尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年1月26日

法会開始前に、2011年1月16日に皈依をした弟子が、夫と娘(いずれも皈依弟子)に付き添われて、非常に得難い殊勝な教え及び彼女の皈依の因縁について皆に分かち合う機会を与えて下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。

彼女は、小さい頃から大人になるまで、いつも恐怖と不安を感じ、身近な者が突然、自分から遠ざかって行くのを心配していた。2006年、彼女は、姉の友人が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めようとしているのを知った時、法会に参加すれば悪い事が起こるのを防げるかもしれないと心中思った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く彼女に「なぜ法会に参加したいのだ?」と尋ねられた時、彼女は「今後悪い事が起こるのを心配しているので、法会に参加すれば、悪い事は起こらないと思うからです」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く彼女に対して長く説かれた。だが、その時彼女は、ずっと、自分の考えで、どの言葉が理解できるか、どの言葉が理解できないかと分別し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの説かれる内容を注意深く聞き入れていなかった。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の障碍を理解され、なぜ法会に参加するのかをよく考えるよう何度も説かれ、更に、彼女がどこに住んでいるのか、どうやって帰るのかと気配りされ、また、次に来る時は夫が来ないなら来てはならないと、特に言い付けられた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の恐怖と不安を理解され、彼女と夫に仏法を学ぶ因縁を与えて下さり、彼女の母親の健康状態が悪いと特に注意された。彼女は自分は愚かだと思った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの説法を聞いても、なぜ法会に参加するのかを真面目に考えなかった。こうしてむなしく3年の月日が流れ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女と夫に授けて下さった仏法を学ぶ因縁を無駄にしていた。

2009年、彼女は、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの著作≪快楽と痛苦≫を読んだ後、法会に参加したいという考えが湧き上がり、謁見を求めるための電話をした。彼女と夫が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「なぜ法会に参加するのか?」と尋ねられたので、彼女は「私はリンポチェについて行きたいです」と答えた。続いて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「なぜ、私について行きたいのか?」と尋ねられたが、この時彼女は、泣き続けて話すことができなかった。心中、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェについて行きたいとだけ思ったが、なぜなのかが分からなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「泣いてばかりいるんじゃない!なぜなのか、答えなさい」と言われた。その後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「来たいなら来なさい!」と言われたので、彼女と夫は法会に参加し始めた。だが、暫くしない内に、彼女と夫の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する信心が足りずに、中断してしまった。その後、彼女はやっと理解できた。法会に参加する動機は本当に重要な事だ。動機は信念を更に固くする。動機がないなら、信念が足りず、困難に出遭った時に、すぐに諦めることになる。

2010年、彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ主催の「阿弥陀仏無遮大済度法会」に参加した。その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが苦労を厭わずに列席者のためにお清めをされているのを拝見し、自らの命を惜しまずに、衆生が苦しみから離れることだけを願う偉大な修行者に深く感動し、心から慙愧の念を感じ、皈依する考えが生じた。その後すぐに電話をして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとの謁見を申し込んだ。

道場に到着し傍らで待っている彼女に、突然、皈依するとは限らないという考えが突然生まれた。そこで、気持ちを変えて、まず先に法会に参加することを願うことにした。だが、その後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のすぐ前の信者を「千の過ち、万の過ちは全て他人の過ちであり、自分は何も間違っていないのか!」と叱責されるのを聞いた瞬間、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教えを感じ取った。この様な偉大な修行者の教えは殊勝な事であり、父親の如き慈愛、厳格な師の如く教え導く上師は希少で得難いものだと感じた。

その時、彼女は、これこそが自分が求めていたものだと思った。よって、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に「何の用か?」と尋ねられた時、彼女はすぐに「リンポチェの弟子になりたいです」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「何?」と言われた瞬間、自分が言い間違ったのかと思い、言い方を変えて「貴きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したいです」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに「なぜ皈依したいのか?私はとても恐いよ!」と言われた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのこの言葉によって彼女は突然、目覚めた。彼女は何も思索せずに答えた。「そんなことありません!リンポチェが先の信者を叱っている時、私はとても感動しました。私は他人を傷つけたくありませんし、間違いをしたくもありません。どうか、リンポチェ、私をお導き下さい!」彼女は皈依を許して下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。

だが、皈依した後、彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び道場の事を最も重要だと思わなかった。会社の事情で朝晩の勤行の申し込みをしないことがよくあった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェについて国外の法会に参加することは言うまでもなく、自分がすでに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの皈依弟子であることを全く意識しなかった。以前から、彼女は、会社の事を何よりも重要視し、家庭の事を最後に置いた。自分の仕事の時間が長すぎて夫を悩ませたことさえもあった。彼女はこの状態は一生続き、永遠に変わることはないと思っていた。彼女は社長の評価を非常に気に掛けていた。会社は自分がいないと倒産するとも思っていた。会社内では一度に沢山の仕事を引き受け、自分ならできると思っていた。彼女は長い間、精神的崩壊の瀬戸際にいた。自分は仕事がすごくできる、全てを請け負えると思っていた。しかし、実際には会社の事をうまく処理していなかった。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「心がここにないなら、人がいても意味がない」と説かれるのを聞いてから、彼女は、自分にどんな問題が起きたのかと反省し始めた。もし自分の心が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにあり、道場にあるなら、どうして会社の用事と時間的にぶつかった時に、毎回、会社の事を第一に置くのだろうか?だから、2011年11月、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがインドのヂャンチュウブリンで閉関される時、彼女は十数年もの間、会社でしたことのない事をする決意をした。それは、社長に10日の休暇をもらうことだった。以前からずっと、彼女は会社では自分だけが最も重要であり、会社には自分がいなければダメだと思っていたので、こんなに長い休暇をとった事がなかった。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て「人生は無常である」と説かれたことを思い出した。これによって彼女は、自分はずっとこの会社にいるのか?もし、会社を離れても、自分はやはり最も重要な人でいられるのか?会社は本当に、自分がいなければダメなのか?と反省し始めた。徐々に彼女は、会社にはチームワークが必要であり、彼女一人が全てを請け負うのではないことを理解した。彼女はずっと、正しくない考えを持ち続けていたので、社長は、別の人に仕事の機会を与えることができなかった。他人にも仕事の機会を失わせた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭で、反省し続けられたことを感謝し、また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお蔭で、十数年に渡る執着を破ることができた事を感謝した。全ては自分の過ちだったのだ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは偉大な医王であった。衆生の肉体上の病気を治療するだけでなく、彼女の心の病気も治療してくれた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、彼女の問題がどこにあるのか、どうやって対応して薬を用いるのか、頑固で人の話を聞かない態度を退治することができるかを知っていた。2013年6月、ある者が彼女の社長を提訴した。社長は法律上の責任逃れをするために、彼女に不実の筆記をする事を要求し、もししなかったなら、深刻な結果となると言った。当時、彼女は大きな恐怖と不安を感じ、結果の責任を負うことを恐れ、動揺していた。彼女はすぐに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェか以前説かれた「因果を深く信じること」という言葉を思い出し、彼女は断固拒否することができた。彼女は皈依弟子として、世間の法律さえも守れないなら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの伝えられる戒律を守ることは言及しなくてもよい。彼女は、これらは全て、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの広大無辺の加持力であることを知っていた。これによって、彼女は上師への信心を起こし、自分の犯した過ちに勇敢に立ち向かい、間違いを犯した結果を引き受ける意思を固めることができた。

2013年8月、彼女は以前会社で行なった多くの違法行為について反省し続けた。皆だってこの様にしているのだから、この様にしても問題はないはずだと思っていた。だが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えにより、彼女は過ちを犯し続けたくなくなり、辞職した。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝を捧げた。彼女は既に40歲であったが、仕事が見つからない事を少しも心配しなかった。それは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「仏菩薩は仏法を学ぶ者に、食べ物がなく、着る服がなく、住む家がないようにはしない」と説かれていたからだった。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭で、すぐに仕事が見つかったことを感謝した。11月、彼女は新しい会社に出勤した。社長は仕事の開始日を延期することを承諾してくれたので、彼女はネパールの法会に参加することができた。この事を彼女はとても感謝した。新しい会社は、彼女を一ヵ月半待ってくれたからだった。新しい会社は全て法規に基づいていて、制度のある会社だった。仕事の分担がはっきりしていて、チームワークを重視し、一人が主役となる個人英雄主義ではなかった。もし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが加持及び導きをして下さらなかったら、彼女はどうやって、自分が最初から最初まで大変な間違いをしたことに気付くことができただろうか?もし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出逢わなかったら、彼女の恐怖と不安には止まることを知らず、苦しみが消えることはなかった。そして、千の過ち、万の過ちは全て自分の過ちであることを理解できなかった。

続いて、彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェによって彼女の親族が救われた経過を皆に分かち合った。

皈依してから、彼女の母親、二人の姉、姑、家族は次々に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの広大無辺の加持力を受けていた。彼女の母親はすでに68歲であり、一月の初めに転んで、お尻を床にぶつけ、左の腕で地面を支える格好になった。普通から言えば、この年で転んだら必ずひどい怪我を負うはずで、手を骨折し、尾骶骨まで怪我をすることさえもある。だが、彼女の母親は柔らかい地面に倒れたので、左手の掌に少し青あざができただけで、その他は全く無事だった。彼女の娘は皈依する以前、よく風邪をひき、夜にはよく悪夢を見て眠れなかった。皈依した後、これらの問題は自然に解決し、現在は身体も丈夫に大きくなり、小学三年生なのに既に146センチにまで伸びた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの諄諄たる教えと善行への導きのお蔭で、彼女は、幸いなことに、夫と共に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依することができ、仏法を学ぶ上での多くの障碍を取り除くことができた。夫婦の冷戦の際も、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えによって摩擦の苦しみを減らすことができた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの示現によって、彼女は、仏と全く同じである尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲心と菩提心を自ら見ることができた。仏菩薩はずっと前から彼女の近くにいて、仏光で普く照らし続けておられ、彼女の恐怖、不安、苦しみを取り除いてくれていたのだった。

