尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年6月30日

法会が始まる前に、かつて弟子であった女性信者が、自分と家族を救ってくれた尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べ、事の経過を分かち合った。そして、彼女は、諸々の親不孝、わがままで自己中心的な悪行を発露、懺悔した。

彼女は元来、皈依弟子であった。今年(2013)1月12日、当時既に皈依していた息子と一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。彼女の息子が友人と一緒に事業を興すことになったので、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いを立てるためだった。リンチェンドルジェ・リンポチェは「皈依してどの位になるのか?」と尋ねられた。息子は「数ヶ月」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは更に息子に尋ねられた。「事業を始めるための資金を自分ではいくら持っているのか?」息子は「先に母から借りた」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の息子を大声で咎めた。私に、事業を興してもよいかどうかを聞くのか?この様な事をまだ聞きに来るのか?毎週の法会の説法を全く聞き入れていないではないか。」リンチェンドルジェ・リンポチェは振り返り「母である者がお金を子供に使わせている」と彼女を叱った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にもベストを脱ぐよう告げ、続いて彼女の息子に第何組かを聞いた。息子が報告すると、リンチェンドルジェ・リンポチェは、すぐにベストを脱ぐようにと言われた。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの叱責に感謝した。彼女は間違っていた。自分と息子は非常に大きな間違いをしたと懺悔した。仏菩薩を利用しようとしたのだ。自分のように自分勝手で愚か、下劣な弟子は師の恩に報えないばかりか、上師に気遣いをさせ、煩わし続けることを彼女は懺悔した。兄弟子達は彼女の息子に「上師に対する信心を持ち、階下でしっかりと懺悔し、絶対に諦めてはならない、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず知っているから」と励まし続けた。彼女は、彼女親子を捨てなかったリンチェンドルジェ・リンポチェに心から感謝した。

次の日、法会が始まると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大声で叱った。彼女に「皈依してどのくらい経つのか」と聞かれた。彼女は「2011年7月10日に皈依した」と答えた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「息子の友人まで連れて来た。自分で来たならまだよい。息子の友人がどんな人なのかを知っているのか?」と聞かれた。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは「今日、もし息子が事業を興すのを承知して、損をしたなら彼に損害を与えることになる。あなたの心は、どうしてこんなにもあくどいのか。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。「彼女は片親だ。息子の意見に随わなければ息子が怒ることを心配している。自分で息子を教えられず、息子を失うことをもっと恐がっていて、悪人になりたくない。そこで、リンチェンドルジェ・リンポチェを悪人にしようとした。それなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは悪人になろう。こんなにも悪い。ベストを脱いで信者になればよい。法会の間中、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も彼女を叱り付けた。彼女は慙愧の涙を流した。彼女は、自分が上師に申し訳ない事をしたのを理解した。彼女は過ちを犯した。本当に間違った。

彼女は過ちを犯したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、この言う事を聞かない弟子を見捨てることはせず、彼女を助けた。土曜日、彼女は慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、彼女の命を救ってくださったリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。最初、リンチェンドルジェ・リンポチェは否定されたが、彼女が感謝の気持ちを貫いたので、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にこう聞かれた。「人と車はどうなのか?」彼女は「彼女と相手にはまだ車があり、問題はない」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「あなたは一銭のお金も使わなくていい」と説かれた。彼女は心から尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

慈悲深い上師は、彼女が失踪して1年余りになる一番上の息子を気に掛けていて、それと同時に、二番目の息子の意見に従わなければ、彼も失うことになるのを心配している事を知っていた。上師は慈悲深く彼女を叱り、また黙々と彼女を助けられた。3月中旬、一番上の息子が意外なことに電話を掛けてきて家に戻ると言った。母親である彼女は、見知らぬ浮浪者のような息子を見て、心が痛み、耐え切れなくなった。彼女は毎日、上師の御写真に礼拝をし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持に感謝した。息子は家に戻り一月後、仕事が見つかった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの大きな慈悲、智慧、加持力に感謝した。常に黙々と、衆生のために彼女のために取り計らい、力を尽くして下さり、非常に短い時間内に彼女の仏法を学ぶ際の障碍を取り除いて下さり、仏法を学ぶ因縁を迅速に累積させて下さった。彼女は感謝し尽くすことができない。

彼女は当時、既に弟子ではなくなっていたが、今年5月に日本の京都道場で行なわれる火供法会への参加を許して頂いたリンチェンドルジェ・リンポチェに更に感謝を述べた。彼女は自分が言う事を聞かずに上師に苦労をかけた事を慙愧し、苦しみ、悩んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは御身体の疲れを全く気に掛けず、慈悲深く衆生のために修法され、彼女は仏菩薩のようなリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲心を深く感じ取った。また、身をもって教えられるリンチェンドルジェ・リンポチェのお蔭で、彼女は自分の身口意を改め、慈悲心を養わなくてはならないことを知り、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えのお蔭で、懺悔する機会が持てたことを感謝した。

過去に彼女は自分の家の人だけを心に留めていた。見栄を張り、負けず嫌いで、傲慢な態度で人をこき使った。また、不動産業で働いて自分の身口意を放縦させ続けていたが、稼いだお金は供養したので、自分には過ちはないと思っていた。ずっと自己中心的な態度で日々を過ごし、僅かにあった少しの福徳が使い切ったことを察することができなかった。ベストを返却させられて初めて、自分の間違いを知った。しかも、常軌を逸する過ちだった。彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えのお蔭で、過ちを知り懺悔する機会を持つことができたことを感謝した。そして、彼女は、一切の果報を受け入れ、深く因果を信じ、累世に犯した過ちを引き受けることを願い、今世で全ての債務を返し、生死から解脱をし、輪廻を断つことを望んだ。

続いて、彼女は姑に申し訳ないことをしたと懺悔した。姑は大腸癌で入院していたが、彼女は細かな気配りをもって世話をしなかった。小学校を卒業して中学に上がる時、両親は彼女の入学を許可しなかった。彼女は恨みの気持ちを起こしたことを懺悔した。また、幼い頃、川で魚やエビを釣り、カエルや昆虫を捕まえたりしたことを懺悔した。そして、過去に、無数の衆生の肉、魚、エビ、貝類を食べたことを懺悔した。それと同時に、彼女に懺悔の機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べた。列席の兄弟子の皆がこれを戒律として彼女と同じ過ちを犯さずに、上師の話をよく聞いて実行し、弟子達のことで上師を心配させ、苦労をかけないようにと願った。

最後に、彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御身体のご健康と長寿、仏法事業の繁栄を願い、長らくこの世に住まわれて一切の有情衆生を利益されることを祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上られて、殊勝な直貢噶舉派の施身法を修法され、列席者に貴重な法話をされた。

今日皆のために修法する施身法は、チベット密教八大成就法の一つである。成就法とは、一生一心にこの法を修すると成就する。いわゆる成就とは神通力やある能力を持つことではなく、必ず今世で生死から解脱することを指す。ある者は生死からの解脱はそれほど重要ではない、衆生を済度することが重要だと考える。お経には、釈迦牟尼仏が地球で49年間弘法したことが説かれる。一つの大きな事が目的だった。即ち、生死からの解脱法を衆生に教え導くことだった。

