尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年11月24日

法会開始に先立ち、一人の皈依弟子が、施身法法会でリンチェンドルジェ・リンポチェにお救い賜った事跡についてここで語る機会をお与えくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝申し上げた。

彼は小学六年生の時、自分の右腕内側に1~2センチの突起物ができているのに気づいたが、ただ赤く腫れているだけだと思い放っておいた。数ヶ月後、母が気付き、2010年3月6日整形外科のクリニックで検查を受けたが、レントゲンを撮ったところ、良性の骨腫瘍と診断された。医者には「経過を観察し、大きくなったり、痛みが出るようなら、大きな病院で切除した方が良い」といわれた。けれども、しばらくして彼はこのことを忘れてしまったため、骨腫瘍は大きくなっていたが、切除していなかった。

同年7月18日、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。皈依後のある施身法法会において、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが真言を最後の威猛な音まで唱えられた時、突然ふと思い立ち、自分の右腕の骨腫瘍に触ってみたが、そこには何もなかった。彼は、右と左を間違えたのかと思い、左腕を触ってみたが、やはり何もなかった。不思議なことに骨腫瘍は消えてしまっていたのだ!

後に母に連れられ、同じ整形外科クリニックでレントゲンを撮ったが、確かに右腕の骨腫瘍は既に完全になくなっていた!母が医者に「どうしたら手術せずに骨腫瘍が消えるのでしょうか?」と聞いたところ、医者は「成長に従い骨腫瘍が縮小することはありますが、本当のことを言うと、これはあり得ないことです」と言った。母がさらに医者に「では、どういう訳で骨腫瘍が縮小したんでしょうか?」と聞くと、医者は「分かりません。多分世界中で分かる人はいないでしょう」と言った。けれども彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお力が、この骨腫瘍を消してくださり、転重軽受してくださったのだと知っている。

続いて、皈依弟子であるこの弟子の父が、自身が仏を学ぶにより学んだこと、リンチェンドルジェ・リンポチェが子供を救ってくださったこと、さらに母親と祖父を済度させてくださった経緯について述べた。先ず彼は、この機会をお与えくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

2009年4月、同僚が末期の小腸癌であったため、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお救い賜りたいと費兄弟子の紹介を受けた。その同僚は因縁が充分でなかったため、上師に見えることは叶わなかったが、彼が、この一生で大慈悲心を備えられた具徳の上師尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依する因縁を得る機会を与えてくれた。

20年前、彼は顕教で仏を学んでいた時「末法時代には、出家して仏を学ばなければ生死を解脱できる可能性はない。在家で仏を学んでいたので少しの希望もない」との誤まった考えを持っていたが、今ではそれが誤りであるということが分かった。仏法を修行して生死を解脱できるかどうかは、在家であるとか出家しているとかとは関係がないのだ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのような具徳の上師に巡り会え、このように上師の門下で法に従い学習できるかるかどうかがカギなのである。

仏法のすべての経典には「因果を深く信じなければならない」とあるが、彼は思い上がり、自分は知識人であると思い、仏に関する話をしばしばし、仏法を用いて大げさに他人と討論していた。それなのに、実は自分が破戒していることに気づいていなかったのだから、深信因果など言うまでもないことで、因果を信じるなどできているはずもなかった。そのため、悪業を為し続けながらそれを知らず、全く気づかず、自己の貪瞋痴慢疑を反省することもなく、愚かなことに、自己満足に浸っていた。

寶吉祥門下に皈依した後、彼は初めて理解した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのように、ご自身の例を用いて、リンチェンドルジェ・リンポチェご自身が過去世とこの一世で為した悪業について、弟子と衆生に繰り返し告誡なさる修業人はいないということを。そのため、この一世でどのような悪果を感召し、そしてこれらさまざまな事は、当時の釈迦牟尼仏も同様に行ったのだということを。実は、仏菩薩も同じ事を行っておられたのだと、因果深信の大切さを絶えずお教えくださる。同時に、衆生のために、一切の因果法則をはっきりと明白にお示しくださる。その目的は、衆生に徹底的に悪を断たせることで、それによって初めて真正に行善し、初めて離苦できるからである。彼はかつて「自分を含む末法時代の衆生は、業障が現れ、果報が出現して初めてようやく仏を学ぶことを思いつく。果報の出現を恐れたからだ。けれどもそれで間に合うのだろうか?」と自分に問うたことがある。寶吉祥仏法センターでは可能だと知っている。だが、他の所では、悪業が成熟してから仏を学ぶのを思い立ったのでは、受け入れを望まない訳ではないが、能力がなく、受け入れを躊躇するだろう。

彼は仏教の一節を典例とし、「末法時代の衆生が、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのような仏菩薩の慈悲救護を得られるとは、まことに得難く殊勝なことだ」とみなに告げた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはかつて「悟達国師は過去世で既に何度も出家なさり、無数の善根を積んだが、具徳の上師に巡り会い教導を受ける因縁がなかったため、過去の借りを返せず、業力を転じることができなかった。悟達国師が若くして出家した時、菩薩が化身した、身なりがみすぼらしく、全身が瘡に覆われ膿が流れている乞食に出会った。悟達国師は累世の善根が成熟していたので、悪臭を恐れず、その乞食の世話をした。それにより菩薩の加持を得てようやく解脱することができた」と水懺の物語について開示くださった。「自分は、全身から悪臭を放ち膿が流れる瘡に覆われた乞食に出会ったら、その乞食を世話することができるだろうか?」と彼は自問した。あからさまな嫌悪の表情は現さないとしても、鼻をつまんで急いで通り過ぎただろう!そして、心を静めて考えた「私にこのように善根がないなら、どのような徳があって具徳の上師 尊きリンチェンドルジェ・リンポチェから加持を賜ることができるのだろうか?跪いて加持を得ようとすることなどできようか!何を以て?まさかこのほんの少しの分別心、これ以上ないほどちっぽけな供養によってだろうか?」

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはかつて「弟子達はリンチェンドルジェ・リンポチェが優れていると知っているが、どれほど優れているかを知らない」と開示くださった。けれども彼は言いたい。「尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ。あなたの笑い、怒りのすべて、日常の立ち居振る舞いのすべてには、至る所に衆生に対する慈悲智慧があふれています。それは『優れている』という五文字で形容できるものではありません!」と。毎日早晚課を行い、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、四臂観音、アキ護法の法写真に向い続ける中で彼はふと「これは西方三聖ではないのか?諸仏菩薩はみな衆生が離苦得楽、解脱生死できることを願っておられる。そして、尊き リンチェンドルジェ・リンポチェは、阿弥陀仏と無二無別であられ、我々が淨土に往生できることを願ってくださる。上師の言葉に従い、上師の言葉の通り行うことが必要なのだ」と体得した。

続いて彼は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが子供を救ってくださったことに感謝申し上げた。

彼の子供は2010年7月皈依した。皈依の一年前、子供の右腕には骨腫瘍が発見されていた。痛くも痒くもないようだったが、どんどん大きくなり一センチほどの高さにもなり、三角形で、しかも非常に堅かった。彼は、これは普通の細胞組織から増殖した肉腫ではないと気がついた。なぜならこの組織は非常に堅く、指で押すと、指が痛みを感じるほどだったからだ。妻が子供を普通の整形外科クリニックに連れて行き、そこで検查したが、医者も原因が分からず、「心配なら大きな病院で検查か手術した方が良い」と言うだけだった。けれども、この件について、どうしようかと考える充分な時間もない内に、不思議な事が発生したのだ。子供が皈依して一年にもならない頃、骨腫瘍のことをすっかり忘れている間に、ある日、それが消えてしまっていることに気づいたのだ。意識せずにいた間に、骨腫瘍はこうして完全に消失してしまっていた。彼ら夫婦は、骨腫瘍はもともと左手にあったか右手にあったかと言い争い、子供の両腕をあちらこちら見回したので、子供が「右手だよ」と言ったほど、思いがけないものだった!

