尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年11月3日

法会開始に先立ち、一人の年長の出家弟子が、感謝し懺悔する機会をお与えくださったことを、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにお礼申し上げた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが食住をお授けくださるおかげで、宿舍で心静かに仏を学んで修行することができることを感謝し、またお世話になっている同居の兄弟子達にも感謝した。

彼女はこれまで二度転んだことがある。一度目は日本の道場で法会に参加した時で、その際には左手を骨折した。もう一回は最近のことで、晚課後に宿舎に戻った折、入口の階段を上る時に右手を骨折した。二度とも深刻な状態だったにもかかわらず、手術の苦しみを免れられたのは、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの庇蔭と加持のおかげと、わたしは心から感謝申し上げている。

転んだ後に起き上がり、エレベーターで六階の宿舍まで戻った時、右手は腫れて痛み出していた。兄弟子の付き添いの下、救急へ行き、レントゲンを撮った時には既に夜の11時だった。医師はレントゲン写真を見た後『骨折です』といい、翌日(土曜日)は手術室の予約がいっぱいなので、朝七時に石膏ギブスの処置をするよう救急室の看護師にいった。わたしは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のおかげで苦しい手術を受けずに済んだことに感謝申し上げ、兄弟子達が心配して駆けつけてくださったことを有り難く思った。ギブスを装着していた五週間あまり、兄弟子達は入浴などを含む生活の全てで世話をして下さった。心から感謝申し上げたい。

月曜日を待って、寶吉祥漢方診療所へ行き、レントゲン写真を見せたところ、骨折との診断で漢方薬を処方された。わたしは金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと漢方診療所の医療スタッフの心を込めた看護に感謝申し上げたい。金曜日朝に病院で診察を受けた際、三週間後には上半分の石膏を取り外し、その二週間後にはすべて取ってもよいといわれたため、『こんなにも短い期間で治癒するとは』と、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に深く感謝した。

土曜日道場でリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を伝え申し上げると、リンチェンドルジェ・リンポチェは『転んだ時、なぜ組長に電話しなかったのか?なぜ直ちに病院や漢方医に掛からなかったのか?』と心を配ってくださった。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示に従い、漢方医に通院し漢方軟膏を塗布していたおかげで、傷は思いがけず早く治癒した。リンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝申し上げる!」

彼女はこの機会に発露懺悔したいといい、「佛を学ぶまで、わたしは鶏手羽先を好んで食べていたため、手を骨折するという果報が巡ってきたのだ。自分の口と腹の欲を満たすため、衆生を傷つけるべきではなかった」と懺悔した。彼女はさらにこれまで為したすべての悪業と傷つけてきた無数の衆生に懺悔し、衆生がみな尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受け、輪迴苦海を逃れられることを願った。早課と晚課の際しばしば居眠りしてしまい、真言に集中していないことを、彼女はさらに懺悔し、「それは決してあってはならないことであり、改めるよう努力し、集中して真言を唱えるべきと深く自分を戒めている。出家兄弟子が、真言を唱える時には一心にリンチェンドルジェ・リンポチェの法照を拝見するようご指導くださったが、教えの通りに行ったところ、二度と再び居眠りすることはなくなった」と感謝した。最後に彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、直貢噶舉派の法脈が永遠に流伝し、一切の有情に利益できることを祈った。

続いて二人目の弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが上師の大威徳力と慈悲力を讃える機会、佛と無二無別の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女と家人をお救いくださったあらましについて語る機会をお与えくださったことに感謝した。

「2002年、当時まだ香港在住だったわたしは、突然台北からの電話を受け、母に舌癌が発見され手術の可能性について検討中であることを知った。また、母は弟の友人を通じて、寶吉祥の弟子の紹介を受け、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する機会を得、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い開示と加持を頂戴することができたということだった。

半月余りの検查と検討の末、弟と友人達は母にできるだけ早く手術を受けるよう勧めた。当時母は非常に苦しみ悩んでいたが、友人達の強い勧めで手術を受けることについに同意した。手術を前にし、母と弟は再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁したところ、リンチェンドルジェ・リンポチェは『なぜ何から何まで医者に押し付けるのか?手術をすれば必ず良くなると医者は保証できるのか?』と弟を叱責し、『医者にはっきり聞くように。また、あらゆる医療介護について準備しなければならない』と言い含められ、そして非常なる慈悲を込めて母を加持くださったということだった。

母が手術の準備を進めている頃、母の世話をするため、わたしは台北へ戻り、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲深く開示くださり、『母の手術がうまくいくよう助けよう』と仰せくださった。また、施身法法会への参加にもご同意くださった。母の手術は非常に順調で回復も早く、その後の検査でもリンパ節への転移が見られなかった。わたしはこれらはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持と救護のおかげであると分かっていたので、尊き金剛上師  リンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝した。

結婚後、彼女は夫に従い香港に居住することとなった。最初は言葉がまったく通じず苦労したが、徐々に環境に適応していき、それでも専業主婦としての十数年間、生活のほとんどは夫と二人の子供がすべてだった。香港では友人ができず、さらに高齢出産と前置胎盤が原因で、二人目の子供は早産となり、子供の世話に心身ともに掛かり切りの状態となった。それが心と身体を疲労させ、徐々にうつ病に似た症状を来たすようになり、ホームシックがどんどんひどくなっていった。折悪しく夫の仕事も困難に陥り、それらが香港を離れたいという気持ちを極度に強くしていったが、夫の同意を得ることはできなかった。

2004年には台湾で春節を迎えることができたので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁したところ、リンチェンドルジェ・リンポチェはわたしの話を聞き、『再来年帰国の機会があるだろう』と仰せになった。当時はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞き、いくらか失望したが、台湾に戻りたいという強い思いを、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずご存知であるとわたしは分かっていた。その日は勇気を出して金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依を願い出た。リンチェンドルジェ・リンポチェは『それなら申込むがよい!』と慈悲深く仰せくださったので、『でもわたしは台湾に住んでいません。どうしたらいいでしょうか?』と答えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って、『大丈夫。先ずは申込むように』と仰せになった。それでその日皈依を申し込み、佛珠と『懺悔』、『快楽と痛苦』の二つの仏法テープを求めて香港へ持って帰った。

わたしはそうしたところで、いつも通りの日々が過ぎ、悩みも変わらないだろうと思っていたが、香港へ帰って半月あまり後のある日、夜中に突然の発熱に襲われひどく苦しくなった。まるで溜まりに溜まっていた心身の疲れが一気に噴き出したようだったが、それを悟った夫は、夏休みを待ち、家族全員で台湾へ転居することについに同意した。その刹那、あたかも溺れた人が浮いていた流木をひしと掴んだように、わたしの人生には新たな希望の光が射し込んで来た。わたしは、これらはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持と救いの賜物であると気付き、新たな人生をお与えくださったことに深く感謝した。そして2004年8月11日無事に故鄉に戻ることができ、8月22日にちょうど開催された皈依法会において、因縁を得て皈依し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い佛法を学ぶことができるようになった。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば『佛を学べば衣食住に窮することはない』と弟子達に仰せになる。ここ数年来、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深い加持と庇護の下、職場を離れて十年以上になり、限られた人間関係の中に閉じこもっていたに等しく、自分の意見をはっきり話すことさえできなかった専業主婦のわたしも、一步一步新たに社会へと足を踏み出し、人とコミュニケーションを取ることを学び、さらには仕事に復帰することさえできたのだ。これらすべては尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから賜ったものであるとご恩に深く感謝している。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはよく「人生は無常である」、「因果を信じなければならない」と弟子達をお諌めくださり、ご自身の人生経験をお示しの上、「懺悔心と慈悲心であらゆる事を受け入れ、対処することが必要である」とお教えくださる。またかつて「学佛は意気盛んな君子の行為である」、「恐れることはない。上師を信じれば何も恐れることはないのだ」、「病の苦しみ、悩み、挫折にぶつかった時こそ負債を返す時であり、実は喜ぶべきなのだ」、「縁に従い生き、すべてを受け入れよ」等と開示されたことがあり、これらはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子達をお導きくださる極めて貴重な処世箴言であり、日々を送るための生きる姿勢である。