仏法を学んだからには、仏法を信じ、輪廻の過失を信じ、六道の輪廻の苦しみを信じなければならない。皆は生死からの解脱と自分は関係がないと思っているかもしれない。今世が重要であり、今世をうまく過ごすことが重要であり、来世は重要ではないと思っているかもしれない。別の事をしなければならないので、以後時間ができた時に仏法を学びたいと言う者もいる。これは、彼がただ今世だけを見ていて、来世を理解していないからだ。現在は医療が発達しているが、これらは本当に病人に役立っているのか?多くの者の家族が他界した。皆、医療は彼らに役立ったと思っている。手術し、挿管をし、最後の一秒まで救急治療をする。この様にして彼らの命を救ったと思っている。昔、老人が臨終する時、どこにいたのか?皆、家で静かに他界した。挿管することもなく、寿命は残すところ僅かであることが分かると、場所を探してあげて彼を落ち着かせた。現在、インドには、まだこの様な精神を保つ宗教がある。もし寿命が残り少なく、まもなく他界する人がいたら、自然に他界できるようにと彼のために場所を考えてあげる。現在では、両親が病気をすると、病院に送り手術をして救急治療を行なうことが彼らのために良いと思う者が増えてきた。医師に全責任をとらせようとし、医師が病人を治療できなかったら家族は怒る。これらの医療を行なわなかったら、法を犯した、親不孝と思われることもある。

一人の寿命は加えることも、減らすこともできる。過去世の善業と悪業による。来世にどの道に往くかは、他界者の臨終前の諸々の苦しみから見て取ることできる。あなた達の家族が他界する前の状況をちょっと回想してごらん。他界する時に苦しみ、昏睡し、意識がはっきりしないなら、来世は恐らく畜生道に堕ちるであろう。もし臨終前に家族が争い、他界者が諦め切れず、執着を解くことができなかったら、恐らく餓鬼道に堕ちるであろう。餓鬼道の衆生は全く食べることができない。何を食べても食べられない。お経には、恐らく人は餓死することもあると説かれる。あなた達は餓死とは、食べる物がないと思うだろう。実際のところ、病人が点滴だけ、或いはチューブで食事を取ることは物を食べるのとは異なる。点滴すれば栄養があると思ってはならない。点滴だけで生きていけるのなら、皆は食べる必要がない。人は必ず口から物を食べなければならない。食べ物はやはり口によって咀嚼された後に、胃の中に入る。これが人体全体を動かすシステムだ。

多くのガン患者は後期になって気管切開をする。あなた達は、これは必要だ、病人に役立つと思っているが、実際のところ、これは、医療人員が世話をする便宜を図るためのものだ。もし気管切開をしたら、痰を取る時に家族に血を見せずに済むし、痰を取りやすい。家族が文句を言うこともない。だが、気管切開をした後、患者は食事ができなくなり、念仏を唱えられなくなる。今世で生死から解脱することはできない。ガン患者の95%は、最後に物が食べられなくなる。それから、臨終の時にお腹が肥大し、首が細くなり、頭髪も乱れる。これは餓鬼相の現われだ。恐らく餓鬼道に堕ちるだろう。彼がどんなにおしゃれしても、頭髪はやはり乱れた様子になる。これは恐らく餓鬼道に堕ちる兆候だ。他界前にまだ怒って人を罵っている、或いは執着が強い、誰かが帰ってくるのを待っているというのは、恐らく地獄道に堕ちる。他界前に失禁し、或いは他界前の5年間に手術を続けている者は恐らく地獄道に堕ちる。だから、家族が他界する前にこの様な状況が見られたら、家族に代わって福徳を累積する努力をし、並びに、仏菩薩或いは大修行者による助けを祈らなければならない。死んでから求めるのではない。他界する前に前述のような状況が現れたら、仏菩薩や大修行者の加持をすぐに求め、彼らが三悪道に堕ちないよう助けなければならない。死んだ後に人を呼んで助念(亡くなった後に唱える念仏)すれば済度してもらえるのではない。お経には、他界者が生前に修行していないのに死後に人に助念してもらって済度され得るとは説かれていない。済度はそんなに簡単な事ではない。人に念仏を唱えてもらえば済度され得るものでもない。《阿弥陀経》には「福徳因縁の少ない善男子、善女人が往生を発願しても不可能だ」と説かれる。これが浄土へ往く条件である。お経に説かれていないことは絶対にあり得ない。多くの人が時間を浪費して蓮の花を折っている。紙の上には真言が印刷され、他界者の上に往生布を掛ける。こうすれば他界者は西方浄土に往けると思っている。お経に説かれていないことは、必ず間違いだ。こんなに簡単に浄土に済度できるのなら、皆はそんなに苦労して修行する必要もない。リンチェンドルジェ・リンポチェもこんなに苦労して修行する必要はない。閉関にも行く必要はない。

釈迦牟尼仏の母親は、往生後もただ天道に行っただけで、阿弥陀仏の浄土には至らなかった。《地蔵経》に、釈迦牟尼仏が忉利天へ赴き母親のために説法されたことが説かれている。釈迦牟尼仏の母親の福徳は大きかった。前世で十分に修行したからだった。よって、この世で仏となった息子を生んだ。だが、往生後は直接天道へ行き、息が途絶えたらすぐに阿弥陀仏の所へ行ったのではなかった。なぜ浄土へ行けなかったのか?それは、仏の母親は生前に修さなかったからだ!仏の母親であってもやはり、ただ天道へ行っただけだった。だから、浄土への往生はそんなに簡単な事ではない。

皆は「梁皇宝懺」を聞いたことがあるだろう。梁武帝は仏法のために非常に多くの事をした。中国の出家者が必ず菜食しなければならないのは、梁武帝から始まった。彼は多くのお寺を建立した。多くの論も書いた。仏法のために非常に多くの事を行った。だが、梁武帝が達磨大師に「自分には功徳があるか」と聞いた時、達磨大師は「梁武帝にはただ福徳があるだけで功徳はない」と言った。これは、梁武帝が傲慢で、自分は沢山の事をしたと思っていたからだ。だから、ただ福徳だけしかなかった。福徳はこの世の業を転じることはできない。功徳だけが業を転じられる。福徳と功徳の差異については、解釈するのに時間がかかるので、今日は説明しないことにする。梁武帝の寵愛した妃は、生前、怒りと恨みの心が非常に重かったので、死後、畜生道に堕ち、一匹の大蛇となった。彼女は夢に現れて梁武帝に助けを求めた。そこで、梁武帝は宝誌公にお願いして彼女のために「梁皇宝懺」を作ってもらった。宝誌公は、千手千眼観世音菩薩の化身であった。清らかな戒律を守り、修行している出家者と共に千仏を礼拝して、最後にやっと妃を天界に至らせることができた。当時《阿弥陀経》はすでに中国に伝わっていたが、浄土には行けなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは口がすっぱくなる程、何度も話したことがある。あなた達は、この言葉をよく聞き入れなさい。福徳は業を転じられない。ただ次の世にまで残るだけだ。功徳を修してこそ業を転じられ、生死を離れることができる。この二つの例は皆に、いい加減に人を探して来て唱えてもらっても他界者を済度できないことを教えている。仏法はお経の一文字を離れたら仏法でなくなる。皆は道端で聞きかじったことを他人に話すようなことはしなくてもよい。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた達がもし法会に参加するなら、必ず一生菜食しなければならないと、厳しく規定するのか?もし、まだ肉食しているなら、殺すという考えが永遠に消えることはない。菜食は、慈悲を培い、悪念を断ち切る。まだ肉食しているだけで、やはり悪行しており、慈悲を持つことはできない。当然ながら、仏法を学ぶことはできず、浄土にも往生できない。《阿弥陀仏経》には、浄土に往生する者は必ず十善法を修する人だと説かれる。十善法の一つ目は、不殺生だ。肉食する人は必ず殺生する機会がある。まだ肉食をしているだけで、殺すという考えがある。ある日必ず殺すという動作を行なう。軽い物では、昆虫やアリを殺す。少し重い物では動物を殺す。殺人さえもする!お経には、相手の八両を食べたら、将来は彼に半斤返さなければならないと説かれる。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親はすでに89歲になる。何度も転んだことがあるが、幸い骨が折れたことはない。これも返しているのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親にはやはり殺生業があり、非常に軽い物だったが、身体にはやはり病気があった。仏は私達を脅迫することはない。我々のした一切が未来に影響を及ぼすことを告げただけだ。

