尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年8月11日

法会が始まる前に、一人の弟子が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに、皈依したばかりの自分にこの度のラダックでの法会団に参加する機会を与えてくださり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な事蹟を見ることができ、同時にここで皆様とそれを分かち合える事を感謝した。

彼は今年(2013)6月2日に皈依したが、まず組長に、組長の告知と激励がなかったら、「きっとラダックへ行こう」という決心が急につかなかったことを感謝した。当時法会団は一ヶ月足らずで出発するという時で、彼は仕事があり、顧客と約束したこともあり、ビザの資料等々すべてまだ準備ができていなかったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの庇護のもとに、一切が非常にスムーズに運び、もともと急ぎの仕事だったのが、顧客は急がないから待つと言ってくれ、しかも出国前になって、仕事の処理を手伝ってくれる代理人が見つかり、自分にその心さえあれば、上師と護法が自然にうまくいくように手伝って下さる事を体得した。

ラダックでの法会の最初の日、太陽が非常に激しく照り、旅館に帰ってから体の調子が悪くなり、ふらふらになってベッドで眠ってしまった。夜になって夕食が終わると、チームリーダーが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは草薬を準備なさっており、全員に飲むようにといわれたと聞いて、彼は本当に感動した!このような仔細な事まで尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子のことを思ってくださっている、しかもこの草薬は台湾から持参されたものと聞いて、上師の弟子に対する関心と細やかなお世話に、草薬を飲まないうちに、暑気あたりで頭がくらくらするのも良くなってしまった。

法会の二日目は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子たちが炎天の太陽に照らされるのを心配なさり、雲と雨乞いをなさった。すると不可思議にも、午後には雲が多くなり、雨が降り出し、この雨と雲で炎熱の天気は変じて涼しくなった。四日目は大雨で、ラダックの住民は外で雨に濡れながら法会に参加したが、寶吉祥の弟子達は、お寺の中で法会に参加することができた。これらはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお陰であり、このような良い待遇を受けることができ、いつも安穏な環境下で仏法を学ぶことができた。

この度のラダック法会の旅では、神話にのみ出てくるような事が現れて、一つ一つが彼の眼前に浮かんでくる。平陽寺にいた時に、初めて日暈を見たが、大きな円が太陽の外側に現れ、彼は興奮してしまったし、ラダックを去るとき、虹が飛行場の右側から左側へと伸びて、飛行場を全部包囲してしまったが、これは彼が一番近くで見た、しかも一番美しい虹であったので、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのような大修行者に従ってこそ、このような種々の瑞相を目にすることができるのだと、彼は喜びで震え上がった。

彼は、このたびラダックへ行った兄弟子達のお世話と話を通じて、溢れるほどの収穫があったことを感謝した。ある話では、かなり前に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが丁度物を運搬なさるので、何人かの兄弟子が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの寝室へ入って運ぶ手伝いをした。ところが兄弟子達は出てきてから皆泣いている。というのは、彼らが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのベッドを見たとき、スプリングが露出になっていたというのだ。これを聞いて、彼は鳥肌が立って、この上ない尊敬の感に打たれた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのなさる一切の事は、まったくの無私の心で、教派で護持、或いはどこそこに援助が必要というと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、すぐさま実行し、しかも黙々として行われる。実は当時尊きリンチェンドルジェ・リンポチェご自身はお金がなかったけれど、ご自分の生活に必要なものは脇にして、絶えず教派を護持し、仏法を弘法なさった。平陽寺法会が終わった後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、それぞれのホテルを巡視して、弟子達に会われ、その過程で、行かれる所々でずっと信者を加持なさり、いついかなる時にもすべては衆生を益しておられる。

彼が始めて道場へ入った時から今まで、見聴きした事、および上師のなさる事一切が、彼に非常にはっきりと、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、真実に徳を具えられたそして如法の大修行者であると分からせてくれた。彼は始めて仏教に触れて、このようなすばらしい上師にお逢いできた事は、不可思議に思え、上師に非常に感謝した。同時にまた、自分が非常に幸運であることをはっきり知りながら、人身が得難く、仏法は聞きがたく、上師に逢い難いのに、すべてが叶ったというのに、機会をしっかり把握しないで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから一生懸命に説得していただいているのに、内心では加護を求める心が深い所に根ざして、急がずに、ゆっくり改めればいいと思っていたが、これらは彼が因果を信じない、敬仰心がなかったことで、自分をそのまま放任して上師に苦労をおかけした。彼は自分の身口意を確実に改めなかったことを懺悔し、今からはいつでも油断しないで、機会を把握して、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお話を聴き、しっかり仏法を学ぶ事を誓った。

また彼は、幼いころから大きくなるまで自分は口腹を満たすため、多くの衆生を殺生したことを懺悔した。中学生の発育期には、母親が背が高くならないのを恐れて、毎週彼のために鶏のスープを作ってくれ、自分のために母親に殺生をさせてしまった。またハマグリが好きだったので、母親はいつもハマグリを料理してくれた。子供のころよく残忍な遊びをして、アリを潰したり、アリの巣を壊したり、昆虫を火で焼いたりした。彼は自分に食べられたり、遊び事で苦しめられ、死んでいった衆生に懺悔した。

高校生の時、付き合った友達の関係で、生活は乱れ、学校をサボり、休学し、夜は家へ帰らず、夜店をうろつき、酒を飲み、麻薬を吸い、暴走族になり、インターネットカフェに行き、ブルーフィルムを見、毎日ブラブラして、家族にお金をせびり、大切にすることを知らず、至る所で人に奢ったりして無駄遣いをし、その上何かというと家族と喧嘩をして、そのころは父母に心配をかけ、心を傷つけたが、自分が何事も分からない親不孝であったことを懺悔した。仕事についてからも自分ではしっかり努力して儲けて、家族や友達から認めてもらおうと、その能力もないのに、至る所で仕事を引き受けて、その結果多くのことを全部承諾して、どれもできなくて、顧客を困らせることになり、いつも徹夜で仕事をするので、体を壊してしまい、家族に心配をかける事になり、実に親不孝であった。法会で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが父母に親孝行することを開示なさり、一回また一回と親孝行の重要なことを開示されて、彼は始めて、自分がこんなにも悪かったことに気づいた。ずっと自分は親孝行だと思い、しかもお金を父母にあげれば親孝行だと思い、もっとも基本である自分の世話を自分でして、物事をするのに父母に心配させないということをやっていなかったのだ。

兵役と就職してからも、彼はよく職務の都合を利用して、自分の事をしたり怠けていて、それなのに仕事はこんなに多いし給料はあまりに少ない、この種の福利は当然だとして、一部文具を持ち帰ったり、飲食費を多く申請したり、その上陰でオーナーの悪口を言っていた。実にお話にならないほどであった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て、多くの果報は次の世まで待たなくても、この一世で見ることができると開示なさったことがある。あなたが他人にどのように接するかで、以後他人はあなたに接する。
彼は自分でスタジオを成立させて、多くの仕事を請け負ったが、収入は反対に少なくなった。顧客からお金を貰えないだけではなく、間違ってそれを改めるのに多くの時間がかかり、協力メーカーあるいはスタッフにも問題が生じたからだった。ここに至って、以前の自分の行為に気づき、以前従業員をやっていたときには、他人のする事を自分の事としていなく、人様にお金を頂くにも、感激することが分からないだけでなく、人の噂話をしていて、オーナーは顧客にサービスし、また従業員の世話もしなければならず、その上仕事のやりくり等の数々のプレッシャーで大変なことを知らなかったのだ。今年2月に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが皆に財神法を修める手助けをしてくださり、彼の仕事はやっと好転し、彼も生活、交通などの事で心配しなくてもよくなった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、財神法を修めるのはあなた方に良い日々を送らせるためではなくて、あなた方が仏法を学ぶための一部の障害を取り除く手助けをして、生活上の心配を少なくし、より安心して仏法を学べるようにするためだと開示なさったことがある。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず弟子達のために仏法を学ぶ資糧を累積してくださる事に感謝した。

最後に、二ヶ月前に機縁があって、父親が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見でき、その開示と摂受力により謁見が終わってからは菜食を始めて今に至っており、しかも「一生菜食にする」と言ったので、本当に感動した事、父親の変化により母親も菜食を作るようになったことを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに再度感謝した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに再度感謝してから、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお身体の健康、ご長寿、仏法事業の旺盛なること、常住在世、一切有情の衆生の利益を祈願した。

続いて、もう一人の弟子がすでに皈依した妻と子供を連れて、法会の人々に息子の医療プロセスで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの微に入り細をうがったお世話および、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが如何にうまく導いて彼の皈依の心態を改めて下さったかを話した。

去年(2012年)9月11日、彼の息子は2週間微熱が続き顔色が青白く、病院の急診へ行った。検査を経て、急性リンパ白血病と診断された。彼はほとんどの人と同じように、一時的にこの事実を受け入れられなく、理解できなかった。このような事は、テレビや雑誌で見るだけのケースで、それがなぜ自分の息子の身に発生したのか? 当時彼の息子の赤血球はただ4.5だけで、中性球は1000より低く、当時彼らは多くを考える余裕もなく、病院の手配の下で入院して化学治療の準備をした。化学治療を始めた期間、彼は以前霊媒を訪ね、また顕教の法会に数回参加し、指示に照らして寄付し、唸懺し、累世の冤親債主のために済度し、息子がこのたびの難関を安全に渡れるように願った。

