が上師の教えと異ならないかどうかをみなさい。もし異なるなら自分を改めなければならない。自分は上師の語られる仏法を聞いても理解できない、実行できない、或いは役に立たないと思ってはならない。こう考えたなら、上師の教えを受け入れることはできない。

皈依して5年余りの一人の弟子が、2年前に父親を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たが、その後来る事はなかった。彼の父親は少し前に他界し、グループリーダーは自らすすんで彼の家を訪問した。恐らく早めに到着したからであろう。他のチベット仏教の人を呼んできて助念していたのを見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、弟子に、もし上師が見つからなかったら自分で唱えなさいと教えていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは数え切れないほどの済度を行なっており、どの様にしたら他界者を助けられるかをよく理解している。自分の家族の心には誠意がこもっており、他界者の為になるようにとほんの少しの自分の考えもない。だが、外から呼んで来た者には分からない。

この弟子によれば、彼は上師の功徳さえもよく分かっていなかった。何を根拠に自分はその他の修行者の功徳を理解できると思ったのか?グループリーダーは彼にリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いて、電話して報告するようにと勧めた。彼は友人に、沢山の人に唱えてもらったら功徳も少し増えると言われたのだと言った。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼は今後、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に二度となることはできないと言い付けた。皆が皈依する時に既に伝えてある。皈依した後に上師の教えを聞かないのは怠けだ。もし怠けているなら仏法を授けることはできない。よって、彼には仏法を教えない。彼は以前、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養を捧げたことがあると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、嘗て供養した全てを彼に返却し、一円のお金も受け取らない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にこう言った。「彼の父親は以前リンチェンドルジェ・リンポチェに会った事があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を修法めて彼が人道に往くのを助ける」と。

そこで、この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに手紙を書いた。手紙の最初に「私が過ちを犯したので、上師、私を罰してください」と書かれていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「内容をみると、彼はこの5年余り、仏法を理解していないことが証明された」と語られた。続いて彼はこう書いていた。「上師は怒っている」と。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう言われた。「リンチェンドルジェ・リンポチェが怒るのは表面的なことだ。内心は怒っていない。法の通りに行なわず、戒律を守らない人は必ず去らせる。なぜこの様な人を出て行かせるのかについては何度も説いている。これは、この様な人には仏法を学ぶ条件がないことを意味するのではない。仏法を聴聞する機根と福報がないので、受け入れることができないのだ。その後、彼は「上師は私の父親を助けることを望まれた」と書いていた。彼はまた間違った。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師として、衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェと縁があるなら、必ず助けるからだ。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の縁をはっきり理解しており、望むか望まないかとは無関係だ。これは慈悲と関係がある。

この弟子は仏法をしっかり聴いていなかったのだ。最後に、彼は手紙の中でリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いていた。もし、お金をある対象に寄付するのはどうでしょうか?と。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に一言言った。「あなたはもう私の弟子ではないのだから、自分がいいと思うならしなさい!」リンチェンドルジェ・リンポチェはこれについてさえも意見を言わなかった。皆は自分が長くいれば仏法を理解していると思ってはならない。あなたが少しでも迂闊であったなら、累世の障礙は現れる。何が迂闊なのか?それは、三宝及び上師に対する信心が堅固で定まっていないことである。多くの者が自分はその時とても混乱していたと言う。ちょうど友人が電話をかけてきたので「いいよ!先に助けてあげよう!」と言っていた。

上師に対する信心は非常に重要だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、御飯がないほどの貧乏で、本来、短命であったその時から現在に至るまで、供養、布施をしたからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの機根が他人よりも優れていたからではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが他人とは異なるところは唯一つ、必ず上師の教えを聞き入れたことにあった。自分の意に叶うようにと上師に背き自分の方法を考え出すことはなかった。諸の仏菩薩の慈悲は、私達のほんのわずかな欲望のためにではなく、私達がずっと輪迴することを心配しているのであって、一切の法門は私達が輪迴を解脱する因を助けている。

たとえ、私達が過去世で多くの因をなし輪迴に陥るかもしれないが、今世で仏法の助けによって多くの福徳を積み上げたので、今世で輪迴から解脱する機会があるかもしれない。なぜ、上師に供養することが福報を最も早く積み上げることができるのか?仏教の経典には、発心の菩薩に供養したなら、仏に供養する功徳よりも大きいと仏が説かれたことが取り上げられている。仏はすでに成仏した。あなたが供養するかしないかのは、仏にとっては全て同じだ。だが、菩提心を発した菩薩の願力によって、自分と全ての一切有情衆生は未来に成仏できる。この功徳は大き過ぎるほどではないか。よって、あなたが一人の上師に供養し助けた時、仏教の経典に依るなら、この功徳は仏に供養する功徳よりも大きくなるのである。

チベット仏教の中ではなぜこんなにも上師を重視するのか?しかも、密法を学ぶ時にも特に多くの戒律について皆に語っている。これはあなた達に上師に対する畏怖と恐怖を感じさせるためではない。実際に、仏教の経典の中にはこの事が説かれている。私達が中陰身に入った時、例えば肉体を失い、鬼(き)となった時、もし、生前、仏菩薩に親しくせず相応していないなら、死後49日の間、七日毎に私達を引接するために仏菩薩と金剛部の本尊が現れる。いわゆる七日間の法要はこれより来た。各七日に現れる仏菩薩は全て異なる。仏菩薩が出現する時の光は中陰身にとり非常に強烈なものだ。衆生は畏怖心を感じて逃げてしまう。同じ色だが比較的弱い光の方は六道の中に堕ちる。

