尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年8月25日

法会の始まる前に、一人の女弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに救っていただいた経緯を話して皆と分かちあい、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を加持してくださった事を感謝した。

もし彼女の記憶に間違いなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは、もしも、手指を切ったり、傷口ができたりしたら、すべて衆生を傷害したことがあるの因果関係だと開示なさった。彼女は幼い頃トンボ、コガネムシ、チョウチョなどの昆虫を捕まえたことがあるのを懺悔した。その他に、魚、蝦、鶏、アヒル等の動物の肉を食べた。彼女は、これらの衆生を食べたことを懺悔した。彼女はコガネムシの足を抜いて、虐待し、非常に残忍だったことを心から懺悔した。

彼女がぼんやりと覚えているのは、先月の7月23日の夜、お風呂を出て、突然天地がグラグラして、地震かと思い、なぜ今回の地震がそんなに大きいだろうといぶかしく思い、しかも体が動けなくなり嘔吐し続け、手を伸ばして物を掴もうとしても掴めず、そして彼女はすぐに「リンチェンドルジェ・リンポチェ、お助けください!リンチェンドルジェ・リンポチェ、お助けください!」と叫んだ。それから意識が朦朧としていったが、ぼんやりと覚えているのは、家族が救急車を呼んで自分を病院へ連れて行ったことだ。意識が少し回復してから、自分がICUに居るのを知った。次第に意識がはっきりしてきたが、非常なめまいがする。医者は彼女に脳のコンピューター断層撮影(CT)を行った結果、小脳の左側に3センチ大の血塊が発見され、実は情況は非常に危険であったと家族から言われた。医者はもし血塊が三センチよりもう少し大きかったら、手術しなければならなかったと言った。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが加持くださったことを感謝した。彼女はICUに二日間居ただけで、情況は次第に良くなってきて、嘔吐しなくなり、手術もしなくてよく、すぐに一般病棟へ移る事ができた。彼女の回復は非常に早く、歩くのが比較的に緩慢になり、行動がやや不便になったほかはその他の後遺症もなく、医者と看護婦が非常に不思議に感じていた。彼女とその家族は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお慈悲と加持力に感謝し称賛した。もし尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがお救いくださらなかったら、結果は今の様ではなかっただろう。もし手術していたら、手足の神経を傷つけて、半身不随になったかもしれない。もし視覚神経を傷つけていたら、失明したかもしれない。もし顔の神経を傷つけていたら、話がはっきりしなくなったかもしれない。ICUに何日居なければならなかったか、どれだけの医療の苦痛を耐えなければならなかったか分からない。どれだけのお金を使い、ひいては所謂先端医療を施して治った後にも、彼女の回復度がどのくらいになったかは分からないのだ。

7月27日土曜日、彼女は病院に届け出て、道場へ来て、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにこの一切を報告し、上師の加持に感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に、あなたは皈依してどのくらいになりますか?と尋ねた。彼女は10年ですと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたは皈依してもう10年になるのに、まだ血管が破裂したりするとは、私は一回だけしか助けないぞ」とおっしゃった。彼女は私が、間違っていました、敬仰心がなく、平常はきちんとお話を聴かなかったと懺悔した。最後に上師に供養するときに、何と直接傍らに侍っていた出家衆に供養を渡したので、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは供養を受け取らなかった。この基本的な供養さえ間違った事を、彼女は深く懺悔した。

8月3日、彼女は中風に罹って10日間で退院でき、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝のため、もう一度拝謁を賜ろうと思った。彼女が上師に逢ったとき、泣きたい気持になったが、涙は出なかった。上師は慈悲の眼差しで彼女を見て加持してくださった。彼女の脳圧が高いために、ずっと目眩を感じていたが、加持してもらったときに、彼女の脳が非常に軽くなった感じがして、軽がると歩けるようになった。それは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭で、転重軽受(重きを転じて軽く受く)を知り、彼女は非常に感謝した。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の僅かな供養を受け取ってくださり、福報を累積する機会を与えてくださった事を感謝した。

彼女の家族には高血圧の病歴があり、父親は50歳の時に、脳溢血で亡くなった。彼女の兄は50歳になる前に脳溢血で亡くなった。姉も50歳の時に中風になり、それから行動不便となり、それから突然倒れるのを怖くて、付き添いの家族がいなければ、今まで一人で外へ出かけることができないのだ。
彼女はもう70歳になり、この度の脳溢血では上師の加持があったので、回復も早く、入院も10日を超えなかった。現在一週間に二回、病院へリハビリに行けばいいだけで、ただ歩くのが少し遅くなったが、姿は何も変化しなかった。

彼女と家族は、この一切を大慈大悲の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご加持によるものと感謝した。彼女は上師が加持くださったのは良き日々を送るのではなく、この人身を大事にし、一心で仏法を学び、生死を解脱するためだと分かった。彼女は自分の命は上師が救えてくださったもので、これから上師のお話をよく聞き、一心で仏法を学び、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに自分のことを心配なさらないようにし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助ける時間が更に多くなれるようにするのだ。
最後に彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪が常転し、世に常住し、直貢噶舉教派が永遠に伝わることを祈願した。

続いて一人の女弟子が、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女をお助けくださった経緯を皆に語って分かち合った。

彼女が中学一年生の時は、それまでの僅か十六歳の人生の中で、最も苦しい歳月であった。その時の彼女は、同級生に排斥されて非常に苦しかった。そのため学校へ行くのを避け、一週間に五日の授業を三日間はサボった。学校へ行っても、正午にならないうちに何とかして家へ帰りたいと考え、仮病を使ったり、その他の理由を考えて、只々学校を離れたいとばかり思っていた。

当時、彼女のお爺さんが大腸癌に罹り、大叔母に連れられて、幸運にも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を賜ることができた。
初めての拝謁で母親の励ましを得て、もともと物も言えなかった彼女が、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに、同級生との間のことで開示をお願いした。当時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが振り向いて彼女を見て、お慈悲をこめて「何ですか?」とお尋ねになった瞬間、彼女は涙を流して、「同級生がひどいことを言うのです」と告げた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは聴き終わってから、その場で「一日中おんなじ強張った顔をしていて、誰が好意を持ってくれようか?」と、一喝された。その時彼女は突然「そうだ!一日中強張った顔をしていて誰が好意をもってくれようか?」と悟った。その頃の彼女は自分が同級生に嫌われていると思っていたので、内心「あなた達が私を嫌いなら、私もあなた達を好きにはなれない」という考えで、自分は一日中冷たい強張った顔をして人に接していた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示の後、彼女の内心の黒雲が陽光を受けて払われ、すぐさま晴れ渡った。彼女はそれまで自分は間違っていない、間違っているのは全て他人であると思っていたが、今始めて、実は自分が間違っていたのだと分かったのだ。間違いをすべて他人のせいにするのは非常に苦痛なことで、自分は間違っていないと思うから、自分を改めようとはせず、ただ他人を怨むだけで、堂々巡りしていたが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示は黒雲を突き破る陽光のように、彼女を正しい方向に導いてくださった。

それからは、学校でどんなに辛くても、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を思い出して、必ず学校に留まるようにした。彼女が同級生に接するときには、笑顔で話すようにした。しばらくすると、彼女が同級生から排斥される情況は次第に改善されてきた。そればかりか同級生がやって来て、
彼女に「あなたは笑えるのだ!」と言った。

他に彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにも微に入り細をうがつように注意を向けてくださる事を皆に話した。初めて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁を賜ったとき、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の鼻の吹き出物を指して、これは胃がよくないからできるのだ、身体を冷やす物を食べるのを控えなさいとおっしゃった。彼女はそれを聞いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自分の鼻にできた吹き出物まで気をつけてくださったと、吃驚した。彼女は幼い時から冷たいものが好きで、長い間よく腹痛を起こし、中学校の時にはいつもお腹が突然痛くなり顔色が非常に悪くなっていた。これらの一切は彼女が皈依してから、最近どうしてお腹が痛くなくなったのかなと突然思い出したのだ。それで彼女はすぐ尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を感謝した。