世間には仏法に対する多くの曲解がある。今日は1490人が法会に参加した。同時にこんなにも多くの人が法会に参加できるのは、密法の法会とは言わずとも、顕教の法会でさえも容易ではない。今日、あなた達は施身法の法会に参加することができた。累世で密法に接触したことがないなら、今日ここにいることはないはずだ。あなた達は、チベットから来て、鈴を鳴らして鼓を叩くのが密法の修行者だと思わないように。リンポチェだからといっても、修行の果位は異なる。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて説かれた。現在流行している言い方では、A級、B級、C級、D級に分ける。A級のリンポチェは、人数の多さで判断するのではない。ある人はもしかしたら人との縁が沢山あり、不思議な事に突然、多くの人が彼にくっつく。だが、寶吉祥仏法センターの法会はその中の一回に沢山の人が参加するのではなく、毎回の法会に千人余りの人が参加している。

あなた達はここに来たのだから、恭敬心を持たなければならない。ここに来て仏法を学ぶようあなた達を呼んだのではない。ここは既に沢山の人がいる。現在、この道場は既に収容できなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、沢山の人を追い出した。あなた達は会場の千人余りを見て、階下にも沢山がいるのを見た。彼らは皆、法会への参加を許可されていない。100~200人がウェイティングしている。こんなにも多くの人は、一軒の道場を開くのに十分な人数だ。二年余りも待っている者もいる。毎週の法会の時に、階下で待っているが、やはり上には上がらせない。それは、心が間違っていて、まだ改めていないからだ。法会はあなたが来たいからと言って来られるものではない。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに法会への参加を祈り願う。最初に、あなた達は甘い汁を吸うが、二回目には過ちを再び犯し、ずっと改めようとしないので機会を与えない。

皆は、リンチェンドルジェ・リンポチェが対外的な宣伝を行なっていないことを知っている。あなたを呼んだ人の弁舌がよかったので、あなたが参加したのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは前世で皆に借りがあった。だから、菩薩はあなた達に今世でリンチェンドルジェ・リンポチェを探させた。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達に説法をするので、あなた達は聞き入れなければならない。家族の済度のために法会に参加したのだと言うかもしれない。だが、これは単にあなたが法会に参加した縁起である。仏法を学ぶことは非常に長く久しい事だ。この縁起があって継続していけることこそが最も重要だ。

仏法は、命のすべてを尽くして学ばなければならない。あなた達が考えるようなサイドビジネスではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日沢山の事を処理している。あなた達の中の誰よりも忙しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは教派の事、100名の社員、9つの会社、1200人余りの弟子の事、他の多くの事を処理しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法によって生活を送っている。忙しく物事を処理し、縁が起きたら行なう。会議或いはどんな場合であっても、今までノートを取ったり録音は不要だ。話した事ははっきりと覚えている。だから、あなた達は心配しなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達と話す時、録音している。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは話した内容をこんなにもはっきりと記憶し、物事をはっきりと見られるのか?だから、心を集中させて、物事をはっきりと覚えることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェの身体の調子が良いからではない。リンチェンドルジェ・リンポチェには分別心がないからだ。心は清らかで、専念しているので、どんな事をしても相手の立場に立って考えることができる。自我の存在を考えない。だから、物事を特にはっきりと見ることができる。あなた達は自分の事だけを考えているので、自然に物事を軽率に行ない、はっきりと見ることができない。

他人の利益を考え、善行することは全て、人としての道理であるだけだ。人道を成就してこそ成仏道を成就できる。人道が完全であってこそ仏法を学ぶことができる。《阿弥陀仏経》には、浄土へ往生する者は諸々の偉大な善人であることが説かれている。菜食しても成し遂げられない。十善法の一つ目を修さないなら、その他のことは言うまでもない。皆が今世で人身を得られたのは累世で十善法を修していたからだ。仏法を聞けるだけでも簡単な事ではない。密法を修する上師に出逢えることは更に難かしい。お経には我々は上師に祈り求めなければならないとは説かれていない。仏がいた時代に、弟子に言った事がある、仏が即ち上師だ。仏はその弟子に対して直接仏法を説いた。しかし、我々は仏から直接教えを受ける福徳がない。だから、仏はその他の菩薩を呼んできて我々を済度する。歴代の上師は仏を代表して仏法を弘めている。よって、仏法を学ぶ際には必ず上師を恭敬し依止し、上師に完全に降参しなければならない。

仏法を学ぶ時には仏の説かれた事に基づいて行なわなくてはならない。自分は大人だから、字が読めるからと、自分でお経を読んだり家で修行できると思ってはならない。仏法を学ぶには、必ず上師に皈依する必要がある。上師は経験のある修行者だからだ。弟子の根器に応じて適当な修行法門を伝授する。お経には、仏が天界や龍宮等あちらこちらに行って説かれたことが書かれている。衆生には異なる因縁があるため、仏は異なる衆生の要望に応じて異なる教えを授ける。釈迦牟尼仏の母親は仏が出生した後にすぐ逝去したので、釈迦牟尼仏は母方の叔母によって育てられた。この様であっても、釈迦牟尼仏の叔母は、跪いて生死から解脱させて欲しいと仏に願った。しかも、大きな懺悔心で求めたので、仏は彼女に浄土十六観を伝えた。あなた達が跪いて何度も要求するのとは異なる。浄土十六観は伝承がない。皆は、第一観は太陽を観じ、それから月を観じる等、この十六観の名称であることを知っているだけだ。だが、どうやって観じるかは分からない。これは密法であるが、仏が在世の時には弟子に口伝されなかった。壇城を設え、チベット語が話せるなら密法だと思ってはならない。菩提心を発こした修行者が広大な衆生を利益するためにこそ、密法は修せられる。

施身法を修法する前に、施身法についてのある事を予め皆に話しておこう。施身法は、業障及び悪業の重い衆生に特に役立つ。修行者がこの法を修する時、身体には自分を保護する聖なる物を何も身に付けてはならない。一般の法会では修法する前に必ず保護する儀軌を執り行う。顕教では結界と言う。密教では魔除けと言う。これによって、衆生が修法を行なう際の障碍を取り除く。しかし、施身法を修法する時は、いかなる保護も設けてはならない。完全に開き、防備を設えない。よって、施身法を修法する修行者は、大手印(中の離戯腧伽の境地を証する必要がある。離戯は何も構わないのではなく、世間の諸々の事に対して分別心がなく、執着せず、気掛かりに思うことなく、すでに空性の慈悲を証している。