彼は「みなに強く訴えたい」という。これは普通の肉腫ではなかった。なぜなら軟組織である肉腫は、繰り返し炎症を起こし、増殖し、或いは小さくなるからだ。彼らは、それは骨腫瘍だったと確信している。この転変は全て尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェの不可思議で殊勝な加持力に感謝すべきものなのだと彼と家族は分かっており、彼個人としては「子供は、道場で仏を学ぶに当たっても、非常に単純で分別心があまりない。子供は、法会に参加しながら、自分の病の辛さについて考えたりしない。このようにすることで、上師と仏菩薩の加持を得て、法益を得ることができたのだ」と体得した。

続いて、彼は昨年8月、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主法なさった「阿弥陀仏無遮大済度法会」に参加した後、ある晚、亡くなって35年になる母と亡くなって10数年になる祖父が同時に夢枕に立った時のことを話した。夢の中でははっきりと、彼ら二人が満面の笑顔を浮かべているのを見た。しかも、顔色は明るく輝き、非常に若々しかった。母は「法会は終わりそうなのに、どうしてまだ点灯しにいかないの?」と言い、祖父は「お父さんはまだ眠っているだろう。早く起こしなさい」と言った。その感覚を言い表すのは非常に難しい。彼らは自分より年長であるはずなのに、彼らの方が若く見えたのだ。

「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが祖先を悪道から抜けさせてくださったことに感謝申し上げたい」と彼は言った。「この場で、自分と生生世世の父母及び祖先が行ってきた一切の悪業について、上師、仏菩薩、一切の衆生に懺悔したい」と彼は言った。母の実家は、40年前に茶室(売春宿)を経営していた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示なさったように、風俗営業で暮らしていたのだ。そのため、無数の悪業を累積してきた。しかも、このような商売は非常に儲かるため、父母もかつては母の実家を手伝っていた。彼は風俗営業を生業とする一家に生まれ、そこで育ったのだ。聞くべきでなく、見るべきでないたくさんの邪淫悪業を見聞きしてきたことが今も記憶に残っている。彼が中学二年の時、母は肺癌になり、さんざん苦しんだあげく一年余り後に苦しみの中で亡くなった。これにより彼らはようやく母の実家の環境から離れることとなった。邪淫悪業で蓄積した金銭は、母の死後わずか数年ですべて使い果たしてしまい、唯一残った家さえ、最後にはもう少しで手放さざるを得ないところだった。

皈依してからのこの四年余り、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「風俗業を生業とする人の悪業は非常に重く、未来世の果報もかなり良くない」と法座で開示なさるのを、少なくとも二回はうかがったことがある。それなのに、彼は直ちに懺悔することもしなかった。彼は「自分が風俗業を生業とする家庭に生まれた。幼い頃からそれに慣れてしまい、邪淫を普通の事として考えていた。大きくなるまで、数え切れないほどの邪淫悪業を為してきた」と懺悔した。さらに「小さい頃、父母の友人の金品を盗み、大きくなってからは会社の金品を盗んだ。また、兵役時には、長官に報復するため、妊娠中のメス犬を殺した。足で犬の腹を蹴り、その犬を苦しみの内に死なせてしまった。さらに、父母や先輩、年長者に対して感謝もせず、親孝行もでない」と懺悔した。

彼は「過去自分の口腹の欲のために、無数の衆生を傷つけてきた。自分は、他人に約束した事をできていない事がよくある。皈依後も教法に従ってしっかり実践しておらず、上師のお教えくださる仏法を、日常生活に取り入れていない。金剛兄弟子達が道場の事務を教えてくださるのに、一生懸命取り組まなかったため、兄弟子に尻拭いのご面倒をお掛けしている。自分は今でも思い上がっており、よく仏言仏語を為し、貢高我慢で己を知らない。過去、自身の貪瞋痴慢疑によりさまざまな悪業を為してきた」と懺悔した。彼は「累世の悪業がこの一世で成熟し、すべての冤親債主が根本上師、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い救度を得て、解脱できるよう願う」と述べた。

さらに彼は「重報を重く受け、命の終りに臨む時まで、上師の教導を離れず、西方淨土に往生できることを願う。生じる一切の善法が、根本上師尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの教導に基づき、一切の衆生に如実に迴向されない限り、自己が修め学んだことが、善法を生じないことを願う。根本上師尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの教導に基づき、広大な慈悲心と菩提心を如実に発起しない限り、自分が修め学んだことが、仏法の体得に作用を起こさないことを願う」と語った。最後に彼は、尊き金剛上師の御法体が安康で、法輪が常転して世に常住し、仏法事業が隆盛であり、直貢噶舉の法脈が永遠に流伝することを祈願した!

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、殊勝な直貢噶舉施身法を自ら主法なさり、参会者に貴重で無比なる仏法の開示をくだされた。

「今日は月に一度の法門-施身法を修めた。現在台湾で、こんなにも多くの人が共に参加する施身法法会を行えるのは、寶吉祥仏法センターだけだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェが見たところ、寶吉祥仏法センターの会場は小さ過ぎる。将来的には使用に不足だろう。施身法とは、みなが考えているように、単に念誦し、拝懺するだけではない。この法門はすべての顕教の経論を網羅する。小乗、大乗、金剛乗で守られる一切の戒律と願力を含み、密法中の事部、行部、瑜伽部の修行をも含む。実は、施身法は無上瑜伽部をも含むのだが、今日は一先ずこれについては説明しない。

もし単に念誦、拝懺の方法だけで亡者を済度するなら、一時間なり八時間なり、または十時間でも念誦、拝懺するだけで良いだろう。チベット仏教には、亡者を済度したいなら、三日連続で切れ目なく『大蔵経』を唱え、亡者に迴向しなければならないと記載がある。『梁皇寶懺』中では、寶誌公は拝千仏の方法で、ようやく梁武帝の妃を、畜生道から天道へと済度させておられる。釈迦牟尼仏の母でさえ、往生後には天道へ行かれただけで、阿弥陀仏淨土へ行かれた訳ではない。『地藏経』は、釈迦牟尼仏が天界へ行かれ、母のために開示なさった仏法なのだ。釈迦牟尼仏は在世時に仏法を49年間教導なさったが、主に、人生は無常で、苦が多く楽が少ないということを衆生に教導され、衆生に輪迴の苦しさを理解するよう教導なさった。

衆生を済度させたいなら、行者は必ず密法を学ばなければ、成し遂げることはできない。なぜ密法を学ばなければ衆生を済度する能力を得られないのか?それは密法を学ばず、念誦だけに頼るのでは非常に長い時間がかかるからだ。しかも念誦する人が、その期間中、一切を求めないという慈悲心を徹底できるか、定境中で念誦することができるかも重要である。これは、あらゆる思想、妄念を持たず、完全に亡者のために努めるということで、これを為せる人は多くないはずだ。顕教では『ある古代の在家居士が、一心不乱に念誦した結果、亡者が自分の肩を踏み台にして上天するのを見た』とある。さらに、ある日は念誦中にふと考えが浮かんだが、ある者は在家居士にお茶を与えていない。その結果、鬼が出て来て叱責した!

そなた達が念誦する時には、自分は亡者を済度させていると考えているだろうが、念じながら心の中ではたくさんの考えを巡らしている。これでは、亡者は利益を得ることができず、怒ってしまう。釈迦牟尼仏が仏経で説かれていることをしっかし確認するように。仏経には必ず『先ずは自らを済度する』とあるではないか。先ずは、自分の問題に決着をつけなければならないのだ。自分の問題を解決できていないなら、衆生を救う能力を身に着けるまでは、決して生半可に手を出してはならない。実は、守戒で言う『打妄語』とはこれに類する事なのだ。能力がないなら、適当に行ってはならない。金剛乗中の教導法と顕教とではいくらか違いがある。密法を学ぶ際には、上師と弟子とは一対一で伝法し、公開弘揚しない。特に瑜伽部と無上瑜伽部では、絕対に他人に聞かせることはない。これは秘密があるからだろうか?もちろんある。では、秘密はどこにあるのか?そなた達は、秘密がどこにあるのか分からないだろう。当然だ!それこそ秘密なのだから!

なぜ他人に聞かせないのか?釈迦牟尼仏が『妙法蓮華経』の説教を始めようとすると、たくさんの阿羅漢がその場を離れるように、実は、顕教でもこの種の話はたくさんある。なぜ阿羅漢はその場を離れるのか?彼らは、釈迦牟尼仏がその日説かれるものは、自分は聞いたことがなく、自分達が修めるものでもないと考え、畏怖心を抱いたのだ。簡単に言えば、この種の畏怖は、仮にそなたが小学生だとして、博士が突然やって来てそなたに授業をするようなものだ。先ずは、心理に作用し、そなたは博士が言う事に恐れを感じるだろう。自分は準備ができていない、何を言っているのか分からない、授業に着いて行けないと思うだろう。仏法の学習も同じなのだ。あるレベルにまだ達していない人に説いたとしても、心理的な抵抗があり、受け入れられず、さらには畏怖さえ抱く。これは、そなたがこの事を恐れているということではなく、自分は無理だと感じるということなのだ。

なぜ金剛乗は要求が厳しいのか?それは学べること、修められることが、本当に少ないからだ。なぜ少ないのか?それは金剛乗の先決条件は、三宝に対して完全に降伏することだからだ。降伏とは、仏を学ぶからには自己の考え方を持たず、完全に上師、仏の仰せに従うということだ。自己の考えを少しでも起こせば、それはすなわち過ちである。なぜ過ちなのか?学びたいなら、受け入れるだけで、自分の考えを差し挟む余地などないからだ。仏法には討論はない。そなた達は、チベットでラマ僧の弁経を見たと言うだろう。庭で弁経している様子は非常に活気がある。けれども、実は弁経は、出家衆に行わせるものなのだ。彼らは弁論の過程で、将来信者の問題に答える際にどう対処するかを学ぶのだ。さらに、弁論を通して、上師は育成するに足る人材を選ぶことができる。弁論に勝ったものに教えるという訳ではなく、負けたものには教えないという訳でもない。仏法には勝敗はなく、高低もなく、あるのは平等、開悟だけだ。