しかし、寄付、唸懺も好運をもたらさず、第2週の化学治療の後、彼の息子は人工血管感染し、肺に浸潤して、咳が出て治療を停止した。医者の解釈では、院内感染のパーセンテージは3%のみで、加えて白血病の発生率は毎年十万分の四であり、両者がすべて発生するパーセンテージは千万分の一にすぎないのに、彼の息子はそれに遭遇したのだ。このとき彼は人生の無常を感じた。これはもうパーセンテージの問題ではなかった。

彼らが助けもなく呆然としていた時に、曾さんという兄弟子の勧めで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見できた。以前の経験から、彼は宗教には十分な信心がなく、当時半信半疑の心で、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。彼が始めて寶吉祥の道場へ入ったとき、弟子達が上師に対して敬仰と道場の荘厳さと秩序を尽力維持しているのを見て、深刻な印象を受けた。そして尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは助けを求めてやって来る信者に対して、時には厳しく叱り、時には慈悲をこめて開示と加持を与えておられるが、その後信者からの供養を拒絶されるのが、彼には理解できなかった。しかし彼はそれで敬仰心が起きたのではなく、そこで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したときに、彼がただ試してみようと思って助けを求めたことを見破られて、その場で叱責され、毎日3000回の大礼拝を行ってもう一度会いにくる様に言われた。彼はこれが尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の傲慢な心を治すためで、彼が仏法を学ぶ障害を減少させる教法だと分かった。

帰宅して、大礼拝を数回しただけで、体中大汗をかき、腰も背中も痛くなり、このとき彼は仏菩薩の前に、自分はかくも無知無能であることが初めて分かった。そこで彼は懺悔の心で再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の息子の治療状況を聞いた後に、彼の息子が感染して咳が出ることを知り、お慈悲を以って彼の息子の肺部を加持なさった。彼らが病院へ帰ったのは夜の8時になっていたが、この時息子は既に安らかに眠っており、感染以来咳が止まらなくて、何日もこんなにぐっすりと眠ったことがなかった。これは大修行者の加持力がかくも届かないところはなく、時空を超えたものであることを彼は初めて感じた。同時に勧めてくださった曾兄弟子が初めて謁見した日、病院へ帰る道すがら、絶えず尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを賛美し、衆生を済度なさる事跡及び自身が接触した仏法の殊勝なる体得を話してくれたので、自分も再び謁見しようとする信心が燃え上がったことを感謝した。

元々彼は、加持の後にはスムースに治療が完成すると天真に考えていたが、良い日は長くは続かなかった。病院は人工血管の細菌感染問題を徹底的に解決したわけではなく、彼の息子は化学治療ごとに発熱した。しかし不思議にその後何度か感染発熱しても、息子は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが肺を加持なさってから、浸潤の問題は拡散しなくなり、咳も出なくなった。

化学治療の中期に、彼の息子の体質は人工血管を排斥するようで、最後には人工血管が外に露出して抜けてしまった。元々主治医はもう一度人工血管を挿入する手配をしていたが、彼らはそれを願わず、かといって拒絶する勇気もなく、心では、もし新しい人工血管を挿入してもまた排斥したらどうしようかと考えていた。ちょうど彼らが決心がつかないでいた時、息子の手術をする予定だった外科医が、過労のために手術を執行できなくなり、この意外な空隙ができたので、彼らは身体の弱りきった息子を連れて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、当時尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自愛に満ちてこの子を抱えて加持してくださり、慈悲を込めてまたリンチェンドルジェ・リンポチェのところへ来なさいとおっしゃってくださった。帰ってから息子は病毒感染発熱で、また手術時間に影響して、最後に主治医は人工血管をやり直すことを取りやめた。これは上師の加持の後に、息子は転重軽受になったと分かり、上師が彼らの願いを聞き届けてくださり、息子が再び手術で痛い思いをしなくて済んだ事を感謝した。

彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見をした時の事を振り返ってみると、彼らの執着心および因果を深くは信じていなかったことから、二度目に謁見を求めたのだけれど、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼の息子がこの病気になった因果を、癌細胞は彼らの冤親債主であり、もし化学治療や電気療法をするなら、彼らの冤親債主を再び殺すことになると開示してくださった。しかし彼らはやはり深くは因果を信じていなかったので、化学治療剤を息子の体内に注入し続けて、徹底的に悪い細胞を取り去る事を望んだ。しかし、この種の医療を中心として、仏法で補うという心態は、7月27日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したときに馬脚を現した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、頂礼が終わると、必ず息子が安らかにしているかどうかを見てそれから上師を見るが、このような心には息子だけがいて上師はいないという態度であり、上師に対して非常に敬仰心がないことであると叱責した。

帰宅して彼らは深く反省し、彼らの敬仰心がないのは、皈依したのは只庇護してもらいたいという心から来ており、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対して十分な信心がなく、信心がなければ当然敬仰心もあるはずがないことになる。そこで彼らは心を入れ換えて息子の病気を考えることにして、化学治療を行って引き続き衆生と息子の身体を損なうことを止めて、一心一意上師に依止した。彼が8月3日に謁見したときに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に懺悔の機会を与えてくださった事を感謝した。当時尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、治療に反対したわけではないが、子供の寿命の長短は前世で累積した福報であり、人の子の父母として子供達にしてあげられるのは、快楽だけであると開示なさり、彼らに病院で出会う病気の子供達は楽しそうであるかどうかとたずねた。確かに病院の中では、病気の子供は楽しそうではないばかりか、家族も満面に憂いを湛えている。しかも最近息子もお婆さんに水曜日が嫌いだと言っているが、水曜日は息子は病院へ行って注射をする日だからなのだ。

息子の病気によって、彼らが徳を具えた上師から仏法を学ぶ機会を与えてもらった事を感謝し、更にこの間尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えず加持と開示してくださって、綱渡りをするように戦々恐々とした医療プロセスを平安に過ごすことができた事を感謝した。初めは皈依の心が間違ってはいたが、しかし尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの二度の開示を受けて後は、彼らの不安でたまらない心も次第に平静になった。というのは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心を持ち、話をよく聴き、教えのごとくに行い、いつも仏法と戒律で検討し、反省し自分の行為を改めさえすれば、未来はどうなろうと、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが必ず彼らに最良のご配慮をくださることを深く信じたからである。

最後に、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体の平安健康、仏法事業がこの世に常住すること、一切の六道有情の衆生がすべて直貢教法の助けを得ることができ、輪廻生死の苦海を解脱できるように祈願した。


尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上り共修法会を主催なさり、参会者全員に貴重な仏法の開示を下された。

今日は、皆に引き続きガムポパ大師が開示なさった輪廻因果を開示する。実は、輪廻因果面の開示は、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの数年来すでに多くを開示してきたが、多くの人が輪廻因果を信じずに、本当に因果を信じているものはいなくて、皆何の関係もないと思っている。あなた方は口を揃えて自分は因果を信じると言っているが、その境界がやってきたら、ここで言う「境界」とは修行上での境地のことではなくて、あなた方が自分の利益と衝突した時という意味で、その時には、御仏のおっしゃる因果、善業、悪業等の教えは全部頭の隅っこに押しやられてしまうが、これでは因果を信じていないことで、因果法則に違反すると必ず輪廻に陥るのだ。あなた方は浄土宗では只念仏だけ唱えさえすれば浄土に往生できると思っているが、経典の記載によれば、浄土に往生する条件は必ず福徳と因縁を具えている善男善女でなければならぬ、善というのは十善法を指すのだが、あなた方は十善法さえもできないのに、どうして浄土に行けようか。生前に修行していなかった亡者は、念仏団に頼るだけで、往生布を掛けるだけで浄土へ往生できようか?みんなが聞き入れないのであれば、今日開示して話しても無駄だと、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、その場で道場の大礼拝をする弟子達にしなくてもいい、拝んでも無駄だと指示された。

普賢菩薩はかつて、仏法を学ぶ心は頭髪に火がつき燃え出して、急いでそれを撲滅しようとするようなものであるべきだと言われた。あなた方の多くは間違った観念を持っていて、事をやってからにしよう、間違ったら上師に懺悔すればいい、後は何事もないと思っている。どうして何事もないことがあろうか?どのような動作、言語もあなたがやれば必ず因果があるのだ。去年のテレビ番組で、科学者も、どのような動作、言語でもそのエネルギーが起されて宇宙に留まることを証明していて、水が一滴落ちてくるような小さな事でも、起されたエネルギーはすべて宇宙に伝わるのだ。すべての動作や言語の合図が宇宙に留まる事を科学が既に証明しており、つまりこの因はすでに起こしているのに、あなた方は小さな事だから構わないと思っている。あなたの内心が長期間悪念の薫陶を受けていると、後々自然に悪を行うようになる。反対にあなたが仏法を学び、因果を信じて、心中に長期間善念を持てば、あなたがなす事は自然に善となり、別に気にしないでも自然に善が行えるのだ。

