尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年10月6日

法会が始まる前、一人の皈依弟子の信者が、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に懺悔を表する機会を賜ったことに感謝し、出席大衆に向けて公に懺悔した。

彼女は今生でした多くの人には言えないような悪事、道徳を穢し、約束を守らず、親不孝で、供養することを惜しみ、窃盗、邪淫、悪口、両舌、綺語、殺生,十善法と戒律をすべて破ったことを懺悔した。2011年11月、インドで行われたプルパ(普巴)金剛法会及び直貢噶舉派の冬季法会及び同年12月、日本で行われた施身法と長寿仏法会から戻るまでずっと、彼女はまたも上師の常住財物を盗み、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及日本道場を傷つけた罪を懺悔した。同時に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝し、彼女はやっと長年深く眠っていた悪行を、勇気を持って話し始めた。

彼女は懺悔した。2011年11月にインド直貢噶舉派の冬季法会に参加している時、主法のガチェン・リンポチェが リンチェンドルジェ・リンポチェに大包みの甘露丸を贈った。リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センター理事長に甘露丸を法会に参加した各弟子に下賜するように指示した。当時、彼女は法会団のバス班長であっため、バス内の三十数名の兄弟子に分けるための甘露丸を受け取った。けれども彼女は犠牲的精神がなかっただけでなく、更に貪念が起こり、心中はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女をバス班長にしてくれたことに感謝しながら、だから甘露丸を彼女は少し多く取ってもよいという悪念を持った。更に彼女は多くの兄弟子が集めた甘露丸を入れるチャック付きビニール袋に詰め、欲張って取った。その時、そこに他のバス班長がいることは省みることなく、ただ自分のことだけを考えていた。甘露丸を分ける途中、彼女は身勝手に自分の分を少し大きく分けた。二日目バスの三十数名の兄弟子に良い事を言い、兄弟子らを感激させた。

結果。台北に戻る時、因果はすぐに表れた。同行の二百余名の師兄の荷物は空港に到着したが、彼女の荷物だけは届かなかった。彼女は荷物がないことを告げられた時、心は谷底にまで落ち、頭の中は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教えが表れ彼女に窃盗の罪の因果が表れた。帰り道、彼女は夫にインドで甘露丸を多く手に入れた事を話した。夫が彼女に、「どんな理由で多く手に入れたのか?」と尋ねたことは更に彼女に金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の教えに背いたことを気づかせた。私利私欲を貪り、自分の体の一部と同じ金剛兄弟子を傷つけ、金剛兄弟子に対して盗みを働き、良い人のふりをした。彼女の心は懺悔の心でいっぱいになった。

台北に戻ってから二日目の朝、彼女は航空会社からの電話を受けたところ、彼女の荷物は見つからないと言う。当時、彼女の心はずっと前から荷物が見つかることを諦めていた。彼女はこんなにも大きな窃盗罪を犯したのだから、荷物が見つからないことは当然のなりゆきであり、それは彼女の因果であった。夜、兄弟子が開いたレストランで食事をした時、大勢の師兄を見て、彼女の心は更に申し訳ない気持ちが大きく沸き起こった。それで、兄弟子に自分がインドで甘露丸を盗んだことを話した。食事を終えて1時間後、彼女は突然航空会社から荷物が見つかったので今、彼女の住所に送っているという知らせを受けた。その時の彼女の心は、そんなことがあるはずない。相手は本当に自分の荷物であると確認したのか?祥樂旅遊のラベルが掛けてあるか?と思った。家に帰ると、本当に自分の荷物だった。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して非常に懺悔し、自分はどんな顔をして荷物を受け取れば良いのか?と思った。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教えに大変感謝した。

それから間もなく、12月の時、彼女は、今度は日本道場へ行き法会に参加した。法会が終わった後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがその場を離れると、彼女は大声で話をし、まったく道場に対しての礼儀を欠いており、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにも礼儀を欠いていた。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェが道場にいたなら、彼女は大声で話す勇気があったのか?彼女は自己の恭敬がまったく見せかけだけであること、心の中はまったくリンチェンドルジェ・リンポチェがいないことを懺悔した。彼女は、門のところで掃除をしていたが、門は大きく開いている。それを見て見ぬふりをしていた。暖房の電力を無駄にしていて、ただ自分が掃除することだけを考え、私利私欲に溺れている。道場の回りに注意を払わないので、道場の外の大きな門は大きく開いている。当時掃除をする数名の兄弟子が残っていただけで、もしもすきを狙って泥棒が侵入したなら、道場はいつもの損失を蒙り、場合によっては誰かを傷つけたかもしれなかった。後果は想像もつかないものであり、彼女によって浪費された電気代はすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ一人によって支払われる。

彼女は日本道場の掃除作業が終了した後、心は早く食事に行きたかった。だから道場室内がきれいかどうかだけを見て、回りの環境について検査しなかった。彼女は頼まれた掃除の最終確認の責任を持って行わず、出発前にも掃除用具が何処にあるのか、何処に注意しなければならないのかはっきりと尋ねず、まった適当に心を込めて行なわず、法会に参加することで守られることをだけを考えていた。晩餐会の会場に着いて彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを見て、心の中にまだ不恭敬の念頭が起こってきたが彼女は決して二度と間違いを犯さないと懺悔した。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に対して異なる方式の教えを施すことを褒め称えた。どのような形でもすべてに深い慈悲があり、深いいたわりがある。その四名の弟子と彼女は道場の外に立って分かち合った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが修法を終えた時、空は急に明るくなり、瑞相である天に月と太陽が空中に現れた。その後、兄弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに請い、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法を終えたと開示した後、空の日月同在は非常に良い吉兆と開示した

続いて、彼女は更に他の悪行の懺悔を続けた。彼女は嘗て或る有名人が隠し撮りされたCDを見たことがあり、更に兄と義姉と共に喜んで見せたことを懺悔した。彼女は裸の人のこんな姿を憚りもなく鑑賞したいのか?と自問した。彼女は邪淫を犯しただけでなく、一族と共に悪事を働いたことになる。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。皈依したばかりでハネムーンに行った時、彼女は酒を飲み、五戒を破った。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。ドマを学習した時は不真面目で、兄弟子の指摘に言い訳し、不快になり、教授ドマのケンポスに対して淫念を起こし、不恭敬であった。授業の時には、上から見下ろした。嘗て幸運にも兄弟子とケンポスが同じテーブルで食事したが、粥をよそってケンポスに渡す時、恭敬心を持たずに渡した。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが言いつけた事に対して、遅れ、注意を払わなかった。そのため今に至るまで上師が指示した日期内に外国人信者に《快楽と痛苦》という書を見せられていない。それは上師の慈悲願力に背いている。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て彼女に適した或る仕事を与えて指示した。しかし、彼女は報酬に拘り拒絶し、たくさんの理由を積み重ねた。彼女は一生の中で非常に良い仕事の機会に巡りあった。しかし、彼女自身の貪念、不恭敬、布施供養を肯定できない心によってすべてが水の泡になった。彼女は深く決して繰り返さないと懺悔し、更に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対してもう一度、彼女にチャンスを与えて下さるように懇願した。

彼女は、自分が貢高我慢、傍若無人であったことを懺悔した。彼女が初めて金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、心に傲慢な心が生まれ、まったく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの彼女に対する様々な諸問題に対しての殊勝な開示に感激しなかった。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。初めて阿弥陀仏無遮大超度法会があった時、彼女はボランティアの仕事をすることを拒んだ。責任を負うのが怖く、衆生の要求を無視し、慈悲心がなかった。兄弟子たちと話すのに礼儀がなく、口喧嘩を起こし、嫉妬心を起こし、嗔念を起こした。彼女は師兄たちに懺悔し、今後決して繰り返さない。彼女は嘗て身ごもった兄弟子と共に飛行機に乗った。けれども嫉妬から人を恨み、彼女が風邪をひけばいいと望んだ。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。

金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子たちを連れてインドで尊勝なる直貢チェツァン法王に謁見した時、或る兄弟子はテーブルを運ぶのを手伝うために席を立った。彼女は隨喜功徳がないだけでなく、更にはなぜすぐに座らないのかという嫉妬心と嗔念が起こった。彼女は当時体に少しの病気を患った直貢チェツァン法王が賜った加持済の珍貴金剛ストラップに対して,色のついた分別心が起こった。彼女は、自分は寶吉祥仏法センターで仏法を学び、この赤ベストを着る資格が無いことを懺悔した。彼女は会社でも嘗て間違った知恵を働かせ、メーカーの企画書を盗みとり、メーカーには約束を守らない。仕事が終われば、口実を作ってメーカーの借入金を少なく払った。部下や同僚に苛立ち、功を奪い取り、失敗は部下に押し付けた。もしも自分の意見に不満を持つものが入れば、その部下をクビにした。社長には感謝せず、いつも背後で社長の悪口を言い、是非を論じた。勤務時間に怠け、会社の文具を自分のもののように占有した。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。

道場へ仏法を学びに来た信者業者とは、自分の兄が紹介して知り合い、一緒にプロジェクトに取り組んだが失敗した。それを彼女はまったく謙虚に考えず、反対にその誤りを相手のせいにして咎め、双方は悪口を言い合い、この信者業者は道場に来て仏法を学ばなくなっただけでなく、人の仏法を学ぶ慧命を断ってしまった。同時に彼女は兄に対しての嗔念も生まれて責め、両親の前で兄を批判した。そして自分に対しての日頃の世話と関心を無視し、少しでも自分の意に沿わないと、兄弟の恩をアダで返し、このことは彼女に自分に嫌悪感を持たせ、貪念、嗔念は水のように湧きでた。もしも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが当時数週間途切れなく開示するのでなく、更に彼女にすぐに改めるように言わなかったなら、彼女は未だに強大な嗔念を抱いたまま、新しい一年に進んでいただろうし、その実の顛末は自分が約束を守らないことから始まっていた。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。

