尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年2月10日

元旦、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターにおいて、地蔵菩薩法会を主催された。

法会開始前に、2009年に皈依した女性弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチと諸仏菩薩に、上師を賞賛するチャンスを与えてくれた感謝した。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが、たびたび語る言葉を、しっかり記憶していた:果報【前世での行いの結果として現世で受ける報い】が成熟する時、借りがあれば返さなければならない。彼女は、2キロの筋腫とうまく共存していたが、2012年12月31日、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修持する日の明け方3時ごろ、とても気分が悪くなり、起き上がるたびに嘔吐し、体が震え、全身がだるく、それが6時ごろまで続いた。その時、衆生に代わって必ず施身法に参加できるよう、ずっと護法神阿奇祖母に祈り続けた。その後も痛みが続いた。彼女は、もしインフルエンザだったら、どうしよう?また、一昨日までは、何も問題が無かったのに、なぜ?と思った。上の息子が言うには:「まず行ってみよう!道場には医者の兄弟子がたくさんいるから、行けばなんとかなる。」そこで、彼女と2人の息子は、タクシーに乗り、直接道場に向かった。一階に到着すると、医者の兄弟子は、すぐ近寄って心配して、まだ熱が出ていないので、先に薬を服用し、マスクを着用して上の階に着席するよう促した。その後、医者の兄弟子は、彼女の背中を軽く叩きながら言った。:「インフルエンザではなく、腎臓が炎症を起こしている。」法会が終了したら、病院で検査してくれると告げた。その時、そんなにひどいのかしら?法会が終れば、多分良くなっているでしょう、と彼女は思った。帰宅後、本当に良くなったと思った。ただとても疲れていて、ベッドに横になった途端、すぐ眠ってしまった。どのぐらい寝たのだろうか、夫が帰ってから、彼女の体温を測ったところ、熱があるので、彼女を無理やり急診に掛からせた。彼女は病院が大嫌だった。原因も分からず、それに夜中だから、ほとんどがインターンで、彼らにあれこれされるのが怖かったのだ。突然彼女は、医者の兄弟子が言った「腎臓炎」を思い出し、急いで夫に伝えて、CTスキャン検査をしてもらい、血液検査したところ、白血球が2万以上有った。医者は二つの腎臓と尿管が炎症を起こしていて、腹部にはひとつ大きな筋腫があり、すぐ婦人科医に連絡を取って、手術をする必要が有ると告げた。彼女は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと、阿奇祖母のお写真を持ってきていないので、それは駄目だと思った。夫が忙しく行ったり来たりするのを見ながら、いろいろなことで疲れ果て、看護婦に抗生物質を打たれ、夫が同意書に署名して、やっと病院の許可を得て退院できた。帰宅後、少しずつ熱が下がっていった。二日目友達の紹介により、別の婦人科に診てもらった。この医者は初めてだが、医者の兄弟子の親しい友人で、大回りしたが、これはリンチェンドルジェ・リンポチェのお計らいによるものだと確信した。すぐに首尾よく手術を受け、2キロの筋腫を取り除き、手術は40分で終了し、輸血もせず、翌日には排気があり食事ができ、導尿管も外れ、三日目には点滴も取り外し、四日目には帰宅できた。

これら一つ一つがうまく順調に進み、重い報いも軽く済み、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝した。施身法の法会の中での開示は:「もう駄目になったとき、いろいろされて、病気で裸のままベッドの上に横たわったのでは、尊厳などまったく無い。」彼女は、その場ではたと思い至った。悪行を止め、善行を施すべきで、言う事を聞かなかったり、《佛子行三十七頌》を依止【よりどころとすること】しなければ大変な事になる。手術前、定例の身体検査を行ったところ、彼女の筋腫の分化が発見され、夫は非常に怖がり緊張した。手術後の化学検査から、良性だと報告を受け、その上内部は全く癒着しておらず、塊のまま摘出された。彼女は、これら一切、尊き剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持によるものだと確信したのである。

続いて、彼女は懺悔した:出産後ひと月、筋腫と同じような豚のレバー、鶏の爪、鶏の足、魚、エビなど、様々な口にできる衆生を食べ、自分の人生で好きだったら何もかまわず、独りよがりで、多くの衆生を傷つけたのも、全く分からなかった。彼女は、二度と罪を犯さず、言うことを聞き、上師に依止し、《佛子行三十七頌》をよりどころに、毎日自己を促し、一生懸命努力して、悪行を止め善行を施すと、懺悔した。

同時に、彼女はまた怨者に感謝した。そうでなければ、大修行者である尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにめぐり会う事も無かっただろう。その上、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、彼のもとで仏教を学ぶ事ができた。先週の土曜日、道場に出向き、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し供養をしていた時、彼女が報告を終える前に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女を前の方に呼び出し、長い間彼女に加持した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、頼まれなくても、肉体上の苦痛があっても、衆生を見捨てず、命を懸けてでも衆生を助けるのであった。翌日には、又無数の衆生のために法を修めなければならない。このことを考えると、彼女は、また満面に涙を浮べ、苦海【苦しみの絶えないこの世を海にたとえていう語】を離れ、二度と輪廻を繰り返さないため、生まれ変わっても尊きリンチェンドルジェ・リンポチェについて行くことを発願した。各業種の金剛兄弟子の助けに感謝するとともに、入院中、兄弟子達の関心と配慮にもお礼を述べた。

続いて、もう一人2011年1月16日皈依した女弟子が、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、上師の大慈悲力を賞賛する機会を得た。

2010年6月6日、彼女は縁があり、初めて尊勝な怙主直貢チェツァン法王が主法する「チベット仏教直貢噶舉派祖師ジッテン・サムゴン793年記念大法会」に参加した。しかし当時、彼女は仏法を信じておらず、独りよがりな気持ちで法会に参加し、恭敬心など微塵もなく、参加すれば良いぐらいの気持ちで、注意深く聞くことも無く、そう思ったとしても理解できなかった。会場から出て行きたかったが、それもできず、同行した夫に続けざまに問いかけた:「もう顔を出したんだから、帰っても良い?」当時、彼女は夫に付き合い、参加するだけで良い!と思っていた。夫が、なだめすかしていたからこそ、座り続けていたが、何度も居眠りを繰り返しながら法会を終えた。今思い出してみれば、実に失礼に極まりなく、まったく酷過ぎたが、この殊勝な大法会で、福報を得られ、続いて「阿弥陀仏無遮大超度法会」に参加を申し込む事ができた。

法会の終了時、母親の済度をリンチェンドルジェ・リンポチェに祈願したく、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの謁見登録のため、彼女は台北寶吉祥骨董店に電話しようと思った。彼女の母親は、2000年8月17日に亡くなっている。母親は、大腸ガンの末期で、医者の判断では、残り半年の命であったが、当時20歳でまだ卒業したばかりで、遊び盛りの彼女は、これでも無常【この世の中の一切のものは常に生滅流転(しょうめつるてん)して、永遠不変のものはないということ】がこんなにも間近に迫っている事を真に受けず、さらにはこの事実から逃避したかった。彼女は当時ごくわずかな残り時間、一生懸命母親孝行をしないばかりか、夜遊びして帰宅せず、重病の母親に心配をかけさせた。:それに母親は、彼女のために、大好物の豚の大腸を特別準備していた。正因【物事の直接的な原因】はこの通りで、さらに母親の殺生業を一層深め、真に親不孝に極まりない。当時母親は末期ガンの苦痛の最中で、希望を懐いて化学治療したものの、かえって化学治療の結果、失望、死亡、恐れに陥り、最後には生きる意欲を放棄してしまったのが、今でも忘れられない。発病から極短い3ヶ月足らずの間、母親は苦痛と、順調にいかない治療の責めをなめ尽した。最後には、絶えず腹水が溜まり、たびたび病院で2樽ほどの血の混じった腹水を抽出した。抽出針は少なくとも20センチはあるだろうか!こんな針がお腹に挿入されて、怖くない事があるだろうか?

徐々に母親の四肢はやせ細り、絶えず腹水が溜まり、妊娠10月のような太鼓腹に膨らみ、何も食べられないのに嘔吐し、人が近付けないような臭いがした。最後には一心に死にたがる母親に、子供達もあきらめ、死が母親を解脱させられるようにと願った。生き延びるためだけに苦痛を忍び、苦しみに苛まれるのは見るに忍びなかったのだ。母親が亡くなったその日、4人の子供達が交代で、母親の傍で途切れることなく仏経を読誦し、子供達や父親のために未練を残し、仏や菩薩と一緒に行くことを拒否しないように、仏や菩薩と一緒に浄土に行けるよう一心に祈った。しかし、彼らはずっと疑問を持っていた。母親は亡くなったが、楽しく過ごしているだろうか?地獄で苦しんでいないだろうか?それで、済度の法会があると聞けば、彼女はすぐ登録し、亡魂を呼び出すところがあれば、すぐ聞きに行った。当時家族は大変苦しんでいた。母親が去り、家族も分散し、心に埋蔵した苦しみは、10年過ぎたと言っても、薄れる事はなかった。

それは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めるまでだった。母親の済度のため、施身法法会に参加できるよう祈願したが、当時彼女は、法会に参加するには、菜食しなければならないことを心配していた。だが、やはりリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く、母親の済度と、彼女の施身法法会参加を了承した時、彼女に菜食ができますか?と尋ねた。瞬間、彼女は自然に答えた。:「できます。」リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持力により、菜食を始める決心がついた。そうでなければ、自分の口とお腹の欲を満足させるために、どれだけ衆生を傷つけたか分からない。当時彼女は、鶏ステーキ、牛ステーキが大好きで、さらには食べ放題のレストランで、思い切り海鮮を食べていた。自分は採算が取れるまでしっかり食べる人間で、極めて貪欲な悪人だったと彼女は言った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが主法する殊勝な施身法法会に参加後、彼女は日曜日の共修法会に参加しようと思い始めたが、良くない考え方をしていて、独りよがりに始まり、高慢で、更には懐疑心を持ち、ただ自分の性格を改善し、人間関係上のネックを解決するため、利己的な考えで仏法を利用し、リンチェンドルジェ・リンポチェを利用して、人生の問題を解決したかったのだ。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女に質問した。:「なぜ仏教を勉強したいのですか?」そして慈悲深く彼女に開示した。:「家に帰って良く考えてから、また来なさい!」

彼女の心は正しくないので、もちろん答えられなかった。自然と助けを求める勇気は無くなり、そこで尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ著作の《快楽と痛苦》を拝読し始めた。本の中から模範的な回答を抜き出し、上師に対応してみよう!と思ったが、彼女は恭敬心が全く無いため、どう助けを求めれば良いのか思いつかず、そこであきらめてしまった。しかし、皈依の法会の時、また皈依したい気持ちが湧き上がり、皈依することだけが、自己の決心を堅固にできると思った。それに本の中で「人身は得がたく、仏法は聞き難く、上師にめぐり会い難し」、万が一逃したら、次はあるのだろうか?

そこで、夫に皈依したいと相談したところ、夫は賛成しないばかりか、良く考えなさい。皈依するのは早すぎるんじゃないか?と言われてしまった。皈依の法会の金曜日になっても、この週に皈依の法会があるかどうか、はっきり分からなかった。しかし、彼女はあきらめきれず、まず尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの許し得ないと皈依できないので、まずお願いに行かなければと思った。そこで勇気を奮い起こして、土曜日尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女の皈依を一緒に祈願する登録に同意してしてくれるかどうか、再び夫に尋ねた。今回尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女になぜ仏教を勉強したいかと二度とは尋ねず、貴重な慈悲深い開示をされた。:「仏法の目で他人を諭すべきではない。特に自分の夫に対してだ。」リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように鋭く、彼女が独りよがりで、傲慢なことが早くから分かっていて、彼女の問題点がどこにあるかよくわかり、それをはっきり彼女に告げた。彼女は、絶えず自分に言い聞かせ、上師の開示を、必ずしっかり心に刻んでおかなければいけない。これは彼女が必ず注意しなければいけないことであり、問題点がどこに有るか、たとえ分からなくても、上師の開示をしっかり覚えておくべきである!

