尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2012年10月14日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を開催されて、法会の参列者に貴重な仏法の開示を与えた。

法会が始まる前に、1人の女子弟子は法会の参列者に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの全家族を助けていただいた過程を分かち合った。

10年前に、彼女の息子は大学の1学生の時に、中部のある道場で座禅を学んで、禅七(禅七は七日間に座禅をする修行会)をしていたが、しかし彼は正しい方法が無くて、めちゃくちゃに学んでいて、だんだん体が問題が現れて、大学三年生の第二学期に躁鬱病(双極性障害)に罹って、成績が上位3名から急に最下位になって、授業はほとんど行かないで、最後に大学を卒業延期した。前三年の成績を以って申請して大学院に入ったがが、しかし病気を完全に治していないから、大学院が卒業できなかった。この間、彼女は様々な方法を使い尽くして息子を助けたくて、公私立病院の精神科名医の診断を受けた以外、更にたくさんのお金がかかって、所謂名人達人を探した。その時、ある小さな寺院で1回の5日梁皇宝懺悔を行なって総功徳主をしたのが50万元からで、大きな寺院で1回の1日三昧水懺を行なうのが100万からであるが、これらがまだ位牌を書くこと、灯を点すこと、果物と花を供えることなどを含まなかった。あの時、経済の圧力が大変だと感じて、そして息子が一体いつ治れて良くなるのか知っていない。

ある因縁で、彼女は《快楽と痛苦》との本を得た。数回読んだ後に、彼女はすぐ入院している息子を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは息子を加持した後に、よく食べてよく眠ることができる時になったら、再度面会に来なさい、と慈悲に言った。もともとは入院する期間には非常に恐ろしいと感じる息子は突然に彼女に、「母さん、私は既に恐れなかった。」と言った。その上、急性の病棟から普通な病棟に転送した。その後、彼女は息子を連れて再度リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、そして殊勝な法会に参加することを求め得た。皈依した後に、息子はそのため救われて、今もう西医の薬を1つも飲む必要が無くて、10数年来、彼女の心身が受けた苦難も静まった。これはすべて、リンチェンドルジェ・リンポチェの大威徳力の加持であった。

今年(2012年)9月17日、彼女は家で眠って起きられなくて、息子は彼女を病院に送って急診を受けた。ぼんやりしている中に、彼女はただ息子が数回も言った「リンチェンドルジェ・リンポチェを観想しなさい。」を耳にしてから、彼女はやっとて反応した。病院の検査結果がまだ出ていない時、彼女はすでに意識を回復した。検査の結果は彼女の右脳に5センチメートルの髄膜腫があるのである。病院の医者、社会福祉の人と彼女の姉妹達はずっととても努力して彼女に手術を受けるように勧めたが、しかし彼女は手術を受けたいことを決定した。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の下、第2日彼女はとても順調にICU病棟から普通な病棟に転送して、10日間入院して家に帰ってしまい、全然医療の痛苦と傷害を受けていなかった。彼女は宝吉祥漢方医診療所でとても良い治療と配慮を得て、日曜日にいつものとおり法会に参加した。今彼女に手術を行うように勧める人が一人もいなくて、皈依して仏を学んでいない彼女の夫も予想外に完全に彼女の決定を支持した。このすべては、リンチェンドルジェ・リンポチェの大威徳力と大加持力であり、彼女はようやく幾重もの難関を超えることができる。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが常に弟子を捨てないことに感謝する。

彼女は自分がリンチェンドルジェ・リンポチェのこんなに多くの福報を浪費したことに懺悔して、もし彼女はまだその教えに従ってよく遂行しなければ、本当に人間として失格した。彼女もリンチェンドルジェ・リンポチェの平日の殊勝な教えに背いたことに懺悔して、入院した後に、彼女はやっと自分があまりやっていないことを発見して、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法を生活の中に用いていなかった。そして、彼女は自分が30年結婚したが夫を30年も恨んだことに懺悔して、ようやくこの髄膜腫の重症に罹ったのである。彼女は皆さんが彼女をもって戒めとするように望む。彼女はただ菩提心を発して、やっと本当に上師の恩を報うことができると深く感じる。

最後彼女は再度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの恩に感謝して、そして助けと支持を提供したすべて金剛兄弟子に感謝する。リンチェンドルジェ・リンポチェは御身体が健康に、仏輪が常に転じられて、仏法の事業が栄えていて、無数の有情衆生を利益するように祈願する。

引き続いて、もう一人の女子弟子は壇城の前で彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前後の心の機転過程と彼女の懺悔を分かち合った。彼女は今日が1つの法喜が満して恩に感謝する吉祥日で、今日も彼女の再生の誕生日だと表した。無始から以来、無知にも輪廻の苦海の中で、彼女は用心深く敬虔なことをし始めて、解脱の道に向かって行った。彼女はどうして仏を学ぶかをよく知っていて、同時に絶え間なく自分を指摘し、もしこの世に彼女は再び輪廻を断つ機会を逃せば、すべての苦はもう一回来る。彼女は上師の法席の下で、諸仏菩薩の壇城、すべての衆生の前で、上師の誓いの言葉をもって、「即使虛空盡、永不行惡。(たとえ虚空が尽くしても、永遠に悪を行わない)」と誓った。

