尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2014年1月19日

台北寶吉祥仏法センターにおいて、寶吉祥仏法センターの弟子及び信者は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェによる2003年5月18日の法話テープを恭しく拝聴した。

法会の始まる前、2011年2月28日に皈依した弟子が昨年(2013)皈依した息子と共に、家族に加持を授けてくださり、彼女と家族を救って戴いた経過を皆に分かち合う機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げ、自分の犯した諸々の罪を懺悔した。

彼女は、楊兄弟子に誘われて、2007年より、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの主催される阿弥陀仏の無遮大済度法会に参加している。しかし、始終因縁が満たされず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めたことはなかった。2010年まで邪師を信じていた彼女のことを彼女の夫は、呪術をかけられるのではないかと心配していた。そこで、11月に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。謁見の当日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、彼ら一行に仏教と道教の違いを説かれ、彼らはなぜ菜食されるのか?牛や羊が草を食べるのとはどこが違うのか?を尋ねられた。彼女と舅は菜食して十数年であったが、自分がなぜ菜食するのかを理解できなかった。

そこで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはまた「他に何かあるか」と質問された。彼女の夫が深く息を吸い込み話をしようとした時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く彼女の夫に説かれた。「あなたが来たのは私の話を聞くためだ。あなたが話すのを聞かせるためではない。」続いて再び「他に何かあるか」と尋ねられた。夫が再び口を開こうとした時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く説かれた。「彼女は改められる。時間をあげなさい。私はあなたを助けよう」。この時、彼女の心の中に、法会に参加するという考えが浮かんだ。そこで、法会に参加することを願い、機会を得ることができた。彼ら一行が供養金を差し出そうとした時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、慈悲深く「跪くことは一つの供養だ」と説かれ、彼らの供養金を受け取らなかった。その時、夫の目頭から涙が溢れ、心中感謝の気持ちでいっぱいになった。

2010年12月、彼女は、皈依を希望し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求める登録をした。だが、彼女が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの御前に跪いた時、皈依を求めず、自分は夫の言う事を聞かないので、夫をとても苦しませていると言った。この時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは厳しく彼女を叱った。夫が不十分であると思っていたのか?!さらに彼女に聞いた。三従四徳とは何か知っているのか?昔なら、とっくに追い出されていたはずだ。自分は孝養を尽くしているとでも思っているのか?その場で彼女の頭の中は真っ白になった。全く一言も言えなかった。帰宅後、繰り返して考えた。自分は一体全体、何を誤ったのか?それと同時に、脳裏には、彼女が夫と家族にした全てが浮かび、やっと目が覚めた。元々自分はこんなにも残忍で、こんなにも自分勝手だったのだ。彼女は間違いを犯した。そこで、謁見を求めた経過を夫に話し、夫に懺悔した。その時、夫は目に涙を浮かべて言った。自分の苦しみを知る者がとうとう現れた。

その後、夫は彼女に付き添って道場へ行き、皈依を求めた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは夫に「家族は菜食をしているのに、なぜ一緒に菜食しないのか。不便な事があるのか?」と尋ねられた。夫は慌てて「不便なのではなく、自分の問題です」と答えた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは「彼女が皈依することに同意するのか?」と聞かれた。夫は「この様な偉大な修行者の門下で皈依できるのは累世で修した福徳です」と答えた。彼女は慈悲深く許可して下った尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得たその日の後、夫は菜食を始めた。夫は元々肉がなくては駄目な人であった。彼女が皈依を求め得てから、夫は彼女の言動に注意を払い、上師を敬わない事や教派を傷つける事をやってはいけないと繰り返し戒めた。その様な話をして間もなく、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに口答えをし、不敬を働く事をした。

出来事の経過はこうであった。皈依する以前、彼女は邪師を信じていたため、会社の売上げがよくなるようにと、毎晩入口でお線香をあげて鬼神に祈っていた。だが、皈依後は二度とすることはなかった。当時、新工場を建て、引越しをしてまもない頃、社員の中に頭痛がしたり、白い影を見たという者が出た。そこで、彼女はある社員を道場に連れて来て、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。その日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「何の用か」と尋ねられたので、社員は「最近、新工場で身体がとても不快になるのを感じています」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、すぐに彼女の社員に加持を授けられ、彼女に、帰ってから会社の入口で何か起きたことがあるかを尋ねるよう言われた。

次の週、彼女は手書きの図を携えて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。工場の入口では事故が起きたことはなかったが、彼女は皈依する以前に、毎晩入口でお線香をあげて鬼神に、会社のビジネスがうまくいくようにと祈っていたと言った。上師は平面図を見て、「このように建ててはいけない」と言われた。だが、その時彼女は「ですが、既に建ててしまいました」と言い返した。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを占い師としてみてしまい、全く敬わなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座の上で説かれ、社員を連れて謁見を求めたその日、既に彼女を助けていたのだ。まさか、工場に幽霊がいるとでも?社員は皆逃げてしまうのではないか?彼女は愚かで、独りよがりであった。上師を感謝することも分らず、さらに口答えをした。彼女は、自分が人として相応しくない事をした、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に相応しくないのは尚更だと懺悔した。心中、羞恥と懺悔を感じていた。その日から、彼女は上師に供養すること、道場及び法会を護持することを認めてもらえなくなった。

大法会の一週間前になって初めて、彼女はこの事を夫に告げた。夫はすぐに顔中を涙で濡らして尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへの感謝のメールを書いた。内容は、ほぼこの様な内容であった。「私は妻をよく教えていませんでした。大法会の前に、私達のために心配をおかけし、実に不敬を働いたと感じております。私の父は、この一生でこの様な偉大な修行者——尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお逢いできた事は、求めても求め得られないほどの福徳であると申しております。家族全員で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの御前で感謝を捧げたいと存じます」。数日経ち、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから「メールは既に拝見した。あなたが努力を続けていけるように激励する」という内容の慈悲深い返事を頂いた。

大法会の後、夫は家族を連れて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「何の用か」と尋ねられたので、夫は、自分は妻をよく教えていなかった、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに妻を許して戴き、再び供養ができるようにしてもらいたいと願った。その時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「供養しないことは良い事だ」と言うと、夫は「良くない」と答え、彼女は傍に跪き、顔を涙で濡らし一言も話さず、ただ泣き続けていた。続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。「あなた達は縁があって夫婦となった。全ての事はお互い相談しなければならない。例え考えが正しくても、やはり相談が必要だ。この時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女を前に向かって跪かせ、重ね重ね彼女の頭頂を加持され、彼女の供養を受け取られただけでなく、施身法の法会で済度するために工場の住所を登録させた。夫と彼女の心は感謝に溢れた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに、慈悲深く夫に尋ねられた。「あなたの妻の頭頂に何度も加持を与えたことを、喜ばしく感じるか?」その時夫は目の縁に涙をためて「リンポチェに感謝します」と答えた。慈悲のリンチェンドルジェ・リンポチェはその場で夫にも加持を授け、彼らは言葉で言い尽くせないほどに感謝をし、頂礼して、その場を退いた。

数日が過ぎ、彼女の夫は法会に参加する考えを起こした。彼女は夫が前言撤回するのを心配して、すぐに申し込みをした。だが、謁見を求めた当日、夫は前言撤回し、その事を口にしなかった。ただ、ずっと、家族を救って下さった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をし続けていた。慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは夫に何度も「他に何かあるか」と尋ねられたが、夫は始終、口を開かなかったので、慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは夫に「帰ってよく考えてからまた来るように」と言われた。彼女が供養を捧げ退こうとした時、兄弟子が「彼女の供養は受けられない」と言った。夫は「前回願い、すでに許可されたのではないか」と疑問を投げかけると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って、五体投地をするよう言われた。彼女はすぐに身を起こして壇城の前で五体投地をした。

彼女は、夫は道場に残っていると思っていたが、帰ってしまっていた。夫はその時、もう二度と道場に来ない考えを起こしていた。彼が入口を出た時、エレベータ係の兄弟子が夫に親切に尋ねた。「今日は一人で来られたのですか?」夫は「一人ではないが、妻は五体投地をしている」と答えた。兄弟子は「素晴らしい事ですね。どうして一緒に祈らないのですか」と聞かれた。帰宅後、夫はこの出来事を申し訳なく思っていたが、彼女は、これは全て慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェが夫のために福徳因縁を積ませるためであったことが分ったので、夫に告げると、夫は急に悟りを得たかのようであった。

昨年4月、彼女の息子はウィルス性の胃腸風邪のため高熱を出し家で休んでいた。息子は自ら壇城で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに向かい懺悔し、二度と衆生の肉を食べないので、彼の病気が治るようにと祈った。不思議な事が起こった。40分後に、熱が下がり、その後発熱することはなかった。元来、この様な風邪は熱が引くまでに一週間かかる。学校は給食センターを使っていたので、菜食は学期の始まる時に予約しておかなければならなかった。息子は学校に戻り、その当日、肉と一緒に調理した野菜だけを食べたが、午後、続けて二回吐いてしまった。風邪がまだ治っていないのだと思い、医者に診てもらったが、医者は、完治されていると言った。

その時、夫が息子に「どうしてか分かるか?」と聞くと、息子は「菜食でなくてはダメだ。肉料理の中の野菜を食べる方法ではいけない」と言った。その日から息子は完全な菜食を始めた。彼らは、息子の殺生業を速やかに止めてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝をした。また、ある日、息子は腹痛のためにずっと泣いていた。彼らはすぐに彼を病院に連れて行ったが、道の途中で、息子に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを観想させた、不思議な事がまた起こった。息子が緊急治療室に足を踏み入れようとした時、息子は夫に奇妙な感覚があって突然お腹が痛くなくなったと言った。彼らは、これは皆、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持であることを理解し、心から上師に感謝した。6月の祖師ジッテン・サムゴン記念法会に参加後、息子は夫に「お父さん、僕と一緒に皈依を求めてみない?」と聞いた。夫は「もう少し時間をおくれ、お父さんはまだ準備ができていないから」と答えた。

息子は、11月にネパールで法会が行われることを知り、参加したいと言った。彼女が「弟子でなければ参加できない」と告げると、次の日、彼女と夫に「皈依を求めたい」と言った。夫が「なぜか?」と聞くと、息子は「菜食しているが、一歩遅れている」と言った。その時、夫は息子に「お前はとても勇気がある」と言った。そこで、息子は、2013年9月に皈依を求めた。彼らは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く認めて下さったことを非常に感謝した。息子は、2013年10月13日、正式に皈依弟子となった。その時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く尋ねられた。「会社はうまくいっているか?」彼らは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいつ何時も、彼女と家族を気に掛けてくださることに感謝した。この世界において、こんなにも慈悲深い偉大な修行者は二人といない。以上に述べた一切の事は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持力、摂受力がなければ、絶対に成し遂げられないことである。