案の定、皈依するや否や、独りよがりの悪念がすぐ起き、たびたび菜食のことで夫や姑と言い争いをし、障害が発生したが、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持により、その福報で自己を改めたので、徳の高い上師に続けて依止でき、継続して仏教を学ぶことができた。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのこの恩に深く感謝したのである。

彼女はここで、自分のために累世で犯したもろもろの悪行、殺生行及び傷つけた友情衆生に懺悔したかった。いつも独りよがりで、嫌になるほど傲慢で、周りの人を悩ませたり、様々ことで衆生を傷つけた悪行を懺悔した。仏教を学んで以来、無数の上師の加持と助けを得られたが、しかし一つ一つ上師を賞賛できないことを、彼女は懺悔した。更に法会に参加したとき,恭敬心が足りず、仏教を精進して学ぶ事が無く、上師に対し完全に服従する心が無い事を、彼女は懺悔した。

人身は得がたく、仏法は聞き難く、上師にめぐり会い難し。慈悲深く、衆生を救い、彼女の母親を済度し、母親が仏法の助けを得て、苦海を抜け出させてくれたこと、あの頃の母親の経験した生死輪廻の無常の苦しみと、恐怖の執着から離れさせてくれたこと、そして彼女に仏教を学ぶチャンスを与えてくれたこと、これらの恩に対し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに大変感謝した。それと同時に、彼女や衆生に貴重な仏法の開示してくれた事にも、大変感謝したのである。彼女は、上師の話を良く聞き、仏法を学び、自己を改め、生死輪廻の苦海から解脱を目指し、親孝行を尽くし、上師の恩に答えるよう誓った。彼女は心から、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご身体が健康で、法輪を常に転じて、仏法の事業がますます盛んになり、永遠に世に留まっていることを祈願した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターの法座にあがり殊勝な「地蔵菩薩法門」を修法され、会場の列席者に向けて貴重な仏法を説かれた。

本日は「地蔵菩薩法門」を修法する。顕教では旧正月の一日に地蔵菩薩を修さない。地蔵菩薩の願力は「地獄空しからずんば、誓って成仏せず」であるが、地蔵菩薩はただ専門に鬼道衆生を済度する菩薩だから旧正月の一日に地蔵菩薩法門を修するのは不適当だと誤解された。日本ではお墓であれば必ず、石刻の地蔵菩薩像がみられる。台湾も同様である。実のところ、これは全て地蔵菩薩に対する誤解だ。地蔵菩薩は八大菩薩の一つである。誓願は「地獄空しからずんば、誓って成仏せず」であるが、地蔵菩薩は本質的に既に仏果を成就しており、衆生を済度するために諸々の化身で現れるだけだ。

一般に多くの人が地蔵菩薩は鬼道衆生を済度するだけだと思っている。『地蔵菩薩本願経』を読誦すればするほど鬼道衆生がついてくると言う者もいて、地蔵菩薩は鬼道衆生を呼ぶから、夜は『地蔵菩薩本願経』を読まないようにと言う者もいる。このような話は実は仏への誹謗である。この人のお経に対する理解が十分でないことが分かる。ある者は読経している際に背中がひやっとし、だんだん怖くなったという。読経している時に背中がひんやりしたからといって鬼道衆生だと思ってはいけない。もしあなたが一生懸命読経していたら汗も出る。風がちょっと吹いたら自然に背後がひんやりすることもあるだろう。あなた方には鬼に従わせる資格はない。鬼があなたにくっついて来るのには幾つかの状況がある。一つに、あなたに済度の能力があるから、鬼道衆生は助けてもらおうと思ってあなたにくっついて来る。二つに、あなたには彼に累世の借りがあるが、あなたは仏道修行をしているので、将来、鬼道衆生も一緒に済度される。よって、くっついて来るがあなたの邪魔をすることはない。三つに、あなたの護法となる。

ある人があなた方の後ろに鬼道衆生がたくさんくっついていると告げた。もしそう言う人がいたら、その人には見る力があるのだから、済度する能力も必要だ。誰かがこう言ったなら、こうやってあなたを怖がらせるのではなく解決してもらいなさい。済度する能力がないのなら言っても無意味だ。事実を言えば、後ろにたくさんくっついていない者がいるのか?あなた方は過去から今迄どれ程の肉を食べてきたのかを考えてみなさい。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を済度し始めてから、背後に沢山の鬼道衆生がくっついている人をよく見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、身体の近くに一群の魚がくっついている人を見たことがある。一度、頭の上にロブスターを載せている人を見たこともある。この人に、なぜロブスターがくっついているのか尋ねると、自分はロブスターを殺すことを生業としていると答えた。毎日ロブスターを殺していた。ある時、リンチェンドルジェ・リンポチェがインドに到着すると、当地の男の子に謁見を求められた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一頭の猪が彼の腰にぶつかっているのが見えた。それで彼は腰が痛かったのだ。この人の職業は猪に接触することはなかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ猪を怒らせたのかと聞いた。何とその男の子は叔父と一緒に原野へ行って狩猟をし、叔父が猪を殺した時に隣で手伝っていただけであったが、この猪は彼について来ていたのだった。

だから、あなた達は隣で見ているだけなら問題ないと思ってはならない。あなた方が今世でうまくいかない事のすべては殺生業に起因する。リンチェンドルジェ・リンポチェが鬼道衆生を見た事を話すのは、口にしたら彼らを済度しようとしているからだ。ただ見えるだけでは解決できない。こういう場合は鬼道衆生がくっついている等の話をして人を怖がらせるべきではない。このような話をして人の心を不安にし、ある種の個人の目的を達成しようとするのは良くない。実のところどこにでも鬼道衆生はいる。道場を離れればたくさんの鬼道衆生がいる。今、道場の窓の外にもいる。

なぜ、地蔵菩薩の「地獄空しからずんば、誓って成仏せず」という誓願を誤解し、地蔵菩薩はただ専門に鬼道衆生の済度をしているとし、多くの正しくない観念を起こす者がいるのだろう?なぜなら、現在の多くの者が仏法を学ぶことを研究とし、仏教の内容をあれこれ考えるだけで、仏法を生活の中で実修していないからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法修習の方法は、上師及び仏菩薩の教えに完全に従い実修する。その後、経典上に記載されている内容に基づいて自分の修行の境界を証明し、尚且つ上師によって確認してもらう。しかし、あなた方が仏法を学ぶ際には、実修の境界を通して経典上の教えに違背するかどうかを験証することをあまりしていない。経典に説かれているように、ただ文字だけで仏法を解釈するなら、三世仏は濡れ衣だと声を荒立てることだろう。過去、現在、未来仏があなた方に間違っていると言うだろう。経典は、修行するためにある。おしゃべりする為に用いるのではない。文字の研鑽ではない。それから、自分は家の中でお経をあげ、テレビで仏法を聞いていればよい、道場に行って上師について学ぶ必要はない、こうやって自分で修習できる、自分でお経を見て理解できると思っている者も沢山いる。経典には「経を聴くは経を念ずるに如かず。経を念ずるは経を行ずるに如かず」と説かれている。「経を行ずる」とは即ち、お経の教えに従って仏法を受け入れ、仏法を生活の中に用いて自分の行為を改めることである。仏法を学ぶ事は文字の意味を研鑽し、多くの仏法上の名詞を知ることではない。聴いたこと、学んだ仏法を用いなければならない。こうして初めて修行し生死から解脱できる。

地蔵菩薩は仏が娑婆世界に行き弘法し、法界に行って衆生を助ける最も重要な菩薩の一人である。完整な聖号は「大願地藏王菩薩」という。「大願」は願力の大きさに分けて言っているのではなく、また、菩薩を大菩薩、小菩薩に分けて言っているのではない。仏菩薩には既に分別心がなく、その願力の大きさには別はない。『金剛経』の中で説かれるように、菩薩は既に、我相、人相、寿相、衆生相の四相を滅している。この四相は我々の一切の分別と執着を滅する。「大」は広大を意味し、地蔵菩薩の衆生利益の心が広大であり、遍く諸々の六道衆生と一切虚空の衆生を救済する。菩薩は衆生のために発願し、衆生の因縁に応じて救済をはかる。世間には、成仏後に諸々の事をやると発願する者もいるが、実際に、仏菩薩の起こす誓願はこのようではなく、必ずやり遂げられることが決まっており、完全に衆生利益のための成仏だ。自分がある種の大きな力を顕現するためではない。最近台湾には薬師仏を修して、自分は十二の大願を発したと言っている者もいる。あなた方は軽率に発願してはならない。または他人が大きな発願をしたからといって、自分でおかしな誓願を発明したり、いくつかの誓願を加えることはしなくてよい。

経典上に説かれている通り、菩薩の発願は、八地以上の果位を証していて、しかも、菩薩道を行じていて、自分が成し遂げられることをすでに確定していてこそ、衆生を利益する発願を起こす。修行者は菩薩道を行じてこそ発願できる。さもなくばスローガンに陥ってしまう。読経、礼拝は修行ではない。単なる救済の縁であり、菩薩道を修することではない。菩薩は殻に閉じこもらない。『寶積経』に説かれる菩薩が具えるべき行為、思想、及び条件に符合しなければならない。仏法を学ぶには階梯に基づいた修行が必要で、慈悲心の修習をしておらず、菩提心をおこしていないなら、どうやって菩薩道を行ずるのか?《寶積経》の記載に符合しないのは菩薩ではない。仏法を学ぶ人の修行は必ず経典に基づかなければならない。

実のところ、あなた方は利口ぶって他の誓願を考える必要はない。毎回法会の中で唱える発心、四無量心、回向文は即ち発願である。菩薩の果位を証する以前、あなた方は「祈願文」の內容に沿って発願すればよい。成仏した後にどんな事業をしたいかを発願するのは、実際的でない。また、利口ぶって奇妙な誓願をおこさなくてよい。例えばあなたが大儲けするよう仏に求め、仏像を作ることを発願するようなものである。あなた方が仏法を学ぶ時、庇護を求める心があってはならない。仏法を学んだ後、自然にお金が儲かるよう仏菩薩に助けを求め、それを発願して菜食する。仏法を学ぶ際のこのような心のあり様は間違いだ!もしあなた方が仏菩薩に金儲けをお願いし、お金ができたら修行と供養ができると考えるなら、このような心のあり様は仏菩薩を威嚇、恐喝することではないだろうか?仏菩薩との交換条件?ひどく言えば賄賂だ!仏法を学ぶ際にどうして賄賂できるのか?仏菩薩は一切円満であり、何も不足していない。衆生の供養を受けとってくれるのは、福徳を積む機会を衆生に与えようとする、ただの慈悲によるものだ。仏法を学ぶ者の発願は衆生を利益するためであり、自分のためではない。ほんの少しでも自分の為なら、それは発願ではない。単なるあなたの欲望だ。

仏法を学んだ後、経済状況がよくなる者もいる。それは、仏法を学ぶ者が法に基づいて学んでいるから、経済状況も改善される。こういう人は非常に少ないが、仏菩薩と護法が皆来て護持してくれる。リンチェンドルジェ・リンポチェもずっと上師と仏の教えに基づいて修行しているので、経済状況も益々良くなった。ガムポパ大師の説法にある通り、衆生が密法での成就を得た後、一切は円満となる。諸々の受用するものと財物が集まることも含まれる。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェが密法を修し成就を得た後は、ガムポパ大師が説かれるように良い物がたくさん自然に現れた。求めなくとも得られる。

地蔵菩薩はあなた方が思うように鬼道と地獄道の衆生を助けるだけではない。地蔵菩薩の「地」は地獄を指すのではない。地蔵菩薩の慈悲が大地のようであることを意味する。仏法の根本は慈悲であり、聖号の中の「大」もまた大慈悲の願力を指す。地球上の生命の如く、大地によって育まれなければ万物は存続できない。地蔵菩薩は大地の如く衆生を教化し慈悲心を培わせる。

慈悲は仏法の根本である。慈悲がなければ仏法もない。慈悲心は大地の中の養分の如く、菩提樹に栄養を与え生長を助ける。それはまるで、万物の生長には土が必要で、土があってこそ生長できるようなものだ。植物及び動物は皆、大地の灌漑と滋養を受ける。岩石の上には植物は育たない。最も多くて苔が生えるだけだ。菩提心を起こすには、まずは仏法の薫習によって慈悲心を育てなければならない。菩提心は種子のようだ。慈悲は養分であり、大地の滋養があってこそ育つ。水耕の是非を論じる必要はない。植物は土地がなくても育つと思うだろうが、水は土地によって濾過され、しかもミネラルを含む水だけが水耕に使用できる。純水は植物を育てられない。同様に、仏法を学ぶには必ず慈悲を育てなければならない。大地が慈悲の養分を含んでこそ菩提樹を育てられる。菩提樹がすくすくと育ち、繁茂した後にこそ広大な衆生を利益できる。

慈悲は必ず空性との双運でなければならず、空とは何もないという意味ではない。仏法の「空」の解釈は私たちが考える、何もない空っぽではなく、因縁法である。慈悲は、因縁によって生まれ、因縁によって滅する。衆生の縁が起きた時、仏菩薩もまた衆生の福徳と機根に応じて助けを与える。縁が滅したたら、慈悲の力も止まり、攀縁しない。まさにリンチェンドルジェ・リンポチェが多くの者を助けるのと同じだ。しかし、助けた後に大部分の人をリンチェンドルジェ・リンポチェも覚えていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは空性の慈悲によって衆生を助けるからである。慈悲が空性と双運でないなら執着が生じる。自分の行なった善に執着するなら、この善もまた業を生じ、私たちを輪廻させる。

「蔵」は如来蔵を指す。衆生全てにある仏性である。人は出生すると皆、成仏の如來蔵を持っている。大地があれば菩提樹を生長させ、大地の滋養があってこそ菩提樹は生長する。如来蔵は仏性であり、空性の智慧でもある。水中のミネラル等の養分が菩提樹に栄養を与える。修行者は悟りを得ると、生得の如来蔵を顕現し、因果に違背しない状況において衆生を助ける。仏法を学ぶには智慧と慈悲を修さなければならない。二つを修してこそ衆生を助ける能力が得られる。智慧と慈悲があってこそ、衆生の因果を見ることができる。その因縁を知れば間違いを犯したり、助け間違うこともない。もし慈悲だけを修し、智慧を修さないなら、偽善者に陥ってしまう。智慧を修し慈悲心を修さなかったら自惚れ、傲慢になる。自分と衆生は違うと思い、慈悲心をもって衆生の苦しみを理解できず、衆生を利益できない。

地蔵菩薩の誓願は「地獄空しからずんば、誓って成仏せず」である。この言葉はあなた方が考えるような単純に地獄の衆生を済度し尽くすという意味だけではない。各国に法律があるように、法律を定める意図は、人が悪事を犯して捕まるのを防ぐことにある。皆が法を犯さなければ牢獄に入れられることもない。同様に、地蔵菩薩が衆生に因果を教えたのは、衆生に因果を理解させた後に悪業によって地獄に堕ちる因を減らすためである。よって、地獄の衆生の業力が終わり因縁が熟した後に地獄を離れると、地獄の衆生は徐々に減り、ある日地獄は空っぽになるはずだ。地蔵菩薩は衆生が三悪道に堕ちるのを望まない。だから、一切有情衆生に仏法を学ばせる手助けをし、導く。一般に誤解されているように鬼道衆生を済度するだけではない。

済度の能力がないのに死者のために念仏をする人(枕経)の多くは、念仏しながら死者を見、同時に心の中で、往ったかどうか?念仏は役立つのか?等と考え、死者と共に心が散乱する。生前に仏法を学ばなかった者は疑問にさえ思う。私をどこに行かせようとするのか?衆生を利益することは容易いことではない。念仏してくれる団体を探し、他界後に念仏し、または蓮の花を折って、往生用布団を被せさえすれば死者を浄土へ往生させられるのではない。死者のために真言を唱える時、心の中は真言だけで他の事を考えてはならない。浄土を求めることさえも不用。供養を得るための念仏は尚更よくない。リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んでいた時は、死者のために念仏したことはほとんどなかった。あなた方のように死者のために念仏して欲しいと聞けばすぐ行き、これによって功徳を積もうとすることはなかった。このような態度は正しくない。リンチェンドルジェ・リンポチェは只一回だけ死者のために念仏をしたことがあった。それは、親友の亡くなった父親のためだった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの友人の父親のために念仏した時、まだ顕教を学んでいた。友人からの電話で彼の父親が亡くなったと聞き、念仏に行くことを約束した。第一に、自分が仏法を学ぶよう導いてくれた友人に感謝したかったからだ。どうにかして他界した彼の父親を助けたいとも思った。その後、経典に説かれている内容を読んだ。如何なる衆生であっても死者に代わって地蔵菩薩に慇懃に祈ったならば、地蔵菩薩は死者を地獄に堕とすことは絶対にない。