上師の教えた多くの殊勝な法門の中で、その1つの法門は、「最も難しい所から修行する。」ことである。彼女にとって最も役に立つのである。7年前の今日は、彼女の息子は上師の殊勝なポワ法を得て済度されて、浄土に修行しに移住した。息子を捨てるのは彼女の最も難しい修行で、彼女が数回か自分を放棄したい考え方があった時、すべては上師に度されて加持された下で無事に過ごした。彼女の命は上師が救ったので、彼女はこの命を以って尊き慈悲な上師リンチェンドルジェ・リンポチェを無量劫まで供養する。

上師は嘗て法席で、「この子供がこの場にいる皆に比べて知恵がある。」と諭された。彼女の息子は幼稚園の時に、ただ一回ではなくて数回も、「人をするのはとても苦痛で、私が輪廻したくなくて、私が菩薩になりたい。」と言い出した。その時彼女は気にしないで、ただとても愚かに自分の方法を使って、彼を愛して保護していて、彼がほんの少しの事故でも恐れて、心の中にはかすかに不安を持っていて、常に真夜中に驚いて目を覚まして、あのように持っているのが、失うことを恐れるのは、彼女が苦しくて耐えられない。

2004年の年末、彼女は息子を連れて寶吉祥仏法センターの法会に参加し始めた。2005年の初め、ある時彼女は学校まで息子を迎えて施身法法会に連れて参加して、車の上で彼女の息子は突然とても厳かで重々しくこう言った。「どうしたらいいか。私はやっと12歳であるが、上師がすでに58歳になって、もし私は再び生まれ変わるならば、きっと第三次世界大戦にあって、私はとても恐れる。」。同じ年、彼女の息子は数回も、「これは私が過ごしたい日々ではなくて、私は楽しくない。毎日同じ事をして、とてもおもしろくない。私が大人になっても同じくずっと繰り返している。」と言った。9月初めに学校が始まって、彼女の息子がとても悩んで「学校は生物科の授業に蛙を解剖しなければならないことを規定して、それらはとても可哀相である。その時に私が何か方法を考えて逃げて離れる。」、と訴えた。今日、彼女の息子は既に浄土で修行して、よい生活を過ごしているので、彼女は本当に彼の良い福報をうらやましがって、彼が早く修行して成就して、衆力があって生を利益して、上師を護持して、上師の恩を返すことができるよう期待している。

上師の加持の下、彼女の「最も難しい修行」は徐々に「捨て難いが、捨てることができる」となった。最も惜しむのを捨ててしまって、その他の執着と罣礙を捨てるのがそんなに難しくない。彼女は息子を以て、上師と仏菩薩を供養して、彼女の受益ははてしがない。彼女はもう個人の損得にばかりこだわりなくて、気にすることがなくて、「あっても無くても良い」との上師の話を彼女が心の上に置いて、すべては縁に従って過ごして、どんな境遇にも安んじて、上師のいる所が即ち恵まれた所である。この「最も難しい修行」に対して、彼女はただ感恩と警戒をいっぱい満ちていて、彼女はすべての返すべきな債、受けるべきな苦しみを喜んで受ける。この「最も難しい修行」がなければ、彼女と息子はきっと何回も生まれ変わっても互いに苦しめて、からみ合って、終期がない。上師が彼らに最も円満な救度を与えたことの恩に感謝する。

突然息子を失った後に、彼女はやっと何が死亡、無常と捨てることであるかを体得した。彼女はようやく上師の慈悲、上師がどのように衆生が苦を受けることに忍びないこと、及び仏法の殊勝さが見られる。彼女もやっと体得したのは、衆生に一切の苦を断って一切の罪が消えるように助けることができる具徳の上師に会うことが難しいである。上師の慈悲加持と仏法の薫陶の下、彼女は次第に変えた。彼女はただ自分だけに関心を持って、ずっと過ちを認めて陳謝しないで、「すべての間違いは全部他人のせい」、まるでハリネズミ如く、心の中でただ「私」しかない人はついに目を覚まして、周囲のたくさんの衆生に注意して関心を持って、その上彼らも苦を受けていることを知っている。

上師が絶えずに繰り返し指摘されて、人身が得難く、仏法が聞き難く、上師に会い難いと諭された。彼女は今生幸運にも、三つが全部得て聞いて会うことができる。。彼女は自分の前半生の経歴を振り返って、3回の水害の事故、2度交通事故で、もうすぐ車輪の下の亡魂になること、職場でもうすぐ強姦されて強盗されること、浴室の中でガス中毒すること、道で精神病障碍者に頭を襲われて、高速道路で運転して疲れて目まですべて閉じたことがあることなど…。これらの過去の経験はすべて恐ろしくて、その中でただ一回の意外さえあれば、彼女はこの世に人身を得ることが無駄になる。

若い時、彼女は詳しく考えていなくて、ただ自分が災難が多いと思っていて、皈依して仏法を聞いた後に、すぐ心がぱっと開けて、以前こんなに極めて悪くて利己的な人が無始劫以来、どれだけの悪業を行ったかが分からないで、もしこんなに多くの危ない事に遭遇して弁済しなければ、なぜ福慧を十分に備えている金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する福報があるのか。上師がなければ、仏法がなくて、輪廻に解脱することがいつになるか分からない。

上師の開示されたように、仏法を学んで、最も早く役に立ったのは自分で、仏陀を学ぶため生活の品質を高めた。皈依する前に、たまに家の上からごみが落ちて、彼女がわざと時間がかかって、探偵を演じて、誰が1枚の包装紙を捨てたかということを糾明するためである。運転席に座って運転して、彼女はいつもぶつぶつ言っていて、停車しないと停止しない。他の人が気の向くままに車を追い越すことに気に入らなくて、相手がヘッドライトを点滅させて、ラッパを押して、ウインカーを出さなくて、出してもあまりに遅いことを不満して、彼女は偶にまたとても上品ではない教養がない手振りをしたことがある。彼女は1日中自分を見逃さないで、生活中に堅持と恨みばかりである。

