尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年12月1日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに依る台北寶吉祥仏法センターでの法会開始前、一人の弟子は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の父親を救済した経過を分かち合った。

彼女は、今年(2013年)6月2日に皈依した。彼女の父は、去年(2012年)10月末に口腔癌と診断され、父の病気が縁で兄弟子の協力の下、去年11月3日に彼女は父母を連れ、初めて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェに父母の体の状態を説明した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたの母の小脳が退化しているのは鉛中毒が原因で、西洋薬を飲み過ぎだと開示した。彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェは真に素晴らしいと思った。母が薬依存症なのをどうして知っているのだろうか。薬局へ行って薬を買ったり、薬剤師に頼んで調剤してもらったりするのが何よりも好きで、飲めば飲むほど体を悪くしていった。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたの父も中毒になっていると言った。父の職場はプラスチック靴の射出成形の工場で、工場全体に無形の可塑剤毒が立ち込めている。更にあなた父の工場は環境保護に配慮していないので、衆生を傷つけているので、現在衆生が債務の取り立てに来ている。

あなた方は菜食し、殺生してはいけない!リンチェンドルジェ・リンポチェのこの開示を聞き、彼女は雷打たれたようになり、すぐに肉を口にしないことに決めた!リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の父親に帰宅して自分が今までした悪業を懺悔してから、また来るように言った。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自身の例を挙げて、彼女の父親に癌は怖いものではないので、癌細胞を殺さないように言った。あなたは癌細胞を殺せば殺すほど、癌細胞は体の別の箇所に取り憑いて悪さをする。あなたに負債を返す機会を与えてくれた癌細胞に感謝することである。彼女はこのリンチェンドルジェ・リンポチェという方はすごいと思った!大修行者であるだけでなく、科学的な健康知識も備えている。彼女は、父は救われたと嬉しく思った!最後にリンチェンドルジェ・リンポチェは金剛杵で父、母を加持し、彼らに仏を学ぶ因縁を与えた。

翌週、彼女は両親を連れて、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父に尋ねた。「同年代の人で亡くなった人はいるか?」彼女の父は「弟は30年前に亡くなりました」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「亡くなってから時間が経っていても、それは済度されているとは限らない」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の両親を慈悲深く加持し、更に彼らに施身法法会に参加するために申し込むよう言った。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分も参加してもよいか尋ね、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に、あなたは菜食をしているか?と尋ね、彼女が菜食していると答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは頷いて同意した。

彼女の父は帰宅後、体は何も異常なく具合も悪くなかった。そこで彼らは父に運動することや健康的に野菜を食べることを薦めた。口腔内の腫瘍は父に憂いを与えたが、精神状態と体の状態は良かった。施身法法会の当日、彼女は彼らを迎えにいくつもりだった。父は体調は悪いから行きたくないと言った。父はこの累世の冤親債主と叔父を済度する機会を外へ押し出した。彼女は憤慨したがどうもできなかった。それからまもなく、父は意気消沈するようになり、多くの友人達と医師は化学療法と電気療法を薦めた。彼女はできるだけ引き伸ばし、父に化学療法をさせたくなかった。それで父を連れて漢方医に見せたり、自然療法を試したり、父にリンチェンドルジェ・リンポチェ著作の《快樂と痛苦》を見せたりした。しかし、父ははじめから終わりまで仏法に対して信心を持つことができず、一日中、ソファーに座り、気持ちを暗くしていた。

最後に父は12月末に病院へ行き、9回マーカー化学療法と35回の放射治療を受けることに決めた。それは苦しみの始まりだった。続いて数ヶ月、父は何度も入退院を繰り返し、一回の入院は10日や半月になった。挿管しなかったが、受ける苦しみは形容しがたかった。ゆっくりだが父は骨と皮だけになっていき、大きな目はぼんやりとした目つきになり、子供である彼女自身はそんな父が苦しむ様子を見て受け入れがたかった。

8月の初め,彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェに会い、父に代わって大供養し、父に代わって福報を貯めることを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは持咒加持し、彼女に帰宅したら「リンチェンドルジェ・リンポチェは手伝うことはできるが、救うことはできない」と言うように伝えた。彼女は家に戻ってすぐに父に伝え、父を伴い会いに行き、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェは父の頭の上で加持をし、再度叔父のことをまだ済度していない、叔父は事故死だったと思うと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは叔父の名前で申し込むことを慈悲深く伝え、施身法法会で済度し、彼女は非常に感動した。リンチェンドルジェ・リンポチェのどの考えもすべては衆生を助けることを思っているが、衆生が自分を助けることを望んでいない、それならどうして救うことが出来るというのだろうか?と思った。

9月の始め、口腔内の腫瘍の出血が止まらないため、容態が悪化し、集中治療室に入った。父は挿管は同意したが気管切開は認めなかった。管を引き抜かないように両手は縛られ、状況は悪かった。9月7日、彼女は母と弟を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに父の状況を報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、すぐに父に対して長い時間持咒加持した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲や苦労を厭わずに彼女と家族を助けることに感恩した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。「あなたの父親の時間はもうあまり長くない。自然の成り行きに任せるのが良い!」そしてその場で、彼女に母と弟は理解と同意をするかどうかを尋ね、母と弟は頷いて理解と同意を示した。

リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の後、父の様態は奇跡的に好転し、腫瘍の出血が止まり、警報は解除された。本来主治医は彼らに父の気管切開を薦めていて、「もし気管切開しないでいて、腫瘍の血塊が喉に詰まったなら、喘ぎそして息絶える」と言っていた。そのため、彼女は気管切開のリスクと必要性と病人に対する永久的な傷について問いただした。医師はしっかりとした回答をすることができず、それどころか考えもなく「教科書ではそのように教えている。もしも切開しないのなら、その結果は家族が負うものだ」と言った。しかしながら、父はリンチェンドルジェ・リンポチェの大加持力の下、この難関をくぐり抜けた。集中治療室で一週間観察した後、安定したため、一般病棟に戻った。

9月12日、彼女は父に,9月15日は阿弥陀仏無遮大超度法会の日で、自分たちは病院に外出届けを出して救急車去に乗って参加することが出来ると言った。父は体が弱くなって傾眠するため、首を横に振って嫌がった。彼女は殊勝な済度大法会を逃せば次の機会はないことを知っていた。彼女は父に「大法会の後、私はすぐにニューヨークへ出張に行かなければならない。一週間後に帰ってくる」と言った。彼女は父の痩せた手を握って頑張れ!と言った。彼女には自信があった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に父に最後に会う時間を必ず与えてくれると知っていた。一週間後、彼女が帰国すると、父は既に退院して自宅に戻っていた。

父は帰宅して二日目から傾眠に陥った。大きないびきをかいているが、軽く叩くと目覚め、顔は恐怖に怯えている。そして数秒後にはまた傾眠状態に陥る。このように一日中寝ているので、彼女はこの状況は正しくないと思い、医師兄弟子に連絡した。9月23日、彼女は父を病院に送って行き、医師兄弟子は注意深く検査し、病室を手配し、父の痰を吸引し、抗生物質の注射を打った。父は時々目覚め、目で家族と対話をしたが、すぐに傾眠状態になった。彼女は自然の成り行きに任せるしかないとわかっていたが、父がずっと傾眠状態であるため、途方に暮れた。彼女は「まさか、その時がやってきたのはないか?」と自問した。最も無力に感じた時、ただリンチェンドルジェ・リンポチェだけが彼女を救うことができ、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェとアキ護法の助けを求めた。

9月28日土曜日、彼女は母、弟、妹を伴い、リンチェンドルジェ・リンポチェによるポワ法で父を済度することを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。「あなた方は仏法を信じていないので、求めることはできない」。リンチェンドルジェ・リンポチェは「父は私に会いに来たことがあるか?」と尋ねた。彼女は「ある。前後して全部で4回ある。毎回、リンチェンドルジェ・リンポチェは父を加持した」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。「父は私に会いに来たのだから、彼は他の癌患者ほども痛くないはずで痛みはずっと少ない。あなた方はこれからいうことをよく聞くように。明日(9月29日)から数えて10日間、血圧、心拍が下がったなら、あなた方の父は安心して逝くことができる。ポワ法を求める縁があるかどうかはその時に見ていなさい!」と答えた。そして彼らは涙を流したが、十分にリンチェンドルジェ・リンポチェが彼らに機会を与え、彼らの心を安心させ、彼らに時間を与えたことに感謝した。帰宅して、家族は集まって話し合い、写真を準備し、父がずっと気にかけていた期限を過ぎた台湾同胞証明書の再手続きを行った。

数日が過ぎると、妹と弟は不安を感じ始め、彼らは父を大病院へ転院させて治療することを主張した。なぜならこの病院の医師はもしも骨髓液をとって化学検査をして脳の問題であったなら、最もよく効く抗生物質で父を目覚めさせることができると言ったからだ。病院側はこの治療法に決めていて、すぐにも入院することを薦めていた。彼女は家族の主張に抗いきれず、父を大病院に転院させた。

医師は長い針を父の脊椎から刺し、8本分の脊髄液を採取した。彼らは側で見ることができないほど父は痛がって叫んだ。次に父に一週間、最もよく効く抗生物質を注射したが、父はやはり昏睡していた。彼女は医師に訳を尋ねた。医師は、「脊髓液の化学検査の結果から、脳の問題ではないことがわかったので、この抗生物質の効果は良くない。我々は更に別の抗生物質に換えて試すことができる。ただ、あなた方は心の準備が必要だ。これはすでに我々ができることは皆やったということだ。あなたの父の状況はとても特別で、私たちは最善を尽くしたが、もう方法もない。」と言った。彼女はそれを聞き、父に多くの苦痛を与えたことを恨んだが、自分は家族と喧嘩する勇気もなく、父が不必要な苦しみを受けているのをただ見ているだけだったことを悔いた。

父は病院で二週間寝ていたが、時々目が覚めたり昏睡したりして、ずっと無言で、手も字を書く力はなくなった。彼らはただ父の手を握って慰めた。父の生命力は少しずつ、少しずつ落ちていった。彼女は病室で求め得た懺悔の仏法テープをかけて流した。そばで人が話をすると、父は手ぶりで彼らに静かにするように頼んだ。父はまじめに聞いていた。彼女は父の耳元で「リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを助けると約束したので、あなたは信じてほしい。」と言った。父は力強く頷き、父にリンチェンドルジェ・リンポチェの後にだけ着いていき、ほかのに人に着いていってはいけない。よく人を見るようにと言った。その後、父は静かに目を閉じて休んだ。

