尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年3月10日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北の寶吉祥佛法センターで共修法会を主催した。

法会が始まる前、一人の女弟子は参加大衆に、彼女及びその家族が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェから助けていただいた経緯を分ち合った。先ず、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を皈依させて門下にしてくださり、更に苦労を厭わないで殊勝な佛法を開示してくださることに感恩した。彼女は、2011年9月11日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、彼女の二人の妹も皈依弟子になった。

彼女は、殊勝な因縁があり、チベット仏教に接触することができた。更に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法名を聞き、寶吉祥日本食品販売部に感謝した。彼女の妹は、日本食品販売部に行って花鳥ビスケットを購入した。彼女は非常に美味しいと思い、この美味しいビスケットを見つけるため、寶吉祥日本食品販売店へ行った。またちょうど販売店で別の女弟子に出会い、彼女には尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依する因縁があり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得ることができ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを褒め称えた。

彼女は、寶吉祥日本食品販売店で出会った女弟子に感謝し、その女弟子は彼女と尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を助けた経緯を分かちあい、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な著作《快樂と痛苦》を取り出して彼女と分かち合い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を常に称賛した。同時に、この女弟子は彼女に一年一回の阿弥陀佛無遮大超度法会に参加するように誘い、更に彼女に漢方軟膏の使用、漢方診療所での診察、祥髮髮藝へ行って髪をセットし、及び天然無毒のシャンプー、リンス、更にお香の除障香及び各種線香用品を購入することを紹介した。

当時、彼女はこの女弟子がよく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが素晴らしいということを知っていた。更に紹介する物が非常に良く、すべてが天然無毒の良品であることも知っていた。その後、彼女は叔父が他界したため、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに叔父の超度を頼みたいと思い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の叔父及び未だ苦しみを受けている衆生を超度することを慈悲深く了承した。彼女は大慈大悲に感恩し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に殊勝な施身法法会及び毎週日曜日の共修法会に参加し、彼女に正法を聞く機会を与えた。彼女は、以前祖父、祖母に着いてお宮参りをし、多くの和尚様に会った。しかし、叔父が亡くなった後やはり解脱することができない。彼女は本当に衆生のために超度するには、自分でお経を唱えたり、多くの出家者によって家で唱えたり、もしくは場面が盛大したりすることがあったら、彼らを苦しみを離れることを助けられるのではないと分かった。大慈大悲の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのように、如法で修めて、また、尊勝な直貢澈贊法王が認證した後、衆生を超度できることがわかった。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが常に親孝行であること、佛法は生活の中で実践することを開示したのを覚えている。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教法に基づいて自分の生活の中で、何か不如法の行為があるかどうか、自分は弟子かどうか、皈依していても本質的に唯の信徒でしかないのではないかを自分で検視する。

彼女は、自分の性格が悪いことを懺悔した。友人と家族では異なった基準を持つ。特に家族には忍耐心が足りず、しょっちゅう弟や妹と比較しては、両親に対して大声で怒鳴り、反発する。また父親とは嘗て殴り合いまでしたことすらあり、更には自分の欲望を満たすために家のお金を盗んだりして家族を悩ませた。彼女は家族の初めての子供であったため、祖父母、叔父叔母が彼女を可愛がった。しかし弟妹が生まれたことで変わったため、家族が弟妹たちに向ける愛情に対して嫉妬した。これらの習性は社会に出ても変わらず、会社で他人の成功や良好な交友関係に嫉妬し、会社の在籍が長くなるとまるで自分をボスのように思い、他人を尊重しなくなった。他人が自分の意志とは違う事をすると、相手が同僚だろうと、社長であろうと、顔色を変えてその人を詰り、上司に立て付き、裏でこっそりと人の悪口を言った。或る時、彼女は思い出して自分が怖くなった。なぜ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を弟子を納めたのだろうか?更に皈依して間もないのに、心に逆らった悪念が沸き起こるのだろう。彼女は自分でわかっていた。それは改めたくない怠け心と現実を見たくないダチョウ症候群が沸き起こってきたからである。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは佛菩薩であり、佛菩薩の手はいつでもそこに伸びている。ただ自分が自分に諦め、自分ができないと言ってしまう。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前、彼女は目を開けていることが苦痛であり、仕事は一種の苦しめで、が、しなければならなくて、現実に向かい合うのが嫌で、自分の命を断ってしまいたい思いがあった。死んでしまえば何もかもがなくなると勘違いしていて、しかしながら自殺する勇気もなかった。法会で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な佛法の開示を聞いて彼女はやっと一切の苦痛は自分が見つけ出したものだとわかった。リンチェンドルジェ・リンポチェも嘗て也自殺した人の罪は非常に重く、死んだ後、非常に痛く、苦しいと開示したことがある。この種の苦痛は凡夫の彼女が想像できるものではなく、更にたぶん彼女が想像できるものではなく、すべてがなくなってしまうような簡単なものではないだろう。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教法に感謝した。法会前に分け合い、懺悔した兄弟子,または尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法会で叱責した弟子に関わらず、各兄弟子が生活の中で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に対しての助けや関心を感じることを通し、共に集まった時の兄弟子と分かち合うことによって、少しずつ彼女も自分の日常生活の行為に対して見つめるようになり、その他弟子が同じ問題にぶつかっていないかを気にかけるようになった。更に現在の会社の主管がずっと辛抱強く彼女に話していたことを通して、彼女もやっと自分が感恩を知らない人だとわかるようになり、まだずっと他人に対して間違った観念や考え方を持っていたこと気づいた。或る者は気づきさえしないし、或る者はずっと前に知っていても彼女は、自分はそういう人間なのであり、なぜダメなのか?と思う。これはつまり、山盛りの良好な自己感覚なのである!よく他人が好意的に彼女の仕事上の欠点を指摘し、良い方向に向けて直すことを期待したりするが、彼女に敵対し、彼女を嫌っていて、何かにつけて彼女に面倒を持ちかけてくると感じ、他の人の彼女に対する思いをまったく理解することができない。自分が即座に自分の間違いを発見することができず、自分の問題が見えないので、いつも人がミスをしていると思う。人の話を聞かないので、彼女はいつも会社でミスをする他に、自分のための言い訳をいつも探していなければならず、自分はこのようではない、人は自分を誤解していると言い、自分のミスを人に押し付け、すべては他人がどうしたこうした、だから彼女はこうなってしまったのだと言い、まったく自分を顧みることなく、自分はどんな態度で人に対応すれば良いのかと思う。何を根拠に他人が彼女に対する態度をよくしなければならないのか?何を根拠に、みんなは彼女の話を聞かなければならないのか?自分はまったく人の話を聞きもしないというのに。自分こそ、今までも人の立場に立って考えてみたこともないのに。自分の間違いに人を引き込み、人に面倒をかけ、それはまったく自己中心的である。会社規定及び上級主管の命令に対して、守らないだけでなく更に人が自分に与えた命令を変えて自分の好きな方法でやってしまう。それによって今まで何度も会社に損失を与え、上司を悩ませ、社長をがっかりさせ、人に迷惑ばかりかけてきたのに、意地を張ってミスばかりしてきた。これらすべてのことは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して門下となった後、わずかに改善した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して彼女に頼りがあるようになると、彼女らは仏教を学び、両親に孝行するようになった。以前の彼女は孝行しないだけでなく、馴染みがなく、意見が合わないと喧嘩をした。彼女は自分の両親に関心がなく、だれもがそれぞれ別々の生活をしていた。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに感謝し、姉妹の間で幼少の頃からの思いを結び直し、今では彼女も両親、妹、弟の生活に関心をもつようになり、昔のような無関心ではなくなった。またそのため、彼女らは母親の問題にぶつかった時、共にどのように対応するかを考えた。もしも、彼女一人だけができなかったのなら、母親のことで父親が母親の生死の問題に対したのを見た時、本当に涙を流し、彼も驚き、気にかけ、苦しんだため、彼女は父親に対しての多くの不理解を許した。もしも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大きな德力、大攝受力で彼女を助けなかったのなら、彼女は今も未だ苦しみ続け、今日のような変化はなかっただろう。

彼女は、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、彼女の母親を助けた。彼女の母親は、2、3年前に縁があって尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、当時尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母親に対して慈悲深く多くの開示をした。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはもしも彼女の母親が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いていたなら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母親を助けただろう。しかし彼女の母親は聞かなかった。だからずっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めることができなかったのだと言った。彼女の母親は、4、5年前に咳が止まらず、多くの医者に診てもらい、たくさんの薬を飲んだが大きな改善はなかった。或る時には一ヶ月声が出なくなってしまった。その時、ちょうど、信徒の妹が自分のことで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の妹の供養を受け取らなかったので、寶吉祥日本食品店のビスケット買って供養したのだが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり受け取らず、「私はたくさんある。」と言った後、妹を見て、彼女の妹にビスケットを尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにもって来させた。慈悲深くそのビスケットを加持した後、彼女の妹に持って帰って母親に食べさせるように言いつけた。それからしばらくして彼女の母親は、その日の晚ビスケットを食べたら、声が出るようになった。トイレで声を出す練習をした。彼女は不思議なことだと思った。