修行者が施身法を修法する時、自分を仏菩薩に供養し、衆生に布施すると観想する。すると、衆生がどっと押し寄せて来て、リンチェンドルジェ・リンポチェの血、肉、骨はすっかりきれいに食べられてしまう。六道衆生は食べる習性を持っている。修行者は自分の身体を布施して衆生を満足させ、衆生は食べた後に甘露に変化し、彼らの清らかな本性が露出される。心が清らかになって初めて、仏法を聞き入れることができ、阿弥陀仏の助けを受け入れることができる。修法し済度する修行者は、必ず衆生の煩悩を止めなければならない。衆生は懺悔心を起こしてこそ、仏法を受け入れ、済度され得る。仏はとても慈悲深い。《地蔵経》にはこう説かれている。もし家族が他界したなら、徳を具えた修行者に他界者のための広大な仏事を行なってもらわなくてはならない。家族が他界者の耳元で《地蔵経》を唱え、彼のために善知識の済度を願うことを他界者に告げる。彼のために最も愛する物を布施、供養したり、上師の名号を唱える。これらは全て他界者のためになる。だが、他界者の済度を助け、徳を具えた善知識に願うには、家族も他界者のために福徳、因縁を積まなければならない。

昨日、皈依したばかりの弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェのところに来て、両親に代わって供養したいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「両親に知らせたかどうか」と尋ねられた。彼女は「知らせていない」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の供養を受け取らず、その場で追い出した。あなた達は「両親の代わりに供養するのはダメなのか?」と聞くかもしれない。実際には、後ろにいる多くの弟子達が両親の代わりに供養しており、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取ったことがある。なぜ彼女のを受け取らなかったのか?これは仏法を拠り所としている。

彼女が両親に知られるのを心配していたなら、真心での供養ではない。上師に対しても信心がないことになる。それなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ受け取らなければならないのか?誠実さがなければ供養はしていない。供養をしていないなら、福徳は生じないので、続けて仏法を学ぶことはできない。あなた達は、両親が供養の意味を理解できないのが心配、彼らが仏を誹謗するのが心配だと言うかもしれない。両親があなたを認めず、仏法を学びに来ないのは、あなたの行為が全く仏弟子のようではないからだ。あなたが仏法を受け入れず、下劣な行為をしているので、両親は仏法を学ぶことに長所が見つけられないのだ。彼らがどうしてあなたについて、仏法を学びに来るだろうか?

この弟子は供養することさえも両親に知られるのを心配している。両親が口業を作るのが恐いと言っている。それは、自分が怠惰だからだ。だから、常日頃、両親の前で上師や仏菩薩の功徳を褒め称えることもなく、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養しさえすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の両親を助けてくれると思っている。彼女の両親が健康になれば、彼女には負担がなくなる。両親の世話をし、親孝行しなくてもよい。多くの人は病気の両親の面倒をみるのは大変だと思っている。両親を病院に送り、医者に引き渡せばよいと思っている。両親を仏菩薩に引き渡し、仏菩薩に両親の病気が治るようにと願う者もいる。こうすれば、彼は煩うことはない。少しも親孝行ではない!自分が幼い頃、病気に罹った時のことをどうして考えないのか?両親はあなた達を直接病院に置いて、医者に引き渡して終わったのか?そうでないなら、あなた達はなぜこの様に、両親のことを片付けるのか?あなた達が幼い頃、両親はあなた達を仏菩薩に渡して顧みないことがあったのか?

現在、自分の両親の世話に心を尽くさない人が非常に多い。昨日、ある信者がリンチェンドルジェ・リンポチェの所に来て、自分はとても苦しいと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「何があったのか?」と尋ねた。彼は「両親の身体の状況がよくない」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に説法したが、その後も彼は続けて「自分はとても苦しい…一家離散したから」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて説かれた。「あなたは正しい場所に来た。リンチェンドルジェ・リンポチェも家族がバラバラになるのを体験した。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは苦しいと思わなかった。なぜあなたは苦しみを感じるのか?」その信者は、それを聞いた後にやっと胸の支えが取れ、顔全体が明るくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家だ。沢山の人生の苦しみを体験しているので、出家者とは異なる。人間世界の様々な苦しみを深く理解している。よって、衆生に適時な助けと説法を適切に与えることができる。

多くの人が仏菩薩を心理科の医師としている。あなた達にどの様な因縁があるかによって、いずれかの上師に出逢う。リンチェンドルジェ・リンポチェは当初、直貢チェツァン法王に皈依したのも縁だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは求めなかった。直貢チェツァン法王自らがリンチェンドルジェ・リンポチェを捕まえたのだ。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは逃げられなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を例に挙げて皆を励ます。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家の身分でリンポチェの果位まで修することができた。皆もできる。それは、人にはそれぞれ同じ仏性があるからだ。だが、自分は成仏したいと思わない、生死から解脱したいと思わないと言う者もいる。全てのお経には、仏陀は衆生が成仏の果を得るのを望んでいると説かれる。我々は仏法を学び、仏弟子の身として、仏陀の願いを叶えるべきだ。

皆は法会に参加するために来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩を代表して皆を助ける。皆は三宝と上師を恭敬し、懐疑心を持ってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学び始めてから、仏法は、衆生を利益し、自分と他人を生死から解脱させる方法だということを知った。仏法を今だ嘗て疑ったことはない。自分がある境地に至れないのはお経に説かれる条件に符合していないからだということを理解した。それは仏法の問題ではない。三宝に対しては必ず恭敬心を持たなければならない。他の宗教は恭敬心をもって彼らの主を尊重する。だが、皆は仏法に対して必ずしもこの様ではなく、仏法をどう尊重したらよいのかが分からない。これも仏法が滅亡する兆候だ。いわゆる「心誠則霊(心が誠実であれば力が発揮されるの意)」は誠意が非常に重要だ。あなたの心のあり様によって自分が仏法の助けを得られるかどうかが決定する。

リンチェンドルジェ・リンポチェの能力なら、お経に説かれたことに遵わず、一般の方式で仏法を弘め、弟子に頼んで唱えてもらい、仕事は弟子に何でもやらせたとしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは楽になるだろう。しかも、下に座っている人は更に多くなる。リンチェンドルジェ・リンポチェは古代の弘法方式で仏法を教え、あなた達の問題を指摘し、あなた達が間違いを繰り返さないようにする。特に、密法を修する上師は、全ての事を必ず自分で行なわなければならない。代わりの人を呼んできてお線香をあげてもらえばいいのではない。だから、とても苦労が多い。密教の上師は死に至ってもやはり衆生を考えている。いつ何時も、衆生が生死輪廻から解脱できるように衆生を加持して頂けるようにと仏菩薩に祈る。リンチェンドルジェ・リンポチェは、こんなに人数が多いので、遅かれ早かれ居住者に文句を言われるのではないかとずっと心配している。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは現在、1000坪の道場を購入するお金はない。人はまもなく一杯になる。皆には我慢してもらいたい。

