尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年8月18日

法会が始まる前に一人の弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから、皈依の縁起をみんなに語りこれまでの罪業を懺悔する機会を賜ったことを感謝した。

彼女は2004年8月に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの下で皈依した。9年前、四獣山上に、80何歳の老和尚が居て、この和尚は彼女が顕教に皈依した師の一人でもあった。この老和尚は大腿骨骨折後に、非常に早く歩けるようにはなったが、身体上或いは心理上で大きな障害を感じて、修行に影響したので、ずっと困っていた。老和尚はチベット仏教の上師は脈を通じさせる法門に於いて非常に殊勝であることを知っていたので、彼女は自分の上師をどうにかして手伝いたいと方法を探していた。老和尚がある刊行物であるリンポチェに関する情報を知り、彼女に連絡してくれるように頼んだ。彼女はその刊行物に書いてある電話をかけたが、新竹へも台北へも掛け続けたが誰も電話に出ず、一週間以上も何ら連絡が取れなかった。

後に、彼女は同僚の寶吉祥の皈依弟子の王兄弟子に、刊行物に載っているリンポチェの情報を教えてもらったら、王兄弟子が、他のリンポチェのことはともかく、彼の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは立派な上師で、しかも非常に慈悲深く、多くの衆生をお助けになるだけでなく、多くの出家衆もお助けになると言って、老和尚が願うなら、彼は会見できるように連絡してみると言ってくれた。彼女はこの知らせを老和尚に伝えると、老和尚はその取り計らいに同意した。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見した日のことを覚えていて、逸仙路の寶吉祥宝石店で、部屋中に会見を願う信衆が溢れていた。老和尚と彼女と王兄弟子は一番目の会見者であった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲をこめて老和尚に何事ですか?とおたずねになった。老和尚は「修行上での力の無さで、大腿骨骨折後、身体上、仏法を学ぶ座禅にも非常に大きな障害を覚えています。最初座禅を学ぶ時は、道教の方式でしたが、今種々の傷害が現れて、解決できず心が乱れるのです」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、「あなたは今生では成就できない」と大喝一声したので、彼女は吃驚した。なぜ初めからこんなに厳しいのか?しかし彼女は大修行者のおっしゃる事には根拠があると信じた。続いて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分は幼い頃から父親に従って道教を学んだが、仏教を学び始めてから、道教の法門はすべてきれいさっぱり捨ててしまって、仏法を学ぶ妨げにはならなかったと開示なさった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまた、輪廻、定と四加行修持などを開示なさった。最後に老和尚に、この生ではただ今の出家相だけで、修行上力を得られないと言った。

確かに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがおっしゃったように、数年前、老和尚は日常生活上できちんと処理できなくなり、修行の大事は尚更となった。しかし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり慈悲深く老和尚の頭上に持咒加持なさり、老和尚に「上師を検視する二十種条件」の尊い仏法テープを与えた。彼らは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが尊い開示をくださった事を非常に感謝した。当時彼らはただ信衆であっただけなので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼らから供養を受け取らなくて、彼らは大成就なさった人の度量を知った。因縁の不足から、老和尚は山へ帰った後、再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見することはなかった。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは老和尚の住所と帰宅後の状況を慈悲深く関心を寄せてくださり、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの衆生に対して不捨の御心に感謝した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見した後、彼女は仏法を学ぶ道で浮沈を重ねてきた事を考えた。数年の仏法を聴いたが、手がかりを掴めなかったが、短い人生で、彼女は仏法を学ぶ事が一番重要で最終目標だと確信していた。そうであれば、眼前にこの世で修行を証なさった、大慈悲、大智慧、大願力の修行者、しかも弟子の教導を厭わず、衆生のために尽くされる大菩薩が現れられたのに、この得難い機縁を把握して尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を学ばない事などできようか? 以前彼女は自分に、チベット仏教に接触しないと一線を画していたが、その因素は既に存在しない。というのは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの言語は彼女に理解できるはっきりした漢語でチベット語ではないし、開示の内容も非常に殊勝で、聞き難い仏法を聴ける。そこで彼女は非常に喜んで法会に参加し、皈依を願い、今既に満九年を経た。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが大慈悲、大智慧、大願力を以って弟子達と衆生のためにしてくださる一切に感謝した。

続いて彼女は、「御仏が在世の時には沈んでいて、御仏が寂滅して生れた」これは仏法を学ぶ人が、御仏の世に生れることの難しさを嘆く心境であると話した。寶吉祥仏法センターの弟子は、何と幸運にも大慈悲の修行者で御仏と無二無別の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出逢い、衆生が苦海に沈むのをお見捨てにならず、ご自身の修行過程での成就を、弟子に教えられ、寶吉祥のお弟子達は何と幸せか、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王から、この世で実証実修した希なる宝であると讃嘆されている。皈依してからずっと、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎が非常に深刻に側弯しているとは知らなかった、というのは、上師は飛ぶような健脚で行住坐臥は荘厳であられるからだ。しかし皈依した医者の師兄が、医学の角度から見れば、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのレントゲン写真の結果では、一般の人ならすでに身動きできない状態になる可能性がある。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、肉体の苦痛を超越した毅力で、法座で足を組んだ跏趺坐をなさり、毎回の法会は4時間以上あるのに、顔色も変えられない、しかも肩の関節も摩損が激しいのに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは身体の苦痛もとはせず、衆生のために忙しくなさっておられ、これが大慈悲者でなければ誰が大慈悲者と言えようか?と語った。

続いて彼女は、この機会を借りて、上師の功徳と上師の殊勝なる教法を讃え、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは修行で果位を認められ、教派での奉献に尽力なさっているだけでなく、更に尊勝なる直貢チェツァン法王から、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは当世のチベット仏教直貢噶舉派で唯一果位を認められた漢人の大リンポチェであると認められており、そこで弟子達も殊勝なる仏法を聴く機縁があるのだと称賛した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達が仏法を学ぶ過程で、実質的な修行の利益があるようにと、チベット伝統の厳格な敎法を採り、弟子が間違っていれば直接指して正され、因果関係を説かれて、悪をなした後の果を述べ、皆が累世でなした悪業を敬虔に懺悔するべきと、厳粛なる声でおっしゃるのは、すべて弟子達の誤った挙動を止めようという御心からである。大慈悲者だけが衆生に苦を離れ楽を得られるようにと懸命に望まれるのである。悪を造らないでこそ、衆生は苦から離れることができ、厳格にこれを止めてこそ、衆生は悪因を断つ事ができる。もし道場で大礼拝をした人がいれば、上師は親切にも、早く服を着て身体を冷やさないようにと忘れずにおっしゃるが、上師は慈母のように弟子達に細やかに気をつけてくださり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲には実に心動かされる。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが毎月一回施身法を修めてくださり、幽明の衆生を益されることを感謝した。多くの重病の人の健康が改善され、多くの亡くなった生霊が解脱することができた。毎週日曜日の午後は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが自ら開示、伝法なさり、上師の一言一言の法語は、私ども仏法を学び始めた弟子達に、まるで乳児に乳をふくませるように諄々と教え諭してくださり、衆生を益されるために、時、財、身、法をご自身の辛労を厭わずに施してくださり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお慈悲の願力は御仏と同じだ。寶吉祥の弟子達は、このような大恩恵を受ける事できようか。

彼女のある友達の夫が中風のために行動不便になり、加えて目も最近感染を受けて何ヶ月も見えなかった。初めその友達の夫は御仏を信じていなくて、彼女も仕事が忙しかったので、当時この夫婦はかなり苦しんでいた。彼女はこの友達にご主人と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見するように提案したが、その友達は、きっと夫は一緒にこないだろうと言うので、あなたのご主人に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが大慈悲で衆生をお助けする願力を褒めたたえるようにと勧めた。そして彼女は道場の小さな師兄が天然痘に罹って、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに助けられた例を話した。友達はこれを聴きとても感動して、最後は夫を連れて、一緒に逸仙路の寶吉祥宝石店へ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見しに行った。お慈悲深い尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼らに冷たくないミネラルウォーターを一瓶準備するようにとおっしゃったので、急いでコンビニへ行き、冷たくないミネラルウォーターを買ってきた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、ミネラルウォーターに加持して気を吹き込み、尊い甘露水に変えて、患者に甘露水で目を洗い、飲むように指示した。彼女も友人の一家全員もが、その人の目が再び見えるようになって、お慈悲の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは実に救苦救難の大菩薩であられると感謝した!

彼女が皈依して3年後に、娘も皈依した。これは彼女にとって一番嬉しい事であった。彼女の娘は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが主催なさる「阿弥陀仏無遮大済度法会」に2回参加してから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示に非常に感服して、自分から尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示されたテープを求めたので、彼女は娘を連れて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見して、法会に参加させてもらうように頼んだ。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが、娘をすみやかに法会に参加させてくださり、皈依させてくださったことを感謝した。同時に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが娘を感化してくださったことを感謝した。というのは娘は幼い頃から主観意識がとても強く、母親に対して信任感が無く、常に反抗していたので、娘を教え導くのに挫折感があったが、娘が皈依してからは、このような状況は次第に改善されたからだ。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが夫をご加持くださったことを感謝した。娘が皈依してしばらくして、夫の中国の従兄弟が病気で亡くなり、彼女の娘は、父親も施身法会に参加できる様に望んで、叔父さんの済度と、父親が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会見できるように申し込んだ。寶吉祥宝石店にやって来て、会見を待っている間に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが他の信衆に開示するのをたくさん聞いて、驚き、その威徳力の不可思議なることをその場で悟った。彼らの番が来て、もともと従兄弟のために施身法会に参加したのだが、すぐさま自分の病苦をお願いすることになった。彼女の夫は副鼻腔腫瘍で何度も手術したが、医者にかかるのを恐れて、腫れるままにしていたら、顔の形が変化してきた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、医者はどう言ったのか、医者に診てもらいなさい。菜食をするんですよ!菜食しなかったら手伝ってやらぬ!こう言って話題は一転し、あなたの夫は非常に口が悪いと言った。この時彼女は万感交々で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは知らない事がないのだ、誰もその前では隠す事はできないのだと、涙が出そうだった。彼女の夫は確かに非常に口が悪く、いつも家族を罵り、彼女も子供もずっと彼の言葉の暴力の下で生活してきた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の夫にまだ何かありますか?と聞いたとき、彼女の夫は施身法会に参加して従兄弟の済度をしてくださいと答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分の利ばかり考えて、自分のことを第一にして、ほかの人の事を最後にする者には施身法会に参加させてやらないと開示された。彼らは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示とご加持くださった事に感謝した。

宝石店を出て、上師が開示してくださった夫の菜食について考えた。それが難しいことは分かっていたが、夫の健康のことを考えて、勧める事にした。最後に夫の副鼻腔腫瘍が次第に大きくなって、目が開かなくなりそうになってはじめて、病院へ行ったが、まだ手術日が決まらないのに腫瘍のために目が見えなくなった。彼女は医者へ行くように勧めたがやはり行こうとはしないのでこのような状態では視力を失うのではないかと心配して、娘と相談し急診で診てもらい、そのまま手術を行って、顔の形も正常に回復した。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお慈悲の加持により一切が非常にスムースに運んだ事を感謝した。

手術後彼女の夫の回復はとても良く、気持も晴れてきたので、彼女は夫に菜食の事を持ち出し、また尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがご加持くださったから、こんなに早く恢復できたのだから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがおっしゃったことを必ず聞くべきだと話した。ちょうどその時、夫は胃の調子が悪くて、菜食することを承知したが、ただ2年間だけで、後に中国の友達がやってきてから、また肉食を初めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、もし菜食が自分の健康のためで、殺生の業を断つためでないなら、容易に破戒しやすいと開示なさったが、彼女の夫がその例である。

ここで彼女は、自分が忍辱がなくて妻としてなすべき義務を尽くさなかったので、夫婦の感情が睦まじくなくなり、家庭不和になったことを懺悔した。彼女は昔往に造った悪業が、この生で家族の不和となったことを懺悔した。また親不孝で、母親に心配をさせたことを懺悔した。彼女は不用心のために仕事の能率がよくないことを懺悔した。彼女は供養、布施をしなくて福報の不足から父親が早逝したことを懺悔した。また昔往に無意有意で殺害した多くの衆生に懺悔した。彼女は自分の食欲を満足させるために、自分でまたは他人に殺生させて、更に母親には鶏やアヒルを殺して彼らの食用にさせたこと、これらの罪は無量無辺であることを懺悔した。彼女はここで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女が無知のために犯した種々の罪業を憐憫くださって、彼女に殺害された無量無辺の、苦しみを受けた衆生が、苦を離れ、楽を得られるようにご加持くださいとお願いした。

彼女は仏法を学ぶ途上で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子達を細心の注意でお世話くださり、弟子たちの家族をご加持くださって、弟子達が仏法を学ぶ障碍を少なくしてくださり、また各種の方式で異なる根器の弟子を教導くださる事を感謝した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、よく御自分を手本にして、自分が如何にして根本上師の尊勝なる直貢チェツァン法王に供養するかを話された。彼女は、上師への恭敬心と供養心は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの千万分の一にも及ばない事を懺悔した。

彼女は自分が仏法を不用心に修めて、上師を喜ばさなかったことを懺悔した。彼女は、大慈悲、大智慧、大願力、大修行、大福報の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの下で、仏法を学べる事を感謝した。彼女は、一切衆生のすべてが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の教導と助けを得ることができるように祈願し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが一切有情のためになさる一切に感謝した。最後に彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の健康平安、法輪常転、直貢噶舉の法脈の永遠の伝承を祈願した。

続いて、弟子と信衆達は 尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年12月15日に開示なさったテープを恭しく聴いた。

我々は如何なる法門を受け入れるとしても、上師に対する心構えと種々の道理面で、皆に比較的にはっきり理解できる様にしたい。仏法を学ぶ中で、我々はこの理論、道理をはっきりさせるべきで、仏法の名詞ではこれを「解門」と言う。現在多くの人々が仏法を学んでいるがすべて表層ばかりを言っているのだ。名相と表層というのは仏法を学ぶ事と御仏のおっしゃった仏法の意義を深く理解しない事を指す。「解門」をきちんとしていないので、行門の、修行過程で多くの自分かってな方式が産生する。「解」と「行」とは分かれるのではなく、実は同様の事が進行しているのだ。例えばある人が理論をよく知っていても、実際に修行しなかったら、しだいに邪見が生じてくる。なぜそうなるのか?それはただ理論だけで、生活の中で実質的に仏法で修行しない人は、次第にこれらの理論から自分勝手な見解が生じてきて、仏法を歪曲するからである。