どうやって証明したらよいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を例に挙げると、皈依したばかりの時、夢の中で自分がお寺の入口にいるのをはっきりと見た。その中で非常に強烈な金色の光を放っている釈迦牟尼仏が見えた。その時中に入ろうとすると、リンチェンドルジェ・リンポチェはその光がとても強烈であったので一歩退いた。密法の中では、夢をみる状態を夢の中の中陰と呼ぶ。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依師がこう言うのを聞いた。「恐がらなくてよい、中に入りなさい」。リンチェンドルジェ・リンポチェが中に入った時、釈迦牟尼仏の加持を得た。実際には、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の中にも同じ体験をした者がいる。

これが皆に伝えていることは、例えあなたが過去世で仏と縁があっても、今世で上師の助けがないなら、仏名を唱えたとしても仏の光を見たなら、やはり恐れを感じるということだ。例え話をしよう。私達が悟りを開き生死から解脱する前、真っ暗な部屋の中で光を見ることができないように、「華厳経」の中では、真っ暗な部屋の中で仏光が私達を正しい方向へと導いてくれると説かれている。よって、生生世世、真っ暗な無明の中での生活に慣れている衆生は、清らかな仏光を見た時に非常に慣れず受け入れることができない。

実際に、仏法は何を学んでいるのか?即ち、先ほど説いたこれらを学んでいるのだ。なぜ、上師は重要なのか?あなたが生前にはっきりと上師を見、上師の様子がはっきし、上師に対して親しみを感じているなら、あなたが亡くなる時に上師が現れても恐れはない。上師について行く。仏教の経典には、臨終の時にあなたの冤親債主が親しい友、知っている鬼神に変化(へんげ)してあなたを六道輪迴に連れていくと説かれる。ある弟子にはこの様な経験があった。当時彼女は交通事故で、ある老人が変化して彼女を連れて行こうとした。上師はあそこで彼女を待っているとさえ言った。だが、老人がどう変化しようともリンチェンドルジェ・リンポチェに変化することはできない。弟子は、上師を見ないなら行かないと意思を貫いた。よって、今まで生き抜いてリンチェンドルジェ・リンポチェに纏わり続けているのだ。

この話は皆にはっきりと伝えている。あなたが死に至ったとしても、それが非業の死であったとしても上師に対する信心が十分なら、引き続き仏法を学ぶことができる。また、もう一人の弟子も脳卒中になった時に同じ体験をしている。あなた達は上師を信じ、上師を恭敬し、上師を供養すること、これは実はやむを得ない方法だ。それは、末法時代には皆は菩薩に見える(まみえる)福報を持っていないので、自分が夢の中で会ったり聞こえた等はすべて偽物だ。あなたが菩薩になる前に、報身仏と報身菩薩は絶対にあなたの前に現れることはない。

仏の化身、菩薩の化身はあなたの前に現れる。あなたが息を切らそうとしている時、この世を去ろうとしている時に現れる。「阿弥陀経」の中に説かれているが、阿弥陀仏は何万何億の化身となって衆生を引接する。あなたはまだ死んでいないのに、どうやって見えるというのか?本当に見えたとしても、それは自分が見たことのある仏像だ。釈迦牟尼仏と阿弥陀仏の様子は通常描かれるような姿ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが見えた釈迦牟尼仏は通常見られる様子ではなかった。よって、上師はなぜ重要なのか。それは、あなたが生前に上師の姿を見られるからだ。上師に髪の毛があるかないか、出家しているか在家かに拘らず、上師を熟知できる。

上師に対する信心を築いたなら、この一生で如何なる災難或いは危険等があろうとも、上師は未来世、生生世世でさえもあなたの面倒をみてくれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身を例として挙げてみる。この一生で大きな災難が起こる前に、祖師ジッテン・サムゴンが夢の中に現れて助けてくれた。よって、あの大災難は問題がなかった。上師は弟子の皈依を受け入れたら、弟子に仏法を教え始める。この弟子は、上師の生生世世の責任となる。上師に供養しなければならないのは、上師の功徳が非常に大きいからだ。上師に供養することは供養の量を指すのではない。先に亡くなった年老いた弟子のようにだ。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェより10歳も年上だった。だが、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェを煩わすことはなかった。基本的に自分の事で煩わすことはなかった。彼が上師に信心がなかったからではない。それは、彼は受け入れたからだった。上師がある日彼に重要となる助けを授けてくれると知っていたからだった。

彼が他界したその日、リンチェンドルジェ・リンポチェは沢山の衆生を助け、彼のためにポワ法を修法するのを忘れてしまった。だが、一旦休憩室に戻ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは思い出した。これは何を意味するのか?それは、この弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに対して強烈な信心を持っていたからだった。リンチェンドルジェ・リンポチェが思い出した時、時間も既に過ぎてしまっていたかもしれない。彼は大きな供養を行なったことはなかった。だが、一生でリンチェンドルジェ・リンポチェを煩わせたことはなかった。年老いた齢の彼は、他人にリンチェンドルジェ・リンポチェのことをこう語っていた。「一日の師は一生の父」この様な歯の浮くような言葉を、あなた達は口に出せない。だが、彼はこう語ったのだ。それは、年寄りは面の皮が厚いからであった。即ち、この言葉によって彼は非常に大きな福報を築いたのであった。

なぜ旧暦の一日にリンチェンドルジェ・リンポチェは先ず上師供養法を修法するのか?それは、仏法を学ぶこと或いは世間法に拘らず、福報が不足すると、災難、病がやって来た時に遮ることができない。福報が不足していたなら、徳のある上師に出逢ったとしても追随して仏法を学ぶことはできない。先ほど触れた皈依して5年余りの弟子は、ずっと加護を求める気持ちで仏法を学んでいた。だから、信心が不足し、ある事に出遭ったら変化が起きた。寶吉祥仏法センターにはこの様な話が沢山ある。センターの公式サイトで沢山見ることができる。

