尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年12月29日

法会が始まる前、一人の弟子は妻と息子(皆皈依弟子である)を伴い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが息子に多くの貴重なる加持を与え、更に彼らに多くの貴重な仏法開示を与え、彼らが息子の病気で心配することなく、一家で安心して仏法を学習できることを感恩した。

先ず、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいつも法会において、大衆に向かい、丁寧に教え導く言葉である「上師に対する信心、恭敬心を持つように。上師はあなたの加持力に対して途切れることがない。」について分かち合いをした。彼は皈依してから半年近く経った後、息子身体の変化からこの言葉の真諦を悟った。

彼の息子は、去年(2012年)9月に急性リンパ白血病に罹った。当時、彼らは気が動転してどうしたら良いか分からなかった。そして選択肢もなく世の中で一般に行われている方法で、息子に化学療法を受けさせた。しかしながら、それは彼らが別の意味で悪夢の始まりだった。化学療法の過程にに於いて、息子は四回の細菌感染、人工血管の拒絶反応、肝機能指数の異常を経験し、それらの苦しみは息子の身体を更に弱らせた。去年10月に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの仏法開示があったが、彼らはすでに息子がこの病気に罹った因果を知っており、更に息子の病情は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの度重なる貴重な加持によって安定していたが、因果を信じることができない彼らは化学療法方式によって息子の体内の癌細胞が排除することに執着した。

彼と妻は、今年(2013年)6月2日に皈依した。しかし、当時の気持ちは、医療を主としていて、仏法は補助であった。息子の肝指数は、注射による化学療法薬剤が多くなるに従って高くなった。彼らの内心では、曾て化学療法を止めるか否かで非常に迷ったが、当時の彼らは信心が足りないので、いつも年長者の反対によって、自分を誤魔化し、因果の決定に背いたため、息子の身体には引き続き薬物の破壊がそのまま続けられた。

今年7月27日までずっと、彼らは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに息子が日本法会に参加できるように求めていた時、その過程で、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して不恭敬であったため、彼らに皈依させ、ただ加護を祈るだけで上師の面前に出させなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを非常に叱り、彼らの供養を拒否し、翌日の施身法法会の中でリンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。「まだ皈依していない信者または新しく皈依した弟子に対し、もしも施身法について疑うのなら、たとえ参加しても意味はない。もしも、ただ試してみるだけの気持ちで来たのなら、その後の修法もあなたと関係ない。」リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は頭ごなしに一喝したもので、彼らに皈依の目的を深く反省させた。

彼は懺悔の仏法テープの内容を繰り返し聞いた後、つまり因果を信じなければ化学療法薬物によって冤親債主に対抗することが続くことを悟り、それはリンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心がないからこのように不恭敬な行為をする。彼は過去半年間の息子の経過からの医療の辛さや将来二年間のリスクや未知の治療スケジュールを思い出した。そして、翌週の診察日、彼らは医師に化学療法を停止する決定を伝えた。

8月3日、彼らは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対して前回謁見した時の不恭敬な行為に対して懺悔し、彼らは化学療法を止める決定を報告すると、上師は化学療法が息子に与える心理的及び生理的な傷害を慈悲深く開示し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは既に化学療法によって息子の恐れを分かり、彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェに対してしっかりとした無比の信心、恭敬心と懺悔心が生まれた後、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、息子への加持力は、施身法法会及びネパール法会に於いて、息子の身体の変化には明らかな反応が表れるようになった。

彼は先ず、息子が施身法法会に参加した後の身体変化を紹介した。彼は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持によって、息子が機縁があり、6月初めに菜食を始め、法会に参加し皈依した事を感恩した。リンチェンドルジェ・リンポチェは曾て、もしも施身法法会後に病気をしたならば、それは良いことだ、それは借りを返しているのだと開示した。彼の息子は、6月30日及び7月28日に二回施身法法会に参加し、法会後の身体は何もなかったが、8月3日、彼らが上師に懺悔した後、息子は8月25日の施身法法会が終わった後、熱を出し、体温は38.5℃まで上がった。9月15日に「阿弥陀仏無遮大超度法会」に参加した後にはまた、38.8℃まで熱が出た。当時、息子が施身法法会に参加した後に発熱したのを見て、彼ら非常に喜び、心で借りを返済し始めたのだと思った。ただ、年長者は息子が熱を出しているのに、なぜ彼らは笑っているのか理解できなかった。

更には10月12日、息子の体温が平時の36.5℃から37.5℃まで上がった。前二回の経験から、彼らはすでに翌日10月13日の施身法法会後に38℃以上に熱が上がるだろうと心の準備をした。ちょうど、翌日施身法法会後に皈依が行われ、息子は正式に弟子になるのだった。不思議なことに、法会が終わって帰宅すると、息子の体温はすでに正常に戻っていて、その後、11月と12月の施身法法会の体温は正常だった。彼は彼らの懺悔前後及び息子が皈依した後、息子が施身法法会に参加した後の体温変化を説明することができなかったが、彼らはこれが金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対する信心、恭敬心と懺悔心が足りた後、福報によって上師の加持と庇護を受けることができることを信じた。

続いて、彼は息子がネパール法会に参加した後の身体変化を紹介した。今年のネパール法会で申込みが始まった時、当時は息子は信者の身分で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェについてネパール法会に参加した。前回に日本法会に参加を求めた時の穏やかさとは異なり、今回、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは数珠を弾きながら息子を約10秒間見た。そして厳しい表情で彼らに対して、息子がネパールへ行くのは非常に「大変」ではないか?彼らに家に帰ってよく考えるようにと言った。その時、彼は「大変」という二文字を聞いて、心ではすぐに連想したことがある。息子の病はまた再発のではないか?心で「大変」の二文字の言葉の意義に困惑した時,尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが何も反応しないのを見て、もう一度厳しい口調で彼らに「あなた方は大変がどういう意味か分かるか? 帰ってもう一度考えなさい!」と言った。

ネパール法会のスケジュールは8日間と非常に長く、彼らはこの期間に息子が病気をしたなら虚弱な身体は8日間のスケジュールに耐えられるのか想像できなかった。彼らは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが与えた加持と信心に感謝し、彼らは恭敬、何も求めない心を以ってリンチェンドルジェ・リンポチェに対してネパール法会に参加することを求めた。申込みの過程は紆余曲折で、最後は飛行機の貸し切り便の関係で、信者は参加できなくなった。しかし、幸運にも、彼の息子はこの時すでに皈依していたので、弟子の身分でネパール法会に参加できた。旅程の説明会に於いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはネパール法会に行く弟子は問題がないと開示した。そのとおり、彼の息子はネパール法会に参加している間、一回下痢したのを除いて、食べること、寝ること何も問題なく、温度変化の大きな環境下でも、仁欽林寺で行われた法会に最後まで参加し、歩いたり抱かれたりしながら大仏塔の回りを22周もした。

その他、彼の息子はネパールに行く前、食欲があまりなかった。元々、彼らは息子は現地の飲食は合わないのと旅の疲れから気力が落ちると考えていた。思いもよらず、帰ってくると、食欲は却って旺盛になり、一ヶ月以内に、体重は増加は先月増量分の倍以上となった。彼らは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持と加護に感恩した。今回のネパール法会に行く前、彼らは元々最悪の覚悟をしていた。しかし尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが最も助けを必要とする時に手を差し伸べてくれると信じ、彼らは変わらぬ信心と恭敬心を以って法会に参加した。結果、息子は8日間のスケジュールをスムーズにこなすことができただけでなく、帰った後の食欲と気色は更によくなった。

最後に彼は因縁福報によって累世の罪業を抱えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しながらその珍貴さがわからず、始めは貪嗔痴慢疑の本性で佛法を見なし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心、恭敬心と懺悔心が足りず、更には金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの多くの福德と体力による息子への加持を浪費したことを懺悔した。彼は今世に於いて、貪嗔痴によって犯した数々の悪業及び口腹の欲を満足させるために多くの衆生を傷つけたことを懺悔した。彼は自分勝手にも、育てる面倒を恐れ、医師が染色体異常の胎兒を堕胎させるのに同意し、許されない殺業を犯したことを懺悔した。

彼は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と加護によって、彼は息子の病気を心配することなく、家族全員で毎週、安心して共修法会に参加し、貴重なる仏法開示を聞くことができることに感恩した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは曾てこの世で一番にしなければならないことは、自分を改めることだと開示したことがある。仏法に触れてから、彼は、自己の悪しき習慣、悪しき性によって三悪道に堕ちる事を改めることはこんなにも困難なことだと体得した。ましてや輪廻を解脱することは言うに及ばない。彼は根本上師である尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの教えの下、教えに従ってしっかり実践し、自己の心と行為を改め、今生で成就を得られるように誓った。最後に、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が御健康で、法輪を常に転じられ、長くこの世に存在し、、仏法事業が興盛すること、直貢噶舉派の法脈が永遠に伝承されることを祈った。

続いて、他の弟子が母と妻を伴い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの彼ら一家への加護と加持に感恩し、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼ら家族全員を助けた経過を報告した。

彼と妻は、2011年9月11日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。母も一年後にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。今年になって、彼の母はずっと病気の痛みに苦しんだ。身体は良かったり悪かったりした。元の喘息の他に、心臓に依る病もあった。母が彼へ伝えた情報ではこの世にいる時間がどれほど残されているのかわからなかったので、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを供養することを決めた。

