尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年2月3日

台北寶吉祥仏法センターにおいて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ主催による長寿仏の法会が行われた。

法会が始まる前に、リンチェンドルジェ・リンポチェの著作『快楽と痛苦』の校正にかつて携わった女性信者は、懺悔の機会を与えてくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べた。

2012年8月初旬に、彼女は自分を金剛地獄に堕とすほどの悪業をなしたが、全く気づかなかった。しかし、 尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、衆生を捨て去ることなく、12月9日の共修法会でその悪業をしっかりと指摘して下さった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝をした。その悪業とは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの珠玉の著作『快楽と痛苦』上で誤字を探したり直接本の上に書き込みをし、三宝を破壊することによって、他人はその本を見られずに仏法の助けを受けられなくなり、仏を学ぶ慧命ことが断たれたことである。

彼女が直接『快樂與痛苦』の誤字を本に直接書くよう通知を受けた時、心の中で「どうして私たちがするのか?」と思った。続いて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェの本なのにどうして誤字があるのか?と思ったが、すぐに急いで限られた時間内に校正を終えた。その時の彼女は、自分が上師及び三宝に対して不敬な大悪業をなし、深刻な過ちを犯した事を全く意識していなかった。金剛上師によって開示された仏法を書き記した本は「法本」と「経典」だ。少しでも恭敬や感謝の心があるなら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの無数の人々を救うための著書『快楽と痛苦』で誤字探しをしたり、直接書き込みをするだろうか?このような心の持ち様が本尊と全く同じ上師の誤りを探し、仏菩薩の誤りを探すのだ。上師や仏菩薩が間違いを犯すことがあるだろうか?間違いは彼女自身にある!彼女は本当に大胆で高慢だ。自分の心を放縦し悪をなす。心中は五毒に侵され重病だ。どうしようもない間違いをした。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、このような悪業を犯す。実に卑劣極まりない。

上師の話の通り、彼女は皈依以来、上師及び三宝を敬ったことはなかった。自分に大きな恩徳のある上師及び三宝に不敬な悪業を犯すのは、つまり、自分が上師に投降しておらず、言う事を聞かず、上師を本尊として見ておらず、上師を一番に置いておらず、上師を自分の命よりも大切だと思っていないからだ。高慢、恩知らず、因果を信じず、仏法を信じず、自分の心を放縦し、実に自己主張が強く、調伏が困難である。

尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法会において、はっきりと自分が犯した悪業を指摘してくださったことに彼女は感謝した。その御蔭で、心の放縦によって理解しがたい程の過ちを犯し、知らない間に過ちを犯し、自分を金剛地獄に直送する程の過ちを犯したことを理解した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれたことがある。「ミラレパ尊者はこう言った。『今世で輪迴から解脱しないのであれば、未来のある一世で必ず地獄道に堕ちる』」

上師、諸仏菩薩、及び護法の慈悲によって、彼女は、地獄に堕ちることがこんなにも簡単であることを深く知った。そして、地獄に堕ちるのはただの1回だけではないと理解した。今世で皈依前に食べ、殺しただけでも地獄行きだ。彼女は、因果を信じず、仏法を信じず、地獄道の苦しみも忘れた。上師は慈悲の心で、手を尽くして彼女を浄土に連れて行こうとしたが、それと同時に、彼女は命を惜しまずに地獄へ向かった。実に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び全ての衆生に申し訳ないことをした。

彼女は、上師の至極の慈悲の加持に感謝した。上師の慈悲の加持によって、彼女が犯した過ちを指摘してくださらなかったら、彼女は、自分は上師を常に敬っていると思い、ずっと以前からあった傲慢の習気は皈依後に改善されていると感じ、自分は上師の導かれる仏法に従っていると勘違いしていたことだろう。このような諸々の独りよがりは、すべて無常を信じず、教えに依る行動をせず、話を聞かず、高慢で、自我を拡大し続けているから起こる。この「私」が一旦悪さを始めると、常に、貪・瞋・痴・慢・疑が一緒になって、自分の心を放縦し悪業をなす。心中、汚く不潔なゴミでいっぱいだ。何時、上師、諸仏菩薩、衆生の存在を感じることができるのだろうか?人として根本的である師を敬う大切な道さえも学べない。彼女はただ人の形をした人であるだけだ。彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔するとともに、自分を導いてくれた先生や先輩に申し訳ないと深く反省した。

彼女は、以前、ドマチームの全員が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの「自分で募金を集めてはならない」という訓示を聞かずに悪に随ったことを懺悔した。

2011年、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子たちを引き連れてニュージーランドへ赴いた。直貢チェツァン法王及びリンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子達及び大修行者と共に食事をとる果報を授けてくださった。食事の時、彼女はふとリンチェンドルジェ・リンポチェを見たが、この時ある動作が目に入った。とっさに彼女に不敬の念が浮かび、全身鳥肌がたった。彼女は、心中「おしまいだ」と思った。どうしてこんな悪念が浮かんだのか。この言葉は、すでに長い間、脳裏に現れなかったと記憶している。だが、上師が試すとすぐに形を現した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたが好きなものをあなたに見せることはない。あなたが好まないものだけを見せよう」と説かれたことがある。彼女の不敬は、試されるとすぐに目の前に現れたのだった。

同年、リンチェンドルジェ・リンポチェは、弟子達を引き連れてインドの喜金剛法会に参加された。出発前に公式サイトの発表から、今回の法会は尊き直貢チェツァン法王の主催ではないことを知り、彼女は心中、分別心を起こした。彼女は、法会の初日、リンチェンドルジェ・リンポチェと弟子達が一緒に座っているのを見て内心苦しくなった。主催機関を批判したい思いに駆られた。

かつて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが「あらゆる仏典を開いてみたが…」と説かれた時、彼女は、心中突如「あらゆる仏典?」という疑問が沸き起こった。彼女はその場で懺悔したが、悪念はすでに現れてしまった。高慢によって再び悪業をなしたのだ。