今朝、あの米国籍の弟子が法会の前に皆に分かち合った。なぜ彼の病気には変化が起きたのか?彼は不信から強烈な信心が芽生えたので病気を転じることができたのだ。病気はなぜ変化したのか?それは福報が生じたからだ。諸仏菩薩は彼が修行したいことを知っている。もう一人の弟子も肝臓病であった。二つの病状を比較したなら、法会前に分かち合った弟子は、皈依して数年経つ別の弟子よりもかなり酷い状況だった。彼の肝臓は既に機能していなかったからだ。だが、現在、肝細胞が新たに増殖を始めた。もう一人の弟子の肝臓病はそれほど重くなかった。だが、家族が彼を愛しすぎていたため、彼自身、上師に対する信心がなく手術することになった。

リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達の手術を止めることはない。あなた達がする如何なる事も止める事は絶対になく、結果は自分で責任を取らなければならない。なぜ、手術しなくて済むなら手術しなくてよいのか?それは、年を取っているので、手術をしたなら多くの後遺症が残るからだ。上師があなたの病気の治癒を助けるのではない。ただあなたが上師の一切の言行を受け入れたなら福報が生じるのだ。福報が生じたなら病魔はあなたに対して何もできなくなる。だが、皆は一途に家族に愛情を注ぐ。家族の話を聞いている。家族だけが自分によくしてくれると思っている。死に至ったその日、家族は全く何も助けられない事をはっきりと理解しなさい。家族は絶対にあなたにとって少しの助けにもならない。法本に説かれているし、多くの上師もかつて説かれた。他界する時、諸仏菩薩と上師だけがあなたを救ってくれる。家族は絶対に何もできない。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の母親を救えたことを除いては…。リンチェンドルジェ・リンポチェのように自分の母親を救える行者が何人いるのか?多くない。多くないなら、皆は上師の話を聞かなければならない。

上師はあなた達の家族の恩愛を破壊することはできない。よって、一つだけ方法がある。——あなたは何でもよい、即ち縁に随う、あなたの縁に随うと言う。寶吉祥仏法センターは非常に特別だ。同じ時間に同じ事がある。あなた達に異なる方法では異なる結果が生じることを見せる。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは人を騙さない。諸仏菩薩も人を騙さない。実行できないのはあなた自身の事だ。あなたが話を聞かないからだ。多くの者が自分が病気になって、家族が手術させたのだと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは癌になったことはないのか?その時既に離婚していたが、家族はいた。——上には老母、下には子供だ。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは医者要らずだったのか?それは、因果を受け入れたからだ。

法律上では、多くの人はこの事を受け入れられない。だが、皆は仏法の中で生活している人なのだから、この事を受け入れなければならない。なぜ家族は受け入れられないのか?それは、今まで家で上師の功徳について語ったことがなく、加護だけを求めていたからだ。現在、ある医者の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの話を徐々に聞くようになった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがすごいのではなく、彼女が自ら自分の叔父の手術に携わったからだった。彼女の叔父は肝臓ガンを患い、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たことがあった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にとって手術は役に立たないと言ったが、彼の家族は実の姪が外科医であるので当然ながら彼女に手術をさせた。医者の弟子は叔父のために十数時間もかかる手術を行なったが、最後に放棄した。それは、全てのガン細胞をきれいに切り取ることは不可能だと知ったからだった。ガン細胞はどれ程の大きさか?リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も話しているが、誰も信じなかった。

その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの医者の弟子に尋ねられた。「手術時、顕微鏡を使うのではないか」との質問に、医者の弟子は「肝臓ガン或いは胃ガンの手術なら手術に顕微鏡は使いません」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「もし手術に顕微鏡を使うなら、はっきり見ることができるのか?」と尋ねられると、医者の弟子は「顕微鏡の拡大率がどれ程であろうとも、こんなにも小さな細胞を見ることは非常に難しいです」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェが続けて「細胞は血液と共にあちこち移動するのではないか?」と質問すると、医者の弟子は「そうです」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに「医者はどんな理論に基いて、ガン細胞を切り取った後にガン細胞は転移しないと考えるのか」と質問されたが、医者の弟子は「現在、手術時に腫瘍を圧迫したらガン細胞が転移するという研究結果が出ているが、医者は見て取ることはできない」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて言われた。「よって、医者は天眼通(てんげんつう)を学ばなければならない。こうすればガン細胞がどこかに動いてしまうことはない」。

リンチェンドルジェ・リンポチェは医療、医師に反対しているのではないから、皆は誤解しないように。もし誤解したなら問題が起きてしまう。今日は皆にはっきりと言っているだけだ。あなたが皈依弟子なら、仏法に信心を持ち、人生の無常を理解し、どんな時間も二度と無駄にしてはならない。堅実に心から念仏し、礼拝したなら却って効果が得られるかもしれない。現在、医者の中には人前でこの様な話をする者もいる。だから、信じない者はやはり信じない。言い続けても役に立たない。医師の弟子は自分でさえもこの様な事は留保し、保守的な態度を続ける。それは、その日彼女は自分の叔父のために執刀した後、医師ができる事には限りがあるという事をはっきりと知ったからだった。その場で、医師の弟子は「そうです。手術が終わって悲惨さを知りました」。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。「どの様であっても衆生に縁があるなら、例え間違っていてもリンチェンドルジェ・リンポチェは彼を救う。先ほど皈依5年余りの弟子について取り上げたが、弟子は間違っていたが彼の父親は既に命を落としていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり助けた。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは始終語っているのか?それは、あなた達に役に立たない、よくない事は、リンチェンドルジェ・リンポチェも口に出せない。例え言ったとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞き耳を持つ人が何人いるかと疑う。