今年9月28日、リンチェンドルジェ・リンポチェが道場で信者を助けている時、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めに行った。母、妻と彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの面前で跪くと、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに何の用事かと尋ねた。母は「リンポチェに将来、私のためにポワ法を修めていただきたいとお願い申し上げます。」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼の母をしばらく見た。その時、彼の心中は心配でハラハラしていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェが「よろしい!そのようにしましょう。」と開示すると、彼の心は感謝でいっぱいになった。彼と家族は平凡で、輪廻の苦海の中で造ってきた多くの業を知らず、自身も輪廻解脱の能力がなかった。ただ今世で彼らは、大慈大悲の大修行者リンチェンドルジェ・リンポチェに出会うことができたので、その大威徳力の保護の下、輪廻苦海から解脱する機会を得ることができた。

彼は以前《雜阿含経》の中の《百槍経》で一則の輪迴の苦しみの比喩を読んだことがある。もしも、一人の人が、朝に100度刺され、昼に100度刺され、夜にもまた100度刺され、そのようにして一日に受けた苦しみが100年続いたなら、解脱することができ、それは非常に僥倖なことだ。この比喩では彼に輪廻の苦しみと解脱の稀有得難を少し体得させた。上師の大恩大徳に対して、彼は何の恩返しもせず、ただ恭敬心を持ち、教えに従ってしっかり実践し、言うことを良く聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェに対する感恩心を表現する。彼の母は、ポワ法を求めた時、喘息が非常に悪化し、顔色が黒かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び、漢方薬を飲んだことがあるか?と尋ねた。彼らは「ある。」と答えた。

彼と母が身体を起こし十数歩下がった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは突然に開示した。「息子よ、来なさい。」彼はすぐに前に進み出た。リンチェンドルジェ・リンポチェは一粒の珍貴なる甘露丸を与、それに息を吹きかけて加持し、彼に甘露丸を母に飲ませるように、自分で飲まないようにと言った。彼は、すぐに珍貴なる甘露丸を母に飲ませた。夜に、母がアキ護法を修めた時、くしゃみが出て気がスムーズになった。その後、身体は徐々に安定した。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持と加護にによって、母の病痛の苦しみが減ったことを非常に感恩した。

今年10月16日朝、彼がバイクでガソリンスタンドを通過する時、出勤で非常に急いでいたので、アクセルのスロットルを前に回した時、突然一台のバイクが右に向かってガソリンスタンドに進入してきた。彼はブレーキを掛けたが間に合わず、進入してきたバイクに衝突した。結果二人は倒れた。相手のバイクのライダーはすぐに身体を起こして彼の様子を見た。彼の方は、痛くて起き上がれなかった。ガソリンスタンドのスタッフは彼が痛くて起き上がれないのを見て、この人が起き上がれないのなら救急車を呼ばなければならないと言った。しかし、彼は「私は起き上がれます。少し休めば大丈夫です」と答えた。その後、痛みをこらえて会社へ行き、薬を塗った後、会社の同僚がすぐに病院へ行って診てもらったほうがいいと言ったので、彼は休暇を取って漢方医へ行った。

医師は左肩の地面にぶつかった箇所は身体の外枠にある上腕骨の頭部であり、ここは比較的衝撃に耐える力が強い。下側は上腕骨体であり、右側は鎖骨で、右下方は肋骨である。右上方は頭と顔である。もしもぶつかったところがこの方向から移動したなら、結果は考えるだけでも恐ろしい。ぶつかった箇所が上腕骨の頭部だったので傷が最小で済んだと言った。医師は更に彼が起こした事故の衝撃力から見て、ぶつかったのがその他の骨だったなら折れていただろう。もしも、顔面だったとしても非常に重症だったと言った。医師は四回も続けて「あなたは運がいい。」と言った。結果、左肩、左膝と身体の数カ所が擦り剥けただけだった。医師は冗談のように「あなたはすぐにお参りに行ったほうがいい」と言った。彼は医師に「私にはリンチェンドルジェ・リンポチェの助けがあります」と言った。これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加護と加持があったから、転重軽受だと彼はわかっていた。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの彼に対する加護と助けに感恩した。

思い出してみると、右肩には、左肩とほぼ対称位置に傷跡がある。その傷跡は、曾てランニングしていて転んだために、手術をして残った傷跡だ。それは4年余り前、ランニングで転んで右肩を強く打ち付けた。打ち付けた場所がちょうど右肩肩甲骨であったため、靭帯が切れてしまい、二回手術した。一回目は切れた靭帯を縫い合わせ、鋼板を入れて固定した。3ヶ月後にもう一度手術して固定した鋼板を取り出した。両肩の傷口位置は対称で十分に近いが、異なる点は事故の時地面に着いた角度と力が違う。今回の交通事故の力は4年前のランニングで転んだ力に遠く及ばないほど大きい。しかし、受けた傷は非常に軽く皮膚の傷だけしかなかった。医師は将来傷も残ることはないだろうと言った。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに非常に感恩した。

二度の衝撃の大きな差は4年余り前にはまだリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依していなかったので、上師の加護と加持がなかった。また、今回の交通事故は上師の加持があったから、転重軽受ができた。彼は人の命は非常に儚いものであることを体得した。起こる時は一瞬のことで、生か、障害か、死かに分かれる。正に紙一重であり、少しの誤りが大きな誤りになる。今回の交通事故で彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの加護と加持があったので、事故が起こったその時、恐怖や恐れはなかった。それと比較して4年余り前、右肩靭帯が切断した時の手術は麻酔が切れてから、身体は冷え、右肩が腫れて痛みに耐えられず、看護師が笑いながら喋っているのを聞いても、自分は話ができず、心は尽きた気持ちと孤独を感じ、非常に辛かった。

順境の時は頼ることは宝であることがわからない。しかし、逆境の時の差は大きい。紙一重の差、少しの誤りが大きな誤りになる。彼は、在場の信者と兄弟子に呼びかけた。逆境の時にはリンチェンドルジェ・リンポチェの「希勝珍寶」を覚えておくように。同時に彼は交通事故の初めの一時間の時、リンチェンドルジェ・リンポチェを思い出さなかった事を懺悔した。心の中に上師がいなければ、瀬戸際の時、役に立たない。彼はその果報を受けることを願い、以後は再び間違えない。

今年のラダック法会期間、尊勝なる直貢チェツァン法王が寶吉祥の弟子に接見した時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼を一瞥した。ラダックにおいて、リンチェンドルジェ・リンポチェが各ホテルを巡回した時、彼はどんな夢を見たか?と聞かれた。彼は会社の事で、リンチェンドルジェ・リンポチェに「つまり大事なのは仏を学ぶことなのか?それとも仕事なのか?」と叱られている夢を見たと答えた。仏を学ぶことを一番としなかったが、相変わらず世間の名誉や利益を貪る事に対して、彼は懺悔した。法会後、会社へ帰り、一週間出勤した時、彼の上司に突然、辞職するように言われた。その為、今新しい仕事を探している。彼は会社の立場になって考えれば、仮に彼の上司が仕事を離れたなら、問題が起こるし、乗り切ることはできない。自分は臨機応変にならなければならない。

何度も夜中に突然目が覚めた。職探しの事が精神を傷つけている。彼のような年齢になると、仕事も探しにくいし、新しい職場の環境に慣れなければならない。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの加護と教えによって、彼の心に拠り所あることを感恩した。命は無常であり、仕事も無常だ。彼は未だ完全に仕事の無常を受け入れられずにいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えが彼の心の中で続くすべての変化を受け入れる準備をしていた。一ヶ月余りの後、会社は通知を出し、彼の上司は一級上がったので、短期間的に彼の職探しのプレッシャーは一時的に解消された。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが与えたすべてと助けに感恩した。

彼は、意識の有無に関わらず無数の衆生を傷つけたことを懺悔した。過去に傷つけた衆生に対して自分とは関わりのないことと言う態度であり、食欲から無数の衆生の肉を食べたこと、遊びのために蟻やゴキブリ等衆生を殺したことを懺悔した。彼は返済を望み、果報を受け入れ、以後は間違いを犯さない。彼を傷つけた人に対して、彼は三十七頌中の恭敬頂礼をしないだけでなく、相手も許しなかった。もしかすると彼は傷つけられた時、まだ相手に対して攻撃する気持ちや仕返しをする心がなかったのかもしれない。しかし、達観したわけでも気持ちを振り切ったわけでもなく、相手が悪いことに出遭ったなら、彼にはまだ幸災楽禍の心があった。彼は懺悔し、果報を受け入れることを願い、同時に以後再び過ちを犯さない。

2011年、彼がまだ皈依しておらず、ただの信徒であった時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主法する阿彌陀佛無遮大超度法会に参加した。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは一度悲痛な嗚咽をし、ほとんど言葉にならなかった時、彼の心中には悪念が込み上げ、懐疑の心が起こり、「本心なのか?」と思った。彼は傲慢な思いをリンチェンドルジェ・リンポチェに対して疑ったことに彼は懺悔した。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの広く大きい悲願と自らの言行で教え導くことを更に理解し、自己の悪念に対して強く懺悔した。