今では彼女は当時の同級生が彼女を排斥してくれたことを非常に感謝しており、そうしてくれたお蔭で、この世で幸にも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依することができたので、彼らがいなかったなら、今も恐れ慄く日々を浮沈していたであろう。彼女はおじいさんの病気が彼女に仏法を学ぶ因縁を開いてくれたことを感謝し、更に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に対する一切の開示とお世話に感謝した。

2011年1月16日、彼女の母親と彼女は幸にも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依できたが、彼女が中学三年生に母親が様々な原因で道場から離れ、母親が道場から離れた後は、彼らの生活品質は皈依する前よりかなり悪くなった。その時の彼女は数ヵ月後の学力テストのプレッシャーに直面していて、母親は彼女の成績を心配して、彼女が日曜日に法会に参加することでいつも言い争いをしていた。そこで学力テストが一ヶ月後に迫っても、彼女は道場にはほとんど行かなかった。彼女が休んだ理由は多くて、模擬テスト、中間、期末テスト等等であったが、彼女は勉強がよくできるかどうか、仏法を学びに行くこととは関係がない事もよく知っていた。その間師兄達はいつも彼女と連絡を保ち、常に彼女と、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に対してなさる種々の加持を話してくれ、彼女の信心を堅めさせ、引き続き御仏と無二無別の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従い、仏法を学べるようにしてくださった。

道場へ来なかったその月は、彼女は内心極めて不安で揺れ動き、どんなに遅く眠っても、浅い眠りしかできず、早朝五、六時には自然に目が醒めた。いつもは朝寝坊の彼女にとっては非常に苦痛なことであった。遂に学力テストの当日がやって来て、第一番目のテストは英語で、彼女にとっては比較的得意な科目であったが、問題を捲った瞬間、頭が空白になって、一字ずつは全部分かるけれども、それを組み合わせて全体の意味がとれなくなった。その時彼女は脳裏に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを観想したら、次第に答えが一つずつ浮かんできた。彼女はこのような状況の下で、スムースにそれに続く科目を次々完成した。

学力テストが終ったある日、師兄が突然電話をくれて、電話を切ったときに脳裏に突然ボンと音がして、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女や家族をお助けくださった数数の事が閃き、部屋から勢いよく走り出て、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法照の前に跪いて懺悔した。自分の忘恩不義を懺悔し、自分が上師に対して敬仰心がなく信心が足らず、母親が法会に参加するのを阻止したわけでもなく、自分の間違った心が阻止したのに、その責任を悪劣にも他のせいにして後悔もせず、自分は正しいように理屈づけをして、自分は実に劣悪至極であった。試験と法会に参加する事は如何なる衝突も起きなく、自分の心が間違っているから動揺するので、試験の成績が悪くても、世界末日とはならないが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従わなかったら、それこそ終わりである。

彼女は師兄達があの期間をお世話くださった事、みんなに多くの面倒をかけたのに、師兄達は途切れなく彼女を励ましてくださった事を感謝した。彼女は更に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対しての敬仰心がなく、信心不足だったのに、やはりお慈悲で絶えず彼女に加持してくださった事を感謝した。最後に彼女は感恩また感恩に満ちて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に対して諄々と教え諭し、お慈悲に満ちた開示に感謝した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御法体が安康で、法輪を常転し、仏法事業の興隆を祈願した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に登られ、自ら殊勝なる直貢噶舉施身法法会を主催なさり、並びに法会に参列した大衆に有難い仏法の開示をなさった。

今日は皆に修めるのは密法の中の施身法である。密法は別に神秘ではなく、仏法は二つに分けられ、それは密法と顕教である。密法の修行方式と顕教のとは些か異なり、顕教或いは密法のどれが良いというわけではない。「顕」ははっきりという意味で、仏法の基礎と理論である。多くの人は、自分が菜食をして、お経を唱え、御仏を拝み、本尊参りをし、法会に参加しているので、顕教を修行していると思っているが、実はこれらはすべて助縁に過ぎず、あなたが仏法を学ぶ因縁を助けるのみだ。多くの人が、仏法を学びながら、仏法は仏法、生活は生活として、両者を分けているが、実は仏法を学ぶには、生活の中に融合させてやらなければならない。あなた方は仏菩薩に自分の思うようにしてくださるようと求めているが、仏法はあなた方の欲望を満足させるためではなく、皈依の時にあなた方に言ったように、「皈依法、離欲尊」である。これは仏法に皈依して、この世の欲望から離れて初めて尊き法身を得ることができるということを指す。仏法を学ぶことはあなたの欲望を少しも満足することはできない。あなた方は仏法を学んだら必ず守られと思っているが、この世で得られる一切はあなたが仏法を学ぶこととは関係がないことを知らないのだ。あなたのこの一世がよいのは、あなたの過去世にしたことであり、この一世が良くないのも、あなたの過去世にしたことなのだ。しかし、仏法はあなたの未来を良き方向に向けて歩む助けになる。

施身法は漢語訳の名前であり、チベット語では、この法は「断」であり、一切の欲望の煩悩を切断する事だ。人に煩悩があるのは、すべてある考えに執着し、ある欲望に執着し、ある要求に執着して放さないから煩悩が生まれるのである。煩悩がどこから起きるかを理解して、仔細に深く考えれば分かるが、あなた方の要求或いは欲望が正しいかどうかに関わらず、通常すべてが自分のためであり、自分の利益のためである。あなたが執着すれば煩悩は生じる。仏法は我々に煩悩を断つ事を教えるが、どうすれば断つことができるのか?それは布施、供養を学ぶ事で、また自分の一切の利益を捨て、「捨」の心が要るのだ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法でなす一切は、すべて布施供養である。皆この世で様様な受用ができるのは、すべて前世の布施供養からきており、それであなた方に十分な資糧で生活ができるのである。食事でき、着る服があり、住む所があるのは、あなたは非常に福報があることを代表している。もしまだ足るを知らなければ、煩悩が生じる。例えば必ず家を買わなければならない、他人に成功したように見せるためにお金を儲けなければならない等等だが、金儲けはあなたが考えればできるのではない、これらは一生懸命にすればお金が入ってくるのではなく、累世の布施供養から来る福報なのである。福報は消耗し続けるもので、いつかは使い果たす日が来る。生まれてから消耗が始まるのではなく、受胎の時からすでに消耗が始まっているのだ。

《寶積経》に、胎児と母親は一緒に受用することに触れているが、つまり母親が食べた食物の栄養は胎児に与えることだ。胎児はお腹の中で、母親が食べた物を食べるのが良いとは思うな、実は母体で消化された糊状の物は気持悪いものだ。考えて見なさい、母親が口のなかで咀嚼した食べ物を、咀嚼後に地上へ捨てて、栄養ある食べ物だと言っても、あなたは食べられるか?人間は不思議なもので、状況がよくわからないのだ。

もしあなたの両親が結婚のときに肉食の宴席を設けたら、あなたの財と寿命はみな消耗される。母親が懐妊したときに体力補強のための鶏のスープ、魚スープを飲めば、子供の財と寿命は減少する。妊娠した後の満月酒で体力補強の料理を食べれば、また減少する。基本的には受胎してから人の財と寿命はずっと消耗され続けていて、その因素はとても錯綜していて複雑であるが、一番深刻なのは肉を食べることで、これは人の寿命と福報の消耗が一番早いのである。

寶吉祥仏法センターは商業社会ではなく、仏法社会であるから、リンチェンドルジェ・リンポチェは真相をあなた方に告げる義務がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、他の所があなた方に非常に遠慮深くしているのとは違い、あなた方がどこか間違った所或いは観念があれば、すぐ正すのだ。あなた方が因縁福報があって寶吉祥仏法センターへ来たからには、リンチェンドルジェ・リンポチェは説くべき仏法を余す所なく全部あなた方に告げる。今日あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェの法会に参加するのは、あなた方に驚きの心を持たせ、自身の間違いがどんなに深刻かを知らせたのだ。

