尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年6月3日

本日は、直貢噶舉派の祖師ジッテン・サムゴン涅槃796年の記念日である。尊き直貢チェツァン法王自らの御指示によって尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ主催の「チベット仏教直貢噶舉派・祖師ジッテン・サムゴン796年記念大法会」が台湾大学体育館において開催された。内政部部長、モンゴルチベット委員会委員長らより特別に「円満成功」及び「吉祥円満」の掛け軸が寄贈され、法会が円満に執り行われるよう祝福を受けた。

祖師ジッテン・サムゴン、歴代の祖師、尊き直貢チェツァン法王、及びアキ護法の加持と庇護のもと、今回の大法会はメディア広告を使用せず、一枚の宣伝ポスターも貼らずに、法会の参加者数は5300名にも及んだ。尚、直貢噶舉派のケンポス、3名の直貢噶舉派のラマ僧、150名の顕教出家者を含む。顕教、密教の四衆が揃って今回の殊勝な記念大法会に出席した。

午前10時、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、先導の経幡(ラプシェ)、宝傘、楽器、薫香炉、八供養女の後から、ゆっくりと法会会場に入場され、法座に上がられて自ら法会を主催され、列席者に向けて貴重な仏法を説かれた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に列席者をリードして皈依祈請文を念誦するよう指示し、続いて法を説かれた。「皆が最初に念誦したのは皈依文である。仏教の法会が始まる時には必ず前行をする。前行は非常に重要である。仕事を始める前の準備をするようなものだ。妥当な準備ができた後に仕事をすると自然にスムーズにいく。各法本は最初に皈依、祈請、供養の儀軌を行う。仏法を学ぶには必ず皈依しなければならない。皈依の意味は悪から善に転じることを意味する。あなた達は自分で家の中でテレビを見、仏法を聴き、お経を唱えればよいと思ってはならない。上師がいなくても成就できると思ったり、或いは自分で字を認識すればお経を理解できると思ったり、自分勝手な方法で成就できると思うのは、全て不可能な事だ。供養は仏法を学ぶ福徳を積み重ねるもので、福徳の資糧があってこそ仏法を続けて学ぶことができる。仏法を学ぶには必ず上師の教えが必要だ。上師に供養することは、福徳を積み重ねる最も迅速な方法である。あなた達も財施、法施、無畏施という供養の方法を聞いたことがあるだろう。今日、この法会の中で上師と諸々の仏菩薩に供養し、皆が福徳の資糧を集積するのを助ける。これによって、皆は将来、仏法を学ぶ機会が与えられ、仏法を学ぶ上での障礙を減らすことができる。

今日は出勤日だが、あなた達は休暇をとって法会に参加した。これは本当に容易ではない。我々現代人は皆が忙しくしている。忙しいのは一般の世間法だ。今日皆はこの因縁がありこの法会に参加することができた。しばらく一切を手放し、この数時間を清らかな心で法会に参加しなさい。表面上はリンチェンドルジェ・リンポチェの主催であるが、あなた達が参加してこそ、この法会がある。あなた達の参加が、この法会の縁起の成立を促した。あなた達は功徳を随喜しなさい。随喜は、供養金をいくらか包んだらよいのかという質問に答える言葉ではなく、人が仏法によって衆生を利益するのを見た時に起こす歓喜の心で、これを、功徳を随喜すると言う。もしあなた達が法会に参加した時、ただ自己の利益だけを考えるだけなら、功徳は転じて福徳となり、今世であなた達の業を転じる助けにはならない。功徳は人間界と天界の福徳となり、来世で用いることができる。