皈依する前、彼女は自分が誤ったとは思わなかった。いつも他人の過ちだと思っていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの叱責がなければ、自分がどれ程沢山の間違いをしていたのかに気づかなかった。2003年より、彼女の独りよがりのせいで、実家の千万元の債務を負い、その時から毎日働き、稼いで借金を返済していた。自分の姉さん気性のせいで、何をするにも人と相談せずに、自分で決定し、人を眼中に入れず、家族を人と思わなかった。彼女は、自分が母、妻、嫁、長男の奥さん、娘としてすべきことを行なわなかったことを懺悔した。

舅は彼女のために親戚に借金をしてから笑われた。暖炉のように暑い部屋に寝ていても、クーラーをつけるのを惜しんだ。電気代の節約のために、彼女は、自分が親不孝であったことを懺悔した。自分の債務のために、一人の年老いた者の睡眠を邪魔した。さらに、往生後には浄土に往く事だけを一心に考えている舅に、怒りと恨み、気掛かりな気持ちを起こさせ、悪因を作らせた。また、夫は自分を捨て去ることなく、問題が出た時には、いつも前に出て支えてくれた。自分の夫に対する一切の事を考えると、言葉に出せない程の恥ずかしさで一杯になった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの厳しい叱責がなければ、夫がいつも彼女に言っている言葉を理解できなかったであろう。「孝行娘を君にさせ、不孝者は私がする。自分は永遠に君を許す。それは、君が私の身内だからだ。ただ最後になって、君が君自身を許せなくなることだけを心配している」という言葉を。

彼女は自分が間違っていたことを知った。もし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の救いがなかったなら、夫は10年もの間彼を蝕んだ中毒を止めることは絶対にできなかったであろう。彼はいつも彼女に言っている。「もし自殺ができるなら、本当に生きていきたくない。これら一切は全て彼女が作った悪因であった。この果は全ての人に一緒に責任を負わせることになった。彼女は懺悔し、救って下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。

昨年4月、夫は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得て、ついに中毒を脱し、12月に道場に来た。その日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは夫に「何の用なのか」と尋ねられた。夫は「毎週行なわれている共修法会への参加を願いたいです」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「なぜ参加するのか?」と尋ねられたので、「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの下で仏法を学びたい」と答えた。その時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは夫に「あなたはよく分かってるのではないか。菜食をしているか?」と聞かれたので、夫は「すでに3年になります」と答えた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に尋ねられた。「今は、夫を言い負かしたのか?」全ては自分の過ちであった。彼女は、夫の願いを聞き入れて下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。これにより、夫は毎週、殊勝な法会に参加し、正法を聴聞することができるようになった。また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェへ供養をする機会を再び求めるために協力してくれた多くの兄弟子達に感謝をした。

最後に、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに再び感謝を捧げた。上師の慈悲と偉大な威徳力の庇護がなかったなら、彼女の家は既に滅亡していた。しかも彼女は途切れることなく悪行を続けており、この輪廻の苦海を浮き沈みしていることを知る由もなかった。彼女は非常に感謝をし無類の感動に包まれていた。彼女は、ここで、尊き直貢チェツァン法王、歴代の伝承祖師、諸々の仏菩薩、アキ仏母、及び六道一切の有情衆生に向かい、累世、今世で犯した諸々の悪行、悪業、貪、瞋、痴、慢、疑等を懺悔した。彼女は全てを懺悔し、二度と犯さないことを誓った。また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康、法輪が常に転じられ、直貢噶舉派の法脈が永遠に流伝されることを祈った。

続いて、彼女の息子が彼を庇護し加持を与えて下さった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェについて分かち合った。まず、彼は、加持を授け助けて下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。昨年4月、胃腸風邪で発熱した際、母親が、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔しないかと聞いた。そこで、彼は洋服を着て、母親にお線香をつけてもらい、壇城の前で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに向かい心中の話をした後、すぐに部屋に戻り休んだ。約40分後に目覚めると、既に完治されていて、ただ口の中に小さな穴が残っていた。

次の日、彼がキッチンに行った時、従姉が鶏の腿を手にして「食べない?」と聞いたが、彼はそれを見て吐きたくなった。ある日、彼は学校でクラスメートとぶつかり倒れた。翌日の朝、突然お腹が痛くなり、病院の緊急治療室へ行ったが、やはり痛みは続いていた。その時、母親に言われた通りに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを観想し、暫くすると寝てしまった。大体40分後に起きると、お腹の痛みは無くなっていた。医者は、腎臓を怪我したのだと言い、家で一週間休んでいればよいと言った。

昨年11月、彼はネパールの法会に参加した。仏塔で尊き直貢チェツァン法王をお見送りする際、兄弟子達は順に並んでいた。この時、ある者がうっかりして、一匹の犬を踏んでしまった。犬が鳴き声をあげたので、兄弟子達は犬を慰めた。尊き直貢チェツァン法王が通過される時、皆は一斉に恭しく合掌をしていたが、もともとそこに寝ていた犬も身を起こして尊き直貢チェツァン法王を恭しくお見送りしているのを見かけた彼は、その場でその一幕に震撼、感動し、涙を流した。涙はずっと止まらなかった。彼は、加持を授け、善の種子を発芽させて下さった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。最後に、彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康、法輪の常転、直貢噶舉派の永遠なる流伝を祈った。

続いて、法会に参加した信者及び弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェによる説法のテープを拝聴した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「上師供養法」の殊勝さを説かれた。どの経典の中でも、釈迦牟尼仏は常に、仏法を学んでいるかどうかに拘らず、一生、供養、布施を続けることを皆に教えている。今世で享受できる一切の事はすべて過去世で供養、布施をして得られたものだ。だが、我々がなした供養、布施は非常に少ないので、福徳も非常に薄く、すぐに使い切ってしまう。福徳を続けて積み重ねるためには、必ずこの一生で供養、布施を続けなければならない。直貢チェツァン法王や多くのリンポチェの如くである。直貢チェツァン法王やリンポチェ達は、毎日、供養し続けている。《普門品》には、無尽意菩薩が観世音菩薩に供養され、さらに観世音菩薩は釈迦牟尼仏に供養されたことが説かれている。押して知るべし、大菩薩も皆、供養をされているのだ。我々のような見込みのない凡夫なら尚更な事だ!

もし、あなたが自分は供養を必要としないと考え、仏菩薩は必ずあなたに慈悲深く、仏菩薩と上師は必ずあなたを助けてくれると思うなら、この考えは間違いだ。我々は「仏は縁のある者を済度する」と言う。この縁はどこから来るのか?それは、我々が生生世世、清らかな心で仏菩薩と上師に供養を捧げたものだ。「清らかな」という意味は、何も見返りを求めず、何も気に掛けることがなく、何も執着せずに行なうことだ。供養は、どれ程の財物を供養できるかではない。最も重要な事は、あなたの心に供養する気持ちがあるかどうかである。供養が終わった後に後悔してはいないか?分別心で供養してはいないか?利害得失を考えて供養してはいないか?

分別心とは何か?多くの者には奇妙な病気がある。このお金はお寺に、このお金はリンポチェに、このお金は上師に、このお金は法王にと分ける。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生において、仏法を学び始めた後の供養は全て直接、上師に渡し、上師によって使い道を決めてもらっている。自分では考えない。我々が分別心で供養する時、常に問題が出る。例えば、直貢チェツァン法王は今回、ネパールで全く通らない僻地の静かな所で閉関を行なおうとされた。数日前に、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに「お金持ってくるのを忘れた」と電話を掛けて来られた。直貢チェツァン法王及びその他の閉関する者が必要とする物と食料をネパールの首都からずっと山の上まで担いで行くために40人の現地の人を集める必要があった。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに1万ドルを振り込むように言い付けられたので、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに1万ドルを振り込んだ。

その内の22万余りの台湾ドルは、以前皆が直貢チェツァン法王に供養した口座の残高だ。その他はリンチェンドルジェ・リンポチェが出した。だから、皆は法会に参加してリンチェンドルジェ・リンポチェにくれる100元、200元が供養だと思ってはならない。沢山の事をしたと思ってもならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回閉関する際、閉関前に直貢チェツァン法王に会ったなら必ず先に供養を捧げる。直貢チェツァン法王も必ず受け取る。直貢チェツァン法王は、他の者の供養を受け取るとは限らない。特にまだ皈依していない者からは受け取らないことがよくある。だが、根本弟子の供養については、直貢チェツァン法王は絶対に遠慮しない。遠慮しないというのは、直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェのお金を欲しがるのとは違う。それは、仏法を学ぶのに福徳がなければ、本当に学び取れないからだ。今回、リンチェンドルジェ・リンポチェは伝染病を退治する神の真言を得たが、リンチェンドルジェ・リンポチェがここ数年、こんなにも多くの供養を捧げていなかったら、この真言の出現はなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの手に至ることはあり得なかったはずだ。

皆はきっと、リンポチェ達はお金を受け取ったらあげるのではないかと考えるであろう。違う。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが一切を捨てられることを知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの法を得ても必ず捨てられることを知っているのだ。自分のために得たのではない。列席者は加持をした水を受け取ったが、まだ分け与えてない者がいるのか?水はあなたのものではない。衆生のものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に布施、供養をする機会を与えたのに、まだしていない者がいるのか!?