今法会に来られるのは自分が他の人よりよいと思うな、あなたが間違いを多くなしたので、此処へ来たのかもしれない、自分は仏法を学んでいるから優れているとは思うな。現代社会の人は何事もなければ道場やお寺へは行かない、すべて求めるものがあって行くのだ。お寺へ行く人には二種類あって、一種は、金持ちで勢力があり、宗教活動に参与することを借りて、自分の名誉を向上させようと願う人、もう一種類の人は、問題と困難な事に出遭って、仏法により解いてもらおうと願うもので、あなた方が寶吉祥仏法センターへ来たのもすべて何か事があって来たのと同じだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、1997年に世に出て衆生を助けることを始めてから、今まで本当に仏法を学びたい人に出会った事がなく、修行がしたいという人に出くわした事がない。皆たくさんの問題を抱え、それで仏法に触れるように来たのである。

あなた方が、今日はなぜここの法会に参加したのか自分に聞いて見なさい。あなた方は皆求める心を持ってやって来て、法会でリンチェンドルジェ・リンポチェに守ってもらおうと希望して、その要求或いは欲望がどんなに正当であっても、すべて自分のためである。あなたは自分が求めがあることをはっきり見極め、苦しんでいる衆生と仏菩薩は苦しみを受けている一切の衆生が皆輪廻の苦海を解脱する事を希望しておられることを思い至るように、それこそあなたが法会に参加し、仏法を学ぶ本当の目的で、あなた方のことをよくなるのを求めるのではないのだ。この一世で発生する一切は、すべてあなた方の累世にしたことで、もう変えることはできないが、あなた方が修行して功徳を積めば、この世の業を動かすことができ、この一世で仏法を学ぶ機会があるのは、あなた方に未来世で、良くなるようにさせ、再び輪廻しないように、ひいては衆生を輪廻から離れて成仏する助けとなれるのだ。あなた方が法会に参加して、もし心構えと諸仏菩薩と相応しないなら、諸仏菩薩の加持を得ることはできない。あなた方が何のために来たかは別にして、今日施身法法会に参加できたことは、過去世にかつて仏法に触れて、布施供養を行ったことがあるからで、これらはあなた方が法会に参加する助縁となっており、仏法を聴く機会をよくよく大切にすることだ。

あなた方が亡者を済度するため施身法法会の参加を求めようというなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に一生を菜食するように要求する。なぜ他のリンポチェはそんなに厳格ではないのに、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも厳格なのかと思うだろう?それは経文に説いているように、地球上に悪い人は非常に多く、善を行う人は少なくて、少しの善念が起きても、すぐに退散してしまう。悪を行うとなると、悪念は絶えず生れて、累積も非常に早いだろう?みんなは自分が悪を行っているとは思わず、人によっては、今日法会に参加した後、明日は美味しいものをたらふく食べられると思っている。《地蔵経》に説いているが、すべて地球上の人類は現在の様である。少しだけの肉なら食べてもいいとは思うな。あなた方がまだ肉を食べるのなら、百倍の殺生の機会があるのだ。あなたが自分の手で殺したのではなくても、衆生はあなたのために命を落としたわけで、衆生が殺される時に、あなたは傍で嬉しそうに見ており、テーブルに料理が上り美食を味わえると思って待っている、これが随悪である。あなた方は容易に随悪をなすが、誰かが悪を行っている時、あなたが傍に居て何事もないとは思うな、随悪の業力は非常に恐しいのだ。

法会に参加して、まだ肉を食べている人は、いくら法会に参加しても役には立たない。続けて来ていればリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたをずっと守ってくれるとは思うな。多くの経文に善男、善女のことを説いていて、《阿弥陀経》にも浄土へ往生するのは、必ず善男、善女でなければならないと説いている。経典で説く善というのは、善事、寄付やボランティアをする事ではなく、これらは本来するべきことであり、善というのは十善法を修行しているの男女である。十善法を修行してはじめて仏法を学ぶ資格があるので、そうでなければ仏法上で衆生を益する資格はない。十善法の第一は不殺生であり、菜食さえできないなら、十善法は修められないのだ!

皈依していない信者は、リンチェンドルジェ・リンポチェを懐疑的な目で見るな、特にこれらの女信者である。リンチェンドルジェ・リンポチェがさきほど開示したのは、《地蔵経》の中の内容で、仏教に照らして仏法を説いており、御仏は余分な事は話されない。仏法の中に「不綺語」の戒があり、多くの人が勝手な冗談を言ったり或いは色事の笑い話などを言わないことだと思っているが、実はこれらの事を言わないのは、人として当然の道徳レベルである。仏法で不綺語というのは、衆生を助けるのに関係のない事は何も言わないことである。あなた方は経文に御仏がおっしゃった内容で衆生に関係ない文字が一つでも読んだことがあるだろうか?

御仏が説く一字一字が皆仏法であり、修行者の嘻、笑、怒、罵はすべて衆生を済度するもので、すべて衆生が輪廻を解脱するのを助けるのだが、衆生の複雑な心念は御仏さえ不可思議に思っている。今日の施身法法会には1520人が参加したが、1520の考えがあるということだ。修法者は只一人であるが、一人一人が得る助けはそれぞれ異なる、それは一人一人の心念が異なるからだ。だからあなた方が法会に参加する心構えはとても重要である。自分の事だけを考えるのではなく、一切の輪廻中の衆生に慈悲心をもつのだ。このほかに懺悔心も必要で、皆が累世で何も間違いを犯していなければ、この一世には生まれてこなかったからである。三宝に対して敬仰心を持つことで、御仏は絶対に私達を害されはしないから、敬仰心を持って供養し、供養すれば福報が累積でき、福報を具えて初めて亡者が仏法の助けを得ることができるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェには二人の弟子がいて、皈依する前に癌に罹り、二人とも乳癌で、二人ともおよそ同じ頃皈依し、同じように家庭にはお金がなくて大供養もしたことがなかった。最近二人は同じ頃に往生したが、その過程は異なった。あなた方の多くが見たであろうが、一人は手の水膨れが非常に深刻で、もう一人は発病から往生するまで、痛んだ事はなく、水膨れもまったくなく、往生前に昏睡することもなかった。彼女は上師に対して全く敬仰心を持ち、全てを聴き入れたので、痛みを感じる事もなく、モルヒネ注射をすることもなく、平静に往生して、死後リンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝なるポワ法で済度してくださった。前に言った水膨れになった弟子はポワ法を受けられなかった。ポワ法を受けられたこの弟子は、始め仏法を学ぶために、元々あった仕事を辞めて、比較的簡単な仕事を探してやり、彼女は全く上師を信じて話を聴き入れた。二人ともお金はなく、リンチェンドルジェ・リンポチェも彼女等に供養を要求しなかった。水膨れになった弟子は経済的には少し裕福であったが、水膨れにならなかった弟子のほうが供養をよくした。供養というのは、金額の大小ではなくて、供養の心にあるのだ。

なぜ二人の弟子が同じ頃に皈依して、同じ様な病気に罹り、リンチェンドルジェ・リンポチェは分別なく同じように教え導いたのに、このような差が出たのか?これは話す事をよく聴くかどうかにある。ポワ法を得ることができなかった弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェがたくさんのことを助けた。彼女は乳癌が発病してからも多くの事に執着して、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に放下しなさいと言い続けても、彼女は聴き入れなくて、娘のことを心配して、考えるばかりしているので、手が大きく腫れて、痛んだ。癌の末期の患者がなぜ水膨れになりやすいのか?それは貪念から多くの間違いを犯すからであり、もう一つの原因はある事に執着して放下できないからである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に福報を累積する機会を与え、彼女にお金で供養しないでいいから、二人の娘が道場へ来て、母親に代わって大礼拝をさせようとした。しかし、二人の娘は少しの間来ただけで、それぞれ理由づけて拝まなかった。これもこの弟子の業ではあるけれども、一番主要なのは彼女の心に関係がある。というのは彼女は生死を解脱する決心をしていなかったからだ。それで、彼女がポワ法を求めても得ることができず、苦しまなければならなかったのだ。

