尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2013年1月31日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターに於いて升座され、殊勝な施身法法會を主法され、参加者に珍貴な仏法を開示された。

本日修める施身法は、一種の「斷」の法門で、輪廻の煩悩を一切 断ずる事を指す。人は煩悩が起きなければ、永久不変の快楽を保持できるが、人は自分で煩悩を製造し、甚だしきに至っては煩悩を創造するのである。執着すれば煩悩が生まれ、執着することで業力(善業には善果を、悪業には悪果を生じる力)が生じ、誰が良くしてくれるとか、誰が良くないとか、良い暮らしをしたいとか、テストで良い点を取りたいとか、給料が良い仕事につきたいとか、これらは全て執着なのである。執着すれば悪事を働き、一歩進めば、人を傷つける事になり、また自分も傷つく。如何すれば、煩悩を断つことができるのか?それは智慧と慈悲である。

施身法この法門は,一千年余り前に、チベットの大修行者で大成就者である在家者の女瑜伽士マジラ尊者によって創られた。尊者は幼少より聡明で,年少時から《大般若経》を念じていた。《大般若經》は大蔵経の三分の一以上を占め,釈迦牟尼仏が20年の年月をかけ《大般若經》を開示したのである。「般若」は梵語で;以前 古代仏教翻訳の上師は,三種の状況に遭遇すると、翻訳を避けた。例えば:一つの語が何種類もの意味がある場合や、名詞や、般若のように含まれている意味が大変広く,決して「智慧」で解釈できるわけではないので翻訳を避けた。「般若」は、宇宙の一切の真理を代表するもので、仏法のいわれ、仏教を学ぶ方向を教えてくれるものである。人は菜食を摂り、供養をする事が仏教だと思っているが、それは縁結びでしかなく、仏教を学ぶ目的は、生死から解脱することにある。

「般若」は、空性とも解釈できる。「空」は仏教名詞で、存在しないのではなく、空っぽと言うことでもない。釈迦牟尼仏が大智慧を通して、宇宙間のすべての物事が、実体があるのではなく、縁があり生じ、縁により滅し、空性であり、全ての物事は、必ず変化するものであり、永久不変ではないことを見届けた。凡人はなぜ苦しむのか?それは、いつも良い事は変化しないように、良くない事はすぐに転化するようにと望むからである。実は良い、悪いはすべてあなたがたの執着心であり、全ては因緣生滅法である。良いことの発生は、よくない事の始まりであり、逆もその通りである。人類は人生のごく短い数十年、自分が占有できることが快楽で、世界は永久不変だと思い、いつもこのような快楽を求めているが、実は全ては無常であり、常に変化しているのである。

今科学は極めて発達しているが、ただ宇宙の始まりの過程を、大まかに推測できるだけであって、誰かが創造したのではなく、多くの原因が影響していることが分かっただけである。科学者は器具を通して、人類、地球のすべての物事が発生後、全て宇宙間にエネルギーを留めていることも分かっている。正如佛經によると、任意の動作の動機には力が発生するが、これが業力(善業には善果を、悪業には悪果を生じる力)である。

仏教上、業力は善業、惡業と無記に分かれる事に触れている。例えば:呼吸は無記である。我々には呼吸は必要であるため、自然に発生し、業力はない。;しかし、食べる事は、常に業力が発生するのである。若し殺生をして肉を食べると、必然的に病弱になり、死に際に苦しみ、死後地獄に落ちる可能性がある。仏の語ることは真実で、実際に起こることであり、あなたがたに仏教を信じさせるために、驚かしたり、脅かす方法で言っているわけではないのである。しかし、人は懐疑心が有り、仏教は利益を与えてくれるとは信じないので、台北寶吉祥仏法センターの規則も特別厳格にし、あなたがたが若し法会に参加したければ、生涯ベジタリアンを守らなければならないのである。

ボランティアをしたり、寄付をすることが発心だと思っていはいけない。発心とは、菩提心(ぼだいしん)を起こすことを指すのであり、慈悲心を修行しなければ、菩提心が起きるはずがない。慈悲心は、非常に肥沃な土地のようなもので、慈悲心が無ければ菩提樹を養えないのである。慈悲心があれば、自然と人を傷つける事が無くなり、それで菩提心が起き、人に利益を与えるのである。故人を思い浮かべるだけで済度できると思うべきではない。あなたがたが故人を代表して法会に参加する時、膝まずいて泣けば、故人を良い方向に転化できるのではなく、発心が無ければ、故人は善知識の助けを得る因縁は得られないのである。

《阿弥陀経》に、極楽浄土に生まれ変わるには、福徳の因縁を備えた善男、善女でなければならないと記載されている。ここで言う “善”とは、極楽浄土に生まれ変わるためには、十善法【十悪を犯さない事(十悪[殺生、盗み、邪淫、偽り、人の中を裂く二枚舌、汚いののしりの言葉、染心から発する言葉、貪欲、瞋恚、邪見]】を修める必要があることを指しており、殺生をすれば、十善法を修めることはできないのである。あなたがたは、金銭で誦経団を雇い、死者の傍で誦経をすれば済度でき、死者の表情が穏やかになったことで、死者が既に済度できたと思うべきではないのである。実際に、死者の傍で仏号を念じれば、死者はそれを聞いて、いくらか落ち着くが、しかしこれは済度と同等なわけではない。死者の家族、特に一番良いのは死者の子供であるが、死者の福報を積み、業力を転化し、修行者の助けを得て、死者を三悪道【悪業の結果、人が堕(お)ちていく三つの悪道。地獄・餓鬼・畜生】の苦しみから離れさせることができる。一般的に、リンチェンドルジェ・リンポチェが、ポワ法で死者を済度すれば、長時間氷で保管していたにも関わらず、死者の身体は軟らかく、表情は笑みを浮かべている。それは既に苦しみから逃れられたからなのである。

