尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年12月8日

法会が始まる前、一人の弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に分かち合いと懺悔の機会を与えたことに感恩した。

彼女は先ず、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の夫を助けた事及びポワ法を賜った過程の分ち合いをした。去年(2012年)6月30日、彼女の夫が会社を終えて帰宅した時、すでに9時過ぎだった。夫は全身が痒いと言い、翌朝、起きてみると、全身が黄色くなっていた。彼女驚いて、急いで病院へ行きMRI検査をした。結果、希少な総胆管がんだった。

一般的に、患者は胆管がんとわかると、外科手術を優先的に選択し、医師は通常腫瘍及び附近の病巣を出来る限りきれいに切除する。しかし、外科手術は通常2つの困難にぶつかる。それは患部近くの血管と神経が非常に多いので手術の難度は高く、危険だということだ。しかし、仮にそうであっても医師は患者に手術を勧める。手術時間は12時間に及び、家族は心の準備をする。手術後、患者の生活の質は下がり、最悪の場合は、介護を必要とすることになる。仮に腫瘍を切除する手術をしなければ、一般的に半年から一年しか生きられず、場合によってはもっと短いかもしれない。総胆管がんに罹った患者は皮膚が痒くなり、黄疸が表れ、上腹部が痛み、高熱を発し、食欲不振、体重が減り、貧血及び腹水が表れる。

彼女の夫は、皮膚のかゆみと黄疸だけだったが、両足を掻いたために青くなっていた。肝膽腸胃科の医師は彼女にすぐに手術をするべきで、しなければ腫瘍は更に悪化し、症状の広がりも早まると言った。彼女の夫はリンチェンドルジェ・リンポチェの甘露丸だけで良いと考え、同時に以前リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て衆生と悪縁を結んではいけないと開示したことを思い出し、手術はしないことに決めた。医師は提案として、それでは経鼻管、また腹部に穴を開けドレナージ管を設置し、胆汁を体外に出す事を勧めた。そして、手術室に入ってみると、医師は感染もしていなければ熱も出ていないことに気づき、直接胃カメラで、支持フレームを置いて胆管を開き、ドレナージ管で胆汁を排出させ、経鼻管は必要なく、腹部に孔を開けるのも必要なく、3ヶ月後に病院に戻って金属支持フレームを交換するだけでよかった。

彼女と夫は、これらはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお陰で、だから彼女の夫は何の症状も表れなかったのだと言うことを知っていた。三日後、彼らは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する申請をした。彼女は夫に「リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深く、決してあなたを詰ったり、叱ったりしない。あなたは上師に対して少しでも悪念を抱いてはいけない。もしも、それができないのなら、あなたは会うことができない」言った。彼女の夫は、それは決してないと言い、あくまでもリンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を求めた。10年前、彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェの宝石店で仕事をしたが、いつも小さな間違いから大きな過ちまでを犯し続け、羞恥心もなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深く、ずっと根気強く彼女を導き続けた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女に宝石店のパスワードを誰にも教えてはいけないと言ったのに、夫に言ってしまったことがある。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの話を心に留めなかっただけでなく、それほど大したことではないと考えた。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に対してこんなにも厳しいのか?更に、彼女の心は夫を庇った。彼女は社長に対して忠実でなく、会社に対して責任を持たず、自分が戒めを破ってもわからない。リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しく彼女を叱責した。リンチェンドルジェ・リンポチェの叱責だけが、彼女が悪を行うことを止めることができた。しかし、彼女の夫は悪念が起こり、彼女が叱られるのに耐えられず、上師に対して恭敬心を持てず、そして上師を捨てた。

数日後、兄弟子は彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェが心を痛めていると言った。それを聞いて、彼女の心は非常に堪え、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して懺悔心が起こり、現在住んでいる家を供養に出したいと申し出たが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。元々、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の夫と彼女の業報がわかっていたのだ。その時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女に、「もしもある日、あなたの夫があなたを捨てたならリンチェンドルジェ・リンポチェの元に戻って来なさい。リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたの面倒を見てあげよう」と言った。そして、現在、彼女の夫は発病した。そして彼女はなぜあの時、なぜ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が申し出た供養の家を受け取らなかったのかが、やっとわかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと彼女にチャンスを与えていたのだ。そして彼女を漢方薬診療所で働かせた。結果、教えを受けず、言うことを聞かない彼女は、またも間違いを犯した。この時から上師を供養し道場を護持する福報がなくなった。彼女は懺悔した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは各種方法を用いて、厳しく弟子を教え、弟子たちがしっかりと仏を学び、生死解脱できることを望んでいる。彼女はずっと話を聞かず、教えに従ってしっかり実践しなかったことを懺悔した。同時に彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救護に感恩し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが漢方薬診療所を開業したことを感恩した。もし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの福報が彼らを守らなかったなら、夫はおそらく誤診されていた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したその日、慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェは夫がまた悪を作ることを心配し、まず夫に悪念の機会があるかどうかを確かめた。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェに感恩した。謁見する時、夫は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対し、自分の間違いを懺悔した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたは死ぬのが怖くないのではなかったか?我々をキチガイだと言ったことがあるね?」と尋ねた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェは真に素晴らしいと感嘆した。ある日、彼女の妹が彼女に家にやってきて、彼女ら二人は上師の功徳を褒め称えたところ、それを聞いた夫は、彼女ら二人に向かって彼女らはキチガイだと手真似した。彼らが家にいる時の会話を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは全て知っていた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「あなた方のような人々は、何か事が起こったら、私のところへやってくる。あなたはどうか?」と言った。彼女の夫は自分は胆管がんに罹ったと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは言った。「仏菩薩は急場は救っても貧しさは救えない。あなた方を一度は救った。(彼女には脊椎と骨盤に問題があって歩けなかったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と庇護によって歩けるようになった)。しかし、二度目はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは口ではそのように言ったが、それでも心はずっと支え続けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「どのような罰を与えようか?あなたは200回の大礼拝をするように」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持力はこのように殊勝に強大だ。200回の大礼拝が完了すると、夫の皮膚の痒みはなくなった。

彼ら夫妻は、偉大なる慈悲深い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが再度彼らに機会を与え、彼らに共修法会に参加させ、彼らに懺悔を発露させ、施身法法会に参加させ、阿弥陀仏無遮大超度法会に参加させ、ずっと途切れることなく福報を貯めさせたことを感恩した。彼女の夫は毎日、心で3つのことだけをしていると言った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔する、感恩する、供養する(しかしながら、リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと彼の供養を受け取らなかった)。以前、彼女の夫は供養をしようとしなかったが、現在は供養を知った。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救済によって夫が福報を貯める機会を得たことに感恩した。このような大恩德はすべて仏と違わない金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが賜った。

彼女は、今でも覚えているが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て法座で開示した。一人の徳を備えた上師は出会い難く、生まれ難く、参拝し難い。上師に出会えたことは、あなたが100名の本尊の功徳よりもずっと大きく、福報がなければ上師に出会えない。我々が一人の徳を備えた上師に出会えた時、恭敬依止の心を持ち、例え命を捨てても師意に背いてはならない。だから、彼らは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見するために申し込み、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはそれでも彼女の夫の供養も彼女の供養も受け取らなかった。彼女の夫は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはただ3つの字「大礼拝」だけを言い、その他の言葉は何も言わなかった。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、ずっと、彼女の夫に福報を貯めさせ、夫は道場で10ヶ月の大礼拝を行い、それは今年5月11日まで続いた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは遂に、皈依する申し込みを了承し、もう大礼拝をしなくても良いと言った。夫は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが遂に彼を受け入れると言うのを聞いて感動で泣き出した。その実、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が5月15日に病院に入院し、5月17日に手術を行って、腹部に穴を開け、胆汁を排出させるためのドレナージ管を設置したのを見ていた。医師は夫のがん細胞はすでに肝臓に拡散され、胆管も塞がれたので、腹部に穴を開ける必要があると言った。

5月18日、痛苦の体でリンチェンドルジェ・リンポチェに供養を捧げ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼にポワ法を修めて下さることを依頼した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く承諾した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこのお金は誰のものか?と尋ねた。彼女は夫のですと答えた。そして彼はなぜそれだけのお金を持っているのか?と尋ねた。彼女は入院の保険請求によって得たものと答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らは大したお金を持っていないことを知っていたので、少しばかりのお金を受け取った。もしも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い救度と福報の庇護がなかったなら、彼らはどうしてこのような幸福に出会えたものかと思った。

11月の始め、彼女の夫は再入院した。医師はドレナージ管がまた塞がれたので、おそらくもう一度穴を開けたほうがいいと言った。彼女の夫は話を聞いて、もう如何なる治療も受けたくないと言った。早く生死解脱したい。なぜなら、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに早く生死解脱し、離苦得楽させてくださるように求めていた。そして彼はドレナージ管を交換しなかった。夫は更に彼女が自分の世話をする事は困難だと思うので、ホスピスに入院したいと言った。彼女の夫は最も痛苦の時、彼は義父と母親に自分が面倒を見られないこと、二人の年長者に心配をかけていることを懺悔して詫びた。その後、彼女には、リンチェンドルジェ・リンポチェに着いて仏を学ぶこと、言うことをよく聞くこと、頑固にならないことを言い含めた。夫は浄土に行ったら、地球を見ることはできるだろうか?と尋ねた。彼女は夫に「地球を見て何をするのか?」と尋ねた。夫は、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェにちゃんと着いて仏を学んでいるか、言うことをよく聞いているかを見ると答えた。