今年、彼女の母親の病情は悪化し、救急車で大病院に送られた。もしも、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依していなかったら、彼女は目の前に発生したすべてのことにどう対応したらいいのかわからなかった。彼女は、救急車に乗りながら、ずっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親を加持してくれるように観想した。病院に到着して手続を済ませた後、何名かの兄弟子に電話をして母親の状況を知らせ、協力を求めた。数名の兄弟子は彼女に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを信じ、更に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親を加持してくれるように常に観想し、彼女に冷静に慌てないように言った。彼女の母親が病院に着いた時のすっかり黒くなった顔を見た人は、怖かったろうと思う。隣近所の叔母さんは「夜中に彼女の母親の顔を思い出したなら震え上がってしまう」と言った。もしも、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依していなかったら、この件に対して彼女は泣くことしかできなかったろう。彼女はドアの外で母が幾つもの検査をするのに付き添った。検査が終わった後、急患の医師はレントゲン写真を見た後、彼女の母親はすでに1/3の肺しか使えていない状態で非常に重大な浮腫であるため、気管切開をすることを薦めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの佛法開示を聞き、彼女はそのようにしても母を助けることができないこと、それはただ母を更に苦しめるだけであることを知っていた。そのため、彼女はそれらを拒否した!反対に医師に気管切開をしたら彼女の母親の何の助けになるのか?と聞き返した。医師は彼女の母親に少しだけ長い時間を与えられるだけだと答え、医師も確定出来るものではなく、更に彼女に何を保証できるものではないと言った。当日、彼女は夜授業に参加しようとした。心では佛法だけが真に母を助けられると思っていたので、家族に後を頼んだ後、彼女は急いで台北へ行き夜授業に参加し、帰ってきて更に母の状況を聞いた。多くの兄弟子に彼女への協力と助言を頼んだ。この機会に拠って彼女は嘗て舞台に上がって称賛及び懺悔した兄弟子に感謝した。彼らの分かち合いに拠って、彼女は上師への信心が深くなり、大事に至った時にどのようにすれば良いか、その後どのように処理すべきかが分かった。

晩課が終わった後、家に戻って彼女は母が集中治療室に入り、鼻管、尿管が差し込まれたことを知った。集中治療室の日々は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示によると、尊厳がなく、さながら地獄のようだという。次々と注射を打ち、終わらない検査をし、利尿剤、抗生剤を与え、飲水を制限する。彼女の母親は高圧酸素マスクをつけていた。酸素は70~50だけで、彼女の母親が物を食べる時には、鼻管から流体の食物を流し入れて与え、口はまったく使わない。長い管が彼女の母親の鼻孔から差し込まれ、母は彼女に具合が悪いので管を抜きたいと言った。しかし、医師はどうして了承するものか。また加えて集中治療室の冷房は非常に強く効いている。彼女の母親はいつの間にか、80数キロの体重が50キロ前後の体重になり、唇、体の皮膚は乾燥でひび割れた。体からは筋肉がなくなった他に、そこには大面積の血が滲み、それらの血は注射によって起こったもので、しばらくしても退かなかった。彼女は他の兄弟子が彼女に漢方軟膏を使うように紹介してくれたのを感謝した!朝に塗れば夜には血が散ってくれるので、しばらくしたら、ほとんど良くなった。しかし、すぐに看護師はまた注射を打つ。彼女の母親は口が乾くが、どう看護師に求めても彼女の母親に水を飲ませるのを許さなかった。彼女の母親は仕方なく看護師が与えたうがい薬を飲んだ。もしも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大威德力がなかったら、彼女の母親はこんなに短い2、3ヶ月のうちに集中治療室から普通病室へ移ることができなかったし、医療の苦しみはもっと多かったと思われる。更には年明け前に家に帰ることも出来なかったろう。大晦日の日、彼女の母親は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見の申し込みをして、道場へ行き、自ら尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが与えた助けに感恩し、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母親に代わって加持をした。

集中治療室にいた時、彼女の母親はほとんど骨と皮だけになっていた。おしゃれ好きの母は自分の姿を見て心を痛めた。栄養士に頼み、母のために配合乳を頼み、一部は日本食品店が販売する元気豆乳を食べさせたところ、母の皮膚は良くなり、肉もつき始めた。元気豆乳は栄養価が高く、美味しい。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に与えたすべての物はどれも良いもの、栄養価の他に自然の物であり、無毒であることに感謝した。今日まで彼女は母親が退院できたのはやっぱり不思議なことだと思う。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの配慮がなかったら、退院などできたであろうか?

彼女は、これはすべて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお陰だとはっきりとわかっている。彼女は更に彼女を助けてくれた兄弟子たちに感謝したい。兄弟子たちの優しさと気づきは彼女にすべて当然のことではないと教えてくれ、彼女がやはり改められていないことははっきりと知らせてくれ、まだまだ自分の体、口、意が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した佛法を頼みとしているかどうかを常に検視しなければならない。彼女は皆が彼女と同じ間違いを犯さないことを呼びかけた。最後に、彼女は大慈大悲、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体安康、法輪常転、世と佛法事業が興盛で利益一切が衆生に長く居続けることを祈願した。

続いて,一人のインド法会団の弟子は出席した大衆に向けて自分の犯した間違い及び尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが与えた尊い教えを説明した。インドにいた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは2月23日の夕食時、彼女のコップの中の水に加持をして飲ませたら、三秒も経たずに声が出るようになった。しかし、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受けた後、上師の恩澤に感じることなく、翌日朝に間違いを犯した。

2月24日の朝、リンチェンドルジェ・リンポチェはレストランに遅刻して到着した二三人の弟子に開示した。彼女もその中のひとりであった。当日、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちに、早上7時15分に朝食を始めるように指示したが、彼女は寝過ごして部屋に残ったため、時間どおりにレストランへ到着できなかった。彼女は旅行社の社員が電話をかけてきて降りてきて食事するか?と聞かれ、初めての事の重大性に気づいた。そして3分で急いでレストランに到着した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女がレストランに入るのを見て、今回は法会に参加するために来ているのであり、団体行動を取らなければならない。自分は社会では管理職なのだから、やりたいようにやり、人に起こしてもらってやっと起きるようなことをしてはいけないと彼女を叱った。

その時、彼女は非常に恥ずかしかった。その前日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に殊勝な加持を与えて下さり、医師弟子に説明させた。しかし、彼女は心ここにあらずで、すぐに上師を敬わない間違いを犯した。更に彼女は前日にリンチェンドルジェ・リンポチェが英語で旅行社の社員に、弟子たちには7時15分に朝食を取るように準備し、リンチェンドルジェ・リンポチェは7時30分に食事することを指示しているのを聞いた。しかし、彼女はその話を聞いた時も心に留めることがなく、ただリンチェンドルジェ・リンポチェが職員に指示を与えているだけにしか感じなかった。彼女は少し多く寝ることだけのために、時間にレストランに到着せず、上師を待たなかった。これは上師に不敬である。彼女は自己の感恩心の無さ,上師を佛のように見ないことを懺悔した。彼女らは心で自問した。もしも今日7時に釋迦牟尼佛と共に食事をするのなら、彼女はきっと5時に起きて準備をし、レストランで待ったことだろう。財、色、名、食、睡は地獄五條根であり、彼女の惰眠は即ちそのうちの一つである。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を叱ってくれたことに非常に感謝し、彼女が地獄の根に陥るのを断つ助けをしてくれた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の問題を引き出して下さったことに感恩し、自分が上師を敬い、いつも上師を想い、上師の話すことに注意することができていない事を懺悔した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に上がり、自ら共修法会を主催し、参列者に貴重な佛法を開示した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、以前何度も皆に上師の重要性を開示し、今日再び強調した。皆は自分だけ家で経を唱えたり、佛に礼をしたりするだけで良いと思っていけない。仏教を学ぶ修行に、上師の導きがなければ如何なる成就も修めることができない。チベット仏教に於いて、特に金剛乗は上師を非常に重視し、上師の地位が佛よりも重要であると考える。それは上師が佛より上級であると言っているのではない。そこをあなた方は誤解してはいけない。末法時代の衆生は因縁福報がなく佛陀の教えを直接聞くことができないので、仏教を学ぶには必ず一人の徳を備えた上師に依止しなければならない。徳を備えた上師の德とは功徳を指し道德ではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは経典の中には徳を備えた上師は種々の条件に符合していることが記載されていると嘗て開示したことがあるが、今日は時間の関係で説明は省く。