ダライラマ主催の観音菩薩の灌頂法会では、リンチェンドルジェ・リンポチェの172名の弟子が下に座っていた。ラマが供物を分け与える時、残った十数個をリンチェンドルジェ・リンポチェの一人の弟子に与えた。彼に他の人に分け与えるようにという意味であった。だが、彼はラマが自分にくれたものだと思い、全部、自分のポケットの中に入れてしまった。彼のこの様な貪欲が、後ろのもらっていない兄弟子に分け与えることを惜しませた。彼は得られたのか?得られなかった。それは、彼は捨てられなかったからだ。その中の加持力がすぐに消え失せてしまった。仏菩薩の心は一切を取り出して衆生を利益することにある。あなた達の心は自分のためだけにあり、何も捨てられない。台湾が今回SARSの災難に遭ったのは、この十数年の間の、我々の自分勝手で、恐ろしい、他人に無関心な気持ちから引き起こされた騒ぎだった。本日の上師供養法は、皆に直貢噶舉派の歴代の上師との善い因縁を結ばせ、皆の供養、布施を惜しむ気持ちをさらに少し理解させるために修法する。

法会に参加する時は、母親である者は子供をよくみるべきである。子供の好き勝手にさせてはいけない。子供が法会の場所で長くいられるほど、彼らにも得となる。以前、昔の道場の時に、子供は3時間トイレにいかずにいられた。今の場所ではちょっとしたらいなくなる。それは、両親である者が通常、子供を訓練しておらず、子供に甘すぎるからだ。あなた達が家で子供を教育しないと、子供は大きくなって、とても自分勝手で、他人に関心のない人になる。我々の次の世代は、益々規則がなくなり、礼儀がなくなる。それは全て、あなた達のような両親の教えによるからだ。

四加行を学ぶ以前、我々はなぜ仏法を学ぶのかを理解しなければならない。先週は無常と死について話した。噶舉派の偉大な成就者であるミラレバ尊者はこう説かれた。「我々は自分の一切の、いわゆる好運または不運、健康または不健康を心配しなくてもよい。また、自分の事業、財産の事を心配しなくてもよい。今後、子供に前途があるかどうかについても心配しなくてもよい。だが、我々は、無常、生死、老化を心配し、恐れる必要はある。そして、我々はいつ何時でも上師、三宝、一切の諸々の仏が我々を離れずに加持を与えて下さることを祈るべきである」。地球の衆生の寿命は定かでない故に、死も定かではない。この言葉は、それぞれの衆生の死亡時間は決まっていないことを意味する。

我々銀河系の中には、東、西、南、北の四大洲がある。地球は南大洲に属する。四大洲の中で寿命の最も短いのが地球の人類だ。我々は寿命が短いので、却って時間の緊迫感を感じ取り、仏道修行をする決意を固めることができる。寿命が定まっておらず、死も定まっていないというのは、我々衆生が過去においてなした一切が全て福徳を損耗するものであり、寿命を減らし続けているからである。我々の寿命を最も速く減らすのは、三宝を敬わず、仏法僧を敬わず、両親に孝行せず、師長に尽くさず、五戒を破ることだ。これらによって、我々の福徳は非常に速く減少し、我々の寿命を短縮させる。

我々は世間でのほんの僅かの数十年、逆縁が順縁よりも多い。この数十年を回想すると、本当に全てが満足できると思える事はたったの一つ、二つであることが分かる。その他は皆、逆縁だ。逆縁が多いために、死も不確かである。今回のSARSが出現したのは、まさに逆縁であり、すぐにあなたを死に至らせた。不注意に運転をしていたなら、事故で死んでしまう。善い縁は少ないので、死は不確かである。あなた達は一日中、自分が長寿であることを望む。長寿は考えることでも、求めて得られるものでもない。成し遂げるものだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの上師であるテンジンニンマ・リンポチェ及びドラブ・ワン・リンポチェの二人の御老体はまもなく80歳の齢となる。元々この御二人は2年余り前に帰りたがっていたのであるが、我々が祈って彼らを引き留めたのである。この様に、御二人の年齢は引き伸ばされた。リンチェンドルジェ・リンポチェのもう一人の上師であるヨンカ・リンポチェは、蓮師が願われて留まられた。この三名の御老体が留まられたのは、あなた達が想像するように福徳を享受したり、彼らの願いを満足させて、何かを実現させたり、何かを見てから死を迎えるためではない。続けて苦しみを受け、一切の衆生を利益するためであった。このような寿命を求めてこそ得ることができる。

例えば、あなた達は衆生利益のためではなく、自分のあらゆる考えを満足させるためなら、願いが叶ったとしても苦しみとなる。リンチェンドルジェ・リンポチェが前回説いたように、ある者が長寿仏の法を希求したが、延命後に蛆虫に咬まれて死んでしまった。簡単に言えば、あなたが生き続けようとする縁は、衆生利益のためであり、自分のためではない。衆生利益のために希求するなら願いは叶うが、自己の寿命のためなら願いは叶わない。

昔から、善行は人知れず為されると言う。隠れた徳を人に知られたのなら、善の果報がなくなってしまう。ある団体では100万の寄付をした人を舞台の上で表彰し、額を送る。褒め称える言葉を一旦言ってしまったら、この寄付による善行の福徳が報われてしまう。だが、人はこの種のやり方が好きだ。これは名聞利養だ。善行はこっそり行なうものだ。公に表彰する必要はない。この様に、あなたの寿命と福徳が作られる。あちこちで言ったなら、福徳はすぐに無くなってしまう。福徳がなければあなたは有名になれず、有名になったら福徳を使い切ってしまう。多くの者は、衆生のニーズに迎合して行なうことを好む。

後ろでは引き続き、我々の身体が丈夫でない故に死が定かではない事が説かれている。我々は見た目はとても強靭で、それぞれが個性を持っているように見えるが、実際には、我々の肉体は本当に脆い。一つの小さなウィルスによって全世界が大騒ぎをした。ウィルスは、顕微鏡を使ってしか見えない物だが、我々の肉体は非常に脆い。よって、死は定かではないのだ。死がやって来た時、正しい仏法を除いて、どんな事も、どんな物も自分に利益をもたらすものはない。よって、我々は身体が健康な時に、死がまだやって来る前に、仏法を実際に修行するべきである。

普賢菩薩は「身心匯聚無常,如暫借物不當置我」と説かれた。今日、我々の身体と神識が一緒になるのは無常である。即ち、随時、変動している。一時的に一つの物を借りて我々の神識をその中に預けるのに等しい。今日、我々のこの身体は一つの家に過ぎず、我々はこの一生で一時的にこの家に仮住まいしている。しかも、この家は必ず壊れる。必ずボロボロになる。我々は世間にある家で壊れない家を見た事はない。この家は永遠に壊れない物ではない。我々の神識は、今世で一時的にこの家に仮住まいしている。だから、我々はこの偽の私に執着すべきではない。

何が仮の私なのか?我々は六根を通して六塵という感覚を生じさせ、私だと考える。例えば、私は見て、聞き、匂いを嗅ぎ、言葉に出して、行なう…。一体、誰が行なうのか?仏法の観点から見れば、あなたの心は、六根が外界一切に接触した後の動的影響を受けて反応を起こす。これは無常であり、真実のものではない。だが、凡夫はこの六つの感覚に執着し、これが自分であると思い込み、自分勝手な思いを生じさせる。それぞれの考えは全て、この六種の感覚──眼(心地よい物を見る)、耳(自分が称賛される言葉を聞く)、鼻(好きな匂いを嗅ぐ)、舌(満足する味覚を味わう)、身(身体が享受し苦しまない)、意(すべての意念にある貪欲)を満足させようとするものである。それは、我々がこの仮の自分に執着しているので、悪業を作り続けるからだ。そこで、普賢菩薩は如何にして無常を観察するかを教えられた。

我々が道を歩く時、道は無常であると観じなければならない。車を運転したり道を歩いている時も勤行を続けることが修行ではない。だから、台湾の顕教では、バスに乗っている時に、数字カウンターを手に持ったり数珠を弾いて念仏している者をよく見かける。これは間違ったやり方だ。チベット仏教の中では、もし、真言を念誦するなら、必ず法本全体を清らかな場所に置いて法に基づく修行を行なってこそ効果が得られる。あなた達は通常、運転しながら、道を歩きながら、バスを待ちながら真言や仏名を唱えているが、どうやってその作用を生じさせるのか?やはり妄念だ!他の妄念より少し良い。だが、作用は生じず、生死を断つ事を助けられず、却って、あなたの面倒を増やす事になる。

例えば、運転している時、勤行することが重要だと思うなら、車にぶつかってしまうかもしれない。歩きながら勤行をするなら、他人にぶつかるのが見えないので、人から怒鳴られるかもしれない。だから、浄土宗を学ぶには日夜六時、24時間、仏名を唱え続けてこそ浄土に往生できると言わなくてもよい。日夜六時とは、ある一定の時間と期限を指す。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関をする時、ある一定の時間の丸一日はある事をし、別の事をしない。普賢菩薩は我々に、道を歩いたり運転をしている時はこれらの動作をしないようにと教えられる。多くの者は、道を歩きながら、運転をしながら仏名を唱えるなら、仏菩薩は我々を庇護してくれると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げて皆に話そう。リンチェンドルジェ・リンポチェは通常、運転をしている時は仏名を唱えることはない。ただ一回だけ、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは密教を学び始めたばかりで、本当に事故を起こした時に仏名を一言唱えた。その一言はとても役立った。我々は最も慇懃な心で仏菩薩に求めてこそ役立つ。丸一日、ダラダラと唱え、妄念で唱え、一心に唱えておらず、一心不乱になるまで唱えないなら、時間の無駄だ。これは頭の良くない修行方式だ。

なぜ上師が必要なのか?上師はどのように修したら、最も簡潔なやり方で我々の要求するレベルに達することができるのかを知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、牛は非常に勤労であるが智慧はないという話をよくする。以前、昔の大徳の出家者の中には、ご飯を食べても仏名を唱え、トイレに入っても仏名を唱える者がいたので、今、私もこの様にすべきだ!と多くの者が言っている。他の者は違う。人は深い山の中でする事がなく、テレビもなく、新聞もなく、妻もなく子供もない。彼は暇でする事がないので、こうすることができるのだ。あなた達はできるのか?現在の台湾の出家者でさえもできない。リンチェンドルジェ・リンポチェのためによく運転してくれている者なら知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは車に乗ったら、寝ているのでなければ何もしない。リンチェンドルジェ・リンポチェが念珠を動かしたり念仏しているのを見る事は殆どない。

本当の境界は定の境界にある。よって、普賢菩薩が我々に教えた。一つの事をしている時にはしっかりやりなさい。道を歩いている時は、しっかり道を歩く。道路は無常であると観ずる。我々が歩いている道は随時変化しているのだ。車を運転している時、道路は無常であり、随時変化していると観じてこそ、突然飛び出して来てあなたにぶつかろうとしているバイクが見える。リンチェンドルジェ・リンポチェは車のスピードは速い。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの反応も速い。第一に念仏を唱えていない、第二に集中している、第三に道を見ているからだ。あなた達が人にぶつかるのは、注意していないからだ。よって、禅の意味は、何かを行なう時いつでも、心をその事に集中させて、心を散漫させないことが禅だ。だから、車の運転も禅を修することができる。食事をしている時も、寝ている時も、トイレに入っている時も禅を修することができる。だから、漢方医学では、トイレに入って放尿する時は話をしてはならない、話をすると気が漏れると言う。多くの者は、特に女性は、トイレに入った時に話をするのが好きだ。

禅とは、物事を行なう際にはいつも集中することだ。普賢菩薩はここで我々に、無常に対する観念を深く我々の意識の中に刻み込ませることを教えている。道を歩きながら、車を運転しながら、念仏を唱えてはいけない。あなたがもし、念仏を唱えて入定したなら、車を運転している時も入定している。続いて人にぶつかったら大変な事になる。車を運転している時、無常によって道路を観じ、この道路が随時変化している、随時事故が起こり得る、随時思いも寄らない状況が起こると観ずる。

道を歩いている時は神経を集中し、道も無常であることを観ずる。どこにでも意外な事は起こる。他人にぶつけられる、バナナの皮を踏んで滑って転ぶ、犬の糞を踏んでしまう機会もかなり減る。あなた達はなぜ、犬の糞を踏んでしまうのか?神経を集中していないからだ。道を歩いている時、目はあっちを見たりこっちをみたりしている。女性は男性を見、男性は女性を見る。高級車を運転しているのを見たら、誰が運転しているのか見る。もし、小汚い老人ならじっと見る。格好いい男性を見たら、いいなと思う。多くの女の子は皆、こんなのを好む。人が車を運転する事は、あなたとどんな関係があるのか?自分の道をしっかり見つめなくてはならない!