そのため、2008年初め甲状腺亢進症と診断された時も、2011年施身法法会の夜に空き巣に入られた時も、2012年階段から転げ落ち負傷した時も、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示くださったお言葉が、心を安定させる力と無辺の加持力になり、これらを平常心で受け止め、速やかに日常生活と仕事に戻ることができた。リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば『安穩たる日々は福に浸るためにあるのではない。我々に時間を与えるためにあるのだ。学佛の障礙を減らし、心を落ち着けて学佛できるようにするためなのだ』と仰せになる。またいつでも『しっかり記憶せよ。気を緩めてはならない』と気づかせてくださる。根気よくお教えを説き聞かせてくださる金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに深く感謝申し上げる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達すべてを宝物のように大切にしてくださり、弟子と家族だけでなく、身近にいる友人や有縁の衆生までをも守ってくださる。わたし達一人一人の命はリンチェンドルジェ・リンポチェがお救いくださったものであり、リンチェンドルジェ・リンポチェがお授けくださったものだ。この世の中のどんな言葉もどんな文章も、わたしの感謝の思いの千万分の一ですら形にすることはできないのだから、ご恩返しなどとてもできるものではない。ただ、できるだけ自分自身を律し、上師の言葉に従い、上師のお教えに直ちに従い、上師に心配を掛けないようにしようと願うばかりである。そうすることで、より多くの苦しんでいる衆生を助け、より多くの衆生が輪迴の苦海から解脱する機会を得られるよう、より多くの時間と因縁を費やすことがおできになるだろう。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば「信はすべての功徳の本である」と開示になり、絶えず言葉と行いで、上師を信じ、上師を敬い、常に上師を憶念するようお導きくださる。なぜならこれらはすべて学佛の根本であるからだ。また毎日床に就く前に自身の身、口、意等の行為に過った点がなかったか振り返り、あったならすぐに改めるようお教えくださる。けれども、今に至るもこの一点をまだ確実にできていないことに慙愧を感じる」と彼女は懺悔した。

リンチェンドルジェ・リンポチェはしばしば弟子に「あらゆる過ちはすべて自身の過ちだ」と開示くださり、常に自己を振り返るよう気づかせてくださる。衆生は皆佛性を持つため、佛弟子は「平等心」、「無分別心」を以て一人一人の有情衆生に対するよう学ばなければならないからである。点灯、焚香、礼佛、法会への参加はすべては法界の一切衆生に代わり行っているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェのあらゆる教法は、弟子達にどうすれば生死と輪迴を解脱できるかを教えるものである。このような殊勝な教法は、尊勝なる直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェのために書かれた長寿祈請文中でいう『類稀なる貴重な勝利者の教法であり、悲心を以て舞えば威力は瑞である』の如く、特に末法時代のこの世界ではこの上もなく貴重である。このように殊勝な教法を直に受けることができるとは、わたしは何と幸せ者であろうか。この生で有り難くも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い佛法を学ぶことができるとは。この貴重な因縁をしっかりと生かしていかなければならない!

今年7月、好運なことに、わたしは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従いインド・ラダックへ赴き、殊勝な喜金剛佛寺開光と千手千眼観音灌頂法会に参加することができた。この旅では、リンチェンドルジェ・リンポチェという佛と無二無別の大修行者の各種度衆の事蹟と瑞相をこの目で確かめることができ、より強い信心が芽生えることとなった。さらに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが常に衆生に御心をお寄せになり、いつ何時も衆生をお助けになる大慈悲と、教派のための無我の奉献と全力での護持を目にし、非常に感激した。

大智慧の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、どのように人と接し物事を処理するか、どのように父母に孝行を尽くし子女を教育するかをお教えくださるだけでなく、どうすれば佛法を日常生活に生かしていけるか、輪迴に結びついてしまう自分の行為をいかにして改めるかをも敎導くださる。「自己を改める」のは宇宙で最も難しい作業に他ならない!リンチェンドルジェ・リンポチェの嘲笑も叱責もすべては佛法なのだ。上師のあらゆる言葉も行いもそれらはすべて、弟子達がそれによって学び、その通りに行えるよう、弟子達に示すためなのだ。弟子達は実は言われたことに従い、そのまま行えばいいだけなのだ!「教えのままに行う」ということなのだ!尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでもどこでも、いついかなる時にも弟子と有縁の衆生を加持し庇護くださり、佛光のように常に衆生を普照してくださるのだ。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて『地藏經』を開示なさり、『、凡夫が心を動かし思いを起こせば、其れは皆業であり、罪である』と仰せになった。ここでわたしは、心中にかつて抱いた各種の悪念を懺悔したい。生生世世以来、有意に無意に傷つけてきた衆生、及びあらゆる貪、嗔、痴、慢、疑、両舌、偷盗、我慢、利己的な振る舞い、傲慢という各種悪行悪業について最大限の懺悔をしたい。

「人身は得難く、仏法は聴聞し難く、上師とは邂逅し難しいだ」という。わたしは佛と無二無別の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依する好運を得たのだ。これはこの一世で千載一遇の機会である。この機会を逃せば、次はどの世で巡ってくるかも分からないのだから、わたしはリンチェンドルジェ・リンポチェの歩みにぴったりと付き従い、教えを実践し、最大の恭敬心、懺悔心、慈悲心を以て佛法の学習に励み、輪迴を解脱しようと決心している!尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、佛法事業が隆盛で圓満となり、一切の有情衆生に利益でき、直貢噶舉派の法脈が永遠に流伝するよう祈願申し上げると彼女は最後に述べた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られ、参会者に貴重な佛法の開示をくださった。

「今日はガムポパ大師が教授なさった因果串修の心持ちと方法について開示を続ける。前回開示した二つの教授は、一般の信衆と一般人にも比較的容易に理解できるだろうが、実践できる人は一握りに過ぎない。すべての悪を断つ。これができる人はほとんどいない。また、自分に都合がいい理由をさまざまに見つけてくる人もいる。

衆生の肉を金儲けの手段とする人がいるが、それを、自分の行為ではない、夫の行為だと思っている人がいる。けれども、夫がそれを行わなければ、家族を養えず、家族は野垂れ死んでしまうかもしれない。稼いだ金が悪業に関わっていて、その金を使ったなら、『お金はもらっていない』といったところで、夫婦が一緒に暮らしていて、夫の金を全く使わないということなどあろうか?例えば、夫が住宅ローンを払っていて、その家に住んでいるなら、それは夫の金を使ったということになる。夫がローンを支払い、自分は電気料金を納めたなら、それも夫の金を使ったことになる。

因果を信じない人は大勢いる。自分はいつも大礼拝を行っているので、悪事を為さないよう夫を悟らせることができると思っている人もいる。どこにそんなに簡単な事があろうか?諸仏菩薩であっても衆生の行悪の心を変えるには、多くの世を経る必要があるというのに。直ちに悪を断たないなら、拝佛し法会に参加しても、物事を転換できるなど考えられないことである。因果は必ずある。先ほど前に出て話した弟子は、出家して菜食し教えに従い暮らし、今では行悪の機会などないのに、なぜ二回も転び手を骨折したのか?それは殺生について徹底的に懺悔しておらず、福報、智慧を徹底的に修行しておらず、自分は出家したので今後災難が降り掛かるこことはないと考えているからだ。実は、出家後にはあらゆる災難が押し寄せる可能性が高いのだ。なぜならこの生でそなたが立派に修行し去って行ってしまったなら、衆生はそなたをどこへ探しに行ったら良いのか?

この弟子は出家したおかげで、重い報いを受けたが軽く済んでいる。しかしやはり事件が起きたことには違いない。どんな事件だっただろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェの診療所は無料で治療を施したのに、彼女は『医者は良くしてくれた』というだけだった。これこそ感謝の心がないことを示している。感謝の心がない人には当然懺悔の心もない。なぜ分からないのか?それは徹底的に懺悔していないにも関わらず、自分には悪行がないと思っているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは何も施薬によってこの功を招く必要があるというのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは人知れず何年にもわたり善行を行ってきた。これまで為した善の多くをそなた達は知らない。彼女は出家衆でありながら、みなを代表して、衆生に上師の功徳を知らせることをしなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女を治療しないよう医師に、または彼女に構うなと診療所のスタッフに直ちに命じることもできるのだ。出家衆を無料で治療するよう、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに指示しているため、彼らは上師の願を満たそうとして彼女に良くするのだ。この弟子はそれが分かっていない。診療所のスタッフはリンチェンドルジェ・リンポチェの善の共業の一翼を担っている。出家衆であるなら、口にするもの、用いるものはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェのものだ。それなのに、どのように上師を讃えれば、自分に福報があるかを学んでいない」

その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に「そなたの手を加持したことがあるか?先ほどその事をいったか?」と尋ねられた。弟子は「いいました」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「この弟子はいわなかった」とおっしゃった。それに対してこの弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに言い返した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「この弟子は口ごたえをした。これは今後さらに何かが起きる可能性があることを示している。リンチェンドルジェ・リンポチェが誤まって責めたとしても、それがどうだというのか?彼女はつまり因果を信じていない。リンチェンドルジェ・リンポチェが『いわなかった』といったが、実際にはいっていたとしても、自分を少し抑えることがなんだというのか?彼女は六波羅蜜をさえ学んでいるのに、いったい何を修めているのか?因果を信じず、高慢である。自分は年をとっているから立派だとでも思っているのだろうか?もう一度いおう。彼女が食べているもの、使っているものはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェが与えたものだ。それなのにリンチェンドルジェ・リンポチェのほんの一言さえ受け入れられないというのか?