人の一生は短い。ただ自分だけに頼って修行して成就するのは非常に困難である。自分が家でテレビを見て佛法を聞き、経を唱え、早晩課を受ければ修行できると思ってはいけない。上師の導きがなければいとも簡単に道を間違えてしまう。顕教の場合、《大藏經》一冊を読み終えるのに、毎日8時間、少なくとも5~7年読み続けなければならない。更に読み終えてもそれは消化できた、体得できたと言うことではなく、一人でこの短い一生の間に成就するのは非常に難しい。あなた方は自分が六祖慧能のように大根器であると思ってはいけない。例え、六祖慧能であったとしても、見性が十分足り、傳五祖の衣缽がなく、五祖の心法と教えを得る前は悟りを開くことができなかった。やはり傳五祖の導き、監督があってこそ、六祖は悟りを開き一代の禅師になれた。しかしながら、現代人の仏教の学びは非常に傲慢で、経典を読むだけ、マントラを唱えるだけで自分をすごいと考え、自分は修行をしていると思う。もしも一人の修行経験のある上師に依止しなければ、ただ自分だけでどれだけ唱えようと、拝もうと僅かな積徳だけで、成就することはできない。

ガンポパ大師は嘗て開示した。「諸氏諸君、生命ある時間は多くない!だからこそ、皆は正念の鞭を以て、自分の心を出来るだけ励まし、同時に我々は上師及びその三寶を,いつでも心につなぎ止めるように。その短い命の中で上師がいなかったら、それは正道への案内人がいないということである。すべての三世諸佛も皆,上師に依止して悟りを開き成仏したことを知るべきである。」

我々の短い一生のうち、すでに数十年は過ぎている。あなた方はもしかすると、自分には時間があるから急ぐ必要はないと思っているかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに年齢も高く、残りの時間は益々少なくなっていく。あなた方の仏教を学ぶ方法を見ていると、心に強い焦りが生まれてくる。これはリンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方になぜこんなに厳しく教えるのか、あなた方を厳しく励まして仏教を学ばせるのか、正しくは佛法を学ぶのは輪迴生死を解脱するためである。ガンポパ大師が我々に常に心で思い続けなければならないと教えているのは上師と三寶であり、上師が我々を正道へ導き、生死輪廻解脱の修行の道を歩かせ再び輪廻させないようにして下さる。如何なる人も上師に依止して仏になることができ、三世一切諸佛も皆上師に依止して佛になった。

現在、我々は釋迦牟尼佛の佛運に於いて、或る者は釋迦牟尼佛には上師がいない、釋尊は自己で修行したのだと誤解している。その実、経典に於いて迦牟尼佛は、前世で或る尊佛、或る一人の上師と仏教を学び修行したと記載されている。それは釋迦牟尼佛が佛になったのにも原因があることを表している。釋迦牟尼佛は前世で教えを受けたことがあり、この一世で修めたわけではなく、経典では、釋迦牟尼佛の前世で依止した佛と上師は釋尊が累世で修行したからであり、この世の因縁が仏になるのに足りたことを表している。この事からもわかるように、あなた方がこの世で身があり、且つ仏教を学ぶ因縁が足り、また累世の善によって得ることができた。その縁を掴まなければならない。もしもこの機会を逃したなら、次回は何代も後の来世以降、やっと仏教を学ぶことが出来るようになる!

ガンポパ大師は更に開示した。もしも上師がいないなら、諸佛の名號もない。それは上師が出現する前は佛がいないということではなく、各尊佛の名號は,その本願、事業、功徳、衆生を教える方式と伝授する法門を起源とする。上師がいないということは、即ち佛の名號がないということで、それは仏教を学ぶのは上師の教えに頼り、それによって初めて各尊佛の願力及びその教えと衆生を助ける方法を知ることが出来る。

ガンポパ大師は開示した。「上師に依止し、彼らのすべての教え(教えによって行う)を聞かなければならない。そしてそれは非常に大事な鍵となることを知らなければならない!」上師のすべての教えに依止し、教に基づいて行動し、それにちょっとでも背いてはいけない。ガンポパ大師は仏教を学ぶ人は上師の話を聞き、その教に基づいて行動しなければならないと開示し、それは大事なポイントであり、もしもあなた方が普段話をよく聞き、教に基づいて行動する習慣ができていれば、生死の分かれ目の時も上師の話を聞くことができ、輪廻から離れることを受け入れることが出来る。普段上師の話を聞かないのなら、上師は法座上で佛法を話さないと思うし、また上師は凡夫のように思っていて、教えに基づいて行わないならば、その時が来た時、上師もあなたを助けるのは難しい。

リンチェンドルジェ・リンポチェが、もしもすべて体、口、意が佛法の中にないなら、それは一人のリンポチェとは言えない。だからあなた方は話を聞こうとしない時、叱られる。もしも、あなた方を叱っても痛くも痒くもないなら、自分の罪を改めることができないので、上師はあなたを横に置いておき、先に他の衆生を助けることだろう。よく考えて御覧なさい。もしも、学生が教師の話を聞かないのなら、教師はその学生を教えるに値すると考えるだろうか?それはまるで実習中の医師のようで、救急室ではどのように対処すべきかを理解していても、臨床の時にはやはり経験ある医師の指示を必要とするように、細かい点での指示は非常に有用である。しかし、もしも、実習中の医師が言うことを聞かず、自分の思うままにしかやらないのならば、経験ある医師は、最後にはその実習医師を指導したいと思わないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の医師弟子にこれはどうか?と尋ねた。その医師弟子は医学会の状況ではまさしくリンチェンドルジェ・リンポチェのいうような開示があると報告した。もしも医師が実習段階で、教師の言うことを聞かない場合、キャリア教師は彼に低い成績を提示し、希望科目を申請する時には思い通りにさせないか、または徹底的に彼を無視するだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き開示した。佛法は、世間法から乖離せず、世間法はこのようで、仏教を学ぶとはそういうことである。もしも、あなた方が上師の言うことを聞かないのなら、または心のなかで反発する気持ちがあるのなら、上師はあなた方を相手にしない。それは、縁が不足しているわけで、あなたへの点数は低くなり、それは密法を学ぶ資格が無いということになる。この度リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子たちをインドへ連れて行った時に、先に話したのは法会団であったが、弟子の一部は話を聞かなかった。自分は旅行団に参加しているので、ショッピングを要求し、自分を甘やかした。かれらは、上師の話を聞かないだけでなく、密法を学ぶ資格すらない。

あなた方は、修行者は必ず衆生を助けるもので、もしもこのような人々に密法を学ばさなければ慈悲が足りないと思うかもしれない。しかし、あなた方は忘れている。佛は仏縁のある者だけを済度するのである。教えに従い行う人縁がある人で、言うことを聞かず、教えに従わない人は縁がない。《大藏経》の續部中では、もしも、金剛乗の根器でなければ、密法を伝えてはいけない。根器でない者には宣伝すらしていけないのだから、尚更教えることなどできようか?あなた方の念頭はいつも変化する。境界線になると、心に上師はいない。ただ自分の利益だけを考えている。あなた方は金剛乗を学ぶ根器を備えていない。もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなた方に密法を伝えたなら、あなた方はその時、どの根もまっすぐいられず、三宝への不信、不敬の思いが起こる。その果報は重いものである。リンチェンドルジェ・リンポチェも、あなた方が悪果を受けるのを望まない。

春節の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、特別にあなた方に《地蔵経》を念じる機会を与えた。あなた方もお経の中にで、三宝に不敬を働くと地獄に落ちると読んだことがあると思う。《地蔵経》の記載によると、すぐに三宝を信じる、すぐにまた信じない人も地獄に堕ちるという。あなた方はつまり、このように、信じたかと思うと、またすぐに信じなくなるという人たちであるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、如何なる衆生も地獄に落ちるのを見たくない。だから話を聞かない人には初めから教えないほうがいい。そしてどこかに置いておく。ある人は法会に参加できず、階下で待つだけで上には上がれない。彼らは悪行をしたからには聞こえても彼らには聞かせない。あなた方は仏教を学ぶのは、あなた方の意思に沿って行うもので、学びたいと思ったらあなた方に学ばせなければならないと思ってはいけない。仏教を学ぶには根器が必要である。《大藏経》の中で挙げたように、小乗根器の人は,大乗佛法を宣説できない。宣説できない人は、彼が師匠から技を盗んで学ぶことを恐れるのではなく、佛を誹謗することを恐れる。それならば尚更佛法は学ぶものではなく、修めるものである。小乗根器の人は長年、自分で坐禅したり思索したりすることに慣れている。もしも大悲心、菩提心が無ければ、大乗中行で菩薩道によって衆生を救う教法受け入れることができない。大願力を発して初めて大乗佛法を受け入れることが出来る。このようだとすると、上師の教えに依止する必要がある。

