尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年12月22日

台北寶吉祥佛法センターにおいて、弟子と信者はリンチェンドルジェ・リンポチェが、2003年4月20日の共修法会で不共四加行を学習するため、あるべき心の準備を開示した仏法テープを傾聴した。

法会開始前、一人の弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に機会を与えたことに感恩した。そして、ここで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した経過と皈依の因縁を共有し、懺悔を発露した。

およそ2006年10月、彼女の義母は認知症になった。彼女の伯父が曾てのクラスメートから素晴らしいリンポチェを紹介されたと言い、伯父と義父はすでに義母を連れてリンポチェに助けを求めに行っていたが、今週も再度行くことになり、それで彼女の夫と彼女も一緒に行くことになった。

彼女の父は、2006年5月に服毒自殺した。以前自殺した人は、自殺後にずっと自殺行為をし続け、ずっと切れることなく自殺の苦しみを受け続けると彼女は聞いたことがある。当時、彼女は心で一人の真の修行者に彼女の父を済度してもらい、父が離苦得楽する機会をずっと望んでいた。だから、伯父の誘いを聞くと、彼らはすぐに行くことを了承し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することを期待して待った。

謁見の日、彼らに順番が来ると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く彼らに「どうしましたか?」と尋ねた。彼女の伯父は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに義父の体の状況と先週義母を連れて謁見したことを報告し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに義父を加持することを求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはしばらく慈悲深く義父を加持した後、伯父は先ず義父を連れて離れ、彼女の夫と彼女が残った。

彼女の夫は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女が罹った糖尿病を報告すると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに菜食と仏を学ぶことを慈悲を以って開示した。当時、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭敬心が足りなかったため、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが菜食することを開示すると、彼女はすぐに「私は現在、菜食を始めています! 」と返事した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「あなたこれで十分だと思っているのか?」と叱責し、そして彼らに恭敬心がないことを開示し、彼らに来週土曜日に再度来るように言った。

彼女と夫はそこを離れた後、近くで話し合い、反省した。なぜ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに恭敬心がないと言ったのだろうか?その時、夫は日曜日の共修法会に参加したいと思い至ったが、先ほどはお願いしなかった。それで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの元に戻ってお願いした。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは夫の要求を慈悲深く受け入れ、夫は二日目から日曜日の共修法会に参加した。

帰宅後、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に「あなたはそれで足りていると思うのか?」と叱責した事と、彼らに恭敬心がないと言った事を考え続けた。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したものには必ずその道理があることは分かったが、愚昧な彼女にはそれが何なのか理解できなかった。その後、続けて二回の土曜日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは信者に接見しなかったので、その三週間、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会う因縁がなかった。

彼女の夫は初めて日曜日の共修法会に参加してから、彼女に「私たちは片手間の菜食はやめて、本格的に菜食しよう。」と言った。彼女も同じ考えだったので、「いいね!」と答えた。数回の日曜日の共修法会に参加した後、彼女の夫は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。彼女は非常に羨ましく、心のなかで、「いいなあ!あなたは皈依できた。それでは私はいつ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会う因縁があるのか?」と思った。

この時、彼女は亡くなった父親を思い出した。父親が亡くなって四十九日の間、彼女は毎日《地蔵經》を読経し、父親及び衆生に迴向した。当時、ずっとその思いがあり、大修行者に着いて仏を学び、また輪廻したくないと思った。思いも寄らずに大修行者で出会った。だから尚更仏を学びたい気持ちになった。そして、彼女が仏を学ぶ決心をしてから、遂に因縁があり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた時、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに法会に参加し、皈依することを求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「よろしい。申し込みなさい!」と慈悲深く言った。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女が皈依できたことを感恩し、また父親が彼女に因縁によって尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会わせたことに感恩し、更に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの門下として皈依したことを感恩した。

確か1999年、彼女は「第一型糖尿病」に罹った。それは即ち、「インスリン依存型糖尿病」である。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前、彼女には何度も低血糖の記録がある。昼間に低血糖が起こると、その時自分が低血糖になったことが分かれば、彼女はすぐに糖分を補充し、少し休むと回復する。しかし、退勤でオートバイに乗っている時に起こり、彼女が自分が低血糖になったことに気づかなければ、結果意識不明の状態で、事故を起こすことになる。もしも夜寝ている時に起こったなら、彼女は全身が冷たくなり、冷や汗が出て、目覚めなくなる。何度も重大な命の危機に遭遇した。しかし、皈依した後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救いの下、このような低血糖に依る意識不明の状況は発生していない。

ある日、法会が終わった後、彼女の血糖値は29まで下がった。しかし、彼女は自分で食べ物を買って食べた。彼女の姉も「インスリン依存型糖尿病」に罹り、2ヶ月前に血糖値50余りになって意識不明になり、救急で病院に送られた。彼女はもしも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依していなかったなら、彼女はすでに何度も死んでいたであろうことを知っている。彼女の命は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが救ったものであり、彼女の慧命も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが与えたものだ。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救いによって彼女がまだ暫くの間仏を学ぶ時間を得ることをができたことに感恩した。

彼女は、ここで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、諸佛菩薩と六道有情衆生に対して、自分のした一切の悪業を懺悔し、累世の父母及び祖先に代わって行った一切の悪業を懺悔した。

彼女の祖父と父は屠殺業に従事していた。祖父は市場と家で豚肉を売り、父は若い時から屠殺場で働き、豚を殺した。その後、父は自分で屠殺場を建設し、自分で豚を殺し、豚肉を売った。だから、彼らの家の子供は小さい時から屠殺場で殺された豚の処理を手伝い、肉を売る屋台で豚肉を売った。祖父は豚肉を売って金を稼ぎ、少しずつ何件もの家と土地を買った。父は豚を殺して豚肉を売ったので、彼女ら六人兄弟姉妹を養っただけでなく、大きな財産を貯めた。だから彼女は子供の頃、経済的環境はよかった。

しかし、祖父は糖尿病、高血圧を患い、彼女が小学六年生の時、祖父は高血圧で中風になり、寝込んだ。食べ物も人に食べさせてもらわなければならず、トイレも人の介助が必要で、生活の全てに人の手が必要だった。そして父は長年、豚を殺して肉を売るため、豚を抱えて腰を痛めた。更に若い時には賭博に夢中になり、一時期、彼女は祖父が土地や家を売って父の負債を返済しているのを聞いた。その後、彼女の叔父も賭博を始め、賭博の負債のために最後に先祖代々の家も売った。

彼女の幼い頃の記憶には、父は怒りっぽい人で、怒ると声が大きくなり、目は大きく開き、非常に恐ろしい形相になり、見るからに怖そうだった。そのため、彼らは幼い時から父が怒りだすと急いで逃げ隠れ、父と親しむことはなかった。しかしながら、父は彼らを育て世話をしてくれたので、彼女の心には、愛する気持ちと恐れる気持ちが混在し、近づきたくもあり遠ざけたくもあった。

後日、父には愛人ができ、ある日、両親は喧嘩した。最後に母は包丁を持ち、結果として父の脚を傷つけてしまった。弟はこの話を聞き「二人がこんなにも長年暮らしても合わないのなら、離婚してしまえばいい!」と言った。父親はそれを聞いてすぐに母を連れて役所に行き、離婚の手続をした。しかしながら、後日二人はそれを後悔した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは曾て開示したことがある。「子供には両親の事に意見する資格が無い。」彼女はこの言葉に深く感じ入り、確かにそうだと思った。もしも、あの時、弟があのように言わなかったなら、二人は衝動的に離婚していなかったかもしれない。

両親は離婚してから、彼らは子どもとして様子を見るのが少なくなった。父に関心を持っても、せいぜいが電話で様子を聞くだけだった。そのため、父は苦しんだが、誰も彼に関心を持たなかった。その後、またも賭博に夢中になり、百万元余りの負債を作り、農薬を飲んで自殺した。

彼女は回想すると、父は屠殺場で豚を殺す時、非常に残忍に先ず電気で豚を気絶させ、その後、刀で直接豚の喉を切って息絶えさせた。殺される豚が受けた痛みは想像できるものではない。父が自殺で農薬を飲んだ時、腐食性の農薬が喉を通過する時、それはまるで刀で喉を一刺しされた豚のように生きているのが辛いほどの痛みだっただろう。父が救急車で病院に送られた時、電気ショック治療の痛みは豚が電気で気絶させられたようだったのではないだろうか?彼女はここで父及び祖先に代わり、その殺業に懺悔した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは曾て開示したことがある。「殺業を生業とするものは、稼いだ金を残すことができない。そして多病で短命、家族は不仲である」。彼女はその開示は真実だと気づいた!家族が持っていた家屋、土地はすべて無くなった。それは正に「殺業で稼いだ金は残すことができない」ということだ。祖父、祖母、父及び叔父、叔母たちは高血圧、糖尿病、中風、そして癌に罹り、彼ら家族6人の子供のうち、3人の子供、更に母親の合わせて4人は皆、糖尿病になった。それはつまり「多病」ということだ。祖母、叔母たち、父は皆、50歳を過ぎて癌、中風、自殺で死んだ。それはつまり「短命」ということだ。幼い時から両親はいつも喧嘩をして、最後に離婚で幕を下ろした。親戚たちも往来がなくなった。それはつまり「家族が不仲」ということだ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、真実を語る者、実際を語る者であり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したことを、彼ら一家はすべて一つ一つ証明した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救いの下、皈依して6年余りの間、彼女は安定した日々を過ごし、心は徐々に怠惰になり、初心を忘れるようになった。

彼女は、四臂観音の法写真に懺悔した時、写真の枠を持たなかったので、法写真の縁を傷つけしてしまった。それは仏菩薩に不恭敬だ。

彼女2012年1月8日の法会で懺悔した時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、先週《妙法蓮華經》等仏経を唱えたものは手を上げるように言われたので非常に嬉しく、自分はとても熱心だと思い、好きな人は申し込むようにと言われたが、彼女は手を上げたが申し込まなかった。翌朝目覚めた時、突然に誰かが彼女に対して「あなたはこんなふうに教えを聞かない」と言ったように感じた。いつも、彼女は教えをよく聞くと自惚れていたが、自分の利益に絡む時には尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが説く言葉を全く忘れてしまう。それはつまり、上師の話を聞かない、教えに従ってしっかり実践しないということだ。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及びアキ護法が彼女に自分の誤りを教えてくれたことに感恩した。