何が実修なのか?実修とは必ずある人に習ってどれだけの期間閉関し、どれだけを唱えると思っている人も居る。かならずしもそうではなくて、上師の教導と提示に従って、一切を生活の中で用いることだ。もし生活の中で、あなたの身、口、意に違反して、御仏と上師が教えた方法を用いなかったなら、それは実修にはならない。我々は非常に容易く違反する、というのは我々に動念が起こるのはすべて自分の事を考えるからで、自分はもっと多く、また苦痛はもっと少なくと望むが、これらの考え方は正確ではない。本当に仏法を理解している人は、必ずや因果を深く信じている。深く信じるというのは、生活で現れてくるどんな事にも必ず因があり、また必ず果があるということである。因果は必ずしも果が出現するのではなく、それで終わりである。果は出現したら、もしあなたが仏法を理解していたなら、仏法の観念で受け入れられ、善の改変する方式はこの果を新しい善の因にさせるのだ。もしあなたが因果を深く信じないで、ずっと世間の方式で自分の生活方式を処理していたら、果が出現したとき、あなたは引き続き悪の因を作り、悪の果が継続して出現する。

多くの人が因果は一つの事が終ってから、もう一つの事が出現すると思っている。実はそうではなくて、それは我々の生生世世に重複しまた重複しているのだ。我々が仏果を成したとしても、やはり因果の法則のなかである。成仏したとは思うな、因果が我我をどうする事もできない。ただ修行者であれ、菩薩戒の人でも、成仏しても、継続して悪因を造らないだけである。第二は、一切の現象は永劫のものでは無く、良いことも長くは続かず、よくない事も長くは続かないと知っているので、どのような事が発生してもただテレビや映画を見ているにすぎず、ただ一つの事が眼前を閃いて過ぎ去るだけなのだ。今日、あなた方にこんなに多くの煩悩があり、こんなにも苦痛が多いのは、いつも一つのことに執着して、自分は正しく間違っていない、自分の観念は間違いでは無いと思っているからだ。この点に執着すると、煩悩が始まるのだ。当然、多くの人は反発して、では何も意見がなく、個性もなくて、どうして日々を過ごせるのか?人がどうこう言えばそのようにするのか?と言うだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、このようなのは邪解であり、邪見であると開示する。前にリンチェンドルジェ・リンポチェは、生活は何を以って標準とするかで、仏法を標準とする、御仏が我々にお告げになった戒律と生活方式を標準にすると開示した。

通常あなた方の執着はどんなものであれ、必ず貪念がある。あなたが貪念を持つ時、自分の事ははっきり見えず、他の人の意見が必要となり、占師に占ってもらい、八卦を見てもらい、自分の命を別人に渡す。実は運命は自分の手にあって、絶対に別人にあなたの運命を変えてもらう必要はない。あなたが仏法に基づいて修行しさえすれば、あなたの運は必ず改まり、命も改まり、外在の相、体格なども含めてすべて変わってゆくのだ。御仏は、仏法を受け止めようとしなく仏法を学ばない人を「痴人」にも如かずと常に叱責する。仏法を学ぶ多くの人が上師と御仏は人を罵るものでは無いと思っているが、実は御仏は経典の中で、仏法を学ぼうとしない人を常に叱責している。だから我々はあらゆる経典を通じて、御仏は非常に厳しい老師であることが理解できる。甚だしいのは、ある人が御仏は仏法と関係が無いという事を訊ねたときは、御仏はすべて答えず、相手にせず、取上げなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは実に好意的で、あなた方が結婚するべきかどうかと訊ねても、多くの時間をかけて話してあげるのだから。なぜあなた方はこのような問題を聞くのか?それは簡単で、得失心が重過ぎるから、人から証明してもらいたいのだ。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが「しなさい」と言えば、すぐ結婚して、後に何かあったら上師が言ったからと言うのだ。もし「するな」と言えば、彼女は相手の男に上師が結婚するなと言ったと言い、相手の男はリンチェンドルジェ・リンポチェを殴りに来るのだ。なぜこのような事があるのか?それは責任
を別人に擦り付けるからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは人情を尽くしていない、他の多くのリンポチェは婚姻が良いか悪いかを占ってくれるのにと言う人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王が、巳年大法会で、教派のすべてのリンポチェとラマ僧の面前で、「運命占い、卜筮は仏法ではない」と開示なさっている。よく聴きなさい、だから尊勝なる直貢チェツァン法王、テンチンニマ・リンポチェ、ドラブ・ワン・リンポチェ(Drubwang Rinpoche)、は卜筮をしないからリンチェンドルジェ・リンポチェも当然卜筮をしないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが分かるかどうかと聞くなら、分かっている。知っているかどうかと言えば知っている。なぜやらないのか?それは卜筮をする時、聞いた時の現象を告げるだけで、あなたが聞いたときに、護法はその時の現象を知っていて告げるが、未来を改められない。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは、現在北京に住んで居る一人の女性に出会ったが、彼女は全身の関節が分解し、話す時には下あごが外れ、歩く時には関節が外れた。どの医者にかかっても良くならず、結果しばらくの間彼女は話が少なくなった。この女性は普段おしゃべりで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を治してあげたことを後悔した。治った後に彼女がおしゃべりをするので、彼女の夫が迷惑を被った。彼女は嘗てチベットのリンポチェに占ってもらい、占ってから法本を読み、占いで何を言っているのか、ちょうど御神籤を引くように、御神籤に何を書いているかを読むのだ。占いではこの女性には霊が憑いていると出たが何の霊かは出ていない。密法の修行で言われるのは、異なる霊には異なる法があり、男の霊には男性の法、女の霊には女人の法が、羅刹には羅刹の法が、大力鬼には大力鬼の法、殭死には殭死の法があるのだ。顕教にはこれらはない。占いでは彼女には霊が取り憑いているとだけ出たので、そのリンポチェは彼女のために霊に対応する法で助けたが、その結果はやはり良くならなかった。彼女はこの法を修めたので、彼女は因縁があってリンチェンドルジェ・リンポチェを尋ねて来た。彼女が始めて来た日に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に嘗て蛇を殺した事があるだろうと告げた。この女性は頑として「ありません」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ないのだったらないからと、彼女に帰ってもらった。

一週間後に彼女はまた来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに忘れていました、確かに一匹の蛇を殺しましたと言った。どうして忘れたのか? というのは、彼女は、前のリンポチェが出家しているので、出家している人の方が在家の人よりも力があると思ったのだ。誰もがそのように思っていて、今もそのように考えている人もいる。出家したほうが在家の人より優れているとは限らず、在家の人が出家している人より優れているとも限らず、御仏の法は平等である。もし出家した人のほうが在家の人より優れているというなら、なぜ地蔵菩薩を除いた全ての菩薩の相は在家の相なのか。このように言えば、出家が優れているのではない。釈迦牟尼仏は丸坊主にしていたか?していなかった。だからこれは迷信で、出家しているからきっと修行が良くできているとは限らない。在家だからきっと修行が生半可だとも限らないわけで、その人の因縁を見るのだ。だから在家を馬鹿にしてはならないし、出家をあまり持上げてもいけないし、出家を馬鹿にしてはならず、在家を持上げすぎてもならず、一切は御仏がおっしゃるような標準で上師を見ているのである。ちょうどこの前リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した、上師を検視する20の条件のように、適合してはじめて上師になれ、これらの条件が無ければ、そこへは行かないほうがいい。

彼女はまたやって来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに、結婚して二日目の夜、一匹の蛇が彼女の部屋に入って来たので、彼女は熱湯をかけて殺したがその時、骨がカラカラと落ちたと話した。最後にリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を治してあげ、良くなった。今は彼女は夫に付き添って北京で商売もしている。この話は、リンチェンドルジェ・リンポチェの手柄を話すのではなくて、占いは信じる事ができないと言うためだ。ここに坐っている人たちがまだお御籤を引いたり、運命を占ったり、卜筮をするなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聴きに来る必要はない。あなた方は既に皈依しており、真面目に仏法だけを学べばいい。嘗て非常に高齢のラマが言ったが、実実在在に仏法を学ぶ人は、物事は必ず良い方へ転じて行くのだ。彼の言う「実在」というのは、先週リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したが、上師に対する一切の敬仰心である。先週話したのに、ある弟子はやはり忘れた。実は、多くの人が仏法を聴きに来るが、ただ自分が好きな部分を選んで聴いて、好きではない事は聴いていない、このような人は永遠に学び得ることはできず、問題は永遠に解決できないのだ。

上師への心構えも非常に重要である。「私達が上師に対する一切の行為は、すべて清浄な心でする事が必要」この言葉はどのように解釈するのか? 上師の行為は、弘法で衆生を益する外に、上師もやはり人間で、個人の生活がある。あなたの家、兄弟姉妹、両親、妻、夫、子供を含めてそれぞれの生活方式が異なる。考えて見なさい、あなた方は皆家族の生活方式があなたと同じである事を願っているだろう、何時に起きて、何時に朝食、何時に出勤というように、全部あなたがコントロールと指図をして所謂一家の主だと思っているだろう。家には家の規律が、国家には国の法がなければならない。しかし、私達は通常他人の生活に干渉し、関心を寄せている。ここでの関心というのは、本当の関心ではなくて、あなたが彼を理解したいと思うのは好奇心からであるということだ。この言葉の意味は、上師の一切の行為を、あなた自身の法則で見てはならない、清浄な心で、貪、嗔、痴の心を持たずに見れば、後に上師と相応する可能性がある。

私達は上師を御仏のごとくに見て、上師を御仏の代表とするべきだ。私達が上師は御仏の代表だと知れば、上師の一切の行為に対しては過失があってはならないという考えになる。何時如何なる時にもただ一つの方法は、上師の一切功徳を憶念することだ。以前のナロッパ祖師がディロッパ祖師に学んだ時、ディロッパ祖師の一切の行為に対して反対の考えは持たず、つまり、上師がなさったことに悪の行為が出現するとは思わなかった。このことを成し遂げるのは容易なことではなく、とても難しく、ここに坐っている皆もリンチェンドルジェ・リンポチェに顛倒する考えがあるだろう。それを犯したことがない人は、少なくとも前に坐っている、少なくとも四加行を満たし、少なくとも大手印のある境地に進んでいるはずだ。私達は毎日多くの祈祷文を念じ、特に大手印の人は、必ず上師の加持を得て、大手印の境地を悟ることができる様にする事が必要である。

あなたが、上師に対して少しでも正常でない考え、ほんの少しの反対の考えを持てば、あなたの修行過程に非常に大きな障害となる。或いは、あなた方は、そんなに厳しいことなのかという気持が湧くかも知れないが、本当にそうなのだ。以前リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた頃、この点を悟ることができなかった。民間では信衆の掌を打つと、彼らが来なくなる、聴かなくなる、供養しなくなるのを恐れる人が居る。だから民間では信衆に対してとても丁寧に保護し、優しくおだてるが、密乗内では上師が弟子に対する要求は非常に厳格である。実は、チベット仏教は、以前の中国の禅宗の言い方に少し類似している。もしあなたが以前の禅宗の大徳が上師の教導の方式を受けるのを見た事があるなら、きっと受け止め難いであろう。打たなかったら、罵り、傷つけ、ひいては追い出される。だから台湾に禅宗と言うのはあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは無いと思っている、というのは、既に禅宗の精神を失っているからだ。

なぜ禅宗はこのような法門を用いるのか?チベット仏教もこの種の法門が必要なのか?我々が今日、輪廻、生死を解脱できない、我々の煩悩を解決できない等の重点は何処にあるか?それは我執なのだ。我々はこの「我」に非常に執着して、自分が考えた事は正しい、自分がしたことはすべて正しいと思っている。我執があるから、我々の生活には煩悩無明が産生して輪廻の苦海へ堕ちるのだ。だから禅宗の方法とチベット仏教の方法はすべてあなたの一番深刻な問題に対して対応するのだ。要求が厳格なのは、あなたの我執を破る為なのだ。全ての「我」は一切仮のものであるとあなたに理解させた後に、あなたは平等な慈悲心を修行することができるのだ。平等な慈悲心というのは、善人になればそれが慈悲であるというのではない。慈悲とは作為的ではなく、思考する必要も無く、対象もなく、分別もない、また見返りがあるかどうかも考えないし、またほかの人があなたに慈悲心があるかどうか知っているかどうかも考えないで、黙々と行うのである。だから、我執を破らなければ、慈悲を学びとることはできないのだ。

簡単に言えば、あなた方は、この師兄は気に入らない、あの人は良くない、あの人が唱えるのは下手で、私の方が上手だ等と、一日中思っている。多くの師兄弟が、リンチェンドルジェ・リンポチェは知らないだろうと思って告げにくる。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェがどうして知らないであろうか。あなた方は皆他人の批判ばかりで、聴かされるのはすべて批判である。どのようにして批判しなくなれるのか?弁解しなければ批判はなく、聞かなければ批判もないのだが、あなた方は聴くのが好きなのだ。なぜ聴くのが好きなのか?人を批判するからだ。私は聴くけれど言わないのにやはりそうなのですかという人が居る。リンチェンドルジェ・リンポチェは、そうだ!と開示する。儒家であろうと、仏門であろうと批判するなと言っている。どのようにしてそれを守れるのか?とても簡単だ!師兄弟の事を話せば、一に弁解しない、二は回避し、そしてもっと距離を持つ事だ。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に言ったが、もし外で誰かが批判したとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェは、解釈をしない。なぜ解釈する必要がないのか?もしリンチェンドルジェ・リンポチェが間違っているなら、批判されるのは当り前である。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが間違っていないなら、弁論したなら、相手は引き続いて言うだろう、その結果は相手に悪業を犯させることになるわけで、言い訳をして何のよい事があろうか?第三に、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが本当の如法の上師であれば、このような批判に耐えられない事があろうか?受け入れられないことがあろうか?実は外での様々な批判はすべてあなた方弟子から出現しているのだ。というのは、如法をちゃんとやっていない弟子の行為が、自然にその上師が間違っていると言われるようになるわけだ。だからなぜ回避するのか?その人に解釈する必要がないからだ。あなた方は解釈すると言う事を犯している。だから多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェの所に来て、その人が解釈する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、解釈をするなと言うのだ。なぜか?あなた方が来るのはリンチェンドルジェ・リンポチェに意見をもらいたいからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが、解釈するなというのは、あなたの意見を受け取らない事を表明しているので、更に解釈しても無駄だ。天下の痴人たちはすべて解釈したがる。六波羅蜜の修行で、第三番目は、忍の修行である。何を「忍」をするか?あなた方は全く「忍」を遂げていない。

言い訳をしなかったら、すぐ損をして、オーナーに辞めさせられる可能性があるという人もいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、それはあなたが過去に播いた因であると開示する。もしあなたが、人々と善縁を結び続けて、我が無かったなら、問題はきっと減少していたであろうし、悪業が出現してあなたに見せることはなかっただろう。これらはすべてあなたが以前やった事と関連があり、かつて他人を理由無く苛めたり、他人を罠にかけたり、他人の是非を言ったり、騙したりした事があれば、その果報がこのような事を起こすのだ。時には我々は少し馬鹿になって、頓馬になって、物事を受け入れたなら、再び発生することはなく、我々が弁解すればするほど、事はますます大きくなり、益々面倒になって来るのだ。だから以前のナロッパは、ディロッパに対して百パーセント完全に信服していたし、リンチェンドルジェ・リンポチェも、尊勝なる直貢チェツァン法王に対してそうである。外で直貢チェツァン法王をどのように言おうと、リンチェンドルジェ・リンポチェは聴いても答えず、その場を離れ、聴かず、話さなければいいのだ。というのは尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェの上師であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは、まだ上師の尊勝なる直貢チェツァン法王の果位に到っておらず、リンチェンドルジェ・リンポチェの人生経験で、直貢チェツァン法王が果たして本物かどうかを判断する事がどうしてできようか?