ガンポパ大師は開示した。皆は「三宝」を希求し、我々の皈依の救いところとなる。我々にとって、これら修持正法の行者が言うには、三宝の他に真に我々に皈依させ、救いを得るところはない。」佛を学ぶのに、教えに従って行わず、上師に依止しない。ただ自分だけに頼っていれば、修行は成就せず、良くても一部の人が副報を貯めることができるだけで、この世の業力を動かすことはできない。この世が終わった時、業力に従って輪迴する。求めるのは、心からの祈りであり、如何なる自分の要求や考えではない。正法が指すのは輪廻離脱、生死の法を解脱することで、あなた方にこの世のお願いごとを求めさせることではない。正法を修める行者にとって、三宝の皈依と救いを求めるから、あなた方は皈依した後、もしも信じなければ、三宝に不敬であり、それは皈依戒を破ったことに等しい。

ガンポパ大師は開示した。「もしも、我々が純粋な心で、三宝を唱えれば、今生来世すべての求めと願いは円満に実現されるだろう。それに対してあなた方は如何なる疑いももってはいけない。」ここで言う求めと願い佛法の上面を指し、欲望の求めではなく、世間法のことでもない。純潔にはすこしも自分の思いはなく、自分の願いのために上師の話を聞くということではない。

出家衆にとっては野心を持ち、将来たくさんの弟子を持ち、たくさんの衆生を超度させたいと思うこと、それは貪であり、仏教を学ぶ心としては不浄である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏教を学び始めてから今までいつかリンポチェになれるようにと思ったこともないし、自分が法座に上がって法を広めたいと思ったことはない。因縁が備わったら、自ら求めなくても、弟子は自然に現れ、追い出しても出て行かない。もしも、因縁が足りていなければ強く求め、わざと引きつけてもミスをしてしまう。《宝積経》の中では予言している。末法時代は沙門があり名聞のために利する。信徒にお世辞を言って佛法を歪曲する。現在の世では人は佛法を商売として経営し、灯明、功徳主になる、法会の参、法会中の座位等はすべて異なる価値である。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。もしも、お金を使って灯明を点けることで業障が消えるのなら、それは佛法を歪曲している。寶吉祥佛法センターはそのようにはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に無料で法会に参加させ、灯明はくじ引きで選び出す。

仏教を学ぶ人は、必ず上師の指導と教えが必要である。さもないと、問題が起こりやすい。もしも、上師がいなければ、きっと道を間違えてしまう。我々は常に三宝を覚え、三宝を誠心誠意尊敬しなければならない。三宝に対して疑ってはならない。このようにして、全ては佛法の求めと願いに於いて、きっと実現する。もしもあなたの求めと願いが実現しなければ、上師が偉くないのではなく、また佛法が役に立たないのでもなく、自分の問題である。あなたが話を聞かないので、自分の考えと欲望があり、自分の心を放任するので、貪、嗔、痴の日々となる。心は不浄であれば、当然願いは円満に実現しない。

もしも、三宝を心から尊敬し、教えに従って行うなら、すべての願いは円満に実現し、それはただ時間の問題にすぎない。ちょうど、リンチェンドルジェ・リンポチェが尊勝なる直貢チェツァン法王に一個のラピスラズリ製の長寿佛の鉢を供養した話のように、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの計画に8年を費やした。しかし、そのことを誰も知らない。ただ佛菩薩だけが知っている。言わないのはあなた方に知られるのを恐れているからではなく、福報の因縁が足りなければ人に言っても意味がない。福報の因縁が足りたなら、自然に出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは、十数年来観察してきてそれは確実だと言える。佛法上の事は、ただリンチェンドルジェ・リンポチェが望めばすることが出来る。ただ、時間の問題にすぎない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、8年前に必ず宝石で一個の鉢を作って尊勝なる直貢チェツァン法王に供養したいと願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは急がず、ただ教えの通り行った。福報が足りた時、因縁が足り、諸佛菩薩はある日、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェの願いを満たし、結果、このようにする。直貢チェツァン法王は、嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェにラピスラズリはチベット五宝の一つであり、非常に珍しいものであると直接言ったことがある。チベット伝統の密法において、宝石で作った鉢は非常に重要な意義がある。もしも、一教派の中に現れた宝石で作った鉢は、その法脈が十分に栄えていることを表す。多くのチベット人は皆知っている。因縁が不足していたが、この度リンチェンドルジェ・リンポチェは遂に長年準備してきたラピスラズリの鉢を尊勝なる直貢チェツァン法王に供養することができたので、チベット人は皆非常に褒め称えた。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェはできたのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏教を学び始めてから、他人に自分の善行を知って貰いたいと思ったことがない。上師は一生懸命にやること、心込めてやることを教えたことを知っている。うまくできなければなじられることは当然であり、あなた方のように、リンチェンドルジェ・リンポチェになじられるのを恐れたりはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェが叱るのは、皆に代わって間違いを正すためであり、もしも上師になじられるのを恐れる人が最も悪い人なら、それは自分を高く見せ、自分の間違いを認めないからであり、自分を改めるつもりもない。もしも、改めることを肯定する人は叱られることを恐れない。もしも叱られることを叱られることを恐れるだけでなく、間違いを認めず、更には責任転嫁する人、その人が更に悪い。

宝吉祥佛教文化協会理事長は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに頼み、「阿弥陀佛無遮大超度法会」を行う日を選んでもらった。結果、8月18日が選ばれた。あなた方も知ってのとおり、8月16日は日本大文字祭の日で、毎年リンチェンドルジェ・リンポチェは、必ず日本の京都宝吉祥佛法センターで法会を行う。日本法会の後、二日目に台湾に戻って大法会を執り行う。なぜ間に合うのか?8月16日の法会は必ず挙行できる。なぜなら、台湾で法会に参加する人は、すでに多くなっている。しかし、仏教を学ぶのは不正確であり、多くの人が未だ自分が法会に参加するのは、祭事をして幸せを求めるためだと思っている。日本の信徒は未だ非常に少ない。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは日本で発展する必要がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、毎日、非常に忙しく、多くの事を処理しなければならないし、弟子として留意し、上師のせいにしてはいけない。更には、リンチェンドルジェ・リンポチェは年齢も高く、あなた方のような若者や壮年ではない。上師はすべて、あなた方に代わってすべてよくできなければならないとあなた方は思っている。その他、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎年大法会の前に必ず閉関することを皆は知っている。このような事をしていれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関をしている時間などないのではないだろうか?

理事長が日取りの問題を責められた時、最後に大法会の日取りを決めたのはリンチェンドルジェ・リンポチェであった。彼は直接言わなかったが、現下では上師が間違えたと思っている。もしも、理事長はリンチェンドルジェ・リンポチェが間違っていると思うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェを上師と見做さない。ならば、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェに着いて仏教を学ぶのか?リンチェンドルジェ・リンポチェが日取りを決めたのが、理事長は上師が毎日多くのことを処理しなければならず、弟子は上師に気づかせる責任があることを考えていない。あなた方は、大法会前にリンチェンドルジェ・リンポチェが閉関の事を忘れてしまう。それならばリンチェンドルジェ・リンポチェも忘れてしまう。上師に対してだけでなく、あなた方は、仕事の時でも上司が思いつかない点について思いつく。それが思いついて気づかせる責任ではないのか?