学校のテストでカンニングして捕まった時も、人に頼んで公告欄に貼られた懲戒処分を無断で剥がした。以前アダルトマンガをクラスメートに見せて鼻高々だったこともある。また、クラスメートの財布を盗んで聞かれたのに知らないふりをしたこともあった。小学生の時には先頭に立って教師を詰り、学校で有名になった。成績が悪いので試験はないと両親を騙した。彼女は今後決して繰り返さないと深く懺悔した。友人と会食の時、或る女性のブランドペンを盗んだ。その女性は両親が記念に送ってくれたものなのでペンが無くなって非常に慌てていた。彼女は傍へ走り寄り尋ねたが、彼女は女性に知らないふりをした。更にはその後、そのペンを兄に上げた。盗んだことも告げずに。その後兄は何度もこの事を話したがあのペンは知らないうちになくなってしまったと言った。本当に因果である。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。

彼女は子供を産みたくなかったので、義両親を悪く言い、孝行しなかった。更には些細な事なのに夫を殴ったりもした。家の中は悪事がはびこり、人を許さなかった。両親に孝行せず、いつも彼らに怒っていた。ある時は母に代わって父を叱った。その実、父に対して大きな恨みを持っていた。自分の顔が腫れた時、医師の兄弟子に診てもらったところ、蜂巣炎だった。医師は非常に危険で簡単に脳に転移すると言った。いつも午前は生きているが、午後は死んでいる状態だった。最後に彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と保護の下、やっと健康を回復し、彼女は父母への親不孝を懺悔し、今後決して繰り返さないと懺悔した。

道場で楽器を学んだ時、甲鈴を借りていながらよく練習せず、独占しながら他の楽器を学びたい兄弟子に使わせなかった。彼女は今後決して繰り返さないと深く懺悔した。法会開示を英語に翻訳する時、注意を払わずに翻訳し、校正をする外国人が読み取れず、道場にお金を使わせ、遂には除名された。その後、中国語で法会開示を書く時、いつも他の師兄主筆に頼り、少しも注意を払わず、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した珍貴な仏法を記すことができなかった。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの一字一句の開示を惜しみ、更に責任を持ち、真面目に事に当たらなければならないと懺悔した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが伝えた法に対して努力して修めようとせずに怠けた。彼女は今後決して繰り返さないと深く懺悔した。

皈依したばかりの頃、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して非常に不恭敬の思いがあった。彼女の父母、夫は皆リンチェンドルジェ・リンポチェが救った。自分では何の供養もしてないのに、心の中では不恭敬の思いが起こっていた。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。嘗て彼女は蛇をペットにしていて、母を怖がらせた。最後に兄が学校へ持って行き、世話をしてやらなかったので、その幼い蛇は生きながら餓死した。また、彼女は小さな白兎を飼ったこともある。しかし、学校へ行って餌をやり忘れ、父が冷蔵庫の中の未洗浄の野菜を与えたため、農薬中毒で死んだ。以上二件は、衆生を殺した事情であり、起因は自分に発するが兄弟及び父親を巻き添えにした。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。彼女は、兄嫁に冷たく、常に相手と比較し、嫉妬した。そしていつも母親と兄嫁の是非について話し、自分を仏弟子としながら、あろうことか自分の親戚を批判し、悪口を言い、母親にも言わせた。彼女は今後決して繰り返さないと懺悔した。以前兄の女友達について、彼女は自分の好き嫌いで兄に影響を与え、兄に友人の悪口を言い、人の婚姻縁を壊した。彼女は今後決して繰り返さないと深く懺悔した。

嘗て人を金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会わせることを面倒に思い、人が金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会う因縁をなくした。彼女はまた親しい友人の母親を紹介し、母親は道場へ来て仏法を学び皈依したが、その後深く考慮せずに友人の母親を道場から遠ざけ、人が仏法を学ぶ慧命を断った。信者を紹介して皈依し弟子となったが、他人に感謝を貪り、いつも自分を賞賛しないと、他人に対して嗔念が起こった。彼女は今後決して繰り返さないと深く懺悔した。土曜日に、慈悲深い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会った時、上師は彼女に道場で大声を上げて懺悔を発するように指示した。しかし、彼女は傲慢にも翌日直接法会の時にマイクを持って大声で話し、懺悔を求める事も自分の方法ですると言い、少しも上師を恭敬しなかった。彼女は今後決して繰り返さないと深く懺悔した。彼女は8年来、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの懇懇とした教えから自分の業が離れていたことを深く懺悔した。

彼女は今生でもしも徳を備えた金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから仏法を学ばなかったなら、彼女が作った様々な罪悪によって必ずや三悪道堕ちただろうと深く悟った。彼女は赤ベストを取り上げられ、信者になって久しいが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を学ぶことができ、自分を改めることができ、自分が衆生を傷つけた誤りを反省できることは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に与えた莫大な加持と恩典であり、また今生で人として生まれたことは非常に重要であると深く感じた。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが与えた殊勝な加持と呵責が彼女を悟らせ、過去の行為を懺悔させたことを感謝した。彼女は今まで心の痛みを感じたこともなく、すべての衆生に慈悲を感じたこともなかった。それらに厳しく、残忍な心で衆生を攻撃し、衆生に対抗し、そのため心が優しい気持ちになったことがなかった。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に業因果を明らかにしたことを感謝した。

話はここまでである。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは大衆の身になってくださる。そして一人の弟子に、法会が間もなく始まること促すよう、慈悲深く指示した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がり、出席大衆に珍貴なる佛法の開示を授けた。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは《寶積經》を読経した時、文殊師利授記会第十五のうちの一段を見た。今日は特にこの段について特に取り上げる。なぜならこの段の中には釈迦牟尼仏がなぜ娑婆世界で仏法を広めたのか、また娑婆世界の多くの人々の悪について述べているからだ。そのうち、この段は嘗て台北において他の道場へ行った人にとって役に立つからである。

釈迦牟尼仏は娑婆世界には多くの「諸善丈夫」がいると説く。多くの人は、丈夫は夫であると思っているが、仏経で言うところの丈夫とは夫のことではない。仏経が言うところの大丈夫が指すのは、既に大きくなった心で仏法を学び、生死を解脱し、衆生を利益することで全く少しも止まらずに手を伸ばす考えである。勇気を持って仏法を学ぶ人は大丈夫の行為であると仏経で説く。日本において、大丈夫という言葉をよく聞く。意味は問題ないということで、事実はここから来ている。大丈夫が指すのは、世間の様々な事情に対して執着しない、世間輪迴の様々な悪業に陥らないということである。仏経上では更に「善」を提起しているが、それの最も根本的なのでは十善法を修めるということを指している。もしも十善法を修めないなら、皈依しても、灌頂、伝法を受けても意味がなく、今世では生死を解脱することは不可能である。

仏に依ると、娑婆世界において、それはこの地球上であるが、いくらかの諸善丈夫は自己を放免しないし、自己の貪嗔痴を放免しないし、また衆生が彼を傷つける全てに耐えると言う。けれども娑婆世界に於いて多くの衆生には諸悪が満ちていて、一切の悪が備わっているのだとも言う。仏法で言うところの悪とは,どんな理由があろうとも、衆生を傷つけることが悪であるというだけである。「具足」が指すのは、既に行ったということであり、更にめったに後悔することである。皆は今の社会がこのようであると思うか?間違ったことをしても自分は間違っていないと言う。更には理由をつけて自分は間違っていない、人が陥れたと思う。そして第三者は彼に間違っていると言わなければならないし、彼に間違っていることをわからせなければならない。間違っても人は彼を許さなければならないと考える。現在の風潮はそうではないか?上は政治家から、下は市井の市民まで全てはこのようである。

その実、思い返してみると、誰もが子供の時、このようである。明らかに間違いを犯したのに、父母が見ていなければ、逃れられるなら逃れ、隠れられるなら隠れる。騙せるなら騙す。だから仏経で説くのは間違いがない。そなた達の中で両親を騙したことがない者がいるだろうか?誰もが騙したことがあるだろう。「少能悔過」(めったに後悔する事)は地球人類の特色である。一匹の犬でさえ、間違いを犯して叱られれば、間違いを犯したことがわかる。しかし、人は間違いをわからず、反対に山のような理由を探し出してきて自分の行為を解釈し、辻褄を合わせる。或る人が別の人に代わって違法な事をして言い訳をしても、違法は違法である。仏経で言う少能悔過とは、自分の間違いがわかる人は少ないか、ほとんどいないということである。

経の中では引き続き説いているが、このような人の心は粗野であり、激しい。それが指すのは、悪を行う心は非常に激しいということであり、それは恥、羞恥心がないからである。なぜ、間違いを犯しても尚自分のために解釈するのか?それは羞恥心がないからである。仏家の思想と言わないで、儒家の思想でも皆に説いている。間違いをするには羞恥が必要であり、儒家でも嘗て恥ずかしくて死ぬということを提起したことがある。古代の学者はちょうど真の徳を備えた士大夫のようであり、もしも間違いを犯したなら、何故に真っ直ぐに話などできようか?人が彼を陥れたので彼と別れた?そのようにし続けると、国家は陥落する。

経の中で言うとおり、仏を敬わず、法を重視せず、僧を大切にしないと、地獄、畜生、餓鬼道へ堕ちる。だから、地球上の人類の99.9%は皆おそらく三悪道へ堕ちるだろう。そなたは、自分は仏法を学んでいるから三悪道に堕ちないと思っている。「仏を敬わない」とは仏を恭敬しないということで、仏は仏の事を言っていて、自分ではできない、なぜ仏の言うことを聞くのか?と思っている。現在、台湾で仏法の学びは百花繚乱である。例えば、往生布団を被せる、蓮花を生ける、蓮座を買うことをすれば阿弥陀仏淨土へ往生でき、座禅を組めば光が見えると考え、寺院へ行くのも先ずそなたに代わって占いをして仏の縁があるかどうかを見たりする。これ等はすべて法ではないし、仏を敬っていない。多くの人が仏の言う事を信じない、聞かないのなら、仏は自分の前に現れないと考え、毎日多くの人が仏を求める。自分はちっぽけな役割であると考え、仏は自分が何をしても聞こえないし、知らないと思う。仏はそなたが何をしても関わったりしない。そなたがしたことは自分の因果である。