その日、リンチェンドルジェ・リンポチェが日本で法会を挙行していたら、突然水膨れにならなかった弟子の事を思い出し、傍に人に「あの弟子は往生したか」と聞いた。二日後の朝、彼女が往生したという電話を受けた。その後ある日、また突然手が腫れた弟子のことを思い出し、次の日にその弟子は亡くなった。だからリンチェンドルジェ・リンポチェに覚えられないようにしなさいと、諧謔を込めて言うのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが電話を受けたときは食事をしていたが、彼女のためにすぐポワ法を修め、ポワ法を修め終わっても同じテーブルで食事をしている人でさえ、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めたことに誰も気付かなかった。

ポワ法を得ることができた弟子は、生前は病気の為に顔色が暗く沈んでいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修め終わったとき、彼女の顔色に赤みが差し、若返り、皺も消え、微笑を湛えていることを家族は発見した。なぜこのような瑞相になるのか?天界の衆生はみんな16歳から18歳の相をしている。リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法は、すでに彼女を阿弥陀仏の浄土へ済度くださった。阿弥陀仏の浄土も天の範囲に属し、ただ浄土は阿弥陀仏の国土と天界(欲界天、色界天、無色天界)は異なる、天界も輪廻し、浄土へ到ればもう輪廻はしなくなり、成仏するまでずっと修行できるのだ。

なぜポワ法を修め終わったら亡者は微笑を湛えるのか?それはあなたの身に危険が迫り、困っている時に誰かがあなたを助けてくれ、安全な所へ連れて行ってくれたら、あなたは笑顔になるであろう?リンチェンドルジェ・リンポチェが亡者にポワ法を修めなさったとき、亡者が自分は浄土で修行できて、再び輪廻しなくてもよいと知ったら、当然非常に嬉しくて、相もそれによって変わるのだ。もし自分は醜いと思っていてもかまわない、往生後にリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法で済度させてあげれば若くなり、綺麗になるからと、リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアをこめて言われた。
この弟子の家族も看護員であり、死後2~3時間で、亡骸は冷たく硬直することをよく知っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めた後は、この弟子の手足はやはり冷たかったが、梵穴は暖かく、頭髪が一部落ち、顔色は赤みが差して張りがあり、微笑を湛えていた、これが済度を得た瑞相である。

ポワ法を修め終わり、神識の状態が変わり、身体の能量も転変したので、瑞相が生れたのだ。亡者にお経を唱えて済度しようとして、長い時間唱えても、亡者の身体はやはり硬直して、皮膚も皺だらけなのは、瑞相がなく、浄土へ昇れなかったのだ。あなた方はただ唱えれば亡者を済度するとこができると思っているが、あなた方が考えるように容易なことではないのだ。済度は簡単にできるものではなく、人を雇ってお経を唱えて、往生布を掛けて、蓮花を折り紙にしてできるものではない。お経を唱える人が、瑞相が現れないことをずっと思っていたら、唱える心も懇切にはならず、亡者にとっても助けにならない。少なくともリンチェンドルジェ・リンポチェのように、亡者は台湾で、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本に居て、幾千里を隔てて修法して亡者の頭の上に穴を開け、亡骸に瑞相を現すのだ。

経文に読経でも済度できると言う人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示なさり経文には読経でも確かに済度できるとあるが、しかし如法でなければならず、しかも経文に説いている条件に符合しなければならない。《地蔵経》の中に、読経で亡者を済度するには、必ず斎戒沐浴して、毎日新しい服を着て、八関斎戒の閉関をして読経しなければならない。八関斎戒とは、太陽が昇ってから沈むまでの時間で、その間を絶えず読経し続けるのだ。現代社会の生活で、これができる者は手を挙げてみなさい。この場で一人もそれができる人はいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示するが、みんな経文の中の条件を行う事ができないなら、上師の話をよく聴くことだ。

経文には、亡くなって8時間以内は、神識がまだ身体の中にあるから亡者を動かしてはならないと書いてある。リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めて、皆に多くの事を省かせてくださった。ポワ法を修めた後には、どのように処理しても構わないのだ。ポワ法を修めさえすれば神識を保ち、神識はすでに良き所へ行くので、あなた方はそんなに長く読経することはなく、他の事をしてもいいのだ。亡者の初七日を助けるのに、釈迦牟尼仏は、亡者が中陰身の時には、必ずや仏法のお助けを受けなければならない事を注意し続けなければならないとおっしゃっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者を浄土へ済度する能力があるが、あなた方にはできないので、教えに従って行い、上師の教えを従ってし、五戒十善を修持し、《仏子行三十七頌》、布施供養仏法を聴き福報を累積してゆくのだ。もし聴かないなら、上師は助ける事ができない。聴いて自分の家で修行できる、自分の力でそれができるとは思うな、上師の加持がなければ絶対に不可能なのだ!

今日修める施身法は、昔々に、マチクラブキドウン尊者が《大般若経》を根拠に創った布施供養法門である。施身法を修める時に、修行者は自身を諸仏菩薩に供養する事を観想し、供養を通じて福報を累積し、再び布施を一切衆生にするのだ。釈迦牟尼仏は末法時代の人は皆計算高く、自分の利益だけを思っているのをご存知で、そこで特別に経文の中で御仏が布施を行う物語を何度も皆に伝えている。嘗てある一世で、御仏は母虎が子供の虎に飲ませる母乳がなくて、子供の虎は餓死しそうだったので、御仏は自分が虎穴に飛び込んで虎に食べられることで、母虎は子供に飲ませる乳がでることになったという話。このほかに別の一世で、釈迦牟尼仏は国王であり、二人の天帝が鷹と鳩に化けて釈迦牟尼仏を試した。鳩が鷹に追われて、釈迦牟尼仏の身辺に隠れ、釈迦牟尼仏に保護を求めた。鷹は釈迦牟尼仏に、御仏がもし鳩を保護なさるなら、自分は鳩を食べられずに餓死するというのに、釈迦牟尼仏はお慈悲がないのですかと話した。すると釈迦牟尼仏は自分の肉を鷹に食べさせたのだ。菩薩道を修行するには必ず捨てなければならない、幾つかの火傷痕に意義があるのではないのだ。このような身、口、意で布施供養する程度までやらなければならなくて、修行者は少なくとも登地菩薩以上の果位を修行してはじめてできるのだが、それも空性を悟って始めてやれるのだ。だからあなた方は釈迦牟尼仏が自分の肉を切ったことを学ばなくてもいい、切ったら痛いし、あなた方にはできないからだ。

《寶積経》に記載されているが、釈迦牟尼仏はある一世で、ある地方の人たちが皆貧しくて、病気が多かったので、一匹の大きな虫になって人々に食べさせ、食べた人々は病気が皆治った。また他の一世では、釈迦牟尼仏は仙人で、つまり天人で、ある町の人々が食べるものが全然なく、しかも非常に重い病気に罹っているのを見て、その町へ行き、自分の肉を全ての人々に食べさせたので、人々の病気は良くなり、仙人の骨灰を撒いた所は、疾病がすべて消失した。

経文に、修行者は名利の為にしたり、信衆に阿諛追従して、仏法を歪曲してはならないと出ている。リンチェンドルジェ・リンポチェは一切を経文に説かれているとおりにやり、経文に説いていないことはやらない。世間でやっているように名簿に照らしてお金を受け取れば、リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に暮らしやすくなる。今日は1520人が法会に参加しており、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが他のところのように、一人の済度で1000元の料金を取ったら、いくら入ってくるか?リンチェンドルジェ・リンポチェの手には分厚い済度名簿があり、親友、ペット、堕胎した子、祖先、またあなた方のあの世の借金取り等、非常な数になるが、あなた方が今日の法会に参加しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは全くお金をとらなく、いくらとも言わない、法会の後に供養するかどうかはあなた方が自分で決めることなのだ。

世間では講演を聴くのにもお金がいるそうで、みんなから何千元かを払った後、何となく聞いてわかるような分からないような、どっちつかずの講演を聴くだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、弟子が言う事を聴かないので、2年間弟子から全然供養を受けなかった。あなた方は他でこのような事を聞いた事はないだろう!世間では多くの人が、信衆の供養を収めるのは彼らに福田を植えさせるためだとよく言い、もし供養を受けなかったらあなた方は慈悲がない、衆生に福報を累積させてくれないと怒るだろう。福田は法衣を着ているかどうかを指すのではなくて、修行者が本当の修行をしたかどうかであり、供養を収めた後に、仏法で衆生が生死を解脱する助けができるかどうかである。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの面ですでに何度も開示しており、もう言いたくないほど言ったが、あなた方は今後、福田の意味を誤解しないようにしなさい!

