尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年4月21日

台北寶吉祥仏法センターにおいて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ主催の「共修法会」が開かれ、法会が始まる前に、弟子の一人が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの虚空に遍く広がる慈悲の功徳と、至らぬ所のない加持力について分かち合った。

ある朝、彼は新聞記事を読んだ。それによると、某ダムのセキュリティ装置に問題が出たために、ダム及び当地の十数万の住民に危険が起こる可能性があるとのことであった。次の日の朝、関連機関が住民と話し合いを持つことになり、彼に地質専門家の身分で出席するよう要請があった。

会議当日に簡単な報告が行なわれると、非常に緊迫し、その場は不安に包まれた。会議がまもなく終了する時になっても、人々は依然として心を落ち着けられなかった。この時、彼は突然、心がもつれ合って非常に苦しいと感じた。住民は恐怖心に満たされ、問題をいかに判断すべきか、どう処理したらよいのか分からずに、心を掻き乱され、誰を信じたらよいのか分からぬ無気力感を感じていて、聞いても理解できず、何を話すべきかが分からずに挫折感を感じていた。

そこで、彼は発言する許しをもらい住民に説明をした。:主管機関のダム設計は常に保守的である。以前のダムには保護対策がなかったが危険が生じることはなかった。現在のダムにはセキュリティ装置が増えたので、万一問題が出ても安全面に危険をもたらすことはない。我々の先輩達は大雨の時には蓑を身につけ笠をかぶり雨を凌いだ。現在我々は以前より裕福になり、長靴をはき傘をさす。今、我々が持っていた傘に突然小さな穴があいたとしたら、雨に濡れて肺炎にかかって死にはしないかと心配をする。これは必要のない恐怖だ!

彼が話を終えた時、手を挙げて意見を言う者はいなかった。皆は肩の荷を降ろしたかのように微笑んだ。当地の住民はここ数日、寝食も碌にできず、心配で眠りにつけなかった心を終に落ち着けることができた。

当初、彼は住民の心に変化がみられたことに驚き、彼の話がこんなに大きな変化をもたらしたことを理解できなかった。元々、大衆の前で語れなかった事実を直接話したことで、住民は却って彼を信じ、しかも心を落ち着けることができた。彼はさらに深く考えると、知らぬ間に鳥肌がたった。遍く虚空に広がり、到るところに存在する尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲、大威徳力、加持を讃嘆し感謝した。これほど不可思議な加持はない。その場で力なく怖がる住民の苦しみを感じて、単純に彼らを苦しみから救いたいという気持ちを起こし、同時にあのような話をするのは彼には不可能な事であった。彼はこれは全て、衆生を苦しみから救おうとするリンチェンドルジェ・リンポチェの大願力、慈悲、加持であったと思った。だから、住民はダムは安全だと信じ、心を落ち着かせ、再び心配することはなかった。気付かぬうちに使い走りの郵便配達人なっていて、その殊勝な善縁を与えてくださったリンチェンドルジェ・リンポチェに心から感謝をした。

ここで彼は再び自分のリンチェンドルジェ・リンポチェに対する恭敬心の不足と感謝の心の不足、確固とした信心の不足を懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を利益するための大能力を示現した時に、すぐに感じ取ることができず、その場でリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を讃嘆し感謝することができず、どうしてこうなったのかとまだ考えていた。また、この事件を通して彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェは再三再四と我々を指導して下さっているのだから、どんな事も心を込めて行なわなくてはならないと深く反省した。もしステップ毎に心を込めて行なったなら、住民を恐怖に陥れて衆生に煩悩を起こさせることはなかったであろう。最も重要なことは、リンチェンドルジェ・リンポチェがいつも説かれている「修行者は名聞利養のために仏法を毀損してはならない。」ということである。専門家についても同様の理論が通る。絶対に名聞利養のために衆生を扇動し自分勝手な発言をして無数の衆生を悩ませ恐怖に陥れ、悪業をなしても知らないということがあってはならない。今後彼は、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを、更に一生懸命聞き、自分の心をしっかり見据え、言葉と行動を慎重にしなければならないと思った。

続いて、二番目の弟子の分かち合いがあった。夫と二人の子供(全て皈依弟子)が伴う中、会場の皆に向けて、88歳という高齢の母方の祖父がいかに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに救われたかを話し、自分が過去に犯した悪行及び悪業を懺悔した。

この弟子は、二週間前、清明節の前夜のことを分かち合った。彼ら一家は台北から南部の高雄へ移動しようとしていたが、高速道路に上がってすぐにひどいラッシュに出あい、出発は朝7時であったのに、中部への到着はすでに正午をまわっていた。彼女は、この状態が続けば、高雄に着くのは夕食の時間になってしまうので、母親に電話で帰らないことにすると伝えた。この時母親は、母方の祖父が入院したと言った。その時彼女はとても落ち着かなかった。88歲の高齢の老人が入院したら、心は不安と恐怖でいっぱいであろう。そこで、すぐに祖父に電話をかけた。電話の向こう側にいる老人のか弱い声が聞こえ、心中、耐えられなくなり、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが常に法座で説き続けておられる話をした。「人生の中で重病にかかり病床にある時或いは他界した時、周囲の子孫がどんなに孝行者であっても彼の代わりに病気になったり往生できる人はいない。」彼女は少しも動揺せずに祖父に言った。「今、助けてくれるのは、ただ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけ」。だが、祖父は今まで法会に参加したことはなく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの珠玉の著作「快楽と痛苦」の中の御写真をちらっと見たことがあるだけで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがどのように弟子とその眷属を助けるのか、並びに衆生を輪迴から解脱させる大能力についての話も彼女から一、二度聞いたことがあるだけだった。以前、祖父が転んで怪我をした時には、彼女は世界で最も不思議な漢方軟膏を祖父に塗ってあげたことがある。また、いつも不眠になる祖父のために、彼女は最も天然で無毒で上等の「除障香」と「神牛角チベット香」に火を点けて、不眠を助けたことがある。このような因縁のもと、祖父は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに面会する機会をもつ福徳はなかったが、彼女は電話で「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが頭上で加持していることを観想するように」と何度も言った。奇妙なことに、台北から彰化まで約6時間かかっていたが、彼らの気持ちが一転し高雄へ行くと決めると、道路状況も異常なほど順調になり、彰化から高雄まではたったの2時間前後であった。

病院へ行こうとした時、彼女は叔母からの電話で、祖父が水曜日から木曜日のお昼まで入院していたことを知った。怪我の状況がはっきり分からず心配ばかりして眠ることができなかったが、祖父は彼女と電話で話した後、安心して眠りについた。叔母は彼女に感謝をしたが、彼女は自分ではなく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持によるものだと言った。その後彼女は病院に行き、怪我の状況を聞いた。祖父は観想した経過と安心して眠りについた時に感じたことを直接彼女に語った。祖父は誰かが助けてくれていたのを知っていた。彼女は祖父に、「尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを信じるように」と何度も言った。

祖父の入院期間、彼女の母親と叔母は祖父を大きな病院へ転院させようとしていた。祖父の今回の入院は病気ではなかった。胃カメラを撮っている時に胃に出血があり吐血したのであった。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法座上での説法を思い出した。「病院の治療が多ければ、受ける苦しみも多くなる。」その場で彼女は、転院後の再検査は祖父にとってより多くの苦しみとなるからと転院させないよう皆に勧めた。この期間、別の宗教団体が祖父を助けようとしたが、祖父は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのみに揺ぎない信心を起こした。

彼女は衆生にいつも最高の物を下さる尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。祖父は今回、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心を起こした。これは正に、不思議な漢方軟膏と天然無毒のチベット香がきっかけとなり与えられた素晴らしい御縁であり、祖父はそれらを使用後、これらが全て良い物であり、彼に非常に大きな助けとなることをはっきりと知った。それ故に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対して揺るぎない比類の信心を起こしたのだ。祖父の入院期間、彼女は漢方軟膏を祖父の唇に塗って唇が乾いて切れてしまうのを防いだ。兄弟子達が話す通り、漢方軟膏は実に万能薬で、無数の衆生を利益した。高雄を離れる時、彼女と彼女の夫は話し合わなかったが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが祖父の頭上で加持するのをずっと観想していた。

先週の土曜日、彼女が台北に戻ると、兄弟子達は祖父に甘露水を飲ませるよう勧めた。彼女が思いつかなかった事である。母親にこの事を伝えると、母親は昨年の大法会の甘露水を家から高雄へ持っていったが、甘露水は長く放置してあったのに加えて祖父は胃を出血していたので飲ませる気になれず、唇につけてあげただけだった。だが、祖父は飲むと言ってきかず、日曜日に甘露水を飲み、月曜日に退院した。退院したその日は自宅の近くで自転車に乗っていた。水曜日、彼女が祖父の様子を聞こうと電話した時、母親は、既に正常な飲食ができるようになったと言った。非常に短い一週間にも至らない時間でである。88歲という高齢の老人に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大きな加持と、リンチェンドルジェ・リンポチェに対する信心がなかったなら、こんなに早く回復することは不可能であっただろう。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと今回祖父を病気にした衆生達に感謝をした。それは、今回の祖父の入院事件のお蔭で、元々信じていなかった母親に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大きな加持力と能力を感じさせたからであった。