仏を敬わなければ、必ず輪迴する。仏法が言うところの「仏を敬う」は、その他の宗教が神を畏れるというのとは異なる。仏菩薩は我々を罰しないことを認めている。そなたが佛菩薩に対して恭敬しなくても、仏菩薩はそなたを罰しない。そのような思いすら存在しない。なぜ、仏を敬わないことはこんなにも大きな罪になるのか?簡単に言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェがよく例えるとおりで、そなた方がもしも兄弟姉妹と喧嘩した時、なだめればそれで何事もなくなる。しかし、そなたが父母と喧嘩したなら、どうであろうか?先ずは打たれたことだろう。小学生の時、そなたが教師と喧嘩したなら、どうだろう?まずは立たされることだろう。もしも教師と喧嘩したのではなく、同級生と喧嘩したなら、少しは救えるかもしれない。なぜ、両親と、教師と喧嘩するのか?それは恭敬心がないからである。

そなたが仏に対して恭敬しないのは、仏がそなたを罰しないのではなく、そなた自身が悪なのであり、当然悪いことが呼び寄せられる。なぜならそなたの心は悪であり、すべてを感化するのは良い人ではない。そなたが修行しているか否か、生死を解脱するか否かは全く別のことであり、けれども仏を敬うことは最も重要である。《寶積經》では仏へどのように恭敬供養するかを多く説いている。「法を重視しない」とは、仏が説くところの一切をすべて重視せず、自己で発明する。現在仏教界の多くの発明家は数えることができないほど多い。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼い頃から理科方面はあまり良くないため、発明を得ることがわからない。仏と上師の教えに聞き従い学び、行う方が良いと知っている。

仏法は数千年前に説いた法なので、今では時代にそぐわないと皆は考えている。以前の人と今の人は異なると考える。事実、何処が違うのだろうか?ただ用いる物が違うだけである。以前の人はご飯を食べなくても良いか?、寝なくても良いか?、排泄しなくても良いか?ただ、以前はiPhoneがなかったが、今はあるにすぎない!何処が違うのか?すべて同じである。ただ用いる道具が違うに過ぎないのである。同じであるからには、仏が言うところの修行方法も同じで特に人類のために説いたものであり、特に或る一民族、文化のために説いたものではない。もしも仏法がただインド人のためだけに説いたものであるならば、今日こんなに広い地区に広まらなかったろう。もしも単に一文化のためだけに説いたものならば、こんなにも異なる言語と文化背景の人が仏法を受け入れられるはずがない。

拠って、仏が言うところのすべての修行の法は、人類のために説いたものである。仏は元々人であることが、他の宗教と異なる。他の宗教はどれも神である。釈迦牟尼仏だけが自分は人だと言っている。仏は人なのだから、当然、長所と短所、問題が何処にあるのか知っている。だから、自分の修行経験を通じて我々に如何に改めるかを伝えている。そなた達は仏になっていないのだから、何を元に発明家になるのか?仏が説くところの仏法と時代の食い違いにそなたはどのようにすると考えるか?仏今までも水陸大法会には大功徳主が必要と言ったことがなく、内壇主と外壇主にはいくらの費用が必要かと言ったこともない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を読み、今までもそれらを見たことがない。もしもお金を渡すと功徳主に成れるのなら、皆は修業をする必要もない!

仏経の中で説く布施、供養は釈迦牟尼仏の功徳主に与えるものであり、彼らは皆修行者であり、絶対に非修行者ではない。だから真に供養するのは修行人であり、お金にするのではない。「法を重視しない」と仏ははっきりと言っていない事を皆は競ってする。仏がはっきりと言っていることを皆は競ってしない。だから、仏法は当然ゆっくりと廃れていく。仏法は益々似て非なるものになり、箱ばかりで中身がなくなる。例えば、もしも密教を学ぶのなら、チベット仏教にとって、必ず顕教が基礎となり、経典と仏の理論は変わらないもので、密法を伝授する。密法を伝授する前、必ず不共四加行を修めなければならない。もしも不共四加行を修めずに密法を伝授しても、それは詐欺とは言えないが、確かに法に従うことではない。

なぜ、法に従うことではないのか?なぜなら、不共四加行はそなた達の福報を貯めたもので、そなた達に代わって智慧を開くからである。そなた達は何が菩薩なのかがやっと分かる。福報がないのに、どうして菩薩になれると言うのか?金剛乘は果位で修めることができ、金剛乘だけを伝授し、それが即ち菩薩の果位である。当然、そなたはまだ菩薩ではない。しかし、意義から言うとそうなのである。菩薩になるのに、どうしてそんなにそなた達に甘いのか?読経すれば良いのか?功徳主になれば良いのか?拝めば良いのか?必ず多くのレベルの学習を経てできるようになる。

なぜ、そのような状況が起こるのか?それは法を重視しないからであり、仏法を重視しないからである。ただ相手がよくやって来て、供養をすればその人に伝授し、彼がしっかりと修めたかどうかに関心を寄せないのは正しいことではない。金剛乘上師と弟子の関係は累世の関係であるから、もしも弟子の根器が足りないのなら、伝授してはならない。寶吉祥仏法センターでは必ず、皈依して三年以上の弟子でないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは不共四加行を伝授しない。なぜなら、少なくとも三年は叱り、そなたが改めるかどうかを見る。先ほど懺悔に出てきた弟子は皈依して8年余り経っても改めず、懺悔してもまだ改めず、やはり自分を主としていて、いつも話している。先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を止めなければ、彼女はきっと二時半まで話していただろう。それは何を示すのか?彼女はやはり自分主義なのである。

仏法を学べば仏菩薩はそなたを加持すると思ってはいけない。仏菩薩と上師の加持は、そなたの心を怠けさせないためであり、仏法を学ぶ因縁を継続させるためである。けれども改める人はそなた自身であり、そなたの決心である。そなたが改めないのなら、再び加持しても意味が無い。だから、法を重要視することは大切である。聞いたことがないこと、仏経で言ったことないこと、上師が言ったことがないのを伝えることは、すべて貪法してはならない。特にもしも衆生の密法に関係したなら、もしも修法の時、衆生がそなたに彼に代わって済度してほしいと言い、そなたが彼に代わって済度しなかったなら、それらの衆生は嗔念が起きる。けれども多くの人は法を貪り、密法を学んで自分はすごいと思う。

密法を学ぶのは苦しいことであり、そなた達が過ごしやすくなるためではない。そなた達はそなたに伝授したのはそなたが誰だから、伝えたと思ってはいけないし、または来世はこの法を修めることが出来ると思ってはいけない。今世においてそなたが密法を修めたのに、衆生に利益しなければ、多くの衆生が欠損する。特にリンチェンドルジェ・リンポチェのように毎年催す阿弥陀仏無遮大超度法会のように、リンチェンドルジェ・リンポチェが法のとおりでないなら、仏菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェに毎年開催させない。施身法法会について言うと、もしもリンチェンドルジェ・リンポチェが如法でないなら、毎年参加者が多くなっていくことはない。これは、虚空の中で多くの衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェを通して彼らに多くの助けをしていることがわかっているからである。

リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の中には、多くの類似の話がある。台湾には多くの家に、宮廟、タンキーがある。嘗て或る人は自分のタンキー、神明に尋ねた。彼らは、皆そなたは台北の中で私よりもずっと大きいと言った。このような事は一人言っただけではない。或る人は恩主公に尋ね、5回の聖筊を出した。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェを信じなくても気にしない。けれども少なくともこれ等の鬼神はそなた達より優れている。彼らは物事がわかっているが、そなた方はわかっていない。言い換えると、もしも、そなた方が法を重視せず、仏を敬わずにいると、そなた方は仏法を学んでも自身を助けないばかりか、自身を傷つける。それが密法である。法を貪ってはいけない。そなたは順番に学ぶことを守らなければならない。適当にそなたに伝授すると、そなたも修めることができない。

特に密法に於いて、多くの観想部分は話さない。多くのリンポチェとリンチェンドルジェ・リンポチェは、皆同じようにその法門を学ぶが、中の幾つかの文は直貢チェツァン法王だけにある。直貢チェツァン法王は彼らに言わない。なぜなら縁がないからである。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの法門を求めた時、直貢チェツァン法王は笑いながらリンチェンドルジェ・リンポチェに言った。この辺りは一文欠けている。そのあたりは一文加え、そこにはこれを加える、それを加えるというように。多くのリンポチェはその一段を知っているが、どのように用いるかを知らないと直貢チェツァン法王嘗て言ったことがある。

そなた達は、チベット人がこんなにも簡単にすべての本領を掬い出してそなた達に伝えると考えてはいけない。今日は、たまたまついでに言ったにすぎない。なぜこの段を言ったのか?なぜなら法の清淨を必ず重視しなければならないからであり、法を如何なる混ぜ物を中に入れてはならないからだ。いわゆる仏法は清淨であり、純善なので、単純は善であり、それは即ち衆生利益、生死解脱であり、如何なるその他の物を中に入れて混ぜない。そなたが仏法を引き続き学びたいかどうかに、如何なる条件もない。