あなた方はきっと、私は大学まで学び、人生経験も既に十分だと言う、しかもこれらの修行者は、一日中自分は正しいと言うが、あなたが正しいか間違っているかをどうして分かるのだ?それで、先週リンチェンドルジェ・リンポチェが、なぜ《寶積経》を通じて詳細に紹介したかは、あなた方に、菩薩がどういうものであるか、どんな資格で道場に坐ってあなた方に仏法を説くのかを理解させるためである。あなた方が聴いた後に、まだ懐疑的であるなら、来る必要はない。というのは御仏の話さえ懐疑するなら、ここへ来てどうするのだ?この標準はリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したものではなく、釈迦牟尼仏が弥勒菩薩に話したことで、あなたがこの標準さえも懐疑するのであれば、御仏を疑うのに等しく、ここへ来て何になるというのか? ここだけでなく、あなたが御仏を疑うなら、すべての道場へ行く必要は無いのだ。

多くの人が自分は御仏を信じていると言う。何を信じているのか? あなた方は本当に御仏を信じていない。御仏が説かれる話を、あなた方はそのとおりに実際にやっていないで、何が御仏を信じるというのだ?すべて「拝拝」で、自分がよくなるように、婚姻がうまくゆくように、あれやこれを頼んでいるが、これは「拝拝」と同じではないか?すべて「拝拝」である。だから今日は、自分の考えが正しいとは、決して思わないようにということを皆に理解してもらいたい。

小さな物語だが、以前あるバラモンがあって、つまりインドで以前比較的高い地位の出家人がいた。彼は一人の上師についていて、ある日上師を待っている時に、彼の上師は身体の調子が悪くて、何か悪い食物を食べたらしく、食べ物を彼の頭に吐いたが、もう一人のバラモンがこれを見て彼に言った。あなたの上師は礼儀が良くない、あなたの頭に物を吐くような人があなたの上師になれるのか?するとこの人はすぐに「なれない」と答えた。彼がこう答えると、以前に得られた一切の神通、一切の福報がすぐに無くなった。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、この事の重要性を引き続き開示なさった。我々が顕教、密教の何を修行しようとも、『般若経』はすべて重要で、しかも『般若経』は『大蔵経』の中の最大のお経で、『心経』は『般若経』の精華である。みんな『心経』を唱えたが、短いお経に『般若経』のなかの全ての精神が出ている。『般若経』に書いてあるが、一部の大菩薩は方便に長けているためか、衆生の成熟の為にか、五妙欲を使うことができ、この一生で妻帯し、しかも上等境地の仏果を悟ることも多い。直貢噶舉の、ナロッパ、ディロッパ、マルパ祖師は妻帯し子供もあり、事業も持っていたようだ。直貢噶舉の不共的護法のアキ度母は結婚し、子供を産み、ジッテン・サムゴンという孫もできた。このことの意味は、一部の菩薩が再来して衆生を済度するのに、衆生を導きやすいために、生活方式をみんなと同じくするということだ。例を挙げれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは結婚し、子供もあるので、この面の問題には非常に経験のある解答ができる。結婚した事がない、子供もいない人がこの面の問題に答えるのはかなり難しい。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは商売もしたし、失敗もして、多額のお金を損したことがあるので、この面の問題に対してはとてもよくわかるのだ。

私たちの所謂苦しみは、一切が損得の中にあって、我々に苦痛を生じさせる。だから、本当に仏法を弘めようとする人が出るなら、必ずや世間のあらゆる苦を経験した人、簡単に言えば、何が苦しみかを体験した人だということだ。事実、私達の歴史から見れば、すべての大徳には、この世間での苦労をした事がない人は無く、みんな苦しい日々を経験しているのだ。彼らは苦しみを通って悟り、そうして大慈悲力大能力を得て、衆生を益し、助けたのだ。何故経文に、菩薩はこの世の種々の苦を嘗め尽くしたと説いているのか? 菩薩は一切の苦を物ともせず、衆生を益するのだ。というのは一切が弘法の菩薩だから、苦の真の本質は虚幻であり、本当のものではないことを知っているからだ。だから、菩薩は衆生が執着により苦しんでいるのを見て、自分の経験を衆生に告げて、彼らを助けようとなさるのだ。

だからチベット仏教の中では在家、出家上師はすべて同じであり、出家しているから特別だということはないし、在家が特別だということもなく、一切は因縁により、修行者に一部の衆生を済度させる。だから、経典の中に説いているように、浄相を修めなければならない、相というのは外在の容貌ではなく、一切の現象に対して、清浄な心で見るべきだということだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて開示した事があるが、宇宙の一切の人、事、物は拒絶することができず、すべて受け入れるのだ。どのような人、事、物であってもすべて私たちの手伝いをしてくれ、すべてが仏法を学ぶ過程での大切な助縁である。例えば私達が良い物だけを選んで、悪いものは要らないというのも、正しくはない。悪いものだけ必要で、良い物は必要で無いというのも間違いだ。所謂分別心を通していて、良し悪しを分けているが、この分別心のために苦痛が生れるのである。今日あなた方が苦痛を持つのは、あなた方に分別心、執着があるからで、それで苦痛が生じるのだ。例えばあなたが平等心になる事ができ、分別心がなくなれば、自然に苦痛は減少する。私達は苦痛のなかではまだ悟らず、自分は正しいと思っているが、これがつまり執着なのだ。

だから、例えば私達が一切の現象の本質は本来は清浄であることを理解すれば、縁故によって、異なる現象が生じるのを私達に見せてくれ、この現象も随時変化するものであるのだ。そこで仏子として、一切の現象にそれぞれ清浄な観念を持つことである。観念とは? それは一切の現象は因縁法にすぎないということだ。例えばあなたが因縁という二字を受け入れないなら、ある事柄と思ってもいい、ある事柄が悪いというなら、それは分別であり、それではあなたは平等の慈悲心を学び取ることも訓練する事もできなく、平等な慈悲心がなければ、あなたは衆生を益し、助ける如何なる力も持つ事は不可能である。だから、このような方法で思考するなら、一日中御仏の傍に侍っていても、ただ御仏の過失だけが見えて、御仏の福徳は見えない。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェの身近にいても、その人はリンチェンドルジェ・リンポチェの過失だけを見て、リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を見ないのと同じだ。というのはその人の心が清浄ではなく、やはり貪、嗔、痴、慢、疑を以って仏法を学んでいるのだ。

第四点は、どのようにして真心で、上師がなさる一切の行為を見て、すべて清浄の相と思い、上師がおっしゃる一切の話をすべて証量として、誠信を具えるべきものと思うべきだ。簡単に言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェがいつも開示している、上師が喜び、笑い、怒り、叱るのはすべて仏法である。多くの人が明確に言ってください、はっきり行ってくださいと言うが、やはり聴いても分からない。なぜ聴いて分からないのか? それはリンチェンドルジェ・リンポチェが話したことがあなたが思っている事とは異なるから聴いて分からないのだ。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったことがちょうどあなたの考えている事を満足させれば、聴いて分かるのだ。簡単に言えば、本来この男性と結婚しようと思っていたが、この男性が結婚後あなたに対して良くなかったらどうしようかと恐れるが、しかし彼をとても愛していて、リンチェンドルジェ・リンポチェに聴きに来る。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが、自分でよく見て決めなさいと言えば、あなたは聴いて分からないだろう。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが結婚するなと言えば、あなたは泣きながら出てゆき、供養さえ忘れるであろう。これはどう解釈すればいいのか?それは彼女がすでに立場を決めていて、リンチェンドルジェ・リンポチェがなにか言ってくれて、彼女の考えを確定したいと望むからだ。仕事の事を聴きに来る人も同じようで、リンチェンドルジェ・リンポチェが行くなと言えば、駄目なんですよ!これこれしかじかと、多くを語る。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれなら行きなさい!というが、結果は良くないのだ。

いつかのように、リンチェンドルジェ・リンポチェはある男性に、問題のある車を探さないようにと言ったら、この弟子は、そんなことはありません、と答えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが勝手に言っているとでも思ったようだが、その結果次の日に探して来た車にはクーラーがなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは時にスゴイのだ!言えばそれが的中するように凄くはなりたくもないのだが。だから簡単に言えば、上師は一人の修行者で、あなたが仏法を学ぶのを導く人であり、いい加減なことをあなた方に語ることはないのだ。皆五戒を守っているだろう?その中の一つは、いい加減なことを言わないだ。あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェは冗談を言っていると思うかもしれないが、本当に大切な事なのだ。

事実、一人の修行者の、一切の行為、動作、言語すべては仏法の境界の中にあり、仏法を離れはしない。あなた方は凡夫の心で考えているが、はっきりは考えられないので、ここであなた方に教えてあげるのだ。簡単に言うなら、上師の一切の行為は、清浄な相で考えるべきで、上師が語る言語は、すべてあなたにとって為になると思い、真心と信心をもたなければならない。顧みて、リンチェンドルジェ・リンポチェは言った事は、かならずやってきた。あなた方が求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェが引き受けた事は必ずやったのは、これは誠実真心である。あなた方がべたべた纏わりつくと、リンチェンドルジェ・リンポチェは相手にしない、それはリンチェンドルジェ・リンポチェがやらないのではなく、あなたの問題で、纏わりついても無用である。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲がない、外の出家人などは、信衆が泣きさえすれば、すぐにお経を唱えてくれ、寄付をさせてくれ、その人のために唱えてくれると言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは、このようなのは良くないと開示する、それは次第に依頼性を産み、何事もリンチェンドルジェ・リンポチェに頼り、何事も仏菩薩に頼って、自分では改めなくなる。現在台湾の仏教界がこうであり、信衆は師に纏いついて、私はとても苦しい、助けてください、助けてくださらなければ死にますと言う。すると彼の師は、よし!よし! 帰ってきて私が念じてあげれば何事もない!大丈夫!と言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示する。何が何事もない事があろうか、もし彼が何事もないと言うなら、それは御仏は因果を変える事ができるという意味になるのだ!だから、衆生は皆迷わされてしまうが、こういうのが皆好きでたまらないわけで、リンチェンドルジェ・リンポチェのやり方を彼らは好きではないのだ。

しかし先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったが、釈迦牟尼仏はかつて何度も示現されており、もし仏法を問わない人であれば、御仏は完全に相手になさらない。御仏は必ずや大慈悲を具えておられるのに、何故相手になさらないのか?あなた方には、御仏が相手になさらなかったことはきっと分からないだろう。仏法を問わなければ相手にしない、そんなに無慈悲なのだよ!と、あなた方は批判し始めるのだ!御仏はあなた方の好奇心を満足させはしない、この人に今この因縁がなければ、開示さえ不必要なのだ。御仏に逢い、具徳の上師に逢えば、以後因縁ができるので、今日御仏が何もおっしゃらない、その意味はあなたに一つの縁を与え、以後別の上師が良き縁を与えて手伝ってくれるかどうかを見るのだ。すべての御仏菩薩そして上師は、名も利も求めず、仏法で人情を築くのでも、あなたと友達になるのでもない。御仏菩薩、そして上師は、あなたと友情を結ぶのでもなく、商売をするのでもないから、絶対的に正確な仏法方式であなたを導くのだ。

ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェがこの前開示したが、チベットに居た時、尊勝なる直貢チョンツァン法王に、一人の信衆が人民元で、一万元を供養し、二枚の名刺を出して、「どんな人と商売で協力し合えますか」とたずねた。直貢チョンツァン法王はその場では何も言われなかった。当時その場は気まづい雰囲気で、その漢人はこのような場面に出くわした事がなく、だれもがお金を持って寺院へ行き、供養したら、師父はかならずその人に付き添ってお茶を入れ、おしゃべりをして、最近いかが過ごしていますか、調子はいいですか?などと聴き、あなたは真に発心されたのですね、師父に会いに帰ってきてくれて実にいい人だと言うだろう。当然彼にとってはいいはずで、あなたがいいのではない。あなたも師父に、最近は何を準備なさっていますか?と聞くと、師父は、あなたがそんなにお気持ちがあるなら、その時にあなたに言いますよと答えるだろう。それであなたは、「師父、私に機会を与えてくださってありがとうございます」と応えるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようなことは愚昧であると開示する。尊勝なる直貢チョンツァン法王は供養をお受けになる、それは供養はあなたに福報を与えるからである、しかし仏法と関係ない事を聞くと、相手にはしない、本当に相手にしないのだ。それで最後にリンチェンドルジェ・リンポチェは、少し彼に説明した、というのは漢人とチベット人とは考え方が異なり、チベット人はこのような場に直面すると、自分が間違ったと思って、すぐさま頂礼をし、懺悔して出て行くが、漢人は纏わりつき、一万元で足りないなら、更に足そうとして、智慧で物事を見ないのだ。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、「尊勝なるチョンツァン法王が口を開かれないのは、二つの原因が有る、第一に、あなたは仏法を聞いたのではない、第二に、尊勝なる直貢チョンツァン法王は、三昧耶戒を守っており、もし直貢チョンツァン法王が、この人が良いと言うと、因縁法を破ることになるからだ。」と説明した。今はこの人が良くても、後になっても良いか悪いかはわからず、保証できないからだ。