彼女はこの機会を通して発露、懺悔した。懺悔は幼い頃より大きくなるまで食欲を満たす為に多くの衆生の肉を食べてきたことを懺悔した。空を飛ぶもの、地上を走るもの、海を泳ぐ衆生、食べないものはなかった。小さい時は、おもしろがってミミズを捕まえ、カエルを捕まえ、糸でカナブンの足を縛り、彼らの恐怖を煽りむやみに飛び散らせた。屋根から落ちてきた小鳥に無理矢理エサを与えて死なせた。体の上に塩を置かれたヒルは体を丸めて苦しんで死んでいった。ハエ、蚊を叩き、アリ、ゴキブリ、クモ等を殺し、無数の衆生を傷つけた。テストではカンニングをし、両親に逆らい、意固地になって緑豆のお汁粉を両親にかける等、恩知らずであった。就職してからは会社の文房具を盗んで家に持って帰った。会社の電話でプライベートの電話をし、会社の時間を盗み、同僚とは両舌を犯し別の同僚の良し悪しを語り、財を貪るために不法な物品でさえも販売した。自分の気持ちの上での楽しみを満足させるために、話をする時、先に相手の気持ちを考えることなく他人を傷つけたのにも拘らず、自分のために言い訳を探し、心の中では自分はただ話が直接的だからだと思っている。口先だけで心では悪いと思わない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの説かれるように、心で思っていないことをなぜ口にすることができるのか?自分の心に沢山の悪があることを懺悔すべきだと知った。彼女は結婚の披露宴で合計150テーブル余りの肉食を頼んだ。その時は自分の威光を得意に思った。現在思い返してみると、実に、衆生の苦しみから自分の幸せを得ていたのだ。自分が地獄に堕ちるべきだと懺悔した。皈依後、三宝を敬わず、皈依してほぼ一年が経ってから、やっと仏壇を設置した。アキ仏母の御写真をいただく際、自分のお腹の事だけを考えて、上師と諸仏菩薩が衆生を済度する辛苦を考えたことはなかった。道場に到着し登録時間が過ぎたのに、道場の兄弟子達の勧めを聞かずに貪念を起こして執拗に登録しようとし、兄弟子たちを困らせた。リンチェンドルジェ・リンポチェが説かれる通りだ。アキ仏母は非常に霊験あらたかだ!アキ仏母の御写真を開眼供養していないのに、慌ててラミネート加工しようとした。彼女の悪行は掴み出された。二月に参加したインドの法会の夕食の際、インドのガイドが若い兄弟子達に男性用のネクタイを沢山渡した。その時、彼女は貪念を起こし、返そうとしなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが夕食時に話された「祥楽はNo Shoppingツアー」であることを聞き入れず、最終日には自分を許してさえいた。境界が現れた時、心は完全に弛んで崩れ落ち、ショッピング同意書にサインをして、話をよく聞かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェ、諸々の仏菩薩、アキ仏母のお蔭で、彼女のあらゆる悪行、悪念は全て掴み出され、彼女は改める機会を持つことができた。

彼女は彼女のような悪弟子の家族が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持と救いを得られたことを恥ずかしく思い、気が咎め、報う方法がないと感じた。この業報身によって累世及び今世の衆生に対する債務を返済し、最も清らかな身、口、意で上師に供養し、並びに、よく話を聞き、100%教えに依って行動し、毎日謹んで言葉を発したり行動することを注意し、仏法を学ぶ機会を与えてくれた全ての衆生に感謝するだけだ。彼女は、いつ何時も自分をよく見つめ、自分に注意を促し、自分の悪行及び悪念を改め、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの歩みにしっかり従い、自分を絶対に放縦してはならないと思った。

最後に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと尊き直貢チェツァン法王の法体の安泰、法輪常転、この世での永住、直貢噶舉の法脈が永遠に伝承され、天下にその旗が掲げられ、無数の諸々の有情が利益されることを願う。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がられ自ら共修法会を主催され、列席者に貴重な仏法を説かれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは元々今週、皆に密法の理論をより多く説法し、将来密法を学ぶ際の準備をさせようとしていた。だが、皆はやはり自分勝手で自己の利益だけを考え、95%は密法を学ぶ基礎がなく、聞く資格もない。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは道場で五体投地をする人は身を起こして座席に戻るよう指示した。どう礼拝しても同じだ。礼拝しなくてもよい。

昨日、皈依して1年余りの男性弟子が妻と子供を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。妻は、息子が入浴中に白い影が飛んで行ったのを見て、幽霊だと非常に恐がっていると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で子供を叱った。「お母さんが十数年叱っても全然恐がらないのに、白い影が飛んでいったのを見ただけで恐がるのか?」さらに、「この男性弟子は皈依して一年余りも経ち、家の中に仏壇を設置し、アキ護法の御写真を安置しているのに、妻を連れてきていい加減な事を言っている!あなた方が皈依した時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは話した。皈依後、皈依戒を破らなければ非人があなた方を傷つけることはない」と。皈依したのにまだ恐がっている。それはこの人が慈悲心を育てる準備をしていないからだ。慈悲を修するようにとは言わないが、慈悲心を育てる準備さえもしていない。

この弟子は一年余りの仏法を聴いた。彼の妻と子供は皈依していないが、適当な機会をつくり、家族に正確な仏法の考え方をはっきりと説明すべきである。我々は家族全員が仏法を学ぶ影響を与える能力はなく、家族が仏法を学ぶかどうかは彼らの個人の因縁と自由であるが、少なくとも我々が家族の誤った考えを見た時は阻止すべきである。この男性弟子は皈依したばかりでなく、皈依して既に一年余りが経った。家族に正確な仏法の概念を聞かせるべきであるが、結果として妻を連れて質問にきた。彼が悪に随っているからだ!

影が通り過ぎたからと恐れる。影は幽霊なのか?影が幽霊なのなら、あちらこちらにできる影は全て幽霊なのか?実に奇怪千万だ!以前あなた方に言ったことがある。あなた方に恩がなく怨みがない鬼道衆生はあなた方の所に来るはずはない。あなたに恩があるか、怨みがある鬼道衆生だけがあなたの所に来る。或いはあなたが修行者であった場合、鬼道衆生はここから助けを得ることができるので、あなたの所に来る。仏法を学ぶ者であるなら、鬼道衆生を見たからといって何も恐がることはない。もし鬼道衆生があなたを傷つけに来たなら、一切は因果であると受け入れることもできる。懺悔しても間に合わない!リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、鬼道衆生に出逢うことは望ましい事だ。それは彼らを助けることができるからである。

この男性弟子の息子は通常、両親がどんなに叱っても恐れず、同じように話を聞かなかった。だが、白い影を見ただけでこんなに怖がっている。リンチェンドルジェ・リンポチェはある出家弟子に說明するよう指示した。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの出家弟子に、この家族を助け導くよう言い、この出家弟子が彼ら家族を長時間叱るのを見た。彼らに何を言ったのか?この出家弟子は、「彼女はこの家族に、息子が幽霊を見たと思っているのは彼らに上師への信心がないからだ」と言った。また、「彼の息子は日々を自適に暮らしており、コンピュータゲームで遊びすぎ、気持ちが高ぶりすぎて見間違ったのかもしれない。彼らが怖いと言っているのは、昼間、レストランでロブスターをお客に運んでいる時に起きた恐怖感である。リンチェンドルジェ・リンポチェは尋ねられた。「息子は学生なのか仕事をしているのか?」出家弟子は「彼の息子は現在、インターンシップの学生で、レストランサービスを専攻している」と報告した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、「この出家弟子は皈依してしばらく経つが人を叱ったことがない。だが、昨日は彼らに我慢できず長時間叱責していた。この男性弟子は仏法を学び菜食しているのに、子供の飲食に関しては放任状態だ。本当に仏弟子であるのか?彼は妻を恐がり、息子も怖がっている。だから言う勇気がないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはこの男性弟子に聞いた。家では奥さんが主導権を握っているのか?男性弟子は首を横に振った。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて、息子に主導権を握らせているのか?と尋ねられた。男性弟子はやはり首を横に振った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、主導権が奥さんにも息子にもないなら、一家の主がなぜ直接言うことができないのか!