法を重視すると、如何に愛僧するのかがわかることが出来る。愛僧の「愛」とは愛情を指すものではなく、古代人が書く愛というこの字はそなたが人を愛する、私がそなたを愛するという種類とは全く関係がないものである。これは一人の修行者を大切に思うことを指している。一人の修行者に会えるのは非常に稀なことである。特に密法を学ぶ修行人はそなたに姿を見せない。一人の密法の修行者は、彼がこの段階まで修行したので一日中そなたに彼はリンポチェであり、優秀であることをいうことができないし、墓に数年住んでいたので優秀であるということは絶対にできない。もしも、墓に住んでいるのが優秀なのであれば、墓守はもっと優秀であるはずだろう?仏経に於いて、墓に住めば優秀であるとは書いていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも仏経を読んでいるので見たならば言う。

「愛僧」とは、如何なる修行人を傷つけてはならないことである。この世間に一人の修行人が表れるのは偶然ではなく、非常に複雑である。それは彼自身が過去世で常に修行しただけでなく、今世でも因縁があり、良い善知識に会った。そして彼を培養し、教え導いた。そして今世で出現した。例え良い善知識があっても、別の因縁がないのなら、衆生に対して助けがない。だから錯綜して複雜な事なのである。一人の真に法に忠実な修行者に出会ったのなら、仏経では我々は好きに批評してはいけないと述べている。そなたが好きならば行けばよいし、好きでないなら離れればよく、評してはいけない。仮に彼が法に忠実でなくても彼は或る一点に関して修めているわけで、それはそなたよりも良いということだから、批評する必要はない。

仏経の中で述べているとおり、釈迦牟尼仏は下劣な衆生の中に於いて、すべての叱責、汚辱、誹謗、妨害、悪言等々を耐えることが出来るのは、まるで釈迦牟尼仏が成仏時の九難のようである。これらすべて内部に包括する。仏経の中で述べているとおり、釈迦牟尼仏の心は大地のようであり、動搖せず、間違いがない。これ等が指すのは、釈迦牟尼仏は娑婆世界の心であり、例え悪辣な衆生の中にいてさえ、これら衆生がした様々な事情は彼の心に少しも影響を及ぼさない。

仏経で引き続き述べるのは、だからこの世界は娑婆世界と呼ぶ。その時、莊嚴星宿聚王菩薩は仏に乞う。今、このように大きな善利を得た。言い換えれば、彼は今、一人の菩薩であり、一切が善であり、悪辣で下劣な衆生の中に生まれない。菩薩の説法の意味は、ちょうどそなた方がいつも言うのと同じで、良かった私は運がいい。まだ鬼の世界にまでは行ってない。

この時、一人の信者が振り返り道場の或る角を見た。リンチェンドルジェ・リンポチェはすかさず、彼の心が道場にないことを叱った。後ろを見たいのなら、はっきり見るためにも後ろに座ればいい。寶吉祥仏法センターへ来て法を聞きながら、心が定まらないのなら、帰ったほうがましだ。彼は長い間、請い、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェがやっと彼を法会に参加させた。法会に参加する時、頭をキョロキョロさせてはならない。彼が見ている方向に修行人はいない。この道場にはただ一人のリンポチェしかいない。彼の頭が向く方向は、彼らがリンポチェであると思っていることを表している。彼らは今世リンポチェではないが、来世はまだわからない。寶吉祥仏法センターは非常に厳しく、法を聞く人が集中しない場合、先ほど述べた「仏を敬しない、法を重視しない、愛僧しない」となる。この信者は何を以って専心するのか?自分は功徳主ではないと思っているのか?彼が以前に行った場所は非常に心地よかった。座れる椅子があり、ご飯が食べられた。いっそ、次回は来ないのがよろしい!

続けてリンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。仏経に於いて、仏が菩薩に言った。善男子!そなたはそのように言ってはいけない。仏は東方には一世界があり、名は妙莊嚴忍と言う。そこには今、仏号を大自在王という者がいると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。その仏を多くの人は聞いたことがあると思う。台北ではこの仏を拝む人がいる。ここに大事な点がある。仏経において、その仏土の衆生は皆安楽に満ちている。つまり、それはその浄土の衆生には苦がなく、ずっと安楽である事を指す。それはちょうど比丘が入滅したようなものである。まるで比丘が入滅した事を定め、生死がない。即ち阿羅漢である。

「彼之安樂亦復如是」とは、ちょうどその地の衆生は安楽に日々を過ごしているということである。もしも衆生がこの仏土に於いて億百千歲過ぎ、一切の梵行を修めても、娑婆世界に於いて、指を弾いた間に衆生に対して慈悲心が起こるには及ばず、得た功徳は彼らよりも多くなる。道理は何処にあるのか?なぜなら我々は大乗仏法を学んでいるが、それは菩薩道、金剛乘を学ぶことである。もしも、自分の利益だけのためで衆生を顧みないのなら、功徳はない。このことからもわかるように、もしもそなたが大自在王如來仏を拝むのなら、必ず男女の性欲はあってはならず、必ず出家しなければならない。なぜなら、その地の衆生はすべて禅定の途中だからである。

釈迦牟尼仏がこの例を提示したのはこの仏を批判したと皆は誤解してはならない。なぜなら、人によって縁が異なる。そなたの縁はそのようではないのにこの仏を修めようとしても、それは修めることができない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した因果法則、瓜を植えれば瓜になり、豆を植えれば豆になると同じである。そなたが、もしも今世で在家相が表れ、大自在王如來仏の方へ行くことを求めるのなら、求めても得られないものである。なぜなら、そこは、すべて入滅した衆生だからである。

仏がいうとおり、菩薩道を修めるには、仏になるには、必ず最も苦しい所を修めなければならないし、衆生の苦を理解してやっと修めることができ、それらの苦を避けてはいけないし、これ等の苦を嫌ってもいけない。それはちょうど病気の人が、自分が病気を望まないように、衆生の苦が何処から来るのかを理解することができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、以前皮膚癌になったが、逃げなかったし、仏菩薩にリンチェンドルジェ・リンポチェに代わって病気が治るように求めなかったし、直貢チェツァン法王に修法を求めなかったし、医師にもかからなかった。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌になったのか?なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは過去に殺生があり、魚を食べた。だから病の苦を得ることで、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の病苦の見方を理解することができようになり、どのように彼らを助けるかがわかった。

仏の意思は、もしも我々が菩薩道、金剛乘を修めるなら、最も修めるのに適している場所は娑婆世界である。娑婆世界は,ごちゃごちゃしていて、乱れに乱れ、嘘ばかりの所である。けれどもわざとそのようなところが、我々が修行するのを助けるのである。なぜか?なぜなら、これ等は我々の煩悩の根源だからである。仏法を学ぶにはどのようにして煩悩を断つかを学ばなければならない。小乗から考えると、煩悩を断つには、自分を入定させ、如何なる煩悩に接触しないことである。菩薩乘から考えると、煩悩が理解できれば、煩悩を生み出すことを減らせる。金剛乘の修行方式に依ると、煩悩は即ち修行の道具であり、行者が煩悩で修行することで、衆生の煩悩を改めることが出来るという。

だから、なぜ金剛乘を修める速度は速く出来るのか?多くの時間を省くことができるからである。なぜ、金剛乘を修める人は少ないのか?なぜなら多くの人は、煩悩が好きであり、愛しているからであり、抱きしめるからである。それならはどうしようもないだろう!だから、我々がほんのすこし間だけ、一切の衆生に対して慈悲心を起こせば、リンチェンドルジェ・リンポチェのように、毎回法を修める時に皆に言うことが出来る。衆生が苦しみを受けることを考えなさい。衆生を代表して修法しなさい。衆生を代表して法会に参加しなさい。自分のためではないのである。それが慈悲心である。なぜ、先ほどの信者は専心できないのか?なぜなら、彼はやはり自分のために法会に参加しているからだ。それを叱るわけにはいかない。なぜなら、以前、それを教える人はいなかったから。

そなたが知ることは、衆生を代表し、慈悲心を起こすことである。すると、仏菩薩と上師の心と相応し、相応することで加持を得ることが出来る。心が間違っていると、相応できない。慈悲のパワーは如何にして用いることが出来るのか?空性を証するには、慈悲のパワーを使うことが出来る。空性を証するまでは少なくとも慈悲の心は出さなければならない。だから、上師が考えるのではなく、作りだすのではなく、如何にして慈悲の心を引き出すかを、そなたを導き、そなたを連帯し、そなたに教える。慈悲心は他人の苦を見てわざと鰐の涙を流すことではない。なぜ、鰐の涙と言ったのか?なぜなら、そなたは他人の苦を見てある日自分も彼と同じになると知る。それは慈悲ではない。慈悲とは自分の最も良い物を他人の最も悪い物と交換し、彼が苦海から離れるのを助けることである。

もしも、今世で我々自身が人の苦がなければ、苦を体感することができない。苦を体感できなければ、離苦(苦しみを離れる)を考えることができない。離苦したくないなら、衆生が離苦するのを助けられない。多くの人は、病気になると緊張し、急いで拝懺し、良い事をする。これは非難するほどのことではないが、仏法を学ぶ心とは違う。仏は、ただ我々はほんの少し間だけ衆生に対して慈悲心を起こせば、功徳は彼らより多い、更には、我々が一日一夜清淨心を住まわせ、それは心に雜念がないと説いた。《阿弥陀経》の中で説くとおり、もしも一日、二日、三日、一日中ずっと念仏を唱えたなら、清淨な心が住むというのと同じである。そなたが阿弥陀仏真言、六字大明咒を念じると、そなたが念じたのは本尊の清淨な本性、清淨な功徳、清淨な慈悲、清淨な智慧である。そなたはただ、本尊の真言を唱えることが、清淨な心なのだ。