法会に参加しているから、ひいては自分が出家して、念仏を唱え、菜食をし、閉関したから三悪道に陥ることはないとは思うな。因果は錯綜していて複雑で、考えがひとつ変わると、果報もそれに従って変わるのだ。皈依したときにあなた方に、皈依した後は三悪道に陥ることはないと言ったが、しかしあなた方がやりたい放題にして、法会に参加すれば仏菩薩の庇護があって、修行しなくてもかまわないと思っているが、悪を続ければ、やはり三悪道に陥るのだ。反対にかつて多くの悪業をやったとしても、即刻懺悔の心を持てば、悪報も転じる可能性がある。仏菩薩はあなた方の因果を変えることはできない、というのはそれはあなた方が自分でしたことだからだ。現在受けている一切の病気や痛み、問題はすべて累世の悪業から導かれたものだ。皈依して仏法を学ぶのに、なぜ受戒、守戒が必要なのか?それはあなた方に悪を行わせず、引き続き悪因を植えさせないで、以前行った悪業をすべて報いたなら、再び悪報の苦を受けずにすむためだ。しかし、あなた方は少しだけならどうでもないだろうと、まずやってみてから、どうせ仏菩薩がお許しくださるだろうと思っている。まずやってみてからというような観念を持っている人は、因果を信じていないのだ。あなた方はこんなにも実験精神を持っているのに、仏法のようにすばらしい事を、なぜまず学んでみてからとは思わないのか?

一般の人は、物事を自分の好みと利益で判断するが、仏法を学ぶ人は物事を見るときにその中の因果を微に入り細に亘って検視する。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがあるが、ある時小料理屋に通りかかり、店の前で主人が桶の中に漬けた鶏のぶつ切りを置いているのを見たが、一匹の犬が桶の中から一切れの肉を銜えた。店の主人はこれを見て、すぐ棒を持って店から飛び出して犬を打ったので、犬は銜えた肉を放して、逃げていった。店の主人はその肉を拾って、直接桶の中に入れたのだ。

あなた方の目にはどうでもない事で、彼はその犬を打っただけで、店の主人の衛生条件が悪くて、客が不潔な食物を食べさせられるだけだと思うであろう。修行者の目には、この短い過程で、店の主人が多くの悪業を作ったこと、第一に、一切れの肉だけなのに、犬に食べさせてやるのを惜しんだ、仏法の因果から言えば、彼が以後得る果報は、餓鬼道に陥る:第二に、彼はこの犬を打ったので、以後果報は自分の四肢の関節も折れる可能性があり、折れないにしても、必ず調子が悪くなり、死んだ後には地獄へ堕ちる可能性があり、四肢が折れる苦しみを受ける。ある地獄のひとつでは衆生は必ず断肢の苦痛を受けている。第三に、彼は他人に不潔な食物を食べさせて、以後の果報は自分も不潔な食物を食べて、食中毒に罹る可能性がある。だから小さい事なら構わないだろうとは思うな、どんな事にも必ずその因果が存在しているのである。

最近、皈依して2年になるある弟子に事が生じて、この事は彼自身がリンチェンドルジェ・リンポチェに報告したのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェが伝え聞いたのだ。この弟子はオーナーと外国人労働者の関係が良くないので、オーナーに代わって会社の外国人労働者を殴り、怪我をさせて、訴訟沙汰になったが、オーナーは彼に偽証をするように要求して、彼はそのとおりに偽証したのだ。この弟子に問うと、オーナーが自分にとてもよくしてくれるのでオーナーの言う通りにしたのだと言い訳した。皈依した弟子でありながら、しかも皈依して2年も経っているのに、まだ人を殴ったのだ、悪いと知っていてそれを犯すのは、罪はもっと重くなり、彼がやった行いは多くの戒律を破っており、多くの悪を造成したのだ。

第一に、彼が外国人労働者を殴ったこと。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがあるが、自分に服務する人を馬鹿にしてはならない、今日ある人または動物があなたのために服務してくれたら、それはあなたが修行して得た福報であるが、しかしやはり慈しみの心で接して、彼らを馬鹿にしてはならない。ましてや彼らを殴るなどもってのほかである!経文には、動物でも人間でも殴ったり、相手を傷つけたりすると、以後の果報は、関節に問題が出て、酷い時には四肢が折れると説いている。因果から言えば、あなたが相手のどこかを傷つけたら、以後あなた自身が同じ部位に問題が出てくる可能性があるのだ。

第二に、彼は偽証をした。偽証することは嘘をついて人を騙すことで、つまり妄語、悪口、両舌のすべてを犯している!法律責任があるだけでなく、お経での因果から言えば、彼は死後耕舌地獄へ堕ちる可能性がある。耕舌地獄の中では、獄卒が畑を耕す犂で衆生の舌を畑を耕すようにするのだ。あなた方が嘘をつき続けると、死後はこのような地獄へ堕ちる可能性があるのだ。

第三に、最後に彼はまだ懺悔せず、自分の間違いを承認せず、甚だしきは上師に口答えをして、彼のオーナーがよくしてくれるので、外国人労働者を殴り、偽証をしたと弁解した。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前開示したことがあるが、もしお人よしを装うなら、地獄へ堕ちる可能性がある。オーナーが自分に対して良いからと、彼は黒白も確かめないで手伝った、もし相手が殺人犯だとしても、手伝うと言うのか?同情すると言うのか?しかも彼は明らかに間違いを犯しているのに、上師に口答えをして、すでに皈依戒を破ったのだ!外国人労働者がやってきて服務するのは、累世の業であるからだが、彼が自分の部下を苛めるのは、次の世では猫や犬になる可能性があり、しかも人に追われて殴られる種類の動物になるのだ。彼は別人を見下して、彼が仏法を聞いたことがあるとしても、将来人に生まれてきたとしても、人から一番見下される人になるのだ。これはすべて因果であり、ただ因果には多くの因素が影響して、果報が発生する時間はまだ決まっていないが、以後リンチェンドルジェ・リンポチェがまた開示する。

仏法を学ぶには必ず上師があなたの身、口、意の行為を監督しなければならない、この弟子は皈依して2年になるが、まだこのような間違いを犯しているが、皈依していない者は言うまでもない。一部の信衆は長期間法会に参加して、一年余りも来ているのにまだ皈依しない、リンチェンドルジェ・リンポチェも早く彼らを追い出すことにする!彼らは皈依は必要でなく、ただずっと開示を聞きに来て、多く聞けばできるとでも思っている。それは間違いだ!自分の累世以来の習性を改めることは、容易なことではない。皈依した弟子でさえ上師が絶えず監督し正さなければならないのに、皈依していない信衆は上師に管理してもらわなければ、自分の思い通りにして悪を行うのは非常に容易であるからだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方に皈依させようとしていると誤解してはならない、人によっては1年以上も望んで皈依できない者もいる。しかし長期間法会に参加していても皈依しない人は、どんな心持ちをしているのだ?第一に、彼らはまだ自分を改めようとしない、人から管理を受けたくない、悪を止め、善を行う決心がまだできていないのだ。仏法を学ぶのにあなた方のいかなる事も制限はしていなく、実は仏法を学ぶのは後になると非常に自由なのだ。もしこの人達が管理されたくないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはきっぱりと彼らを自由にさせてやり、以後は彼らの業力で行けばよく、どんな問題が発生しても、仏菩薩があなた方を罰していると誤解してはならない。仏菩薩の慈悲であなた方を手伝おうとしても間に合わないのに、なぜ罰することができようか?実はあなた方の冤親債主が債務を返せとやってきているのだ。第二に寶吉祥仏法センターは基金会ではない。基金会は外界の寄付を受けることができるが、お金が集まると往々にして問題が起きやすい、そこで寶吉祥仏法センターは、法人の方式で成立し、所有権はリンチェンドルジェ・リンポチェの名義ではなく、以後引き続いて運営しなければ、不動産も政府に回収される。寶吉祥仏法センターでのすべての支出は、毎月の水道、電気代、家賃を含めて、すべて皈依弟子が共同で護持しており、皈依していない信者は、供養と道場の護持は必要ではない。これらの者はずっと法会に参加しながらも皈依せず、道場を使用できてもお金は出さなくてもよくて、これも一種の「得をする」という心態である。寶吉祥仏法センターの皈依弟子は1200人余りで、こんなに多くの人々の世話になっていては、以後それを還すのも大変なことである。

重点は、これらの信者が法会に参加する心が不正確なことで、彼らがずっと皈依しないのは、庇護だけを求めて、修行しようという気持ちがないことだ。仏法を学べば必ず仏菩薩が守ってくださるというのは確かだが、しかし本当に仏法を学ぶ決心をした人は、仏法を生活の中に生かしてこそ、仏菩薩の庇護が得られるのである。もし彼らが考えるように、引き続き法会に参加していれば一切がよくなるというのならリンチェンドルジェ・リンポチェも修行しないでいいのだ!だから一年近く或いは一年以上の信者で、まだ皈依していない、皈依する気がない、皈依を求めようとしない人は、以後ここへ来る必要はなく、今年の年末にリンチェンドルジェ・リンポチェは追い出すつもりだ。

