尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年11月10日

法会開始に先立ち、一人の弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜り、皈依することになった機縁とリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女と姉をお救いくださった経緯について語る機会をお与えくださったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが感謝した。

彼女が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜ったのは2011年のことだった。その頃彼女は仕事、男女関係、家人との関係で問題に見舞われていた。何としても超えられない難関という訳ではない、と自分でも分かっていたが、それでも苦悩と困惑に陥り、心の中では「この世に生まれて何の意味があるのか?死後はどこへ行くのか?」と常に考えていた。

彼女は現在姉二人と同居しており、彼女達の年齢差はそれぞれ一歲である。父は彼女が中学一年の頃、脳溢血の発作を起こし三日後に亡くなった。母は父の死の一年後に乳癌の二期であることが発見され、続いてしばらくして母方の祖母も子宮頸癌の四期であることが分かった。当時母は彼女達三姉妹を養うため働いていたが、それなのに癌に罹り、癌になった自分の母の世話をしなければならなくなり、その頃母が感じた心裡的プレッシャーと恐れは相当なものだった。

二十数年前彼女達は高雄に住んでいた。当時高雄には抗癌剤治療ができる病院がなかったので、母は三週間毎に高速バスに乗って抗癌剤治療のため台北に通い、抗癌剤を注射した翌日には、また一人で高速バスに乗って高雄に戻ってきていた。数回の抗癌剤治療の後、副作用の辛さから、母は治療を止めることを決め、民間療法を行うこととした。またその頃母は、病情はコントロールされており、転移していないと感じていたため、あらゆる西洋医療の治療を止めてしまった。けれども、母方の祖母は癌の末期であり、癌細胞は既に全身に拡散し、痛みからしばしばモルヒネを打つ必要があり、食事も喉を通らないほどだった。しかし、最後にはモルヒネの量を増やしても祖母の痛みを和らげることはできなかった。祖母は亡くなった時には、骨と皮だけのように痩せてしまっていた。彼女達は何もできず、祖母のためにできることは何もなく、ただ祖母が苦しみながら往生するのを見ていることしかできなかった。

けれども、母の癌は三年後には転移を始めた。癌細胞が広がり始めた最後の一年、当時高三だった彼女と姉は母の入退院に何度も付き添った。最後に母は、癌細胞が肺に転移し呼吸困難に陥り往生した。母が闘病中のここ数年、彼女は母と共に仏寺、道教の廟に参拝し、また田舎の祭壇で師匠の指示に従い、母と共に一番中跪き、病状の好転を祈ったこともあった。母は高価な霊芝を服用し、黄金尿療法も試みたが、何をしても癌細胞の蔓延を抑えることはできなかった。最後に入院していた頃、母は仲の良い友人のアドバイスで病院で洗礼を受けキリスト教徒となった。彼女達は母の決定を尊重した。最後に母は肺に水がたまり続けるようになり、ショック症状を来たし、血圧が徐々に下がって亡くなった。

彼女達三姉妹は小さい時からケンカが絶えず、社会人なって長い今でもよくケンカをしている。仲が良い時はとても良いが、悪い時は冷戦状態となり、それが短ければ数ヶ月、長い時には一年や二年続くこともあった。2009年彼女の犬が二番目の姉をちょっと咬んだことで、その後の二年間、二番目の姉は彼女、上の姉と一言も口をきかなかった。彼女にとってこの世で最も親しい間柄なのはこの二人の姉なのに、彼女達はなぜいつも冷戦や緊張状態に陥ってしまうのだろうか?姉はいつもページをめくるような呆気なさで、機嫌を損ね、家の中の雰囲気は冷凍庫並みに冷え切っててしまう。仕事の上でも、二週間休んで健康診断を受けると言っていた上司が、驚いたことに半年後には胃癌で亡くなってしまった。

後に新しい上司が配属されたが、四六時中怒鳴る新しい上司に、彼女は適応できなかった。彼女はもともと、廟へ参拝し神さまに頼るのが大嫌いだったが、同僚の紹介で廟に行った。けれども、やはり問題は解決されなかった。オフィスで大声で怒鳴られるのが常態化し、同僚も彼女の状況を知ることとなっていた。彼女と仲が良いある同僚が「自分の姪が、チベット仏教の大能力を持つリンポチェに皈依している。每年大法会を開催なさるが、ちょうど『祖師ジッテン・サムゴン記念大法会』の開催時期だ。参加してみないか?」と尋ねられたので、参加することとした。当時彼女はただ救いを求める心持ちで参加したが、今思えば本当に不恭敬だった。法会の最中には何度も寝てしまいさえしたのだ。

数ヶ月後「『阿彌陀仏無遮大超度法会』が近く開催されるが、往生した父母や家族を済度させてあげられるので、参加しないか?」と同僚に尋ねられた。彼女は今回も、やはり愚かにも救いを求める心持ちで法会に参加した。その頃、彼女は既に新しい仕事を見つけ、姉ともいつからか分からない内に、また話をするようになっており、家の雰囲気も大分良くなっていたが、その時彼女はこれらすべての変化が殊勝な大法会に参加したためで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈大悲の大加持力によって現れた福報のおかげであると気がつかないでいた。「今になって思えば、自分は本当に恩知らずだった」と彼女は言った。

2012年、同僚は「『阿彌陀仏無遮大超度法会』にもう一度参加しないか?」と尋ねた。彼女当時は深い考えもなく、参加すると答えた。今回の参加では「居眠りせずに、集中して法会に参加しなければならない」と彼女は自分に言い聞かせた。法会の終了後、彼女達が座っていた場所はちょうど、同僚の姪である毛兄弟子が担当していたエリアだった。退場時に同僚と家族は、既に皈依していた毛兄弟子を囲んで話をしていた。毛兄弟子は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生をお救いなった事跡を讃えておられたところだった。彼女はそれを聞き恭敬心が湧き上がり、「ここ数回自分が目にしたお方は、確かに一人の大修行者であらせられたのだ」と確信を持った。「尊き リンチェンドルジェ・リンポチェに何か伺いたいことがあるなら、土曜日に道場へ行って尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を賜ることができる」と毛兄弟子は言われた。

その法会に参加後、心中にあった重荷をおろしたように、彼女の心は非常に軽くなった。心の中に リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いしたいという思いが湧いてきたが、教えを賜るべき重大事があるとも思えなかった。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが主法なさる法会には参加を続けようと考えた。彼女は、同僚に彼女のために、どのようにして拝謁を申込むのかを聞いてもらうのを申し訳なく思っていたが、その時彼女は法会で受け取った供品を口にした。包装には寶吉祥の文字が印刷されていたため、インターネットで検索したところ、寶吉祥のHPが簡単に見つかった。そこで リンチェンドルジェ・リンポチェに関する紹介や衆生済度の事跡を読んだところ、 リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜りたい、日曜日の共修法会へ参加したいという思いがますます強くなった。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも皆に繰り返し菜食を勧めておられる。彼女は、自分がどれほどの悪を為してきたかが充分分かっていたので、菜食しなければ、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに日曜日の共修法会への参加をお認めいただくことなど不可能だと思った。そのため、彼女は二ヶ月間の簡単な菜食を開始し、勇気を奮ってリンチェンドルジェ・リンポチェに「大法会に参加する因縁福報を私にお与えくださったことを、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持に感謝申し上げます。今回の大法会の後、自分は心が非常に穏やかになりました。これまでなかったほどです」と手紙をしたためた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが每日曜日に主法なさる共修法会に続けて参加したいと強く思ったため、彼女は不躾にもリンチェンドルジェ・リンポチェに手紙をお送り申し上げたのだ。二週間後、返事を受け取った。手紙には、拝謁を申込む際の電話番号が記載されていたので、彼女はすぐに電話で申し込みを行った。

彼女はその日拝謁を登録した最後の一人の信者だったため、苦しんでいる多くの信者を目の当たりにした。車椅子に乗っている人や、担架で運ばれて来た人もいた。自分は果報が未だ出現しない内に、仏と無二無別のリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜ることができるとは、何と幸せなのかと非常に強く感謝した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが尋ねられるであろう問題について、予め考えたいた。しかし、彼女の番になり御前に出ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「菜食したかな?」と一言しかお尋ねにならなかった。彼女は簡単な菜食をしていると答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「それならそなたに簡単な仏法を授けよう。良いか?」と開示になった。彼女が首を振ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「いつから菜食を始めるのか?」とお尋ねになったので、「今日の夜からです」と答えた。それを聞き、慈悲深い リンチェンドルジェ・リンポチェは翌日の施身法法会に参加するよう登録させてくださった。

こうして、彼女は法会に参加するようになった。「人身を得る事は難しく、仏法を聞く事は難しく、上師に会う事はさらに難しい」ということをお教えくださったリンチェンドルジェ・リンポチェの開示に感謝申し上げる。正法を学ぶことができるなら、累世の悪習気をその場で直ちに改めなければ、仏法を生活に溶け込ませることはできず、輪迴生死を解脱する機会を得ることもできない。

日々が順調に過ぎるようになり、自分は上師に対して、仏法に対して非常に恭敬であると考え、自分は他人よりよく人生の無常を理解していると考えるようになったたが、彼女はそれでも「貪、瞋、痴、慢、疑」の悪念を持って日常を過ごしていた。年の初め、会社が旅行手当てを出してくれるというので、彼女は二番目の姉と共にヨーロッパ旅行(2月3日~2月12日)に申込んだ。これなら有給休暇を数日間とるだけでよく、法会の不参加も一回だけなので、大丈夫だろうと考え、自分はなんてうまく手配したのだろうとまで思っていた。