夜中の12時、彼らは父の心拍、血圧が下がったので病院へ来るように通知を受けた。父は、10月24日夜中の2時2分、心拍が停止し、穏やか彼らから離れた。まったく取り乱したり、痛みに苦しむことがなく、非常に静かで眠るようだった。

彼女は、すぐに骨董店に電話して伝言した。8時間の読経の後、父の遺体は午前10時半に斎場に送られ、冷凍庫に入った。およそ11時半、彼女は父がリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法の済度を得たという通知を受けた!彼女と家族はリンチェンドルジェ・リンポチェに感恩し、彼女は夫、弟、妹を伴い、すぐに冷凍庫へ行き、父の遺体を出してもらうように頼んだ。彼らは順番に父の頭のてっぺんを触ったが、その時の父の遺体はすでに冷凍して1時間余経っていたが、頭頂の梵穴箇所はまだ暖かかった。彼らはこれがリンチェンドルジェ・リンポチェに依るポワ法の済度の瑞相であることが分かった。斎場の職員もこれはきっとポワ法の済度を得たのに違いないと言った!彼女はこんなにも重要な時刻に居なかったのにも関わらず、大声で「そうだ!父は寶吉祥のリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受けたのだ」と言い、最も重要な時刻に彼女は上師の功德に対して感恩と賞賛をしなかったことを懺悔した。

父親が往生するのに何のこだわりもなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが父を済度する時、父の唯一の遺言として弟に孝行させるよう、独立させること、母親にお金の心配をさせず、弟にすべてを与えないように言うのを見た。彼女は勝手に父親の遺言をこっそりと母親だけに言おうと思っていたが、それをリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られた。「父親の遺言は家族全員が知るべきなのに、どうしてこっそりと言うのか?弟の機嫌を損ねるのを恐れているのか?まさか、父親の遺言はリンポチェが自分で創りだしたものだと思っているのか?」彼女は自分が間違っていることに気づき、すぐに父親の遺言を家族全員に話した。彼女は、自分が大胆不敵で、自分勝手にして自分だけが良い人になろうとしていたことを懺悔した。

翌々週、彼女は母親と弟、妹を伴い、リンチェンドルジェ・リンポチェが父親のためにポワ法を修めてくださったことを感恩し、リンチェンドルジェ・リンポチェからの葬儀日の開示を得た。弟は更に幸運にもリンチェンドルジェ・リンポチェから孝行の意義と父親の彼への期待の開示を得た。彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して言葉も無いほどに感恩した。リンチェンドルジェ・リンポチェがいたから、彼女には頼みとするものがあった。父親の命の終わりに直面して、彼女は勇気を持って父親の後片付けすることができた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが自身のエネルギーを削って父親を済度して下さり、彼ら家族全員に心を落ち着けるように言ったことに感恩した。彼らには父親に対して多くの気持ちがあるが、過度に哀しんでもいけない。彼女はもしも、亡くなった人が済度を受けていないと、家族は故人の名前を聞いただけでいつまでも涙が止まらなかったり、場合によっては家族が遺産のために口喧嘩等々をすることを知った。最後に、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康と、仏法事業が隆盛であり、法輪が常に転じられ、長くこの世に存在することを祈願した。

続いて二人目の弟子が法会参加大衆に向けてリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を救った事蹟を分かち合った。

彼ら家族全員は2003年に皈依した。その年、彼女の姑はある夜、突然に脳幹出血し、病院で救急処置を受けた。このような縁起から兄弟子の紹介を経て、彼らは運良く、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会うことができ、その後リンチェンドルジェ・リンポチェの座下に皈依した。

2005年末、彼女の夫は、幸運にも尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに着いて日本へ行くことができた。ある日の午前、兄弟子が彼女の夫に、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の脳の状況を話し、夫に台湾に戻ったら彼女を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来るようにと伝言した。その時、台湾に居る彼女はすでに体に不具合を感じていた。いつも気づかずに倒れたり、手が震えたり、両眼の視力差が大きくなったり、しょっちゅう息を吸うことが困難になったりした。リンチェンドルジェ・リンポチェに会う前、彼女は倒れて肋骨を折っていて、その数日、彼女は何度も持ちこたえられなくなりそうだった。リンチェンドルジェ・リンポチェを観想し、甘露丸を飲み、リンチェンドルジェ・リンポチェに会うまで耐えた。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に会った時、先ず先に彼女を加持し、彼女に片手を出すように言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは手で10秒間スキャンし、彼女に言った。彼女の脳には血管腫瘍がある。良性で、手でこれくらいと大きさを示した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女にこの病気は子供の頃に家族で川遊びをした時に川の中の物を捕まえ、彼女は側で手伝ったためで、今日、その果報によってこの病気が熟した。そして彼女に病院へ行って検査をするように言った。同時に彼女に家族には「仏を学べば何も起こらないのではなく、過去に犯した悪は、悪の結果を引き受けなければならない。さもなければ、今日行った善行も善の結果にならない。善と悪は互いに相殺できるのではない。」と言うように言いつけた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、慈悲深く家族に仏を誹謗することを言わないように諭し、彼女を助けることを言った。

翌週、彼女はすぐに病院へ行き検査をした。医師は彼女のためにCTスキャンの手配をし、検査の結果、何の異常も表れなかった。数日後、病院はまた更に精密なMRIの検査を手配し、結果それでも何も表れなかった。彼らは、結果をリンチェンドルジェ・リンポチェに報告し、リンチェンドルジェ・リンポチェは別の病院で検査するように言った。その後、彼女は別の病院へ行った。医師は彼女の状況を尋ね、彼女に一週間入院して精密検査を受けるように言った。彼女は医師に、上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に脳血管に腫瘍があると言ったことを伝えると、医師は彼女に迷信だと言ったが、先ず先に脳血管検査をすることを了解し、MRI検査を手配し、血管造影剤の注射を打った。

数日後、報告が出ると、確かに、彼女の右眼眼窩と脳の境界となる箇所に、0.9CMの血管瘤を発見し、更に視神経を圧迫しているため、右眼視力が0.2にならず、すべての検査はリンチェンドルジェ・リンポチェが言うことと同じだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、日本に滞在中、彼女に会っていなかったが彼女の脳の状況がわかった。彼女に会って10秒も経たずに、彼女の病気の状況がわかり、病気の原因も話した。彼らは病院で三回の大きな検査を行い、最後はやはり医師に検査を提示してやっとわかった。そして医師はこの病気がなぜ起こったかを言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは医師よりも医学がわかり、医師ができないことができる。

医師は手術で切る勇気はない。ただ同僚のほか医師と会議した後、彼女に一歩進んだ提案をするだけだ。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェに検査の結果を報告すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにどうするるのか?と尋ねた。彼らは医学的治療をするつもりはない、リンチェンドルジェ・リンポチェの言ったとおりにすると答えた。その時、怪我をしたなら、大礼拝はできなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女に毎日六字大明咒を一万回念じ、更に大供養をするように言いつけた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、すぐに彼女の供養金をそのまま全額直貢梯寺の六字大明咒法会に渡して護持した。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでも弟子たちのために福報を貯める機会を与える。彼女はいつも持咒の時、衆生の苦を思い、自己の様々な悪を思い、涙が止まらない。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェはこのように慈悲深く弟子を世話し、弟子を指導する。

その時期、彼女は体が弱っていて、右眼の視力は0.2にも届かず、気血も上がらず、いつも危険な状態になり、体温、血圧が明らかに急速に下がり、状況が急を要した夜もあった。彼女の夫が、グループ長の兄弟子に電話で報告したところ、数分後に携帯電話のショートメールが送られ、リンチェンドルジェ・リンポチェに依ると、彼女は疲れすぎているのでゆっくり休むようにという伝言を伝えた。ショートメールを受け取ると同時に、彼女は体温がゆっくりと回復し、その夜はゆっくりと休むことができた。その後、彼女は漢方薬診療所で漢方薬を調合してもらい、医師は漢方薬の中に、貴重な麝香を入れて治療とした。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェは真に医学王であると賞賛した。彼女の命を救っただけでなく、彼女の行動と情緒を徹底して変えた。彼女の視力は徐々に回復していった!最も悪かったのは0.2で、現在は完全に正常に戻り、視力は1.0~1.2である。これら全てに対し、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の助けに感恩し、彼女に仏を学ぶ時間を与えた。

去年(2012年)11月末、彼女は車を運転している時、高速道路で制御不能のスリップを起こした。その瞬間、ハンドルは操作できなくなった。彼女は内側の車道から蛇行して最も外側の車道のタクシーにぶつかり車道に出た。反射的動作でハンドルを回した時、後方の大型トラックが彼女の車にぶつかった。その時の短い数秒間、彼女の頭は真っ白になり、ただ当てられた衝撃音が聞こえただけだった。数秒後に我に返った時、彼女は大声で叫んだ。「リンポチェが救って下さった!」奇跡のようだった。彼女の車は自分で操作したのではないようで、車は内側の山に当って止まった。もしも数十メートル早ければ、おそらくトンネル内で事故を起こしていただろうし、反対に少しでも遅かったなら、ガードレールに激突していただろう。ほんの僅かの距離だけ、山肌の部分だった。山肌に衝突した瞬間、彼女の頭はちょうど前方のフロントガラスにぶつかり、ガラスが割れた。その後、彼女はぐったりし、助けにきてくれた人によって車から出された。その時、彼女は全身が震えていたが、口だけが「ありがとうございます。リンポチェ!ありがとうございます。リンポチェ!」と繰り返しつぶやいていた。彼女は、上師が彼女が最も生死の危機の時に彼女を救ってくれたことを知った。

病苦、事故二回死を眼前にしたあとから、彼女はもしも、上師リンチェンドルジェ・リンポチェの救済がなかったら、自分はずっと前に死んでしまっていたことを悟った。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の命を救い、彼女の人生を変えた。彼女が病苦の時、戒慎しながら、全身全霊でしっかりと上師の後に着き、度々懺悔した。病苦によって、病人の心細さを体験し、命の難しさを知ったことで、上師に着いて仏を学ぶ時間が貴重であることがわかった。交通事故の翌日、彼女は全身の力が出なくなり、頭が割れそうに痛く、両目を開くこともできなかったが、彼女は必死に大礼拝をして、その場で、彼女は泣いて懺悔した。彼女はわかったことで心からほっとした!病苦の時、苦を知り、心は完全に諦め、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの教誨を聞き、改める、行うことがわかる。苦が減ると、苦の味を忘れ、またも安逸な生活に戻り、慌ただしく忙しい日常に戻ってしまう。