だから、もしまだ誰かが、リンチェンドルジェ・リンポチェにこの男性と結婚して良いか悪いかと聞くなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に答えない。以後あなたが彼に良くするかどうかどうして分かろうか?男性が変わるのではなくて、あなたが先に変わるかもしれない。女性の多くは男性が良いか悪いかを必ず聞くが、あなた自身はどうなのだ?現在台湾の多くの女性が先に変わっていて、男性が先に変わるのではない。だからあなたがそのようにするのは、上師に破戒させることではないのか?そんなに結婚が怖かったら、結婚しなければいい!結婚するのなら、怖がるな!昨日弟子が友達を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来て、自分はこの商売をするのが非常に苦痛ですと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ではしなければいいと言ったら、しなければならないのですと言う。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一度開示して、ではやりなさい!と言ったら、彼はまたとても苦痛ですと言う。そこでリンチェンドルジェ・リンポチェはまたまた開示して、ではしなければよいと言った。彼らは矛盾しているので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに開示して聞かせたが、彼らはやはり聞いて分からないらしく、冗談を言っていると思ったようだ。みんなはっきりしなさい、もし仏法から離れた事であれば、上師は本当にあなた方と話をしないのだ。だから私達は上師のおっしゃる一切を、心にしっかり刻んで、上師のおっしゃる事を重視して、勝手に上師に答えたりしないことだ。

私達も艱難辛苦を厭わずに、堅固な心念で上師の心続精華を自分の心の中に刻むことだ。つまり上師は多くの事をあなたに語ったであろうし、多くの仏法をあなたに聞かせたであろう、しかし、多かろうが少な少かろうが、甚だしきはたった一字一句であったとしても、あなた方は上師に対する心念を非常に堅く定めて、それから心を込めて上師の仏法を受け入れれば、上師の法脈を引き継ぐことができるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王が仏法を開示なさる時にはノートは執らないで、下に坐って入定して注意深く、直貢チェツァン法王が開示なさる仏法を聞くだけで、録音テープも聞かず、VCDも見ない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは知っているのか?それは、直貢チェツァン法王が仏法を開示する時には、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「私」の観念も、知りたいという気持もなく、直貢チェツァン法王が何を言われるのか、自分は何を知りたいと願っているのかという非常に簡単な観念だけである。直貢チェツァン法王の伝法は、衆生を利益することなので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ただ衆生を代表してこちらへ坐って仏法を受け入れるだけなのだ。あなた方はそれと反対で、皆自分が知りたい、自分が理解したい、自分がすごくなりたいという気持だから、ノートし、録音テープを聞く。だから時に子供は聴けても、あなた方には聴けない場合がある。というのは、子供は仏法を聞くのに予め構えた心を持っていないので、スポンジのようにすべてのものを吸い取るのだ。あなた方は仏法を聴くのに、自分が好む物を聴き入れ、好まないものは外へ締め出している。所謂好むというのは、ちょうどさっき言ったあなたが聞くのが好きな、あなたに役に立つと思われることで、それなら吸い取るのだ。

この言葉の意味は、あなたが仏法を聞くときに、今日どんな原因で来る事ができたか、または来る事ができなかったかが大切な事ではなく、大切なのは来ることなのだ。来てからは心構えを糺し、真心で信心する、上師があなたに説かれる仏法を知るのには、絶対の誠信の範囲である。だからあなたが上師の心量、この心量とは何かというと、上師の心であり、上師の心を拡大して、上師の心は最上であり、菩薩の果位を悟った上師の心は、虚空を遍くのである。普通の上師の心には、「我」の観念がなく、心はすべて衆生を利益ることで満ちている。だからあなた方がこの心の力量に到達する前は、しっかり学ぶべきであり、一切法の如くにすべきだ。あなた方が上師の心量に到ったとしても、上師の一切の行持、行為を学び、上師が衆生を益する方法を学ぶべきだ。上師が福徳、智慧、資糧を累積する時に、あなたもそれに参与していれば、或いは供養や、必要な物を差出して、身体、言語などの服務、随喜、上師と一緒に行動すれば、上師が得る一切の資糧はあなたも得ることができる。わかりますか?だからあなた方が前に言った条件をきちんとやっていないなら、後に来る物はないのだ。上師が何かを成して、福徳を累積する時にあなたが参与していて、上師に対する心が十分であれば、上師が備えている福徳は、あなたにもあることになるのだ。

ちょうど、リンチェンドルジェ・リンポチェが、尊勝なる直貢チェツァン法王と尊きドラブ・ワン・リンポチェ(Drubwang Rinpoche)に対して一切の敬仰心をもっているように、何かする必要があって、リンチェンドルジェ・リンポチェに言ってくだされば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず讃嘆と随喜あるのみで、それをやる。それで直貢チェツァン法王とドラブ・ワン・リンポチェ(Drubwang Rinpoche)の果位は高くなり続け、リンチェンドルジェ・リンポチェもその後に従って高くなってゆく。あなた方がなぜリンチェンドルジェ・リンポチェに付いてこれないかと言うと、あなた方は前に言った条件をやっていない、まったくやっていないからだ。それであなた方は、リンチェンドルジェ・リンポチェが福徳を累積してゆく中に居ないのだ。毎日リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず回向するが、その方法はあなた方とは異なり、あなた方の回向というのは、夫が早くマネージャーになれるように、または子供に、勉強がよくできるようにと言うようなことばかりだ!母親に回向して、母親が仏法を学びに来ますようにとかいうのは、回向ではなくて、巫術である。あなた方は仏法を学ぶのに、巫術を学んでいる。回向とはどういう意味か?すべての功徳を人にあげて自分は必要としないのだ。なぜあなたが参加すれば、上師の福徳と一緒になれるのか?それは上師のどの動作も、どの言語も、すべて回向から出ているからだ。

だから、古代では、如法の上師の身辺に侍る人は、財物の供養は全く無くても、累世の業はすべて消え去ると言われた。だから、上師にできるだけ近づくようにと言われる道理はここにある。上師が回向する時には、対象はなく、虚空を遍いて回向する。あなたが上師に近づき、上師の種々の事業に参与するだけで、ここでいう事業とは、上師の仏法事業のことであり、それであなたは上師の福徳の中に居ることになるのだ。もし、あなたが今日参与しなかったら、ひいては嗔念を起こし、貪念を起こしたなら、参加した事があっても、福徳はすぐに途絶える、非常に早いのだ。待ちなさい、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する。

これはどう解釈するのか? 二人の人がある所へ行き、御仏にお供えをした。一人は一番良いツァンパを、もう一人は少しだけのあまり良くないツァンパを供えた。あまり良くないツァンパを少しだけ供えた人は、自分のツァンパを良いツァンパの下に置いて一緒に供えたので、彼らは同じ様な功徳を得た。だからこの話は、あなたの心量はとても微小であるが、もしあなたの上師がすでに心量を悟って、しかも絶えず福慧を累積しているなら、あなたは上師の傍で全ての事、供養、敬仰、侍奉等に参与するだけで、上師の功徳の中に居ることになるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前皆に言ったことがあるが、尊勝なる直貢チェツァン法王は、今も絶えず供養、布施をされており、または絶えず衆生を利益する弘法の事業をなさっており、リンチェンドルジェ・リンポチェもそうしている。だから、直貢チェツァン法王の歩みが早くなれば、リンチェンドルジェ・リンポチェも同じく早くなる、というのは、直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェが累積する福和徳の事業は止まることはないからだ。あなた方はきっと、なぜ福と徳とを累積するのですか、よき日々を暮らすためですかと聞くだろう。そうではない!福がなければ衆生を益することはできない。福で何をするのか?別の人にあげるためで、自分に与えるのではない、だから、直貢チェツァン法王と、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えず福徳を累積して衆生を益しているのだ。

もし皆に誠信の心がなく、誠懇、恭敬にして、上師を信じる心がなければ、上師が如何に賢善であっても、品位と果位が高くても、あなたを利益することはできない。上師の口伝にしても、ひいては心続と功徳をあなたに移そうとしても、あなたに誠信、祈請、発願がなければ得ることはできない。しかも、すべての聖者、つまり真の修行者は、常に功徳を隠している。これはどういう事なのか?あらゆる真の修行者は、自分がどれだけの事をしたかを、公開して人から讃嘆される必要がなく、黙々と行っているからだ。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが多くの事を行っているが、あなた方はその一部分しか知らないのと同じで、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの事をあなた方には話していないのだ。尊勝なる直貢チェツァン法王もそうであり、教派のリンポチェもまたそうである。つまり、輿論、新聞、テレビで自分はどれだけの事をしたと言っている宗教団体はどのようなものであれ、聖者や修行者とは距離があるのだ。古人は陰徳の事をいうが、私達がやっている一切の善徳は表彰される必要はなく、表面に出て表彰されると「陰」にはならないのだ。

もしあなたが、この寺はあなたのお金を乱用していると思うなら、あげなければいいのだ!その上、時間をかけて合格発表を見るのと同じように、書かれているかどうかを探しに行く。多くの人が、寺へ行って一番に自分の名前が書かれているかどうかを見る。書かれていなかったら、出家人の所まで行って、「書くのを忘れているよ」と告げる。出家衆は「すみません、あなたの名前を書くのを忘れていました」と答える。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェがその出家衆だったら、「書いてやらない!」と言うだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示するが、本来経典にはこんな事は書かれてはいないのだ!経典では法会で名前を書いて壁に貼るなどは説いてはいないし、経典には献金したから大功徳主で、前に坐ったり、委員になるなどとは書かれてはいないのだ。台湾では今「護法会」というのが流行しているが、「護法」の意味は正法を護持することで、もし仏教に何か事があって、傷害を受けたら、あなたは喧嘩に行き、死にに行くのだ!しかし現在の「護法会」はお金を寄付することで、寄付が多ければ名誉も大きく、社会的なある地位、護法会会長をするとかで、その他のことは関係なしにすればいいのだ。

今日我々は多くの仏法を歪曲していて、間違った事を正しいと思っているので、真の修行者、衆生を益する人は、常に自分の多くの事を言わないで、世間の人々に知らさないようにしているし、常にあなた方にもどれだけの事をしたかはいわないでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェが時々あなた方に言うのは、警告の故事であり、どのようにしなかったらどうなるか?というような話だけするが、リンチェンドルジェ・リンポチェがどれだけの事をしたかは、仏菩薩がご存知のほかに、尊勝なる直貢チェツァン法王だけがご存知で、あなた方は知らないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが密法を学び始める前に、ニンマ派を修行した在家居士に出逢い、彼は非常によく修行していたが、誰もそれを知らなくて、彼が往生する時には、ポワ法を成功で修めて往生した。だから真に修行した人は、いつも自分は仏法を学ぶ人間で上師が一番大切にしてくれる弟子であるとか、上師が一番重要視してくれているとか言わないのだ。このような事を言う人は、リンチェンドルジェ・リンポチェが一番好きな弟子ではない、一度でもそれを聞いたなら、このような弟子を次第に疎遠にする、いうのは、その弟子を傷つけないように、その弟子が仏法を学ぶのに魔が差すのを恐れるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが、尊勝なる直貢チェツァン法王に従って長年、自分は、直貢チェツァン法王の一番重要な弟子であると言うのを聞いたことはないだろう、どうして言わないか?それを言うと、高慢傲慢となるからだ。

そこで、今日仏法を学んで、もし真の修行者に出逢ったとしたら、その人が行った一切の福徳をあなたは見る事はできない。あなた方凡夫には理解し難いが、巧言で惑わす偽の上師はたくさんいるのだ。何が「巧言」なのか?それはあなたが聞くのを好む事を言って、あなたの欲望を満足させることだ。「あなたの欲望を満足させる」とはどういうことか?それはあなたが委員をしたかったら、それをやらせ、師父に伴って遊びに行きたかったら連れて行く、あなたが師父の傍で食事がしたかったら、傍に坐らせ、あなたの好きな話を聞かせてくれて、あなたを叱らず、責めず、話す事はあなたがすべて聴き入れられる話で、喜ばせる話をする、これが即ち「巧言」である。

経文に説く、「愛語」は、あなたが聞きやすい、或いは慰める話ではなくて、「愛語」というのは、あなたを叱責することも含まれるのだ。たとえば「愛語」が単純にあなたが聴き入れられる話、あなたに勧める話であれば、この種の「愛語」は正しくなくて、愛情、情欲の話になる。「愛語」は、あなたの問題を改め、叱責する話も含まれるのだ。多くの巧言に惑わされるが、どのように惑わすのか? それは仏法で騙すのだ。「真実生死を離れていない教法は、偽の上師をたくさん生み出す、累世の因縁の上師に依止できることが一番大事である」この言葉は、そのとおりだ。意味はの如何なる弘法の上師も、一世で修行してなったのではなく、生々世々多くの善の因縁を累積して、この一世に出現したという意味である。簡単に言えば、彼は必ず如法の上師の教導を受けている。チベット仏教でいえば、上師はその弟子に少なくても見性を確定してはじめて弘法を初める。もし見性がなくて弘法すれば、多くの人々に問題が生じる。以前多くの大徳が上師の名前を聞いて歓喜の心、大いなる信心が起きたというのは、すべて累世の因縁からなのである。

だから「あなたが一人の如法の上師に依止することができれば、諸仏は喜び、悪友はあなたを邪魔する機会がなくなり、自然に一切の煩悩や悪を成す事を戒め止めることができる。」この言葉の意味は、もしあなたが一人の上師に依止できたら、累世の冤親債主があなたに作用を起こせなくなり、あなたが仏法を学ぶのに障碍となった者が離れて、障碍がストップする。多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに会見しに来た時に「私の母は私に来させない!私は母に話せない!」と言うが、普通リンチェンドルジェ・リンポチェは「帰って大悲咒を母親に念じてあげれば、母親はあなたを来させてくれる」とは言わないのだ。問題はリンチェンドルジェ・リンポチェにあるのではなく、会見を求めた人にあるのだ。上師に会見する人が十分な信心がないからで、しかもこの上師に依止しようと決定していないからで、それで諸仏の喜びを得られないので、御仏と上師の福でもって庇護できず、それで障碍が起きる、これは簡単な道理である。

あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェがいい加減に話していると思うかもしれないが、そうではないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王に依止したとき、直貢チェツァン法王に対して百パーセントの信心を持ち、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この数年仏法を学ぶのに何の障碍もなく、だれも妨害することはできなかった。なぜあなた方にはそんなに多くの障碍があるのか?それはあなたがまだ決心をしていなくて、まだ窺っていて考えているからだ。だから上師の福と諸仏の福があなたを庇護する能力が及ばないので、仏法を学ぶのに障碍が絶えず出現して、こちらに時々事が出てくるかと思うと、あちらに問題が生じるというふうになるのだ。