あなたがたの心は非常に狭く、仏法に対し信心が無く、因果関係を信じず、仏の真理を受け入れない。ただ人に助けを要求し、自己の心は閉じたままで、懺悔の気持ちもまったく無いのである。《地藏経》では、死者の済度をしたい家族は、広く仏事をする必要が有ると触れている。これはあなたがたが、いたるところでいろんな法会に参加す事を言っているのではなく、「広」は数多くする事を指すのではないのである。仏教翻訳の上師は、既に「多」の字を翻訳時に使っているので、翻訳の間違いでも無い。あなたがたは、仏経を読むときに、どうも自分の考え方で推測する傾向がある。

広く仏事を行うと言うことは、心を広く持つ事を指し、仏の教えを聞き入れることであり、仏事とは仏の事業を指し、――衆生が生死から解脱する助けをすることである。両親が病気になれば、医者に連れて行き、手術だと言えば手術をし、気管切開だと言えば気管切開をし、医者の言う通り何でも聞けば、自分は既に孝行を尽くしたとは思うべきではないのである。なぜ家族が死に際に苦しむのか?あなたがたは、ただ医者に委ね、医者の言いなりになり、お金を出して手術をするが、善行を施す事はまったく考えていない。毎月500,1000元一部の機関に寄付したからと言って、善行を施していると思うべきではないのである。真の善行をしたければ、医者に診てもらうお金がない人、勉強するお金がない人がいると聞けば、金額の多少に関わらず、自分の能力の限りを尽くし、自ら出向いて相手に手渡し、何の見返りも要求せず、却って善行のチャンスができたと相手に感謝するのだ。お金があれば善事ができると思うべきではなく、お金を手にし、病院に行くお金がない人を助けたいと思っても、みつけられない人もいるのである。

累世と今生で、殺生をせず肉を食べない人は、絶対 気管切開、挿管、手術の必要はない。自分の父母は良い人間だから、これらの苦しみに遭うことは無いと思っている。良い人間で無い父母はいない。あなたを生んだことは、つまり良い人間なのであるが、肉を食べただけで悪事を働いたことになるのである。仏は、一切の有情衆生は、前世から縁があり、過去のどの世にでも父母がいる。顕教曰く七世父母【過去七世の父母】であり、過去に百世あれば百組の父母がいて、この二百人の衆生は我々と縁がある。まず善緣か悪緣であるかは別として、若し肉食の場合、不注意で前世の父母を食べると、地獄に落ちる事になる。さらには、いかなる有情【感情や意識など、心の動きを有するもの。人間・鳥獣など】衆生も、成仏の条件を備えていて、若しひとつ衆生を食べれば、未来の仏を一人食べた事になり、地獄に落ちる事になるだろう。

広く仏事を行うこととは、仏教の教えの中の、人がなすべき行いをすることで、仏陀の説く十善法をなすことであり、十善法の第一条がつまり殺生をしないことである。しかし肉をたべると殺生になり、十善法ができない。本来 死者は善知識【仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる善き指導者】の済度を受けた後、三悪道【悪業の結果、人が堕(お)ちていく三つの悪道。地獄・餓鬼・畜生】を離れ、人道に行くチャンスができる。しかし、彼らの家族が俗世間でしたことは、全て彼らに影響する。死んでも遺伝子の継続で遺伝するので、子孫に影響を及ぼすのである。:相対的に、若しこれらの衆生の家族が悪事を働けば、彼らが人道に行けたとしても、良い暮らしはできないのである。

仏経で触れているのは、死者の済度の助けを求める家族が広く仏事を行えば、累積された功徳のうち、死者が七分の一を得、遺族は七分の六を得られる。これには、まったくお金がかからず、供養の金額とは関係なく、言われたことを聞くだけで良いのである。殺生をして肉を食べれば、死に際に苦痛が無いはずが無い。嘗て父母が他界する前、集中治療室での苦痛を見たことがあるだろう。集中治療室の人間は、まるで刻まれる動物のようで、全身裸にされ、尊厳などまったく存在せず、挿管だと言えばすぐ挿管され、気管切開だと言えばすぐ気管切開され、人間でありながら人間ではなく、まるで籠の中の動物である。気管切開とはどういう意味なのか?気管のところから下に切り進むので、今生では二度と仏を念じることができないことで、三悪道を離れることができないのである。これらの事は自分の身の上に起こるはずないと思うべきではない。若し彼らと同様に苦しみたければ、続けて肉を食べなさい!

あなたがたは法会に来たからといって、自分の責任を果たしたとは思うべきではない。仏法を聞いた後、まだ殺生を止められないのは、分かっていながら罪を犯した事になり、さらに深刻な罪になる。若し、法会に参加せず、無知でした事であれば、なんとか言い逃れができる。:若しはっきりと分かっていながら殺生を止めなければ、上師と仏菩薩はあなたを罰することは無いが、衆生は腹を立てるだろう。これもつまりは施身法法会に参加を求めると、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェが、まず生涯菜食を徹せるかどうか尋ねるわけなのである。法会参加後は菜食の必要がないと思うべきではなく、若し生涯 菜食を徹せない人は、この場から立ち去りなさい。