少し前に、出家衆の弟が往生して、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに、弟のためにポワ法を修めて済度してくださいと頼んできた。リンチェンドルジェ・リンポチェが亡者に修法し済度した後に、この出家衆は寶吉祥仏法センターでの何度かの法会に参加したが、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法が比較的に厳格だと感じたのか、教派の中でもう一人のリンポチェが主催する法会に参加した。彼女は灌頂さえ受ければ自分で修められると思い、どうせ同じ直貢噶舉派だから、どこでも同じだと思ったのだろう。彼女自身が出家衆なので、一人の出家した行者について学べば、学び得られると思ったのだ。しかし、彼女の心は正確ではない。というのは、仏法では縁起を大変重視するのに、彼女は分別心で上師を選び、はじめに彼女を導いた上師に感謝の気持ちがなく、これでは縁起はよくないことになる。彼女は自分は新しい道場で学んだだけだと思っているが、実はこれはもう一度やり直すことで、ゼロから出発することになり、以前のものは無くなるのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェがこの事を出したのは、何もリンチェンドルジェ・リンポチェだけに付いて仏法を学べというのではない。ただ尊勝なる直貢チェツァン法王が認証なさった直貢噶舉リンポチェでさえあれば、すべて直貢噶舉リンポチェであり、差別はないが、修行の境界が異なるだけである。あなた方にとっては、実はどのようなリンポチェを自分の上師と仰ぐかを特別に探すというのは重要ではなく、大切なのはあなた方の縁起がどこにあるかによって、しっかりと上師について学ぶべきであり、あれこれ迷って、到る所へ行ってみたりして、時間を浪費することはない。リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んだ時には、ただ一人の上師だけで、密法を学んだ時にも、ただ一人の上師である、尊勝なる直貢チェツァン法王だけである。あなた方のように、悪く言えば終始一貫しないのではない。上師によって教え方は異なり、あなた方がいろんな道場を探し回れば、仏法を長年学んでも、一人の上師について長く学ばないことになり、修行したものは累積することができず、あなた方が生死を解脱する助けにはならず、一生を無駄にすることになるのだ!

以前ある弟子の気性が荒かったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を追い出したら、彼女は尊勝なる直貢チェツァン法王の所へ行って、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を叱って追い出したと告げて、尊勝なる直貢チェツァン法王に自分を剃度出家させてくださいと願い、尊勝なる直貢チェツァン法王は後に彼女を剃度出家させた。しかし、こんなに長年経ったが、今に至るまで彼女には根本上師がいない。彼女はネパールに住んでいると思うが、その期間にも彼女は多くのことをして、仏法を学ぶには供養布施をし、仏像を造ることを知ってはいるが、今にいたるまで彼女に伝法する一人の根本上師もいないということは、彼女は仏法を学ぶ縁起がよくないわけで、縁起の上師に対して敬仰心がないので、この世で仏法を学び生死を解脱するのに障害があるのだ。

世間では簡単に灌頂し、多くの密法を伝えているかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単には密法を伝えない。法本に書かれているが、上師は根器を具足した弟子に出会えば、伝法しないことはない。もし弟子の根器が具わっていなければ、伝法することはできない。でなければ深刻な因果が生じると書かれている。一部の法をあなた方に伝法しないのには、必ずその原因があるのだ。というのはリンチェンドルジェ・リンポチェはその中の深刻さを知っているからだ。また、法を伝えて修行しなかったら、伝えた上師にも事が生じ、上師の成仏の時が延長される。チベットから来られたリンポチェがよくあなた方に灌頂し、伝法したからと言って、自分が密法を修行したとは思うな。リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット仏教を数十年学んできたが、チベット人がどんな法を漢人に伝え、どんな法を伝えないかは、リンチェンドルジェ・リンポチェが誰よりもよく知っている。なぜ台湾でこんなに多くの人が灌頂を受けて、ほかの誰もリンポチェの果位を修められないのか? それは仏法を学ぶ縁起がよくないからで、いろんな道場へ行って聴き、多くを聞けば修行できるとでも思っているが、その結果はさらに散乱してくるだけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが修行できたのは、ほかでもなく、専ら上師の教導に従って修行したからだ。

あなた方は自分にはできないが、リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェだからできるのだと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分が修行してきたプロセスを何度もみんなに開示してきたのは、あなた方にリンチェンドルジェ・リンポチェも元はあなた方と同じような信者にすぎなかったわけで、この世で信者の身分で修行を始めて、リンポチェの果位を認証してもらったことを教えるためだ。釈迦牟尼仏はご自分の修行過程を多く語っておられ、御仏もかつては地獄に生まれ、人道で成仏なさったのだ。御仏が地獄から始めて、菩薩を修行し、その後仏果を修行なさった。釈迦牟尼がご自分の修行過程を開示なさったのは、衆生に、御仏も初めは地獄にいて、それでも仏果を修められるのだ、衆生も御仏もみんな仏性があり、どの衆生も修行して成仏できるのだと言う事を知らせるためなのだ。

経文に記載されているが、観世音菩薩にある人が、観世音菩薩の手に持っている念珠は何を念じるのですかと訊ねた。観世音菩薩は「自分の聖号だ」と答えられた。観世音菩薩が自分の聖号を念じるのは、何を意味しているのか?つまり自分で自分を庇護するのだということをリンチェンドルジェ・リンポチェは開示する。仏法を学ぶのは仏菩薩と上師に庇護してもらうことをお願いするのではなく、仏菩薩の教導に従って、悪を断ち善を行えば、自分を庇護することができるのだ。いくら多くの道理を聴いても自分を改めない人は永遠に信者にすぎない。上師と経典の教導で自分を改めようとしてはじめて輪廻生死を解脱する機会があり、ひいては成仏して衆生を利益することができるのだ。

仏法を学んだら後は良き日々となり、何事も発生しないなどとは思うな。もしあなたが仏法を学ぶのが、自分の人間関係を良くしたいというのであれば、仏法を学びにくる必要はない。なぜ人とうまくいかないのか?それは自分の利益を考えて、他人のために考えないからだ。仏法を学んだ後になぜ人と衝突が起きないのか?それはすべての事を他人を先に考えれば、相手もそれを感じて、自然にあなたに迷惑をかけなくなるからだ。あなた方が法会に参加するのは、それは自分にとってよい事だと思っているが、このような心も不正確なのだ。あなた方は皆自分の事がうまくなるようにと希望しているが、もしこのように収入を全部出して善を行えば、将来はあなたの生活は必ずよくなる、しかしあなた方にそれができるだろうか?

お経に記載されているが、御仏と同時代の在家の大修行者――維摩詰居士もかつて病気になり、当時釈迦牟尼仏は文殊菩薩ともう一人の菩薩を見舞いに遣わして、維摩詰居士の病気で「病も空性であり、一切は因縁法で、縁に従って起き、縁に従って滅する」と開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の病気を例にするが、若い頃は喧嘩が好きだったので、後に両方の肩の関節に問題が出て、非常に痛むが、今までそれがリンチェンドルジェ・リンポチェの弘法と済度に影響したことがない。あなた方も見ているが、リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修めるときの手の動作は流暢で、少しも病気の様子は見せていないだろう、しかし実はとても深刻なのだ。

ペインクリニックに詳しい漢方医の弟子が、リンチェンドルジェ・リンポチェの肩の関節の状況を説明した。この弟子の報告によると、人の骨と骨との中間には軟骨組織が潤滑油の働きをしていて、この軟骨が擦り切れると、手の部分の動作が非常に困難になり、関節の両側の骨が直接に摩擦するので、周辺の筋肉と筋が常に引っ張られて炎症を起こして腫れるそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの両側の肩の関節の軟骨組織はすでに擦り切れており、どんな動作をしても疼痛を感じ、手を挙げる動作でさえすることができないはずだ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に推拿(指圧)を時々してもらったが、この2年間はほとんどないとこの弟子は語った。

整形科の医者の弟子は皈依して長年経ち、リンチェンドルジェ・リンポチェの身体の病痛をよく理解していた。この弟子の医者は、以前リンチェンドルジェ・リンポチェを診察した時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎はS字型の大側湾があり、初めは非常に心配した、というのは、脊椎がS字型に大きく側湾している患者は、最後には大小便の失禁が生じ、長期間鉄のコルセットをつけて、痛み止めの薬さえ効かなくなるからだ。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに推拿(指圧)で整骨するように按配したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは面倒だとして行かなかった。