彼女は懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に新しい生命を与え、彼女に仏を学び、反省し、改める時間を与えたが、彼女は自分の心をコントロールできていない。彼女も兄弟子の方々が彼女の分かち合いを聞いた後、上師を感恩する他に、いつでも自分に気づかせ、上師の教えを聞き、真に改め、最も大切なことであるが、怠けないようにすることを望んでいる。最後に彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康と、法輪が常に転じられ、仏法事業が円満かつ隆盛であり、すべての虛空をあまねく照らし、更に多くの衆生に利益することを祈願した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、参会者全員に貴重な仏法の開示を下された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、本日、ガムポパ大師の教えをもとに、皆に仏を学ぶ者にとって重要な心の持ち方を開示する。経典によると、仏を学ぶのは、順に修行するものである。仏法の甚深無我の意義について、もしも、ただ自分の考えだけならば、あなた方が自分の学んだ学問と人生経験によって仏法を推敲すると思う。もしもそのように考えるのなら、標新立異、めくら修練になりやすく、良い結果になるはずがない。だから、我々はすべての善巧方便に頼らなければならず、順に修行する。この段の意味は、仏を学ぶことは考えることで仏法の奥深い意義を悟ることができるのでは決してないことを指している。

仏を学ぶことと、世の中のいわゆる人生経験とはどこが違うのか?我々の人生経験は眼、耳、鼻、舌、身、意を用い、意識、神識によって途切れなく積み上げることで自己の生存方向、未来と理解とする。しかし、仏法は眼、耳、鼻、舌、身、意に対する見方の認識は偽であるとする。偽とは何か?あなたが必要としなければ、眼、耳、鼻、舌、身、意はあなたに対して作用しない。もしも皆が仏が説く仏法を体得できるのなら、眼、耳、鼻、舌、身、意の敏感度を強化したりせず、眼、耳、鼻、舌、身、意の機能も強化せず、仏が何を説くのかゆっくりと体得する。

多くの外道の修行方法は、すべて自己の肉体と意識の感覚を通して、宗教の神秘感を体得する。どんな宗教であっても、すべては霊媒の方式があり、その実、それは一種の反応に過ぎず、集団催眠と自我の催眠を受け、いわゆる霊界とのコミニュケーション方法を生み出した。その実、有情衆生すべてに清浄な本性が備わっているのなら、法性もしくは如來藏に関わらず、すべては我々に永久に虚空の中で不生不滅させ、甚だしくは十法界を超越し、涅槃の境界に入る。しかし、現在の問題は我々が人の身体を得たことで、自己の生命を複雑にしている。それはまるで多くの事情を研究し学習しているようだ。

その実、宇宙間の事物はすべて人心の変動であり、種々の虚偽の相を生み出す。その種の相は衆生心の作用によって、眼、耳、鼻、舌、身、意等外在すべての器官を生み、我々が生存する能力を処理する。しかし、真に我々を活かしているのは眼、耳、鼻、舌、身、意ではなく、我々の累世の業力である。善業が多いものは、当然長生きする。悪業が多いものは、当然寿命も短い。いわゆる修行は,決して眼、耳、鼻、舌、身、意を訓練するものではなく、眼、耳、鼻、舌、身、意を本性、清淨な心に対する影響と関わりを減らし、最終的には断ち切ることができる。断ち切ることができると、清淨な本性によって十方法界すべての現象を体得する。

法会前にわかち合いをした弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の血管の腫瘤を見つけたことを話したが、どうやって見たのか?それは見たのではなく、いかなる衆生が求めても、眼、耳、鼻、舌、身、意のすべてを断ち切り、ただ清浄な本性によって衆生の業力を反射したのだ。もしも仏法を学ぶことで感応、神通、悟りを求めたなら、それは間違いである。あなたが何かを言った時、それは意識の作用である。意識が起こって欲望が生まれる。欲望が始まって、煩悩が始まる。煩悩が始まって業力が始まる。業力が始まって我々の生生世世の業力が発動し、未来の生生世世の業力が発動する。業力があると、我々は断ち切れない輪迴を引き起こす。

もしも仏法を学ぶのが自分の学問、経験に依るのなら、それは学ぶことができるはずがない。なぜなら、我々は意識によって仏法を見ているから。なぜ、必ず一人の上師に着いて仏法を学ぶのか?なぜなら、上師はどのように慣れた生活方式が清浄な本性を干渉しないのかを知っているから。このようにすれば、衆生を利益し、自己を利益して生死の苦海を離れる能力を持つ。

釈迦牟尼仏がこの世で仏法を口伝してから、直貢噶舉は、今日までずっとこの伝統を引き継いでいる。いかなる仏法も小さな仏経内の一字一句もすべて上師によって自ら口伝えして初めて唱えることができる。台湾では別の人に有る経典を唱えさせ、それはちょうど《心経》もしくは大悲咒であるが、この種の方法は正しくない。なぜ、直貢噶舉はずっと口伝の伝統を引き継いでいるのか?なぜなら釈迦牟尼仏はこの種の方法で伝法したから。昔は、パソコン、テレビ、電話がなかったので、すべて口伝した。なぜ口伝なのか?口伝は、身、口、意で仏法の加持を得る。もしも目で見るだけなら、テレビを見ても、見たにすぎない。仏経によると、地球人類の耳根は特に優れ、他の世界の衆生と比較して、地球の衆生ははっきりと聞こえる。だから、釈迦牟尼仏は言葉で口伝した。

仏経は嘗て仏が仏法を語った事を記録したものであり、仏が話したものとも言える。仏が嘗て話したものであるのなら、それは単純な文字のように答えることではなく、必ずもう一度徳を備えた上師を通すことで、仏が嘗て話した仏法が口伝されたことになる。もしも口伝でないのなら、それはただ自分で仏経を見た、テレビを聞いただけであり、加持力がない。なぜ、ないのか?それは尊勝なる直貢チェツァン法王が昨日、開示したとおり、直貢噶舉伝承の力は大きいからである。なぜ、直貢噶舉伝承の力は大きいのか?直貢噶舉の法はどの代でも口伝であり、それは釈迦牟尼仏の教導で途切れなかった。仏法のパワーはずっと続いてきた。もしも我々がこの伝承を切ったなら、この伝承はなかったとみなされ、加持力もなくなる。

一人の上師が口伝する時、それは上師が説いていても、それは一切の諸仏菩薩が仏法を皆に聞かせていることになる。皆が聞くことができたなら、それは真の種子が存在し、仏像を彫るや人に仏経を印刷させるのは、彼のため仏を学ぶ種を蒔いたことになるではない。それは代わって善の種子を蒔いただけである。口伝を通して、種子は耳根を経て第八意識田の中に入り、そして真の種蒔きができる。だから、もし、あなた方が伝承、上師に対して不恭敬ならば、仏を学ぶ上で自然と多くの障害が生まれてくる。

多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェがなぜこんなにも厳格なのか納得できずにいる。昨日、尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに道場の階下には多くの人がいると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王にこれら階下の人はすべて戒を破っているので上がれないのだと答えた。尊勝なる直貢チェツァン法王が言うところ、自分が子供時、比丘尼の寺廟へ行き、仏寺の外に多くの比丘尼を見た。しかし、仏寺の中には多くの位置がある。だから直貢チェツァン法王は「なぜ彼女らを上げないのか?」と尋ねた。仏寺の人は「あれらの人たちは皆戒を破った。だから入れない」と答えた。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが発明した方法でない。ずっとむかしからこのことは有ることがわかる。

台湾の多くの人は、仏法を人情に変え、関係なく彼らにチャンスを与えると思う。あなた方はあのようにすると、無慈悲だと言う。彼はすでに間違いがわかったのだから、彼らにチャンスを与えるべきだ。仏は多くの方法で衆生に利益する。もしもこれらの衆生の業力が非常に重いのなら、無理に仏経を学ばせるのは彼を傷つける。どうして彼を傷つけるのか?それは仏法に疑惑を持ち、信じることもない。それは仏を誹謗している。仏を誹謗する罪は非常に重い。

今回、尊勝なる直貢チェツァン法王が台湾に来たが、その他の道場へは行かず、ただ寶吉祥仏法センターだけに来た。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の根本弟子であるからだ。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェは上師が言いつけた事に対して絶対に行い、まったく上師を心配させず、上師が新たに質問する必要が無いからである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は毎回リンチェンドルジェ・リンポチェを心配させる。なぜそうなのか?表面上これらの弟子たちはリンチェンドルジェ・リンポチェを恐れているが、実のところは恐れていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは真に尊勝なる直貢チェツァン法王を恐れている。恐れているから、どの事も上師の立場に立って考え、行うことができる。

もしも、あなたが一人の人を恐れるのなら、間違いを犯すだろうか?口では自分は恐れると言いながら、頭は空っぽで、どのようにするかを考えておらず、すべては人を騙している。明らかに脳は頭の中にあるのに、自分の頭は空っぽだと言うか?問題はどこにあるのか?即ち、弟子が三宝と上師に対してまったく恭敬心がないので、物事をする時でも自分の利益を以ってすることが大前提になる。何が彼らの利益なのか?即ち、叱られたくない、人の恨みを買いたくない。知り合いを探して一緒に物事をしたい。このように修行をしていたなら、修行できるはずもない。

今回、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜネパールに行かなかったかというと、今年、ラダックから帰ってきてから、リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと自分は行くことができないと感じていた。だから護法アキに尋ねた。結果、アキはリンチェンドルジェ・リンポチェに行かないように、行けば危険であるが、弟子は行っても何もないと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に請い、結果、直貢チェツァン法王は護法アキに尋ね、やはり同じ答えが返ってきた。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは行くと問題があるのか?今日は、それは説明しない。結果、弟子が行った後、直貢チェツァン法王は自ら彼らを連れて仏塔を回り、弟子たちは、自分の福報が足りたので、直貢チェツァン法王に会うことができ、直貢チェツァン法王が仏塔を連れて回ってくださったと思った。実のところ、直貢チェツァン法王はもしもリンチェンドルジェ・リンポチェが行ったなら、必ず弟子たちを連れて仏塔を回ったことを知っている。たとえ、リンチェンドルジェ・リンポチェと師弟であっても、差をつけたりしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは教派のために来ることができなかった。だから直貢チェツァン法王はこれらのあまり不器用の弟子のために、彼らと仏塔を回った。

これら二百人余りの弟子は自分の福報が足りたから尊勝なる直貢チェツァン法王が連れて行って下さったと思っている。彼らの上師リンチェンドルジェ・リンポチェは実のところは知らない。直貢チェツァン法王が昨日説いたところに依ると、30年間、ずっと直貢チェツァン法王は一歩も離れたことがなかったと言う。あなた方の誰ができたのだろうか?誰も、自分は有意義に生活出来ていると勝手に思い込んでいて、リンチェンドルジェ・リンポチェが言った話を聞かない。いつでも自分は優れていることを見せびらかしたがっている。人と比べることを言ってはいけない。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェと比べても敵わない。どうしてあなた方が素晴らしいというのか?素晴らしくもないのに、上師の立場で物事をしようとする。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王のために何でもして、直貢チェツァン法王は受け入れることができるのか?なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王の立場に立って物事をするので、上師を悩ませたりしない。