あなたがたは生涯菜食を徹せるかどうか良く考えなさい。特に旧正月の間、家族はあなたが菜食主義だと分かると、いろいろ批評するだろう。特にあなたのために準備したものだと言い、あなたが肉を食べなければ腹を立てるだろう。まるでベジタリアンは怪物のようで、さらには出家したいのかと疑ったり、あれこれなんでも話すだろう。あなたがたはこのような状況下で菜食ができるかどうか?菜食主義は修行ではなく、個人が選択する飲食習慣だけなのである:実際 正月の時は特に殺生は避けるべきである。広東人の習慣のように、お正月の一日、二日は精進料理を食べ、三日目になってやっと肉を食べ始め、少なくとも一年の中、二日間は精進料理を食べるので、まだ多少ましである。あなたがたのように、旧正月に、肉魚をたくさん食べるわけではないのである。

あなたがたは家族が臨終の時、どんな苦しみを受けたか、落ち着いて良く考えるべきである。彼らは仏法を聞く縁が無く、上師の助言を聞く機会が無かった。だが、あなたがたは、上師と仏菩薩に恭しく頂礼し、つまり供養をし、その上 貴重な福報があり、仏法の教えを受けられるのである。供養さえすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは借りが残らないようにと、必ずあなたがたに仏法を教導するのである。本日 開示した内容は、皆にとって将来必ず助けとなるだろう。

あなたがたは、怨者が離れてくれるように望んでいるが、じつは怨者はあなたがたの恩人である。若しあなたがたが良い暮らしをしていれば、法会に来るはずがないし、苦しみが無ければ、仏教の勉強の大切さがわかるはずがない。2月はリンチェンドルジェ・リンポチェは多忙で、その後引き続き旧正月となるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは、1月31日を選び、法会を開催する。旧正月前 皆に仏法を聞せ、お正月の期間、魚や肉をたくさん食べないよう望むからである。

今年は下痢を引き起こし死亡にいたるノロウイルスや、インフルエンザが大流行した。腸内には有害な細菌が非常に多いので、肉や魚を食べる人は、ベジタリアンに比べてこれらの病気にかかりやすいのである。皆は専門家の話を信じるので、リンチェンドルジェ・リンポチェも会場で、医者である弟子に専門家の立場から説明するよう指示した。この医者の弟子はSARSの期間、一人の患者を治療したことがある。この患者は、アドバイスを聞きいれ菜食になった後、一度病状が好転した。しかし、しばらくして、病状の悪化が発見され、また咳をし始めた。問い尋ねたところ、患者の家族が、また肉や魚の食事を食べさせた事が分かった。腸内細菌は多種類あり、その中で人体に有益な善玉菌は、主に植物から栄養を取得する。例えば植物繊維とマルチオリゴ糖である。もし肉食の場合、これらの善玉菌は栄養を得られず、反対に、人体にとって有害な悪玉菌の成長を促進する。例えば、人体に有害なサルモネラ菌は、主に肉類に多く、肉食の場合、良い菌よりも悪い菌が多くなり、腸内の粘膜に問題が起こりやすくなる。この名医の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示が、正に真実であると報告している。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、時々、仏教界に悲哀を感じる。多くの人々は、自分自身が仏教徒であると認め、因果関係を信じると言いながら、仏法を聴聞後も恐れず肉を食べる。台北のあるキリスト教系の病院は、規定で患者に菜食を提供している。菜食が患者の体に良いことがわかっているからだ。他の宗教でさえ、菜食をすべきだと分かっている。宗教のために、菜食主義だとは言うべきではなく、少なくとも菜食は、体に確かに良いのである。いろいろ理由を付けて菜食は不便だと言うが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、36歳から菜食を始め、出国して三ツ星ミシュランレストラン行っても、精進料理がオーダーできるし、日本でも精進料理が食べられる。何年か前 初めの頃は日本で精進料理を探すのは、多少不便だったが、現在はどんなレストランでも菜食を提供してくれ、非常に便利である。菜食をするべきかどうか、あなたがたが自分で決めることで、時にまったく選択の余地が無い時でも、ラーメンでお腹が膨れるし、水を飲むだけでも過ごせるのである。

現在多くの病気は、肉を食べることから始まっている。一切れの肉でも、その借りを返さなければいけないのである。自分が殺生すれば、自分の命で借りを返さなければいけないとは、敢えて考えたくないだろう。一口肉を食べると、福報が少し減る。;魚を一口食べれば、残りの半分があなたを怒り恨むのだ。どうして現在 離婚率がこんなに高いのだろうか?それは、今 食べ放題のレストランに行く事が流行しているが、2人でこんなにたくさんの衆生を食べているのに、衆生はどうしてあなたがたを一緒にさせておくだろうか?道理で別れるスピードが、こんなにも早いはずである。この外に、もうすぐで旧正月になる。あなたがたはおそらく餃子を食べるだろう。ひき肉が好きな人は、注意すべきである。衆生の神識【精神と意識】は、時に肉に宿っており、挽かれた肉は衆生の痛みを生む。もしあなたの肉が、このように細かく挽かれたことを考えてみるとよい。とても痛いと感じないか?医学上既に証明されているが、肉の中に神経があり、神経は、衆生が死後、すぐ反応しなくなるわけではない。あなたがたは細かく挽き、衆生の肉を咬むが、彼らはそれを感じるのである。そのほか、お祖母さんになる人は、二度と子供にシラス(仔魚)を食べさせないようにすべきである。一茶碗の中には、どれほどの生命がいるのだろうか?