今、彼女は依然として偶に家の上の階から落ちる「小さな贈り物」をもらうが、しかし、事はとても簡単になって、彼女は箸で「小さな贈り物」をプラスチック袋に挟んで入れて密封するのでさえすれば終わる。ハンドルを握って、彼女は小さい能力があって自分の口を制御できることになる。彼女は上師が諭されて、「速くするのが良いとは限らない。ゆっくりとするのがよくないとは限らない。」ということを覚えている。他の人は列に割り込まれてもまたどのようであるか。ヘッドライトをつけてもラッパを押してもなんでも良い。彼女は徐々に「縁に従って過ごして、どんな境遇にも安んじる」ということができる。上師の八字の箴言、名言「千錯萬錯都是我錯。(すべての間違いは全部私のせいだ)」は彼女の修行する道の中の寶円膏になって、彼女の生活品質を高める最上の法門である。

数日前、彼女の夫は気をつけないで、「あなたは比較的にかわいくなって、顔の線がやさしくなった。昔に1枚の『頬に当たる』のように顔を見えていないで、何のことに起こるか分からない。今は比較的に可愛くなった。以前の個性、本当に気難しい、『ニワトリの腸、鳥の胃袋』のようだ。息子を除いてあなたを抑えることができる人がいなくて、あなたと付き合うことができる人がいない。しかし、今は違って、ずいぶん近しくなった、と言った。彼女はとても懺悔して、赤面を感じた。彼女の夫が注意を与えることに感謝して、以前の自分は、なにものも眼中に無くて、私利私欲で貪って、とてもの驕るような顔をしていたのである。

彼女は夫が彼女に対する収容と惜しみを利用して、よく夫に機嫌悪い顔色を見せて、自分が非常に偉くてたまらなと思っている。彼女の母さえもいつも彼女に気づかせて、「家を離れて外にいたら、ちょっと大人しくして、人とけんかしないでください。」と教えた。彼女の母は実は彼女を心配して、彼女がある日にたぶん傷つけられる事を恐れるから。母に不安にならせて、彼女は本当にとても親不孝である。彼女は心を以って懺悔して、昔のすべての身、口、意が犯した悪行背徳について、彼女は誠実にすべての因果応報を受けて、いつまでも再び犯しない。彼女の夫がきっと考えられないのは、この悪な妻が数年以降に意外にも大福報があってリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して、リンチェンドルジェ・リンポチェがすごい手段で、「剛強自用、難調難伏(非常に気丈で頑固で、なかなか調教することが難しい)」の彼女を収服した。尊き上師は彼女のまるきり違って明るい未来世を開いたのである。

彼女は夫に、「これはすべて、私の上師が私への加持と教えの恩に感謝するべき、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように厳格に弟子を監視しているので、リンチェンドルジェ・リンポチェは私達がきっと一切の悪を断たなければならなくて、一つ小さな悪さえも許せないと教えた」を言った。彼女は機会さえ捕まえれば、きっと見逃さないで上師がどのように大衆を度するのか、弟子とその家族を看護するのかなどことをほめたたえる。彼女がこのようにする目的は、夫が安心することができるのを望んで、同じく彼に、寶吉祥仏法センターが1つの貴重で清浄な道場で、1つの修行して過ちを改めるところだということを知らせたのである。

2004年12月末、彼女は始めて息子を連れて毎週日曜日の共修法会に参加した。彼女は夫が反対する怖れがあるから、始めて彼女は夫に次の通りに承諾した。「私と息子を観察して、私達に半年時間を与えて、半年間に若し私たちはいい変化がないと、貴方は私たちに仏を学ぶ事を止めてもしい。しかし若し半年後私たちはよい開始があれば、私たちは従うのは仏法に従う上師であり、行くのは清浄な道場であるを表する。そうすれば、私たちに引き続きに仏を学ぶことを妨げないでください。」今は既に2012年末になって、彼女は上師、護法の加持を感謝して、彼女に引き続きにリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学んでいる。

美食、海鮮が好きである彼女は深く分かったが、「菜食」とは寶吉祥仏法センターで仏を学ぶ基本の条件である。しかし、「菜食」は彼女が最も大きいネックである。隣人が胆管がんに罹る因縁なので、彼女は再び上師に拝謁した。しかし、既に二年の仏を学ぶ時間を浪費した。彼女は今考えると、とても後悔した。彼女は上師を感謝して、相変わらず彼女に機会を与えた。上師は瞬時の余裕もない速度で彼女の頭に三回を叩いて、更に開示された。「愚か、まだ目覚めないでしょうか。」彼女は唯とても痛いと感じたが、頭の中に空白になって、目覚めた後、彼女はすぐ「すみません、私は懺悔する。」と言った。上師は引き続きに開示された。「懺悔?口が言うだけである。再び貴方にもっとはっきりにする。」続いてコ、コ、コ三回に彼女の頭を叩いた。彼女は唯とても震撼して痛いと覚えた。しかし、感覚は清めた。上師の智慧で自由に機会に従って衆生を教えられる。どんな教導でも衆生に対して全て加持と助けである。