11月16日(土)、彼女の夫は、ホスピスに入院するときに医師とちょっとした諍いを起こした。医師は「世界中のホスピスはあなたが気分よくいられるよう、痛みを感じないようにするために、モルヒネを打つ」と言った。しかし、彼女の夫はモルヒネは打たない言った。医師は、あなたは何教を信じているのか?と尋ねたので、彼はチベット仏教だと答えた。医師は、「御仏の慈悲。菩薩はあなたを赦すでしょう」と言い、続けて「かまいません。あなたはあなたの上師にモルヒネを打たないと言っても構いません。それではあなたに痛み止めを打ちましょう。なぜなら、現在ホスピスの空きベッドはないので、あなたは通知を待たなければなりません。」と言った。

彼らは病院に着くと、まず検査を始めた。なぜなら、彼女の夫の腹部は大きく膨張していて、彼らは腹水が溜まっていると思っていた。しかし、結果そうではなく、お腹の中はアンモニアだった。医師は彼女に彼は何日間、排便してないのか?と尋ねた。彼女は一週間と答えた。医師は「それはいけない。すぐに軟便剤を出します」と言った。20分間も経たずに彼はトイレに行き、排便した。排便後、夫はずっと笑っていた。彼女は夫に、「気持ちが良くなったの?」と尋ねた。夫は「違う。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に後二回、排便すると浄土へ往生できると言った。だから嬉しいのだ。」と答えた。そして、看護師は三回の軟便剤を使用したが、二回出ただけだった。看護師は感嘆して、リンチェンドルジェ・リンポチェが言ったとおりになったと言った。医師も「ご主人が使った痛み止め薬は一般の癌患者が使用するものよりも軽い。更にモルヒネはまったく使わなかった」と言った。

彼らはわかっていた。これはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持があったから彼の痛苦が軽減されたのだと。業力が眼前にあった時、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェは平時から弟子をしっかりと守り、弟子が受ける苦しみを減らしてきていたことがやっとわかった。彼女の夫は、以前は肉食のコックで、殺業は非常に重く、また上師を捨て、上師に怒りをぶつけた。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが変わらずに慈悲の加持と護佑を与えていなければ、夫はこんなに良く過ごすことはできなかったし、親族も大きすぎる悲しみと痛苦を受けていただろうことを彼女ははっきりとわかる。

11月20日(水)、夫の血圧は下がり始め、食事はできなくなり、話をすることもできなくなり、涙がずっと流れていた。しかし、意識ははっきりしていた。11月21日(木)弟子たちが空港へ行って尊勝なる直貢チェツァン法王を恭迎した時、病室の夫は、ずっと眼を見開き、目を閉じて休むことを拒否していた。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を夫の眼前に置くと、夫はずっとその法写真を見つめていた。そして彼女は夫に、直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェが台湾に帰ってきたと言うと、夫はやっと目を閉じてしばらく休んだ。しかし、夫はそれでも、ずっとリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を見たがり、夜中の二時なっても目を閉じたがらなかった。看護師は仕方なく、濡れタオルを夫の眼にかぶせて休ませようとした。しかし、夜中にタオルを外してみると、夫の両目は開いていて、法写真を見たがった。その後、彼らは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法テープをかけて夫に聞かせた。そして朝6時30分に往生した。

彼女の夫が往生する時、眼は最大限に開いていて、眼から出血し、口も大きく開いていた。彼女は人が死に直面する時、こんなにも慌てうろたえるものなのだとわかった。もしも彼らに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と頼りがなかったら、彼らはこの生死の大事をどのように歩けばよいのかわからなかった。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めて夫を済度したことに感謝した。夫の梵穴は熱く、手足と体は冷たかった。口はゆっくりと合わさり最後には閉じ、まるで寝ているように笑みを帯びた。管を抜く時、医師でさえ、この仕事を長くしているが、病人が往生した後、こんなにも安らかで笑っているようなのは見たことがないと言った。医師はリンチェンドルジェ・リンポチェは最高級のクラスだと賞賛した。彼女は仏と区別ない尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持によって、一切が円満であることを感謝した。火葬の後、夫の頭蓋骨には二個の丸い孔があり、骨頭は薄紫だった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示によると、これがポワ法を経た瑞相だと言う。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが漢方薬診療所を開業し、彼らに最も良い医療ケアを与えてくださることにも感謝した。

最後に、彼女は懺悔した。彼女は上師に対して恭敬でなく、忠心でなく、自分勝手であり、累世で多くの衆生を傷つけてきた。嘗て堕胎したことがあり、彼女が犯した悪業を心から懺悔した。同時に彼女は仏と違わない金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康と、法輪が常に転じられ、直貢噶舉派の幟が永遠にはためくよう祝した。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えの下、仏法を学び、生死解脱し、再び輪廻することなく、上師の恩に報いることを発願した

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に上がり、出席大衆に珍貴なる仏法の開示を与えた。

先週、その他如何なる宗教に対して根も葉もない悪意の中傷やとらえどころがなくはっきりしないことで相手を誹謗してはいけないと開示した。釈迦牟尼仏には八萬四千種の法門があり、どの法門であってもすべては衆生が輪廻解脱するのを助けるためにある。こんなにも多くの法門のクラスにおいて、最も殊勝な道は大乗教法である。大乗種性を備えた学仏者、修行者は、大乗に入門後、いわゆる大乗や金剛乗の門に進むと、金剛上師に皈依したり、持咒を始めるだけでなく、大乗は菩薩道を修行する法門であり、金剛乗は成仏の法門である。もしもただこれらのものに平安を求めるだけならば大乗は関係なく、小乗でさえ、あなたと関係ない。

ある人達は自分は仏を学びたいと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼になぜ、仏を学びたいのかと尋ねる。彼は自分と人との関係を変えたいのだと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そのような目的ならば仏を学ぶ必要が無いと言う。彼はまた、自分の考えを改めたいと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり、仏を学ばなくて良く、孔老夫子の書を読んでいれば、人と人との倫理を理解することができると言った。しかし、スマーフォンが発明されてから、人と人の関係は、更に悪化している。責任を負わなくても良い事は責任を取らず、押し付けられる事は人に押し付ける。

例え、あなたが皈依しても、自分が皈依した後に学ぶ法門の定義を理解しない。上師はずっとあなたは先ず大乗を学ぶこと、慈悲心を修めることを指摘し、慈悲心が出現するのを待ち、それから如何にして菩提心を養うかを学ぶ。多くの人は、人に良くしたり、経を読みおえて衆生に迴向すれば良いと思っているが、それらは慈悲ではない。以前、慈悲について解釈したことがあるが、今日、再度話す。慈悲を学び取らなければ、例えあなたが大乗、三皈依、守五戒に皈依しても、人天道であるか、または大乗の門にも入れない。

仏は、なぜ六波羅蜜を開示するのか?六波羅蜜とは、即ち大乗佛法を修める者の生活法則である。なぜ、《仏子行三十七頌》を唱えるのか?それは大乗仏法と金剛乗仏法の中の弟子が守らなければならない法だからである。もしも、六波羅蜜があなたの生活の中になく、《仏子行三十七頌》があなたの今世の思想や行動の準則ではないのなら、あなたは大乗と金剛乗の弟子と呼ばれる資格が無い。《仏子行三十七頌》は、観世音菩薩が開示したもので、観世音菩薩は大菩薩、法身菩薩である。法身菩薩は十地以上から十六地までの間の菩薩であり、仏との差は僅かである。だから衆生の心の業力がまだ存在する。仮にあなたの生活規則が六波羅蜜と《仏子行三十七頌》でないのなら、あなたは絶対にその門に入れない。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、皈依した時、あなた方に決して上師に怒ってはならないと言ったのか?上師に怒れば加持力がないが、多くの人はそれを信じず、それほどいけないことなのか?と思う。リンチェンドルジェ・リンポチェに対しては少しも深刻ではなく、仏菩薩にとっても少しも深刻ではない。それでは深刻なのはどこなのか?あなたが怒ると、それは即ち善の門が閉じ、大乗と金剛乗の門に入れなくなるのだ。先ほど、法会前に弟子が分かちあった内容で上師に対して怒った自分の果報を、あなた方は、はっきりと見た。今世で殺生した人がどうして良い日々を過ごせるものか?しかし、仏を学び、菩提心を発することで、その果報を最も軽くでき、場合によっては果報を不動にするが、人々は信じない。信じないのは、勝手に思い込んでいるからで、それでは仏を学ぶことができない。

あなた方は尊勝なる直貢チェツァン法王が話すのを自分の耳で聞くことができた。この二、三十年、リンチェンドルジェ・リンポチェの供養は多くはないが、直貢チェツァン法王の心は変わらない。リンチェンドルジェ・リンポチェの変わらない心は、あなた方のような心ではなく、あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェを見て怖いと思うものではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られたくない、またはリンチェンドルジェ・リンポチェに罰されたくない心持ちではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそのようではなく、完全に心から恭敬していて、上師の事は即ち自分の事である。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会前に分ち合いの話をした弟子と彼女の最近亡くなった夫を雇ったことがある。彼らに給料を出した。それも最低賃金ではなく。道理から言うと、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子であるから、上師のために仕事をするのは当然のことであり、彼らに食事さえ出せば良いはずだ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは給与を彼らに出し、その上、労働法に基いて対応した。