あなた達が法会に参加した時、法会がいつ終了するのか、又は法会終了後に約束があるから早くここを出たい等と考えてはならない。全法会に参加してこそ円満となる。相手がもし、あなたと縁があるのなら、必ず待ってくれる。もし縁がないのなら、あなたが早く到着しても、相手が現れるとは限らない。あなた達は今日、この善根があって参加することができた。精神を集中させて、居眠りしてはならない。きちんと座り、背凭れに寄り掛かってはならない。こうすると眠り易くなる。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達の恨みを買うことを恐れない。直接、真実の話をする。もし法会中に居眠りをしたら、来世は人のペットになり、人に息子や娘のように可愛がられる犬となる。あなた達が法会に参加したのは福徳を積むためであるが、因果を信じずに、仏法を受け入れなかった。これは「痴」であり、ややもすれば、畜生道に堕ちることになる。しかし、あなた達は法会に参加し、やはり少しの福徳を積んだので、ペットになる。もしリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子が寶吉祥仏法センターで居眠りをしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を追い出すが、今日は会場が非常に大きいので、そんなにはっきりと見ることはできない。あなた達がもし、近くの人が居眠りをしているのを見たら、ちょっと押してあげなさい。これもまた慈悲心の現れだ。もし彼が怒ったら、会場係の人に協力してもらい、思い切って彼を起こして、会場内を一周走らせなさい。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは七支分供養の儀軌を行なった。この時、会場後方にいる若い女性信者が母親の肩に頭を寄り掛からせて居眠りをした。リンチェンドルジェ・リンポチェの眼力は極めて鋭く、その場で彼女の位置を指摘し、恭敬心のない行為を叱責した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「もし彼女が法会に参加したくないのなら、直ぐにここを離れてよい」と言われた。彼女の座っている席はリンチェンドルジェ・リンポチェのところから非常に遠かった。だが、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェの眼力がこんなに鋭いのを信じずに、やはり好きな様にやっていた。なぜこんなに若いのに居眠りするのか?それは、彼女が信じずに、法会と自分は無関係だと思っているからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会の中で居眠りの因果を説いたばかりであり、こんなにもはっきりと話したが、彼女はやはり居眠りをした。これは彼女が因果を信じないことを示した。因果を信じず、恭敬心もなく法会に参加した。法会中でやはり居眠りをする者は、あなたが会場に来ても、上師と仏菩薩の加持を得られない。この法会はあなたにとって助けにならず、功徳を積むことができないだけでなく、あなたの今世の業を転じることもできず、あなたが生死輪廻から離れる機会を得る事も不可能だ。

今日は直貢噶舉派の祖師・ジッテン・サムゴンが得道、涅槃した796年の記念日で、非常に殊勝な日である。怙主ジッテン・サムゴンは龍樹菩薩の化身である。龍樹菩薩の前世は釈迦牟尼仏時代の偉大な在家修行者—維摩居士であった。インドの偉大な修行者ティロパはナロパに伝承し、ナロパがマルパに伝承し、マルパがミラレパに伝承し、ミラレパがガムポパに伝承し、さらにパグモ・ドゥクパに伝承した。怙主ジッテン・サムゴンはパグモ・ドゥクパの最も重要な弟子である。その後、ジッテン・サムゴンは直貢噶舉派を創立し、その伝承はすでに830年余りの歴史となった。直貢噶舉の不共の護法アキは即ち、ジッテン・サムゴンの祖母である。不共の護法とは、ある教派を専門に護持すると誓った護法である。直貢噶舉には歴代の法王が37人おられ、現任の法王は37代目の尊き直貢チェツァン法王である。直貢噶舉の伝承は非常に清らかで、830年余り途切れたことがなく、諸々の仏菩薩と歴代の伝承上師の加被があるため、直貢噶舉の加持力は特に強力である。

当時、直貢噶舉はチベットで非常に繁栄しており、「山は直貢山、ダムは直貢ダム」の美談が伝わっていた。山のある所には必ず直貢噶舉派の修行者がおり、ダムのある所には必ず直貢噶舉の寺院があった。直貢噶舉は実修と閉関を非常に重視する教派である。直貢とは地名であり、噶舉は口伝の意味である。噶舉には他に様々な意味があるが、ここでは多くの解釈を省く。噶舉派では仏法に関するいかなる教えは全て、上師が口伝した後に弟子は初めて修習できる。直貢噶舉の寺院の多くは深い山の中にある。ある直貢噶舉の寺院は長い間、深い山の中にあり、最近になって発見されたものもある。ジッテン・サムゴンが在世の時には、嘗て18万の出家弟子がいた。彼らもまた口伝の教えを受けて学ぶ。昔はテレビ、パソコンネットワークがなかったから、口伝が必要なのだと主張する者がいるかもしれない。仏法をこのような方式で学習できるのなら、釈迦牟尼仏は必ず取り上げていたはずだ。お経の中に、現代に発生する多くの事が取り上げられている。それは、仏は未来を予知できたからであるが、仏はテレビを見て自分で修すれば成就できると言ったことはない。