一月末になり、彼女が入場カードを取りに行った時、春節の一日目と二日目は二日連続で法会があるということを知った。しかし、旅行の日程はちょうど春節三日目の帰国だった。その時は、青天の霹靂というほど驚き、自分は二度と再び共修法会に参加できなくなるのだ、またリンチェンドルジェ・リンポチェが開示なさるように、因縁福報がない人はこのように殊勝な法会に参加することができないのだと知った。春節の三日目に帰国したところ、長姉が、彼女達が旅行に行っていた間、自分は胸部にしこりがあるのを感じ、しかもそれが痛むので、病院で検查を受けたところ、乳癌の二期であると確認された、告げた。またも晴天の霹靂であり、正に「快楽と痛苦」にあるように、「好い事の継続は悪い事の始まりであり、悪い事が終われば良い事が始まる」のだ。

3月6日長姉の手術前に、彼女は道場でリンチェンドルジェ・リンポチェに再び共修法会に参加させてくださるようお願い申し上げたが、それは適わないことであると始めから分かっていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなたは仏を学ぶ事を生活における最重要事とは考えていない。そなたは自分で探し回ってここを見つけたのに、それでも大切にしない」と開示なさった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、家に帰って自分の過ちについてよく考えるよう仰せになり、その場では再度の参加をお許しくださらなかった。彼女は家に帰りリンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったお言葉を姉に伝えた。二番目の姉は「あなたの過ちは私にはすぐ分かったわ!あなたは一回法会にいけないくらいどうってことないと考えたでしょ!それからこの世の中の楽しみに執着していて、供養する時にはあれこれ考えるくせに、遊びに行くとなったら何も考えないで、さっさと申込んでしまった」と言った。彼女は本当に恥ずかしく、「自分は愚かで、この数ヶ月間金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教導を無駄にしていた。学仏人としての資格はない」と思った。

長姉の手術後、彼女は道場にリンチェンドルジェ・リンポチェをお尋ね申し上げたが、今回リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女と話してくださらず、後の方で彼女に説明するよう、出家衆兄弟子に指示なさった。彼女は、自分の過ちは、仏法に恭敬を尽くさず、上師から賜った貴重な仏を学ぶ機会を大切にしないことであると知り、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに心から申し訳なく思った。三回目にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を賜った時、リンチェンドルジェ・リンポチェは傍にいた奉仕兄弟子に「この者は以前は必ず法会に参加していたか?」とお尋ねになった。奉仕兄弟子は「彼女は以前は必ず参加していました。春節一日目、二日目に来なかっただけです」と答えられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って「どこへ行っていたのだ?」とお尋ねになったので、「外国へ行っていました」と彼女は答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなたは早くから計画していたのだろう!」と開示なさったので、彼女は「私は過ちを犯しました」と答えた。しばらくしてリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くも「それでは明日一度法会に参加しても良い。今後のことは考えておこう」と仰せになった。いかなる衆生をもお見捨てにならず、彼女に再び法会に参加する機会を下さったことに、彼女は心からリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に感謝申し上げた。

長姉は三週間休んだ後、抗癌剤治療を始めた。この期間、彼女は道場で再びリンチェンドルジェ・リンポチェに共修法会に参加させてくださるようお願い申し上げた。四回目も五回目もリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深く、共修法会に一度参加しても良いとお許しくださった。五回目に リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁賜った後、受付での申し込みに付き添ってくれた兄弟子が「リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深くていらっしゃる。福報があって、毎週道場へ来ることができ、大慈大悲のリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できるようにしてくださる」とおっしゃったので、彼女は頷いた。彼女は家に帰って「来週はリンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかる最後とし、リンチェンドルジェ・リンポチェに法会への継続参加と皈依を願い出よう。もしリンチェンドルジェ・リンポチェがお許しくださらなかったなら、それは自分にたくさんの悪があるからで、仏弟子になる資格がないということなのだから、上師に腹を立てたりしないで、自分をしっかり改めて、ある程度の時が過ぎてから、また拝謁を願い出よう」と考えた。

けれども、続いて「自分は今每週法会に参加しているのに、悪習を直ちに改める能力がない。もししばらく経ってから願い出よう、と思ったなら、自分はきっと怠けてしまい、仏法からどんどん遠ざかってしまうだろう。けれども、自分は寶吉祥仏法センターを離れたとしても、このように慈悲深い大修行者には二度と再び巡り会えないだろうから、別の上師に従って学仏したいとは思わない。この機会をしっかりつかんで、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従わなければ、一生ぼんやりと過ぎてしまうだろう」と考えた。

六回目に彼女が道場で リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかった時、リンチェンドルジェ・リンポチェは「どうしたのだ」とお尋ねになった。彼女は固い決心でリンチェンドルジェ・リンポチェに、法会への参加と皈依を願い出た。リンチェンドルジェ・リンポチェは目を見開き彼女を見詰め、すぐにお許しくださり、申込んでくるよう仰せになった。彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに供養申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは「頂礼したか?」とお尋ねになったので、彼女は慌てて上師に頂礼申し上げ、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが、この悪を多く為した弟子を残してくださろうとお思いになったことに深く感謝した。彼女の心は突然落ち着き、何年もの間ふらふら定まらなかった心がようやく安定した。

六回 リンチェンドルジェ・リンポチェにお目にかかったこの二ヶ月余りは、正に長姉が手術と抗癌剤治療を受けていた頃だった。長姉は脱毛以外には全く副作用がなかったため、彼女は、これらはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈大悲によるお救いと加持のおかげだと深く思い知った。長姉は無神論者だったが、姉が抗癌剤治療のために入院する朝、彼女は毎回「リンチェンドルジェ・リンポチェの法照に頂礼すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェにお救いくださるよう祈ることができる」と長姉に言った。長姉に無理強いはしていないが、病院へ行くために家を出る前、長姉がリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に対して両手を合わせて頂礼するのを目にした。リンチェンドルジェ・リンポチェの救いを受ける福報を姉にまで賜ったことに、心の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持にとても感謝した。

長姉は計四回の抗癌剤治療を行った。6月3日が最後の一回だったが、その日には「祖師ジッテン・サムゴン記念大法会」が開催された。彼女は、姉も大慈大悲のリンチェンドルジェ・リンポチェをその目で拝見させていただける機会が持てることを心から望んだ。彼女は姉に「残念だけど、今回は参加できないね」と言ったが、5月29日長姉が病院で定期検査を受けた時、医者は「6月3日は海外で会議に出席するため、最後の一回の抗癌剤治療は6月10日まで延期する」と述べた。長姉は帰宅後すぐにそれを告げたため、彼女は「それは良かった」と言った。法会に参加したいという心さえあれば、護法が守ってくださり、大法会に参加する因縁福報を与えてくださるのだ。

そのため長姉は彼女と一緒に、今回の殊勝なる大法会と9月15日の「阿彌陀仏無遮大超度法会」に参加した。姉と彼女、及び彼女達と有縁の衆生がみな、こんなにも殊勝な法会に参加できたことを、慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝申し上げる。長姉が病と闘っていたこの期間、彼女達は母が癌を患っていた20年前のように鬱々と苦しい日々を過ごすことなく、ただ心静かに現実を受け入れることができた。かつてリンチェンドルジェ・リンポチェは「現在出遭っているすべての現象は、我々が過去に為した因なのだ。楽しさだけを求め苦しみを拒絕するなら、それは我々に傷つけられた衆生への借りを返そうと思っていないということで、懺悔心を起こさないなら、慈悲心が生まれることもない」と開示なさったことがあるからだ。

皈依するまで、彼女は男性との交際にひどく執著し、「私には頼るべき相手が見つからない」といつもため息を吐いていた。けれども今では、全ては因果法則を離れられないのだと知り、「縁に従い生きすべてを受け入れる」ことを知ったので、仏法内に安住し、いかなる事態にも執着してはならないということを学んだ。今では四肢が健全で、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示なさる仏法が聞けるだけで、最高に幸せだと理解している。しかも、会社の上司と同僚は、彼女が安心して長姉の世話ができるように便を図ってくれ、長姉の闘病期間には、彼女の仕事を代わってくれたりまでした。もし金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救いがなければ、この事態にどのように立ち向かったらよいか分からなかっただろう。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対しては、感謝という言葉以外に言うべき言葉が見つからないほど感謝している。

また彼女は以前はたくさんの衆生の肉を食べていたため、「自分に傷つけられた無数の衆生に懺悔したい」と述べた。さらに、母の病気の後期には、さまざまなプレッシャーに襲われ、笑顔で母の世話をすることができなかった。既に20年が過ぎているが、やはり非常に後悔している。全く親不孝この上ない。彼女は「かつて二度堕胎し重大な殺生の罪を犯した。自分の考えに合わない事があったり、嫌いな人に出遭ったりすると、心の中で罵っていた。実際にナイフで人を殺したことこそないければ、犯した悪業は三悪道に落されるに値する。これらさまざまな悪業を懺悔したい。もう永遠に二度と再び同じ過ちは犯さない!」と懺悔した。