なぜ、仏法の中で、上師に対して怒ってはいけないと言うのか?あなたは恩人に対して怒気を発し、誰に対して怒気を発しないのか?怒気を発することが多いと、嗔恨心が出る。嗔恨心が現れると、悪いことをするようになる。もし、あなたが大乗の門をくぐるのなら、上師があなた方を伴って入らなければならない。多くの人は、自分は仏経を念じ、仏経を見て、拝懺すれば、自分は仏法がわかるようになると思っている。昨日、一人の信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。彼は台湾中部の有名な道場で皈依して三年余りが過ぎていたが、慈悲深いことの意味さえ、分からなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に慈とは何か?と尋ねた。彼は「物を愛すること」と答えた。これは儒家の説法であり、仏経の中で慈は「ものを愛すること」と言っていない。彼は皈依して3年余りであり、3年余りを浪費した。

多くの人は、寶吉祥佛法センターに来て、非常に厳しいと感じ、叱られると受け入れることができない。ある時、他の所からやってきた信者を見たが、長年浪費をしていた。先ず、諸仏菩薩の庇護言わず、仏法は何も学んでいなかった。もし、仏法を学ばないのなら、それは今世、時間を浪費したことになる。大乗の門に入った後、再度実際の修持を始める。実際とは、即ち生活の中で真にしなければならないことである。現在、台湾の多くの仏教徒は、その実、仏教の信者であり、絶対に修行者でもないし、仏の弟子でもない。なぜなら、実際の修持がないからである。「修」とは一切の輪迴の行為を改めることで、「持」とは生活中で一切の仏が教えた法門を持ち続けることである。

経典が示すように、まず我々は勝妙な正見の助けを借りる。少しでも仏を学んだ者、仏法をかじったことがある者ならば、誰でも八正道を知っている。多くの人は、正見の解釈を外道に求めない、経を念じる、仏を念じる、輪迴を信じる、六道等があると信じるだと思っているが、それは浅はかであり、始めから仏法に対して概念がなく相手に少しの概念を与えるだけだ。真に勝妙な正見とは、諸法皆空、真真正正の見解を理解する事こそが勝妙で、前述した諸々はすべて有為法、世間法である。仏法で修めるものは世間法ではなく、出世法であり、それは山奥で十数年人里離れているのが出世なのではなく、仏法が説く出世法は輪迴世間の方法から離れる。

勝妙な正見の最も重要事は、如何にして仏法が言うところの諸法皆空を衆生に理解させるか、如何にして衆生に我執を取り去るかである。我執を取り去らないと、慈悲が現れないし、慈悲深いパワーがなく、それはつまり仏法のパワーがないということである。あなた方は、念仏を唱えれえば仏が現れたり、咒語を唱えれば、観世音菩薩が現れると思ってはいけない。そのようなことはない。慈悲心がないのに、唱えれば歯が取れしまうし、観世音菩薩は来ない。あなた方は一日中、観世音菩薩の名を唱えれば、観世音菩薩が来ると思ってはいけない。もしも、あなた方が大乗の門に入っていないのなら、まったく体得がなく、正見、正知、正解を理解することがなく、仏菩薩はあなたと相応できない。だからチベット密教は絶対に上師を信じなければならない。なぜなら、上師とあなたは縁があるから。

これは、観世音菩薩とあなたは縁がないと言っているのではなく、上師とあなたの縁は直接だと言うことだ。今世に生まれた縁か、過去世で生まれた縁でも良いが、今世の縁は非常に直接的である。だから、あなたが上師に対して完全に恭敬した時、例え勝妙な正見を体得できなくても、あなたが清淨な心で上師に対して恭敬するのなら、自然にあなたの心では、遅かれ早かれ清淨な正見を体得する。皈依した時、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に言ったことがある。あなたが皈依した後、心にはゆっくりと殊勝な道が蓄積される。即ち、そういうことである。

経典で示すとおり、我々は、勝妙な正見を通し、一切の諸法の非常に深い空性無我の確かな意義を確実に選択して一切有与戯論の辺見を遠ざける。これは非常に深い内容であり、だから深い空性と言う。空は無いということではない。空を無い、何も無いと考えてはいけない。そのように考えると仏法は非常に浅はかになる。もしも、「空」という字を解説するのなら、仏経の中には十八種の「空」がある。あなた方のレベルではいう必要もない。もしも話すのなら、それはただの時間の無駄になってしまう。

あなた方は空の定義が無いではないということを体得しなければならない。なぜ、翻訳するときに「空」の字を用いたのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは「空」の梵語の意味が分からないが、中国語の「空」から見て、仮に碗を手に持ち、碗の中に何も入ってない時、人が碗は空かどうかと尋ねたら、あなたは空だと答えるだろう。どうしてこの空は存在しないのか?つまり物を入れるのである。だから、意味は「空」自分で生み出すのではなく、固定して変わらないのではなく、縁があって生み出されるもので、空はちょうど有に似ていて、物を取り出すと、空が出現する。中国語の解釈は非常に奥深い。もしも英語だと解釈しにくい。英語の翻訳は、emptinessであり、続けて解釈できない。

中国語は、一つの字の解釈に対し、多くの解釈が含まれる。仏法が中国において非常に広まったのは、即ち言語の関係である。全世界の言語の中で、仏法の解釈が適切に表せるのは、古代の梵語と中国語のほかは無い。空の定義は空空如也ではなく、何もないでもなく、仏法の定義によって空を解釈するのは、縁生縁滅の事であり、それは即ち法界中の一切の現象に存在することが縁起性空であり、自らあるものでもなく、突然発生したものでもない。もしも、科学から解釈すると、現在の科学界では如何なる物質も原子、中子等があることがはっきりしていて、現在は非常に細かく説明する。それはつまり、如何なる物もこれらの結合によって合わさり、具体的なものが外にあり、我々が認める物が発生する。

物が壊れる時、中の原子、分子等は解き放たれ、別の形状が生まれる。簡単に言うと、あなたがもしもある物は永遠に変わらないと思っているなら、それは間違っている。仏は数千年前にすでにこの種の事情を見ていた。そして人類は数千年後にやっと科学機器によって物体の定義を解釈することができた。仏法から説明すると、物は縁があって結合し、縁がなくなればなくなる。科学によって物を解釈すると、人を含めてすべての物は内部がすべて多くの元素、原子、分子が一個の原因のわからないものによって結合し、一個の体が現れ、我々に見せる。仏法に依ると、体は偽であり、変化するものである。だから仏法の中で提示されるとおり、如何なる事も住、壊、空となり、一つの物になった後、一定の時間とどまる。しかし、壊れて一つの形状が変わるとなくなる。地球はこのようであり、如何なるものもそのようである。

非常に深い空性無我の実義は非常に深い。仏法が言うところの我とは、小我が大我に変わり、大我が無我に変わるのではない。ある人は小我が大我に変わるのは人々を愛することと考え、大我から無我に変わるとは人が私を平手打ちしても構わないと思うと考えるが、それは嘘である。仏法を理解せず、他の說法を引き込む。現在テレビ番組で言う愛するは、それは仏法を説いているのではなく、あなたが愛するということが、即ち主体であり、いわゆる私があなたを愛する、あなたが私を愛する場合、私があなたを愛するは変わるが、あなたが私を愛するは変わらない。このような物は縁起性空ではなく、仏法が言うところの「我」はあなた、我、彼の我ではなく、その定義は一つの主観性の主体である。

ある人は、いつも責任を負うことを嫌がる。ある弟子はその方面で非常に優れ、代表になることができる。以後、もしも責任を負わない人を選ぶなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に彼女を推薦する。あれだけ叱ったのに、先週、彼女はまたやって来た。会社では社員がミスをした場合、規則に則って処理する。彼女は自分で処理せず、前回は「彼らの処理を待つ」と書いた。リンチェンドルジェ・リンポチェはまったくわからない。あの人のようにいくら言っても聞こうとしないのを見たことがない。だから、物事をするのに固執して変えようとしないと改めることができない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法の弘揚を始めた時、このような事を言ったことがある。自分を改めると言うのは、広い宇宙の中でも、最も困難なことである。仏経に於いて、なぜ仏を学ぶ人は偉い人なのか?勇気がないのをどうやって自分を変えれば良いのか?勇気がない人は、自分の欠点が見えない。勇気がない人は、あなたが正しいと思うこと、存在する物を捨てることができない。そして全く見知らぬ境地を受け入れない。我々は生生世世、六道の中で輪廻している。仏、菩薩、阿羅漢の境地は我々にとって、未明であり、未知である。仏と菩薩の境地が我々にとって未明、未知であるから、仏は不可思議なのであり、人類の経験と意識は仏の境地まで考え至るのではない。現在、科学は進歩して機器は仏が説いた道理を僅かに表すことができるようになったが、それでもまだ至っていない。

仏法の「我」の意味を仏を学ぶ人々に話す。我があるから執着が生まれる、執着が生まれるから、自然に起心動念が起こり我を守りたくなるとあなたは思っている。あなたがこの我だけを守りたいと思ったなら、それは衆生を傷付ける。なぜ、上師に対して癇癪を起こすのか?それは彼が自分を守りたい、自分は間違いを犯したくない、社長にこの事だけを言い、その他のことは自分の関するところでないと思っている。なぜ、最近亡くなった弟子は、以前リンチェンドルジェ・リンポチェに対して癇癪を起こしたのか?なぜなら彼は妻を守りたく、妻は自分のものだと思っているから。なぜ、彼の妻はパスワードを彼に話したのか?なぜなら彼は自分の夫だから。それが我である。