人身得がたし、仏法聞きがたし、上師遇いがたし。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの歩みにしっかりと付いて行くこと、依教奉行(教えに基づく行動)、徹底的に懺悔し、自分の身口意を改めること、恭敬心、懺悔心、慈悲心を実際に仏法から学んで日常生活の中に根付かせること、輪迴から解脱することを誓った。最後に、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康、法輪の常転、直貢噶舉派の法脈が永遠に流伝されることを祈った。

法座に上がられた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、殊勝な直貢噶舉派の施身法を修法され、列席者に向けて貴重な仏法を説かれた。

今日の施身法は、旧暦の年末前に修法する最後の一回となる。「施身法」はチベット密教の八大成就法の一つである。修行者が一生をかけて施身法を修するなら、今世で必ず成就できる。仏法の中で成就するとは、輪迴から解脱をし、仏果を証することを言う。これは、生生世世の事である。施身法は、千年余り前にチベットの在家の、結婚していた女性の瑜伽行者が伝えた法であり、チベット語では煩悩を断つという意味である。仏法を学ぶ際の障碍、その一つは「所知障」であり、多くの者は自分は知っている、分かっていると思っている。この様な障碍をもつ者は仏法を学ぶことはできない。以後、学問の高い人はなぜ仏法を学べないのかについて説く。もう一つは「煩悩障」である。生じる考えが自分のためであるため、煩悩が一緒に生じるのである。この二つの障碍があると、生死を解脱できない。

よって、「施身法」という法門は非常に特別である。これは、顕教経典≪大般若経≫の中で釈迦牟尼仏が説かれた一切の法理をこの法門の根本精神としている。≪大般若経≫は≪大蔵経≫のほぼ3分の1を占める。釈迦牟尼仏は「般若」という二文字を解釈するために、歴史上の記載によれば、十数年の時間を費やした。「般若」という観念は人類の法則とは全く異なるものだ。これは仏の説かれた物が存在しないということではない。実際には、仏の説かれたものは宇宙間の一切のあらゆる事、相、理の変化である。もし、悟りを開き、成仏したいと思うなら、宇宙間の一切の事、相、理を把握できず、了悟に至れないなら、開悟は大嘘になる。

仏法を学ぶ者の中には、念仏を唱え、座禅を組んでいる時、ある種の神秘的な経験が得られ、自分では既に悟りを開いた、力を得た、非常に精進していると思う者もいるかもしれない。よって、釈迦牟尼仏は特別に≪楞厳経≫を説かれ、この種の人たちに、もしこのような考えがあるなら間違いだ、と特に伝えた。釈迦牟尼仏は更に≪金剛経≫において、菩薩道の修行者に対して、どうする者が菩薩なのかを特に説かれた。多くの者が≪金剛経≫は仏典の中の王であるので、≪金剛経≫を唱えれば破壊できないものは何もないと言う。この考え方は正しくない。「金剛」は、修行する心と清らかな本性が金剛と同じであり破壊できないものであるという意味だ。自分の清らかな本性に新たに気づくだけで、あなたという人は金剛種性となる。生生世世、いかなる修行、いかなる仏法を学ぶ機会を絶対に放棄してはならない。

人は皆、母胎に入るから始まり、体を生じさせ、意識が入ると、まず最初にいかに自分を保護するか、自分の身体を大切にするかを知る。だから、あなたが母親が食べた物を好まなかったら、拳骨で叩いたり足で蹴ったりする。もし、あなたが住む環境を好まなかったら、中で動き回る。この種の累世がもたらす業力、習性によって、人類と一切の有情衆生は、自分が大切だと思う物、必要な物に執着し続けることになる。釈迦牟尼仏は成仏した後、自分が菩薩道を修していた時に、肉体を布施して衆生の苦しみを解決した話を沢山説かれた。これらは≪宝積経≫において数多く説かれており、顕教の経典の中でも、命を捨てて虎を救った話、肉を切り取って鷹に与え、鳩を救った話などを含む多くの事跡が説かれている。

仏法の中で、どの様にしたら迅速に福徳と智慧を積むことができるのか?であるが、福徳は布施、供養から来る。これは、たまに少しのお金を投げ入れてできるものではない。相手にはっきり言ってから、ある項目に供養することでもない。布施、供養は、自分が仏法を学び、一切の障碍を取り除くために十分な福徳を積ませるものである。自分の福徳が生じてこそ、正法を聴聞し、正法を学び、徳を具えた上師に依止することができる。福徳には世間の福徳と出世間の福徳がある。世間の福徳とは我々が生生世世、十善法を修してもたらされる物であるが、この福徳は今世で使い切ってしまい、一生が終わるのを待たずに使い切ってしまうことさえもある。出世間の福徳は、生生世世、使うことができる。

法本の中には、施身法を修する瑜伽行者は勤めて「無漏」を修さなければならないと説かれる。無漏とは、ある事をする時に後遺症がなく、輪廻を続けるいずれの業力も引かないことを意味する。では、有漏とはどんな意味なのか?それは、行善、念仏、礼拝の何れにおいても、少しでも執着があったなら、全て輪迴の業力を生じることになる。よって、善行を沢山しても輪迴し、悪行を沢山しても輪迴する。もし修行者が空性に対して悟りを得ていないなら、自己及び衆生には絶対に利益はない。四大教派によって施身法を伝えることが益々少なくなっている。なぜなら、施身法を学ぶのは非常に大変だからだ。修する過程も大変だ。現在、台湾では別の教派も施身法を伝えているが、現在までのところ、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ、誰かが自他利益のできる施身法を修法しているという話を聞いたことはない。

施身法を学ぶには、絶対に宿世の因縁と福徳を積む必要がある。施身法の修法者は一切の我執を破る必要がある。自分の執着心はないとは言えないが、少なくとも修法過程においては利得を考えず、自分のいかなる利益も気に掛けない。施身法は釈迦牟尼仏の布施の考え方を学び、密法及び真言の加持を通して、修行者の肉体を衆生が好きな血、肉、骨に変える。衆生はそれを食べると、清らかな甘露に変化する。この甘露によって、衆生は生生世世の全ての貪瞋痴がもたらす執着心をすぐに断つことができ、その後、仏法を受け入れることができる。衆生は仏法を聞くことができてこそ、済度を受け入れられる。多くの者は、お経をあげ、阿弥陀仏を唱えれば済度されると思っているが、これは間違いだ。お経をあげる人が条件を満たしているかによる。修法者が済度を実行するには、十分な福徳が必要であり、智慧を得ていることが必要だ。

「智慧」は、話がとても素晴らしいとか頭がいいという事ではない。空性について悟り、確実に把握していることだ。もし、修行者にこの確実性がないなら、済度を修法する際に恐怖心が生じる。なぜ、恐怖心が生ずるのか?それは、修行者が経典や法本を唱える時に、その場を通過する衆生が聞くからだ。もし、修行者の条件が不足していて、ただお経をあげているだけだと衆生が感じたなら、近づいて来ない。多くの者が、≪地蔵経≫を唱えると鬼道衆生が近づいてくると思っている。皆は心配しなくてよい。≪地蔵経≫の中には、どの位唱えたら鬼神があなたを守るためにやって来ると、はっきりと説かれている。

≪地蔵経≫を開けば鬼道衆生が必ず来ると思わなくてよい。一冊の御経は、力のある人物でなければ、つまり、功徳のある修行者が唱えたのでなければ、ただの一冊の御経、単なる紙と文字に過ぎない。もし、この経典が嘗て功徳のある修行者によって唱えられたものなら、一般の紙や文字でなくなる。この種の御経こそが役立つものとなる。仏典の印刷を助ける功徳は非常に大きいと言う者がいる。これは正しい。お経のないお寺を助けて印刷するなら、当然ながら、この功徳は大きい。だが、新聞に広告を載せているお寺なら不用だ。これらは全て無駄金のビジネスだ。あなた達にお金があるなら、衛生福利部(日本の厚生労働省に相当)に寄付をして慈善を行なった方がよい。盲信しなくてよい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは現在リンポチェとなり、いかにして功徳を得、福徳を積むかを非常によく理解している。皆は人の言うなりになって、人がこうするからと言って自分も同じ事をしなくてもよい。仏法で説かれる事は全て、経験のある上師があなたに教えて導くものだ。何も考えないで、皆がしている事を自分も一緒になってやる事ではない。自分の要求を満たさない時が来たら、人を非難することにもなる。

施身法を修習するのに、これらの条件を満たしていないなら修法できない。最も重要な事は、修行者自身が菩提心を発こすことであり、口で言うだけでなく、最低でも慈悲心をもつ事である。大乗仏法または金剛乗仏法のいずれかを修するにしても、慈悲は必ず必要だ。もし慈悲がないなら、仏法の力を具えていないことになる。慈悲がないなら仏法の精神面はない。よって、慈悲は必ず必要だ。慈悲は口で言うものでも、思うことでもない。必ず階梯に基づいて訓練する必要があり、こうしてこそ、慈悲の力は開発され、育てることができる。

我々が法本を読誦する時、必ず前の四句を唱える。その四句は、「慈」「悲」「喜」「捨」をそれぞれ代表する句だ。慈、悲、喜、捨は、修行者なら必ず実行すべき目標と条件である。その中には「願衆生離苦及苦因(願わくは衆生が苦及び苦因を離れられんことを)」と説かれる。我々が仏の境地に至るまでは、常に衆生の中にいる。衆生は、我々自身も含まれる。≪金剛経≫には衆生相を破ることが説かれる。多くの者が衆生相を破る事と自分は無関係だと思っているが、あなたも衆生である。仏の境地に至ったなら衆生ではない。ただ輪迴し法界を解脱していないのなら、やはり衆生だ。