彼女は、再び正法を聴聞する機会をお与えくださったこと、また6月2日に皈依させて下さったことを、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。「しっかり自己を改め、上師に従う決心だ。自己を改めなければ、仏法を日常生活に応用することはできず、我々と有縁の衆生が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと仏法の救いを受け、輪迴生死解脱し、離苦得楽となることはできない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、仏法事業が興盛であるよう、また六道の一切の有情衆生が一日も早く輪迴苦海を離脱できるよう願う」と述べた。

尊き リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ、参会者に貴重な仏法の開示をくだされた。

「今日は、ガムポパ大師の、因果についての修行と理論に対する教授の最後の開示とする。簡単に言えば、これらは全て顕教の範囲内なのだ。前回教授した因果、空性に対する見方に基づけば、このような観察分析を通して、感覚、思想、所有しているさまざまな物を含む存在の一切と、現在存在していると考える事情を絕対的に肯定し『なぜこのような分別心があるのか?なぜこのように決定したのか?この決定、執著の源はどこから来たのか?』と自己に問わなければならない。

科学的な解釈によれば、見た物、聞いた物に脳神経が反応して記憶が生まれる。記憶があれば、当然何かを覚えている。今では科学が発達し、脳のどの部分が苦しんでいるのか、喜んでいるのか、覚えているのか、冷静なのかを分析できるようになっている。さらには、脳のどの部分が快楽に対して作用し、どの種の化学物質を分泌し、人に喜びの感覚を抱かせるか、ということまで研究で分かっている。けれども一体誰が、脳に作用を起こせと命じるのか?」その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは一人の医師である弟子に説明を求めた。「身体のどの臓器が脳に記憶せよ、反応せよと命じるのか?」医師である弟子は「脳には刺激と反応を受け取る臓器があり、脳のニューロンに伝えることで、脳のニューロンは化学物質を分泌し、動作を生じる」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「なぜ脳はこの種の反応をするのか?」と尋ねた。医師である弟子は「現在ではまだ分からない。反応が強く、多くの物質を分泌する人もいるが、そうでない人もいる。けれども今の時点では答えはない」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて「この答えは今になっても解からない。今になっても、医学は生命に対してなお矛盾した考えを持っている。心臓が止まればそれは死と言えるのだろうか?脳死は人の死なのか?呼吸が止まって初めて死と言えるのか?定義されているだろうか?」と開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び医師である弟子に答えさせた。医師である弟子は「現在では心臓停止時刻を死亡時刻としている。けれどももし臓器移植を行おうとするなら、心臓を停止させず、医師により脳死を死亡時刻として認定させる。現在はこの二種の判定方式が用いられている」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「何が脳死させるのか?医学的な解釈では、酸素、血液が巡らなくなり、脳細胞が損傷を受けるためである。けれども医学的には脳神経は非常に敏感とされる。それなら、自分が死に直面していると知れば、酸素と血液を届けようとするだろう。なぜできないのか?医学においては、人のすべての思想と動作とは脳がコントロールしているとされる。けれども脳は一個人の身体と思想をコントロールしているのに、なぜ自分が死に直面しているのに、延命させることができないのか?非常に矛盾しているだろう、どうだ?」リンチェンドルジェ・リンポチェは医師である弟子に「こうではないか?」とお尋ねになった。医師である弟子は「身体には保護のメカニズムがあり、酸素と血液とを他の周辺に循環させないで、できるだけ脳に送ろうとする」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けてお尋ねになった。「このような保護メカニズムがあるのだから、脳を死なせないようにするのではないか。そうだろう?」医師である弟子は「確かにそうです。けれども最後にはどうしようもないのです」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは医師である弟子に「なぜどうしようもないのか?」とお尋ねになったが、医師である弟子は答えることができなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「医学にはたくさんの矛盾がある。医師である弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェが先ほど尋ねた問題にまだ答えていない。心臓が先に死ぬのか、脳が先に死ぬのか、はたまた呼吸が停止して初めて死亡と言えるのか?医学的には定義がない。そうだろう?」医師である弟子は「そうです」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「脳死状態であるが心臓は動いている人もいれば、心臓が止まっても脳が生きている場合もある。脳も心臓も動いていないが、呼吸がある人もいる。このように見てくれば、これらの人はなお生きているのだ。なぜ死んだというのか?すなわち、答えを見出せない多くの問題があるのだ。そうだろう?」医師である弟子は「確かにそうです」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて「問いに答えているこの弟子は外科医だ。手術の回数はみなが箸を持つ回数より多いだろう」とユーモアたっぷりに言われた。

「なぜ我々は哲学からであろうと、論理学、医学、人生の一切の経験法からであろうと、人の生命に対してしっかりした答えを得られていないのか?みな予想しており、推論しているが、現在でも科学的に確定した答えはない。誰が我々のこの身体をコントロールしているのか?答は無解だ。先ほど医師である弟子が、臓器はどんな信号に触れても、反応を生じて脳に伝える、と言った。けれどもなぜ臓器はこれら信号を受け取るのか?なぜ心臓と肺とはそれぞれの仕事を行うよう調整されているのか?あらゆることは手配されているかのようではないか?外道の言い方では、神祇は泥で人を作られた。もしそうなら、物を食べる必要などないはずだ。もし人が泥で作られているなら、映画に出て来る砂で作った人のように、ばらばらになってもまた集まって人になる、というのでないなら、毎日風呂に入ってはならないだろう。これらは全て答えがないために、人が空想で考え出した答えなのだ。

台湾人はある種の神祇をよく崇め、この神祇は身体を父母に返し、レンコン、蓮の葉で身体を作るとしている。実はこれも空想で考え出したものなのだ。本当にレンコンと蓮の葉で身体を作ったなら、なぜ身体は動くのか?その他の宗教では、霊魂が宿っているから、という。けれども霊魂とはなんなのか?霊とは一体なんだ?他の宗教は霊について確定した解釈を示していない。なぜ人は霊魂があるのか?動物にも霊魂がある。小さな昆虫であろうと霊魂がある。一体何なのか?そなたが教授であろうと、博士であろうと、博士号を二つも三つも五つも持っていようと答えることはできないだろう。膨大な科学的データを見つけ出し、その解釈を受け入れるよう自己催眠をかけるだけだ。

現在では、人類は猿から進化したと考えられている。けれども証拠はあるのか?実はないのだ。ただ何個かの骨を見つけてそれを並べ、これは人類の骨だと考えているだけなのだ。ほんとうにそうなのだろうか?みな確かではないというだろう。人類が猿から進化したと証明するに足る確実な証拠はないのだ。人類が本当に猿から進化したのなら、オランウータンと猿はなぜ進化していないのだ?おかしいではないか?この論説は1000年もの間存在している。道理に照らして言えば、この論説が出現する前に、猿は人に進化しているはずだ。けれどもそれはない。

この世間では、ニンジンは目に良いとみなが知っているように、もっともらしい答えがたくさん耳に入る。けれども、科学番組で言っていることは嘘である。第二次世界大戦時にはレーダーがあり、ドイツ機の来襲を捉えることができたので、ドイツ機はしばしば撃墜された。けれどもそれは秘密であるため、英国人は高射砲をなぜこんなにも正確に発射できるのか、とドイツ人が問うた時、英国人は『英国人は子供の頃からニンジンを食べているので目が良いのだ』と答え、彼らを騙した。それが数十年も続いているのだ。確かに真実だと言える事がどれほどあるのか?中国人は『三人成虎』と言うではないか。若い人の多くはこの言葉の意味を既に理解しなくなっている。これは三人目の人が同じ言葉を伝えた時には、状況は変わっているという意味である。

なぜ仏法では直接的な口伝を重視するのか?密宗では特にそうなのはなぜか?なぜ寶吉祥仏法センターでは、弟子は他人に簡単に仏法を伝えてはならないと厳しく規定しているのか?それは上師が仏法を講じる資格がないからではなく、少しでも誤まって伝えれば、他人を害し、自己を害してしまうからである。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは本を改めた弟子を以前罰したのか?彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェに対して不恭敬だったからではなく、因果のためである。因果を信じず、因果を恐れない人が多く、因果が彼らを恐れている。数日前、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべての組長は午後5時30分に集合するよう指示した。しかし、組長の内の一人は遅刻し、車が渋滞に巻き込まれたといい、また自分は先に処理すべき事があったので、間に合わなかった、という。彼女はその日は既に代わりの人を頼んでいたので、その人が行き話しを聞けばそれで良いと考えていたのだ。彼女はつまり因果を信じず、因果を恐れず、遅到くらい大したことではないと考えているのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示したことがある。遅到とは他人の時間を無駄にすることである。そうしているなら、生生世世で時間を他人に返さなければならない。どうやって返すのか?他人が5時間働いてできることでも、そなたは10時間働かなければならないだろう。この弟子は、前以て自分は行けないと言っており、または自分は遅刻するだろうと言っており、心で理解してもらっていたので、それなら借りはないと思っているのだ。『遅到くらいどうということもない。謝りさえすれば良い』と考えている人が多い。これこそ因果を信じていないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは癇癪持ちだと皆は思っているだろう。けれども実はリンチェンドルジェ・リンポチェは因果を体得し理解し悟っているので、そなた達が悪因を為しているのに、糾さなければ、その後はますますひどくなると知っているのだ。上師が指示した時間に遅到したのに、慈悲を学ぶことなどできようか?これこそ彼女が無責任だということを示している。無責任な人は自分の言葉にも自然に無責任になり、約束を守らなくなる。約束を守らない人は、当然破戒する。破戒する人に、慈悲を学ぶことなどできようか?慈悲を修めるとまで言わなくとも、学ぶことさえできないだろう。