衆生を助けたいなら、念誦、菜食、皈依、拝仏を勧めるだけではなく足りない。これらは、彼らの仏を学ぶの助縁を増やせるだけだ。仏が説かれる『衆生を助ける』とは衆生を輪迴苦海から逃れさせることなのだ。慈悲の『悲』とは『衆生を輪迴苦海から離れさせること』だ。自分が生死解脱について自信がないのに、どうして他人を助けて生死を解脱させることができようか?慈悲の『慈』とは『人に対して善で、良い事を行う』という意味ではない。仏法でいう『慈』とは『自己の最良の物を衆生の苦と交換する事』である。『金剛経』でいうように、修法者は四相『我相、人相、衆生相、寿者相』を壊さなければならない。なぜ壊さなければならないのか?それは、行者が四相を破壊しなければ、衆生の法性と平等にならないからで、衆生に因果縁起性空を教えることができないからだ。衆生は縁起性空を理解した後でなければ、自己の執著心を捨て去ることはできない。

最良の物と交換するとは、どういうことだろうか?禅宗でいう『天天好日』のように、菩薩が果位まで証されれば、分別心を持たず日々を過ごし、極楽(不生不滅の楽)と衆生の輪迴の痛苦とを取り替えるのだ。どのように取り替えるのか?それは、菩薩が世に常住くださるのだ。この『世』とは地球ではない。『十方法界、六道一切衆生』を指す。縁がありさえすれば、菩薩は必ず赴いてくださる。仏経では『釈迦牟尼仏はかつて地獄、畜生、人道、天道で、六道中で絶えず衆生に利益くださった』と言う。釈迦牟尼仏は六道で衆生を済度させることができる。つまり、この一世で出遭う衆生に、縁のないものも縁のあるものもいるなら、それはそなたが過去世でしっかりと修行できていないため、この一世ではさらに努力しなければならないことを示している。

施身法法会に参加する人が亡者を済度させたいと願うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この一生では完全な菜食することを求める。たくさんの人がおかしいと思っているだろう。世間では七七四十九日間菜食すればそれで良いと言われているからだ。その後は『縁があるかどうか次第だ』ということだろうか?これは世間的な言い方だ。寶吉祥仏法センターでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経上の記載に従い行っている。『地蔵経』では『家族が亡くなったなら、残された者は亡者のために広く仏事(広作)を行わなければならない』とある。『広作』とは、あらゆる仏寺へ行き、または至るところで点灯することではない。やらざるを得ないために仕方なく行うのではなく、広大な慈悲心で亡者のために、仏が説かれた全ての事を行うのである。

たくさんの人が悪い習慣を持っている。済度が完了すれば、もう自分には関係ないと考え、亡者は既に苦海を離れたので、自分は自分で普通に暮らせば良いと考えている。『地蔵経』には『亡者のために行った功徳の七分の六は、そなた達が得て、亡者は七分の一しか得ることができない』と記載されている。つまり、そなた達は今日法会に一度参加したが、これによって亡者は一を得て、そなた達は六を得る。以前リンチェンドルジェ・リンポチェも顕教を学んでいた時には、なぜ自分は六を得られ、亡者は一しか得られないのかが分からなかったが、密法では説明されているため、密法を学んで初めて理解することができた。よって、法会に一回参加しただけで解決できたなどと思ってはならない。

たくさんの人が『自分は穏やかに死を迎えられるだろう。医療の苦しみというようなこの種の事は、自分の身の上には起こらないだろう』と考えているが、実は起こる可能性が高いのだ。もし、そなたの妻、夫がそなたを非常に愛しているなら、きっと起きるだろう。なぜなら、病院で治療を受けさせなければ、申し訳ないように感じるだろうからだ。病院へ行けば、先ず最初に行われるのは、鼻挿管、尿道挿管、食道挿管の三本の管を挿入することだ。そなた達は『大したことではない。三本の管の挿入は家族の命を救う方法だ』と思っているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは医師である弟子をたくさん持っている。そなた達も自ら試してみるがいい。一日中三本の管を挿入されて過ごす生活を。そなたが我慢できるなら、そなた達の父母も我慢できるだろう」。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに「教室を開けるようだ。みなに死ぬ前の感覚を体験させ、みなに三本の管を挿入された感覚を理解させる教室を」と仰せになった。

「三本の管を挿入されるのは、本当に苦しいものだ。けれどもそなた達は、どれだけ苦しいかを信じない。もし、表向きを繕うため、適当に誤魔化し、亡者を済度させるために法会に参加し、以後、自分はどうあろうと構わないと考えているのであれば、それは誤りだ」その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは「往生前の家族が挿管されなかった者はいるか?」と参会者に尋ねられた。ところが、一人として挙手しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「誰でも、絶対に救うのだと強く考え、血圧が下がれば昇圧剤を打ち、心臓が弱まれば強心剤を打つ。自分で注射を打ってみるがいい。往生者が臨終時に受ける医療による苦痛は、どんなに嫌でも拒絕することができないのだ。なぜなら『医者が治療してくれるから』と皆で騙し、さらには『お父さん!言う事を聞いて!』、『お母さん!言う事を聞いて!』、『動かないで!』などとまで言っている。このような事を言ったことがあるだろう。けれども、自由を奪われて、管を挿入されたら、と想像してみるがいい。自分なら動かないだろうか?試してみるがいい!

親孝行を装っている人が多い。家族を医者に預けて苦痛を負わせながら、このようにする自分は非常に親孝行だと思っている。修行していない人の往生前の顔は皺がより、苦痛に満ちている。なぜなら長い間苦しむからだ。衆生の業力はどのように測るのか?それが、往生前に明らかになる。もし、生前にしっかり修め、淨土宗でいうところの『預知時至』まで至っていれば、自分がいつ往生するかが分かり、予め準備でき、そなた達などには構っていない。予め、馬鹿なことをしないでありのままにするよう、家族に伝える人もいる。もし、『まだ伝えていない。まだ帰って来ない人がいる。財産をまだ分けていない。自分の死後の妻または夫のことを心配している』など、予め言わないなら、この一生の業力は非常に重いということだ。これら怨、恨、執著は、亡者を三悪道に堕とすだろう。

亡者が三悪道を離れられるよう助けたいなら、福報の累積を手伝わなければならない。『地蔵経』中でいう『広作仏事』とは、亡者の福報累積を助けることだ。この一生で菜食するよう求めるのは、殺生を止めれば、福がすぐさま始まるからである。そなたの福が始まるなら、亡者にとっても助けになる。天界へ送り込んだら、あとは自分とは関係ないなどと考えてはならない。釈迦牟尼仏の母でさえ天界に往生したのだ。仏は天界へ母のために仏法を発揚へ行かれている。母が成仏できるよう願っておいでだからだ。考えてみよ。家族が菩薩に成り、仏に成れたなら、彼らはそなたを庇護しないだろうか?当然するだろう。そなたがこの一生で菜食を貫けたなら、それは家族がそなたのこの一生により殺生の業断ちを始めるということだ。過去の生生世世の家族が過去に為した殺生の業は、そなたが殺生を停止したことで、彼ら殺生の業もすぐに終止するだろう。

菜食は自分のためだ、などと思ってはならない。それはたくさんの意義を含んでいるのだ。そなたに殺生の原動力がないなら、十善を速やかに修めることができ、自然に慈悲を学び、菩提心を発することができる。この、ほんの小さな要求を軽く見てはならない。そなたの生生世世に影響を及ぼし、非常に広い面に影響を及ぼすのだ。『地蔵経』で説くのは全て事実である。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身を例としよう。18歲で父が亡くなり、36歲で皈依し仏を学んだ。顕教を学んでいた時には、每年少なくとも5、6回の法会に参加し、梁皇寶懺と水陸大法会でも最初から最後まで礼拝した。地蔵懺、観音菩薩懺、水懺、『妙法蓮華経』の懺まで、懺があれば必ず参加した。しかも毎日、仏堂で亡き父に替わり一時間拝仏し、懺悔文を唱えていた。一年拝仏したある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは、亡き父が天界で暮らす姿をはっきりと見た。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは拝仏を続けた。一年余り後のある日、亡き父が呂祖の傍で暮らしている、と誰かが告げるのを耳にした。リンチェンドルジェ・リンポチェの亡き父は生前に修道していた。そして呂祖は後に仏門に皈依したので、呂祖と共にいるというのは、根拠がある事だ。