本尊と護法善神がリンチェンドルジェ・リンポチェに力添えしているので、もしあなたがたが相変わらず殺生をし、肉を食べるのなら、台北寶吉祥仏法センターに来てはいけない。ここは祝福を求めるところではなく、修行の場所で、もしアドバイスを聞き入れないのなら、別の場所に行くべきである。現在日本では、150万人がインフルエンザにかかっているが、これはつまり、魚を食べたり、氷を食べたりするのが好きだからである。

本日リンチェンドルジェ・リンポチェが修めるのは施身法である。もし修行者に累世と現世において、善根(さまざまの善を生じるもとになるもの)がなければ、修習できない。一般的に少なくても20年以上修行を重ね、自分自身が成就していなければ、衆生に利益できないのである。それ以外に、施身法を修行するには、必ず顕教の基礎に長けていなければならない。施身法は、煩悩を持つ衆生の全ての煩悩を断ち除去する助けをする。あなたがたの煩悩は、執着から始まり、執着から悪事を働くのである。仏教を学ぶのは、一切の悪を断ち、善行をなすためである。ひとつの善行が、ひとつの悪行を帳消しにできるわけではない。善悪は平行であるが、もし悪を断ち善行をなせば、悪の力は減少し、善の力が増加する。善の因(原因)は力が大きく、悪の(果)結果を抑えることができ、しばし悪果が仏教を学ぶ妨げとならないのである。もしあなたがたのように平日善行をせず、悪行を続ければ、病気になっても救いようが無い。あなたがたは、善が少なく悪が多く、事が起きてから、はじめて後悔するのである。

施身法を修習する行者は、閉関 修行中六字大明呪を、必ず100万回唱え、特殊な四度加行【密教で伝法灌頂を受ける前に、本来の修行の功を増加させるために行なう修行で、十八道法、金剛界法、胎蔵法、護摩法の四つをいう】を行い、ポワ法の修行を成就する必要が有り、その上特定の場所で施身法を修習する必要がある。行者は施身法を修める時、観想と気脈明点を通して衆生に布施する。もし法心(心理の体)を得られたならば、直接手足を切り布施できるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは、まだ人間の身なので、修法中は自身を観想し布施するのである。行者は施身法を修める際、護輪や仏像などの保護物を身に付けてはならない。それは衆生が近づけないからである。;行者は、施身法中 観想を通して、自身を衆生に食べさせる。衆生が行者を食べ甘露化してから、初めて暫時煩悩を止められ、仏法を受け入れるのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、なぜ未来に起こることをはっきり言わないのだろうか?とあなたがたは問うだろう。そうであれば、あなたがたはリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞くだろう。しかし物事は、随時変化していて、不変なものは無い。あなたがたの心が動けば、因縁は変化するだろうし、言う事を聞かなければ、事情もすぐ変わり、定論はないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、絶対脅かしたり、すかしたりして、言うなりにさせるわけではない。それなら、それは仏法ではなく、外道である。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果関係、修行の経験及び個人が経験した人生経験法則を皆に伝え、どんな因(原因)が有ればどんな果(結果)になるか教えているのである。皆は、事実はそうではなく、自分に発生した事は運が悪かっただけだと思って、悪念を懐いたり、批評したり、仏法の開示を拒否したりなど、絶対してはならない。仏法は真実の言葉であり、つまり宇宙の全ての展開の真実の道理であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは、事実を皆に聞かせているだけである。

法会に参加すれば、参加後また殺生をしても関係ないとか、旧正月のご馳走が終ってからまた菜食をすれば良いとか考えるべきではない。嫁になる人は、旧正月に鶏やアヒルを殺してはいけない。たとえ旧正月鶏を殺す手伝いを、姑と約束していても、普段とぼけたり、言い訳ができるのだから、旧正月の期間手をねじって殺生できないと言う振りはできないのか?この種の善意のうそは有益である。あなたがたができるかどうか、あなたが決めることで、菩薩とはなんの関係もないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、皆が法会に参加できる縁を助けてくれただけで、一回か二回また肉を食べても関係ない、食べおわっててから、仏菩薩に休みを取れば良い。仏菩薩は慈悲心があり、許してくれるはずだからなどと思うべきではない。あなたがたは、菩薩に休みをとる必要は無い。あなたがたは菩薩から給料をもらったり、バイトをしているわけではないのだから、こんな休みを取るなどという話は、どこから来ているのか?世間ではこんな言い方が流行しているが、これは仏を中傷したり、うそをつく事になるのである。

もし納得できなくても、仏法はあなたたちを傷つけたりしないのだから、少なくとも批判してはならない。三宝に対して恭敬しない心を起すべきではない。それができないのなら、少なくても批判を口にすべきではないのである。あなたがたが仏法を聞いた後でも、菜食を拒否しても、仏菩薩やリンチェンドルジェ・リンポチェを恐れなくても良い。仏菩薩やリンチェンドルジェ・リンポチェは、腹を立てたりしない。これはあなたがた自分自身の因果関係から来ていることで、仏菩薩が教え導いても、あなたがたが聞き入れないのは、仏菩薩とは関係ないことである。それにリンチェンドルジェ・リンポチェは既に高齢であり、衆生を済度する時間がますます少なくなっているので、あなたがたを叱っている暇が無い。怒っているのは、あなたの祖先とあなたが傷つけた衆生なのである。

マジラ尊者は、在家の女瑜伽士で、尊者の創られた施身法は、千年以上広く伝わり、こんなにも多くの衆生を利益している。尊者は、一人の菩薩に代わるもので、仏法中の男女平等を示した。男性信徒だけでなく、女性信徒も修行できるのである。伝説によると、女性信徒は、五百年多く修行をしなければならないと言われているが、事実はそうではなく、女性信徒が出家するので、正法の時間が五百年少なくなったのである。仏法中では衆生は皆平等で、成仏の条件が整っている。ただ慈悲心を培い、菩提心を発心し、自分の考えを全て放棄し、改め、完全に仏の教えに従えば、今生で修得できるチャンスがある。