「あなたの道の証量はゆっくり自然に増長し、しかも累世の中で常に善知識に逢い、悪道に堕ちない、一切現世及び究極の利益が自然に成就する」この言葉の意味は、もし上師に対して完全に誠信であれば、この一生に生死を解脱できなくても、累世の生々世々すべて善知識に出逢い、しかも決して悪道に堕ちないということだ。あなた方はよく聞いているだろう、皈依さえすれば、きっと悪道には堕ちないと、聞いただろう!多くの人が、自分は皈依したから悪道には堕ちないと思っているが、必ずしもそうではなく、やはり堕ちるのだ! あなたが標準までやらないからだ!もしあなたが上師に対して、絶対的に依止していないなら、上師の福はやはりあなたを庇護することはできないのだ。突っ込んで言えば、あなたが上師に対して百パーセント依止したなら、あなたの現世及び究極の利益は自然に成就する、リンチェンドルジェ・リンポチェがその例である。リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずしもすごく苦労して修行したわけではなく、ただ一年に一回一ヶ月余りの閉関をするだけで、有る人等のように山中に身を隠して苦労したりはしなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはごく自然に進歩したことは確かだ。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが上師に対する心が清浄である事で、それで上師の弟子に対する庇護があり、諸仏もお喜びになるのだ。

だから、「上師を本当に頼る弟子の一部特徴」は、経文には「沉穏」と書かれてあり、沉穏の反対は軽浮、軽佻で、前に言ったあの弟子はこの軽佻に属する。彼は当時すぐさま「不可能です!」と言ったが、結果二日目にすぐ可能である事を知った。「沉穏」の意味は他人が話した事は、仏法の方式で思考してから、他の人に答えられるということだ。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは、常に開示で、「衝動的に言わない」ように注意している。衝動的に話すのは「沉穏」ではないことで、自分が正しい、自分はスゴイこと、他の人に比べて聡明である事を急いで知ってもらおうとして、そこであなたは軽薄になるのだ。軽薄とは必ずしも動作の軽薄さを言うのではなく、その人が絶対的に落ち着いていないことだ。「沉穏」であってはじめて私達の常に動く心を調伏することができ、自然にその人の智慧も広がり、一切を正直を忍耐できるのだ。

何が「一切の正直の我慢する」なのか?つまり一切上師が叱責したり、正確な話しをしてもすべて無怨、無悔、無煩悩で受け入れる事である。だからリンチェンドルジェ・リンポチェに「私は上師に言えない、叱られるのが恐い」と誰かいうのなら、その人はリンチェンドルジェ・リンポチェの所へ来なくていい。何故叱られるのを恐れるのか?それは「我」があるからで、やはり上師を尊敬していないからで、上師はただ仏法を知っているだけだとか、自分は上師と同等で、年齢は彼よりも年上なのに、なぜ上師に叱られなければならないのか?と考えているからだ。もしあなたにこのような考えがあるなら、弟子になる資格はない。私達の一生は人に罵られるのを恐れ、人に批判されるのを怖がり、人に欠点を言われるのを怖がり、ずっと間違いを犯す。リンチェンドルジェ・リンポチェが一人の弟子を叱責し、罵った時にその弟子は泣き出した。『仏子行三十七頌』の中に、他人が自分を馬鹿にしたときは、すべて受け入れろと書いてあり、善智識であるのに、何で泣くことがあろうか?馬鹿にされたと思うのか?あなた方は『仏子行三十七頌』で何を学び、何を聴いたのだ?『仏子行三十七頌』は、あなたが顕教を学ぼうと密教を学ぼうと必ず修めるべき法門であり、修めないではならないのだ!あなた方は聴いてから、生活の中に生かしているか?誰かがちょっと突いたらすぐ飛び上がる!あなたが『仏子行三十七頌』をよく修行しないなら、後の平等、慈悲心一切が修行できないのだ、それであなたの行いを見れば修行できているかどうかが分かるのだ。馬鹿にされるのは受け入れられない、上師に叱られるのでさえ怖がって、上師に叱られないようにと思っている。叱られるのが怖いなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに告げに来るな。だから不沉穏なら、非常に愚昧な事を話すのだ。

「良き弟子は、徹底して十不善を断ち切り、恆に慈しみの眼で衆生を見る」十善は皆知っており、五戒の延伸である。あなた方はできたか?リンチェンドルジェ・リンポチェはよく多くの人に「慈眼視衆生」はどのように解釈するかと聴いてみるが、多くの人は、慈悲の目で見て、衆生は苦しんでいるから、憐憫を持つべきだとこのように答える。実は「慈眼視衆生」という意味は、我々の眼には良い悪い、正しい間違っている、高い低い、有能無能はなくて、平等な慈悲心で衆生を見て、衆生の手伝いをするという意味だ。この人は好きだから彼に近づこう、嫌いなら放っておこうとか、彼が頼みに来たら考えようなど、あなた方はこんなに勝手にできるのか?自分がリンチェンドルジェ・リンポチェだとでも言うのか?だからあなた方は慈悲の心を訓練していないのだ。

「我々は別人の財物を烈火と劇毒と同じように見る」この言葉の意味は、我々は騙したり、隠したり、不正確などの悪業の行為で衆生の財金から儲けてはならないということだ。一部の人はテレビで「現在この人は豚を屠殺しているが、あなたは彼がそれを止めてから皈依しなさいと言っても、彼はどうして生活するのですか?」などと言っているが、この理論は一見正しそうであるが偽者だ。彼が悪を断たないで、どうして皈依するのだ? 彼が悪を断たないで、どうして善が行えようか? 彼が悪業の仕事をしているのを知って、彼を皈依弟子として受け入れて、以後機会があれば彼を改めさせたいとしても、それは非常に難しい! なぜ御仏は「屠刀を捨てなさい」と開示したのか、その意味はすぐさま悪を断って、延ばしてはならないということだ。多くの人が、まずやってみて何でもなければ、後に少しずつリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔すればいいと思っている。あなた方のは懺悔ではなく、謝りに来ているだけだ。懺悔は二度としません、二度と過たないことで、これが本当の懺悔だ。あなた方は謝っても明日はまたやるわけで、身口意が又悪を犯すのだ。

だから、我々は真に仏法を学ぶ人として発心し、不正確な事業、他人を傷つける事業はすぐさま断たなければならない。自然に仏法を学べば、死を恐れることはない。多くの人がこの観念を受け入れられないで、自分は生活しなければ、生活できなければどうしようか?あれこれ言ってもやはり死を怖がっている。死を恐れていて、正確な出離心が学べようか?出離心がなくては、衆生の輪廻の苦をどうして理解できようか?それではあなたは正法を学ぶ事はできないで、永遠に一人の信衆であるだけだ!すぐさま悪を断ち切らなくて、ずっと悪を行っていて、あなたの心にどうして善念が起ころうか?善念がなければどうして慈悲を学ぶ事ができようか?慈悲がなければ、どうして自分や他人を助けられようか?だから仏法を学ぶことは冗談ではなくて、あなたにグズグズさせてはいられないのだ。すぐにしなければならない。いやなら構わない、あなたはあなたの道を行けばいい! 自然に学べばはっきりする、先に上前をはねても構わないで、以後懺悔すると思ってはいけない。それでは役には立たない、このような仏菩薩を騙し、神を騙し、鬼を騙し、他人を騙す、自分の心を騙すのは、悪の心である。仲間も皆先に上前をはねているとしても、そのような考えも間違っていて、その中できっとそうしない人もいる。このような間違った観念では、あなたを良き弟子にすることができなくなる。

「我々はいつも上師への供養を持続し、喜んで正法正見を受け入れ、常に世間を出離することを希求する」このような弟子は些か特徴のある弟子としての資格がある。つまり私達は慈悲の心で私達の悪の心を調伏することを学ぶ必要が有る。「沉穏如法行密戒」、あなた方はいつもリンチェンドルジェ・リンポチェに軽率なことを叱責されるが、あなた方には沉穏の心が不足しているからだ。出家衆を見てみなさい。ラマ僧はあなた方よりも沉穏なのは何故なのか?それは彼らが仏法を学ぶのは、出離することであると、確定しているからである。正にリンチェンドルジェ・リンポチェの開示の通りで、一部の出家弟子が間違ったことをしても、彼らはあなた方とは異なり、彼らは間違った事を知っているので、以後再び間違うことはない。あなた方は間違ってもまた間違いを犯し、地獄へ行って始めて自分が間違っていた事が分かる。だからリンチェンドルジェ・リンポチェはよく「あなた方が死んでから済度する!」と開示するのだ。生きているときに言っても聴かないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは相手にしないで隅っこに放っておく。沉穏もこの面を含んでおり、あなた方は自分の行為が間違っているとは思わずに、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示しても「上師が叱責している、怒っている!」と言う。もしリンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方の事で怒っているのなら、法座に坐る資格はない。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが、衆生の悪行で悪念を起こして、怒ったなら、上師の資格はない!リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方を叱責するのは、ただパフォーマンスであり、あなた方が沉穏に欠けて、あまりにも軽率で、それで日々を過ごせると思っていて、間違いを積み重ねているからだ。ラマ、出家衆は決心さえすれば世間を出離でき、非常に沉穏になり、一切の儀軌を尊重しているが、あなた方はそれができない。何故できないのか?それは仏法を遊び事にしていて、決心をしていなく、そのようにしたら、福報がある、運を改められると思っているからだ。

だから沉穏な人は密法を学び、修行する資格があるのだ。何故密法はそんなに修行しにくいのか?それは心が沉穏に欠ければ修行が成就できないからで、沉穏でない人は自然に軽率で大雑把で、衆生の苦しみを体得できず、利己的で、何事も自分の為にするからである。だから、チベット或いはネパールであろうと、密法を学びとった人は多くはない。チベット人を見たからと言って、密法を学びとった、仏法を修めてある事を改められるようになったとは思うな、そういう人は非常に少ないのだ。しかも「彼は惜しげなく上師に絶えず供養し、上師を敬仰する、必ずこうしなければならず、それを欠いてはならない」リンチェンドルジェ・リンポチェの例を見ても、尊勝なる直貢チェツァン法王への供養を停めた事はなく、絶えず行っている。直貢チェツァン法王が、リンチェンドルジェ・リンポチェの供養を必要としているのか?これらの供養で生活が楽になるのか?そうではない!これは敬仰心、誠実懇切の心なのである。例を挙げれば、供養は皆が食事をするのに等しく、食事を採らなかったら栄養が不足し、栄養が不足すれば身体に悪い。供養は法身が早く顕れるためであり、必ずこのようにしなければならないのだ!だからどの経典、顕教の経典に関わらず、開宗明義にはすべて供養の事が書かれている。しかし多くの人は経典を読み終わったら忘れており、御仏が故事を話しているとでも思っているのだ。

多くの人がリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の家の中の問題で開示を求めるが、すぐさま「私に何ができるでしょうか?」と聴く、つまり自分には何ができるのかと聴くのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは「ではあなたは何ができるのか?」と聞き返すと、相手は必ず「私に何ができるかわかりません」と答える。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「ではあなたは仏法でやるのか?それとも世間の法でやるのか?」と尋ねると、「もちろん仏法でやります」と答える。リンチェンドルジェ・リンポチェは「よし!『地蔵王菩薩本願経』によると見たら、他は先ず言わない。地蔵菩薩は母親がどの道に生れたかを知るために、どのようにしたか?母親の身がどの道かを知るために、全ての財産を売り払って、如実に御仏に供養し、母親がどの道かを知ったのだ。あなたもこのようにできるか?」と答えるのだ。今、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆の方便を図っている。施身法を修める時に、あなた方の祖先を済度し、またたくさんの親友を済度しており、あなたはその日のお小遣い程度で供養ができるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆にこの事をどうこう言うのではない。もしそうなら早々と方式を変えているからだ。重点は、皆に、高慢傲慢になるなと言う事で、自分に何ができるかなど思っているが、あなた方は今の条件では何もできない!何も成し遂げられない!あなた方はただ自分の生活をしているだけで、今日ご飯が食べられ、日を送ることができる、それは過去世に布施供養をしたからで、しかしこの福は、使ってなくなるし、使い終わるものである。

大福報のない人は、絶対に絶対に密法を学ぶ事はできない!リンチェンドルジェ・リンポチェによくすれば学べるとは思うな。歴史上でも、一部の大リンポチェが在家で、自分の子供、妻に密法を全然伝えなかったが、それは相手がこの根器を具えていなかったから伝えなかったのだ。密法は必ず代代伝わって行くとは思うな、そうではないのだ!あるものはそうであり、あるものはそうではないというのは、リンチェンドルジェ・リンポチェも見てきた。簡単に言えば、最近の例で、雲南にあるリンポチェがいて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、1990年に彼に会いに行き、そのリンポチェは1991年に亡くなった。彼は前後して3人の妻を娶ったが、3人とも彼の伝法を得ることはできなかった。このリンポチェのポワ法は最高のものであったが、彼は伝えなかった。それは彼女達がこの条件を具えていなかったからだ。このリンポチェは現在再来して、2003年に往生するというときに、認証されている。だから経典に「絶えず供養、布施をを続けて、上師に敬仰心を持つ事は、必定のことで、欠けてはならぬ事である」と書かれているのだ。

以前、ある阿闍梨が「我々は揺るぎない信心で金剛薩埵の戒を求めるべきだ」と言った。金剛薩埵は一切の戒律に最も厳格な本尊で、金剛薩埵の戒律は気ままに得られるものではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて開示したが、もしあなたが五戒、比丘戒、比丘尼戒、沙弥戒等のあらゆる一切の戒を破ったなら、懺悔を通して、修法すれば業は転じることができるが、しかし三昧耶戒はだめである。三昧耶は上師に対する承諾-如法に仏法を学ぶということである。上師が衆生に対して承諾した-如法に仏法を正確な観念で、正確に仏法を高揚することである。もしこの戒が破られたら、どの法門を修行しようがどうすることもできない。ただ金剛薩埵のみが方法があるのだ。今日なぜ我々は輪廻の中に居るのか?それは過去世に必ず三昧耶を破ったからである!上師の話を聴かなく、上師の教導を生活の中で如実に用いなかったから、まだ輪廻のなかに居るのだ。三昧耶が破られると、修行できなくなるのだ!以前離れて行った弟子が他の人に、「私はどの戒も破らなくて、ただ三昧耶を破っただけだから大丈夫だ!」と言ったが、実は三昧耶は最も重要なのだ。