この弟子は先ほどまたも居眠りしていた。なぜ居眠りするのか?それは上師を尊重していないからで、彼女が老齢で体力がないからではない。三宝を尊重している人は居眠りなどしない。彼女の後に座っているもう一人の出家衆は、彼女より健康状態がひどく劣り、しかも癌を患っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で気分が悪いといったことなど一度もない。居眠りしたこの弟子はほんとうにお嬢さんのようで、自分の過ちが分からない。数名の出家衆の中で、彼女の後に座っている出家弟子と彼女とは年齢が近い。癌を患ってはいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの面前で苦情をいったことなどない。何を修めるのか?それこそ忍であり、三宝を信じることである。リンチェンドルジェ・リンポチェが叱責した居眠りした弟子は誰を信じているのか?ぼんやりして日々を過ごしているだけだ!しかも口ごたえまでする!もともとリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女について少し話すだけのつもりだったのに、彼女は言い返したのだ」その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェは他の出家弟子に、また骨折しないよう、この弟子に宿舍内で何もさせないようにと指示なさった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示を続けられた。「因果を信じない人は自分を甘やかす。身、口、意が動作を生じさえすれば、業力は出現する。善業であろうと悪業であろうと、すべては我々の未来の輪迴に関わってくるのだ。仏陀と諸大修行者はみな口うるさくお諌めくださる。それはそうすれば何か良いことがあるからではなく、未来において皆が生死を解脱できるようにするためなのだ。学佛において生死の解脱は最重要事ではないと思っている人が多い。しかし実は、多くの經典中で仏はこの事について触れておられ、さらには修行人は強烈な出離心を起こし、この輪迴の世間を離れなければならないと強調しておられるのだ。強烈な出離心がなければ、輪迴解脱の果もない。この因縁はそなた達から始まるのだ。そなた達は、仏を学ぶ事とは仏の加護を求めることで、一生懸命に拝んでいれば事態は好転すると考えているだろう。事態は必ず好転する。けれどもそれはこの一生ではなく、未来世でだ。この一生では起こらない。

そなた達は仏に礼拝することが自己の業障を消すためで、健康と財運のためではないと考えているだろう。仏法は、福と慧のどちらも修めなければならないとはっきり述べている。福がないなら慧もなく、生死を解脱することなどできようはずもない。福慧が起きてこないなら、業障を阻むことなどできず、悟りを開くことなど有り得ない。前数回の法会において、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ある禅師がコップを割った瞬間に直ちに悟りを啓いた話をした。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身も、イスの足をうっかり蹴ってしまい、その瞬間すぐに『縁起性空に対する』についていくらか悟ったことがある。これはどうしたことだろうか?これは意外なことではない。福慧資糧がある程度に達し因縁が備わると、小さな動作、音であっても行者は徹底的悟るのだ。行者に福慧の資糧が備わっていないなら、デパート全体のコップが割れたとしても、開悟することはなく、イスの足を蹴って折ってしまったとしても、開悟することはない。信用しないなら、毎日家で蹴ってみるがよい。なぜ悟れないのか?それは福慧資糧がないからである。福はどうすれば備わるのか?供養すればいいのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、福報を最も速く積む方法は上師に供養することだと開示したことがある。最も重要な供養は恭敬である。先ほど口ごたえした年長の弟子は即ち不恭敬であるので、福慧をなかなか修められないのだ。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェは好い人だと思っている。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは上師なので、彼女に好くしなければならないからだ。彼女は自分は出家したので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に好くして当たり前だと思っている。その根拠はなんだろうか?彼女はこんなにもたくさんの苦しみを受けたのに、少しも改めていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはここで彼女に通告する。次に再び過ちを犯したなら、宿舍を出るように。毎日六字大明咒を唱えることが修行だなどと思ってはならない。それでは少しも改まらないのだ。

福慧が備わり資糧が身に着いたなら、上師が開示する仏法を少し聞いただけですぐに理解できるようになる。福慧も資糧もないなら、上師が100年講じたところで、理解することはできない。なぜ佛法では『知る』と『理解』を用いず、『悟』を用いるのだろうか?『悟』という字は半分が心で半分が吾である。すなわち、我が心で悟るもので、耳で聞き眼で見て口で念誦する学問ではないのだ。日常生活の深いところから心の中に至り、自ら悟るものなのだ。上師は、福慧の資糧をできるだけ速く累積できるよう手助けするが、そなたが教えを守らないならどうしようもない。教えを守るとはどういうことだろうか?上師の言葉を心に刻み、今はその通りにできないとしても、別の方法を取り入れてはならない。上師の教えの通りに学佛せず、自己流の別の方法が正しいなら、下に座っている必要などなく、今頃は千人あまりのリンポチェが出現しているはずだ。それがどうして今になっても一人もいないのか?それは教えを守らず、仏を学ぶとは人間関係に精通することだ、今後は人として少しは立派になるだろう、と勝手に考えているからだ。これは関係がない。仏を学ぶ事により因果を理解し、因果を信じれば、人間関係は自然に好転する。ゆっくりと自然に好転するので、普段の行動様式をわざわざ気をつけて変える必要はない。因果を信じさえすれば、一挙手一投足が自然に変化するので、意識する必要はないのだ。

あれこれ改めたようでも、実は結局何も変えられていない弟子もいる。起心動念し、先ずは自分を守り、先ずは叱られないようにし、自分に事が及ばないように願い、避けられるなら避けようとしている。これはつまり因果を信じていないからだ。そういうことなら、彼女がいつかリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た時、リンチェンドルジェ・リンポチェも避けられるなら避けようとするだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも開示している。リンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修めるよう求めて誰かが訪れ、リンチェンドルジェ・リンポチェが言葉で応じたとしても、それはその因縁があることを示している訳ではない。これこそ因と果なのだ。問題はどこにあるのだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェが無慈悲なのではなく、その因がなければ、当然その果もないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常にそなた達を叱り、教え、導いている。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが豊かな毎日を送るためでは絶対にない。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって豊かに暮らすことは、実はとても簡単なのだ。世間には三個の山洞にたくさんの宝物を隠している人もいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェには一つとしてない。

寶吉祥仏法センターが宣揚している仏法は、釈迦牟尼仏がお教えになったもので、直貢噶舉歷代上師が伝えてきたものだということを、そなた達は改めて認識しなければならない。ある日、ある出家衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに、上師の真偽をどのようにして見極めたらいいのか、と尋ねてきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは答えるのもバカらしいと思った。なぜなら彼は貢高我慢であったからだ。これも彼が仏経についてしっかり認識していないことを表している。釈迦牟尼仏は『四依法は依法不依人、依了義不依不了義、依義不依語(法に依って人に依らざれ、了義に依って不了義に依らざれ、義に依って語に依らざれ)等を含む』とはっきり述べておられる。

仏経の中には、最後にある弟子が『仏が世間におられない時にはどのような師に着いたら良いのでしょうか?』と釈迦牟尼仏に尋ねたところ、仏は『戒を師とせよ』と答えられた、とある。なぜ戒を師とするのか?戒にもたくさんの種類があり、『在家居士戒、出家戒、菩提心戒、金剛乘の戒』に分かれている。もしある上師が戒律をよく守っているとする。いわゆる『よく守っている』とは一日中そなた達を教えるということではない。金剛乘では『上師は弟子を三年観察し、弟子も上師を三年観察する。この三年の間上師の行いに変化がないか観察し、上師が変化しないなら、それはそなた達があれこれ変わったということである』という。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する三種類目の教えは、そなた達にとっては少し深奧に過ぎるだろう。それは、そなた達の福慧資糧が充分でないので、仏が講じられる空性の道理を体得することができないからである。そなた達がこれを体得できないとはいっても、やはり上師として、リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単に口伝する。それにより、将来因縁があり、この程度まで修めることができた時には、修行はより速く進むだろう。