今日、修法する上師供養法は皆に福徳資糧を積ませるのを助け、皆に十分な福報を持たせるものだ。法本の中の「皈依祈祷文」は他の法本の内容とは異なる。この法本の「皈依祈祷文」中には「願対我憤怒之敵人、傷害之邪魔、以及一切阻断我解脱得証遍智者(願わくは我の憤怒の敵人、傷つけ害した邪魔、及び一切の我が解脱をし遍智を得て証するのを阻断する者に対して)」とある。私達は皈依して、上師に私達の何を助けてもらうことを願うのか?即ち、憤怒の敵、傷付けた邪悪な魔、及び私の生死からの解脱、菩提の証得を阻止する一切に対してである。これは他の法本とは異なる箇所であり非常に大きな利益がある。今日皆が法会に参加したのは、この事のためである。上師だけが助けることができる。

いわゆる憤怒の敵とは、あなたが過去で彼を非常に深く傷つけたため、今世であなたが行なった善によっても彼の憤怒を止めることができないことを指す。傷付けた邪悪な魔はどこから来たのか?それは、あなたが今生で自分が行なった悪、あなたの解脱を阻止する一切の人はだ。あなたを愛する者が自分にとって良い人だと思うのは、実際には生死からの解脱を阻止しているのだ。今日皆が法会に参加したのは、虚空にいる一切の母の如き衆生が苦しみから離れて幸せを得て、迅速に阿耨多羅三藐三菩提を証得してもらう為である。もし、皆の皈依の心がこの様であるなら、今日は上師供養法に参加した福報がすぐに生ずるであろう。

直貢噶舉派の祖師ジッテン・サムゴンは、法本の記載によると、前世は龍樹菩薩であった。龍樹菩薩の前世は維摩居士であった。ジッテン・サムゴンはアキ護法の孫である。修行をしている家庭に生まれた。父親は元々ニンマ派であったので、ジッテン・サムゴンは幼少より仏法を学び、パグモドゥクパ(Phagmo Drupa)の門下で学んでいた。パグモドゥクパ(Phagmo Drupa)には沢山の弟子がいた。よって、噶舉派は多くの異なる分派がある。直貢噶舉派もその内の一つである。直貢は地名であり、口伝を行なう教派である。ジッテン・サムゴンから現在に至るまでで700年余りの歴史がある。直貢噶舉派の伝承は今日までで既に第37代目の直貢派の法王である。その間、途切れたことはない。よって、ジッテン・サムゴンは嘗て、直貢噶舉教派の加持は特に殊勝であり、特に力があり、特に清められると語られたことがある。

法脈で最も恐いのは途中で途切れてしまうことだ。数十年、100年、200年、この法門を修する者がいない。なぜ途中で加持力が不足してしまうのか?道理は1に1を加えると継続され、徐々に多くなるのであるが、もし1に1を加えてちょっと止まったなら、さらに1を加えてもやはり3である。即ち、もしずっと加え続けるなら、功徳の大海は徐々に大きくなる。さらに、それぞれの法王及び徳を具えたリンポチェの修行を加え、多くのリンポチェも衆生を助けることを発願したならば、この力は非常に大きなものとなる。直貢噶舉派は実修派である。つまり、釈迦牟尼仏の生死から解脱する法門を実際に修行する。よって、直貢噶舉派の多くのお寺は、以前、見つけることが難しい深い山の中にあり、閉関を主としていた。

直貢噶舉派は、いかなるリンポチェも、もし事部、行部、瑜伽部、無上瑜伽部の閉関を経ていないなら、弘法する資格はない。例え彼に弘法させても力を出すことができるとは限らない。今日は旧暦の一日である。この一年、修行が阻止されるという事が起こらないように、上師を供養し、上師に歓喜して頂かなくてはならない。少し前に他界した年長の弟子は、上師に対して明確な恭敬心を持ち続け上師を歓喜させていたので、上師は自然に彼を覚えていた。

あなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェの機嫌をとらせたりゴマを摺らせようとしているのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェもこんなのは好まない。これは非常にはっきりしている。あなたという人に思想、言葉、行為の上で仏法に対する恭敬心があるかどうかを見ているだけだ。もしあるなら、上師は必ず歓喜する。上師が歓喜する時、心は開かれあなたを包み込む。上師が歓喜しない時、心が開いていないのではなく、あなたが上師を歓喜させないので上師の加持に接触できないのだ。その原因については、後に詳細に解釈しよう。上師が歓喜すると、上師があなたに話をしていなくても上師の加持力があなたに加持を与え続ける。一人の徳を具えた上師は、ただ自分一人だけでなく、後ろに多くの後ろ盾がある。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェの後ろには尊勝なる直貢チェツァン法王がいて、直貢チェツァン法王の後ろには全ての伝承がある。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェには非常に大きな後ろ盾がある。リンチェンドルジェ・リンポチェを苛めようと思ってはいけない。

皈依文から見て取れるが、本日この法会に参加した目的は、私達が修行していく上で二度と、障碍や解脱が得られない事が起きないようにすることにある。いわゆる福報を起こすのはこのためである。それは、供養後に福報が生じるため、あなたの解脱を阻止する事が減り、起きなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する時、皆は恭敬しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭敬するのではなく、諸上師、諸仏菩薩に対して恭敬しなければならない。全ての敵に対しても恭敬しなければならない。本日、あなたに敵がおらず、日々を恙無く過ごせるなら誰が来ようと思うだろうか?あなた達を法会に参加させたのはアラビアンナイトのようなものだ。