だから、仏菩薩が我々に教える方式は、生活の中に溶け込ませることだ。あなたが座禅を組み、お経を唱えられ、念仏できることが修行なのではない。だから、道を歩いている時、道路が無常であることを観じなければならない。こうして初めて、どの様に我々の限りある生命に正しい仏法を導き入れるかを理解できる。正しい仏法とは何か?それは、どうやってこの一生で我々を生死から解脱させられるのかを学ばせるものである。

我々は座っている時、例えば、帰宅して全ての事をやり終えて、禅定している時を含めて落ち着いて座っている時、住んでいる所も無常であることを思惟しなければならない。我々はこの世界に生きている。あなたが住んでいる家、この地球、この銀河系、太陽系は全て変化しており、無常である。我々はこの様な心で思惟してこそ、浄土に往生しなければならないと自分に強く告げることができる。阿弥陀仏だけの浄土ではない。諸々の仏が皆おられる浄土だ。例えば、直貢噶舉派の不共のアキ護法も浄土におられる。

もし、あなたが今、とてもいい家に住んでいて、そこに座りながらとても快適だと感じたとしても、これもやはり無常であると思惟しなければならない。さらに少し広げて、我々はこの国土もまた無常であることを思惟しなければならない。前回の大地震で、ある家はとてもしっかりとしていたが、地震でなくなってしまった。この中に住んでいなければ、この様に感じることもないだろう。もし、その中に住んでいて、あなたが台中、南投一帯の人であるなら、何もかもが数秒でなくなってしまっていた。だから、ある者は、一生かけて一生懸命に貯金をし、衣服も食べ物も節約し家を買う。ある者は、一生をかけて一生懸命に家を購入して十数軒も置きっ放しにし、毎年政府に納税している。こうすることが、とても安全だと自分で思っているが、これらは聡明な方法ではない。

我々の家は無常だ。随時悪くなる。永遠のものではない。だから、我々は、住んでいる家、住んでいるこの国土、住んでいるこの地球、この太陽系でさえもいつかは滅亡することを知っている。我々は来世、次の世で戻ってくるべきかどうかを理解しなければならない。次の世は、18年後にまた立派な男であるとは限らない。数百年、数千年後かもしれない。数万年ということさえもある。あなたには分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェが見た中で最も年を取った霊は、二百年余り前の清朝の霊であった。彼は死んで200年余りが過ぎて、やっと出てきた。リンチェンドルジェ・リンポチェの祖父も300年余りの霊を見たことがある。あなたが誤った観念を持ってはならないことを意味する。死んだらすぐに生まれ変わるのではない。すぐに生まれ変わったとしても、どこに生まれ変わるのかは、あなたの今世の業力に基づいて決定される。地球に生まれ変わって人間となる数は非常に僅かだ。あなたが人間になれたとしても、仏法を聴聞する機会はさらに少ない。うっかりとアフリカやアラビアに生まれてしまったなら、仏法を聴く事はできない。

先程、皆に教えたのは行である。我々は毎日歩く必要がある。現代的に言えば、我々は毎日車に乗らなければならない。行は、我々の生活の中で非常に重要な一部分を占める。仏法は、我々の生活の中に用いるものであり、我々の生活と分離したものではない。生活の中に溶け込ませなければならない。だから、行という部分も修行することができる。「常」の観念を転じ、無常の観念を受け入れなければならない。例えば、我々はずっと車を運転していると、車が飛び出して来るはずはないという自己の観念が生まれる。すると、突然、車が飛び出してきた。これは無常だ。すぐにその変化をあなたに見せた。

多くの者がリンチェンドルジェ・リンポチェの運転は敏捷だと言う。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは無常を知っているので、前から人や車が飛び出して来ることはない、とは思わないからだ。弟子の中には、車の運転が敏捷なリンチェンドルジェ・リンポチェに学びたいと言う者もいる。学べない。それは、この道は真っ直ぐだから、人が疾走して出てくることはない、疾走したなら死んでしまうと思っているからだ。我々が車を運転している時は、何かが起こり得る事を永遠に記憶しておかなければならない。無常は、何かが起こり得ると永遠に記憶することだ。よって、我々の行為の修行は、落ち着いて座ること及び自分が最も楽しめると感じる時を含み、常に、この住んでいる場所が無常であると観修しなければならない。だから、切望したり、ある考えを持って自分は永遠にこの場所に住むと考えてはならない。最も正しい考えは、この一生が終わった後は浄土に往生することを望むことだ。

我々が一食の食事をして、とても幸せだ、気分がよい、満足だと感じる時、我々は飲食の受用も無常だと思惟しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが初めてインドで閉関した際、朝から晩まで何も食べない日があった。誰もリンチェンドルジェ・リンポチェに食べ物を持ってこなかったのだ。閉関の時は話をしてはならず、ドアを叩くことも、ドアを開けて外へ出ることもできなかった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり毎日修する勤行を止めることはなかった。本当に丸一日お腹をすかせた。それは、食事担当の比丘尼が次の担当者の比丘尼に言付けるのを忘れたからだった。次の日、関房に人がいることに気付き、食べ物を届け始めた。これは飲食の無常である。必ず食べる物があると思ってはならない。コンビニが階下にあるので、いつでも買いに行けると思ってはならない。

SARSの期間、新聞に一組の夫婦が隔離されたことが載った。五日間、食事を彼らに届けなかった。五日後に気付いて、やっと食べ物を食べさせた。今日、我々は食べる事ができる。食べる事にとても満足している時、我々は随時随所で食べ物や水が途絶え、保証のないことを思惟しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ、閉関時に丸一日お腹をすかせたのだ。だから、我々は良い物を食べられる福徳があるようにと祈らなくて良い。それは無常であるからだ。美味しい物を食べたがる者もいる。通常、良い物を食べていると、病気になって死ぬ前には苦しみを受ける。チューブを挿入すると、食べるものも食べられなくなる。何も食べられない。

普賢菩薩は我々に、禅悦を受用できる食べ物を求めるべきだと教えた。まるで、リンチェンドルジェ・リンポチェが関房の中で、丸一日お腹を空かせたが、苦悩がなかったようなものだ。丸一日、リンチェンドルジェ・リンポチェは真言を唱え、座禅し、お腹がすいたならすかせた。だが、煩悩はなく、餓死も恐れず、食べられない事も恐れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、ある弟子に、インドではアイスクリームを食べないようにと言った。だが、この弟子は上師の話を聞かなかったので、すぐに問題が出た。台湾に戻り、病気のため病院で寝ていた。我々が食べる時、「これは食べるととても快適だ。私は本当に福徳がある」と思ってはならない。または、両親を連れて美味しい物を食べに行く。これは正しくない。我々は禅悦の食を求めるべきだ。禅悦の食は文字を用いて詳細に解釈するのは難しい。試してみるなら、我々がある日、心を込めて真言を唱えた時、唱え終わった時、その歓喜、満足感は別の物では代替できないものである。これが禅悦だ。

我々は寝ている時も無常を観じなければならない。夢の中に現れる珍しく風変わりな事は、昼間では見る事はない。これも無常である。睡眠は一種の享受だと思ってはならない。睡眠も変化する。時間、環境、条件等全てが変化する。睡眠の中で受ける感覚を清らかな光明に変化させなければならない。皆にとり、この点を実行することは難しいだろう。既に往生され、禅を修していた台湾のある上師が嘗てこう説かれた。「昼間、我々はコントロールできるが、夜は分からない」。この言葉は、夜は夢を見るので、やはりコントロールが難しいと言っているのだ。

密教では夢ヨーガ(夢瑜伽)という特別法門がある。睡眠は、動物を含む一切の有情衆が毎日しなければならない事である。人は毎日、6~8時間を睡眠上で浪費する。ある者は、念仏は日夜六時、仏名は途切れることなく唱えなければならないと思っている。実際にはこれは寝ないことではない。彼は眠っているが、寝ている間も仏名を唱え続けていることを指す。これを実行できるのは数人もいない。ナーローの六法の中の夢ヨーガでは、修行者は寝ている時にも禅定修行をしており、修行方式は、気脈、明点、禅定、マハームドラー、戒律の全てを含む密法である。なぜ、これを修さなければならないのか?それは、昼間、我々は、第七意識によって行為をコントロールできるが、寝ている時は、五識全てが止まってしまい、第六、第七、第八意識だけが働くだけで、累世の習慣が放たれるからだ。

夢で、今世でしたことのない事の夢を見ることがある。それは、第八意識田である阿頼耶識が我々の過去世と今世の行為の記録を保存しているからだ。寝ている時に、眼耳鼻舌身は止まって動かないが、第六、七、八意識は作用しているため、夢の中で一切の悪習が現れ易くなる。寝言を言ったり手を振って人を殴る等のようなことさえもある。我々が最も修するのが難しい淫欲であるが、現在、日中よくコントロールできている出家者にも、夜寝ている間にこの考えが出てくる者が多くいる。在家の弟子もこの中に含まれる。我々は生生世世、輪廻の時に淫欲という動作を経るからだ。我々は常に、仏法を学ぶには悪い習性を変えなければならないと言う。これは、生活習慣を指すのではなく、淫という習性を指す。昼間とてもよく修行し、瞋恚、横暴の気質を抑えることのできる者もいるが、夜にはこの考えが起こる。密教の中にはこの問題に対応できる方法がある。

以前一度閉関をした時に、尊き直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェに閉関時の夜の状況をすべて報告させた。そして、直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に夢観の境地に達したことを証明した。我々が寝ている数時間もまた無常であり、いつも夢を見ている。起きた後に夢の中で行なった一切を思い返す必要はない。我々は昼間も夢を見、夜も夢をみている。いい夢も、悪い夢もみて、一日一日が過ぎる。何も振り返って見る必要はない。全て無常だ。

我々は、知り得た境界、見た事の全てに執着してはならない。この境界を清らかな光明の顕現として見ると、我々を大円鏡智に転ずることができる。鏡はじっと動かずに、一切の映像を反射する。我々の智慧と心も同じである。それを訓練する方法は、夢の中と昼間に行なった事に痕跡を残さない事に依る。今どの事をしなければならないと頑なになってはならない。どの事も精神を集中して行なう。終わって帰宅したら、帰宅だ。会社とは関係ない。会社にいる時は、会社は会社である。家とは関係ない。この様にしてこそ、徐々に、智慧を大円鏡智に転じることができる。