その時リンチェンドルジェ・リンポチェは死者のために阿弥陀仏の聖号を唱えた。一時間余り経っても死者はまだ往かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、死者が自分が往った後に妻の面倒をみる者のいないことを心配しているのが分かった。そこで友人に、亡くなった父親の耳元で「自分が母親の面倒をみる」と言わせた。その結果、2~3分も唱えたら、地蔵菩薩が来迎して死者を引接し、白い蓮の花が連なって降りて来たのが見えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が見たのは幻覚だと思っていたが、後に仏典の中に説かれているのと自分が見たものが完全に符合することを知った。どの仏菩薩を修しても真心から見返りを求めずに、法に基づく持戒をし、尚且つ死者が地獄に堕ちるのを心配する心で死者のために念仏するなら、死者が生前にどんな事をしても、地蔵菩薩は死者を三悪道に堕とすことはない。リンチェンドルジェ・リンポチェの友人の父親は生前家庭が裕福で、常に狩猟をし、美食をこよなく愛したため、後に中風を患った。リンチェンドルジェ・リンポチェが当時、友人の父親のために念仏していた時に、ただ友人に対する感謝の念があるだけで、死者にどんな助けをしてもらいたいかを求めず、真心から唱えた。だから、地蔵菩薩の心を動かし死者を引接してもらえたのだ。

もし、死者を済度する修行者が死者の執着を知らなかったら、死者を助けることはできない。このような能力を有する偉大な修行者に出逢うのは非常に困難である。死者にも因縁、福徳がなければ助けてもらえない。しかし、あなた方はこれを大切にすることを知らない。昨日ある女性弟子が母親が亡くなった故にリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を求めに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに誰が済度の法会に参加できるのかと聞いた。すると、死者の息子は来られないと言い、その他の家族も彼のために理由を言った。彼は中国に戻って働かなければならないからと、女性弟子も弟のために理由を言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女性弟子に、上師が彼女の母親を助けようとしているのに、まだ言い訳していると叱責した。もし彼女が自分が正しいと思うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェについて仏法を学ぶ必要はない。リンチェンドルジェ・リンポチェが最も歓迎しないのは親不孝者だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親に加持を与えていた時、母親の一つの秘密を知った。女性弟子は今迄リンチェンドルジェ・リンポチェに言ったことはなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持を与えた時に、死者が非常に苦しんでいることが分かった。死者は生前、一年余り施身法の法会に参加したが菜食をしなかった。この女性弟子は施身法に参加する者は一生菜食しなければならないことを明らかに知っているのに守らなかった。彼女は母親に菜食させなかった。母親はその他の兄弟姉妹のところに行き自己とは同居していなかったから菜食しなかったと言い訳したが、彼女は母親が菜食すべき事を明らかに知っていたのに、母親の肉食を許していたのだ。最後に母親は苦しみを受けた。上師にも苦労させた。よって、娘である彼女自身も破戒したことになる。上師の話を聴かずに持戒しなかった。生きている者は、リンチェンドルジェ・リンポチェの心を少し動かす動作をして、ごまかし欺くことができるかもしれない。だが、死んで鬼になった後は非常に苦しむ。絶対に騙せず、即刻仏法を受け入れる。ここから理解できる通り、リンチェンドルジェ・リンポチェは実にあなた方が往生するのを待ってからあなた方を済度しなければならない。あなた方は言う事を聞かずに、仏法を学ぶ事は日々を無事に暮らすことだと思っている。自分が苦しんで初めて上師の大切さを知ることができる。

だから、あなた方は親類が浄土へ往ったかどうかと二度と聞かなくてよい。これは、死者の因縁と福徳によるものだ。世間では一般に死者のための念仏には求めるものがあって唱えるので、自然に菩薩と相応できなくなる。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ顕教を学んでいた。『阿弥陀経』の中に説かれる「念仏成片」には至っていなかったが、菩薩を感動させて死者を迎えてもらうことができた。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが感謝の心で、何も求めない心で、生命の限りを尽くし、真心で仏菩薩に死者の救済を祈っていたからで、これにより地蔵菩薩は、死者が三悪道に堕ちないように死者を引接した。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時、死者のために一時間余り念仏をしたが、死者はまだ往かなかった。それは、死者が生前に念仏、懺悔をしたことがなく、執着があったためだ。幸い彼には少しの福徳があったので、リンチェンドルジェ・リンポチェに念仏を唱えてもらうことができた。

地蔵菩薩の衆生救済で最も重要なことは、衆生を三悪道に堕とさないことである。リンチェンドルジェ・リンポチェが親友の父親を助けた時唱えたのは阿弥陀仏の聖号であったが、引接したのは地蔵菩薩であった。だから、あなたが唱えた仏菩薩が必ず迎えに来るとは限らない。仏菩薩は衆生の縁に随って来るのだ。菩薩間はとても友好的で、相互にコミュニケーションがとれている。あなた方の家族が亡くなった時、阿弥陀仏を唱えたら阿弥陀仏が引接するとは限らない。観音菩薩が引接することもあるだろう。仏典に説かれているとおり、十方諸仏は、衆生を救済するという阿弥陀仏の誓願を助ける発願をし、広長舌相を現して阿弥陀仏の功徳を讃える。ただ浄土を修し阿弥陀仏を唱えるだけで、全ての仏菩薩が助けに来てくれる。助けに来るのは衆生夫々の因縁が異なるからで、夫々の仏菩薩の誓願も異なる。衆生の因縁と福徳に応じて、衆生がかつて恭敬し仏号を唱えたことがあるなら、縁のある仏菩薩が死者を引接してくれる。リンチェンドルジェ・リンポチェが友人の父親のために念仏を唱えていた時、仏菩薩に委ねようと何も求めなかった。だが、あなた方は念仏しながら何かを求めている。または死者が浄土に往生できるようにと願っている。結果、仏菩薩に委ねず自分で決めている。このような念仏は死者にとって何の助けにもならない。

釈迦牟尼仏は『地蔵菩薩本願経』を紹介し衆生を助けた。衆生が慇懃に死者を助けてくれるよう仏菩薩に祈るなら、地蔵菩薩は死者を引接し三悪道に堕とさないようにする。釈尊は『地蔵菩薩本願経』を説法時に、両親への孝行、家族が亡くなる前後に何をしたらよいのか、子供が生まれる前後に何をしたらよいのかを説かれた。一般に『地蔵菩薩本願経』はただ親孝行を説いたお経だと思われているが、ただこれだけなら仏は何のために別に『父母恩重難報経』を説いたのか?仏が説法するどの一言にも全て原因があり、全ては衆生を利益する。仏は衆生と関係のない事を説くことはない。最も容易に地獄に堕ちる因は親不孝(孝順でない)だ。「孝」とは、両親に子供のどんな事にも煩悩を起こさせないことで、「順」は両親の要求を理解して彼を助け、限りを尽くして両親の心に随うことである。だが、法に違う事はしてはならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の例を挙げた。数ヶ月前に子供が親不孝なことをした。リンチェンドルジェ・リンポチェは丸々六ヶ月、子供を無視し、自分の子供を見ず、話をせず、電話にも出なかった。古人大禹が三回家の門を通り過ぎても入らなかったように、リンチェンドルジェ・リンポチェも毎日、子供の部屋を通っても中に入らなかった。こうして子供に自分の間違いを知らせようとした。もし、今ここにいる親である者なら、必ず子供が今日はご飯を食べたかどうか?お金が足りているか?を心配することだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に十分あげていると考え、子供には何も聞かなかった。表面的には、リンチェンドルジェ・リンポチェは子供に非常に厳しく見えるが、実は、子供の親不孝を容認することを望まなかったのだ。多くの両親は子供のために口実を言って、彼らが親不孝するのを助ける。人の両親として子供を愛するのは正常なことだ。だが、子供を放任し、甘やかしてはならない。

以前、ある女性信者が子供を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。彼女は夫の行為が不当だと感じ、自分の子供全てを掌握して自分の味方につけ、一緒になって子供の父親に対抗した。これは良くないことだ。夫婦がもし喧嘩したなら、母親は父親が良くないと子供に言ってはならない。このようにすると、子供は親不孝になる。あなた方夫婦間の事は解決しなければならないが、子供を片方に付かせてはならない。あなたの子供に親不孝させてはならない。両親の中には、沢山悪いことをし子供にも良くない者もいる。このようであっても、私たちに生命をくれ、私たちに仏法を学ぶ身体を与えてくれたのなら、良い両親だ。その他の事に至っては、両親自身の因縁である。両親自身が向き合わなければならない果報だ。両親が子供に良くないのは、複雑な因果因縁がある。子供は両親を批判してはならない。両親がどんなに悪くとも、子供が両親を教訓する番は回ってこない。両親がどうであれ、両親があなたを生んだというだけで、両親に一つの恩を借りたことになるから感謝しなければならない。両親に怒りや恨みの心があってはならない。自分の両親を見下げてはならない。このような心を持つ者は本当に地獄に堕ちることになるだろう。あなた方の彼や彼女(恋人)があなた方に良くしても、両親とは比較にならないという事を知るべきだ。ある人の息子がアメリカにいるのだが、帰ってきて両親に会おうとしない。両親も彼に戻ってくるよう言わない。子供は明らかに親不孝だ。両親は自分のメンツを失わないように彼のために口実を探す。数ヶ月に一回しか両親に会いに行かない者もいる。台湾はそんなに大きいのか?家に帰る道のりにどれほど時間がかかるのか?

昨日一人の男性弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔した。自分は不注意にも母親が煮た肉のスープを飲んでしまったと言った。彼は自分の母親が菜食していないのを明らかに知っている。菜食のスープをどうして煮ることがあろうか?不注意に一口飲んでしまったとしても、菜食の人なら肉の味が分かるはずだ。どうして気付かない事があろうか?皈依後も肉を食べてしまう。ここから。彼が母親にはっきり話していないことが理解される。これも彼自身の心の問題だ。彼が肉を食べないと決意したなら、母親にはっきりと話し、母親に自分は絶対に肉を食べないという事を知らせるはずだ。以後、あなた方は、不注意で人が作った肉の料理を食べてしまったとリンチェンドルジェ・リンポチェに言わなくてよい。これは実はあなた自身の問題だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学び始め菜食にした後、母親は肉のスープを作ってリンチェンドルジェ・リンポチェに食べさせることはなかった。これは全て、あなた方自身が仏法を学ぶ決心をしたかどうかによる。通常、守戒に注意していないなら、自分の母親が肉料理を作ってあなたに食べさせても破戒である。これは非常に深刻な果報だ。即ち親不孝である。

あなた方が菜食をする決意があれば、どこへ行っても菜食できる。商売しているから菜食できないという言い訳はしなくてよい。リンチェンドルジェ・リンポチェは菜食だが商売しているのではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて、自分の例をあなた方に話したことがある。その年、ある者がリンチェンドルジェ・リンポチェが菜食であることを知って、わざとリンチェンドルジェ・リンポチェに酒を飲ませようとした。さらに、酒を飲んだら数千万の契約をすると言った。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは「みんなが友達であればいい。商売しなくてもよい」と相手に伝えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは御酒を飲むことを承諾しなかったが、その結果、相手はやはり契約した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは旧正月の一日に地蔵菩薩の法門を修し、あなた方をリードして『地蔵菩薩本願経』を読誦した。その意図は、法会に参加させて、あなた方の妨げを取り除き横行させて一切をスムーズにする為ではなく、あなた方に自分の間違いがどこにあるのかを理解させ、今年一年で改めるべき事を理解させ、二度と間違いを犯させないようにする為にある。今年、みんなに『地藏菩薩本願経』を読誦させ、内容を説法したのは、みんなが善の力を少し積み重ね、仏法の教えを聞き入れられるようになり、この善の因縁が熟した所以である。

今日の法本は、金剛亥母(ヴァジュラヴァーラーヒー)によって伝授された108種の修習方便法門のうちの一つであり、力も特別大きい。金剛亥母は密教を修する際に非常に重要となる本尊だ。無上瑜伽タントラを修した修行者なら必ず金剛亥母の助けが必要で、金剛亥母の助けがなければ成就は不可能だ。密教の法会では通常、直接修法をしてあなた方を助ける。本日リンチェンドルジェ・リンポチェは『地蔵菩薩本願経』の精髄を説く。よって今日の法会は顕密双修である。リンチェンドルジェ・リンポチェは生生世世衆生を利益しているため、過去に、地蔵菩薩がリンチェンドルジェ・リンポチェの頭の上にいるのを見た者もいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは発心し仏法を学び始めてから今迄、ずっと地蔵菩薩の願力によって修行してきた。リンチェンドルジェ・リンポチェの誓願は「衆生が成仏しなければ、私も成仏しない」である。常に諄諄と衆生に教えを説き、仏法の助けによって衆生を苦しみから救い続ける。この誓願を起こすのは非常に苦労が多く極めて大変だ。地蔵菩薩の誓願「地獄空しからずんば、誓って成仏せず」に相当する。よって、地蔵菩薩はいつもリンチェンドルジェ・リンポチェの頭の上で加持を授けている。修行者の行為と思想が仏菩薩の誓願と同じである時、仏菩薩と相応し加持が得られる。