現在は末法の時代で、邪見を持った教師が多いのである。自分と接触して法を広める人が、正法を伝授された人かどうか注意する必要がある。もし生死輪廻の解脱方法を教えるのではなければ、つまり仏法と関係なく、たとえ袈裟等を身に着けていても、仏法を教えるとは限らないのである。世間では、禅を広める人が、信者に目を閉じさせ、光を観想するよう教えている。実際に光を見たければ、明かりを点灯すれば光が有り、どんな色でもそろっていて、光を見たい願望があれば、すぐ光が出現する。それに、目を閉じれば、本来光が見えるものである。その場でリンチェンドルジェ・リンポチェは、眼科医の弟子に、この現象を説明するよう指示した。眼科医の弟子はその通りであると答えた。長い間 目を閉じると眼球が圧迫され、血液循環が悪くなり、それで網膜上の細胞が圧迫されて、感光刺激を受け、光が見えるようになると答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、引き続き開示し、末法の時代なので邪見を持った教師が多く、邪見を持った教師が、こんなにも多くの信者を集めるのではなく、世間には仏教を学ぶ人が多く、邪見があるのである。もし仏教を学ぶ事が、祝福を求めたり、仏教を学んだ後自分の周りが改善し、心が落ち着き、商売でお金が儲かり、仕事が順調になり、子供が成長して結婚できるよう望んだりで、仏教を学ぶ心理状態が、生死の輪廻からの解脱でなければ、それは邪見である。市場の必要により、邪見を持った教師が出現するのである。仏教を学ぶ上で、いろんな考え方があるが、これらは全て人間の欲望で、あなたがたが自分で考え出したことでもある。

あなた方は、神経病になるまで、仏教を学ぶ必要は無いのである。仏教を学んでから、他人とは違うなどと思わせるような事をわざとしたり、自分はみんなとは違うなどと思うべきではない。このような考え方の人は、確かに人とは違っている。仏の教えを聞かないのだから、当然他人とは異なる。仏教を学ぶ事は、とても自由で、快適な事であり、仏教の概念は、衆生が輪廻の苦海から離れる助けをするのである。煩悩があれば、輪廻が継続する。煩悩を断つこととは、あなたがたの行動を制限するのではなく、出家をさせるのでもなく、あなたがたの人、物に対する執着を減少させることにある。人に苛められたり、他人は自分を理解してくれないと思ったりするのも、執着であり、自然に人生は苦痛で充満していると思うようになる。ただ執着を少なくすれば、煩悩は徐々に減っていくのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは本日の法会が、あなたがたとあなたがたの親族の助けになることを望んでいる。本日の法会が、あなたがた本人の助けとなるかどうかは、あなたがたが、最終的に仏教の教えを完全に信じてるかどうかに関わってくる。鬼道の衆生は、自分の苦しみが分かり、行者が助けてくれるなら、完全に仏法を受け入れるので、非常に済度がし易い。しかし、人類は自己の考え方が様々で、正如佛經の中で述べているように、全宇宙で人類が一番済度が難しく、調伏は難しいのである。人々は、人生を楽しみ、快楽を求め、まだあなたがたには苦しみが足りず、非常に貪欲で、言う事を聞かず、仏法を受け入れないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修める時、妄想を懐いたり、懐疑心を起こすべきではない。仏法は害を与えるのではなく、必ず利益を与えてくれると信じるべきである。

業障[悪業(あくごう)によって生じた障害]とは、病気、不運、騙された事を指すのではなく、仏教を学ぶ上の障害を指すのである。善業、悪業どちらにしても仏教を学ぶ障害となる。善業は分かりにくいが、しかし非常に慎重にすべきである。例えば:誰かがあなたに肉を勧めた時、あなたのために特に準備したもので、栄養になり、とても良いと言うだろう。表面上は、あなたにとって良いことだが、しかし仏教を学ぶ上の障害となるのである。悪業は分かりやすいので、あなたがたは注意するだろう。悪業の苦しみは、はっきりと感じられるからである。業障を除けば、良い暮らしができると思っているだろうが、世間では様々な事が皆を迷わせ、仏教を学ぶ本当の目的を容易に忘れさせ、執着を作る。あなたがたの内で祖母になる人は、旧正月にも、これ以上あれこれしない事だ。仏教は、通常の生活を邪魔するわけではない。男女を交際させないようにしたり、結婚させなかったり、子供を作らせなかったりするわけではなく、これらの事は、あなたがた個人の縁と福報によるものであり、できるかどうかは、仏教とはまったく関係ないのである。仏教を学んでからも、普通の人と同様に男女交際ができ、結婚して子供をつくることもできる。仏教を学ぶ上で最も重要な事は、内心の世界を変える必要は無く、仏教と上師の教えを遵守することにある。しかし、人は物事を複雑にしてしまう。仏教は、あなたがたに一切の悪を断ち、一切の善を行うように教え導くのである。もしあなたがたが、仏の教えに従い、悪を断ち善を行えば、悪い事が起こったとしても、それが軽減し、その影響を受けないのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェが今日を選び法を修めるのは、旧正月が近づいているからである。中国人のお正月の習俗は、家族が一同にたくさん飲んだり食べたりする。もしあなたがたが、良い暮らしをしたいため、衆生を苦しめるのは、良いことではない。以前は農業社会で、一年の内、お正月だけが休息でき、良く食べ、栄養を補充していた。現代人の日々は快適に過ごし、栄養があるものを食べているので、実はお正月にたくさん食べたり、呑んだりする必要が無いのである。我々は今 旧正月の時、過去の風俗習慣で過ごしているだけで、もし旧正月をしなければ、他人に奇妙に思われるので、相変わらずお正月の習俗に従い、衆生の因縁に従っているのである。