土曜日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが信者に謁見した時、彼女は道場に跪き、心から尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して懺悔した。次週の法会に於いて、彼女は低血糖を発症したが、その時は意識が朦朧となった。糖分を補充してやっと、徐々に意識を回復した。この種の低血糖で意識がなくなってしまう状況は、彼女が皈依してからずっと発症していないものだった。彼女はそれは自分の心に問題が起こっているのだと知った。上師の加持があるかないか、教えを聞いているかいないか。差はその点にある。

彼女は、過去の腹を満たす欲のため、無数の衆生を傷つけ、意識のあるなしに関わらず、ゴキブリ、蟻、蚊及びその他の衆生を殺したことを懺悔した。彼女は、妊娠を知った時、風邪薬を飲み、問題のある子供が生まれるのを恐れて堕胎したことを懺悔した。彼女は、父母や先生など目上の人の恩を知らず、父母や義父母に孝行しなかったを懺悔した。彼女は、仕事に対して不真面目で、度々間違いを犯し、インターネットを自分のために使い、社長に損失を与え、顧客に多くの面倒を与えた。様々な悪い習慣があり、自惚れ、勝手に思い込み、怠け、自分の利益だけを考え、悪いことをずっと改めなかった事を懺悔した。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を皈依させ、彼女を今世でこのような一人の徳を備えた上師から仏を学ばせ、彼女に正法を聞かせ、因縁によって輪廻を断ち、生死を解脱し、曾て彼女によって傷つけられた衆生が因縁によって離苦得楽させ,彼女に今世で善縁を結ばせたことに感恩した。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩した!

最後に、彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康と、法輪が常に転じられ、長くこの世に存在し、仏法事業が隆盛であり、直貢噶舉派法脈が永遠に伝えることを祈願した。

続いて、弟子と信者は、リンチェンドルジェ・リンポチェが2003年4月20日の共修法会で開示した仏法テープを傾聴した。

今、不共四加行を学習する前に、自我についてあるべき心の準備を開示する。なぜこのようにするのか?なぜなら、衆生の根器は異なるからだ。ある衆生らはある法を聞くと、大歓喜心を起し、非常に大きい信心を起すことが出来る。如何なる疑いもなく、精進に修行法門を行う。この種の衆生は非常に稀有である。基本的に、すべての衆生は仏法に対して疑いを持っている。あなた方は自分は違う、自分は仏を信じていると言う。しかし、もしもあなたが仏を信じるのなら、必ず因果を深く信じている。あなた方は信しているか?信じていない。あなた方が心のなかで自分で悪事はせず、菜食を始め、怒りを発することを減らすだろうと呟いたかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、それらは粗相の中で僅かに注意するだけで、多くの細相、細の心では注意を払っていないと開示した。

例を挙げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、インドに行く時、事前にそこでアイスキャンディーを食べてはいけないと弟子に言う。しかし、多くの人は言うことを聞かず、食べて病院のベッドに横たわる。これは因であり、話を聞かないということだ。因果、このことは我々の今世で途切れなく演じられ、止まることがない。一つの思いが起こり、行動すると、果報が必ずある。思いが起こっても、もしもその場で懺悔すれば、業のパワーは現れない。しかし、皆はいつも小事には注意を払わない。しかしながら、小事が貯まると大事になる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げる。ある女衆の父が往生し、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女四人兄弟が財産のことで争っているが、亡者はそれを望んでいない。彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェが言った話を兄弟たちに伝えるように開示した。その信者は兄弟たちに、自分の夢のなかで父親がそのように言ったと伝えた。この信者のやり方は破戒である。第一に妄言を言っている。言ったことを言っていない。第二に善知識の話を聞かず、独りよがりで、善知識と悪の因縁を結んでいる。第三に、彼ら兄弟が仏を学ぶ因縁を断っている。この種の過ちを皆はよく犯す。上師が言った言葉は永遠にその通りに語られず、自分の言葉に改める。それは即ち破戒であり、高慢に仏法を学んでいる。だから、古人は愚か者は仏を学ぶのが易い。なぜならばそのような自分の考えがないからと言った。

我々は一生の間に、有為無為にずっと悪事をしているのに、自分はわからず、自分は正しいと思っている。あなたがそれを正しいと思うなら、それはつまり間違いをした時で、あなたは正しいと思うが、それは分別心があるということで、分別心があるのなら、慈悲心はすぐに消えてしまう。慈悲は養い、訓練するもので、一朝一夕に慈悲の力で衆生を利益できるようにならない。仏を学ぶ人は、自分の言動に注意しなければならないし、一般の人と隔て仏教徒らしくなければならず、自分の悪い点はすぐに改めなければならない。新しく皈依した女弟子は母を伴いリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。この母親は非常に喜んでいて、それは夫が彼らが仏を学ぶことを反対しなかったからだ。この父親の観察に依ると、自分の娘はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して数ヶ月の間に、悪い習慣を改めた。だからこの上師に着いて仏法を学ぶことを認めた。自分の言動が人に仏法の殊勝と偉大を理解させる。もしも、仏を学ぶことが自分自身の福報と利益のためなら、このようにはならない。数日前、ある人が妊娠したので仏法を聞きにやって来た。妊娠しなければ聞かない。そのような「現実派」は仏法を学ぶことができない。仏菩薩に対してこれほどまでに現実的ならば、人や事に対しても同じである。この種の人は絶対に身勝手である。身勝手な人は始めは長所となるが、長い目で見た時、社会では必ず失敗することになる。仏菩薩と上師はあなたにこのように利用されるものではない。用がある時にはやって来て、用がなければ来ない。それとも人なのか?ある人は妻にそんなに緊張しなくても良い、上師は慈悲の心で必ず助けてくれると言う。諸仏菩薩は必ず慈悲があるが、あなたはこのような信心をもって求め、そしてこの種の因縁が得られる。仏菩薩の慈悲は必ずあなたを助けると思ってはいけない。いわゆる「仏は縁のある人を済度する」とは、懇切の心を以って、仏菩薩の加持を得たい人だけ縁があるということだ。仏は縁のない人を済度しない。今日、あなたが言った話は適当に言ったことだと思っても、あなたはその言葉を言ったのだから、あなたと上師と仏菩薩の縁は更に遠ざかる。話せば何もなくなると思ってはいけない。

事実、誰でも、毎日、どの思想の言動でも、虛空の中で波動が発生する。現在、天文学者は度々その種の信号をうけとっており、それはおそらく数百万、数千万年前の信号であろう。それがつまり、宇宙間の有情衆生の心念動の信号である。

だから共に悪を念ずれば、すべての宇宙間の仏菩薩及び一切六道を含む衆生は皆知っている。あなたがずっと悪を行うのなら、たとえあなたが皈依し、仏法を聞いても、あなたの果報は必ず良いということではない。なぜなら、あなたの起心動念は正しくないからだ。あなたが四加行を学ぶ前、あなたは必ず、あなたの起心動念を明らかにしなければならない。しかし、もしも一日中、自分の為で、人を構わず、布施の心がないのなら、今世は絶対に無駄である。たとえ、釈迦牟尼仏があなたの前で仏法を説いても、あなたには助けにならない。人生は数十年であり、瞬く間に過ぎていき、執着して手放せないものなど何もない。気の緩みを直し、怠惰を直し、怠ける心を直すため、毎日死の無常を考える。死は中国人にとって、忌み嫌うものであり、若くても年取っていてもそれは変わらず、死という名を聞くことを望まない。しかし、事実、生まれて一秒から我々は死に向かって歩き出す。だから仏教では誕生日は母の苦難の日と説く。誕生日は地球にいる日がまた一年が少なくなったという。そんな日を祝えるだろうか?しかし、衆生は愚かなので、生まれ出た日は我々が最も嬉しい日だと考え、祝い、そして多くのお金を使う。忘れているし、向きあおうとしないし、死が一秒ごとに近づいていることを認めようとしない。現在、我々が体が健康であるのならば、毎日、念仏を唱えたなら、死がゆっくりになると思ってはいけないし、重病の人がすぐに死ななくなるわけではない。そうではない。事実、我々がつらい思いをして数十年間仏法に精進するのは、死に向かい数秒間のためである。

我々は、生まれる時の痛苦を覚えていない。しかし、我々が衆人の死ぬ前の痛苦、無念、生を貪り死を恐れる事、執着心をこの目で見て、聞いている。死は仏法において、決して悪いことではなく、我々は生死を解脱しなければならない。死について不確かなら、どうやっても自分に再生させないか?死があるから生があり、生があるから死がある。生死を解脱するのは、今世において六道輪廻を止めるためであるが、衆生が仏を学ぶ心は、この事を忘れている。多くの人は仏を学んで早く福報を貯めれば、自分は仏法を学び終え、仏法を体得でき、悟りを開くことができると思っている。実のところ、これらは副産物である。衆生を利益することに拠って得た副産物である。仏は49年間法を説き、その中で最も重要なこととして、我々は如何にして仏法の薰陶、訓練、教導を通して、皆が今世で自らを主として生死を解脱すると説いている。だから、真の仏教徒は死から逃げず、死を避けず、しかし、その事に注意する。

我々が人身を失った後、次の世はいつ体を得ることができるのか?それはわからない。あなたは今世で仏を学んだので、来世も必ず人であると思ってはいけない。そうとは限らないのだ。確率として非常に低いパーセンテージだ。だから、我々は有限の時間を利用して仏法を生活の中で実施するように励ます。我々は我々のこの肉体がある日死ぬことをしっかり心に刻みつけるべきであり、我々は逃げてはならず、この事を恐れてはならず、我々はこの事に向き合わなければならない。我々がこの心を持つことができれば、この一生で必ず起こることにはっきりと注意でき、そして仏法を学ぶ上で緩まないように自分を励ますことができる。我々が死ぬ時、例えすべての親族が取り囲んでも、我々を助けることはできず、あなたの死亡の過程を分担する人はなく、ただ、あなた自身だけである。もしも、生きている時に自分の心を正しくする訓練をしっかりしてきていないと、死んだ時の痛苦、執著等が我々を輪迴の大海に陥れる。我々は生死を断つことができるように、先ず、死の真の姿を記憶し、はっきりと認めなければならない。ポワ法は即ち、我々に自分の死の過程をいかに向き合うべきかを理解させる。この対峙は、あなたに自殺するように言うわけでも、自分の肉体を犯すように言っているのではなく、死ぬ前から死んだ後までを理解し、中陰の身で業力に基づく輪廻をする前、体全体と心の過程には詳細な教えがある。しかし、この種の殊勝な仏法、殊勝な密法は、一般人は学べるものではない。上師に対して信心がなく、上師に対してケチり、供養布施を惜しむなら、学べない。上師に死んではいけないと、言ってはいけない。その時、私のためポワ法を修めてほしい。人生無常であり、無常は随時変動するということだ。如何なる大成就者であっても永遠にあなたの側であなたを助けると思ってはいけない。