ガムポパ大師は『断悪行善の際、我々は正見を以て、すべての因果真実の道理を不二と決定しなければならない』と開示なさった。不二とはなんだろうか?因と果とを我々は区別するが、実は因が生まれる時、果も同時に出現するのだ。『他人を殴れば、この一撃は百年後に返され、その時に果報が訪れる』と思っている人が多いが、実はそうではない。そなたが他人を殴るというその因が出現した時、果の縁も同時に生まれているのだ。この一撃が返されるまでに、たくさんの善事を行ったのなら、振りかざされる拳の勢いが少しは弱まるかもしれないし、もしかしたら五本の指ではなく指一本で殴られるかもしれない。真に空性を体悟した人は、一切の法は自性が無く、自ら飛び出してくるのではないと理解している。すべては我々が考え出したもので、因縁があって後に生まれ、終わるのであって、法性は動いておらず、変わってもいないのだ。

いわゆる正知、正見とは空性により判断するもので、ある人は菜食している、或いは仏法を講じ人に善事を勧めているということではない。これはただの善であり、正知でも正見でもない。あらゆる上師は物事を判断する時には、世俗の見方で、人の良し悪し、上師に対して好くする、この人は供養が多い、この人は供養が少ないなどと判断することは絶対になく、完全に空性により物事を判断するのである。例えば、昨日二人の信衆がリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来た。一人は自分の病気のこと等をたくさん話したが、もう一人は一切口を開かない。リンチェンドルジェ・リンポチェは最後に、その口を開かない信衆を助けた。たくさん話し、たくさんの病を抱えたその信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受けることができず、加持をさえ受けられなかった。なぜなら彼は好奇心で物見遊山のように、やって来ていたからだ。もう一人ももともとは見物のつもりで来たのだが、道場に足を踏み入れた後に讚歎の心を起こした。彼はこの道場は非常に荘厳で、上師はとても苦労なさっていると感じたのだ。口に出して語ることはなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは感じることができたので、『そうではないか』と尋ねると、彼は『実はそうなのです』と答えた。彼がこのような考えを起こしたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持したのだ。恭敬心を起こすとは、供養であり、福報であるからだ。

彼にはこの因があるので、上師から加持を受ける果報があるのだ。この因がなければ、どんなに上手に泣いて見せたとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェを欺くことはできない。上師はなぜ分かるのか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェは何も求めていないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は空性まで証したとまではとても言えないが、少なくとも不動心は証しているので、会いに来た人の身なりが良くても、金持ちであっても、特別待遇を与えたりしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは『心』で相手の考えを観察する。考えが正しければ、当然救いを与えるだろう。考えが正しいとは、相手にリンチェンドルジェ・リンポチェに対して恭維するよう望むことではなく、相手に仏に礼を尽くすよう望むことである。『已成佛道(既に仏道を成ぜり)、已行佛道(既に仏道を行ぜる)』と言われるが、諸仏菩薩に対して恭敬であれば、成仏の道を歩み始めたと言えるのである。上師としての誓願は、一切衆生の仏果が一日も早く成るよう助けることであるから、当然彼を助けるのだ。

加持は現在の問題のためではなく、実は何世もの後の事のためなのだ。今日の加持は未来の多大な物事に影響を及ぼす。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?上師は物事を見る際には区別せず、空性、法性から見て初めて不二と決定するのであり、前因後果がないからである。昨日あの二人の信衆にその場で因果が発生したように、上師には前因後果がないので、恭敬の因を起こせば、すぐに加持の果を得ることができるのだ。この加持は彼にまた別の因を起こさせ、果報は後に出現するだろう。

よって、ガムポパ大師の教えに基づけば、全体的にいって一切の輪迴涅槃の法は、我々自身に一切世俗錯誤の現象を消す能力が備わるまでは、因果縁起の方法の存在に相互に依存しているのである。これこそ、この境界まで証する前に、因果は空性だ、不二だと出鱈目に言い、何をしても存在しないと考えてはならないということであり、そうしてはいけなのだ。なぜならそなた達はまだ世俗の範囲にあり、輪迴の大海の中にあり、多くの事に対して誤まり、見間違えるところがあるからだ。見間違えるので、仏は、因果を信じるよう我々を教導くださるのだ。そなたが因果を深く信じることを受け入れたなら、一切の悪を停止することができる。自分自身にこれを言い続け、自分を欺いてはならない。夫を食肉業に従事させないようにと拝仏するのは、これとは無関係である。そなたが今、拝仏する因は未来の果報として自身が得るものである。自分が今拝仏すれば、相手に影響を及ぼすことができると、誤まった考えを持っている人が多い。もしそうなら、釋迦牟尼仏はこんなにも優れているのだから、地球上の60億人全ての人間が仏に従うだろう。ところが、60億人とまではいかなくとも、台湾の二千万人余りでさえ、すべてが仏に従っているという訳ではない。寶吉祥仏法センターの千二百人余りでさえも皆が従っているという訳ではないのだ。何を以て、自分が拝佛すれば夫に仕事を止めるよう影響が及ぼせると思っているのか!?何を以て、大悲咒を念ずれば、夫を変えることができると思っているのか?これは外道の考え方であり、因果の考え方ではない。

今日なぜこの家庭と、この家族に巡り会ったのか?それは自分の因によるのである。どうしたらいいのか?懺悔せよ!拝仏ではない。拝仏も懺悔であるとしても、仏菩薩に条件を提示するのではなく、『自分は今拝んでいるので、夫にこのような仕事を辞めさせてください』と祈るのだ。なぜこの女性はこんな考え方をするのか?それは夫との争いを避けているからである。リンチェンドルジェ・リンポチェはケンカせよと勧めているわけではない。ある皈依弟子の例を挙げよう。彼女の父が亡くなる時、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本にいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父にポワ法を修めた。父の遺言はたった一つ、『妻(彼女の母)は、もうこれ以上、息子(彼女の弟)に金を渡してはいけない。いい加減なところで止めておきなさい』というものだった。しかし、この弟子はなんとしたことか、『自分はこっそり母に伝えた』と言ったのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそれを聞き激怒した。仏法は人に見せられないものなのか?なぜこっそり伝えるのか?なぜそのように考えたのか?これこそ争いを恐れたのだ。これは父の遺言だ。父の遺言でさえ家人に伝えることができないのか?この男子を甘やかし出鱈目に暮らさせている。自分は姉だからと考え、喪に服している今、家中に争いを起こしてはならないと思っているのだろう。これは彼女は上師に不恭敬で、上師を利用しているということである。そなた達は自分は因果を信じていると言うが、どんな因果を信じているのだ?彼女の父はリンチェンドルジェ・リンポチェを通じて、家族に話した。それなのに、彼女はそれを隠そうとする。彼女は普段から人を欺くのだろう。騙せるなら騙し、隠せるなら隠すのだろう。

『申し訳ないので、その内話そう』と考える人が多い。考えてみよ。そなた達の臨終時、突然ある善知識が現れポワ法を修めてくれた。そなたは、この善知識が自分の執著を家人に伝えてくれるよう望んだ。ところが家人はあれこれ策をめぐらし、『その内話そう』という。実は亡者は非常に急いでいるのだ。そうでなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェに言わないだろう。明らかにしなければ、誰が困るだろう?聞いていながら隠す人だ。人は聡明だが、しばしば過ちを犯す。なぜ佛法では『直心は道場である』というのか?上師の指導には従うべきなのだ!どうすれば円満に行えるかは自分で考えるもので、あれこれ隠すのではない。彼女が父の遺言を弟に伝えた後、何か不都合があっただろうか?何もなかった。しかも弟は昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに叱責されて、目を覚ましたのだ。

自己主張が強く、上師を間抜けと思い、自分は頭が良く、弁も立つとうぬぼれている人が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェが上師でないとしても、66歲まで生きているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは世間のさまざまなな風俗や習慣をなんでも知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの家でも亡くなった人がいる。そなた達の家人だけが亡くなっているのではないのだ。そなた達はある程度の年齢なのだから、それほど残酷だとも言えないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは17歲の時父を亡くした。当時家には10香港ドルしかなく、母は文盲で、弟と妹は学生だった。そなた達の苦はどこにある?惨はどこにある?今日リンチェンドルジェ・リンポチェは叱責するが、それはそなた達が因果を信じないからで、無闇に怒っているのではない。亡父が上師を通じてそなたに伝えた話を変えることができるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが教える佛法も、変えることができるだろう!

自分は頭がよくて優れており、誰かを怒らせたくないと考え、その一方で仏菩薩、上師、亡者を怒らせている!?このように日々を過ごしている人が、今は非常に多い。考えすぎて複雑にしてしまっている。そなた達が彼女の弟であったなら、と考えてみよ。姉が母にこっそり何かを話しており、姉の話を聞いてから母が変わった。以前は手を伸ばせば助けてくれたが、今はない。『姉は母のお金をどうかしようとしている』と疑わないだろうか?もし彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェの話を弟に伝えていれば、『姉が母を操ろうとしているのではなく、父の言いつけなのだ』と分かるだろう。彼女のやり方は逆効果なのだ。自分は頭がよく、弁が立ち、頭脳明晰だと一生思っていても、たった一つの事柄で馬脚が現われるのだ!