逆に見れば、あなた方は事をするのは、いつも自分の感覚を頼りにする。それはまるで法務を担当する弟子が昨日、罰として入場を禁止されたのに、自分でやって来たのと同じだ。例えそのようでも、やはり問題は表れる。尊勝なる直貢チェツァン法王が道場を離れた時、法務組の弟子はやはり甲鈴を吹いた。他のリンポチェが到着した時、迎えに降りる人がいなかった。昨日入場を禁止されたあの法務組の弟子はすべての組の人と会議をしいたため、一人の年長の弟子を迎えに行かせた。更にその年長の弟子は以前にも間違いを犯していて、それで永遠に道場で仕事をすることができない人だった。彼は自分はその弟子と友達だから彼に行かせたと思った。今まで仕事をする時、上師がどこに居るのか知らず、結果、昨日はそのリンポチェを迎えに出なかった。

尊勝なる直貢チェツァン法王を空港へお迎えに行く日、リンチェンドルジェ・リンポチェははっきりとすべての理監事は皆空港へ行ってはいけないと言っていたのに、結果理事長は迎えに行った。良く言えば、彼はやるべき事ををしていないのではないかと心配し、それで現場まで行って見た。元々、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事を知らなかった。なぜならすでに空港待合室に入っていたからで、結果急に付き添いの弟子に、寶吉祥の弟子が外にいる以外、他の道場の人は迎えに来ているか?と尋ねた。付き添いの弟子は理事長が彼に六十数人だけいると答えたと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞いて非常に訝り、理事長は天眼通なのか?さもなければどうして外にどれだけの人が居るか知っているのか?付き添いの弟子は「ちがいます。彼は現場に来ています」と答えた。

これらの弟子は誰もが皆自分は優秀だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日、自らやって来た法務組の弟子を叱責し、彼は死んだのではないかと尋ねた。道場が運営できないのは、何でも彼に頼っているからではないか?この二名の弟子は非常に優秀であり、自分は責任感があると思っている。しかし、上師が言いつけた事もわざと聞かず、それを上師に見せつける。彼らはどんな責任を負っているのか?昨日、同じ問題が発生したのではなかったのか?それは法務を担当する弟子が事前に他の組のメンバーにはっきりと言わなかったことを意味する。法本をちゃんと置かなければ、弟子が探しても見つからない。まさか法本はこの弟子のものなのか?なぜ、表紙にリストを作って貼っておかなかったのか?寶吉祥仏法センターはいつ、これらの弟子のものになったのか?

もう一度言うが、理事長は空港へ行った。彼はまさか空港のスタッフが彼を恐れると思ったのか?彼は自分は眼科医であり、理事長でもあるのだから、スタッフは自分を恐れないといけないと思ったのか?彼は吉祥仏教文化交流協会理事長の肩書をもっているから、人々は彼を敬うのだ。もしもその肩書を取ってしまったら、誰が彼を相手にするのだろうか?眼科医に診てもらおうと思う人か、もしくは眼科は良いと思う人だけが彼を持ち上げる。

この二名の弟子は真に優秀であるのに、その仕事をさせられない年長弟子に迎えに行かせた。更には会議は決まっていたことと言った。まさかリンチェンドルジェ・リンポチェには出家弟子がいるこを忘れたのではあるまい?彼らは自分は大したものだと思っていて、身勝手だ。少しの事をするだけなのに、天が落ちてきたかのように自分を大したものだと思う。なぜ、今回尊勝なる直貢チェツァン法王は他のところへ行かなかったのか?答えは簡単だ。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を弘めたので、直貢チェツァン法王に心配させなかった。だから寶吉祥仏法センターに来た。寶吉祥の弟子はいつでもリンチェンドルジェ・リンポチェを心配させる。理事長は護法アキが素晴らしいことを信じない。だから自分はこっそりと空港の2階へ行く。弟子たちは彼を見ていないので、彼がその時に現場にいたことを知らないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの付き添いの弟子がこんなにも正直に口から出るとは思いもよらなかったのだろう。うっかりしゃべってしまったことで自分が間違ったことを言ってしまったと知ると、二言目はすぐに元気がなくなった。なぜなら、理事長が空港に行ったことをばらしてしまったことを知ったから。

リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で指示した。法務を担当する組の弟子と理事長は連続して三ヶ月間、施身法法会に参加する必要がない。なぜなら、彼らは教えに従わないから。昨日尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに今朝見送りをしないように指示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは言うことを聞き、行かなかった。言い換えると、あなた方はやはり衝動的に行く。上師は言うだけだと思っていて、空港へのお迎えをしたのに、弟子の身で見送りをしないのは、申し訳ないと思っている。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かなかった。尊勝なる直貢チェツァン法王はそのように指示したし、必ず空港で何かがある。結果、直貢チェツァン法王が真に空港で物事を処理するのを知っている。

翻って、あなた方はどうだろう?理事長は送りに行った。自分は監督の身であるからと思い、リンチェンドルジェ・リンポチェのSPのすべてが彼よりもずっと習熟していることわかっていない!彼は自分に責任があると思っている。しかし、いつもは見ていないのにどうやって責任を負うというのだろうか?法務を担当する組の弟子も同じである。リンチェンドルジェ・リンポチェはため息をついて言った。彼らの悪い癖はどこから出てくるのか?すなわち、自分の能力で修めないことを信じない。

経典で提起するように、まとめとして、数字が不可思議という単位まで至る大量の乗次第法門を教授する。しかし、すべてこれら法門は、対象の根器の階層の違いに対して、調整して調伏するためである。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に教える時、ある者には叱る方法で、ある者には追い出す方法で、ある者には罰として立たせる方法で、ある者には彼に良くする方法で、ある者には有る者にはある法門を用いる方法で、ある者にはその他の法門を用いる方法にする。それらはすべてあなた方の根器に基いて決まる。経典は引き続き説いており、だからあなた方が受け入れる能力を以って教えを施す。ある者はどのように言っても言うことを聞かない。それはちょうど先ほどの二名の弟子がいうことを聞かないのと同じである。法務を担当する班の弟子は理事長が迎えに行くことで責任を表示しているのを見て、自分も責任を表示するために行った。

経典によると、《摂続》の中、偈ですべての仏の善行方便は、衆生利益のために開示される。そのため、我々はいわゆる仏教に対して、ここでは仏の教えを指し、多くの人は仏教は宗教の一種であると思っているがそうではなく、実のところ、指しているのは仏が教えである。皆は、すべての仏が教えた宗見に対し、決して善悪、賢悪を分けてはならず、自分は良い物を学んだと思い、智慧のあるものを学んだと思ってはいけない。例を挙げると、多くの人は、禪宗を学ぶのは知恵がつくと思う。なぜなら座禅をするので、知識がない人でも浄土を修められると思う。またある人は密教を学び、多くの灌頂を受ける。そして自分は法の方面に於いて優秀である思い、顯教は密法ほどすごいものではないと考える。これも間違いである。

仏陀は、我々に一切の法門を与える。各種の法は、根本的に良くないはずがないし、間違いであるはずがない。現在、多くの人は密教を攻撃していて、密教は存在せず、偽であると考え、釈迦牟尼仏は密教を開示しなかったと言う。この種の考えは間違っている。なぜ、間違うのか?ちょうど顕教と密教について話したので、顕教は何か?密教は何か?をはっきりさせる。その実、仏法の名のもとに解釈すると、顕教は即ち共であり、小乗、大乗、金剛乗に関わらず、すべて仏が説く理論を共同で学習し体得することができ、特別な違いはない。

ある人は密法を学ぶのに四聖諦法、十二因縁法を学ぶ必要がないと言うがそれは間違いである。密法を学ぶ修行者はこの部分を必ず通り、理解しなければならない。ある人は浄土を修めるのに座禅の必要がないというが、それも間違いである。あなたが一心不乱ならば、それは禅定である。ある人は禅宗を修めるのに名号を唱えなくても一門深入できると言うが、それも間違いである。《華厳経》の中で言うとおり、最後は名号を持つ。続部の中で開示するとおり、修行者が十地菩薩の後まで修行するには持咒が必要で、持咒は即ち仏の心咒、名号を持つことである。

修行を始めたばかりの時、衆生の異なる根器と縁によって小乗、大乗と金剛乗を修める違いが発生する。小乗を修める人は大乗がないと言う。大乗の人もまた小乗はどうなのかと言う。これはあってはいけないことである。南伝したミャンマー、タイの一帯は観音菩薩を修めないし、阿弥陀仏を唱えない。なぜなら、小乗仏教だから。彼らは小乗を修める根器なので、そこに正誤はないし、それが彼らの縁なのである。チベットではどの出家人も密法を修めるのか?その実、殆どはそうではなく、大部分は共の法門を修める。あなた方はラマ僧が、仏寺でずっと鼓を叩き誦を念じているのを見て、その人は密法を修めていると思うが、その実、経を念じている。有る経典は中国語に翻訳されていないが、大部分はある。ラマ僧も《金剛経》、《心経》、《華厳経》等を念じる。直貢噶舉の有る仏寺は、毎年《大蔵経》をすべて念じ、知らない人が入ってきて見ると、跋を打ち、鼓を叩いているので、密法なのかと思うが、実は経を唱えている。事実、密法は一般のラマ僧は修めない。リンポチェは修める。

経典に依ると、各種高さが異なる次第が表れる仏教次第法門は、すべて根器の異なる程度に合わせて順に説いていくためで、比較的低い根器の声聞、縁覺種性次第の修行人に対して、仏陀はこれらの人の声聞、縁覺乗の教法を教えた。当時仏陀が悟りを開いた後、初めて語ったのは、四聖諦法と十二因縁法であった。なぜなら、当時の数名の侍者のは昔婆羅門を修めた。婆羅門を修める人がもしも苦修を修めないなら、それは間違いだと考えられた。だから、仏剛が悟りを開いて成仏すると、初めに仏に着いて苦修した数名の侍者を見た。本来、彼らは仏陀に対して苦修を捨て置き、相手にもしなかったが、苦修は正しいと考えていた。だから仏陀は彼らに十二因縁法と四聖諦法を開示した。なぜなら、彼らの根器は途切れることなく人生を思索するのが好きだったので、彼らのために思索を開示した。