もし、彼ら二人が以前からどんなことがあっても上師を信じているのなら、今日、彼らはこんなことにならなかったとリンチェンドルジェ・リンポチェは断言できる。彼らに硬い意志がなく、仏法を聞かず、智慧を用いずに仏を学んだ。業報が成熟した時、それではどのようにするとどうなるのか?尊勝なる直貢チェツァン法王が、リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しいが心は柔らかいと言ったように。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの女弟子の心が柔らかいと思ったのは、彼女がよく泣くからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て仏経を開いて彼女に見せたからだ。彼女が今世での行動が悪かったわけは、嘗て道の真ん中に穴を掘って人を落とし、人から財物を盗ったからだ。小児麻痺になる人は、十人中八人はこの種の業である。

多くの人は、事をして責任をとらず、責任を押し付けられるならば押し付ける。だからその無責任な弟子は、その後リンチェンドルジェ・リンポチェを求める。リンチェンドルジェ・リンポチェも押し付ける。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと押し付けているのではない。果報がそうなのであり、それがあなた方がした因なのだ。なぜ、そんなにも自分の感覚にこだわるのか?それは即ち、皆は「我」を真実の存在と思っているからで、「我」は具体的存在ではないことを理解していない。今日、誰ひとりとして、何かに頼らなくてもよく、この世間で一人で生きていける人は誰もいない。たとえ、あなたが深山に隠れても、水があり、果物があれば、自分は暮らしていけると思っているがそれは間違いである。昆虫やミツバチが花にとまなければ、花蜜を伝播することで実が結ぶことができない。あなたはどうやって果物を食べるというのか?もしも木を植える人がいなければ、木は呼吸せず、水気が生まれず、雨も降らない。あなたはどうやって水を飲むのか?たった一人で生存することはできないのだ。

仏法の中で説く「我」はあなた、わたし、彼ではなく、単独で生存しない現象、物と人を指す。いかなる現象、物と人は、すべて絶対に複雑な因縁が結合することによって発生したものだ。「我」の定義は、名前ではなく、住んでいる場所によって仕切られるものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常々開示しているが、仮にあなたが自分の誕生日、身分証番号、出生年、住所を忘れたら、あなたは誰なのか?あなたは自分が誰なのかわからない。みんなは帰宅する時に、このゲームをしてみなさい。もし、今日、あなたが自分の出生年月日、身分証番号、住所を知らなかったら、夫も妻もなく、あなたは自分一人であなたは誰なのか?それでも「我」はあるか?

医学的に言うと、あなたはただ地球上の多くの元素が結合した物体である。仏法的に言うと、あなたは生生世世の業が結合して発生した物体である。だから、ある人はリンチェンドルジェ・リンポチェに仏を学ぶと人間関係が深まると言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対にその人を追い出す。なぜか?なぜなら、彼はやはり我に対して執着しているから。人間関係は錯綜して複雑である。仏は我々に如何にして人間関係を深めるかを教えない。ただ我々に慈悲となんでも差し出すことを教えるだけである。これが衆生の縁である。

あなた方は、何も捨てたくない。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったのと同じように。あなた方は自分は相手を愛しても変わることもあると思っているが、相手はあなたを愛しても変わることはできないと思っていて、それでどうして人間関係が良くなるのか?これは笑い話ではなく、男も女も誰もが皆そうで、自分は相手を愛しても変化することがあると思っている。あなたは自分は変わらないと言うが、実のところ変わる。あなたは他人を見た時、目が泳ぎ、そしてこれは私のほうが良いと考え、変わったか?変わった。しかし、相手は他の人を見てはいけない。彼がちょっとでも見ようものなら、あなたは相手をつねる!例え、あなたがその場で声音を変えなくても、家に帰れば、何を見ていたのか?それは誰なのか?と聞く。それが即ち、「我」の作用である。

今日、述べたことは皆に柳下惠になれということではなく、皆は自分は仏を学んでいると思うのなら、一切有与戯論の辺見から遠ざかることを確実に選ぶということである。仏は、「戲」を用いて人生を解釈した。それは人生が劇であることを指していて、演劇が終わると何もなくなる。皆は今回、地球にきて演技をしている。演じて数十年経つと終わり、死ぬ。演劇は終わるが、劇の中では、あなたは主役であり、演劇が終わると、あなたはあなた本人に戻るのか?この劇音楽が終わると、あなたは、あなた本来の生活に戻るのか?仏法から言うと、あなたの今世はすべての業力が表れたもので、それが即ち一幕の劇であり、すべて劇が歌い終わると、あなた本来の清浄な法性に回復する。

だから、今世の「我」は偽ものである。しかし、どうしても「我」が本物であると信じる。そして「我」のために多くの悪をする。「我」のために悪をして訳があると思っている。いわゆる「人不為己,天誅地滅(自分のことを考えて修養を積まないと、天地がその人を滅ぼす)」という言葉を、皆は聞いたことがあると思うが、若者は聞いたことがないかもしれない。今の若者は、一日中スマートフォンを使っているので、四字熟語の多くを知らない。ゆっくりとだが世代のギャップは深くなっていく。時々、リンチェンドルジェ・リンポチェが話をしても、若者はわからなかったりする。以前の国語を学ぶとは、このよう事を学んだ。

あなた方は、現在、有与戯論の辺見の定義をはっきりと認識する能力がない。但し、少なくともある心の持ちようからは離れなければならず、すべてあるということに執着してはいけない。あなたは或る物を所有していても喜ぶ必要はない。なぜなら、あなたはある日、必ずなくなることを知っているから。あなたは所有する物がなくなっても悲しむ必要はない。なぜならその縁はすでに滅び、あなたとの縁はすでになくなったから。なぜ、婚姻に問題が起こったら皆は世界最後の日のように思うのか?それが執着なのだ。仮にあなたが仏経の中で述べる人は必ず生、老、病、死すること、必ず生離死別することがはっきりわかっていたなら、あなたはそれでも執着するだろうか?しないだろう。執着するというのは、即ち人が生離死別を信じないからである。

仮に、女性がやってきてリンチェンドルジェ・リンポチェにボーイフレンドとの結末はどうなるかと尋ねたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず、生離死別と答える。これは絶対なのだ。だから、あなた方のような皈依していない若者は、決して尋ねてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ただあなたに相手の個性を言えるだけで、結果はすべて生離死別である。多くの女性達は相手と結婚して幸せに暮らせるかどうかが結果であると誤解している。決してそうではない。それらはただ人生の戯れの一幕にすぎない。

離戲とはどのような意味か?即ち、あなたが何かする時、自分の本分と責任を持って事にあたるということである。例えば、劇を演じる時、あなたは主役、脇役または端役であろうとも、自分の責任を持ってちゃんと演じる。演劇が終われば幕が下りる。そうすればあなたの知ったことではない。終わった後のことならば、他人があなたに良いコメントや意見を述べようと、それは他の人が持つ自由な権利である。なぜ、他人はあなたを嫌うのか?なぜなら、あなたは見栄っ張りだからだ。あなたがこの劇を演じる時、明らかに端役なのに、主役のように演じ、主役からビンタをを食わないのか?あなたは自分が劇を演じていることがわかっているなら、自分の役が端役であることがわかるはずだ。それならば少しはましだ。

もしも、主役の機嫌が良ければ、あなたは楽ができる。もしも主役が端役のあなたを見てまったく良くなければあなたを使い回す。それはまるで以前の京劇のようにはっきりしていて、もしも主役が見るに耐えないと思ったなら、次の句は歌わず、あなたを使いまわして機嫌が良くなったらやっと歌い出す。なぜなら、音楽を演奏する者は主役が歌うのを聞いているのであり、端役が言うのを聞いているのではない。これはどのような観念なのか?今日、社会では様々な人々がいて、各種各様の仕事をしている。あなたは今日、端役ならば自分は主役であると考えてはいけない。それは考えることを阻止しているのではなく、あなたが端役である時、その事をしっかりするということだ。監督はそのようなあなたを見て、将来に主役にさせるチャンスを与える。端役ですらできないのに、脇役ができるだろうか?

簡単に言うと、皆は仏が言う話を深く体得しなければならない。仏は有与戯は悪いものだと言っていないし、有与戯は我々に害を与えるとも言っていない。しかし、仏は我々に遠ざかるように、執着しないように言う。なぜならこの種の事情は法界に存在するから。我々は真空の中で存在することができない。仮にあなたが何も要らない、何でも自分を頼りにすると言うなら、それならば酸素も要らないと言うことだ。あなたが呼吸すると、必要な酸素が入っていく。呼吸する時、その他の衆生の分子と原子は、真空の場所を探してあなたを生かす。しかし、人類にとってそれは不可能である。なぜなら人類は酸素が必要だから。

辺見は、どちらの一辺に立ちたくないことを指している。どちら一辺に立っても、あなたにとって、痛苦である。試しにどうか考えてみなさい?もしもあなたが端役ならば、一回の劇ごとに、人はあなたにお金をくれるだろう。なぜならあなたは演技が良いが、あなたは脇役をする器ではないので、人は一回の劇ごとにあなたを探す。仮にあなたが端役として少しも良くないのに脇役をやりたがっていると、監督は来なくても良いと言う。来なくても良いとどうなるのか?おそらく地獄に堕ちる。それならば別の劇だ。おそらく人は舞台で劇を演じるが、あなたは舞台の下でゴミを拾う。