旧正月は、新しい年を迎えるのではなく、また一年が過ぎ去ったことであり、あなたがたは、これ以上ぼんやりと過ごすべきではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自身が高齢だと述べ、旧正月は少しも楽しいと思わず、現在お正月は、ただ悲哀を感じるだけである。それは、地球において、法を広め衆生に利益するのが、また一年少なくなるからである。あなたがたは、こんなにも長く仏教を勉強していながら、両親はまだ仏教を受け入れないのは、仏法の教えどおり実行していないことを示しており、またあなたがたが、全然悔い改めていない事をも表している。父母はあなたがたが、改めないことが一番良く分かっていて、あなたがたが本当に悔い改めれば、父母は自然とあなたに従って変わるのである。父母は一目見ただけで、あなたが改めないことが分かる。整理するようにうるさく言っても、言う事を聞かず、整理せず、改めていないのが、すぐ分かるのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた人がいる。彼は、自分の父母の業障がひどいので、一緒に仏教の勉強に来ないと話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、自分の父母をこんな風に言うのを聞いて、彼の父母は業障がひどいので、それでこんな話をする子供を産んだのだと言いたかった。自己を改めなければ、家族が一緒に仏教を勉強するわけが無いのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは36歳から菜食を始め、仏教を学んだが、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身の子供さえも、最近になってようやく言う事を聞き、菜食を始めたのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、今まで家族に強制したことがなく、説得したわけでもない。それは、リンチェンドルジェ・リンポチェ自身が福報を修めれば、家族は自然に変わるのが分かっていたからである。リンチェンドルジェ・リンポチェのある弟子は、父親が以前 仏教を学ぶ事に反対していた。リンチェンドルジェ・リンポチェが、しばらくたってからまた話をしようと言う事で、彼は根気強く待った結果、彼の父親が仏教の勉強に同意し、来れるようになった。あなたがたは、決心し、聞いた仏の教えに従って自分を改めさえすれば、上師や諸仏菩薩、護法神(仏 仏法を守護する善神)は、仏教を学ぶ障害を減らしてくれるのである。

あなたがたは、仏教の勉強に来ているが、特定の対象に回向する必要は無いのである。多くの人は、自分の夫や子供が好転するようにと回向し、子供が早く結婚できるようにと回向し、第三者が速く別れるようにと夫に回向する。夫に福があるよう、夫に回向しているが、あなたの夫がもし福報を累積すれば、第三者は却ってなお一層あなたの夫に近づきたくなるとは思いもよらない。利益にあやかりたいと思いながら、却ってまずい事になってしまうのである。だから、特定の対象に回向する必要が無く、ただ一切の衆生に回向すれば良い。我々も衆生の一部であり、我々の父母も衆生の内である。あなたがたの心が大きければ、福も大きい。仏教を勉強するのは、自己の欲望のために回向するのではなく、心を開き仏法を受け入れ、一切の衆生を受け入れることにある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示した。現在自動車事故による死亡が、ますます多くなっている。又父親が、自分の子供を殺したり、子どもが親を殺すなど倫理的な悲劇が起きているが、これらは殺生をして肉を食べる事が引き金となっている。もしあなたがたの祖先が、十善法【十悪を犯さないこと。不殺生・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口(ふあっく)・不綺語(ふきご)・不貪欲(ふとんよく)・不瞋恚(ふしんに)・不邪見】を行っていなければ、現世で子孫にあたるあなたがたが、両親や祖先に代わって修行すれば、彼らの福報の累積を助けることができるのである。先祖と子孫は遺伝子が同じで、子孫の行ないは先祖に影響を与える。もし先祖の福報を累積できれば、先祖の状況は好転し、子孫の状況も好転するのである。リンチェンドルジェ・リンポチェの父親は、養蚕家であり、資産を成したが、殺業が重かった。家族は裕福で、祖母の時代の叔父は、奢侈な生活をしていたが、殺業がひどく、リンチェンドルジェ・リンポチェの父親の代になると、家族全員短命で、病気がちであった。リンチェンドルジェ・リンポチェの兄弟姉妹も全員、手術を経験し、さまざまな病苦を経験していた。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟も、あなたがたの眼から見れば善良な人間ではあるが、それでも病気で手術を経験している。リンチェンドルジェ・リンポチェだけが、36歳からベジタリアンを始め、仏教を学び、因果の道理を深く信じ、徹底して懺悔し悔い改めたので、高齢にも関わらず、手術の経験も無く、体の健康状況は大変良好である。

仏、菩薩、上師は現世で、あなたがたが仏教の生死からの解脱を十分勉強できるよう助けてくれ、それがあなたがたの未来に役立ち、またあなたがたに大きな変化を起こす。ただ、前提として自分自身が堅く決心さえすれば、一切の障害は消滅するのである。全ては皆の決心次第である。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏教を学び始めて以来、完全に仏、菩薩、上師に投降し、100%仏、菩薩、上師の教えを実行し、完全に自分の考えを放棄している。本日は、リンチェンドルジェ・リンポチェが、皆のために施身法を修めるので、この機会を大事にすべきである。施身法を学ぶ事は容易ではなく、習得する事も容易ではない。また現在、こんなにも大勢の人が一同に施身法に参加できる事は、非常に稀なことであることを考えるべきである。あなたがたが、このような殊勝な法会に参加でき、成就者にめぐり会い、皆のために法を修めてくれるのは容易な事ではなく、この福報の因縁は無駄にすべきではない。本当に決心し、悔い改めるべきである。