なぜこれを皆に告げるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは停まったことがないのだ。自分が懺を拝んだので父親を助けられた、と思ったことはない。なぜなら父がどこにいるのか、今もはっきり知らないからだ。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは福報がなく、密法を修める上師に出会うことができなかったため、自分で学ばなければならなかった。正に『地蔵経』で言うように『父母がどの道で暮らしているかを知るためには、大供養を行わなければならない』のだ。地蔵菩薩はある一世では女性だった。母がどの道で暮らしているのかを知るため、すべての財産を売り払い、四肢から流血するまで拝仏し、ひたすら拝仏したところ、仏はようやく現れて、母は地獄にいると教えてくれた。そなた達は『父は死後、幸せに暮らしているでしょうか?』と聞きに来るが、そんな簡単なものではないのだ。幸せに暮らしているはずがなかろう。どうして幸せに暮らせるのだ?そなた達はその答えを聞くと『そんなはずがない!父は良い人でした』と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に言う。父はもちろん良い人だったろう。そなたをこの世に生み出した父であれば、それは良い人だ。けれども、そなたが『父は良い人だった』と口に出すなら、それは因果を信じていないということだ。因果を信じない人は、諸仏菩薩も手助けすることができない。

家族が聖人なら、どのように仏を修めるかをとっくに教えているだろう。聞きに来るのを待ってなどいるだろうか?仏経で説く事をみな信じようとしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは如実学仏の行者だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはある程度まで修める度に、翻って仏経を確かめ、自分が行ったのは仏経が説く通りであることを発見する。以前リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に忙しかったが、毎日時間を作って、ある時には二時間拝仏したが、結果は問わなかった。誰がこのように忍耐力があるだろうか?誰もない。リンチェンドルジェ・リンポチェが何回か来るように言っただけでも、それを行う忍耐力がそなた達にはない。菜食を求めることなど、天が落ちて来るような大事だろう。

この生で菜食することを決心しないなら、悪を断つことを決心せず、悪事を停止することを決心しないということだ。そなた達が悪事の停止を決心しないなら、祖先は必ず不満だろう。なぜなら祖先を助けられるのは仏菩薩ではなく、そなた達自身なのだから。祖先と言っても、そなた達のこの一世の祖先だけを指すのではなく、たくさんの世の祖先を言うのだ。一世を過ぎているなら、一世の祖先がいる。そなたが畜生道に生まれようと、やはり祖先はいるのだ。現在の犬の純潔種を辿りたいなら、その犬の祖父の代までさかのぼるというように。それは同じ意味だ。今では犬、猫、馬では、それの祖父、父母がみな分かる。人の血統よりよほど明確だ。よって、そなた達に祖先がいるのかいないのか?当然いる。餓鬼道に生まれたとしても祖先はいるのだ。仏経中でいう『鬼子母』とは『鬼母が鬼子を産む』ということである。

そなた達が自分は仏を信じているというが、仏が説かれる通りにしない。何を信じているのだ?何を信じているのか自分に問うたことがあるのか?もしそなたが自分を信じるなら。来なくてもよい。自分で済度すればよいではないか!だが、自分ではできないことが分かっているだろう。どうやったらいいのかと尋ねる人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日2000回の大礼拝を行うよう教えるが、彼らは200回大礼拝した後、二度と再び会いに来ることはない!末法時代には、古代の大徳のような修行を行う能力がある人はいない。なぜなら我々は煩悩が多く、抱えているものが多く、捨てきれないものも多いからだ。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に教えに従うよう言うのだ。そうすれば、自然に良いことがある。どんな良いことがあるのか?何時現われるのか?これは分からない。なぜならどれだけ行えるか、心に変化があるか、貪念があるかに依るからだ。皈依して十数年の弟子でさえ、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱責され追い出されているのだ。そなた達は自分は仏法に近づいたので、学べているのだ、などと思わない方が良い。生死を解脱できていないなら、それは凡夫の身ということだ。今でも凡夫なら、貪、瞋、痴、慢、疑という凡夫の習性がある。この習性があるなら、修行の面では非常に大きな障礙だ。

今日修めた施身法は、表面的には亡者を済度させるものだが、実はそなた達を済度させるものなのだ。なぜならそなた達は我執が非常に重く、断つことができないからだ。我執はどこから来るのか?自分の一切の思想、行為、言葉が正しいと思い、自分が行うことは他人より高等だと思い、自分は単独で物事を成し遂げられる、と思うことからである。この一世で我執を断つことができなければ、生死を解脱することなどできるはずがない。どうやって我執を断つのか?仏法では、智慧を用いる、という。智慧とは修行で身に着くものだろうか?或いは求めるものなのか?そうではない。衆生は誰しも、仏と同等の智慧を備えているのだ。ただ、我々は仏の教導を離れ、自分に備わっている自然智を忘れ、我々の意識を用いて物事を行う。一念無明を起こして後は輪迴を断つことはできない。

今日修めた法門はチベット語で言う『断』であり、一切の煩悩の根源を断つのだ。煩悩の根源は我執から来る。いわゆる煩悩障と所知障とは一切の煩悩の縁起だ。仏の智慧を通してそなた達がこれらを断てるよう助ける。そして、後に修めた智慧を通してでなければ、自然智を顕露させることはできず、自分の人生輪迴の真の動力がどこから来たのかをはっきり知り、人生輪迴の動力をいかにして断ち切るのかをはっきりと知ることはできない。いわゆる人生とは、結婚、出産、住宅購入、またはどんなに立派に修行したかを言うのではない。智慧を通してでなければ、輪迴の動力を断ち切ることはできないのだ。

尊勝なる直貢チェ・ツァン法王は御自らリンチェンドルジェ・リンポチェに施身法灌頂と口伝をお授けくださった。施身法は密教では八大成就法の一つで、行者がこの一生で施身法を専修すれば、必ず生死を解脱し、淨土に往生することができる。施身法の学習には、しっかりした顕教の基礎を積むことが必要で、密法でも成就を得なければ、衆生を助けることはできない。金剛乗の法本はどれも凡そ二種類に分けることができる。一種は自修するもので、自身で先ずしっかり修めなければならない。いわゆる『しっかり修める』とは、本尊と相応することで、本尊が自分に話しかけてくださるのを見たり、感じたり、聞いたりすることではない。相応とは、法本上に記載された本尊が行われた一切の事を為し遂げられる兆候があり、本尊の心と既に無二無別であるということで、こうして初めて衆生を助けるもう一種類の法本を学ぶことができるのだ。

厳密に言えば、我々が唱える経典は、仏が教えられる我々の自分の心と行為についての検討である。『阿弥陀経』をしっかり見てみよ。経中では、助唸すれば済度できるとは説いていない。『観無量寿経』も『無量寿経』も、全くこうは説いていない。ただどのように修行すれば、淨土へ行けるかは説いているが、どのように他人のために修めるかは教えていない。出家衆はもう一度しっかり見る必要があろう。皆がこのように唱えるのだから、と思ってはならない。見た目とは違う事がたくさんあるのだ。『地蔵経』では、亡者のために一句の仏号を唱え、一句の仏偈を唱えるだけで、亡者が地獄に堕ちないよう助けることができるとある。けれども、淨土に往生させることができるとは言っていない。経典をしっかり見なければならない。梁皇寶懺でさえも天界へ行ったのだ。全ての懺はどれも、衆生を三悪道から離れさせ、人世間、天界へと再び巡り修行する機会を授けることを主とするのだ。

阿弥陀仏淨土まで済度したいなら、密法ではそれを為せる法門がある。なぜ密法にはこの種の法門があり、顕教にはないのか?実は顕教にもある。ただ、釈迦牟尼仏が公開の場で説かれていないだけである。皆、淨土十六観を知っているだろう。観太陽から最後は観淨土までだが、タイトルがあるだけで、どのように『観』するのかは教えてくれない。これは釈迦牟尼仏が言い忘れたのではなく、公に説かれていないからだ。伯母にだけ聞かせるのであり、他の人は聞くことができないのだ。経典中では、菩薩はたくさんの事を行えると説く。菩薩と仏はたくさんの仏法を説かれたが、そこで説かれているのは、道理と境界だけである。この境界まで修めるための助縁については説いておられない。

密宗は偽物だと思っている人がいる。以前リンチェンドルジェ・リンポチェもこの種の誤解を受けたことがある。その人は『釈迦牟尼仏は密法を説かれたことがない』と師匠が言った、というのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を学んでいた時、拝懺、毎日二~三時間の早晚課を行っても、仏経で説く境界まで到達することはできなかった。そなた達が挙げることができる顕教の修行で行える事は、禅一、禅七、八関齋戒等、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて行った。24時間眠らずに阿弥陀仏を唱える修行だけは行ったことはないが、他はすべて取り組んだことがある。けれどもリンチェンドルジェ・リンポチェは、仏が説かれる境界に到達することはできないと感じる。仏は絕対に我々を騙すことはないのだから、口に出されていないものが必ずあるのだ。