学べないなら慈悲もない。慈悲がないなら、どこに仏法などあろうか?これは非常に簡単な理論である。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは脳から始め、たくさんの事を講じてきた。なぜだろうか?それはそなた達が自分の脳だけを信じ、子供の頃から、科学と医学の催眠にかかり、身体の支配者は脳だと思い込んでいるからだ。現在では、脳が取り去られたとしても、心臓が動いているなら、身体にはなおバイタルサインがあるということを、医学が既に証明している。ただ動けないだけだ」その場で、医師である弟子も「確かにそうです」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「もし脳が心臓の動きを支配しているなら、なぜ脳が取り去られた後も心臓は脈動するのか?これこそ肉体がまだ死んでいないことを示している。たくさんの矛盾点があるのに、みな長い間医学と科学の催眠術にかかり、話ができるのは脳の記憶力がいいからだ、頭がいいのは脳が発達しているからだ、たくさんの事ができるのは脳があるからだ、と考えている。けれども、コンピューターには脳がないのに、なぜたくさんの事を行えるのか?人が作業のプログラムを設計してインストールしているからだ。しかし、なぜ人はこんなにもたくさんの事を思いつくのか?

医学的に言えば、人は生まれた時、先天性傷害がない限り、脳の構造はみな同じで、脳細胞もみな同じであるはずだ。脳の構造がみな同じなのだから、誰でも英語、日本語等同じものが分かるはずだ。なぜ皆それぞれ分かるものが違うのか?自分に子供がいる人はよく分かるだろう。同じ物を食べ、同じ教育を受けたのに、子供はそれぞれ異なる。一卵性双生児なら同じものが分かれて生まれて来ただけであるので、医学的、科学的に言えば、全く同じはずである。なぜなら同じ型を使って作り出された物なのだから。しかし、二人の好みはそれぞれ異なる。誰が彼らに違うものを好きになりなさいと教えたのか?彼らは明らかに一緒に育ったのだ。これは興味深いことではないだろうか?

科学的にこの答えを見つけ出した人はいない。全人類の脳は生まれた時は同じなのだ。科学的解釈では、脳は成長過程での訓練を経て、ある部分がより発達し、ある部分の細胞はあまり発達しなかった、ということになるかもしれない。けれどもおかしな事に、同一家庭の子供は、同じ教育を受け同じ物を食べているのに、なぜ左利きの子もいれば、右利きの子もいるのか?よって、学仏では仏法を用いて事情を判断するもので、家人が受ける抗癌剤治療が少しは辛くありませんように、と リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めるというものではない。これは リンチェンドルジェ・リンポチェと何の関係があるのか?その人の身体は少し状態が良くなるかもしれないし、医者が処方した薬剤が強すぎるということがなく、少しは楽になるかもしれない。妄信してはならない。因果を信じないなら何の役にも立たないのだ。 リンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を拝んだところで、以後の仏を学ぶ因縁を植えつけたに過ぎず、自分の病に対処したわけではない。

先ほど語った弟子も全く出鱈目をいうものだ。因果を信じず、ちょっと拝んだだけでよいだと?それほど簡単だろうか?これも妄信であり、智慧で仏を学んでいないということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何でもできると考えていたとしても、弟子達はリンチェンドルジェ・リンポチェに対する時、何でもするということはなく、あの弟子が自分で言っていたように『計算高い』のだ。なぜ仏を学ぶのはこれら盲点と複雑事を生み出すのか?それは『なぜ仏を学ぶのか?私の人生とは何か?』と落ち着いて考えていないからだ。『自分はこんなにたくさんの事を学んだが、それは人生にどう役立つのか?』と家で落ち着いて考えたことがある人はいない。暮らしが立つよう金儲けを手伝う他は、そなた達の人生にとってどのように役に立つのか?そなた達の生涯をどのようにサポートしてくれるのか?これまで誰も考えたことがない。『なぜ数十年生きれば死なければならないのか?なぜ死ぬ時は必ず苦しいのか?死ぬ時はどうなんだろう?死ぬ時にはどんなふうに思うのか?』と、考えたことがある人はこれまで一人もいない。また、これらを深く検討した人もいない。

人は誰でも自分は死なないと思っている。自分は長生きすると思っている。本当にそうだとしても、それでもやはり誰にでも死は訪れるのだ。仏菩薩がお守りくだされば死ぬことはない、ということはなく、やはり必ず死ぬのだ。道理から言えば、釈迦牟尼仏は仏果まで証されているので、肉体は死なないはずだ。けれども仏はやはり死んで我々にお示しくださった。なぜなら六道内にいれば、必ず死の苦しみを経験しなければならないからである。密法では『不死の身』という考え方がある。それは、この一生の身体をこの世で不死まで修することで、歷史的には第十三世 直貢噶舉法王がこの果位まで修行されたことが、記録に残っている。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの問題を提起した。それは仏を学ぶこととは何のためなのかを知らせるためだ。仏を学ぶこととは、我々が理解できない宇宙の多くの真相について、仏法の分析と解釈を通して、『そうだったのか』と納得させるものである。こうすることで初めて、仏法の学習と薫陶を通じて未来の生命と人生を掌握することができるのだ。仏は、我々をコントロールするなどと仰ったことはない。我々にいのちを与えることができる、と仰せになったこともない。別の宗教では、神祇は命を授けるというが、仏は仰せにならない。『添寿の法門』はあるが、この『寿』とは修行に用いるものだ。厳密に言えば、『添寿』は寿命を延ばすことはなく、この一生で享受すべき寿を返してくれるだけなのである。

神識が投胎した時、父母が肉を食し、そなたも肉を食していれば、寿は少しずつ減っていき、いつまでもそれは続く。それに加えて、そなたの貪、瞋、痴が深刻であれば、寿はいつまでも減り続ける。なぜ懺悔しなければならないのか?なぜなら懺悔の後には、そなたのものであるべき財、寿、福について、仏菩薩が冤親債主から守ってくださるからだ。これらをそなたに与えて何をさせるのか?修行させ、衆生に利益させるのだ。なぜいくら修行しても、相変わらずたくさんの病や問題を抱えている人がいるのか?それは真の懺悔をしていないからか、自分は学仏しているからと言いながら、上師が開示する仏法の真の意味を理解していないからだ。だれでもみな、仏法を自分の都合に合わせて取り入れ、ある言葉がちょうど自分に当て嵌ればそれを取り入れ、自分に関係がなければ知らん顔をしている。

リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもみなに開示している。他人の身の上話を物語だと考え、自分には起こらないなどと考えてはならない。人の身に起きる事であれば、我々の身にも必ず起き得るのだ。絕対に起き得る。ちょっと不謹慎であればすぐに起きるのだ。なぜ リンチェンドルジェ・リンポチェはここ数ヶ月ずっと因果を教えてきたのか?なぜなら『自分は理解している。因果を信じている』とみな思いつつ、実は信じていないからだ。因果を信じる人は、何をするにしてもよく考えて行い、衝動のままに口に出したり、大雑把だったり、覚えていないということはない。仏法では、業障が重く、知恵が現れない人は記憶力が悪いという。これは確かにその通りだ。けれども懺悔を通して変えることができる。かつて古代の出家衆の多くは非常に無知で、何も学び取ることができなかった。けれども、上師の言葉、真言、仏号を一つだけでも聞くことができれば、成就を得ることができた。それは彼らが本当に無知で、言われた通りに念じ、言われた通りに行ったからだ。

知識、学問がある人ほど、自分は仏を学んだことによって、障礙が増えたと考えている。仏を学ぶことには二つの大きな障礙がある。一つは煩悩障で、もう一つは所知障である。自分は知っている、分かったと考え、自分は知識があり、自分は無知な人間ではないと思っている人は、上師が講じる仏法に対して自己流の考え方をするため、永遠に聞き入れることができない。みなはリンチェンドルジェ・リンポチェが適当に話していると思っているだろう。法座上で講じる話がなければ、それは仏法ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは分別心がないので、その話はすべて衆生に利益できるのだ。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが法衣を着ていない時の話はただのおしゃべりだと思っているだろう。けれどもリンチェンドルジェ・リンポチェが法衣を着ていない時の話は、するどく的を射ているのだ。

少し前リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子に『息子のことに注意せよ』と言ったが、息子は本当に交通事故に遭ってしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に『心配することはない。息子は死なないし、面相が変わることもない』と言ったが、本当にそうで、怪我した足を手術しただけだった。ここ十数年、リンチェンドルジェ・リンポチェが警告したにもかかわらず、それを聞き入れなかった弟子には、後に必ずその通りの事が起きている。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の事を知ることができるとは思っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは上師だから、彼らのことを持ち出し、上師の権威を示さなければならないのだろうと考えているが、もちろんそうではない。ある高齢の女弟子は、息子に会うため海外にどうしても行きたいとし、息子は自分の宝物なので行かない訳にはいかない、と考えていた。しかし、これもとてもかわいそうな結果になってしまった。当然すべての人がみなこうである訳ではないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが口に出した場合にはみな的中してしまう。不思議なものだ。