我々にお金がある時、金銭も無常であると思惟しなければならない。仏は財産は五賊共管(五賊が共同で管理すること)と説かれた。即ち、天災、子孫、盗賊、火災、及び国家である。国家の一つの政策が変われば、財産はすぐに半減する。よって、財産は我々のものではない。家を買ったりお金を銀行に積み、残しておけばよいと思っている者が多い。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは短いお話をされた。ある友人が他界した時、奥さん、お母さん、妹が彼の財産を取り合った。彼自身が稼いだお金を楽しむことなく、銀行に入れておいたので、死んでから家族に奪われた。その結果、嫁と姑が裁判を起こした。

財産は、単に過去世の供養、布施に過ぎず、今世であなたに返した。例えば、間違った使い方をしたなら、持って行くこともできず、来世でも無い。あなたが今世で間違った使い方をしたからだ。財産は増えたり減ったりする。リンチェンドルジェ・リンポチェが今生で何度も起伏があったようなものだ。だから、財産は単に、通り過ぎる客に過ぎない。財産は使い方が正しければ、多くの人の為になる。誤った使い方をしたなら、人を傷つけ自分も傷つく。実際に、時間的な事は皆、財産によって生じている。財産は、身分、地位を含む。普賢菩薩は、金銀は無常であること、常に謙虚な気持ちで満足を感じなければならない事を我々に思惟するよう教えられた。即ち、お金を持てば持つほど謙虚になり、もっと、へりくだらなければならない。他人よりも少し多く持っているから、身分、地位が人よりもちょっと高いからと思ってはならない。この様なことはない。あなた達は皆同じだ。ただ、相手の過去世での供養、布施が少なかっただけだ。

我々は言葉は無常であることを思惟しなければならない。前の言葉はあなたを讃え、後ろの言葉はあなたを傷つけるかもしれない。もし、言葉が無常であることを受け入れられるなら、他人が怒鳴ったり、批判することに対して、自然に反応しなくなり、相手に感謝できるようになる。我々が今日、他人と喧嘩するのは、我々が言葉は常で変化しないと考えるからだ。我々が言葉は常だと考えるので、他人におだてられたり、褒められるのを好むことになる。他人がこの様な言葉を使わない時、自分を馬鹿にしている、あなたに良くしてくれないと感じる。だから、我々は一切の時間的言葉を全て無常だと観じなければならない。

完全な教法に従ってしっかり実践するとは、完璧に、仏の教えられる方法に基づき、それを生活の中に用いることである。ある者は「皈依した後に菜食しなければならないなら皈依しない」と言った。この様であるなら、依教奉行(教法に従ってしっかり実践する)という四文字を実行していないことになる。あなた達の信心は時に応じて変化する。出離心も時に応じて変化する。出離心とは、この一生で、三界の輪廻世間に二度と遊びに来ないで、確実に出離することを決意することだ。出家は、必ずしも頭を剃ることではない。三界の輪廻の家から出離しようとする事を指す。

リンチェンドルジェ・リンポチェに、この一生が終わったらもう来ないと話す者がよくいる。だが、突然、財産が現れ、子供が生まれ、結婚する等の諸々の事情で、彼の出離心もすぐに消え失せてしまう。子供が成長して、嫁を娶ることこそが良いと思い、仏法を隣に置いておく。明らかに、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達が結婚する時は殺生してはならない、菜食の宴会をするようにと説いたが、ある夫婦は、両親が反対するのでできないと言った。彼らができないなら、仏菩薩も彼らの事に方法がなくなり、彼らの信心もすぐに無くなってしまう。だから、信心、出離心を持たなければならないと言うのだ。だが、あなた達の心は無常で、変化する。

普賢菩薩は「固い誓いのもとで、精進、努力する」と説かれた。あなた達は皆、誓いをしたら無くなってしまう。皆は皈依をした時に、皈依の誓いをした。今世で仏門に皈依しなくても、過去世では皆、皈依したことがある。それは、もし、あなた達が過去世で仏門に皈依したことがないなら、今世で人身は得られないからだ。金剛薩埵の懺悔文の中には、こう説かれている。「我々は過去の誓いを忘れてしまい、再び悪行を為した。よって、ここに懺悔する」これは、衆生、上師、及び仏菩薩に対する誓いは承諾だからである。我々は一切の衆生を利益すること、衆生を苦しませないことを約束した。持戒し、修行し、生死から解脱することも仏菩薩に約束した。

一体どうやってこの誓いを固めたらよいのか?それは、精進を続けることだ。精進は、どれくらい理解して、どれくらい聴いたのかではない。一つの事に深く入り込み、途絶えることなく行い、途絶えることなく進歩を続け、しかも怠けないことだ。あなた達が仏法を学ぶ際の最も大きな問題は懈怠だ。今日は忙しいから、数日後にまた話そうと思う。数日経ったら、今世で仏菩薩に接触し、衆生と善縁を結ぶ時間が数日減ってしまう。皆は現在、自分に信心、出離心があると思っているが、やはり無いのだ。だから、なぜ、皆に、毎日アキ護法を修し、戒律を守り、六字大明咒を唱えさせているのか?それは、あなた達の誓いを固めさせるためだ。これによって、あなた達の信心と出離心は変わり易くなくなるだろう。

あなた達は無常を分別して思惟する。分別とは長短、良し悪しである。あなた達の目で見えるもの、耳で聞こえるもの、口で味わえるものは全て分別である。供養さえも分別する。一躯の仏像を見て分別し、上師を見ても分別する。この分別心は煩悩が生じたものだ。ある人が自分に良くしてくれると感じると、彼と多く話をする。自分を傷つける人を見たら無視する。これらは全て煩悩であり、分別心だ。

密教を修した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、目で見える全てが美妙だと感じた。この美妙は、美しい、とは異なる。自分が好きな物でもない。リンチェンドルジェ・リンポチェが目で見、耳で聞く一切は自分の成仏を助ける事物であり、自分を傷つけるものは一つもなく、自分に害を与えるものは一つもない。あなた達が恐がり、敵がいるのは、あなた達が分別をしているからだ。相手を「貴人」と「小人」に分類している。あなた達が動念すると、自然にこの二種類の人が現れ、あなた達に強烈な感覚をもたらす。

例えばあなた達が分別しないのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが《37の菩薩の実践(中国語名:仏子行三十七頌)》を説いた時に話した「衆生は皆、菩薩である」の如く、自然に害を受けることはなくなる。普賢菩薩は「心性の純良さを学ぶ」と説かれた。これこそが《37の菩薩の実践》の効用である。自分の修行のレベルが高いと考え、リンチェンドルジェ・リンポチェの説いた《37の菩薩の実践》を一回聴いたら理解できたと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェでさえも現在まだ《37の菩薩の実践》を修している。

《37の菩薩の実践》は、皆の心性を純良にするのを助ける。皆はなぜ間違い続けるのか?破戒し続けるのか?それは、分別心があるからだ。あなた達は《37の菩薩の実践》を実際に自分の生活の中に取り入れていないので、問題が次々に現れる。

続いて、普賢菩薩は「覚受や証悟もまた無常である」と説かれた。多くの者は仏法を学ぶ時に「私は仏菩薩に、自分が早く悟りを開けるようにと祈っている」と言う。あなた達がこの様に願う時、これは有為法となり、無常の法となる。悟りを開く事は願って叶えらえるものではない。あなたに証書を発行する事でもない。「悟り」は正真正銘、宇宙の一切の道理を理解することである。沢山の本を読み、沢山のお経を読み、沢山の真言を唱えて得られるものではない。完全に累世の悪い習慣を徐々に取り除いた後、自然にありのままの本性を見ることができる。

悟りを開く事も無常である。それは、今日は恐らく、あるレベルのものを悟っただけであるので、まだ変化する。「悟り」は円満な境地ではない。智慧と福徳が完全に円満な境地である仏果を証するまでは、単に、仏法の真の勝義諦が何であるかを理解し始めただけだ。「覚受」とは何か。多くの者は、座禅を組んでいる時に、ある感覚を好み、ある影響を受ける。この観念は誤りだ。毎回、禅定の覚受は異なり、日々によっても異なる。それは、あなた達が真実の不動の境地に至っていないからだ。心が完全に不動ではないので、六根の影響を全く受けず、全く執着せず、全く攀縁を起こさない、完全な不動の境地に至っていないからである。不動と定の解釈は異なる。今日は時間がないので、以後語ることにする。

よって、皆が「覚」と「受」を手放すことができず、毎日、禅定をし、歓喜の感覚を持ちたいと願うなら、これは執着心だ。執着心は魔の心である。皆は、悪い事をするのが魔であると常に思っている。だが、実際に魔は、あなた達を輪廻から解脱できないようにする。どうやって、あなた達を輪廻から解脱させないようにするのか?執着だ。だから、もしあなた達が毎日お経を唱え、真言を唱え、座禅する時、ある一つの覚受に執着するなら、手放せない事になる。この様な感覚を追い求めて、やはり輪廻する。

法本の中では、この覚受と証悟に執着するなと皆に伝えている。それは、それらもまた、無常であるからだ。「当得同証法性処(当に同じくして法性処を証するを得る)」であるべきだ。即ち、衆生利益のために、仏の境地に至るまでずっと、絶え間なき修行をし、上師の加持及び助けを受ける、ということだ。簡単に言えば、現状に不満足である。ここで言う現状に不満足とは、世俗に不満足であるのとは異なる。家や財産をもう少し多くしたいのとは違う。自分はよく修行している、修行してある境地に至った、理解した、分かったと思ってはならないことである。これらの心は、執着心、我慢の心である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前「成仏できない日があるだけで罪となり、懺悔が必要である」と説いたことがある。それは、誓いの言葉に背くからである。よって、成仏するまで怠けてはならない。良い境界が現れたからといって、自分はとても良い状態だと思ってはならない。この様では問題が起きる。直貢チェツァン法王及びリンチェンドルジェ・リンポチェでさえも閉関しなければならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの衆生利益の事業も休んだことはない。そうでなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェの現在の境界によって、あなた達の様子を学ぶことができる。

仏の境地に至る前は、一切の覚受と証悟はいずれも無常である。自己満足してはならない。あなた達は、以上のような無常を観想する方法を通して、死が来た時に、いかにして死を離れたらよいのかの秘訣を知り、無死の境界を証することができる。その時、あなた達の心は死の痛みを全く感じないだろう。あなた達は現在、なぜ、自分及び家族の死を望まないのか、それは、無常を観想したいと思わず、死を理解しないので受け入れられないからだ。全てが無常であると知った後、不生不死を証することができる。