彼女は、今年(2013年)1月、日本での地藏菩薩の法会に参加させて頂いたことを、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。法会の中で上師は、殊勝な『地藏菩薩本願経』について説かれた。彼女は、その時心中懺悔の念でいっぱいになるのを感じた。自分は以前、上師が説き続けた因果に関する事を聞き入れなかった。だから過ちを犯したのだ。『地藏菩薩本願経』を学びたい者は求法に来なさいとのリンチェンドルジェ・リンポチェの提起を聞いた時、またしても独りよがりな求法をし、みんながこの殊勝な説法を聴聞できることを望んだ。彼女は、その場で懺悔し、みんなに自分と同じ過ちを犯さないようにと言った。高慢で独りよがりの攀縁によって、彼女自身、現在の状況が求法に適しないことを忘れた。起心動念はすべて業、すべて罪だ。彼女はまた過ちを犯した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。行為する全ては皆、自己を中心としている。傷つくのを恐れて自分を守ろうとする。彼女は正にそうだ。目を開けば、貪・瞋・痴・慢・疑で他人に接する。他人から見えるのは、自分の要求にそぐわない所だ。たとえ生死を分ける一矢を他人に放ったとしても、心の中で、これは相手にとって良い事だと思っている。本当に相手に良い事なら、なぜ自分を改めないのか?他人を自分の求めるものに変えようとしているのではないか?自分を変えないのに、なぜ人に要求するのか?たとえ自分が変わったとしても、人を変えようとする資格はない。尚更、これが「善」の出発点だと自分で思っても、それは「私」が考えたことだ。人に要求することを自分の希望とし、自分の貪・瞋・痴を満足させ、自分が一番すごい、自分こそが正しいと思い込む。成就させてくれた衆生への恩を感じず、一切が因果及び因縁であることを忘れる。団体の中では、他人の包容力を利用し、自分の問題を改善する努力をしない。形あるものの中で、又は形ないもの中で、一緒にいる人を傷つける。彼女はこの場で、自分が傷つけた全ての人に懺悔をした。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女が法会に参加するのは気分的なものだと指摘した。上師の説いた仏法を確実に実践せず、ただ法会に参加しているだけだ。気分を晴らしたり、加護を求めているに過ぎない。彼女が初めて法会に参加した時、その当日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは金剛薩埵の修法をされ、このように説かれたことを記憶している。「今日の灌頂は皈依していない者にとっては結縁のための灌頂であるから、学んではならない。」彼女はその時すぐに「学んじゃいけないなら、法会に参加して何をするのか?」と思った。何を学んでいいのかは分からないが、火曜日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依を願った。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが皈依を受け入れてくれ仏教を学ばせてくれたことに彼女は感謝した。最近彼女は、上師のもう一つの説法を思い出した。「学んで実践しないなら、何のために来るのか?」その通り!彼女は仏教を学んでいる事があるのか?今世で輪迴を断ち切り、浄土へ往くと毎日自分に言っているのに、上師の教えの輪迴を断ち切る仏法を実践していない。上師の説いた仏法を聴いているが、実際に行っていない。彼女は、上師、諸々の仏菩薩、衆生に向かって心からの懺悔をした。教えに基づいた行動で実際に自分を変えようとしなかった。彼女は、その他の衆生を救済するための上師の時間をむだにしたことを上師に懺悔しただけでなく、上師に伝法して頂く時間が遅れ、兄弟子達に迷惑をかけたことも懺悔した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのに彼女は感謝した。今回の件がなければ、自分の問題に向き合って深く検討し、心を痛めて自分を改める決心をすることはなかった。今回の件では、彼女が上師に投降していないことがはっきりと示された。境界が目前に現れた時、彼女は、上師が自分を救ってくれた大恩人であり、仏菩薩であることを忘れた。上師や三宝に対する彼女の不敬の心を、今回の過ちを通して完全に暴露し、更に多くの衆生が傷つけられる前に彼女を救い出してくれた上師に感謝する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「あなたがお金を払って買ったからといって、この本は自分の物だと思ってはいけない」と説かれた。確かに、彼女はこの本と結縁しただけである。死んだら持っていけない。だが、上師及び三宝の不敬、三宝への破壊を起こし、他人にこの著書『快楽と痛苦』を読ませずに、苦しみから離れるための仏法の助けを受けられないようにし、仏を学ぶ慧命とする他人の縁を断ち切った報いは彼女が受けることになる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女が非常に大胆で、常に上師の誤りを探し、彼女にとって大恩のある上師に対してさえも高慢で、彼女は他人の態度に何も感じない。通常、人に対して少しでも遠慮があるならましだ。二言を余計に解釈するだけでも我慢できない。少しも同情心がない。仕事が一定水準に達しないのは、相手の努力が足りないせいだと思い、こうやって無数の人を傷つけてきた。彼女は、この問題にかつて真面目に取り組んだことがなかった。彼女は、話をしたら人を傷つけてしまうのなら、口数を減らせばいいと思っていた。口数を減らすのはお茶を濁すことだ。時が来たら、やはり人を傷つける。実際に努力をして自分を改めようとしないのは、傷ついたのは他人で自分ではなく、他人の生死を全く意に介さないからだ。

彼女は小さい頃から傲慢で、せっかち、口が達者で、主観的、自己中心的で、独自の意見をもち独行する性格で、多くの人を傷つけてきたことを懺悔した。彼女は、今世での殺生業が非常に重く、父親は漁船での仕事で彼らを養ってきた。これらの殺生業は、彼らにも一部引き継がれる。仏を学ぶ前、彼女は皮革製品を扱う会社で働いていた。これもまた殺生業に関わる。当時、一人の妊婦の同僚に、胎児の健康のために妊娠期間は菜食してはいけないと言い、同時に二人に殺生業を造らせた。これらの殺生業には、やはり彼女にも一部引き継がれる。皈依前に食べた海鮮や動物の肉を数に入れたら限りがない。その中には両親が彼女のためになした多くの殺生業もある。彼女に殺された蚊、アリ、ゴキブリ、クモ、ムカデ等もいる。また、彼女は、人の許しを得ないで持ち去った偷盗も犯したことがある。さらに加えて、起心動念の業や罪。彼女の今世は罪業さらに罪業だ。彼女は、あろうことか、こんなにも徹底的に過ちを犯すことができた。

彼女は、過去になした諸々の悪業を認め、向き合い、引き受け、受け入れ、絶対に逃避しない。彼女は、あらゆる報いを喜んで受け入れた。彼女は、すでに傷つけた衆生、累世の怨親者が非常に多く、その時間も十分に長い。彼女が債務の返済を引き伸ばすことは、ありえないだろう。彼女が速やかに全ての債務を返済し、累世の怨親者が今世で彼女と共に輪迴を断ち切り浄土へ往くことを願ってくれるよう祈る。

彼女の病んだ心が招いたのは、上師の珠玉の著作『快楽と痛苦』上での誤字探しと書き込みの悪業であった。慈悲深く彼女の犯した過ちと問題点を指摘され、皈依弟子のベストと法本を返却する処方をくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な加持に感謝した。彼女は、この殊勝な教えを喜んで受け取り、自分を救い出してくださった尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を捧げた。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなければ、ただ業力に引っ張られて今世を駆け抜け、さらに業力に従って次の世を彷徨い、助けてくれるものもなく、少しも思う通りになる力もなく、一世は無駄に過ぎていくだけだということを深く理解した。上師と仏菩薩だけが唯一、信じられ、頼れるものだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいなければ自分の過ちを知る術もない。さらには、輪迴を断ち切ること、浄土への往生となれば、勿論言うまでもない。一切は因果因縁である。彼女は、自分が今迄何を気にかけていたのか、何を争っていたのか、なぜあんなに傲慢だったのか?なぜあんなに言う事を聞かなかったのか?本当に分からなかった。因果応報以外は、どれも彼女のものではなかった。

彼女は、再び、上師が彼女に継続して仏を学ばせて下さった大恩徳に感謝し、再び、過去になした諸々の悪業を懺悔した。起心動念は全て業、全て罪。懺悔の上に懺悔あり。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに、仏を学び修行する際の業障と悪念を取り除いてくださるよう祈った。そして、必ず教えに基づいて行動し、実際に自分を改め、今世で必ず生死輪迴を断ち、浄土に往生することを誓った。

最後に彼女は、輪迴苦海の衆生が皆、諸仏菩薩の助けを得て、六道輪迴を解脱し浄土に往生できるよう祈った。また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの法体のご健康、法輪の常転、法脈の永続と百劫の常住、仏法事業の円満興盛を願い、直貢噶舉派が五大州に遍く弘まり、広大な衆生を利益できるよう祈る。

続いて、一人の女弟子が同じく皈依弟子である息子を伴い、家族が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを深く受けた過程を会場にいる皆に報告した。

彼女は、2007年2月、御主人が肝臓ガンを患ったことで因縁が熟し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めた。その時、愚かな彼女は、御主人の病気が良くなることだけを願ったが、却って御主人に沢山の苦しみを受けさせてしまったことを回想した。彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェによって御主人が三悪道への堕落から救われ、御主人の往生後はリンチェンドルジェ・リンポチェによって神識が守られ、施身法の法会で済度されたことを感謝した。後に彼女は、肝臓ガンの患者は往生前に大吐血をすることを同僚から聞き、初めて、御主人の身体がとてもきれいだったのは、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭だったことを知った。

彼女は、人生の無常を示し、無常を自分に理解させてくれた御主人に感謝した。この因縁と福徳があってこそ、2008年1月6日に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依し、正法を聴聞することができた。

2010年11月、彼女の母親は、脊椎が圧迫され詰まり歩行困難となり、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェへの謁見を求めた。母親はリンチェンドルジェ・リンポチェを見ると、言葉を失うほど泣いた。元々話そうとした一言が全く出てこなかった。彼女は、母親に加持を与えてくださった尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

数日後、彼女は、家の体重計が壊れたのではないかという父親からの電話を受けた。なぜなら母親の体重が数日中に62キロから58.6キロに減ってしまったからだ。彼女が実家に帰って母親の細くなった踵を見た時初めて、母親がリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の加持を授かった後、数日内に両足のむくみが自然に全部消えてしまったことを知った。両親は、リンチェンドルジェ・リンポチェの不思議な大能力を褒め称え、ついに、施身法法会に参加する因縁が熟された。