だから、なぜ今日は密法を説かないのか?もしあなた方が密法を学んだのに教えに依って行動しないのなら、その果報は非常に深刻なものとなる。ガムポパ大師は説かれた。「我々の信仰と信心のために、雲散霧消が起こるかもしれない。その特別な時に、例えば、慚恥の心を備えていたなら、自分を正法から遠ざけない多くのパートナーが我々に提供されるだろう。この慚恥の力を借りて、我々は再び信仰と信心を取り戻すことができ、よって、この「慚恥の心」は確実に特に重要なものとなる。」

皆は自分勝手で自己の利益ばかり考えているが、自分には信心があると言う。しかし、慚愧心や羞恥心が少なくてもただ信じていれば庇護してもらえると思っている。物事をなす行為は全く仏弟子のようではない。皈依して1年余りの弟子は家族の悪行を放任していても、毎日護法を修すれば庇護してもらえ、観世音菩薩の聖号を唱えれば孝行だと思っている。あなた方はなぜ過ちの上にまた過ちを重ね、悪念を起こし続けるのか?それは、慚愧心、羞恥心がないからだ。慚愧心、羞恥心があるのなら、なぜまた過ちを犯すのか?自分が過ちを犯したことを知っても、改めるのに間に合わない。どうして再び過ちを犯すのか?慚愧心、羞恥心が何もないなら、自然に因果を信じなくなり、どんな事でもしでかすようになる!

台湾では、多くのレストランで肉食を作っている。レストランサービス科の学生が卒業したら、コックになるのではなくウェイター(ウェイトレス)になり、殺生業に関する業界に従事する。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も殺生業について説法した。お経には衆生の肉でお金を儲ける果報についてはっきりと説かれている。また、あなた方に共業の恐ろしさについても告げているが、一向に信じない。現在、世の中の多くのレストランのウェイター(ウェイトレス)は皆、レストランサービスを学んだ学生だ。これによって、レストラン側は安い価格のウェイター(ウェイトレス)を探すことができ、学校側は、学生にサービスする経験を積ませられる。

この弟子は、子供が好きなのであれば学ばせよう、学び終えた後は、もしかしたらレストラン業に就かないかもしれない、後のことはまた話そうと思っていたのかもしれない。しかし、子供は小さくて何も分からない。父親となる者が説明すべきである。子供は18歲になる前は、両親が管理する条件が必ずある。阻止する能力も必ずある。彼は皈依して1年余りが過ぎ、自分の息子が悪行を犯しても阻止しない。彼はやはり仏法を信じず、因果を信じないのだ。今まで仏法を学ばず、庇護だけを求めてきた。彼には密法を学ぶ資格はない事が理解される。リンチェンドルジェ・リンポチェはいろいろ説いたが、あなた方は仏法を信じない。これでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは説き続けることはできない。もうあっさりと説法はやめよう。

あなた方は護法がこんなにもすごいことを信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に説いたことがある。今年、アキ護法はこれらの心の正しくない者をつかみ出すであろう。この男性弟子は話を聞いて行動すれば何事もないと思っていたが、心が正しくなかったので奇妙な事にリンチェンドルジェ・リンポチェに知られてしまった。彼には慚愧心、羞恥心がなかったので、アキ護法は彼を表面に出した。慚愧心、羞恥心がなければ、信仰があり信心があってもやはり間違いを犯す。信心があり、三宝を敬うなら、上師を完全に信じ、話を聞き入れて自分を改める。顕教の法師はあなた方に仏の理論を語るが、あなた方が改めたかどうかには構わない。なぜチベット仏教の中で上師は特に重要なのか?上師はあなた方の問題に対し、あなた方を放縦させることなく、輪廻する一切の行為をあなた方が改められるよう助けるからである。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは重ね重ねこの男性弟子の班長を叱責した。この男性弟子は皈依して一年余りであるのに、彼の息子はレストランサービスを学んでいる。組長として、無関心、感情がないのか?この組に発生した問題は特別多い!組長である弟子は現在、恙無く日々を送っていて、仕事は安定し、奥さんも健康で、子供は話を聞くようになり、家庭円満だ。彼は自分だけ恙無く日々を送れればそれでよく、他人に無関心でいられるのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために長寿仏を修することにより、ここ数週間は身体に病がある者を少し快適にし、眠りにつき易くし、病苦を緩和した。その結果、皆のためにお金を少し節約した。皆は自分が平和な毎日を送り、自分の家庭を円満にすることだけを理解し、その他の衆生が苦しみを受けても構わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の業障が実に深く重いのでこのような弟子を得たと、深く感じ入った。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこのグループのもう一人の組長を担当している弟子を指名し、この二名の組長である弟子を激しく叱った。彼らのこのような、自分の家の門前の雪だけを除雪するような自分勝手で自己の利益しか考えない行動のどこが仏弟子なのか?リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で、組長を担当しているこの二名の弟子及びその家族は密法を学んではならないと言った。二名の組長のうち、一人は自分に子供がいないので、グループのメンバーの子女への心遣いを知らないだろうから、情理に応じて許す余地はある。しかし、もう一人の組長は自分にも子供がいて、家の子供の事情は詳しく知っており、どんな事に関心を持って意見を言うべきであるかを知っているのに、今までグループのメンバーの子女がどんな業界に従事しているかについては無関心であった。他の宗教の仲間間は非常に熟知し合って、互いに心遣いをしている。これらは、他人の事情をはっきりさせる為にではなく、相手のどんな所を助けたらよいのかを知る為である。あなた方は仏弟子だと言っているが、この点についてさえ手落ちがある。簡単に言えば、自分には関係ないとさえ思っている。

彼らは、「リンチェンドルジェ・リンポチェは今迄、グループのメンバーの子女がどんな仕事をしているのかを気遣うよう言ったことがないので、無関心だった」と弁解するかもしれない。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは各グループに毎月食事会をさせており、兄弟子、弟弟子が相互に関心を持てるようにした。食事会の時に、組長はグループのメンバーが仏法を学ぶ上で、または生活上で出逢った困難を理解することにより、適時、援助とアドバイスができるようにした。だが、班長となる者が、食事会は料理の注文をすればよいと思い、任務をまっとうするという気持ちでしていて、グループの兄弟弟子に無関心でいる。あなた方はこんなに自分勝手だ。どんな事でもリンチェンドルジェ・リンポチェが言いつけないとしない。さもなくば、リンチェンドルジェ・リンポチェがするよう言っていないので敢えてしなかったと言う。今まで嘗て、弟子が積極的に仕事をするのを見た事がない。この二名の組長は、今日、自分が叱られる番が回って来るとは思いも寄らなかったであろう。彼らは、自分は話をよく聞き、教えの通りに行動し、間違った事をしないなら叱られないと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを組長にしたのは、彼らに他人を気遣わせる少しでも多くの機会を与えるためであったが、彼らはこんなにも自分勝手で自己の利益を考えている!

リンチェンドルジェ・リンポチェは既にあなた方に言ったことがある。あなた方が仏法をしっかり学ばず、本当に仏法を学びたいと思わないのなら、アキ護法はあなた方をつまみ出すであろう。あなた方の家に仏壇を設けていないなら、こうならないかもしれない。一旦仏壇を設けたのに、あなたが不当な事をしたなら、アキ護法は全て見ていて、あなたをつかみ出すであろう。例を挙げて話そう。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが大直店に行った時、思いもよらぬことに、会社の規定に公然と違反して調理をし、顧客に食べさせていた店員の女性弟子を捕まえたことがある。その経過は非常に奇妙であった。毎回、リンチェンドルジェ・リンポチェが店に行かれる時、運転している車のエンジン音が非常に特別であるので、容易に注意を促した。だが、その日、リンチェンドルジェ・リンポチェは店まで来ると、店の横にパーキングスペースがあったので、まず車を駐車してから店に入った。だから、店に入る前に音が聞こえなかった。店に入ると三人が楽しく食事しているのが見えた。会社の規定では店内で調理できないことは明らかである。店員の女性弟子は故意に規定を違反し、自分がこうやっても見つからないと思っていた。友人との交流のため、公然と店で麺類を煮て別の女性弟子と彼女の交際者に食べさせていた。

彼ら三人は店の中で、一人が調理し、二人が食べ、話をし笑いながら既に食べ始めていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが最も楽しんでいる時に店内に入ったが、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが入ってくるのに気付かないで食べていた。店員である女性弟子は既に5回も店内で調理をしてお客に食べさせていた。彼女が初めて犯したのなら許すべき点もあったかもしれず、また、会社の規定を忘れたと言えるかもしれない。だが、二回目ならわざとだ。三度目はさらに故意となる。その後は欲しいままに振舞って何ら憚らないことになる。彼女は会社内で、一度だけでなく何度も過ちを犯し、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の面倒をみてくれている事を全く感謝しなかった。真相が明らかになった後も、彼女は自分が煮たのは試食品であり、試食させた後、顧客は買うかもしれないと弁解した。しかし、彼女は既に5回も調理したが、この二人の顧客は買ったことがない。まさか、50回も調理して彼らに試食させようと言うのか?