ある者が皈依弟子を通してリンチェンドルジェ・リンポチェにどの様にしたら生死から解脱できるかを聞きたがった。リンチェンドルジェ・リンポチェの数言によって成就できることを願った。そんなにも簡単な事ではない。多くの立派な和尚でさえも生死から解脱できない。よって、今日は普賢菩薩が皆に教える方法を毎日行ない、止めないで、観じなければならない。ゆっくりと自己を訓練した後、いかなる事が起きるのも全て無常であることを完全に体得することができる。快楽、苦しみ、得失は全て無常だ。このようにして、人生は楽観的とは言う気はないが、最低、苦しみを少し減らすことができる。さもなくば、あなた達は毎日、無常を受け入れない故に、とても苦しむことになる。

皆には覚えておいてもらいたい。無常は仏が発明したものではない。物理学でも全く偽りの無い真実の原理だ。世間での諸々の物質は変化を止めたことはない。物理を学んだことのある者なら知っている。世俗の物は全て同じ原理であるので、我々の身体に起こる事も絶対に無常である。凡夫であるなら、六道の中にいるだけで、必ず無常だ。無常を信じないなら、仏の定義から言えば、邪見となる。正知正見とは何か?著名な和尚について仏法を学ぶことが正知正見ではない。仏教の方法を受け入れることだ。仏は一切は無常であると告げた。我々はそれを受け入れて、ありのままに感じ、実際に修行しなければならない。疑問を持ったり、教えの内容を減らしたり、訝しがってはならない。仏には我々を騙す理由は何もない。

無常を観じ、受け入れた後、正知正見の範囲に入る資格ができる。さもなくば、八正道にはあなた達の持分はない。だから、今日、皆がある物を求めて得られたとしても、やはり無常である。手に入れたら必ず失うのだ。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、いつも、見返りを求めてはならないと言っているのか?見返りを求めないという意味は、あなた達は無常であることを知っているのに、まだ求めて何をするのか?求めなくても自然に手に入る。それは、あなた達の生活の法則が無常であり、因縁が揃っているなら、果報が熟した時に、自然に現れる。また、自然に消滅もし、悩む必要はない。

多くの者は、あちらこちらを求め彷徨う。当然ながら、仏には多くの方便法門がある。「以欲勾之(欲望を用いてこれを釣り上げる)」というのは、まず、あなた達の合理的な欲望を満足させてから、仏門に引き寄せることである。簡単に言えば、あなた達の機嫌をとってから本題に入らせることだ。以前、子を求める者もいた。夫婦喧嘩や事業の失敗のいずれも、リンチェンドルジェ・リンポチェは助けてきた。彼らの問題を解決してあげることは、欲望をもってこれを釣り上げることだ。門に入ったら、ゆっくりと懲罰を加える。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達を満足させたからといって、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にすごい、本当に慈悲深いと思わなくてもよい。これは、苦しみのスタートかもしれない。

仏法を学ぶ際には、これはやってはいけない、あれもやってはいけないといった多くの規則がある。だが、仏は一切の愚かな衆生を救うために、多くの方便の法を持っている。当然ながら、これらの方便の法も因果に背くことはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェはある人達のためにポワ法を修法するようなものだ。なぜ、彼らに他界者の考えを告げるのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェの凄さを示すためではない。彼らの欲望を満足させ、自然に仏法を学びに来させるためだ。

普賢菩薩があなた達に伝えた言葉の重要な点は「無常」であった。あなた達が喜んで受け入れ、無常を観想したなら、重病であっても他の人よりも早くよくなる。それは、病気は治る日が来ると知っているからだ。あなた達が無常を信じないなら、自分の病気が非常に重く救われないと思うなら、本当に救われない。今世の肉体及び未来世においても救われない。それは、恨みの考えを持って死ぬからだ。あらゆる人は自分に対して申し訳ない事をしたと感じ、医者、看護婦、家族は全て自分に対して申し訳ない事をしたのだと感じている。あなた達が無常を受け入れたなら、この一生で病気のために死んだとしても、無常である故に、次の世ではこの病気が現れることはなく、恨みを込めて一生を終えることはない。

他界者が何か言い残した事はないかと、リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる者が沢山いる。実際には、人は死ぬ前には何も言い残してはいない。自分を心配していることも間に合わないのに、何を言い残すことがあるのだ?他界者の通常の懸念は全て、最後の欲望だ。他界者が息をひきとる前、相手を揺らす者も沢山いる。息をひきとる前に、死ぬ前に言い残したいことを言わせようとする。これは非常に残酷な事だ。だから、普賢菩薩はあなた達に、歩く事、留まる事、寝る事、食べる事の日常茶飯事に無常を観じなければならないと教えた。この様にして、日常生活が皆に与えるプレッシャーを減ずることができる。皆は自分には大きなプレッシャーがあると常に言っている。しかし、誰も皆にプレッシャーを与えていない。なぜプレッシャーを感じるのか?それは「常」だからだ。自分には仕事がないのではないかと、いつも心配している弟子の様なものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これ以上心配すると、本当に仕事がなくなってしまうと彼女に言った。それは、毎日自分に呪いをかけているからだ。それから、彼女の夫も供養を許さない。その結果、4分の1減俸された。あなた達は何を修しているのか?

あなた達は一日中、リンチェンドルジェ・リンポチェが非常に霊験あらたかであってもらいたいと思い、リンチェンドルジェ・リンポチェの教える方法を聞き入れない。だから、供養しないならやはりマイナスとなる。面白いだろう?皆が依教奉行(教法に従ってしっかり実践する)を取らないなら、沢山の仏法を聞いても役に立たない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達と同じ信者から修行して出てきたのだ。だから、皆にとって最も役に立ち、実行できるのはどんな方法、方式なのかを知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの語る仏法はリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行の経験を通して、仏法を簡素化、生活化して皆に伝えている。しかし、皆は独りよがりに、自分達はリンチェンドルジェ・リンポチェとは違うと思っている。だが、皆の身体の構造はリンチェンドルジェ・リンポチェと全く同じだ。仏について言うなら、衆生は全く同じだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが成就した事を、皆も成就できる日が来る。あなた達が成就できないのは、独りよがりだからだ。自分には学問も、智慧もあり、聡明で経験もあり、能力もある。だから、仏道がとても苦しく、難しく、プレッシャーがあると感じるのだ。

こう言うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのプレッシャーこそが大きいのではないか。直貢噶舉派のこんなにも多くの人が、ぽかんとしてリンチェンドルジェ・リンポチェの弘法を見ている。今日、仏菩薩があなた達に教えた方法を実際に行なったなら、必ず成就できる。必ずできる。必ずあるレベルに到達することができる。あなた達が実行できないのは、教えに基づく行動をしていないからだ。自分のために理由を見つけて実行しないことが多い。簡単に言えば、皆は今まで自分の言ったことを認めない。皆はいつも責任を負うと言っているが、口にした言葉に責任を負い実行しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、今日、自分についての二つの話を皆に聞かせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは二十何歳かの時に、オーストラリアへ行き洋服のビジネスをしていたが、その前に、香港で洋服店を二軒開いていた。旅行客向けのビジネスだった。リンチェンドルジェ・リンポチェがオーストラリアでビジネスをしていた時は、身体のサイズを測った後に相手に届けていた。その時、別の友人がリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に行っており、宝石を売りたがっていた。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェにお客さんが沢山いることを知っていたので、売れたら、リンチェンドルジェ・リンポチェに利益を配分し、彼もリンチェンドルジェ・リンポチェのビジネスを助けようと思っていた。

出国の7日前に、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェのところへ来て、宝石が手に入らないと言った。20数年前、香港での宝石のビジネスは、現金をあげる必要はなかった。信用がありさえすれば良かった。皆は約束を守ったのでビジネスし易かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、どの宝石工場なのか聞いた。その工場はリンチェンドルジェ・リンポチェの知り合いだった。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼と一緒に工場へ行く事を自分から提案した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼は自分と一緒にオーストラリアへ行くのだが、宝石が手に入らないのだと社長に話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼のビジネスを助けたのだ。社長は「リンチェンドルジェ・リンポチェなら問題ない、宝石を持っていっていい」と即答してくれた。当日、リンチェンドルジェ・リンポチェは何にもサインせず、何の契約もなしに、合計200万の宝石を手に入れた。だが、当時は心に貪欲があったので、宝石を税関に申告しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェも以前には間違いを犯した。その結果、オーストラリアに到着してから税関に没収された。一気に200万余りの香港ドルが消えてしまったのだった。

香港に戻った後、彼は宝石工場に催促されたが、社長に支払うお金がなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェに電話で支払いを頼んできた。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは渡した。もし、あなた達なら、絶対に渡さないだろう。彼の為に口を利いてあげるだけでも、いい方だ。更にお金を渡したのだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの考えは皆と違う。この事でリンチェンドルジェ・リンポチェが行かなかったら、彼は宝石を受け取れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが行ったから、彼は宝石を手に入れたのだ。社長はリンチェンドルジェ・リンポチェの顔を立てるために宝石をあげた。法律においては、リンチェンドルジェ・リンポチェは責任はない。だが、道義において、リンチェンドルジェ・リンポチェには責任がある。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がお金をあげたなら、家庭が破壊されることを知っていた。それは、当時、相手に渡せるだけの、そんなにも多くのお金がなかったからだ。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆と違う。本当にあげた。あげた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはビジネスに失敗し、妻と離婚した。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは後悔しなかった。それは、お金と家族は何れも、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって無常であったからだ。

だが、リンチェンドルジェ・リンポチェのこの馬鹿さ加減によって、過去の数十年の間、リンチェンドルジェ・リンポチェが困難に陥る度に、いつも助ける人が現れた。しかも、助けてくれる人は皆、リンチェンドルジェ・リンポチェの知らない人だった。これは皆が出来ない事だ。200万余りとは言わずとも、2000元だってあなた達はあげられない。最もよくて、電話をして追い討ちをする手伝いをしただけで、顔を立てたことになる。これはリンチェンドルジェ・リンポチェと皆の違うところだ。当時の200万は現在の2000万香港ドルに相当する。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あえて会社を閉鎖した。妻は誤解して離婚した。だが、人格は変えられない。あなた達は人格を随時変える。後でこの点について話そう。

二つ目の話。1996年の頃、リンチェンドルジェ・リンポチェはある女の子を助けたことがあった。彼女は霊に憑依され、一日中飛び降り自殺を考えていた。最初、皆は彼女を精神病だと思っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に霊が憑依しているのが見えたので、彼女のために加持を授けた。リンチェンドルジェ・リンポチェが金剛杵をこの子の頭上に置いた時、彼女は妖艶な眼差しでリンチェンドルジェ・リンポチェを見て、リンチェンドルジェ・リンポチェが心を動かされるのを望んだ。それは、心を動かしたら真言の効力が失われるからであった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を無視し、真言を唱え続けた。すると、彼女は手で思いっきり押した。リンチェンドルジェ・リンポチェの金剛杵が頭上にあったからだった。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり彼女に構わずに、唱え続けた。その後、その子は泣き出した。泣いたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは霊が彼女を離れたことが分かった。その子はすぐに目覚め、最初に「自分の隣の者を助けて欲しい」とリンチェンドルジェ・リンポチェに願った。それは、さきほど憑依していた霊であった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、必ず彼を済度すると約束した。

ところが、リンチェンドルジェ・リンポチェは言った後に忘れてしまった。6ヶ月が過ぎた後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が間違ったことに気付いた。彼を助けていなかった。この霊は後で邪魔をしていたのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェと眷族には全て護法がついているので、霊は彼らを邪魔できなかった。霊はリンチェンドルジェ・リンポチェのビジネスがうまくいかないようにしたので、リンチェンドルジェ・リンポチェはやっと、以前承諾をしたのに実行しなかった事を思い出した。この話が皆に伝えている事は、承諾した事を実行しなかったなら、この一生であなた達の邪魔ができなかったとしたら、来世で必ず債務の取立てに来るということだ。よく考えなさい。今世で承諾した事はしなければならない。成し遂げられなかったことはどれ程なのか?誓った事、約束した事は承諾した事だから、必ずしなければならない。承知した事をしないのは人ではない。我々はどうやったら、今世で人として生きられるだろうか?