表面だけ見ると良い事でも、深く探ると良くないという事が多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは何も求めていないのだ。誰かを怒らせることなど少しも恐れていない。けれども、亡者が苦しんでおり、その苦しみを聞いたのに、家族に伝えることができなければ、それはリンチェンドルジェ・リンポチェの過ちである。伝えても家人がその通りに行わなず、リンチェンドルジェ・リンポチェも叱責しなければ、それもリンチェンドルジェ・リンポチェの過ちだ。叱責されたことで、この弟子がもう二度と来なくなっても良い。リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては済度させる人間が一人減るだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは伝えた後、誰だったかも忘れてしまうだろう。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはこうするのか?それは因果を信じているからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがある。皈依して長くなる弟子は聞いたことがあろう。かつてある人は家を借りたが、毎日ある時間になると跳び下り自殺の願望に駆られる。彼女は友人を通じてリンチェンドルジェ・リンポチェを知ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは一目見て、そこが以前跳び下り自殺があった場所だと分かったので、鬼に取り付かれた女性信衆に加持した。その時、彼女は手でリンチェンドルジェ・リンポチェを押し退けていたが、加持を続けると、目つきが妖しくなり、リンチェンドルジェ・リンポチェを誘惑しようとした。リンチェンドルジェ・リンポチェは『自分は経験豊富だから』と冗談を言って、全く動じなかった。その時リンチェンドルジェ・リンポチェが心を動かされていたら、唱える真言は全く効果がなくなるのだ。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはやり遂げることができたのか?それは空性まで修め、真言を唱えた時には完全に『定』にいたので、鬼衆はリンチェンドルジェ・リンポチェを誘惑できないと知り、女性信衆の身体を離れ、それに従い彼女も眼を覚ましたからだ。目覚めた後、女性信衆は自分の横にいる『あれ』を助けてやって欲しいとリンチェンドルジェ・リンポチェに願った。彼女は鬼衆が自分の隣に座っているのに気づいたのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはその願いを聞き入れたが、すぐに忘れてしまった。ところがそれから何週間もの間、リンチェンドルジェ・リンポチェがビジネスで接する人は、商談に応じた後、リンチェンドルジェ・リンポチェと分かれるとすぐに、電話で取り消して来る。それが続いた後、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がこの鬼衆の済度を忘れていたことをようやく思い出した。これこそ因果である。約束を果していなかったのだ。

この後は、亡者がリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えたことは、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず口に出すことにしている」。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに仰せになった。「だから、生前に浮気対象がいる者は片付けてしまった方が良い。亡者がリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えたことを、リンチェンドルジェ・リンポチェは口に出さない訳にはいかないのだから。口に出せば問題が起きてしまう。けれども、口に出さないこともある。この種のことはあまり言わない。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェの弘揚佛法はこんなにも厳謹なのか?求名、求利のためではない。昨年リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王に引退を稟報申し上げた。自分の修行が充分だからというのではなく、年齢的にそろそろだと考えたからだ。けれども尊勝なる直貢チェツァン法王はお許しくださらなかった。尊勝なる直貢チェツァン法王がお許しくださらなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは今になっても叱責し続けており、そなた達も運が良いということになろう」。参会者はリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なる教導に心から感謝し、思わず声を揃えて感謝の言葉を口にした。

「因果というものを、決して疎かに考えてはならない。自分の身に何かが起きた時には、必ず先ず考えてみよ。少しの時間でよい。急いで対処する必要はない。そなた達がどれだけ短いか信じないほどの短い時間を用い、その行為が自分に有利だろうかではなく、今日の行為で誰かを傷つけただろうかと考えてみよ。その弟子が父親の遺言を公にできなかったのは、弟に嫌われるのを恐れ、弟があることないこと言い触らすのを恐れたからだ。さらに言えば『弟に伝えれば、弟は口業を為し、リンチェンドルジェ・リンポチェを罵るかもしれない。それは良くない』と彼女は言うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子の弟に罵られることなど恐れていない。それは彼のためになるのだから、恐れることなどあろうか?皆リンチェンドルジェ・リンポチェのために理由を見つけてくれるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり彼らのために言葉にするだろう。

あらゆる事を因果教導の方法を通して対処し処理することで、どんな良いことがあるのか?過去世の定業以外は、面倒が起きる機会はほとんどなくなり、この一生で新しい悪因と悪果を為すこともないだろう。新しい悪因、悪果が出現しなければ、生生世世で積み上げた債務はこの一世で絕対に解決でき、必ず完済することができるだろう。つまりは、今以上に積み増さない。これが非常に重要なのだ。仏が、悪を立ち善を行うよう仰せになる道理はここなのだ。完全に悪を立ち、ちょっとした小悪であっても為してはならない。数語話すだけなら大丈夫だろう、などと思ってはならない。必ず何かあるだろう。数語であってもたくさんの人に影響を及ぼし、他人を傷つけるのだ。たった一言のために殺人を犯す人もいる。ちょっと考えるだけでも何かある、と思っているだろう?その通りだ。考えれば、自然に動作に現われるからだ。

仏弟子であるのに因果さえ信じない。それなら自分は仏弟子であるなどとどうして言えようか?なぜ一日中ぼんやりして、小さな過ちばかり犯しているのか?それは因果を信じていないからだ。ガムポパ大師がお教えになったように、羞恥心がないからだ。なぜなら、今日過ちを犯したなら、強く反省し、自分の過ちに留意すれば、二度と再び過ちを犯すことはないはずだからだ!繰り返し過ちを犯すのは、自身の過ちに言い訳をするからで、先ほど口ごたえした年長の弟子のように、過ちを犯しながら、それを説明しようとするからだ。

ガムポパ大師の教導によれば、因果の関係は有為の輪迴因果と無為の涅槃因果のおよそ二つに分けられる。いわゆる『有為の輪迴因果』とは、一人一人が為すさまざまな善悪因に基づき、違った苦楽果報を受けるということである。そのため、離苦得楽を望むなら、断悪修善しなければならない。妥協してはならず、条件を設定したり、のんびりしていたりすることもできない。将来に苦がないことを望むなら、一切の悪を立ち、ほんの少しであっても悪を為してはならない。『夫が食肉を販売していても関係ない』、『やめるように言えば、夫は離婚するというかもしれない。学仏では離婚を切り出してはならず、これは良くない』などと考えているだろう。もしそうなら、他にもたくさんの方法がある。そなたがアルバイトをし、住宅ローンを半分負担する。これでも問題があるだろうか?なぜそうしない?それは怠けているからだ。習慣になってしまっているからだ。なぜ仏法を広めることがこんなにも難しいのか?上師としては講話が非常に難しい。講話が多過ぎれば、上師は融通が効かない、と言われ、リンチェンドルジェ・リンポチェが何も言わなければ、上師らしくない。大変な矛盾だ。

ガムポパ大師は『いわゆる無為涅槃因果とは辺見戲論を離れた一切の諸法空性の因を串習することで、三身一昧の大楽身果位を得ることである』と言われた。前回リンチェンドルジェ・リンポチェはこの部分について開示した。今日はみなにもう一度言おう。いわゆる『空性』とは『無い』ということではない。『空』とは宇宙の一切真相の作動と縁起の状況を感じさせるため、佛が持ち出される意義なのだ。空性を理解できなければ、修めた佛法で衆生に利益することはできない。空性を修めなければ、唸じる經、持する真言はただの善の心に過ぎないが、衆生にとっては有益である。なぜなら彼らは善の感覚を感じることができるため、行善を考え始めるからだ。しかし、上師としては、空性の境界まで修法しなければ、衆生輪迴の問題を変えることはできない。

なぜ変えられないのか?それは一切衆生は輪迴にあるからで、彼らが累世で為してきた業と関連のある衆生だからだ。これら衆生は六道の中に遍くある。『自分は前の一世も人だったので、家族も人だったはずだ、自分は前の一世では動物だったので、家族も動物だっただろう』とそなた達は思っているかもしれないが、そうとは限らない。我々はとてつもなく多くの世の輪迴を経てきたので、六道のどこにでも家族がいるのだ。これら家族は天道では享楽し、地獄では当然苦しむ。上師が空性まで証していないなら、これら六道の衆生は、佛法の利益を受けることはできない。一人の上師が空性まで証したなら、ある特定の対象を助けようと執着することはなく、何かのために修法しようと執着することもなく、縁起が訪れれば行い、完了して縁が滅すれば、心は不動である。さもなくば佛法を虛空に遍布させ、一切の有情衆生に利益することはできない。