だから私達は堅固な信心で、金剛薩埵にこの戒を得られるように祈るのだ。この外に、「私達は金剛乗を除いて、他の師を尋ねず」、この意味は、あなたが一人の金剛乗の上師に皈依を始めた後は、金剛乗の他にはいかなる上師にも依止することはないのだ。その道理は?というと、前にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したように、あなたは百パーセント金剛乗上師に依止するべきだからだ。きっと、あなたは、なぜ師父を尋ねてはいけないのですか? と聞くだろう。私が彼に皈依したら、彼は私の恩人であると、経文は私達に報恩を教えるのではない、私達の師父を覚えているか?リンチェンドルジェ・リンポチェが道を開示したことは間違いないが、しかし、本当の報恩はあなた自身が生死を解脱することで、成仏する機会があればあなたが皈依した師に本当に報恩できるのであり、師父に会いに行ったり、また彼に従って学ぶのではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが、尊勝なる直貢チェツァン法王に依止してから、今に到るまで顕教の師父に会いに行った事はないが、顕教の師父の写真はずっと持っている。なぜ会いに行かないのか?それは顕教の師父の理念と金剛乗の理念が全く異なるからで、台湾の一部の法師は金剛乗の多くの説法を受け入れる事ができない、以前リンチェンドルジェ・リンポチェの師父も金剛乗を批判していて、金剛乗は財や名利を求めるものだと誤解していた。リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛乗を学んで始めて、財や名利を求める物ではない事が本当に分かったのだ。金剛乗は何を求めるのか?仏菩薩に自分を成仏させてもらって衆生を益するように求めるのだ!成仏はそんなに簡単なものか?「私達は金剛乗の外に師を求めない」この言葉は、外の人が悪い、間違っていると言うのではなくて、彼らはあなたを本当にこの世で成就させることができないのだ。あなた方が多くを聞いた後に、観念も間違ってきて、この重点を摑む事ができないのは、沉穏に欠けるのだ。あなた方が本当に報恩したいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのように、如法に仏法を学んで、衆生を利益して、衆生のために成仏することで、こうして初めて報恩と言えるのだ!あなた方のようなのは、只の人情に過ぎない。上師として、人情義理道を知らないはずがないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教では只一人の師父に皈依しただけで、他人に皈依していなかった。この師父はリンチェンドルジェ・リンポチェを啓蒙してくれた師である。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが金剛乗に依止してからは、時間が多くない事を知り、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の速度を加速した。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェが心を散らせば修行できないからだ。この観点から皆に心を散らすな、集中してこの一生の全ての精神、力、体力をもって学び、再び心を散らしてはならないと皆に告げる。あなた達はきっと、妻や子供達も放っておくのですか?と聞くだろう。そういう意味ではなく、あなたが仏法を学ぶ心を全部集中しなさいということで、妻や子供、夫や事業、商売等は只の因縁法であり、行ったり来たりするものである。しかし、あなたのこの一生で、しっかり学ぶ十分な時間があるかどうかが、とても大切なのだ。だからこの言葉は、あなたが一人の金剛乗の上師に依止する機会ができたら、その他の師父はあなたが依止する必要はない、というのはあなたに教えるものがないからだ。

第二の原因は、再び気を散らしてはならず、しっかり集中して一つの法門を学びなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェが言う事が間違っているとは思うな。これはよくない。リンチェンドルジェ・リンポチェが話すのは、古代のすべての大徳が言った話であり、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェよりもはっきりしているが、リンチェンドルジェ・リンポチェも、非常にはっきりしている。リンチェンドルジェ・リンポチェはまったくあなた方と同じで、先ず顕教を学びそれから密法を学んだが、顕教がよくないと言うのではない。というのは顕教がなければ密法を学ぶ事ができないからだ。しかしあなた方は今日因縁あって一人の金剛乗の上師に依止したのだから、再び気を散らしてはならない。

多くの人は寺へ行って梁皇寶懺を拝むのが好きで、一両日を拝み、それで功徳が多くなったと思っている。ある人は水陸大法会にいくらかのお金を寄付して、功徳が多くなったと思っている。そんな事はないのだ!本当にそうではないのだ!リンチェンドルジェ・リンポチェの言うことを信じなさい。大法会をするのは、主催者が非常に大事であり、あなた方を率いて唱える人も非常に重要である。重要というのは何か?まったく心から何も求めないでこの法会をするのか、または何かを求めるのか?いや求めてはならないのだ。現在多くの所で行う法会は、いづれも何か建設するから法会をするというのが多く、これが何かを求めていることである。だから今日あなたが金剛乗を学ぶと決定したのだから、もう他の師を求めるのではない。

このほかに、「心が正直で、智慧を具え、仏法に渇望し、恭敬と誠実懇切に上師の教えを尊重して聴く」この五つの条件も非常に重要である。「心が正直だ」というのは、歪曲した心がないことで、いかなる曲った心もなく仏法を学ぶことである。「智慧を具える」というのは、あなた方に分かるのではなく、上師が判断するものである。「仏法に渇望する」というのは、生死を離脱する仏法に渇望することで、それを得られることを希望する事である。「誠実恭敬」は仏菩薩に対して、上師の一切に対して誠実懇切に、恭敬に、上師のおっしゃる事は、どんな事も如実にやることだ。三種類の条件があれば良き弟子といえ、彼は聡明だが智慧がない、だから智慧を祈り、上師に対して非常に恭敬である。「或いは不退転の信、不退転の精進、自主自立、善智識を信じきる」などの四つの条件でも良い。

「弟子の責任は辛労を厭わずに上師を尋ね、上師によく止まないで仕えて、師の事業に随行し、上師が施される一切の方便行為を忿怒を起こすべきではなく、このようにすれば悟りに到る。」最後のこの言葉はあなた方にとって一番重要だ。上師のあなた方に対する方法はすべて善巧方便であり、忿怒を起こすべきではない。あなたがたはリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたを叱責したり、あなたばかりを理解しなかったりというようにすべて忿怒の範囲に入れる。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェが理解するのか?上師の心はとても簡単で、あなた方が貪、嗔、痴、慢、疑を起こせば必ず叱責し、これを正すのだ。あなたが叱られるのを恐れるのも忿怒の心であり、上師の講話を聴いて喜ばずに帰るのも忿怒の心である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王に叱られるととても嬉しくて、叱られれば叱られるほど嬉しくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に叱られた事がないと思っているのか、リンチェンドルジェ・リンポチェの方法はあなた方には我慢できないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した事があるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの状況がよくなかった年に、直貢チェツァン法王はまったく相手にはせず、リンチェンドルジェ・リンポチェは死んだのと同じであった。もしあなた方なら、自分には心があり、お金があるからどこでも仏法を学べると思って、とっくに別のところへ行ってしまったであろう。あなた方はみんなこのような心構えである。だから忿怒の心が起きて、悟りは不可能になるのだ。私達が上師に依止した法を迫害するのも皆よくないことだ。

「上師を軽んじ貶めるのは、諸仏を軽んじ眨めることに等しく、もし刹那でも嗔心を起こせば善根は悉く摧かれ、累劫により地獄へ転生し、あなたが持咒したとしても、特殊な成就は得られない。」この言葉の意味は、軽んじ眨めるというのは、大切に思わないことで、その上まだ上師を批判する事まで言うのは、嗔恨の心が起きた事である。このようであれば、あなたが累積した少しばかりの善根はすぐに崩れてしまうのだ。私達は火で功徳林を燃やすということをよく聴くが、噴火したらあなたの功徳林は燃えてしまうのだ。多くの人が他の人に腹を立てるが、これはまだそれほどでもないが、真に慎まなければならないのは、上師への忿怒である。

「上師を軽んじ、貶める」この言葉の道理はどこにあるのか?前言った事に返り、あなたが一人の上師に従って仏法を学ぶ時に、あなたが上師に従えば、上師の福徳はあなたと共にあるが、あなたの福徳ではないのだ。あなたが毎日六字大明咒を唱えて、施身法会に参加し、仏法を聴きに来ているから、自分に福徳ができたのだとは、決して考えてはならない。それは無駄なことで、ただあなた方の一部のものを清めるだけにすぎないと言えば、あなた方は「なぜないのですか」と必ず聞くだろう。それはあなた方はまだ大供養、大布施をしていなく、まだ真の空性の慈悲心の修行をしていないので、福徳はなく、ただ上師の福徳の大海と共にあるだけで、この力は非常に大きいのである。たとえば、あなたがリンチェンドルジェ・リンポチェと共にあれば、リンチェンドルジェ・リンポチェと尊勝なる直貢チェツァン法王と共にいることになり、直貢チェツァン法王は歴代の上師と共にあり、歴代の上師と仏菩薩は共にあることになり、この量は実に非常に大きなものになるのだ。過去数年をずっとリンチェンドルジェ・リンポチェの身辺で叱られ、追い出されても逃げない人達の、家庭は何事もないという道理はどこにあるのか?それは彼らはこんなにも大きな福徳の大海に居られるからなのだ。

あなたが嗔念を起こして、上師に対して軽んじ貶める心が起きて、上師はちゃんと修行できて居ない、外にはもっと修行できた人が居るというような考えを持つのが、軽んじ貶める事である。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ成仏していないのに、何故自分は修行できていると言えようか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、只一人の凡夫に過ぎないが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた方よりもよく分かっているし、あなた方より多く捧げておるので、あなたの上師になる資格があるのだ。あなたが上師を軽んじ貶め、忿怒の心が起きたら、上師と共にしていた福徳の大海からすぐさま離れることになる。あなたが急に離れた後は、少しばかり唱えた経文、咒語があなたに福徳を授けることができようか? それはできる、しかし生死を解脱する福徳ではないのだ。それにあなたが上師の福徳の大海を離れたら、累世の借金取りが遠慮もなくすぐにやって来る。本来あなたに接近することができなくて、あなたが修行して、修行が成就すれば彼らもあなたと共に阿弥陀仏の所へ行き、あなたと共に成仏することを望んでいたのだ。それが突然変わったので、あなたを酷い目に合わせるわけだ!もともとよかったのに、お前にこのようにされたのだと言って。

ある弟子の例を挙げると、この弟子は本来不動産の仲介を勤めていて、その地区は一番条件の悪い地区で、何回も浸水し、皆そこを知っていたが、毎月の支出を差し引いてもまだ二、三十万元の収入があった。結果、ある日彼はプレッシャーに耐え切れなくなって来なくなった。来なくなってから、僅か半年でこの店を売り払う事になった。彼がリンチェンドルジェ・リンポチェから離れた事は重要ではなく、本来、縁は生れては消えてゆく、長い縁がなかったのだ。しかし、彼が離れる時に、軽んじ貶める心があったので、福徳はすぐにリンチェンドルジェ・リンポチェの福徳の大海から離れたので、彼自身の所謂本命を進める事になったのだ。本命とは何か?それは自分本来の果報の命である。だから彼は今店を売り払って、すぐさま商売もなくなったが、これは非常に不思議なことだ。実は、今日リンチェンドルジェ・リンポチェがこの事を言うのは、決してあなた方を脅かして、あなた方に残れと言うのではなく、只事実を言っているだけだ。法本のなかにもこのような一段があるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは例を挙げてあなた方に話したのだ。

離れていったこの夫婦の長女は、毎晩女の幽霊が彼女と話をしていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法した後に、幽霊は来なくなっていた。末っ子の娘は腸病毒で入院していて、どの医者の弟子も治すことができず、腸病毒は直し難いので、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を手伝ってやったのだ。だから仏法を学ぶことは本当に困難であり、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に対する恩徳は十分大きかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の商売を手伝い、金儲けを手伝った。娘二人の命も手伝い、二人のご老人にポワ法を修めるのを手伝い、彼はこんなにお金も儲けているのに、リンチェンドルジェ・リンポチェには何ら供養をしなくて、小遣い銭を供養するだけだった。彼が供養しないから、この心はすぐさま冷えたので、捨てなければ得られないのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの話をするのは、彼を一人の菩薩として見て、彼を良くない人間に見て居ないからで、彼らはあなた方のお手本であり、よく気をつけて、警戒を高めなければならない。

以前、釈迦牟尼が在世の時に、デーヴァダッタ(Devadatta)という弟子がいて、彼は御仏を謗り、殺し、僧団まで破壊した。仏法の戒律から言えば、彼は十悪の許すべからざる人である。しかし、御仏の観点から言えば、彼は菩薩の示現で、あなた方にこのようにすればどのような結果があるかを告げているのかもしれない。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが言ったように、良し悪しは心に分別があるからで、実はあなたが見て居る一切の現象は、すべて因果業報であり、それを分別してはならない。

もし上師に対して嗔念が起き、軽んじ貶めるなら、諸仏を軽んじ貶めることに等しく、あなたの少しばかりの善根はすべて潰滅し、累劫に地獄に在り、一劫は地球の成、住、壊、空の一つの輪廻となる。たとえ彼が一生でこの咒語を学んでも、いわゆる学んだのは百万遍六字大明咒を唱えるのではない。所謂学び取るとは、本尊が修行した法能に相応することである。相応とは何でしょうか?ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェの修法のように、事はすぐに生まれて変化することで、あなた方にはまだできない。もし彼がこの程度まで修行できたとしても、非常に精進して、一切の密部の中の観修が分かったとしても、同じく地獄へ堕ちる因を造っているのである。恐ろしいだろう!上師に対して如何なる軽んじ貶める心があってとしたら、こんなによく修行しても、やはり地獄へ堕ちる因があるのだ。だからあなた方はこの道場が好きでないなら、口を閉じて批判しないで離れなさい。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは追い出すのか?それはあなた方が悪を植えて地獄へ堕ちるのを恐れるからで、リンチェンドルジェ・リンポチェによくしてもらう為ではない。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェが来るなといったら来てはならないのか、それは、上師を軽んじ貶めたからである!彼が仏法を重視するなら、如何なる困難があろうと、かならず毎週日曜日にはやってくるはずで、時々来たり来なかったりするのは、軽んじ、貶めていることを表す。だからその人に続けて来させることは、リンチェンドルジェ・リンポチェが密法を伝法する時に、彼らにとって非常に恐しいことになる。だからなぜリンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにキツイ事を言うのかを誤解しないように。というのは私達は金剛乗を修行しているのであって、顕教の法門を修行しているのではない。顕教の法門の様でもだめで、同じく破戒するようなら、どうして金剛乗が修行できようか。だからよくよくこのことを心に留めなさい。この道場が好きでなけれ離れればよく、この上師が好きでないなら離れればよいが、上師が私によくしてくれないから、上師が私を罵るから、上師はそんなに修行がよくできているとは思えないからなどと、決して人に言うのではない。このような話はすべて言ってはならない。嫌いなら去ればよく、そのまま友達でいてもいいが、決して批判はしないことを、よくよく覚えておきなさい!