仏法の観念は、我々にこの世間を嫌悪させるのではなく、我々がこの世間で生存し、五濁悪世を通じて自分の苦が多く楽が少ないことを警戒させる。なぜなら、その苦は我々に修行をさせる動力を生み出すので、世間の如何なる事情を嫌いにならず、この世を疎むものではなく、ただ強烈に輪廻を離脱する必要を感じさせる。しかし周囲の事情を疎むのではない。なぜなら周囲の事情はないので、我々も修行できない。経典で提示した遠離は一切の有るものに執着しない、また全ては戯れであることに執着しない、そして消極的に日々を過ごす。これは間違っている。先ほど提示した責任感のない弟子は、現在非常に消極的に日々を過ごしている。このような人はダメだ。理解すればするほど、自分を守ろうとする人は、仏法の中で更に役立たずになる。

なぜ尊勝なる直貢チェツァン法王は常に公にリンチェンドルジェ・リンポチェを賞賛するのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェの供養が多いからではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法が言うところの自分を守らないことを行っており、すべての事情は衆生のためで、すべての事情は仏法、上師を主とし、自分がお金を稼ぐこと、商売は因縁法に依り、それは自分の福報であり、流れで行うだけである。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれからは旅行会社にあなた方の旅行中の良い物を食べさせないように、良い物を使わせないようにと要求する。なぜならその価値はないから。なぜ価値が無いのか?あなた方は何があなた方に良いことなのかわかろうとせず、自分はお金を払ったのだからあなた方に良いのは当然だと思っている。誰がそれを言ったのか?
日本へ行くのに、何名かの弟子がやって来て両親を連れて行ってもいいかと尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「もちろん、構わない。日本はリンチェンドルジェ・リンポチェのものではないから」と答えた。彼らは法会に参加してもよいか?と尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに菜食にしているかと尋ねたところ、菜食ではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェに会ったこともなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは心のなかで思った。彼らは数万元払うのは高く、それは法会に参加するのもその中に含まれていると思っている。以後、また誰かがやってきて有るツアーに参加しているので家族は法会に参加しても良いか?と尋ねるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェの答えは良い、一人20萬元である。他でこのようにしているのではないか?法師が連れていく団体は旅行費用がいくら、供養費用がいくら、仏寺に行く費用がいくらと言っていることは、あなた方も知ってのとおりだ。。日本道場はリンチェンドルジェ・リンポチェのものであり、観光スポットではない。もし、観光スポットなら入場料を取らなければならないし、ある人はリンチェンドルジェ・リンポチェのところへやって来て自分の父親に会いたいか?と尋ねるかもしれない。

なぜ、あなた方はそのようなのか?このような心の持ち方は一体どこから来るのか?即ち、有与戯論の辺見だからである。だから以後、あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェと共に法会に参加したなら、おそらく食べ物は悪いし、泊まるところも悪いだろう。あなた方に良くしてあげる必要はない。他所ではイベント、聖地巡礼する時は徒歩だし、ホテルもどこにこんなに良いところがあろうか?あなた方に五つ星ホテルに宿泊させ、最も良い観光バスに乗せる必要があるか?あなた方にこんなに良くしても、今まであなた方が旅行会社を紹介したのを見たことがあろうか?

すでに入門したと思っている仏弟子はこの種の正見の力を借りて真実の義理を決定しなければならないし、一日24時間心に留めておかなければならず、こつこつと実修し、口だけの地道でない実修ではないとガムポパ大師は教えている。この言葉は、あなたは今できなくても構わないし、理解できなくても構わないと言うことを指している。しかし、最も重要なのは、仏を学ぶことの決定と方向が、大乗と金剛乗仏法が最も重要な思想の中心であることをはっきりさせることである。もしもこの部分をはっきりさせることができないと、外道になってしまう。外道とは何か?即ち大悲咒迴向を夫に与え、彼に毎日時間どおりに帰宅させようとするのは、それこそ外道である。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアで言った。あなたの夫は時間どおりに帰宅できない。なぜなら台北市の車の渋滞は酷いのだから。あなたが彼を時間どおりに帰らせる唯一の方法は、ただひとつである。即ち、彼を主夫にさせてあなたが職業婦人になることだ。

現在、台湾仏教界では多くの理解できないやり方が蔓延している。明らかに仏はこのようなのに、ある人は別の考え方にする。経典では引き続き述べていて、仮にこの種でない方法で学習したなら、如何なることも自分の考えを以って新しい考えを表明し、めくら修練する。これは即ち、先ほど提示したもので、自分の夫に時間通り帰宅させ、自分の息子に試験の成績を良くするよう迴向させる。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもこの事で叱る。多くの人は子供をリンチェンドルジェ・リンポチェの前に連れて来て彼の試験がうまくいくように加持をさせる。ある者は公務員試験を受ける。誰が来てもリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られる。なぜなら、それは不公平だからだ。元々、ある人は必ず合格する。しかしあなたはリンチェンドルジェ・リンポチェに加持をさせて受かろうとしている。彼はどうするか?これは不公平であり、更にいつもあなたを見ることがない。試験に受かった後の給料のうち、四分の一を供養するわけでもないのに、どうしてあなたのためにしなければならないのか?

仏経の説くとおり、仏弟子である者は、收入の四分之一を供養に出さなければならず、チベット仏教では五分の一である。あなたは供養もしていないのに、求めればリンチェンドルジェ・リンポチェは他の人を追い出しあなたに座らせると考える。あなたはリンチェンドルジェ・リンポチェとどのような関係なのか?あなたが累世でリンチェンドルジェ・リンポチェの息子だと言うのなら、今世で再度あなたの世話をしよう。しかし、そうではなく、あなたは他所の家族なら、リンチェンドルジェ・リンポチェと何の関係があるのか?当然、多くの仏寺はそれを受け入れていて、あなたに礼拝懺悔や灯明等々を要求する。あなたはその時だけ、神頼みをする。もしもずっと仏法に参加し、恭敬しているのなら、上師はあなたを見て了解するだろう。なぜならあなたはずっと、自分の福報を養ってきて、後少しなら、上師もあなたを認める。多くの弟子は博士試験に受からなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に言うと合格する。このようなことが多数ある。リンチェンドルジェ・リンポチェには全く何も言わない者が、突然やって来るなら、尚更言わない。全く不公平である。

なぜ、これらの人は、このような問題があるのか?それは即ち、有与戯の辺見に執着するからであるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を叱ることができない。なぜなら彼は仏を学ぶ人ではないから。しかし、少なくともこの人の心は間違っている。どこが違うのか?試験を受けようと言うなら自分は全力を出し努力すべきで、今回、合格しないなら再度受けるべだ。すべての関係を利用して合格すべきではない。嘗てある人が博士試験を受けた時、尊勝なる直貢チェツァン法王に修法を求めた。直貢チェツァン法王はわかったと言った。そして、ラマによって法を唱えた。結果、彼は受からなかった。

多くの事情はうまく立ちまわってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が皮膚癌になった時、仏菩薩に助けを求めなかったし、修法もしなかった。なぜなら、これは自分の業であることを知っていたから。リンチェンドルジェ・リンポチェはごはんを食べるお金がない時でも財神法に救いを求めずに自分で受け入れた。このようにしていれば、新しい主張を唱えたり、めくら修練することもない。現在の台湾にはこのような人が多く、それは先程提示した事をせず、心にも刻まないからである。心に留めることない人は、めくら修練をする。幸いなことに今日、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方を導く。さもなければ、あなた方には様々な事象が現れ、おそらく1200人が六字大明咒を唱えると、1200種の方法が生まれる。なぜなら人の心は複雑だから。

経典に依ると、今日は無我の定義の修行の順序について、それには次第が必要である。無我を私がないと思ってはいけない。それでは試験も、勉強もしなくてもよい。それは間違っている。無我は一歩一歩進めなければいけない。聞くこと、学習すること、修習すること、常に改める。いつ、あなたはいつ、無我の意味がわかるか?簡単である。いつもあなたが執着していることは、いつも人が或る文字で説いている。あなたは飛び上がり、ゆっくりとあなたは飛ばなくなり、おそらく少し飛ぶだけになり、そんなに高く飛ばなくなる。それはあなたの執着が少し減ったということを表している。人があなたを好きだと言うと、あなたは天狗になるが、今はならない。それはあなたの情執が減ったということを表している。元々、相手はあなたのものであるとあなたは思っている。現在このような概念は減ってきているが、それはあなたが無我修行の次第に入っていることを示している。これはあなたがわかったと言ったのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは再度、あなたに提起しよう。無我の定義は私の存在がないというのではなく、小我が大我に変わるのではなく、大我が大愛に変わるのではなく、意味はそのようではない。

明らかにあなたはすでに形作られたのだ。身長165センチは165センチで、どうして小我が大我に変わるというのか?たとえ、あなたの心が大我に変化したと言っても、あなたの心がどれくらいの大きさになっても六道すべての有情衆生を世話する能力はない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、現在1200人余の弟子を世話しているので、当然、あなた方に代わって多くの冤親債主を世話している。ある者は、自分の今世で野良犬を保護したいと言うが、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたがすべての野良犬を保護できると思っていない。今日、彰化では六千匹あまりの犬猫を安楽死させたというニュースを見た。そしてあるテレビ局ではずっと放生と言って、なぜこの六千匹余りの犬を保護しないのかと人々に言っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が正しいとか間違っているとか言っているのではなく、空性の方法でなく仏経の修行をすると、この種の観念が生まれ、自分は善行をしている、何でも保護すべきだと思う。もしも空性で仏を学ぶと、根本の問題を解決し、以後この種の問題が少なくなる。