厳格に言うと、声聞、縁覺は在家衆が修めるには適さない。なぜなら、在家衆は毎日多くの事を処理しなければならず、起きたなら何時に家を出なければならないかはっきり考えることでバスに乗れる。バスに乗ったなら、どこで朝食を買うかを考え、買ったなら何分で食べ終えるかを考え……等々多くのことを考えなければならない。出家衆はその点、異なる。彼らの生活は固定的で、毎日そのように生活して過ごす。過去世で賢をうまく修めた人は、福報として彼に思索する多くの時間を与える。特に自身がそのようにすることを好む。もしも淨土宗をこの種の人に伝えると、彼は何の結果もないと感じる。なぜなら、彼は自分には結果を出すことができないと思うからである。この種の人は声聞、縁覺を学ぶのに適する。なぜなら、十二因縁法と四聖諦法は、一二三四と思索を始め、最後まで思索すると、どうやって輪廻するのか、いかに輪廻させないかがわかり、四聖諦法の苦集道滅がいかに苦しいかがわかり、順々に禅定と通して思索し理解する。

賢善は、特定条件のもと、この種の説法が発生する。例えば、声聞、縁覺を修める人が、もしも四禪を修める事ができたならそれは賢であり、至善を修める。しかし、大乗の修行者にとって、たとえ四禪八定を修めても、最もよくて非想非非想天であり、どんなに良くても有余涅槃で無余涅槃には届かないので、大乗種性の人にとって、それは至善ではない。この種の人にとって、それはその人の極限であり、それはちょうどある人の体力は百メール走れないが、ある人にとっては二百メートル走れるというようもので、各人がそれぞれ違う。あなたは、百メートルしか走れない人に二百メートル走らそうとはしないだろう。二百メートルだけしか走れない人は百メートル走っても絶対に飛び抜けた成果は出ない。仏を学ぶとはそういうことだ。

皆が自分の宗見を認めたなら、決して他の法門の宗見を貶めてはいけない。今日、あなたは一人の上師と仏法を学ぶ。その上師自身が修めた法門と宗見は、きっとあなたの過去と縁がある。だから、あなたはその上師の門下に立つことができ、彼の法門を学ぶことができた。あなたは自分が着いていく上師をはっきりさせたなら、自分をほかの人より優秀だと思っていけないし、決して他の法門の宗見を貶めてはいけない。仏法には多くの宗派がある。例えば、唯識論、中観論、華厳宗等々たくさんあり、どの人も自分が修めているのはとても良いと思っている。もしも彼らが自分を良いと思っているのならそれで良いのである。ある人は全く金剛乗を学ぶことに適さない。それはちょうど叱責した二名の弟子のようであり、言うことを聞かず、自分で責任を負うことを望み、更にはリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の能力をひけらかしたがり、その種の根器の人は傲慢である。

経典に依ると、その他の法門に対して根も葉もないことを言ってはいけないし、誹謗してもいけない。そのような事をすれば、過失が大きいことや罪が重くなることを知るべきである。もしも、顕教経典に従ったなら、それは棄法であり、謗法の悪業である。だから禪を修める者は、浄土を修める人を批判してはいけないし、淨土を修める人は、禪を修める人を批判してもいけない。顕教を修める人は密教を修める人を批判してはいけないし、密教を修める人は顕教を修める人を批判してはいけない。このようにすることが、真の修行者である。仏法とその他の宗教が異なる点は、仏が一切異なる根器の衆生に基いて異なる法門を説くことである。他の宗教はこのようではない。ただ神を信じれば彼を救う事ができると言い、ただ神を崇拝し、神が彼らを救う。しかし、仏法はこのようではなく、仏法は仏陀の教えに基いて説き、自己が肯定する修業を経て、ある日仏陀と同じになる。

各衆生の根器はどこから来るのか?つまり、自分の生生世世仏を学んだ因縁によって今生の根器が決まる。だから、あなたが今生で仏を学んでいる方向、仏を学ぶ心がけ、上師に対する気持ちがあなたの来世に影響を与える。あなた方は自分は上師に申し訳ないことはしていないと思ってはいけない。実のところ、申し訳ないことはあるのだ。あなた方は毎日、このような事をしている。ちょうど叱責されたあの二名の弟子のように。リンチェンドルジェ・リンポチェは、理監事は出席してはいけないとはっきりと指示したのに、彼らはそれでもリンチェンドルジェ・リンポチェに対して彼らの能力と責任感を見せたかったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、ずっとこの一件を信じている。如何なる人が死んでも地球はそれでも回り続ける。リンチェンドルジェ・リンポチェの辞書の中に、誰がいなくなっても生活できないことはない。自分が更に辛くなっても大したことではない。どちらにしてもリンチェンドルジェ・リンポチェも苦しんで来たのだから。過去30年の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾の社会で多くの因縁の種を蒔いた。多くの人はおそらく直接リンチェンドルジェ・リンポチェを知らないが、間接的にはリンチェンドルジェ・リンポチェを知っている。更に言う。今日、教派、道場、上師のためにどんな仏法の事をしても、自然と護法の助けになるが、それはあなた方のような凡人にはできることではない。誰でも叱られるのを怖がる。あの二人の弟子も怒られるのを恐れ、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らにしていないこと、責任を持っていないことで叱られることを恐れた。リンチェンドルジェ・リンポチェがなんと言っても、聞く耳を持たない。

顯教経典の中で言うとおり、そのようにすると、棄法と謗法の悪業を貯めていく。一人の上師は、各法門を専修していないが、少なくとも一つの概念を持っていて、その法門の果位がどこにあるかがはっきりしている。上師は法門の果位がどこにあるか知っているので、その衆生がこの法門を修めることが適しているかそうでないかわかる。有る衆生の根器は人の話を聞くことが不可能であり、たとえもう一度言っても意味が無い。

例えると、昨日、二人の姉妹がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。彼女らの母親が死去したが、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けがあったので、死ぬ時に痛苦がなかった。妹は、「私は他に母のために何ができるか?」と尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの言葉を聞くのが一番好きだ。なぜなら人がその言葉を言うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くのことを節約することができる。加持をする必要はないし、咒を念じなくてもいい。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に言った。「良い!それでは大礼拝をしなさい。一日2000回しなさい」。彼女はすぐに了承し、自分はできると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に本当にできるのか?と尋ねた。彼女は答えた。「本当です」。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に言った。彼女がすると了解したのは、リンチェンドルジェ・リンポチェに了解したのではないのだ。彼女が同意したのだ。

そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女に先ず300回やってみるように言った。結果、彼女の姉はすぐに、「私が彼女の代わりにしてもいいか?」と尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェはいけないと答えた。彼女は自分の妹は体が悪いのだと言って、更にしゃべり続けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に、あなたがこれ以上話すなら、あなたに出て行って貰わなければならないと言った。この姉は変わった人で、ずっとリンチェンドルジェ・リンポチェに、「怒らないでください」と言い続けている。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に言った。「もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが怒ったなら、この法座に座る資格が無い」。結果、彼女の妹は170回やった後、できなくなった。

なぜ、寶吉祥仏法センターはこの特別な法門で、あなた方を叱るというのか?なぜなら、あなた方は驕り高ぶり、慢心があるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも長い年月、修行をしてきたが、それでも自分はできるとすぐに答えることはできない。あなた方は何を根拠に言えるのか?世間の人は皆自分の能力はスーパーマンと同じだと思っていて、何でも言えばできると思っている。どうしてそう思うのか?なぜなら、皆約束を守らないから、了承したのにできないと、相手はあなたをどうしようもないと思うことになる。多くの人は口から出まかせをして、適当にいいよと言ったり、出来ると言ったりする。あなたがそう言うのは、相手に了解したということだ。多くの男性は女性に纏わりつかれることも有り、多くの女性は男性に纏わりつかれることもある。それは即ちこのようだからである。相手が「私はあなたを愛してもいいですか?」と尋ねる。あなたは適当にいいよと答える。相手は「私たちは結婚しませんか?」と尋ねる。あなたはまた適当にいいよと言う。多くの人は感情の表し方を間違えている。あなたが適当にいいよと答えるから、相手はあなたは了解したと思うのだ。

もしも、皆が自分の言ったことに責任を持つという習慣を養わないのなら、生生世世ずっと衆生に借りを作る。なぜ、多くの人は、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で自分はすごいのだと見せるのか?なぜなら、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェを深山から出てきて、髮が長く、ひげが長い修行者のように見えないので、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の心がわかると思うからだ。その信者は170回礼拝した後、分かった。そして投降し、リンチェンドルジェ・リンポチェに代わりに彼女の母親を済度することを求めた。

リンチェンドルジェ・リンポチェのために彼女を懲らしめたのではなく、亡者のために彼女を懲らしめた。彼女は求めないと、リンチェンドルジェ・リンポチェはどうやって彼女の母親のために済度するのか?彼女は自分は母親のために何ができるか?と尋ねた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは「それなら私に頼みなさい!」と言うことはできない。なぜ、彼女に対しリンチェンドルジェ・リンポチェに求めなさいと言えないのか?なぜなら彼女が誤解してしまうのを恐れるからである。重要な点は、衆生に縁がなかったら、たとえ彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに要求しても、彼女はやっぱりその縁はないので、更に傲慢になるかもしれないからである。彼女が自分は何ができるかと尋ねたのだから、答えは簡単である。彼女は自分は何でもできると思っている。それならば仏に拝むのは最も簡単なことであろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの方法を使うようになってから、300回できた人をみたことがない。たとえ300回礼拝し終わっても、その後、姿が現れないだろう。

ある人は仏を拝むのは簡単で、即ち木魚を叩き、経を唱えて一日を過ごすと思っている。また、毎日、香を焚き、本当にそのようにして1日を過ごすと思っている。しかし、実のところはそうではない。仏を学ぶとはどんなことがあっても学び続けることで得られるものである。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示するのは、現在すべての仏を学ぶ人が抱える弊害である。皆、どんな法門を学んでいても自分が学んでいるのが一番良いと思っている。確かに、あなたにとってみたならば、それは最高の物であるが、衆生にとって最高であるとは限らない。なぜならどの衆生も根器が違うから。

今日開示した二名の女衆の話は、つまり以下をあなた方に告げている。言い換えると、他の人が彼女たちに多く懺悔し、多く大悲咒を念じると、彼女たちの母親に迴向し、そのような母親こそが済度されると言っている。それは彼女たちを傷付ける。なぜなら、彼女たちはすでにこんなにも貢高我慢が有るのに、どうして慈悲心が生まれると言うのか?あなた方は彼女たちを孝行だと思ってはいけない。それは実のところ、偽の孝行なのだ。彼女たちは何もせず、そして母親が死んだ。だから他人に彼女が孝行者であることを見せるため、探しだしてやっているにすぎない。もしも、徹底的にその亡者を助けることができないなら、生者を助けて何をするのか?生きている人は彼女を苦しませていけない。それはしてはいけないことである。人が入れ替わって彼女に懺悔、もしくは法会に参加したなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは先ず彼女を叱る。このようにすることで、彼女は納得して法会に参加し、それでやっと亡者の福報の縁起を起こすことができる。