仏法を学ぶには衆生を常に念わなければならない。出家者の弟子は知っている。お経にも説かれている。いつ何時でも仏を念い、天を念い、僧を念い、衆生を念う。「念う」とは口先で唱えることではない。憶念することであり、あなたの考えだ。仏を念う。仏法が仏陀によって弘められたのではなかったら、仏法が継承されることはなかっただろう。天を念う。天界の各種善神、天人の助けがなかったら、多くの事は成就できず、この土地で安心して仏法を学ぶことはできなかっただろう。僧を念う。上師が我々に仏法を教えてくれたので、上師の功徳を強く思わなくてはならない。上師に供養したからといって、何かを求めれば得られると思ってはならない。歴代の上師の教えなしに、我々は仏法を学ぶことはできない。衆生を念う。衆生が我々を大成させてくれなければ、我々は世間で生存していけない。衆生の助けなくして、我々は一日だって生きてはいけない。一切の衆生への感謝を忘れてはならない。彼らがいてこそ人類がある。蜜蜂や蝶が蜜を取らなければ、我々には食べる物がない。ミミズが土を掘らなければ、植物は育たない。これらに対し、我々は感謝しなければならない。

幼い頃、ミミズを捕まえて魚釣りをしたことのある者もいるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この様な事を今までしたことがない。あなた達はこういうかもしれない。自分は農村に住んでいたので仕方ないと。リンチェンドルジェ・リンポチェも農村に住んでいたが、この様な事をしたことがなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェにミミズを取ろうと誘う者もいなかった。土を掘って捕まえるという考えもなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは若い頃、ホテルのキッチンで見習いをしていたが、累世で殺すという習気がなかったため、キッチンで見習いをしていても、包丁を持って一塊の肉を切ることもなかった。自然に殺生しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェにそうさせる者もいなかった。

あなたが今世で殺生業に従事しているなら、これもあなたの過去世がもたらした業力と習気による。過去世に悪縁があるなら、今世でこの様な事をする。これは、あなたの過去世で同じ事をしていたことを表す。だから、今世で再び行なうのだ。すぐに、自分の今世でなした事を、過去の生生世世でなした悪業を懺悔しなければならない。懺悔は謝罪ではない。「懺」とは、自分のなした全ての善行と悪行の果報を受け入れ、避けず、隠れないことを意味する。「悔」は、以後二度とせず、自分のなした一切の結果を喜んで受け入れることを意味する。受け入れ、心から懺悔してこそ、運命を変えることができる。仏は衆生が仏の境地に至ることを望まれ、説かれたお話は全て衆生を利益するものである。人生は数十年と非常に短い。みんなは仏法と生活を一つに溶け込まさなければならない。皆には剃髪して出家することを要求しないが、輪廻の家からは出離しなければならない。

施身法を学ぶ修行者は、顕教の基礎を10年学ぶ必要がある。顕教とは仏法の経、律、論を全て理解することを指す。続いて、不共の四加行を修する。10万回の大礼拝、10万回の百字明咒、10万回のハタ供養、10万回の上師供養法を修する。約2~3年の時間を必要とする。もし戒律に背くことがなければ、上師は弟子の機根に応じて灌頂を授け、本尊を伝授し、並びに閉関を通して、この本尊を修して相応を得る。菩薩の一切の慈悲を学び、菩薩の願力と相応することができたなら、その後、その他の衆生を利益する法門を学ぶことができる。言い換えれば、本尊の願力と加持があり、同時に空性の慈悲と噶舉派の禅定法門である大手印中の離戯瑜伽の段階を修してこそ、施身法を学ぶことができる。施身法は自分が修するのを助け、衆生が修する法門を助けることができ、業の重い人、重病を患っている人を助ける。

施身法の中で使用されるのは人の大腿骨の法器であり、密教が骨を法器にすることを批判する者もいる。密教はいつも骨を使っていると勘違いされたからだ。実際には、特別な法だけに骨で作られた法器は使われる。施身法で使用される大腿骨の法器は、一つの大腿骨をいい加減に探し出して法器としたものではない。必ず規定に符合する対象、形状でこそ使用することができる。骨を使用することによって皆に「人生の無常」を警告する。人はこの世を去る最後には何もない。ただ骨だけが残される。もし火葬なら、骨さえもなくなる。ただ一山の灰が残るだけだ。あなた達は生前に争って手に入れた物は死ぬ時には何の役にもたたない。それらは、あなた達を生死から解脱させられない。あなた達は、この一生で、ただ恨みを晴らし恨み言を言っただけだ!施身法を修する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは大腿骨の法器を吹く。地獄の衆生は、大腿骨の法器の発する音を聞いた時、仏菩薩の呼び声のように感じるので、仏法の助けを受けるためにやって来る。

施身法の修法を始める前、リンチェンドルジェ・リンポチェはある事を片付けなければならなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはある学校で教授をしている弟子に聞いた。「もし学生が一人の教授について学んでいる時、自ら途中で別の教授のところに行ってその教授について学んでもよいか?」この弟子は「できない」と答えた。「このようにすれば、先の教授を尊重していないことになるからだ」。続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは別の校長をしている弟子に聞いた。「学校は既にクラス編成を済ませ、先生とカリキュラムの段取りを終えている時、もしある学生が、数ヶ月の授業の後に他のクラスに行きたいと言ったら、許されるか?」この弟子は「できない」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて質問された。「なぜできないのか?学校の先生が、学生を教える方法はそれぞれ異なるのではないか?」弟子は「これは学校の規定であり、学校側が既に決めたことだ。クラスの学生に困難がある場合は、担任の先生が学生を常にサポートしなければならない」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法話を続けられた。「あなた達は、皈依したなら学校の登録と同じだ。あなた達自らが願って来たのだ。誰もあなた達を強制していない。教授も校長も、授業はあっちに行ったりこっちに行ったりしてはならないと言っている。なぜ仏法はいいのか?教授も先程言っていた。こうすると敬わないことになる。あなた達もリンチェンドルジェ・リンポチェを敬っていない。実際には、自分勝手に換えられない。教授や先生が権力を使ってこの学生を支配しようとするからではない。この学生の将来の学習を配慮してのことだ。仏は八万四千種の法門の教えによって、衆生の種々の煩悩を対治させようとした。上師は弟子の根器及び因縁に基づいてそれに適する法門を教える。あなた達はまだ学び取っていないのに、あっちに行ったりこっちに行ったりする。まさか、仏菩薩は苛め易いとでも思っているのか?

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは、こう説かれた。「ここにいる者の中には糸口がつかめない者もいるだろう。なぜ突然、弟子を呼んで質問したのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが物事を処理する際には筋道がはっきりしている。まず先にあなた達に道理を伝える。あなた達に世間ではこの件をどのように見るかを理解させる。あなた達に世間の法と仏法の道理は同じであることを理解させ、何が起きたのかをあなた達に伝える。リンチェンドルジェ・リンポチェはずっとアキ護法に祈っていて、上師を敬わないあの弟子達を出て行かせた。あなた達はアキ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェを守っていることを信じない。あなた達は自分でアキ護法を修したと思ってはならない。上師を敬わないのなら、やはり問題が起きる。アメリカである事が起き、人から人に伝わり台湾まで来た。ある女性弟子がアメリカに行き別のリンポチェの法会に参加した。彼女の母親もまたリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子であった。ある者がこの事を知り、母親に考えを聞いた。彼女の母親は、意外な事に「どちらも同じ教派だから」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母親に聞いた。彼女自身も一人の先生として教育界に身を置いている。「同じ学校なら、学生にあちらの先生、こちらの先生と換えさせるのか?」と。その母親は「しない」と答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も大声で叱った。以前彼らの家に困難がありリンチェンドルジェ・リンポチェのところに来た時、彼女は可哀想なほど泣いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを助けた後、彼らは恙無く過ごすことができるようになった。娘は博士号を取りアメリカで仕事が見つかり、息子も結婚して子供が生まれた。そして、上師の恩徳をすっかり忘れてしまった。彼女自身、教職に就いており、学生の学習過程を理解し、学生は自分勝手に先生を換えてはならない事を理解している。だが、同じ基準で自分の子供を教えなかった。他人はしてはならないが、彼女自身の娘なら構わない?娘が間違ったことをしても教えず、更に彼女を庇っている。今まで上師の加持を考えたことがなかった。当時、家族はリンチェンドルジェ・リンポチェにどうやって泣きついたのか?現在、家族全員が恙無い日々を送っている。彼女はこれは自分で修したものだと思い、完全に上師を忘れてしまった!