『地蔵菩薩本願経』にはっきりと説かれている。地獄に堕ちるのを難しいと思ってはならない。殺生し肉を食べたら、地獄に堕ちる可能性がある。なぜあなた方に「止悪行善」するように言うのか?あなたの善の力が悪の力より大きい時、悪報を引き伸ばすことができ、地獄に堕ちても時間は短い。世間には過去の身内が地獄でどうしているのかを見てあげようという者がいるが、信じてはならない。注意しなさい。騙されてはいけない。地獄に往くのには二つの状況がある。一つは、悪をなした衆生が悪の業力に引っ張られて地獄に往く場合。もう一つは、菩薩の広大な威徳の力が地獄で苦しむ衆生を助けるために地獄へ往く場合である。世間には冥界を見る者がいるが、その人は菩薩の果位を証したのか?仏法を学ばずに迷信を学ぶ。背中がヒヤッとするのは鬼が近くにいるからだという言い方をまだ信じている。実のところ、鬼は後から入ってくるとは決まっていない。鬼が来ようとするなら、光明正大に正面からも来る事ができる。布団を被っていれば鬼はあなたに近づけないのではない。どんな所も鬼は通り抜けられる。世間では入口に御札を貼れば鬼は入って来れないと言っているが、鬼道衆生にはまだ人の習性があって、習慣で入口から出入りする者もいる。だが、御札を見たらそれを避けて窓から入ってくることもできる。実際には、鬼は三つの場所を通り抜けられない。仏菩薩と上師の金剛座。女性の子宮。卵生または胎生のどちらも同じである。及び地獄である。後ろ二つは入ったら出て行けない。地獄の衆生は業報が尽きて始めて離れることができる。

経典上にこう説かれている。修行者が地蔵菩薩の聖号を唱え、毎日一万回唱えたら、地蔵菩薩は一年後に善神を遣わして修行者の住居を守る。実にこの通りだ。しかし、ただ念仏するだけではなく、唱える者は如法の修行をし、言う事をよく聞き、仏法を学んでこそ実現する。リンチェンドルジェ・リンポチェはどこかに行き念仏を唱えただけで、どの方向に廟があるかを知ることができる。これらの衆生が利益を得ようとやって来るからだ。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは台南へ行き、ある家に加持を授けたことがある。すると、近くの土地の神様が近づいてきた。修行者が念仏を始めると、それは善であるので、それらの衆生は違いを感じて自然に近づいて来て保護するのだ。よって、経典に説かれる事は真実だ。修行者が修法するなら、善神は呼ばなくても自然にやって来る。あちこちの神社仏閣に行く必要はない。あなた方が家内安全を望み、自然災害に遭いたくないなら、言う事をよく聞いて仏法を学びなさい。

経典中に説かれる事は真実で嘘はない。仏典上の仏の教えに基づいて行いさえすれば、必ず実現する。これは仏法を実証実修したリンチェンドルジェ・リンポチェの実体験である。もし仏の説かれた話を人が実現できないなら余計な話だ。仏は余計な話はしない。人は仏の一言一言を実現する資格を持っている。実現したかどうかについては、上師に確認してもらう必要がある。自分で言えばよいのではない。成仏の発願、或いは自分がどの様な果位を証する予定であるかの発願を焦ってしなくてよい。法身を証した菩薩だけを仏は授記する。或いは上師によって授かった長寿祈請文中で授記する。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵菩薩法門の修法を始め、法本の重点を説かれた。まず先に出家弟子の代表がマンダラ供養をして勧請した。全宇宙の中で最も貴重な神聖物を主催の上師に供養し、上師に仏法をもって衆生を救ってくれるよう祈るものである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、修法を始めて少し経ってから、さきほどの修法によってこの土地に加持を授け、この地を浄土、仏土の如く地にしたと説明された。また、道場に加持を与えて道場を仏の宮殿とし、修法者の法座に加持を与えて仏の金剛座とし、並びに、全ての供養品にも加持を与えられた。続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは、「法本に説かれている通り、列席者は、続く修法において、主催者を本尊と全く同じ存在として見なければならない」と説かれた後、地蔵菩薩の法相を紹介した。地蔵菩薩の御身体は黄色、衣服も黄色、目の縁が赤みを帯び、頭上には青色の花輪を飾り、右手には果実を持ち、左手には蓮の花の如意宝を持ち、無量の緑色の光を放つ。また、地蔵菩薩の顔は、寂静の様子を現す。

本日修する法本は『地蔵十輪経』の中の地蔵王本仏の偈頌である。修法の最初の始まりは皈依、続いて地蔵菩薩本尊に壇城にお越し戴くことを祈る。その後、「七支分の供養」を行なう。法本に説かれている通り、あなた方は上師が本尊と全く同じ存在であると観想する他、法を伝授される時は真心で受けとらなければならない。甚だしくは感激して涙を流すなど感謝の心を持つべきだ。当たり前のように受け取ってはならない。この後、リンチェンドルジェ・リンポチェについて地蔵菩薩の真言を唱える時は、感謝の心をもち、また懺悔の心をもって、上師の恩徳に感謝して法を伝授してもらわなければならない。真言を伝えられた後は即ち口に加持を授けられたことであり、歓喜心を生起しなければならない。上師が法を伝えるのは当たり前だと思ってはならない。なにも当たり前のことはない。あなた方は上師が自分を助けるのは当たり前だ、修行者があなた方の修法を助けるのは当たり前だと思うが、間違いだ。この世の中に当たり前のことはない。あなた方は感謝の心を持ち続けなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェが助けてくれたと感謝しに来る者もいる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは感謝に来なくてよいと言う。本当に感謝するなら、仏法を学んで菜食すべきだ。しかし、いつもこれに触れると、来た人は振り返って帰ってしまう。

真言を伝授する前、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別にこう説かれた。この後であなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェについて真言を唱えた後は、口で人を罵ってはならない。もしこれができないのなら一緒に唱えなくてもよい。あなた方が真言を唱え始めたら、「語」の力が現れ、念力が現れる。他人はあなたの話す話を比較的聞き入れるようになるだろう。仏法を学ぶ際は、仏法で自分に呪いをし自分を改善すべきだ。口を開ければ人を罵ったり批判すると、よくない言葉で他人を呪うことになり、力も大きいので深刻な悪業をなし、地蔵菩薩によって授けられた加持も消えてしまう。だから、よく考慮すべきだ。以後も人を罵ったり批判することを好むなら、真言を一緒に唱えなくてもよい。皈依弟子も同様だ。上師の面前であなたが正しく上師が間違っていると釈明し、まだ肉を食べているのなら、この後、一緒に唱えなくてもよい。仏法は自分を監督するのに用いるもので、他人を監督するためにあるのではない。法本に説かれている通り、修法者を非難してはならない。密教修行者の行為をあなた方は判断できないからだ。少なくともリンチェンドルジェ・リンポチェは死者をポワ法によって済度でき、どんなに遠くから修法しても死者の身体には円満の瑞相が出現する。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行が成就したことを言うことはないが、この事だけを考えても、仏道の修習はあなた方の百万倍にも達し、確実に一人の善知識である。リンチェンドルジェ・リンポチェにはまだ肉体があり、自然に御飯を食べ、寝て、いくらかの事を享受する必要がある。あなた方の価値観によってリンチェンドルジェ・リンポチェの生活方式を批判してはならない。あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェのある行為が好きではなくても、それはリンチェンドルジェ・リンポチェの誤りを示すものではない。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェがあなたの欲望を満足させられないからだ。あなた方が上師には過ちがあると思っても、これは上師の問題ではない。あなた方の仏法を学ぶ際の心の問題だ。静かなのが嫌いなら離れればよい。批判してはならない。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆をリードして地蔵菩薩の真言を唱えた。会場の参加者は心から上師による法の伝授に感激し、多くの人が満面涙顔で、喉を詰まらせ声なく泣いていた。この殊勝な因縁と福徳のお蔭で法を伝授され、会場の皆は内心比類なき歓喜に包まれていた。リンチェンドルジェ・リンポチェが真言を伝授した後は、続いて「マンダラ供養略作法」を修し、諸々の伝承上師の加持を感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェは出家弟子に壇城前に来て衆生を代表して跪くよう指示した。参加者全員は起立し、皆のための修法が続けられた。暫く修法した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に着席するよう指示し、慈悲により法本内の内容について説き続けた。

法本に説かれる通り、修法後の身、口、意は全て善をなさなければならない。懺悔心を起こし菩提心を起こして衆生を利益し、自身と衆生が未来において皆成仏することを願う。法本中の祈願文には、「願わくば十方の諸々の仏よ、我々を垂念し給え。願わくば菩提心を発起し、生まれながらに具えられた仏性をもって、今後皈依の後に如来の子と成らんことを」と説かれる。よって、これからどんな事をするにも、仏菩薩の如くあるべきだ。一切衆生は仏尊前では平等であり、天界の衆生、非天の鬼道衆生も皆、この殊勝な法に歓喜する。今後、殊勝な菩提心が起き、菩提心のまだ起きない者が菩提心を起こし、すでに起きた者が退転しないことを願い、菩薩道を行じて衆生を利益できるよう発願する。

よってあなた方は今後、身、口、意を仏弟子のようにしなければならない。もし実践できないのなら、今日参加した法会の功徳もなくなる。一切はあなた方の想念にある。一つの想念によってあなた方を地獄に堕とし、一つの想念を転換して菩提心を起こし、無数の衆生に利益できる。各地区に異なる地獄があるのではない。地獄は種族、肌の色、男女、老若、貴賎を区別せず、同じ過ちを犯したのなら同じ業力となり、同じ地獄に堕とされて罪を受ける。これは、あなた方がこの後に読誦する『地蔵菩薩本願経』の中に見られる。

法本中に説かれる通り、法会に参加する時は身口意を清めなければならない。こうして初めて上師と仏の身口意の加持が得られる。祈願文中にある「菩薩摩訶薩」であるが、菩薩の果位の八地以上、十地までを菩薩摩訶薩と言う。即ち大菩薩である。仏典上に記載されている通り、修行者が十地菩薩を証すると、十方法界の一切の諸々の仏菩薩がやって来て、この修行者に密教を学ぶよう勧める。それは、密教を学ぶと成仏の速いからだ。成仏後は広大無辺の衆生を利益できる。

一般の場所なら何処でも地蔵菩薩を修することができるのではない。法本によると、地蔵菩薩の法門を修する所は必ず清浄な場所でなくてはならず、修法も清らかでなくてはならず、殺生や良くない事に従事した場所であってはならない。『地蔵菩薩本願経』は釈迦牟尼仏が天界に行き母親に説いた內容である。本日修法する儀軌の中でも皆に『地蔵菩薩本願経』を読誦させる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは本日、皆と地蔵菩薩との縁を一層深くするために地蔵菩薩の法門を修する。だが、あなた方が毎日、朝晩に『地蔵菩薩本願経』の勤行をして修することができるとは限らない。今日はただ法を伝えるだけで、実際にこの法門を学ぶには閉関が必要である。あなた方に因縁と機根があるかどうかは後日話そう。実のところ、あなた方が仏法を学ぶことを発心するだけで、何れかの特定の法門を学ぶ必要はなく、観音法門でも成就が得られる。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆をリードして『地蔵菩薩本願経』を読誦するよう出家弟子に指示し、慈悲により、皆のためにお経の各品の内容の精髄と要義を説かれた。

『地蔵菩薩本願経』は釈迦牟尼仏が忉利天で母親のために説いた法である。仏の母親の摩耶夫人は、仏をお生みになってから直ぐに他界し、その後天界に生まれた。釈迦牟尼仏は成仏後に神通力を使って天界へ行き母親に說法し、母親に仏法を学び修行するよう教え導き、これにより母親は生死輪廻から解脱することができた。仏の母親でさえ天界に生まれるだけだ。あなた方は皆、自分の両親は善人だからと、泣いて供養金を携えてリンチェンドルジェ・リンポチェに願えば、両親を浄土に往生させられると思っている。皆は注意しなさい。その時、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏をまだ紹介していなかった。仏の母親さえも往生時にただ天界へ往けただけだ。あなた方の両親はどうして浄土に往生できるのか?自分の両親は善人だと思っている。ただ自分たちを生んでくれた両親であれば善人だと思ってはならない。考えて御覧なさい。自分の両親は殺生していないのか?悪業は?100人の人がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、100人が彼らの両親は死後どこへ行ったのかと聞いた。両親に代わって早めに懺悔しようとはしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、謁見の際に、地獄に堕ちた両親を救ってもらいたいと直接願う者に出会ったことがない。これは皆の傲慢だ。仏典に説かれている通り、死者に非常に大きな因縁と福徳が備わっていなければ、浄土に往生することはできない。

チベット仏教の地蔵菩薩は在家相で現れる。中国及び日本の地蔵菩薩が出家相であるのは、唐の時代に韓国から来た出家者が中原の地で仏法を学び、後に『地蔵菩薩本願経』を弘揚したことから、人々によって地蔵菩薩は出家相であると考えられた。『地蔵菩薩本願経』に説かれる通り、地蔵菩薩は衆生の縁により衆生の心で考えられた形象で示現し衆生を済度する。菩薩には決まった姿はない。経典によると、世尊が天界に行き母親のために説法をした際に地蔵菩薩を紹介したとある。地蔵菩薩はその一世で成就を得たのではなく、地球上の人類でもなく、現在の人類の歴史にはまだ現れていない事が理解される。ずっと以前に既に成仏し、菩薩となって衆生を済度している。

忉利天宮神通品第一

第一品の最初の句は「是の如く我聞く」である。「是の如く我聞く」は「これは私が聞いたことだ」という意味だ。あなた方が人に「私はこう考えた」、「私はこう思う」、「私はこう感じる」というのとは異なる。お経の最初はすべて「是の如く我聞く」である。お経は仏の在世時に説かれた一切の仏法であり、仏の涅槃後に500名の出家弟子が集まって彼らが仏の弘法49年間で聞いた一切の仏語を書き記したものである。よって、弟子達が聴いてないものは書き記すことはない。記録したものだけが仏の説く話である。当時は録音機もなかったので、録音はできなかったし、ノートを取る者もいなかったのに、なぜ書き記すことができたのか?それは、これらの弟子が既に阿羅漢の果位を証しており、定境の中で仏法を聴聞し、仏の説かれた仏法を全てはっきりと覚えられたからだ。自分の欲望のための聴聞ではない。衆生を利益するために仏法を完全に受け入れる心で聴聞することができた。