もしかすると、今回は理事長を陥れたと言えるかもしれない。理事長は日程に問題があること気づいたが、リンチェンドルジェ・リンポチェに言って責められるのが怖いので言い出せなった。そのため、手落ちを上師に押し付けることにした。元々、リンチェンドルジェ・リンポチェは、大法会を止めるかどうかをまだ決めていなかった。しかし、理事長がリンチェンドルジェ・リンポチェがミスをしたと思っていると表示し、それはリンチェンドルジェ・リンポチェのミスであり、だから今年の大法会をキャンセルする。大法会をキャンセルするのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが怒ったからではなく、民衆の心の退化であり、縁起が悪く、だからあなた方は自分で友人らに、なぜ今年の大法会がなくなったのかを説明しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、尊勝なる直貢チェツァン法王のために事をするとき、なぜ、100%問題が発生しないのだろう?それはなぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、上師は自分の命よりもずっと大切で上師がいなければ私はいないと考えるからである。けれども、あなた方は自分が最も重要でミスをすると自分を守ろうとして自分の間違いを認めないどころか、場合によっては人に責任を押し付ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、なぜしようと思ったことはすべてできるのだろう?なぜなら、それは教えに基づいて行動するからである。リンチェンドルジェ・リンポチェのすべての心は、教派と直貢チェツァン法王にあり、上師が話したことは必ず実行し、決して諦めない。上師がしていけないと言ったことは決してしない。そのため、全てはスムーズに成功し、上師がしてはいけないと言ったことは、話を聞き、しない。教派、上師に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず法王の話を聞くことで、前半部分は既に進んでいる。上師がもうやらなくても良いと言えばすぐに止め、前にした部分を考えたりしない。

だから、教えに基づいて行動すると、リンチェンドルジェ・リンポチェの求めと願いは一歩ずつ成功に進んでいく。なぜならそれは、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏教を学ぶ人が持つべき心の姿勢を持ち、諸佛菩薩が助けて下さる。あなた方がもしも、考えることが山のようで欲張りな心ばかりなら、それは仏教を学ぶ人ではなく、それを続けていたならば、来世はきっと愛玩物になるだろう。あなた方がもしも自分を改めなければ輪廻を断つことができない。だから、あなた方は法会に参加し、福報を貯め、あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェを恐れても、地獄に堕ちることは恐れない。それなら、来世はたぶん人の手に委ねられる犬息子や、犬娘になるだろう。

自分が見た僅かな仏経、唱えたことがある仏経の大学、人と論じたことがある経、それらを以て佛法がわかり、人に佛法を教えられると思っていけない。それらは修行ではなく、まったく修行とは無関係で、ただそれは雑談の方式でしかなく、もしも上師の助けがなければ、悟りを開くことは決してムリなことである。佛法の名称をたくさん知っていることは修行ではなく、名相でしかない。名相は修行をして生死を解脱させてはくれない。ただ、あなた方が一つの物事を説明する助けになるだけである。名相がわかるというのは、それは花である。花は赤いというのがわかるということである。しかし、なぜ赤いのか?あなたはそれを説明できない。化学を学んだ人が初めてなぜ赤いのかわかる。阿弥陀佛を唱えるのは良いことである。では、なぜ良いのか?あなたは浄土へ行けるからと答える。浄土の何がいいのか?すると、あなたは、もう答えることができない。それならば、どうやって浄土へ行くのか?ある人は願をかけると説明する。それではどうやって願をかけるのか?どのように福徳因縁を備えるか?と問う。またしても答えることができない。多くの人が知っているのは、ただ表面の皮や毛でしかなく、名相を研究することで修行をしたと思い、自己は専門家であると思ってはいけない。佛法に専門家はいない。ただ、上師に対して完全に投降し、完全依止した修行者がいるだけである。もしも、自分が専門家だと思い、自分を人より優れていると思うのは執着である。

ただ、完全に上師に依止し、発願する人が悟ることができ、すべての求めと願いを実現することが出来る。これはちょうど例えて言うと、大学で学びたいと思っても、少しも勉強しなければどうして大学に合格すると言うのだろうか?ということで、それは発願ではなく唯の夢である。いわゆる願とは、自分でできる事を言い、それを願という。もしも、あなたが自分でできないことでただ夢を見ているだけならば、それは《心經》が言うところの顛倒夢想である。佛法では、夢もまた実現できるものであり、なぜならそれはすべてが空性、不永恒、変動であるからだ。偽か真か、その実は偽である。それはすべてが空性であり、縁起縁滅であるからだ。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、大乗波羅蜜多教法と大乗秘密真言教法の両者の違いを開示した。大乗秘密真言教法は密教で、顕教の修行方法と異なる。ガンポパ大師は、「大乗波羅蜜多教法の修行者は、『共相』道理を修行の対象とした。また大乗秘密真言教法の修行者は、実際理地を以って修行の道とする。」と開示した。

これは、あなた方は何を言っているのかわからないだろう。ここで言う共相が想起するのは、眼、耳、鼻、舌、身、意が受け取り外に向けた状況か、または意識を通じて生まれたもので、顕教は、共相で修行し、更に思維で推断演繹し、更に一歩ずつ1つずつ収めていくため、非常に長い時間がかかる。巷では、人が数珠で信徒の体を叩くことで、病気を治すことが出来ると信じられている。しかし、経典にはその様なことは語られていない。なぜ、その様な事をするのか?それはつまり、その人がこうすることで信徒を助けることが出来ると考え、彼は觀世音菩薩が加持力を彼に授け、そしてその人は、その加持力を信徒に与えて助け、信徒の病が治ると考えるからである。

大乗波羅蜜多教法は、観音仏門または地藏仏門を納める場合、先ず観音菩薩、地藏菩薩を理解し、それから菩薩の行止に基づいて行う。密法を修める人は実際に行い、心で工夫をする。密教では、すべての衆生には佛の本性が備わっていると説く。ただ、心に不必要な貪、嗔、痴を取り除けば、本性が現れ、それがつまり本尊である。我々の外相は本尊と同じではない。なぜなら、我々には肉の身体があるため、本尊願力に依る行者だけが開始することができ、本尊の誓いと願力を継承することができる。密教に依ると、我々の本性は本尊と無二無別であり、そのため、意識に頼ったり考えたりする方法が必要なく、完全に上師に投降し、教に基づいて行い、上師の加持の下、本性の無明(つまり貪、嗔、痴)を取り外して除去し、本性を表に表すことで、自然に衆生を利益する。密教を修める人は意識で考えず、本尊の願と行動を行い、自分の考え、意識を持たないことで、清浄な法性が表に現れ出る。もしも、凡夫の心で以て佛法を学ぶと、いつも自己の意識が操作するので、清浄な本性は現れない。

我々は上師と本尊は無二無別と見ている。それは上師の外形と肉体が本尊と同じと言っているのではなく、上師は本尊と同じ事ができると言っている。金剛薩埵は衆生を助けて業を消すが、リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛薩埵を本尊とするので、確かに衆生を助けて業を消すことが出来る。出席した大衆はリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助けて業を消す大能力を備えていることをよく知っていて、皆が称賛している。リンチェンドルジェ・リンポチェは、続けて開示した。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に加持した水を飲ませると、すぐに声が出るようになった。日本では一匹の犬が手術をするのに、リンチェンドルジェ・リンポチェが真言を唱えると、犬の身体のどこが悪いのかわかるのである。犬でも何処に問題があるのがわかるのであり、人間の問題なら当然わかるのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、嘗て開示したことがある。ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉房中に、外の草地に火が着くのを見た。すぐに自分は金剛薩埵であり、火を踏み消すことを観想したところ、火は本当に消えた。当時は、乾季で且つ一滴も雨が降っていなかったため、枯草に火がついたのを消し、煙さえもない。これは絶対に偶然ではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェの願力と本尊が同じであることを表し、更に力が出ると、できるようになる。大乗波羅蜜多教法と大乗秘密真言教法を修める行者の差は、ここにある。

密教の殊勝なところは、教える行者が直接心のままに手を下し、心の中の不必要なゴミを取り除き、佛性を表に表すようにする。これは直指人心の教法よりも更に直接的である。佛は悟った人であり、あなた方のようにたくさんの物を抱きしめたりしない。あなた方は、毎日、話が山のようであり、煩悩が山のようであり、思いが山のようである。これでは本性をどうやって表面に表すことができようか?

リンチェンドルジェ・リンポチェは、出家弟子に特に開示した。あなた方は、ある人達を見て、彼らを可哀想だと思い、助けてあげたいと思う。しかし、それもまた、貪であり、悲心ではない。その他の弟子も同じ問題がある。衆生を助けるのは、その人の因縁が足りているかどうかを見る。もしも、因縁が足りていないのに、ムリに彼らを助けようとすると、彼らは受け入れない。それどころか佛法を誤って理解することになる。もしも、佛を誹謗すると、それは悪い果報である。だから、因縁が足りていない時は、先ず彼に構わないことである。佛法は直接販売ではなく、相手にムリに受け取らせようとしてはいけない。あなたは一度話してみる、提起してみる。それで彼が受け入れなければ諦めることである。それは因縁がまだ足りてないのであるから、彼にかまってはいけない。

佛法は、世間法と同じで、話を聞かない人は、学ぶ資格が無い。なぜなら、皆が自分や他人を傷つけることが心配だからである。ちょうど、たった今例に挙げた弟子のように、自分を守るために上師が間違えたと言う。それならば上師はいっその事、その人に関わらないことが良策だ。ある人達は、自分は真言を唱えるので修行をしていると思っている。持咒の最も大切なのは心であり、大悲心と菩提心が必要である。もしも大悲心と菩提心がないなら、自分が唱えるのが上手くても、よく修めていると思っていても、または自分の為に唱えるなら、更には正しくない心で念じたなら、良いのは阿修羅が念じることで、もう少しで魔が念じる。これはただ念じているだけで、そういう考えの人は正に高慢ちきである。今年初めの法会の時、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に《地蔵経》を念じさせた。なぜなら《地蔵経》は三宝恭敬に対してはっきりと記載されている。あなた方は、以前少しもわかっていなかった。