会社の規定は明快だが、この女性弟子は数を重ねて過ちを犯した。過ちを犯したのが見つかってもまだ弁解している。なぜあなた方に弁解させないのか?それは、弁解すればあなた方が自分の過ちを認めないことになるからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて指示された。この女性弟子と彼女の姉はいずれも密法を学んではならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは法律を理解する男性弟子に答えさせた。この女性弟子の行為はどんな罪になるのか?男性弟子は報告した。この女性弟子の行為は業務上横領罪或いは背信罪である。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。この弟子は会社の規定に敢えて違反し、社長の物を煮て顧客に食べさせた。恐らく社長はお金があるから、店の物を少し調理して食べさせても構わない、彼女が食べさせたのは外部の人ではなく、兄弟子の交際者なんだし、彼らに少し食べさせても支障ない、彼らだって他人に言わないからと思ったのだろう。

あなた方はアキ護法が自分達を助けてくれることを信じているが、アキ護法がリンチェンドルジェ・リンポチェを助けてくれることを信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェは護法にいつも、真に仏法を学び生死からの解脱を願う弟子をしっかり教え導けるよう祈っている。だから、あなた方の仏法を学ぶ心が正しくないなら、アキ護法はあなた方一人一人を表面に出させる。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に、今年は出来事が連続的に発生し、法に依拠しない事が一つ一つ表出すると言ったことがある。あなた方は必ず信じなくてはならない。プライベートでこっそりと行なったすべきでない事を誰も知らないと思ってはならない。我々は仏に皈依した。仏の教える事は我々に懺悔を学ばせることだ。懺悔する心、羞恥の心があってこそ信心がある。羞恥心のある人は過ちを繰り返すだろうか?上師及び諸々の仏菩薩の教えをよく聞かなければならない事を知り、実際に断悪行善をし、自分が再び過ちを犯すことを許してはならない。あなた方がなす事、思う事を誰も知らないからと思ってはならない。我々のこの身体の中には文武百尊、つまり護法と諸々の仏菩薩の檀城があることを知らなければならない。羞恥心のない人は何度も過ちを犯す。仏法は皆が過ちを犯さないように助ける。上師と護法があなたの為す全てを知らないことがあろうか?現在まだばれていないのなら、ただ時が来ていないだけだ!

あなた方が修行したくなく上師に叱責されたくないのならここを去ってもよい。今日リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子達を叱った事は、顕教の道場では問題にはならず、些細な事で、公の面前で言う必要はないかもしれない。だが、寶吉祥仏法センターは、直貢チェツァン法王御自らが直貢噶舉派の正法を弘法する場所としてリンチェンドルジェ・リンポチェを代表に指示した場所である。いわゆる正法とは全ての行為を指し、思想が正しく、衆生を正道に導かなくてはならない。即ち仏法を学んで生死から解脱する修行道上に導くことである。過ちを犯したのなら、どんな事も些細な事にはならない。過ちを犯すことが些細な事だと思うなら、それは因果を信じず、物事の深刻さを理解していないことになる。あなた方に慚愧心、羞恥心があるなら、自分の身口意を詳しく検視することができ、行動して衆生を傷つけたことを知り、悪行を止められる。仏法の偉大さはここにある。仏法の偉大さは、人を変えることができ、人の悪行を止められることにある。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に媚をへつらって、機嫌を取ることはない。あなた方が悪を止めるのを助けるのさえ間に合わないからだ。あなた方が顕教を学んでいた時にこのような電話を受け取ったことがあるかもしれない。「師父はあなたの事を考えてますよ。暫く見かけていませんね。いつ師父に会いにお寺に来る時間がありますか?」あなた方を寺院に来させようとする。リンチェンドルジェ・リンポチェは今までこのような事をしたことがない。また、今まであなた方を尋ねたこともない。

ガムポパ大師はこう説かれた。「もし『慚恥の心』がないなら、我々の信仰と信心が微弱で無力である時、正法に基づかない『非法の業』をなすこともあるだろう。これは世間一般の人が認める大逆無道の事である。——例えば父殺し、母殺し等だ。我々も皆、思索せずに簡単に行なえる。」もし慚愧心、羞恥心がないなら、自然に三宝を恭敬せず、信心を起こすこともない。店員の女性弟子は他人との交際のために社長の物を盗んだ。利益という角度からみれば、何の長所もないだけでなく、ガムポパ大師が説かれるように、非法の業をなす者は続いて大逆無道の事さえもやる。なぜ仏法の中では、小さな善を軽く見てはならず、小さな悪も見過ごしてはならないと言うのか。それは、悪の種がすでにまかれ、あなた方が悪を続けるなら、種は萌芽を始める。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に、「これが小さな悪だからどうと言うことはないと思ってはいけない。全ての大悪は小さな悪の積み重ねである」と何度も説いた。もし、今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが指摘せず、彼女を矯正しないなら、彼女は物を直接盗むかもしれない。全ては小さな所から始まる。あなた方の周囲では大事はめったに発生しない。殆どが小さな事だ。あなた方からみれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが叱責した事は小さな事かもしれない。だが、如何なる大事も小さな事から始まる。小さな事がなければ大きな事も起こらない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の男性弟子に「大直店はいつ設立したのか?」と尋ねた。男性弟子は、少なくとも5年以上になると答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて、「店舗が設立してから5年だけではないはずだ。しかし、この弟子によるならば、数年来、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も店舗に行っているが、一度もパーキングエリアを見つけたことはない。今回だけ、丁度駐車枠があったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは駐車してから店に入り、すぐにこの女性弟子の間違った行為を発見した。アキ護法が実にすごいことが分かる!その時、リンチェンドルジェ・リンポチェが店舗に入ると、彼らは既に一回食べ終わっていた。二人は手の上に碗をのせて楽しそうに食べていた。店員の弟子は鍋で調理を続けていた。それは彼らがまだおかわりするという意味であった。店員の女性弟子は、別の弟子が連れてきた友人の機嫌をとるために、店の物を盗んで彼らに食べさせていた。友人を連れてきた弟子は無料の麺を一生懸命食べていた。簡単に言えば、ペテン師だ。現在は既に追い出された。アキ護法は実に慈悲深く、今回の事件を表出させた。法に遵う修行者を見たので、彼の物が無くなり続けるのを耐えられなかった。別の面から言えば、あなた方が皈依したら三悪道に堕ちることはない。護法は皈依弟子がこのような悪行を犯したのを見て、彼女が地獄へ堕ちるのを耐えられなく思い、事を表出させたのだ。

我々が自分の行為に対して強烈な羞恥心がないなら、我々の信心は脆く無力になってしまい、何かに出遭ったら懐疑心が起こる。信心が衰退、衰弱し、慚愧心、羞恥心がない人は、自己の信心さえも弱まり気づく事ができなくなる。あなた方の信心は充分ではない。ただ表面的なものだ。ただ口で信じていると言い、ただ僅かな風が吹き草が動くような境界が目前に現れただけで、信心はすぐに衰退し、力を弱め、消失してしまう。それはまるでガムポパ大師の説かれた雲散霧消のようだ。信心は非常に重要であるが、あなた方の信心が堅固ではないので、信心だけでは不十分である。同時に慚愧心、羞恥心が必要だ。仏道修行には、この二つの心があってこそ継続的な進歩が実現するので、非常に重要である。

暫く念仏を唱え仏菩薩に助けを求めているが、効果がまだ見られないと言う者もいる。口では言わないが、心の中ではこっそりとそう思っている。「どうして効験がないのか?」このように不信の心を起こすのも仏を誹謗したことになる。信とは深く因果を信じ、仏の教え導く方法が我々を輪迴から解脱させ仏の境地に至らせる方法であると深く信じ、我々は上師と諸々の仏菩薩の加持と教えのもとで将来必ず実現できると信じる事を意味する。あなた方が言う「信」とは、上師や仏菩薩があなた方の病気を治してくれ、悪い事を好転させてくれることを信じるだけだ。だがこれは実のところ本当の信ではない。仏菩薩が自分を助けてくれることだけをひたすら信じ、自分では修行せず、実行しないのなら、それは只の迷信である。表面的には仏法を学んでいる人であっても、心は外道と同様であり、何でも外に求める。生死からの解脱のために仏法を学んでいるのではない。これはガムポパ大師の説かれる「正法に遵わない非法の業」である。