《阿弥陀経》が説くところのもし一日、二日、三日とは、仏一、仏七と叩くことを教えることではなく、叩いて回ることで、そなたに清淨な心を教えるということである。だから閉関修行しなければならない。一群衆が念じるのは、閉関修行ではなく、この種はただ皆が閉じてあげたにすぎず、真の閉関修行とは、一人が空間の中で閉じ、何者とも接触できない事である。なぜか?なぜなら皆の心は、外へ向かう縁に慣れている。もしも群衆が共に八関齋戒をしたなら、そなたの眼睛は他人を見ないではいられないし、耳は他人が念じるのを聞かないではいられない。なぜならそなた方は未だ境界に至る前なので、使いやすい法門によってそなたを助ける必要があり、そなた達に理解させ、何が清浄な心かを体感させる。清淨な心は戻ってくるではなく、求めて戻るのではなく、念じて戻るのではなく、本来そなたが持っているのである。

仏は、ある日清淨な心が大きな功徳になるとなぜ言ったのか?なぜなら、もしもそなたの心がある日、清浄になったなら、そなたが亡くなった時、自然に清浄になれ、阿弥陀仏の清淨な本願に触れることが出来る。だから、お金で蓮花座を買い、阿弥陀仏のところへ行くのは絶対に偽物である。台湾のお金は阿弥陀仏のところで使えるのか?アメリカのお金でも使うことはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経を読んだが、札束のことは書いてない。ただ黄金の道が書いてあったが、それは地球の黄金であるかどうかは分からない。阿弥陀仏のところの黄金はおそらく9999純度であろう。現在地球の科学では黄金を100%純度にできず、最高で4個の9までであり、100まで純度を上げられない。しかし、阿弥陀仏のところの黄金は、おそらく百分率一千の純度であり、だから、地球の黄金では役に立たない。

この段の意味は、発明家になろうとせず、仏経で説くことを重視するよう説いている。仏は、お金で浄土を買うことが出来ると言ってない。つまりそれは不可能なことなのである。仏は功徳主をすれば業障が消せると言ってない。そなた達はこのような事を信じてはならない。では功徳主をすることは何になるのか?ただ、そなたが仏法に触れる機会を得ただけである。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは悪戯にして、なぜ大功徳主は前に座り、お金がない人は最後尾に座るのか?と法師に尋ねたことがある。その法師の答えは素晴らしく、その人は発心があるので、菩薩は当然、その人を一番に見たいと思うと答えたのだ。明らかに釈迦牟尼仏はひとつの話をしている。ある日、国王はお金を出して法会を行った。法会が終わった後、弟子が仏に当日、功徳が最も大きいのは誰かと尋ねたところ、仏は遠くの老婆であると指さした。弟子は解せずに彼女は金がなく、貧しい、そしてこんなにも老いている。なぜ彼女なのか?仏はいとも簡単に答えた。それは彼女が功徳を随喜したからである。国王がお金と力を出して彼女に法会に参加させたことを彼女は褒め称えた。そして、歡喜の心で国王の功徳を賞賛した。だから功徳が最も大きい。リンチェンドルジェ・リンポチェがここからわかることは、前に座る者を仏は見えず、後ろに座るものがよく見えると、ユーモアを以って言った。

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日開示するこの話は、誰かを批判するものではないので、皆は誤解しないでほしい。ただ、仏は我々に、そなたが金剛乘を修めたいなら、安楽なところに隠れていてはいけない、必ず苦しい場所にいるべきであり、それでこそ、この種の発心のちからが生み出されると言った。もしも、そなたが安楽な場所にいるのなら、どうして発心ができるだろうか?なぜ発心が必要なのか?だから、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は皆腕白者なのだ。大企業の社長はいない。なぜなら、皆苦しい中でリンチェンドルジェ・リンポチェを求めて来ている。これはリンチェンドルジェ・リンポチェにとって非常に良いことだ。その方がリンチェンドルジェ・リンポチェは仏が説く衆生へ慈悲心を起こすことを行うことが出来る。どの衆生も苦しんでいるのを見ると、自然に慈悲心が起こる。

皆は、仏が説く事を理解するのであり、考えるのではない。何度も唱えれば理解できるような簡単なものではない。それは絶対にはっきりしている。仏法を学ぶのは、必ず具徳の上師に依止しなければならない。具徳の上師はそなたを仏にするのではないが、少なくともそなたが道を間違えないようにする。それはちょうど、先ほど懺悔した弟子のようであり、数個の甘露丸を手に取った。その他の事は関係ないと考えている。細々としたことはどうでもよいと思っている。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは、却って細々としたことを注視する。なぜなら如何なる大事も、小事から始まる。それも仏が言うことである。

善悪に関わらず、小事から始まる。小事の時に彼が断つ助けをしないと、大きくなってからでは断つことができなくなる。だから、そなた達は自分は悪事をしていないと思ってはいけない。実のところ、そなた達は一生の間に多くの小悪を蓄積している。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうど、《寶積経》の一段を見たので、その機会を以って皆に開示する。なぜなら我々は地球上の人類であり、我々の今の仏運は釈迦牟尼仏が説いた事であり、小乘、大乘、金剛乘を含め、全ては仏が説いた法である。我々は仏が説いた法を尊重し重視しなければならない。法に従い、ブランドを自分で作らず、自分で悟りを開いて悟ったと言わないことである。この問題は非常に重い。どの仏の願力も同じではなく、もしもそなたが彼と願力が異なれば、行くことはできないし、その仏の法を修めることはできない。

例えば、金剛薩埵は衆生に代わって業を消すので、リンチェンドルジェ・リンポチェを尋ねてくるのは皆、業障が非常に重い。もしもリンチェンドルジェ・リンポチェが財神法を修めていたなら、おそらく尋ねてくるのは企業者だったろう。なぜなら彼らは財を増やしたいからであり、リンチェンドルジェ・リンポチェは専門を変えるべきかもしれない。しかし、これは自分の発願に直接関係があり、累世に発した願とも大きな関係がある。いわゆる発願とは、自分の新しい願ではない。仏経上には十方三世諸仏がいると言うが、仏だけがどのくらいの仏が宇宙にいるか知っている。

言い換えると、我々が考えることは、これ等の仏はすべてお見通しであり、すべて知っている。だから発明家になってはならない。そなたにはそなたと縁のある一尊菩薩がいて、その菩薩の本願に基いて行えば良い。例えば、金剛薩埵は衆生に代わって業障を消すが、そなたは先ず自分の業を消さなければならない。法本を手にすることができたら、人に代わって灌頂できるのではない。少なくとも閉関修行中に、五、六十万回の百字明咒を唱えてやっと、自分の業を消すことが出来るし、清淨な本性を得て衆生を利益できる。十万回の百字明咒を唱えるのは、閉房中に唱えることを言い、そなた達に代わって重い業、例えば短命死や、事故死等の業をそなたに代わって軽くするに過ぎず、すべての細かい業をすべて取り除くことは、そなたが金剛薩埵を専修することを除き、出来ることではない。

金剛薩埵を修めることは非常に辛いことである。リンチェンドルジェ・リンポチェが修めた本尊はとても辛く、唱えた真言はすべて100字を超える。そなた達はずっと楽である!たったの6字でしかない。6字すら、唱えることができないなら、それはもう叩くしかない。なぜ、ちゃんと唱えないのか?なぜなら、心が清淨でなく、山のように考え、山のように要求するからである。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年に閉関修行して修めた本尊真言は150字あったが、それを十万回唱えなければならなかった。そなた方も唱えてみなさい!そなた方はたったの6字を唱えるだけでも、時間がかかる。

我々が仏経から体得する仏が開示する仏法には、決して少しの僥倖の心を持ってはならず、先にしてから考え、後から懺悔すると考えては行けない。これはなぜ、そなた達は悔い改めが少なく、皆は悔い改めないと仏は言うのか。ちょうど、昨日の弟子のように、既に皈依して3年余りになるが、夫は日本料理店で板前をしているが、毎日殺生をしている。そして、殺生をした金で彼女らを養っている。彼女の考えは簡単である。もしも夫が何もしなければ彼女らを養う金はない。これは即ち、法を重視せず、仏を敬っていない。仏rは我々に殺生してはいけない、悪業をしては行けないと教え、それは悪業の手助けすることも含む。けれども彼女はいつまでも共業していて、自分は法会に来て加護を祈っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、本日はっきりと言う。彼女のような事をしていては、加護はない。なぜなら、彼女の心は悪であり、自分の家族が生活するため、悪事をしても関係ないと考え、自分が何度も懺悔すればよく、それで良いと考えている。仏法を学ぶのは決心を固めなければならず、決心なくして修めることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、本日、ここで絶対に修めることはできないと、再度強調する。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を学ぶ過程で、多くの人々は、リンチェンドルジェ・リンポチェに仏法を学ばない事を望んだ。けれども自分で決心した。そなたがもしも決心することがないのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが何を言っても意味が無い。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き因果を開示した。経典では一切の經論を通じて我々は、因果は嘘ではないと認めることが出来ると説いている。先ほど説いたように、もしもそなたが菩薩になりたいのなら、安楽な日々を過ごしていたら、菩薩になることはできない。なぜなら、そなたの心は楽すぎるのである。もしも善を行う人ならば、この地は非常に乱れていて事が起こっても、そなたの身には何も起こらない。ちょうど、それはある人々が決心をして仏を学び修行をしていたら、前後左右の人家に泥棒が入っても、彼の家だけは泥棒に遭わないのと同じである。一昨年、台中で大地震があった。或る弟子は中南部に住んでいて、近所の家は倒れたが、彼らの家は何事もなかった。これは因果であり、一切の起こった事は、すべて自分に関係する。

以前、省政府があった時、或る人は職位を得ていて、多くの芸術界の人が彼に贈り物をしてそれを売っていた。その金で彼は台中に家を買い、それらの芸術品をその中に収納した。その数は膨大であった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てそれを見たことがあるが、その数は本当に多かった。その後、地震があり、家は倒れ、中の物はすべてなくなった。正しくない手段で得た物は手元に残らない。

なぜ、修行人がいた場所には災いがあったのに、彼の身には何もなかったのか?その実、これは簡単に理解できる。なぜなら、全ては自分の福徳のパワーと関係があり、今生の吉凶は、すべて前世にした善悪業の果報である。

或る人は、自分は今生で既に悪を断ち、懺悔し、善行し、拜懺したのに、なぜ、未だに事が起こるのか?と思っている。これは過去世で行った悪のパワーが今生に来ている。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てそなた達に開示したことがある。もしも部屋に多くの海鮮を置いたなら、例えその海鮮を部屋から持ちだしても匂いは残る。即ちそういうことであり、そなたが既にすべての悪を断ち切っても、匂いは残り続ける。仏法を学んだなら、百毒も侵されない、何も怖いものはないと思ってはいけない。仏さえ人に石を投げられ、金剛大力士に頼って石を砕き,金剛大力士は主に仏に代わって石を砕いた。そなた方は求めても求めは届かないし、異なる。直貢噶舉にはある護法は主動に直貢噶舉の弟子を保護していた。もしも、彼が傷つけたいと思ったなら、唱えても意味が無い。護法は動作できる。しかし、それはそなた達を指したのではなく、そなた達はただアキ護法に頼っただけである!