この時、その場にいた者が、つまらないという様な様子を示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を叱責し、つまらないなら出て行ってもよいと言い、彼に、先程の話の内容を理解できるかどうかを聞いた。さらに、仏法を学ぶ際には他人を尊重することを学ばなくてはならないと注意された。皆が仏法を聞きに来る時、皆の怨親者と祖先もやって来る。台湾でのこの非常時において、リンチェンドルジェ・リンポチェの説法はあなた達を改めさせることにある。これ以上、改めないのなら大変な事になる。隣に座っているからリンチェンドルジェ・リンポチェには見えないと思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェの目はとても良いのだから。

あなた達の一生はこの様だ。他人を敬わない。法会に来たからには、好きでも嫌いでも、数時間座っているべきだ。これが敬うという事だ。あなた達は他人を敬わない。他人はどうやってあなた達を敬うのか?直貢チェツァン法王が説法されている時、リンチェンドルジェ・リンポチェがつまらない動作をしたり居眠りするのを見たことがないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子であっても、少しの事さえも学び取れないでいる。

お経の中に「人道成、仏道成」と説かれる。人としての事ができないなら、仏法を学ぶ資格はないということだ。孔子は学問を数十年も語った。語ったのは「人として」すべき事であった。人の基準を、仏は「十善法を修さなければならない」と説かれた。儒家は「仁義道徳を実践しなければならない」と説かれた。先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェが話した二つの話は仁義である。リンチェンドルジェ・リンポチェは義理を重んじる。他人が傷くのを好まず、あえて自分が傷を受けようとする。この様なのが人だ。人ができないのなら、あなた達が一日中座禅を組み、お経を唱えたとしても役に立たない。仏は皆に人としてすべき事を教えるために《十善経》を説かれ、皆に十善法を修するよう教えた。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは話したことがあったが、今日は再度語った。皆はよく聞きなさい。寶吉祥の弟子は話にならないと外で言われないようにしなさい。

十善法とは不殺生、不邪淫、不偸盗、不妄語、不両舌、不綺語、不悪口、不慳貪、不瞋恚、不邪見のことである。皆はどれ程の事をしたのか?不殺生を皆は無理やり実行できる。不邪淫も実行できる。不偸盗を実行できる者は少ない。自分で取る事が盗みであるのは当然だが、海賊版を買うことも盗みとなる。不妄語は、皆は全員実行できない。あなた達は嘘をつかない事が妄語だと思っているが、人に約束した事を実行しない事も妄語だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが先程語った二つ目の話もこの点について説いたが、つまらなさそうにしている者さえもいた。皆はこの一生でどれ位の妄語を行なったのか。承知したのに行なわなかった事がどれ位あるのか?

不両舌は物事の良し悪しを語らないことだ。多くの女性がこの方面の病気を抱えている。友人が彼女に自分の夫が良くないと訴えた。彼女は相手の夫がこうすべきでないと、煽り立てる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これが両舌だと言っている。不綺語。綺語とは人の機嫌を取ることだ。悪口を皆はいつもしている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「十善法を実行していないなら、来世は絶対に地獄、畜生道である」と説かれた。自分が皈依し、仏法を学んだなら悪道に堕ちることはないと思ってはならない。これらは仏が説かれた基準だ。人として必ず十善法を修さなかればならない。貪、瞋、痴には戒、定、慧の法門を用いなければならない。戒を修することができる人は自然に貪欲がなくない。貪欲がないので、自然に定が得られる。情緒の波が動くこともなく、続いて智慧が生まれ、間違いを犯さなくなる。人として生きるのは非常に難しい。そんなに簡単なことではない。他人を傷つけないのが人だ。あなた達が今世で人となったのは、過去世で十善法を修したことがあるからだ。修したことがないなら人身は得られない。これは仏が説かれた。仏は絶対に、存在しないこと、発生しない事を皆に説くことはない。即ち、今世であなた達が十善法を修さないなら、来世では人になれない。人になれないなら、阿弥陀仏のところへは行けない。リンチェンドルジェ・リンポチェは死なないと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが死んだ後はあなた達のためにポワ法を修する者はいない。

十善法は、その時にしなければならない事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を学ぶ以前も既に、この様な性格であった。他人に約束した事は署名しなくても実行する。自分が傷ついても敢えて実行する。あなた達はこの一生でこんなにも沢山の面倒がなぜ起きるのか?それは、承知した事をしなかったからだ。例を挙げると、政府で公職についている者が全ての国民のために行なうことを約束し、政府に入った時のモットーは誓いの言葉であった。だが、それを実行しなかったばかりか汚職までする。これには業報がある。「こうなるはずだ」という文字はない。他人がこの様にしていると言うのに、なぜ自分はできないのか。後で仕事がなくなることを恐れている。だが、この様ではいけない。

現在、世界、国家はなぜこんなにも混乱しているのか?それは十善法を修していないからだ。今日はリンチェンドルジェ・リンポチェが叱っていると思ってはならない。全ての修行者は、益々混乱する局面を迎えたことを理解し、非常に慌て、時間がないことに焦りを感じている。少しでも影響を与えられることを望んでいる。今はきれいな言葉を使って皆に話しても役に立たない。台湾について言うなら、幾つかの著名な仏教団体には一千万の仏教徒がいると言われている。お経に基づくなら、台湾には天災や疾病は起きるはずがない。こんなにも沢山の人が毎日お経を唱え、こんなにも沢山の人が毎日仏に礼拝を捧げ、祈っているのだ。それなのに、なぜまだ天災や疫病があるのか?それは、基準まで実行していないからだ。条件を言う者もいる。菜食するなら皈依しないと言う。全く仏教の、人としての基準を実行していない。どの様にしたら業を転じられるのか。沢山のお寺を建てただけだ。

現在、直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェを台湾から離れさせようとはされていない。もし、直貢チェツァン法王が言われたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に離れる。直貢チェツァン法王が口を開かれたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは行く。あなた達は修行者は一箇所にいると思ってはならない。あなた達と一緒にいて、ある事をする。修行者は無常を受け入れなければならない。自然に、名利を気に掛けなくなる。今回のSARSでは、リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと黙々と行なった。この様に、名誉を求めないことこそが修行者の行なう事だ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を説くのが益々早くなり、益々激しくなる。それは時間がないからだ。皆は絶対に、だらけたり、怠けてはならない。つまらないと感じるなら役に立たない。昨年、ドラブ・ワン・リンポチェが特別にリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来られ、250名のラマが六字大明咒を一ヶ月余り唱えるための護持をリンチェンドルジェ・リンポチェに求めたのだった。世界があまりにも混乱しているので、直貢噶舉派の伝統を全て新たに持ち出すためだった。

今年、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に重要な事を行なう。直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは時間があまりない事を知っている。あなた達は仏法を聴きに来たのに、つまらないと感じているのではないか?仏法を聴きに来られるのは福徳があると思ってはならない。もし、一生懸命に聴かないなら役に立たない。諸々の仏菩薩は衆生が苦しみから離れることを願っている。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェの説法を深く考えなければならない。お経に説かれた方法に基づいているなら、台湾にこんなに沢山の事が起こるはずはない。仏は皆を騙していない。皆が実行できないのだ。皆は自分を責める事も間に合わない。自分の祖先にさえも申し訳が立たないのだから、仏に申し訳が立たないと言わなくてよい。昔の祖先達は、謙虚さと、礼儀正しく先を譲る事を教えられた。こんなに貪らなくてよい。皆が現在、次の世代に貪るように教えるので、多くの事は解決できないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは数十名の弟子を指名して説法された。仏法DVDを買わないので怒っているのではない。彼らは、お金がリンチェンドルジェ・リンポチェの手に入ると、その大部分、全額のこともあるが、寄付として出て行く事を明らかに知っている。言った話を数に入れないなら、慈悲心を絶対に成就できないし、三昧耶戒も絶対に成就できない。数字をちょっと変えても構わないと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日話しているのは、お金の問題ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにDVDを渡さないようにしたのだ。彼らが改めたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも変える。彼らは自分が損害を受けると聞いて、すぐに数量を変えた。彼らの考えは簡単だ。自分の予算が元々こんなに多くなかったので、突然値段が足されて買えなくなり、数量を変更したのだ。彼らはどうして、分割払いを考えなかったのか。或いは、自分にお金がないと、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェに話さなかったのか。毎回法会ではリンチェンドルジェ・リンポチェは沢山の空の供養袋を受け取る。

彼らは今日、承諾した。幸いな事に相手はリンチェンドルジェ・リンポチェだった。他の人とずっと売買をしているなら、相手が新しい製品が販売されたと言ったら、彼らは価格を聞かないで、すぐに購入を承知する。彼らが購入を決めたので、相手は作製した。その結果、価格が自分の想像のようではなかったからと、すぐに変更した。このDVDは1時間半であるのに、たったの450台湾ドルで売ることがあるのか?彼らはなぜ、数量を変更したのか。それは損害を受けたので、相手に構わず変えたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「仏法を学ぶという事は、上師、仏菩薩に頂礼すればよいのではない。人格は変えられない」と説かれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「今日、寶吉祥仏法センターがお金のためにあるなら、とても簡単なことだ。各人から100台湾ドルを集め、参加者が340人いたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに34万台湾ドル得られる。例え1000台湾ドル取らなくても、500台湾ドルであっても皆は出す。だが、法会に参加して500台湾ドル供養する者は少ない。前回の法会について言えば、20数人だけだ。皆は、毎回の法会でのリンチェンドルジェ・リンポチェの収入はとても多いと思っている。通常、皆は1時間半の映画を見るだけでも300台湾ドルだ。この点からも、リンチェンドルジェ・リンポチェはお金のために仏法を説いているのではないことが理解されるだろう」と説かれた。