よって、これらの敵、私達を傷つけた邪悪の魔、及び私達が仏法を学ぶのを阻止する者は全て私達の恩人なのだ。もし、彼らがいなかったら仏法の貴重さを理解できないだろう。彼らがいなければ、あなたは自分の間違いがどこにあるのかが分からないだろう。あなたに間違いがなければ敵はいるはずはない。敵がいるということは絶対に自分に間違いがあるのだ。自分で考えてみなさい。今日は1300人余りが法会に参加している。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆の一人一人について考える時間はないので、自己反省しなさい。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な上師供養法の修法を始められた。修法をしばらくされた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた。「先ほど修法した部分では皈依から仏果を証得するまで、私達は身、口、意の三門で善行することを誓った。この誓言は顕教とは異なる。顕教は一般にはただ今世しか言わないが、金剛乗の誓言は生生世世、仏果を証得するまで誓言に背いてはならない。死の目前であっても私達は必ず身、口、意の三門で善行しなければならない。よって、今日から私達は必ず身、口、意の三門で善行し、一切の遍く虚空の有情、十方三世の如来の身語意の功徳事業の諸の体性に皈依しなければならない。

修法の過程において、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参加者に禅定の灌頂を授け、禅定の灌頂の意味するところを説明された。

通常、皆は禅というのは座禅、呼吸、観心(かんじん)を学ぶことだと思っている。だが、密法の中では、どんな物を学ぶにも上師によって権利を与えてもらう必要があると規定されている。こうして初めて学ぶ資格が得られるのだ。今日は皆に禅定の灌頂を授ける。これは、後に直貢噶舉派の大手印の禅定を学ぶ資格を得たということだ。これは不共の法である。もし、あなた達と直貢噶舉派に縁がないなら、この法を聞くことも伝えられることもない。禅定の灌頂は前行、正行、後行に分けられる。現在、皆は下に座っていて七支座法をしなければならない。腰を曲げて猫背になったりあっちこっち触ったりしないで、禅を学ぶ人のようにしていなさい。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは禅定の灌頂を始められ、参加者に四灌頂時の観想の内容を教えられ、皆の障礙と執着が取り除かれるよう助けられた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続けられ、八供養女による歌が献上され、薈供と御茶をお供えする儀軌が行なわれた。続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を下りられて灯明をお供えする儀軌を行なわれた。参加者は起立しなくてよいと慈悲深く指示され、灯明で御仏を供養された後に再び法座に上られて修法された。

しばらく修法された後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは皆をリードされて祈請文及び六字大明咒を念誦された。沢山の者が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがまだ唱え始める前に自分で声を出して唱えていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で何度も叱責された。

皆は慌てて唱えようとしている。リンポチェになりたいのではないか?もしなりたいのであれば、ネパールのラプチで3年間閉関しなさい。行きたい者がいるか?会場では誰も手をあげなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き説法された。皆が行きたくないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが口を開いてから口を開きなさい。あなた達は仏法を学ぶ者は先を争って唱えようとする。リンチェンドルジェ・リンポチェが皆を従えて唱えるということを理解しなさい。皆がリンチェンドルジェ・リンポチェを従えて唱えるのではない。皆が唱えるなら、あなた達に法座に上がってもらう!多くの者がこの様である。明らかに法師が上で修法しているのに、自分で一生懸命になって先に唱えようとする。あなた達は自分がどれ程偉大だと思っているのか?次にまた同じ問題が出たなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法を止めて、皆には先に出て行ってもらう。

こんなにも沢山の問題があるのは尊重していないからだ。リンポチェになりたい者がいるのか?この様であるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはA級リンポチェとなり、あなた達はD級リンポチェになればよい。先を争って唱えようとして、リンチェンドルジェ・リンポチェがリードしようとする精神及び慈悲の雰囲気を取り壊してしまった。全く上師に注意していない。文字だけに注意しているだけだ。次にまた起こったなら、どの様であっても全員を追い出す。隣の人をよく見ておきなさい。昔からも連帯責任の規定がある。隣の人をよく見ておかないなら問題が起きた時に大変な事になる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く修法を続けられた。一定時間が過ぎた後、法本の内容に基づいて法話がなされた。

法本の中の祈請文に説かれているが、私達が供養した後に、一切の勇父、空行母、及び護法に行者を益する世間の相を顕現していただくことを祈る。これは、修行者の相を顕現させ、一切の衆生を助けて頂くことを指す。一切の諸仏菩薩は受用された後に歓喜する。後にも諸仏がこの様に誓言者を護持することが説かれている。今日は皆、衆生を護持する誓言をした。変更しないなら、一切の仏は必ず護持してくださる。この誓言は大きな誓いとは限らない。人によって異なる。あなたがかつて衆生を利益する誓言をし変わらないなら、諸仏は必ず護持してくれる。例を挙げて言うと、あなたが永遠に殺生しないことを誓言したなら、仏菩薩は護持してくれる。あなたが両親を永遠に欺かないことを誓言したなら、仏菩薩はあなたの試験をちょっとだけ良くしてくれる。これは本当の事だ。

法本の中では「仏教を発揚し行者の願を満足させる」と記載されている。即ち、全ては仏の教えを広めることであり、上師をするとは限らない。あなたの身、口、意で表される物を人に見せるのが仏弟子であり、一切はあなたを満足させる。お経を唱えて夫に迴向したなら、夫が話を聞くようになると思っている者もいる。実際には不要だ。あなたの身、口、意を修行する仏弟子のようにするだけで、御仏は自然にあなたの願を叶えてくれる。両親、妻、夫、娘も衆生の中に含まれる。修行者は一切の衆生を利益しなければならない。よって、この願を持ち、正しいやり方で、仏の教えを実行するなら、必ず叶えてくれる。これはあなたの財産を増やすことを意味しているのではない。一切の障礙を取り除いてくれる。

言い付けられた事業が障害なく成就できるようにと、仏菩薩及び護法に向かって言ったことが、一切の仏法事業が阻止されることなく成就できることを助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王について仏法を学び始めてから、上師及び教派を護持する事を発心しただけで、奇妙なことに必ず助けてくれる人が現れた。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの誓言が変わらなかったからだ。だから、あなた達がこう言ったりああ言ったり変化し、いい加減な事を言っている者は誓言を守り通すことはできない。この種の誓言は男女間のことを言っているのではない。男女間のは占有欲だ。あなた達は海が枯れ石が粉々になるまで永遠に相手を愛すると誓う。これも欺瞞だ。目で見ず、耳で聞かない事ができるのか?