ここから分かるのは、前世には幾つかの定業がある。定業とは何か?即ち果は熟している。我々が前世で行った様々な善と悪の業力を今生に持ち越している。だから我々が生まれてきた身体は即ち、業力の報いの身体である。この身体は過去に行った善と悪業のパワーが混ざり、生み出された業報の身である。我々の身体は父母が与えたものであるが、仏法から言うと、父母はただ助縁であり、我々が身体を得るのに助けとなった。しかし、もし過去の善と悪業がなければ、身体に現れる状況は異なる。

我々が生まれた時、既に善と悪の業力を備えている。我々は母のお腹の中から生まれ、成長し、社会に出る。その間には多くの助縁があり、善または悪に関わらない。この種の善と悪の助縁は、我々の過去世での善と悪の業力が今世で成熟し、いわゆる定業になった。

リンチェンドルジェ・リンポチェ自身を例に取ると、社会に出て初めての仕事は、ホテルでのコックの見習いを3ヶ月余りしたが、包丁で肉を切ることはなかった。当時リンチェンドルジェ・リンポチェと同期の見習い人は、既に肉を切り始めていた。もしかすると、リンチェンドルジェ・リンポチェは愚かで、外見もよくなかったのかもしれない。けれども仏法から見ると、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが殺す悪業は過去世で既に止まっていたのかもしれないので、切らずに済んだ。だから、今世では自然と殺す助縁は現れることがなかった。そなた達の家ではある人がコックをしている。或る人は肉を売って金儲けをしている。それはそなたの過去世で悪業、殺業をしたことを表している。今世では多くの殺業をしていて、殺さないことを決めていない!

なぜ、共業はこんなにも重いのか?そなた達は、そなた達とは関係ないことを思ってはいけない。また夫が働かず、金を稼がなければ一家三人晩御飯すら食べられなくなると考えている。これは即ち果報を信じていない。そなたは今世で夫がコックをしている。それは絶対に過去世での殺業の業力が連れてきたものである。連れてきて、そなたは彼に助縁している。そしてこの殺業の果報は今世で表れ、死んでから地獄へ堕ちるのを待たなかった。

或る人が癌に罹ったのは自分の果報が至ったからと考える。その実、これはただの開花でしかなく、花報にすぎない。花が開いて実がなるには時間が必要である。もしも、花が咲いた後、そなたはすべて善の助縁であれば、果が成熟するまで待つのは苦しいことではないし、おそらく甘い時間であり、そして果は現れる。罪花は飛ぶだけで実は成らないと考えてはいけないけれども、そなた達は誤解をしている。リンチェンドルジェ・リンポチェのようなそなた達よりも良く修めたものでも、今生で癌に罹る。そなた達には何があると言うのか?ただ、そなた達の原理がここにあるだけである。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは今生と前世に因縁があり、努力して善を行い、因縁があったので、善知識で仏法を学んだ。だからリンチェンドルジェ・リンポチェの善の助縁のパワーはそなた達よりも何倍も大きい。それは過去世で蒔いた因である。

定業が指すのは、そなたが行った一切のパワーが増え、果報が現れるが、それでは改める意味もない。改める意味が無いのは、果がないと言っているのではなく、果を改めることができないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは脊椎大側彎であるが、道理からすると、歩くことができず、医学からすると半身不随になる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、多くの世で殺人を犯してきた。だから今生でこの果報を得た。けれどもこれは正式な果報ではなく、ただ花が咲いただけである。脊椎大側彎の人の果報は短命で死んだら地獄に堕ちる。

その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは医師弟子に尋ねた。脊椎大側彎になった患者は多病であり、短命か?医師弟子はそうだと答えた。医学的には脊椎はちょうど家の棟木であり、棟木が正しくなければ家はしっかりと建てることができない。身体の中の内臓は神経システムが覆っている。脊椎が健康でなければ、神経システムは大きな問題が発生し、臓器は機能、状況に大きなマイナスを蒙る。問題が大きいと衰弱が早く、あっという間に壊れてしまい、病気なるか、死亡する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き開示した。自己の過去世には殺業があったので、花報が出現した。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは子供の頃から拳を習っているが脊椎側彎があってはならない。功夫をするのに、馬歩をしなければならないが、脊椎をどうやって側彎させると言うのか?しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に脊椎側彎した。もしも、今生で多くの助縁がなかったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの定業は短命で、多病、死んで地獄に堕ちた。今生に多くの善の助縁があったため、果報の味が変化させた。身体にこのような状況が表れたが苦しみはリンチェンドルジェ・リンポチェにとって存在しない。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェの癌は治ったのか?仏菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェに対して特別待遇してくれたからではない。そなた達と違って、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果をはっきり知り、受け入れ、理解しているので、癌はなぜだかわからずに良くなった。会場に於いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の検査をした医師弟子に説明するように指示した。医師弟子は確かにリンチェンドルジェ・リンポチェの癌はなぜか分からずに良くなったと答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは医学理論に基づき、リンチェンドルジェ・リンポチェは本来、どのような医療を行ったかを医師弟子に尋ねた。医師弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが罹ったメラノーマについて説明した。メラノーマは、皮膚癌の中でも最悪の癌で、脳や内臓にあっという間に転移するので、手術、化学療法、放射線療法を行うが、最後はそれでも各所に転移し、非常に辛く、苦しみ死亡する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き開示した。仏は衆生の業力を変えることはできない。衆生が自らを変えることができるのである。どのようにして変えるのか?即ち、仏を敬い、法を重視し、愛僧によって改めることができる。経典ではそなたが、過去世に於いてもしも悪の業を行っていないのなら、絶対に悪の果の出現はないとはっきり書いてある。過去世にもしも善の業がないのなら、絶対に善の果の出現はない。簡単に言うと、そなた達が自分は何年間も仏法を学んだからと言って、自分がそれほどの人間と思ってはならない。そなたが過去世で大きな善縁がないのなら、そなたは今世では無理である。なぜなら過去世でそなたは仏法を学んでいないのに、今生は仏法を聞くことができるようになった。だから、仏法を学ぶ人は謙虚でなければならない。なぜ、謙虚でなければならないのか?なぜなら、仏だけが、我々が過去世の各世での事情を知ることができ、それは即ち阿羅漢であり、我々の過去五百世を知ることができるのである。

もしも、そなたの過去世が真に是大修行者だったなら、今世では法王であるし、少なくともリンチェンドルジェ・リンポチェのようであったはずだ。しかし、そなた達は違う。それならば謙虚になるべきであり、教えに従うべきであり、体をもっと下げるべきであり、傲慢にならないことだ。そなたが傲慢だと、そなたの業力はすぐに成熟する。仏法を学ぶ人はより因果について理解しなければならない。なぜなら、自分の過去で少しばかり良いことをしたので、今世で仏法を学ぶ機会があり、その機会を習得した。今世で多くの善のパワーを貯めて、まさに《阿弥陀経》の中で説く福德因縁を減らしてはいけない。少しすれば十分であると思ってはいけない。十分足りたならば、そなたは今生とは異なり、仏法、衆生の救済面に於いて、すべて異なって現れる。

もしも、そなたが一般人と同じであるなら、そなたは過去世で仏と仏法に縁があったということであり、今世では勤勉でなければならない。勤勉とは自分で大きな福徳因縁を貯めることである。そなた達にとって法会に参加するとは、表向き、仏菩薩と上師と縁を結ぶことであるが、実際はそれだけでなく、多くの衆生と縁を結ぶ。なぜならそなたが来ると、多くの衆生もやって来る。今日、皆が見える人は一千三百名余りの他に多くの衆生と縁を結んでいる。このようにすることで、来世でそなたは衆生を助ける能力が生まれる。

寶吉祥仏法センターでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは日曜日ごとに法座に上がって説法をするが、もしもリンチェンドルジェ・リンポチェがいない時、リンチェンドルジェ・リンポチェが以前に開示した仏法の録音テープを聞くことが出来る。これは即ち、法輪をずっと回し続けることであり、法輪の回転とは、仏や皆に頼って祈るということではなく、皆で法輪を動かすということである。どのように法輪を動かすのか?即ち修行を始めるということである。そなたが修行をすると、法輪は動く。そなたが修行をしないと、法輪は動けない。なぜ動けないのか?そなたが修行しないのなら、法輪は何のために動くのか?誰も修行しないのなら、法輪は止まってしまう。

だから、我々は自分が過去にした様々なことを理解する必要がある。過去、前世,今世を含む以前の我々が行った一切の苦の因には、苦の果がないはずはない。過去行った一切の安楽、善の因は、善の果がないはずはない。だから、我々は確実に信じるべきである。今生で向かい合う事、受け入れる事はすべて自分がしたことであり、他人とは関係ない。そなたが誰も会ったか、誰がそなたに良くしたか、そなたに悪く対したか、それらはすべて貴方自身がしたことであり、それがそなたを含む自分の業であり、そなたが関わったある共業なのである。