問題は、我々がずっと根本的な問題を処理しないことだ。根本的な問題とは何か?我々はずっと「我」に執着し、だから多くの煩悩と悪業が生まれる。そして衆生の悪はだんだんに増え、減ることがない。加えて衆生は仏法に対して間違った観念を持っているので、放生、聖地巡礼、いくらかのお金を寄付する、点灯するのが仏法だと思っているが、その実、違う。それらはただの信者に過ぎない。もしも修行したいなら、真に心に刻まれるはずだ。あなたは現在、理解できず、体得できず、することもできないが、構わない。最も大切なことはあなたはしっかり覚えなければならない。あなたが覚える時、どんなことも人を傷つけないことをし、法を守り、規則を守り、自分の利益のために人に損をさせないという習慣を養う。

先ほど提起した責任感のない弟子は自分は法を守っていると思っていた。会社は毎日動いているし、彼女は仕事をしていた。会社の仕事は遅れたか?彼女は責任を恐れていたし、傷つけられるのを恐れていた。仏を学ぶのは成仏のためではなく、当然、それは我々の方向と目的であるが、最も重要なのは、今世で人の悪い根性を改めることができるのか?ということだ。仏は「人道成,仏道成」と言っている。人の道理ができていないのに何を根拠に自分は成仏できると思うのか?人の道理とは何か?我々は今世で人の身を得た。それは、過去世で五戒十善の修行ができたから、人の身を得て我々に修行をさせている。それは引き続き悪を行うためでなく、一切の衆生と一切の善縁を結ぶ。

しかし、あなた方は決してリンチェンドルジェ・リンポチェの方法を真似てはいけない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生をなじるのは相手に対して良いからで、心は慈悲である。あなた方が衆生をなじってもそれは癇癪を起こすか、憂さ晴らしにしかならない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に対してこんなにも厳しいのにそれでも弟子がたくさんいるのだからリンチェンドルジェ・リンポチェのやり方を真似た人がいた。結果、一ヶ月で弟子はすべていなくなってしまった。これは本当のことで、笑い話ではない。それはなぜなら慈悲心がないからであって、慈悲心があれば、自然と貪念が起こらない。慈悲心がないと貪念が芽生える。

そして間違いを犯した弟子は家を差し出してリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したいと望んだ。もしも他の人なら、おそらく受け取っただろう。弟子は間違いを犯して懺悔するのに、家を受け取って彼女に福報を始めから貯めさせ、一からやり直すことでよく学ぶことができると人は思う。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。彼女の供養を受けないのは彼女に罰を与えないのではなく、それは絶対に違う。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子なのだから、多くのことはリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に代わってアレンジするが、上師は何でもはっきりと話すわけではない。もしも彼女の夫が死ぬと言ったなら、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに死ぬほど泣いて見せないと可怪しいではないか。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこの事情ができるわけはリンチェンドルジェ・リンポチェが人ではないからなのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは、やはり人なのであり、唯、仏を学ぶことの定義が明らかであり、有与戯に執着せず、空性の中で衆生を利益する。いわゆる空性の慈悲心、空悲双運は、このようにしてできる。空性の中に於いて事情の未来の変化を見ることができ、空性でない中では見ることができず、体得できず、直接彼女が懺悔して供養しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の一千元を取った。それも同じく福報を貯めることになる。

ガムポパ大師の教えに依ると、あなたがすでに大乗仏法の門に入った後、上師からあなたにこの事を言われる。だから、あなたは自分がしたすべての定義に対してはっきりする。簡単に言うと、間違いが少なくなる。二度間違わなくなる。皆はどうして間違うのか?なぜなら「我」があるから間違いをする。自分を殺したなら「我」がなくなり、間違わなくなるのか?それも間違いである。なぜなら、自分を殺すことはできないから。

経典の中で提起した「正見」は正しい見解であり、我々は消極的な方法で日を過ごすことができないし、今世の肉体もしくは自分の一切の責任を放棄していわゆる修行をするのではなく、それも間違いである。最も重要なのは、正確な心の持ち方であり、今日周囲や自分の身に起こった事は、すべて縁起性空で隨時変化する。隨時変化したなら、あなたは次の一秒で変化してプレッシャーは大きくなると思うだろう。しかし、次の一秒で変化したなら、更に次の一秒で元に戻るのに、何か圧力はあるのか?あなた方はその時になってリンチェンドルジェ・リンポチェのところへやってきて自分は結婚したくないと言ってはいけない。なぜなら次の一秒で相手が心変わりするから。それもあり得ることだ。

縁が起きたからには、自分の責任を背負い、あなたの能力の範囲ですればよい。縁が滅したということは一つの事情が終わった、終了したということで、誰が誰に申し訳ないとか、誰が誰に申し訳がたつというのはない。テレビ番組では、男が女に対して申し訳ないと言う。なぜなら、女は、男のためにこんなにも長年犠牲になり、青春を浪費するからだと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞いて思った。今はどうして何でも売買になってしまうのか?もしもあなたが青春を一人の人に浪費したと思っているのなら、始めの時に一年はいくらだとはっきり言うべきだったのだ。事が過ぎてから自分は大きな損害を受けたと言うべきではない。あなたは何年の青春を相手に上げたと思っているのか?そんなことを言ってはいけない。たとえあなたは彼と一緒にならなくても、あなたの青春はないだろう。誰が青春を永遠に保つことができるというのか?

あなた方は、以後そのような番組を見てはいけないし、自分の親戚友人にも見てはいけないと言うべきだ。仮に女性がそのようなことを言ったなら、いっそのこと、知り合ったその日にはっきりと書き、書面として残せばよいのだ。一日、一年いくらの費用がかかる。仮に一年ならば割引もあるというように。そうすれば以後、互いに何のいざこざもないし、払わなければすぐに別れれば良いのだ。間違った観念で人生を過ごしてはいけない。仏法の中で提起したように、正しい観念は、今日はその縁があるということで、物があるとかある人と一緒だということに関わらず、縁は生滅法であり、永遠に変化しないのではない。たとえ海が枯れて岩が砕けて砂になろうとも、やはり変化する。なぜ、人は海が枯れても岩が砕けて砂になってもというのか?なぜならそれは自分がその年まで生きられないことをはっきりと知っているから、相手を騙してそのようなことを言うのだ。今はその必要はない。なぜなら一回の地震があればすぐになくなるから。

我々がこの種の真実の意義を受け入れることができてこそ、生活の質が向上し、自分の事に対してはっきりと見え、理解できるようになり、そして「絶対に」悪を行わなくなる。だから、この部分は非常に重要である。今日の開示は皆に冗談を言っているのではない。しかし、あなた方にすぐに行うように強制しているのでもなく、リンチェンドルジェ・リンポチェでさえ、累世で修めてきて現世でやっと少し体得した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て尊勝なる直貢チェツァン法王に《中観論》を読んだほうが良いかどうか尋ねたことがある。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェは必要ない、大手印を修めればよいと言った。道理から言うと、チベット密教を学ぶ者は皆《中観論》を明らかにしなければならない。なぜなら《寶積経》に基づいて書いているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは読んでいないが、不思議な事に少しは体得している。おそらく尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの過去世には少しこの種の根器があることを見ているのだろう。

空性を修めるのは真に簡単ではない。なぜなら、我々には習慣があり、執着に慣れる。習慣のすべては我々が感じるものである。この心の思いを調整することは非常に困難であるが、たとえ困難であっても実現することはできる。ただ一つ一つ順に行えばよく、焦って一気に実現しようとせず、すぐにできると思ってもまったくそのようにはいかない。ガムポパ大師の教えのとおり、皆は毎日真実の義理を心に刻み、地に足をつけて一歩一歩進み、次第に則って実修し、一歩で天に登れると思わないことだ。もしもあなたが真にこの種の義理を受け入れることができたなら、生活の中の痛苦の指数は下がる。なぜ、下がるのか?なぜならあなたは事の現象をはっきりと見ているから。

このようにできれば、たとえ今月業績が良かったとしても、あなたはそれを自分がすごく努力したからだと思ったりしない。確かにあなたは努力したから客が来たのだろう。しかし、たとえあなたが努力しても客が財布から金を出さなければ意味は無いのだ。簡単に言うと、あなたのその福報にはその縁が必要なのだ。自分には福報があって金は天女が花びらを散らすようにあなたに落とすと思ってはいけない。それは不可能だ。あなたはやはり努力をしなければならない。それは助縁である。なぜ努力したのに、得られるとは限らないのか?なぜならあなたはその縁を繋いでいないから。なぜ、縁が滅するのか?なぜなら、福のパワーは変化するから。福のパワーは軽くなったりなくなったりする。縁が滅するとあなたは努力しても意味が無い。

ある人は自分は十年来ずっと順調で、努力もしていると言う。ある日から突然にゴタゴタが始まる。以前の方法は役に立たない。これはその人の福と縁が変わったのであり、その人の性格が悪くなったのではなく、能力がなくなったのでもなく、嫌われるようになったのでもなく、その人の縁が変わったのだ。反対に、多くのことは見たところできそうもないが、弟子の努力によってやってみたら、できたことがある。