今日修法するのは直貢噶舉派の「上師供養法」である。これを行なうのは直貢噶舉派の祖師ジッテン・サムゴンの記念法会であり、二つの意義がある。一つ目は、当時、怙主ジッテン・サムゴンによって苦労して弘められた仏法が続いていくことを願う。二つ目は、今日の法会の中で皆のために種を植えた、これにより、あなた達は未来に菩提心を発こした時、上師と仏菩薩の加持を得ることができる。仏教は上師の重要性を強調する。仏法を学ぶには必ず上師が必要であるからだ。皆は末法時代に生まれ、実際に仏に会う福徳はない。上師は仏を代表し、あなた達に仏法を教え、あなた達を生死輪廻から解脱させ、仏の境地に至らせて衆生を利益する機会を与える。よって、非常に重要である。特に、金剛乗と菩薩道を学ぶ修行者は、法本に取り上げられているが、仏の境地に至る前に生々世々においていつも上師の加持が必要である。実のところ、上師と仏菩薩の加持はずっと続いている。仏光は衆生を普く照らし、あなたが感じるかどうかに拘らず、仏菩薩は常に黙々と衆生を助けている。暗闇の中で一切の衆生を加持している。もし仏法がないなら、この宇宙はとっくに存在していない。

仏は皆にずっと加持を与え続けている。だが、各人それぞれが受け取れるのではない。なぜか?あなた達は法会に参加し、主催者は同様に修法するが、各人が得られる利益が異なるようなものだ。このように仏菩薩には分別心があるのではなく、仏菩薩が衆生に与える加持は普遍的で、ずっと続いている。だが、あなた達には心を開かない習慣があるため、受け取れないのだ。ある者があなたに電話をしてきたが、電話に出なければ相手の話を聞くことができないのと同じだ。同様に、テレビのスイッチをつけなければ、信号を受け取ることはできない。テレビの番組があっても、やはり見ることはできない。仏菩薩の仏光は普く一切の六道有情衆生を照らしているが、あなたが心を開かなければ、心の中にはただ自分の考え、欲望、懐疑、要求だけが存在し、当然ながら、上師と仏菩薩の加持と慈悲を感じ取ることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日の修法を通して、あなた達に福徳を積ませる。この二時間、心を開けば、上師と仏菩薩の加持を受け取り、善縁を結ぶことができる。

仏が説かれたことであれば私達は必ず実現できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自己の実修の経験を通して、確かにそうであることを証明したので、この方法で修習するよう、あなた達を教え導く。諸々の仏菩薩は、衆生皆が輪迴から解脱することを願っており、一時も休むことなく衆生を利益している。あなた達が自分の人生経験から仏法を学ぶのであれば、仏の教えを実践することは言うまでもなく、体得することは不可能である。顕教は仏の説かれた一切の仏法の理論である。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家であり、皆と同様に信者の身分から修し始めた。よって、あなた達が修行する過程と問題点を非常に理解できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を学んでいる時、読経し、真言を唱えることに励み、毎日決まって少なくとも1時間の座禅を組んでいた。毎日、4、5時間を仏法の修習に使った。だが、一定のレベルまで学んだ時に難関に直面した。どのように唱えても、どのように座禅を組んでも、自分はお経に説かれている境地に達せないと感じた。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊き直貢チェツァン法王に出逢い皈依し、尊きチェツァン法王の下で仏法を学ぶ機会を得られて初めて、自分が以前学んできた顕教は、理論を学んでいたに過ぎず、密法こそが学んだ理論を運用できるものだと理解した。

密法を誤解し、密法の修法は非常に神秘的で、必ず奇怪な感応があると思っている者もいる。あなた達にとって言えば、やはり非常に神秘的なものだろう。それは、博士課程で学ぶ内容を理解していない小学生が博士課程で学ぶものを非常に神秘的に思い、一種の秘密に満ちたものだと感じるようなものだ!凡夫がなぜ諸々の仏菩薩の境地を理解できないのか。この道理もここにある。あなた達が仏の境界を理解できないのは、あなた達が実践できないからだ。菩薩の境地を理解できないのは、あなた達が実践できないからだ。上師の境地を理解できないのもまた、あなた達が実践できないからだ。密法の内容を別の面からみると、修行者の衆生を利益しようとする心が確固とし、揺るぎなく、変化しない。顕教が重要ではないのではなく、密法を学ぶには必ずまず先に顕教の基礎が必要である。直貢噶舉派は、少なくとも十年以上の顕教の基礎を必要とする。上師が弟子の機根とレベルを確認した後に、密法を弟子に伝える。