密法を知った後、リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて知った。顕教の理論に密法の方法を加え、二つを足さなければ、衆生に利益することはできないのだと。現在、我々の大部分が行っているのは、衆生に深い縁を結ばせ、一切の衆生に未来世で仏法の学習を続ける機会を持たせることである。これも良い事だ。良くないことではない。だがリンチェンドルジェ・リンポチェは、何かを行うなら、相手を助けることができるかどうかをはっきりさせたいという性格なのだ。もし、助けることができないなら、さっさと閉関に行き、山洞に篭って出てこない方がマシだ。自分に衆生を助ける能力が身に着くまでは、誤解し易く、仏法を説く際にも間違い易い。特に、自分の勝義菩提心が起きてくるまでは、非常に誤解し易く、仏意を間違って言葉にし易い。

普通皆がいう菩提心とは、単に世俗菩提心であり、考え出すもの、わざとらしいもの、故意のものである。なぜなら『自分はこれを行っている』と考えて、故意に行うからである。それでも、行わないよりは良い。世俗菩提心とは我々が必ず経過しなければならない段階である。世俗菩提心を一切圓満まで為し遂げられれば、勝義菩提心は自然に出現する。仏は言われた『最勝義の仏法は万法皆空』であると。空の実相を体得できれば、発する菩提心は広大な衆生に、一切六道の衆生に利益でき、縁がありさえすれば、救うことができる。

仏を学ぶこととは次第があるものだ。急いではならない。急いでは良くない。緩みすぎても良くない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法は、ただ皆に、何であっても法門の出現はそんなに簡単、容易なものではないということを体得させるためのものだ。これほど多くの衆生を同じ場所に集め同じ法門を修めさせられるのは、宿世の因縁なのだ。それほど簡単に出現するものではない。特に、リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を求めて訪れる全ての人の願いを聞き入れている訳ではないのを、皆ははっきり知っているだろう。特に、その人が菜食できないなら、そのまま取り消している。衆生を助けよう、自分を生死から解脱させようという考えがない人も、リンチェンドルジェ・リンポチェはそのまま取り消している。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが、こんなにも選んでいないなら、法会には毎回三~五千人が参加しているだろう。

人が多ければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変だろうか?実は何の違いもない。仏法中では、一二三四五六七などとは分けない。だれでも同じ法性なのだ。人が多くとも人が少なくとも、 リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては違いはない。けれども、心が正しくないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法したとしても、そなたは利益を得ることができないだろう。そして、出て行き、あれこれ考え、法を誹謗し、仏を誹謗するだろう。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは選択するのだ。来たければ来られるというものではなく、他人に知られるのを恐れているというのでもない。

特に、衆生済度に関わる法門で、上師自身がこれら衆生を救うことができないなら、修法者は軽ければ病がちになり、重ければ寿命が縮み、さらに深刻なら死後に地獄に堕ちるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは1996年より施身法を修めている。尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に灌頂と口伝を賜り、既に20年近くになる。法会の参加者数は増え続けているが、これは、虚空中の衆生が、この法門は彼らを救ってくれるということを知っているということだ。そうでなければ、この法会が継続することはない。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの要求ではなく、そなた達が参加したいといえば必ず開催するというのではなく、人が多ければ開き、人が少なければ開かないというのでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェは縁に従い衆生を済度させ、衆生の縁に従い救いを与えるのだ。人数が増え続けているのは、この法がその地の人に利益でき、その地の人が法会に参加することで、目に見えないたくさんの衆生に利益できるからである。そのため、諸仏菩薩と上師は絶えずこの法を加持し、こうしてこの法は続いていけるのだ。

いわゆる『法輪が常転』とは口で言えば良いというものではない。如何にして法輪を動かすのか?仏が説かれる一切の事情に符合しなければならず、適当で良いと言うものではないのだ。仏が説かれる事をそなたが行え、従いさえすれば、法輪は自然にそなたに動かされる。教えに従わず、行いもしないなら、法輪は当然動かされることはない。今日みなはこの法会に参加することができたが、これは簡単な事ではないのだ。拝懺や水陸大法会等を広告で宣伝する他の所では簡単だろうが、寶吉祥仏法センターは広告しない。広告を出す金があるなら、その金でなぜ衆生を救わないのか?広告を出す金で、もっとたくさんの金を引き寄せようとしているのか?広告を出す金で、もっとたくさんの金を引き寄せるなら、それは商売だ。広告とは雑誌、テレビ、新聞で宣伝することではなく、広く告知することだ。誰が広く告知してくれるのか?それはそなた達の家族、衆生、祖先である。

彼らの言う事が分からなければ、彼らはそなたを打ち、そなたに身体的な不快や痛みを与え、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来るだろう。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが言うのではない。仏経に書いてあるのだ。そなた達は祖先の声が聞こえないため、祖先はそなたにちょっとした罰を与え、どこかに不快を感じさせるからだ。祖先が危害を加えている、と誤解してはならない。祖先はそなたに仏を学ぶ機会を与えているのだ。実は、我々が身体的な不快を感じる時、多くは祖先が済度されていないことと関係があるのだ。祖先は三悪道で苦しみを受けている。祖先とそなた達の遺伝子とは同じだ。その遺伝子が苦しみ続けていれば、そなたの日々が順調でなく、苦しいのも当然だろう。祖先が、大号叫地獄で一日中さんざんに泣いているなら、そなたも一日中泣き続けるだろう。これは全て関係があるのだ。『地蔵経』が説く『広く仏事を行う』の道理はこれなのだ。

施身法への参加について、リンチェンドルジェ・リンポチェは、六回連続で来るように言う人がいる。なぜ六回来なければならないのか?なぜならその人の祖先は業が極めて重く、一度では地獄から救い出せず、たくさんの福報を累積させなければ救い出すことができないからだ。済度というこの事は非常に複雑だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達がいつまでも参加し続けるよう願う訳ではない。今でも寶吉祥仏法センターは狭くて、入れない人がいるほどなのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、人がこんなにも多い事を願ってはいない。けれども、そなた達は縁があって来ている。自分にはこのような因縁福報があるということを理解し、大切にし、無駄にしてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の修法が優れていたかどうかなどということには構わず、自分が三宝に対して絕対の恭敬心があるかどうかということを考えるべきだ。法会に来る時に、いくらかでも疑心を抱いたなら、釈迦牟尼仏が修法したとしても、役には立たないだろう。

修法者がそなたに対して何も求めないなら、修めた法は清淨である。修法者の伝承がはっきりと分かり易く、如何にして学ぶのか、誰に従って法を学ぶのかをはっきりと伝えることができるなら、修めた法は清淨である。法の中で行う一切が全て衆生に利益するなら、その法は清淨である。よって、そなた達は何らかの疑心を抱いてはならない。疑心はどうして起きるのか?それは、そなた達が貢高我慢だからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはよく開示する。修法者はリンチェンドルジェ・リンポチェ一人だけなのに、得るものは一人一人なぜ違うのか?一人一人の業報因縁と関係があるということではあるが、最も重要なのは、そなた達の心と関係があるということである。そなたの心はどうなのだ?たくさん得るか、少ししか得られないかは、そなたの心と関係があるのだ。

よって、あとで リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する時には、先ずは慈悲心を養わなければならない。今日そなた達は福報があってこの法会に参加できている。自分、家族、或いはある人のため、とは考えず、法界の一切の広大な有情衆生のため、と考えなければならない。そなた達は彼らを代表しているだけなのだ。この種の最も基本的な慈悲心を持つことが必要なのだ。さらに、真の恭敬心を持たなければならない。恭敬でなければ供養はない。恭敬心がなければ、どれほどの金を献じたとしても、供養にはならないのだ。恭敬とは、先ほど開示したように疑心を起こさず、仏菩薩が私心なく必ず一切の有情衆生に利益してくださると信じることである。このような恭敬心で法会に参加しなければならない。今日は仏菩薩の他に、上師も修法しており、それ以外にもたくさんの人が座席を整え、空調をコントロールし、たくさんの人が支えてくれているのだ。もし、衆生に対して恭敬心がないなら、仏菩薩に対して恭敬心があったとしても、役には立たないのだ。

他の所で法会に参加し、スタッフが良くなかったと言い、さらには、法師は非常に良かったが、スタッフが良くないから、二度と行かない、という人がいる。このような事を言ってはならない。なぜならこれこそ衆生に対する感謝の心がないということだからだ。自分が行ったとしてみても、彼らよりうまくできたとは信じることはできない。今日そなた達は法会に参加しているが、それは誰かを好きになろうとしているからではない。ここは結婚紹介所ではない。なぜ、誰がうまく進め、誰がうまくできなかった、などと論うのか?これはあってはならないことだ。