一切の有情衆生に利益し、生生世世そなたと関わった衆生を離苦させ、六道輪迴を離れさせることができなければ、彼らの苦のエネルギーが、この一世で輪迴が続かないよう牽引してくれることはない。我々はなぜ輪迴するのか?それは家族が六道の衆生であり、これら衆生は他人を見つけることができず、自分と関わりのある人を必ず探し出さなければならないからである。彼らはそなたに害を及ぼそうとしているのではない。そなたを害することとは関係がない。そなたの両親が存命なら、彼らが病気になって、快く思うだろうか?絕対にそれはない。それどころか心配になり、仕事、気持ち、睡眠に影響するだろう。同じことなのだ。簡単に言えば、そういうことだ。

なぜ施身法があるのか?済度が終われば幸せに暮らせる、というのではなく、生生世世そなた達と関わりのある家族を救い続けるためである。数はどれくらいか?リンチェンドルジェ・リンポチェにも分からない。佛だけがご存知なのだ。なぜ法会に参加し続けなければならないのか?それは、福報が足りないため地獄から出て来られない衆生もおり、彼らは自分と有縁の衆生が法会に参加することにしか頼れず、空性まで証した上師の絶え間ない修法によってしか、福報を充分に積み、地獄から出て来ることができないからである。いつ終わるのか?輪迴を解脱し、淨土に往生し、過去世の物事が全て終了し、新しく始まるまでである。

なぜ『生在淨土三不退(浄土に生まれれば戻ることはない)』といわれるのか?それは、娑婆世界に戻ることは二度と再びないからだ。そなたと関わりのある全ての衆生がそなたと共に行くからである。そなたに付いて行く衆生がいないとしても、淨土で菩薩果位から修行を始め成佛まで修めたなら、彼らを助けることができないだろうか?当然できる。ここにこそ道理がある。なぜ我々は娑婆世界に戻ってくるのか?六道で輪迴を巡らなければならないのか?それは我々と関わりのある衆生がたくさんそこにいるからで、この業力が我々を引き戻すのだ。彼らが再び来るなら、我々も来ない訳にはいかない。彼が我々に借りがあるのではなく、我々が彼に借りがあり、それを返しているのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しく叱責するが、それはそなた達に悪を為させたくないからだ。ここを逃げ切ればそれで良い、などと思ってはならない。ある弟子は、ここを逃げ切れば大丈夫と考え、四六時中逃げているが、そんなことはなく、必ず何かが起きる!どんな事が起きるのか?彼は慈悲を修めていないので、慈悲がなければ、どんな咒を念じても役に立たないのだ。

ガムポパ大師は教導くださった。『空性を串習し輪迴因果まで修める際に、法性実相の真義まで修めておらず、迷謬の顕象を淨化するまでは、これが因で、これが果なのだ』と。この期間は因果は絕対的に真実で非常に正確なので、我々は悪を断ち善を修めなければならない。悟法性真相を証した後、一切の執著顛倒の心を浄化すれば、因果の結は諸法本性中で自然に啓かれるだろう。これは、我々が空性を理解するまでは、因と果が相互に引き合っていると感じることを示している。果報が成熟していない限り、この結は開くことができないのだ。我々が空性中にあり、法性を理解すれば、いわゆる因と果とは無自性であるため、因と果の結は、我々の心中で自然に開かれるということを体得できる。

釋迦牟尼佛の成佛時には九個の難が現れた。けれども、佛は既に空性を証悟されていたので、この九個の難は相のみで、体の中に難はなかった。我々にとっては、表象的には、釋迦牟尼佛は九個の難を経験されたが、法性の本体中にはなく、それは偽りだったので、出現しては生滅し、また出現しては生滅した。この部分は違った境界の修行人の方式である。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日は開示するが、そなた達が理解できるということではなく、そなた達が今為せるということでもない。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェが因と果は空性で、すべて空っぽであると開示したので、放っておいても構わない、などと決して考えてはならない。

ガムポパ大師は『この時、纏わり着いていた因果は自然に淨化される』と教導なさった。もしそうなら、空性を証悟した状況において、因果の結が自然に解きほぐされ、淨化されるため、二元対立の状態を超越する。二元対立とは、好悪、善悪の対立である。法性には好悪がない。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生にポワ法を修める事例によれば、この人は生前たくさんの善と悪を行っただろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェが善悪によりこの人を助けるかどうかを評価して判断するなら、これが二元法を用いるということであり、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの人が金持ちか、供養したかによって、助けるかどうかを決めるなら、これも二元法を用いるということである。リンチェンドルジェ・リンポチェが空性の慈悲心によりこの人を助けるなら、それこそが因縁法に基づくもので、縁は生まれ縁は滅し、縁は起こり縁は滅するのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、法を修めたことがあるか?この人を助けるかどうか?ということではない。リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、一つの現象の出現に過ぎないのだ。この現象が消えてしまえばそれまでだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの心が動いたか?或いは病院まで行って修法するか?というのでもない。リンチェンドルジェ・リンポチェの心は動いておらず、亡者の心が動き、自然にリンチェンドルジェ・リンポチェのそばに来るのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本におり、亡者は台湾にいたのに、なぜ亡者の頭頂に洞を打つことができたのか?試してみるがいい。ポワ法はこの程度まで修めなければ、ポワ法とは言えない。この程度まで修めていれば、少なくとも済度の面では上師は空性まで修めているということで、すでに空間を超越し、正に《金剛經》でいう『破寿者相』の如く、時間と距離の観念がなく、二元対立の観念もなく、亡者と修行人の別もないということを示している。こうして初めて、亡者を救うことができ、こうして初めて亡者の考えを知ることができるのだ。

神通はどこからくるのか?空性からだ。空性まで証すれば、神通は自然に開ける。空性まで証していなければ、神通は開けず鬼通だけだ。鬼はその人の横で話し、その人はそなたにどうしてこうしてと言うだろう。二元対立の状態を超越すると、悪を断ったり、善を修めたり等と言う必要は自然になくなり、しかも、取捨等の二元対立の方法から離れることができる。ガムポパ大師の教導によれば、因位の上に、もし取得捨棄から離れる概念があるなら、果位の上でも希望と憂慮の考え方から自然に離れることができるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがある。仏を学ぶの始めの頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは果位を得ること等は望んではいなかった。ただ法本、仏法、上師、仏の教導に従い串習しなければならないと分かっていただけで、今後どうなるか等はリンチェンドルジェ・リンポチェが憂慮したり望んだりする事ではないと考えていた。

そなた達の境界においては、実践すれば、将来は必ず果がある。将来の果が良いか悪いか、大きいか小さいか、善か悪かは、そなたの行いと関係があり、そなたに対する他人の評価に基づくのではない。そなたに対する他人の評価は、そなたの行いと関係があり、そなたの普段の行為及び態度等に基づき、その評価があるのであり、自分でまいた因なのだ。どんな因をまくかによって、どんな果を得るかは自然に決まる。誰がそなたを好きで、誰がそなたが嫌いで、誰がそなたに害を及ぼし、誰が害を及ぼさないか等、空性を理解できれば、修法者には取得と捨棄の観念は存在しない。修法がうまく行かないこと、人に嫌われること、誰かを怒らせること等を恐れる考えは完全になくなる。修法者にはこの種の考えがないので、亡者は修法者を信用し、修法者はその執著を知ることができるので、そうでなければ亡者は口を開かないだろう。鬼には鬼通があり、その霊敏度は人の百倍である。誰が自分を助けてくれるかをよく知っており、それを騙すことはできない。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する内容は、そなた達も聞けば為せるということではなく、そなた達が体悟できるというものでもないが、心でよく聞くだけで、理解しようとしなくともよい。そなた達はこの境界に達していないので、理解は不可能だからだ。聞き入れることができれば、第八意識田に種が蒔かれ、上師が講じた空性真正の道理をいつかは体悟し理解することができるだろう。因の面から言えば、我々が行う一切の善と悪は、自分の心が為すものである。この道理は非常に簡単で、悪念がなければ人を罵ることはなく、善念がなければ善事を行うこともない。すべては心から始まるのだ。衝動的に口にする、または故意でなく行う事も、普段このような考えが心になければ、そのような言葉を口にすることはなく、そのような行いをすることもないはずだ。いわゆる別人格或いは精神分裂などないのだ。本来精神とは分かれているもので、最初から最後まで繋がった精神などあるはずがない。これこそ自分で自分を欺いているのだ。