昨日リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターで信者に面会した際、ある女性弟子の友人が非常な不敬の態度で両手を胸の前で組んで隣に立っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、「仏法を学ぶ人がまだ、三宝を信じず不敬を働く人と一緒にいる。彼女の友人は仏菩薩を軽視するのなら、寶吉祥仏法センターに入ってはならない」と説かれた。現場には奉仕をしている十数人の弟子がいたのに、いい加減な者が道場に入る事を許した。現場にいる多くの奉仕者はおしゃべりしていて、彼が敬わない事に注意を払わず中に入れた。リンチェンドルジェ・リンポチェはある出家弟子に「三宝を敬わない因果は何か?」について回答するよう指示した。出家弟子は「無間地獄に堕ちる」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて説かれた。彼が両手を胸の前で組んでいたのは最大の不敬を表す振る舞いだ。道場に来ても尚、仏菩薩の面前でこのような不敬を働いたのに、あなた方は勧告せずに、彼を出て行かせなかった。これは、彼に仏を誹謗させ、地獄の因を植えさせたことになる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは以前一家で天主教を信仰していた男性弟子に、「彼の知る所によるなら、もし天主教の教会の中で両手を組んで立っていたら、天主教徒はどうするか?」について回答するよう指示した。その男性弟子は、「教会の信者達が彼を出て行かせる」と答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは厳しい声で叱責した。昨日は外にあんなにも沢山の奉仕者がいて、現場にもあんなにも沢山の弟子がいたのに、一人として前に行こうとしなかった。道場内でこのような不敬を働く者がいたのに、あなた方はまだ心を動かさず、見て見ぬふりをし、全く仏法の尊厳を守ろうとしなかった!各人はただ貪念を抱き、道場に来て奉仕すれば福徳があると思っているだけだ!この女性弟子の友人がこのような行為をしたのは、彼の友人が上師に皈依するのを馬鹿にしているからだ。また、この女性弟子さえも彼に勧告しなかった。あなた方の友人が信じないなら、無理に彼を連れてこなくてもよい。却って悪念を起こさせて悪い果報を得させ、彼を傷つけることになる。

この女性弟子の友人がこのような態度であったのは、彼女が通常、その友人に上師の功徳を讃える話をしていなかったからだ。他の宗教の信者は、自分の信仰について公に語ることもあるが、仏教徒は自分が仏教徒であることを公に語りたがらない。奉仕をしている弟子は、善人になりたいと思ったら、他人の機嫌を損ねることをしたがらない。道場内で不敬を働く者がいたなら、少なくとも失礼のないように相手に伝えるか、相手に出て行ってもらってもよい。結果は、行動を起こす者が誰もいなかった!奉仕者達がもし善人になりたいと思うのであれば、奉仕をしない方がよい!以後また不敬を働く者が来て、奉仕者が彼を出て行かせなかったなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは奉仕している弟子達を全て追い出すことにする。

もし慚愧心、羞恥心がないなら、正法を守ることはできない。それは、奉仕をしていた弟子達と同様だ。仕事をする時に思索をせずに、リンチェンドルジェ・リンポチェはそれをするよう言っていないから自分の事ではないと思う。こんなにも多くの弟子達がいるのに、積極的に仕事をする者が一人もおらず、リンチェンドルジェ・リンポチェが叱って初めて行動する。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前、あなた方に説いた事がある。かつてモルモン教徒が寺院に入り込み仏を誹謗する歌を歌った。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは一人きりであったが、すぐに彼らの所へ行き出て行かせた。如何にせよ、彼らにこのような三宝への不敬を働かせてはならない。あなた方は?あなた方は殴られるのを恐れるか、罵られるのを恐れる?皆は他人から恨みを買いたがらない。なぜ仏法が衰えるのか?それは、あなた方のような人がいるからだ!

既に往生された直貢噶舉派の大修行者ユンカ・リンポチェは、嘗てこう説かれた。「密法は世間ではあと700年しか伝えられず、その後はなくなる。」リンチェンドルジェ・リンポチェは現在の状況をみて、本当にこうなるかもしれないと話された。仏法は三宝への恭敬に依るもので、仏法を学ぼうと発心する者によって伝えられる。もし仏法を学ぶ者が仏法の尊厳を保守できないなら、仏法をどうやって伝えていくことができるのか?もし今日、イスラム教の寺院で不敬を働いたならすぐに殴られることだろう。あなた方は仏菩薩が話をしないから、いじめ易いとでも思っているのか?昨日こんなにも多くの奉仕者及び弟子が道場にいても、一人として真に仕事をする者がいなかった。何事もリンチェンドルジェ・リンポチェが自ら見て、しゃべらなくてはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは職務を遂行していないと理事長を叱責した。別の道場では、専門に威儀と仏教の尊厳を保守する人員が見ているのに、なぜ寶吉祥仏法センターはその仕事をこなせないのか?動作は表面的には威儀と仏教の尊厳を保守しているように見えるが、実際には、仏菩薩は非常に慈悲深く、衆生が悪因を植えることを耐えられなく感じている。

この女性弟子は友人を道場に連れてきて、彼の不敬を放任した。リンチェンドルジェ・リンポチェは女性弟子にこの友人から離れるようには言わない。これは彼女と相手の間の事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが構うことはない。この女性弟子は皈依して暫く経ち、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前彼女に、しっかり仏法を学ぶよう言ったが話を聞かなかった。自分に時間ができた時に戻ってきて法会に参加すればよいと思っていた。こうしたら庇護してもらえると思っていた。他宗教であるなら、少なくとも十戒をしてこそ、天使の引接がある。彼女はなにもしなかった。それなら何もない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を見ると本当に心が痛む。

あなた方は非常に奇妙に非常に矛盾していると思うだろう。特に女性信者はである。自分は仏法を学び菜食をしている事を明らかに知っているのに、肉食をし仏法を学ばない相手を選ぶ。相手が仏を信じず菜食しておらず、あなたの信仰さえも認めない。あなた方は続けて相手との交際を続けるのか?少しも自分の原則がない!もし他の宗教の信者で、教義の規定に豚肉を食べないとあるなら、結婚しようとしている相手が豚肉を食べないことを認めないなら、彼らは絶対に結婚しないことだろう。あなた方皈依弟子はなぜ相手にはっきり話さないのか?仏法を学ぶのを恥ずかしいと思うのか?なぜ話せないのか?仏法を学ぶ者の威厳が少しもない。いわゆる威厳とは、他人にあなたを恐がらせるのではなく、あなた方が真に変わり、他人にあなたの威厳を感じ取らせ、仏法を学ぶ者の特別な所を知らせ、三宝に対する恭敬心を自然に起こさせてこそ、彼に福徳を積ませ、未来に仏法を学ぶ因縁をつくる手助けができる。

ガムポパ大師はこう説かれた。「このような悪業は、ただの一度だけかもしれないが、我々は多くの者にはねつけられ、多くの矢の的になるかもしれない。或いは、自分があっさりと廉恥心を失い、羞恥心、慚愧心のない者となるかもしれない。こうして、未来のあらゆる(世間或いは出世間の)前途は、これに随って跡形もなくなるであろうことを覚えおきなさい。」もし信心と慚愧心、羞恥心がないなら、ただ一度の悪行であっても、衆生から非常に軽蔑されることになる。それは、仏法を学ぶ者であるのに、ほんの少しも衆生を利益しようという考えがなく、自分の利益のために衆生を傷つけるからだ。時間が経てば、自然と悪をなすのが習慣となる。このように未来の世間と出世間の前途もまた崩れ去る。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前あなた方に説いたことがある。あなた方が出世法を修し得て、世間法も問題なく修したが、仏法を学んだ後に信心と慚愧心、羞恥心を起こさないのなら、生死を解脱し、さらに成仏し衆生に利益するのは不可能である!

ガムポパ大師はこう説かれた。悪をなす悪業は、ただ一度だけであっても人に軽蔑される。自分の廉恥の心を信じ、ある事はすべきでないと知っている者もいる。あなた方は仏法を学んだ後に制限がたくさんあり、どんな事もできないと思ってはならない。実のところ、仏法を学ぶという事は、あなた方に仏法の教えを受けさせた後に因果を深く信じさせ、元々すべきでないことを続けさせない事である。あなた方は、ある事をするとリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られると人を脅かすのが好きだ。殊に各人の因縁が異なることを知らないので、やった事をリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるかどうかをあなた方に知る由はない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方が思いつかない種種の方法であなた方を助ける。叱られるのさえあなた方にとっては良い事だ。叱られるのを恐がる人は最悪で、心が最も良くない人だ。ずっと言い訳だけをする。間違った事をしたのに何を言い訳する事があるのか。自分に羞恥心がないので言い訳をする。

リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜあなた方のために長寿仏を修法したのか?先週の法会で長寿仏の灌頂を行なった後、家に帰ってこの一週間、あなた方は身体の病気が充分によくなったと感じたり、病気が緩和されたと感じ、比較的よく眠ることもできたであろう。なぜ身体が快適になったのか?それは、上師が自分の一切をあなた方に与え、あなた方が使うお金を沢山節約してあげたからだ。あなた方は上師が手に五色旗を持ち、自己の身体から外に振り動かして皆に加持を与えるのを見ていた。それは、上師が自分の一切、即ち寿命、福徳、修行の功徳を全てあなた方に与えていたのだ。あなた方は自分には見えないと言うかもしれない。上師が自分の一切を与えたということをどうやって知る事ができるのか。上師が自分の一切をあなた方に与えていないなら、灌頂後すぐにあなた方に福徳が現れることがあるのか、病気が緩和されたのではないか?あなた方はこんなにも多いので、灌頂前、リンチェンドルジェ・リンポチェはまず準備を行なった。先ず準備を強化した自分をあなた方に与えた。先週リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために長寿仏の灌頂を行った時、既にあなた方に話したが、悪い考えがあったなら、寿命は減る。もし悪口を加えたら更に少し減る。行為さえもしたなら更に少し減る。あなた方がやはり他人に納得できず、怒りや恨みを生じさせ、他人が自分に済まない事をしたと思うなら、あなたの寿命は減る。身体の状況が良くなく、仏法を受け入れられないなら、教えに基づいて行動をするとは言わなくてもよい!