父親は彼女に、信者の供養金を返す寺院を見たことがないと言った。また、謁見を求めにやってきたこんなに多くの重病人達を加持できる人を見たことがないとも言った。2011年5月、両親はついに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェから施身法法会に参加する許しを得た。父親は、道場で施身法の法会に参加した後、彼女に言った。「寶吉祥仏法センターは本当に立派だ。1000人の人が参加しているが、自分が以前参加したことのある法会のようにごたごたと乱れることがない。一番重要なのは、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えはとても厳しくて素晴らしい。」

昨年(2012年)8月、彼女の母親は左側の乳房のしこりに気づいた。8月26日の「阿弥陀仏無遮大済度法会」の次の日、乳房に出血があったので、初めて父親にその事を話した。予期せぬことに父親は、心配のあまり家の浴室で気絶し、便器が動いてしまうほどの衝撃でぶつかった。彼女は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩の慈悲が父親を守ってくれたことに感謝した。そんなに大きな力でぶつかったが、父親には怪我はなく、便器の修理費で1000元余りを払っただけだった。

彼女の父親が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を述べに来た時,リンチェンドルジェ・リンポチェは父親に言った。「あなたの命を留めたのは、福徳を享受させるためではない。」この貴重な御言葉によって父親は反省し、共修法会への参加を願うことにした。

ずっと健康に自信のあった父親は、母親に伴って病院へ行く際に、台北で知名度のある病院で、自分もついでに検便をした。結果、意外にも大腸の悪性腫瘍が発見され、医師は手術で切除するよう勧めた。父親は、手術を受けることを受諾したが、心配で恐くなった父親は、11月27日にもっとひどい気絶事件を起こした。その時、父親は頭をひどく壁に打ち付けて、タイルが割れてしまった。幸い、頭部の外傷は寶圓膏を塗った後に完治した。しかし、父親の心理的問題については、家族は少しも力にならなかった。彼女は父親に、人生は無常だから尊きリンチェンドルジェ・リンポチェについて仏を学ぶ因縁を大切にしなければならないとだけ繰り返し告げた。

彼女の父親の手術は、12月20日を予定していたが、父親の二度目の気絶後、ほぼ半月の間、夜に不眠状態が続き、だんだん力をなくし憔悴していった。家族は、父親を連れて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めることしかできなかった。父親はリンチェンドルジェ・リンポチェに手術が順調にいくよう願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは父親に「手術台の上で死なないように加持を与えようか」と聞いた。父親はびっくりしてぼんやりし、ただ誠実に「はい」と答えただけだった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェは父親を加持し、二粒の貴重な甘露丸を与えてくださり、彼女に、父親の手術前後に口に含ませるよう言い付けた。続いて母親は、父親と共に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依させて戴けるよう願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「問題が出たら皈依したがる。手術が終わってからにしよう!」と言われた。

彼女の父親は、リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な加持を受けた後、夜の不眠の問題は直ちに解決した。また、毎日一回、また一回と、リンチェンドルジェ・リンポチェの説かれた懺悔のテープを聴いていた。彼女は、こんなに早く父親の苦しみを軽減できるのは、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲と大能力だけだと、しみじみと感じた。

12月29日、家族は、父親の入院ベッドの確保ができたから手続きに来るよう病院からの通知を受けた。しかし12月30日の朝は施身法の法会がある。彼女は父親に、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座上で「法会を信じるべきだ」と説かれたことを話すと、父親は、やっとのことで確保したベッドを放棄し法会への参加を決めた。思いも寄らぬことに、一時間ちょっと過ぎた時、病院から電話があり、ベッドを父親のために保留すると言ってきたので、父親は、次の日の法会に参加した後、病院に行くことにした。家族は、本当に信じられなかった。確保が非常に難しい有名病院が彼のためにベッドを保留してくれるとは。全ては尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のお蔭だ。

71歲の父親は、1月2日に手術をして約20センチの大腸を切除した。リンチェンドルジェ・リンポチェの御加持のお蔭で手術は非常にスムーズだった。術後1日目に経鼻胃管を取り外し、2日目に腹部排液チューブと尿道管を取り外し、3日目に点滴さえも打つ必要がなくなり、4日目に退院、帰宅した。その週に、彼らは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求め、感謝し、彼女の両親はついに希望通りに皈依をした。

1月24日、彼女の父親は、頭痛、嘔吐、めまいがし、両足に力がなく、意識不明で緊急治療を受けた。検査の結果は硬膜下血腫。以前気絶した時に頭部が受けた衝撃で引き起こされたものであろう。緊急治療室の医師は、即刻手術することに同意しなければ転院できないこと、術後、やはり再発の可能性があることを告げた。家族は困難に陥り何も決められなかった。身体が弱くなっている父親にとって、一月以内に2回も手術を受けて心身ともに苦痛を受けるのは我慢できないだろうと思った。彼女は、その病院の医師をしている兄弟子に感謝した。自分達が無力である時に父親の病状を理解してくれ、父親に観察する時間を与えてくれるよう主治医に連絡してくれたのは彼だった。また、彼女は、その兄弟子は、家族に信心があれば必ず万難を排することができると言い、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めるよう促してくれたことを感謝した。そこで、父親は、1月26日に道場に来て、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに祈り、供養した。

その日、彼女は、リンチェンドルジェ・リンポチェに父親の状況を報告した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは、慈悲深く、父親に真言による加持を長くおこなった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、父親の供養を受け取らず、その代わり、大金でも買えない御言葉をくださった。「心配はいらない。問題ない。」この言葉には、彼女と家族がいた長い長い暗闇の中で終に光を見つけたような、そんな力があった!

彼女は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが与えてくださった加持と説法をまだ謁見の因縁が熟さない上の弟にした。彼女は、弟の話を聞いて非常に驚いた。弟は「あなた方のリンポチェは修行者だ。一つの事をただ目前のことで判断することはない。必ず私たちの生生世世を見ているはずだ。」と言った。彼女の父親はリンチェンドルジェ・リンポチェの説法に悩んでいた。手術しなければ問題がないのか、それとも手術を受ければ問題ないのか。自分で自分を苦しめていた時に、上の弟は父親に言った。「リンチェンドルジェ・リンポチェは一般の占い師じゃない。手術が必要か必要じゃないかを言うはずがない。お父さんに自分で決めさせるんだよ。リンチェンドルジェ・リンポチェが心配するな、問題ないと言ったのなら、信じればいいんだよ。」父親は、一日一日と進歩した。1月27日、車椅子の父親は、奉仕の兄弟子達の援助のもと、何事もなく、プルパ金剛の法会に参加した。1月29日、医師は父親に退院を告げた。

彼女は、これらの一切は全て尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持があってこそ、家族は重報軽受できたと思っていた。心の中で、家族が過去になした諸々の悪業を懺悔し、両親に替わって深く懺悔したいと思った。彼女は、以前、農村生活をしていた時に、飼っていた家畜を屠殺した行為を懺悔した。当時は当たり前だと思っていたが、彼女は小さい時に家族が飼っていてコンテストに出した生贄の豚が殺された時、凄まじい悲哀の声を発したのをいまだに覚えている。本当に恐ろしく、本当に残忍だ。両親は、田舎の子供に玩具なんかない。遊びは、魚釣り、ドジョウつかみ、虫を捕まえて死ぬまで遊ぶことだったと言っていた。野菜を植えたら農薬を撒いて虫を殺した。もし尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大きな摂受力がなかったら、頑固な彼らが自分にどれ程の悪業があったのかを知ることはなかったと、彼女は深く感じた。

彼女は、上師及び諸仏菩薩に向かって累世の身、口、意によって為された種種悪業を懺悔したいと願った。自分は多くの衆生の肉を食べたことを懺悔し、個人の楽しみを満たすために、魚を捕まえ、海老を捕まえ、昆虫を捕まえ、多くの衆生を傷つけたことを懺悔した。自分の親不孝、情欲が重く、自分勝手、心が狭く、他人を傷つけたことを懺悔した。嘗てついた嘘、悪口、偷盗、うわさを聞いたり話すことを好み、起心動念の全てが悪であることを懺悔した。仏法を生活の中で実施していない時、すぐに悪を断ち自分の行為を改めなかったことを懺悔した。皈依したばかりの頃、話は正常であるが、真言を唱えている時に発音が困難になり、喉はまるで卵がひっかかったようになり、骨を折って初めて勤行を終えることができた。これから、自分の悪業がどれ程重いかを知ることができた。