なぜ上師はそなた達の事が分かるのか?そなた達が仏を学ぶ過程において、菩提心を発しているかどうかを見れば、そなた達の業が消去されたかどうかが分かるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはたまに、ある弟子に何かを行うよう指示することがある。彼らが拒絕しさえすれば、たとえどんな理由で拒絕しようと、後には必ず良くないことが起きる。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らに何かを行うよう指示するのは、彼らに因縁福報を与え、彼らの業を調整するためだ。自分の妻が、夫が、商売が等等、非常に多くの理由を並べ立てる人もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはべつにどうでもいいので、拒絶されるがままにしている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは『仏菩薩と上師はそなた達の果報を変えることはできないが、多くの助縁を与え、そなた達の果報の味を変えることができる』と何度も開示している。けれどもほとんどの人は聞き入れない。リンチェンドルジェ・リンポチェが適当にそなた達に何かを行わせようとするだろうか?それはほとんど無い。リンチェンドルジェ・リンポチェが口を開きさえすれば、それは必ずそなた達に対して益があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって益があるのではない。それなのに、自分の立場ばかりを考え、仏を学ぶのは人生において最も重要でない事だと考え、『仏を学ぶことを通して他人と差がつき、もう少し良くなれば』と希望しており、仏を学ぶことが自分の未来の人生を変えてくれるとは考えたこともない。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェはさまざまなことをたくさん話してきたが、それは、仏法とは世間の何かの人生経験法を解釈できるものではないということを、深く体得してもらいたいからだ。仏法とは哲学や論理学では絶対になく、事実の真相なのだ。先ほど言ったように、何かを考えたり、何かをしたりするのは脳の作用だとみな考えているが、仏は脳の作用ではないといわれた。執行者が、ある事を執行する時に、コンピューターのキーボードを操作すれば、コンピューターが指示通りに作動するようなもので、我々も同じなのだ。しかし、誰が脳を執行するのだろうか?それは我々の心であるが、この心とは心臓を言っている訳ではなく、有情衆生一人一人が具備する生存エネルギーである。この種の生存エネルギーとは、仏法においては心で、形状、重量、色、大きさがなく、見えない、触れない、感じることもできないのだ。

仏がおっしゃったことこんなにも神秘的なのだが、仏が心を発明したのではない。実は、宇宙で起きたあらゆる事は、すべて偶然発生したものであると、今では科学者も認めている。けれどもこの偶然の機会が発生する前に、誰がこの二つの物をぶつけたのか?誰がそれを押したのか?現在では科学者は『機械では探測できないエネルギーが宇宙の変動を支配している』と感じており、『この種のエネルギーは神祇が作り出したものではなく、全ての人が同じ事を考えた時にこの種のエネルギーが出現するのだ』ということを知っている。仏が仰った心とは、人の経験法が体得できるものではない。これも、仏法が非常に理解しにくく、入りにくい所以である。なぜなら仏法と経験法則とは完全に関係がないからである。

今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を、心を落ち着けてゆっくり考えてみるがいい。『誰が号令を発して、脳に作用を起こさせているのか?』たとえどんな本を読んでいようと、答えを見つることはできないだろう。だからこそ、哲学が生まれ、ある事象が発生した原因はどこから来たのかを推論し続けるのだ。けれども、いかにして推論したとしても決して見つからないだろう。ただ表象だけがあり、どんな原因がこの事を発生させたのかを掘り下げて探ったとしても、やはり外からは分からないのだ。仏が仰った心とは、すべての衆生が生存条件のエネルギーを具備しているということで、禅宗でいう『明心見性』のことである。すなわち、禅の修業者は自己の心をはっきり分かっていなければならず、心を通してでなければ、本質的な仏性を見詰めることはできない。『禅定は自性光を見られる』という。いわゆる『自性の光』とは禅定時に眼を閉じれば見られるというものではなく、一切の業が清淨になり、本質を回復した後でなければ、『自性光』は心中において顕露することはない。けれども、肉眼では絕対に見えないもので、意識でも決して見ることはできない。

もし意識で見ることができるなら、それは神経の作用である。科学的には、神経が少しでも動けば電気エネルギーが発生するという。電気があれば当然光もあるため、神経光が見えるのだ。明心を得る前に目にするものはすべて、虚偽である。『明心』とは『心の作用とは何か』が自分ではっきり分かり、心と意識とをはっきりと分けられるということである。現在の人の問題はどこにあるのか?本来、心は万物一切の能力を支配しているものである。けれども、人は自己の意識を用いて日々を過ごすことに慣れている。すなわち、顕宗でいう『六賊』である『眼、耳、鼻、舌、身、意』を用いているのだ。我々の心は意識の信号を受け取り、意識が連動され、森羅万象を生じている。

心が動かないなら、あらゆる現象は発生しない。楽しさであろうと辛さであろうと、それを感じたなら、その時必ず心は動いている。仏を学ぶこととは感応を学ぶことではなく、感覚を修行することでもない。だれでも本来感覚を持っている。神経が死んでいなければ、必ず感覚があり、意識存在も絕対に感応を有し、外在及び内在の一切の変動に感応する。けれども、仏を学ぶこととは意識に頼るものではない。先ずは意識の作用を理解した後でなければ、心と意識との差を理解することはできない。そこまで修めるのは非常に困難である。リンチェンドルジェ・リンポチェは言うだけは言うけれども、理解できる人は、百万分の一にも満たないだろう。

簡単に分析してみせよう。みなは知っているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めると、必ず瑞相を生じる。もし、意識の能力に頼っているなら、相互が二千キロ余りも離れた状況で、リンチェンドルジェ・リンポチェが亡者の頭頂に穴を打つことがどうしてできるだろうか?それは不可能だ。意識の範囲には限界がある。肉眼で見られるのは、どんなに遠くても二キロほどだ。耳で聞ける音にも限界がある。レーダーがサポートしたとしても、限界があるものだ。どんな力量があって、ポワ法はそれほど遠く離れており、遺体の傍らで修法しているのではない状況において、作用を生じることができるのか?これこそ心の作用なのだ。心のエネルギーは無限大で、無辺無際である。学仏人が慈悲心を通じて行えば、どんなことでも為し得るのだ。

仏は慈悲の意味について仰ったことはなく、慈悲心、菩提心、懺悔心について語られたが、懺悔哭や懺悔罵について触れられたこともない。どうして全て心についてなのか?本質的には真にこれが行えて、初めてエネルギーが生じるのもので、泣いているような調子で語ればそれが懺悔だというものではない。さんざんに泣き、涙を流すことが懺悔だというのではない。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェの面前で泣くが、みな全く懺悔していない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、その人がただ演技しているだけだとすぐに分かるので、放っておく。なぜならその人には本当の懺悔心がないからだ。人はどうすれば懺悔心を生じることができるのか?仏法の薰陶と学習を通してでなければ、自分のこの一生を救うことは決してできないと知った時、徹底的に懺悔心を生じるのだ。そなた達の懺悔は全て、自分が日々豊かに暮らすためである。これは懺悔ではなく、ただの謝罪だ。そなた達が日々豊かに暮らしたいと考えるのは、自分の肉体、意識、感覚、考え方のためで、心とは関係がなく、ただ自分の欲望を満たすために過ぎない。このような懺悔心は偽りである。

『一切の現象はすべて心から起きるのだ。心が作用を生じ、心が動いて、初めて現象があるのだ』ということを真に体得した時、もし心が動かなければ、いかなる事もそなたに作用を及ぼすことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェにおいては、尊勝なる直貢チェ・ツァン法王に皈依した後、チベット人でなく、しかも非常にまじめで戒律の面では一切妥協しなかったため、極めて多くの事が発生した。もしリンチェンドルジェ・リンポチェの心が動いたなら、毎日キリがなかっただろう。そなた達は『自分の日常は苦しく、毎日非常に複雑だ』と思っているだろうが、リンポチェであるのも大変に複雑なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが個人的に複雑だ、というのではなく、たくさんの人に対処し、千二百人余りの弟子に対処しなければならないということだ。千二百人余りの弟子が伴ってくる人の数はその数倍で、教派内でも非常に多くの人がいるので、とても複雑なのだ。リンポチェとは普通の人が担える役割ではない。

当然、リンチェンドルジェ・リンポチェも快適に暮らすことができる。米国民としての身分を得て、数人の弟子を取り、供養を受け取り、のんびり暮らしている人もいる。それはその人の福報だ。けれども仏教は我々の宗旨ではない。いかにして法輪を回転させられるのか?祈禱文に頼るのではなく、一人一人の修行者が世間で押すことによるのである。衆生すべてに徹底的に仏法を理解させなければ、法輪が常転することはない。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが皆に授けたこの開示は、仏を学ぶことでは最も重要な開示であるが、皆にとっては最も難しく、最も分かり難いだろう。しかし、この部分がないなら、仏法はその意味を失ってしまう。仏法と他の宗教との違いもここにある。仏は皆と心について話し、情については話さないため、本当に心と心とが通じ合うのだ。心と心とが通じ合うとは男女間の恋愛感情のことではない。それは誤用だ。明らかに男性の心は女性の心よりいくらか大きいのに、どうして心と心とが通じ合えようか?」医師である弟子は「男性の心は確かに女性の心より大きい。体が大きい人の心も比較的大きい」と述べた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。「世間では心と心とが通じ合うというが、女性は男性に抑え付けられるのを好まない。けれども男性の心は明らかに女性の心よりいくらか大きいので、絕対に抑え付けてしまう。男性の心臓が通常女性より大きいのは、体力を使う仕事が多いためである。けれども女性の中にも心が比較的大きい人がいるが、それは必然ではない。なぜ人は非常に多くの事が行え、動物ができない非常に多くの事を考え付くのか?動物が行う事の中には、実は人類にはできない事もある。その差は心の作用にある。動物の心に対して作用する事が人類の心には作用しないのだ。