リンチェンドルジェ・リンポチェは何度もあなた達に言ったことがある。仏法に関する事なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず最初に直貢チェ・ツァン法王に教えを請う。先週の《上師五十頌》の中にもこの道理を説いた。アメリカの弟子は明らかに密法を学ぶ資格はないのに、別のリンポチェ主催の密法法会に行ったので、既に破戒だ。師を尊び道を重んじてこそ師の教えを受けることができる。学校の中で言う事をよく聞く学生のようなものだ。こういう学生を先生は喜んで教えるのではないか?いつも言う事を聞かない学生はまず横に放しておくだけだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、あなた達に話したことある。直貢チェツァン法王が法会の中でチベット語で話している時でさえ、リンチェンドルジェ・リンポチェは同じ様に神経を集中させてきちんと座り恭しく拝聴する。直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェにしなければならない事としなくてもよい事を指示する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の立場を考えずに全て話を聞き入れて実行する。あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学んでいる。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの仏法を学ぶ方法であるのだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に100%実行するようにとは言っていない。少なくともこの道筋に従って歩いて行くように言っているのだ。あなた達にあちこち駆け回らなくてもよいと言うのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子が離れていくのを心配しているからではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が多過ぎるのを嫌がっている。それは、あなた達に害を与えるのを心配するからだ。同じ物を教えていても、異なる先生だ。教える方法は恐らく異なる。あちこち渡り歩くならどうやって体系的に学ぶことができるのか?

この母親はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になる資格はない。彼女のように、同じ教派だから、あちこち渡り歩いてもよいと考えるのなら、台湾にも同じ教派の仏法センターが沢山ある。あなたも別のセンターに行き、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子にならなくてもよい。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で、彼女が大法会を護持するために供養したお金を返却するようにと指示した。彼女のアメリカにいる娘も密法を学ぶ資格はない。毎月の施身法の法会に参加するだけでよい。だから、リンポチェをするのは全世界で最も大変な仕事だ!法律は教授や校長を守っても、仏法を守らない。法律を用いて人を告訴してもよいが、仏法を用いて裁判を起こすことはできない。あなた達はリンポチェになりたい等と思わなくてもよい。リンポチェはいつも苦労する。これらの苦労を飲み込んでしまうのではなく、直接すっかり消化するのだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェもこの世を去る日が来るであろう。多くの修行者も皆、この世を去る。法輪を常に転じさせる事は、皆が真に仏法を生活の中に確実に取り入れるかどうかにかかっている。自分の行為を改める決意をしなさい。仏法の繁栄はお寺が多いかどうかを指すのではない。本当に仏法を学び修行する人が多いかどうかによる。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学ぶ過程の中でほとんど何の問題もなく障碍もないのか?それは、尊重する心があるからだ。皆は、世間の人があなた達に媚び諂うのに慣れきっている。あなた達は菩薩と呼ばれ、あなた達を自分勝手にさせている。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ弟子に厳しいのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがこうやって修したからだ。あなた達は利用し終わると、上師を尊重しなくなる!

一人の徳を具えた上師に出逢うのは非常に難しいことだ。在家のリンポチェに出逢うのはもっと難しい。あなた達はこの状況をまだはっきり理解していない。青海に転生したあるリンポチェはすでに70数歳になった。彼はある場所を離れる前に、必ず電話をかけてきてリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねる。これは、その道に熟達したベテランかどうかの差別だ。熟達している人には言わなくても分かる。熟達していない人にはどう言っても理解できない。上師はとても重要だ。自分の力だけで仏法を学ぶなら、どうやって修しても成就することはできない。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時、毎日念仏、懺悔の礼拝を少なくとも3時間していた。顕教を学んでいる人なら恐らくできることだろう。だが、自分は、お経に説かれる境地に至れず、衆生を利益できないことに気付いた。その後、密法を学んで初めて、仏法を用いて衆生を利益することができた。皆は言う事を聞かなければならない。沢山の自分の考えを用いて仏法を学んではならない。もし、心の中で尊重できるなら、軽率な行動を取ることはない。特に、あなた達が灌頂を受けたことがあるのに、同じように上師や仏菩薩を敬わないのなら、後に受ける果は本当に深刻なものとなるだろう!

現在、あなた達は足を組んでここに座っている。足がしびれ、痛むのは正常な生理現象だ。法会が終わったら立ち上がり、ちょっと歩けば良くなる。我慢できれば、ほんのちょっとで過ぎる。あなた達が我慢できないのなら、そればかりを考えて集中できない。それと同時に、ここからあなた達の身体の状況を見ることもできる。もし立ち上がって、ほんのちょっとで良くなるなら、気、血のめぐりも早い。身体は比較的健康だ。もし時間がかかるのなら、気、血のめぐりが悪い。身体に問題があるのかもしれない。あなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェと同じように、座禅を組んで数時間も動かないようにしようとは思わなくてもよい。これは何世もの間修する必要がある。あなた達が足の不快を我慢できるなら、これによって業障を取り除くことができる。現在のあなたの足の痛み、しびれはあなたが肉食したことと必ず関係がある。衆生があなたの身体の細胞の中にいるからだ。痛むことで一つを返す。ちょっと痛んでも、どうなる訳でもない。リンチェンドルジェ・リンポチェは1997年に仏法を説き始めてから現在に至るまで、寶吉祥仏法センター内の法会では、信者は座禅を組み、既にのべ100万人となった。だが、今まで座っていて足が折れたり捻挫したというのは聞いたことがない。だから心配しなくてもよい。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは施身法の修法を始められ、皆にこう注意を促された。「法会に参加する時は心を集中させなければならない。あれこれ考えたり、自分の事を考えてはならない。ただ上師と仏菩薩を思い、済度してもらいたい衆生を考えるだけで良い。その他の事は何も考える必要はない。頭の中の考えを減らすことで、集中できる。集中できるというのは、誠意だ。誠意も一種の供養だ。供養してこそ福徳が生じる。こうしてこそ、あなたと縁のある衆生と共に済度を受けることができる。予め立場を設定しなくてよい。今日の法会を通して、他界者を三悪道、即ち、地獄道、餓鬼道、畜生道に行かせないようにすることができると信じるだけでよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、修法の過程において、列席者の皆に、自分の名前、助けたいこの世の者の名前、施身法によって済度を願う他界者の名前を言わせる。皆はこの後で真言を唱える時、大きな声で唱えないように。親しい者は自分の声を聞き分けることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に100万、億万回唱えた修行者だ。あなた達が唱えると彼らの助けとなるのか、それとも、リンチェンドルジェ・リンポチェ唱えると彼らの助けとなるのか?あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェについて唱えればよい。