その夜、彼女は家へ帰って、肉を一口食べると、蜜蝋を食べるように何も味を感じなかった。翌日に車を運転して病院へボランティアをする途中、突然に彼女は天が崩れ落ち地が裂けるように感じて、続いて彼女は訳が分からなくて泣いた。その後、車を通路に止めて、大声で泣いた。彼女は心の中に徐々に衆生への懺悔、憐憫、惜しむ及び辛さを起して、食べられた衆生に済まない気持ちを強く感じた。彼達は殺された瞬間に如何なる怖れ、憎みを思った。昼に食事する時、彼女は肉を見ると気の毒しか感じなかった。昔の彼女は無知、愚かなので、大修行者の大摂受力はこのような殊勝だと分からなかった。

8年に経って、今は当時上師が自分の頭を叩く時を思い出して、彼女は唯自分の痛みしか考えなくて、当時如何なる上師の福報及び体力を消耗するのを考えなかった。上師の手は必ずもっと痛かった。彼女は自分の愚か、極めて不孝を懺悔した。

彼女の息子は浄土へ往生したのはもう7年だった。当初彼女が元々思って乗り越えない困難は上師の加持の下に一切吉祥である。上師の下に彼女は恐怖を感じなくて、顛倒夢想を離れられた。彼女の動いて不安な心は依止された。リンチェンドルジェ・リンポチェは頑固な彼女に偶には怒目金剛が現れて、それはよりりっぱな人間になるようにいっそう高度な要求をする事である。此れは全てリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲の究極の表れである。上師は彼女のために行った事は既に両親を超えた。彼女は上師がこの苦しみの味とエネルギーを変化するのを感謝した。「苦しみ」は開始とは言え、未来の円満を成就した。寒い日に氷を食べるのように自分が一番よく分かった。

彼女は自分が罪だらけと深く感じた。無始以来、心を起して念を動いて生じた罪は一生を尽くしても彼女は懺悔が終われない。彼女は有意或いは無意に沢山な衆生を傷付けて、瞋恚を持ってしつこいに殺して、飲食の欲のために他人に殺させた。彼女は衆生の子供を潰したのは唯自分の子供に鶏のスープを飲ませただけ。最後に残って僅かな価値でも放せなかった。まだだしを作れて、彼の肉を食べたり、骨を噛んだりした。衆生の骨と肉で自分の骨と肉を栄養した。楽しみため、彼女は嘗て息子を連れて、極めて寒い湖の上に穴を開けて魚を釣った。魚は水面を離れると、少しもがいた後すぐ凍死した。

彼女の嫉妬、欲望、比較心がとても酷かった。他人が持った物を羨んで、自分ではない物を追求した。この悪念悪行は常に繰り返して表れて、沢山があって如何しても数えられなくて、考え切れない。

彼女は尊き、慈悲な上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、直貢チェツァン法王、歴代伝承上師、諸仏菩薩、アキ護法、一切有情と無情を感謝した。彼女も夫、息子を感謝して、彼達は自分の菩薩である。彼女に資糧を与えて、彼女に憎みを放して、彼女に道義上後ろへは引けない勇気を持って、上師に従った。

最後、彼女は上師、直貢チェツァン法王のご健康、仏法事業が盛んで、円満するのを願った。仏法は常に世間に存在して、無辺有情を利益して、諸有情は全て浄地を安置して、早めに悟りを証するように願った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法席が上がった後、参列者に貴重な仏法開示を与えた。

ガムポパ大師は仏を学ぶ人に悟りはあるのを教えた。仏法の中に八万四千種法門があるが、実際には我々に八万四千種異なる煩悩を対治する。だから、ガムポパ大師が言われた悟りとは自分が輪廻の苦しみの中にいて、一生に起こった全ては累世業力に引かれたのを悟る。此処に言われた悟るは体得ではない。「体」とは全ての衆生が皆清浄な本質、本性を具える事を分かって、唯貪、瞋、痴、慢、疑に覆われた。そなたは自分が仏を学ぶ目的をはっきりに分かった後、妄念は始めて止れて、清浄な本性は始めて現れる。つまり徐々に開悟する。謂われた開悟とは沢山な異なるレベルがあるが、そなたは自分が沢山な悪を行った事を分かって、始めて変えるのを決断すれば、此れも開悟である。仏を学ぶ目的は業力を変えて、更に生死を解脱するのを悟って、人生とは業力が充満するのを悟らないと、如何なる学んでも役に立たない。仏を学ぶ人は皈依の日から、必ず引き続きに自分を変えて悟らなければならない。この過程はかなり長い時間が必要である

仏を学ぶべき心及び上師を依止する方式について、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に何回も開示された。しかし、最近新しい皈依弟子があるから、多くのは異なる目的を持って皈依に来た。若しそなた達は仏を学んで、仏を学ぶ目的をはっきりに分からないと、仏を学ぶのは未来人生の動向を変えられる事を悟れない。そうすれば、仏法を世間に一般な宗教としてみるだけ、唯加護を求める。世間の宗教は全て人に善を行うのを教えた。若しそなた達は仏を学ぶのは唯加護を求めれば、仏教は外道と同じだ。そなた達も此処に仏を学ぶ必要がない。他の宗教でもできる。皆は仏を学ぶ目的及び方向をはっきりに理解しなければならない。