この種の恭敬心は絕対に必要である。誰かに少しでも世話になったなら、必ず感謝しなければならない。他人に改善点を指摘されたとしても、それに感謝しなければならない。その人は注意してくれたのだから。小学生の頃は学費を払わなければ誰も教えてくれなかったが、今では学費を払わなくとも教えてくれる人がいるのだ。それで感謝しないということがあろうか?自分は大人なのだから、他人にあれこれ管理される筋合いはない、などと思っているのか?そう思うなら、管理する人がいるかどうか、試してみるがいい。我々はいつでも誰かに管理されている。睡眠でさえ人に管理されているのだ。もし、発電所の人が、おもしろくないことがあるからと言って電気を止めてしまったなら、どうやって眠るのだ?人に管理されているのではないか?我々には自由はない。生死を解脱した後でなければ自由はないのだ。人道にいる限り、必ず他人に管理されている。我々は他人に管理されているのだ。そうであるなら、誰かの世話になったなら、感謝の心を持たなければならない。

そして最後には、懺悔の心を持たなければならない。生生世世で如何にして輪迴を解脱するかが分からず、そなたが輪迴を解脱しないことで、たくさんの家族が輪迴苦海で苦しんでいることを懺悔しなければならない。懺悔心を起こし、冤親債主に、自分は過ちを犯したと告げるのではなく、今日法会に来たので、今後自分を害しないで欲しいと告げるのだ。冤親債主は我々修行の恩人を助ける。彼らを追い払い、殺し、賄賂で操るのではなく、仏法の力で彼らを動かすのだ。彼らに『病気にしないでください。伴侶に愛人を作らせないでください』と告げるのだ。懺悔とは、生生世世における自らの悪の行為を明確にすることで、こうして初めてこの一世に再び輪迴で戻って来られるのだ。懺悔とはこれを懺悔することで、そなた達が既に純善まで修めており、既に淨土に到っているなら、この一世に来ることはない。淨土に到った後再来すれば、それは菩薩であるのだから、この一生でそなた達のようであるだろうか?これは我々の生生世世の身口意の悪業がなお明確になっていない、ということを示しており、懺悔しなければならず、結果を受け入れなければならず、今後永遠に行わないと悔い改めなければならないのだ。

この三種の心を以て法会に参加して初めて、自分に利益し、一切の有情衆生に利益することができる。充分でないのではないかと心配する必要はない。今日1550人が同じ心でこの法会に参加しているなら、この心の力はそなた一人のものより大きい。もし1550人が同じ考え方、同じ力を持つことができるなら、それは素晴らしいことだ。仏経にも書かれている。仏が法を説かれる時、たくさんの菩薩が聞きに来た。これら菩薩はみな既に開悟しているのに、なぜ仏が説かれる法を聞きに来られたのか?なぜならこれら菩薩が行けば、衆生は感応して一緒に行くため、たくさんの衆生が利益を得られるからである。

よって、『自分は知っている、分かっている、聞いたことがある、理解している』というような考えを持ってはならない。仏経にも記載がある。仏が法を説かれる時、文殊菩薩を含むたくさんの菩薩が皆やって来た。これら菩薩は皆既に開悟しており、法身菩薩なのに、なぜそれでもなお聞きに来るのか?なぜならこれら菩薩が行けば、彼らと有縁の衆生が全て利益を得ることができるからである。そのため、自分は理解している、自分は上師の開示の意味を知っている、または自分は大体のところまでできているなどと決して考えてはならない。もし、そうならそれはもうお仕舞いだ。なぜなら貢高我慢が現れているからだ。貢高我慢が出現すれば、慈悲心はなくなってしまう。慈悲心がないなら、懺悔心もない。懺悔心がないなら、恭敬心もない。三つの心がないなら、その時には、三本の管が替わりに現われるだろう。

この一生を終える際の三本の管の苦しみを免れたいと思うなら、三つの心を身に着けなければならない。どんな法会に参加しようと、それが仏法と関連があり、この三つの心を強く持っていさえすれば、一生を終える際に、三本の管はそなたと無縁であることをリンチェンドルジェ・リンポチェは保証する。さもなくば、そなたに着いて来るだろう。末法時代の衆生は業が重い。医療までもが古代のものより苦痛だ。古代、人は家で横たわり穏やかに死を迎えることができた。ところが今はどれほど苦しいことか?法師であろうと、この種の苦しみを免れることはできない。女性出家者は、たとえ一生清淨戒を守ったとしても、病院へ運ばれてしまえば尿管を挿入され、集中治療室へ運ばれれば全裸にされてしまう。だれかれ構わずそうされる。それが病院の規定だからだ。よって、このような苦しみを受けたくないないなら、今、決心しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を脅している訳ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、毎日集中治療室へ通っていたから知っているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは医者である弟子を持っているため、 医者が手を出さない訳にはいかない、ということを知っている。挿管の苦しみを免れたいと願うなら、出家衆らしく尊厳をもって往生したいと願うなら、今正に努力しなければならない。どのような努力をするのか?『自分は何のために修行しているのか?それは、生死を解脱し、万縁を断つためである』と心に決めることである。万縁を断つことができるなら、求めずともいつか必ず因縁福報が成熟し、自然に弟子ができるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは訳の分からない内に山のような弟子が現れている。けれども、これまで一度も観世音菩薩に、リンポチェにしてくださいと願ったことはない。もし願ったことがあるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェには問題が起きるだろう。ほんとうに願ったことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分をリンポチェにしてください、と尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に求めたことはない。全くない。リンチェンドルジェ・リンポチェは前世でこれらの人に借りがあるので、今になって千人もの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに纏わりついているのだ。これは非常に苦しいことだ。おそらくリンチェンドルジェ・リンポチェの業障も重いのだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが行う事は全て、絕対に自分個人の利益のためではない。あまりにも多くの人の死に往く際の苦しみを目にし、非常に気の毒に思うからだ。この種の苦しみに苛まれたくないと思うなら、ぐずぐずせず、今すぐに修行を始めなければならない。入院してから修行を始めれば良い、と思うかもしれないが、それからでは間に合わないのだ。福報が充分でないなら、この種の苦しみを経験しなければならない。福報が充分なら、この種の事は起きないだろう。福報が充分なら、家族が突然そなたの言う事を聞きたいと言い出すかもしれない。さもなくば、そなたに、話すなと言うかもしれない。誰もが、そなたのために良かれと思っているのだ。皆、この言葉を口にしたことがあるだろう。どうだ?そなた達はさらに、医者の言う事を聞かなければならないと言うだろう。ではなぜ、仏菩薩の仰せを聞かないのだ?おかしいではないか。金が要らない話を聞かないで、金を取る話を聖旨のように有り難がっている。

末法時代の衆生はほんとうにかわいそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一年と少し前に開示したことがある。末法時代の衆生は業が重いので、食べる物まで有毒だと。それが的中した。リンチェンドルジェ・リンポチェが言った通り、今年はそのような事件が発覚し続けているではないか?何を食べても有毒だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは昨年開示したのであり、今年になって開示したのではない。千名余りの弟子がそれを証明できる。そのため、人として生きるのが楽しいなどと考えてはならない。どこが楽しいのだ?昨日四歲の子供が来た。母親は、その子が過動児であるという。もちろん過動児になるだろう。母親は自分では食事を作らず、毎日子供に外食させているのだから。母として、子供のためになることをしようという忍耐力さえないのだ」

ちょうどその時、子供が泣き出した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示なさった。「子供が待ちくたびれて、泣き出してしまった。仕方がない。子供は、そなた達よりもよほどクリアに仏法を受け入れる。そなた達のように雑念でいっぱいでないからだ。人は成長するにつれて雑念も多くなる。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは年をとってはいるが、それでも話し続ければならないのだ」

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、殊勝な直貢噶舉施身法の修持を開始され、修法の圓満後に、参会者に続けて貴重な仏法の開示をくだされた。

「『阿弥陀経』には、淨土に往生したければ、必ず福徳因縁を備えた善男子善女人でなければならない、と記載されている。自分で学べばそれで充分だと思ってはならない、ということだ。仏が説かれる数字は無限なのだ。数百万回や数千万回というのではない。なぜ法会を開催する必要があるのか?それは、十方三世の諸仏と上師を供養し、一切の衆生に布施する因縁をそなた達に持たせるためである。これは自分の力に頼るだけで為し遂げられるものではない。上師はそなた達を率いて修法する。表面的には、自分の現在の世間の小さな事のためであるが、実は、そなた達の往生時の重要な事のためなのだ。

因縁とは、諸仏菩薩と上師が説く仏法を受け入れ、信じて、その通りに行い始めるということである。こうして初めて因縁が生まれるので、前世は観世音菩薩のそばの童子だったので縁がある、と自称するようなものではない。仏の仰せを聞き入れることができ、疑心を抱かず、しかも実践するなら、初めて因縁が生まれるのだ。しっかり聞いて欲しい。先ほどの事は欠くべからざるものである。片手にカウンターを持ち、もう一方の手に念珠を持ち、念誦しながら回数を数え、百万回までいけば、自分は百万回念誦したなどと思ってはならない。これでは充分でない。このような百万回は数の内に入らない。阿弥陀仏は仏号だなどと思ってはならない。実は阿弥陀は阿弥陀仏の心咒なのだ。仏経上の翻訳では『無量光無量寿仏』で、阿弥陀仏ではない。中国に伝わった時に阿弥陀仏と呼ばれるようになったのだ。何もすることがない老人が、毎日家で念仏していれば役に立つだろうが、そうでなければ、密法では、何らかの真言の修習には、灌頂条件を備えた上師が灌頂、口伝観想方式を授与し、閉関中に念誦しなければ、福徳因縁を得ることはできない。