もちろん、これには我慢や多くの縁や多くの知恵から事を行うことが必要だが、成功したからと言って努力のお陰とは限らない。これはただ一種の縁法であり、それはただ口にする、頭を使う、努力はすべて他の人のお陰にすぎないのだ。もしも自分のお陰だと思うのなら、以後、何事が変化したなら痛苦を感じる。なぜなら自分がしたことでなぜそのようになったのか?と思うから。自分のお陰でと思わず、ただ頭を使い、碁を打っただけだ。すべてのプログラムをコンピュータに入力して自分は何もしていない。その観念はどこから来たのか?即ち、経典で説いていることを学び、それを学ぶことができたなら、自然に物事をする時の心持ちは謙虚になり、明らかになり、頑迷で非を認めないことがなく、同じ点ところでぐるぐる回転して出られないことがなくなる。

その実、仏を学ぶことは人生にとって大きな助けとなる。あなた方は多くをリンチェンドルジェ・リンポチェに教示を願っても受け入れても貰えないが、あなた方が段取りどおりにその方法ですれば、ある日、絶対にあなたは仏法がこんなにも良いものであることを知るだろう。仏法のどこが良いのか?仏法は多くのことを刃を迎えて解くができる。ただあなたが学び、教えに従い、そのとおりにしたのなら自然にできるし、苦労や悲しみを以って行う必要が無い。

リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したこれらの事は、あなた方が仏を学んだ後、女性を追いかけやすいとか、夫に言うことを聞かせやすいとかではなく、それとは全く違う。それはただあなた方の生活の段階を説いている。我々は現在生活しているこの世に於いて、生活の段階が非常に複雑である。自分の家族、学校の同級生、同級生の家族がいる。学校を卒業して社会に出てもやはり複雑である。こんなにも複雑な社会の中、自分は悪事をせず、どんな話もできるようにする。どんな方法であなた方を支持し、あなた方に悪事をさせないようにすればよいのか?以前開示したことがあることで、あなた方は上師の話を聞くこと、戒を守ること等々の他に、最も重要なのは、今日、開示する部分である。

あなたが「我」というこの主体を減らし、軽くすることができれば、あなたは自然に、はっきりと物事を見ることができ、相手や自分の間違いが分かり、相手や自分は責任を負っていない事がはっきりと分かる。そして後の処理は即座に明らかになり、人間関係も良くなる。なぜならあなたは何も求めないし、何も取らない人だから。それはあなたの福報から得たもので、あなたは得たのであり、強く求めたり他人の物から無理に強奪したものではない。そのようになれば、生活はし易いものではないか?自然と良くなり心配も要らない。あなたの福報に属するものは自然とすべてあなたのものであるが、あなたの福報は当然得るべきのではなく、あなたが手にしても意味は無い。

例を挙げると、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の祖父は中風に罹って長年、寝付いている。彼は以前、公務員をしていた時に汚職をした。汚職をした人はすぐに死ねない。ずっと病気にされる。なぜなら、以前汚職したので、彼のお金を常に使わせ、使い終わったらやっと死ねる。仏経では皆に教えているが、公務員は汚職をしてはいけない。たとえ民間企業でも汚職をしてはいけない。あなたが得た分不相応な財は絶対に返さなければならず、返さない方法はないし、残す方法はない。おそらくその後もあなたを寝付かせ、数ヶ月お金を使わせ、使い終わってやっと死ぬことができる。残っている間は逝かせない。

ある人は汚職をした後、少し寄付をすれば、神や祖先は赦してくれると思っているが、因果は彼を赦したりしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは二十数年間、多くの例を見てきた。多くの人は少しばかりの汚職なら、問題にならないと思っているが、必ず事が起こる。ただ、いつそれが起こるか?ということだ。今日、開示する事は非常に重要である。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方に冗談を言っていると思ってはいけない。絶対に冗談ではないのだ。

ガムポパ大師が先ず教える事は、自他平等、思いやりを串習薫習する。面々と途切れることなく自他平等を訓練、學習、薰陶、修正する。平等とは社会の地位や福報の業力を指すのではなく、法性を指す。たとえ一匹の犬にも法性はあり、将来仏になることができる。なぜ、仏は我々に殺生するなと言うのか?なぜなら、たとえ一匹の魚にも一匹の昆虫にも清浄な法性があるからだ。あなた方は蟻と人が死ぬ時は感じが違うと思ってはならない。全く同じである。簡単に蟻を踏み殺しても、蟻が死ぬのとあなたが死ぬのは違うと思ってはならない。どちらも同じなのだ。有情衆生であれば、同じであり、ただ死の過程が違うだけで気持ちや感じは全く同じなのだ。

なぜ、皆は殺生するのか?それはつまり自他平等ではないから、衆生を殺すのであり、畜生はあなたより低い、あなたより劣るだから食べても良いと思っているのだ。事をしようと思うのなら、長期間途切れることなく学習、薫陶し、やっと自他平等の重要性を体得する事ができる。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは出かける時、自分のボディガードが他人を倒そうとすると、ボディガードを叱る。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそんなにも重要ではなく、尊貴でもない。衆生のほうが尊貴である。

初めに教えることは、我々はこのように相手の身になって思いやることであり、毎回、自分を驕る気持ち、人をバカにする気持ち、人が間違っていると思う気持ちが表れたのなら、それは自他平等がないということだ。人はなぜ間違いを犯すのか?なぜなら彼は理解していないからだ。これは学生や公務員ならば間違いを犯しても罰しないと言っているのではない。それは法律上のことであり、しかし、仏法では、たとえ殺人犯の本性でも清浄であり、我々と平等なのだ。ただ彼には殺人の業力があるので、絶対に自分の果報を受けなければならない。しかし、皆は悪意を持ってずっと彼を罵ってはならず、それはあなた方が悪い。古代では人として「隠悪揚善」を教えた。隠悪は他人がした悪を隠すということではなく、毎日その人の悪を言い、広めるべきではないと説く。しかし、現在台湾ではそのようにすることが流行っている。良い行いはすべて隠して見ることなく、少しの悪い事を毎日、言い連ねる。ニュースではそのようなことばかりだ。このようでは衆生は安々と悪を行う。

我々は自分を主体とした主観で、事、物、人を批判することに慣れていて、平等な方向で事、物、人を見ることができないため、様々な異なる意見と見解を生む。そのうちの重要な点はどこにあるのか?もしもあなたが自他平等の心を訓練、學習、修めることしないのなら、慈悲は絶対に修めることができない。我々は衆生を助けるが、それは自分が他の衆生よりも良いからではなく、我々と他の衆生は平等だからなのであり、他の衆生が痛苦を感じるのならば私も痛苦を感じ、他の衆生が嬉しいのなら私も嬉しいと思う。

その実、中国の儒家思想には、いわゆる「独楽楽不如衆楽楽(皆で楽しむ事は一人で楽しむよりも楽しい)」というのがあるが、現在は皆反対になり、「衆楽楽不如独楽楽(一人で楽しむ事は皆で楽しむよりも楽しい」と変わってしまい、何でも自分が楽しくなければならず、なんでも欲しがることがよく、他人は何もないのがよく、他人があなたより良いならば嫉妬心が起こる。他の人が会社で仕事する時、あなたは一日中彼に用事を言いつけ、彼が失敗しているかを探す。もしも失敗を見つけたなら、すぐに社長に言いつける。なぜ、あなた方は喜ぶ心を持たず、人が入れば社長にとって良くなると思わず、会社が更に成長できると思えないのか?彼が良くなければ社長は責任を取らなければならず、あなたは責任を取らなくても良い。ある人は、万一彼が悪くて会社が潰れたならどうするか?と聞く。もしもそうならそれはあなたの縁で、あなたが言えばその縁を変えることができると思ってはいけない。

それならば、悪いことを見ても言わないのが良いのか?それはそうではない。もしも尋ねられたなら、当然、言うべきであり、つまり罪を憎んで人を憎まずである。ある時、尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに事情を尋ねる。リンチェンドルジェ・リンポチェも直貢チェツァン法王に対して報告する。いつもは口数は少なく、事実を話し、批評はしない。皆はただ事実だけを言い、批評はあなたが言うのものではない。相手があなたに尋ねた時、当然すでに考えがあるなら尋ねることができる。なぜ、人はそうなのか?つまり自他平等がないからだ。

事実、自他平等は非常に使いやすく、もしも人があなたに事情を聞いたなら、あなたは事実だけを言って批評はしない。反対に人があなたのことを聞いたなら、人も事実を言うだけで批評はしないだろう。それは因果である。人があなたに、あの人はいい人か悪い人かと尋ねたら、どうするか?良いと悪いの定義はどのように見るのか?定義はない。一般の人は皆自分に対して良いという人は良いし、自分に対して悪いという人は悪いと思っている。

経典で提示したことを総合的にまとめると、まるで空虚な無量無辺の有情衆生は、どの衆生でもすべて離苦得楽できると期待し、それはあなたも含む。だから慈悲がその観念である。我々は「四無量心」を唱える時、慈悲喜捨の最後の一句は「愛憎住平等捨(差別を捨てて 、執着・怒りも離れたる平等心に安んぜよ)」であり、たとえ愛するであれ、憎むであれ、その種の執着心は平等に捨てなければならない。愛はゆっくりと捨て、嗔恨ならばすぐに捨てるということはできないし、それは間違っている。もしもあなたが愛憎平等に捨てないのなら、絶対に慈は生まれない。

法会前にわかち合いした弟子を例に取ると、彼ら夫婦は十分に悪い。リンチェンドルジェ・リンポチェをキチガイと詰り、リンチェンドルジェ・リンポチェに聞かせた。他の人と考えてみても彼を相手にするだろうか?しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれでも彼を相手にして彼の世話をした。なぜなら彼は苦しんでいたから。彼が苦しんでいれば、リンチェンドルジェ・リンポチェも苦しむ。なぜなら自分と彼は平等だから。福報と業力があるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは現在はリンポチェである。しかし、清淨な法性の中ではリンチェンドルジェ・リンポチェは彼と平等である。