人は悪行をすると寿命が減り続ける。あなた方には経験があるかもしれない。占いをする者が、ある人は90歲まで生きると言ったが50歲で死んでしまった。なぜか?この人は悪行をし、自分の寿命を減らしていたからだ。長寿仏の灌頂後、あなた方は絶対に悪行をなしてはならない。絶対に悪い思想をもち悪い言葉を言ってはならない。殺生だけがあなたを短命にすると思ってはならない。あなたに悪い思想、悪い言葉、悪い行為があるなら、寿命は減少する。あなたが悪行をなすと、これに従いあなたの寿命も減る。一年減り、一ヶ月減り、一日減り、一時間減り、一分減り、一秒減る。レベルに応じて決まるが、必ず減っていく。

リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方のために長寿仏を修法してくれたなら長生きできる、と思う者も沢山いるだろう。先週、あなた方のために長寿仏を修法し、皆それぞれが快適になり比較的よく眠れるようになったと感じる者もいただろうが、真に利益を得られる弟子は数人しかいない。それは、あなた方の信心と懺悔心、羞恥心が強烈ではないからだ。まるで自分の息子をレストランサービス科で学ばせ、悪業を犯しているこの弟子は、皈依してから今迄、リンチェンドルジェ・リンポチェの説いた殺生業の深刻さを聴いてはいるが、全く聞き入れていない。彼は殺していない、彼はやっていないと弁解するかもしれない。この弟子もまた貪念を起こし、息子は成績が悪いので、レストランサービス科に行けば少なくとも大学に入学できる。まず行かせてから話そう。息子は卒業したら、もしかしたら飲食関係の仕事をしないかもしれない。だが、彼は悪業の共業には影響があることを忘れていた。彼は身口意で自分の息子の寿命を減らした。心中思う事、口で話す事、加えて行為がこの悪業を円満にした。リンチェンドルジェ・リンポチェは叱責した。このような者も寶吉祥仏法センターで仏法を学ばなくてよい!

多くの者が自分の犯した過ちを弁解する。自分の間違いを知り、過ちの結果を受け入れてこそ、もう一度その事をやり直せる。人の本性は全て清らかだ。過ちを犯すのは、貪念があるからで、貪、瞋、痴が起きると過ちを犯す。あなた方の多くは彼と同じように、最初に過ちを犯した時にいつも、自分は八方塞がりだったから仕方なく悪行をなしたのだと言い、どうにかしてそれを隠そうとする。その結果、悪循環となり、最後に、自分には少しの選択の余地もなかったと言い、命を粗末にし、自暴自棄になる!これは彼が初犯を犯した際に誰も彼を止める者がおらず、彼自身にも慚愧心、羞恥心がなく、最後に収拾がつなかくなったのである。実際のところ、どうして八方塞がりになるのか?あなたがあなた自身に悪行をさせてこそ八方塞がりになる。地獄に行くだけになるのだから!

あなた方は自分の寿命を減らしている。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の寿命を延ばすのとは異なる。なぜ仏菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェに寿命を増やさせたのか?それは、教派のためになることを沢山し、さらに多くの衆生を利益しているからだ。あなた方のように、自分は数年長く生きて、息子が結婚をして、子供を生み、孫がまた結婚するのを見たいというのとは異なる。あなた方は自分のために求める。例えば、多くの者が、一家の精神的な支えを失わないようにと、観世音菩薩に自分の主人が数年長く生きられるようにと願う。また、観世音菩薩に自分の主人が息子が卒業するまで生きられるようにと願い、さらに、息子が仕事を見つけられるまでと願い、仕事を見つけた後は息子が結婚するまで、息子が結婚してからは孫が生まれるまでと、永遠に願う。このようなお願いの仕方は、どのように求めても得られない。誰もあなたを相手にしない!リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに息子を構わなくなった。彼が子供を生むかどうかも彼の家の事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが延命したのは、直貢チェツァン法王と教派のために仕事をするためだ。

いわゆる慚愧心、羞恥心は、申し訳ないから起こすのではない。自分の信心が揺れ動いた時に、その時に自分の過ちに気付き恥じて慚愧の念を起こすので、二度と同じ過ちを犯さない。あの道場の弟子達は、道場でこのような不敬を働いた者を見たのに、なぜ止めなかったのか?それは、彼らに慚愧心、羞恥心がないからで、人の恨みを買うのを恐れるだけで気が引けて止められなかった。また、他人を厭い、他人を嫉妬し、他人を恨むのは、全て慚愧心、羞恥心がないからだ。果報を受け入れないのも慚愧心、羞恥心がないからだ。

先ほど取り上げた、調理してお客に食べさせていた女性弟子は、連続5回過ちを犯しただけではない。通常よく間違いをする。それも慚愧心、羞恥心がないからだ。彼女は長期的に過ちを犯すのが既に習慣になり、社長、上師、姉妹弟子を騙すのも習慣になっていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供にいつも言っている。「家で間違いを犯しても両親は許してくれるが、社会に出たら他人は許してくれない。」だが、現在、多くの両親は家の中で子供を放任しており、子供の思うままに勝手にさせている。過ちを犯しても教えず、構わない。子供をレストランサービス科に行かせる男性弟子のようなものだ。子供は家の中で両親に放任されるのに慣れてしまうと、社会に出てから本当に不運な目に遭う。現在の両親は子供が社会に出て不機嫌であれば、子供に少し苦労をさせようとは思わないで、子供を家において両親に養わせようとする。これでは子供は以後、本当に苦労が絶えなくなる。

先ほど取り上げた長期的に過ちを犯した女性弟子は、このように続けていくうちに、悪い考えをもつ習慣を長期的につくった。この弟子のなした事は、リンチェンドルジェ・リンポチェが今までずっと訓戒してきたものと同じ範囲に属する。即ち、何度も間違いをし、何度も何度も過ちを犯す人だ。なぜこうなのか?それは慚愧心、羞恥心がないからだ。このような者は慚愧心、羞愧心がないので、間違いを繰り返す。長期的に行い収拾つかなくなり、深刻な過ちを犯す。だが、彼女が深刻な過ちを犯した時も、やはり自分のために言い訳をする。「仕方がなかった。私はこういう人なのだ!」羞恥心の欠片もない。あなた方の多くはこのような考えだ。このような考えをする人は慚愧心、羞恥心がない人である。

常に過ちを犯す女性弟子は自分が会社の規定に違反した時、自分のために理由を探そうとした。このような行為は自分の過ちを認めようとしない行為だ。心から過ちを認める人が弁解するだろうか?もし、依然として弁解する人は自分の過ちを受け入れず、自分の過ちの結果に向き合おうとしない人だ。自分が間違いを犯した結果に向き合おうとし、受け入れようとする人こそが真に改めようとする人だ。「恥じ入り慚愧する」とは人を見て恥ずかしがることではない。ある者は面と向かう顔がない、会わせる顔がないと言う。これもまた真の羞恥心ではない。ただ逃避したいだけに過ぎない。真の慚愧心、羞恥心がある人は、自分を改めようとし、一切に向き合う勇気がある。あなた方は現在、なぜ自分がずっと修し得ることができないのかを知ったのではないか?ここまで話し、あなた方はやっと、リンチェンドルジェ・リンポチェが常に言っていることを理解したであろう。リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるのを恐がる者は心が最悪だ。叱られるのを恐がるというのは自分に間違いがあるのを認めないからで、自分を改める準備が全くできていない人だ。

仏法を学ぶには強烈な信心をもち、並びに慚愧心と羞恥心とを常に備える必要がある。例えばただ単に強烈な信心をもつが慚愧心と羞恥心がないのなら、強烈な信心を道具として人を傷つけることもある。真に慚愧心、羞恥心がある人は、衆生を傷つける何らかの行為を避けようとする。我々は、何かを行い、何かを話し、何かの思いを起こす前でさえも、自分がこのように行なうと他人を傷つける事がないかを先に考えるべきだ。

ガムポパ大師はこう説かれた。「このように観ると、『信』のみに頼ることは、当然ながら非常に不十分である。よって、我々は同時に『慚』を兼ね備えなければならない。これが極めて大きな鍵となる。国王には慚愧心、羞恥心があったので、屠殺業者のような下賎な殺生を潔しとしなかった。この例で言っている事は、正にこの種の道理だということを知る必要がある。」