尋常でないことを行った時に『自分は頭がおかしかった』という人が多い。頭がおかしいとはどういうことだろうか?一日中考え、考えすぎ、本来あったものがなくなり、なかったものが現われることだ。かつてミラレパ尊者が山洞で閉関なさった時、前方に岩が見え、岩の中に魔怪がいるように見えた。それに構いはしなかったが、前方に魔怪がいるとは常に感じていた。閉関が圓満に近づいた時、魔怪は現れた。ミラレパ尊者は魔怪にどこから来たのかと尋ねると、魔怪はミラレパ尊者の心から生まれたと答えた。

つまり、頭がおかしいとは自分の心から発生したのだ。仏を学ぶとは何を学ぶのか?いかにして自己の心をコントロールするか、仏法を用いて自己の心をコントロールすることを学ぶのだ。我々の心は現在、利己損人の方法によりコントロールされている。だれでも皆そうだ。そのため、学んだ仏法まで変わってしまっており、すべて損人であり利己である。中には損人でありながら利己でないものまである。先ほどの弟子が父の遺言を変えてしまったように、我々はこの方式に慣れてしまっている。彼女は何をするにも他人を怒らせないように、他人の攻撃目標にならないようにと考え、こっそり裏工作する習慣がついてしまっている。既に習慣になってしまっているので、どんな事でも彼女の手にかかれば、そのように変わってしまうのだ。

經典では『これはすべて心が為したものだ』という。よって、他人を責めてはならない。他人を怨んではならない。夫が良くない、妻が良くない、他人があの人を誘惑したのだ、ということではなく、すべては自分から始まっているのだ。自分はこの一世で他人を誘惑したことなどないのに、なぜ夫は他人に誘惑されてしまったのか、と言うだろう。けれども、そなたは前一世で他人を誘惑したことがあるかもしれない。そのため、この一世で傍にいる人が他人に誘惑されてしまったのかもしれない。喜んで受け入れるが良い。なぜなら果報は返したのだから。生きるの死ぬのと騒いだり、ケンカしたりしても、何の意味も無い。

ガムポパ上師は『あらゆる苦楽の果は、自分の心が感じているので、ここ以外の他の場所に存在しているのではない』と教導なさった。この言葉は真理である。楽しさや辛さを感じる時、定義はどこにあるのか?楽しいというが、楽しさはどこにあるのか?手が楽しいのか?頭が楽しいのか?足が楽しいのか?そうではないだろう。食事が楽しい、満足したというが、食物は口から入り数秒後には通り過ぎてしまい、胃に入れば味覚はないのに、なぜ食事が楽しいと感じるのか?これはすべて心の作用である。すべては心が欲望に操られているのだ。そなたの欲望が満たされれば、楽しいと感じる。修法時にうまく唱えられた、その日は心が非常に定まっていた、と感じるのも、すべては欲望だ。実は心は本来動いていないのだ。なぜなら欲望があるからこそ、修法がうまくいった、打坐(座禅をすること)がうまくいったと感じるので、これらはすべて欲望だからだ。

あらゆる楽しさと辛さは、心が感じているので、肉体が感じているのでは断固ない。仮に心にこの感覚がないなら、どんなに豪華な衣装を身に着けていても、面倒に感じ脱ぎ捨てたいと思うだろう。すべての心の作用は非常に重大で非常に強いものなのだ。自己の心をコントロールできるなら、眼、耳、鼻、舌、身、意に簡単に心が引き摺られることはなくなり、修行人となることができるだろう。なぜ過ちを犯すのか?それは眼が一日中こちらを見ていても、心がどこへ飛んで行ってしまったかも分からないからだ。それでは当然過ちを犯す。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは過ちが比較的少ないのか?それは非常に集中して事を行っているからである。心に別の欲望を抱かず、別の事に引き摺られなければ、過ちを犯す機会は自然に減少するのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはやるべき事がこんなにも多いが、手帳に記録せず、コンピューターも用いないのに、なぜ覚えていることができるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェの年齢なら、テレビでは既にお爺さんと呼ばれる。なぜこんなにも多くの事を覚えていられるのか?それは、仏法を用いて自己の心を掌握しているからである。仏法と無関係の事には全く心が動かないので、妄念、雑念が減り、より多くの事を自然と覚えられるようになるのである。そなた達はなぜあれこれ忘れるのか?それは一日中心が何かを考えており、心が南極まで飛んで行ってしまってもまだ考えているからだ。

心こそ我々が処理すべきものである。いわゆる楽しさと辛さとは、厳密に言えば、すべて心の作用である。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも『楽しいと感じても辛いと感じても、誰でも持てる時間は同じで、すべてこうなのだ』と開示している。だからこそ、縁に従い生き、すべてを受け入れよと教えるのだ。もともと過ぎていく事なのだ。楽しさや辛さに遭遇しても、そなたの心が安定し、仏法と因果の上に落ち着いていれば、嘆いてため息を吐くこともないないだろう。すぐに事態を変えよう、子供を何とかしようと願うのは、因果を信じていないということだ。

数日前、リンチェンドルジェ・リンポチェは突然ある弟子を呼び出し、『息子にオートバイに乗る際に注意させよ。しかし、面相が傷ついたりしないし、死にもしない』と告げた。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェの言った通りとなった。なぜこうなったのか?普段彼女は『母親が仏を学ぶだけで良い。息子は勉強が大切だ』と考えていたので、このような事になってしまったのだ。

經典では『自分の心を別の角度から見れば、心には実体、形、重さ、色がないことに気づくだろう』と言う。自己の心を見つけることができるか?自分の心には悩みがいっぱいだと皆よく言うが、心はどこにあるのだ?ここで言う心とは心臓のことではない。自分は今とても楽しいというが、心はどこにあるのか?つかみ出して見ることができるだろうか?開くことができるだろうか?自分の心は悩みでいっぱいだというが、心はどこにあるのか?どれほど悩みが多いのか?禅定を学んだ人なら、自己を別の角度から観察でき、自分の心はどこにもなく、心には色も重さも形もなく、赤色光、白色光、青色光などもないことに気づくだろう。心はどのようなものか?虛空と同じように、宇宙全体なのだ。宇宙全体をつかむことができるだろうか?なぜ宇宙をつかむことができないのか?それは宇宙が無辺無際であるからで、心もそうなのだ。

心はたくさんの事を行え、際限なく拡大する。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本にいても台湾の亡者に修法できた。これは心の力によるもので、肉体ではどうしようもない?リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲は拡大するので、どこにいようとも、亡者を救うことができるのだ。これは訓練で成し遂げられるものだ。辛さも楽しさも心の作用なのだとはっきり悟った時、自分は実体的な辛さと楽しさをつかんでおらず、心の中の欲望が現れただけなのだということを理解する。一人一人の辛さと楽しさはそれぞれ異なる。民族によっても辛さと楽しさは違う。ではどの楽しさが真の楽しさなのか?どの辛さが真の辛さなのか?すべては心の作用であるので、一概に言うことはできない。

ガムポパ大師は『このように証悟した状況において、因にとっては善と不善が不二である。全体的にいえば、因と果とは不二である。不二の状態では、心識はきっぱりと捨て去ることができる他、他の状況はあり得ない』と教導なさった。いわゆる『放下(捨て去る)』とは、要らないということではない。少し前、癌を患う信衆が訪れ、『自分は一切を捨て去る』と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは『まだ捨て去っていない。あきらめたなら、泣くことはないはずだ』と開示した。

仏法でいう『放下』とは、発生したあらゆる現象に対して、少しの執著心も持たず、因縁の法則が空性であり、過ぎていくことであると理解することである。そのため、楽しさを追い求めたりせず、辛さを拒絕したりしない。皆はこの名言を覚えているだろうか。楽しさの追究をやめ、辛さへの執着をやめる。それこそが真の『放下』なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前皮膚癌に罹った時も幸せで辛いとは感じなかった。なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェは因果の法則を理解していたからだ。子供がいうことを聞かなくともうれしい。彼がいうことを聞かなければ聞かないほど、彼の負債はたくさん返されているのだから。食事するお金がなくても幸せだ。なぜなら負債を返済したからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは辛さを拒絕しない。そなた達の辛さはどこから来るのか?そなたが要らないものほど、そなたを求めるのだ。そなたが追い払いたいと考えるものほど、そなたに着いてくるのだ。そなたは幸せと愛を追い求めるが、それらは走るのがそなたより速い。そなた達は『愛』とはどんな字かをしっかり見ていない。両足を開いて走っているだろう。『愛』より速く走ることができるだろうか?