仏は、なぜ我々に隨喜することを教えるのか?隨喜はお金をいくらか包むことではなく、ただそなたが誰かの仏法の行いや何も求めずに衆生に利益するのを見て、そなたは歡喜心を起こして賞賛することだけである。このようにすることは、そなたが善の共業の中にあることである。善の共業が十分だと、悪の共業のパワーが抑えこまれる。我々が思惟を通して心の中で因果が絶対に嘘偽りのないものであると深く信じた時、過去の因果が発した理解から現在の因果に対して取捨を行うことができ、法に従って実修する。

我々は自身の苦と楽に対して、誰よりもはっきりしていて、父母よりもはっきりしていなければならない。だから、もしも我々が今生の苦と楽を真面目に考える事できるのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが先週に皆に教えたように、自分の楽は何か?今生で何をするのか?を思索しなさい。ちょうどそなたが現在、博士だったとしたら、それは天から降ってきたものなのか?神がそなたに与えたものなのか?いや、違う。そなたはきっと勉強したはずだ。自分で学ぶ時、必死に勉強したか?或る人は適当に勉強して合格する人もいると言う。そういうこともあるだろう。おそらく彼は過去世で聡明を学んだのだろう。或る人は、一時期は良いが一時期は良くないと言う。今日はその件については論じないこととする。

もしも、そなたが今日美味しい料理を作ろうとしたなら、多くの準備をしなければならないだろう?買い物をする、調味料を求める、どうやって調理するか?もしもそなたが作ったことがない料理をある人がどのように作るか教えてくれても、その人の味を出せないことがある。おそらく家庭の主婦ならばこの意味が分かるだろう。テレビでどれだけの砂糖や塩を入れる事を見ても、自分が作ったものは余り美味しくなかったりする。そのことからも分かるとおり、例え仏菩薩と上師がそなたにどのように教えても、そなたが実際の経験に基いて行わなければ、やはりその味は体得することができない。簡単に言うと、因はそなたが行うこと。リンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩の加持に頼らない。仏菩薩とリンチェンドルジェ・リンポチェの加持は、ただそなたの心の意志を強く支えてそなたを怠けさせないようにするだけである。けれども改めるどうかは、すべてそなたにかかっている。

そなたは自分の過去の因果を知っている。苦しくてもそれは前世にしたことだと言ってはいけない。急に病気になった。今世でどうやってわかることができたろうか?このような事を言う人は、仏経で「悔い改めを知らない」と言う。それはそなたが生まれる時に病気になった場合を除く。母親が妊娠時に問題が発生したのだろう。また妊娠時に問題があるのなら、追っていくと必ず祖先の遺伝子に問題があったりする。祖先の遺伝子に問題があるのは、科学で原因を説明できないが、仏法ではそれは行ったすべての業力だと説く。仮に今世でわかった後でもそなたはすべてを忘れてしまう。少なくとも最近数年に経験した苦と楽だけを覚えている。それではなぜ苦は益々重くなるのか?なぜ減っていくのか?楽はなぜ消えていくのか?楽はどこから来るのか?を考えなければならない。それはすべて因果である。

今日、人がそなたに良く接してくれるのはそなたが少なくとも人を詰ったり、怒ったりしないからである。なぜ、人はそなたに対して好印象を持つのか?過去世で修めたか否かに依らず、少なくともそなたが社長を見る時、怖い顔をしていないからである。それは因である。多くの人は因は複雑だと思っているが、その実、それは違う。そなたの身口意はすべて因であり、それは自分を反省する簡単な方法である。過去の因果に対して非常に確定的な思いが起こった後、現在自分がしたすべての因に対し、それが未来の果であることがわかり、だからどのように取捨するかを知る。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、その夫が未だに殺生する料理人である弟子に不共四加行を学ばせないのか?なぜなら彼女は取捨せず、この因を続ければ、将来必ず良くないと知っている。しかし、短い生活のため、先ずしてしまい、後から仏菩薩に懺悔と考える。それは因果を信じていないからであり、現在台湾の多くの人は皆そのようである。自分は今まだお金を稼ぎ足りていない、稼ぎ足りたらしなくなると考えている。それでその時に寄付をして、善行を行い、仏菩薩に懺悔しても意味は無い。直ぐに断ち、直ぐに止めなければならない。一切の悪を止めることで、善のパワーは単純に貯まり始める。もしもそなたがこちら側で悪を行い、あちら側で善行を行えば、それは非常に複雑になる。以後そなたの人生も複雑になる。それは誰が創り出したものなのか?そなた自身であり、他の人ではない。我々を傷つける人はいない。すべてのことは自分が創りだしたものである。

経典が述べるのは、おおまかに言うと、因果には二種の実践の方法がある。一つは我々が果報を感じる時。二つ目は因をした時である。先ず、果報を感じた時、それは即ち、我々が今経験している苦と楽である。それはすべて過去にした業因のパワーであるため、今の苦楽の果報は停めることができないのである。ある人が重い病気になった。そして今病気は嫌だと言い、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持をして癌細胞を失くしてほしいと頼むが、それは不可能なことだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの癌のようになぜか知らないが止まってしまう事を除いて。なぜ、わけも分からずに止まってしまったのか?なぜならリンチェンドルジェ・リンポチェはずっと善の業を途切れることなく貯めてきたからで、善の因のパワーの量は、過去のすべての悪のパワーよりも大きかったので、悪のパワーを押し込めたのだ。けれども悪果を消し去ったのではない。今も存在している。簡単に言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェの福報は益々大きくなり、益々良くなったのだ。

人は病気になったり、破産したり、自己が起きたりするが、それは福がないからである。なぜ仏法を修め、福を修め、慧を修めるのか?福は使って享受するものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身のことを例に取ると、脊椎大側彎と癌はリンチェンドルジェ・リンポチェの後半生で仏法を学ばせない原因として十分であった。けれどもリンチェンドルジェ・リンポチェは福報を貯め続け、福報は足るに十分な厚さになり、リンチェンドルジェ・リンポチェの後半生でも仏法が学べるようになった。だから、そなた達は今、なぜ仏を敬い、法を重視し、愛僧を理解できたと思う。そなた方はこれ等の福報を貯めておらず、単に求めているだけで、加持するだけである。そなたの過去世の悪業のパワーは、現在直ぐに取り除くのは不可能である。ずっと悪のパワーが追いつけないほどに、そなたの善行が十分に多いなら、それもできるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがそうであるように。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、初日に仏法を学んだ時、ただひとつの事が分かった。供養である。リンチェンドルジェ・リンポチェはごはんを食べることができなくても供養した。けれども、そなた達はそれを真似てはいけない。なぜなら、このように言うと、私腹を肥やしていると言う人がいるだろう。皆は決して真似てはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは運命が苦の者なのであり、そなた達は皆福報が大きい人である。だからリンチェンドルジェ・リンポチェのように、こんなにも苦しい修行をしなくてもよいのだ。

経典上に依ると、我々は現在した善悪の業を止めることはできないし、未来の苦楽の因となることを知っている。未来の苦を離れて真実の楽を得ることを望まない人はいない。だから今から我々は真実の一切の善行を行い、一切の悪業を捨てる。そなた達は現在、なぜ リンチェンドルジェ・リンポチェから叱られるのか分かっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達が一切の不善の悪業を捨てるのを助ける。だからそなたは、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示している時に頭を動かす事は悪業である。なぜなら、そなたは法を重視してない。どんな理由があろうとも。

リンチェンドルジェ・リンポチェに言わせると、仏法を聞くと入定する。なぜ、入定するのか?なぜなら仏法は非常に珍貴だからである!どうして百分の一秒でもまばたくのを惜しまないのか?仏経に依ると、仏と菩薩が仏法を開示する時、我々は仰いで見る。チベットにおいて、ただ法王、大リンポチェが伝法すればよい。ラマ僧はそのように見ている。それは仏経に基いているから仰ぎ見る。だからリンチェンドルジェ・リンポチェが叱ると、そなたに代わって福報を貯めている。そなたが振り返って一秒間でも少なくなると、また1秒間減ってしまう。

我々は捨てなければならない。できないことを恐れず、しないことを最も恐れるべきだし、決心できないことを最も恐れるべきだ。できないことは何もなく、できないのはそなた自身が決心するかどうかである。人間関係が悪くなることを怖れず、皆と同じでないことを怖れてはいけない。ないと言うのか?出かける時、もしも言わなければ、誰もリンチェンドルジェ・リンポチェが他人と違うとは思う人がいるだろうか?特にリンチェンドルジェ・リンポチェは多くの密教を学ぶ人が身につける多くの物を身につけていない。出かける時には数珠さえ手にしない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェも顯教を学び始めた時、皆と同じように手に数珠を付けていた。そして座ると数珠を外して置いた。本当のように念じるが、だんだんと人を騙す人の事が分かるようになってきた。

経典上に依ると、もしも一切の不善の悪業を断つことが出来るなら、未來では痛苦の果を感じることは無くなる。これは無因の果は宇宙萬物全体の中において、絶対に起こらないことである。それが指すのは、宇宙全体であり、そなたや地球、太陽だけを指しているのではない。如何なる発生も、絶対に前因がある。ただ我々はそれを知らないだけである。空から一つの天体や星が飛び出すことはなく、全ては前因の存在がある。我々が理解したなら、例え細微な不善悪業であっても慎み、決して軽く見てはいけないし、していけないことを覚えておくべきである。「悪は小なるを以ってこれを成すなかれ、善は小を以ってこれを成さざるなかれ」である。