彼女は、今世においてほんの小さな想念や行為が悪であることを体得できたなら、それは全て上師の慈悲深い加持のお蔭だと深く理解した。また、今世で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに追随しなかったら無上の正法を得られなかったという恐ろしい結果を想像する勇気がなかった。この広大な恩徳に報いる方法はない。ただ言う事を聞き、教えに沿って行動し、しっかりと上師について仏を学ぶだけだ。

最後に、彼女は、衆生が彼女と同じように、この様な因縁福徳をもって仏同様の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出逢えることを祈った。また、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法体の御健康、この世での常住、法輪常転を祈った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に上り長寿仏法会を主催され、出席者たちに貴重な仏法を説かれた。

本日、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法するのは長寿仏である。顕教には長寿仏の修法はなく、チベット仏教だけに長寿仏の修法がある。本日修法するのも岩伝法である。本尊が自ら伝えられた法は、瑪吉珠貝傑摩仏母により授かった長寿仏の儀軌である。顕教では仏母を取り上げない。仏母は慈悲深く、御経に説かれるように男女平等、衆生平等である。チベットには多くの女性の偉大な修行者がいる。施身法は、在家のヨギニ(女性ヨガ修行者)・マジラ尊者が創り出したものである。《華厳経》には、修行についての菩薩の説法を願う女性が取り上げられている。地藏菩薩もある一世は女性であった。仏母は慈悲の代表である。

長寿仏は、顕教では修法しない本尊であり、阿弥陀仏の報身仏である。仏には三身ある。即ち、法身、報身、化身。『阿弥陀経』には、もしある人が在世の時に十善法を修し、浄土へ往く大きな発願をしたなら、他界時には阿弥陀仏の化身の接引が得られる、とある。よって、ここからも分かる通り、もし、あなた方の家族が在生時に十善法を修せず、仏を学ばずに浄土への往生を発願しなかったら、他界後に誰かにお願いして念仏を唱えてもらったとしても、どうやって浄土へ往生できるのか?化身は、仏の身、口、意の願力の顕現、あなた方が見たい姿になって現れ、あなた方と仏法との縁を結ぶ。例えば、仏典、仏像、上師は全て仏の化身である。

報身仏は、今世で既に菩薩の果位を証し、菩薩道を行ずる修行者を助ける。台湾では、大乗仏教が弘揚されているが、大部分は顕教の範囲内である。手の上に火傷の痕をつけて菩薩戒の儀軌を受けても、顕教について討議する。つまり仏法の根本理論を主とする。チベット仏教には顕教と金剛乗があり、金剛乗とは密教である。顕教は、仏の導いた顕著な理論であり、あらゆる仏法の基礎となる。金剛乗は、衆生を利益するための方法だ。金剛乗は菩薩道を修するもので、チベット仏教では、菩薩戒を受戒しても手の上には火傷の痕をつける儀軌はない。しかし、金剛乗を学ぶいずれの修行者も必ず菩薩戒を受ける。受戒は修行者が菩提願、菩提行を経て仏の境地に至り衆生を利益することを意味する。即ち、未来仏である。

一切の有情衆生には仏となる条件が備わっている。衆生には仏性があるからだ。よって、必ず仏の果位に至る。自身が未来仏である。金剛乗を修する修行者の修行速度は比較的速い。たくさんの念誦や儀軌による必要はない。金剛乗は直接、果地から修するからである。衆生には皆、仏性が備わっている。しかし、無始以来の無明によって覆われ執着から煩悩が生じるために、輪迴し続けるのである。顕教は因地から修する。経典の読誦から始め、時間は非常に長く引き伸ばされる。金剛乗を修する修行者は、上師の教えに依止し本性を現す。よって、仏の境地に至る速度が速い。菩薩は覚有情と呼ばれる。それは、すでに生死の過失を悟った修行者である。だが、残された無明をまだ解決しておらず、衆生を救おう、衆生に利益しようとの執着がまだ少しの残っているので、やはり有情衆と言う。

修行者がここで菩薩道を行ずる発願をしたら、法会に出て光明灯をつけるだけでなく、修さねばならない。現在、外で光明灯を点す価格平均は1000元から2500元。1000元、2000元払えば修することができると思うのか?衆生を済度するというのは、他人を法会に参加させ、御経印刷のための布施をしてもらい、どこかに連れて行って礼拝させることではない。必ず仏の説く六波羅蜜法門に基づいて修さなければならない。菩薩道を行ずる人は、すべての身、口、意が六波羅蜜の中にある。口で言うだけが修行ではない。経典に説かれる「六度万行」は六波羅蜜を指す。金剛乗を修持する修行者は、十波羅蜜を修さねばならない。「万行」は一万回すればいいのではなく、特定の数字ではない。毎日続ける。「万」は休まずに行なうことを指す。

六波羅蜜の中で最も重要なのは布施である。仏を学ぶのはお金が必要なのではない。みんなは布施はお金を使って供養することだと思っている。また、通常、100元、200元、500元、5000元、1万元出せば布施だと思っている。私たちは捨てきれずに執著し、煩悩が起きて破戒する。衆生を傷つけ、自分をも傷つける事を沢山する。布施を行ずると、今世で仏を学ぶ上での障碍を少なくする。しかし、いかに布施すべきかを学ばなくてはならない。布施の真の意味を説こうとするなら、解釈するのにとても長い時間が必要だ。今日の時間では足りないのでここでは詳述しない。簡単に言えば、いくら布施をするかは重要ではない。布施は、慳貪の心で行ったり見返りを要求してはならない。あなたが布施を行ずる際に見返りを求めるなら、布施の功徳はない。功徳は福に転じてしまう。しかも、この福は、生人と生天の福徳である。今世では使えず、次の世になって初めて使える。

金剛乗の修行者の布施は、自分の一切の中で最もよいものを諸仏菩薩に供養する。一切の修行をすべて衆生に布施する。少しも自分に残さない。あなた方一般人が行い、学び得るのとは異なる。仏を学ぶ目的は生死からの解脱であり、浄土への往生のために仏を学ぼうとする想念は正しくない。一切の修行は生死輪迴からの解脱であるべきだ。生死からの解脱は、生人生天の福徳を修さなくてよい。生人生天の福徳は、累世の業力を変えることはできない。仏を学ぶことが単に生人生天の福徳を修するためなら、多くの予期せぬ出来事にぶつかることだろう。仏法を通してほんの少しの自己の利益を得ようとするなら、生人生天の福徳を得るだけで、今世では使えない。

六波羅蜜中の二つ目の修行は持戒である。布施が分かれば自然に戒を守れる。衆生を傷つけたくないからだ。戒を守らずに地獄に堕ちる事を恐れるからではない。一般人の守戒は、悪因をつくり悪果を受けることを恐れるからするのであるが、修行者は、自分に規範を設け、衆生を傷つけないために守戒する。三つ目の修行は忍辱である。守戒できてこそ忍を理解できる。六波羅蜜の忍を修すれば、あらゆる人が耐えられない事も我慢できる。「忍」は単に他人の叱責を我慢するだけではない。実のところ、この様な忍辱を成し遂げるのは難しくない。最も難しいのは、物事が順調に運んでいる時の「忍」である。私たちは逆境を簡単に感じ取れる。自分にマイナスとなる事が発生した時、警戒心が起き、我慢しなければならない事を知る。しかし、今日出会ったことが順境である時、我慢するのは難しい。自分が思うとおりに日々を送っていると、自分を怠けさせ、放縦し、欲望を追い、その結果、執着に占有され、諸々の悪を犯し、輪迴から離れられなくなる。