「もし彼がこのようであれば、生じなかった功徳は永遠に生れることは不可能だ、生死を離れる功徳も衰える」だから一部の出家衆にしても一部の上師にしても、突然に身体が悪くなるという状況が出現するし、甚だしいのは信衆がしだいに離れてゆくなどするが、これはすべて彼の功徳の衰えであることを容易に見ることが出来る。しかもこの一世が不順となる、あなた方はこの事を聞くと一番恐れるが、地獄へ堕ちるというのはまだ見た事がないから、一番恐れるのは不順なことだ。上師を軽んじ貶めることは、実に重大な事なのだ。不順とは、求めるものが全て不如意で、あなたが求めるものは何も得られなく、あなたが希望する事はすべてどうしようもないのが、不順である。身体は悪くなり始め、事業には支障が起き、子女にも状況が出て、如何なる事もやって来る。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したように、あなたの累世の冤親債主が全部すぐさま取り立てにやって来るのだ。

金剛乗は諸刃の剣の法門であり、あなたが学ぶのであればすぐさま改められ、学ばないならすぐ状況が出現する。リンチェンドルジェ・リンポチェをも含めて、上師として、もし法を間違えたしたら、すぐさま地獄へ堕ちるし、法が正しいすれば、すぐさま多くの衆生を益することができ、よい事も同じくも早いのだ。だから外の所はこんなに厳格ではない、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはこんなにも厳格なのか?などとは決して思うな。というのは、外の所はただあなたと結縁するだけとか、別のリンポチェは只灌頂だけして、結縁をするのだが、しかし本当に分かっているリンポチェは灌頂はしたことはなく、仏法を説くこともなく、只あなたに六字大明咒を唱える事を教えるだけで、あなたが地獄へ堕ちるのを恐れて悪縁を結ぼうとはしないのだ。みんな分かったか?いい加減ではいけない!来なくてもいいが、リンチェンドルジェ・リンポチェは一日中いい加減に叱るので行かないなどと言ってはならない。あなたが来ないのはいい、というのは教えたことは全て法本に説いている、リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのではないからだ。

もし今日リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが間違っている。というのは、リンチェンドルジェ・リンポチェはラマ僧と在家衆が上師を軽んじ貶める現世報はすぐさま発生することを自らみた。この道理は本当に簡単で、本来あなたは金剛乗を学び、この一生でもし金剛乗を学びとったなら、少なくとも必ず阿弥陀仏の所へ行くことができ、更に高層になれば生死を解脱する。私達が良く修行したなら、冤親債主も私達と共に付いて来て、私達は彼らを済度する助けができるのだ。だから私達が金剛乗を学ぶことを発願したら、彼らは本当にあなたの後や傍に立ってあなたを保護し、あなたへの期待がとても大きいので、あなたに傷害を与えないだけでなく、保護してくれるのだ。だからあなたが金剛乗を放棄した時には、彼らがあなたに対する失望は更に大きくなるのだ!彼は元々あなたに仇があり恨んでいたのだから、あなたは彼を一度では足りず、もう一度懲らしめたことになる。彼は元々大きな希望を抱いて、早く!早くと思っていたのに、結果はこんなにも失望させて、すぐにあなたを懲らしめないにしても、あなたが何を間違えたのかをすぐに思い知らせる。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに多くの密法を学んでも、従来自分のために用いた事はないのと同じで、私達が自分の身に用いるのはよくないのだ。

法本中に「清浄四法」が説かれており、つまり、私達が用いているこの法は衆生を益するためであり、自分を益するためではないということで、この言葉は非常にはっきり語っている。「この一生が不順なら、後世の悪道は無窮である」、これはこの一世が終った後、生生世世すべて三悪道の中に居る可能性があるということだ。道理はどこにあるのか?このようによく修行した金剛乗上師が、全身全意であなたを利益するのに、あなたは上師を軽んじ貶めるとは、何という悪であろうか!畜生でも報恩を知っているのに、人間なら尚更であろう。だから生生世世悪道の中から出る事はできないのだ。しかも累世に善智識に出逢うことはなく、生生世世善智識を見ることもない。だからどのような法も一個の善智識に依止することほど重要な事はないのだ。『荘厳経論』の中に「あなたが上師の言われた事、言われた言語を依止し、完全に力を尽くしてしたら、上師の心は喜ぶ」と説いている。

後の第二段に、「我々は甘露四法を必要として、我々の心を輪廻から出離させるべきである」と続けて書いている。甘露四法を下記のように分ける。この世間に貪留するのを対治すれば、暇滿人身は得難いことを思考する。怠慢を対治すれば、死亡無常を思考する。善を以って有為安楽を対治すれば、輪廻過患を思考する。暇満の意義を知るには、我々は業力と因果を思考するべきだ。

貪念を対治するには、この一世で暇満得難いことを思考すべきで、得難い人身を具足することを考えて、比喩及び数量で思惟する。暇満はどんな意味なのか?それは我々が無暇の身体を具えて仏法を学ぶことだ。龍樹菩薩は一無暇と仰ったことがある。八無暇とはなんでしょうか。地獄、悪鬼、畜生は辺地に生まれる、つまり非常に遠いある地方である。また、長寿天、邪見、仏陀不世出、聾唖などの八無暇である。地獄は多くの大小の地獄に分かれており、一番重要なのは寒氷地獄、熱火地獄で、その中での苦痛は衆生は仏法で聴くことは不可能である、悪鬼はある者は食べられず、飲まれない苦痛があり、心は火が燃えているようでしかも仏法を聴く暇もない。畜生道は愚痴愚昧でお互いに残害し合うので、これも無暇である。長寿天は無想で、長寿天は非想非非想天で、なぜならば、彼は自分が思想がないで考えもないと思っており、それでこれも無暇である。

邪見は傲慢であり、邪見は外道とは限らず、仏教界にも多くの邪見がある。邪見はどのようにして来るのか?傲慢から来るのであり、自分は修行がよくできている、自分はある法門を探し出した、自分は光を見た、自分は気脈が通じた等等はすべて傲慢である。傲慢であれば、正法を聴く事はできない。野蛮な地だと、取捨顛倒して、上師に逢い難いので無暇である。例えば、非常に落伍した所に生れる、アフリカとか太平洋の島、南アメリカ等だと、上師が来て仏法を説く事は不可能である、御仏が生れない或いは投生しない仏法のない世間で世人は仏法に出会うことはできないので、無暇である。たとえば天道に生れた、或いは地球以外の三つの星にも、人類がいたとしても、三つの星には仏法がない、そこは福を享受するところなのだ。ある所は寿命がとても長く、人の寿命はおよそ千年であるので、仏法を聴けない。最後の一つは聾唖で、聴く事ができず、言うこともできない。また盲人も含まれ、眼が見えないのはまだいいが、聾唖者は仏法を学ぶ事ができない、というのは我々が仏法を広めるのは声によって説くからで、仏法の弘揚を通じて、上師が開示している時に、衆生の心態が平穏になるようにして、仏法の薫陶を受けて次第に悟ってゆくのだ。だからもし聾であれば仏法を聴く事ができず、唖であればお経を唱えることができず、持咒できないのでこれも無暇である。次に、人身を得たのであるが、清浄実習できるには、更に十六無暇から遠のく必要がある。

第一:心続が繚乱する。つまりあなたの心が乱れて、多く人がお経を唱え、念咒する時に様々な考えが湧き、落ち着かない子供のようなのがこの事である。この時リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子に「なぜ傍の子供とずっと遊んでいるのだ、あなた方大人の心が皆このように乱れていて、子供の心がどうして静まろうか?まだ子供にちょっかいを出して遊んでいる。」と叱責した。我々は常に多くの妄念があって、我々の心を非常に乱すのだ。

第二:悪友の誘いに陥る。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に下記のことを強調する。我々を飲食や売春、ギャンブルに連れて行くほか、最も重要なのは我々が仏法を学ぶ心を断つような友達である。あなたの兄弟姉妹、親族を含め、またはあなたが今皈依しているので、あそこへ行って聞いてみなさい、仏縁があるかどうか見てご覧と言うような人を含める。試した人もいるだろう!彼はこちらがとても霊験だという。あなたの仏縁はよいので、あなたは続けて学びましょう。もしよくないならば行かなくてもいいだ。これは悪友の誘いに陥るということである。

あなたは過去世に、きっと仏菩薩に供養したので、この世で人身をもらうのだ。仏縁があるかないかは、あなたがあると言うからあるのではなく、自分に依るもので、あなたが仏菩薩がくださる助けを受け入れるかどうかなのだ。縁が良いというのは変わるし、縁が悪いというのも変わるものである。だから他人が「あなたは御仏の縁がとても浅いから、どう仕様もなく、次の世でまた学んで、この世では十分に享受しなさい」などと言うのを聴いてはならない。かつてある占師がリンチェンドルジェ・リンポチェがいつも癌患者を助けてしているので、58歳になったら癌に罹ると告げた。彼は好意から告げてくれたのだ。自分が修行したらそれでよいではないか!あなたはスゴイ、仏縁が非常に深いが、他人のために癌に罹るまで助けて、どのように修めていくのでしょうか?と言うのを聞けば、リンチェンドルジェ・リンポチェのために良かれと思って言ってくれるのだが、実はリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を学ぶ命を断つことになるのだ。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが自分が病気になるのを恐れて、死ぬのを恐れて衆生を手伝うのを止めて、あの癌患者の人々を手伝わなくなったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは三昧耶戒に違反する事になり、まったく金剛乗を修行できなくなるのだ。

あなた方が聞いたならきっと放棄しただろう。死を恐れない者がいろうか?他人の為に自分が死ぬ、誰がそんな事をしようか?そう思うなら、それは菩薩の心ではないし、金剛乗の精神でもない。リンチェンドルジェ・リンポチェの歩む道で彼の言葉を聞いたときに、心はちょっと動いて、ちょっと考えた。あなた方がこの道を歩む上で、このような占い師に出会って、連れていかれないほうがオカシイだろう!だから仏法で心霊術をいうであるとか、或いは他の宗教で心霊術をいうであるか、皆行くのではないぞ。決して行ってはならない、ちょっと気を弛めると連れて行くのだ。

あなた方は現在未だ修行ができていなくて、次第に菩提心、菩提願を発したら、すぐこのような人が出現するが、これは累世の業があなたを邪魔していて、あなたが堅持できるかどうかをみており、堅持できれば何事もない。当時あの占師は非常に真面目にリンチェンドルジェ・リンポチェに「リンチェンドルジェ・リンポチェの仏縁は非常に深くて、この一生で必ず修行がよくできるが、このように継続して他人を助けていると、58歳で必ず骨癌に罹る」と告げた。この占師も非常にスゴクて、八字を見てリンチェンドルジェ・リンポチェがまリンチェンドルジェ・リンポチェが、いつも癌患者、病気の人を助けていると分かるのは簡単な事ではない。このような悪友で、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが当時彼の言う事を聞いて、自分の修行だけで、衆生を益するために出て行かなかったら、金剛乗の道は断たれて、この占師はリンチェンドルジェ・リンポチェに退転させるのだ。

悪友は現れやすく、しかも彼の出現は絶対にあなたを害するために来るのではないことを肝に銘じておきなさい。もし相手があなたにギャンブルに行こうと言えば、家族に叱られるからいかないだろう。相手が酒を飲もうと言えば、あなたは戒を守って行かないだろう。しかし、このようなあなたの為にするような似非好人こそ、大変なのである。だから、あなたの問題を解決するのは、とても簡単で、このような人に出遭ったら好奇心を持たずに、その人を離れてゆかせればいいのだ。外にはこのような人間が多く居て、あなた方にあれこれと話すのだ。あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェがアキ護法をしっかり修行したのとは違うのだ。以前あるシャーマンがリンチェンドルジェ・リンポチェを見て「オ」という声をずっと発し続け、その頃リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ上師になっていなかったが、彼は10分間も「オ」と言う声を出し続け、トイレへ駆け込んで嘔吐し、帰ってきてからリンチェンドルジェ・リンポチェの身辺に非常に美しい仙女がいたと告げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がアキを修行したことは言わなくて、ただ自分の女性運はそんなにいいのかと答えただけであったが、実はアキ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェの身のそばにいたのだ。

だから、あなたがもし上師に十分な信心を持ち、上師が教えることを如法如実に修行していたら、このような悪友が出現する機会は減少し、出現したとしてもどうする事もできないのだ。あのシャーマンがトイレへ駆け込んで苦しく嘔吐したが、これはアキが彼を阻止したので、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに接触するチャンスがなかったのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼がこのように苦しむようにとは思いもしなかったのだ。

だから悪友はいつでも非常に多く出現する、甚だしきは、仏教団体にも出現するのだ。例を挙げれば、ある団体があなた方に各地の人を助けに行くように、仕事を休んで一、二ヶ月ある地方へ行くようにと言う。金剛乗から言えば、慈善事業は人が本来成すべきことで、仏教団体だからすると言うものではなく、その他の宗教団体も皆やっている。もしあなたが二ヶ月も休暇をとるなら、法会にも二ヶ月参加するのを止めることになる。彼らも仏法を学ぶのに何故行ってはいけないのかと聞く人がいる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれ以上は言いたくはない。というのは彼は金剛乗の殊勝なる点がどこかを理解していなくて、人情でやっているからだ。彼は友達や近所の人も行くので、行かなかったら顔が悪いと思っているのだ。前ですでに皆に言ったが、あなたが金剛乗の上師にすでに依止したなら、また外の所を探す必要はないのだ。

第三:見行顛倒。その人の見解と行為が、正法とまったく顛倒している。

第四:懶惰懈怠。リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の怠けの癖がある弟子を名指すが、彼に限らなく、彼は一つの例にすぎないのだ。

第五:昔の悪業が現世で起こり障碍の渦に沈む。何が往昔の悪業なのか?我々が金剛乗を修行する時、累世の悪業がすぐに現前するのかも知れない。その道理はどこにあるのか?我々が成仏或いは衆生を利益するにしても、累世の業をさっぱりと取り除かなければならず、そうして初めて福報があるのだ。ちょうどあなたに借金があって、10年の分割払いをしなければならないが、1年ですぐ返還すれば、残りの9年はゆったりと暮し、衆生を利益することができるというようなものだ。だから我々が生死を離れる金剛乗を学ぶ決心を下した時、すぐに多くの事が出現してあなたに見せ、姑があなたに行かせないとかの状況が多く出るのである。ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが不共四加行を修行する時に、食事するお金もなかったが、もしリンチェンドルジェ・リンポチェの心が少しでも怯めば、この門を越える事はできなかったようにだ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは毅然として、自分を悪業の渦の中に進まなかった。何の渦なのか?それは貪嗔痴の渦である。