布施は、財施、法施、無畏施に分かれる。財施は密法から言えば、外、内と秘密の部分に分かれる。私達がこの世で受ける全てと財産は、すべて累世で行った供養布施で、基本的にはある固定した数である。だから、多くの人々が金儲けを願うが、金儲けは考えればできるものではなく、必死で働けばできるのでもない。外の財施は、一切の物質を指し、つまり外在で受け取るもので、例えばお金、点灯、鮮花、果物等で布施供養を行うことで、誰でもできることであり、あなたがするかしないかだけである。供養する心は非常に大切で、懺悔の心、慈悲の心で何も求めずに供養することで、どれだけしたかは重要ではないのだ。

多くの人が周りの人に、いくらするべきかと聴き、相手は「隨喜」と答える。実は「隨喜」というのはこういう時に用いるのではなく、誰かが善を行うのを見て共に歓喜の心が起きることを指しており、「隨喜」の功徳は非常に大きいのだ。世間でいくら供養すればいいのかに答えるのに、「隨喜」と言うべきではなく、「ご随意に」と言う。実は、供養は「随意に」するべきではない。なぜ供養する時に他の人に「いくらすればいいか?」と聴くのか?それは惜しむ心があるからだ。多すぎたら損するし、少なすぎたら面子がないと思っているからだ。世間では紅包の上に自分の名前と供養の額を書きこむのが流行しているが、自分がした事を知ってもらいたいというようだ。ここではなぜ供養の時に紅包を使用する必要も、名前や金額を書く必要もないかというと、あなた方がこのような心性になるのを恐れるからだ。書く額が少ないと恥かしい、書きこむ額が多ければリンチェンドルジェ・リンポチェは覚える必要があり、どのように処理するかを考えなければならないからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェはみんなの為に多くを考え、皆の便宜を考え、プレッシャーにならないようにしている。あなた方は他の人に、いくら供養するかを聞き、多すぎたり少なすぎるのを恐れているが、そんなに計算高いのなら、きっぱりとしなければいいのだ。供養はしなくてもいい、それはリンチェンドルジェ・リンポチェに関係がないことだ。あなた方がまったく供養しなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法の功徳は全部リンチェンドルジェ・リンポチェのものとなるが、これもあなた方とは関係がないのだ。供養で一番大事な心は、経文に説かれているが、供養の心が正確で、一つの糸で供養するのが千両の黄金で供養するよりも功徳は大きいのだ。供養しなければ福報はなく、福報がなければ仏法を聴く機会もなく、ひいては生死を解脱することがどうしてできようか?

私たちが生生世世受けているのは、すべて供養から来ている。財供養は、金額の大小を見るのではなく、供養する心が最も大切だ。供養という法門は実に重要で、言わないわけにはいかないが、現在の商業社会で、あなた方に供養布施を語ると、気まずくなる人がいるが、よりによって施身法がすべて供養布施を行うことだ。内の布施供養は密法から言えば、自分の体力と時間で供養する事である。秘密の部分は、今日は開示しないが、簡単に言えば身口意がすべて布施供養であるということだ。

他人に経文を贈り、読経を教え、テレビで仏法を聴いたから、それが法布施だと思うな、これらはただ結縁にすぎない。自分は経典を読めるから家で自分で学べると考える人がいるが、決してこれでは学べない。世間ではある一冊の経典を念じれば非常によくて、よき「人師」となれると思っていて、人にどのようにすればいいかを教えるのが好きで、例えば、病気になった人に《薬師経》を念じなさいなどと教える。しかし念じても予期した効果に達しない。何故か?その人はリンポチェではなく、仏法を教導するラマ僧でもないのに、他人に仏法を教える資格があるはずがない。以後あなたの友達がこのような事に出遭ったら、あなたの上師に会わせていただけますか、上師からお助けをいただきたいと聴いたらいい。リンポチェの果位まで修行してはじめて法布施が行え、済度の能力があり、衆生が輪廻生死を解脱することを助けられ、それこそ法布施を行うということである。自分にできるかどうか聞いてみなさい。どうして他人を教導する資格があろうか?再び妄語するのではない。

仏法を学ぶのは、自分の病気が良くなる、商売がよくなる、あれが欲しい、これを願いたいというためではなく、何回かの法会に参加して何でも解決でき、良き日々が送れるとは思うな。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生で修行してなったリンポチェで、しかも絶えず修行しているとおっしゃった。リンチェンドルジェ・リンポチェは今でも修行を続けているのに、あなた方は何度か法会に参加しただけで、何事も解決することができるはずがない。一年間学んだだけで、何もかも学び得ることができようか?仏法を学ぶのは焦らなくてもいい、ただずっと続けることだ。

無畏布施は他人を怖がらせない、或いはどこへでも敢然と行くことで、皆が本当に恐れているのは死である。例を挙げれば、ある人は貧しくても、お金がないのを恐れず歯を食いしばって我慢する。ある人は家がなくても恐れず、借家に住んでいるが、ただ一つの事、一つの現象だけは、皆が必ず経験することで、それは死である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この場の皆に「死を恐れない人はいるか?」と尋ねたが、誰も手を挙げなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、開示を続けて、私達が死亡を恐れるのは、累世の習性であると言った。累世から持ち来た習性は多く、その中で最も深刻なのは生死輪廻の習性である。どの人も暗黒を恐れ、暗黒を恐れるのは幽霊がいるのを怖がるのではなく、人は往生する前に暗黒の過程を通り、死亡の過程は非常に苦痛であり、投胎輪廻がまた始まって苦を受け、この生生世世死亡の苦しみはすでに私達の心中深く刻まれていて、仏法で言えば第八の意識田の中で、つまり阿頼耶識の中で、すでに種が深く植えられている、非常に深く植えられているのだ。

無畏布施は、衆生が生死の恐怖を解脱する助けができる。前に言ったように、亡者は、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めた後に笑顔になる、これは亡者がもう恐れていないことであり、ある所へ行って修行ができることがわかったからである。亡者を済度でき、亡者が再び輪廻しなくてもいいようにする、これこそ無畏布施をしたことになるのだ。皆の恐れている事が死亡であるのに、世間では誰も死亡の事は話さず、死亡学の授業をする人もいるが、皆いい加減で、聴いて分かるような又分からぬような事を言っている、というのは、誰も本当に死亡を経験していないからだ。施身法とポワ法を修行した修行者のみが、本当に死亡の過程を経験しているのだ。2007年にリンチェンドルジェ・リンポチェがラプチ雪山で閉関した時、ある夜心臓が停止し、呼吸も停止して、自分が死亡の過程を経験している事が分かったが、少しも怖くはなかった、というのは施身法とポワ法を修行しているときにすでに体験していたからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて生死の大事について開示したことがあり、話したのは死亡の過程であった。その時にどのようであるのかあなた方は知らないので、必死で何かをしようとするが、自分の最後の一刻の真の助けとはならないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは死を恐れない人に会った事がなく、昨日葬儀社の人が会見に来たが、彼は多くの死者を見てきたが、自分が癌に罹ってやはり死ぬのが恐いと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェの前で泣いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に今日の施身法法会に参加するように言ったが、彼は突然用事があるので息子に代わって参加させますと言ったので、入らせなかった。皆は死に対して深い恐怖を持っているので、多くの事をするのであるが、自分で考えよう、この事実に直面しようとはしない。結婚、子を生む、仕事に努力する等等、内心深くはすべて自分が死の恐怖から逃避するためである。私達は生生世世何度も死んできて、毎回の死の経験はみな苦痛だったので、皆この生が終わる時には死に直面する事をはっきり知っているが、直面して処理しようとはしないで、他のことばかり沢山して、心を散らしているのだ。