そなた達は仏を学ぶと、生活に沢山な事は好くなると思った。仏を学んだ後、夫は自分の話に従って、子供の成績はよくなって、悪いことが発生しないと思うなら、此れは全て間違い考えである。人は一生に全ての事は過去世に連れた業力の作用から発生したが、お互いに貸した債は返済して、終わった後、業力はもはや作用しない後に此の世に終わった。楚歌氏、そなた達は皆自分が病気に罹りたくなくて、返済したくなくて、果報も受けたくなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは求めたのは若し死亡は自分に好いなら、累世の業は此の世に返済させて、地獄に堕ちないなら、自分が死ぬ事を求める。若し病気は自分に好いなら、自分に尚更に多い時間を貰って仏を学んで、すぐ果報が現れないなら、自分が病気に罹ることを求める。リンチェンドルジェ・リンポチェが求めた事は決してそなた達が求める勇気がない。

釈迦牟尼仏が成仏した時も九つ難に遭ったが、仏が仏法を広める49年間に嘗て馬糧を食べて、人に石で投げられて、足が血が流れて、人に誹謗されて、長期に頭痛など苦難があった。しかし、仏は全ての果報は皆因があるのを分かるから、完全に受けた。それは仏がはっきりに分かったが、既に成仏したから、全ての果報は此の世に成熟した。釈迦牟尼仏さえ成仏したのにまだ九つ難があるが、そなた達は苦難がないわけではない。そなたは皈依した後、この果報は速めに現れるかもしれないが、全部は現れてそなたに機会を与えて返済させる。

我々は観音菩薩が苦難を救うと言われたが、そなたの病気にすぐ治るわけではない。そなたに家で不倫の相手に離れるわけではないが、或いはそなたの子供に利口になるわけではない。菩薩は救う苦は輪廻を経歴する苦しみであり、難は輪廻に堕ちる難である。仏菩薩は急場を救って貧乏を救わないが、若し善根を具える人は仏菩薩苦難を救うから、そなたを一回や二回救うかもしれないが、決して第三回が有るわけではない。そなたを救うのはそなたに時間を与えて、仏法を学べて生死を解脱できて、そなたにいい日々を過ごすではない。昨日ある癌に罹る信者はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を求めたが、跪くと自分の子供はまだ幼いから、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分にもっと20年を生かせると言った。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに強引に求めた。人は全て貪ったから、彼は先にもっと20年を求めたが、実際にその時になると、尚更にもっと数年を生きたい。自分の子供は結婚して、子供を生むのを見たいが、その後にまた孫が結婚するのを見たい。そうすると、ずっと死なないのは可能だろうか。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の母を例を引いた。数年前に仏を学ぶ息子があって、自分ももう年寄ったから、いつ亡くなっても構わないと言ったが、最近考え方はまた変えて、始めて自分の健康を十分に注意した。リンチェンドルジェ・リンポチェの母は変わったが、そなた達の家族も言うまでもない。そなた達は母をほっとさせるとは言わないが、自分が出来るだけ行えば好い。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの母でもリンチェンドルジェ・リンポチェもできないかと聞くが、出来ないが、それは人によって因果業力があるから。

そなた達は分かったが、釈迦牟尼仏の家族は難がある時、釈迦牟尼仏さえ妨げなくて、自分の家族を救えなくて、この業を転じられなかった。それは仏が因果を変えないから。そなた達は常に自分の家族或いは両親が業障が重いから中々仏を学ぶや菜食できないと言った。実はそなた達の両親は業障が重いからそなた達のような子女を生んだから。そなた達は始めて仏を学んだばかり、自分が立派だと思って始めて人を叱った。更に仏法の名詞で叱った。このように言うやこのような行うとは適切ではない。そなた達は他人に業障が重いのを叱るべきではないが、仏法の名詞で誤用すべきではない。こうすれば、世間に仏法に誤解を起こらせて、外道に仏法を軽視させる。多くの人は数ヶ月間に仏を学んだのに、自分が衆生を済度できると思って、他人に強引に信じさせる。此れは仏法ではない。ある宗教は必ず信じると要求したが、そうしないと、相手を打つや殺す。仏法はそうではない。仏法はそなた達に因果を教えたが、そなた達は如何なる行うのはそなた達は自分が決める。

子女として、仏を学んだ後、自分の両親を変えて菜食させないわけではない。そなたは始めて修正すれば、そなたの両親は全てを見えて、自然に仏法はそなたにいい影響を与えると分かった。だからそなたに仏を学ぶのを妨げなくて、ゆっくりに仏法を受けられる。

仏法を学ぶのは必ず自分を修正から始める。仏菩薩は因果を違反するや因果を変えない。唯因果に従ってそなた達を助ける。昔ある男優は自分が菜食するが、レストランで相手に菜食させるため喧嘩した。最近ニュースが報道したが、ある教師は学生に若し肉を食べると動物と魚の死体を食べると言った。結局学生は家へ帰った後、父母に伝えて、父母は学校に行ってこの教師を訴えた。人に勧めて菜食したけど、このような方法を使えば、十分に善巧方便ではない。

何故仏は未来仏法が滅びると予言しただろうか。それは人の心は益々怖ろしいから。仏法を聞く人は若し心が変わらなくて、仏法を外道に変えれば、かなり悲しいことになる。昨日ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、自分に施身法法会に参加させて、亡くなった母を済度する。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に聞いて、「貴方は母を済度するため、自分が多くに読経して、他人に読経する事も依頼した。沢山な法会に参加したのに、何故施身法を求めるだろうか。」彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分が既に母のためにこのような事を行ったのを知らせないが、何故リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の事をはっきりに分かった。この信者は「このようなことを行ったけど、母に役に立つかどうかを感じないから。」リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が施身法法会に参加するのを同意しなかった。それは彼は唯密宗がとても素晴らしくて、神通があるしか考えないから、施身法法会に参加して母を済度するのを求めた。そうすれば、彼に感応させると思った。此れは間違い考えである。若し彼に施身法法会に参加させたが、彼は感応がないと、仏を誹謗するかもしれない。若し彼は密法を修めて、亡者を済度すれば、自分に母が蓮花座を座って昇るを見せると思ったが、その時彼に見たい神通現象を見せないと、仏法が役に立たないと誤解して、更に仏法が霊験しないと言うかもしれない。