上師がすることは心配りや配慮があるもので、ちょうど昨日、尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェは表向きは怖いが心は柔らかいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を変えるのは心を柔らかくしてはいけないとユーモアを持って言った。昨日、もしリンチェンドルジェ・リンポチェの心が柔らかくなかったなら、彼女に帰って唱えればよいだろうと冷たく告げたことだろう。なぜ、彼女を叱ったのか?彼女を叱るには彼女を見続けなければならないが、礼拝し続けて倒れることを恐れた。それこそ、大きな責任ではないか?衆生を助けながら、目では彼女に問題がないかを見張る。

経典に依ると、顯教にとって、それは棄法、謗法の悪業であるという。棄法とは、即ち、仏が言った仏法を捨てるということだ。あなたは修める、わかる、体得するのではなく、仏が言ったすべての仏法に対して、我々は誰も諦めるという考えを生み出させてはいけない。あなたが修めないということは、その法が如何なる衆生にとっても意味が無いということを表しているのではないし、あなたが他人に必ず修めるように励ますということでもない。しかし、大事なことは、人を謗ってはいけないということだ。ある人はある法門を修めると、我々は喜ばなければならない。もしも、彼に修行面で問題があるなら、彼に来てもらって上師の教えを求めても良いが、人に修めても意味が無いと言うのではない。あれこれ修めるとそのようなのである。これは彼の縁であり、もしかすると彼はこのように累世で修めてきたので、やっと密法を修める縁ができたのかもしれない。もしも、その法門さえ断ってしまったなら、未来に密法を学ぶ縁もなくなるかもしれない。だから人を謗ってはいけない。

現在リンチェンドルジェ・リンポチェが言うのは法方面を指し、人方面を指すのではない。あなた方は自分の法師は他の人よりも優れていると言ってはいけない。指しているのは人である。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日、開示するのは仏が教える仏法であり、各派の見解の差には良し悪しや高低はなく、ただ衆生の縁が違うだけである。だからあなた方は決してそのように言ってはいけない。経典に依る密宗続部にとって、それは自分を貶め、他宗教を貶める事になるという。なぜ、密続では自分を貶めるというのか?なぜなら、密法を修める人は、菩薩道を修める人であり、もし菩薩道を修める人が仏が説く仏法に対して何も認めないのなら、それは即ち自分の身分を低くしていることになる。

道理はどこにあるのか?先ほど、法会が始まる前、皆は《隨念三宝経》を念誦したが、経の中で、仏は一切の菩薩の父と説いていた。もしも、父親が言ったことさえ、あなたが貶めるのなら、それは自分を貶めることになるのではないか?例を挙げると、あなたは父親が言ったことをいつも批判し、父親が言うことは嘘だらけだと言うのなら、あなたは誰の娘なのか?密法を修める行者は、特に菩提心を発する人で,聞く声はすべて仏が唱える仏法であり、見るものはすべて本尊であり、意味は差別心がないと言うことだ。もし、あなたに差別心があるのなら、それは自分の果位を一気に貶め、それは金剛地獄に堕ちるよりも怖い。もし、金剛地獄に落ちたなら、おそらく何度かわけも分からず、ある仏に出会い大慈悲心であなたを助け、あなたは地獄から出てくるだろう。しかし、あなたが自分を自ら下げるのなら、本来仏乗、菩薩乗でなければならなかった果位を一瞬にして凡夫に貶めてしまう。

あなた方は、リンチェンドルジェ・リンポチェの講法を長年聴き続けてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェがある法門は悪人だ、悪者だというのを一度も聞いたことはないはずだ。ただ、あなた方に中の果位の差を言ったことがある。その他、他の宗見を貶めると菩提心の戒律と誓言に背く。経典でも分かる通り、仏陀の教法に対して、我々は万が一にも片面から一方一類へ貶してはいけない。それはつまり、自分が大悲咒を唱えるからと言って、他人に藥師咒を唱えてはいけない、大悲咒よりも良いものはないと言ってはいけない。それは間違っている。彼はきっと念じ方を間違っているだけであり、咒語自身に高低はない。あなたが大悲咒を唱えると感応が発生する。それはあなたのことであり、彼が感応するということではない。彼が藥師咒を感応が発生するのも、あなたも唱えると感応するということではない。なぜなら、彼とあなたの縁は違うからだ。上師は批判することができる。なぜなら、あなた方が唱える方法を間違っていて、方法を間違っている。灌頂も閉関もしていない。本尊はあなた方と相応しない。あなた方は、リンチェンドルジェ・リンポチェがどの咒語を正しくないと言うのを聞いたことがあるか?

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、必ずあなた方に六字大明咒を伝えるのか?なぜなら、それは上師が自分で修めた本尊だから、弟子に伝えることで弟子と相応する。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが学んだものが別の本尊ならば、その本尊の咒語は早晩伝えるだろう。だから、金剛乗の忿怒尊を学び、忿怒尊は素晴らしいので、他のものを抑えこむことはできると思い、それは間違っている。各衆生が必要なものは異なる。だから上師は異なる方法と本尊によって彼を助ける。

経典のとおり、《入菩薩行論》の中では瑜伽行者は勝心を持ち、上上見破下者のような偈語を持って我々を導くと言い、更に一乗高い教法を用い、一乗下の宗見を破ると言う。それはどのような観念なのか?それはある法門が下で、我々が学ぶものが上と言っているのではなく、果報から見る。もしも菩薩乗を修める行者ならば、果報は即ち菩薩であり、菩薩の次は成仏である。もしも阿羅漢を修める法門なら、それは声聞、縁覺であり、最高として阿羅漢、有餘涅槃を修め、仏の境界を証することができない。なぜなら、それは《入菩薩行論》であるから、もし、あなたが菩薩道を修めたいと発願するなら、あなたを菩薩させない法門を修めなければ行けない。そしてあなたを菩薩にする法門を修めさせ、それが即ち上上の法によって下一法の宗見を破る。それは間違いがない。

菩薩になると、幅広い衆生を利益できる。阿羅漢になると、ただ自分と縁のある衆生だけ助けることができる。なぜなら、慈悲を修めず、ただ輪廻から離れ、生死解脱の法門を修めるだけだから。菩薩はなぜ修めるが難しいのか?なぜなら、必ず慈悲を修めなければならず、さもないと輪廻を断つことに執着しないから。慈悲を修めることにしたならば、必ず戻ってきて衆生を救わなければならない。当然、必ず菩薩の果報となって初めてよくなる。もし、今生で菩薩の菩薩の果位を修めずに、自分で乗願再來と言っても、それは人を騙しているだけだ。

釈迦牟尼仏は、淨土法門を開示し、我々を今生で阿弥陀仏淨土へ行かせることができ、仏になるまでずっと修行すれば、乗願再来できると言う。今生では証果がなく、次がつまり乗業再来である。あなたは今生で菩薩法門を修めるので、阿弥陀仏へ至る果位は少し高くなり、少なくとも中品上生になる。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に菩提願を発するのか?なぜなら、菩提願、菩提心を発する人は、阿弥陀仏へ至るのは少なくとも上品下生となる。その間の時間として、上品上生の人はすぐに仏になり、下品下生の人は、12個の小劫を経てやっと仏になれる。それは非常に長い時間である。

いわゆる破除はその宗見を消すものではなく、ひとつ上のランクの修行方法で、ある法の執着に対して破除する。例を挙げると、声聞、縁覺を修めるには入定しなければならず、できれば出定の必要がないレベルまで修めるのが良い。しかし、菩薩道を修める行者にとって、入定するかしないかは重要なことではなく、どのような心なのかが重要なのだ。もしも、菩提心であるなら、指を弾いている間の一「定」でも衆生を利益できる。経典のとおり、この種の見解は、一般の仏法を学ぶ人が体得、理解できることではない。その実、《入菩薩行論》のなかで教えるのは、ひとつ下のクラスの修行人に、更に一クラス高い教法へ歩ませる必要があるので、この種の教えの方法があり、それは何も過失はない。

先ほど、他の宗見を批判してはいけないと言ったが、なぜ《入菩薩行論》の中では上上層を修めると下一層を突破できると言っているのか?それは釈迦牟尼仏の慈悲であり、衆生が有餘涅槃に入らないことを望み、衆生が菩薩果位に入った後、次に無餘涅槃に入ることを望み、それによって我々にこの種の修行方法を教える。例えば、ある人は禅定を修めたが、菩提願を発していない。多くの人は悟れば衆生を済度できると思っているがそれは間違いである。いわゆる悟りとは、すでに涅槃の境地に入っているので、仮に有餘涅槃に入れば衆生を済度するため戻れない。なぜなら、境地の中で心は動かないからだ。

涅槃に入ってない時、なぜ、菩提心は妙宝と言ったのか?なぜなら、菩提心は我々を保護し、我々が不注意に拠って非想非非想天に入ってしまわないようにする。非想非非想天と有餘涅槃に入ることは、ただ一線の隔たりにすぎない。字面から見て、非想非非想天に入った行者は自分は何も考えないと思っているが、事実は考えている。なぜなら、自分は入定していると考えるからだ。これは非常に繊細なことで、繊細な心だからこそ、非想非非想天もしくは有餘涅槃の境界に入った判定ができる。どのようにして判定するのか?当然、上師に頼るのだ。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが禅定を学んだ時、多くの人と同じく、入定は長ければ長いほど良いと望み、ある閉関した時、この種の長ければ長いほど良いことを望む菩薩道を修めることに合わないことを体得した。菩薩道を修める時、もし、あなたが入定して10年なら、どうやって衆生を助けるのか?定の中にいれば、当然衆生を助けることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェが禅定を教える時、皆に禅定は量ではなく、あなたがどのくらいの時間座るかでもなく、質であると言った。あなたが入定するその瞬間、完全な定の中にいり、如何なる僅かな念頭も出現していない。

我々の念頭は細くて自分でもつかむことができない。それを如何にして証明するのか?ある時、あなたはそこに座っていた。何もせず、何も考えていなかったのに、突然手が動いた。これは霊がついたのではなく、神経の問題でもなく、非常に微細な念頭が存在したのである。たとえば、あなたはいつもある時間に物を持つ習慣がある。水の入ったコップを持ち、水を飲み、テレビを見たり電話をかけたりするように。あなたは電話及びすべての物を置いて、そこに座って入定する。しかし、あなたには医学上の潜在意識が発生する。その実、それは潜在意識でなく、極細の念頭であり、自分自身でさえそれほど細かい念頭を察知することできない。それを医学では潜在意識という。