だから仏菩薩は常に我々に警告し、我々に説く。我々の日々は一日一日過ぎていく。それはまるで魚が水の中にいて、水が一日一日減っていくのと同じだ。それでは一体何が快楽なのか?我々は楽しい人生を過ごしたと思う価値が有るか?仮に我々が精進して仏法の修行をしていないのなら、自分の一生の中で最も重要な問題として向き合っていないのなら、時間がは足りなくなる!私は今、仕事が一番重要で、仕事に時間をかけなければならないと決して言ってはいけない。正直に言うと、あなたの福報は十分足りていて、あなたが適当にやっても儲かるのだ。福報が足りないと、牛と同じく、野菜しか食べない。我々は自身がしたこと、我々が稼いだ金、仕方のないことをはっきりしなければならない。なぜなら我々は在家者であるので、我々は自分と家族を養わなければならず、更には社会に貢献しなければならない。しかし、それは人生の一過程にすぎない。あなたが出世できるか否か、金儲けできるか否か、それは絶対に福報と関係があり、あなたが仏を学ばなければ良くなるのではなく、あなたが仏を学べば、福報が少なくなるのではなく、仏法と関係ない。だから、多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェに、「できるだけ勉強しなければならない。勉強すれば、金儲けもできる。大学院へ行き、あの試験を受け、その試験も受ける」と言う。それらはすべて現実逃避した人で、社会に出てきてすべての挑戦を向き合うことができない。だから勉強することで逃げる。勉強すればするほど良いと願い、何かを学ぶことを望み、他の人がわからないことを彼が分かれば、お金を稼ぐチャンスが生まれる。

我々人の考えは、仏の智慧、仏の理念と逆である。仏は我々に言う。この地球は五濁悪世であり、満ちているすべては悪であり、それは我々を墮落させ、我々を生死輪迴の大海の一居住環境から離さない。だから仏はずっと我々に自分のすべての事業、家族、名利等々はすべて無常の心で対応するように勧める。無常はつまり変動である。仮にあなたがあなたの名、利、家族はすべて永遠に不変だと思うのなら、あなたが仏法を学ぶのはこれらの事情が良くなるためだと思うのなら、それは仏法にたいして背徳である。だから仏弟子として、自分の無常、死亡はずっと我々の傍にあることを言わなければならない。

この教えを聞かない弟子は病気の時誰よりも死を恐れた。午後だけで、8回の電話をリンチェンドルジェ・リンポチェにかけてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女を加持するように希望した。なぜ死を恐れるのか?なぜなら、彼女は死の迎え方を知らないからだ。あなた方も同じだ。あなた方も死を恐れる。例え、あなた方が口で死を恐れていない、覚悟をしていると言ってもだ。もしも、あなた方が覚悟をしているのなら、あなた方は仏法の修練、仏法の學習に対して今のような態度ではないはずだ。

ある人が死を理解した時、必ず精進する。なぜなら精進しなければ、死に臨んだ時、ただ自分だけが頼りで誰も助けてくれないことがわかるからだ。助唸団が役に立つと信じてはいけない。もしも役に立つのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも修行する必要なく、仏寺の助唸団にお金を寄付すればよい。彼らと縁を結び、彼らに死んだ時にやってきて我々に代わって助唸してもらえばよいのだ。仮にそのようすれば阿弥陀仏のところへ行けるのなら、釈迦牟尼仏が《淨土五經》の中で説いているのはすべて間違いなのか?はっきりと《淨土五經》の中で人を探して助唸すると言ったことがない。あなたが阿弥陀仏のところへ行けるのなら、それは何を根拠の助唸団があなたを阿弥陀仏のところへ連れて行ってくれるのか?いわゆる助唸とはあなたが生きている時、あなたは仏法の修行に対してすでにあるレベルに達している。あなたの同修(即ち、同じ壇城の中であなたと共に一緒に仏法を学習する兄弟子のこと)は、あなたの臨終前、あなたの心を安定させるために、あなたに代わって念仏を唱え、あなたの心を落ち着かせる。それを真の助唸と言う。その人は生前に修行もしていないとは言っていない。ただ皈依したことがあるだけで、仏経を唱えるだけで、助唸すれば阿弥陀仏のところへ行けると言うが、その観念は全くの誤りだ。真に密行者─密法の真の修行者が彼を助ける事を除き、しかし、それは非常に重要なことだ。即ち、亡者は福徳因縁を備えていなければならないし、備えていないのならやはりだめなのだ。

過去長年、リンチェンドルジェ・リンポチェに会った人はとても多いが、理解して求める人は、少ない上にも更に少ない。誰もがリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に話すのを聞いている。彼の家族の生命が危険に晒されると、多くの人は自らリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる。「私は何ができるか?リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも反問する。「あなたは何ができるのか?」なぜなら、彼らは間違った観念を持っているので、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に或る経を念じさせ、彼が毎日念じ、そうすれば親族は何事もなくなると思っている!あなた方のうち、95%以上は曾てこのように答えた。皆は経を唱えれば問題を解決できると思っている。しかし、なぜあなた方は経を唱えると問題が解決すると思うのか?第一に、戒体は清浄ではない。つまり経を念じ持咒する時、妄念があってはならないし、身勝手な考えもあってはならない。いわゆる願いなく念じるのだ。あなた方はいつでも願いがあるから念じるだ。

第二に、あなた方は大供養をするか?《地蔵経》の中で地蔵菩薩は前世で彼の母が六道のどの道に生まれたのか知るため、すべての家財を売り仏に供養し、そしてやっと彼の母がどの六道に生まれたのかわかった。しかし、現在、多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに会ってすぐに尋ねる。「私の父が死にました。彼はどこにいるのでしょうか?」恭敬心の供養さえしていないのに!

以前、目犍連は釈迦牟尼仏側近の神通力第一の弟子で、彼の母は餓鬼道に生まれた。目犍連は神通力で食べ物を持ってきたが、食物は彼の母の喉で火に変わってしまい、食べることができない。そのため、目犍連は釈迦牟尼仏にどの様にしたら母を救えるか尋ねた。釈迦牟尼仏は彼に一法門──「齋僧」を教えた。つまり農暦7月15日、目犍連は齋菜を閉関で出て間もない出家人、つまり釈迦牟尼仏の弟子で,すでに証した阿羅漢果を供養した。目犍連は彼らに対して大供養し、更に彼らは読経してその供養の功徳を持咒迴向した。そのため、目犍連の母はやっと天道に生まれた。これはその中の一つの話である。梁皇寶懺の中の梁武帝は彼の妃や子に代わって大きな功徳を行った。それで彼の妃や子は天道に生まれた。この二つの話から、あなた方は仏菩薩に助けてもらいたいと祈るのなら、あなたは必ず供養しなければならないことがはっきりと分かる。供養は財物ではなく、恭敬の心である!あなた方は恭敬の心で祈っていないので、求めても得られないのだ!なぜ、恭敬の心が必要なのか?あなたに恭敬心がある時、あなたの心には何の考えもなく、ただひとつの心──真心だけがある。妄念の心ではなく、貪念の心でもなく、欲望の心でもない。だからこの種の祈りは相応する。しかし、あなた方の祈りはすべて貪念があり、妄念がある。だから求めても得られない。だからどんなに多くの仏経を唱えても何も反応がないのだ!しかし、あなた方は仏経を念じているので、仏と菩薩は我々に答える。ただあなたが念じるだけで、仏菩薩は必ずあなたを助けるために人をよこす。だから、今日、あなた方はここに叱られるためにやって来たのだ!あなた方は過去世と今世に仏経を唱えていなかったなら、今日ここに座ってはいない。

なぜ、一人の上師が大切なのか?それは彼が学習過程においてあなた方の間違いがどこに有るかわかるからである。今日、あなた方に死について話すが、それはあなた方を脅しているのではなく、我々が理解しなければならないことであり、なぜ仏を学ぶのかを理解しなければならない。もしも、仮に仏を学ぶのは、すべての人天福報のためで、今世がよく過ごせるためであり、それで仏菩薩が常に私を守ってくれるのなら、それは外道の思想である。いわゆる外道は彼らを辱めるのではなく、彼らを低く見るのではなく、仏法の大切な点は内に向かって求めることで、内に向かって求めることは、あなたが自分の真の姿がどうしてそうなったかをはっきり見ることだと言っている。

以前ある人が観世音菩薩に尋ねた。「あなたは一日中、人々に観世音菩薩を念じるように言うが、それならば、あなたは数珠を手にして何を念じるのか?」観世音菩薩は、「私も観世音菩薩を念じる。」と言った。この話は非常に簡単であるが、非常に深い仏理がある。我々一人ひとりの衆生の本性にはすべて仏になる条件が備わっているので、我々は外に向かって誰かに、神に、仏菩薩に我々に何かをしてくれるように祈る必要がない。我々にはそのすべての条件がすでに備わっている。ただ我々が知らず、見過ごしているだけだ。

厳格に言うと、仏は宗教家ではない。仏は我々がどのようにして自分を改めて自身の本質を理解する事を教えている。更に言うと、我々は仏法を「仏教」であると言ってはいけない。「仏教」と言うと、それは宗教となる。宗教とは何か?或る一つの特定対象を拝み、求める。それを宗教という。仏法は哲学でもない。あなたの前因を分析するものではなく、はっきりとあなたに言うものである。すべての事の経緯もはっきりと我々に言う。あなたは自分の主人公になることができる。あなたは自分で自分のすべての命運を取り仕切る。その取り仕切りは仏法の学習によって、あなたは行うことができる。