チベット仏教は非常に上師を重視する。特に金剛乗の修行では、上師と修行者間の関係を極めて重視する。直貢噶舉派の教えは非常に厳密である。必ず階梯に基づく修行が必要である。皈依し、戒を守り、慈悲心を育て、菩提心を発こし、一歩一歩修する。弟子は上師の監督のもと、教えに基づいて行動し、修行し、閉関する。仏は《宝積経》の中で、菩薩道を行する修行者が持つべき思想、言語、行為について説いている。実践できないのは菩薩ではない。だが、現在、台湾では信者に《宝積経》を説く者は少なく、却って、信者の機嫌をとったり、仏法をねじ曲げたり、信者に勝手気ままに振舞わせたりする。これは非常に良くないことだ。

金剛乗について言えば、上師は弟子の機根が密法を修習する資格に符合するかどうかを検視した後に灌頂及び伝法をする。しかも密法を伝える時は必ず一対一でなければならず、他の人がいてはならない。一度、直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに密法を伝えていた時に、直貢チェツァン法王の母親が部屋の中に入ってきたことがあったが、その場で直貢チェツァン法王は即刻、伝法をやめ、一言も話さなかった。母親が部屋を離れた後に、直貢チェツァン法王はもう一度、リンチェンドルジェ・リンポチェに伝法した。

続いて魔を駆除する儀軌を行ない、魔物等の衆生に本日の法会を妨害させないようにする。その後、上師と諸々の仏菩薩に壇城にお越し戴き加持をして戴けるように供養と祈願を行ってこそ、皆のために修法できる。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛鈴と金剛杵を加持した。金剛鈴を振り、太鼓を叩けば修法だと思ってはならない。修法者に資格がないなら、法本に書かれた通り、護法は修法の資格のない修法者を法座の上に留めてはおかない。しかも、リンポチェの果位を修し得た修行者だけが金剛鈴と金剛杵を使用できる。修法する前に、修行者は法器を清めるために金剛鈴と金剛杵に加持しなければならない。こうしてこそ、衆生に利益を得させるための最大の効果を発揮できる。

続いて、列席者がこの法会に一心に参加できるように、リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定の灌頂を皆に授けた。あなた達は自分が家で座禅を組むことが禅定を修している事だと思ってはならない。あなた達がしているのは、静かに座っているだけだ。一定の時間、静かに座っていると、自然に心が穏やかになるのを感じるが、これは禅定ではない。仏法には必ず口伝が必要であり、禅定を修するためには上師の教えと導きが必要である。上師の灌頂、口伝の教えを受けた後に初めて修することができる。さもなくば非常に危険だ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは、顕教を学んでいた時に、自分で座禅を組む事が即ち、禅定を修している事だと思っていた。その結果、もう少しで問題が出るところであった。座禅を組んでいてその後、禅定に入るかどうかの区別は非常に微妙なものだ。上師の教導がなければ、簡単に別の方向へ向かってしまう。自分では仏法の禅定を修していると思っていたが、外道の禅であったという結果を招くこともある。《楞厳経》、修行者が禅定を修する時の種種の考えの変化について説いている。よって、実修実証の具徳の上師の灌頂と教導がなければ、修行者の考えは容易に自覚なく外道の思想に変わってしまうこともある。しかも、具徳の上師もお経上の種種の条件に符合する必要がある。

しかも、あなた達の考えが自分の為で、衆生を利益する為のものでないなら、仏法を修習する功徳は福徳に転じてしまい、あなた達をこの一世で解脱させることは不可能だ。皆は《梁皇宝懺》を知っているだろう。梁武帝が多くの寺院を建立し、お経を印刷し、自分でも論を書いた。だが、梁武帝が達磨祖師に、このようにしたら功徳があるかどうかと尋ねると、達磨祖師は、梁武帝には功徳はなく福徳だけがあると答えた。功徳がなかったので、累世及び今世の業力を転じることはできず、梁武帝は最後に餓死した。よって、あなた達は今日は何のために来たのか。法会に参加する時は、衆生が仏法の助けを得られるようにと願うべきであり、三宝を恭敬する心をもって参加してこそ利益が得られる。元々、四灌頂は気軽に与えるべきものではない。これは不共の部分に属する。だが、本日の法会に参加したあなた達の身、口、意を安定させ、今回の法会に最後まで参加でき、仏法を受け入れる福徳が得られるようにと、リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定の灌頂を授ける。灌頂はたくさんの種類に分かれるが、本日授けるのは単に結縁灌頂である。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは禅定の灌頂を授ける前に、皆に正しく座り直して、背中をまっすぐにし、椅子に凭れかからず、両足を組まないようにと指示した。背凭れに寄り掛かると、この灌頂の効果は発揮されない。続いて、禅定灌頂の前行、正行、後行の儀軌が行なわれた。暫く経った後、リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて話された。「あなた達は、ただ、このように唱えるだけで灌頂は終わるのか、と考えたのではないか?その通り!こんなに速く終わった。」あなた達はただ法本の内容を少し唱えただけだと感じるだろうが、修法者は既に沢山のことをした。皆は禅定の灌頂を受けた後に初めて福徳ができ、この後の法会では、座っていられ、身、口、意は仏法の加持を受け取ることができる。