そなた達は密宗を学ぶと、身の上に沢山な怪しくて一般的な物と異なる物をつけて、わざわざ他人に自分が密宗を修めるから、他の人と違うと感じさせるのを思わない。密宗を修めるのは発願が違って、心が違うだけ、外見或いは行為は人と相容れないわけではない。もしそうすると、他人に批判されやすい。

皆はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、自分の眷属は往生した後好く過ごすかどうかを知りたい時、皆は仏経に説かれるのは恭敬心、供養の心を具えれば、亡者に因縁、福報があって助けを得られるのを信じない。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェに聞けば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずそなた達に知らせると思った。《地蔵経》に説かれたが、地蔵菩薩はある世に自分が亡くなった母はどの道に生まれたのを知るため、自分の全部の財産を全て仏に供養して、更に毎日斎戒沐浴して、新しい服を着替えて止らなくて仏を礼拝し続けて、全身は血が流れるまで続けた。仏は始めて姿が現れて彼に一語「彼の母は地獄にいる」と知らせた。地蔵菩薩はそこまで行ったのに、唯仏の一語だけ得て、亡者がどの道に生まれたしか分からないが、如何なる亡者を助けるかどうかを分からない。そなた達は仏経の方式に従って、敬って求めないのは仏法に従わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に答えない。勝手に聞けば答えを貰うと思わないで、全ては仏法に従わなければならない。何故仏経はこの段落を記載して、後世の仏を学ぶ人に読ませるだろうか。それは仏は分かったが、末法時代に全ての人はとても貪るから、沢山な訳が分からない考え方がある。

例えば、癌に罹っても癌細胞と共同に存在するのを言った。自分が行った様々な悪業に対して懺悔するのを分からない。末法時代に皆は仏法に沢山な誤解を持った。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは先にそなた達に敬って祈請の重要性を知らせた。皆は仏法に従って行わないから、仏法は滅びた。何故地獄に生まれただろうか。それは福報がないから。皆道場に来て、恭敬心は必ず起こらなければならない。地蔵菩薩は供養、仏を礼拝する恭敬を通して、亡者に福報因縁を貰えたから、地蔵菩薩は始めて亡者がどの道に生まれたのを分かって亡者に仏法の助けを受ける。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して開示を求める時、若し恭敬心を具えないと、亡者に福報を累積する機会を与えられない。

昨日ある信者は子女を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。自分の事を聞いた後、突然に自分の両親と夫の事を聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に彼女の両親と夫は今人は何処にいるかと聞いた。彼女は沢山に解釈したが、その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する事を事を聞くとしてしないと言った。若しリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に事を聞かせれば、世間に事を聞く習慣に従って、状況によって料金を取るだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェの修行と大能力は仏法で衆生を済度するが、仏法で価格を交渉しない。現代の人は代表に依頼すれば、どんな事でも聞かれると思ったが、寶吉祥仏法センターに於いて、代表を依頼して、拝謁するや事を聞けるではない。それは聞く人はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いた後、帰っても必ず言うわけではない。たとえ言っても相手は必ず聞くかどうかを分からない。こうすると、皆の時間を浪費するだろうか。

そなた達は事を聞くのは唯自分の好奇心を満足するだけ。皆は帰った後、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁したい家族や友達に伝えて、代表を依頼して拝謁する事がない。唯聞いてみて構わないと思わないで。事実はこうすれば、仏菩薩に恭敬心がない。そなた達は何故家族や友達に機会をくれて、仏菩薩に会って仏菩薩と縁を結ばないだろうか。若し本人が自ら拝謁して、問題を提出すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずそなた達に助けを与えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に事を聞かれないが、発願して衆生を済度する修行者である。そなた達の人生は問題があって仏法の助けが必要であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは答える。若し、自分の欲望のために来ると、最初そなたの苦しみを解決するため、そなたに機会を与えるため少しそなたを満足して、そなたの仏を学ぶ障碍を減少した。しかし、そなたを一回助けた後、そなたは自分が決心して行なって自分が修行しないと、そなたは此の世の業力は始めて転じられる。

ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、法を修めて、自分のビジネスは栄えるように求めた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは一年に一回財神法しか修めない。更に自分のために修めるわけではなくて、弟子達は通常に供養があって、この道場を護持しているから、弟子達のために財神法を修めて、弟子に仏を学ぶ資糧がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分はビジネスを経営しているが、自分の会社のために財神法を修めない。そなた達は仏を学ぶなら、仏を学ぶのは加護を求めるのを思わない。悪の果報が起こったのはそなた達は昔に悪の因を撒いて、果報がまだ未熟する前に仏を学んで累積した善因があるから、悪果が発生する時間を延ばすや悪果の味を変える。しかし、唯果報を軽くなって、果報は相変わらず発生する。若し此の世に発生しないと、来世も相変わらず発生する。よく考えて若し仏を学んで悪の果報に発生させないと、仏を学ぶ全の果報も発生しない。