仏経の中で常に強調されているのは、父母に孝行すること、師と長に仕えることである。なぜなら、我々一生うち、我々が最も恩徳があるのは、我々を産んだ父母と我々に仏法を教えた師と長だからだ。我々を産んだ父母は我々に体を与えたことで仏法の修行ができた。我々に仏法を教えた上師、師父は我々に生死解脱できる恩徳がある。だからこれは非常に重要なのだ。もしも一人の人が父母に対して親不孝で、師と長に仕えないなら、彼は人であると言う資格が無い。なぜなら人になるのに、この二点は最も基本的な条件だからだ。また、我々はその他の三悪道の衆生と同じ所にはいない。なぜなら我々はその条件を満たすことができるから。この二つの条件を満たすことができるか?と自問しなさい。もしも、できないのなら、あなたは自分はすでに仏を学んで皈依しているという資格が無い。

我々が仏を学ぶ人であるのなら、最も重要なのは怠慢にならない、怠惰にならないということだ。少しゆっくりしても問題はないし、数年してから修めれば良い、多分数年後にまた変化すると思ってはいけない。あなたに今世から未来世までおそらく何世に亘って仏法を聞くチャンスをなくしてしまう。だから、我々が幸いにも仏法に触れることができたのなら、我々は自分を励まし、だから仏は我々に言う。死亡は怖いことではないが、必ず誰の身にも起こり、且つ誰もが皆向き合い、対応しなければならない。我々が死について理解する一秒ごとに我々に着いてくる。だから我々は怠慢することなどできない。もし、仏を学ぶのは、親族が良くなることを望むからだとしたら、それは遅かれ早かれ怠慢になる。なぜなら、各人には各人の因果がある。仏は果報を転ずることはできないとはっきりと言っている。各人が各人で修め、あなたが代わりに修めることはできない。あなたの夫や子供の悪業がすぐに消えたりしないし、不可能だ。あなたの修行は彼らに転重軽受させるだけである。だから我々はこの点を理解した後、我々は仏法が真に少しの緩みを許さないことをはっきりと学習する。起心動念は自分に言う。時間は一秒一秒消えていく。考えてみれば、あなたが今年何歳であろうと、数十年前の事はまるで昨日のように起こっているだけで、だから言い換えると、未来数十年後の事情は明日起こるかもしれない。だから仏経の中で告げている。仮にあなたは死を考えないのなら、現世の安楽を貪りやすくなる。仮に死について考えることなく、死がやってきたなら、あなたが毎日していること、それは今生が少しでも多く楽しいことで満たすことだ。我々が快楽を追求する時、悪業が始まり、悪の因が始まる。

我々は、美味しいものを食べる、いいものを持つ、贅沢にお金を使う等々に日々ふける。もしも我々が死を考えてずっと我々のそばにあることを知っているなら、今日過ごした日は、それは単に過去世で自分が植えた因で、それが今表れた果報に過ぎないことが明らかだ。だから、残った日々は常に欲望を追求してはいけない。たとえば、ある人は子供を有用な人にしたくてずっと塾に行かせる。それは世間法では正しいが、出世法では正しくない。なぜなら子供が有用な人となるかどうかは、彼の過去の因が非常に重要である。たとえ、あなたが塾に行かせなくても、あなたが彼に何を学ばせなくても彼は自然に有用な人となる。多くの父母は自分のメンツを満足させるために、その欲望を子供の肩に載せ、子供が自分の代わりになってくれることを望み、その子の母となればメンツも立つので、自分の娘にピアノを習わせたり、勉強させたりする。金と時間を無駄にして、子供の心を傲慢にする。事実、子供が最も大切なのは、仏法を聞くことである。もしも、彼に仏法の薰陶があれば、その子は勉強が楽にできる。なぜなら、その子はなぜ勉強するのかはっきりとわかっているから、ストレスが少ない。多くの父母は皆、同じ考えだ。子供は今は、仏法を学ばなくてもよく、勉強が大切だ。勉強の時期が過ぎたら、彼に仏法を学ばせる。彼が出て事をするには彼の仕事が成功するのを待ち、それから仏法を学ぶ。事業は少しだが成果が出たが、彼が結婚するを待ち、それから彼に子供ができるのを待つ。それでは何歳になれば学ぶのか?いつまでも学ばない。これらはすべて自己欺瞞であり、欲望を達成するために、常に自分を騙している。

仏経でははっきりと説いている。仮に我々が仏法を学んだなら、特に仮に仏法を学ばないのは普通の人なら、死ぬことについて考えず、常に欲望を追求し、手段を選ばない。なぜ、ヤクザは銃を持って人を殺すのか?なぜなら彼は自分が死ぬことを考えていないからだ!彼は自分は逃げられると思っている。誰かが彼の行く手を遮ったなら、彼はその誰かを殺すだけだ。仮に今日、一人の人が自分が死ぬことについて考えたのなら、彼は多くの事情について、考えの角度、切込点がリラックスするポイントであると見るだろう。なぜなら彼は自分が死ぬ時、何も持っていくことができないし、すべての名も利もこの肉体さえ連れていくことができずに切り離されることをはっきりとわかっている。それはちょうど、リンチェンドルジェ・リンポチェが話した逸話で、4人の息子が財産争いをして、彼は父が死ぬ時にリンチェンドルジェ・リンポチェの元へやって来て言った。もしも父が生前仏法を学んでいたなら、もっと早くに子供に仏法を学ばせただろう。そして死ぬ前に子供たちに言っただろう。「私の財産は寄付するので、あなた方は関わらなくても良い!」そうすれば、彼はこんなにも苦しまずに済んだだろう。これらの人々はなぜ、財産争いをするのか?なぜなら、彼らは死ぬことを考えないからで、たとえ父が死ぬのを見ても、自分には関係ないと思い、財産は自分のもので、自分のものにしようとしないことはばか者だと思う。

仏が説くのは真理である。あなたが仏教徒であろうと無かろうと、あなたは自分は死ぬかどうか?と尋ねる。死ぬ!あなたが真にこの種の必然の現象を受け入れるのなら、この種の欲望の追求レベルは、すぐに落ち着く。我々は今日、なぜずっと我々の欲望を追求するのか?我々が二十歳の時、自分はまだ若いので、社長になるまで考えると言う。しかし、彼は死には時間がないことを理解してない。耳が大きい人は90歳まで生きると言っていないし、耳が垂れていない人は二十歳で死ぬ!とも言っていない。これは人相術の中で言っていることであるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の目で見て耳の垂れている多数の人が突然死しているのを見ている。リンチェンドルジェ・リンポチェの或る友人は耳垂れが大きかったので、人相占いでは40歳で死ぬはずはなかったが、突然に死んだ。なぜか?なぜなら、彼は欲望を追求し、野生動物を食べることを好み殺業を作り、善事をせず、死について何も考えず、自分が死ぬとは思っていなかった。そして死から逃げていた。事実、彼は死ぬ前、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に貴方の心臓が悪いことを警告していた。彼のスタッフは病院の予約を三度取ったが、彼は一度も行かなかった。忙しかったのではなく、医者が彼に間もなく死ぬことを告げるのが怖かったのだ。多くの人は医者があなたにこの事を言うのを恐れるが、それは愚かであり、逃避に過ぎない!

死について考えない人は、欲望が尽きることがなく、エネルギーと生命を消費する。仏法を学ぶか否かに関係なく、人は必ず死ぬ。密法の中には死なない体を修める事ができると言うが、我々には修められない。直貢噶舉派は長い歴史の中で、第十三世の法王は不死身を修めたので、彼の肉体は死ななかった言う。そして現在、今も五臺山の文殊菩薩道場にいると言う。四十数年前、直貢噶舉派にはリンポチェ、ラマが数名いたが、五臺山で敬虔に彼の祈祷文を唱えたところ、彼は我々の直貢噶舉は現在どのようであるか?と尋ねた。直貢噶舉派の不共護法アキも修めた。これは密法であり、顯教にはない。あなた方は皆顯教の基礎がある人々なので、あなた方が不死身を修められないと、あなたの体は必ず死ぬ。あなた方はこの状況がはっきりわかったなら、あなた方は思考すべきである。毎日、自分に言う。私は明日死ぬかもしれないので、この推進力を用いる。あなたはそれで弛みや怠惰や惰性で仏法を学ばなくなり、我々仏法を学ぶ多くの人は、推進力が必要である。もしも、我々欲望であなたを推進したなら、それは仏陀が説く仏法に背く。例えば、外部の団体はあなたに大金を寄付したのなら、それは仏法を修めたことで、それは大功徳となると言う。しかし、その欲望の推進力は誤りである。我々の推進力は、本物であり、真の面目によってあなたに告げる。

更には一切の眷属は全て変化する。特に遠くへ押される。それは国、世界及び宇宙を含み、全ては変化する。なぜなら、それらはすべて有為法だからであり、貪、嗔、痴、慢、疑の思維方式によって、動くのは、つまり有為法であり、変化する。だから、経典のなかで、衆生の生死はまるでダンスのようだと言っている。生命はまるで雷電と稲妻のようだ。だから我々の今世の肉体の命が永遠だと思っていけない。多くの経典で説いているが、生命はちょうど朝露のように短いのだ。今日、我々が七十歳、八十歳、更には百歳まで生きたとしても、この空間の中で、宇宙の中では短いのだ。我々ははっきり理解しなければならないが、外在の世界及び一切の有情社会はすべて無常だ。外在の世界はつまり我々が見たすべての宇宙であり、それは一切の有情の衆生を含み、その生命の週期はすべて無常であり、変動し、変化し、永遠ではないのだ。今日の天文学でははっきりとわかっているが、宇宙の如何なる銀河もすべては無常変化する。それはつまり仏が説いているすべてを認証している。