リンチェンドルジェ・リンポチェの法性が虛空くまなく行き渡り、彼には逃げる場所はなく、ただ降伏という一筋の道を歩くだけであり、その他の道はなく、ただ向かい合い、懺悔し、果報を受け入れることを願い、以後同じ過ちを繰り返さないことを彼は知った。彼は佛法を学ぶ過程で体得したこと、またはまだ人がやっていないことを完成したこと、他に他人の彼への賞賛に対して、いい気になって得意な心を持ち、傲慢になったこと、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生と他の人を助けて成就した時、「功徳に隨喜する」の心を持たなかったことを懺悔した。彼は傲慢な心と功徳に隨喜しないことに懺悔し、果報を受け入れ、以後は同じ過ちを繰り返さない。

今年11月30日、尊勝なる直貢チェツァン法王は、台北寶吉祥佛法センターに自らお出でになられた。彼は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王を仏のように対しているのを見て、非常に感動し、彼の上師に対する態度を恥じ、恭敬心がないことを恥じ、上師が与えた一切の言教身教を重視せず、つまりは適当にお茶を濁していたことを恥じ、懺悔した。最後に彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康と、法輪が常に転じられ、仏法事業が隆盛であり、直貢噶舉の幟が四海にはためき、無量無辺法界の衆生を利益することを祈願した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、殊勝なるプルパ金剛法会を自ら主法し、出席大衆に珍貴なる仏法を与え、開示した。

今日は、プルパ金剛を修める。仏法で大まかに二つに分けることができる。それは顯教と密教である。「顯」は、明らか、はっきりと言う意味なので、顯教は即ちすべて仏が説く経典に基づき、修行の根拠とする。顯教と密教は大きな差があるか?そのうちの差には発心があり、顯教は真の仏法であり、密教は違うと言うことではなく、その種の観念は間違っている。しかし、密法を学ぶには、その前に、必ずしっかりとした顕教の基礎が必要であり、それは仏が説くところの修行宗旨と仏法の真の意義に対して正確な観念がある。簡単に言うと、もしも仏法を学ぶのは生死解脱のためではないのなら、在家もしくは出家に関わらず、もしもただ名聞利養等々のためならば、それは正確な観念ではない。

顕教の基礎があって初めて密法を伝えることができる。チベット仏教の中で、直貢噶舉を例にとると、密法を学習する前には必ず10年の顯教の基礎を必要とし、それで初めて密法を伝えられる。密法は四つの部分に分けることができ、顯教と最も異なる点は発心である。多くの人は自分は発心があると言うが、それは信徒を伴い読経や拝懺するのではなく、もしくは彼らに読経させることではない。それはただの助縁であり、衆生と仏菩薩の縁を結ぶことを助ける。いわゆる発心には慈悲心を発させなければならず、慈悲心を発させた後、慈悲のパワーが現れ、自分を済度ができ、そして衆生を済度できる。自分を済度するのになぜ慈悲心が必要なのか?仏經にははっきりと示しているが、一人の行者が成就する時、腹の虫も済度を得られる。

古代「細菌」という名詞で解説することができなかった。現代では皆、我々の腸の中には多くの細菌がいて消化を助けていることを知っている。《寶積経》中にはっきりと説いているが、人が生まれる時、眉毛、まつげ、首には寄生虫がいて、現代医学でもそれは証明されている。だから、仏が見たものは迷信ではなく、現代科学よりよっぽど科学的である。我々の現在のこの身体はただの業報身だけ、累世の善行と悪行から得た身体であるが、その身体の表面には、多くの衆生がいてその身体を頼って生きている。あなたの身体だけではないのである。あなたは自分が暮らしていると思っているが、それはただの意識の感覚である。医学的にすでに証明されているが、各人の皮膚には細菌が寄生して、あなたが七日間身体を洗わないだけで、皮膚は炎症を起こす。それは細菌が繁殖を始めた事を表す。

密法において、ヨガと無上ヨガ部の閉関した時、洗髪を禁止し、入浴も禁止し、髪を切ることも禁止する。初めの頃、リンチェンドルジェ・リンポチェはその中に含まれる意味を理解していなかった。なぜなら、尊勝なる直貢チェツァン法王が伝法する時解説しないからである。ただ言い終えたらあなたに自分で修めさせるだけである。リンチェンドルジェ・リンポチェのように一日中説いたりしない。直貢チェツァン法王はなぜ閉関者が入浴してはいけないか開示しない。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは大雪山で三ヶ月余り閉関し、その期間、一度も入浴しなかったし、洗髪もしなかったが、出てきた時身体に臭いはなく皮膚も炎症を起こさず、痒くもなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関から出て10日後、ある台湾の信徒がそこへやって来た。心ある者だ。その地はミラレバ尊者が閉関した聖地であり、その年の尊者は全てネパールの地区で閉関修行し、標高4500メートルのところにいた。その台湾信徒はあちらこちらで聞き回った後、リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関した場所を突き止め、どうやって入りこんだのか分からない。もしかすると、台湾でもう一人のリンチェンドルジェ・リンポチェが生まれるかもしれない、彼がその次のリンポチェだと考えたかもしれない。結果、彼が閉関して七日後に出てくると、全身が痒くなっていた。道理からすると、当地では皮膚が痒くなるはずがない。なぜなら、その地の気候は非常に乾燥していて標高4500メートルの高さなのだから、多くの細菌は生きていけない。更になぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは痒くならなかったのに、彼はなったのか?それは非常に奇怪なことだ。まさかリンチェンドルジェ・リンポチェの皮膚は良くて生まれつき丈夫なのか?

最後に、リンチェンドルジェ・リンポチェが見たニュースに依ると、もしも入浴しなければ、七日間で皮膚は絶対に炎症を起こすという。それらからリンチェンドルジェ・リンポチェは入浴できないと言うのは、行者に慈悲心があるかどうか、自分のために閉関してるか?それとも衆生のために閉しているか?を見るためであることを悟った。もしも、衆生のために閉関したのなら、自然に身体のすべてが済度される。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェに自分は衆生を済度したいという人がいると、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人に「自分が済度されていないのに、どうして衆生を済度できるのか?」言う。彼らは往々にしてリンチェンドルジェ・リンポチェが言う意味がわからない。それはどういう意味なのか?あなたは自分の身体の衆生すら済度していないのに、誰を済度しようというのか?

仏法は認証を経ているもので、あなた方が試験で手にした証書よりもずっと有用である。如何なる証書も偽造できるが、仏法を学んだある境界はごまかすことはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは三ヶ月入浴しなかったことは証人がいるし、証拠もある。なぜなら、閉関の時の門は逆鍵で、門の鍵は房の外にあり、房の中にない。だからたとえ死んでも中で死ぬだけである。だから、もしも自分の身体の中のもの、お腹の中の虫や皮膚の上の細菌すらも済度できないのに、何を根拠に人に衆生を済度したい等と言うのか?どうやって済度するというのだ?

慈悲心を修めない者は、自分の問題も当然済度できない。なぜ、必ず慈悲を学び、慈悲を修めるのか?なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方にこんなに多くを教え、一日中叱るのか?なぜなら、もし叱らなければ、あなた方の我執が余りに重く、誰も自分は仏を修め、仏を学んでいると思っている。その私というのは偽物であることを知らなければならない。この身体はただの業報身である。そのことから分かるように、経典で説く一切は皆正しく、嘘が無い。あなたができないからと言って、仏が嘘つきであることにはならないし、あなた自身ができないだけなのだ。

もしも、密法を学びたいのなら、発心は非常に重要である。それは慈悲心でもある。密法を学ぶ人は、更に空性方面に於いて体得し、悟りを開く。慈悲心のパワーが出て、特に大悲心が出てくると、菩提心を発することができる。菩提心を発するようになると、上師は続けて伝法できる。密法において、衆生を助けるためには永久不変ではいけない。なぜなら衆生の業と根器はそれぞれ異なるからで、同じ薬ですべての衆生を治せない。拠って、仏は八萬四千個の法門があると言う。それは衆生には少なくとも八萬四千種の煩悩がある事を表し、各煩悩に対して仏には対治する方法がある。

まとめると、密法に依る衆生への助けは、四つの部分「息」、「懷」、「增」、「誅」に分けられる。息法は、累世の冤親債主があなたに対する恨みと情を鎮める。情も良いことではなく、ある人があなたを愛してもそれを得したと思ってはいけない。非常に愛する。骨まで愛するとはどのような意味なのか?皮と肉を突き抜けてやっと骨にたどり着く。だから余り賢くない人が、骨まで愛すると言われたなら、それは死ねと言われたと思うだろう。人がもし、肉がなく、血もなければどうやって生きるというのか?それはあなたを食べたということを意味する。だから、昔の人が書くものは非常に面白い。

息法の中は息災が含まれる。もしも、災難があった時、常に息法を修めれば息災となる。その他、衆生の傲慢な心等種々の業障を落ち着かせることもできる。顯教において、通常修めるのは息法であり、人に読経を教えたり、仏を拝む等々は、息法の事業部である。息、懷、增、誅の中の各法は事部、行部、ヨガ部と無上ヨガ部に分けられる。行部が指すのは行動であり、それは千手観音には手が千本ある事を指すのではなく、それは行為が菩薩のようであることを指し、それはつまり慈悲である。慈悲とは何か?人を叱らないのが慈悲なのではなく、相手が悪事をしても彼に良くすることではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは、以前に慈悲について多くの説明を開示したことがあるので、今日はその説明はしない。