皆が来られたのは、累世と今生において善の根器が有る事を表している。只煩悩、執着から善業や悪業を作り出しているので、自分を改善できれば、すべて未来の聖人である。地球上には現在60億の人口があり、人口が非常に多いため、果報は次の世を待たず、今生で発生し、今生で善業の果を見ることができ、悪業の果も見ることもできるのである。あなたがたが決心して仏教を勉強すれば、何年後かに必ず自分の変化に気付くだろう。以前大変苦しんでいた事が、現在は何とも感じないのである:以前追い求めていた快楽も、振り返ってみれば、自分の考え方に問題が有ったことが理解できるだろう。仏教徒は日々好日であり、それは生活上の様々な楽しみではなく、仏教徒であれば二度と悪事を働かず、日々善行を実行するので、自然と毎日が良い日となるのである。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、施身法を開始した。そして、施身法は観音菩薩を本尊としているので、法会に参加する時は、慈悲の心を持つべきで、自分のことを考える必要は無いのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法の過程で、自分の名前と、助けを必要としている人の名前と、施身法で済度を必要としている死者の名前を唱えさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、労をいとわず自身の功徳や福報を消耗し、自ら施身法を修めるので、修法の過程で、リンチェンドルジェ・リンポチェが数回修法の際に特殊な音を発した時、道場の有線テレビのスクリーンに、尊体の背後に一瞬 仏菩薩と同じループ状の光が発生したのがはっきり見て取れ、これは殊勝な瑞相で、極めて不思議な事である。続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェが、皆を指導し六字大明呪を長く唱えさせた。マントラを唱えている過程で、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェのマントラを唱えている声に一波動、一波動 慈悲の力を感じ取ったのである。

修法が円満に終了後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲心より、皆に引き続き貴重な仏法を開示した。

新しい一年、世界中の政治状況と気候は変動が激しく、以前の経験法則とは異なっている。もうすぐ旧正月であるが、旧正月中、大勢が太歲神に参拝に行くが、経典の中には、太歲神に参拝にすべきとは触れていない。太歲神に参拝するのは道教の説法である。もし仏教寺院に太歲神を祭り、仏像を祭っていたとしても、正統派の仏教寺院ではない。道教から言わせると、太歲神は、12年ごとに世界の邪悪な人々を検査し、これらの悪人の福報を、すばやく消滅させるのである。もうすぐ旧正月になる。もし辰年に既に自己の悪行を改めていたり、今年に既に行ないを改めていれば、もし間違いを犯し、悪果【悪い報い】が有ったとしても、少し軽くなるのである。もうすぐ旧正月なのに、まだ間に合うのだろうか?と思うだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は:まだ間に合う。今現在からもう二度としなければ、正如佛經中に「悪事から足を洗えば、すぐ善人になれる。」と記載されているからである。

「悪事から足を洗えば、すぐ善人になれる。」とは、殺生をやめることを指しており、つまり仏の道を歩き始めるのである。自分自ら殺生する以外に、心の中で殺生を考えてもいけない。もし心に憎しみがおきれば、それは殺生にあたるのである。これからは、ゴシップ番組を見るべきではない。男女関係の感情的な葛藤などを見れば、心に番組の人物に対して憎しみが生まれ、引き続き自分の伴侶を罵倒してしまい、これも殺業(殺生の行為)にあたるのだ。自分の夫が安心できなければ、あっさり出家してしまえば良いのである。女は哀れで、男は勇ましいなどと思うべきではなく、実際 今は反対になっている。:現在の男性は男らしくなく、女性は女らしくなく、夫を殴る女性もいるのである。

太歲神に参拝するお金があったなら、お金が無くて勉強できない人を助けたり、お金が無くて病院にいけない人を助けたりして、善行を施した方が善いのである。お金の多少は重点ではなく、自らが直接手渡してこそ、誠意がある。その上、善行を施すチャンスを与えてくれた事に感謝して、感謝の心を持つべきである。善因(善果を招く因となる善行)の種を蒔き、早く善果がすぐ実現するようにとは思うべきでは無い。ただ原因があれば、必ず結果があるものであるから、仏法の助けが一番必要な時、最も苦しくて助けがほしい時、あなたのした善行が効果を発揮し、浄土に往生する障害排除の助けとなるのである。

善行は容易なことだとは思うべきではない。もし善の因縁が無ければ、善行をしたくとも方法が無いのである。大勢の人は、善行を施したいと思っているが、善の福報の因縁が無ければ、お金を手にしていても、施す事ができないのである。ある政治上 重要な基金会が会計検査され、その上起訴された。表面上、この基金会は慈善事業団体であったが、内情を知っている人間は、批評はしないが、問題を起こすと分かっていた。これで因果関係が見て取れるのである。他人のこんな様子をみて、一緒になって罵倒せず、代わりに憐憫の心を持ち、悪因を蒔き、悪果を味わった事に同情するべきである。一切の善と悪は小さな所から始まっていて、善行は自己の観念から始まり、どんな悪も、小さな悪から始まっている。人を好きになる事も、少しずつ累積したもので、一目ぼれなどは無い。所謂一目ぼれは、じつは前世のもつれから来ているのである。