以前我々は天地はある神が作ったものであると思っていた。しかし、仏は我々にそうではない、すべては一切衆生の心を通じてある現象が起こる有為法であると告げる。この種の現象は、ある一箇所に永遠に留まり、変化しない事はできない、してはいけないということだ。我々が見た一切、知ったすべての事情は、皆生死変化する。少しでも天文学に関わったものなら誰でも知っているとおり、星には過去に死んだ星々があり、また今生まれた星々もあり、我々人も同じだ。我々仏法を学ぶ人は、はっきりと知るべきだ。大宇宙すべては無常であり、我々の身体の小宇宙も無常であり、我々がその観念を受け入れたなら、どのように精進するか、どのように仏法を受け入れるか分かる。現在の医学では我々の身体の細胞は7年ですべてが入れ替わると言う。これはつまり無常である。また我々は自分の身体は常にずっと生死を続けていて、留まることがないとも言える。ただ、肉眼で見えないだけなのだ。仏経では我々の身体は「分段生死」と呼ぶ。我々が生まれた後、我々は成長する、我々は成熟すると考えてはいけない。その実、我々が生まれた日から死への道は一歩一歩、一秒一秒近づき始め、あなたが如何に自分の身体ケアしようと、毎日どれだけの運動をしようと、福報がどれだけたくさんあろうと、医学がどれだけ発達しようと、死なない人はいないのだ。

今日のこの問題は、非常に厳しい問題であり、仏法のために説く問題ではない。我々は内心世界から深く深く体得し理解すると、あなたは仏法が我々に助けを与えてくれると知る。仮に、我々がこの現状を受け入れず、仏法によって寿命を伸ばすことができると思っているのなら、その観念は間違っている。密法の中では、長寿仏はこの修行法門があるが、我々がその寿を要求するのは、現世の享楽のためではなく、今生で悟りのための修行の時間が足りないことを恐れるためで、だから長寿仏を修める。自分が死なないように、何年かでも長く生きて自分が考えたことができてから死ねるようにするためではない。事実、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの数年間、如何なる衆生にもポワ法を修めているが、どの衆生も死ぬ前、することが足りてないという思いになる。我々人の欲望は深海よりも更に深く、どこまで行っても満足できない。この欲望が満たされると、次の欲望がまた生まれ、欲望は次々と現れる。だから、あなたはある事ができたなら仏法を学び始めると言う。しかし、それは仏法を学ぶことを遠ざける方法である。我々は命が短いことを理解すると、自分がどうすれば仏法の進歩が早くなるのかを知る。

数千年前の仏経に記載されているとおり、我々のこの世界は今、存在しているのではなく、「成住壞空」段階を経ている。この中の「空」は「ない」ということで、《中觀論》や《心經》の中で説く「空」とは違い、この意味ではない。世界にとって、ひとつ前の世界が終わった後、全ては虚空となり、20小劫を経た後、世間の成劫が始まる。基本の底色は青色で、その数千年前に仏経ですでに記載された。だから現在、天文学で星雲を見ると青光から始まり、それは「意」と呼ぶ虚空である。続いて、深く暗い緑色の狂風が表れる。東西南北が動き、だから天文学の写真で多くの星雲が生まれる時、その雲の形状は十字形で、東西南北が動く。以前、釈迦牟尼仏には宇宙を見る望遠鏡はなく、宇宙船もなかったのに、どうして見ることができたのか?多くの人は、仏は迷信であると思っているが、事実、仏は最も科学的で、科学よりも科学的で最も先端的である。最上層には金色の雲がある。Discoveryの番組では、よく星雲の発生を放送していて、色は今、説明したのと同じだ。青色から徐々に深く暗い緑色になり、次に金色の光が生まれる。金色の雲が発生した後、水になり、風が発生して動き、ゆっくりと上、中、下が生まれ、いわゆる「須弥山」になる。須弥山はあるか?ある。しかし、なぜ見えないのか?なぜなら、須弥山は固体ではなく、渦巻きだからだ。ひとつの回転する大気流で、仮に天眼通でその形状を見たなら、即ち山の形状だということである。毎回の法会前にマンダに捧げるマンダ盤の中間にあるのが、須弥山である。須弥山が起こった後、七層金山及び鐵圍山がゆっくりと起こり、下から上に向かって形成される。有情衆生が続いて出現し、上から下に向けて起こり、天道から始まり、地獄道まで造られる。それは始めは業が軽いので、まだ業が造られていないのだ。貪、嗔、痴は少なく、天道に生まれ、後日無明、煩悩、業力が続いたので、一層一層と地下に降りた。地獄に至った後、おそらくまた上に上がって天道に至り、そして六道となりその中でずっと輪廻している。だから天道から始まり、地獄道へ至り、彼の心念は益々粗雑になる。初めての地獄衆生が生まれた時から20小劫が経ち、住劫が始まると、人寿命は無量寿から10歳まで減り、続いて徐々に8萬歳まで増え、現在の人寿命は、減少階段であり、100歳前後の時間に減った。

歴史に記載されているとおり、彭祖は非常に長寿で、800歳まで生きた。この話は神話ではなく、確かなことだ。仏経に記載されているとおり、我々のこの度の人類文化は三度目だと言う。なぜなら、8万歳から減り続けて現在の100歳になった。ここまで非常に長い周期を経ていて、間には様々な文化が生まれては滅び、常に演じられてきた。だから我々は10歳まで減り続けた後、また8万歳まで増えていく。だからこれからの人類の寿命は減っていく。現在の医学は非常に発達しているのだから、人類の寿命がどうして減っていくというのか?とあなたはきっと言うことだろう。しかし、あなたは医者に尋ねて気がつく。病院で死ぬ子供は、以前よりも増え続けていて、比率は益々高くなっている。現在病気で死ぬ以外に、毎日それぞれ事故で死ぬ人が平均寿命を減らし、寿命は短くなっている。多くの交通事故死はすべて20数歳、10数歳であることから、平均寿命が短くなるのはあなたも分かることだろう。だから我々は我々の子供らが長生きするのを祈るべきでない。なぜなら、我々はこの劫に生きているから。我々のような小さな者たちは仏法の薰陶において特に努力する他に、おそらくその団体はいくらかの変化があるだろう。さもなければできるわけがない。なぜ、現在生まれた子どもたちは病気が多いのか?以前よりもしつけが難しいのか?なぜなら業は益々重くなっていくから。自分の父母が蒔いた業、以前の祖先が蒔いた悪業を含み、生まれ変わった子供自身の業も含むから。だから、地蔵菩薩は妊娠中、《地蔵經》を念じるように説く。なぜなら、その子供の累世の業は、あなたはどれほどのものかを知ることができないから。このような加減が18回繰り返され、人の寿命は無量歳から再び減る。仮にその時に仏が出世せず、8万歳になれば、その劫は終了する。

壊劫が始まると、新しい地獄道の衆生がいなくなる。それは地獄に堕ちる者がいないということではなく、彼が人であった時に行った悪業であり、彼が別の世界の地獄道に生まれ変わる。だから地獄道の中の衆生は徐々に減っていくので少ないのだ。壊劫時、地獄には金剛地獄の中の五無間罪を犯した衆生、仏法を誹謗し、金剛阿闍黎誓言を裏切った少数の衆生だけが残る。五無間罪を犯すとは、つまり父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、僧の和合を破る、仏身を傷付けることを指す。悪意を持って仏像を壊せば、それは仏身を傷付けることである。仏弟子として、行動したことが仏弟子としてふさわしくないなら、他の人が仏法を謗り、仏の血を流させると同じだ。あなた方いつもその事をしている。ある人が仏門に皈依するのは、その団体の善の心を利用して商売をしようとしていて、仏を利用して金儲けをしようとする。それはよくないことで縁に沿うべきである。仏身を傷付ける罪は非常に大きい。それはある人が仏は霊験しないと言ったり、ある人が仏は人を助けないと言ったりする事も含み、それはすべてこの範囲内である。なぜそれほどまでに悪いというのか?と必ず誰かが言う。仏は非常に慈悲深いと言ったではないか?なぜ私が行った行為が悪く、私を地獄に落とすのか?仏があなたを地獄に落とすのではない。あなたが自分で地獄に堕ちるのだ。

この因と果はどのように解釈するか?仮に、今日あなたが仏弟子であるなら、あなたの行為、言語は仏弟子としてふさわしくないので、人に仏法を勉強させることができない。仏経によると、仏を学ぶ慧命を断つので、その罪は殺人の罪よりも重い。あなたが他人が仏法を学ぼうするのを止めるので、果報は五無間地獄へ堕ち、非常に深刻である。だから口から適当な言葉を言ってはいけない。一句一句よく考えてから口に出すべきだ。だから、我々は仏法を学んでいるのだから配偶者と口喧嘩してはいけないと、なぜ、あなた方によく言うのか?あなたは仏法を学ぶだけで配偶者と口喧嘩したなら、仏を誹謗することになるからである。この果報はあなたのものであり、彼のものではない。多くの人は彼が私を誹謗したのであり、彼の業障は非常に重い等々と言う。あなたの業障が重いのだ。あなたの業が重くないのなら、なぜあなたを誹謗する人がやってきたのか?