全世界で真に自由、平等なのは仏法である。簡単に言うと、男女平等はない、どの主義にも平等はない、平等にできるはずもない。なぜなら業力の差異があり、ただ法性が平等なだけだ。法性が平等なので修行人は慈のパワーで修めることができ、愛憎を平等に捨て、共に捨て、事情を明らかにでき、如何にして相手を助けるか分かる。ある人があなたに対して良くない、だから彼を嫌いになるというように考えてはいけないとリンチェンドルジェ・リンポチェは常に勧めている。今日、彼があなたに対して悪いのは、必ず過去世に悪縁があったからで、彼に返すチャンスをあなたに上げたのだ。

皆は聞けば聞くほど深くなり、更に混乱することだろう!我々仏を学ぶ者は自他平等である。たとえ今はできなくても、この観念をあなたの意識に深く刻みつけ、忘れてはならず、覚えておくように。ガムポパ大師が教えたように、自他平等の方法を途切れることなく学習、薫陶、修行しなければならない。もしもあなたが途切れずにすれば、自然とある日、自己を助け、衆生を助ける能力を体得できるだろう。

多くの人は自分が仏を学ぶのは衆生を済度したいからだと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に「どの衆生を済度するのか?慈悲でさえはっきりしていないのに、どうやって衆生を済度するのか?如何にしてあなたは衆生を済度するのか?」と尋ねる。あなたに自他平等の能力があるから、彼はあなたに済度させるのだ。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めるのに一度で成功したのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者を恐れているのではなく、彼が苦しんでいて未だ輪廻を繰り返しているからで、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を助けなければ衆生に済まない。彼は自然とリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受け入れる。仮にリンチェンドルジェ・リンポチェが自分こそが彼を助けて修法し功徳を得て、彼を良くしたと思ったら、彼は相手にしないだろう。

自他平等は非常に大切である。どんな人が自他平等できるのか?即ち如何なる事情に対しても積極的に助ける。それは自分の能力、人情や道理に適っている範囲内であることを指し、一日中義気を説き、飛び出していくのではない。仏を学ぶ者ならば、この観念は意識の中に確定させなければならず、さもなくば仏教を学んでいない人と何の差もないのではないか?もしもただ毎日拝んでいるだけならば、寶吉祥仏法センターに来る必要もないだろう。ここに来ても光明灯を点灯することもなく、名前を書くこともなく、お金を寄付しても誰も知らない。それでは疲れるだけではないか!寶吉祥仏法センターは仏を学ぶところで仏を学ぶ場所は他のような多くの趣向がない。仏を学ぶところではないのなら、当然趣向は色々あり、光明灯等々がある。

仏法は今日話した内容のものであり、自己と衆生を真に利益するのが仏法なのだ。仏法の定義は絶対に平安を求めるものではない。確かに祈祷文の中にはその種の事が説かれているが、根拠があってこそ彼に代わって求めることができる。どのような根拠なのか?即ち、その衆生がすでに大懺悔心を起こし、自分の過ちを理解したことである。だから、最近往生した弟子は五無間罪を犯した。道理によって仏を誹謗し、上師を誹謗した者はおそらく無間地獄に堕ちる。それは非常に重い罪で、特に彼は一生の間、多くの殺生をした。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳力で彼を転じさせたため、彼は死ぬ時、大懺悔心を起こした。

なぜ、彼の目は血が流れるのか?経典に於いて多種の懺悔があり、大懺悔心を起こした人の目は血が流れると言う。あなた方は生きているので流血しないし、涙を流すのも難しい。彼の大懺悔心が出たことで、業が転じ、ポワ法を得ることができた。なぜ、彼の頭頂には二個の孔があったのか?なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の代わりにポワ法を修めた時に一回叩き、施身法を修めた時にもう一度叩いた。だから二個の孔があった。施身法の中にポワ法があるが、あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェが一声法音を発しただけだと思ってはいけない。それでOKだと思っているか?当然すぐにOKになる。

本日、皆に開示するのは非常に重要である。あなた方は自分がすぐにできるように急いではならない。それはその必要はないと言っているのではないが、すぐにできる必要はない。あなた方はその真実の理念を自分の心に置き、各修行法門の中に身を置いてこそ、仏教徒である。仏を修めるのにこの観念がないと危険である。それはまるである人が自分が仏を学ぶのは衆生を済度するためだと言うのが、それは危険である。なぜなら、自分でできなければ衆生を傷付けることになり、あなたがそれをできても、それは奢りと高ぶりの慢心の心である。なぜなら、「我」が衆生を済度すると思っているからだ。だから《金剛経》は菩薩無我相と説き、それは自分は衆生を済度しないという意味で、菩薩無衆生相は衆生の相がないということだ。

もしも、自分は衆生を済度したと思うなら、あなたはやはり間違っている。いわゆる衆生の済度は能力があるなら先ず自利する。なぜなら自分はすべてわかっているのだから、再度ミスをしないし、自分が娑婆世界から離れることを肯定することで衆生を済度する能力がある。人に経を念じ、皈依し、仏を拝み、戒律を守るのが即ち衆生を済度することであると勧めるのではなく、この言葉を用いるには早過ぎる。少なくとも自他平等を修めてやっと相手を済度し、相手を助けることができ、それが真実の状況である。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を修める時、多くの衆生が来るのか?ちょうど、前回施身法を修めた時、一人の非常に凶暴な神がやって来た。おそらく台湾の神で、巻きつけた黄旗を持っていて、旗を開くと、大量の霊が済度を受けた。だから、あなた方は宮廟に参拝するのに、霊をそこに押さえたにすぎない。仏経に依ると、福徳のある霊は福徳のない霊を側に置く。だから多くの人は旗を持って帰りたがるが、それは即ち、宮廟派の小さい霊をあなたの家に連れ帰るということだ。小さな霊を持ち帰って良いことがあるのか?小さい霊があなたの家に来ると、その他を霊を追い出し、あなたの家にいた霊も追い出す。これは真実なのだ。だから旗は安易に頼んではならず、多くの人は旗を持ち帰りかえると守ってくれると思っているが、それはただ自分を守ってもらっているにすぎない。

施身法のその日、リンチェンドルジェ・リンポチェははっきりと見た。仏経が説くのは事実であり、その時に巻いている旗が開くと、大量の霊が出て来るが、誰が持って来たのかわからない。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生平等を持って施身法を修めなければ、真に大変なことになる。彼らは絶対に修法者を罰する。如何にして彼らに助けを受けさせるのか?彼らは修法者の観念が衆生平等、皆はfriendであること見たので、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受けた。

発願は正しい。しかし執着してはいけない。今世でできないのだから、自分が衆生を済度することに執着してはいけない。自分さえ済度できないのにどうして衆生を済度できるのか?わざとあなた方は焦り、焦ってめくら修練したのがこのようなのだ。だから、一歩一歩進め、先ずは八正道の知、見、解をはっきりとさせれば、次の行は問題ない。ちょうど、前に開示した知、見、解は簡単な拜懺等々ではない。これらはやはり因縁法であり、それは一切の有与戯論の辺見を遠ざけ、それが正知、正見、正解であり、それは大乗仏法の特別な不共な観念を修行し、小乗はそれを説かない。

皆はその観念を知っていて、更に加えて上師はあなた方の心持ちを教え始め、それは即ち、あなた方が修行した基礎を固め、それが顕教の所在である。経典を開いたり、中国顕教の出家者の服を着ることが顯教なのではなく、顕教は即ちそれなのだ。この観念をはっきりし、どこに大乗と金剛乗の中心点があるのかがわかれば道を誤ることがない。さもなければ人と違い、自分で思い込み、めくら修練する。修めても何もわからない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てあなたに灌頂したから大丈夫だと思ってはいけない。あなたにこの概念がなければ、たとえ100、500、1000回灌頂してもただの福報であり、OKではない。

人生の事情は非常に面白い。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前親しい友人がいた。彼は生前数百回の灌頂をしたが、最近急に可笑しいことが発生した。北京のある人が彼はすでに北京に転生していると言った。彼の妹はリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ね、写真を持ってリンチェンドルジェ・リンポチェに見せた。彼は死んで4年余りになるが、その子はすでに8歳だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼はどうやって転生したのだろうか?死ぬ前に転生したのだろうか?と思った。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の不理解を言った。彼は4年前に死んだのに、どうやって8歳の子供が出てきたのだろうか?

だから、もしも人が生前にしっかりと修行しなければ、死でさえも人に消費される。なぜ、人はその子は転生したと言うのか?なぜなら、彼は多くの骨董を持っている。もしも彼の転生ならば、それは道理で考えれば骨董を売ったのだろう。だから非常に可笑しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは比較的はっきりしていたから良かったが、一目見て8歳の子供なのに、けれども4年前に死んだという。彼が逝く時、始めから終わりまでリンチェンドルジェ・リンポチェが責任を負い、彼がどうやって死んだかはっきりした。だから、はっきりしない者は、よく人にごまかされたり、騙されたり耳目を騙されたりして仏法によって騙される。それは非常に怖いことである。

法会は円満と成り、弟子たち声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な開示に感謝を申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座をを降りられるのを恭しくお送り致した。


« 昔の法会開示法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »


2019 年 09 月 01 日 更新