≪金剛経≫には衆生相を破ることが説かれる。我々と衆生は同体であり、分別のないものだ。衆生は衆生だと思い、自分は衆生のために修し、自分は衆生を代表して修している。このレベルは少し低めだ。我々が衆生に言及する時、「願衆生(願わくば衆生が…)」と言う。これには、我々自身、我々と直接関係がある、直接関係のない、一切の有情も中に含まれる。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは寺院で、ある信者がとても長い名簿を手に持ちずっと唱えていたのを見たことがある。それは、仏典の文字よりも遥かに多かった。時間の無駄であるが、この様にしてこそ役立つと思う者がいた。これは仏法の特別な点を理解していないのだ。

我々は「願わくは衆生が」と言う。我々も衆生の一人であるので、自分もその中に含まれる。もし、我々が実行しないなら、発願しても衆生も得られない。発願は特別なもの、他人とは違うものを考える事ではない。絶対にこのようではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前ある出家者が阿弥陀仏の四十八願に二つの願を加えたと言うのを聞き、お腹が痛くなるほど笑った。阿弥陀仏はどうやって発願したのか?法身菩薩となって、それぞれの仏土を遍遊し、それぞれの仏の願力を理解した後、さらに十数小劫の間思考して発こした願だ。それはとても長い時間だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼がこの一生で二つの願を加えたことが信じられない。傲慢なのではないか!

実のところ、阿弥陀仏の四十八願と諸仏の一切の願は、あなた達が考え付く全ての状況を包含しているので、発明家にならなくてもよい。仏法は何を学ぶのか?仏がした事、修行の経験、精神面を学ぶ。学んだ後に、他人と違うようになるためではない。諸法空性についてであるが、元々、諸仏と我々の本体はいずれも同じである。ただ、我々はまだ迷っているが、仏は悟りを開いたのだ。よって、≪金剛経≫には衆生相を破る事がはっきりと説かれいる。我々が発願する時は、口で言うだけではなく、来世、未来世を待つのではなく、今世で始めるのだ。

慈、悲、喜、捨の中で最も重要なのは最後の一句「願一切衆生遠離愛憎住平等捨(願わくは一切衆生が愛と憎しみを離れ、平等心に安じて分別を捨てられんことを)」である。実行するのは非常に難しい。なぜか?もし、金剛乗、菩薩乗を修する修行者なら、心中には全く良し、悪しの分別はなく、因果、因縁から世間の諸々の事柄を見る。我々はなぜ苦しむのか?それは、愛と憎しみを分別するからだ。あなた達はいくらかの愛を捨て去ることができるかもしれない。だが、憎しみを捨て去ることは本当に難しい。愛は必ず、相手を気に入らないと思う日が来るが、一人の人を憎んだ時、それは累積される。本当に奇妙な事だ。仏法は平等を語っている。平等とは衆生の体が同じことを意味する。悪い業力を積み重ね続けるからこそ、良い因と悪い因が生じる。この様であっても本体はやはり同じで、分別はない。

菩薩道、金剛乗を修する修行者が平等性智まで修していないなら、絶対に衆生を助けることはできない。修行者が済度を修法する時、やって来る衆生には種々の異なる業力があり、過去世で極悪者であったからといって横において無視し、過去世で偉大な善人であった衆生を先に助けるわけにはいかない。この様であってはならない。彼に縁があれば来るし、聞こえたなら助けなければならない。この様に修さなければならない。「捨」は非常に重要であり、多くの者は「捨」は財産を全て捨てることだと考えるが、「捨」はあなたの心の事であり、あなたの心を捨てるのではなく、種々の人、事、物に対するものだ。

あなたは相手のする行動を嫌うので、永遠に厭う。それは、相手があなたの好きな事を話し、行わないからだ。相手があなたの好きな行動をすれば、あなたは好む。この種の事は一切の煩悩を生じさせる。心を平等に留めることを学ばなくてはならない。これは、相手が善人または悪人である事を指すのではない。一切の有情衆生の本性は皆、清らかであるのだが、生生世世になした善業、悪業によって包み込まれ、この一生の業報身と経過する過程が生じる。さらに、この一種での多くの善と悪の助縁によって、あなたを良くも悪くもする。これらは全て無常であり、全ては変わる。しかし、清らかな本性は変わらない。永遠に変わることはない。修行者の身であるのに、平等心で衆生を助けないなら、容易く誘惑に負けてしまう。大功徳主や国王があなたを左右するような事は、歴史上沢山発生している。

修行者は、愛と憎しみを離れて平等に安じて捨て、離れなければならない。離れるとは、この世間から離れることではない。末法時代に修行している我々は、この世間から離れることはできない。あなたが奥深い山の中に隠れたとしても探しに来る者がいる。特に、現在は交通がこんなにも発達し、人が歩けないところにはヘリコプターで行ける。だから、隠れられない。隠れられないなら一緒にいたらよい。離れるとは、あなたの取捨の心の状態を指す。今日、あなたがある事をする。往往にして、相手が好きなら少し多く助ける。相手を好まないならあまり助けない。だから、なぜ上師をするのは難しいのか?もし、一人の弘法者が一切の事、物、人を全く判断できないなら、簡単に心が偏り、権勢や諸々の状況により衆生を助ける過程に影響を及ぼすことになる。

なぜ、寶吉祥仏法センターは、1997年から現在に至るまでずっと功徳主を設けていないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、お金持ちに対して好待遇することも、高官に媚び諂うこともない。この高官が本当に国のために仕事をしているなら、高官であっても、ちょっと会う事はある。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に、丸一日彼の機嫌をとることはない。それは、捨ができるからだ。人生は、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、単なる通り過ぎる過程に過ぎない。人生の中で発生した種々の事もすべて無常である。あなたが権勢を振るえるのは前世で修したからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェを助けるかどうかも、あなた自身が決めることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある者が自分を助けることができるからといって、彼らに媚を売ることはない。ただ、話を少し遠慮がちにするだけだ。だが、仏法を語る際はやはり遠慮しない。機嫌を損なわせてしまったら仕方ない!仏法を語る時、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも直接的だ。それは、衆生に仏法を誤解させたくないからだ。もし、仏法に対して非常に僅かな誤解があったなら、語る者と聞く者の両方に問題が出る。よって、上師となる者は、絶対に、仏法を批判するいかなる機会も人に与えてはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が全ての人に影響を与えるとはきっぱり言えないが、聞いたり、見ることができたなら、諸々の仏菩薩の加持力によって衆生に影響を与え、衆生が仏法に対して正しい考えを持てるよう試している。寶吉祥仏法センターと他の道場が違うのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが特別だからではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが因果を信じ、因果を恐れているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がしている事を明確に理解しているので、未来世と死亡前には必ず影響を及ぼす。自分は修行者であるというのに、なぜ、ほんの少しの名と利のために放棄する、こんなにも殊勝な仏法を捨て去ることができるのか?まず彼を入れてから、ゆっくり彼を改めさせたらいいのではないか、と思う者もいる。どうやって改めさせるのか?彼に縁がなければ改められない。

弘法者の身であるのに、衆生に縁があるかを見抜けないなら、衆生を済度するのはとても難しい。それは、この様にすると攀縁となるからである。仏法中に語られる「随縁」は、いい加減(中国語の随便)とは違う。弘法者であるなら、衆生の縁にしたがって相手を助け、相手の縁がどの様であるかによって、そのレベルまで助ける。弘法者は衆生のために善の因縁を作ることもできるが、衆生に無理をさせてはならない。かどわかしたり、不当な目的のために口実を設けるようなことをして、あなたと他の人は違うのだと思わせてはならない。必ず、仏の説かれた方法で仏法を広めなければならない。仏は何を説かれたのか?名聞利養は修行者の最大の敵だ。慎重にすべきだ。

我々はこの一生で、上師にならなくても、住職にならなくてもよい。だが、この一生で、絶対に三悪道に堕ちてはならない。一つの誤った思想、動作が、我々を三悪道に堕とす。我々が三悪道に堕ちず、この一生で依教奉行(教えに依る行動)するだけで、あなたは、未来の一世で必ず偉大な住職になることだろう。転輪聖王にさえもなれる。つまり、法王、リンポチェの類だ。衆生を助けるなら、焦る必要はない。現在、沢山の人が仏法を学んでいて、自分は衆生を助け、利益することが早くできると思っている。だが、自分の問題はまだあるのに、どうやって助けようというのか?自分の問題が解決しないのに、どうやって衆生を助けるのか?衆生を助ければ福徳を生じさせ、修行を少し進められると思うなら、これもまた、執着だ。愛、憎しみに留まった修行となる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法を学び始めてから、予め、未来はどのようであるかと考えることは全くなかった。ただ、仏法を学ぶのは良い事だと理解していただけだった。未来にどんな良い事が起こるかについてさえも何も考えていない。発願は、仏が教え導いた発願だ。今後、自分がどうなるか、どうなりたいかについては考えない。恐らく、リンチェンドルジェ・リンポチェは、以前に回向、懺悔の礼拝を沢山したのだろう。だから、今日は大変だ。今日は1500余人もの人が法会に参加した。一人多く来れば、リンチェンドルジェ・リンポチェの苦労は少し増える。どんな上師も、衆生を見捨てることはない。衆生が見捨てるのだ。どんな上師も衆生が危険であることを見たら、一本の因縁があるだけで衆生に機会を与えられる。