多くの人々が仏法を学ぶのは、生活の為に最後には仏法を忘れ、仏法を片隅に置いて、まず生活のために金儲けをする。実は、あなたの業をまだ返還していないので、どんなに稼いでも溜まらないのだ。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの例である。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分に対して厳しく、たっぷり一年は外出して人と接触せず、毎日修行していた。何を修行していたのかと言うと、懺悔法門を修行していた。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは格別に奥深い法門を修行していたのではなく、懺悔であり、自分の累世の業を一部分清めたが、まだ完全に清め去ったのではなかったが、このようにしてはじめて転ずることができるのだ。だから仏法を学ぶために問題が生じるのを恐れるな、これらの問題は仏法を学ぶから産生したのではなくて、本来存在していた業なのである。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの言葉をよく覚えておきなさい。仏法を学ぶから問題が生じるのではないのだ、本末顛倒してはならない。仏菩薩はこんなにもお慈悲があるのに、あなたが仏法を学ぶ邪魔をする訳がないだろう?あなたの業が現れたとも言えるし、あなたの心を試験しているとも言える。あなたの心が堅くて、仏法を学ぶのは衆生に対してよいことだと知っていたら、すぐにそこを越えられ、後は大丈夫なのだ。もし、毅然としていなく、邪念があれば、仏法を学んだら大変で、仏法を学んで悪い事が発生する、ちょうど人によっては『地蔵経』を念じた夜に多くの幽霊がやってくると言うのと同じで、これらが邪見であり、悪業が現前して、あなたを貪嗔痴の渦の中に巻き込んで出られなくするのだ。

あなた方がこのような事に遭ったら、懺悔すればいい、懺悔して更に懺悔するのだ! 決して恐れるな!早く過ぎ去ってくれ、それが来ないようにしてくれというような考えは起こすな。あなたがそのように思わずに懺悔し続ければ、本当に早く過ぎ去るのだ。これもリンチェンドルジェ・リンポチェの修行の経験である。ほかの弘法の人は言えないかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの身で体験した事なのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが金剛乗を修行する事を決めた時、すぐさま事業は失敗し、離婚し、食事も出来ないほど貧乏だった。あなた方から言えば、非常に恐いことであり、まず稼いでからの事だと言うだろう。当時、1994年のときに、ある人が、リンチェンドルジェ・リンポチェに大陸へ行って先物契約を売り出すことを望み、一年分の給料を前払いすると言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かなかった。もしあなた方だったら、菩薩に休暇を願い出て、一年後に帰ってからにしますと考えるであろう。

あなた方はこうなのだ、毎日リンチェンドルジェ・リンポチェに休暇を願い出て、リンチェンドルジェ・リンポチェに何の関係があろうか?また仏菩薩に休暇を願って、仏菩薩何の関係があろうか?あなた方は学費を払っているわけではなく、すべてあなた方の業が現前しているので、心が毅然としていなかったら、渦に巻き込まれてしまうのだ。また母親が子供の面倒を見てほしいというので、法会に参加できませんという人がいるが、このような人は怠惰な怠け者で、自分のために理由を探しているのだ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは1994年に一年中を堅持して、それからは比較的にスムースになった。どのくらいスムースになったか?ある姉妹の父親が考察団を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェの所へ考察にきた。考察の後にこの姉妹をリンチェンドルジェ・リンポチェの門下で仏法を学ばせることにしたのだ。

この事は多くの人は知らないが、今日公開する。この姉妹の父親は、台北の紫微斗数を占う有名な人で、二人の娘がリンチェンドルジェ・リンポチェに仏法を学ぶというのを知った。数年前に、チベット文化に精通してチベット語と梵語ができる人と、心霊術に通じた人、そして漢方医及びもう一人と姉妹の父親の5人でリンチェンドルジェ・リンポチェを考察に来た。彼女等の父親は占師で、リンチェンドルジェ・リンポチェの八字は知らなかったが、面相を見るので、この人たちを連れてやってきたのだ。彼はかなり威張っていて、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが間違っていると思ったなら、何人もは連れてこなかったであろう。

彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェに会見した時は、非常に遠慮深く、リンチェンドルジェ・リンポチェとお茶を飲み乍ら話しましょうといった。まず、チベット文化に精通した人が問題を聞き、チベット文化ではリンチェンドルジェ・リンポチェを負かすことはできないので、ちょっと喋ったら、その人は何も言わずに黙って坐っていた。次は心霊術に通じた人が質問して、色々話した。そしてリンチェンドルジェ・リンポチェの顔色がとてもいいと言うので、菜食料理のお陰ですと答えた。その後は漢方医で、彼は始めリンチェンドルジェ・リンポチェの身体は非常に良いですねと言い、彼が脈を診たそうだったので、「いやあまりよくありません」と言って脈を診てもらった。かつて漢方医の弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの脈を診て、リンチェンドルジェ・リンポチェの脈は普通の人と異なり、人間の脈では無いと言ったことがある。当時その漢方医もリンチェンドルジェ・リンポチェの脈を診終わって、彼はこの一生でこのような脈を診たのは二度目だ。一人は廣欽老和尚で、もう一人がリンチェンドルジェ・リンポチェで、御二人の脈は普通の人と異なると言った。この考察を経て、その姉妹の父親は彼女らが、リンチェンドルジェ・リンポチェから仏法を学ぶ事を許したわけで、そうでなかったらその後の因縁はなかった。掻い摘んで言えば、これもあなた方の上師は試験にも通った、当時はどのような法門も出現したということだ。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェの脈が皆と異なるのか?それは密法を修行したからである。密法は身体の状況を変える事が出来る。だからあの日出家弟子が一人を連れてきて、自分は気に通じ、脈に通じていると言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは話もしたくなかった。それは前に言った高慢さが障碍になっているのだ。今日はこんなに多くの事を言ったが、それはリンチェンドルジェ・リンポチェがこんなにスゴイのだと言うのではなくて、あなた方が金剛乗への信心を強化してほしいからである。この一生で金剛乗を学ぶ事ができれば、生生世世一切の業を越えて、この一生で解決できるのだ。毎日たくさんのお金を寄付して、法会に参加しているから累世の業が解決できるとは思うな、それは不可能な事である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは経験者ですのではっきり分かっています。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの梁皇寶懺を拝んで、他の人は、お金を出して、一日か二日行くだけだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは初めから終りまで参加して、離れなかった。その頃、自分はまだ傲慢で、これで十分だろうと思ったのだ。一年に二回の梁皇寶懺、水懺、ただあなたが言えるの懺であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべてやり、すべて拝んできた。だからあの頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛乗をやろうとは思わなくて、これで十分だと思ったのだ。顕教のすべての懺は皆やった。座禅も毎日二時間やった。金剛乗に接触してはじめて、不足している事が分かったのだ、なぜ十分ではないのか?それは顕教では我々に理論だけ告げるが、行動はできず、自分の業を改めることもできないし、衆生を助ける事もできない。特にリンチェンドルジェ・リンポチェが始めて閉関したとき、自分の累世の業がとても重い事を知った。業はとても恐しく、あなた方が表面的にこの一生を見ても、この一生の業は数え切れないものだ。だから懺悔法門を修行した時、この一生で間違った事をしたのを大小に関わらずすべて思い出して、一つずつ懺悔し、どれにも懺悔するのだ、あなた方はこうしたことがあるか? 過去世のことを言うのではないのだ。

だから今日、こんなにたくさんの事を言ったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェを褒めたのではなく、金剛乗を修行する人はみんなこの様な心の道程を経験することを話したのであって、決していい加減に自分で座禅して突然できるものではなく、例えば考察団がきて考察したりと言う多くの試験を経てできるのである。今日リンチェンドルジェ・リンポチェがこの事を話すのは、あなた方の信心を強化することを望からである。

我々の悪行が現前した時には、堅く信じてさえ居れば、一切はすべて因縁法で、一切法は生まれ、一切の法は滅する。今日事が起きたら、また消滅する、少し時間さえあれば、少し忍耐さえあれば、過ぎ去るのだ。悪業が出現したからといって、それと一緒に歩くことはない、これは大変重要なことであり、あなたが乗り越えれば何事もないのだ。

第六:他力なのに自主できない。例えば、あなたが勤務しているなら、必ずそこへ行かなければ成らず、仏法を聴きに来られなくなるという。このような例は多い。ある外国人の弟子がそうであるが、彼はそう乗り越えないのだ。

第七:死亡あるいは衣食不足を恐れるので仏法に頼んで、非法を修めるになってしまう。例えば財を求めて修行する、死にたくなくて修行する等である。

第八:供養を求めるために、名誉のためにと、表裏不一の者。多くがこうであり、以前デーヴァダッタ(Devadatta)のように、僧団を得るために、神通を学ぼうとして、多くの法を学んだ。デーヴァダッタ(Devadatta)の仏法は多くの人々に比べてすごかったし、能弁であったし、よく修行したが、彼の心は名利を求めるためであったので、法を得ることができなかった。

次に、退心にも八無暇がある。

第一:身が受用する時、非常な貪念となる。つまり、我々が自分の身体及び一切の受用に大きな貪念がある。例えば一部の人は、今もあるものを食べるのが非常に好きで、車を運転して非常に遠くまででも買いに行くというのは貪念である。或いは自分の身体の少しの病気でも、非常に深刻に思って、自分はもう死にそうで、仏法を聴きに来られないなどと言うのも、貪念である。自分の身体の情況のために、衆生を傷つけても病気を治しに来るというのも、貪念である。

第二:個性激烈で行為が和に欠ける。例えばあなたの行為が非常に激烈で、正常な人と異なる場合である。

第三:広く仏法を聞いたが、やはり輪廻及び悪道の苦を恐れない。皆は仏法を聴き、あなた方に輪廻は非常に苦しい、三悪道は非常に苦しいと言い続けても、輪廻が本当に苦しいということを信じない。輪廻の苦はどこにあるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはある日、テレビの科学知識の番組の一部を見て、仏法は実に偉大だと心の底から感じた。この番組では人間が受精して産まれるまでの胚胎の時期に、第一或いは二ヶ月の時に、脊椎が伸びて尾ができるまではすべての動物とみな同じであるが、後期になると、動物には異なる足ができ、人は二本の足ができる。この話は何を言っているのか? つまり仏法のなかの所謂一切はすべて業力である。業力が人として、後に生えてくるのは二本の足であり、業力が動物として、後ろに四本の足が生えてくるが、本来は同じだったのだ。今日動物になるか或いは人間になるかの本性は同じであり、元々みんな同じだが、ただ悪業をしたか、善業をしたかで、異なる外在の相に生れ出るのだ。

番組ではまだ、細胞分裂の後に、ある特定の細胞が分裂して血管となり、血管は連なるが、今に到るまで、科学医学では原因を探し出せない、なぜ細胞が分裂して血管になるのか分からないと言っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの場の医者の弟子に原因が探し出せたかどうか聞いたが、弟子達は皆探し出せ無いと答えた。だからこの何点からも仏法が非常に偉大なことが分かる。御仏の智慧は真に偉大で、絶えず私達に、六道の衆生は本来皆同じだ、御仏も我々と本来は同じだと語り続けているが、ただ私達がそれを覚悟していなく、そこで六道のなかを輪廻し続けているが、本質は同じなのだ。

その日、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一段を見て、非常に驚き、また御仏の智慧を讃嘆した。番組ではっきり言っているが、すべての哺乳類の胚胎は皆同じであり、ただ後になって異なってくるだけだ。また一段では人間の手ができる時にはカエルのような水かきがあるそうだ。だから我々が動物を食べられるかどうかよく考えて見なさい。我々が動物を食べる時は、自分を食べているのに等しいのだ。あなた方がテレビを見るのはただ連続番組であろう、なぜ現在このように多くの愛情物語や、こんなに多くの愛情による報復の殺人が発生するのか? それは連続番組に直接の関係があると思う。だから皆に連続番組をこれからは見ないようにと勧める。人生に何の助けにもならないからだ。我々は三悪道と輪廻は非常に苦しいことを絶対肯定して信じなければならない。

第四:広く仏法を聞いても、まだ解脱の功徳を信じない。つまりあなた方は生死を解脱する法門を信じていなく、生死の解脱の決心を下すことがどんなに大きいかを信じていないのだ。なぜか?あなたが生死の解脱を決心した時に、あなたの累世の冤親債主、累世の祖先、累世の父母、この一世のすべての親族が、みな一緒に生死を解脱するのだからあなたの功徳は大きいだろう!よく法施はどうなっているのかと言う。法施とはあなたが決心をすることなのだ。あなたが決心をした時に、財施、無畏施、法施が一緒に来る。生死を解脱する決心は非常に大切で、仏法を学ぶのはあなたの個性或いは気持を改めるのではなくて、我々の生活習慣、個性等は仏法の薫陶を通して変化するものであるが、しかし最終目的は生死の解脱である。

なぜ金剛乗上師の功徳はこんなにも大きいのか?それは彼が決心をしているからで、その他いかなる方法をもっても、自分のこの一生の利益を考えず、彼のこの一生は必ずや生死を解脱することだからである。菩薩の乗願再来を言うが、まず生死を解脱しなければどうして乗願再来できようか。 あなたが今日来てほしいから来るのではなく、必ず決心をして生死を解脱して、再来の時には輪廻の苦海に堕ちないでいられるのだから、生死を解脱する功徳は非常に大きいのである。

第五:性は不善業を傾く。よくない業力が好きなので、このような悪い事をする等。

第六:一匹の犬に餌をやるのに、草を与えるようだ。草を犬の餌にすると犬は食べるか? 食べない。ちょうどあなた方が仏法に対して少しも思考、思惟しないで、ここは学んだ、聴いたと言って、帰宅したら忘れてしまうのと同じで、冷静に坐って、今日上師が話された仏法を考え、自分の人生に何の助けになるか、なぜ上師はこのように言われたのかと考えてみない。あなた方が思惟しないことを、草を犬の餌にするのと同じだという意味である。

第七:発心を退転させるのは根本戒堕を犯すことだ。あなたが菩提心を発心して、三昧耶戒の心が退転したなら、根本戒を犯すことになる。以後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、金剛乗を学ぶのに十四の根本戒があるのを書き出すが、これは五戒よりも大切である。五戒を犯したら、あなたは輪廻の苦海に居るかもしれないが、情況によって地獄に堕ちるとは限らない。しかし、あなたが十四の根本戒のうちの一つでも犯せば、すぐに地獄へ堕ちるのだ。実はあなた方は皆犯したことがあり、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ言っていないが、犯しても関係ない。来年、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの十四戒を話す、金剛戒を学ぶ人は皆根本十四戒に注意しなければならない、これは非常に重要なのだ。

第八:上師及び法友の間の誓句が衰え損なうこと。ちょうど今話したこれらの種々の事情が、あなたが仏法を学ぶ心を起こさせないようにして、しかも悪道の根本となる。だから皆これらの良くない事を断ち除こうと努力しなければならない。努力するというのは、すぐさまやることで、あれこれ考えず引き伸ばしたり、自分に時間を与えるのではない。今日はまずここまで開示するのだ。

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2014 年 01 月 05 日 更新