ある者は仏を学んだ後で、不倫のご主人は自分の身の回りに帰って嬉しいと感じた。じつは、これは仏を学ぶことと関係がない。仏はそなたのご主人或いは奥さんを連れるのでしょうか?彼らをそなたに連れて帰るのでしょうか?そうではない。これはすべて世間のことである。もし仏はこのような多くの世間のことを気にすれば、それでは、仏もあまりに忙しく過ぎる。仏は我々に生死大事を解脱することを助けて、それらの世間のことをきにしない。仏はそなたのご主人と奥さんを送ってあげないで、一切なのは縁法のみで、帰ることがかならずいいこととは限らなくて、冤親債主かもしれない。

そなたは「仏を学んだ後で、子供は本当に利口になった」をいうかもしれない。実は、子供はもともと利口で、しかし、親とするそなたは少しの良くない話を言ったので、或いは、よくないことをしたので、子供はそなた達の行為を見てから悪く事を学んだ。しかし、そなたは仏を学んでから、本来のよくない習慣を変えるので、子供はそなた達が変えたことをみるので、おのずから悪いことをすることができないと知っていて、だから、自ずから利口になった。そなたは法会に参加して仏を学んで、福報を増えて、そなたの世間事がますます何が変わる。あるいは、仏を学べば学ぶほと魔女になって、一日中にただお経を唱えてご主人に回向し、不倫の相手に回向し、彼女は速くて離れてそなたの家庭に平和にならさえることを望んでいる。ある上師が気にするのは鬼がいて済度できるかどうか、そなた達は毎日にただ不倫の相手に離せることを考えるのようではない。

近代的な科学は研究し発見して、我々の如何なる身口意で産生する思想と行為が宇宙に信号を残して、永遠に消えてなくなる。ただ頭の中にすこし考えて大丈夫だと思っていて、だれでも知らないで、実はそなたの思想は宇宙に信号を残した。もしそなたの思想はすべて他人のために、反射する信号がすべてよいである。もしそなたは全て自分の私欲で考えて務めて、帰る信号がすべてそなたに傷つけるのである。

仏は因果法則を説いて、迷信を説くのではなくて、一切のことの発生がすべて因果があり、実は仏法だけではなくて、外道も因果を説く。『地蔵経』に記載されていて、地蔵王菩薩のお母さんはよくスッポンの卵を食べて、だから往生した後で地獄道に生まれた。多くの人々は病気に罹った後で、自分の一生が悪いことをしたことがないでなぜこのような病気に罹っているを感じた。実は我々はお母さんの腹の中で始まって悪をした。もしお母さんは胎児の好きでない食品を食べるならば、胎児は母の腹の中で殴ったり蹴ったりすることを始めて、両親はまた分からないで胎動することがとても面白いようにと思っていて、実は子供は手足で蹴ることにて自分の好きでないことを表現し、これは悪をする開始のである。子供は成長する過程には、誰でも奪いとって或いは嘘だったことをして、彼は白痴でない限り、かえって、騙すことが偸盗だ。なぜ子供はこれらの悪事をするのでしょうか?これは本能ではなくて、過去世でもってくる習気で、だから、我々は子供時代からすでにおおくの悪をして、更に成長するとまた肉食して、もっと多くの悪をすることを言うまでもない。

ある者は法会に参加して、冤親債主と堕胎の子供を済度し終わったら大丈夫だと思っている。実はそうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつても開示したことがある。例えば、ある部屋は長期で魚類などの海鮮を置いて、一旦魚類などの海鮮を抜いて、部屋に同じように生臭いがあって、如何にこの臭いを取り除くのでしょうか?その時に、事後の清潔作業はとても重要し、ある者は芳香剤を噴き出して、ある人はよく掃除する。もし常に掃除しないなばら、生臭いがやはりあって、その上、またほこりがあって、クモの巣もあって、あるゴキブリなどの虫も入る。異なる清潔方式は異なる修行法門のように、しかし、この部屋はそなたのものだので、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに代わって部屋を清潔してあげることができないで、必ずそなたの自分によらなければらなくて、たとえリンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに如何にしていって、甚だしきに至ってはそなたを連れてして行っても、そなたは同じように自らしなければならなくて、このようにしたら臭いを抜かれる。もしそなたは掃除しないで、また黴と細菌が生えて、再度最初からしなければらならない。仏を学んで修行するのは清潔作業である。リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単な言葉でこの道理を解釈し、そなたたちにもっと明白させられる。

ちょうど法会の前に舞台に上がって分かち合う弟子はなぜこのような長くて皈依してもまた状況があるのでしょうか?そなた達は自分の果報を受けたくないで、法会に参加したら加護も貰えて、どんなことがすべて発生しないと思っている。もし一生にどんことを発生しないならば、そなたをおめでとうございます事がないで、なぜならば、返済することができないわけで、業債は返済しないならば、生死を解脱することが出来ない。もしこのことをそれを発生させないならば、来世に発生する。もしいま発生しないならば、そなたの往生するまでに発生し、もしそなたはそれを発生させないならば、果報が地獄道に下りるかもしれない。上師と諸仏菩薩の加持はそなたに一切なことを順調させてあるいは病気に治させることのではなくて、加持は最も重要な効果がそなたの臨終の前の瞬間に、そなたに業障をしっかり止めて上げて、そなたに輪廻生死を解脱させられるのである。