布施、持戒、忍があってこそ禅定できる。禅定は座って動かないのではない。空っぽにするのも定ではない。仏典には空っぽにするよう説かれていない。もし世間の者があなたに、禅定は空っぽにしなければならないと教えたなら、この人は不合格の禅の修行者だ。禅定を修することは、空っぽにした後に気持ちが穏やかになるのを感じるためではない。修行者が自分の起心動念の恐ろしさを理解するためにする。いわゆる「定」とは、一つの想念が起き、完全に滅した後、次の想念が生じる前のこの間の時間を指す。仏はすでに偉大な悟りを得た(入定)。到達した禅定の境界はすでにいかなる想念も起きない境地である。しかし、仏の心はその願力によって動く。衆生が彼らの願いが叶うよう仏に求める時、もしそれが世間の事であるなら仏の心は動かないが、衆生が求めるものが仏の願力であり、衆生を利益するために輪迴からの解脱を求めるなら、仏と相応する。

仏を求めるのは自分の欲望のためであってはならない。仏の境地に至る発願をする者もいるが滅茶苦茶だ。現在、ちまたで自分が成仏後の仏号を求めるのが流行っている。このような仏を学ぶ方法は不適当だ。ちょっと考えてみて欲しい。小学校さえも卒業していないのに博士になるのは可能なのか?登地菩薩から十地菩薩にもなっていないのに、仏の果位をどうして理解できるのか?登地菩薩も二地菩薩の果位を理解できないのに、ましてや仏果をどう理解するのか?それに、あなた達の学ぶ仏法は小学校の程度さえもなく、成仏を発願するのは実際的でない。仏を学ぶ事は順に進めていくべきだ。階梯に依り修行する。先ず悪行を止めて善行をおこない、六波羅蜜を修し、慈悲心を育てることから始める。あなたがまだ凡夫地にいる時、仏の願力を理解することはできない。よって経典には、仏の境界は不可思議、凡夫では想像できないと説かれる。

仏を学んでしばらく経つと、自分が経典を理解したと思い込む者もいる。自分が数日修しただけで仏が何を言っているのか分かったと考えてはならない。現在は家の中で自分で学ぶのが流行っていて、自分は何でも知っていると思い込んでしまう。自分で家の中でテレビを見て、経典を読むだけで修することができると思っているのか。釈迦牟尼仏でさえ何度も転生してこそ成仏できた。あなた方はなぜ自分が数年修するだけで証果を得られると思うのか?これもまた、チベット仏教が上師の重要性を強調する理由である。仏を学ぶには必ず上師に依止する必要がある。経験のある修行者の監督のもとで仏を学んでこそ、道を誤ったり偏ることがない。しかも、徳を具えた上師に依止しなければならない・尚、徳を具えた上師も、経典に取り上げられているような諸々の条件に符合すべきである。

仏を学び数年しか経っていない者の中には、自分はすでに成就し観音様を見たと思う者もいる。あなた方が真に明心見性を得たのなら、子供を構う必要があるだろうか?一切は因縁、無常であることを理解すべきだ。子供が大きくなったら構う必要はないだろう。一切は彼が自分でなした事だ。なぜ時間を仏法の修行上に使わないで、まだ子供に執着しているのか?

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが皆のために長寿仏を修法するのは余分な寿命を延ばすためではない。衆生は、累世に悪業をつくり、自分の寿命を減らしている。道理から言えば、現在の人類の寿命は70歲だけでないはずだ。人は転生してから、殺生業を始める。両親は子供が生まれる前に、子供に栄養をつけさせるために殺生するので、子供の寿命は減り始める。出生後、身体に栄養を補うために続けて殺生するので、寿命は減る。子供の「満月」(生後一ヶ月のお祝い)ではご馳走するために大量の殺生をおこない、寿命は減る。子供を育てるために、子供の栄養不足を心配して続けて殺生し、寿命は減る。子供が成長して結婚すると人を招待するために殺生し、寿命は減る。あなた方が行なった多くの事は子供のためだと思っているが、実際には殺生業である。却って子供の寿命を減らしている。

もし累世と今世で全く殺生しないなら、他界前に病気になっても苦しみを感じることはない。往生前、もし昏睡状態になり懺悔や念仏ができない場合、あなたの家族がこのような状況に陥ったら、即刻彼のために福徳を累積すべきだ。彼に福徳があってこそ、他界時に助けてくれる修行者が見つかる。浄土宗の中では修行者は他界前に仏の接引が得られ、昏睡せず、散乱しないと言っている。しかし条件は、修行者が一心不乱に念仏することで、しかも、生前に持戒し、十善法を修さなければならない。昏睡は「痴」を代表する。仏法が耳に入らないため畜生道に堕ちるであろう。人の子として、母親に即刻福徳を積ませる助けをせず、ただあちらこちらに聞きにいく。これでは、どうやって母親は仏法の助けを得ることができるのか?

多くの者は因果を信じない。殺生業がどんなに恐ろしいのか分からない。多くの人は殺生しても何事もなく過ごしていると思っている。私たちが今世で得るものは累世でなしたものだ。今世でなしたものは未来世で受け取る。個人の福徳は異なる。今世で財産があるのは過去世で布施をしたからだ。しかし、あなた方も知っている通り、人は50歲を過ぎると、身体は坂を下り始める。全身病気だらけ。これは累世と今世での殺生業による。道理から言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは今年で既に66歲。体力がこんなにいいはずはない。木曜日みんなの為に施身法を修法し、土曜日信者に謁見し、本日日曜日は長寿仏を修する。こんな年なら一般人ではこんな体力はない。若者さえも耐えられないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがこうできるのは、密教を修して成就を得た所以である。しかも重要な事は、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学び始めた最初から自分を改めようとし、完全に上師と仏の教えを聞き入れて修し、階梯に基づいて仏を学んだので、今世で成就を得ることができたのだ。また、仏の教えをそのまま行なったのなら確実に業力を転じることができ、状況を変えられることを我々に見せた。

如法の修行こそが功徳を累積し、自分の業力を転じることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、仏法修習時には教えに従って行動してこそ、自分の寿命を延ばし、仏道修行をする十分な時間を持つことができる。仏菩薩は、修行者の仏を学ぶ際の障礙を減らしてくれるよう助け、延命する。だが、延命は、修行者がさらに多くの時間を仏法の修習に費やし、衆生を利益することができるようにするものだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが80、90歳まで生きて、息子が生んだ孫や娘の結婚を見るためではない。これはリンチェンドルジェ・リンポチェには関係のないことだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは子女が縁結びのためだけに来たことを知っている。彼らがいつ結婚するかは全て彼ら個人の気持ち次第である。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らのことを決めない。子女は結婚したら家から引っ越す。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェが子女との縁を続けたくないからだ。あなた方のように、子女が結婚した後も監視が便利なように近くに住まわせるのとは違う。あなた方年寄りは、一日中息子と嫁を監視してはいけない。見すぎると問題が起こる。

あなた方が仏道修行で成就したら、家族の状況は自然に良い方へ転じる。求めようとしなくてもよい。経典には「一人が道を得たら、九族が生天する」と説かれている。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の母親を例に挙げた。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親は若い時に重い殺生業をなし、いつも転んでいた。だが、ちょうど仏法を修する息子を生み、息子が修した福徳のお蔭で、現在は既に88歲であるが元気にしている。もし家族に昏睡状態の家族がいたら、それは自分の問題だ。自分の修する福徳が彼らを庇護できないことを懺悔しなければならない。

あなた方はまだ懺悔する固い決意をしていない。三宝に対して恭敬心が起きず、因果を信じない。人生の数十年はあっという間に過ぎる。あなた方は一日一日をこのようにいい加減に過ごし、悪業をつくり続けて寿命は減少する。あなた方が今世で仏道修行をし生死から解脱するための時間は足りない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達のために長寿仏を修する。これは、あなたの寿命を延ばすためではなく、元々あなたに属していたが悪業によって減ってしまった寿命を補うためだ。増えた寿命はあなた方に享受させるためのものではない。あなたに修行できる十分な時間を持たせるものだ。