だから我々仏法を学ぶ者は謗法についてはっきりと理解しなければならない。謗法は多くの人がする。つまり、人が《地蔵經》を唱えるが好きだと言うと、あなたは「《地蔵經》をしょっちゅう唱えていると、鬼があなたに憑くから気をつけなさい!」と言う。これを謗法と言う。地蔵菩薩が鬼道を済度することは明らかだが、鬼があなたに憑くので、その人に《地蔵經》を唱えずに別の経を唱えるように言う。《金剛經》を唱えるのが良いと言う。これは差別する心であり、それが謗法である。すべての仏法は衆生を利益する。この法があの法よりも優れているということなく、この法があの法よりも強いということもない。そして衆生ごとに因縁は異なり、ある法門が助けに必要だったとしても、それはあなたがその法門を修めて利益を得たことで、他の人が修めて得られるということではない。それにほかの人が修めた法門をあなたは修めることはできないということではなく、そのようなことはない。だから、以後決して言ってはいけない。私は六字大明咒を修めたのであなたが唱える金剛薩埵よりも良いというようなことを。それらは謗法となる。自分が好きでないのなら言わなければよいのだ。他人を止めたり、他人にその法門を修める事を諌めたりすることは決してしてはいけない。あなた方にはそのようなことを言う資格はない。徳を備えた上師が言う事は除く。なぜなら彼はあなたの根器、あなたがどんな法門を修めるべきかを知っているから。だから彼の心は謗法ではないのだ。あなた方の心は謗法であり、あなた方は我慢貢高の心で言っている。

金剛阿闍黎の誓いの言葉に背くとは、即ちあなたに伝法した金剛上師に背くということで、あなたとの間の言葉であり、それにあなたは背いた。どんな誓いの言葉なのか?教えに従ってしっかり実践することだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常々皆に言っている。もしも、あなたがある道場が好きでないのなら、ある上師が好きでないのなら、言う必要がない。静かにそこから離れれば良いのだ。なぜあなたが離れるのかを説明する必要がない。あなたはその上師、道場、法門と縁がなかったのだ。しかし、その上師を自ら求めて行って批判してはいけない。直貢チェツァン法王は言う。あなたの心の中ではこの上師が凡夫であると思うなら、あなたが得たものは即ち凡夫があなたへの加持である。あなたの心裡の中で菩薩だと思い、仏だと思うのなら、それはその上師があなたに加持をすれば、仏菩薩の加持となる。直貢チェツァン法王は更に言う。あなたは上師に問題があると考えるが、上師に問題があるのではなく、あなたの心に問題があるのだ。そうすると、あなたは必ず言う。上師は絶対に正しいのですか?と。上師が仏法を説く時、絶対に正しい。密法と顕教は違う。もしも、教えに従ってしっかり実践せず、仏法を説いたのなら、護法が上師を懲らしめる。だから徳を備えた如法の上師があなたに仏法を開示し、あなたが彼の皈依弟子になることを受け入れ、更にはあなたに密咒密法を伝えた後、あなたが誓いの言葉に背いたなら、あなたは今世に唸咒があり、大礼拜があるから大丈夫と思ってはいけない。同じように金剛地獄に堕ちる。この道理はここにある。なぜなら一人の金剛上師は一切の衆生を助け、縁ある衆生を仏果にする。仮にあなたが彼を貶め、あなたと彼の誓いの言葉に背いたなら、多くの衆生の仏法を学ぶ因縁を断つことになり、その果報は非常に重い。

だからリンチェンドルジェ・リンポチェはここでもう一度、言う。あなた方がこの道場が好きでないのなら、静かにここを去りなさい。何も言ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたに批判されるのを恐れているのではなく、あなた方に《仏子三十七頌》を教えることができる上師だ。また批判されるのを恐れているのではなく、あなた方が金剛地獄に堕ちるのを恐れている。幸運を当てにする考えを持ってはいけない。帰ってからちゃんと懺悔すれば何事もないと思ってはいけない。すべての戒が破られても懺悔で補うことができるが、あなたが金剛上師の誓いがあるからであり、あなたがそれを破ったなら、懺悔してもだめだ。特別な法門を除き、それは金剛上師があなたに伝える。それはつまり金剛薩埵の法門である。だからそこに座っている皆さん、仮に曾て批判したことがあるのなら、そのような事を言ったことがあるのなら、もう今後言ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に批判されるのを恐れているのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは聞かなった。たとえ聞いてもリンチェンドルジェ・リンポチェの心は動かない。あなた方に沿って話をすれば、あなた方にって良くない。だからここでもう一度はっきりと言う。別の衆生が地獄道の中で、たとえ苦しみを受けても、その受けた苦しみはあなたよりも少ないと言える。なぜなら別の世界へいて業を返し、もう一度出て来ることができる。しかし、この種の罪を犯した人は、その世界だけにいる。たとえこの世界が壊れても、条件が更に悪くなっても、あなたはやはり逃げられないし、この世間で苦しみを受ける。

「金剛阿闍黎」は、一般の隨縁皈依した師父とは異なる。金剛阿闍黎は、すなわち金剛座の上面に座ることができる。各リンポチェ、直貢チェツァン法王が座る法座の前面を含み、すべてには一個の十字金剛杵がある。この十字金剛杵は即ち金剛座であり、もしその人が金剛乘の中である一定のレベル、ある基準に達しなければ、座ることができない。ちょうど、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、仮に直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに座らせなかったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも座る勇気などないし、座っていることはできないし、座れば何か悪いことが起きるだろう。それならば誰なら座れるのか?つまりそれは、彼の心の態度、修行した法門、一切の證果であり、上師の認證を得ることができ、資格を証明するのは、金剛上師であることだ。金剛上師と普通の師父の違いはどこにあるか?普通の師父はあなたに因縁を与える。仏菩薩と共に今世で良い縁を結ぶ。しかし、彼らはあなたに今世での生死解脱を保証する勇気はないし、能力もない。しかし、金剛上師ならば、彼には絶対の方法があり、あなたに今世の生死解脱を保証することができる。

生死解脱は、仏号を念じれば、必ずできるものではないし、できるとは限らない。またただ禅定に頼れば良いわけでなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対にできないと開示する。以前の中国文人である蘇東坡の前世は禅定を良く修めた人で、修めて自分は来世で蘇東坡と呼ばれることがわかっていた。蘇東坡の伝記にはその事が書かれている。金剛乘の修行法門は、小乘とも大乘とも異なり、金剛乘の法門は我々に確実に生死を離す。小乘と大乘でも生死を離れることができるが、あなた方が在家者として修めるには不適当である。例えば、我々が阿羅漢道を修めるには、出家相が表れたなら修めることができる。我々中国で生まれた大乘仏法のどの宗、どの派、華嚴、天台、淨土、禅宗に関わらず、非常に長い時間を理論に当てなければならない。そしてあなたはやっとあなたの生活の中で真に用いることができるようになる。

金剛乘はすべての仏法を濃縮したものなので、その薬は強いと言える。その薬は強いので、金剛上師は自我と弟子に対する要求も相対して強い。なぜなら、金剛上師は一切の縁ある有情衆生の生死を離す助けができる。だから仮に、あなたがすでに金剛上師から仏法を学んだのならば心に悪念や中傷する心が生まれる。あなたの果報は金剛地獄にある。たとえ、この世界(この地球のこと)が壊れても、あなたはそれ(地球)と共に壊れ、別の世界に行くことができない。だから今回、リンチェンドルジェ・リンポチェが「四加行」を伝える前になぜ、こんなにも細かく話すのかと言うと、つまりあなた方にはっきりと理解して欲しいと願い、はっきりと理解しないことで金剛地獄に堕ちることを望まないからである。決して幸運を当てにして一言唱えれば何事もなくなると思ってはいけない。どの言葉を言えば出口に出ても、絶対に他の果があるのだ。それはただいつその果が成熟るかだけで成熟しないことはなく、絶対に成熟する。

だからここでははっきりと言い、幾つかの罪を犯す。たとえ、地獄の衆生が徐々に消えても、彼らは消えない。地獄道が消えた後、鬼道、畜生道の衆生もゆっくりと共に消えていく。現在我々はゆっくりとこの事を体験している。なぜなら、我々人はずっと生存の環境を破壊し続けているから、多くの畜生道の衆生はゆっくりとなくなる。地球はすでにゆっくりと「壞」の段階に入り、環境保護は仏法を学ぶ者にとって非常に重要であり、知らなければならないことだ。人道の中には二禅でなければならない。彼の神識は二禅の光音天へ行く。その後、四大天王、三十三天及びその他欲界天の一切の天衆も二禅天に生まれ変わる。初禅も二禅天に生まれ変わる。禅を修める人は四禅八定を修めやすい。仏の中で言うと、たとえ最高の禅定の功力──四禅天の非想非非想天である最高の境界を修めても、やはり輪廻の中にいて、輪廻の痛苦を断つことができない。だから禅定を学ぶ人は必ず経験のある上師がそばに居てあなたを監督する必要がある。禅を修める人は四禅天の果報に落ちやすい。一つの細かく簡単な考えで、輪迴を断つと四禅天の差ができ、現在多くの禅を修める出家衆を含めて、体得できない。我々直貢噶舉は、禅の法門「大手印」を修める。つまり我々に四禅天を修める機会はない。もしも「大手印」を学ぶのなら、「四加行」を必ず修めてから初めて学ぶことができる。二禅天以下から地獄底層の中まで衆生はいない。この地球世界は干ばつで雨は降らず、草木森林はすべて枯れてしまっている。七つの太陽が順に現れ、須弥山、四大部洲及びすべての天界はすべて烈火が出ていて、その後炎と一つになる。もしもこの現象を我々が見たのなら恐ろしい。だからなぜ、我々がずっと今世で生死解脱したいと強調するのか、それはもしもうっかりして、あなたがその時間に生まれたのなら、一巻の終わりだからだ。

仮に、今世のあなたの嗔念が重いのなら、如何なる人に対しても恨み、何を見ても目障りだと思う。この嗔の火は絶対にあなたをその時間に生まれさせる。なぜ火があるのか?嗔念が重すぎるのだ!あなた方はよく考えてみなさい。あなたがほかの人に対して恨み、怒る時、あなたの胸は火が燃えている。つまりそのパワーはあなたを地獄に落としている。来世はそこに生まれる。我々仏法を学ぶ者は怒ってはいけないのではない。我々には七情六慾があり、怒ることもある。しかし決して恨みを持ち、企みを持ってはいけない。もしくは彼が死ぬまで、彼が負けを認めるまでという考えを持っていはいけない。なぜ、彼と戦わないのか?第一に、我々仏法を学ぶ者は人と争っていけない。争えば嗔が生まれる。嗔が生まれれば因果に堕ちる。因果に堕ちれば、輪迴する。第二に仏法を学ぶ者は、自分が仏法を学ぶことで人を悩ませてはいけない。だから多くの人は「リビングルームで念仏を唱えてもいいか?人が側でテレビを観ているが。」と尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず、良いと答える。しかし、彼の考えは、リンチェンドルジェ・リンポチェが「彼にテレビを切らせてからあなたは唱えなさい。」と答えるのを望んでいる。