現在、リンチェンドルジェ・リンポチェが行なう全ての事には必ず原因がある。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェがお金を稼ごうとするなら、DVDの仕事をする必要はない。仏法に頼ればよい。他の道場の様にすればよい。年齢に拘らず一人500台湾ドルと規定する。300人余りの中で、500台湾ドルを出したのは20数人だけだ。その他の者は100台湾ドル、200台湾ドル。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を追い出したことはない。この様なお金では台湾では何もできない。弁当さえ買えないこともある。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは数十人について語った。重要な点は、皆はよく約束を守らないことにあるので、自然に仏法を学ぶことを退転してしまう。境界に出会うとすぐに考えを変える。仏菩薩から授かった恩恵を忘れる。どれ程の衆生が努力をしているのかを忘れてしまう。こんなにせこせこしている者は仏法を学ばなくていい。仕事の場でも失敗する。それは、今まで他人の事を考えたことがないからだ。全て自分の事だけを考えている。この人達は立ちなさい。皆それぞれが仏菩薩の恩恵を受けている。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼らを通して他の者を教育する。人に約束した事は必ず実行しなければならないという事を覚えておきなさい。実行できない事は約束してはならない。人であっても、霊であっても、今後必ず取り立てにやってくる。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この件によって皆に教訓を与える。仁義なく、いかなる事も承知してはならない。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学ぶことを嘗て退転しなかったのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは約束を守るからだ。直貢チェツァン法王と約束した事は必ず実行する。

昨年、ドラブ・ワン・リンポチェは、今年、リンチェンドルジェ・リンポチェにこの法会を行なわせることにしたが、どの位の費用がかかるかをリンチェンドルジェ・リンポチェに言わず、今年になってから告げられた。考えてみなさい。250名のラマ、45日でどの位の費用が必要なのか?しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の約束を違わなかった。費用は支払った。彼らは、自分の予算と異なるからと、すぐに身を引き、相手の事は構わないと考えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲深いからと。当然ながら、彼らはビジネスの目でこの事を見ていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはビジネスの方式で彼らとやり合い、売らないことにした。彼らにお金を残させ、恙無い日を送らせる。一念の差で、あなた達を成仏させることもできるし、一念の差で、あなた達を地獄に堕とすこともできる。「ミラレバ尊者伝」「ナーロー伝」をもう一度詳しく見なさい。その中の上師はどうやって懲罰を与えたのか。あなた達は一日中、よく学びたい、大法、密法を学びたいと考えているが、福徳がないなら学べない。福徳はどこから来るのか?教えに基づいて実行することによる。

リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェツァン法王と話をしていた時に、直貢チェツァン法王は毎日、衆生済度に忙しくされており、リンチェンドルジェ・リンポチェも毎日、衆生済度にちょっと忙しくしている。この二人の師弟は同じ事を考えていた。直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは、犬は比較的教え易く、済度し易いということに対して同じ考えを持っていた。もし主人が飼っている犬に死になさいと言ったなら、犬は絶対に主人が自分を傷つけると思うことなく、本当に死んでしまう。主人はただ、犬に食べ物を与えていただけだ。また、犬は、主人を保護するために、入口を守る手伝いをする。あなた達は仏菩薩からどれ程の恩恵を受けているのか?何かが自分に不利であると思ったら、考えをすぐに改め、変える。この様では、以後あなた達は、衆生、仏菩薩、本尊に対する誓いを永遠に守ることはできない。守れないなら、あなた達はどうやって成就する望みを持つことができるのか。

リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた事を考えてみなさい。台湾は千万仏教徒と言われるが、なぜ天災や人の禍が多いのか?皆が誓いに違うことをするからだ。あなた達は皈依した時に「諸悪莫作、衆善奉行(諸々の悪を作すこと莫く、諸々の善を行う)」と言った。自分のために考えることは悪だ。全ての考えが人の為にあることこそが善だ。この数人は、いつも自分のことを考えている。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと、お金の面から彼らを罰した。それは、皆がお金を最も大切に考えるているからだ。自分の命よりも大切にする。だが、あなた達は知らない。お金はあなた達の命ではない。命はあなた達のお金ではない。

ある弟子の息子は、以前病気で沢山の医療費を使った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、内心から悪い習慣を改めなくてはいけないと彼を叱った。その前に、リンチェンドルジェ・リンポチェが初めて彼の息子に会いに行った時、どんな条件も言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが指名した者達は、帰宅してからよく考えなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと、彼らに信用があるかどうかを見ようとしたのだ。立っている者達は、お金をとても重視している。彼らよりも貧しい者だっている。彼らよりもお金持ちの人もいる。

先程、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に二つの話を皆に聞かせた。たとえ200万香港ドルであっても、リンチェンドルジェ・リンポチェは約束のために、家も事業もいらなかった。あなた達は物事の先を見通す力がなく、目前だけを見て、未来を見ない。道は非常に長いのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、今回は彼らを追い出すことはしない。彼らにはやはり施身法及び特別な法会に参加させる。だが、供養については、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取れない。彼らは皆、分別心、瞋恚、恨みをもって供養している。

今回、直貢チェツァン法王が閉関に行かれた時のようである。明らかにこんなにも多くの弟子がいて、こんなにも多くのお金持ちがいるのに、リンチェンドルジェ・リンポチェにだけ聞く。リンチェンドルジェ・リンポチェはお金持ちではない。直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェを弟子であると考えておられるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは福徳を作る機会をあなた達に与え、22万を取り出して偉大な修行者の閉関を護持した。この福徳は求めても得られないものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回皆の為に、この様なことをしている。ドラブ・ワン・リンポチェによって依頼された今回のディクンティ寺の大供養を含めて、大部分は皆のお金である。あなた達はまだ分別するのか?

ちょっと考えてみなさい。台湾において、45日間24時間お経を唱え続ける250名の出家者を探し出せるだろうか。このお金は天文学的な数字だ。あなた達は福の中に身を置きながら福を知らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がいい上師であるとは言えないが、お金とは仇だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの能力をもってすれば、毎月あなた達から沢山のお金を受け取ることは可能だ。命さえも救うことができるのだから。この数人は、自分の間違いがどこにあるのかをよく考えなさい。同じ間違いを繰り返してはならない。

現在、台湾はなぜこんなにも政治が混乱しているのか?それは、皆が約束を守らないからだ。言い終わったら構わない。だから、国は混乱を始める。以前もこんなに混乱していたのだろうか?以前の人は「君主は戯れ言を言わず」であった。現在、我々は全て祖先が我々に与えた教えに背いている。頂礼しているからと言って修行していると思ってはならない。小さな所はすぐに試される。価格があがり、元々考えたのとは違うからと、すぐに減らした。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達が考えていた数字で定価を付けたのではないが、CDを買ったことのある者なら、DVDはVCDよりも相当高いことを知っている。DVD一枚1000台湾ドルというのは高いのか?あなた達のような人のお金は他の人のお金よりも大きいのか。

この件について二つの教訓がある。一つ目、供養したら後悔してはならない。供養について、皆はゆっくりやっても構わない。二つ目、他人に約束した事を変更してはならない。まず最初に自分に能力があるかどうかを考える。能力がないなら承知してはならない。一旦承知したなら変えてはならない。どんな事があっても成し遂げなければならない。さもなくば、来世で返済しなければならない。今日、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェに借りを作っても構わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは覚えていないからだ。だが、衆生に借りを作ったなら彼らは覚えている。リンチェンドルジェ・リンポチェは女の霊を助けると言ったのに忘れてしまった。その結果、霊はずっと覚えていた。あなた達は一生で他人と約束したのに実行しなかったことがどれ位あるか?祖先を拝む時、約束したのに実行しなかったことがどれ位あるか?仏菩薩と約束したのに実行しなかったことがどれ位あるか?友人との付き合いで、約束したのに実行しなかったことがどれ位あるか?なぜ、あなた達の問題は益々多くなるのか?

立っている者の問題は少し多い。それは約束を守らなかったからだ。この一生で問題が多いのは、約束した事を守らないからだ。怨親者が借りを取り戻しにやって来る。ずっと改めないなら、もっと沢山の者が借りを取り戻しにやって来る。我々は一つの習慣を養わなければならない。実行できないことは承知しない。承知したら必ず実行する。リンチェンドルジェ・リンポチェがドラブ・ワン・リンポチェと約束したように、ドラブ・ワン・リンポチェがリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはいくらかを聞かずに頭を縦に振った。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは年老いたドラブ・ワン・リンポチェを心から信じていたからだ。絶対に、リンチェンドルジェ・リンポチェが実行できない事をリンチェンドルジェ・リンポチェにさせるような人ではない。

今日、彼らだけではない。皆も改めなければならない。小さな悪を犯しても問題ないと思ってはならない。小さな悪は徐々に累積されて習慣となり、直せなくなる。もう一度繰り返す。この世界は本当に混乱している。自分を改めようと断固たる決意をしなければ、皈依して念仏を唱えていても、この混乱の渦中に簡単に巻き込まれる。徹底的に改めなければならない。十善法を捨ててはならない。できる限り修し、できる限り行なうこと。できたのが少しでも確実なものとなる。あなた達は自ら進んで上師の説法を聞こうとし、仏の教えを聞き入れようとしている。絶対に問題はない。何かが起こっても必ず良い事だ。悪い事ではない。来週は叱られたから来ないと考えずに、皆来るように。もし、来ない人がいたら、以後はずっと来なくてよい。これらの名簿は保存しておき、彼らにDVDを買わせないように。道場は今後も彼らの護持は不要だ。繰り返し間違いを犯してはならない。人生で、あなた達に間違いを犯させる機会はあまりない。

懺悔とは、間違いを犯し、今後は二度と間違いを犯さないことこそが真の懺悔だ。もし、また間違いを犯したなら、それはただの謝罪であるだけだ。懺悔ではない。懺悔の力は非常に強い。リンチェンドルジェ・リンポチェと本尊の誓いの言葉は、虚空が存在するなら変わることはない。あなた達はこの様な誓いを発こすことができるだろうか?虚空がなくなることは不可能だ。承諾した事は必ず行なう。そんなに簡単にあなたの約束を変えてはならない。一度改めたなら、福徳は一度減る。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた達を処罰していると思ってはならない。密法を学ぶには、十分な福徳が必要だ。福徳がなければ学べない。福徳はどうやって来るのか。それは供養だ。供養はお金ではない。依教奉行(教法に従ってしっかり実践する)だ。仏が教えられた方法に基づいて仏法を学び修行をする事こそが真の供養であり、大供養となる。あなた達は帰宅するとすぐに、聴いてきた仏法を学ぶを忘れてしまう。だから、こんなにも沢山の面倒が起こるのだ。

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2014 年 07 月 27 日 更新