上師及び諸々の仏菩薩は因果に背いてはいけない。よって、あなた達はよく、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆を罰し、叱責するのを見るが、その道理は、あなた達に一本の因縁を保たせることにある。怒鳴られても、リンチェンドルジェ・リンポチェに怒鳴られた事を思い出す日が来る。この因縁を残しておくだけで、未来世で機会が持てる。密教を学ぶ際に発こす誓願と顕教の誓願との間には差異がある。どこに差異があるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェも以前、顕教を学んでいた。顕教を学ぶ事は、仏典の中で説かれる一切に基づく。釈迦牟尼仏は全ての大菩薩及び大阿羅漢を紹介し、我々に見せ、我々に聞かせた。よって、我々は自分もできる、大菩薩や大阿羅漢になれると簡単に考えてしまい、釈迦牟尼仏が仏典の中で説き続ける「諸々の善男子、善女人」を軽視してしまっている。これは、十善法を必ず修さなければならず、更に、本尊の誓願に基づいて修してこそなれるのだ。

簡単に言えば、あなたは、この一生で自己の力だけで成し遂げることは絶対に不可能だ。十善法について言うなら、もし、出家者なら、毎日自分がどの項目ができなかったかを検討しなければならない。更に言えば、もし、あなたが自分は仏弟子だと思うなら、≪37の菩薩の実践(中国語名:仏子行三十七頌)≫の項目を実行できたかどうかを検討しなければならない。その内の一項目を実行していなかっただけで、今日、あなたは仏弟子ではない。今日、あなたは菩薩乗を修していないのだから、自分は大きな誓願をしたと言ってはならない。この様な誓願は、テープレコーダのように声を出しただけで、実質はない。

仏法を学ぶ際に最も重要な事は経典に依拠することで、経典の中に説かれた事に依拠するなら、それぞれの菩薩、阿羅漢、修行者がどうやって学び、どうやって修したのかをはっきりと見る必要がある。現代人と昔の人は違うから、現代の方法でやるべきだと思ってはならない。この様ではない。やはり同じ方法——依教奉行(教えに基づいて行動すること)である。あなたが少し迂闊であり、自分は正しい、考えがあると少しでも思うなら、簡単に人に誘い出されてしまう。なぜ、上師は大切なのか?上師にすごい力があるからではなく、上師が如法に、仏法を徹底的にあなたの心の中に叩き込み、あなたに他の物を詰め込む空間を許さないからだ。このレベルまで実行するのは、当然ながら楽ではない。心地よい話をあなたに聞かせ、飴をあなたに食べさせることはない。あなたに飴を食べさせたとしても、それは咳の時になめる飴のように、後から少し辛くなる。なぜ、この様にしなければならないのか?それは、末法時代だからだ。もし、世間で正法を堅持したいなら、上師となる者は、自分のあらゆる利益を犠牲にしてこそ実行することができる。

今日は1530人余りが法会に参加した。一人が一つの名前を書いたら、世間一般の相場なら1000元だ。名前を一つだけしか書かなかった者は手を挙げてみなさい。その場で一人の信者が手を挙げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて皆に謝罪をし、説法を続けられた。彼の家族はそんなに少ないのか?ただ一つだけ?生生世世の祖先はいないのか?施身法は非常に殊勝な法門だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を学んでから、沢山の衆生を助け、沢山の衆生の利益になることをしてきた。施身法は福徳が薄く縁の浅い衆生に特に役立つ。それは、施身法の修行者はいかなる物事も損得を考えない。自身の肉体さえも投げ打つのだから、他にいるものがあるのか?だから、これらの縁の薄い、福徳の薄い衆生を感動させて済度を受けさせられるのだ。

衆生は修法者を恐れない。あなたが真言を唱えられたら衆生はあなたを恐れると思ってはならない。彼らは慈悲心に敬服するだけだ。あなたが偉大な和尚であろうと、無名の和尚であろうと、リンポチェや法王であろうと、彼らにとっては、これはただの世間の肩書きであって、彼らにとっては何の役にも立たない。あなた達が下へ行って自分の法名を記載したからと言って、衆生はあなたの言う事を聞くと思ってはならない。絶対にありえない。それは、これは人間の世界で用いるものだからだ。これらの衆生は、彼らを生死輪廻から解脱させてくれる修行者の話しか聞かないのだ。

どうやったら衆生に話を聞かせることができるのか?それは、先に彼らを満足させなければならない。六道の一切衆生は皆、ある習性がある。——食べることは、無色界天まで修したとしても禅をもって食となす。やはり、食べなくてはならない。「禅をもって食と為す」については後日説明する。そこに座って動かないなら物を食べられるのではない。座禅をしても物を食べられる。修行者は衆生を満足させる。衆生に物を食べさせることで、彼らを落ち着かせる。人はなぜ輪迴するのか。それは、貪、嗔、痴、慢、疑、煩悩が重いからだ。衆生の煩悩を止めらないなら、絶対に修行者が唱えているものを聴くことはない。

あなた達は100人を集めて阿弥陀仏を唱えたら、彼は絶対に聞くと思ってはならない。衆生の中には逃げてしまう者もいる。仏菩薩を見ても全ての衆生が喜ぶとは限らない。業障の重い衆生は、仏を修し、心を清める以前、仏菩薩の光を見たなら畏怖を感じて退いてしまう。これは一人で一日中、真っ暗な部屋に閉じこもっているようなもので、突然扉を開けて外に出て、眩しい日の光を見たら後退してしまうようなものだ。日の光は彼にとって役に立つことは明らかであるが、彼は長い間見ていなかったので、この光に恐れを感じる。なぜ生前に上師、仏菩薩、仏法に接する必要があるのか?それは、あなたが仏に接触しても恐れない心を養わなければならないからだ。なぜ恐れるのか?仏菩薩がこわいのではなく、現代の言葉で言えば、あなた達は仏菩薩のエネルギーに慣れていない。あなた達が聞きたがる言葉で言うなら、仏菩薩の磁場は非常に強く、あなたの磁場が弱すぎるので、切り込んでいくことは不可能だ。なぜ、生前に必ず仏法を学び、菜食をし、話を聞かなくてはならないのか?それは、あなたが死ぬ時のための準備となるからだ。

あなた達は、法会に参加すれば平安無事であるとかないとか、思わなくてもよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは年末に死について語った。旧暦の一日にも死について告げた。他の場所ならあなた達におめでとうと言うが、寶吉祥仏法センターはあなた達に、「また一日減った。あなたはまもなく逝く」と言う。元々、これは本当の事だ。仏法を学ぶ者が、なぜ信者に事実を隠すのだろうか?もし、仏法を学ぶ事がこの目的のためではないなら、誤ったことを学び、誤ったものを礼拝し、道を誤ることになる。有情衆生のそれぞれは、ある日、必ずこの世を去る。もし、こんなに苦しんで仏法を学ぶなら、ただ、ほんの僅かな数十年の名利のために、本当にこんなに苦しむ必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの先父は道教を学んでいたので、リンチェンドルジェ・リンポチェも道教をよく知っている。この一生で善事を続けているだけで、凶である事は減る。少し転じる事もある。あなた達はなぜ、寶吉祥仏法センターに来てこんなに苦しまなくてはならないのか?罵られ、訓戒されて、非常に苦労する!

仏の教えを受け入れずに仏法を学ぶなら、学ばない方がよい。週末には別の場所へ行き、拍手をし、ダンスをし、歌を歌ったなら、もっと楽しいのではないか?あなた達が寶吉祥仏法センターに来るのは楽しむためではない。楽しくても、やはり束の間のことだ。慈、悲、喜、捨には、業力のない快楽こそが真の快楽だと説かれている。沢山歌ったら業力がある。漢方で言う中気不足となるからである。なぜ法会に参加するのかを皆は理解しなければいけない。この様にしてこそ、法会に参加する際の心の有り様が正しいものとなり、諸々の仏菩薩と相応でき、六道の中のあなたと関係のある衆生を呼び出し、済度を受け入れさせることができる。

もし、あなたがただ、自分の小さな身体の健康のために自分の怨親者を済度したいと思うなら、自分の怨親者を済度して、それでどうだと言うのだ?この様にしたら、病気をしなくなるのか?やはり同じ様に病気する。あなたは、沢山の怨親者がいるので、何もかもがうまくいかないと言う。あなたはどうしたいのか?怨親者の中には生きている者もいる。今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの修法で彼らを殺すことはできない。この様な考え方は間違っている。仏法の中で説かれる怨親者は外にいるのではない。全て家の中にいる。仇もなく、恨みもなく、恩もないなら、同じ家の中には生まれない。夫婦になることもない。

怨親者にとって、仏法を学ぶ我々を邪魔する事が最も大切な事だ。あなた達は、あなた達を来させないようにする事が障碍だと思ってはならない。ある者はあなたを呼びに来て、あなたに告げる。「行きなさい!行きなさい!」その後、突然、彼はあなたに言う。「私は、あなたが家にいた方がいいと思う。もうこんなにも沢山、修したのだから」と。その場にいる女性信者も皆、この様な話を聞いた。彼は、あなたに告げる。「全て同じではないか?家で仏典を見ていればいい。テレビをつけて聞けばよい。なぜ、こんなにも苦労して毎週日曜日に行かなければならないのか?」彼は「君をとても愛している。とても大切に思う」と言うのではないか?それから、「出掛けるなら、君の事を考えてしまう」と言う。あなた達が「その通りだ」と思ったなら、これは皆、怨親者だ。