一定時間、修法した後、ハタを献上する儀軌が行われた。代表のナンジュ・ケンポスに伴われた寶吉祥の出家弟子、八供養女、本日入場の際に自分で籤を引き当選した5名の信者代表達は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと諸々の仏菩薩にハタを献上して求法した。ハタを献上する儀軌が終了すると、リンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。ハタを献上するのは、チベット仏教において供養し求法するための儀軌である。さきほど、ハタを献上する儀軌を行っている時に、一人の老婦人が孫を連れてトイレに行った。法会は自分に関係ないと考え、最も重要なハタを献上する時をちょうど選び、その場を離れた。これでは、供養の福徳に彼女達の分はない。リンチェンドルジェ・リンポチェの年齢を知らない者もいるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年で既に66歲だ。法座上で一時間余りも修法するのに、トイレには行かない。あなた達はこんなに若いのに我慢できず、法会に参加しているのに動き回る。仏法に対する恭敬心がない。恭敬心がないなら供養もなく、供養しないなら福徳もない。

さきほど、ハタを献上する儀軌を行なっている時、リンチェンドルジェ・リンポチェが法帽を被っているのが見えただろう。チベット仏教の法帽には特殊な意味がある。自分が好むからと言って作ることはできない。教派の法王から授けられる必要がある。出家の法帽と在家の法帽は異なる。法帽からどの教派であるかと修行者の果位が分かる。ハタを献上する儀軌の中で主催者は法帽を被る。これは、諸々の仏菩薩と上師が衆生の供養を受けて、衆生に仏法を伝授することを示す。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは修法を続け、薈供の儀軌を行い、供物を配るよう指示した。社会の中には、寺院の仏に供養した供物を信者に先を争って取らせる者もいる。寶吉祥仏法センターの法会では、主催の上師は供物を皆に分け与えるので、先を争う必要はない。皆は供物を受け取ったら少し食べても良いが、全部食べてはいけない。家に持って帰り、家族や友人と分かち合うことができる。各人は、一つの供物を再び取り出して係りの者に渡し、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持を与えた後に、縁がなく法会に入って来られず参加できない衆生に供養する。法会の中で皆に供物を食べさせるのは、未来において諸々の仏菩薩と共に供物を享受できる因縁を持てるようにする為である。《阿弥陀仏経》には、浄土で、諸々の大菩薩と共に食物を享受できると説かれる。

ある一定時間の修法後、八供養女による献歌があり、続いて御茶供養、御飯供養の儀軌が行われた。続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた。チベットの気候は非常に寒冷であるので、法会の間に御茶と御飯を修法者に出して体力を補充させる。だが、あなた達にはない。あなた達は下で何もしていないのに、とても疲れている。先ほど、須弥壇(壇城)に上がり歌を捧げたのは八供養女であり、八名の空行母を表す。彼女達の歌うのは世間の歌ではなく、空行母の歌で、人類が作った歌ではない。歌の内容は主に、仏菩薩と上師を讃え、供養するものだ。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座を下りて灯明供養の儀軌を行った。列席者は全員起立してリンチェンドルジェ・リンポチェが修法されるのを恭しく待った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、灯明を点して仏に供養した後、再び法座に上がり、説法を続けられた。

寶吉祥仏法センターが行なう法会は非常に清らかである。功徳主を設けず、光明灯や位牌の安置も見られず、寶吉祥仏法センターの中にも灯台はない。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを込めて語られた。「灯台は海にあるべきだ。寺院の中にあるべきではない。法会の開催にはビジネス行為があってはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが開催する大法会は全て、寶吉祥仏法センターが全法会を護持する費用を支出し、あなた達は入場無料であり、あなた達に支払ってもらう数々の名目もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは遠慮のない話をされた。福徳が不足しているのなら、法会を行う必要はない。法に基づく修行を行なうなら、必ず、諸々の仏菩薩の護持が得られるので、この方式は不要だ。