我々の心が動かなければ、周囲のあらゆる事に対して非常に敏感になる。これは反応が速いということではなく、はっきり見られるということである。なぜ我々は自分の周囲の事をはっきり見られないのか?他人に尋ねる必要さえあるのか?それは我々の心が動いているからである。なぜ心が動くのか?それは『貪、瞋、痴』等の五毒があるからだ。五毒に心が引き摺られ動くのだ。そのため自分の事について、自分の身体の状況についてさえ、理解していないのだ、周囲の人についてなど、言うまでもないことだ。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは亡者の考えと苦しさが分かるのか?なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェの心は動かないからだ。自分が今、亡者に修法しているとも思わず、自分がリンポチェであるとも思わず、自分が布施法を行っているとも思わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が法布施、無畏施等を行っているとは思わない。心が動かないので、周囲で発生するあらゆる事を体得できるのだ。

仏法では仏には五智あるといい、その内の一つは『大圓鏡智』である。考えてみよ。自分が鏡を覗き込めば、鏡には自分の姿が映るが、鏡の前を離れればその姿は消えてしまう。鏡はあらゆる現象を反射することができるが、鏡は変わらない。心について、おおよそこのように解釈することができるだろう。我々の心は鏡のようなものである。周囲の何らかの物や事を反射、反影するだけで、鏡そのものは大きくも小さくもなっていない。仮にソファーが大きくなったとしても、同じように鏡の中に見ることができる。それはどうしてだろうか?それは鏡が変化せず、我々の眼がそれを見て、映像全てがその中にあるように感じるからである。今日では、醜いものを見ようと美いものを見ようと、その人が醜かろうと美しかろうと、我々の経験法は目の神経に、映像が心に届いた、鏡に届いた、と教える。けれどもしこの鏡を動かさなければ、その実映像は存在しないのだ。

みな知っているだろう。魔鏡と呼ばれる凹凸のある鏡のことを。美しいものを映せば醜くなり、醜いものを映せば美しくなる。それは鏡が変動しているからだ。つまり、心が意識の影響を受けない、とは、鏡が変動しない、ということで、映像は存在せず、消えてしまい、少し動かすだけで過ぎ去ってしまう。苦しみと幸せはどうして現われるのか?それは心が意識に引き摺られているからで、鏡のきれいな面を破壊し、汚れを中に持ち込んでいるのだ。今日ははっきりと伝えよう。我々が一切は心の作用だと断定すれば、心の分析を通して、心には実体、形、色がないことに気づくだろう。我々の自身の心は、虚空と同じように清淨な法性であると断定することができるのだ。

虚空には非常にたくさんの星や太陽があるが、虚空は動くだろうか?動かない。夜空を見上げると星が動いているように見えるが、実は動いていない。たとえ星は移動していようとも、天空は動いていないのだ。昼間空を見上げると雲が流れているが、天空はやはり動いていない。天空に真っ黒な雲が満ちており青空を遮っていようと、雲が通り過ぎてしまえば、同じ青空が現われる。何も変わっていないのだ。すべては我々が自分の眼、耳、鼻、舌、身、意を通しているからで、心と意識との差を区別できないからである。心が意識に従い動くことで思想が生まれる。思想が生まれなければ、動作を生じることはなく、思想が生まれなければ、脳を動かすこともない。心が動かないなら脳も反応しないのだ。例えば、非常に集中し没頭して何かを行っている時には、傍で名前を呼ばれても反応しないだろう。誰にでもこんな経験があるものだ。だが、我々は物心ついてから、自分の名前ははっきりと脳裏に刻み付けているはずだ。医学的には、脳内に記憶されているなら、名前を呼ばれれば、脳細胞はすぐに反応するはずなのだ。

脳神経の反応はキーボードをたたく反応よりも素早い。医者もそれを認めている。なぜ、自分にとって最も身近な自分の名前を呼ばれてさえ聞こえないのか?それはその刹那、そなたの心が別の物事に集中しているからである。心が名前に対して作用を生じないので、脳も作用を生じず、つまり聞こえないのだ。何度名前を呼んでも反応しないと言って、皆しばしば父母に叱られるだろう。聞こえない振りをしている者もいるだろうが、何かに集中しているために、本当に聞こえない者もいるのだ。自分にとって最も身近な名前を呼ばれてさえ、なぜ反応しないのだろうか?それは、心が動いていないからで、そのため脳細胞が作用を生じないからである。仏に礼拝する時にいう『身』とは脳のことである。皆は、おかしいと感じるだろう。これは脳が身体全体の作用を支配しており、意識は身体を支配し、心は意識を支配しているからである。『心』こそ我々身体の『王』なので、仏経では『心王』という。

仏法を通して、心を降服させ不動とできれば、真に幸せな人生を送ることができ、快楽を追究し、苦痛を拒絶することはなくなる。なぜなら我々にとっては、『快楽も良し、苦痛も良し』であるので、天空をあちらこちらへと流れている雲も流れ去ってしまえば何もなくなり、そこに止まって動かないということはないのと同じようなものなのだ。雲を一箇所に集めて黒雲にすれば、太陽光を遮ってしまい、続いて雨が降り出すだろう。このよう人生は楽しいだろうか?そうしてはならない。なぜそなた達は苦しむのか?それは、常に雲が集まっているからで、自分で雲を集めるだけでは足りず、ワイドショーを見て、だれそれが浮気したなどの話を一日中聞いているからだ。もともと雲はそんなに厚くないのに、ワイドショーを見ている内に厚くなり、続いて雨が降り出す。そなた達はさんざんに泣き、盛大に激怒し、稲妻を光らせる。これらは全て自分で作り出したものだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったではないか。どんな事でも他人に執着しないと。少なくとも雲を集め続けてはならない。そなた達には、雲を集中させない能力があるのだ。雲はいつか必ず散っていく。どんな風が吹き散らすのか?世間の八風ではなく、智慧の風だ。『一切の現象はすべて空性であり、すべては心が作り出すのだ。取り上げることも手を放すこともできる』と明確に理解するのだ。世間には、どうしようもない事情でどうしても行わなければならない事が非常に多い。例えば、必ず食事しなければならず、寝なければならない。また、交際し結婚しなければならない。これらはどうしようもない事情で、自己の因縁により引き摺られる事だ。引き摺られるなら、良し悪しはどうあれ、いつか必ずそなたを引き摺ることはできなくなり、そなたは自分で歩まなければならなくなるだろう。業力、縁が我々を引き摺る時には、さらにしっかり仏を学ばなければならない。そうすることによって、いつか必ず、自分が彼らを引き摺るように変えるのだ。

当然これには時間が必要だ。一年、二年、三年、四年、五年でできるというものではない。先ほど話した遅到した弟子は、皈依して何年にもなるのに、未だにそんな調子だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが数日前に約束した時間にさえ遅到するのだ。彼女は途中で別の事を行い、上師を重視しておらず、道場の事は自分とは無関係で、組の代表が行けば良い、と考えているので、自分が二~三分遅れたとしても リンチェンドルジェ・リンポチェはどうということもないと考え、そしてこのような心持ちで仏を学んでいるのだ。このような心持ちで仏を学んでいて、どうしてしっかり学ぶことができようか?できるはずがない。

いわゆる清淨法身を明確に知った時、清淨法身をあまりに玄妙に語ってはならない。目に見えず、触れらず、この一生では体得できないものである、と思ってはならない。実は我々は皆持っているのだ。ただどんなものなのか感じられないだけだ。誰でも海辺へ行ったことがあるだろう。海辺で空と海とを目にした時、突然、あらゆる煩悩が消えてしまうような気持ちになったことだろう。海で釣りをする人、海辺で恋を語る人、カニを捕まえる人もいるだろうが、これは別に論じなければならない。だれでもこんな経験があるだろう。大海を前にして、煩悩などないと突然感じる。これこそ法性が顕露した剎那なのだ。

なぜそうなるのか?それは、人はやはり周囲の環境の影響を受けるからである。あるものが空であり、いかなる雑物もないと分かった時、心中の雑物も動かなくなるため、その剎那に法性が顕露するのだ。非常に短い時間、本当に煩悩がない、と自分だけが分かる。非常に心地良く感じ、もう一度来たいと思うが、もう一度来たとしても、同じように感じることはできない。同じ場所、同じ時間であっても、絕対に同じ感覚を得ることはできないのだ。意図的に行えば、それは作り物になってしまい、それは清淨ではなく、法性も顕露しない。リンチェンドルジェ・リンポチェが今日こう言ったといって、明日みな揃って海辺へ行くようなことがあってはならない。それは作り物で、雑念がある。それでは清淨な法性は顕露しない。