あなた達は一つの心構えを抱いて、法会に参加したなら、夫のあなたに対する態度が少し良くなると思ってはならない。これも間違いだ。あなたに対する彼の態度が悪いのは、絶対に前因があるからだ。前因がないなら、突然、あなたに対する態度が悪くなるはずはない。法会に参加する重要性はどこにあるのか?第一に、自分が生生世世、仏弟子を実践していなかったので、またここに来たことを信じなければならない。きちんと行なっておらず、あなたを来させたので、心からの懺悔心を起こさなくてはならない。取るに足らない事で一人を済度し、恙無い日々を送らせるためではない。絶対にこうではない。あなたも自分が慈悲で彼を助けていると思ってはならない。あなたに慈悲がないことは保証する。あなたには分別があるからだ。あなたはただ、一人を指名して書いただけだ。どうせお金は取らないのだから、なぜもっと沢山書かないのか?弟子もあなた達の事を何も言わない。今日の名簿は、こんなにも厚みのあるものとなった。1500人余りが参加する法会には、5000余りの済度名簿がある。もし、一文字1000元徴収したら、500万になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日、500万をもって飛び去ることだってできる。

上師はあなたに対して損得を計算しない、あなた達も絶対に仏菩薩に対して損得を計算してはならない。損得計算というのは、あなたが思っていることを実行してもらいたいと仏菩薩に要求することだ。ただ、あなたが来られるなら、仏菩薩と上師は必ずあなた達を助ける。だが、因果に背いてはならない。あなた達の欲望を満足させることはできない。身体の具合が早くよくなるようにといった類のことだ。あなた達が医者に診てもらっても、すぐに良くはならない。神話には仙丹(仙人が作った妙薬)を飲んですぐに良くなったという話はあるが、これには非常に大きな因縁が必要である。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関した時、本来なら死ぬはずだった。アキ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェに一粒の甘露丸を与えてくれ、それは本当に仙丹で、リンチェンドルジェ・リンポチェをすぐに目覚めさせてくれた。このお蔭で、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生で沢山の衆生利益を行うことができた。前世の事は言う必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェはその当時、全く何も求めていなかった。今日は法座の上にいるので、絶対に嘘を言う勇気はない。法座に上らない時でさえ、嘘を言う勇気はないのだから、法座の上では尚更な事だ。

皆は仏法こそが仙丹だと思ってはならない。過去世については語らずに、あなたが物事を理解し始めてから、人として生きている中で、仏法方面での善をどれくらい行なったか、自分の事を考えてみなさい。もしないなら、なぜ、法会に一回来ただけで、すぐに、あなたが良い仙丹を得ることができるのか?仏法では、累積(積み重ねる事)という事が説かれる。即ち、砂を掻き集めて塔を作る方法だ。あなたには、永遠なる心、忍耐しようとする心がない。これは、あなた自身の事だ。仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェにはとても忍耐がある。十数年して初めて改心する者もいる。今日は3年前に面会した弟子もいたが、彼らのような者だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを待っていた。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分が何歳で死ぬかを知っているからだ。だから、彼を待っていた。あなた達の方がリンチェンドルジェ・リンポチェよりも短命かもしれない。

これは順縁、随縁だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達のために一本の道を開拓してあげる。あなたがその道を行くかどうかは自分で決める。だから、法会では毎回、 リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも同じ話をする。あなた達は毎回同じだと感じるだろう。当然その通りだ。それは、あなた達はこの条件を実践できていないのだから、例え、釈迦牟尼仏があなたの目前におられようと、あなた達に何の助けもできない。どのような条件を必ず実践しなければならないのか?それは、懺悔心だ。自分の累世の身、口、意が為した一切の悪を懺悔し、業果を被ることを恐れてはならない。多くの者は懺悔すればそれで済むと思っている。実際には間違いだ。懺悔とは、あなたが責任を負うことを意味する。あなたが責任を負うことを決意すれば、悪い出来事は少し少なくなるだろう。

簡単な例を挙げる。あなたは家のローンのために銀行からお金を借りた。銀行が借金の返済を迫っても、あなたが無視していたら、最後に銀行は家を差し押さえるだろう。もし不足していたら、やはり返済を迫る。返済を迫らないことはない。だが、もし、あなたが早めに銀行と相談していたら、銀行は恐らく利息を少なめに取るかもしれない。或いは、少し延長してくれるかもしれない。同じ意味ではないか?借金は責任を取らなくてもいいのか?皆はどうして発明できるのか。懺悔の礼拝をしたら何事もないと思うのか?これは、仏典では説かれていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、以前、梁皇の懺悔をしていた時、「罪花飛」を唱えると涙が止まらなくなった。罪の花が飛んで無くなったらどんなにいいかと思ったからだった。花が飛んで無くなったら、未来の悪果を少しよくできるが、業果が無くなるのではないことが、今やっと分かった。

真に深く聞き入れて懺悔しなければならない。これは、責任を負い、責任を負うことを恐れないことを意味する。逃避する必要はない。あなたがただ、敢えて懺悔しようとするなら、どんなに苦しくとも、仏菩薩はあなたを乗り越えさせる。乗り越えさせるとは、それらの衆生を追い出すことではない。あなたが彼らと交渉し、責任を取ることを仏菩薩は助けてくれ、あなたに少し多目の時間を与えてくれる。返済を迫られないようにすることは不可能だ。だが、あなた達は今、全てにおいて、仏法を迷信の道具としている。唱えさえすれば、どんな事もなくなる、礼拝すれば、どんな事も起こらないと思っている。どこにそんな良い事があろうか?もし、リンチェンドルジェ・リンポチェがこんな事をあなたに言ったなら、必ずあなたを騙すためだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達に敢えて言う。ただ、あなたが責任を負うなら、この一生で必ず債務を返済できる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分の債務を完済したとは言えない。昨日の晩餐会で、あるVIPが式辞を述べた。彼は仏法を学んでいないが、毎年、リンチェンドルジェ・リンポチェ主催の大法会に参加していた。彼は「リンチェンドルジェ・リンポチェは年を取らず、益々健康になっているようだ。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが多くの善事をし、衆生を助けているからだろう」と言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェも人間だ。間違った事もする。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは責任を負い、返済し続ける。ただ、あなたが返済することを決意するだけで、諸々の仏菩薩は、返済する能力をずっと持てるよう、あなたを助けてくれる。あなた達に代わって返済してくれるのではない。あなた達は、この点をはっきりさせなければならない。多くの者が、念仏すれば仏は返済を助けてくれると言う。だが、仏はお金がない。どうやって返済を助けてくれるのか?仏は愛情も語らない。どうやって、あなたのために情を返すのを助けてくれるのか?

釈迦牟尼仏は、妻も子供もいらず出家してしまった。あなたが釈迦牟尼仏と唱えたからと言って、夫や妻を留まらせるためにあなたを助けてくれるのか?あなた達が、真実の道理をはっきり理解してこそ、法会に参加することが役立つものとなる。ただ、あなたが懺悔すること、責任を負うことを決意し、返済を心配しなければ、必ず、完済できる。世間の債務または過去世での債務に関わらず、この一生で絶対に完済できる。この絶対こそが懺悔の「懺」を意味する。

懺悔の「悔」は永遠に犯さないことを意味する。鶏肉はなく鶏の油だけだからと言って、チキンスープを飲んでも何事も起こらないと思ってはいけない。同じように起こる。あなたが改心しないなら、新たな債務ができる。懺悔は謝って相手の怒りを消沈させることではない。この様な考え方では全くない。責任を負い、以後、二度としないことだ。あなたに懺悔心があるだけで、仏法は絶対にあなたと相応する。どうやって相応するのか?それは、あなたが倒れないように助け、支え、一つ一つハードルを越えられるようにしてくれる。仏法はあなたを捨て去ることはない。あなた達が仏法を捨てるのだ。絶対に仏菩薩はあなたを捨て去ることはない。

懺悔心が確実に持てたなら、次は慈悲の心を持たなければならない。今日は、自分の要求のために法会に参加してはならない。地球上、台湾ではどの位の人が法会に参加できるのかをしっかり理解すべきだ。数えられる程しかいない。我々は自分で生生世世に修した福徳があり、今日の法会に参加できる大きな因縁を得た。ある一人を指定するのではなく、衆生が我々と一緒に法会に参加できるように望む気持ちを持つべきだ。これこそが慈悲心である。

慈悲心の他、最後の一つは信心だ。信心とは、リンチェンドルジェ・リンポチェにすごい力がある事を信じるのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが説くものが仏法に基づいている事を信じることだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達に全ての物を捧げるよう言ったか?言っていない。あなた達に離婚や出家をするよう言ったか?言っていない。あなた達に勉強しなくていいと言ったか?言っていない。勉強したい者を追い出したこともある。あなた達に仕事をしなくていいと言ったか?言っていない。寶吉祥仏法センターの規定は、「仕事をしない弟子は、仏法を学びに来ることを認めない」である。これは、弟子に仕事があればリンチェンドルジェ・リンポチェに供養することができるからではない。それは、自分さえも面倒みきれないのに、どうやって他人の面倒をみるのか?皆は在家者だ。もし、仕事せずに甘い汁を吸っているなら、仏法を学んだ後に衆生を済度するとなぜ言えるのだ?