法本の中で取り上げられている「事業」とは、衆生を益することを指す。法本の中の一切とは全て菩提心を発(お)こした人である。この様に本日の法会に参加したなら絶対に利益がある。菩提心を発こしていない人でも、善行を行なうことを決意したならやはり利益がある。どんな利益なのかについては、リンチェンドルジェ・リンポチェは分からない。あなたに白馬の王子を与えてくれるのでは絶対にないが、あなたの人生には必ず利益がある。あなたが聞く耳を持ち受け入れたならだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて修法された。特に皆をリードされて第四灌の祈請文を唱えられ、説法された。通常はこの部分の祈請文を皆と一緒に唱えられることはないが、今日は旧暦の一日であり、リンチェンドルジェ・リンポチェも気分が少しいい。祈請文の意義は現在説かないが、唱え終わった後に皆と共に短い禅定を行なわれた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは泣き続ける子供の親を叱責した。子供がこんなに長く泣いているのに、面倒をみてあげていなかったからだ。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに先ず会場を離れるよう指示をし、説法を続けられた。

禅定の時は身体を真っ直ぐにしなければならない。片足で座禅してもよいし両足でもよい。禅定時は、長く座っていられれば、すごいというのではない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時、やはりこの様な誤解をしていた。だが、長く座っていられる事は足の鍛錬ができている事を意味する。禅定は質を重視し量を重視しない。私達の乱れている心をしっかり管理し、コントロールし、本来の不動の境界に戻す。心が不動になるには沢山の時間がかかる。一般人には成し遂げられるものではない。禅定時、私達は自分には通常どれ位の妄念があるかを察することができる。仏法の定義によれば、如何なる思惟も仏法と関係がないなら全て妄念となる。仏法と無関係なのは何か?それは、つまり、生死からの解脱、衆生を助けることに役立たないものである。この条件は非常に厳格なものだ。御飯を食べに行く事を考えたなら妄念なのではない。これは正常な事だ。

禅定を学んでいない人は、自分の心が物凄く動いていることをずっと理解できずにいる。これは心臓の動きではない。心拍がとても速く動いても100~200回だけだ。これは妄念がずっと動いている事を指す。禅定を通して、皆は自分には沢山の妄念があることに気付く。妄念は私達の敵ではない。多くの者が座禅をしている時、妄念があるのは良くなく、これを取り除きたいと思っている。これも実は妄念だ。あなたに考えがあって、別の考えによってこれを対処しようと思う。これもまた妄念だ。「禅」という字は、片側が単で片側が衣である。こんなにも簡単だ。あなた達が想像するように複雑ではない。前でこんなにも沢山の法を修さなければならないのは皆の障礙を取り除くためだ。——つまり、思いあがり、自分は偉いと思い、こんなにも沢山の本を読んだのだから理解できると思うことだ。

禅定の学習、第一歩は自分には沢山の妄念があることを先ず理解しなければならない。妄念があったらどうしたらよいのか?どうしたらいいかと考えなくて良い。妄念を追って考える必要はない。或いは別の方法で妄念を圧してそれを動かないようにすることも必要ない。それは、考えは絶えることなく変化しているからだ。自分には沢山の妄念があると気付いた時、少なくとも一般人よりも進歩している。それは、自分には沢山の考えがあることを知ったからだ。考えが生じてもよく、消失してもよい。これは何れも無常であり、自然現象である。よって、禅定時に、ある感覚、特別異なる感覚を追い求めようとすることも間違っている。一人の上師について禅定を学ばないなら非常に危険だ。それは、仏法の中には特別な名詞——「禅病」がある。座禅をして病気になることだ。座禅はなぜ病気になるのか?それは、心が間違っており、他に福報が十分でないからだ。福が不足しているなら座禅を修することは難しい。心の状況、外的状況の何れも干渉されるからだ。

今日は少し皆のために禅定の状況について説こう。禅定は頭を空っぽにすることではない。頭を空っぽにすることも考えであり、空っぽにしないことも沢山の考えであり、空っぽにせずに空っぽにしないこともまた沢山の考えである。空っぽにするというのは外道の名詞だ。多くの者が講演を聞きに行くのを好む。現在、一般社会で流行している授業は正しくない。仏法の禅定を学んでこそ役に立つ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは七支座法を伝授された。禅定を修習する際の注意事項、正しい姿勢及び心のあり様を説明され、続いて説法された。

禅を学び始めたら、どの位座っていられるかではなく、まず、自分の妄念に気付き減らさなければならない。自分の妄念を減らす事がとても簡単だということを知る必要がある。最初、まず3分間座ってみる。これは多くの者にとっては既に長い時間だ。しばらくすると、3分間があっという間であることに突然気付くであろう。それは、その日のあなたの妄念が比較的少ないことを示す。時間はどうやって来るのか?それは、考えが動いているのであってあなたに考えがないなら時間が動いていることに気付かない。大迦葉尊者は現在まだ雲南鶏爪山で禅定している。時間がなく、動いていないからだ。