あなたが仏を拝むのも、経を唱えるのもあなたの自由だ。人がテレビを観るのも人の自由だ。あなたが仏を拝めば彼の邪魔をする。何を根拠に、彼がテレビを見てあなたの邪魔をすると言うのか?あなたが仏法を学ぶのは偉いのか?全世界では、あなたが仏経を唱える時にはあなたに譲り、この咒語が終わったら、彼はテレビを観て良いのか?そのような態度をしてはいけない。彼には、あなたが経を唱える時に優先しなければならない事がわからない。なぜなら彼は仏法を学んでいないのだから、あなたが彼の希望を聞き、彼に譲らなければならないのだ。なぜなら、あなたは仏法を学んでいるのだから。仮に、あなたは彼がテレビを見るのは正しくない、彼は◯◯しなければならないと思い、あなたが仏法を学んでいるのに家族と喧嘩して、嗔念を起こしたなら、仏法を勉強して何の意味がいるというのだ?学んでいないよりもたちが悪い。だから、我々仏法を学ぶ者は、仏法を学んでいるからとか、菜食だからとか、ある事をしなければならないからとか、そのような事でほかの人の悩みを引き起こすのは正しくない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは曾て飛行機に乗った時、乱気流に遭い、ひどく揺れたことがある。隣の席は一組の外人キリスト教伝導牧師で、老婦人は緊張して恐怖の余り、叫んでいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは老婦人の肩を軽くたたき、彼女に「あなたは良い人です。なのであなたの主は必ずあなたを守るので怖がらなくても大丈夫です」と言った。すると、老婦人は落ち着きを取り戻した。仮にリンチェンドルジェ・リンポチェがあの日、彼女に「あなたは叫ばないで。私の觀世音菩薩があなたを助けてくれます」と言ったのなら、彼女はきっと更に叫んだだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。仏法を学ぶことは、必ずしも我々の基準で人を凌駕することではなく、どんな方法でもその人の助けになることが仏法であり、必ずしも観世音菩薩を標榜しなければいけないわけではない。「因人而施、因人而做」とは、簡単に言うと、あなた方が智慧を持つ前に、他人に対してこれを唱えなさいとか、これを拝みなさい言わないことだ。なぜなら、あなた方はその人が受け入れられるどうかを知らないのだから。彼らは飛行機を降りる前、名刺をリンチェンドルジェ・リンポチェに渡して、「以後度々連絡しましょう」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏が説くことを基準としてるから、衆生を離苦させることができ、それが仏法である。ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェの妹のフィリピン籍の使用人がある事が起こってリンチェンドルジェ・リンポチェに助けて欲しいと頼んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に彼女が信奉する天主教《ロザリオ》を何度も唱えるように教えた。彼女の天主は彼女を守ったので、彼女はその場で非常に喜んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に《普門品》を唱えさせることができない。第一に彼女は中国語がわからない。第二に急に彼女に《普門品》を唱えるように言っても、彼女の信心は足りないのだから、彼女に《ロザリオ》を唱えさせるのだ。これらの逸話が我々に問いかけているのは、仏法を学ぶことは、我々個人の事であり、あなたは仏法を学ぶから自分の身分や地位がほかの人と違うと思うのではなく、あなたが仏法を学ぶから他の人とは違う新しい主張を唱えるのではなく、あなたが仏法を学ぶから傲慢なのでもなく、もしもこのような感覚があるのならば、すぐに改めなければならない。仏の真の意義は我々にどんな方法があろうとも、衆生を離苦させるのが仏法である。但し、もしも徹底して用いるのなら、あなた自身は必ず仏法の薰陶を通じて自分を「戒」、「定」、「慧」三門のすべてを修めていなければならない。それでこそ、初めて自由闊達な方法で衆生を利益できる。さもなければ、できるわけがない。

仏は、「成」、「住」、「壞」、「空」この四過程の順に詳しく紹介した。我々を脅しているのではなく、神話を説くのでもない。また仏は定境の中で世界の変化を観た。そして先ず我々に必ず起こる状況を予言し、我々に把握し、慎み、今世を大切にし、無駄遣いせず、時間をムダにしないように促した。そうすることで初めて、その時に生まれることはない。嗔念は非常に恐ろしい。特に他人が修めるのが自分よりも少しばかりいいだけで、嗔念が起こることが更に恐ろしく、この種の心が生まれることができず、この種の心を持つ人はその時に生まれることになる。

この世界で火炙りにされると、その狂風と共に上から下に向けて猛圧され、火は衆生が生存できないほどに一切の場所を覆う。最後に地獄の火と一つになる。地獄には火がある。天主教、キリスト教、回教すべてにこの話があるが、事実、仏が観た地獄は、火地獄だけでなく、更に寒冰地獄もある。《地蔵経》の中では地獄は18種あり、大きいもの、小さいもの、数限りないと言っている。地獄の火と一つになった後、上に向かって燃え、劫末の火と混ざる。非常に強烈な業力のため、一瞬で地獄に残った衆生もその他世界の無間地獄に生まれ変わる。最後に火が上に向かって焼き、すべての上層の天界を焼き、二禅天から下まですべては灰となる。その後、二禅天の衆生は三禅天に生まれ変わり、三禅天の一切の衆生は四禅天を得る。その後、四禅天に生まれる。その後、下の十字風輪が上に向かって狂うように吹き、三禅天以下は狂風が吹いて襲われ、一切は空に帰す。その経過は20小劫で、成、住、壞、空である。四中劫は会わせて80小劫ある。四中劫で一大劫となる。この前に述べたことは仏法ではなく、我々が觀修する方法である。我々が密乘を修める時、死を観るとはつまりそれを観ることで、あなた方は想像してみれば分かるように、経典を唱えること、懺悔することはすべて最も簡単なことだ。今、語ったことはすべて最も表面的な事で、彼らが持ついくらかの真はこのような直観であり、真に内心世界を観て、無常のパワーをはっきりと見ると、彼はすぐに悟りを開く。この法門は、あなた方にとって言うのは非常に困難である。ここで言うと、仮に教授式で説いた場合、古典から引用する必要があり、多くの経典、多くの理論を以ってあなた方に詳しく解説することになる。簡単に言うと、仮に我々がこの「成住壞空」の法門を修めるなら、今世で足りるし、他のものを学ぶ必要が無い。しかし、今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが説くのはただの常識であり、あなた方にこの地球、この世界の最後の結果がどのようであるかを理解させる。我々が想像するようなずっと不変、永遠に壊れないのではない。

ある人達は、自分の家族の人は死なないと思っているが、それはこの世で一番愚かな人だ。機械を買えば眷属を長生きさせることができると思っているのは最も馬鹿だ。しまいには、お金を使いきれば眷属は死んでしまい、金が尽きて命も尽きる。機械を買うお金があるのなら、なぜそのお金を使わないのか?《地蔵経》の中で述べているとおり、医療の救済が必要な人に上げれば、その福報と功徳は無限大である。けれども愚かな人は、諦めきれず、私が彼の命を救えると思い、彼の命を救えなければいけない、諦めきれない。人が死ぬのは当然の報いだ。しかし《地蔵経》にはっきりと書いてある。我々は自ら薬を手にして、金と財産を必要な人に上げるのは、最も大きな福報であり、最も良い功徳である。なぜなら、あなたができたのなら、おそらくあなたの眷属の命は、救うことができる。しかし、多くの人は信じず、一ヶ月に数十万を使い、眷属を死人のようにベッドに寝かせておくことを選び、数十万の布施供養をすることを惜しいと思うのは愚かなのか、それとも愚かでないか?我々俗人は、毎日馬鹿なことをしながら自分では賢いと思っていて、毎日、業を行いながら、自分は間違っていないと思い、毎日善を行っていないのに、自分をいい人だと思っている。悲しくはないか?自分を忌々しいと言うべきだ。我々は生生世世仏菩薩によって恩恵を受けていて、我々は今世で人身を与えられたので、改めて仏法を聞くことができる。あなた方は、教えに従ってしっかり実践していないのに、あなた方は忌々しくはないのか?悲しくはないのか?仮にそうであるのなら、あなたは皈依の時の一切の誓いの言葉を裏切っていることになる。あなたは上師があなたに与えた勧告を聞かなければならず、仏経が我々に教える方法を聞かなければならず、あなたはできないと思ってはいけないし、仏経が言っているのは神話物語だと思ってはいけない。仏経が説く一切は、正確なものだ。

ある年、リンチェンドルジェ・リンポチェの友人がネパールに行って仏法を学びたいがお金がないと言う。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドへ行って法会に参加しようと思って準備していたので、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドに行くために準備していたお金を友人に上げ、その金の元々の使いみちを友人には話さなかった。結果、友人はネパールから戻った後、リンチェンドルジェ・リンポチェに珍貴な塩舍利を送ってくれた。その後、この塩舎利がリンチェンドルジェ・リンポチェの母の命を救った。リンチェンドルジェ・リンポチェは元々、この行為をした時、自分の母の命を救うことができると思っていなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの考えは、すべては他人にとって最も良い事をすることで、自分が成仏できるかどうか利益を得るかどうかは重要ではなく、衆生が利益を得ることができることが最も重要なことなのだ。

それらの愚昧な人は毎日数十万を使い、ある日金が尽きた時、人は死ぬ。その死者は福報があるか?ほんの僅かもない。これは仏経の中で説く財が尽きると人が死ぬである。多くの人は、私が彼の命を救うのは当然のことだと思っている。私には能力があるのに、どうして彼の命を救わないのか?と思っている。仮に命が医療で助けられたなら、その日の後、死なない人にならなければならない。我々は彼の目の前の肉体の命を救うのではなく、彼の来世の命を救う。仮に、あなたが真にあなたの眷属を愛しているのなら、真にあなた眷属に関心を持っているのなら、あなたは彼の来世がこの種の生老病死の苦を再び受けない事を希望し、今は眷属の福報功徳を努力して貯めなければならず、彼が来世で成仏し、生死解脱してこそ、真に愛の心と関心があるのだ。彼が仮に今世で一、二年の命を延ばすために悪業を種を蒔いたなら、反対に彼を傷つけたことになる。だから智慧のない人は、傲慢であり、一日中仏に彼の命が死なないように祈る。仏菩薩は我々に一日の命を与えないが、仏菩薩は我々の一日の命を奪い取ったりしない。完全に自業自得なのだ。我々は長壽仏が寿命を延ばすことを修めるが、我々は因果の法則に違反しない範囲で求めるが、それはつまり仏法を学ぶために求めるのだ。