彼らのような出家者達は、仕事しなくてよい。彼らはとても苦しい生活を送っている。あなた達は実行できない。ある者は、一日に一食、一杯のお粥を食べているだけだ。お金がないなら、お粥一杯だけだ。あなた達ならできない事だ。すぐにテレビに出る。だが、出家者はただ観音菩薩を唱えることしかできない。だから、出家者は仕事をしなくてもよい。だが、あなた達は仕事がないのはいけない。実際、出家者には仕事がある。それは、彼らは毎日、衆生に代わって唱えており、これが彼らの仕事なのだ。

我々はこの三つの心をしっかり理解しなければならない。その中の信心は非常に重要だ。「信は一切の功徳の母である」。この法はリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェが突然一冊の天の書物を手に入れて皆に語っているものでもなく、奇遇にも印度人に出逢って教えてもらったものでもない。これは、確かな根拠をもって千年余りに渡り、途絶えることなく伝えられた法門である。よって、あなた達は施身法に対して強烈な信心を持たなければならない。この三つの心を具えるだけで、今日、あなた達が法会に参加した事が未来において必ず役立つという事を深く信じなくてはいけない。だが、これは、あなたのために白馬の王子を探す手伝いをするのでも、妾が突然いなくなる手伝いをするのでも、債権者が借金の取立てに来ないよう手伝うものでもない。あなたの生死の大事を助け、あなたが往生する時に、必ず、具徳の上師及び諸々の仏菩薩の助けを受ける因縁があるよう助ける。

この三つの心を持つなら、あなたが今日誰かを助けたいと思った時に必ず実行できる。修法者は非常に重要であるが、法会に参加する者はもっと重要だ。あなた達が参加しないなら、この法会は成立しない。皆がここに来たので、修法前にははっきりと話す。もし、はっきりと話さずにすぐに直接修法したなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に苦労することになる。なぜか?それは、あなた達に借りを作ることになるからだ。あなた達が供養するか否かに拘らず、あなた達が今日大人しく、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に座っているだけで供養となる。供養は恭敬心を意味する。あなたが恭敬心を生じさせることを決意したなら、福徳が生じる。あなたと関係のある一切衆生の福徳もあなたと共に生じ、彼を助ける仏法の縁が自然にできる。

お金のある者だけが福徳があると思わなくてよい。もし福徳がなく縁もないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに会ったとしても、助けられない。以前、皆に話したことがある。ある弟子は店のウェイターをしていたが、縁がなかった。彼は大法会に三年も参加していて、毎年、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に菜食するように言っていたが、彼は言う事を聞かなかった。話を聞かないのは縁がないからだ。大法会に参加したことがあるからといって、仏菩薩と縁があると思ってはいけない。あなたが話を聞かないなら、それは人天の福徳となる。困難に出遭った時、徳のある上師及び修行者に助けてもらえる縁はない。縁は非常に重要だ。上師となる者は、一切の善縁が開かれるよう、あなたを助けなければならない。だが、その後、続けて行くかは、あなた達自身が決めることだ。

この後、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する際、先程説いた三つの心について思惟しなさい。ずっと考える必要はない。あなたが自分の心がどこかへ行ってしまったと感じたなら、壇城、上師を見て、心を引き戻しなさい。人はここにいて心ここにあらず、となってはいけない。心がここにあって人がいないのも駄目だ。心はここにあり、人がここにいないなら、痛みを感じる。痛みは必然的に通過する過程であるので、足が痛むのを恐れてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学び始めてから今まで、こんなにも沢山の弟子を取ってきた。こんなに多くの大法会を主催してきて、座禅を組んでいた為に、外に出た後に死んでしまったという者を一人も見た事はない。元々身体に障害がある場合を除いて、座禅を組んでいた為に、外に出た後に身体障害者となったという者を一人も見た事はない。

それに、本当に身体に障害があっても好転した者もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェにはこの様な弟子が沢山いる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、元々足が悪かった。幼い頃、カンフーを練習している時に怪我をしたからだった。だが、仏法を学び、座禅を組んでいたら徐々に良くなった。あなたが座禅することを受け入れるなら、あなたが思いもしない沢山の利益が得られる。以後、機会があったなら、皆によく解釈をしよう。法会に来た以上は、皆は、これらの幾つかの条件に注意を払いなさい。

この後、リンチェンドルジェ・リンポチェが、助けたい者、在世者の名前を言うよう指示したら、皆は三回言いなさい。ここには監視者も記者もいないから、皆に聞こえても構わない。あなたがどんな身分であっても、皆に聞こえたとしても皆とは関係ない。大きな声で言いなさい。大きな声で言うと聞こえるからではなく、相手に対するあなたの心からの気持ちを表すためだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが他界者の名前を三回言うよう指示した時、あなたに心から願う気持ちがあったなら、彼は来る。リンチェンドルジェ・リンポチェが法器を吹くと、彼らは入ってくるが、皆は落ち着いていなさい。冷たい風がヒューと吹くことはない。それは、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの所へ来たからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェしか見えず、あなた達は見えない。リンチェンドルジェ・リンポチェを信じなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達を騙すことはない。こんなにも沢山の衆生にあなた達が見えたとしても返済できるのか?皆は心配しなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにはあなた達が見られないようにする。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、施身法の修法を始めた。修法に円満に終了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、続けて貴重な仏法を説かれた。

今週の日曜日が終わると、来週の金曜日は旧暦の一日だ。寶吉祥仏法センターでは通常、旧暦の一日に法会を行う。法会は午前9時30分から始まり、朝、二つの財神法を修法し、午後2時には上師供養法を修法する。リンチェンドルジェ・リンポチェはお正月の二日と三日に休みを取る。まだ皈依していない者は肉食してはならない。もし、あなた達が続けて肉食するなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達が来られないように護法に願う。あなた達は、肉を食べても関係ない、仏菩薩はいつも慈悲深いからと思っている。確かに、仏菩薩は慈悲深い。あなた達を懲らしめることはない。リンチェンドルジェ・リンポチェもあなた達を懲らしめない。だが、菩薩の身近にいる沢山の護法は菩薩ではない。上師が法座に上って仏法を説いても、信者は話を聞かない。これらの護法はあなた達に続けて聞かせることはない。来れば保護されると思ってはならない。

なぜ、今日はこの事を話したのか?それは、まもなくお正月だからだ、あなた達の中でまだ皈依していない者の家には魚や肉が沢山あり、祖先を祀らなくてはならない。あなた達は、食べないなら、家族や両親が怒ると思っている。皆は、通常、彼らが怒るのを気にしていないが、なぜ、お正月の数日には心配するのか?あなた達のことが理解できない。自分が好きだから食べるのだ。問題を他人に転嫁してはならない。よって、皈依していない者で菜食できない者は、本当に来なくてよい。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは人を淘汰したいと思っているからだ。あなた達には、仏法を霊媒師として拝んで欲しくない。依教奉行とは、仏の教えを全て行なうことを意味する。仏の教えを実行しないのなら、あなた達はここに来て何をするというのか?それなら、来なくてもよい。時間の無駄だ。さらには、道場の水道・電気も浪費することになる。寶吉祥仏法センターは、貧しい道場だ。大功徳主がいない。対外的に募金も行なわない。信者が来たなら、あなた達にトイレを使わせないわけにはいかない。人が一人増えても差はない。元々法会は行われるのだからと思わないように。この様であるので、人が一人増えたら、水道・電気等の支出が増える。あなた達が本当に仏法を聞きたいと思うなら、来ても構わない。弟子達に布施の機会を与える。だが、ここで法会に参加して、あちらで肉を食べることはしてはならない。

以前、ある弟子が皈依した後も同様に肉を食べていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に出て行かせた。彼の父親が数週間前に他界したのだが、この弟子は中に入れなかったが、彼の子供は入れた。それは話をよく聞いたからだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に厳しい。数日前、ある弟子の父親が他界した。彼は電話を掛けてきて、「リンポチェ、ポワ法をお願いしたい」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も言っていた。生前信じていないなら、ポワ法を得られない。今日は気分が良いので、ポワ法とは何かについて皆にちょっと説明をする。出家者はよく聞きなさい。

阿弥陀仏が釈迦牟尼仏によって紹介されたことは周知の通りであり、皆は≪阿弥陀仏経≫、≪無量寿経≫、≪観無量寿経≫を読んだことがあるだろう。経典には、他界者の傍で阿弥陀仏を唱えたら他界者を阿弥陀仏の所へ行かせられると、説かれているだろうか?絶対にない。だから、なぜ、助念(他界後に仏号を唱えること)をしたなら阿弥陀仏の所へ行く事ができるのか?先程、修法の過程において、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆をリードして念誦した。これこそが助念だ。助念は、灌頂、閉関を経た一人の上師が皆と一緒に唱えることを意味する。仏典には助念についてはこう説かれている。助念は他界者が生前に仏法を学び、戒律を守っていたが、彼の上師と兄弟子達が彼の堅固でない心を心配し、臨終する前に唱え続けてあげることで、彼の考えを不動なものにするのを助ける。このため、例え心が動いたとしても、助念によって、迅速に最期を迎えることができる。

人が阿弥陀仏の所へ行くのを助けたいと本当に思うなら、もう一つの方法は、阿弥陀仏を唱えている時、彼が阿弥陀仏の所へ行くかどうかを気に掛けなければ、菩薩は来迎引接してくれる。リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時、助念をしたことが一度ある。当時、ある親友の父親は急に亡くなったので、助念してくれる人を呼ぶのに間に合わず、ちょうどその日の午後、リンチェンドルジェ・リンポチェは事務所にいたので頼んできた。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは、他界者との非常に強烈な感応があった。その日、阿弥陀仏を約1時間唱えた後も、他界者は行きたがらなかった。続けて唱えていると、リンチェンドルジェ・リンポチェには、彼は自分が死んだ後に、自分の奥さんの面倒をみてくれる人がいないのを心配していることが分かった。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは息子を呼び、他界者の耳元で、自分は必ず親孝行をすると言わせた。

息子はこの約束を本当に守った。死ぬ前に、母親に対して孝行を尽くした。母親がやってはいけないという事を、彼はしなかった。母親が、あの女性は良くないと言うと、彼は付き合おうとしなかった。本当に実行した。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェが続けて唱えていると、地蔵菩薩が現れて、一つに繋がった小さな白い蓮の花が下りて来て、他界者を迎えに来た。これはどういう事なのか?あなたが阿弥陀仏と唱えないで、釈迦牟尼仏と唱えたとしても、必ず菩薩はあなたを迎えに来る。あなたが何も見返りを求めずに唱え、自分にいかなる考えもないなら、彼のためになるという考えさえもなく、ただ、懇ろに心を込め、彼の苦しい気持ちを理解して彼のために唱える。こうするなら、諸々の仏菩薩は彼を迎えにやって来る。