ガンポパ大師は開示した。「それでは、大乗波羅蜜多教法と大乗秘密真言教法,この両者の間はどのような違いがあるのか?或る種の説法では大乗波羅蜜多教法的修行者は、『共相』のという道理があり、対象となると考える。具体的に説明すると、ロジック推理とロジカル分析の助けを借りる事を指し、外境によって『一』、『多』というような一種の立論を遠ざけ、外境を破壊し、それ故、外境を『空』とする。また大乗秘密真言教法の修行者は、外に対して『所執の境』がなく、それによって多すぎる審察と剖析をしてただ『印定』の方法で直指確斷を行う。」

大乗波羅密多の教法は、意識によって修行し、推論ロジック和ロジカルを借りて分析し、バラバラに話す。なぜなら、皆のロジックは異なり、先ずはっきりとさせてから修める。そのため、少なくとも阿僧祇劫の時間が必要である。《地蔵経》に依ると、地球上の衆生は強情で独りよがりで、少しも言うことを聞かず、全ては自分で正しいと思う方法で物事を処理する。皆は多すぎる道理があり、千の間違いも万の間違いも他人の間違いであるという。《華嚴經》の記載に依ると、人には52の心所があり、「所」は場所を指すのではなく、「所」は眼、耳、鼻、舌、身、意等の意識が停留するところを指す。我々が言う「所」と「能」は、「所」がすべての現象の刺激を受けて影響を受け、「能」が生まれ、更に後続の思想、言語、動作が発生する。佛は嘗て八萬四千種の仏門を開示したことがある。なぜなら人には八萬四千種の道理があるからだ。人はロジックで推論するのを好む。そこには貪、嗔、痴、慢、疑の考え方で推論と分析するのを含む。先ず52個の心所が自分にどのような影響があるかをはっきりとさせ、それによって我々の生と過去を見る。所も我々の生と過去世がこだわり残されているところである。佛法は即ち、我々にこれらの記憶帯体を消去したことを押した後、清淨な本性が外に現れ出る。

顕教は、ロジック推理、ロジカル分析の方法で、52個の心所が本性に対する影響をはっきりとさせる。しかし、各人のロジックの受け方が異なる。ロジカルは理念を指し、各人の理念もまた異なり、そのため多くの検討と研究がされている。例えば、禅宗には参一句話があり、それは「見える山は山であり、見える山は山ではない。」それはただあなたの推理の過程は推理するのなら、多くの時間の弁論が必要である。もしかすると、あなたは見える山は山ではないと思う。しかし、私は山であると見る。なぜあなたは山に見えないのか?顕教ではたくさん話しても少なく話しても同じであり、心を分けてはいけない。それでは、なぜ五と六は分けないのか?明らかに六は五より多い。続いて言い合いを始める。その言い合いの中で演繹し真相を得る。自我の意識が取り除かれ、本性が発露する。しかし、現代人はそれほど多くの時間を経典の研究、推理、弁論の時間に当てることができない。なぜなら、毎日世俗のことで忙しすぎるのである。

禅宗の直指人心の方法と密教の方法はやはり少し違う。密教従心下手の方法は、禅宗の直指人心の方法よりも更に直接的で、更に一歩進んでいる。顕教は、人には眼、耳、鼻、舌、身、意があるので我々の心に影響すると考える。そのため、この六種の物を六賊として悪い物とする。しかし、密教は推論を飛び越え、直接的実際に行い、意識は必ず使うものであり、直接意識を利用すると考え、意識を道具とみなし、障害とは捉えない。密教は六識を用いて修行を助けるので、すべての現象は修行となる。例として釋迦牟尼佛は花を持ち微笑み、一輪の花を持つとは、因縁を備えた弟子を悟らせるということである。密教は人心すら指差す必要がなく、あなたがつまりあなたであると言うので、密教を修める行者は上師に対して完全投降する。上師に対して完全投降するので、修めた功徳は、上師の功徳大海と結合し、即座に成就する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、その時、出家弟子に順番で自分が聞いた開示後の心得を報告するように指示した。出家弟子たちは、本日は、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示したことは非常に驚かされ、彼らに顕教と密教の違いを知らしめた。以前、彼らは数十年の時間をかけて佛法名相を思索し、心力をかけて推論し、坐禅をしても仏経の境界へ至ることができなかった。しかし、密教の修行方法ではただ上師に対して完全恭敬、教えに基づいて実行するだけならば、直接行うことができ、即座に位置に着くことができ、長時間のロジック演繹に時間をかける必要がなく、密教の修行方法は非常に素晴らしい!

リンチェンドルジェ・リンポチェは、続いてこのように開示した。密教はやはり順を追って修行しなければならない。密教を習う前には不共四加行を習わなければならない。なぜなら末法時代の衆生は習気が強いためである。ここで言う習気とは累世修行が不正確である習気を指し、あなたの気質が悪いとか、生活の習慣が悪いとかを言っているのではなく、累世修行の習気を指す。不共四加行を修めるのは、行者の福報を累積し、更に閉関を通して本尊が累世の悪い習気を除去するのを修める。悪い習気は悪を指すのではなく、多すぎる善もまた悪い。密教を学ぶ人には大福報が必要で、不共四加行は即ち、福報と資糧を貯めることで、資糧が足りないなら、金剛乗の上師に会ってもあなたは聞き入れることはできず、業障があるので、これほど殊勝な法を受け入れることができない。業障が指すのは、あなたが仏教を学ぶ修行の障害を妨げる。業障は必ずしも悪いことを指すわけではなく、例えば学がありすぎる、妻があなたを愛しすぎている、こどもが素直すぎる、給料が多い、大儲けするなども一種の障害である。

密教が行うすべての儀軌と祈請文は、すべて皆が仏教を学ぶ二大資糧――福と慧を貯めるのを助ける。仏経を唱えるのは、仏教を学ぶ資糧を貯めることが出来るけれども末法時代の衆生の時間は非常に少なく、そのため密教の方法は幾らかの繁文縟節を削除し、上師から直接伝授されて成就の仏門を得ることができ、皆の時間を節約できる。そのため、密教を修める行者は上師に対して、少しの疑いも抱いてはならず、ほんの一筋の疑いでも持てば、絶対に修めることはできない。しかしながら、人は癖を犯し、修行によって少しばかり体得すると、傲慢になり上師から離反する。

《地蔵経》の記載に依ると、地藏菩薩は、既に法身を証明する大菩薩であるが、自分が承佛威神力であるということで、やっと衆生を利益出来る。法身大菩薩でさえ、佛の加持を称賛し、佛威神力の助けを称賛する必要がある。あなた方は何の身分なのか?何を以て自分に頼って出来るというのか?だから、仏教を学ぶのは、皆が考えるものではなく、家で唱えて朝晩授業を受ければ良いものではなく、法身の大菩薩さえ佛を称賛する必要があり、あなた方は上師に対して恭敬し、上師の話を聞くと自認しているが、或る点に於いては、皆は話を聞いていないことが見てわかる。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示した。今日の開示は出家衆に宝となる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、1997年から現在まで、既に多くの顕教について講話した。本来、金剛乗上師の責任は密教の伝承を引き継ぎ、あなた方の病気が治るのを助け、あなた方の長寿を助け、あなた方の家庭の和諧を助け、あなた方が三宝に対して信心と恭敬心を起こし、あなた方によく仏教を学ぶように決心させることにある。あなた方と佛法には一筋の距離がある。上師は皆を正し、正常になる助けをする。だからリンチェンドルジェ・リンポチェは非常に苦労する。もしも、あなた方が話を聞かず、三宝を敬わないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも密教を伝えられず、数名の出家衆があなた方に六字大明咒を唱えさせておけばよく、あなた方を追い出したりしない。あなた方はこの話を聞くと安心する。リンチェンドルジェ・リンポチェはそれでもあなた方に顕教を学ぶように励ます。なぜなら、顕教は基礎であり、顕教を学ばないで密教を学ぶことはできない。厳格でない顕教はなく、顕教は厳しく要求する。インドの松贊図書館の向かいは、専門に顕教を学ぶ寺院であり、少なくとも十年以上の顕教の基礎があり、その真中でずっと観察し、条件が合えば別の寺院で密教を学び始めることができる。

密教は、事部、行部、瑜伽部と無上瑜伽部に分かれる。或る人は一部でも伝えればよく、密教の一部が比較的厳しい。現在、多くの人は密教を伝えるのに古代ほど厳格にしない。またいくらかのリンポチェは人に代わって灌頂をしてあげるのが好きだ。しかし、尊勝なる直貢チェツァン法王は嘗て開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェの伝法は、古代チベット伝法の方法であり、比較的厳しい。その実、直貢チェツァン法王は法王ほどに尊いが、受け取る伝承教法は相当に厳しい。例え、直貢チェツァン法王はすでに八世に転生しても、直貢チェツァン法王は嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに話した自分が小さい時、間違いを犯すと親や教師に叩かれた。親教師が棒で直貢チェツァン法王を叩く前、直貢チェツァン法王に礼をした。だから、直貢チェツァン法王は親教師が自分に向かって礼をしているのを見た時、先ず逃げ出した。あなた方も八世に転生したが、あなた方は転生ばかりして自己の業力を増やしている。直貢チェツァン法王は以前もよくリンチェンドルジェ・リンポチェを叱ったが、最近ここ二、三年は叱ることが少なくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは有ることに対して円満ではない。尊勝なる直貢チェツァン法王もそう指摘する。あなた方が上師に叱られるのを恐れるのなら、上師はどのように密教をあなたに伝えるのか?