我々はこの外器世界、この地球、この銀河系をはっきりさせなければならない。それは必ずある日壊れ、我々一切の有情衆生はこの世界で生存できなくなる。だから我々は仏が我々に説く言葉は絶対に神話物語ではないことを受け入れ、はっきり理解しなければならず、我々は受け入れた後、我々が変えることができるのではなく、左右に行けるのでもなく、我々はただ今世で仏法を修めることに精進するだけで,自分を生死解脱させることができる無常の力を真に体得できる。その時、現場で或る子供が喧嘩を始めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは子どもたちに大丈夫、泣かないようにと慈悲深く告げた。そしてこれも無常であると開示された。子供はさっきは寝ていたが今は泣いている。今は泣いていて、今、皆は開示を聞いて満たされていたが、突然子供の鳴き声を聞いた。だから我々は知らなければならない。一秒ごとに我々自身と周囲の事情は随時変動している。我々の計画がどれほど良くても、すべては無常である。我々はこの世界の破壊を観る能力がある他に、我々は一年の四季の春、夏、秋、冬の変化、月明かりや太陽が昇ったり沈んだりするのを仔細に観察しなければならない。それも無常であり、それは「刹那無常」と呼び、それは一瞬の無常である。

我々は我々が生まれたこの世界が無常の世界であることをはっきりとわからなければならない。我々が追求した名利、学問等々のものはすべて無常である。このように言うのは、消極的だろうか?何もしたくなくなったか?いや、あなたは無常がはっきりした後、自分に対してのストレスや損得勘定が起こらなくなる。あなたはたとえこの学位が得られてもそれは私の成功を表すものではなく、学位が得られなくても私が失敗した事を表すわけではなく、それが無常であることが分かるようになる。そうすることで我々はストレスを生み出さなくなる。我々は自分の意念について、特に我々意根の中について、はっきりと理解しなければならず、常魔に与えてはいけない──つまり我々人は事情は常であり、永遠に変わらないと思っている。仏法からそれを説くと、それは一種の魔であり、魔はあなたに醜い様子を見せたりしない。そして、あなたが仏法を学ぶのを妨害し、生死を断つ力を遮る。外魔もしくは自分の心の魔に関わらず、我々はそれを魔と呼ぶので、注意しなければならない。

これは即ち、常の魔である。常の魔はあなたを侵食する。例えば、死ぬ前、あなたは子々孫々良いように風水の良い土地を探す。それも常の魔である。またあなたは、ある機械を探してあなたの夫が長生きすることを願う。それも常の魔だ。この種の常は、即ち、痛苦の元である。あなた方は今、言ったことの意味がわかるか?なぜなら、あなたは失うことを恐れるから失ったことを考えたくない。あなたが失いたくない時、痛苦が始まる。だから真の仏法を学ぶ人は、得た時、喜んだりしないし、失っても苦しんだりしない。なぜなら彼はそれが無常であることを知っているので、平常心なのだ。平常心は得ることと失うことの二つのパワーを観た時、どちらも平衡していて、同じであり、どちらがどちらよりも良いということがない。得たからと言って良いこととは限らず、失ったからと言って悪いこととは限らない。だから我々は毎日、このように観る。観るとは我々が安定している時、我々は思考すること、考える事、愚かに日々を過ごさないことを指す。

自然とあなた方は仏法を学び、仏法が我々に与える薫陶を受け取る。薰陶とは多聞、多思維である。多聞はあなたが道場を歩きまわらないことを教えるのではなく、道場には法会があり、あなたは必ず出席して聞かなければならない。。聞けば必ず思索してこれらの事情を観る。心理学から見ると、もし、あなたがいつもひとつ事を考えていれば、その事はゆっくりと発生する。仏法として説明すると、もし、あなたがいつもひとつの事を考えていると、そのパワーはあなたの心の中で非常に強大になり、あなたの痛苦をゆっくりと減らす。我々の痛苦について、無常の方法だけを用いる。仮に無常を用いなければ、人がどうしてあなたに勧めても、あなたはその人の言うことを聞かない。仮にあなたが無常について理解し、無常を受け入れるのなら、更には毎日、その無常を観ることを考えるのなら、あなたの痛苦は自然と減っていく。

二年余前、リンチェンドルジェ・リンポチェの子供は、とても良い紫砂壺を割った。子供はリンチェンドルジェ・リンポチェが帰ってきたなら、きっと大騒ぎし、大声で怒鳴り、何度も叩かれるだろうと思った。結果、リンチェンドルジェ・リンポチェは、それを見てただ、「なんでもない。以後割らないように」とだけ言った。これは即ち、リンチェンドルジェ・リンポチェは無常を受け入れているからであり、受け入れていないのなら、大騒ぎして、大声で怒鳴り、子供を叩いただろう。どんな物もある時間が過ぎると必ず壊れるので、今日、子供が壊さなくても、明日別の人が壊すかもしれない。どうして怒ることなどできるだろう?あなた方が怒るのは、あなた方が無常を受け入れていなからだ。

だから、「無常」の法門は、どの仏子も修めなければならないし、必ず観なければならない。もしも、あなたがこの法門を観ず、「常」の方式であなたの人生を用いるのなら、世間法が良かろうと、出世法が良かろうと、あなたはずっと苦しい。なぜ、この女弟子は、午後の間に8回もリンチェンドルジェ・リンポチェを電話で探すのだろうか?つまり、彼女は自分は死なないと思っていて、彼女は常を信じている。だから午後に8回も電話をかけた。もしも、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェを信じているのなら、一回電話をかければ済む。最後の電話の後、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子から彼女に、「8回も電話できるのなら、それは死なないということでしょう。まだそんなにも体力があるのだから。」と言わせた。彼女はそれを聞いて「リンチェンドルジェ・リンポチェが私は死なないと言ったので、きっと私は死なないのでしょう。」と言った。ああ言えばこう言う。それはつまり彼女は信心が足りないことを表していて、リンチェンドルジェ・リンポチェの口から言えば、彼女は信じる。

金剛乘の中には特色があり、それは顯宗とは異なる。ただあなたがあなたの金剛上師に対して十分な信心がありさえすれば、たとえ、あなたが彼を観なくても、彼があなたに話をしなくても、彼の加持力も同じようにある。それはちょうど、リンチェンドルジェ・リンポチェと直貢チェツァン法王が一年間、二人の師弟が一言も話をしないのと同じで、直貢チェツァン法王はどうやってリンチェンドルジェ・リンポチェを加持するのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依から今日まで一度も直貢チェツァン法王にリンチェンドルジェ・リンポチェのために修法をお願いしたことはない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分は直貢チェツァン法王にすでに皈依したので、直貢チェツァン法王を信じていて、死ぬもよし、生きるもよしと思っている。それはリンチェンドルジェ・リンポチェ自身の命であるから、なぜ、直貢チェツァン法王に面倒をかけなければならないのだ?

あなた方が今日、こんなにも苦しいのは、あなた方が無常ということを受け入れないからだ。だから、次の事を説く。我々は必ず死ぬという必然性について考えなければならない。死は必ず起こる。間違っても死は起こらないと思ってはいけないし、死が少しでも遅れればいいと思ってもいけない。それはまるで数百万払って機器を買い、毎月数十万使えば、死が少し遅れると思っているのと同じだ。我々は100%死ぬという必然性があり、それは生まれれば死ぬということは明らかである。それでは何を恐れているのか?もしも、我々が輪廻を断つことを言わなかったら、あなたは必ず生まれ変わらない死を恐れるだろう?しかし、物理学から言うと、我々の肉体は必ず死ぬもので、医学から見ても同じである。あなたが死を恐れ、死にたくないのなら、あなたの新しい命は起こるだろうか?それは不可能だ。だから、あなた方は矛盾している。コンピュータを学んだ人はこのようなロジックは間違っていることが分かる。

だから、仏が説くところのロジックは現代のコンピュータのロジックよりも良い。あなたが死というものを受け入れれば、あなたは自分を肯定することができ、新しい生命が出現する。新しい生命は、二層に分かれている。一層は輪迴で苦しむ生命、もう一層は浄土へ行って成仏する生命であり、それは間もなくあなたがどちらの道を進むかを見ることになる。あなたがどちらの道に進もうとも、死亡することは必然である。なぜ、釈迦牟尼仏は死を我々に与えるのだろうか?釈迦牟尼仏の仏果を以ってすれば、死を作り出さないことは可能なはずだ。しかし、やはり我々に死を与え、我々に言う。人は皆そうするだけだ。あなたが有情衆生であるということは、つまりそういうことなのだ。

仏の大パワーを以ってすれば、不死身を修めることができる。なぜ、我々に見せるのか?それはつまり、はっきりと我々に言う。誰ひとりとして死を逃れることはできないし、死から離れることはできない。だから、仏陀の一生を我々に演じて見せ、ずっと演じた。あなた方は仏陀が我々への慈悲心を体得しなければならない。仏は我々に表わして見せた。死が存在すること、それは逃げられないこと、消すことができない現象であること。あなたが好きでなかろうと、あなたが受け入れなくても、やはりそれは必然的に起こる。だから、我々がもし死の必然性について考えなければ、今世は非常に辛く苦しい。それはちょうど太陽が必ず沈むのと同じであり、我々人はまるで屠殺を待つ畜生のようである。寿命は刻一刻と減っている。

その続きの話は面白い。我々の寿命は刻一刻と減っている。あなた方は二時間話を聞いた時、すでに二時間分の命が減った。それは肉体の命であるが、あなたの法身の寿命は延びた。だからこちらで死んで、そちらで生まれた。我々の肉体については世間で生きる時間が二時間分少なくなったが、我々の法身については、つまり我々の法性は二時間分の智慧が増えた。だから我々は言う。「法身は死なない。」そして化身する。それはつまり、我々の肉体であり、それは必ず死ぬ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは二時間開示した。それはすべて「死亡」と「無常」という簡単なことを述べた。しかし、あなた方は真に受け入れなければならず、完全に受け入れなければならない。毎日、仕事が終わったなら、家事が終わったなら、座って少し考え、思考する。自分の周囲の眷属、友人、親戚を考えてみる。彼らは一生の間、無常の変化をする。更に自分が物心がついてから今日までの無常の変化を考えてみる。すると、あなたは無常という存在を体得することができ、無常は確かに間違えることなくずっと我々の傍いることを体得することができる。しかし、我々はいつも、このような方法で我々の人生を見ず、一切の名利と貪念で人生を見ている。だから、我々は在常の上に留まっている。


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2019 年 06 月 24 日 更新