弟子の医者は、ある時リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を呼んで、リンチェンドルジェ・リンポチェの首を診てくれと言われた。診ると、リンチェンドルジェ・リンポチェの頚椎の骨が飛び出ており、非常に深刻な状態だった。このような頚椎の状態では、道理から言えば頭を上げることができないはずだ。しかし、毎年一回行われる「阿弥陀仏無遮大超度法会」で、映し出される大スクリーンから、リンチェンドルジェ・リンポチェの側面を見て、リンチェンドルジェ・リンポチェの修法は、4,5時間かかるが、頭から背中の部分は真っ直ぐであったと語った。リンチェンドルジェ・リンポチェの肩の状態も漢方医の弟子が言うように骨と骨との間に潤滑油の役目の滑嚢が必要だが、リンチェンドルジェ・リンポチェの両肩の関節の所には軟骨組織がなく、普通なら動けばカラ、カラと響いて、とても痛むのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェの手は動作の時も非常にスムーズで、骨も音を立てない。リンチェンドルジェ・リンポチェは痛み止めの薬は何も飲んでいない、というのは、痛み止めの薬を飲むと、肝臓、胃、腎臓に悪いからだ。みんなが見るように、施身法の時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは1時間以上も絶えず鈴を鳴らし、鼓を打っているが、顔の表情はとても自在だろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが、施身法を修める時から、鼓を打ち、鈴を鳴らす動作をするが、あなた方に話さなかったら、リンチェンドルジェ・リンポチェの身体に痛みがあることをあなた方はわからないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の因果を知っているので、それを完全に受け入れて、衆生の利益のために、完全に自分の身の上にどんな病気があって痛むかなどは考えないのだ。この十数年修法してきても、リンチェンドルジェ・リンポチェの手は折れないし、身体の状態も反って益々良くなっている。あなた方に告げるが、何事をするのも、すべて因果があるが、仏法を学び始めてからは、悪業の力は重くはならず、続けて悪を行わず、悪の力が止まり、善の力が絶えず増長して、果報が出現してもあなたに影響を与えることはなくなるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは疼痛を我慢して或いは意志の力で抵抗しているわけではなく、すでに自分の心をコントロールでき、肉体の苦痛で影響を受けなくなっているので、身体上では問題がやはり存在しているが、心は影響を受けないので、苦痛を感じなくなっている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは累世の善根により、多くの仏法の事は自然にできる、例えばリンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学び始めたばかりの時、一本の線香で拝むにも衆生のためだと思うのだ、誰かが教えてくれたのではなく自然にそれができた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェに累世の善根があったとしても、尊勝なる直貢チェツァン法王にお会いできなかったら、例えばリンチェンドルジェ・リンポチェにある思いが起きて、尊勝なる直貢チェツァン法王に会わないと決めたりしていたら、累世の善根で仏法を学ぶ因縁があったとしても、障害に遭えば仏法を修行することはできず、この一生を無駄にしたであろう。

2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる 直貢チェツァン法王の指示を奉じて、ネパールのラプチ雪山で閉関を行った。円満に出関した時に、尊勝なる直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは、禅宗のある公案「心包太虚」について検討した。法会の席で、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に叱らないからその意味を解釈するように指示した。ある弟子は心は虚空と同じく大きいと答え、ある弟子は心は虚空よりも大きいと応え、またある弟子は心は一切のものを包容すると応えた。当時、尊勝なる直貢チェツァン法王が、リンチェンドルジェ・リンポチェに、「心包太虚」の観方をたずねられたので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この話には誤りがあるようだ、というのは虚空はこんなに広大で、無辺無際で、衆生の数もまた無辺無際である、だから心も無辺無際であるべきだと報告した。《心経》の中に、心は形、重量、色彩、大小は無いと説いている。もし心が太虚を包むなら、この鼓を布で包んでいるように、布には大小と形があり、心も範囲が限定されるので、どうして無辺無際の衆生を利益することができようか?

少し前に、尊勝なる直貢チェツァン法王が、リンチェンドルジェ・リンポチェに《寶積経》を開示するよう指示なさったので、そこでリンチェンドルジェ・リンポチェは勉強して、《寶積経》の記載に、虚空は無辺無際であり、心も無辺無際であると出ているのを読んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなにスゴイかなどと言っているのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェの修行方式は一般の人とは同じではなくて、文字の上で理解するのではなく、まず自分で修行をして、悟ったら、それから尊勝なる直貢チェツァン法王に認めていただき、上師の確認を得て或いは経典に記載されている境地に符合しているかを見るのだ。仏法を修行する境地は自分で言えばいいのではなく、上師がいなければ確認できず、少なくとも経典の中に記載があってできるのだ。

尊勝なる直貢チェツァン法王はかつて、リンチェンドルジェ・リンポチェの心は非常に細かいと言われた。これは二つの面から解釈できる。顕教から言えば、粗野な心ではないということ、つまり大雑把ではないことで、一切の因果因縁をはっきりと知ることができる。密法から言えば、修行者はすでに外気をコントロールでき、内気はまだ完全に把握できないけれども、心の力量は一切の生じるエネルギーを詳細に見ることができる境地にまで修行しているということだ。

例を挙げれば、運動した後に呼吸が速くなるのは、粗の気であり、この時あなた方は自分が物事を細かく思考できないのを知るだろう。みんなは眼、耳、鼻、舌、身、意で外在の情報を接収していて、心は六識の影響を受けて、つまり心が動いている。心が動くと、物事をはっきり見ることができないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に外部環境にひこずられる事は無いので、自然に一切の事情の現在、過去、未来の因果をはっきり見る事ができるのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの肩の関節の軟骨が擦り切れて、脊椎大側湾などの身体上の病気の痛みによって、リンチェンドルジェ・リンポチェが影響を受けることが無いのは、つまりリンチェンドルジェ・リンポチェの心がこの肉体をコントロールできていて、身体の感覚に影響を受けないわけだ。実はコントロールではなくて、コントロールという言葉で無理にあなた方にわからせているが、心が六識の影響を受けなく、外気、内気の影響を受けないで、もっとも原始の状態に戻ることができれば、つまり清浄な本性であれば、一切は縁により生じ縁により滅することが見えるのだ。

先ほど話したあの外国人労働者を殴った弟子は、この度ラダックへ行き病気がそんなに重くなったのは、彼が仏法をこんなにも長い間聴きながら、まだ人を殴ったりして、それは因果を信じていないことになり、それで病気になるという事が起きたのだ! 皆自分の心を放縦にさせてはならない、よく自分の心を見なさい、輪廻因果の取捨と判断を知る事で、自分には分からないと言い訳をしてはならない、でなければ因果を信じていないことになるのだ。

ガムポパ大師の開示の中で、輪廻因果は「嗔恚のような煩悩の周辺が燃え盛っていると、十不善業を造成し、その果報は地獄道に生まれる」と説いている。あなた方は、自分が病気でとても苦しいと思っているかもしれないが、三悪道の衆生はもっと苦しいのだ。地獄道は餓鬼道よりも更に苦しいと思われるが、実は餓鬼道も非常に苦しいのだ。餓鬼道では食物を食べることができなく、お腹が空き切っても、食物や水が喉を通る時には火となって、飲み込むことができない。最近の狂犬病がこのような症状になり、水を口に入れると、食道は火のごとくに痛んで、ものを食べることはできない。いつも癇癪を起こして、何かあればすぐ怒り、人を罵り、常に他人が自分に対して良くないと言う人は、以後地獄へ堕ちる確率が非常に高いのだ。経典の中に各種の地獄が詳細に書かれているが、大体二種類に分けられる。熱の火地獄と、冷たい寒氷地獄で、当然その他の大小の地獄も《地蔵経》の中に記載されている。

地獄は御仏が衆生を懲らしめるために造られたと言うのではない、実は地獄は我々自身が作ったものであり、思いが招いたものである。皆には怒りの経験があると思うが、怒ったときには胸が熱くなりはしないか?血液が心臓に集中するからで、甚だしきは汗まで出る。生前にこのような感覚に慣れている者は、死後この習慣により火地獄へ堕ちる。さきほどリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したが、もしあなた方の心中に長期間ある種の観念が存在していたら、この一世の終わりと未来世に影響を与えることになる。

ガムポパ大師は、「貪欲により、則ち餓鬼道に生まれる」と開示している。生前貪念が重かった人は、死後は餓鬼道に堕ちる可能性があり、更に重ければ寒氷地獄へ堕ちる。あなたが好きな物に貪念が生じると、例えば美男子、美女、財物、或いは名利を見て、知らぬ間に息を吸い込んでいるだろう。この息を吸い込むと、胸が寒々としてくる。長期間貪念が習慣になっている人は死後は寒氷地獄へ堕ちる可能性がある。寒氷地獄は非常に冷たく、その冷たさはあなた方には想像できない。簡単に言えば、寒氷地獄は南極北極よりももっと寒く、零下50℃よりも更に冷たく、寒氷地獄の中の衆生は、寒さのために皮膚は全て裂けて、裂けた後にまた再生して、これが繰り返されるのだ。

本当に仏法を学ぶ人は教えに従うことで、仏法を真に日常生活で着実化して、輪廻の習慣を改めることだが、あなた方は仏法を学ぶことを一番重要な事だとはしないで、家庭、仕事、健康もすべてがよくなることを願っている。仏法はあなた方のこのような要求を満足させる事はできない。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、あなた方が世間法を求めるより、出世法を精進に修行したほうがいい。出世法が円満すれば、世間法もそれを妨げないと開示したことがある。今に至っても、弟子で皈依して2年になるのに、このような間違いを犯すとは、リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに多くを話しても、あなた方は聴いてはいないようだ。