禅を学ぶ際にはある問題がある。福が非常に少ないがとても熱心に禅定したら、突然疲れを感じて眠れなくなる。これは、あなた自身の覚性(かくしょう)が少し高められたのだが、この覚性を受用する福徳が不足しているため、とても疲れて眠くなったのだが、どうしてか眠れない状態となったのだ。最初、皆は、絶対に精進、努力しすぎないようにしなさい。今日は3分間、明日は6分間と、早く進歩しようと思わなくてもよい。この様なのは役に立たない。座禅は肉体との調整が必要だ。肉体を生活に適応させる方式によって、自然にあなたの心と協調してくる。肉体が適応しないなら心も変わってしまい、協調できなくなる。私達は生まれてから今まで、毎日沢山の考えが動いていて止まらないからだ。

皆は「つまらない」と叫ぶ。それは止まらず、やる事がなく、あなたとおしゃべりする人がいないからだ。よって、現在、スマホがこんなにも流行しているのはなぜか?あなたとおしゃべりする人がいないからで、ずっと携帯をいじっている。以後、皆の指は非常に醜くなるかもしれない。それは沢山触ったからだ。この動作があるのに、なぜあなたはつまらないと感じるのか?それは、心にずっと考えがあるからだ。あなたが別の事を探していて自分には考える事はないと感じているが、実のところやはり考えているのだ。

法本の中の祈請文の一部に記載されている通り、上師の全ての加持は皆の身、口、意及び自性の中に融け込む。いかに融け込むかについては、今日は教えないことにする。以後、皆の因縁が熟され、福徳が備わった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢噶舉派のリンポチェとして大手印の禅定を教える。大手印の禅定は顕教と密法に分かれる。顕教は理論であり、密法は実践する方法である。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、先に指名した数名の弟子に座るよう指示したが、一人の医師である弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの指示を待たずに座ってしまった事について、リンチェンドルジェ・リンポチェは「いつ名前を変えたのか」と叱責され、続いて「新しいシャツを買ったのか」と気遣われた。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて「この弟子は医師であるが、染料業に職を変え白いシャツを黄色に染めた」と語られた。その日、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を見た時に叱責された。「綺麗な服を着る必要はないが、清潔な服を着ることは一種の礼儀である」と告げられた。彼はとても節約家であり、シャツさえも勿体なくて買えない。今日彼が着ているのは黒だった。だが、黒も灰色になるので気をつけなさい。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自ら皆をリードされて禅定を行なわれた。皆に「緊張する必要はないが、気を抜くのではなく自然にしているように」と伝えられた。禅を学ぶことは非常に自然な事だ。生命の中の一部であり、特にわざわざ自分が座禅を学んでいると思わなくてもよい。ただ少しだけ生活方式を調整するだけだ。

禅定が終了し、リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて参加者に向けて説法を続けられた。

皆は座禅を学んだらすぐに天にも地にも通ずることができ、皆と違うようになると思ってはならない。毎日1、2分間すればよい。必ず30分、或いは長く座ったなら禅定に力が得られると考えなくて良い。なぜ禅定を修めなくてはならないのか?それは、私達の息が絶える時、及び息が絶えた後、自分の心を一つの点に定めなければならないからだ。それは例えば、阿弥陀仏或いは上師であり、何の考えもないなら初めて往生できる。禅定を修めることが開悟するためだけにあると思わなくてよい。開悟には様々な方法があり、禅定を修めるとは限らない。ただ、私達は他界する時にこれが必要である。座禅によって身体を健康にしたり、聡明にならせるためではない。これらはただの副産物であり、重要ではない。長期的にこの様な訓練を積んだ者は、心が比較的安定している。動作が粗く、衝動的にある事を行うことはない。最も重要な事は他界する時に用いる。あなたがポワ法を修めることができたとしても、定力(じょうりき)がないならポワ法の口訣(くけつ)と声を完全に忘れてしまう。

皆は禅定は長く修する必要があると誤解してはならない。出家者或いは在家者の何れも、現在には皆に合わせて修する環境はない。現在、山の洞窟の中で座禅を組む者もいるが、座禅に頼って生死を解脱できるか否かはやはり分からない。実際には、座禅で最も重要な事は私達の心を清らかな方へと向かわせ、心に清らかさが現れた時、座禅を組んでいなくても同じ様に定の中にいて、昼夜六時でさえも常に定境の中で物事を行なえる。禅宗を学ぶことを一種の神話と捉えてはならない。これは単に私達の生活様式を変え、自己の思惟と心身を訓練しコントロールするだけだ。現在、皆は自分の心をコントロールできず、毎日やはり山積みの妄念がある。禅定によって自己コントロールを始められる。

仏法の特徴は即ち、自己の心をコントロールすることを学び理解することにある。真言を唱え、御仏を礼拝する他、禅定もまたその内の一つの方法である。禅定を通してこそ初めて悟りを開けるのではない。仏には8万4千種の法門がある。あなたの縁がどこにあるかによる。直貢噶舉派は大手印の禅定の境界を主としている。今日は旧暦の一日であるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のためにこの種を植えさせる。あなたがいつ成就できるのかはリンチェンドルジェ・リンポチェには分からない。あなた達が仏法及び上師に対してどれ程の尊重と信心を有するかによる。

今日は皆に座禅の事を説いたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ皈依していない者には毎日座禅しないよう勧める。それは、まだ皈依していないので、天龍八部及び護法の加護がないからだ。皈依している弟子が毎日座禅しているなら、「座禅していると背後が冷たくなったのを感じた。鬼が吹いた風ではないか?」とリンチェンドルジェ・リンポチェに言いに来なくてよい。座禅している時には汗をかく。背後が冷たくなるのは正常な事だ。何かの声を聞いたと思わなくてよい。立ち上がればいいことだ。疑心暗鬼になってはならない。たとえ本当にあったとしても、あなた達が心で想像したものだ。本当にこんな事があっても、施身法の時に済度すればよい。座禅をするといろんな状況が起こる人が多い。突然気脈が動いているのを感じたり、手が震えたりする。これはただ、あなたの心が静まったので身体の状況に気付き注意しただけだ。また、以前座禅していなかった時は何ともなかったのに、座禅を始めたら腰や背中が痛くなったという者もいる。実際には、あなたは元々腰や背中が痛かったのだが、毎日スマホをいじっているのでこの事を忘れていただけだ。