法本には、長寿仏を修すると、あなた方を非時に死なせないようにすることができるとある。リンチェンドルジェ・リンポチェは、先週の法会の中でプルパ金剛を修法した時、年、月、日、時の「沖」について説かれたことがある。もし押し流されたら(沖倒)往ってしまう。リンチェンドルジェ・リンポチェは脳溢血で昏睡状態になった弟子を救おうした。彼は正に押し流された。その弟子は、発病する時まだ寿縁があったが、「年沖」に出くわした。昏睡状態にある時にリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に降りて来るよう言ったのが聞こえたので降りてきた。その時はすでに死亡過程に入っていて、もし言うことを聞かずに降りてこなかったなら、彼は本当に往っていた。彼は通常撮影を好み、何も考えずにリンチェンドルジェ・リンポチェの隣にくっついて写真撮影を手伝っていた。よく叱られていたが、叱られるのに慣れてしまっていた。彼が発病し昏睡状態にある時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に「降りてこい」と言った。彼は言う事を聞いてすぐに降りてきたので一命を取り留めた。チベット仏教は上師に依止し、言う事を聞くことを強調する。もしその時、その男性弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの声を聞いて、何らかの想念を起こし疑問を持ち、ちょっと止まって、なぜ私を呼ぶのか?等と考えでもしたら、救うことはできなかった。ここから、通常上師の言う事を聞くことが非常に重要であることが分かる。他界する時、あなた達の怨親者が親戚や友人に化身して、あなたを連れて行くためにやって来る。もしあなた達がついて行ったら三悪道に堕ちてしまう。しかし、怨親者はあなたの親友になることができても、仏菩薩及び上師の姿になることはできない。生きている時に、なぜ言う事を聞く習慣を身に付けなければならないのか、それは生死の大事の時に使えるものだ。

上師の伝法時、清らかな心で受け取らなければならない。上師の果位がどうであれ、出家者か在家者にかかわらず、上師が伝法する時は、清らかな心で伝法するとあなた方に利益がある。教法にかなった修行をされる上師は名聞利養のためでなく、法会を開いてお金を儲けようとしない。修行者が教法にかなう行動し福徳が十分なら、口実を設けてお金を集める必要はない。法会は自然に執り行われる。仏菩薩と護法眷属の護持が得られるからだ。寶吉祥仏法センターについて言えば、今迄、功徳主や光明灯の供養者を設けたことはなく、あなた達が護持する道場もちょうどよく支出されていて、余りはない。寶吉祥仏法センターは毎年二回の大法会を開く。会員のみによってこの二つの大法会の費用は護持され、専用の口座を設け、その他の名目でのお金を受け取らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなた方を法会に参加させ、入場料を全く受け取らない。今日の長寿仏法会には1300人が参加されているが、一人5000元取ったら650万だ。だが、今日来た時に入場料を取った人はいないだろう?全くいない!だから、一人の上師の伝法は名利のためではない。あなた方がこのような懐疑心を起こすなら、懺悔しなければならない。自分が傲慢だから、このような悪念を起こし、直ぐに仏を学ぶ障礙となる。

法本に書かれているとおり、長寿仏を修すると、地、風、水、火四大元素を補う助けとなる。地、風、水、火の調和を失った時、病気になる。仏が說かれるのは全て宇宙の真理である。伝授は全て衆生の苦しみを見たから説かれたものだ。どんな事をしても適当なところでやめなければならない。修行も同様だ。仏は苦行は一切の苦しみから離れる方法ではないと感じた。よって、6年間苦行した場所を去り、羊飼いの女性が捧げた山羊のお乳をを飲み体力を取り戻した。その後、仏果を証する。仏を学ぶ者は修行に精進しなければならない。だが、必死に修行するのではない。上師の話を聞いて、順番に一歩一歩進めるべきだ。自分の因縁に従って尽力する。福徳がないなら無理しなくてよい。人であるからには人の方式で生活しなければならない。思ったらできるのではない。因縁が熟していないなら無理に求めなくてもよい。仏果を証することを求めると、簡単に何か悪い状況が起こる者もいる。

2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェツァン法王の指示に従って、ネパールに位置する4000メートル余りの高さのラキ雪山で閉関修行をした。直貢チェツァン法王は3~4年の準備をしてリンチェンドルジェ・リンポチェに閉関させた。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを観察し続け、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの閉関をする資格があるかどうかを見ていた。また、因縁がすべて揃い、自然に熟すのを待っていた。身体の中の地、風、水、火の四つのバランスがとれれば、煩悩は自然に減り、身体も健康になる。リンチェンドルジェ・リンポチェが実際に見たことであるが、テンジン・ニマ・リンポチェの一人の弟子は、禅の修行によって既に飲食が不用である。だが、彼には呼吸が必要だ。物を食べない境地まで修したが、少なくとも必ず呼吸しなければならない。欲望を持つのは人の本能だが、適度なところで止めるべきだ。これらの必要性は、業報身に衆生を利益する効用を起こさせるためだけにあるので、縁に随うべきだ。攀縁ではいけない。

もしあなた方に福徳があるなら自然に手に入る。福徳がないなら強く求める必要はない。自分の能力の範囲内でするべき事をする。他人に家があるからと、自分には明らかに能力がないのに、伴侶に他人と同じように家を買うよう要求する。リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた方が家を買うことを反対しているのではない。だが、十分な能力がないなら賃貸でも日々を送れないわけではないのに、頑なに家を買おうとするので、自然に多くの後遺症が出る。仏法と漢方に同じ言い方があるが、いつもいろいろと思い巡らし、貪欲の強い人は「水大」が弱い。漢方の言う「腎水少」であり、内分泌失調、「腎虧(腎臓を傷める)」を引き起こし身体の具体を悪くする。怒りっぽい人、瞋欲の強い人は「火大」が強い。火大が旺盛で水大が弱いと風大も弱くなり、心臟に影響が出やすくなる。

一日中、八卦の番組を見てはいけない。見ながら自分の伴侶を罵る。本来するはずのない事をいつも怒っていたら実現してしまう。このような事をする人は認知証になる可能性もある。こんなテレビ番組を製作するのは視聴率のためだ。自分が番組の主人公になってはいけない。女性はすべて可愛そうで男性はいい加減だと思ってはならない。反対の場合もある。現代社会の中で男女の役割は変化している。リンチェンドルジェ・リンポチェの女性弟子の中に旦那を殴る者がいた。しかも激しく殴る。彼女の旦那はかなり地位のある人だった。各人の因縁は異なる。誰が正しく誰に非があるかを直接判断するのは難しい。テレビに催眠術をかけられないようにしなさい。

仏を学ぶ人の四大は比較的調和されている。仏が教える一切の戒律もまたこのためにある。怒りっぽい人は恐らく火地獄に堕ちる。いつも他人を怒り恨んでいる人の胸元は、火の如く燃えている。すでに火や熱に慣れているから、火地獄に堕ちる因をつくっている。貪欲の特に強い人は、恐らく寒冷地獄に堕ちるだろう。あなた方が好きな物を見た時、深く一口息を吸うだろう。空気は比較的冷たい。深呼吸すると肺に入る。それが寒冷地獄に堕ちる象徵だ。頑なに旦那にどうにかして家を買わせようとしている者は、寒冷地獄に堕ちるかもしれない。家を買った後に負債を負うことを何故考えないのだ?