≪地蔵経≫には、釈迦牟尼仏が天界へ行き母親のために説法したことがはっきりと説かれている。道理から言えば、釈迦牟尼仏は母親を阿弥陀仏の所へ送るべきだった。なぜ、天界へ行って説法しなければならなかったのか?これは、釈迦牟尼仏自身でさえもできない事だった。だから、天界へ行き母のために説法し、母親を天界で修行させて自分自身を済度できるようにした。梁皇の懺悔を例に挙げると、梁武帝の妃は死んでから畜生道に堕ち、大蛇になった。そこで、梁武帝は宝誌公に済度を求めたのだった。仏典の中に記載される通り、宝誌公は千手観音の化身であった。是非を論じないが、当時の出家者の戒律は非常に厳しかった。宝誌公は弟子と一緒に千仏の礼拝をした。礼拝を済ませた後、やっと、梁武帝の妃を天界に生まれ変わらせることができた。

この二つの例は我々に、≪阿弥陀経≫というお経は我々自身に修行させるものだという事を伝えている。よって、釈迦牟尼仏は≪阿弥陀経≫の中で、この五濁悪世において、この信じ難い法を説いたことに触れている。あなた達が信じないのではなく、これに説かれている究極的な事を信じさせるのが難しいと説かれる。仏は特に五濁悪世を取り上げた。その内の一つの濁が「見濁」であり、皆は誤った見解で阿弥陀仏の願力を解釈した。昔は、出家者の中にはこれで生計を立てている者もいた。そこで、あなた達が来ると、彼はあなた達の為に浄土に往生したいなら「浄土往生」と書き、西方の極楽に行きたいなら「西方極楽」と書いた。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、こうではないことを本当に知っている。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェがやはり顕教の信者であった時、どの場所へ行っても主催者には福徳が足りないと感じ、済度を行なう時、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場を去った。なぜか?それは、その場にいる者はその因果を分担しなければならないからだ。もし、御経を唱えるなら一緒に唱えるが、続いて済度を行なうなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場を去った。彼が済度できないことを知っていたからだ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは道教を学んでいたので、この過程を知っていた。済度することはできない。

ポワ法を直接中国語に翻訳すると「遷識」である。パドマサンバヴァは密法をチベットに伝えた。ある時、国王の大臣の家が火災になり、家族全員が死んでしまった。そこで、国王は大臣に代わり、死者を助けるための伝法をパドマサンバヴァに頼んだ。パドマサンバヴァは阿弥陀仏の国へ行き、火災で死んだ者を助ける法を求め、阿弥陀仏はポワ法を伝法された。だが、この法を自分勝手に伝法してはならないと説かれた。パドマサンバヴァはポワ法を大臣に伝えた後、この法は他に伝法されなかった。その後、大臣は羊飼いに生まれ変わった。彼が子供であった時、動物が殺害されるのを見て大きな悲哀に包まれた時、祈り続けていると阿弥陀仏が現れ、再び彼にポワ法を伝えた。

よって、ポワ法は御経を唱えることに依るのではなく、修法者が累世の福徳及び功徳をもって、死者の神識を即刻身体から離れさせて阿弥陀仏の所へ行かせる。≪阿弥陀経≫には、はっきり記載されている。「不可少福徳因縁的善男子善女人発願得往生(福徳因縁の少なくない善男子、善女人が発願して往生が得られる)」。即ち、他界者が生前に十善法を修していないなら、絶対に行くことはできない。あなたが1万人のお坊さんに唱えてもらっても役に立たない。非常に大きな供養をするのなら別であるが。「福徳因縁」は、他界者自身に仏法の助けを得る福徳と縁があるかどうかを指す。

この弟子の父親は癌にかかった。少し前に癌が見つかり、リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼に対してどんな事も承諾しなかったが、ただ、彼の苦しみを軽減させる、とだけ言った。彼は肺ガンで、ガンが発見されてから死亡するまで、痛みはなく、血を吐いて死ぬこともなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の承諾を実行した。他の事をリンチェンドルジェ・リンポチェは承諾しなかった。それは、怨親者が彼に信じさせないようにしているのが分かったからだった。彼らはあちこちに行って聞き回り、町で最大の廟へも行ってポエ占い(台湾で一般に行なわれている占い)を何度もやったが、何度も聖杯(質問に対して、それで良いという肯定を意味する)が出たのでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めたいと言っていたが、やはり来なかった。縁がないなら、やはり縁はない。義侠心の強い神でさえもリンチェンドルジェ・リンポチェを尋ねるよう彼に言った。この件はリンチェンドルジェ・リンポチェの作り話ではない。弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに教えてくれたのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは通常、誰かのためにポワ法を修法することを承諾する際には、通常、一言付け加えている。「あなた達に縁があるかどうかに依る」。リンチェンドルジェ・リンポチェが承諾しても、もし縁がなかったら不可能だ。特に、その弟子の父親が生前肉を食べていて、死ぬまで肉を食べていた。多くの人が電話をかけてきて、ついでに、リンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法の修法を願う。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが断わったなら、金剛乗を修している菩薩ではなくなる。だが、承諾しても駄目だ。なぜ駄目なのか?もし、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの様にポワ法を一回修法したなら、恐らくベッドに寝たきりとなる。それは、他界者を行かせるために、自己の一切を与えなければならないからだ。これは、ある者が北極に行くので数百万使おうとしている時に、ちょうど、リンチェンドルジェ・リンポチェが数百万を持っていたので全てを彼にあげたという道理と全く同じだ。

皆は自分の家族が生前、この様であったかどうかを確認しなければならない。もし、そうでないなら、家族が生前にできる限り仏菩薩に接触する機会が持てるようにしなさい。あの弟子の父親はポワ法を得られなかったが、少なくとも今日は施身法を得られた。数日、我慢し、苦しみ、すぐにではなかった。ポワ法の特色は、息が途絶えたらすぐに、死者を送り出すことにある。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在、葬儀社の中で有名になった。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修した死者だと知ったら、繁雑な儀式は不要となる。それは、死者が生きている者よりも良いのを彼らが見たからだ。異なるのを本当に見たのだ。

ポワ法の修法が成功するには特徴がある。能力のあるリンポチェなら、遺体の隣で修法する必要はない。法本に説かれているが、鳥の飛べる場所であるなら、修行者はポワを修法して他界者を助けることができる。よって、鳥の飛べないヒマラヤの山のてっぺんや海底では修法できない。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法の修法を成功させた経験は、寶吉祥仏法センターの公式サイトの「衆生済度の事跡」に沢山の例が取り上げられている。もし、ポワ法の修法を円満に終了できたら、沢山の瑞相が現れる。例えば、頭のてっぺんに凹みができる、発熱が見られ、梵穴では一部の頭髪が抜け落ちることさえもある。

興味深い話がある。以前、ある出家者がチベットで他界者のためにポワを修法した。規定に基づくと、もし能力がなかったなら、他界者の頭の近くで修法しなければならない。他人は彼は本当にすごいと言っていた。それは、かれが修法を終えると、他界者の髪の毛が抜け落ちたからだった。その結果、ある時、喪家に見つかってしまった。彼は袖で隠して死者の頭髮を抜いていたのだった。実際には、頭髪が抜け落ちるかどうかは重要ではない。重要なのは、修法者に対する他界者と家族の供養及び信心が強烈かどうかであった。もしあるなら、その兆候は徐々に高まる。これはお金の問題ではないので皆は誤解しないように。

チベットでは昔、他界者が逝く一、二ヶ月前にポワの修法を求めた。供養を捧げ、リンポチェを家に迎え、毎日供養しなければならなかった。他界者が逝った後、修法を終えた後に再び供養してリンポチェを見送った。現在、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達のために多くの事を省略している。電話一本で「了解した!」と言う。修法を終えて「修法が終わったので、ちょっと見て御覧!」と言うと、皆は「リンポチェ、感謝いたします!」と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために沢山の事を省いているが、皆は全く不合理な事を身分不相応に求める。

チベットの昔はこうではなく、先ほど話した過程のようであった。なぜ、この様であるのか?それは、他界者には福徳がないので、必ず供養をしなければならなかった。そうしてこそ、他界者は法を得る因縁を持つことができた。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日、損得計算をしない。だが、少なくとも、他界者は福徳と縁があってこそ、リンチェンドルジェ・リンポチェに出会うことができた。他界者自身が信じなければならず、家族は絶対に信じなければならない。ただ一人、二人が信じてるだけでなく、全員が信じなければならない。こうしてこそ効果が発揮される。

ポワ法が円満に終了すると、梵穴が発熱する他、顔色も必ず良くなる。他界者が死んだ時にとても黒い顔色をしていても、修法が終わると白くなり、赤みを帯び、皺がなくなる。よって、若くなりたいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を必ず得なければならない。あなたが現在どれ程年をとっていても関係ない。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法の修法の後、他界者の皮膚は平たくなって、生前の皺がすっかり見えなくなる。なぜ、この様になるのか?それは、仏典の中には、天界に生まれ変わる人は見た目が16歳のようだと、はっきりと記載されている。阿弥陀仏の所も天界だ。仏国の天界である。よって、遺体にはこの様な様相が現れ、若返り、安らかで、口元が上にあがり、目は閉じて、見た目が非常に喜んでいるようになる。

また、もし、生前に他界者に腹水があっても、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法の修法を終えた後はそれがなくなる。だが、流れ出たのではない。腹水はどこから来たのか?それは、この一生で食べた物によって、全ての器官が圧迫された事による。なぜ、水なのか?それは、あなたが貪欲で食べ、食べ続けたからだ!列席者で足の痛む者は皆、食べ過ぎだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて語られた。「努力を続けなさい!頑張れ!」