「五濁悪世」は私たちが現在いる末法時代を指す。五濁には見濁も含み、あなた方が現在仏法を信じず、仏法を受け入れないようなものだ。経典には「此れは皆是、地蔵菩薩の久遠劫より来かた」と説かれ、地蔵菩薩がこの一世で成就したのではないことが分かる。西洋の言い方では、釈迦牟尼仏は2500年前に出現し、東洋の言い方では3500年前である。2500年前、3500年前にかかわらず、地蔵菩薩はこの時期より早く修行を始めた。「劫」は人類の10歲から100年毎に1歲増えて84000歲に至り、84000歲から100年毎に1歲ずつ減り始め10歲に至るまでの間に経過する時間である。この時間が非常に長い。「閻浮提」とは地球のことである。

「其の母、邪を信じて、常に三宝を軽んず。是の時、聖女、広く方便を設け其の母を勧誘(すす)めて、正見を生ぜ令む。而も此の女の母、未だ全く信を生ぜず。久しから不して、命終して、魂神、無間地獄に堕在す」経典には、地蔵菩薩のある一世はバラモンの女性であったことが説かれる。母親が三宝を敬わなかったので死後は必ず悪道に堕ちることを知っていた。母親が苦しみを受けることを知っていたが、どこにいるのか分からず仏菩薩に助けを求めた。バラモンの女性は母親が生きている間に母親に仏法を受け入れさせようと手段を尽くし母親に正見を起こさせようとした。あなた方を見ると、両親の前では上師と仏菩薩の功徳を讃えず、母親に肉料理を作らせ、母親に悪業を作らせる弟子さえもいる。

「若し威神にあらずんば、即ち業力なるべし。此の二事に非ざれば、終に到ること能わず」威神は菩薩を指す。地獄へ行くことができるのは必ず衆生済度をするための菩薩、或いは自分の悪業によって地獄に堕ちた衆生である。経典に説かれる地獄は「本業によって感ずる所」である。一切は皆、衆生が自分で作り出したものだ。地獄もそうである。

経典に基づくと、バラモンの女性の母親は「邪見にして、三宝をそしる。もし暫く信ずれども、やや又、信じず」である。あなた方もよく考えてみなさい。あなた方は皆こうではないだろうか?暫くの間仏法を信じ、また暫くしたら信じなくなる。境界によって随時変化する。あなた方の多くの家族も同様だ。死後どうやって善道へ行くのか?バラモンの女性は母親の死後の行き先を知るために、家を売って仏に供養し、広く布施を施した。バラモンの女性は母親を「常の倍の情で」憶念したため、心を動かされた仏菩薩は出現し彼女に告げた。バラモンの女性は仏が出現すると感謝を込めて礼拝した。甚だしくは「挙身自ら撲(う)ちて、肢節皆損ず」まで礼拝した。即ち、全身の関節がすべて損傷を受けるまで礼拝した。あなた方の礼拝はこのように心を込めているか?経典上にはこのように説かれる。よって、全く恭敬する心なく、死者のためにリンチェンドルジェ・リンポチェに済度を求める者が、自分ではあと何ができるかと考えている時、リンチェンドルジェ・リンポチェはどうやってこの人を助けたらよいのか?リンチェンドルジェ・リンポチェがこの人達に両親の代わりに2000回礼拝するよう言ったのに、彼らは100回だけしかせず、続けて礼拝できない。あなた方はバラモンの女性が「家を売って」供養し布施をしてこそ、仏に教えてもらう福徳が生まれ、母親がどの道に行ったのかを知ることができた。あなた方に家を売り払えと言ってもできるはずはない。あなた方は聴くだけでよい。リンチェンドルジェ・リンポチェもあなた方にこうしろとは言わない。

あなた方はリンチェンドルジェ・リンポチェの前で跪き、他界した両親がどの道にいるのか、どう過ごしているかを知りたがる。薄っぺらい御布施を携え、リンチェンドルジェ・リンポチェに死者を済度してくれるよう願う。死者に因縁、福徳がないのなら済度することは不可能だ。あなた方の御布施の金額の多いか少ないかは関係ない。経典には、バラモンの女性は「母の為に供を設け福を修し、覚華定自在王如来の塔寺に布施す」とある。こうして初めて母親は福徳を積み地獄から出ることができた。あなた方について言えば、全く親孝行でない。リンチェンドルジェ・リンポチェは経典に基づいて仏法を弘揚している。あなた方が持ってきた薄っぺらい御布施を供養するのは申し訳ないし、リンチェンドルジェ・リンポチェも受け取るのを申し訳なく思う。また、あなた方の供養が多すぎれば、リンチェンドルジェ・リンポチェも受け取るのを申し訳なく思う。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは通常、弟子達の供養しか受けない。それは、弟子達には仏法を伝えるからだ。あなた方の供養の心が間違っているならリンチェンドルジェ・リンポチェは受け取らない。あなた方の供養は全く供養と言えるものではない。経典に説かれる供養はどれほどのレベルなのか?あなた方の供養は算盤尽くだから取上げなくてもよい。リンチェンドルジェ・リンポチェの尊き直貢チェ・ツァン法王への供養は、自分の全ての物の中から最良のものを供養する。教派及び上師が必要とするのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず自分の能力を尽くして行なう。今回リンチェンドルジェ・リンポチェは2月に印度に赴き直貢チェ・ツァン法王に謁見する。数年来、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェ・ツァン法王に物品を供養しており、因縁が熟し準備も整った。その時あなた方も分かるだろう。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、午前の地蔵菩薩の法会が一段落し、午後も引き続き行なうことを告げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に参加する老齢者が多いことを考慮され、特に、お昼の休憩時間を午後2:30に引き延ばした。会場の参加者はリンチェンドルジェ・リンポチェが苦労を厭わずに長時間の修法と説法をして下さったことに感謝し、恭敬して起立し、法座からおりられたリンチェンドルジェ・リンポチェを御見送りした。

午後2:30、リンチェンドルジェ・リンポチェは法座にあがられ真言による加持を授けた後、会場の皆をリードして引き続き『地蔵菩薩本願経』を読誦するよう出家者に指示し、皆のために各品中の精髄と要義を説かれた。

分身集会品第二:

第二品では「吾れ亦、身を百千万億に分けて、広く方便を設ける」と説かれる。諸々の仏菩薩は虚空を満たす。いわゆる化身、分身は詐欺写真に映し出された画像ではなく、いずれかの空性を証した修行者であり、その空性慈悲の力はいずれも仏菩薩の分身が遍く虚空に広がる能力を備える。仏菩薩はどうやって分身し衆生を済度するのか?これは科学的にも解釈できる。現在科学者は、とても小さな点でさえも全宇宙に偏在が可能であることを発見している。例を挙げて説明する。例えば、船が海の中で灯台の放つ光を見た。だが、これは特定の対象を照らしているとは限らないが、全ての船は灯台の放つ光を見た時に、自分達を照らしていると感じる。慈悲は一種のエネルギーだ。科学は既に、如何なるエネルギーも発生しさえすれば、ずっと存在し、距離がどんなに遠くても全宇宙で受け取れることを理解した。また、以前の星が発した光が数年を隔てた後に地球で受け取られることを科学的に証明した。いわゆる光年の概念である。

お経上に説かれる「億万仏土を供養する」とは、一刹那の間に億万仏を供養することであり、仏に一万世あって一世に一人の仏を供養することではない。これは密法に関するもので、密法では実現可能である。修行者の供養心を一つにすると、同時に億万の仏を供養できる。仏の話は神話物語ではない。科学的に説明可能であり、しかも科学より先進的だ。虚空は無からエネルギーを生み、エネルギーが各種物質に変化した。これが即ち仏の説く縁起空性である。修行者には化身と分身がある。これは、衆生を利益しようとする願力が到達した後、衆生の祈願と修行者の誓願とが一致すると、衆生は化身を見るか感じることができる。もう一つの解釈は、慈悲の力がすでに空性を証し、虚空全体に遍満するというものである。多くの人が危険や急難に出遭った時に、リンチェンドルジェ・リンポチェをが出現し彼らを助けてくれたという。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェの化身だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが本当にたくさんに分身したのではない。実際には、あなた方が見た多くは、リンチェンドルジェ・リンポチェの護法の化現である。

一切の菩薩は過去に生生世世、仏に供養し続けたので、仏との相応を続けている。仏が虚空で仏法を語る時、法身を証した菩薩の分身は皆、集まる。よって、仏が母親のために『地蔵菩薩本願経』を説いた時、諸菩薩は皆、忉利天へ行き仏の説法を聴いた。経典に説かれるとおり、仏の説法を聴きに来たのは「皆、地蔵菩薩の教化も因りて、永く阿耨多羅三藐三菩提を退転せず」の者達だった。即ち、これらの衆生は既に生死輪迴を解脱した者達であった。

「吾れ五濁悪世に於いて、是の如き剛強の衆生を教化して、心をして調伏せしめ、邪を捨てて正に帰せしむ。」仏は、頑強な衆生に説いて、衆生の心の「調」整を助け、衆生の妄念を圧「伏」し、衆生の心を「調伏」する。私たちの心はずっと動いている。1分1秒止まることはない。この「心」は心臓ではない。心臓は1秒止まっても死ぬことはない。この「心」は、貪、瞋、痴、慢、疑の心だ。仏は衆生の心を調伏する際に、ただ衆生が一時的に圧するのを助ける。が、衆生の累世の悪習と悪業はやはり衆生自身が改め、自分が変わらなくてはならない。仏は衆生の業力を変えることはできない。仏はあなた方にいかなる物もあげられない。智慧、健康、富の何れもあなた方自身が修したものだ。仏はあなた方のために一時的に業力を止めてくれ、あなた方が仏法を学ぶ時間を持たせる。並びに、いかに自分の心を調伏するかを教え、改めるかどうかについては、あなた方が自分で決める。だから、仏は「調伏」という二文字を用いた。上師と仏菩薩の仕事はあなたの心を調伏することにある。あなた方のずっと動いている心は、仏法を薫陶することにより、断悪行善しなければならない。また、努力を続け、1秒でも怠けてはならない。少しでも怠けると、自分を放縦することがずっと習慣になり、悪行することになる。生死輪迴から解脱できない。「剛強の衆生」とは上師及び仏菩薩がどう言っても聞き入れず、自分の考えで仏法を判断する人を指す。上師の説法する内容があなた方に得があれば聞き入れ、得がなければ聞き入れない。

「邪を捨て正に帰す」ここで説かれる「邪」とは一切の思想を指し、あなたを輪迴させる動作は全て邪である。ある者が日曜日は休んで、法会に参加しなくてもよいと言う。これは邪見だ。現代人は日曜日は家庭の日だと考え、日曜日は休まなくてはと思う。実のところ、日曜日はキリスト教や天主教が制定したものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは一人の弟子に説明するよう指示した。彼は皈依以前、非常に敬虔な天主教徒であった。弟子は、日曜日は確かに、キリスト教、天主教が制定したものだと報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて「仏法の中では日曜日は休息日であるとは言っていない」と説かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身も日曜日は休まない。24時間、衆生利益を続けている。現在は過労死する者もいる。実のところ、仕事の関係ではなく、欲望が多いために、仕事上である目的を達成したいと希望し、頭を使いすぎるので自然に身体が不健康になる。そうじゃないだろうか?考えてみなさい。

「或いは男子の身を現じ、或いは女人の身を現じ、或いは天龍の身を現じ、或いは神鬼の身を現じ、或いは山林川原、河池泉井を現じ、利して、人に及ぼして、悉く皆、度脱す。」仏はここで、地蔵菩薩は各種の身体、男性の身、女性の身、天龍の身、山林川原、河池泉井として現われて衆生を利益する、と説く。宇宙万物すべてが仏菩薩の化身であるかもしれないことが分かる。仏菩薩の化現には沢山の種類があり、あなた方が想像できるものではない。経典の内容に基づくと、衆生を利益することができる如何なる事物も仏菩薩の化現である可能性があり、衆生に利用される泉の水や、修行者が修行時に必要とする資糧もその内に含まれる。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェが海抜4500メートル以上のネパール・ラチの雪山で閉関した際、当地に住民はいなかった。そこは、当時、ミラレパ尊者が嘗て閉関をした聖地であった。山の上には瘴気等の有毒ガスはない。もしあったら、無上瑜伽タントラを修する修行者に害を及ぼす。この境地を修めた修行者の閉関場所は空気がきれいでなくてはならない。しかも、山の上には飲用できる清らかな水が必要だ。しかし猛獣はいてはならない。これらは全て菩薩が山神泉井に化身して護持してくれる。お経には「水源を汚染したり木をいい加減に切り倒してはならない。仏菩薩が樹木として化身しその上の多くの生物を養っているかもしれないから」と説かれる。木を切り倒したら、これらの衆生を傷つけるかもしれない。任意に一つの草一つの木を傷つけてはならない。例えば男女が交際している時にロマンチックだからと草花を摘み取ったなら、草花にいる衆生を傷つけるかもしれない。仏法は実に、最高の環境保護だ。

この一段も非常に重要だ。「仏の接引して不可思議の神力を獲て大智慧を具せしむることを蒙る。」地蔵菩薩は既にこのような神力と智慧があったが、仏に引接されたお蔭で自分にこの神力が生まれた。自分一人で修することはできない。これが重点だ。チベット仏教では師から受け継ぐということを非常に重視する。一切の修行は上師に依止してこそ成就できる。事情がわずかに好転しただけでも、自分が念仏をしたから、自分が礼拝したから、自分で修したのだと考えるあなた方のようではない。