今日、あなた方は因縁福報があって施身法法会に参加したのであるから、みな責任があるのだ。私達は多くの世を輪廻してきて、生生世世多くの祖先がまだ済度されていないので、占師が言う他の事は不正確だが、あなたの後に多くの人が付いて来ているというのは正しいのだ。みんなこんなに多くの世を輪廻していれば、誰の後にも多くの人がついて来るであろう。それらは皆あなた方の祖先である。自分が飼っているペットを、犬主人、犬妻、犬息子、犬娘などと言うのではない、或いはある世での父母が、あなたの一番好きなペットになっているかも知れないのだ。みんなペットを飼うのが好きで、ペットはコントロールし易く、飼いさえすれば、自分の言う事を聴いてきれると思っている。しかし、あなたは人で、ペットは犬であるのに、なぜ犬息子と言うのだ?それが人であればあなたの息子、娘にできるが、人間でもないのにそういうのは、あなたが犬だとでも言うのか?このようだと、自分は未来の世で畜生道になると言うのか。釈迦牟尼仏は六道中に犬道があるとはおっしゃっていない。だからこんな事を言ってはならない、次の世で畜生になるかもしれないのだ。

みんなの問題は布施をしたくない点である、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが皆に修めた施身法は、財布施、法布施、、無畏布施をすることができる。仏法を学ぶのは、自利他利の事で、自利とは、自分の利益ではなくて、修行者として自分の問題を解決した後に、他人の問題解決を助ける事ができるという事だ。施身法法会に参加できるのは、得難いことであり、多くの人が施身法法会に参加したいと言ってくるが、すべてリンチェンドルジェ・リンポチェが慎重に考察して参加できるのである、勿論時には網を抜け出てしまう人もいる

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、足を上げてきた信者を指して、この信者を叱責し、このように組んだ足を抱えて法会に参加するのは、彼女に敬仰心がないことを代表している、もし座るのが苦しかったらいつでも出て行きなさいとおっしゃった。あなた方今日ここへ来た人には仕事があり、修法の時には累世の寃親債主と祖先のために忍耐しなければならず、敬仰心がなくて、ちょっとの苦痛も我慢できないなら、彼らも益を得ることはできない。忍耐力のない人は、貪嗔痴が容易に出現する。皆自分の人生で多くの欠点に対して、注意深く改めるべきで、改めることができない人は、改める事のできない執着だけが有るのだ。

心に少し善念が起きさえすれば、それも布施を行うのだ。他人があなたに悪いことをするのも、絶対にあなたの因縁に関係がある。多くの事に、もし貪がなければ、多くの面倒な事が減少する。最近あるパン屋が人工の香料を使用していたことで検挙されたが、なぜこのような事が発生するのかと言えば、貪であるからだ。ただ金儲けだけを考えて、人のことを考えず、何事も先にやってからにしよう、事が起きてから考えようと思っているから、それでこんな事が起きるのだ。このような考え方はあるべきではない。善と悪は二本の平行線で、お互いに相殺できず、あなたが一つの悪をなせば、一つ善をしてそれで相殺することはできない。悪報を止めさせようとすれば、二度と悪を行わないことで、転変する機会が有るのだ。あなたが悪を止めたら、絶えず善を行うことで、大きな多くの善を行って、この善が暫くあなたの悪報を出現させなくするけれども、因縁が成熟した時には、果報はやはり顕れて、ただ発生させない或いはあなたに作用できなくするだけだ。仏法の特色はまず皆に如何にして予防させるかで、今から善の因をよくなすように始めなければ、いつかは果報が成熟する、特に現在借りを返す速度は益々速くなっている。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行を以ってすれば、果報はいち早く現前する、時には朝うっかり一匹の虫を殺したら、午後には皮膚が裂けて血が出るような傷口が現れるのだ。

女性は心を広く持ちなさい、連れ合いと喧嘩をするのは多くが破廉恥番組の影響である。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆にこれからは見ないようにと勧める。これらの番組に出る人は皆お金を貰っているが、あなた方はお金を貰っていなく、番組の影響を受けて、本当に連れ合いと喧嘩をし、殴り合っても、誰もあなたにお金をくれないのだ。施身法は私達に捨の心を育成し、一切がすべて捨であり、家族にもまたこのようにするのだ。人の世は数十年だけの短いもので、良くても悪くても過ぎて行く。仏法を学ぶ事を通じて、長期的に自分の心が善念になるように訓練し、他人に良き念をあげるのもまた布施になり、苦しんでいる人への惻隠の情もまた布施である。日々が過ぎてゆけば、過ごせるのであり、面倒なことを加えて、些細な事で追い詰めてないようにするのだ。現代は情報が発達して、私達の生活にも影響しており、リンチェンドルジェ・リンポチェのケイタイはオフにして居る時が多いが、どうしてか数日前ある晩餐会への誘いのメモが入っていた、よかったのはリンチェンドルジェ・リンポチェは早々と離婚していたから、そうでなかったらなにか事がおきただろう。

皆今日は福報があって法会に参加したのだから、敬仰心を持つことで、そうしてこそ衆生の助けになるのだ。施身法の法本だけには説いているが、修法者の身には自分を保護する如何なる聖物を付けてはならず、例えば護輪などで、もし付けていれば衆生は近寄る事ができず、布施を受け取りに来ることはできない。施身法を学び修めるのは非常に苦しく、読経するのではなくて行うことなのだ。一般に、密法には自修と他人のために修める法本に分かれていると言われるが、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが修めるのは他人のために修める法本である。修行者は必ずまず自修の法本で成就させ、その後に、衆生の修法を助けることができるのだ。自修が未だ円満する前は、自分の問題を円満に処理できないので、他の人の問題を処理する能力はない。

施身法を保存して、未来世に伝える難度はやや高い、というのは、修法の時に使用する人間の大腿骨の法器は特殊で、非常に稀少であり、見つけにくいので、現在この法を修行する人は益々少なくなっているからだ。施身法を修行するのに、必ずしも多くの幽鬼が居る所或いは墓場ですることはなく、修法者が布施の心があるかどうかなのである。あなた方が今日この法会に参加できた事は、あなた方の前世が密法と接触したことがある事を意味していて、それで縁によって参加できたのだ。縁があるのだから、それをしっかりと大切にして、所謂惜福することで、消化しきれないのに、あえて我慢するのではなく、福報を累積する機会を大切にすることを指しているのだ。

他の所では、同時にこんなに多くの人々に施身法を修める法会は見られなく、他の道場では施身法を修める時には、参加者を横にさせるが、今日法会には1500人が集まっており、寶吉祥仏法センターの会場のスペースが限られており、皆に横になってもらう事はできない。それにあなた方は横になると眠ってしまう恐れがあるので、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方を代表して観想し、身体を布施して幽鬼に食べさせるので、あなた方は決して自分の身体を衆生に食べられるなどと勝手に考えてはならない、鬼衆はあなた方を食べには来ない、というのはあなた方の身体は貪嗔痴等の五毒で充満しているからだ。後でリンチェンドルジェ・リンポチェは自分の全ての血、肉、骨を全部残さず衆生に食べさせる事を観想する。リンチェンドルジェ・リンポチェが痩せすぎて、彼らが食べ足りなかったときには、あなた方のどこかを少し食べに来るかもしれないぞ、というのは冗談だ。続いて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは信衆に向って開示なさった。しかし、あなた方の誰かはまだ肉を食べているなら、衆生も近寄ろうとはしないから、恐れたり心配することはない。なぜなのか?鬼道の衆生は食べる事ができず、食物が喉まで来ると火になって飲みこむ事ができないのだ。修法者は空性の慈悲を悟っているので、密法の観想を通じて、自分を衆生が一番好む食物に化して、衆生がそれを食べた後にその食物は甘露に化して、衆生を清涼にするのでやっと仏法を聴くことができるようになり、修法者の助けを受け入れるのだ。

修法者は自身の福報と功徳で諸仏菩薩に供養し、鬼衆に布施し、鬼衆に福報ができてはじめて仏法を受け入れることができるのだ。参加した人を横にさせるのは、あなた方に布施供養をさせる機会を与えて、福報を累積し、施身法を通してある程度の借りを還すことができるのだ。施身法法会に参加した後は、本来死ぬはずだったのが、病気で事が済んだり、本来は病気になるはずだったのが、ちょっと喧嘩する程度になる可能性があり、これらは重報を軽く受けるようにしてくれたので、もし、重病でもうだめだというなら、先に一部を返せば、将来は善道に往生するかひいては浄土に往生できる機会がある。法会に参加したから何事もすべてよくなるとは思わないように、かえって何か事が起こるかもしれないのだ。しかし、これらの事はあなたを死なせはせず、あなたの業報が早めに発生したのであって、もしあなた方が在世の時に良くない事が全然起きないように希望するなら、死後再び三悪道に陥って苦痛を受けたほうが良いだろうか?