一般世間で、光明灯を点すよう勧める者にあなた達も会ったことがあるだろう。あなた達に電話を掛けてきてお寺に来るよう勧め、物を買ったら福徳ができ、光明灯を点すと一年間順調に過ごせると言う。もし1~2千元払って光明灯を点せば一年間順調に過ごせるというのなら、いささか安直すぎるのではないか!仏法における灯明供養とは、仏法は光明のの焔の如くそれぞれの隅を照らし、仏菩薩に供養することを通して、我々の五毒を五方仏の五智に転じ、仏法を学ぶ上での業障を焼き尽くし、消滅させ、本来清らかな本性を現し、一切の善を行じ、一切の悪を断ち、このようにあなた達の未来を必ず良い方に転じることを指す。あなた達はお金を少し使って光明灯を点すが、実際のところ、ただお札を銅板に取り替えて、銅板が互いにぶつかって生じる光であるだけだ。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが法会の最中に修した灯明供養こそが真の光明灯であり、あなた達のために仏法を学ぶ上での障碍を取り除くことができる。

仏法の説く因果は、即ち真理である。あなた達がもし信じないのであれば、仏の教えを聴いて実践することを拒み、法会に参加して、一切が平穏無事であるようにと、ただ庇護だけを求める。それは出来ないことだ!あなた達に、現在或いは最近起きた事はすべて過去で為した事であり、現在その果報が現れたのだから、変えることはできない。仏法を学び修行して初めて、あなた達の業を転じ、あなた達の未来を変えることができる。現在の事はすでに発生したのであるから、法会に参加すれば事情を変えられると思ってはならない。また、少しの善事を行なえば、あなた達の悪行の果報を変えられると思ってはならない。善と悪は二つの事であり、相殺できない。二本の平行線であり、悪行と善行には何れもそれぞれの果報がある。しかし、あなたが悪行を止めて善行を続けるなら、善の力は増強し、悪報は抑圧され、悪報の発生を引き伸ばすか、機会を失わせることもある。もし、あなた達が依然として悪行を続け、法会に参加すれば平穏無事でいられると思い、自分の欲望、要求をもって法会に参加するのなら、諸々の仏菩薩が衆生を利益しようとする願力に反することとなる。仏法があなたの考えを満足させることはない。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは列席者をリードして六字大明咒を念誦された。六字大明咒は三世一切諸仏の願力、智慧、功徳の精華である。もし、法に遵って六字大明咒を修持するなら、閉関を通して生起円満次第を修すれば、必ずこの一生で成就が叶い、未来において必ず成仏でき、今世で生死輪迴を解脱できるであろう。だが、本日、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆をリードして念誦するのは、単に、皆を六字大明咒と結縁させるためである。これにより、あなた達は未来において、観音法門を修習する機会ができた。あなた達はまだ仏の教えを聴いてそれに遵っていないので、話を聞かないのは言うまでもなく、諸々の仏菩薩の教え導く仏法に対して、ほんの僅かの体得さえもない。やはり自分の考えである。このようでは力を得ることは不可能だ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが皆をリードして六字大明咒を念誦している時、ある信者が席を立ってトイレに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で大声で叱責した。済度している最中に、トイレに駆け込む者もいる。衆生が大切なのか、トイレが大切なのか?先ほどの祈請文の中であなた達も見たであろうが、修法者が一切の我々と有縁及び無縁の衆生を救って戴くよう観世音菩薩に祈り求める時、最も苦しんでいる、最悪の衆生でさえも助けなければならない。これらの衆生はあなた達と何らかの関係がある。あなた達は自分とは無関係だという態度で法会に参加し、勝手気ままに座席をたつ。現場に座っていれば福徳ができるのか?もし、法会に参加する心のあり様が間違っているのなら、仏法に対して恭敬心がなく、本日の法会の功徳もあなたと無関係となる。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは列席者をリードして六字大明咒を修法し念誦を続けられた。その過程において、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、列席者の仏法に対する恭敬心のない行為を何度も直接叱責し、指摘された。ある男性信者は両手を胸の前で組んでいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この動作は仏法に対する極めてひどい不敬であると彼を叱り付け、好きでないなら出て行ってもよいと言われた。ある男性信者は女性信者と一緒に座り、法会に専念していなかった。法会を尊重せず、法会に参加することをデートだと思っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏法を尊重するようにと彼らを叱責し、デートしたく、法会に参加したいと思わないなら出て行ってもよいと言われた。ある女性信者は息子のために団扇を煽いでいた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、息子が熱中症になるのを心配するなら会場を出てもよいと叱責した。リンチェンドルジェ・リンポチェは法座に座り、こんなに暑いのに団扇で扇ぐこともない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘆いて言った。皆はなぜ仏法を尊重しないのか?法会に参加しに来たのに、三宝に不敬を働く。それなのに自分は仏を信じていると言う。他の宗教の信者達は皆、大声で自分の宗教、信仰について語り、主の恩恵を語る。あなた達はなぜ自分が仏教徒であると言うことができないのか?他の宗教の信者が彼らの活動に参加する時は皆、恭しい態度をとる。それに対し、あなた達はこの様な態度である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、法会の中での皆の不敬な行為を指摘する。それは、あなた達の入場が無料だからだ。当然ながら、あなた達の間違いを指摘し正す。