実は、あなた方が仏法を本当に生活に生かしてやったなら。傷害を受ける事はないのだ。況や菩薩道の修行者は自分が傷害を受けるかどうかは考えなくて、ただ衆生が傷害を受ける事を心配する。あなた方はやはり自分の利益が損なわれる事を恐れて、仕事、家庭、商売などの個人的な利益が衝突する時には、仏法を片隅に放って置くのではないか?本当に因果を信じているなら、自分の利益のために仏法をその次に置くだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学ぶ事は良いことで、自分を利益するが、衆生を利益する事は、猶予することなくやらなければならない事を知っているのだ。なぜしなければならないか、やればどんな良い事があるかをリンチェンドルジェ・リンポチェは尋ねない。自分の利益と衝突するかどうかは考えず、自分の商売、妻や子供のことを考えず、仏法を一番大事な事とする。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を第一にして、仏法に関係ある事はすぐさま行い、最後に破産しても、妻や子供と離散しても、それはリンチェンドルジェ・リンポチェ自身の縁であり、仏法とは関係ないと考えている。しかし、あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェを見習わないように、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方にそうしてもらいたくない、あまりに辛いからだ。

尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに初めて閉関させた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の事は放下して、「閉関します」とすぐさま答えて、なぜ行くのか、どんな法を修行するのかさえも聞かなかった。というのは上師の指示は必ずや弟子に良いことだと知っていたからだ。尊勝なる直貢チェツァン法王は、リンチェンドルジェ・リンポチェが行かないかもしれないと思い、特別にリンチェンドルジェ・リンポチェの親友に頼んで、「この度の閉関は非常に大切で、リンチェンドルジェ・リンポチェの未来への影響が非常に大きいので、必ず行くように」と伝言なさった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの友人は5年後にそのことをリンチェンドルジェ・リンポチェに告げて、当時忘れていたと言った。良かったのはリンチェンドルジェ・リンポチェはその時行ったので、後の修行が成就したのだ。なぜ尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが閉関に行かないかもしれないと心配なさったのか? というのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは約束したけれども、人の心は絶えず変わるものだからだ。

「愚痴により、則ち畜生道に生まれる」。愚かな人は、畜生道に堕ちる可能性がある。御仏のおっしゃる「愚か」とは聡明、不聡明とは関係がなく、知能指数を指すのでもなく、仏法を信じない、因果を信じないことである。例えば、あなた方の多くは法会に参加さえすれば庇護してもらえると思って、自分では行わず改めない、以後何が発生しても上師と仏菩薩に助けてもらえばいいし、死んだら上師が済度してくれると考えているが、このような考え方は、因果を信じていないことで、愚かさに属し、以後は畜生道へ堕ちる可能性がある。あなた方は既に法会に参加して仏法を聴いているが、皈依していなく、つまり信じていないことである。ではきっぱりと法会に来ないほうがいいと言うかも知れない。しかし来なかったらもっと酷い事になり、以後は地獄へ堕ちる可能性がある。法会に参加すれば少なくともあなた方が一部の福報を累積し、地獄へ堕ちる機会を減少する助けとなる。あなた方は、畜生道の方が地獄道よりは良いと言うかもしれないが、畜生道も非常に苦しく、動物にも霊性があるとはいえ、彼らは動物の基因であり、多くの動物が受ける苦しみを受けなければならないのだ。

先ほど、愚かは学問が低いことではなく、因果を信じない、仏法を信じないことだと言った。仏法を学べば学問をしたことになるとは思うな。六祖慧能、ミラレパ尊者、広欽老和尚も字を知らなかった。実は往々にして聡明な人、読書を多くした人、学問の高い人ほど、反って因果を信じていなく、御仏の話されたことを信じていなくて、決心して仏法をしっかり学ぶことができないのだ。御仏のおっしゃる所知障とは、自分は知っている、理解している、ほかの人よりもよく知っていると言った心があなたに仏法を学ばせる障害になっているのだ。

「嫉妬のような煩悩の周辺が燃え盛っていると、十不善業を造り出し、天人か阿修羅に生まれる」嫉妬は他人がよく修行しているのを見て、不満で納得しない心が生じる。あの人はそんなによく修行できるはずがない!リンポチェになる人がいると、心の中で、あの人の程度ではまだではないか!と思ったりすることも含まれる。このような心も嫉妬と言え、随喜の心がない。これは他人と比べるのが好きな心で、例えば、自分は他の人よりも持咒がよくできる、御仏を拝す姿勢も他の人よりも正確だ等々などである。このような嫉妬心或いは比較心があれば、たくさん修行しても、最高は天道へ到る。あなた方は天人には多く享受できると思っているかもしれないが、天道の衆生はやはり生死を解脱することはできないで、享受し終わったらまた輪廻の苦しみを受け、輪廻中でもし一世でもよく修行しなかったら、容易にまた悪を行い三悪道に堕ちる。もし嫉妬心と比較心とが更に深刻であれば、阿修羅道に堕ちる。経文の中で阿修羅道の男性は非常に醜くて、女性は非常に美しい、しかも酒を飲まず、戦いが好きで、よく天道と衝突を起こすと書いてある。実は現世にも、天道と阿修羅道は現れており、二つの宗教の間で歴史上絶えず衝突があるのに似ている。

「我慢という煩悩により、則ち人に生まれる」もし自分には多くの弟子がいて、寺院は大きいと思う、或いは自分は多くの事をした、修行もよくやったし、閉関もよくやったと思うならこれが我慢貢高である。我慢は細かいので、修行者自身は気づきにくい。ある台湾の出家衆がある大きな寺の住持になり、寺院が建立されたばかりの時典礼を挙行して、身分ある貴賓が祝賀に参列し、挨拶が終わっって座席に戻る時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、自分は大仏寺を修行して得た、なかなかよく修行しただろうという慢心の様子を見て取った。この我慢(慢心)が起きたら、菩提心は消失して、彼が以前修行したすべての功徳が転じて福徳になってしまったので、彼は往生の時に多くの苦痛を受けた。また、一人のチベット仏教のリンポチェが公衆の場で開示して、開示の後下りるときに、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の様子に先ほどの開示はよくできたと、満足した表情を見て取った。結果このリンポチェはその後すぐ病気になった。しかし彼はその前の修行で福報を累積していたし、教派内の多くの大リンポチェとラマが彼のために修法を手伝って、彼はこの難関を渡れたのだ。

二つの例からあなた方に話したが、我慢は仏法を学ぶ人が犯しやすい。八地菩薩を修める前に、修行者には我慢が生じる可能性がある。我慢が起きれば退転する。ここで言うのは仏法を学ぶのが退転するのではなく、衆生を済度する心が退転して、もともと菩薩の果位が認証される所だったのに、自了漢或いは阿羅漢まで逆戻りする、もっと深刻なのは凡夫にまで逆戻りして、だからここでは「人に生まれる」とあるのだ。

仏法を学ぶには絶対に経文に書かれている事から離れてはならない、経文から離れれば仏法ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは《寶積経》の中に、吃驚するような内容を目にした。お経の中には出家衆が持ってはならない考えが出ていて、しかもほんの少しの思いだけの差別でも、在家衆が見れば、そんなに深刻なことですか?と思うだろうが、出家衆にとってはそれを犯せば、経典中に言うように「悪比丘」で、これは厳しい事だ。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方に、平等心を持って、分別心があってはならない、よい人悪い人と分けるのではないと教導しているのか?良し悪しはすべてあなた自身の利益から判断しているからだ。あなた方は仏法を学んでほかの人よりも清く高い境地にあり、仏法を学ばない人はあなたよりも下にあると思うな。これらは正確な心ではないのだ。仏法を学ぶのは仏法を生活に融け込ませて、学ぶほどに円融となり、学ぶほどに融和するものだ。

先ほど話した法会に参加するだけで、皈依しようとしない人は、責任を取りたくないと思っていて、法会に来ればご加護があるので、それでいいと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親もこのような考え方で、数日前にリンチェンドルジェ・リンポチェは母親にちょっと話したが、リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェだから話せるのだ。実は既に皈依した弟子にもこのような考え方があり、法会にさえくればご加護がある、皈依すれば上師が一切のことを手伝ってくださると思っている。しかし、仏法を学んだ後にそれを実行したかどうか、どのぐらい行ったかを自分に聞いてみなさい。《仏子三十七頌》にはすべての皈依弟子が守るべき戒律が出ていて、一つ少なくても駄目であり、その中の一つをしなかっただけで、仏弟子とは称されないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、既に60歳を越えたが、幸運にもまだ自分より2歳年上の上師――尊勝なる直貢チェツァン法王がおられてしばしば注意してくださる。現在多くの人は上師がいないが、特に40歳を越えた人の多くが、みんな上師がいなくて、大部分は上師が高齢すぎるか或いはすでにいない。灌頂法会に参加したからと言って、家に帰って自分で修行できると思うな。それは灌頂の結縁をしただけで、あなたがその後を修行するかどうかは勝手である。仏を学ぶのははかならず一人の上師に従い、上師は仏法を教えるだけでなく、しばしば弟子の監督をする、でなかったら、小さな事でもあなた方が仏法を学ぶ因縁を変えてしまうからで、生死を解脱できず、甚だしきは仏法を学ぶ障害になるからだ。

仏陀の時代の阿難尊者、目犍連尊者は皆阿羅漢果の弟子であったが、釈尊はやはり仔細に観察して弟子の一言一行を糺している。一人の具徳の上師に従っても、弟子は自分で行わなければならない。何かあったらリンチェンドルジェ・リンポチェにお願いすれば、ご加護くださると思ってはならない。もしあなた方に事が生じた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが眠っていたらどうする? すべての分身も呼び戻し、神職も休んでいたら、或いはアキ護法を呼び、来て騒ぐなとしたら?上師があなた方のことを構わないのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは実に忙しく、しなければならない事が多いのだ。あなた方が修行しようとしないので、リンチェンドルジェ・リンポチェもあなた方を罰する気もしなくなった。この世でリンポチェの果位を認証された上師に従う福報を持ったのだから、あなた方はそれを大切にして、自分に厳しくして、やり抜く決心をして、もう時間を無駄にしないことだ!