お金を出して光明燈を点せば、平穏無事に過せるとは思うべきではない。仏経の中には、そのような説法はないのである。ただ明かりを点し、仏陀に供養することには触れている。世間では、光明燈に値段がついているが、台北寶吉祥仏法センターには、一般の廟で見られる光明燈塔は、きれいさっぱり見受けられない。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモラスに開示され、:灯台は海の中や、海岸にあるべきで、仏陀の寺の中にあるべき物ではない。往年自分で出費し光明燈を点しているのに、もし今年しなければ、何か問題があるのではないかと、あなたがたは心配するだろう。;リンチェンドルジェ・リンポチェも、仏教を学ぶ前は、光明燈を点していたが、その後しなくなったが、ずっと現在に至るまで、何の問題も発生していない。仏法の中に灯りを点す儀式が有り、灯りは仏法(の力)の光明を代表していて、無知な真っ暗な暗闇を照らせば、仏教を学ぶ道が見え、慌て無くても済み、神の加護を求めるものではないのである。旧正月になったら、寺院に参拝し、一個の明かりを点せば神のご加護が有り、一年無事に過ごせるとは思うべきではない。そんなに調子が良い話はあるだろうか?あなたがたは、仏陀や菩薩に家族の平穏無事を祈るが、もし家族が平穏無事、つまり心身共に良好で有れば、かえって殺生をするチャンスが増え、悪事を働いたため短命になり、死後三悪道に落ちる可能性があるとは考えもしないだろう。それよりはむしろ下痢をすれば、悪事を働く機会が減るのである。それより、あなたがたは、仏陀や菩薩に家族が仏教を学ぶチャンスがあるようにと願うべきである。

これからは、世間的なことが順調にいくようにとか、長生きできるようにとか、子供が成長して結婚するのを見届け、甚だしくは孫が成人するのを見届けたいとか、仏陀や菩薩に祈願するべきではない。この種の祈願には、仏陀や菩薩が応じることは無いのである。自分が仏教徒である事にうぬぼれたり、貪欲から求法【仏の教えや悟りの道を求めること】しても役に立たない。もし正念【物事の本質をあるがままに心にとどめ、常に真理を求める心を忘れないこと】が起きるように仏陀や菩薩に助けを願い、悪事を止め善行を施せば、仏教を学ぶ障害が減り、うまく行けば消滅できるよう、仏陀や菩薩は必ず助けてくれるのである。あなたがたが、もし仏陀や菩薩や上師の教えに従い、仏教の勉強を祈願すれば、このような願いに自然と応じてくれるのである。リンチェンドルジェ・リンポチェも在家者であり、仏教を学び始めてから、全て仏と上師の説く教えに従って仏法を学んだからこそ、現在少し成果があったのである。;もし1千元を出して無事が保てるのであれば、それではあまりにも安すぎる。それよりは、善行を施せば、善の因が有り、善果が将来必ず出現するのである。もしあなたがたが、ずっと悪事を続ければ、何も残らず、業力【善業には善果を、悪業には悪果を生じる力】に流されて行くのである。

あなたがめぐり会う事は、人生の良し悪しに関係なく、全て自己の業力、因緣、因果関係であることを、はっきり理解すべきである。そうでなければ、又一年あっという間に過ぎていくのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは高齢で、衆生を助ける時間が、又一年少なくなった事だけを心配しているのである。あなたがたが、今日木曜日の夜、仕事を終え急いで法会に参加することも、容易な事ではない。:あなたがたがリンチェンドルジェ・リンポチェに対し、五体投地の礼をするのは、つまり供養することになり、供養すれば福報があり、リンチェンドルジェ・リンポチェも、あなたがたに報いてくれるのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、誰にも借りを作る事は望まず、学んだ仏法を、必ず教えてくれる。もしあなたがたが、福報の因縁を備えていながら、リンチェンドルジェ・リンポチェが、あなたがたに仏法を教え導かないのならば、それはリンチェンドルジェ・リンポチェの間違いである。しかし、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが、既に話したにもかかわらず、あなたがたが言うことを聞かないのは、それはあなたがたの問題である。

女性は、仏教を学び菜食をすれば、男性と交際できないとか、心配する必要が無いのである。仏教を学べば、かえって突然たくさんの人が、追いかけるようになるかもしれない。;男性は、仏教を学べば奥さんができないとか、ベジタリアンであることを変に思われるとか、友達ができないとか、心配する必要は無い。これらは全て自己の因果関係によるもので、仏教を学ぶ事とは関係なく、あなたがたが決心して仏教を学べば、一切の善の神が助けてくれるである。リンチェンドルジェ・リンポチェの個性から言うと、決心したら振り返えらない。あなた方は、もう時間の浪費はやめるべきで、人生はほんの何十年で、すぐ終ってしまうのだ。リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた人がいる。リンポチェは、彼に菜食を勧めると、彼はすぐ向きを変えて去り、まるで菜食では殺されるようであった。福報がある人は、どこに行っても菜食が食べられる。;福報がない人は、菜食をするつもりでも、ゴキブリを食べてしまうかもしれない。その他の宗教でさえも菜食を勧めているが、皆は仏像に礼拝するのだからなおさら、菜食は不便な事ではなく、あなたの決断と福報によるもので、全ては自己の決心次第である。

法会は円満に終了し、大衆は起立して 尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座を降りられるのを奉送し、リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な施身法と、慈悲による貴重な開示に対して、異口同音に感謝を口にした。リンチェンドルジェ・リンポチェは、一心に衆生の利益だけを考え、自身の修法の苦労を省みず、仏法を教え導く事をいとわず、衆生の苦しみから離れられるよう、きわめて綿密に懇々と繰り返し教え諭した。大衆は、貴重な宝の如く殊勝な法の教えを敬し受け入れ、心から歓喜したのである。

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2013 年 06 月 08 日 更新