後にしましょう、どうせ今は三悪道の存在は見えないし、感じられないからという人がいるが、実は三悪道は地球上で見る事ができるのだ。病院の中では腹や腸を手術で切り開いており、これは地獄の苦しみのようである。多くの人は重病で食べる事もできず、また癌末期の多くの病人が、痩せ細って餓鬼のような様相をしている。仏法を聴く機会があったが、信じず、なさないのは痴であり、因果を信じない畜生道の衆生が仏法を聞く事ができないのと何の差があろうか?

あなた方は平常法布施と無畏施をすることは不可能だが、密乗の行者が修持する施身法法会に参加して、あなた方がすることができなくても、修法者があなた方を代表して法施、無畏施を行うのだ。中陰身の衆生は、物を食べられないので、食べる事への欲望は非常に強烈で、修法者は観想を通じて、自分自身を甘露と化して、鬼衆が生前好きだった物になって、鬼衆に食べさせ、欲望を満足させて後に、清浄な本性が顕れ、そうしてはじめて仏法の助けを受け入れることができ、苦痛を抜け出て良き所へ行く事ができるのだ。

後でリンチェンドルジェ・リンポチェが皆に法を修める時には、皆は懺悔心と恭敬心を持たなければならない。あなたと縁のある衆生があなたの真心を感じることができれば、彼らは感動して、ここへ来て仏菩薩の救いと接引を受けることになるのだから、皆は懺悔心と恭敬心を持って法会に参加するべきで、自分の事ばかりを考えないで、心量を大きくして、苦しんでいる衆生が皆苦しみを離れることができるように希望するのである。法会が何時に終るかを心配しないで、またはデートに間にあうかどうかも気にしないで、もし相手があなたを愛していれば、遅れたとしてもやはりあなたを待ってくれるだろう。もしあなたが遅れたので、もう付き合わないというなら、それは縁がない事を表しており、御破算にすればいい。もし、両親と時間を約束したのなら少し遅れたからと言っても、親は子供を許してくれる。父母は子に対しては非常に寛容で、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の子を叱るのと同じようなもので、内心ではやはり子が可愛いのだ。父母にちょっと叱られるのは良い事で、あなた方の業を少しだけ消すことができるのだ。父母はしょっちゅう叱っていても、やはりあなたを愛してくれているのだ。後でリンチェンドルジェ・リンポチェが修法している時には、あなた方は専心して、心を整理する必要があり、外へ逸れてあれこれとくだらないことを思いめぐらしてはならない。足を勝手に動かしてはならない、二時間さえも忍耐できないのでは、どうやってあなた方が以後仏法を学ぶ苦労を辛抱できると信じられるか。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝なる施身法を修持なさり、並びに集まった人々に法会に参加する時の観想の方法を教え、人々をリードして、六字大明咒を長く唱えた。

修法が終って、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示された。
密法の修法には必ず三つのステップがある。前行、正行、結行であり、結行とはつまり回向である。前行は修法の動機であり、正行は修法の主な内容である。回向はあなた方が自分の父母や夫や、子供などのためにと考えるのとは違って、金剛乗の回向とは、一切衆生のためのものであり、衆生が皆成仏することを願い、たとえ僅かでも自分に残す事はしないで、ずべてを回向して捧げるのだ。回向の後は通常まだ祈請文を念じ、本尊が衆生の願いを満たしてくれるように祈る。顕教を学ぶ人は、一般にこの身体は仮のもので、大切ではない、大切なのは心性を修めことであり、心性さえ良く修めればいいと思っている。しかし、密法の祈請文の中には、身体の健康、長寿等を祈っておる、というのはこの体があってこそ衆生を益する事ができるので、健康でなければ多くの事をすることができないからだ。しかしこれらを祈るのは自分の享楽とか、日々をよく送りたいというのではなくて、広大なる衆生の利益のためであるのだ。

法本の後に多くの祈請文があり、これらは歴代本尊と上師が書いたものであり、密法を修行する行者は通常、本尊と上師に、自分が衆生を益して成仏させるという願を満たすことができるように祈っている。その他はまずは言わないが、その中の一句は、「祈求無病快楽的青春(無病で楽しい青春を祈る)」であり、これはあなた方が好むことである。

一昨日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、漢方の診療所に新しく来た漢方医に脈を看てもらったが、もう一人の漢方医の弟子が法会で当時の脈を看てもらった過程を説明した。「王という姓の漢方医が、リンチェンドルジェ・リンポチェの脈を初めて看たが、見終わってから、リンチェンドルジェ・リンポチェの脈は、30歳の若者のようですと言った。」尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはその漢方医の弟子に、皆は医者の話を信じてもリンチェンドルジェ・リンポチェの話を信じないから、もっとはっきり言いなさいと指示された。漢方医の弟子は続けて説明して、「漢方医から言えば、人間は年とってから、肝気、心気及び腎気が次第に衰退してきて、一般に40歳過ぎると、心気と腎気は次第に弱ってくる。」ここまで説明した時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて漢方医の弟子に、「リンチェンドルジェ・リンポチェの年齢を言ってもかまわないよ」とおっしゃったので、この医者の弟子は続けて説明し「尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはもう66歳だけれど、腎気は十分に充足しています。腎気不足の原因は多くあるが、腎気というのは先天的なもので、父母から貰ったものであり、一般の人体では年齢の増長によって次第に衰弱してゆくものだ。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは66歳の年齢なのに、腎気がまだまだ非常に強くて、まったく66歳の年長者とは思えなく、しかも一般の30歳の若者よりももっと旺盛であり、非常に不可思議なことである」と語った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示なさり、どうして祈請文の中でこの一句を話したのかというと、あなた方に仏法は必ずできるということを知ってもらうためである。さっき説明した漢方医の弟子は、ずっと前にリンチェンドルジェ・リンポチェの脈を看て、リンチェンドルジェ・リンポチェの脈は30歳の脈のようだと言った事があるが、この度は故意にもう一人の漢方医に脈を看てもらい、如実に仏法を学び、修行すれば本当にこうも異なる事を彼に見せたのだ。仏法は本当にそれができるのに、あなた方はなぜできないのか?それは簡単で、話を聴かないからで、仏法と生活とは分かれているように思っており、聴いた仏法を生活のなかに着実化することを聴かないでいるから、自然に多くの障碍があるのだ。最近往生した二人の弟子のように、条件はすべて同じでも、その差は心にあるのだ。

施身法を修める修行者は、修行できでも、自分と衆生を益することができない、後にある祈請文も役に立たないのだ。前面の前行を、動機等等まず照らし合わせてそれができたら、後の祈請文の中に説かれている事が自然に得られる。もしできなければこの世の業を動かす事はできず、ただ未来の世でできる機会をみつけるだけで、この一世ではできないのだ。前面のことができなかったので、後ろを念じるのは、以後機会があるかもしれないだけである。祈請文は念じれば役に立つというものではなく、多くの人が念じるけれども作用しないのは、一人の上師に従って仏法を学んでいないからである。あなた方がまだできないなら、少なくとも上師の話をよく聴きなさい、ずっと施身法会に参加してきて、少なくとも少しは身に着いたのではないか。皆がリンチェンドルジェ・リンポチェと同じく青春のようにと要求するのではないにしても、皆些かは青春に返ることができよう。