観衆生業縁品第三︰

「閻浮の衆生」は地球の衆生を指す。第三品は最初に、釈迦牟尼仏の母親も合掌し恭敬し、地球上の人々は如何なる悪業ゆえに無間地獄に堕ちるのかと地蔵菩薩に尋ねた。釈迦牟尼仏の母親は仏の母親と尊ばれ、仏は特別に忉利天に赴き母親のために說法をする。たとえそうであっても、釈迦牟尼仏の母親はやはり慈悲深く衆生に代わり、恭しく地蔵菩薩に尋ねた。地蔵菩薩は最初にこう説かれた。「もし衆生が両親に親不孝したり、殺害したなら、無間地獄に堕ちる」。両親は自分達を生んでくれただけでよい両親である。あなた方が認めなくてもやはり恭敬心を持たなければならない。あなたの両親が悪行を犯したとしても、自然にその果報がある。あなた方は批評しなくてもよい。

続いてこう説かれている。「若し衆生有りて、偽りて沙門となりて、心は沙門に非ず」これもまた無間地獄に堕ちる。「偽りて沙門となる」とは、身体は出家者であっても心はまだ輪廻の家から離れていないことだ。簡単に言えば、外見は出家相であるが、生死輪迴から解脱する法門を一生懸命に修行していないことである。なぜ特別に沙門を取り上げたのか?それは、沙門は一切衆生の供養を受け、在家のように仕事をして稼ぐのではなく、修行の果位が不足していれば衆生を助ける前に供養を受けても返す能力がないため、地獄の因を作るか、身体の健康で返すことになる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分に皈依した門下の出家弟子から供養を受けない。弟子が供養を受ける資格がないのに供養を受けて悪因を作るのを心配してのことだ。出家弟子達が人からの供養があるかどうかの心配をさせず、仏法を学ぶことに専念してもらうために、これらの出家弟子は全てリンチェンドルジェ・リンポチェによる供養を受けている。

地獄の中の状況はどうなのか?経典の中では地獄の中の衆生が各種の苦しみを受けることが説かれる。例えば、鉄床、鉄釘、鉄網、碓磨鋸鑿(たいまこさく)、剉斫鑊湯(ざしゃくかんとう)等の各種工具による。実のところ、地獄に行って初めてこれらの苦しみを受けるのではなく、現在の多くの人は他界前に種種の医療上の苦しみを受けており、地獄にいるようなものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは外科医の弟子に説明するよう指示した。現医療の手術には鋸や、ドリル等の各種工具を使うのではないか?その弟子は、「現在の手術には実に如何なる工具もある。リンチェンドルジェ・リンポチェが説かれた通りだ」と報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて「患者が寝ているベッドは鉄製ベット(=鉄床)ではないか?」と聞いた。その弟子は、「ベッドの上に綿製のベッドパッドはあるがベッド自体は実に鉄製だ」と答えた。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは、「現在の手術時に使用する器具はまるで『地蔵菩薩本願経』の中に説かれる地獄の衆生を苦しませる道具のようだと話された。十数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェは膝が痛くなった時、弟子の医師が骨を強くする有名な西洋薬をリンチェンドルジェ・リンポチェのために特別に準備した。だが、リンチェンドルジェ・リンポチェは一瓶飲んだ後、飲むのをやめた。それは、膝の痛みは自分が肉食をした報いであることが分かったからだった。膝はやはり痛んだが、リンチェンドルジェ・リンポチェは全てを受け入れた。医学的に言えば、膝の関節が磨耗し合い、そのままでは更に悪化するだけで、手術で鉄片を入れる必要があった。『地蔵菩薩本願経』に説かれるとおりではないか?だが、その後、リンチェンドルジェ・リンポチェの膝の状況は徐々に好転し、現在ではもう痛みもなくなった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を学んだ後に因果を受け入れ、修行に精進し、善行に励み、この果報が変わったからである。

『地蔵菩薩本願経』にも「男子女人、羌胡、夷狄、老幼、貴賎、或いは龍、或いは神、或いは天、或いは鬼を問わず、罪行の業感にして、悉く同じく之を受く」と説かれている。これは、『地蔵菩薩本願経』が仏教徒に見せるだけに書かれたのではないことを表す。外国人と漢人の隔てなく、外国人の地獄と漢人の地獄の隔てもない。地球上で悪をなした者が同じ業力に引かれて死後に同じ行き先にいって一緒になる。いわゆる「無間地獄」だ。しかも地蔵菩薩の話によると「無間地獄、粗說くこと是の如し。若し広く地獄の罪器等の名、及び諸々の苦事を説かば、一劫の中に、なかなか說いても尽きず。」もし詳細に話したら、一劫ほどの長い時間がかかり話が尽きることもない。よって、地蔵菩薩は「略說」とだけ説かれた。大略して少し話す。

閻浮眾生業感品第四:

第四品では地球上の人々が如何なる業をつくり如何なる果報を得るのかを説明する。地蔵菩薩の起こした大願力によって業報を得た一切衆生を救い出すが、お経の中で地蔵菩薩はやはりこう説く。「我、仏如来の威神力を承くるが故に、百千万億世界に遍く、是の身形を分けて、一切業報の衆生を救抜す。若し如来の大慈力の故に非ずんば、即ち是の如き変化をなすことを能わず。」前記第二品に既に説かれているが、もう一度強調する。あなた方が一般にお経をあげたり礼拝する時、「私」が念仏をし「私」が礼拝をしていると感じる。だが、お経から理解される通り、尊き地蔵菩薩は、自分は仏如来の威神力のお蔭でと謙虚に話す。伝承と上師の教えがこの能力を持っているのは仏の大悲力故である。また、たとえ十地菩薩を証しても大きな恭敬心を持つ諸々の仏菩薩が再び顕現する。十地菩薩さえも仏の威神力に感謝し、それを称える。多くの事は、仏及び上師の加持がなければ実現は不可能である。

この一品でもやはり地蔵菩薩の累世で発した願力について説かれている。「若し先づ罪苦の衆生を度して、是をして安楽にして、菩提に至らせしめざれば、終に未だ先づ成仏道を願わず。」仏はここで地蔵菩薩の弘願を説いた。衆生は安楽を得てこそ成仏できる。よって、地蔵菩薩は衆生が三悪道の苦しみを受けないようにと衆生を救い続ける。

お経に説かれる通り、地蔵菩薩のある一世は光目女であった。羅漢に出逢い、善知識とした。「福をもって衆生を度す。次に因って教化する。」即ち自分の福徳を使って衆生の機根に合わせて教え導く。光目女は母親が死後にどの道にいくかを知っていた。特に羅漢を「食を設えて供養」した。ここでいう「食を設える」とは特別に食物を準備して供養することである。あなたは自分で料理したものを供養したことがない。それは「食を設えて供養」ではない。また、果物を買って仏を供養する時、先に主人や息子は何が好きかを考えてから果物を買って供養する。これは根本的に仏菩薩への供養ではなく、あなたの主人や息子への供養だ。こんなふうなら直接彼らに買って食べさせたらいい。どうして仏を供養するのか?ただ格好だけだ。しない方がましだ。このような気持ちなら却って悪因を作ることになる。

これは寺院でも見られる。料理をつくる者は、誰が何を食べたいかによって食材を購入して料理し、その後仏に供養する。こういう考え方は供養とは言えない。果物や花を買う時、自分の能力の範囲内で、その季節の新鮮な果物、花を買って供養するのがよい。仏菩薩に分別心があるのではなく、仏菩薩が好きか嫌いかではない。仏菩薩が好き嫌いをまだ分けていたら仏菩薩ではない。それはあなた方が分けているのだ。一切はあなた方が作り出す。あなた方が供養する時に恭敬心がないなら福徳を積むことはできない。あなた方は皆、聞き入れず、聞こうとしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前何度もあなた方に話したことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の経済状況が最悪の時も、自分で食べる御飯がなくても、仏前に最高の油、御線香、花、果物がないことはなかった。恭敬して供養しさえすれば、仏菩薩はあなたを食べる御飯がなく日々を送れない状況には絶対にさせない。リンチェンドルジェ・リンポチェ自身が最良の例である。

羅漢は入定観によって光目女の母親が地獄で至極の苦しみを受けていることを見、光目女に母親を苦しみから救うために如何に清浄蓮華目如来に供養するかを教えた。光目女の母親はなぜ苦しんでいたのか?お経には光目女の母親は、生前「魚鱉の属(たぐい)」を好んで食したとある。即ち海鮮であり、これ故に死後は悪趣に堕ちた。日本人が魚を好んで食べたように、当地には多くの天災があった。お経の中にある「魚鱉の蛋」とはあなた方が言うカラスミであり、現在日本人が好んで食べる明太子でもある。光目女は母親のために愛するものを捨て恭敬して仏を供養したが、母親の果報はまだ完全に消えず、最初に卑しい階級に生まれ変わり、また短命の報いを受けた。光目女は母親が受けた地獄の苦しみを理解し、広大な誓願を発こした故に、母親は短命の後に「梵志」に生まれる福徳ができた。即ち天人であり、その後修行をして証果を得た。

お経の中に「若し邪淫の者に遇えば、雀鴿鴛鴦の報を説く」とある。「邪淫妄語者」は必ず悪趣に堕ちる。仏は必ず一夫一妻制でなくてはならないとは言っていない。これは天主教の言い方だ。邪淫とは、相手に決まった対象がいて、それが主人、彼や彼女、婚約者等にかかわらず、ある者によってその日常に必要なものが供給されるか、日々を問題なく過ごせるように守ってくれる人がいる場合、あなたがこのような人と交際するのは全て邪淫だ。夫のいる女性がその他の男性と交際することも含まれる。だから、自分と主人には真実の愛がないから他の人と真実の愛を語り合う等と二度と言ってはならない。もしそうしたいなら、必ず前の人にはっきりと伝えて、きれいさっぱり断ち切りなさい。あなた方は今日リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いた後に説法内容を理由にして、帰ってから相手にサインを求めてはならない。あなた方が一緒にいるのは複雑な因縁ゆえだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの例を見てきた。夫のある女性と付き合いたがる男性はみんな悪い最期を遂げている。飛び降り自殺でなければ、全身病気、尚且つお金がない等、女性がもし邪淫を犯したなら非常に大変な結果を迎えることになる。

「若し父母に悖逆する者に遇えば、天地災殺の報を説く。」「天地災殺」とは各種の天災等を指す。「若し邪見の者に遇えば、辺地受生の報を説く。」「辺地」とは仏教のない国を指す。例えばアフリカのニューギニアは現在に至るまで仏教がない。邪師に出会う人は自身の過去に邪見があったからで、これもまた因果の範囲内である。

第五品の中では各種地獄の名号と悪報を紹介している。死んで初めて地獄へ行くのではない。生きている間にも見られる。リンチェンドルジェ・リンポチェは台北で有名なある病院へ行き癌患者に加持を授けられたことがある。全棟は癌病棟であった。病室はたくさんの人が一緒だった。そのうちの一人の患者が痛みを我慢できずに悲哀の声をあげ始めると、その病室の患者全員が一緒になって泣き叫び始めた。その叫び声は本当に凄まじく、まるで叫号地獄の如きもので、声を聴いたら耐えられなくなる程だった。

『地蔵菩薩本願経』は「此は皆是れ。南閻浮提、行悪の衆生の業感も是の如く業力甚大にして、能く須彌に敵し、能く巨海より深し、能く聖道を障ぐ。是の故に衆生、小悪を軽んじて、以て罪なしと為すこと莫れ。死後報い有り。纖毫も之を受く。」ある者が言った。仏法は地獄のことを語り続けているが仏菩薩は慈悲深い。なぜ地獄を使って人を脅かし悪行させないようにするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた。仏は地獄を使って人を脅かそうとしているのではない。地獄は衆生自身が感化し引き起こしたものだ。衆生が自分で悪業をなしたので地獄に堕ちる悪果を得た。よって、『地蔵菩薩本願経』では「業感も是の如く」と説かれる。業力の力はこのように強大で、あなたが聖道を学ぶのを、即ち生死から解脱する道の修行を妨げるのである。

『地蔵菩薩本願経』は「此は皆是れ。南閻浮提、行悪の衆生の業感も是の如く業力甚大にして、能く須彌に敵し、能く巨海より深し、能く聖道を障ぐ。是の故に衆生、小悪を軽んじて、以て罪なしと為すこと莫れ。死後報い有り。纖毫も之を受く。」ある者が言った。仏法は地獄のことを語り続けているが仏菩薩は慈悲深い。なぜ地獄を使って人を脅かし悪行させないようにするのか?リンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた。仏は地獄を使って人を脅かそうとしているのではない。地獄は衆生自身が感化し引き起こしたものだ。衆生が自分で悪業をなしたので地獄に堕ちる悪果を得た。よって、『地蔵菩薩本願経』では「業感も是の如く」と説かれる。業力の力はこのように強大で、あなたが聖道を学ぶのを、即ち生死から解脱する道の修行を妨げるのである。

「是の如く等の報、各各の獄中に、百千種の業道の器あり。是れ銅、是れ鉄、是れ石、是れ火に非ざること無し。此の四種の物は衆の業行の感なり。」これも第三品で取り上げたばかりの各種鉄床等の道具で、現代医療は病人の身体を切り、全ての道具もこの四種によって作られる。これは全て現代人の殺生の悪業が重いことにより導かれるものだ。

如来讚歎品第六:

本品には「吾が滅度の後、汝等、諸々の菩薩大士、及び天龍鬼神は広く方便を作して、この経を衛護し、一切衆生をして涅槃の楽を証せしめよ。」と説かれている。釈迦牟尼仏は本品の中で地蔵菩薩の不可思議な威神、慈悲の力を賛嘆し、並びに諸々の菩薩、天龍鬼神、護法等に『地蔵菩薩本願経』を護持するよう言いつけ、一切衆生には保護を求めさせるのではなく、涅槃を証し、永遠の幸せを得る機会を与えた。

「惟願わくば、世尊、未来世、末法の衆生のために、地蔵菩薩の人天を利益する因果等の事を宣説したまへ。」この部分から『地蔵菩薩本願経』は釈迦牟尼仏が現在の衆生のために説かれたことが理解される。我々が現在いるのは末法時代である。末法時代は像法後1000年から12000年であり、仏の加持力が徐々に衰える。