屠殺業者と同様に殺生をしなかった国王のように、慚愧心、羞恥心をもっている人は衆生を傷つける如何なる事もしない。ここでいう「潔しとしない」とは、軽視することではなく、「下賎」も屠殺業者の卑しさを意味するのではない。ここでいう「国王」は正真正銘、慚愧心、羞恥心をもっている人のことで、自分の利益のために、思想、言語、行為上でいかなる衆生をも傷つけることを望まない人である。「衆生を傷つける」とは殺生だけを指すのではない。ただ、あなたの行為、言語、思想が衆生に対して悪を行なうなら、衆生を傷つけることになる。

ガムポパ大師はこう説かれた。「例えば『信』と『慚』の二者を兼ね備え、尚且つ二者が融合し合い、互いに補い合うなら、我々が行なう一切の修行は全て正法に向かうであろう。」「同じ道理において、強烈な信心によって唯正法の基礎の上に行ない、更に『慚愧心、羞恥心』をもって他人を軽蔑することを恥じるなら、『私は一体、自他のどちらを行なったらよいのか?』ということを思惟し決定する岐路に遭遇した時、他人からの軽蔑を心配する事や、一時的な目先の行為をする事に対して、自然に注意深く物事を行なうようになる。また、これにより、一切の自他の利益が全て残すところなく実践できるようになる。」

「自他について、私は一体どちらを行なったらよいのか?」例えば、あなた方はどの仕事を選ぶべきか?誰と結婚すべきか?どう決定すべきか?と言う。あなた方の選択の全ては自分の利益から着手して考える。なぜ他人はあなたを軽く見るのか?それは、あなたが為す事は今迄、周囲の人に対して如何なる助けにもならず、傷つけ、うまい汁を吸うだけの事さえもあった。一回、二回と行なった後、他人はあなたを無視したくなくなる。あなたと一緒にいると傷付けられるだけからだ。時間が長くなるほど、あなたを一緒にいる価値がないと感じる。甚だしくはあなたを見下す。一般の人は仏法を学ぶ人の基準を高くする。仏法を学ぶ者の思想や行為は一般人と異なる。もしあなたが他人に仏法を学んでいると話したが、あなたの為す事は仏法を学ぶ人のようではなく、他人に嫌がられる事さえもあるなら、罪は一つ増えるのか?自分が仏教徒だと言う勇気があるのか?よって、強烈な信心があり、それに加えて慚愧心、羞恥心のある人は、自然にどんな事も注意深く行い、他人から軽く見られることを心配する故、自他の利益を実現することができる。

尊き直貢チェ・ツァン法王は嘗て「リンチェンドルジェ・リンポチェの心は非常に繊細だ。」と語られた。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな事をするのも非常に注意深いからだ。メンツの為ではなく、間違いを犯したくなく、いかなる衆生をも傷つけたくないからだ。慚愧心、羞恥心がなければ、このような細かい事はできない。慚愧心、羞恥心のある人は、自然と非常に用心深くなり、非常に慎重であるので間違いを犯さなくなる。

ガムポパ大師はこう説かれた。「このように『信』と『慚』を兼ね備えた実修についてを我々は少し観察する必要がある。自己の心相続において、どのような功徳を生み出すことができるのか?このような『信』と『慚』の実修によって、世俗の仮相を依然として真実の現象として見なし、しかも自己の心相続において、苦楽、自他、財宝、家族等の一切を、依然として真実だと思って深く執着するなら、我々は正法を修さない一般の世俗者とあまり変わらないことになる。」

自己の心相続において生起する功徳は即ち、慈悲心である。仏法を学ぶ最も基礎的なものは慈悲心を発こすことであり、菩提心を発こして一切衆生を利益する。ある種の方式は、あなた方が真に仏法を学んでいるかどうかを簡単に検視できる。もし、あなたが世俗の仮象を真実の現象とみなすなら、あなたの家族、財産等これらの「相」を手中にしっかり握って放そうとしないのなら、真に仏法を学んでいる人ではない。これは、仏法を学んだ後に仕事、家庭、富、いかなる物も不要だと言っているのではない。あなたはやはり仕事が必要であり、家庭、家族をもっても良いが、これらは全て因縁法であることを知る必要がある。特別な執着を持ち手中にしっかりと握っておく必要はない。

あなたにどんな事も変えなくて良いと言っているのではない。因縁に随うことが必要である。縁に随い過ごし、どんな遭遇にあっても心を落ち着けている必要がある。ここで仏法を学ぶ際に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた方の仕事を犠牲にし、家庭を犠牲にし、幸せを犠牲にするよう要求はしない。ただ、あなた方が自分を変え、あなた方を輪廻させる一切の行為、思想、言葉を改めることだけを要求する。あなた方はやはり話を聞こうとしない。このようではどうやって学び、修し得るのか?あなた方は既に仏法を学んでいる。もし心がその行の正法を捨て、生死からの解脱と無関係な事に執着するのなら、衆生を傷つける事を仕出かすかもしれない。現在に至っても、多くの両親は子女の事をまだ気にかけて手放せないでいる。自分の息子をレストランサービス科に行かせた男性弟子もまた自分の息子に執着している。店の中で調理をした女性弟子の心相続は仏法上にはない。もしかしたら、たかだか辞職だ、仕事を続けなければよい、たかだか仏法をやめるだけだ、と思うかもしれない。仏法は、絶対に、あなたに様々な事をできなくしたり、敢えてさせなくするものではない。衆生を傷つける事を我々は本来すべきでなく、仏法によって、我々は、衆生を傷つけ、悪行をなす一切の機会を断ち切り、自己を輪廻させる一切の思想、行為、言葉を改める。

さきほど分かち合いをした弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェのお蔭で彼女の(母方の)お祖父さんの病気が治ったという話をしたが、これは思いも寄らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のお祖父さんを助けたのは、彼女の家族に仏法に対する信心を起こさせ、供養をし、福徳を積ませ、将来仏法を学ぶ機会が持てるように因縁をつくる為であった。しかし、多くの弟子も彼女と同じように、単に前に出て、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、如何に彼らが助けられたかを話すだけだ。話す事は全てこの範囲内にとどまる。続く後ろの部分は何も行なわない。これは彼らが真に仏法を学んでいるのではない事を示す。ただ単に庇護を求めているだけだ。このような心は単なる迷信であり、正真正銘の信ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェをタンキー(霊媒師)だと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは憑霊しない。仏法を学ぶことを迷信だと見てはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、皮膚ガンを患ったその年、それに構わず、受け入れ、その存在を忘れ、しかも、仏法を生活の中に用いて日々を過ごした。その後、ある日ガン細胞がなくなっている事に気が付き、この事を思い出した。あなた方は沢山の時間と労力を自分の身体上に費やし、ガンに罹ったら自分は死ぬと思い、毎日自分の身体を注意深く観察する。腫瘍が大きくなってはいないか、変化はないか、色は変化していないかと、沢山の時間を浪費する。元々あなたは死ぬのだ。ガンに罹ったから死ぬのではない。風邪に罹って一週間で死んでしまう者もいる。心臓麻痺で数分で死んでしまう者もいる。外に出かけて、交通事故で死んでしまうこともある。実際の統計によると、交通事故による死亡はガンによる死亡より多い。どうしてあなた方は毎日車に乗ろうとするのか。あなた方の推理によれば、車に乗っても死亡することもある。それなら、車に乗ることも恐ろしい事なのではないか?あっさり、車に乗らないことにしたらいいのではないか?あなた方は自分で運転するのでなければ、他人の運転する車に乗る。これは自分の命を他人に引き渡したことになるのではないか?自分で運転しても、人の車にぶつけられることもある!それなら、なぜあなた方は車に乗る事を恐いと思わず、車に乗る勇気があるのか?ガンに罹ってもすぐに死ぬことはない。数ヶ月生きることもでき、十数年も生きられることもある。あなた方はガンと聞いただけで非常に緊張し、世界の末日だと感じる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に病気でも病院に行くなと言っているのではない。誤解してはならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて説かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェはただあなた方に自分の経験を話しただけだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは真面目に仏法を学び、緊張して医者に診てもらうことはなかった。あなた方が仏法を学ぶ決心をするのと、リンチェンドルジェ・リンポチェとは異なる。リンチェンドルジェ・リンポチェは実践した。それは、完全に深く因果を信じ、教えに基づき行動していたからだ。あなた方はそれができないので、リンチェンドルジェ・リンポチェのようにガンを自然治癒することは不可能だ。世間において仏法を真に信じている者は少ない。リンチェンドルジェ・リンポチェのガンは医者に診てもらい治療を受けることなく、完全に治癒した。あなた方は自分の病気は医者に診てもらわなくても良いと思い、最後にあなたの要求が満たされなかった時には仏菩薩に対して悪念を起こす。これはあなた方にとって良くない事だ。