家があるから安全感があると思ってはならない。実のところ、家はあなたのものではない。信じないなら、半年間、家のローンを払わずにいてごらん。その家はあなたのものか?家は政府と銀行があなた方に貸し、あなた方はそこに住んでるだけだ。家を持とうという考えを持つ人がいるから、銀行は職員を雇う必要がある。家の奴隷になってはいけない。家を買う能力があるなら勿論結構なことだ。だが、能力がないのに、他人が持っているからといって欲しがってはならない。深く考えなさい。仏を学ぶ者は何もできない、何も要らないのではない。執着してはいけない。因縁の生滅にしたがって一切が無常であることを知る。貪欲ではいけない。あなた方はきれいな不動心を見ることはできない。しかし、占有しようとしてはならない。鑑賞する角度でみて、もしそれがあなたの物なら、天の果て地の果でもあなたを探し出す。もしあなたの物でないなら、自分の近くで強く求めても、いつも何か悪い事が起こる。

あなた方は本日、長寿仏の法会に参加した。今世で長寿仏と結縁したので、将来、浄土での果位は比較的高くなる。だが、守戒は必要だ。一切の悪を断ち切り、一切の善行を行ってこそ役立つ。一切の法は空性、因縁生、因縁滅である。法を修しおえた修行者は、心に留めない。仏法はすごい、必ず役立つと考え、法会が終わったら横行闊歩してしまうようではならない。長寿仏の修法は、あなた方が悪業のために減ってしまった本来得られる寿命を、ほんの少し補うためのものだ。もう一度注意するが、あなた方に寿命をあげるのは、享受のため、日々を平穏に暮らさせるためではない。仏法の修習のための十分な時間をあげるためだ。だから、あなた方が修行をしたら別の話だが、今日の法会に参加したからといって200歲まで生きられると考えてはいけない。

本日長寿仏の法会に参加した信者で、リンチェンドルジェ・リンポチェの説法を聴いた後、御正月にまだ肉を食べるなら、明らかなのに悪業を犯すことになり罪は更に重くなる。試しに考えてみなさい。泥棒は捕まったら罰を受けるが、もし警察が泥棒になったら必ずその罰は重くなる。それは道理が明らかなのに犯したからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する時は心を清らかにして、自分だけの事を考えてはならない。心を開けば仏法の助けを得ることができる。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが発明したのではない。仏を学ぶ際は清らかな心で受け取ってこそ役立つ。

続いて、マンダラを捧げて供養する儀軌が行なわれた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう説かれた。顕教にはマンダラを捧げて供養する儀軌はないが、チベット仏教では、法会の前にこの供養をおこなう。なぜ行なうのか?それは、衆生の福徳が十分でないのを憂慮するからだ。主催の上師は、十方三世一切諸仏を代表して衆生の供養を受け取る。すべての最もよいものを須弥山、四大部洲の諸々の仏菩薩に供養する。供養後初めて衆生に福徳ができ、この密法を得られる。さもなくば、衆生の福徳が不足し、修法の助けを得られない。修法時、主催の上師は法帽を被らなければならない。主催の上師が諸仏菩薩、相承祖師を代表して衆生の供養を受ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェは長寿仏の修法を始めた。しばらく修法した後、説法された。さきほどの修法の内容の一部は言うことができない。なぜならそれは密法だからだ。後半は、法会の進行を妨げさせないように、外にいるあなた方には見ることができない、法会に参加できない衆生に供養した。供養が終わると、如来仏、護法、及び眷属を勧請し、歓喜心を起こさせた。供養の意義はお金の量には関係ない。仏菩薩は何でも持っているので私たちの供養を必要としない。衆生が福徳を積むのを助けるために衆生の供養を受け取る。仏菩薩は慈悲深く、衆生の福徳が少ないのを知り、衆生に供養する機会を与え、衆生に福徳を得させる。諸仏菩薩に供養する福徳は非常に大きい。私たちが仏を学ぶのを妨げる一切の逆縁を滅することができる。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは一定時間の修法をした後、皆をリードして長寿仏の真言をしばらく唱えた。その後、薈供の儀軌をおこない、出席者は因縁と福徳により、上師及び諸仏菩薩と共に供養物を享受する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは説法を続ける。法本上に説かれて通り、長寿仏を修すると一切の障碍と逆縁を滅することができ、非時に死ぬことはなく、八大災難を避けることができる。16種の災難から離れ、悪因と逆縁はなくなり、寿命を延ばし富を増長する。一切は仏果を成就するために、仏法の全ての障碍が取り除かれることを願う。長寿仏を修すると災難から離れられるが、それはあなた方に享受させるためではなく、あなた方の仏を学ぶ上での障礙を取り除くためにある。悪因がなければあなた方に悪因をつくらせる機会はない。悪因はあなたに薬物を使用させたり、悪事をなす友人を指すのではない。それらはやはり注意して防がなくてはならない。だが、怖いのは、一見自分にいいように見え、最初は何でもあなたの思い通りにするが、しばらく経ったら、仏を学ぶ際はそんなに厳しくなくてよいからと、ゆっくり学ぶことを勧め、来世でまた修行することができる等容易に怠けさせる言葉を言う人だ。よって、悪因とは、私たちを輪迴から離れなくする一切である。

仏を学ぶには自分の決意が必要だ。さもなくば仏が私たちのために防いでくれても、あなたは突進してそれを抱きかかえ放さない。いわゆる人間仏法などはない。世間には来世も再びやってきて某団体のメンバーになるという言い方があるが、他界したらすぐに生まれ変われるとは限らない。因縁が未定であるし、数百年を隔てて再来しても、その団体は恐らく存在しないだろう。あなたは誰を探すのか?しかも、もし今世で菩薩の果位を修しないなら生死からの解脱はできない。来世に再び来ても、それは業に乗じて来るのであって、願に乗じてくるはずはない。必ず業力によって牽引される。菩薩の境地さえも証していないのなら、成仏したいと言う必要はない。少なくとも浄土に往生して修行することを発願すべきだ。輪迴の苦海で待たなくてもよい。輪迴を離れないなら、ずっと業力の影響を受ける。阿弥陀仏が後期に浄土宗を紹介されたのは、衆生を助けるためである。少なくとも浄土への往生を先に発願して修行を続ける。実際的でない願を発してはならない。或いは来世に某寺院の住職になるという発願をしてはならない。なぜなら、転生の門を選び間違えたら、来世は住職の座布団の中の一匹の虫として生まれてしまうかもしれないからだ。だから、自分でおかしな願をいい加減に発してはならない。浄土への往生を発願すればよい。これもまた、釈迦牟尼仏が阿弥陀仏を紹介した理由である。

あなた方は仏を学ぶのは何のためかをはっきりさせなければならない。悪い事をしなければ仏道修行なのか。仏を学ぶと自然に善と悪を識別する能力が生まれる。どの経典にも生死からの解脱が説かれている。また、あなた方が今世でなしたことによって次の世が決定される事も説かれている。

私たちは台湾に住んでいる。悪の因に接触する機会は沢山あるが、自分で選択して、それをしない事も可能だ。貪欲が起きたら悪も生じる。まるで多くの人が好んで行く食べ放題のレストランのようなものだ。吐くまで食べる。こんなことをしたら餓鬼道に堕ちるだろう。自分が食べきれないのは明らかなのに、トイレに行って吐いて吐き終わったらまた続けて食べる者もいる。レストランが準備する食材もコストだ。無理やり食べ、吐くまで食べるのは貪欲だ。恐らく餓鬼道に堕ちるであろう。

長寿仏はなぜあなた方の富を増やすのか?あなたに家を買わせるためではない。あなたの生活を安定させるためではない。仏を学ぶには資糧が必要だ。法会に参加する時に100元、1000元、10000万投げることが供養だと思ってはならない。供養は金額ではない。あなたが一切を捨て去る決意をすることこそが供養だ。あなた方は法会に参加したらお金が儲かり、お金ができたら家を買おうと思ってはならない。このような心の有り様はよくない。法本には修法の諸々の利益が説かれている。福徳を累積することは未来の成仏果のためである。また、法本には、我々が悪を断ち善を行なえるよう仏菩薩の加持を祈り、尚且つ離れないで加持して戴くよう本尊に祈る事が説かれている。主催の上師は衆生を代表して、如来を本尊として皆が成仏するまで加持を授けて下さるよう祈る。これらはちょっと仏菩薩に対して図々しい事だ。仏果を証するまで、仏菩薩にずっと衆生の本尊でいてくれるよう、皆の仏を学ぶ際の障礙を取り除いてくれるよう祈るのだから。