これまで数回の法会において、リンチェンドルジェ・リンポチェは、イスの足を蹴ってしまった瞬間に縁起性空を悟ったと開示した。これは作り物ではなく、突然万念が滅し法性が顕露し、あっという間に入ることができたのだ。これは福徳資糧が充分でなければ為しえないことである。現在みなが行っているすべては、自己の福徳資糧を累積するためである。上師と仏菩薩は、皆が福徳資糧を累積できるよう、絶えずサポートしている。資糧が充分であれば、非常にスピーディだ。いつ充分になるのか?ちょっと行い、ちょっと拝めばいい、というものではない。いつになったら充分になるのだ、などと尋ねるものでもない。時間が来れば自然に充分になるものなのだ。『時間が来れば』とは、『自分で感じればそれだ』というものではなく、やはり上師に報告しなければならない。けれどもリンチェンドルジェ・リンポチェは、今後二年以内には『自分は壁を蹴った。グラスを割った』などと報告に来ないよう、皆に勧める。そなた達はまだそのような段階ではない。そんなことをしても、叱られるだけだろう。もし、そのような段階に至ったならば、リンチェンドルジェ・リンポチェからそなた達に伝えよう。

『生じる現象のすべては、我々が意識を心の作用とするために、心を起動するものだ』とはっきりと自分に言い聞かせなければならない。『食事、睡眠、好悪はすべて意識の作用で、すべて外在の一切の感覚を吸収したものだ』と理解しなければならない。これは『このようにする必要はない』と言っているのではない。身体がある限りやはり必要なのである。仏を学ぶ困難もここにある。この動作が心であるか意識であるか、をいかにして判断するのか。それには、上師の絶え間ない教導を受けるしかないのだ。弟子の一挙一動に、上師は注意している。故意に遅到した弟子は、意識が作用し、真心で上師の話を聞いていなかったのだ。真心で上師の話を聞いていたなら、自身の個人的な事を処理してから会議に参加する、というようなことにはならなかっただろう。

もしリンチェンドルジェ・リンポチェが先に彼女に『遅到してはならない。さもなくば、一億の価値がある契約が流れてしまう』と伝えていたなら、個人的な事など一切行わなかっただろう。なぜなら金銭は重要だと真心で考えるからだ。けれどもリンチェンドルジェ・リンポチェが会議を開くと指示すると、きっと良い事はないだろうと考え、先に私用を処理し、それでも充分に時間があると考えている。リンチェンドルジェ・リンポチェは時間に非常に正確で、時間になれば門を閉めてしまう、とまさか知らなかったのでもあるまい。人として時間を守る習慣を養わなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなたが何かについて責任を負える人だと信用することはない。物事に対して無責任な人は、人に対しても無責任だ。遅刻する習慣のある人は、果報が訪れた時に上師に頼ろうとしても、上師も遅到し、さらには上師が見つからないこともあるだろう。信じるも自由、信じないも自由だ。けれどもこのような事は間違いなく非常にたくさん発生しているのだ。

経典では『意識が心を離れず、心を操縦するため、善、悪の二種の因が生じる、ということを理解しなければならない』という。けれども、心が動いたことで善と悪とが生じたと理解すれば、『増長善行、断除悪業』の考え方から離れることができる。この言葉はそなた達が行うのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に『増長善行、断除悪業する必要はない、と言った』などと、間違っても言ってはならない。この言葉はそなた達に聞かせるためでも、そなた達が行うものでもない。『業を携えて淨土に往生することはできない』としばしば言われるが、それは善業と悪業を指しており、心中に考えがありさえすれば、善の行為を増長し、悪業を断除する、ということで、このような人は決して仏果できない。迴向は自己の功徳を拡大するものだと思っている人が多いが、これはただ方便に過ぎず、その真の意味は『迴向を通して、自分のかつての行善、断悪に執着させないようにし、第八意識田に善業、悪業の種子が完全にない状態とし、この種子がないことで、二度と再び輪迴することはなくなる』ということである。我々がこの一生で断つべきなのは、つまりこの種子なのだ。

これはそなた達が為せることではないが、言わないわけにはいかない。なぜならこれが仏法の最高の段階だからだ。大手印の段階で『離戲瑜伽』まで証するには、善悪の分を『戯(作り事)』のように考えなければならないが、そなた達は『離戲瑜伽』まで証していないので、このような考えを決して持ってはならない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ大師の教法を開示したので、伝えない訳にはいかなかったが、それは、そなた達が為せるということではなく、そなた達に今、これを言い訳とさせる、という訳でもない。リンチェンドルジェ・リンポチェが、そなた達には不要だと言った、などと決して言ってはならない。それでは、都合のよい一部分だけの理解である。なぜなら、これまでに三つ教授しており、今日の教授は四つ目だからだ。そなた達は一つ目の教授さえ為せないのに、四つ目のことなど言うまでもないことだ。よってリンチェンドルジェ・リンポチェがこう言ったなどと言ってはならない。

経典では『この種の考え方を断つことができれば果位に苦楽が顕現する。心中で、区別がないということをはっきり理解し、つまり分別がなくなって初めて、菩薩と呼ぶことができる』と言う。心中に快楽と悪善の分別をなお持っている人は、菩薩と呼ばれることは絶対にない。心を理解したなら、心には実体、色、形がなく、虚空のようなものだ、とはっきり分かり、断除痛苦の考えから離れ、安楽を成すという考えから離れることができるはずだからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかねてから、非常に多くの修行人に、『安楽を求めたい』と思ってはならない、と勧めてきた。これまで リンチェンドルジェ・リンポチェは経典のこの部分を実際に見たことがなかったが、今日初めて目にすることができた。なぜなら大乗仏法を修める菩薩にとって、自身の幸せと苦しみとはすべて空性だからだ。

自身の幸せと苦しみとに執着する人は、絕対に淨土へ行くことはできない。なぜならなお心残りがあるからだ。皆は、自分は念仏において力不足だ、としばしば言う。そなた達は、念仏がうまければ必ず淨土に往生できる、と考えているからだ。けれども仏経では、このようには言わない。ただ『発願し、菩提心を発し、福徳因縁が充分な善男子善女人は阿弥陀仏国土に生まれ変わることができる』と言うが、それでも必ずではない。『阿弥陀経』中で仏は『この五濁悪世では、これは信じることが難しい法だ』と仰せになる。なぜ信じることが難しいのか?先ほど言った通りだ。そなた達はなかなか信じない。学仏は良いことだと、はっきり分かっているのに、なぜこの考えを持ち去るのか?そなた達にこの考えがあれば、念仏の心は二個に分かれ、一心念仏ではなくなる。一心念仏とは阿弥陀仏を常に念じ続けることだと、考えている人が非常に多いが、それは正しくない。一心念仏とは、考えの中に何もなく、阿弥陀仏だけがある、ということである。自分は行けるだろうか、というような考えでさえ持つことはできない。こうしなければ一心念仏を為すことはできず、福徳因縁が充分な善男子善女人が往生を発願することはできない。

皆しっかりせよ。これ以上ぼんやりし続けてはならない。また、阿弥陀仏は報身か応身で迎えに来てくださるのか、と繰り返し尋ねるものではない。念じるのだ。『阿弥陀経』でいう条件(福徳因縁を備える善男子善女人であるなら、発願すれば必ず叶う)を成し遂げることができれば、報身であろうと応身であろうと、迎えが死の前であろうと死の数日後であろうと、それは重要ではない。ただ、このような考えがあるなら、それは心残りがあるということで、それでは阿弥陀仏国土へ行くことはできない。考えが純でなければ、それは雑で、阿弥陀仏と相応することはできないのだ。これは浄土を修める際の最も重要な法門である。なぜ皆に菩提心を発するよう勧めるのか?それは、菩提心を発した人には自己がなく、自己がないなら、自己の苦しみも幸せもすべて自然に捨てることができるからだ。

『四無量心』でいう『愛憎住平等捨(差別を捨てて 、執着・怒りも離れたる平等心に安んぜよ)』とは、『愛しているもの、憎んでいるものをすべて平等に捨てる』ということである。どうすればできるのか?それは今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示の通りに実践すれば良いのだ。顕教の方法に頼るだけでは足りないが、そなた達は密教を学べる段階でもない。よって、よく言いつけを守り、リンチェンドルジェ・リンポチェと論争してはならない。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェの口から出るのは、釈迦牟尼仏と直貢噶舉の法であり、リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したものではないのだからだ。

経典では『結論としては、因の面で取捨の念がないなら、果の面でも希望や期待の考え方はない』という。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて仏を学んで以来、自分がいつかリンポチェになれるなどと考えたこともない、と。つまりはそういう事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達とは違って、仏を学ぶことによって何か良いことがあるなどとは考えたこともない。考える必要はなく、尋ねる必要はなく、求める必要もない。いわゆる信じるとは、『信じている』と簡単に言うことではなく、『仏の功徳力が必ず我々を救ってくださる』と信じることなのだ。

仏の智慧功徳力が因果法則の内で我々を救ってくださらないことがあろうか?さらに言えば、この因がなければ、どうしてこの果を得ることができようか?何も心配する必要はない。欲望を満たすことができないとしても、それは仏を学んでいないということではない。仏は、淨土に往生したい、健康になりたいなどを含む我々の細々した欲望を満たすのではない。これらはすべて欲望だ。仏教経典でいう条件を満たすことさえできれば、一心不乱に念仏し、念天し、念上師し、念衆生しさえすれば、行くことができるのだ。念とは一日中口で念じることではなく、考えることだ。

経典では『一切の思想憂慮を遠ざけなければ、地に足を着けて実修することはできない』という。毎日木魚を打ち、鐘をつくことが実修だなどと考えてはならない。いわゆる実修とは、仏が仰せになる道理に着実に行い、自分が植えつけた種以上の因に伴う果報を幻想しないことである。この因を植えつけていないなら、どうしてこの果を得ることができようか?つまり地に足を着け、まじめに着実に行い、手練手管を用いず頭を働かせずにいれば、諸仏菩薩、護法は自然に守ってくださり、我々を連れて行ってくださるのだ。仏を学ぶのは困難ではない。困難は、皆が、自分は特別だと思うためだ。自分は仏法を体得し始めたと思うためだ。法会の前に懺悔した弟子のように、自分は何か偉いと思っているためだ。誰も彼も本当の事のように話すではないか。今日のリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いて、皆恐ろしくなっただろう!