事、行、ヨガと無上ヨガのこれら数部から言うと、事部はどの法の中にもある。あなた方は、息法はわりと理解している。例えば觀世音菩薩を修めるのは息法である。もしも息法を使っても、仏を学ぶことに対し、衆生の業が彼らに継続に妨げ、止められないが、おそらく懷法を修めることならできる。「懷」は懐柔の意味で、冤親債主のような嗔恨の心を穏やかにして心を沈めてあなたの勧告を聞く。如何なるリンポチェでも、仮に懷法がわからなければ、仏法を弘めることは困難であり、あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェはいつでも叱っている思わないでほしい。その実、ずっとしかり続けることもずっと懐柔することであり、多くの人は叱ることは法門の一つにすぎないことがわからない。懐法は、基本的に伝授しない。なぜなら、この法が正しく使われたなら多くの衆生を利益するが、使い方が正しくなく、自分のためという私欲の気持ちが少しでもあって修めれば、非常に重い後遺症が起こる。

皆も考えてほしい。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが懷法を修めることによって人に自分を好きにさせようとしたなら、それは終わりではないか?以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは懷法を修めるのを成就した時、懐法のすごさを試したことがある。これは以前、開示したことがあるので今日は少し話す。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは空港で飛行機を待っていた。懐法は人に影響をあたえることができることを知っていたので、試してみることにした。ちょうど、向かいに女性が頭を下げて本を読んでいた。男性でも良いはずだが、後から皆はなぜ男性ではいけなかったかがわかる。リンチェンドルジェ・リンポチェは少しばかりの懷法の咒語を唱え、彼女を加持し、また彼女に頭を上げてリンチェンドルジェ・リンポチェに向かって笑いかけるようにした。結局唱えた後、彼女は頭を上げてリンチェンドルジェ・リンポチェに笑いかけた。笑った後、彼女は自分がなぜ人に向かって笑ったのかわからないという目つきを明らかにして見せた。そして、再び頭を下げて本を読み始めた。なぜ男性を選ばなかったのか?なぜなら、もしリンチェンドルジェ・リンポチェに対して笑いかけたのが男性なら、周りの人は恐怖を感じただろう。

その他に一二度したことがある。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの性格はいたずら好きだから。その実、懐法はこのように用いてはいけない。これはただ懐法の威力を見ただけで、相手の心を変化させるのが、即ち懐法である。リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して十数年の弟子ならば、リンチェンドルジェ・リンポチェが今まで一度も懐法を修めていないことを知っている。ただ、こっそりと弟子を助ける時だけ懐法を修める。しかし、公には修めない。なぜならこの種の法はあなた方の欲望を満足させることができない。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが懐法を修めること知ったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは忙しくなってしまう。台湾のテレビ局は数が多い。一日中、あの人、この人が尋ねて来て、リンチェンドルジェ・リンポチェを忙しくさせることだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェの亡父が道教を修めた時、和合符があったが、一度も使わなかった。もしも、別れた人がいたなら、その符を書いて相手に食べさせると、必ずよくなった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは父を訪ねて来た人を何度も見たが父はその符をいつも使わなかった。更に「縁が尽きたのに、この事をしても意味がない」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェもこの世の男女に勧めるのは、縁が尽きたらそれまでなのだから、お願いに来てはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは心が弱くはない。たとえ、あなたがワンワン泣いて自殺すると言っても、大丈夫。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを済度できるから。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェを脅そうとしてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは済度できるのだから、あなたの恐喝を恐がらない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、今まで懐法を使っていない。しかし、教派、仏法に関係する時には修めている。なぜなら、これは秘密の法だから。秘密は神秘ということを指すのではなく、衆生の欲望が重いため、間違って使って逆の結果になることを恐れるため、使わないのだ。かつてある人はテレビで懐法を公開していたが、それは良くないことだ。

その他に増法がある。増法は財宝や権力や勢力を増やす。この種の法は通常、真に修行が必要でありながら、資糧が足りない人を対象にする。この世で一日生きるには、必ず食べる事と、資糧が必要である。チベット仏教において、通常行者がまもなく閉関に行くという時、その人に代わって増法を修め、,彼が食べるのに困らないよう彼を供養する。国王が仏法を国を治めているのならば、彼が良く統治できるよういくらかの助けをする必要があるが、増法を修めることは非常に少ないし、普通は修めない。なぜなら、現在世の中で増法を得ることができるほどの福報がある人は僅かしかいないから。

続いて次は誅法について話す。「誅」は殺すという意味である。多くの人は、なぜ密宗に殺しの方法があるのか理解できないが、その実、それは深い誤解である。仏には四摂法があり、四種の衆生を摂受する方法であり、そのうちの一つが「同事」である。それは共に働く同僚と言う意味ではなく、相手と共に同じことをする、つまり彼と同類と言うことであり、彼はあなたが何なのかを知っている。例を挙げると、《普門品》の中で非常にはっきりと説いている。あなたが長者なら、観音菩薩も長者になってあなたを済度する。あなたが出家衆ならば観音菩薩も出家衆となる。あなたが居士ならば、観音菩薩も居士となってあなたを済度する。

中国仏法には、焦面大士がいる。つまり観音菩薩が特に鬼道衆生を済度する化身である。様子は非常に荒々しく、怒り狂っている。なぜ、そのような形相になるのか?なぜなら、地獄には姿がいい衆生はいない。もしも、中国の美人である西施に化身したならどうやって済度すればよいか?彼らが化け物だと思い、美しくないと思うから、彼らの様子から彼らを済度しようと思うのだ。

誅法の使い意味はどうだろうか?つまり、衆生の業が非常に重く、如何なる方法を用いても彼を諭すことができず、彼を改心させることができないなら、彼の累世の業を殺す。これには幾つかの定義がある。もしもその人に身体があるのなら、その身体を殺す。そうすると彼が中陰の身になれば彼は自分の過ちを知ることができる。しかし、この種の法門を修める行者は、仮に済度する能力がなければ修めることはできない。彼を済度することができなければ、彼を殺す。あなたが彼を殺しても彼の問題を解決できないと彼は思うだろう。「殺」はただのひとつに名詞にすぎないが、内心は慈悲であり、だから先ほどのように開示した。慈悲心がなければ密法を学べない。

その実、これは彼にとって良いことだ。簡単に言うと、ちょうど父母が子どもを叩いたり、詰ったりするのは彼のためである。子どもを殺す父母はいるが、それは非常に少ない。もしも、子供を諭す時、飴を上げても聞かないなら、服を買ってやると言い、それでも聞かなれば、お金をやり、それでも聞かなければ最後はどうする?往復びんたを食らわす。それはつまり「誅」を用い、子供に聞かせようとしている。非常に大きなパワーであなたが調伏できない心を押さえ込む。それが誅法である。一般人は誅法を修めることはできない。慈悲心がなければ、それは逆効果になる。

ある日、尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェとインドに一人のチベットのヨガ行者がいたことについて話をした。彼はもっぱら人に誅法を修めてやっていた。何かというと修める。最後に彼には多くの問題が発生した。彼の法は確かに素晴らしかったが、それはただ問題を解決しただけで済度をしなかったのがいけなかったのだ。簡単に言うと、仮にある人に大きな問題があり、誅法を修めて問題を解決した。しかし、基本的には修めない。しかし、今日になってリンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ誅法を修めるのか?あなた方のためにその仏法を聞かない、勧告を聞かない、累世の冤親債主によって学仏を邪魔する心を降伏させるためだ。なぜなら皆は一年経ち、多少起心動念が起こるのは業のせいであり、罪のせいだ。だから皆のためにこの法を修める。

誅法を修める前に、上師自身はまず、閉関し、本尊と共に相応する。相応とは何か?つまり、本尊が真にやってくるということである。もしも金剛部の本尊がやって来たら、声が非常に大きいので、すべての家は揺れ、雷が鳴るといった現象も起こるだろう。もしもこの程度まで修めることができないのなら、この法で衆生を利益することはできない。金剛乘の如何なる上師も先ず自らを修め、自分で法を修めて成就してから始めて衆生を助けて修法できる。確かに現在、多くの教派では誅法を伝えるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは伝えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは誅法の重要性と殊勝をはっきりとわかっているが、誅法の副作用もよく理解している。つまり、もしも修法する人の心が正しくなければ、誅法を学べば反対にその人を傷付ける。だから息法が最も安全である。

大根器ではない人は、懐法、増法と誅法を学ぶことができない。多くの人は、金剛部を学べれば素晴らしいと思い、そうすれば天下無敵になれると思っているが、実はそうではない。そのような観念だと、誅法があなたを傷つけ、あなたの観念は衆生を利益するべきだ。誅法の中に「迴遮」の部分がある。もしも、ある人があなたを傷つけたなら、誅法を修めれば彼のパワーはブーメランのように返っていく。しかし、基本的にリンチェンドルジェ・リンポチェはこれを修めない。なぜなら、あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェがこの法を修めることを必要とするほど重要ではないから。このように言うと申し訳ないが、あなた方は全世界に影響を与える人ではない。だからこの法を修める必要がないのだ。もしも、仏法または教派が傷つけられてリンチェンドルジェ・リンポチェが修められるのなら、通常修めない。あなた方は毎日楽器を叩くことが誅法を修めることだと思ってはいけない。真実は修めないのだ。