仏法は簡単で複雑ではないのに、なぜ、そなた方は行うことができないのか?即ち、決心していないからである。事実、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも多くの事は小から始まると見る。極悪人ではない。人は生まれでた瞬間から極悪人になったりしない。全ては小さい悪からゆっくりと積み重なり大きくなる。善も同じである。始めた時から大きな善をすることはできない。そなたが小さな善をゆっくりと貯めていくと、大きな善になる。だから、仏法は真に簡単であり、複雑なのはそなたの心である。そなたが決心さえすれば、することが出来る。

或る人は言う。良いことをすれば良い報があり、悪いことをすれば悪い報があるとは限らない。現実社会において、良いことをしているのに苦しい人もいれば、悪い人なのに良い生活をしている人もいる。事実、これは良く聞くことである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはよくこのように解釈する。これはただ、その時がやって来ていないだけである。今生で体験する様々な苦楽は、すべて前世でした一切の業因の果であるが、けれども今生がした一切の善悪の果報は未来世で成熟する。だから修行人から言うと、ずっと途切れることなく善行を行えば、今生のすべての悪の果報を抑えこむことが出来る。ではどうやって抑えこむのか?即ち菩提心と今世で修めた功徳に依る。

功徳は、自分の夫や自分の病気に回向するものではない。厳密に大手印を以って言うと、功は禅定であり、離戲瑜伽に入っており、德は一切の戒律が良く守られていることを言い、更に既に菩提心を発し、菩提行の中で人となる人である。功徳があると、自然に業力のパワーを抑えることができる。釈迦牟尼仏が成仏するのに、九難を受けても、どれひとつの難も仏を傷つけることができなかった。それは仏の功徳、福徳を修めたからである。

経典上に依ると、現在行った善業だけで過去世にしてきた善悪業を淨化することが出来るか?この種の考え方に対して、2つの状況がある。種子位と果報位である。種子位から見ると、我々は阿賴耶識に於いて、前世でした不善悪行的種子は、即ち今世でした善業パワーによってそれを捨てるので、経典上で言うところの悪業の種子は果報が生まれ出るはずがない。これは先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったことであり、今生ではそれに上げる助縁があるかどうかである。今世で我々は土に種子を蒔いた。もしも太陽、水、肥料がなければ、種子は発芽できないので、ずっと土の中に入ったままである。

仏が言うところの阿賴耶識は、過去世で我々がしたことの一切の悪と善の種子が中に入っている。今生で助縁をあげなければ、即ち肥料を上げなければ、それは成長することができない。仏教において、我々は悪を止め、善を行う。道理はそのとおりである。その種子を成長させる機会を与えてはいけない。なぜ善を行うのか?なぜなら、過去世でそなたが行った善の種子は未だ阿賴耶識の中にあり、発芽の機会を待っている。なぜ、大法会に参加して泣く人がいるのか?自分の過去世で阿弥陀仏と縁があることを感じたのではないか?事実は全くこのようではないが、そなたは大法会の善の助縁に参加してそなたの阿賴耶識の中に水が撒かれ、そなたの善の種子が発芽を始めただから自然に泣くのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、一日中そなた達に悲しい話をして泣かせたいのではない。そなた達の善の種子が萌芽するのを助けることだ。善の種子が萌芽すると、そなた達は法会の中で泣きたくなる。それはどういう意味があるのか?即ち、善の出現であり、種子が発芽したのである。種子が発芽したなら、引き続き水を撒く必要があり、引き続き見守り、世話をする必要があり、継続して世話をしなければ、大きくなってもなくなってしまう。とても簡単なことである。少しも複雑なことはない。そなた達が話すのが複雑なのである。

仮に今世において、我々が悪の種子を萌芽させる機会を与えなかったら、悪の果報が生まれることはない。それでは種子はどうするのか?まだ阿賴耶識の中にあるのか?どうもしない。なぜならば最後に仏果を得る時、すべての悪と善は分かれなくなる。成仏の前は、悪と善は分かれているが、成仏の後は分かれなくなる。すべて一切の善と悪はどちらも因縁であり、行ったり来たりして既にどちらもでも無くなる。だからパワーは出現しない。

今日、話した種子位のこの一段は、仏法を学ぶ人にとって非常に重要である。今世において、もしもずっと善の種子を捨ておいたなら、次世では必ず萌芽する。今世でずっと善を行うと、悪の種子は生まれ出ない。すると、リンチェンドルジェ・リンポチェの癌はなぜ良くなったのか?脊椎大側彎はなぜリンチェンドルジェ・リンポチェに影響を与えなかったのか?つまり、そういうことである。簡単な道理なのだ。けれども腹をくくってしなければならない。口で言うほど、容易なことではない。

経典に於いて、「第二に果報位について言うと、我々が今、感じるのは既に成熟した苦楽の果報であり、断ち切ることはできない。なぜなら、我々は既に受け入れたのだ!総じて言うと、断ち切るのは、マイナス面の切るべき品であり、この種の状況は、すべて悪性の陋習の種子を傷つける。そして身心の相続の中で,正面の対治品を依止する。この種の状況は、すべて善性の陋習の種子を育て養う。」

この段を簡単に言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは癌に罹り、断ち切ることができないと知った。なぜなら過去に殺生し、海鮮を食べた。だから当然の結果なのだ。断ち切らない事は却って良いことである。その道理は何なのか?即ち、たった今開示したが、我々は一切の悪を止め、一切の善を行う人であると、すべての悪性の陋習の種子は続けて成長できない。つまり、そなたがこれ等の事を得たなら、その他の事は考えなくても良いのだ。なぜなら、我々は多くの悪の種子を持つが、多くの善の種子も持っている。多くの人は癌に罹ったら、大損したと思う。事実はそうではない。後にもある。なぜ他にあると言うのか?なぜなら、おそらく地獄へ堕ちる、餓鬼道へ堕ちる種子であろう。

多くの人は癌に罹ると、お金を残して医師に見てもらおうと思っても仏菩薩は私を許してくれるだろう。この様にすると、過去世で餓鬼道へ堕ちる種子は今世で助縁を得て、その人を餓鬼道へ落とすだろう。癌に罹る人、思い通りに行かない人は、自分を大損したので、急いで金を取り戻そうと思うだろう。それは即ち、彼の過去世の貪の種子があったからである。過去世の貪の種子は存在した。彼は考える。今生で金がないのなら、取り戻すことはないか?騙す必要もないか?過ぎてから考えよう!これは彼には悪性の陋習の種子がないやり方であり、それならどうするのか?それはもう二度としないことであり、考えも持たないことである。すべてが善ならば、この種の陋習、助縁は増えないし、別の悪の種子も出てこない。

或る人は、自分は損をしていると思い、既に破産して何もない。先ず、この件を解決してから善行しようと思う。結果、本来萌芽しないはずの悪種子が動き出す。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が癌だと知った時、非常に嬉しかった。自分は債を返すこと出来ると知ったからである。心が喜び、喜んで途切れなく多くの善を行った。仏菩薩に自分の癌が治ったら衆生を救う、仏法を学ぶのに精進するというような交換条件を出さなかった。これは仏菩薩を脅迫している。だから悪の種子が動き始めるのだ。仏菩薩に何の関係があるのだ?そなたの病気が治るか否かは、仏菩薩と少しの関係もない。なぜ、仏法を学んだ後良くなるのか?簡単なので、そなたはずっと善行すると、悪の種子が再び成長しないし、それが断ち切られる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に喜んだ。消極的に受け入れたのではない。そして喜んで因果を信じた。そして自分が過去世と今生で殺生し、それを返済しないで済むはずない事を知った。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在の肉体を返す。それはとても嬉しいことである!少なくともリンチェンドルジェ・リンポチェは殺生と地獄に堕ちる果報はなくなったのだ!皆は返済したくないと思い、仏菩薩がそなた達に代わって返済すれば良いと思う。けれども仏菩薩は魚を食べていないのだ!何の理由があってそなた達の代わりに返済しなければならないと言うのか?

多くの人は、密宗で法を修めた後、病は良くなると思っている。この原理は非常に簡単である。なぜなら、そなた達は過去世に善の因があった。だから今生でそなたは出会った。そなたに法を修めさせて善の因を萌芽させる。そなたは仏法を学び始め、改めたので、悪の因はもう成長しなくなった。当然、少しずつ良くなっていく。仏法はすべてが論理であり、決して迷信ではない。自分は墓で何年間修めた等々と思ってはいけない。必ず道理を説かなければならないし、論理がある。だから我々は善の陋習の種子を育て養わなければならず、決して如何なる善行の機会も逃してはならない。

善行の機会をわざと探す必要はない。その実、毎週法会に参加することで、そなた達は善の陋習の種子を育てている。そなたが信じようと信じまいと、帰った後、少なくともリンチェンドルジェ・リンポチェが何に対して詰ったのかを考えてみなさい。ただそなたは何に怒ったのかを考えるだけで,善の陋習の種子が増え、悪の種子が減る。もしも、そなたが全く望まず、帰って直接テレビを見たのだとしても、当然リンチェンドルジェ・リンポチェはわからない。けれどもちょっと考えてみれば直ぐに使うことが出来る。皆は良く聞くように。仏法を学ぶのに、迷信を学んではいけない。仏法を学ぶのは時代遅れだと思ってはいけない。レベルが低いと思ってはいけない。実際の仏法は最も論理的であり、最も哲学であり、如何なる学問よりも高い。なぜなら、仏法は物事をはっきりと分析しているからである。今日は、先ず、因果の第二種教法まで開示した。他の二種は次回に説明する。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、既に不共四加行傳法を受け取り、且つ十万回の大礼拝を完了した弟子を残すように指示した。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる金剛薩埵法門を慈悲深く伝授し、観想方式を弟子たちに与えた。

法会は円満となり、弟子たちは揃って尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの伝法と開示に感謝し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りるのを起立して敬い送った。

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2014 年 12 月 20 日 更新