「若し善男子、善女人ありて、或いは形像を彩画し、或いは土石、膠漆、金銀、銅鉄をもって、此の菩薩を作り、一瞻一礼せん者、是の人、百返、三十三天に生じ、永く悪道に堕せず。」お経に説かれるとおり、衆生が土石、膠漆、金銀、銅鉄で仏像を作る必要がある。能力のある者は金銀、銅鉄で、能力のない者は土石、膠漆で作る。ここで言う「膠」とは樹脂を指す。プラスチックではない。現在はPVCで作った仏像があるが、これは適当ではない。PVC製はお経の内容には符合しないからだ。「一瞻一礼」はちょっと見て、一回礼拝をすればよいと誤解する者もいる。実際には見る度に一回頂礼することを意味する。あなたが恭敬して仏像を見る時、必ず一回頂礼しなければならない。見る度に頂礼する。しかも、最良であるのは、沐浴し衣服を取り替えた後に恭敬心をもってこれを行なう。ある者は、朝起きて歯磨きや洗顔をしないで仏に礼拝し、お経を開いて読み始める。これは恭敬心がない。もし時間がないのなら、お経を開いて読む必要はない。

「若し未来世に、男子、女人ありて、久しく床枕に処し、生を求め、死を求むるに、了に得べからず。」お経にはこう説かれる。もし家の中に病人がいて、長い間、病の床に臥せ、しかも生を求めても得られず、死を求めても叶わない場合は「病人可愛の物、或いは衣服、宝貝,荘園、舍宅を取り、病人の前に対して、高声に唱えて言うべし。我、某甲等、是の病人のために経像の前に対して諸等の物を捨て、或いは経を供養し、或いは諸々の仏菩薩の形像を造り、或いは塔寺を造り、或いは油灯を燃し、或いは常住に施すと。是の如く三たび、病人に白して、聞き知らしめよ。」これは、病人に代わってその最も貴重な物を仏菩薩に供養することを意味する。家屋さえも捨てなければならない。供養、塑像、灯明等によって病人の怨親者に聞かせ、怨みを取り除き、一時的に止めさせて、病人が仏菩薩の加持を受けられるようにする。もし病人に福徳があるなら早期に回復できる。もし福徳がないなら、なるべく早く順調に往生でき、生きている間に罪の報いを受けることはない。

「若し人の是の経を読誦し、乃至一念も是の経を讃歎し、或いは恭敬せん者有るを見ては、汝、須らく百千の方便をもって、是れ等の人を勧めて、勤心にして退すること莫れ」ここでは、想念の中で『地蔵菩薩本願経』を賛嘆、恭敬し続け、衆生が発した菩提心を失わず、しかも修持に精進するよう勧める。あなた方には退転のことを言う資格はない。修行の道上でよく懈怠し怠惰だからだ。

「南閻浮提の衆生、挙心、動念、是業であらずは無く、是罪であらずも無し。如何に況や情を恣(ほしい)ままに殺害し、竊盗し、邪淫し、妄語し、百千の罪状をなす。能く十斎日において、仏菩薩、賢聖像の前に対して、是の経を読むこと一遍せば、東西南北、百由旬の内、諸々の災難無らん。」お経に説かれる通り、地球の衆生の起心動念はすべて業であり、すべて罪であり、諸々の悪行をしでかし、自分で諸々の災難を引き起こす。十斎日は10日間菜食すればよいのではない。この10日は八斎戒を受け、如法の持戒をしてこそ助けになる。

「此の菩薩、久遠劫より来(このかた)、重大願を発して、衆生を利益するに縁(よ)る。」お経には、地蔵菩薩は久遠劫からの菩薩であると説かれる。地蔵菩薩は今世で成就した菩薩ではなく、ずっと昔に既に成仏しているが、大願力によって諸々の報身に化現し衆生を済度する。

利益存亡品第七:

本品において仏は死者の救済について説法されている。地蔵菩薩は地球の衆生について取り上げ「挙心動念、是れ罪に非ずと言う事なし。脫、善利を獲るも、多く初心を退く。若し悪縁に遇えば、念々増益す。」と説かれた。あなた方が正にこうである。上師と仏菩薩はあなた方を苦しみから救おうとするが、あなた方は利益を得た後は、仏菩薩の恩徳を忘れ、しっかり仏法を学ぶべきであることを忘れる。いわゆる「悪縁」とは、あなた方に殺人、賭博をさせることを意味するのではない。こういう事をあなた方はしない。表面上はあなた方によい事であっても、実際にはあなたを陥れるものだ。例えば、「仏法は焦って学ばなくてもよい。あなたはまだ若いんだから、菜食も焦らなくていい。子供が大きくなってから、結婚してからでいい」、これらの類だ。または「仏菩薩に一回お休みさせてもらっても構わない。」お経に、休暇をとっていいと書かれたことは一度もない。仏菩薩はあなたにお金を払っていないので休暇を取らなくてもよい。菩薩のせいにして、自分は既に菩薩に休みをもらったと言う者さえもいる。

「是れ等の輩の人は、泥塗を履んで、重石を負うに、漸く困しみ、漸く重くして、足歩、深邃なるが如し。若し知識に遇うことを得ば、替わって與に、負いものを減じ、或いは全く與に負う。是の知識、大力有るが故に、復、相い扶助し勧めて腳を牢からしむ。若し平地に達したならば、須らく悪路を省みて、再び経歴すること無かるべし。」あなた方は利益を得ると容易に仏法の初心を忘れてしまう。悪縁に出逢い悪念を増長し続ける人は、終には自業自得となり困窮に落ち込む。経典には、もし善知識に逢うことができたら、この人に代わって全部または一部の負担を軽減できると説かれる。これは、善知識があなたの業力を担いでくれるという世間の言い方とは違う。善知識は経験のある修行者だ。あなた方の歩みを安定させる手助けをし、険悪な道を通らずに、あなた方を正しい修行の方向に導いてくれる。善知識は、あなた方に影響を及ぼす業力を一時的に停止させてくれ、仏法をしっかり学び、修行する時間を持たせてくれる。しかし、やはりあなた方自身が決心をしてこそ業を転じられる。もし話を聞かず、修習しないのなら、業力は直ちに元に戻ってしまう。

「是の諸々の衆生、此くの如く習いあり、命終の時に臨んで、父母、眷属、宜しく為に福を設け、以って前路を資(たす)く。」お経は、衆生はこれらの悪習が身についている故に、眷属が他界した時は、彼らの往生の道を順調にするために、お経に説かれる方法に基づいて彼らが福徳を積む手助けをしなければならないと説く。

「閻浮提の衆生に勧む。臨終の日、慎んで殺害し、悪縁を造り、鬼神を拝祭し、諸々の魍魎に求むることなかれ。何を以っての故に。爾所(そこばく)の殺害、乃至、拜祭、纖毫の力も亡人を利益すること無く、但、罪縁を結すること、転増し深重なり。」お経の中で、地球上の衆生に、家族が他界した時には殺生してはならず、鬼神を祀ってもならないと説かれる。もしこうしても死者を利益することはできず、いたずらに罪業を増やすだけで、死者は恐らく三悪道に堕ちることだろう。あなた方の家族が他界する前に突然肉を食べたいと言うかもしれない。このような状況があったら直ちに彼に福徳を積ませなければならない。善知識を探して彼への助けを与えてもらう。もしあなた方が彼に肉を食べさせたなら彼を悪道に堕とすことになる。

「譬えば人有りて遠地従(よ)り来て、糧を絶つこと三日、負担する所の物、強(おも)きこと百斤に過ぎん。忽ち鄰人に遇うて、更に少物を附せられ、是を以っての故に、転復困重するが如し。」お経に説かれる通り、もし臨終者の家族が死者に肉を食べさせたり、或いは鬼神を祀ったりしても臨終者には何の助けにもならない。臨終者は既に多くの悪行をなし、悪業は非常に重い。それはまるで、一人で重い物を背負って遠方から来た者がいて、あなたが彼にたったの一本の稲を加えただけでも、彼を非常に困窮させてしまうようなものだ。

「但能く諸仏の教えの中に於いて、乃至、善事、一毛、一渧、一沙、一塵もあらば、是の如くの利益、悉く皆自ら得ん。」地蔵菩薩はこう説かれた。もし衆生が仏菩薩の教えに聞き従って善行し、例えたった一本の毛、一滴の水、一粒の砂、或いは一つの塵埃の如き微小な物であっても恭敬して供養、布施を行ずるならば、得られた功徳で自分を利益できる。

「無常の大鬼、期せずして而も到る。冥々たる遊神、未だ罪福を知らず。七七日の内、癡の如し、聾の如く、或いは諸司に在りて業果を辯論し、審(あきらか)に定めて後、業によりて生を受く。未だ測らざるの間、千万の愁苦あり。何に況んや、諸々の悪趣等に堕せんをや。」あなた方は今、まだ話を聞かず、修しようとしない。即ち、無常が何時でもやってくることを信じない。お経には、死者は他界後49日以内は非常に苦しむ、中陰の状態で徘徊し、自分の行く場所に恐れと憂いを感じている。もし悪道に堕ちたなら、その受ける苦しみは耐え難いものであると説かれる。

「是の命終の人、未だ受生を得ざる。七七日の内、念念の間に在りて、諸々の骨肉の眷属が與に福力を造して、救抜せんことを望む。」あなた方の家族が他界した時、生きている者が49日内に死者のために福徳を積む因縁に頼ってこそ、彼らが苦しみから離れられるように善知識の助けを受ける機会を持つことができる。お経の中には「骨肉」と説かれる。よって、あなた方が夫のためにリンチェンドルジェ・リンポチェに済度を求め、死者のために福徳を積んでもらえるよう願う。これはお経に説かれる内容に符合しない。『地蔵菩薩本願経』の中で説かれたバラモンの女性と光目女のお話において、地蔵菩薩は女性として現れ、いずれも母親の為であった。地蔵経は、地蔵菩薩がある一世で自分の夫のために仏に求めたとは説いていない!ここからも分かるように、仏教の経典は女性を軽視してはいない。ただ必ず両親が子供のために、或いは子供が両親に代わって済度を求める。よって、昨日の女性弟子の弟は母親のために済度の法会に参加することを拒んだ。母親が仏法の救いを得る福徳、因縁をなくしたのだ。

少し前に、岳父を亡くした男性弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェが死者のためのポワ法の修法を許可してくれたと思っていた。しかし、死者が他界後に彼のために修法してくれるリンチェンドルジェ・リンポチェを見つけられないこともある事を信じなかった。夫婦二人は上師に対して投降しておらず、恭敬心がないために、死者は十分な福徳と因縁を備えられず、数日の苦しみを受けねばならなかった。人は他界後、非常に苦しむ。他界後ただちにリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法によって済度される死者は非常に大きな福徳をもった者である。

「眷属、骨肉は、斎を修営するために、業道を資助せんに、未だ斎食竟らざるとき、及び営斎の次、米泔、菜葉を地に棄てず。」お経にはこう説かれる。もし死者のために斎食を準備し仏菩薩を供養したなら、斎食の儀軌が終了する前、米汁、菜葉はいずれも地に落としてはならない。しかし、現代人は多くを葬儀社に準備してもらい、葬儀社に菜食にするか肉食にするかを告げ、全て彼らが準備する。自分で料理しない。よって、『地蔵菩薩本願経』の内容を着実に行なってはいない。

閻羅王衆讃歎品第八:

閻羅王(=閻魔大王)はあなた方が思うようにあなた方を地獄へ連れて行く者ではない。実のところ、閻羅王は菩薩の報身でもあり、地獄の衆生の管理を掌っている。彼らの業力の報いを受け終わり早めに生まれ変わるように地獄の衆生を助ける。お経の中で閻羅王が釈迦牟尼仏に尋ねる。地蔵菩薩が方便法門と不可思議な神通力によって衆生を済度したとしても、衆生はなぜ悪行をなし悪道に堕ち続けるのか?釈迦牟尼仏は、地球の衆生は「其の性、剛強にして、調え難く、伏し難し」と説かれた。あなた方はこのようである。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに沢山の仏法を説き何度言っても、あなた方は聞き入れようとしない。仏法を学ぶ際には自分の考えがあってはならないと、はっきりと伝えてあるが、あなた方が仏法を聴聞する際には何時でも抵抗する考えを持っている。これが即ち「剛強にして、調え難く、伏し難し」だ。あなた方が本当に聞き入れようとしたいなら、自分の考えを持ってはならない。これを続けて行くと仏法を学ぶことはできなくなる。仏法はあなた方の考え方に符合することはない。あなた方の考えは全て欲望だが、仏法はあなた方の執着を減少させてこそ、あなた方を生死輪廻から解脱させてくれる。

「一りの知識有りて大術を多解し、善く是の毒、及び夜叉、諸々の悪毒等を禁ず。忽ち迷人の険道に進まんと欲するに逢いて、而も、之に語りて言(いわ)く。咄哉かな。男子、何事が為に此の路に入る。何の異術有りてか。能く諸々の毒を制せん。是の路に迷う人、忽ち、是の語を聞いて、方に険道なることを知りて、即ち歩みを退けて、此の路を出んことを求む。是の善知識、提携接手して、険道を引出して、諸々の悪毒を免れしむ。」お経に説かれる通り、衆生は輪迴の中では、苦しみが分からない。それはまるで毒虫、夜叉等のいる険悪の地で迷子になり、善知識に出逢って引接され、善知識の助けによって険道を脱し毒害を免れるようなものだ。よって、ここから、仏道上での善知識への依止が極めて重要であることが理解される。

「命終の時に臨みて、亦、百千の悪道鬼神有り。或いは変じて父母、乃至、諸々の眷属と作(な)りて、亡人を引接して、悪道に落ちざらしめんとす。」お経に説かれる通り、人は臨終前に、眷属や信任する人が見え、彼を連れて行こうとする。ここに二つの例があるのでお話しよう。ある女性の弟子が大事故に遇い、昏睡状態に陥った時、このような経験があった。その時、彼女は自分の親友が迎えに来たのを見た。もう一人の老人は彼女をリンチェンドルジェ・リンポチェのところに連れて行くと言った。幸い、彼女にはリンチェンドルジェ・リンポチェに対する十分な信心があったので、リンチェンドルジェ・リンポチェが来るのを絶対に待とうとした。だから、彼らはこの女性弟子を連れて行くことはできなかった。また、暫く前に、中風によって昏睡状態に陥った男性弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの「下りて来い」という声を聞き、言う事を聞いて下りて来た。これらの例から分かるように、これら衆生は皆、あなた方の怨親者である。変化して、あなた方の親しい者、信頼する者となる。あなた方がくっついて行くなら三悪道に堕ちる。彼らはどんな物にでも変化するが、仏菩薩と上師の姿に変化できない。よって、これもまた、なぜあなた方が生きている間に仏法を薫習し、仏法の教えを聴く習慣を身に付けなければならないかの理由だ。あなた方が三宝を恭敬し、しっかり仏法を学び、話を聞き、上師に対する信心があるなら、他界時にリンチェンドルジェ・リンポチェは必ずあなた方を連れて行き、あなた方を助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは他の者に頼んであなた方を連れて行くことはない。必ず自ら迎えに来る。