本日、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆のためプルパ金剛を修めるのは、来年が2014年で旧暦で言うと、甲午年であり、それは新しい変化の一年であり、軋轢の多い一年となる。中国人として見ると、それは六十年の始まりの年でもある。良い事は更に良くなり、悪いことは更に悪くなる。だから来年は淘汰が激しい一年となる。もしも、皆が過去数年の中で、身、口、意が慈悲を修めていないのなら、来年は何か発生するかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェが皆のためプルパ金剛を修めるのは、皆を保護するのではなく、法を修めた後、元々あなたが学仏への障害が減り、もしかすると無くなることもある。重要なのは、如何なる悪もしてはならず、もう一度、如何なる悪でも行えば、お終いである。

台湾で密法を学ぶ多くの人は、自分で金剛部を修めれば本尊が見えると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもあなた方に開示する。もしも、あなた自身が空性の慈悲心、菩提心を証していないのに、仮に本当に金剛部の本尊を見たなら、驚いて死んでしまうだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは本尊を見ても恐れない。なぜなら本尊が慈悲心であることをはっきりとわかり、なぜ、それを修めるのかはっきりとわかっているから。しかし、業障が重い人が本尊を見ると怖がり、恐れると、本尊はあなたが業障が重い事がわかった以上、来世でやり直せ!と考える。今世は生きる必要が無いとも考える。だから、急いで本尊を見てはいけないし、そのように思ってもいけない。あなたの心と本尊の心が同じであれば、自然とあなたは本尊の存在を感じる。もしも、あなたと本尊の心が一致しなければ、それは欲望の心であり、本尊にどれだけお願いしてもあなたに姿を見せない。今日、たとえ鬼神でもあなたの心と本尊の心は同じでなければならず、それはいわゆる縁があるということで、さもなければ本尊らは隠れてしまう。

なぜ、台湾の多くの宮廟のタンキーは、皆リンチェンドルジェ・リンポチェを知っているのか?なぜなら、現在多くの神明は皆リンチェンドルジェ・リンポチェを知っているので、テレビに出演したり、新聞に広告を出したりする必要がなく、虚空でも皆知っている。なぜ、虚空では皆知っているのか?なぜなら、行者の慈悲の心が表れると、慈悲のパワーが虚空に広く行き渡る。これは仏法で言うところのもので、だから神明は皆知っている。今日、プルパ金剛を修めるのは、特に今後機会があって、金剛乗を学ぶ弟子に道を開くためであり、あなたの障害を減らして降伏させる。

プルパ金剛は、タントラの中で「金剛手」と言い、金剛薩埵の忿怒尊である。金剛薩埵は、顯教では修めず、金剛部では必ず修める本尊である。金剛薩埵がないのは、密法を学びきれていないからである。通常、すべての菩薩には忿怒尊があるが、釈迦牟尼仏はない。なぜなら、すでに成仏していて必要なく、その種の問題がないから。観音菩薩と普賢菩薩を含むすべては忿怒尊である。なぜなら、寂靜尊は善根に対して比較的良い衆生だからであり、もしも善根が足りなければ、忿怒相が現れる。忿怒相が現れるわけは怒っているからではない。もしも仏菩薩が怒ったなら、それは仏菩薩なのだろうか?忿怒相が現れるのは、彼と同類だからであり、もしも相手が凶暴なら更に凶暴になり、相手を怖がらせる。

ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェが日本に行った時、広告を目にし、ある神の名前を二度唱えた。結果、夜中にその神がリンチェンドルジェ・リンポチェのところにやってきた。ドアの前に立って入ってこれない。なぜなら、護法があるので、絶対に入れない。その神の様子は日本の能劇に出て来る鬼よりも更に獰猛で醜かった。その神がずっとドアに立っているので、リンチェンドルジェ・リンポチェは眠れない。その時、畳の上で寝ていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がプルパ金剛に成ると観想し、それから,頭をゆっくりと動かしてみると、その神は一目見てすぐに立ち去った。なぜなら、この尊は自分よりも大きいことがわかったから。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修めた時、その神は多くの鬼道衆生を連れてきて済度を受けさせた。その神がリンチェンドルジェ・リンポチェのところへやって来たのはリンチェンドルジェ・リンポチェを傷つけるつもりではなく、ただ修行者を見るだけだったのだろう。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは寝なければならないので邪魔してはいけない。もしかすると、その神はリンチェンドルジェ・リンポチェの護法になりたかったのかもしれない。

プルパ金剛は、金剛薩埵の忿怒尊であり、阿弥陀仏、大勢至菩薩、文殊菩薩、金剛手菩薩と大威德金剛「意」の代表でもある。今日はこの本尊を修める。なぜなら阿弥陀仏の意は衆生を浄土へ送ることを望んでいるので、皆も間接的に阿弥陀仏と非常に深い縁を結んでいる。大勢至菩薩、文殊菩薩と金剛手菩薩はすべて八大菩薩の中にあり、衆生が仏法を学ぶのを助ける。だから、本日修法後、これらの菩薩もやって来てあなたが修行するを助ける。大威德金剛は、我々の仏法を学ぶ障害を打ち破る。意を代表するものとして、指すのはプルパ金剛の意とこの幾つかの菩薩の意はすべて同じである。蓮花生大士は、ネパールで閉関した時、プルパ金剛で一切の干渉を消し去り、大円満の成就を得た。そのため、プルパ金剛も仏事業すべての本体である。もしも、プルパ金剛がなければ、金剛乘を修めても修められない。

仏事業の本体とは何か?いわゆる仏の事業は衆生が生死解脱、成仏するのを助ける。それが事業の本体である。だから、もし健康のため等々を願うのなら、それは仏の事業ではなく、外道である。なぜ、仏法を学ぶと身体がだんだん良くなるのか?なぜなら、悪が止まり、善が蓄積するからで、当然変化する。蓮師は曾て開示した。プルパ金剛を修めた行者はすべて吉祥、徳が備わる(功徳と道徳が備わる)、長寿、富有、眷衆円満(弟子が多い)、政教発達、威力無窮、永遠に円満となる。

皆、この話を聞くと、引かれることだろう。しかし、プルパ金剛を修めるのは非常に辛いことであり、あなた方が想像できないほどの苦労がある。なぜなら、あなたの心は清浄ではないので、この種の金剛法を修めたいと思っても修められないのだ。だから、法本中には特に「行者」と提示している。なぜなら、修行において、成就があり、プルパ金剛を修めてやっと役に立つ。つまりこれは副産品であるが、これは自然にあるもので、要求するものではなく、成就を修めれば、それらは現れる。

プルパ金剛には多くの法門がある。本日修めるのは「プルパ金剛祕密無上了義如意寶灌頂」である。「無上了義」とは、この法を修めれば、必ず今生で生死解脱できることを指す。この法本は伏藏大師の惹那林巴が取り出した岩藏大法であるが、皆は伏藏大師についてよくわからないと思う。そこでここでリンチェンドルジェ・リンポチェが少し説明する。釈迦牟尼仏が涅槃に行った後、蓮師がチベットから離れた後、多くの法本は人里にはなく、すべて山の洞窟、水の中、樹林の中、他には虚空、空行母の手に隠された。以前、伏藏大師は一生の中でもっぱらこの種の法本を探してた。通常、この種の法本はすべて直接本尊が伝えた法であり、それはちょうどポワ法が阿弥陀仏が直接伝えた法というのと同じで、伏藏法に属し、一般経典で説くものではない。

本日修めるところのプルパ金剛法門は、直貢噶舉第二十九代法王である直貢卻吉嘉稱法王がまとめたものである。プルパ金剛は、金剛乘行者がすべての障礙を消して発願するための本尊で、行者がどのような本尊を修めてもよい。仮にプルパ金剛を護法としてもよく、如何なる挫折もせず、一切の魔王、鬼魅を降伏させることができる特殊な法力である。だから、金剛乘を修めるのなら、必ずプルパ金剛を修めなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがその後閉関した時に順調で、挫折がなかったのは、プルパ金剛のお陰である。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは、知らずに、ただひたすらにプルパ金剛に願をかけていたが、その後、願がかなって、こういうことだったのかとやっとわかった。それはつまり、リンチェンドルジェ・リンポチェは前世から連れてきていたのだ。

プルパ金剛法会に参加する利益は以下のとおりである

第一に、精神、情緒及び脳の疾病を取り除くことができる。だから、あなた方は法会に参加した後、もしもリンチェンドルジェ・リンポチェのところへやって来て、うつ病等に罹ったと言ったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを追い出すことだろう。法会はその方面に利益があるのに、あなたは問題が発生したというのは、あなたに問題があり、あなたが信じていないということだ。

第二に、如何なる鬼怪龍神が引き起こす無名病及び癌を取り除くことができる。癌は良くなることできるか?まだ化学療法、電気療法等々をする前ならば、できるだろう。しかし、これらをしていたなら難しい。唱えればそれでよいか?そうではない。プルパ金剛を修めるのはそんなに簡単ではなく、福報がなく、供養がないのなら、この種の法に願いをかけても得られない。