あなた方はやはり自分のことを気にしており、自分の利益に損害が生じることを怖れていて、ちょっとのことでも大げさに、小さいことを大きく騒ぎ、因果法則から物事を見ようとしない。例えば買った物が少し気に入らないと、返品して返金を要求する。お金がそんなに需要ですか?リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、お金は身外の物に過ぎない! この前、リンチェンドルジェ・リンポチェがレストランで食事をしていた時に、店員が間違えて料理を運んできて、その中に葱が入っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、取り下げればいい、しかもその費用を取りなさいと言った。

それがあなた方だったら、喧嘩をするだろう。あなた方にとっては、レストランの店員が間違って持ってきた料理なのに、まだお金を払うのかと思うだろう。あなた方はこのようにはしないだろうが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそうして、みんな喜んだので、このレストランは以後リンチェンドルジェ・リンポチェを歓迎するかしないか考えて見なさい。その店員は故意に料理を間違って持ってきたのではないことを信じているので、或いはこれも自分の業で、相手に一つ還す事ができるのを感謝して、以前リンチェンドルジェ・リンポチェが間違えて物をその人に持っていったから、今料理を間違えて持ってきたかもしれないのだ。嘗て間違えたものを人に渡さなかったなら、きっとあなたに間違えたものを持ってくる人もいないだろう。なのに、あなた方はこのことで相手と言い争い、甚だしいのはたった10元でも相手と顔を赤くして争ったりするが、布施をあげたと思えばよく、小さな商売をしていて、お金を儲けるのはとても大変なのだから、他人とこのような事でやりあうのではない。

ガムポパ大師は「涅槃因果はまたこれを、1 寂静涅槃因果: 2 無住涅槃因果の二種に分けられる」と開示している。「涅槃」という梵文は解釈しにくく、多くの翻訳も完璧な意味を翻訳しきれていないが、修行の一つの成果を指すものだ。大手印の中の修行は四つの段階に分けられ、専注瑜伽、離戯瑜伽、一昧瑜伽、無修瑜伽で、無修瑜伽の境地を認証できたら最後が涅槃である。簡単に言えば、涅槃は修行を通して心が清浄なる本性を恢復して、不生不滅、一切の因縁がすべて停止するのだ。

ある教派は輪廻と涅槃を修行するのは無二無別だとするが、顕教を学ぶ人は輪廻と涅槃がなぜ無二無別なのか理解しがたいだろう。密法から言えば、修行の一切はすべて衆生を利益することである。修行者は仏法の中で修行して、輪廻生死を離れるまで修行できたら衆生を済度するためにもう一度輪廻するが、衆生のために輪廻するので、輪廻の苦痛はなく、涅槃かどうかも考える必要はなく、ただ只管衆生済度だけを思い、ずっと行えば、自然に涅槃にたどり着く。御仏は既に涅槃であるが、衆生を済度するために再び輪廻でき、菩薩も願に乗って再来するように、菩薩の発願力の縁が出現したら、念を動かして輪廻し衆生を済度するので、そこで輪廻と涅槃は無二無別だと説くのだ。

寂静涅槃は既に心が不動、寂静の境地になっていて、自了漢から輪廻を解脱して涅槃に達している。無住涅槃は菩薩道の修行者が衆生を済度するために修行し、仏果になる涅槃境地であり、《金剛経》に説く、「住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし」であり、この四相を全部悟らなければならない。世間の一切はまさに《金剛経》の中にある「夢幻泡影の如く、露の如く亦電の如し」であり、ここで言う「電」は電光を指すのではなく、もし誰かがこれは電光のことだと言うなら、その人は経文の中の境地をまだ理解していないことを意味するので、あなた方はその人の言うことを聞き続けることはない。少し前のニュースに、スイスで中性子、陽子に関する科学実験で、二つの物質がぶつかると、其の相が生まれる前に、光のエネルギーを生産し、その後物質を形成すると報道していた。この光のエネルギーが《金剛経》で説いている「電」である。

一人の物理学者の弟子が、スイスのあの大型ハドロン衝突実験室で、宇宙が生まれたばかりの時をシミュレーション実験した時、粒子と粒子がぶつかる時に巨大なエネルギーが産生された。彼はこの実験を知っていたが、《金剛経》に説かれている「露の如く亦電の如く」の「電」がこの意味であったとは、以前の自分は実に馬鹿で電光だと思っていたと報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、以前のあなたが馬鹿だったのではなくて、ただリンチェンドルジェ・リンポチェに逢わなかっただけだと答えた。会場の皆はにっこり微笑み、リンチェンドルジェ・リンポチェの大いなる智慧に信服して、同時に熱烈な拍手が湧き起こった。

この弟子は続けて、科学者は実験からすべてを証明することはできなく、これらの物質がぶつかる時間は非常に短くて、ただ万分の一秒に過ぎないと報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示され、その一瞬を捉えることは非常に困難だ。粒子は絶えずぶつかり合い更に大きなエネルギーを産生し、物質の産生と消滅の時には光のエネルギーを産生するが、こんなにも長年、こんなに多くの資金をかけて、科学者はやはりぶつかって半分のエネルギーを出す粒子を見つけただけであり、なぜそうなるのかは解釈することができない。というのは宇宙の万象は因縁によって生まれ、因縁によって滅するもので、固定したものではなく、一切の現象はすべて空性で、同じものはなく、だからその発生を予測するのは非常に困難なことなのだ。

だから科学は、実は経文に説かれている真相を探すだけなのだ。仏法は最先端科学であり、数千年も前に、釈迦牟尼仏はこの道理を説かれたのだが、ただ以前の用語なので、現代と異なるために、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に理解しやすい現在の方式を使って、現代科学の説明方式で、あなた方に聞かせたのだが、実は工夫して説明しているのだ。もし自分が証しなく、修行し得てなかったら、適切な比喩や説明をすることができない、しかしもっと多くを説明したくても、あなた方の現在の資質では分からないだろう、これはただ顕教の部分にすぎないのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて《金剛経》で説かれる「夢幻泡影の如く」について、実は一切の物質が産生されるときの形状は水泡と同じで、その後分子が形成され、それから分裂が進行すると開示された。一切の現象はすべて因縁で生まれ滅し、夢幻泡影のようなもので、あなたが執着するいかなる現象も、無自性質で、夢幻泡影の如く永劫ではない。だから執着することもないではないか。私達がこれらの夢幻泡影に対しての執着を減少させて、最も原始最初の本体を回復させることができれば、それが清浄な仏性なのだ。

実は、私達の身体も小宇宙であり、体内で無数の衝突が産生しており、私達自身ではこれをコントロールできない。例えば体内の血液の流動、胃腸消化後はお腹が空く等などは、
すべてぶつかって新しい縁が出現するからである。心が動くと、新しい縁が産生する。涅槃の境地に入れば、いかなる衝突も生じないが、自分のエネルギーもぶつかるのを停止するわけで、容易な事ではない。どのようにして自分をコントロールすべきか?先ず体内から初めて、仏法を学んでからぶつかることも生じなくさせ、次には心をコントロールすることだ。だから、本当に仏法を学ぶ人であれば、まだ自分で面倒な事を起こして、ぶつかる対象を探すだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェの身体は調子が悪いが、しかし自分の心をコントロールすることができ、自分の体内の疼痛感とぶつからないようにしているので、疼痛のエネルギーを産生しない、つまりぶつかる業力対して果を造成しているのだ。

もしあなた方が我に執着していて、それが冤親債主の身体に充満してぶつかると、このぶつかりの果は自然にあなた方に影響を与えるが、仏法を学ぶことによって傷害は減少し、最小にまで減少させられる。あなたが外在の一切に何もぶつかりを起こさなくなって後に、内在の気を修行してそれでできたエネルギーで、本来の清浄な本性を恢復できる。若し行者は自分の禅定が十分ではないなら、《心経》の境界を延べない。若し、ぶつかりを停止すれば、因縁がない。因縁を起こす時もし因縁を知っていれば、善と悪を判断することができ、業を造るのを避けられるが、怖ろしいのは、因縁を知らず、因縁と絶えずぶつかり、継続してできる力量は非常に大きくなることだ。