一定の時間修法をした後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、特に出家者に対して法本中の一部の内容を説法された。チベット密教では、衆生を利益するために、どんな不注意な事があってもならない。修行者には離辺の平等心が必要であり、並びに、本尊と上師の加持を祈らなければならない。こうしてこそ衆生を救うことができる。以前、出家者が読んだことのある中観、離辺は、法本には、上師の加持を祈り、無分別の慈悲心をもって衆生を済度すると説かれる。無分別の慈悲心、これは即ち、空性の慈悲であり、空、有、或いは中に執着しないことでもある。平等にして広大な心で修法し、更に、上師の加持を求める必要がある。こうしてこそ衆生を助けることができる。修法者は歴代祖師の慈悲の加持を必要とし、それとともに、空性を悟らなければならない。もし修行者がこの段階に達していないなら、衆生を済度することはできない。離戯瑜伽の境地に至っていないなら、施身法の修法はただ衆生の結縁を助けただけとなり、自分を済度し、他者を済度することはできない。平等にして広大な慈悲を修していれば、修行者の心で念じた事や善悪は影響を受けることはなく、衆生に平等の布施を与えることができる。だが、この果位に至っていたとしても、やはり極少数の個人の善悪を心配することもある。だから、この祈請文があるのだ。

この話を聞き、上師の重要性を理解したことだろう!リンチェンドルジェ・リンポチェのような果位に至っても、済度する時には、平等で大きな慈悲によって広大な衆生を利益できるようにと、やはり上師の加持を祈る。即ち《金剛経》に説かれた四相を全て滅して初めて、平等心を修することができ、我執を滅することができる。平等にして清浄な心を修するには、上師の教えの下で階梯に沿って学ぶ必要があり、上師に完全に投降する必要がある。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの部分を説法したことがない。あなた達は家に帰ってからよく思惟しなさい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わず自身の功徳と福徳を使われて自ら施身法を修法され、列席者をリードして六字大明咒を長い間念誦された。真言を唱える過程において、列席者は皆、リンチェンドルジェ・リンポチェの唱えられる真言の声の中に、波のように押し寄せる慈悲の力を感じた。修法が円満に終了した後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために慈悲深く、続けて貴重な仏法を説かれた。

この時、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。今日はやっと、叱る対象を見つけたので気持ちが良い。特に、出家者の弟子に説かれた。法本には「今日この法を修することで諸々の悪業及び業障、名縁を全て滅することができる。仏菩薩と上師が黄金の光となり修行者の心に溶け込んで行く。これにより、あらゆる貪瞋痴が滅せられる。」と説かれる。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは歴代の上師を代表して加持を与える。もし、歴代の上師の加持がないなら、一人の力だけでは修法できない。傲慢になってはならない。釈迦牟尼仏が説法する時は弟子に聞かせ、歴代の上師の加持によって伝えられて来た。あなた達は皈依し仏を礼拝すれば仏弟子だと思ってはならない。仏法を学ぶ事には異なる基準がある。出家者は声聞縁覚を修し、守らなければならない戒律、唱えなければならないお経が沢山ある。時間が多いからだ。在家の生活は非常に複雑で、そんなにも沢山の時間はない。だから、仏法を完全に生活に溶け込ませ、生活を仏法から離れないようにする。仏弟子として五戒、十善法、仏子行三十七頌を修する。もしその内の一つが行なえないのなら、仏弟子ではない。ただ単に信者だ。もし、上師の加持を忘れたら間違いが起きる。上師の加持がないなら、どのように唱えても、貪瞋痴を滅することはできない。

あなた達が地球上で送った信号は仏土には届かない。お経に説かれる境地は、菩薩の果位に至ることだ。仏はなぜあちらこちらで説法をするのか?自分だけの力だけで修することはできない。菩薩があなたの夢に現れてあなたの頭を撫でたからと言って、あなたは菩薩に頭を撫でられたと言う。仏に頭を撫でられる資格があるのかを自分に聞きなさい。未来仏だけが資格がある。あなた達が菩薩の果位まで修してこそ、菩薩にまみえることができる。また、助念をして人を済度する資格があると思ってもならない。人のために助念をしても、必ず済度するという考えを抱いてはならない。必ず衆生をどこどこに済度させられると思ってもならない。因縁は入り混じり複雑だ。助念をする時、血を吸う鬼道衆生が鬼道衆生を連れてくるかもしれない。或いは、鬼道衆生が鬼道衆生を取り押さえにくる等があるかもしれない。それも決まってはいない。予め立場を設定して、自分の欲望を付け加えてはならない。仏菩薩はこの衆生の因縁がどこにあるのかをあなたよりもよく知っている。あなたは彼を助けようとする心だけを持っているだけでよい。あなた達にはまだ彼を済度する能力はない。済度できないのに却って後遺症を生んでいる。だから、必ず慎重にしなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは初期に顕教を学んでいた時に助念に一度だけ行った事がある。その時分かった事は、他界者の気掛かりを取り除き、解決しないのなら、仏が来迎引接しても他界者は行こうとしないという事だ。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが台湾に来たばかりの時、まず最初に罵る言葉(中国語では三文字の言葉)を覚えた。皈依後、心が悪から善に向かい自然に罵ることはなくなった。わざと自分で罵る言葉を言わないのではない。自然に言わなくなるのだ。もし、あなたが実行できないのなら、あなたは上師に完全に投降するだけで、上師の加持力が入ってくる。誰も自分の家で唱えて修することはできない。上師の加持がないからだ。あなたが孫悟空であって、石から生まれてくるなら別だが。これは神話物語であって、本当の話ではない。

あなたは、皈依した後はここに落ち着いて、あちこち道場を駆け巡る必要はない。外のお寺の皈依は多くが結縁の皈依だ。十数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェには一人の弟子がいた。気性が激しかったので、しょっちゅうリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ彼女を追い出していなかったのに、彼女は自分で直貢チェツァン法王のところへ行き「リンチェンドルジェ・リンポチェに追い出されたので、出家したい」と泣いて訴えた。直貢チェツァン法王は事情がよく分からずに、彼女を出家させた。しかし、十数年経つが、彼女は現在まで、まだ一人の根本上師がいない。彼女は直貢チェツァン法王のところで出家したので、直貢チェツァン法王こそが自分の上師だと思っていた。だが、直貢チェツァン法王は仏法を彼女に教えていなかった。どうして彼女の上師だと言えるのか?教派の中にも沢山のリンポチェがいるが、誰も彼女に仏法を教えていなかった。多くの人は以前の因を知っていたからだった。彼女は自分の上師に忠実ではなかった。別の上師にどうやって忠実になれるのか?