いわゆる『不得少(なければならない)』とは無限の数字であり、この一生で停止してはならない、ということである。自分は充分行っている、だいたいこんなものだ、などと思ってはならない。少しでも散漫な心があるなら、それは充分ではないのだ。先ほど『福』について開示した。『徳』とは、一切の修行を自分が用いるために残さず、すべてを淨土、衆生に迴向することで、功徳を得ることができる。もう少し詳しく述べれば、既に智慧を開き、空性を悟り、定境で日々を過ごしていなければ、功徳を得ることはできず、点灯し献金すればそれで功徳がある、というものではない。かつて達摩祖師は、梁武帝は功徳を修めておらず、福徳だけを修めている、と仰せになった。梁武帝の行いは明らかに一般の人より多い。それなのに、なぜ梁武帝には功徳がないのか?なぜなら梁武帝は、自分は修行していると考え、自分はしっかり修行しており、他人より優れていると思っていたからである。

福徳因縁を備えた善男子善女人は必ず十善法(不殺生、不偸盗、不邪淫、不悪口、不両舌、不綺語、不妄語、不貪、不瞋、不痴)を修めなければならない。不痴とは因果を深く信じることである。たくさんの人が、ちょっとなら大丈夫だ、後で懺悔し、後で布施すればそれで良いだろうと思っている。この種の考えは過ちである。なぜなら善と悪とは別々のものだからだ。『発願』とは後半で皆を率いて念誦した『発願往生淨土の祈請文』のように、絶えずこの過程を行うことで、一生で、停止することなく絶えず行うのだ。そうでなければ、淨土に往生することはできず、少し念仏、拝仏すれば浄土に往生できるというものではない。

経典中の記載が正しいかどうかを、我々はどうやって確かめるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェがよくポワ法を修めているのを皆は知っているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これらポワ法を得られた人は、なぜ因縁があり、リンチェンドルジェ・リンポチェによりポワ法を修められたのかを、観察し続けている。その結果分かった。彼らは『福徳因縁を備えた善男子善女人』の条件を備えているからだ。ここまでには数十年かかるのだろうか?そうとは限らない。

先日、一人の弟子が往生した。彼が初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たのは夏だった。当時彼は長袖を着ていたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、手、背中、身体の前側にそれぞれいくつかの刀傷があるだろう、と告げた。彼は衣服を着ており、衣服も透明ではない。そのため、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの超絶を知ったのだ。彼はもともとは菜食でない普通の料理の調理師で、子供の頃からチンピラと交わっていたが、後に妻と共に皈依した。けれども習性は変えられず、また自分の妻を非常に大切にしていた。夫がそなたを愛し過ぎるのは良い事ではなく、そなたが夫を愛し過ぎるのも良い事ではない。ほどほどが良いのであり、過ぎたるは及ばざるがごとしだ。

当時彼の妻は宝石店の従業員だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら、入口の鍵のパスワードを他人に教えてはならない、と彼女に告げた。ある日、彼女は夫にパスワードを教え、夫はパスワードで入口のドアを開けた。リンチェンドルジェ・リンポチェも、なぜちょうどこの事を知ったのかが分からない。おかしなことに、リンチェンドルジェ・リンポチェに知らせるべき事は、護法アキがリンチェンドルジェ・リンポチェに知らせてくださるのだ。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の面前で妻を叱責した。なぜなら会社にとって、この種のパスワードを他人に教えるのは犯罪であり、仏法にとって、上師の言いつけを守らなかったのは破戒になるからだ。その結果、彼は自分の妻を大切にする余り、怒って辞職してしまった。当時、彼は一日二回リンチェンドルジェ・リンポチェに食事を作っていた。たった二回でも、給料は普通並みに受け取っていた。妻も夫を大切に思い、夫が辞めると言うならそれで良いとして、夫を諌めることをしなかった。

しかし、辞職の数年後、彼は自分が癌であることを知った。彼の癌は、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して怒ったからではなく、もともとあったものだ。彼は殺生を停止し、しかも皈依したので、癌は動かなくなり、彼に学ぶ時間をくれた。けれども彼は上師に腹を立てたため、上師の加持の力は消えてしまい、自分の福報を使い終わってしまったところで癌が現れたのだ。しかし、幸運なことに、彼はかつて皈依したことがあったので、死の前に何度も懺悔に訪れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を観察し、彼が真に懺悔しているのか、死を恐れて懺悔しているのか、それともリンチェンドルジェ・リンポチェが病を治してくれるのを願って懺悔しているのかを、見極めようとした。彼は来る度に十万元、二十万元と供養したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは並外れているのだぞ。金を受け取らないことができるのだ。最もすごかったのは、二千万元を受け取らなかったことだ。五回持ってきたが受け取らなかった。慈悲を以て、彼に福田を植え付けさせなければならないという人がいる。どんな福田を植えつけるというのだ?言いつけを守らなければ、かえってその人に害を及ぼしてしまうのだ。後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が真に懺悔していると分かり、彼が来る度に大礼拝を行うよう指示し、彼とはあまり話さなかった。それを行った後少したって、彼に再度の皈依を許した。彼は発病から死亡までのこの期間、何も治療を受けず、胆汁ドレナージだけを行い、最後にはドレナージも止めてしまった。ホスピスで、治療の苦痛を受けることなく、往生時にはポワ法を受けることもできた。

この弟子は全て、仏経で説く『福徳因縁がなければならない』に符合する。彼は最初は有縁だったが、それを断ってしまった。けれども後に再び訪れ、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回彼に拝仏するよう指示し、彼に福報と因縁を累積させた。法会があれば、集尿袋を携えてでも、必ず参加させ、福徳因縁を累積させたのだ。改めて皈依した後、彼は十善法を修め始め、上師を信じ、懺悔発願して、こうしてポワ法を得ることができた。彼は修行したことがなく、六字大明咒さえ集中して唱えていない。これでは、淨土には往けないはずだ。ところが、経典上の条件に符合していたため、具徳の上師が彼を往かせたのだ。

仏を学ぶことは困難だろうか?非常に困難だ。仏を学ぶことは容易だろうか?非常に容易だ。けれども、そなた達はこの弟子の真似をしてはならない。これは非常に苦しいのだ。『一度離れても問題ないのだ、癌になってから戻ってくればいいのだ』などと思ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがいないこともあるだろう。そなたに会う因縁がない可能性もあるではないか?その頃リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に食事の支度をさせていたのは、彼にリンチェンドルジェ・リンポチェに供養する機会を与え、この縁を続けさせようと考えたからだ。上師に仕えるのは余計なことだと考える人が多いが、そうではない。必要があると考える以外は、上師はだれでも良いと考えて仕えさせるのではない。必要があると言っても、上師が必要なのではなく、この弟子が必要なのだ。

当時、彼の妻は過ちを知り、自分の家をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養しようとしたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らなかった。その時彼女は、自分が懺悔し、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養しようとしているのに受け取らないとは、とリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲心がないと思った。今彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェがなぜ受け取らなかったのかを知っている。夫は死んだが、彼女にはまだ家があるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの心は物を見ても動かない。そうでなければ、その時、彼女が供養した家を受け取っていればどれほど良かったことか。彼女の夫はリンチェンドルジェ・リンポチェに腹を立てた。妻として夫に代わり供養すればどれだけ良いことか。受け取って彼女に福報を起こさせ、夫を少しでも早く帰らせてやるべきで、功徳を迴向した方がいいのではなかったか。けれども リンチェンドルジェ・リンポチェは要らない。彼が最も苦しい時まで待って彼を救う。そうでなければ、金で買い戻したのだ、と彼は思うだろう。金は非常に重要だ。金がなければ一日も暮らせない。しかし、金はそんなにも重要ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはおかしな性格なので、そなた達に金で買収されることはないのだ。

今日はこの二人の弟子について話したが、何も彼女の夫を責めているのではない。ただ、そなた達に一つの事象を見せただけだ。皈依時には、上師に対して腹を立ててはならない、と告げている。上師に対して腹を立てたなら、その瞬間、上師の加持はなくなってしまうのだ。上師の加持が到達できないのではなく、そなたが門を閉じ、受け入れることができなくなるからだ。上師の加持と仏光とは同じように衆生を普照する。衆生はなぜ感じられないのだろうか?それは受け入れないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもある例を挙げる。テレビの電波は常に送られてくる。しかし、テレビをつけないなら、どうして電波を受け取ることができようか?テレビ電波の送信は停まったことがないのに、なぜテレビが見えないのか?それはテレビをつけていないからだ。今そなたの心は、仏光、上師の加持を受け取るために開かれていない。そなたが心を閉じてしまえば、無くなってしまうのだ!皈依時には、上師に対して腹を立ててはならない、とはっきり言ってある。これは、上師がそなたの立腹を恐れ、或いはそなたが腹を立てることで、上師もそなたに腹を立てるからではない。上師が、そなたが腹を立てることで腹を立てるなら、それは上師ではない。腹を立てる人は、そなたを皈依させる資格はないのだ。