あなた方は一日中、どんな仕事をしたらよいのか、結婚相手はどの人にしたらよいのか、二人の内選ぶとしたらどの人を選んだらよいのかについて悩んでいる。あなた方女性が相手を選ぶ時には、相手の仕事が良いかどうか、前途があるかどうかだけを考える。事業を見ないのであれば、相手は自分に何を与えてくれるかだけを見る。自分に優しくしてくれるか?呼び出せばすぐに来てくれるか?実はこれらは最も重要な事ではない。なぜなら、現在の状況は未来において変わらないとは限らないからだ。また、あなたが現在いいと思っている事が、将来あなたの考えが変わることにより、いいとは思えなくなることもある。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェにこの問題を尋ねる者がいたなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らのために選択することはない。どちらがいい、どちらが悪いと言う事もなく、リンチェンドルジェ・リンポチェはただ、質問者のために二人の性格を分析してあげ、自分で決定させる。リンチェンドルジェ・リンポチェの分析は非常に的を得ている。だが奇妙な事に、あなた方は最後には自分と正確の合わない人と結婚をし、結婚後に後悔する。もう一度元に戻ってもう一人を探したいと思った時、その人はすでに結婚していた。

男性が女性を選ぶ時、この女性は自分のために家を守ってくれるかどうか、綺麗かどうか、出かけた時皆は綺麗だと言ってくれるかどうか?綺麗すぎたら他人に連れて行かれるのを恐れる。これは矛盾していないか?あなた方は相手が自分の何かを満足させてくれることだけを考え、自分が相手にどんな事をしてあげられるか、相手のためにどれ程多くの事をしてあげられるか、どんなレベルまでしてあげられるか、相手の為にどんな事を自分にはできないか、考えたことはない。結婚前にこのように考える者もいない。それは全て自我を出発点としており、相手が自分の欲望を満足してくれることを望むからだ。相手の立場に立って考えてあげた事はない。

ガムポパ大師はこう説かれた。「この『信』と『慚』を兼ね備えた実修に依れば、もしなす事一切が有情に利益するための動機でないのなら、『小乗』に流れる。このような原因に基づくため、この種の『信』と『慚』を兼ね備える実修について言えば、我々は有情に利益するために発心し、迴向すべきである。この様な教えを理解し、尚且つこれに依って着実に実修を行うことが極めて重要だという事を覚えておきなさい。」

以前ある者がリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた時、自分は必ず仏法の教え説く內容を実行できると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、このような話をするのは、傲慢で、我慢が強く、慈悲心を養うことはできないので、仏法を学びに来る必要はないと言った。あなた方は奇妙に思うだろう。なぜ自分には実行できると言ったのに、彼が来るのを認めないのか?例を挙げて説明しよう。一人の小学生が登校第一日目に、先生に向かって、自分は必ず博士になると、はっきりと誓った。先生はどう答えるか?必ずや、慌てないでやりなさいと言うだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法は階梯のある修行だと説かれた。

仏法を衆生の利益の為に修行するのでなく自分の解脫を求める為だけに学ぶのであれば、小乗に流れる。しかし、小乗を学んだら必ず出家しなければならない。あなた方は小乗仏教を学ぶ機根はないのに小乗の心を抱いている。このようであっては如何に学んでも学び得ることはできない。リンチェンドルジェ・リンポチェが叱責したあの出家弟子のように、どうやっても言い出そうとせず、一生懸命に自分を守ろうとしていた。慈悲心がなければ言い出せない。これは小乗の心を修していることになる。彼女は金剛乗の上師に皈依し、表面には出家相を現していたが、内心は小乗の心であった。悟りを求めることさえもこの様であった。仏法を学ぶことが自分の悟りを求めるものであるなら、これも小乗の心に属する。悟りを開き、成仏する。実のところ、求める必要はない。ただ一歩一歩実践しようとするなら、あなたの慈悲、福徳、功徳、因縁が満ち足りた時、自然に法性が顕現し悟りに至る。もしあなたが今日、悟りを求める事が自分の利得を得るためのものであるなら、これは小乗を学ぶ心理状態だ。もし衆生の利益のために、悟りを開いた後に生死を解脱する仏果を得たいと希望するなら、これこそが大乗と菩薩道を修する心である。この二者の心の差異は非常に細微なもので、ほんの少しの差があるだけだ。

小乗の修行者は必ず出家者であり、世間の事一切を捨て去らなければならない。スリランカ、ミャンマー、タイ一帯の出家者は料理をせず、仏珠さえも身につけず、煩悩を起こさないようにする。あなた方がこれを実践するのは不可能だ。あなた方は小乗を修する機根ではない。一日中、結婚したい、子供が欲しいと考えている。仕事をしたいなら、どうやって小乗を修することができるのか?現在は出家者であっても小乗を修するのは難しい。なぜなら、寺院の中でも出勤し仕事をしており、表面的に出家相をなしているに過ぎない。小乗仏法が悪いのではない。末法時代の衆生には不適当なのだ。小乗の修行者は十二因縁法を修さなければならない。修し得たら四諦法を修し、十二因縁法を一つ一つ観なければならない。末法時代の衆生の煩悩、習気は非常に重い。修し得るのは殆ど不可能なことだ。少し前に小乗の出家者が台湾に来て弘法したが、あなた方と結縁しただけだ。

この出家弟子は小乗の心で大乗の仏法を学ぼうとしたが、どうやっても修し得ることが不可能だった。小乗と大乗の二者の間には差異がある。彼女自身でさえなぜ実践できないのか分からなかった。彼女は表面的には、言った後に破戒することを恐れていると言った。しかし、上師が彼女に話すよう言ったのだから、破戒の範囲内ではない。上師がどうして弟子を陥れることがあろうか?上師が彼女に話すよう指示したのに、彼女は依然として話すのを拒んだ。教えに基づく行動をしなかった。彼女が言いたがらないその人をリンチェンドルジェ・リンポチェはとっくに見たことがあった。しかも相手を助けたことがあった。

我々が衆生を利益する時、衆生を利益した時に自分も少しの利益を得たいと希望するのなら、それは、何も求めない心ではない。仏法は自利利他と言うが、ここで言う自利とは、生死から自分を解脱させることを指し、利他とは二度と輪廻しないように衆生を助けることである。我々は自分が仏果を得ることを願うが、これは、この肉体が仏になることを指すのではない。それは、法性が顕現することを意味する。あなたの功徳、慈悲心が具足した時、法性は自然に顕現される。あなたが仏になるのではない。釈尊は当時こう予言された。「地球での最後の仏は弥勒仏だ」と。どこに新しい仏が姿を現すのか?法本には、修行者が密法を修習する時、ハイレベルの機根者はこの一世で成仏でき、中ぐらいの機根者は息が途絶えたその時に中陰身で仏果を得ることができ、ローレベルの根器者は少なくとも16世の後に必ず仏果を得ることができると説かれている。しかしこれは、密法を修した者のことで、密法を学んでおらず顕教に頼るだけの者にとっては不可能だ。

発願は修行者が既に成し遂げる能力を持つことを指す。発願後に、ある日必ず実現する。しかし、それは今世を指すのではなく、未来世を指すのでもない。どの世で実現するかは重要ではない。顕教は我々が発願する時、諸々の仏菩薩がお経の中で発こした願に基づいて発願し、これこそが本願であると教える。なぜなら、あなたが諸々の菩薩の発こした願に基づいて発願した時、諸々の仏菩薩があなたを加持するからである。あなたの願力と仏菩薩の願力とが同じであるため、仏菩薩と同じ菩薩になる準備をする。金剛乗であるなら、上師の口伝及び教えに基づいて発願しなければならない。自分で勝手に発明し、どんな発願でも良いのではない。以前、ある出家者が百万人を済度して出家させると言った。このような願力はどうやったら実現するのか?一生の中で、どう計算しても百万人を済度して出家させることはできないであろう。釈尊の時代でさえ百万人出家することはなかった。彼はどうやって釈尊と競い合うのか?このような事を言う者は、精神面に問題がある。精神面に問題があるので、傲慢な心が出てきたのだ。諸々の仏菩薩の発こした願に基づいて発願すべきである。慚愧心、羞恥心に加えて信心があってこそ成就する。

釈迦牟尼仏は、末法時代の衆生の煩悩が更に多いことを見た。小乗を修するには適さないので、その後、菩薩乗を伝え、心から修し、自己の心量を拡大し、仏法を生活に溶け込ませなければならないと皆に教えた。これは、末法時代の出家者と在家者に適する修行方式だ。なぜなら、現在の出家者もまた忙しく、寺院の中で働いている。リンチェンドルジェ・リンポチェは重々しい言葉で心を込めて皆に勧めた。仏法を学ぶのであれば、諸々の仏菩薩に対して信心をもち、更に自分の考えを持たずに、上師の教えを聞き入れ、従うべきである。階梯に基づいて修してこそ成就する。

法会は円満に終了した。会場の列席者は起立し、法座を下りられた尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを恭しくお見送りし、本日、皆のために苦労を惜しまず殊勝な説法をして下さったリンチェンドルジェ・リンポチェに声を揃えて感謝した。

« 昔の法会開示法会開示へ戻る – 新しい法会開示 »

2015 年 05 月 05 日 更新