ミラレパ尊者は、嘗て言った。もしも、今生で生死の解脱ができないなら、未来は必ずある世に地獄へ堕ちる機会がある。ミラレパ尊者は嘘は言わない。自分は運がいいと思ってはいけない。今は仏教を学ぶ必要がなく、仏教を学ぶのは永遠のことで、世世代代のことである。もしも、自分の心を勝手にさせ続けるのなら、仏教を学ぶ障害となり、世間法は、必ず障害が発生する。仏教を学ぶのに、こんなに素晴らしいことすら、見逃している。あなたが日常生活でいつも自分を勝手にさせるなら、多くのことを見逃し、自分に注意することができない。特に自分の貪欲は、多くの人の煩悩を引き起こし、因果であることは非常に厳しい。今に至っても、或る人々は、他人の物をかえさなくてもよいと思っている。借金をして返さなくてもよいのか?自分の弁舌の才能、容姿、頭脳等を使って借金したなら、返済しなくてもいいと思うのか?そんなことが良いわけがない。人から物を借りたなら、必ず返さなければならない。例え今生で返せなくても来世で返さなければならない。それが因果の道理であり、いつも、あなた方は因果を信じず、誰一人として因果を深く理解しない。

以後、伝法はクラス分けをして伝授する。密教を学ぶ根器が有る者には伝え、顕教は既に十分に話した。新しい皈依、旧い皈依のどちらでもよいが、最も重要なのはあなた方には自分が仏教を学ぶ心がはっきりとしているのかどうか?ということである。あなた方は、必ず自分がなぜ仏教を学ぶのかがはっきりとしないといけない。ここに来るのは修行であり、日常生活に影響させるためではない。クラス分けをするが、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する時、やはり密教であなた方を助け、十数名の真に学びたい弟子だけに密教を伝える。直貢チェツァン法王は、数年前にリンチェンドルジェ・リンポチェに数人の弟子を育てるように言った。法会の時、彼らに出てきて話すように言えばよく、これらの出家弟子も多くを聞いているので、彼らからあなた方に話せば良いのである。直貢チェツァン法王は当時、そのように言ったのは何を意味するのか?それはあなた方は皆、密教を学ぶ器ではないということである。しかし、当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王にもうしばらく時間をくれるようにお願いした。それはつまり、あなた方に再度、福德を積み、懺悔し、自己を改めさせるためである。

仏教を学ぶのは自分の心を調整する。外見から見て、今はまだ密教を伝えていない。皆ははっきりと理解しなければならない。聞いているだけではないのであり、聞くだけで実行しないのではない。仏教を学ぶのに、最も大切なのは心の持ち方であり、出家することではない。出家するかしないかはあなたに因縁に依る。リンチェンドルジェ・リンポチェは止めもしないし、勧めもしない。但し、あなた方が出家するなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたの剃度を助けて上げられない。なぜなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家上師ではないからである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたを見てあげる事はできる。出家するかしないかはあなたに因縁に係わる。

金剛乗上師は、密教を伝え、すべての苦難衆生を利益し、すべての人に三宝に対して恭敬心を起こし、仏教を学ぶ心を生む。リンチェンドルジェ・リンポチェは、すでにみんなと供養することに拘らないのに、なぜ未だみんなは話を聞かないのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、直貢法王、歴代伝承上師と諸佛菩薩の加被を受け、リンチェンドルジェ・リンポチェの人生すべてを変え、佛法を皆に伝えた。但し、皆は一生懸命に話を聞かず、密教と無緣である。だとすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜにこんなに多くの人に教えるのか?法会前に分け与え合う弟子のように、もしも、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しないなら、彼らは医療費用だけでもどれほどかかっていたかわからない。リンチェンドルジェ・リンポチェも彼らに供養するように言わない。ただ言うことを聞きさえすれば良い。

密教は皆に佛法上の問題に対して簡単に解決する。密教を学習できるのは真に良いことで、非常に殊勝な事である。しかし、当然ながら、比較的厳しい。それは皆の縁と決心に依る。六祖慧能とミラレパ尊者は文盲であったが修めることができた。台湾の廣欽老和尚も文盲であったが、同じく修めることができた。修めることが出来れば、すべての世間法と出世法はどちらも融通がきく。廣欽老和尚がこの世にいた時、廣欽老和尚に仏経のどのお話をすることをお願いしても、廣欽老和尚はいつでも解釈することができた。ミラレパ尊者は文盲であったが、密教を修め、すべての佛法能は円満に通じる。釋迦牟尼佛は弘法49年、こんなにも多く開示するしなければならなかったのは、密教を修める人は少なく、顕教を修める人が多かったからである。直貢チェツァン法王は法を伝える時、チベット語で話すが、リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット語がわからない。もしかすると、このようであり、「我」によって佛法を聞いているのではなく、入定に於いて直貢チェツァン法王伝法を聞いているかもしれない。こうしたことに拠って、清淨な本性と清淨な佛法は相互に結合し、上師と功徳の大海で結合する。自然速度が早くなり、チベット語がわからなくても成就することが出来るようになる。

先週、一人の弟子が父親を連れて亡くなった祖父を助けて欲しいとリンチェンドルジェ・リンポチェ謁見を求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼らは魚肉で故人を祀っていることがわかった。そのため、彼らに家に帰ったら魚肉で祖先を祀らないように伝えた。しかし、この弟子は、昨日やって来てリンチェンドルジェ・リンポチェに家族は今でも魚肉で祭祀を行なっていると報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示した。この弟子はきっと家族に対して忍耐強く佛法の偉大さを話していない。ただちょっと言ってみて家族がそれを受け入れなければそれっきりでもう言わない。それは彼の心の覚悟が足りず決心が不足していることを表している。だから密教を学ぶ資格はない。

あなた方はこっそりと隠れて事をしてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは知らなくても、アチ護法は知っている。もしもあなた方が悪いことをしているなら、アチ護法はその事を自動的に暴露させる。ここ数年来、既に何件もの例を見てきた。嘗て或る弟子は貪りの心を起こしたが、その事は不思議なことにリンチェンドルジェ・リンポチェが知ることになった。そして既に一年余りが経つ。もしも、あなた方がそれほど悪くなくてあるいはアチ護法があなた方に時間を与えたなら、それはあなたが懺悔するか、自己を改めるかを見ている。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ここ数年来、小組長や理監事との会議に出ていないし、あれこれ尋ねたりしていないし、密偵を派遣して弟子の事情を探ったりもしていない。ただ考えを一二名の弟子に言ってるだけで彼らから伝えたにすぎない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、現在既にこれらのことからゆっくりと離れていて、理監事らがこれらの処理に頭を痛めればよいと考えている。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、続いて弟子を伴った護法を修めた後、出席大衆に殊勝な佛法を開示した。

2007年リンチェンドルジェ・リンポチェがラチ雪山で円満に閉関した後、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに直貢噶舉宝物を一箇所に保存している寺廟へ行くように指示した。以前、寺廟附近には山賊が出た時、寺廟の管理者は命をかけて守ったことがある。この寺廟は外部に開放していないが、多くの歴代大修行者らが残してきた聖物を大リンポチェだけに参観させるが、日を選び時間までも指定する。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、ヌバリンポチェと共に向かった。なぜなら、ヌバリンポチェは中国語が話せ、正しく発音できる。そのうち、一個の聖物、それはヤクの臼歯であり、上面には観世音菩薩の像が浮き出ていた。その年、祖師の吉天頌恭は、萬名弟子をラチ雪山に派遣して閉関した。そのうち或る一人の弟子は、毎年夏になると、数名の他の弟子たちと、このヤクでこれらの密教を修めている修行者に物資を運んでいた。このヤクが死んだ後、ある人がヤクの臼歯に、自然に浮き出た観世音菩薩の像を見つけた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の目でこの臼歯を見て、この尊像の輪廓がぼんやりとしたものではなく、非常にはっきりとしていると思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、子供の頃から多くの骨董と芸術品を見たが、一目見てこの観世音の像が自然に形成されたものであり、人が意図的に彫ったものではないことがわかった。このヤクは、生前密教修行者に仕えていて、チベット、ネパール間の運搬の任を負っていた。そのため、死後得度することができた。畜牲でもこのように得度出来るのであり、あなた方は人ではありませんか!しかし、畜牲とあなた方は違う。畜牲は別の考えはなく、ただ黙々と命の定めるままに事をしている。あなた方のようなたくさんの自分の考えは持っていない。