仏経で『獅子吼』と言うように、上師にとっては、立腹も一種の道具だ。たまには大声で叱責しなければ、そなた達は本当に何もなかったかのように、そこに座って、本当に聞いているようにしている。大声で叱責されて初めて、ある弟子が言ったように『頭の中は真っ白で何もない』という状態になるのだ。これはどういう意味だろうか?それこそ、定境に入り、妄念がない、ということである。この弟子は、いつかは分からないが、遅かれ早かれ智慧を開くだろう。現在この種の五濁悪世、末法時代にあっては、出家衆であろうと、在家衆であろうと、修行は本当に困難だ。そのため、一人の上師としては、たくさんの方法を用いて、そなた達が受け入れることができない方法さえ用いて、そなた達を助けるのだ。

上師となれば、たくさんのおもしろい事も受け入れなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を例としよう。20代の頃、拳法を練習していて、首の二箇所の脊椎が離れてしまった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、漢方医である弟子に、医学の角度からリンチェンドルジェ・リンポチェの首の脊椎部分の問題について説明するよう指示した。漢方医である弟子は『首の脊椎の状態は、医学的には、第七頚椎と第一胸椎の付近が脱臼しており、完全に対応しているのではない。この種の状況は、必ず神経の圧迫を引き起こし、長くなれば、手は必ず痺れ、肩と頚部に疼痛が起き、頭痛もする。最も主要な問題としては、両腕の自由と心臓に影響が及ぶ』と答えた」

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「その時、自分は拳法を練習する際にウォーミングアップをしていなかった。そのため、脊椎が離れてしまったのだ。以前リンチェンドルジェ・リンポチェはある医者に診てもらった。その医者はリンチェンドルジェ・リンポチェに『この状態は治療できない。50歲を過ぎたら、頭が上がらなくなるだろう』と言った。今年リンチェンドルジェ・リンポチェは66歲だ。以前は天候が変化すると、首をひねるとまでいかなくとも、下を向くだけで非常に痛かった。けれども、密法を学んだ後は、痛みは軽くなり続け、今ではほとんど痛くなくなってしまった。けれども、たまにはやはり非常にきつく感じる。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェが首を回しているのを皆もたまに見るだろう。とてもきつく感じるからなのだ。しかし、医学的には、リンチェンドルジェ・リンポチェの患部は、動かないはずなのだ。

先日、ある信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。その時リンチェンドルジェ・リンポチェは既に信者に3時間開示していたが、この信者が文句を言い続けるのを聞き、また彼が言っていることがはっきり聞き取れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは首が少しきつく感じ、首を軽く回すと、この信者の表情は驚きに変わり、『え?うそでしょ!』と言ったのだ。なぜなら乩童(台湾のシャーマン)は首を回すではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時、笑うことができなかった。どうだ、上師となるのも大変なのだぞ。皆は今聞いて、おかしいと思っているだろう。けれども、その時リンチェンドルジェ・リンポチェは笑うことができなかった。笑いを咬み殺し、彼の訴えを聞き、彼を助けなければならなかった。そのため、上師となるのは羨むようなことではない。上師となれば、たくさんの事にぶつかるのだ。

今日は皆にたくさんの事を開示した。この一年ももうすぐ過ぎようとしている。皆には、仏法を大切にし、娯楽のためのゲームや暇つぶしととらえないで欲しい。仏を学ぶのは、自分の性格を穏やかにするためのものだ、とも思わないで欲しい。そなた達の性格を穏やかにするのは非常に簡単だ。欲望を満たしてやればいいだけではないか。仏法は、我々の人生と衆生の未来に対して、必ず良い助けと変化をもたらすものであり、そなた達が決心するかどうかだけにかかっているのだ。決心しなければ、釈迦牟尼仏に教えを受けたとしても役に立たないだろう。決心とは、人生の無常をはっきりと知り、死がいつでも出現するということをはっきりと知り、人生は苦が多く楽が少ないということをはっきりと知ることだ。これらをはっきりと知った後、しっかり仏を学ぶよう決心するのだ。それにより、自分のこの一生が終わった後、輪迴苦海に二度と再び堕ちないよう、自分が未来世で広大な衆生に利益できるようにするのだ。こうすれば、仏を学ぶ方向が確定し、これによって道を誤らず、過ちを犯さず、時間を無駄にすることはない。

自分は病気だから、自分は貧しいからと心配する必要はない。これらを心配する必要はないのだ。これらは全てそなたの業力と果報なのだ。一緒に過ごせばいいだけのことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身も全身に病を抱えている。医者にとってはリンチェンドルジェ・リンポチェはもう既に手の施しようがない人間だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが今まで持ち応えて来たのではなく、仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェは今でも少しは役に立つので、残してくださっているのだ!仏菩薩に、残そうと思って頂きたいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェを真似れば良い。上師の話を聞き入れ、物語を聞いているように扱ってはならない。自分について話していない、他人について話している、と思っているだろうが、実は誰でも同じなのだ。なぜなら皆が備えている条件はどれも同じで、業力が違うだけなのだ。聞き入れることができ、仏法を通して自分を変えることができなければ、希望に満ちた人生を送ることはできない。

人は必ず過ちを犯す。仏も『過ちを犯しても、改め、懺悔することができれば、未来では絕対に善人、聖人となる』と仰せだ。最も恐ろしいのは、過ちを犯した後、何度も繰り返すことだ。それではどうしようもない。人生はあっという間に過ぎ去ってしまう。今年もあと少しで終わりだ。今日は既に11月。あれよあれよと言う間に12月になるだろう。自分はまた一年長生きした、などと思ってはならない。地球上での時間が一年減ったのだと思わなければならない!時間は多くないのだ。自分の息子が結婚したら、または誰かを待って、それから修行を始めよう、仕事の休日を日曜日にできてから来よう、などと思ってはならない。これらは全てそなたの理由だ。仏を学ぶことを先延ばしするための理由を探しているのだ。なぜなら、仏を学ぶのはとても大変だと思っているからだ。これもだめ、あれもだめ。けれども本来我々は、たくさんの事を行うことはできないし、無理なのだ。ただ、そなたは既に誤まった生活スタイルに慣れてしまっているだけだ。仏法は我々に健康的で将来性があり、希望に満ちあふれた生活スタイルを教えてくれているのだ。皆よく考えてみよ。

仏を学べば親戚や友人に会えなくなるなどと言うことはない。似た物同士が集まる、というのを聞いたことがあるだろうか?仏を学んだ後には自然にどんどん善になるため、不善な人がそなたに近寄ることはなくなる。悪である人がそなたに近寄ってくるなら、それはそなたがなお悪を行っているということなのだ。仏を学んだ後に友人や親戚との付き合いが少なくなる、ということではなく、借金を完済すれば、そなたから離れていくからだ。冤親債主はみな家の中にいるのだ。そんなに複雑に考えてはならない。また、仏を学べば物事をしっかり行えなくなる、ということもない。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子達はみな仕事を持っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、働いていない者は、リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏を学ぶことはできない、ともはっきり言っている。なぜか?なぜなら社会の害虫は、仕事があって初めて社会に貢献でき、政府に納税でき、国家の事業を動かすことができるからだ。弟子が働いていないことを リンチェンドルジェ・リンポチェが知ったなら、絕対にその人を追い出すだろう。自分は仏を学び閉関するので、働かない、などと思うものではない。必ず仕事をしなければならない。自分のうちは金持ちなので、などと言ってはならない。もし、そなたのうちが金持ちなら、なぜすべて供養しないのだ?よって、これも理由にはならない。

我々は人である。人として行うべき事を行わなければならない。仏を学ぶことを理由に、人として負うべき責任から逃げてはならない。『寶積経』中でも『この一世で家族の因縁があり、菩薩道を修めたなら、仏を修めたからと言って、家族の自分に対する要求を拒絶することはできない』と言う。仏は『返済し終えていない、或いは相手を拒絕したなら、やはり再来しなければならない』とはっきり説かれている。これは、理に適わず、合法でない事を指しているのではない。倫理道徳における、そなたに対する情と理に適った要求を、拒絶することはできない、と説いているのだ。『寶積経』では非常に明確に説いている。今日はたくさん開示し、皆の時間を消耗してしまったので、夕食や宴会には間に合わなかいかもしれないが、帰宅しゆっくり考えることはできるだろう。

法会が圓満に終了し、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる修法と開示に感謝申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお見送りした。

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2014 年 10 月 27 日 更新