第三に、年衝、月衝、日衝及び時衝等その時期でない事故や死亡を避けることができる。仏経にしめすとおり、我々人には日衝(毎日、衝の位置になる時がある)、月衝(毎月衝の位置になる時がある)及び年衝があるので、時辰、毎日、毎年等に衝の位置を形成する。これは迷信ではなく、事実である。我々は地球で生活しているが、地球は宇宙の中の単一の星ではなく、月の移動と太陽の様々な変化は我々に対して衝の位置を形成し、衝が多いか少ないかの問題なのである。

第四に、星座が変化して引き起こす水、火、地震等天災を避けることができる。先ほども開示したとおり、星の変動は、地球の水、火、地震等天災を引き起こす。避けるという意味は、たとえ地震があって、他の人に何かがあってもあなたには何も起こらないと言うことである。

第五に、人から毒を盛られたり、呪文で傷つけられるのを防ぐことができる。もしもプルパ金剛及び法会を信じるのなら、その種の事は起こらない。

第六に、累世の業障を消すことができる。業はただ悪業だけを指すのではなく、善の業も我々が学仏法に障害となる。あなたの今世が仮に非常に良く、大変な金持ちであれば、あなたに修行させるのは絶対に不可能なことである。だから、業障は悪いことと、定義してはならないし、または悪業こそ業障と思ってはいけない。その実、善業は反対に恐れなければならない。悪業があるなら、あなたはしっかりと修めなければならないことが分かるだろう。しかし、現在のあなたがすべて良かったなら、勉強もよくできて、あなたを追いかける男性がいて、両親はあなたを愛してくれるなら、あなたは修めるだろうか?あなたは自分は何も問題がないと思うだろう。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェの面前で跪き、自分は何も問題ないと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに言う。仏が何も無いのなら、彼らは成仏するのか?

多くの人は、自分は何事もないと言うが、あなたにも必ず何事かはある。どんなことか?人は皆八種の苦がある。生、老、病、死、愛別離、怨憎会、求不得、五陰盛苦である。誰にも生、老、病、死は必ず起こる。愛別離もまた必ず起こる。怨憎會はつまり、あなたが嫌いな人は一日中、ずっといる。求不得は、ちょうどあなた方が一日中仏菩薩を拝んでも得ることはできないということだ。なぜ得られないのか?なぜなら、それはあなたの業であり、あなたの事だから。あなたが仏菩薩にあなたを加持して、あなたの修行方面の障害が減るように加持を求めたなら、得られるだろう。

あなた方は、仏経には娘を求め、息子を求める事ができると書いてあると言う。確かにある。《普門品》の中には記載されている。しかし、あなた方は、仏経の中に書いてある通りに日々を過ごす事ができるのか?できないのだから、求めても得られない。多くの人は、試験前に、リンチェンドルジェ・リンポチェのところへやって来て加持を求める。リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に加持しない。もしも、弟子ならば、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が何年もよく勉強し、可哀想に思ったなら了解するだろう。もしも、弟子でないのなら絶対に助けない。なぜなら、他の人も真面目に勉強してきたのだから。他に、有るところに両足を設置している。そこでは「兩足尊」と称し、信徒が拝んだなら、試験に合格すると言う。それはまったくのデタラメだ。心付けをもらうために仏法を歪曲している。

実のところ、「兩足尊」は、両足のことを指すのではない。彼らはまったく発明家だ。真実は、十分な智慧と福報があり、満ちいている、欠けがないこと指す。「尊」は尊重ではなく、そのような物が備わっているので、自然と尊貴なる外相、内相が現れ、特に尊さを人に見せる必要がない。なぜなら彼の智慧と福報はすべて満ち、足りているから。

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、両手を胸の前で交差させている信徒を叱責し、彼女にそのようにしてはいけない、それは相手を尊重していないことになると言った。彼女がもしも、つまらないと思うならば立ち上がって席を離れればよい。聞きたくないのなら離れて良い。特に今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めるのは誅法なので、彼女の表情は、自分に対して良くない。彼女の姿勢は、心理学で言うところの自分を守っていることで、リンチェンドルジェ・リンポチェが説くことは彼女と関係ないと考えている。更におそらくつまらないと思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェがまだ開示を続け、なぜ未だ修法しないのかと思っている。

自分は入ってきて座れば何でもあると彼女は思っている。弟子達がこの法会のために事前に、どれだけの準備しているか知っているか?ここから見て、彼女は少し身勝手な人に見える。リンチェンドルジェ・リンポチェは細かい点から人を見るが、彼女はあくまで前に座りたがる。もしも、後ろに座ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに見てもらえないから。リンチェンドルジェ・リンポチェは、他の人と違う。あなた方が法会に参加してもしも恭敬心が無いのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずあなた方に言う。あなたは来ただけで偉いと思ってはいけない。たとえあなたがお金を出しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは返金するし、あなた方がお金を出さなかったのなら、尚更偉いと思ってはいけないのだ。

三寶に対して不恭敬だと、自然と不恭敬な姿勢になる。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方に法会に参加したら、あなた方に1000万上げる。しかし、決して不恭敬ではいけないと言ったなら、彼女は参加する勇気があるだろうか?なぜ、今、彼女はあのような態度ができるのだろうか?なぜなら、彼女はまだ彼女の事を話していないし、早く修法したいと思っている。そして彼女は時間に追われている。リンチェンドルジェ・リンポチェはため息を付いて言った。「末法時代の衆生は済度が難しい。わざと自分で業障を重くしながら、この時代を生きている。もっと早くにわかったなら来なかった」。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、元々来たくなかった。当時、母のお腹の中で11ヶ月待っていた。昔は陣痛促進注射もないし、帝王切開出産もない。ただ中で隠れているだけだ。結果、母のお腹から無理やり出されてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に来たくなかった。現在なぜ、来たくないと思ったのかわかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、4歳になるまでよく痙攣を起こしたし、身体全体が引きつけを起こして息ができなくなって死にそうになった。結果いつも母に救われて戻ってきた。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、プルパ金剛を修め始めた。先ず、出家弟子衆らが代表して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにマンダを献上し、請法した。リンチェンドルジェ・リンポチェは暫く修法してから、修めた内容の含意を開示した。

先ほど修めたのは、前行であり、皈依、発心及び結界を含み、この壇城を保護し、外にいて法会に参加できない衆生を供養し、更に本尊を供養する。続いて修めるのは正行、生起次第である。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、続けて修法し、本尊の咒語を誦持した時、出席大衆に身体をまっすぐに座るように促した。リンチェンドルジェ・リンポチェが本尊咒語を誦持した時、獰猛な表情が表れ、顔の眉が立ち、眼が突き出て、口が横に広がり、顔を左右に振り回し、顔の形は四角形に変化し、プルパ金剛忿怒尊の面容と全く同じになり、本尊と相応する殊勝な徴候が表れた。持咒修法の途中、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も低く沈む雷鳴のような怒鳴る声を発し、非常な威厳で頭を回して凝視した。腕を僅かに回し、身はわずかの間にプルパ金剛として極めて殊勝な法相を表し、続けて金の光に包まれた。非常に不可思議なことであり、決して凡夫にはできないことである。更に多くの弟子は地響きと連打する雷の轟きを感じた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、米蒔き、花びら供養、そして本尊を賞賛する時、カメラの設定が未調整のまま、カメラは本尊の壇城から放たれた目を奪うほどの金色瑞光を撮影した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの身は金光と融合し、供養と賞賛した本尊の米と花びらもまた金色に映った。これは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲パワーの縁であり、またプルパ金剛の神衆が瑞光として現れ、衆生が解脱を得られるよう加持したものである

修法時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、極めて慈悲深く出席大衆が保護したい人の名前を声に出させ、引き続き修法し、修法過程で、何度もプルパ金剛忿怒の相が現れ、威力は無比である。出席大衆は皆等しくプルパ金剛本尊が降臨した震撼と威猛のパワーを感じ取った。会場には一千名余りの参加者がいて、中には多くの子供がいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法している間、法会の参加に集中し、動き回ることがなかったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの強大な無比の摂受力の現れである。

続いて、薈供の儀軌を進め、参加者各人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持した供物を受け取り、法会の中で仏菩薩と共食し得難い殊勝な因縁を得た。

修法後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き慈悲深く開示した。先ほどの持咒の時に現れた相は、あなた方が考える民間のような神が乗り移ったものではなく、本尊との相応を修めた。事部、行部ではこのように現れる。先ほど、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェがプルパ杵で一塊の供物を切るのを見た。これはプルパ杵で我々の三毒(貪、嗔、痴)によって現れる一切の敵魔の身体を滅ぼしたことを表す。なぜ、敵魔が身体にいるのか?つまり三毒があるので、それを切り開いた後、次に三寶(仏、法、僧)で輪廻から抜き出した。それを殺すか、もしくはそれにあなたを怖がらせるかということではなく、それを引っ張ってきて切り開いた物である。人であることで済度ができないのは、五毒(貪、嗔、痴、慢、疑)と五蘊(色、身、香、味、觸)があるからで、それを切り開いて初めて代わって済度できる。衆生の一切の煩惱はすべて先ほどの供物に入り、迷惑、無明、執迷不悟をすべての本尊衆に供養して捧げる。だから密法の修行は菩提心を発して初めて修めることができる。悪いものは自分に与え、良いものは衆生に与える。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、五色旗でしばらく修法した後、極めて慈悲深く自ら法座を下り、プルバ杵を手に持って出席大衆一人ひとりに殊勝なる加持をした。出席大衆は、皆心から感恩してこれを喜び受けた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、衆生を利益するため、自身の苦労をまったく顧みず、たとえ肩の関節が悪くなろうとも、自らプルバ杵で各出席者の頭頂に加持を与えてゆく。手は上げたり下げたりが一千回以上に上る。身体に対して極めて重い負担がかかる。たとえ壮健な若者であっても非常に耐え難いものであり、ましてや尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはすでに66歳の高齢である。全く自身を考えることなく、生命のすべてを以って衆生を利益する。金剛乘行者の大悲願力と菩提心が殊勝に表れ、それに感動しない出席大衆はいない。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、会場すべてを回り、出席大衆一人ひとりに加持をした後、再び法座に上がり、仏法の開示を慈悲深く与えた。