リンチェンドルジェ・リンポチェの上師は出家者だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家者ではなく、在家の上師だ。だから、人のために得度したり、出家させたりはできない。弟子に出家を激励することもない。この場にいる数名の出家弟子は、以前、他のお寺で出家をした。仏法について更なる理解を深めたくてこの道場にやって来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに、以前の信者を連れてきてはならないと伝えてある。それは、各人の因縁が異なるからだ。

あなたが上師及び三宝を恭敬し修したなら、功徳が生じ、貪瞋痴は自然に滅せられ、累世の業も自然に転じる。我々は幼少から大人になるまでの学習に先生が必ず必要だ。仏法を学ぶ事もそうだ。必ず仏の教えに基づき、上師に依止し仏法を学び、あちこち駆け巡ってはならない。皆は修することは副産物だと思っている。出世法を修することができるなら、世間法は当然問題はない。全て一つの決意だけだ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別に説法した。皆が、法本の後ろに説かれている「この法を修すればあなたの病を自然に滅することができ、あなた達は仏法を学ぶ心力を持つことができる」事を理解するよう願う。もし、皈依していない信者なら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法を学んでいるかどうかを注意させることはない。もし弟子なら督促する。あなた達は仏法を学ぶ事で何が得られるかを期待してはならず、生死から解脱することを発願しなければならない。

仏法を学ぶ人は、自分自身の家族の多くの事から、自分を改めたかどうかを点検しなければならない。仏法を学べば恙無く日々を送れると思ってはならない。これは全て高慢の表れだ。多くの事が仏法を学ぶことの障碍となる。傲慢であってはならない。あなたが幸福、快適だと思っている時、あなたの傲慢が始まる。傲慢は慈悲を学べない。傲慢な心が起きると、学ぶもの、修するもの全てに慈悲心がなく、全ては偽物となる。慈悲のない仏法はただの空っぽの殻だ。あなたが日々を恙無く送っていると感じる時、それは大変な事になる。あなた達が現在、仏法を学ぶのを邪魔する力が一時的に減少したのを感じたなら、これは、上師と諸々の仏菩薩の加持だ。あなた達が修したものではない。

いろいろな事があなたが仏法を学ぶのを邪魔する。もしかしたら、突然お金持ちになったり、ある人があなたを愛する等があり、あなたは仏法を学びたくなくなるかもしれない。それは全てあなたが仏法を学ぶ際の障碍だ。あなたが落ち着いていると感じる時も、傲慢が始まり、高慢となる。あなた達は上師がいなければ仏法を学べないことを、はっきりと認識しなければならない。上師の加持はあなた達に恙無く日々を送らせるものではない。加持は、仏法を学ぶ際の障碍を減らし、すっかり取り除くことさえもある。リンチェンドルジェ・リンポチェであっても、毎日、自分は、よくできた所はないかを点検している。リンポチェは威張っているからと思わないで欲しい。多くの事を処理しなければならない。

皆は全て上師の言った事を信じていない。上師はいい加減にしゃべっていると思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働いているある弟子は、30数歳だった。最近、身体に問題が出たので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に仕事しなくてよいから、家でしっかり大礼拝を行なうようにと言った。その後、彼女は毎日たったの300回しか大礼拝をしなかった。出勤していて300回なら許される。だが、彼女は出勤しておらず、明らかに仕事をせずに、する事なく家にいる。毎日少なくとも500回、大礼拝を行うことは問題なかったはずだ。だが、彼女はたったの300回しかしなかった。当然ながら、自分の業を転ずることはできず、仕方なく業に随い手術をし、子宮全部を取り除いた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで、大礼拝をして死んでしまった人の話を聞いたことはない。この弟子は上師の語った話でさえも真面目に行なわなかった。上師が加持を与えなかったのではない。上師が口を開き、あなたがその通りに行なうなら、あなたの業は転じる機会があることを意味する。だが、もし実行しなかったら、或いはこの弟子のように怠けていて、少しの事も実行しないなら、転じることは不可能だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが語っているのは他人の事だと思ってはならない。あなたの名前を言わないと、自分とは無関係になる。実際のところ、最初の縁は皆同じだ。その差は、各人の業力が異なることにある。リンチェンドルジェ・リンポチェが実行できるなら、皆も実行できる。一人一人の本質は同じだ。異なるのはただ、表面に現れた業力だけだ。今日、説いた内容を、皆ははっきりと理解するように。

また、あなた達にはまだ済度する能力はないが、やはり皆に少し話しておく。済度が終わった後は必ず収法しなければならない。済度した後にこの場所の修法の力をしまうのだ。それなら、どうやって収法するのか?これは密法であるので説くことはできない。あなた達が思うように、沢山のお経を読んだのだから済度できるはずだ、或いは既に回向したと考え、発願すれば済度できる、と言うものではない。あなたは人のためにお経を唱えてあげ、お金をもらっていないからと思うかもしれない。だが、彼らがあなたに向かって合掌しただけで、これは供養になる。あなた達は以前、顕教の道場でなぜいつも落ち着かなかったのか。それは、済度の後に収法していないからだ。現場に法の痕跡がまだ残っている。だから、済度されなかった他界者がそこで待っている。彼らはあなたが続けて助けてくれると思い、立ち去らずにいたのだが、助けを待ちきれない彼らを怒らせた。だから、道場は落ち着かなかったのだ。今、原因が分かったであろう!今日は1500人に近い人達が法会に参加した。どの位の衆生を連れてきたか?その内の一人が済度されなかっただけで、驚くべき大変な事になる。

ある信者は、ある場所に引っ越してから、いつも飛び降りたいと思うようになった。彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の隣に一人の女の鬼道衆生が座っているのが見えた。それは、以前彼女の家から飛び降りて亡くなった女性だった。彼女はよく、現在の住人の所に来ていたので、彼女も飛び降りたくなったのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場でこの信者を助けた。その後、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに、別側に座っている鬼道衆生を助けてもらいたいと願った。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに承知したが、忙しくしているうちに忘れてしまい、この女の鬼道衆生を済度しなかった。その後、ビジネスは全てうまくいかなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは修行者なので、警戒心を高くして、深く思惟した後、助けると約束したのに実行しなかったことを思い出し、後になってから処理をした。この事から理解されるように、済度はとても厳粛な事だ。絶対に遊びではない。

道場の中では子供がずっと泣いていた。子供が泣くと、母親は気を散らして子供の面倒をみる。なぜこの子はこんなに泣いていたのか?それは、子供の母親が懺悔心を持たず、敬わなかったからだ。だから、子供はこんなにも大きな声で鳴いた。寶吉祥仏法センターでは、子供が泣いても構わない。それは、あなた達に、子供が債務の取り立てに来た事を理解させることになるからだ。

修法の後、あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが話をしている時の気が弱いことに気付いただろう。さっきまでの声は高らかであったが、現在の声は小さくなった。真言を沢山唱えたからではない。そういう振りをしているのでもない。それは、あなた達1500人が連れてきた衆生がこんなにも多く、彼らを全て済度するのに、非常に大きなエネルギーを使ったからだ。修法者が受ける影響を、一般人は見ることができない。

時間が過ぎるのは早い。修行できる時間も非常に短い。あっという間に既に7月になる。一年も半分を過ぎた。修行できる一年が、また減ったことを意味する。ある者は面倒なことがこんなにも沢山あると感じる。自分がしたいことがあれば、それをする。テレビが見たければテレビを見る。しかし、現在自分を改めようとする人は、今後の面倒事がなくなる。リンチェンドルジェ・リンポチェの今日の説法は、全て、お経に説かれた事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのではない。仏法は一朝一夕ではできない。リンチェンドルジェ・リンポチェができることは、あなたもできる。その差は、決意だけだ。

法会は円満に終了した。列席者は起立し、法座から下りられた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りした。そして、声を揃えて、殊勝な修法をされ、皆のために殊勝な仏法を説かれ、無数の有情を利益してくださった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

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2014 年 02 月 25 日 更新