ガムポパ大師は,「寂静涅槃の根因を得ることができるのは、串習人無我,以及證悟法無我之一分—所執境無自性」と開示している。ここで言う「人無我、法無我」は、あなたが、私は仏法を学んでいる、私は念仏している、私は修行していると「私」を出発点にしていれば、これは人無我ではないのだ。不断に人無我を修行して、ぶつかる機会を製造しないことであり、自分の一切を他人に差し出して、自分には何も持たないということを指すのではない。しかし、密法の修行者は確かに自分の一切を使って衆生を利益し、まったく自身を考慮しない。あなた方はまだ仏法を理解する前に、自分の存在に執着するが、もし人と我との分け隔てをするなら、涅槃の境地に入ることは不可能だ。衆生は皆仏性があり、人と我も同じなのだ。

衆生は皆仏性があり、本性はすべて清浄であり、ただ輪廻の中で異なる業力があるが、最初はどの衆生も輪廻に堕ちる因は皆同じであり、すべて一念無明を産生する。一念無明は、衆生が心に受ける六識の影響で執着が生まれ、貪、嗔等々の煩悩が業を造り、輪廻の中に堕ちるのだ。六道中で、どの道の衆生であれ、生まれる瞬間に、一種の力量の牽引で愛取の執着を産生して輪廻の中に堕ちるのだ。実はすべての胎生動物の胚胎は形成されたばかりの時の様子はすべて同じで、一つの精子と卵子の結合であり、胚胎最初はみな同じなのだ。しかしそれからの基因が異なることから、異なる形体が育つ。最後には猫や犬、あるいは人になり、累世の業によって決まるのだが、最初は見分けられない。

一人の医者の弟子が、リンチェンドルジェ・リンポチェのおっしゃる通りで、胚胎の最初は最後に何になるかは見分けられませんと報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、科学者は現在に至るまで遺伝子がなぜ生まれるのかを解明できないでいるが、御仏は無始以来と言われ、開始がないとは言っていないで、御仏もどんな縁によって最初の衆生が産生したか、知らず、なぜ衆生が出現したのか? 御仏の智慧でも宇宙で初めに衆生がどのように産生したかは分からない。衆生の起きた縁はすべて同じで、すべて一念無明、因果を信じない、執着、罣礙を持ち、まず量を生産、続いて質を生み、後に相(すがた)が出るからだ。あなた方が考える我は、因縁から生まれた業報身であるが、衆生はみな一念無明から生まれたもので、本体はすべて同じであり、彼我の分け隔てはない。リンチェンドルジェ・リンポチェにとっては、仏法を学ぶことに精進して、「人無我、法無我」を悟れば、二度とぶつかることはなく、彼我の本体はすべて同じになれるのだ。

あなたが「私は仏法を聴いている」と思うなら、人無我を修めたことにはならないのだ、一切の神経を切断した後に、あなたはまだ仏法が聴こえるのか?何が我なのか?私達は異なる業力によってこの世間へやって来て、名前も身元証明書番号も取り去った後に、私は誰か?皆の身体の細胞は、受胎してから絶えず分裂し続け、7年ごとに循環して新しい細胞になるが、いったい古い細胞があなたなのか?新しい細胞があなたなのか?記憶喪失症の人に、あなたの名前は?どこに住んでいるの?と聞いても、「知りません」と答えるであろう。 

なぜ、菩薩は衆生を助けられるのか?それは菩薩は無人我の分けへだてはなく、同体大悲だから衆生の苦しみが理解でき、助けることができるのだ。我相をどのようにして破るか?人無我と法無我を修めることだ。私達は業報身を利用して仏法を学ぶだけであるが、しかし実は本当の我というものは無い。リンチェンドルジェ・リンポチェが人無我を開示したから、帰ってから人を勝手に打って、どうせ本当の我はないのだなどと言ってはならない。勉強している子供も今日の開示を言い訳にして、人無我だから、試験の勉強をする必要は無いなどと言ってはならない。仏法を学ぶ者は、仏法を用いて生々世々に累積する責任を逃避できない。

亡者に助念を手伝うときに、多く念仏したけれど、念仏しながらどうして瑞相が現れないのかと考える人がいるが、これは人無我になっていないからだ。あなたに彼我の別がなくなれば、四相を破ることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修める時、彼我の別はなく、自分はつまり亡者であり、亡者の感覚はリンチェンドルジェ・リンポチェの感覚である、これが同体大悲である。往生した後は誰かがその人を手伝うことは、切羽詰っている。皆に注意を促すが、私達は同体であるから、お母さんも私と同体であり、お母さんは結婚しているから、私も結婚していることになり、だから私は結婚しないなどと言ってはならない。このような言い訳で、父母があなたにやってもらいたいことを受け入れないのは駄目だ。

《金剛経》に無衆生相、無人相、無我相と無寿者相が書かれている。ここでの寿は寿命を指すのではない、多くの人が長寿短命にかかわらず皆修行しなければならないと誤解しているが、あなた方もこのような説法を聴いたことがあるだろう。ここでの寿とは、時間、距離であり、以前経文を翻訳した修行者が用いた字はとても簡単である。時間の長短は心の感覚で、心が動けば時間があり、座禅の人は経験があるだろうが、あなたの心が乱れ勝ちな時には、3分間でも非常に長く感じられる。比較的に心が清浄なときには1時間でも3分間ほどに感じられる。心が不動であれば、時間は存在しない。この前、リンチェンドルジェ・リンポチェが亡者にポワ法を修める助けをした時に、完全文を念じなければならず、初めから最後まで念じて修めることができるのだが、今リンチェンドルジェ・リンポチェの心が動きさえすれば、修めることができ、衆生を得度できる、これは《金剛経》に説かれている無寿者相である。《金剛経》がなぜ経王と称せられるのか、つまり心を言っているからである。

「法無我」は自分が仏法を修行していると思わないことで、実は私が法を修行しているのではなく、法を修行したらそれを片方へ置く、つまり法も空性だから、因縁は生まれ、因縁が滅し、最後には清性な本性が恢復するまでになるともう法は無くなる。衆生には業力があるので、法で清浄にする必要があり、上師が与えた法門は私達各自の問題の指針であり、私達の煩悩を治める助けになり、仏果を証できたら、法は必要なくなるのだ。

私達はまだ六道を輪廻しているので、解脱の方法を学ぶのである。法は方便のための一つの道具に過ぎず、私達が達成した後には、この道具さえも捨て去っていいのだ。御仏が嘗て言われたように、法さえも皆捨て去るである。教派のもう一人のリンポチェの所へ行って法を学んだあの出家衆は法を執着し、法無我を成しえなかった。あなた方の現在の段階では、持咒、礼仏等々はやはり必要であるが、これらは只助縁だけであり、最後には捨てるものであり、自分は法を学ぶ必要が無いと思ってはならない。あなた方は今まだ法の助けが必要なのだ。

衆生はやはり相に執着しているので、人無我を成すことはできなく、始めたばかりの時に、何も考えるなといっても、適応できなくて、自分はなぜそうしなければならないのか分からないので、修法の時に自分の名前を言わせ、良い点を知らせて、専心できるようにするのだ。法の中には固体の存在は無く、自性(本性)もなく、すべて因縁で産生し、因縁で滅する。法は世間一切が有為であり、見るものはすべて因縁が造るものであるから、宇宙間の種々の現象も為法と称し、固定不変ではない。無我も因縁で消滅し、自性(本性)ではない。空性というのは一切の産生はすべて因縁法で、空ではなく、大手印は最後の段階の無修瑜伽であり、空性の境地である。唯一自性にあるのは私達の仏性で、《心経》に説かれる不生不滅である。修行者は法無我と人無我を修めれば、衆生と一体になれるのだ。

2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェがネパールのラプチ雪山で閉関した時、ある日法界へ入った時、衆生の六道輪廻の苦しみをこの目で見て体得した。感覚ではなく、また肉眼、天眼ではなく、この身で悟ったのであり、経文の中の説法では法眼、仏眼、智慧眼を通してである。リンチェンドルジェ・リンポチェは出関後に、尊勝なる直貢チェツァン法王にこの事を報告したら、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェがすでに空性を証したことを確認なさった。六道輪廻の苦しみは非常に苦しく、ミラレパ尊者は見なくても、衆生が六道輪廻の苦しみを思うだけで泣き出された。衆生が輪廻の中でこんなにも苦しむのを、説明するのは難しくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生が輪廻で苦しむのをこの眼で見た時、午後をずっと泣いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェが泣くというのは、悲しいからではなく、観世音菩薩が流された涙の如くに、切羽詰っているのに、衆生を済度しきれず、衆生は苦しみをまだ知らないからであった。衆生は輪廻の中で非常に苦しいのであるが、みんな知らないで、自分は良き日々が送れると思っている。上師の身で、空性を証できなかったら、因縁を知ることができなくて、それでは衆生を済度することはできない。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したのは只顕教面からの理論であるが、あなた方はすでによく分からなくなっている。これ以上話しても、あなた方の負担が重くなるだけだから、今日の開示はここまでとする。

法会は円満し、法会の大衆は起立して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りられると、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが辛労も厭わず伝法してくださり、法会の大衆に尊い仏法を開示してくださり、数知れぬ衆生に法益を賜ったことを一斉に感謝した。


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2020 年 06 月 14 日 更新