もしも、プルパ金剛法門を学んで修めたいのなら、条件がある。この法を受けたことがある行者は毎日、修めなければならない簡軌の中で、二つの言葉が重要である。第一は、「任誰持明」である。持は持があってこそ、この法の伝承者であることを指し、灌頂をすることできる。この時、ある弟子がおしゃべりをしたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは即座に叱った。「何がそれほど重要なことなのか?まさか、リンチェンドルジェ・リンポチェがその話を邪魔したか?」彼は益々図に乗る。

多くの人は知らないが、仏経を学ぶ時の一字、一偈、一句の咒語、一冊の佛經はすべて口伝によって読誦、修持された。なぜなら、釈迦牟尼仏が伝法した伝統は、口伝であったから。その時、一人の出家信徒が自分で法本をめくって見た。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の行為を開示した。彼女は法本をめくって見る必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェの講法を聞けば、それよりずっと有用である。もしも、彼女が見て分かるのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を法座に座らせる。皆はこのような間違いを犯す。上師が上で開示している時、あなたはあなたの経典を見ている。

なぜ、そのような習慣なのか?つまりは自分は字が分かる、字が読めるからだ。釈迦牟尼仏が伝法した時、文字はなかったので、口伝した。当時は、パソコンもなければテレビもない。直貢噶舉の「噶舉」は非常に重要な意味があり、口伝という意味であり、それは釈迦牟尼仏が伝法の伝統を残すということである。仏法と関係ある如何なる事情も、持が必要で伝承の上師が自ら口伝する。原因は?仏経の中で提示しているように、仏が説く仏法を聞くことは絶対に殊勝なる事情である。

仏経の中で提示したとおり、地球の人類がその他の星の人類と最も大きく異なるのは耳が優れるという点で、耳で聞くことは目で見るよりもずっと有用である。だから、觀音法門も耳で修める。皆は経典の中を見てわかるとおり、見ただけで悟ることができると提示していない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、好き勝手に話すことはできない。すべて根拠があるものだ。觀音菩薩が耳で聞いて修めたように。なぜ、必ず口伝するのか?なぜなら、人類の耳は特に優れているから。聞いた音声は目で見たものよりも遠い。仏法を説く時、あなたが耳で心を込めて聞けば、あなたの第八意識田に種を植える事は易しい。

人に仏像を見せれば修行の種が撒かれると多くの人は思っている。その実、そうではない。もしも、彼が心を込めなければ、修行の種を植えることはできず、ただ以後仏像を見る因縁を植えるだけだ。しかし、耳で聞けば違ってくる。なぜなら、我々は耳で記憶するから。もしも、今日、世界から音声がなくなり、ただ目から見ることしかできなくなったら、我々は学ぶことができないだろう。これは人類の特色だ。法本にもはっきりと書いてあるが、「任誰持明」とは、どんなものでも受け入れることができ、この法を持つ上師がいる。「伝承」の意味は、誰がこの法を発明したのかではなく、誰から伝わったのかは必ず根拠がある。

今、修法前にリンチェンドルジェ・リンポチェはこの法本の由来について紹介するが、それはだれが伝えたか、誰が整理したかということであり、行者が悟れば解釈できると言うことではなく、必ず「持」が必要である。そしてやっと修法できる。「明」が指すものは、本尊があなたにこの法門を許可し、そしてあなたに咒語を口伝することを意味する。咒語の口伝は解釈がない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェが大悲咒を学んだ時、一度も師父に大悲咒の解釈を尋ねなかった。しかし、現代人は皆、大悲咒、十小咒、準提咒、楞嚴咒の意味を尋ねる。

咒語は、あなた方が想像するするような人に聞かせるものではなく、仏法の中の咒語は一切の本尊の本願、慈悲、事業、福德等等一切であり、すべて短い幾つかの文字もしくは百字内に含まれている。だから、釈迦牟尼仏は曾て説いた事がある。六字大明咒は仏の智慧で解釈し、一小劫の間、話しても話し終わらない。なぜなら、それは凡夫の境界ではなく、だから凡夫の言語で咒語を解釈することはできない。もしも、凡夫の言葉で解釈すると、一表面しか解釈できない。もしも、咒語の表面を解釈すれば、こういう意味であると衆生に執着させることになる。

仏と菩薩の境界は、凡夫から見ると秘密であり、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが常に開示しているのと同じである。大学教授の学問は、小学生から見ると、秘密であるが、あなたが大学で学び、博士まで学べば、それは自然と秘密ではなくなる。密咒は、神秘もしくは人に知られてはいけない事なのではなく、あなたがその境界に至れば、自然と分かるし、わざわざその内容と用途を解釈する必要もない。

「明」は、つまり灌頂、授權を通してその本尊を修め、更に口伝で観想する。多くの人は観想は簡単だと思っている。ただ仏像を思い、自分には慈悲があると思い、発願がつまりそれだと考えている。もしくは多くの衆生を見ることだと思っている。いわゆる観想はレベルにより異なる解釈がある。凡夫の意識と身体を本尊と一つに転換する。だから絶対に上師の口伝に基づき、順に観想し、阿弥陀仏は如何にして阿弥陀仏と考えるのではない。阿弥陀仏には多くの相があり、我々はどの様子かを知らない。だから、必ず伝承した上師の口伝に基づき順に観想する。観想は、二部に分かれ、生起は順に福報を修め、円満になると次は智慧を修める。両者にはどちらにも後ろがあり、この咒語を唱えられる。

法本は「ヨガ士」について提示しているが、出家と在家を含み、金剛乘の行者が事部、行部を修めることを指し、そしてこの法本を修めることができる。ヨガとは何か?これは我々が意識上、文字上で理解する仏法を超越し、如何なる仏経のなかでもヨガ士を提起しているが、多くの人はヨガとは何かを知らず、これはインドで鍛錬するヨガと異なり、ただの運動だと思っている。ヨガが指すのは、行者はすでに菩薩果位への道を進んでいて、今世では少なくとも菩薩果位を証することができる。

一番目の条件が足りたなら、二番目の条件は「三戒未犯,發心未退」であり、つまり五戒、菩提心戒と三昧耶戒、特に三昧耶戒に根本的に皈依することである。三昧耶戒は、上師への約束、本尊への約束と衆生への約束である。三つの戒すべて犯さない、菩提心を発し且つ退失がない。多くの人は「仏法を学んで学びたくないことを学ぶのは、つまり退転だ」と言うが、それは違う。それはつまり怠慢になるということである。いわゆる退失は、衆生を利益する心が減ることを指す。先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェは口から地球の衆生は済度が難しいと言ったが、それでも済度する。行者は口で言っただけで衆生を助けない事はできないのだ。いわゆる退転とは菩提心の退転であり、八地菩薩以前は退転することがあった。ただ八地を過ぎ、法身菩薩、九地、十地へ至れば、退転しない。

なぜ、淨土に生まれることを求めるのか?なぜなら、浄土へ着けば三不退だから。そのうちの一つである不退便は菩提心の不退である。娑婆世界において、衆生の菩提心を不退にさせるのは非常に困難である。その人が多くの条件を備えている場合を除いて。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェのように常に数千万の供養を返したのなら、条件を備えている。多くの人は金銭と見ると受け入れられず、関係ないと思い、相手にいくらかの福報を上げればよいと思う。関係あるのだ!あなたは彼に代わって問題を解決してやることで、彼のお金を受け取ってはいけない。以後、彼に借りを作ることになる。いくらかの仏号を唱えて彼に迴向すれば返すことができると思ってはいけない。返すことはできるが、来世でまた出会うことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは今世であなた方、これほど多くの人々会うのは、つまり前世においてあなた方に代わって処理していないからなのだ。

退と失というこの二つの条件がない行者が、やっと日常でこの法門を修めることができる。だからあなたが想像したような金剛乗を修めたければ修めることができるというわけではないのだ。他の法本はこのように書かれていないが、この法本では特に「三戒未犯,発心未退」と強調している。だから、もしあなたが慈悲心、菩提心、三昧耶戒を備えていないのならダメだ。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの出家信徒に言ったのか?なぜなら、上師が法座に上がって説法する時、あなたは集中しなければならず、あなたが気を散らしていたなら、今日の法会の加持はなくなってしまう。しかし、仏法を学ぶ人はよく、この間違いを犯し、仏経を手に取ると先ず中の内容を見て、自分が見ようと思う。表向きは好奇心だったり、先に理解したいという気持ちであるが、その実、相手を尊重していない。

なぜ、尊重しないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、いつもひとつの例を提示する。あなた方が小学1年生の時、教科書が自分の目の前にまっすぐに置かれていた。その時、あなたは教科書を開けてみる勇気はあるか?教科書を開けたなら、必ず叱られるのだから誰が開けるだろうか?教師が国語と言えば国語を手に取り、算数と言えば算数を手に取る。あなたは国語の授業の時に算数の教科書を取り出す勇気はあるか?なぜ、勇気がないのか?なぜなら、あなたは自分はわからないと思っているから。現在、なぜあなたはできるのか?なぜなら、あなた方は自分はわかっていると思い、自分は見ることができると思っているから。もしも、仏法が見て分かるのなら、修める必要はない。修めて何をするのか?