修法の過程で、リンチェンドルジェ・リンポチェは頭に法帽を被り、手に五色旗を持ち会場の皆に加持を授けた。並びに、先に修したのは皆に欠けている地、風、水、火の四大元素であり、修行者は自分への加持を通して、本尊と修行者自身の功徳を法会に参加している信者に分け与えると説かれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、自らリードをとり法本中の回向文を念誦し、並びに、皆に説法した。一切の法本中に説かれる回向は、特定の対象に回向することは書かれておらず、回向の功徳で自分と衆生が未来において成仏できるよう願う。世間では大悲咒を沢山唱えて、旦那の想念を変えさせ仏を学ぶ際の障碍とならないよう祈ったり、これによって第三者を離れさせる事を祈るのが流行しているようだが、あなた方は、外道に習ってこんな事を絶対にしないように。大悲咒を唱えるのは特定の対象に回向するためではない。大悲咒は仏の真言である。仏はあなたを法会に参加させるために旦那を怒らせることはない。仏は慈悲深い。どんな仏号も他人の為にまじなうものではなく、自分の為に呪うものだ。自分の無明が消失するよう、まじなう。私たちは無明のために衆生を傷つけた。自分がしっかり修行をして改められるよう、まじなう。他人が自分の基準を達成するよう要求するものではない。いわゆる怨親者はすべて自分の家族だ。ある人が仏を学ぶあなたを邪魔するなら、それは、以前あなたが他人の仏道修行を邪魔したことがあるから、今、人に邪魔されるのだ。懺悔しなければならない。真言を唱えて自分の旦那、子供に回向する必要はない。量が大きければ福も大きくなる。自分、家族、台湾、地球だけに回向しないで、虚空すべてを含みなさい。

多くの人は不順な事に出遭うと、あちこち祈りに行ったり参拝したりして、物事がいい方に転じるか消失することを願う。仏こそが円満であり、如何なる欠点もない。仏なら別であるが、あなた方は物事がすぐに変化するよう願うべきではない。福徳は円形のようなもので、ある部分が余分にあるなら、必ずある部分は減少する。あなたが求めたなら何でも得られるという事はない。あなたが祈ったことで、ある事が解決したとしても、また別の事が発生する可能性もある。どれも円満なら既に成仏したことになる。菩薩の果位を証していないなら今世で享受できる福は自然と固定される。あなた方がリンチェンドルジェ・リンポチェのように成就して衆生を利益できるなら、今世での福は増長されるが…。

本日修する長寿仏は、衆生が速やかに仏果を証することができるよう助けるものだ。並びに、その他の衆生に回向し、その他の衆生も仏果を得る因縁を持ち、寿命を延ばし、衆生が世間での悪業のために失った寿命を少し補うことができる。また、十分な仏道修行の時間を持ち、生死輪廻から解脱する。一般に言われる「劫財」「劫寿」は、鬼神に求めるか仏法を利用しての金儲けを含み、全て寿命が減少する。例えば仏が語らなかった事であるが、仏が語ったとものと偽って、他人によってあなたの欲望を満足させる。これは、あなたの寿命を減少させる。

『宝積経』に説かれている通り、仏法を弘揚する身である者あるいは仏弟子は、名利のために信者に媚びへつらったり、仏法の教えを曲げてはならない。これは全て仏への誹謗である。リンチェンドルジェ・リンポチェは因縁を信じる。リンチェンドルジェ・リンポチェの縁を信じ、衆生の縁を信じ、仏の縁を信じる。あなた方に媚びへつらうことはない。全て上師及び仏菩薩の教えに基づいて行なう。あなた方がもし他人の媚びを望むなら、他のところへ行ってよい。あなた方が行けば彼らは喜ぶ。あなたに菜食を要求しない。寶吉祥仏法センターで厳しい教えを受けなくてもよい。このように言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェがどんなに厳しくしても、あなた方を追い出すことはできない。追い出してもやはりこんなに沢山いる。あなた方がもし仏法の教えを聴く修行をせず、説法を聴いた後の御正月もやはり肉食するなら、二度と来なくていい。いわゆる「自利利他」は、自分が修行して成仏した後に、将来において衆生をも成仏させる手助けをする機会を持つことを願うことである。仏を学ぶ者は、成仏のために成仏するのではなく、衆生の成仏を助けるために自分が先に成仏するのである。

前回の法会の中で、リンチェンドルジェ・リンポチェは、宇宙間のいかなる変動も地球に影響を与えることを説いた。例えば、太陽には太陽嵐があり地球に影響を与える。月が近づきすぎると潮汐が変化し、仏国土の激動が大きくなる。それぞれの仏国土には衆生がいて、地球だけに衆生がいるのではない。宇宙間のいかなる変化も地球に生きる私たちに影響を及ぼす。これらは目に見えない事であるが、すべて我々に影響する。現在医学で証明されている通り、私たちの胃腸内には多くの善玉菌と悪玉菌がある。お腹の中の菌も衆生だ。あなたの想念が善である時、悪玉菌も善玉菌に変わる。彼らがよければ、自然にあなたも良くなる。すべては自分の想念でつくられる。もし悪念が起きれば、善玉菌も悪玉菌に変わる。

今日、あなた方は因縁が熟して密法の法会に参加した。これは累世の福徳だ。あなた方は悪業を止め善業をなす決意をしなければならない。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆のためにこの法を修したのは、あなた方が今世の悪業のために寿命が不足し、非時の死を遂げることを憂慮したからだ。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの法を修し始めた1997年から今迄、弟子の中に不慮の死を遂げた者はいない。病気で他界するのは仕方ないが、この法は本当に衆生を利益することは分かるが、改める決意をしなければならない。

釋迦牟尼仏は密法を伝えなかったと考えてはならない。顕教の中に実は密法がある。経典の中には密法が説かれている。例えば「十小咒」である。問訊と定印は実は密法である。かつて弘法に接触したことのある人に、その中の意味を聞いてみるといい。彼らが知っているかどうか分からないが。あなた方は問訊の手の形と手を置く位置を知っている。なぜ口でなく眉間を指すのか?座禅を組んだ時、印を結んだ手を置く位置はなぜ心臓の位置ではなくおへその下なのか?手が疲れるからか?勿論違う。これも密法と関係がある。密法を修していないなら知ることはない。顕教の部分だけ公で話そう。顕教は道理だ。共通の法である。密法は不共(共通でない法)だ。その境地に達していないなら、聴いても分からない。小学生が博士の研究內容を知りたがるのと同じだ。理解不可能である。密法は神秘的でなく、公開不可なのでもない。レベルが至らないのだ。

経典に説かれている「浄土十六観」は、釈迦牟尼仏がその叔母に伝えたもので、これは密法である。浄土十六観の伝承は絶たれている。釈迦牟尼仏がその叔母に伝えたが、釈尊の叔母は浄土十六観を伝えなかった。それ故、浄土宗は現在ただ各観の名称のみあるが、経典には如何に観じるかは説かれていない。なぜかと言えば、それは密法だからだ。密法は公の場で語らない。上師の口伝で弟子に代代伝えられ、仏典の中には書かれない。観想の多くの部分は法本の中にさえ記載されていない。太陽を観じることは、目で太陽、月を見ることだと思うなら、目がつぶれなければおかしい。実は仏典の中には、ほんのわずかな手がかりにも皆、密法が説かれている。いずれの法も全て成仏し衆生利益するためである。一人の如法の上師がおこなう如何なる事も衆生利益のためである。自身の労苦を顧みず修法を続ける。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは仏法の教えを会場の出席者に諄諄と説いて聞かせた。出席者が加持を必要とするのを深く知り、広大な慈悲により皆の願いを満たし、1300余名の出席者一人一人を壇城にあがらせ、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受け、寿球と寿酒(果汁を代替とした物)を受け取るよう指示した。加持を授ける過程において、リンチェンドルジェ・リンポチェは出席者をリードして長寿仏の真言を唱え、35分間もの長い間鈴を揺らし続けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは真言を止めることなく唱え続けた。労苦を厭わず、全身全霊で全ての法会に参加した信者及び弟子に加持を授けられた。深く、広く、澄み切った慈悲の眼差しで衆生の苦しみを憐れみ、修行の功徳と福徳を自身に全く残さなかった。会場の人達は内心深く感動し、一斉に声を合わせてリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

法会は円満に終了し、全ての出席者は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲の修法により一切有情衆生が利益された事を感謝した。そして、起立、合掌し、法座から下りられた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを恭敬心を込めて御見送りした。

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2013 年 03 月 27 日 更新