二名の若い女性が席を立ってトイレに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは再度叱責した。もし法会に参加したくなく、恭敬心がないのなら、直ぐにここから出て行ってもよい。講演に一回参加しただけでもお金を払わなくてはならず、講演者には最低の尊重をすべきである。まして、今日の法会は入場料を受け取らず、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も求める事なく皆のために修法するのだから言うまでもない。あなた達は入場料を受け取らないからといって老人を苛めるべきでない。あなた達は皆、「心が誠なれば則ち霊なり」という言葉を聞いたことがあるであろう。心が誠実であってこそ霊験あらたかとなる。仏法を尊重しなければならない。人、事、物に対しても尊敬が必要だ。勝手気ままであってはならない。法会の中で勝手に席を離れたり、居眠りする者は、今日の法会が自分達と無関係だと思っていることの表れだ。先ほど六字大明咒を念誦した時に助けを願った衆生は皆、あなた達と関係がある。あなた達はどうして自分達の事ではないと思うのか?他人を敬う者は、法に反する事を比較的行なわない。勝手気ままを習慣にする人は自然と法を犯し易くなる。勝手気ままを習慣にする人は、戒律を慎重に遵守しない。持戒をきちんとしないと、仏法を学ぶことは、ただの殻となる。以後、あなた達がいかなる宗教儀式に参加する時も、恭しい態度であるべきだ。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは列席者をリードして「吉祥法界祈請文」を唱えられた。慈悲の法音の加持力は極めて殊勝であり、全会場に満ち溢れた。列席者は皆、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの無類の摂受力を感じ取った。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェはリーダーの弟子に列席者をリードして「法教広弘(法の教えを広く弘める)祈願文」を念誦させ、並びに回向するよう指示された。

迴向の儀軌を行なった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説法された。多くの者は、迴向は自分の家族にするものだと思っている。世間では、自分の伴侶が自分と共に仏法を学ぶよう、或いは自分が仏法を学ぶのを妨害しないようにと迴向させるのが流行っている。実のところ、これは正しい考え方ではない。このようにして仏法は呪術に変わる。個人は個人を修するのだ。あなた自身、行為を改めていないのに、家の人や家族にどうやって影響を及ぼすのか?寶吉祥仏法センターでは皈依を行なう以前、もし未成年の信者であるなら、父兄の同意を得てこそ皈依が叶う。もし、既婚の信者であるなら、眷属の同意を得てこそ皈依が叶う。今日、あなた達が仏法を学ぶ際に他人の妨害があるなら、あなたの過去世で嘗て他人を妨害したことがあるのだ。自分が仏法を学ぶことで、家族の煩悩を引き起こし、甚だしくは批判を起こし、これによって人に仏を誹謗させ、彼らに地獄に堕ちる因を受けさせるような事があっては絶対にいけない。お経を唱えて家族に迴向すれば福徳ができ、あなたと共に仏法を学ぶと思ってはならない。実際のところ、自分が努力して実践するだけで、自分がある一定のレベルまで修することができた時に、あなたの家族も自然に共に仏法を学ぶようになる。