もしもあなたが上師に対して少しでも猜疑心があったなら、密教を修めることはできない。密教には大福報があることを学ばなければならない。直貢チェツァン法王は法を伝えた弟子はこんなにも多く、今生でリンポチェの果位を修めることができたのは、目下リンチェンドルジェ・リンポチェ一人だけであり、それは密教の修行をするのはこんなにも難しいことであるということがわかる。けれども密教は難しいから修めたくないと考えてはいけない。佛法はいわゆる困難と容易、ちょうど先週灌頂法会の時に開示したものがなく,それはあってはいけない聞法の心態である。密教を修めることが出来るかどうかはあなた方の決心にかかっている。それは年齢とは関係ない。リンチェンドルジェ・リンポチェが47歲頃に閉関した時、直貢チェツァン法王に尋ねたことがある。自分はもうこんなにも歳をとってしまった。今生で成就することができるでしょうか?直貢チェツァン法王は開示した。年齢は関係ない。我々が上師に対して100%の信心と恭敬心があるかどうかである。何でも恐れていてはいけない。あなた方はいつもリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるのを恐れている。もしも上師に対して恐れるなら、上師はどうやってあなたに法を伝えるのか?密教はとても素晴らしい。けれども皆の縁を見なければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示した。全てはあなたの心にあり、完全に上師を信じることが出来るかどうかである。たとえあなたが愚かでも、真言を唱えられなくても、または年齢が高かったとしても,それで密教が修められなくても、それでもあなたの心が完全に信じ、完全に恭敬していて、法のように依止し、徳を備え、清淨な金剛乗上師を伝承すれば、必ず福報が貯まり、ある日必ず智慧が開く。ちょうど理事長自身が叱られるのを恐れ、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの指示通りに選ぶ日々を選ぶ。リンチェンドルジェ・リンポチェは指示はせず、ただ開示するだけである。

だから、年齢は問題ではなく、自己の心が問題なのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一人の弟子を叱責した。彼は大企業の社長をしたことあり、経験があると思っている。宝吉祥佛法センターにやって来て世間法でリンチェンドルジェ・リンポチェのやり方が、彼が学んだ経験と一致するかどうか、何処か違うところがあるかどうかを見ている。もしもリンチェンドルジェ・リンポチェのやり方が好きでないなら、離れるだけでは済まない。この種の人は、顕教を修める資格がない。なぜなら上師を尊重しないからである。上師は道理が通じないものである。たとえ道理がないことが道理だったとしても、いつも弟子を調整することが出来る。もしも、あなた方がやはり自分の考えに基づいて仏教を学ぼうと思うのなら、それは帰ったほうがいい。リンチェンドルジェ・リンポチェは、かなりすごいのである。あなたが評定できるのではないことをただ直貢チェツァン法王と佛菩薩だけは知っている。

あなたの人生経験を以て上師がしたことを判断してはいけない。上師がしたことはすべて佛法であり、すべては衆生利益である。ある時、或ることについてリンチェンドルジェ・リンポチェは学んだことがない。けれどもリンチェンドルジェ・リンポチェは知ることが出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは高校しか卒業していない。本から学んだのではなく、修行から得たものであり、各衆生が心のなかで何を思っているかを知ることが出来る。あなたは自分が賢くて優れていると思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェにとってみれば、世間の事は知るに足りるほどのことではない。あなたは自分は重要だと思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に最も重要な事—生死輪迴の解脱を教える。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、出席大衆の頂礼を受けた後、出席大衆に殊勝な佛法開示を慈悲深く与えた。

他の事では、その日、ヤクの臼歯の聖物を見た他に、聖物を保管するチベット人は他に二足の非常に古い靴をリンチェンドルジェ・リンポチェに見せた。行者が見た上師が残した聖物は,すべて取り出して自分の頭で加持をする。リンチェンドルジェ・リンポチェが一足目の靴を自分の頭上に上げた時、何も感じなかった。しかし、二足目の靴を自分の頭上に上げた時、一つの非常に大きな加持力をはっきりと感じた。続いて聖物を保管するチベット人は、リンチェンドルジェ・リンポチェに話した。一足目は那洛巴大師が残した靴で、二足目は馬爾巴大師が残した靴です。またリンチェンドルジェ・リンポチェがこの度行った閉関は正しく喜金剛であり、それは馬爾巴大師の法である。そのため、閉関が終わった後、馬爾巴大師の加持と相互に感応したのである。これは我々に話し、あなたはこの上師の仏門を修める。たとえこの上師はいなくても、あなたに対して加持をする。大修行者が残したいかなる物も、衆生に利益することが出来る。それがたとえ古い靴であったとしても。但し、行者が自分で修め、自分で行なってこそ、初めて加持を受けることが出来る。さもなければ、たとえ有名であったり、素晴らしい修行者であったとしても、あなたはその方と感応することができない。

もしかすると、あなた方は、リンチェンドルジェ・リンポチェは特殊体質なので、感応できたのだと言うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを以て言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは広東人なので、体質はあなた方と少し異なる。但し、あなた方に上師に対する恭敬の心がありさえすれば、たとえ上師がいなくてもあなたは、その上師の仏門を修めると加持がある。正に経典は伝えている。いつも三宝を思いつづければ、三宝の加持を得ることが出来る。

或る人は、仏経は上師に依止することを書いていないと言う。なぜチベット仏教、密教はこんなにも上師を強調するのか?知らなければならないのは、佛がこの世に住む時代の佛は佛が即ち上師である。だから佛は特に上師の名前を挙げたりしない。佛教は我々に佛を敬うように言うが、それは即ち我々が上師に恭敬しなければならないというのと同じなのである。佛涅盤を待った後、上師によって佛伝法を代表する。もしも、あなたが上師に対して猜疑心を持てば学ぶことが出来るだろうか?上師を恭敬することは、佛を恭敬することで、上師があなたに恭敬することを要求しているのではなく、これは仏経上の教えなのである。これは、その時代歴史の原因であり、これを以ていうことはできない。更に依止するには、必ず徳を備えた上師でなければならない。

佛は、この世で仏教を学ぶ人は佛に恭敬するが、その後は異なる。上師の本質は、佛とまったく同じであるが、時分は仏であると自称してはいけない。上師はこの世であなたが佛を学んで修行する上師を含まないだけで、歴代上師は頭上で加持をする。顕教または密教に関わりなく、何の仏門を学ぼうとも、三宝に対して恭敬しなければならず、もしも猜疑心があれば、信じたり、信じなかったりと、離れたほうがよっぽどましである。あなた方の多くは、一種の間違った心理態度であり、何か問題があった時、上師は上師ではなく、何事もない時には時分はよく修行していると思う。このような人は、時々信じ、時々信じない人で、更に非常に独りよがりで、法会に来た人は即ち上師を信じていると思ってはいけない。

時間は益々少なくなっている。学問をする人は良く学びなさい。勉強したくないからと言って、両親にリンチェンドルジェ・リンポチェが生死解脱のほうが重要だと言ったからと言ってはいけないし、試験を受けたくないからと言って無常を両親に説いてはいけない。あなたが努力しなければ、試験が悪いのは当たり前のことで、無常ではない。佛法で責任を転嫁してはいけない。学生は学生の身分を全うしなければならず、佛を誹謗してはいけないし、佛法を誤解させてはいけない。あなたは同級生に話してもよいが、人には人の自由がある。佛法の名詞を聞いて人に誤解させるのはやめよう。もしも、子供が嘘を言ってリンチェンドルジェ・リンポチェに報告しないのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは子供をその場から追いやるだろう。もしも、まだ子供が両親に嘘を言うならば、リンチェンドルジェ・リンポチェが叱ってあげよう。

法会は円満に終了し、出席大衆は起立して尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りるのを送り、リンチェンドルジェ・リンポチェが今日も労を厭わずに皆に殊勝な開示を与えたことに声を揃えて感恩した。

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2015 年 08 月 16 日 更新