よって、心識はきっぱりと断たなければならない。理由をつけたり、割り引いたりしてはならない。自分は業力が重いし、仕事の環境や夫や子供がどうのこうのだからと考えてはならない。自分に辛さを拒絶し、楽しさを追い求める理由を与えてはならない。辛くとも良い、楽しくとも良い。すべては心のある相に対する反応なのだ。実は、楽しさと辛さの本体は実在しておらず、行き来するもので、縁起性空だのだ。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェはもう少しで、ある年長の弟子に害を及ぼすところだった。非常に美しい杖をこの年長の弟子に贈ろうとしたところ、彼女は前に飛び出してくる時にもう少しで転びそうになった。それはうれしかったからだ。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に目もくれず、彼女に加持もしなかったなら、このうれしさは辛さに変わっただろう。転んでいたら、大変だった。

仏を学ぶ者は永遠の楽、大楽を講じるが、これは世俗の楽しさとは異なり、また欲望の快楽でもない。永遠の楽とは顕教においては、不生不死の楽であるが、密法では、大楽の境界で衆生に利益し続けることである。大楽の境界とは、行者が衆生に利益する時、自分は衆生を済度させていると思わず、衆生が済度されたとも思わず、大楽の境界で衆生の離苦を手助けすることである。行者は大楽まで証していなければ、衆生の離苦を手助けすることはできない。なぜできないのか?それは慈とは自分の良いものと辛さとを交換することなので、行者が楽で満たされた法体でなければ、いかにして辛さと交換することができようか?リンチェンドルジェ・リンポチェが亡者にポワ法を修める時、もし亡者がリンチェンドルジェ・リンポチェの面前に現れ、辛さでいっぱいなのを見たなら、どうして彼を救うことができようか?皆同類なのだ。亡者が行者の面前に現れた時、行者が大楽で満たされていれば、亡者の心は定まり救いを受け入れるのだ。皆は、密法とは何を修めるかが分かっただろう!そなた達が考えていたように、無敵のロボットになるのではなく、たくさんの法を修めるのでもないのだ。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した内容は、仏を学ぶ者にとって非常に重要である。それが現在であろうと将来であろうと、仏を学んでいるのだから、そなた達の心の持ち方は自然に一般の人とは異なるはずである。他人にそれを示す能力がないとしても、生活環境で悪業を為す人と共に暮らさなければならないとしても、自分の心を清淨に保ち、少しの利益も貪ってはならず、輪迴解脱を決心しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分に対して非常に厳しい。仏を学ぶ決心をしてから、良くない事業には一切手を触れていない。リンチェンドルジェ・リンポチェが食事する金さえなかった時、皆が今手にしている法像中の四臂観音像を50万で買いたいという人がいた。1992年時の50万は非常な大金だ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは餓死したとしても売るまいと思い、売らなかった。なぜ売らなかったのか?菩薩(佛像)を売るとは冗談ではない。これこそ悪業だ。

台湾北部にある大型の仏教文物小売店のオーナーは癌で死んだ。毎日リンポチェは彼に修法し、また教派のもう一つの支派の拠点でもあったが、なぜ毎日修法してもらってもこうなるのか?彼が仏像を売っていたおかげで、多くの人が毎日仏像に礼拝できる、という人もいるだろう。これはこの人の福報だが、業力を変えることはできない。なぜなら仏像を買売の道具にしてはならないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが知るところでは、古代のチベットでは仏像作りは縁次第だった。相手に制作費はいくらだというだけで、その他は構わなかった。古代では土で作る仏像でもそうだった。仏像作りの職人はお腹が満たせ、住むところがあり、少しの旅費があれば、それで満足だった。現代のように、いくら加えていくらにしよう、などとやっているので、悪業が出現したのだ。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したことから、学佛とは神祕的なことではなく、深奧なことでもないと分かっただろう。最も重要なのは、経験者である上師が事実に基づき開示を与えることなのだ。上師と同じ程度まで行うことができないとしても、上師の功徳大海に頼れば、自分の将来の修行には必ず助けになるのだ。具徳の上師は一人だけではなく、全ての伝承に、佛菩薩の加持に存在している。そなたが恭敬であろうとするなら、自己の身を投げ出して、この一生で生死を解脱することは非常に簡単だ。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の信衆に『解脱の門はくぐり難い』と書き贈った。解脱の門をくぐるのは非常に難しいが、くぐった後は容易である。

皆は今はまだ解門をくぐっていない。解門とは世間で多くの人がいうような佛法の解説ではなく、生死を解脱する法門である。行門とは、解門をくぐり中に入った後、自己の生死を解脱する方法があるかどうかということである。誰がそなたを連れてこの門をくぐってくれるのか?それこそ上師である。よく聞くように。顕教を学んだことがある人は解門と行門という言葉を聞いたことがあるだろう。解門とは仏法を聞くことで、行門とは早課、晚課をすることだと思っているだろうが、そうではない。仏が講じられる仏法は、そんなに簡単なものではない。解門とは、生死を解脱する門で、行門とは生死解脱の法を修行することである。解門は必ず上師が率いくぐるもので、上師が必ず伝法しなければならない。自分で修行し、上師に頼らないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしてそなた達に修めることができようか?上師はそなたを連れて解門をくぐることができるのだ。中に入った後は自分で修行しなければならない。よって、なぜ解脱の門はくぐるのが難しいのか?なぜなら真に解脱の門をくぐれる人は、いないとはいわないが、実に少ないからだ。済度の能力がない上師なら、そなたを連れて解脱の門をくぐらせる能力も当然ないが、衆生を済度させられる上師なら、そなたを連れて解脱の門をくぐらせる能力を当然備えている。中に入った後は、上師が教導した一切の方法をその通りに行えば、行門はそなた達の生死解脱を助けてくれるだろう。

しっかり聞くように。今後は仏法を聞くことが解門だ、行門とは托缽に行くことだと思ってはならない。仏が講じられる法は、我々の生死の解脱と必ず関連があるのだ。生死解脱と関連がないことは講じられない。別のことを講じられたとしても、必ず生死解脱と関連がある。その人の根器に応じて、違った内容を講じているに過ぎない。今日は因果に対する開示で、三つ目の教授まで述べた。四つめの教授は次に開示しよう。ここまで聞いて、因果をきちんと理解できたであろう。理解した後でさらに過ちを犯したなら、許されることはない。学佛の決心をしっかり固め、皈依時に教えるように、自分の事のために、便利を求めて別のものを求め、別のものに触れてみたりなどしてはならない。観音菩薩は『仏を学ぶ者なら、食べるものがなく、住むところがなく、衣服がないということはない』とはっきりおっしゃっている。

リンチェンドルジェ・リンポチェはお金がなくて家賃が払えず、食事もできなかった時、因果を深く信じた。観音菩薩の仰せを深く信じた。観音菩薩は我々を欺いたりなさらない。そなた達が騙されるのを恐れるのは、自分が焦っているからだ。なぜならそなた達は辛さを拒絕している。辛さを拒絶すれば、仏菩薩が仰せになった事は、そなたの心に入ってこない。仮に、そなたが辛さを拒絕しないなら、仏菩薩はいつも傍で助けてくださり、進むべき道がないというような状況から救ってくださり、必ず救ってくださるだろう。なぜならそなたが既に決心したからだ。しかし、仏菩薩はどのように助けるかをはっきりとは言われないだろう。なぜならそなた達はまだ因果を深く信じておらず、貪念、欲望をまだ抱いているからだ。仏菩薩と上師が助けようという時、そなた達はどうだろうか?家に帰ってこの問題について考えてみるが良い。もしリンチェンドルジェ・リンポチェがそなたに『安心せよ。この一生ではリンチェンドルジェ・リンポチェがいつでも助けよう』と言ったならどうだろうか?毎日寝てばかりで、それでも学び、それでも修めるだろうか?

よって、先ほど開示したように、上師はそなたを連れて解脱の門をくぐり、行門を教導するが、自分で修行しなければならない。常に自分を改め、自分の修行がうまくいかない、修行が良くないと恐れなくとも良い。進んで修行するなら、いつかは必ずだれかがそなたの成果に目を留めてくれるだろう。他人の批評や賞賛は気にせず、黙って行えば、いつかは必ずだれかが分かってくれるだろう。仏法は真に衆生を助けるもので、リンチェンドルジェ・リンポチェを恐れて行うものではない。これは大事ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェを恐れても何の役にも立たない。学べなければ役に立たないのだ」リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアたっぷりに仰せになった。「今日は因果というこの二文字について簡単に開示したが、そなた達を目茶目茶に混乱させてしまっただろう。しかも開示はまだ終わっていないのだから、外の方が良いだろう」

法会が圓満に終了し、弟子達は声を揃えて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの伝法と開示に感謝申し上げ、起立して尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられるのを恭しくお見送りした。

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2014 年 03 月 23 日 更新