本日の法会は円満に終了した。非常に特別な事は、多くの顕教の法師が法会に参加されたことである。リンチェンドルジェ・リンポチェは招待状を送付せず、テレビにも出ない。彼らを知らない。彼らは、口伝えで法会の知らせを聞き率先してやって来て、歓喜の心で法会に参加した。随喜の功徳が非常に大きい。今日の法会にはこんなに多くの顕教とチベット仏教の出家者が参加した。それから、こんなにも多くの信者が参加した。これは非常に得難い事である。台湾ではこのような法会は非常に少ない。あなた達が法会に参加するのはあなた達の福徳と善根故である。共に法会に参加した周囲の人に感謝すべきである。また、自分で参加したあなた達に感謝する。リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなくてもよい。なぜなら、こんなにも多くの人が参与した故に、今回の法会となったのであるから。法会を開催したからあなた達が参加したのではなく、あなた達が参加するので法会が開催されたのだ。あなた達が参加しなかったら、今日のこの法会もなかった。一つの法会となる縁起は非常に難しい。あなた達はこの福徳を大切にしなさい。この得難い縁を大切にしなさい。皆が未来において仏法を学ぶ因縁が開かれる事を望む。だが、あなた達が仏法を学ぶ際には寶吉祥仏法センターに来なくてもよい。一つには、寶吉祥仏法センターの人は既に多すぎて、まもなく席に座りきれなくなるからで、二つには、寶吉祥仏法センターの仏法を教授する方式は非常に厳格であるからだ。

あなた達はこのような得難い法会に参加する機会が得られたのだから、今日の法会が終了した後は二度と肉を食べないようにしなさい。法会が終わった後にすぐに肉を食べに行ってはいけない。これでは今日法会に参加した功徳も消えてしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年ですでに66歲になる。あなた達はこの老人を苛めないように。一人の年老いた爺さんが何も求めずにあなた達を助けている。あなた達はその恩を感じずに、続けて肉食をし悪行をするなら、以後は二度とリンチェンドルジェ・リンポチェ主催の法会に来なくてよい。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは、先程皆にこんな厳格な事を言うのか?居眠りしたり、恭敬心のない信者を会場から出て行かせたのか?それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じているからだ。あなた達が法会の中で行った如何なる行為にも全て果報がある。あなた達が単に参加すればよいと思い、全く恭敬心をもたず、自分には関係のない事だと感じるが、実際のところ、あなたが法会に参加するだけで自分に関わる事となり、しかもあなたの未来の生々世々に関わる事となる。現在、まだ説法中であるが、信者の中には額を拭いている者もいる。あなたは法会が自分に関係がないと感じ、このような心持ちで参加するのなら、全く役に立たない。ちょっとだけ法会に参加すれば、良い事が起こり、悪い事が起こらなくなると思ってはならない。仏法は確かに良い事を起こし、悪い事を起こさなくすることができる。だが、これはあなた達が仏菩薩と上師の教えを聞き入れ、それに従ってこそ、自分を変えることができ、一切の悪を断ち切り、一切の善を行することができる。このような善の力が増強すれば、悪業を抑え付けることができ、悪業の力を緩慢にするか作用を起こさなくする事ができる。このようにすれば、あなたは自然に良くなる。一回参加すれば全てが良くなるのではない。

今日、あなた達は手中にある事を手放して法会に参加した。これは一種の供養である。上師の説法を聞き入れなさい。さもなくば、あなた達の時間を浪費する。本日の法会に参加したことにより、あなた達は未来の一世で直貢噶舉の弟子となり、直貢噶舉の殊勝な教法を学ぶことができる。未来とはいつの事なのか?今世、或いはずっと先の来世?リンチェンドルジェ・リンポチェは知る力がない。あなた達の決定を見ているだけだ。あなたが今日、誠意を込めて法会に参加したなら、必ずあなたの助けとなる。本日リンチェンドルジェ・リンポチェが皆のために修法したものは、本来、チベットにおいて丸一日の時間を要する。本日、リンチェンドルジェ・リンポチェは速度をはやめて修法した。内容を減らさずに、数時間内で修法を終了させたが、手抜きは全くしていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何も求めずに皆を助けた。皆が未来において修行が円満で、障碍がないことを祈り、世間法においても一切が順調であることを願う。阿弥陀仏。

法会は円満に終了した。列席者はそれぞれ立ち上がり、取り決めていなかったが、一同の熱烈な拍手によって、苦労して修法され、諄諄と教えを授けられ、皆のために殊勝な仏法を説かれ、一切有情を利益された尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの御恩に感謝を示した。

今回の法会は一切の費用を受領しておらず、販売等のいかなるビジネス行為も全く行なわなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは列席者による供養金301万余元の全額を、会計師、銀行の責任者、弁護士の立会いの下、公益慈善及び社会福祉の用途として内政部社会司に寄付した。法会は清らかに円満に終了し、広大無限の衆生を利益し、列席された四衆も皆、法喜に満たされた。

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2014 年 02 月 06 日 更新