潜在意識はどこから来るのか?すわなち、通常、途切れなく事をしている。常に常に事をしていると、ゆっくりと極細の念頭の中に発生し、それが末那識の中に存在する。極細の念頭は神経さえ作用を起こさないほど細かい。ただ境界に来ると、その念頭が作用を産む。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが言おうとすることは、皆はほとんどわからないが、その実、皆は知っている。なぜ、あることについて、あなたは今生でまったく接触しなかったのに、突如学び始め、人よりも覚えるが早いのはなぜだ?同じように人なのに、ある場合には同じ父母から生まれたというのに。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自身を例にすると、子供の時、弟と一緒に同じ師匠からカンフーを学んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは学ぶのが早く、弟は非常に遅かったし、学びたがらなかった。なぜなら、非常に辛かったから。仏法からすると、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが過去世でその業力があることを証明している。法相宗にとって、リンチェンドルジェ・リンポチェの末那識の中には、この意念があって学んだことが有った。以前喧嘩した、その素地があった。だから学ぶことができ、現在、六十数歳になってもまだ素地ある。しかし、弟にはない。

この種の件はどこから来たのか?これは過去世がもたらした業力ではなく、過去世でしたことでもなく、今生で起こるのは、あなたの極細の念頭の中にあるからで、あなたの今生の行為に影響を与える。あなたが修行方式を自分を明らかにして認識した場合を除いて。いわゆる自分をはっきりと認識するのは自分が誰なのかを知ることではなく、そんなに簡単なことではない。すべての念頭を理解することは、自分が以前にゆっくりと積み重ねてきたことで、粗い念頭を生み出す。神経が起こした反応に触れると、粗い念頭があり、次に粗いものから細いものに変化する。

尊勝なる直貢チェツァン法王は嘗て、リンチェンドルジェ・リンポチェの心は非常に細いと言ったことがある。物事を処理する心が非常に細かいとは言わなかった。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに粗念で日常生活を動かすことはなかった。これはあなた方が考えることは何度も考えることなのではなく、何度考えてもこのようなのである。先ほど叱責したあの二名の弟子が即ちそうだったのだ。よく考えたのにそれでも間違いを犯し、自分は責任を取らないといけないと表示した。もしも、彼らの念頭が十分に細かったら、このように考えるだろう。上師は私に出てはいけないと言った。それは重要なことだ。彼らは上師は上師とならないのだ。もしも思うのなら、今日の彼らはこのようだったろうか?決してそうではなかったろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、すでに今朝尊勝なる直貢チェツァン法王のために空港まで見送るつもりでいた。しかし、直貢チェツァン法王の一言によって、行かなかった。早起きだからではない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェもこんなにも早い時間に尊勝なる直貢チェツァン法王のために見送った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェははっきりわかる。尊勝なる直貢チェツァン法王は言ったからには、必ずの意味がある。だから弟子はあれこれ、推敲せずに、結果として上師が行くなと言ったら行かないのである。しかし、あの二名の弟子は、上師が彼らに行ってはいけないと言ったのをわかりながら、敢えて行った。彼らは上師に対して一顧の価値も与えない。彼らは心は自分は責任感があると思っていて、そのように言えば、上師は怒らないと思っている。しかし、密法を修める時、最も重要なのは上師が言う言葉であり、皇帝の命令よりも重要である。しかし、それでも皆言うことを聞かず、粗念で物事をする。

だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも自分は法座から降りるとバカになると開示する。リンチェンドルジェ・リンポチェは法座にいる時、皆はリンポチェと呼ぶ。降りれば、あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェは一般人と同じなると思っている。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが一般人であるなら、絶対に尊勝なる直貢チェツァン法王に道場へ来ていただくことを求めることはできない。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェが一般人であるなら、あなた方にこんなにも長年虐められて生きていられるわけがない。

あなた方は真にリンチェンドルジェ・リンポチェを傷めつける。毎日、リンチェンドルジェ・リンポチェに用事を作る。ある医師がネパールへ行く前のこと、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に仏像を買ってはならないと言い聞かせた。二百名の弟子らは添乗員と共に聞いた。この医師は自分は権威があると思っているので、法会前に話の分ち合いをした弟子のように、医師が「あなたが話を聞かないのなら、自分で責任を取るように!」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはそのような話はしていない。ただ、あなた方がもしも、言うことを聞かないのなら、後果は自分で負うことになる。なぜなら、果報が変わるからだ」と言っただけである。

この医師はそれでも買いに行った。人は彼に「上師はあなたに買ってはいけないといったでしょ?」言った。彼は「ないですよ!私は芸術品として買うだけで、帰ったら売って金儲けができるかと思って。」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、はっきりと事前に、皆に仏像で金儲けをしてはいけないと開示した。結果、彼はしてはいけないと言われたことをした。なぜ、これらの人は、上師が言った言葉を忘れてしまうのか?なぜなら、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの上師ではないと思っていて、上師は馬鹿だと思っている。仏法は自分に有利なときには話を聞き、用がない時には記憶から捨てている。

理事長は空港へ行き自分で責任を持ち監督すると言った。彼は何の資格があって自分が監督できると思うのか?誰が彼を相手にすると思うのか?もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが內政部の評判が良くないのなら、誰が彼を相手にするというのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは今回、500人の出迎え申請した公文書担当の弟子に説明するように指示した。申請時、公文書はどのくらいの時間がかかったか?弟子は「公文書は一時間足らずで認可された」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示した。あなた方はこのような事を聞いたことがあるか?なぜ、そんなにも早くできたのか?それは即ち、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが伴う弟子たちは規則を守る事を知っているので、彼らは有事が起こることを恐れなくて済む。だからこんなにも早かったのだ。理事長はまだ自分のメンツだと思っているのか?官僚は民衆のトラブルを恐れるが、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎回弟子を連れて出るのは、非常に整然としているのを見ているので、心配しなくても済む。

公文書を申請した弟子は続けて説明した。4年前、リンチェンドルジェ・リンポチェが協会に依る尊勝なる直貢チェツァン法王のお出迎え隊を企画した際、非常に規則正しかったため、現在まで多くの人に良い印象を残している。そのため、今回、話し合いをした時、関係者ら皆問題はなく、全力で協力と援助をすると言った。今回の計画についても、空港の職員は皆、同じく秩序が非常に良いと言った。これらについて、尊貴なる上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感恩する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて叱った。だから、これは理事長の事ではない。彼は自分が行けば、人は彼を見て理事長が来たので恐れると思ったのか?彼が自分は責任を持っていると思うのなら、上師が言った話に対して彼は責任を持たないのか?なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の信者、凡夫から尊勝なる直貢チェツァン法王にまで認めてもらえるのか?直貢チェツァン法王が昨日開示したとおり、リンチェンドルジェ・リンポチェの供養が多いからリンチェンドルジェ・リンポチェは今日、このようでいられるのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが上師に対する心がずっと前から変わったことがなく、教派に対する忠心も変わったことないからなのだ。これは経典で述べるところの「恭敬」に符合する。

あなた方の誰が上師に対して恭敬しているのか?誰もが上師はあなたにとって役に立つ時には上師の話を聞き、それ以外は聞かない。法会前に話の分ち合いをした弟子のように、なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父の遺言を話したのに、彼女は聞かなったのか?なぜなら、彼女は上師を恭敬せず、上師はただ彼女が利用するもので、彼女に代わって済度してくれれば良く、それ以外は世間のことだと思っているからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の修行者として、適当に話したりしない。なぜなら、修行者は話に責任を持たなければならず、あなた方とは違う。

あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェが適当に口から出任せを言っていて、今回は偶々このようにあたり、ちょうど最も言うことを聞かない医師の身に起こったのだと思っている。旅行社はこんなにもたくさんの旅行団があり、特に以前は500名の弟子を連れてインドへ行き、尊勝なる直貢チェツァン法王の誕生日を祝った。リンチェンドルジェ・リンポチェは事前の会議はせず、ただこの一回だけ特別に指示をした。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはただ今回の弟子は自分のお金を出さないことで、平安にすぎることができることをはっきりとわかっていた。それなのに、この医師は自分が医師であるとひけらかし、買い物をした。買い物をすれば、その地元の人は心が動くのではないか?必ずそうなる。心が動けば、事は動き出す。

彼はつまり教えを聞かない。リンチェンドルジェ・リンポチェが考えたことは、あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェが叱ってあなた方に話を聞かせようとするものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがそれぞれの事を手配するのはすべて未来のためである。もしも、お出迎えの時、リンチェンドルジェ・リンポチェは厳格に秩序を規定していない。今回もどうしてそのようなことを便利だと思うのか?あなた方は500人のお出迎えの公文書がこんなにも早く認可が下りるのを聞いたことがあるか?

その場で、弟子は以下のように説明した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは4年前の企画が非常に円満且つ詳細であり、一つのレンガの上に何人が立てるかのような詳細な資料を空港側に提出したたため、今年は資料を提出する時も非常にスムーズだった。過去のスムーズで安全な経験から、彼らは非常に敬服していた。今年の企画の内容について、内政部と警察側には意見がなく、それは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの計画が善意的であったからで、協会はリンチェンドルジェ・リンポチェの引率の下、空港と警察側の信用が良好であるため、たとえ500人のお出迎えであっても彼らは友好的に協力してくれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示した。これは仏法であり、それは人の身になって考えることだ。あなたが人に問題を起こさなければ、人はあなたを助ける。権力や権勢を楯に人に圧力を加え、人をいじめるのではない。今日、誰もが我々を助けてくれる。彼らは皆我々の恩人なのだ。自分は納税者だから公務員をいじめても良いと考えてはいけない。不肖な公務員もいるが、ほとんどの公務員は地道に働いている。あなたが彼に心を込めれば、彼も自然にあなたに心を込める。だから、理事長を担当した弟子は悪い。自分が監督に行って何事もないか見てくると言う。上師が言った話を一顧だにしないのに。護法アキは本当に素晴らしい。あなた方がどのような手を用いようとも、暴き出してリンチェンドルジェ・リンポチェに見せる。あの日、仕えた弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに特に良かった。口滑らかに理事長の事を話した。本来、彼の話し方はそのようではなかったし、今まで認める口ぶりなどしたことがなかった。