皆は座禅という物を神秘的にしてはならない。自分は特に頭がいいので座禅を学ぶことができたと思わなくてよい。多くの仏教学習者が、自分は禅を修める器だと思い込み、自分の智慧が高いからだと思っている者もいる。実際にはそれは正しくない。六祖慧能は文盲であったが祖師となった。その当時、六祖と一緒に修行していた神秀は、文才に優れ、沢山の論を著した。知識は六祖よりも高かったが、複雑すぎたので明心見性の境地に至れなかった。知識分子こそが座禅を修めることができると思ってはならない。或いは自分は知識分子または博士であるので座禅の修行は簡単だと思ってはならない。書物を学べば学ぶほど座禅は困難になる。なぜ禅を修行しなければならないのか?それは、毎日皆が修法を終えた後、ほんの僅かでも入定することができたなら、修した法、真言、礼拝したものは法界の中にある。もし禅定しないなら、修したものはやはり意識の中であり、法界の中に入り込んでいない。

今日の説法は数名の出家者にとり助けとなる。彼らは以前、回答がなかったと思っていたのだが、今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに回答を与えた。修行の困難はどこにあるか?実は困難ではない。が、最も困難なのは良い師に出逢う事が難しいということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは沢山の時間を使って皆のために修法した。皆の夜の約束を潰してしまった。だが、語り終わらないなら、法座から下りる勇気はない。皆にはこの一年、仏法と世間法の何れも順調であることを祈る。当然ながら自分で改める必要がある。仏法を学んだ後、他人に改善を求めることが絶対にないように。仏法を学んだ後に絶対に他人の品格を批評することのないように。あなた達には資格はないのであるから。あなた達は仏法によって自分を批判し、検討すべきだ。もし仏法を学んでから、この方法で自分を改めないなら、仏法を学んで何をするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたの息子に加持を与えるのを見たら、息子は勉強がよくできるようになると思ってはならない。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェを何だと思っているのか?塾へ行くのだって高額な塾費がかかるのだ。数千元を供養しただけであなたの息子の勉強ができるようになるなら、都合がよすぎやしないか。

皆は盲信してはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェには福報、加持力があるが、あなた達は乱用してはならない。毎日乱用し、いい加減な事を言うと、ゆっくりと心はあなた達のところにはいなくなる。あなたが信じるなら一回で十分だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日尊勝なる直貢チェツァン法王に会っている時でも、直貢チェツァン法王に毎日加持をお願いすることはない。それは、上師は毎日弟子を加持されていることを知っているからだ。あなた達のようなまだ皈依していない者は、自分は皈依せず信者でいるのは快適だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが管理しないからだ。あなた達は間違っている。早かれ遅かれリンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達を追い出す。あなたがどんな身分、地位であろうと、来続けているのに皈依をしないのは、あなたがリンチェンドルジェ・リンポチェ、仏菩薩をもてあそんでいることになる。なぜ皈依しないのか?それは、自分で毎日家の中で御経を唱えていたなら成就できるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ、尊勝なる直貢チェツァン法王に皈依したのか。それは、自分の力だけでは不可能だということをはっきり理解したからだ。

これらの皈依しない者が毎日来ても、ただ人天の福報を累積するだけで生死からの解脱はできない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつ死んでしまうか分からない。皆は、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに沢山修めているのだから90歳まで生きられると思ってはならない。絶対に90歲まで生きられない。リンチェンドルジェ・リンポチェが死んだら誰があなた達を助けるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェがまだ死ぬ前に沢山利用すべきだ。だが、弟子であり仏法を学んでこそ利用できるのだ。

再度、つい最近他界した年長の弟子について語る。彼は本当に供養しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を語っているのではない。あなた達の心を語っているのだ。あなた達はこんなにも長い間来ているのにまだ皈依していない。あなた達の心がやはり悪であるか、悪い事をしようとしていることを意味する。もし、悪事を犯さないなら、なぜ皈依を恐れ、後にリンチェンドルジェ・リンポチェに追い出される事を恐れ、うまくできない事を恐れるのか。成仏こそが円満だ。成仏する前、リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ、自分はうまくやっていると言うことははばかれる。皆は皈依を断わる因縁を探さなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に皈依を求めているのではない。単に残念だと思っているだけだ。皈依した弟子さえも追い出される。あなた達のように皈依しない者がリンチェンドルジェ・リンポチェに長い間ついていけるとは信じられない。リンチェンドルジェ・リンポチェが目覚めたある日、申し訳ないが、あなた達に来なくていいと言うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは口にする。あなた達の恨みを買うことを恐れない。

リンチェンドルジェ・リンポチェに管理してもらうのを恐れるのは、あなた達がやはり悪であるからだ。現在はとてもよくなったが少し距離を置きたいを思っている。あなた達は皈依した後、リンチェンドルジェ・リンポチェもあなた達と距離を置く。あなた達と食事したり、あなた達の家へ行くことはしない。こんな事は少なく、一万分の一であるが。もしこうであるなら、なぜ、あなた達は皈依を拒むのか?本当に奇妙だ。頭の皮が破られても理解することはできない。叱らないことにしよう。皆が今年、一切順調で、一切円満であることを祈る。今日の法話はここまでとする。

法会は円満に終了し、参加者は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な修法及び法話に感謝を捧げ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに新年の挨拶を述べた。そして、起立し、法座から歩いて下りられるリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。


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2019 年 03 月 17 日 更新