称仏名号品第九:

本品の中で、地蔵菩薩は未来の衆生のために、恭敬して念仏する諸々の利益について説かれた。「恭敬」は、考えたら実現できるものではない。それは、恭敬を行なうのは非常に困難だからだ。真の恭敬には、ほんの少しの自分の考えさえなく、自分を利益する考えもない。求めるものがあるなら、それは恭敬ではない。通常、戒を守らず、他人に対する慈悲心もなく、恭敬心もないなら、仏菩薩に対して恭敬することは不可能だ。もし、通常、他人の善行を称賛する習慣があるなら、比較的容易に恭敬できるであろう。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方に常に、諸々の仏菩薩と上師の功徳を称賛するよう言っている。これが即ち随喜だ。いくら供養すべきかと他人があなたに聞いたら「随喜」と答える必要はない。その人に自分で決めさせなさい。「随喜」は「随便(いい加減の意味)」ではなく、他人が善行をして衆生を利益した際に歓喜することである。

この法門を恭敬することはそれ程簡単なことではない。恭敬は畏怖を意味するのではなく、完全に話を聞き、100分の100降参することだ。傲慢、非常に強い我慢、自己中心的な人は恭敬を行なうのは難しい。心に悪念を持つ習慣のある人が善に出逢うと、これを受け入れるのは難しい。彼は既に悪の習慣があるからだ。あなた方がなぜ心に善念を持たなければならないのか、即ちこれが理由である。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアを使って言った。「今日は皆を放さない。先ず20分間休んでから法会を再開する。」会場の皆はこのような得難い福徳、因縁によって、貴重な仏法を引き続き聴聞できる。皆は非常に歓喜し、宝を得た如く、声を揃えてリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、恭敬して起立し、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座から下りられるのを待った。

法会は20分後に再開された。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは再び法座にあがられ地蔵菩薩の法会を主催され、真言を唱えて加持を授けた後、会場の皆に向けて貴重な仏法を説かれた。

校量布施功徳縁品第十:

お経の中で再び、地蔵菩薩が「仏の威神を承けて」と説かれる。地蔵菩薩は不可思議な大能力をもって無数の衆生を利益するが、依然として非常に謙虚であり、仏の伝承によりこの威神力を得たことを強調する。あなた方のように、仏法を一時学んだだけで、自分は観音様を見たと思い、自分は成仏し諸々の大能力を顕現できると思うのとは違う。

「若し善男子、善女人、仏法の中に於いて、少善根、毛髪、塵沙等許りを種(う)えんに、受くる所の福利は、喩えを為す可からず。」お経の中には、ほんのわずかな如何なる善行であっても、修行者は努力して行なわなければならず、それによって非常に大きな利益を得ることができると説かれる。「若し善男子、善女人有りて、仏の形像、菩薩の形像、辟支仏の形像、転輪王の形像に遇いて、布施し、供養せば、無量の福を得ん。常に、人天に在りて勝妙の楽を受けん。」これは、十善法を修する人であるなら、仏菩薩の聖像の前で布施し供養することができ、非常に大きな福徳を積むことができ、未来世において諸々を受用できるという意味である。

「是の如くの善事、但能く法界に迴向せば、是の人の功徳、百千生の中、上妙の楽を受けん。如(も)し但、自家の眷属、自身の利益に迴向せば、是の如くの果は、即ち三生、楽を受けん。一を捨てて万の報を得べし。」仏はここで非常にはっきりと説かれた。もし布施や供養を行ずる際に、只、自分の家の者だけに迴向するなら三世だけの受用となるが、法界一切の衆生に迴向し、衆生がこの福徳を得て早く解脱できるように、浄土に往生できるようにと願うなら、この迴向の功徳は非常に大きなものとなり、未来において、多くの世で利益を得ることができる。よって、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に、皆に法界の一切の有情衆生に迴向し、ただ自分の身内の者だけに迴向しないよう教えている。仏菩薩の慈悲は特定の対象だけを助けることはない。あなた方が法界の一切の有情に迴向することは、あなた方の婚姻での第三者も介入する。仏法の中の慈悲は、私達を傷つける敵さえも助ける。彼らが苦しみから解き放たれ済度を受けられるように助けなければならない。

地神護法品第十一:

本品の中で、堅牢地神は、地球において不可思議の無量化身をもって六道衆生を利益する地蔵菩薩を讃嘆した。地蔵菩薩は単に鬼道衆生を救うだけではない。お経には「是の地蔵菩薩は六道の一切衆生を教化して、発する所の誓願の劫数は、千百億の恆河の沙の如し。」と説かれる。地蔵菩薩は古い仏で、地球の衆生と大きな因縁があるため、その大願力をもって無数の報身として化現し、地球の衆生を済度する。

「所住の処に於いて、南方、清潔の地に於いて、土石竹木を以ってその龕室を作り、是の中、能く塑画、乃至、金銀、銅鉄をもって地蔵の形像を作りて、燒香、供養、瞻礼、讃歎せん。」お経に説かれる通り、地蔵菩薩を供養する場所は清潔な所、悪事に使われたことのない場所でなくてはならない。お経に説かれる方式に基づいて壇城を設え、供養、礼拝するのでなければ、毎日読経しても効果はない。ただ少しの善の因縁が積めるだけである。よって、仏の供養は恭敬が大切だ。いい加減に一箇所を探すのであってはならない。お経には、壇城を南方の清潔な地に安置するようにと説かれる。壇城を安置する時、後ろに浴室、台所、臭い裏道があっても、適当に場所を探して置き、通常は余った空間を使う。このようなのは良くない。家の中で最もよい場所に仏菩薩の壇城を安置するべきだ。あなた方がどこに安置したらよいか分からない場合は、上師に聞くべきである。家の中がきれいでなく、まだ殺生業があり、壇城を安置する適当な場所がない場合であっても、両親と争う必要はない。恭敬して自分の部屋の中に安置すればよい。着替えが不便ではないかと心配しなくてもよい。大切なのは恭敬心だ。壇城の位置は、仏が好むかどうかによるのではない。仏の傍らにいる護法にはまだ執着心があり、好みがまだある。

このように地蔵菩薩を恭敬し供養すると十種の利益が得られる。そのうちの一つは「水火の災なし」。信じない者もいる。旅行に出掛ける前に、ランプにふうっと息を吹きかけて消した。懺悔しないなら、以後、目が潰れてしまうだろう。またある者は、リンチェンドルジェ・リンポチェの写真をチェストの中に入れ、用がある時だけ取り出し、用がなければ中にしまっている。ある者は家でリンチェンドルジェ・リンポチェの写真を祀っていて、写真が火に焼かれてしまったが、少し焼かれただけで火はストップした。あなた方は法本、写真さえも火で焼かれてしまうが、お金を焼かれたことがあるかどうかは分からない。こういう者は懺悔が必要だ。必ずや仏法を学ぶ心のあり様に問題がある。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェの写真を焼いてしまうのだ。写真に火がつき半分だけ焼かれることがあり得るのか?これには加持がある。なぜなら、これらの人は皈依し、嘗て供養したことがあり少しの善を積んでいる故に、リンチェンドルジェ・リンポチェに保護してもらえたのだ。よって、家に壇城を設えていない者は上師に信心がない故に、この一層の保護は得られない。また、リンチェンドルジェ・リンポチェにお清めしてもらった家には肉食を持ち込んではならない。もし肉食を持ち込んだのなら、あなた方が言うように効力がなくなる。明らかに知っていて犯したなら罪は1ランク上になる。お経には、不祥の地となると説かれていて、何らかの事件が起こる可能性もある。よって、もし実行できないのであれば、自分の家のお清めをリンチェンドルジェ・リンポチェに求めてはならない。

見聞利益品第十二:

お経には「世尊、頂門の上より百千万億の大毫相の光を放つ」と説かれる。頂門は頭のてっぺんを意味するのではなく、これは密法と関係がある。「当に菩薩、無辺の身を現じて、具に是の人の眷属の生界を告ぐることを得べし。」お経に取り上げられたこの部分は本当だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の経歴を例にあげた。リンチェンドルジェ・リンポチェの父親は生前、道教を非常によく修しており、肉体から離れて物事を処理することができた。しかし、父親はタバコを吸っていたために、50余歲の時に突然の心臓麻痺で亡くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは父親の他界後、かつて父親が修していた道教の物品をすべて片付け二度と用いなかった。生死の大事になにも役に立たないと知っていたからだった。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を学び始め、毎日両親に代わって仏に懺悔の礼拝をした。88仏の懺悔の礼拝であった。毎日少なくとも2回、半年ほど続けた時に、お経に説かれるように夢の中ではっきりと父親を見た。父親は20歲の姿をしており、顔色は空の青い色をしていた。これらの夢は通常、目の覚める1、2時間前にみる夢で、眠りはそれほど深くはなかった。もし8時に起床するなら、これらの夢は5、6時頃に出現した。しかも、画面全体を非常にはっきり覚えており、ぼんやりしているものではない。

夢の中で菩薩を見たという者がいるが、それは本当の菩薩が来たのではない。もし本当に菩薩が来たなら、その画面は非常に明るい。太陽の光よりもずっと明るい。リンチェンドルジェ・リンポチェの父親が他界した時は50歲前後であったが、夢の中では20歲だった。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、天界に生まれた衆生は何歳で他界してもいつも20歲の姿をしていて空の青色であると経典に説かれていることを知った。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日両親に代わって懺悔の礼拝をし、仏菩薩が自分に父親はすでに天界に往生したことを告げるのを聞くまで懺悔の礼拝を続けた。両親の恩は非常に報い難し。あなた方は仏法を学んでいるなら、両親に代わって早く懺悔しなさい。

嘱累人天品第十三:

釈迦牟尼仏は地蔵菩薩に地球の衆生の面倒をみるよう言いつけた。衆生は「若し悪縁に遇えば、念念増長す」。お腹の面倒をみてから仏祖の面倒をみるという者さえいるが、これは、仏への誹謗である。経典の中では、もし善男子、善女人が、地蔵菩薩の像を見たら恭敬し、地蔵菩薩のお経を読誦し、布施、供養を行じ、地蔵菩薩の功徳を讃嘆するなら、諸々の利益を得ることができると説かれる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、諸々の仏菩薩が人を騙さないことを知っている。お経に基づいて行なえば、必ず諸々の仏菩薩の加持と助けが得られる。よって、ずっと衆生を利益し続けている。今日お経によって、皆は自分にあとどれ位実行していないものがあるかを知ったなら、直ちに改めなさい。さもなくば、地蔵菩薩は頭を撫でないだけでなく、持っている金剛杵であなたの頭を叩くであろう。

本日、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆をリードして読経し、お経の中に説かれる内容をあなた方にはっきりと見せた。実のところ、リンチェンドルジェ・リンポチェの説く仏法は以前からずっと、お経の内容を離れたことは全くない。今、時が来た。時が来たというのは、あなた方がまもなく死んでしまうことではない。善の力が出現し始めたということだ。よって、あなた方に経典を見せてもあなた方は比較的受け入れることができる。もし以前あなた方に見せていたら、まだ直ぐに受け入れることはできず、多くの疑問が出たことだろう。直貢チェ・ツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェを法座にあがらせたのは、供養をみて判断したのではない。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが修し得て実行できたからだ。本日説いた『地蔵菩薩本願経』の内容によって、あなた方もはっきりと、リンチェンドルジェ・リンポチェがどんな身分であるかを知ることができたであろう。絶対に凡夫ではあり得ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは謙虚に、自分は全部を実現していないが、ほんの少しの上っ面は確実に実現したと語られた。仏菩薩があなた方を教え導くのは、あなた方が直ちに成仏できることを意味するのではない。これは皆の決意による。即ち、精進、懈怠ない心である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、明日午前に黒水財神を、午後に大象財神(ガネーシャ)、及び上師供養法(グルプージャ)を皆のために修法することを告げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは財神法をすでに修し得ているが、自分の事業のために財神法を修したことはない。事業にはかつて障害があったが、このために財神法を修したことはなかった。皆が過去にリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したことがあるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために、財源が安定し、引き続き供養できるように財神法を修法する。財源が広く得られるようにではない。あなた方は十分な資糧があってこそ安心して仏法を学ぶことができる。直貢チェ・ツァン法王は、チベットでは長寿仏を修する時に人が集まるが、漢人の地では財神法を修する時に人が集まると話されたことがある。ここからも二つの民族性の違いが理解できる。しかし、実のところ、あなた方のために上師が修法してくれる如何なる法も、それは全てあなた方が将来の仏道修行に役立つものである。よって、あなた方は法に対して分別心を持ってはならない。

法会は円満に終了した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、皆の新年が良い年となるよう特別に祈られた。会場の列席者は起立し、法座からおりられたリンチェンドルジェ・リンポチェを恭敬してお見送りし、地蔵菩薩の殊勝な法門を修法して下さったリンチェンドルジェ・リンポチェに対し、声を揃えて感謝した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わず、皆のために経典中の精髄と要義を説かれ、仏法の一つ一つの言葉を最も貴重な宝石の如く説法され、寶吉祥仏法センターを荘厳なる仏土として化現された。会場の列席者は、清涼な甘霖の法雨を浴びる如く勝妙な仏法を恭敬して受け取り、言葉では表現できない心からの歓喜を感じた。

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2015 年 07 月 12 日 更新