仏法を学ぶのは、自分の輪廻の一切を改める行為であり、悟った後、仏法の慈悲と偉大さを体得でき、これは非常に深い造詣を続けなければならない。一日二日のものではなく、生生世世この根器がある。皆は、多くの人が参加する法会の時、悪い習慣がある。ただあなたにそれを教える人はいない。しかし、ある人は、根っからそのような悪い習慣はない。リンチェンドルジェ・リンポチェにもそのような悪い習慣はない。以前、信徒だった時、手を交差したりせず、痛いからと言って脚を持ち上げたりもせず、座りながら身体を揺らすような動作もしなかった。おそらくリンチェンドルジェ・リンポチェの父親は教え方が良かったのだろう。子供の時から、リンチェンドルジェ・リンポチェに年長者が話をする時は注意して聞くように、必ず役に立つからと教えた。今の人たちはまったく一顧をだにせず、先ほど話をした弟子のように、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示しても、彼は話をする。これは人のことを気にせず、人を尊重しない。

現在、台湾中、世界中で互いを尊重する事が欠け、皆自分が優れていることを見せるばかりだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛乘を修めるが、外に出る時は法衣を着ないので、人はリンチェンドルジェ・リンポチェが上師であることをわからない。他の人に、自分が他の人と違うことを感じさせる必要はないから、彼と同事で、ゆっくりと彼を助け、彼を済度すればよい。本日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のため、プルパ金剛を修めるが、リンチェンドルジェ・リンポチェがすごいことを見せたいわけではなく、あなた方に知らせたいのだ。仏法を学ぶのは、あなた方が思うように簡単ではないが、しかし、これほどに複雑でもない。あなたは戒を犯さず、菩提心を退かなければ、如何なる法門も修めることができる。

このような条件ができたなら、自然とOKとなる。このような条件ができないのなら、たとえ毎日そこに一二時間座っていても悟ることはできない。悟ることができないのなら、《楞嚴經》の中で提示するように魔が機会を見つけて飛精入口に来て、あなたに悟ったように感じさせる。あなたがどう思うかで、彼はあなたにそのように感じさせる。だから仏は我々に何も求めず、すべてを肯定することを教える。仏法を学ぶ人は何を求めるか?衆生が生死解脱する機会を得、いつか成仏できることを求める。諸仏菩薩は、如何なる衆生も諦めない。それは皆も含む。あなたはただ三寶に対して絶対的に恭敬し、自己中心を放棄すると、必ずある日悟ることできる。仏法を学ぶ最大の問題は外の魔ではなく、心の魔である。多くの人は、魔は非常に醜く、非常に怖いものだと思っているが、その実、魔は我々よりずっと美しく、まるで釈迦牟尼仏が成仏する前のようで、天魔は娘を送り、仏の前で踊りを踊ってみせた。天女よりもずっときれいである。

魔の定義はあなたが輪廻を解脱する仏法を学ぶのを妨害し、止めさせる。魔は衆生が輪廻解脱しないことを望んでいる。そうすることで魔に子孫ができる。魔も我々に善行、良いことをする事を教える。しかし、魔と仏の差は、魔は我々に生死解脱を教えず、我々に低層な要求、結婚したい、あれが欲しい、これが欲しい、少しでも多くの信徒が欲しい等々という欲望で満足させる。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学び始めてから、一度もいつか道場を持ちたいとか、弟子と助ける人が多く欲しいと思ったことがない。なぜ、一度も思ったことがないのか?なぜなら、仏法を学ぶのには資糧が十分であればよく、事は自然に現れる。法本の中で提示しているように、蓮師はプルパ金剛を修めれば種々の利益があると開示しているが、それは自然にやって来たものであり、要求するべきものではない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆にこれらを開示するわけは、一年がまた間もなく過ぎるからであり、我々はまた一年少なくなった。来年には計画があると思ってはいけない。来年の計画はまたこの世で仏法を学習するのは一年が減った事だ。だから多くの正しくない仏法を学ぶ概念を放棄しなければならない。それらを捨て去ることができたのなら、浄土へ往生できると言える。ただ阿弥陀仏と唱えていればいいのだと思ってはいけない。もしも、《阿弥陀仏経》の中の条件ができなかったら、何度唱えても意味はない。なぜ、釈迦牟尼仏は《阿弥陀仏経》の中で五濁悪世を提示してこれはなんと信じることが難しい法なのだろうと言ったのか?理に照らして考えると、淨土法門は修めやすく、ただ唱えれば良い。それなのになぜ、信じることが難しいと言ったのか?なぜなら、皆はこのようにすれば浄土へ行くことができると信じないからである。多くの人は、《阿弥陀仏経》を見るが、皆「福徳因縁が欠けない善男子善女人はあって」という話を読まない。これは重要点である。もしも、厳格に言えば、菩提心がない者は行くことはできない。だから、釈迦牟尼仏は信じることが難しい法と言ったのだ。

皆は、演技を見るのが好きだ。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは、今日、あなた方に演技して見せてあげた。一つは如何にしてあんなにも怖くなるのか?戻るとどうしてよく見えるのか?これはどうしてこうなるのか?即ち、仏が言うところの「萬法唯心造」であり、一切の現象の発生は、すべて心が動くからである。簡単に言うと、もしも衆生を利益する心がなければ、ただ虚がその表にでるだけであり、外側だけで中身がない。だから、一年一年と過ぎていく時、皆が仏法の上で古人が曾て説いたように、あなたは今年と去年を比較して、少しでも慈悲深くなったか?少しでも間違いを起こさなくなったか?ということを望んでいる。もしも、そうならば、あなたは少し進歩したということだ。もしも無いのなら、あなたは進歩していない。

自分は何度も唱えていて、毎日日課をたくさんしていると思ってはいけない。仏法で修めるものは何か?それはあなたの「心」を修めるのだ。改心して修めていないと、たとえあなたが毎日二十四時間経を読んでも、意味はない。仏法と外道の差はこの点が異なる。上師の務めは、あなた方が苦しんだり、困難に遭っている時、あなたを助けることだ。但し、その後はあなた自身の力に頼らなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ちょうどよい例を挙げる。尊勝なる直貢チェツァン法王は初めの頃、リンチェンドルジェ・リンポチェを弟子にして仏法を教えたが、その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは修めなかったら、今日は、このようではなかっただろう。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王の話を聞かなければ、おそらく2007年の時、すでにいなかっただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは言うことをよく聞き、三眛耶を犯さなかった。直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに閉関に行くように言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに閉関に行き、考えさせて欲しい、考えてみるとか、準備ができていないので一ヶ月遅らせて欲しいなど何も言わなかった。あなた方は皆条件を言う。その実、条件を言うのは、あなたは自分のための条件であるからだ。

あなた方は、仏法を学ぶと仕事や勉学、結婚それらの事情の邪魔になると思ってはいけない。そんなことはないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆に仏法が邪魔なることはない事をはっきりと見せる。同じように日々を過ごす。ただ内心が改まっただけなのだ。あなた方は内心を改めようとせず、表面は仏法を学ぶ人を装い、まるでガムポパ大師が言ったことのように、人を騙している。我々は人を騙してはいけないし、自分を騙してもいけない。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分のことを苦労していると言えないが、少なくとも多くの体力を使って皆のために修法した。法本の中には、上師は自分のために長寿を修めるように提示されている。なぜか?なぜなら、この法は修法者の力を非常に消耗させるから。誅法は一般の上師が修められるものではない。

以前、あるリンポチェがリンチェンドルジェ・リンポチェがプルパ金剛を修めるのを見て、自分もプルパ金剛を修めようとした。結果二年間修めたが、未だ修め終えることができないでいる。なぜか?なぜなら、プルパ金剛の法門の中には済度があり、修法者がもしも済度の能力がなければ、法を修めた後、それらの鬼がずっと見ていて、どうして彼らを超度する順番が回ってこないのかと思い、修法者のところへやって来ることになるから。だから誅法の最も重要な部分は、先ほど開示したものであり、それは衆生の三毒と五蘊の毒を滅すれば、彼を超度でき、それがつまり誅の真の意味である。その他はすべて表相であり、あなた方や衆生に見せるだけのもので、最も重要なのは、修法者に菩提心が有るか否かであり、菩提心が有るならば、この法は一切の有情衆生を利益できる。今日の開示はここまでとする。

法会は円満となり、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる修法、加持と開示に感恩し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りるのを恭送した。


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2019 年 06 月 08 日 更新