仏を学ぶこととは本来、自由な事のはずなのだ。プレッシャーもなく、仏を学んだことで、そなたの人生に何らかの不便や苦しみをもたらすものであるはずもない。もし、家族を用いてごまかし、そのため仏法の教えを為すことができないと言うなら、その罪は非常に重い。なぜ非常に重いのか?それは、そなたが別の衆生のために仏を誹謗しているからだ。間抜けな人なら、『そうだ!夫が学仏の妨げになっている。一生懸命念じて彼に迴向しなさい。しっかり懺悔し、もっとたくさん点灯しなさい!』と言うだろう。そなた自身が障礙であるのは明らかなのに。仏法に対して信心があり、上師に対して信心があるなら、誰がそなたの道を妨げることができようか?そなたは毎日出勤のために家を出る。もし妻が、外出してはならないと言うなら、そなたは必ず『だれがお前を養ってやってると思ってるんだ?』と言うだろう。なぜ仏を学んでいることを言えないのか?なぜ、『それなら誰があなたに構ってくれる?私の仏を学ぶことを妨げるなら、その時になって誰があなたに構ってくれるだろう?』と言わないのか。けれどもそなた達はみな口に出すことができないばかりか、自分は妻に申し訳ないことをしている、という。これこそ利己的な考えだ。

誰もが他人を盾にしようとする。これこそ悪だ。自分がやりたくないなら、上師に、やりたくない、と言うべきなのだ。あの遅到してきた弟子は、明らかに自分が来たくなかっただけなのに、自分は母の用事を済ましていた、道が渋滞していた、という。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が高雄から車で来たのかと思ったほどだ!これは、彼女が上師を重視していないことを示している。誰もが信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェが、『不共四加行』であればそれで良い、と伝えたと思っており、『不共四加行』を修めれば、本性が現われるということを知らない。恭敬とは毎日上師に頂礼することではなく、上師に対して少しでも不恭敬であれば、すぐに何かが起こるということだ。心に種があるので、物事はすぐに発生するのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはわざとそなた達を困らせているのではない。たくさんの人がこっそり何かを行っている。天も知らず、地も知らず、知っているのは自分だけだと思っているだろうが、そうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの時計は非常に正確だ。もしかしたら、あの遅到した弟子の時計は狂っていたのかもしれない。

今日 リンチェンドルジェ・リンポチェは、ガムポパ大師の因果に関する教授から密法の最後までを開示した。それは、仏法の面であろうと、人生の面であろうと、我々にとって大変役立つものである。どのような法を修めようと、どのような経典を念じようと、必ずすべては衆生に利益できるのだ。当然、我々の目的は、生死を解脱し衆生に利益することだが、生死解脱の目的は、自分が輪迴の苦しみを逃れるためではなく、仏法の修行でさらに前進し、広大虚空中の衆生に利益するためである。わずか数十億の人類は、宇宙では小さな集団だが、六道で苦しんでいる衆生は数え切れないほどなのだ。仏と法身菩薩の能力がなければ、虚空中の衆生をすべて済度させると大口を叩いても、それは自分を欺いているに過ぎず、絕対に為すことはできない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、なぜ皆に、生死を解脱し、輪迴せず淨土で修行するよう決心せよ、と勧めるのか?それは我々は衆生、上師、仏菩薩の恩に借りがあるからである。恩返しするには、少しの供養を行えばよいというものではなく、一切の諸仏を助け、宇宙において仏の法輪を絶えず回し続けなければならないからだ。地球上の人道に限って考えてはならない。宇宙には非常に多くの人類がいるのだ。地球だけでなく、たくさんの衆生が仏法を必要としている。そなたのこの一生が別の場所とは因縁がないとしても、発願し、生死解脱を決心しさえすれば、諸仏菩薩は願が成熟するよう助けてくださるだろう。もちろんこれは絕対に一生一世の事ではないが、決心しさえすれば、必ず成し遂げることができるのだ。

仏経では『たくさんの仏菩薩が過去に発した願は、非常に長い時間を経ている。阿弥陀仏が四十八願を思考なさるために、五劫の時間を費やしたように』としばしば言う。五劫はとてつもなく長い時間である。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェはある出家衆が『阿弥陀仏の四十八願に、自分はさらに二つの願を加えたい』と言うのを聞いて、目眩で倒れそうになった。阿弥陀仏でさえ法身菩薩になる必要があるのだ。上師の指示の下、すべての仏の淨土へ行き、一切の仏を参拝し、すべての仏の願力を理解した後になって初めて自己の願力を思うべきである。阿弥陀仏の四十八願の由来もそうなのだ。空から突然湧いてきたものではない。これは仏経で言うのであり、リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したものではない。観世音菩薩の傍らの童子だと自称する者が現れたり、前世において釈迦牟尼仏と縁があったと自称する者が現れたりしたなら、ただ聞き流しておけば良い。

いかなる菩薩であろうと、その出現には、必ず脈絡があるのであり、石の中から突然飛び出してくるようなものでは絶対にない。この一生が再び出現したとしても、仏法の学習を通してでなければ、仏法を弘揚することはできず、『自分は誰それを見た、というだけで良い』というものではない。特に、ある宗派だとの自称には、注意した方が良いだろう。仏経では宗派について触れていない。宗派の『宗』は『粽(ちまき)』と発音が似ているが、粽と大差ないのだ。ある人が非常に優れているとして、盲目的に信じてはならない。その人が優れているのは、その人自身の事だ。仏経では『幻師』に触れている。これは現代のマジシャンではない。古代のマジシャンは本当に物を動かすことができたのだ。現在でもおり、他の宗教でもいるが、それでその人がそなた達が生死を解脱するよう手助けし、仏法を教導してくれるとは限らない。

よって、我々の眼を眩ます現象を盲目的に信じてはならない。注意深く観察し、耳に入ったことをすぐに真実だと考えてはならない。真に心で注意深く体得し、しっかり見て、しっかり聞くようにしなければならない。頭の中を整理し、また自分の欲望のために、上師が自分の欲望を叶えてくれるなどと考えてはならない。上師がどうしてそなた達の欲望を叶えてやるだろうか?仮に叶えてやったとしても、それは一時的なものだ。そなたが非常に苦しんでいるなら、その苦しみを少し軽くしてはやるだろう。それは、そなたの心を静め、落ち着いて仏法を聞けるようにするためで、そなたの欲望を満たすためではない。これらの事について皆はっきり理解しなければならない。はっきり理解すれば、仏を学ぶことはとても楽しい事となり、上師に『妻に借りができた』などと言うこともなくなるだろう。そなたが妻に借りがないなら、どうして彼女と結婚しただろうか?つまり、これは決して理由にはならないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェも結婚したことがある。返すべきは返し、完済したのだからそれで良いのだ。いつまでもあれこれ言ってどうするのか?

それなら、いわゆる『来世夫婦』とはなんだろうか?これは実は偽りである。この一世で夫婦になったのは、そなたが彼女に借りがあるのでなければ、彼女がそなたに借りがあるので、二人が一緒になり完済すればそれで良いのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは離婚を勧めているのではない。誤解しないで欲しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは『借りを返したら離婚せよ』などとは決して言っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはただ、家族を理由にして上師を騙せば、そなた自身と家族にとって良くないと言っているのだ。それでは悪の因を植えつけてしまう。自分の理由で解釈しても良いが、家族を持ち出してはならない。これは、間違いなく心に刻むように。『寶積経』では『自分の家族と部下を脅迫してはならない。彼らの金で供養、布施してはならない』と言う。もし、そなたが他人に『この功徳を為せば非常に良い。今為さなければ、今後機会はなくなる』と言えば、これも脅迫だ。

供養布施は、自分の能力の範囲内で行うのだ。先ずは投資して、金を儲けたら供養しようと考えている人がいる。先ず供養しようとは考えていないが、上師に供養すれば、その後は必ず良くなるとは考え付きもしない。人はみな非常に現実的だ。投資したなら、すぐに儲けたいと考えているが、そんな事などありはしない。投資で失敗しすっからかんになり、さらに叱られるようなバカなことをしてはならない。供養すれば少なくともありがとうの一言は得られるのだ。投資で失敗すれば、他人は『あなたは運が良くない』と言うだろう。これは全く愚かなやり方だ。

法会が圓満に終了し、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な仏法の開示と教導に感謝し、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお見送りした。

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2014 年 10 月 20 日 更新