経典によると、衆多の法門があるが、これらの法門のレベルの中で、殊勝の道と言えるのは、大乗仏法である。いわゆる殊勝の道とは、大乗仏法が特に素晴らしいということではなく、その果が異なるのである。仏法は因果の重要性を強調しているが、どのような因を植えると、どのような果が得られるのか?声聞、縁覺を修めると自然に阿羅漢の果を得る。また、大乗、菩薩乗、金剛乗を修めても、自然に菩薩と仏の果を得る。殊勝とは素晴らしいということではないし、必ず勝つということでもなく、その法門を修めた果位が違うのだ。既然仏の願力は一切の有情衆生が成仏できるようにするためだから仏が教えるその法門は当然、殊勝なのだ。

次に前述で説明したことを挙げると、仮に我々が高層の法門を修めると、低層の法門を破るが、それは過失はない。仮にそうでないのなら、根も葉もないことや悪意の中傷をとりとめもなく批判することになり、それは良くないし、許されない。僅かな仏経の理論や論の注釈でわかったように思い、自分の見方で各派の宗見を解釈してはいけない。それは間違っている。

以前、台湾のある長老が多くの中観に関する書を書いていた。多くの人は彼の本で弘法したが、亡くなる前、彼は認知症になった。道理から見ると、修行し、智慧のある人が亡くなる前に痴呆の症状が表れるはずがないのだ。痴呆は愚かになることで、智慧が消えていった。彼の問題はどこにあるのか?なぜなら、彼は各宗派の批判をするのが多く、特に淨土宗は仏が説いていないと言っていた。彼は批判することが好きだったので、老年になった時、痴呆の症状が表れた。彼は禅を修め、そして《大般若経》を重視した。しかし、《大般若経》はどの衆生も修めることができるものではない。なぜなら中で説いているのは空性であり、どの衆生の根器でも修めることができるものではないのだ。しかし、多くの人には誤差の範囲があり、《大般若経》は智慧を説いているので、この経を学ぶと当然、自分に智慧がつくと考える。その実、それは間違いであり、それどころか完全な間違いである。

仏が「般若」の二文字について解釈するとき、解釈には十数年かかる。智慧の二字に含まれるものはそんなに単純ではない。なぜ、三藏法師は「般若」のこの字の梵文を中国語に翻訳しなかったのか?なぜなら、中に含まれる意味が広すぎたからだ。以前三藏法師には三つのことを翻訳しない事があった。それは名詞、多くの含意がある言葉、原音が同音の漢字で翻訳する。もしも「般若」が単純な智慧であるなら、それは非常に狭い見方である。「般若」を体得できたなら、仏果になれる。このことから、一般の凡夫俗子が文字の上っ面だけで《大般若経》の含意を理解することはできない。だから仏は多くの時間を使って解釈した。このことからもわかるように、不誠実に仏を学ぶと、必ず後から問題が起こる。何を誠実と言うのか?即ち、教えに従うということである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、こんなにも多くの衆生を助けてきた。道理からすると、凡夫の身体では現在まで耐えられない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の華厳宗を修めた出家衆を助けた。彼は逝く前、リンチェンドルジェ・リンポチェに自分の痛苦を自ら伝えた。道理から言うと、華厳を修めたのは、顯教の中の密宗であり、彼が逝く前こんなにも痛苦を感じるはずがないし、執着の心を持つはずもないのだ。しかし、あるリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は生死に対して反対に看破した。なぜ看破したのか?なぜなら、詰って詰って、ずっと詰り、それでもまだ看破しないか?さっさと逝ってしまった方が良いと思うだろう!一日中、リンチェンドルジェ・リンポチェに詰られ、何かというと罰を与えられ、追い出されてしまう。下に立つことは非常に辛いことだ。人は冬は暖かく夏は涼しくと言うが、下は夏は暑く冬は冷たい。

重要な事は、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏教を学ぶのはめくら修行ではなく、次第なのだ。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの上師がリンチェンドルジェ・リンポチェを導くのも次第だからなのだ。あなたがこの次第に着いて事をするのを認めると、最も克服しがたいのは生死の大事である。この見解は最も克服しにくく、この執着を取り除き難い。上師の教えの他に、上師に対する信心が起こると、弟子は自然と怖がらない。多くのリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子はそれらの念仏よりも効果があり、予めわかることができ、それはちょうど、最近往生した弟子がそうであり、死の前、すでに自分は告別式をしないと頼み、自分が逝くことをわかっていた。更に生死の事を恐れなくなっていた。

上師に対する信心は非常に重要であり、なぜ一日中、あなた方を叱るのか?あなた方に教えを聞くように言うのか?先ほど叱った二名の弟子は以後どうなるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは真にわからない。なぜなら、彼ら二名は上師が話すことを聞かず、彼らに現れないようにとはっきり言ったにも関わらず、それでも彼らはそれでも出て来て自分は責任を負わなければならないと言った。だから、仏を学ぶことの難しさはここにある。彼らはこの件は自分がしたことだから、当然自分が責任を取るべきだと思っている。しかし、上師は彼らに出て来るなと言い、彼らはこっそりと隠れた。彼らは上師に見られなければそれで良いと思っていて、状況が良くなるのを待っているて、それは自分は手柄ではないと言った。彼らは誰でも騙せるが、アキは騙すことができない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らに話したのは、人を叱るためではなく、皆が修行の次第をはっきりわかるようにするためで、自分は金剛乗の上師に付き従っているからと貢高我慢があってはならないことがはっきりとわかる。他人が如何なる宗派を修めていようとも、彼が自分に役に立つと思っているのならそれで良いのだ。たとえ彼に間違いがあることがわかっても、あなたが解決できることではない。もしも彼に仏法の開示が必要ならば、縁があるなら自然と巡りくるし、縁がないのなら、あなたが彼に着いて何かしてあげても役に立たない。これは他人にあなたが仏を学んでいることを知られてはいけないと言っているのではなく、わざと他人にあなたが金剛乗を学び、金剛乗の上師に皈依していることを知らせても、あなたはまだ、上師から密法を教えてもらっていない。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェが多くを教えていないことを知っている。なぜ、教えないのか?なぜなら、あなた方はその根器ではないので、教えても何もならないからか?あなた方を傷つけるからか?

皆は、この種の気持ちや話し方等々をよくわかっているので、自分がどの方向に向けばよいか知ることができる。ここまで話して、経典では特に皆に注意を喚起している。すべての法門のレベルの中で、最も殊勝な道は大乗教法であると言える。ある人は大乗教法を批判する。ちょうど先ほどの出家衆が大乗教法が釈迦牟尼仏が説いたことではない言ったように。なぜなら彼は歴史の観点から多くのことを批判する。教育面から書き、多くの調べた資料から書く。それはいけないことである。なぜなら、以前のインドは中国と違い、歴史を残す習慣がなかった。中国は周朝から始まり、皇帝の側には必ず皇帝の言ったことを記録する人がいた。しかし、インドはそのような習慣がなかった。インドの歴史からみると、以前はどの国王もただ話していただけで、何年にどの国王がいたというような、ひとまとまりのインドの歴史をはっきりと調べなかった。それは彼らにその種の習慣がなかったからだ。

この種の習慣がないからと言って、それは釈迦牟尼仏が言わなかった、教えなかったということではない。特に大乗の修法について話すのは、公に話すはずがない。なぜなら、ある人はその種の根器ではないから。仏は彼らには話さないし、提示したりしない。特に密法について話すとなれば尚更話すはずはない。今日、皆はどのような上師から仏を学んでいるのか?それはあなた方の過去世の因縁と福報に関係する。他の上師は何をしているかと、我々は聞いてみたり、見てみたりするのも良いだろう。しかし、批判してはいけない。もし、彼があなたの上師に会ってみたいと言うのなら、当然良い。嘗てある人が試しに聞きにきたいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にもしも、試し聞きならば来なくても良いと言った。なぜ来なくても良いのか?なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの果位は尊勝なる直貢チェツァン法王、諸仏菩薩から賜ったものであり、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めて得た果位である。寶吉祥仏法センターはあなたに試し聞きをさせるための音響を売る場所ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの声は特別に人を惹きつけるものでもない。だから聞かなくても良いのだ。

多くの人は貢高我慢していて、自分は学んだことがあるからリンチェンドルジェ・リンポチェが何を言っているのか聞いてみて比較し、それから続けて来るかどうかを考えようと思っている。比較する必要はない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方ができない事をできるので、あなたは言うことを聞かなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何ができるのか?二千キロメートル離れたところからみんなの頭頂に叩いて孔を開けることができたなら、あなたは自分をすごい!と思うか、それともリンチェンドルジェ・リンポチェがすごいと思うか?たとえ、あなたの弁舌がよく、多くを考えても、やはりリンチェンドルジェ・リンポチェの方がすごい。なぜなら、あなた方はこの事をすることができない。且つ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、一回するだけでなく、いつもやっているが、毎日やっているとは言わない。なぜなら、もし毎日すると言うと、死ぬ人が多くなることを意味する。しかし、ほぼ毎週1回から2回は行う。

リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を始めてから今日まで、ずっと止めていない。これについて、リンチェンドルジェ・リンポチェに一切のこの種の因縁によって衆生利益できることを阿弥陀仏に感謝し、尊勝なる直貢チェツァン法王に感謝する。修行者にとって、衆生を少しでも利益でき、衆生を助けることは、行者自身の未来の果位に助けとなる。これはその果位を追求していると言っているわけではないが、衆生を助けることに拠って、比較的殊勝な果位が自然に更に多くの衆生を助ける。

本日、リンチェンドルジェ・リンポチェが話したことは、現在仏教界の多くの弊害であるので、話し、皆に体得させた。元々、一人の修行者の胸は開かれていて、どの宗派が特に素晴らしく、どの宗派が特別に悪いとは考えていない。ただ、修行の知見によって各宗見の盲点を助けるだけで、他の人が気付かないことに意見を与えたに過ぎない。ある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したいと思うのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある一部をしたり、ある一部を修める事を勧める。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの側に来たがる人は、ほとんど誰もいない。寶吉祥仏法センターはすでにこんなにも人が多いのに、彼は来て何をしたいのだろうか?こんなにも長年の弟子でも、未だに自分をひけらかしたがる。そんなにもひけらかして、どうするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはこの二名の弟子よりも立派な成りであっても、やはり隠れてしまい、目立たないようにしてしまう。しかし、この二名の弟子はそれでも目立ちたがる。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、直貢噶舉不共護法-アキ護法を口伝し、アキ護法の儀軌は新しく皈依した弟子に与えられ、護法アキに関する教法と護法を修める時に注意すべき事項を開示した。法会は円満となり、弟子たちは声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの伝法と開示に感謝を申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座をを降りられるのを恭しくお送り致した。


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2019 年 09 月 01 日 更新