さっき漢方医の弟子が、腎気は父母に授かったものだと言ったが、実は自分のものであり、累世からもたらされた福報である。あなた方が魚や肉を食べる度に、福報は少しずつ減少するので、肉食の好きな人は通常老いやすいのだ。なぜ老人の腎気は衰弱するのか?それは福報を使い終わったからである。何回かの法会に参加したから、福報があり物事がよくなるとは思うな。具徳の上師としては、身を以って則として、みんなに何が言う事を聴く事かを知らせなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェの上師は、直貢チェツァン法王である。もし法会に参加するだけで改めなくてもいいのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは一番に挙手して修行しないと言い、ただ尊勝なる直貢チェツァン法王のご加持だけを求めればよく、自分が修行する必要もないのだ。

法本には「無影鬼神」に触れており、鬼神は影さえないと説いており、《寶積経》に、鬼とは軽い煙のようだと説いているが、何が軽い煙なのか?煙よりも軽いとは、つまり鬼神は形象がないということなのだ。鬼を看たなどといってはならない。鬼はどんな様子だったか?あなたの心に鬼がいるから、自分は鬼を看たと思うのだ。あなたの心が悪だから、鬼と同類になるので、所謂、類を以って集まるのだ。だから、以後鬼を看たなどとは言うな、鬼を恐れるとは、しかも既に皈依しているのにまだ鬼を恐れると言うのか?鬼を恐れるのはあなたに慈悲がないこと、慈悲を少しも修行できなかったことを表示するのだ。そう、リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、鬼衆に会って彼らを助けるのも時間が足りなくて間に合わないくらいなのに、どうして恐いことがあろうか?菩薩は畏懼する所無しと言うが、それは既に慈悲、菩提心を修行して居るので、自分のすべてを捨てることができるから、何も恐れることはないのだ。鬼は人よりも良くて、恩があれば恩に報い、仇があれば仇に報いる。人は恩があっても報いず、仇があれば倍にして報いる。鬼の方が人よりもはっきりとしていて、あなたが助念をしている時に、亡者はあなたの念頭をはっきり見ているし、またあなたが自分を助けられるかどうかを知っていて、もしあなたが紅包(報酬)や功徳のためであり、自分の助けにはならないと知ったなら、あなたの良いようにはさせないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を修めて、祈請文に説かれている無病快楽の青春を得られた。あなた方も上師の説くことを信じなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェがそこまで修行できたのは、ただ尊勝なる直貢チェツァン法王と仏菩薩だけがご存知だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは累世の因縁と福報で、尊勝なる直貢チェツァン法王の門下に皈依することができ、直貢チェツァン法王自らの教えを受ける事ができた。今日、漢方医の弟子があなた方に言ったことは、リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにもスゴイ事を自慢するためではなくて、みんなに修行すれば結果があることを知らせるためで、真に話を聴き、法本のなかに書かれている事でさえあれば、必ずできるということであるが、しかし段取りを踏んで学び、急いではだめである。

尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェにずっと修行しているとおっしゃった。リンチェンドルジェ・リンポチェが今年は閉関しなかったから、修行していないのではないかと言ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの30年来ずっと修行し続けて、休んだことはなく、24時間をすべて衆生を済度し、この度日本へ行った時も、弟子を済度するため修法なさり、まだ二人の生命を救ったのだ。ある産婦が出産のときに問題が出て、もう少しで死ぬところだったが、リンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めたので、スムースに子を産むことができた。

あなた方は、リンチェンドルジェ・リンポチェがするような事はできないが、しかしずっと続けて法会に参加して、焦らないことだ。仏法を学ぶのは焦ってはならない、段取りを踏みながら学ぶのだ。自分は2年以上学んだが、なにもしていないなどとは言うな。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学んで30数年になり、やっと今日少しの成就を修められただけだ。あなた方は何年学んだか?自分は修行できたと思うのか?自分は仏菩薩を看ることができると思うのか?仏法を学ぶ事はとても良いことであり、一番大切な事は決心を定める事である。

仏法の前には衆生は皆平等であり、リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に対するのもみな平等で、身分が異なることから異なる待遇はしない。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子が今日法会に参加しに来たが、寶吉祥のチョッキを忘れたので、その他の弟子と同じく法会に参加する事を許さずに、門外へやった。実はこんなにも多くの人だから、だれかのを一着貸してやるとか、道場の倉庫から一着出してくるとか、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェの息子だから特別待遇にするという事もでき、どうせそうしてもあなた方には分からないのだが、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェはそうはしないのだ。仏法に関係のあることであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは一律にすべて平等である、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの母親だけは異なり、つまり母親はリンチェンドルジェ・リンポチェを産んでくださったので、しかたがないのだ。

子供がお利巧になったと言う人がいるが、どこがお利巧になったのか?ただ自分の感じが良くなっただけで、自己満足に過ぎず、自分が夜比較的によく眠れるに過ぎないのだ。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の身辺の人たち、職員や弟子に対して比較的よくすると思っているかもしれないが、実はそうではないのだ。弟子であるだけ、ひどく叱られ、リンチェンドルジェ・リンポチェの身近に居る人ほど厳格にしているのだ、というのは、身を以って則となすからだ。だから、まだ皈依していないあなた方は、皈依しないほうがいいぞ!

なぜあなた方に特に厳格にするのか?あなた方在家衆は多くの事で忙しく、出家人のように24時間を修行に用いることができない。だからリンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に間違った言葉や、行為、思想を見つけたら必ず厳しく叱責して、あなた方の間違った所を指し示すのに、容赦はしないのだ。仏法の事であればリンチェンドルジェ・リンポチェは必ず関心を持つ、というのは上師として、仏法上で一切の愚昧な衆生を教導する責任があるからだ。あなたがたは子供の頃勉強する時に、間違ったら先生にやはり叱られただろう、トイレに何度も行くと、先生はわざとあなたが手を挙げても見ないふりをするかもしれない。なぜ今仏法を学びに来るのに、叱られないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに老いたので、引き続き浪費する時間はあまりないからで、だから厳格にしなければならず、そうしてあなた方の精神を奮い立たせ、真面目に仏法を学ぶことができるので、もし本当に仏法を学びたいのでなければ、あなた方を追い出す。リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を追い出す速度は非常に早くて、今追い出された弟子はすでに二つか三つの道場を開けるのだ。最近一人の弟子が一回来なかったので追い出したが、今日は時間がないので、この次にこの事を開示する。

今日は多くの所で、旧暦七月の斎僧を行っているので、あなた方が今日他の所へ行かないで、寶吉祥仏法センターの施身法法会に縁があって参加したことは、みんなの累世の福報の因縁であり、これをしっかりと大切にしなさい。何も7月に鬼(幽鬼)が出るのではなく、経典の中には、7月に斎僧活動に関する記載がある、今日は時間が足りないので、暫く説明しない。教典には紙銭を焼くことは記載されていなく、しかも紙銭を焼くと環境を汚染する。地球の温暖化現象は益々深刻になっていて、地球環境の為にもこれ以上汚染を加えないようにしてほしい。あなた方が紙銭を焼かなくても、鬼はあなたに面倒を掛けには来ないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前子供の頃道教を学んだ時に、父親が紙銭を焼いていたが、もう30年も紙銭を焼いた事はないのに、やはり同じように良好だ。みんなこれからは紙銭を焼かないように、それは迷信にすぎず、仏法を学ぶのは迷信或いは加護を求めるのではなく、仏法上ではとても厳格なのだ。

法会は円満し、会場の人々は声を揃えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが辛労も厭わず、殊勝なる修法を賜り、皆に尊い仏法を開示してくださった事を感謝し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを起立して恭しく見送った。

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2016 年 03 月 04 日 更新