もし、ポワ法を得たなら、他界者の腹水はなくなる。医者も奇妙だと感じた。それは、医者は水を出していないのに、腹水がなくなったからだ。だから、皆はよく聞きなさい。お経に説かれているが、もし修法で道を得たなら、お腹の中の虫さえもすっかり済度できる。この考え方には根拠がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェによってポワ法を修法された死者の身体には死斑はできない。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で聞いた。嘗て、家族がリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修法してもらい、遺体の身体に死斑がなかった者はいるか?沢山の弟子が手を挙げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは説法を続けられた。ポワ法を修法すると、死者の身体の死斑が消える。一日、二日のことではない。何日も放置しておいても死斑は現れない。多くの弟子の中に家族が死んだ者がいる。まだ、あの他界した弟子を数に入れていない。寶吉祥仏法センターは他の場所と違う。専門に死人を助けている。奇妙な事に、助ける死人が増えると、来る人も益々増えている。

死斑が消えた他は、遺体を保存用冷蔵庫に何日も入れ、出した時も遺体はとても柔らかかった。これこそが瑞相だ。人界、天界に行くことにも瑞相がある。だが、その中にも差異が見られる。他界者がリンチェンドルジェ・リンポチェとの因縁が深く、しかも、本人自身の福徳が十分であるなら、赤白の菩提が現れ、茶色の液体が流れ出ることさえもある。出家者はこれがどんな事かを知っている。他の者は聞いても理解できない。紅白の菩提子だと思っている。実際はそうではなく、これは精と血液である。

もし、あなたがこの一生でポワ法を学ぶことができたなら、必ず阿弥陀仏の所へ行くことができる。法本にはっきりと説かれているが、ある一つの法は、深い禅定を必要とせずに解脱できる。それはポワ法のことだ。あなたが息が絶える前または息が絶えても上師のことを覚えていて、ポワ法の声を覚えていたなら行く事ができる。だが、その前提は生前にポワ法を学んでいることである。あなたが自分で学んでいたら良いのではない。伝法上師の検証が必要である。自分が言ったらそうなるような簡単な事ではない。上師は必ず検証が必要だ。あなたが死を経過したことを上師が見えたならOKで、死ぬ事ができる。ポワ法を修法して成就が得られた時、肉体には死と全く同じ過程が生じ、この過程を経た後、あなたは死の過程を理解できるので怖くなくなる。あなた達はなぜ恐いのか?それは、肉体がこの過程を経ておらず、どの様に死ぬのかが分からないので、恐いと感じるのだ。

あなた達はただ聞いて、火、地の要素等が分解されることを知っているが、自分では真に経験したことはない。よって、ある弟子が電話を掛けてきたのは本当に無駄になってしまった。時間の浪費だ。ポワ法はあなたが求めれば与えられるものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が慈悲深いとは敢えて言わないが、人の要求を受け入れ易い。道理から言うなら、チベットの伝統では、あなた達はポワ法を得ることはできないのだが、 リンチェンドルジェ・リンポチェは、この土地でポワ法の基礎を築くために、皆に示して見せ、ポワ法が特別である事を皆に知らせようとしている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは次の一点を忘れていた。リンチェンドルジェ・リンポチェによってポワ法を修法された他界者なら、遺体を焼却された後、奇妙な事に梵穴部分の骨が必ず残される。その梵穴箇所には丸く小さな一つの穴がある。医者の弟子は皆、不可能な事だと言った。錐を使っても裂罅ができる。皆は、写真かネットサイトで見ることができる。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェが「他界者の遺体を燃やした後の頭蓋骨を残している弟子はいるか」と聞くと、ある弟子が手を挙げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、頭蓋骨を持って来て皆に見せるようにと弟子に指示し、説法を続けられた。骨を見ることを恐がってはならない。もしチベットで、骨の上に穴があるなら、彼らはそれを壇城に置く。頭の悪い者は骨を捨ててしまう。だが、捨ててしまったなら捨ててしまってもよい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がすごいと吹聴しているのではなく、密法は見ることができるのだ。ある兆候をあなた達に見せることもできる。実際に、仏典にはこの様に説かれている。阿羅漢ができる事と菩薩ができる事はとてもはっきりしている。ただ、後代の人は深く考えずに、簡単に実行できると考えた。今日はこんなに沢山の説法をした。今年もまもなく過ぎようとしているので、多く語った。足の痛い者は痛み続けなさい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは年を取った。あとどれ位施身法を修法できるかは本当に不明だ。あなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェが鈴を鳴らし太鼓を叩く事が実に簡単な事だと思わないように。音楽家でフルートを奏者の弟子がいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、施身法の大腿骨の法器をどうやって吹くのかを説明するよう指示された。吹いて音を出す事ができるか?信者は、「全世界において、この法器を吹ける者はいない」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説法された。「やはり吹ける者はいる」。今日は特別に彼に来てもらい、ある事を皆に話してもらう。施身法を学ぶこと、施身法を修法する事は本当に難しい。昨日、この信者は、音楽をもって、尊き直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェに供養を捧げた。彼はプロであり、なぜ骨を吹いても音が出ないのかを説明した。

この音楽家である信者は「管の長さによってコントロールするのでなければ、純粹に空気の流れと速さに依らなければならないので非常に難しい技巧を必要とし、この様な方法で演奏する楽器はない」と述べた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。「今日は特にこの事について話そう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、施身法の法会が伝承されなくなることをずっと心配している。第一に、この法器は益々少なくなり、古くなったら壊れてしまい、新しいものを作れない。この骨で作った法器を供養しようと言う者もいない。第二に、密法においての成就がなければ、この法器を吹いても音は出ない。世間にある偽物の密教が、嘗て仏具店にてこの様な法器を5~6個購入し、彼らの弟子にこの法器を演奏させるテレビ番組があった。その結果、彼らはただ一つの短音を出せただけで、他はどんな音も出せなかった。

骨を吹いても音は出せないと言う者もいる。実際には可能だ。骨と修行者が結合されれば、音を出せる。どうやって結合するのか?法器と修行者の願力を一つにするのだ。骨を吹いて音を出すには、第一に、一切は無常であり、随時変化し、あなたが執着するのに値する物は何もなく、覇者が手放すべきでない物は何もない。ただ、自分の人生において責任を負うべき事はできる限りやり遂げなければならない。他の事は自分の縁に従ってやり終える。また、もう一つの意味がある。この法器を吹いて出されるのは非常に悲しく切ない音なので、三悪道の衆生が聞くと同類の者が彼らを呼んでいると感じる。しかし、仏菩薩がこの法器の音を聞いたなら、衆生が仏法を求めているように感じられる。

よって、この法器を吹く人自身に菩提心、慈悲の力がないなら、絶対に音を出せない。それは、その中に包含される意味があまりにも深いからだ。どうしたら、この音を仏菩薩に通じさせ、助けを得させることができるのか?どうしたら、この音によって衆生を引き寄せてこの壇城に連れてきたらよいのか?しかも、恐れを感じないで、衆生が入って来ることを願わなくてはならない。恐がらないことは非常に難しいことだ。必ずある方法を使って、彼らを入って来させ、彼らの心を安定させなければならない。

多くの者が密教を怪しいものだと感じており、密教はなぜ人の骨を使うのか理解できないでいる。我々は元々人だ。人の骨を使わないというなら、豚の骨、牛の骨を使うのか?人の骨を使うことは鬼神を拝むことではない。衆生を助けたいと思うなら、人や鬼道衆生なら助け、羅刹なら助けないという分別はしない。一切の苦しんでいる衆生を助けなければならない。骨の法器の中には銅片はなく、目がいいなら見る事ができる。吹くところの口だけは銀製であるが、ここから音を出すのではない。これは法器を保護する先端であるだけで、これによって法器を割れ難くしている。専門家なら理解できるが、これでは音を出すのが不可能だ。

仏法は試練に耐え得るものだということを皆に伝えておく。こんなに単純に、人に菜食、仏への礼拝、お経の読誦を勧めるものではない。これらはただの助縁に過ぎない。ただ、仏法の中で本当に努力をして、正しい方法を行い、正しい伝承に従えば、この一生で成就でき、来世を待つ必要はない。よって、皈依していない信者にお願いするが、まだ肉を食べているなら、二度とリンチェンドルジェ・リンポチェの前に現れないで欲しい。それは、ある護法が怒るからだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは怒らない。信じないなら、本当に来なくてよい。外には沢山の場所がある。アキ護法は本当に慈悲深い。数人の出家者を送り込み、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子にした。皆は言う事を聞かないので、これらの弟子達に他の場所を紹介させた。それは、彼らは出家して十数年、二十年経つからだ。

あなた達は他の場所へいってもよい。他の場所では罵られることはない。南部のある場所では、説法を聴く際に、信者にとても綺麗な大きな椅子に座らせるそうだ。寶吉祥仏法センターのように、あなた達にこんなに窮屈な思いをさせたり、座る時に座禅を組ませたり、足や膝をつねらせなければならないということもない。皆には申し訳ないが、寶吉祥仏法センターはお金がなく、外部からの募金も受け取らない。外部のように宝石を資金集めのために販売することもない。だが、皆が今日足の痛みを感じたことで、一つの債務を返済したことになる。こんなに沢山食べて、返済は不要なのか?死ぬ時になって大変悲惨な状況となる。今ちょっと痛いだけで返済できる。足が痛いので法会に参加できないと言う者もいる。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェより6歳も若いのに、自分は座禅できないと言う。これは単なる言い逃れだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、今日の説法はここまでとし、皆に感謝すると語られた。そして、皆の将来の一年、新しい年の幸せと、一切がうまくいくように願われた。

法会は円満に終了し、弟子達は声を揃えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な修法及び説法に感謝を捧げた。その後起立し、法座から下りられた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。

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2014 年 10 月 14 日 更新