ある人が市中の廟に祭って加護を求めて、少しのことが暫く好転し、原因はその鬼或いは神が比較的にそなたが好きで、そなたに少しの助けをあげて、しかし、そなたに徹底的な問題を解決して助けることができないで、また、全て後遺症がある。ある金剛乗の上師は絶対にそなたの問題がどこにあるという能力があり、そなたに方法を与えて、そなたに如何に自分の業力を転じることを教える。だから、法会に参加して終って、事件にとても速くて発生させられて、そなたにこの世に全ての業報を完済させられて、しかし、ポイントは依然として自ら修めなければならない。仏を学ぶ心構えはとても重要し、もし間違って学ぶならとても多くの状況を出して、特に金剛乗の修行方式は一旦間違ったら、再度改正して戻ることがとても難しくて、それはとても長い時間にかかる。我々は決心をつけて仏法を学ぶことを開始し、心構えを調整させなければならなくて、仏法を生活に入って、仏法の態度で一切の問題に直面する。

寶吉祥仏法センターにはもし未成年の人は仏法を聞いて来たいなら、両親の同意を得なければならないのダウr。なぜのでしょうか?法律にとって、両親は子供の後見人で、もし両親の同意をもらえないなら、騙すことのようなのではないか?リンチェンドルジェ・リンポチェは如何にそなた達の子供が小さい際に、彼に法律を守って親孝行をすることを教えないことをさせない。同様な道理で、子供をつれで仏を学ぶお父さん或いはお母さんも相手の家長の同意を貰えなければならなくて、仏を学ぶことはそなたの自分のことと思ってはいけないで、もう一人の家長が干渉できない、子供に小さいときから父母に背くように教えてはいけないで、これは子供に親孝行をしないことを教えるのである。親孝行をしない子供は成長すると、法律を守られない。多くの女衆はご主人を騙して或いは男衆は奥さんを騙して仏を学んできて、もともと仏法はそなたに悪事をすることを教えないで、そなた達は公明正大で学んでこない。

仏を学んでからそなたの生活に影響すると思ってはいけないで、これは仏法と外道の差別で、外道はそなたに生活に変って信仰を組み合わせて、しかし、仏法はそなた達に本来の生活の中に運用し、ただ、心構えは仏を学ばない時に異なって、かえって、仏を学んでから仕事をする必要がないで、或いは、結婚できなのではなくて、これはすべてそなた達の本来の因縁福報で、仏を学ぶことと関係がない。仏を学ぶのは責任を負って、責任を避けるのではなくて、自分の累世の業力を受けて、絶えずに自分を改正し、それから、輪廻生死を解脱することができて、仏になって衆生に利益していくのである。

ある40歳の女の信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに彼女に法会に参加させることを求めたことがあり、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が仕事がないし務めないし、彼女に1ヶ月以内に先に仕事を見付かってから再度求めさせた。このような状況にあうと、ある者は「いいじゃない。仕事がないのでちょっと専らで仏を学ぶことができる」をいうかもしれない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは「仏を学ぶことが我々の生活方式を変えるのではなくて、すでに40歳で、また正常な仕事がないと、彼女の未来がどうするの?」と開示された。仏を学ぶことは資糧もいるhし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女がお金持ちであるかどうかに構わないし、しかし、仕事がないなら、責任感を育成する機会がないで、将来に仏を学んで、上師と信者に対して、責任感を持つこともないで、実は、仕事場所は最もよい修行場所である。いいであれば、良くないであればに関わらず、すべて仕事場所で現れることができて、家に現さない問題が仕事場所に現す可能性がある。金剛乗の教法には、順縁あるいは逆縁がすべて我々に心構えに調整させられることを助けられて、しかし、仕事をしないなら、ただ家にいるなら、我々に改正するはず心構えを如何に我々に知らせるチャンスがあるのでしょうか?

仏を学ぶのは最も重要なのが自分を改正する。ただ線香を供養し、お経を唱えて、仏に礼拝することを通して、平安に求めてもらえるのではなくて、これらはただ助縁で、そなたに因縁があって仏法を学ばせる。市中にある者はボイル器で灑淨をすることを発明し、これは仏経に記載されている方法ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのことを直貢チェツァン法王に報告したことがあり、師弟の二人はこのようなやり方に対して泣くに泣けず笑うに笑えないのである。灑淨はみずからしなければならなくて、如何に灑淨することが仏経にとても詳しくて記載されて、仏を学ぶことはそなたに発明家にならせるのではない。「阿弥陀仏無遮大超度法会」には、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら手で吉祥草を持って灑淨し、このようにすることが身口意と関係がある。身口意の身は意識を含めて、自分の力をして行って、あることをして、全部の命をしなければならなくて、衆生がみたら感動されて、そなたが手を抜き材料をごまかすと感じることがない。もしボイル器を使うと、灑淨することができるなら、仏経の上に形容して我々に知らせて、しかし、仏経にこのように書かれたことがない。もしあるプラスチックの瓶を持って灑淨して、衆生はプラスチックの瓶を見たら誠意が足りないと感じる。

そなた達は観世音菩薩の法写真をみると、手の上にも自ら寶瓶を持って、意味は観世音菩薩が大神通力をもっているけれども、同じようにみずから灑淨しなければならないで、神通で瓶を空中まで上げて水に溢させるのではなくて、このようになったら、絵の方式で描かれた。だから、ボイル器で灑淨するのは方便法のではなくて、かえって、怠ける方法で、もし力を節約したいなら、それでは、芝生を灌漑するシステムで撒き散らすなら十分だ。もし噴水は役に立つなら、仏経に早くて書かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは灑淨した折に使える吉祥草が普通の草のではなくて、箒で灑淨したと思わないください。吉祥草を縛る糸でも特定な糸で、特定な方式で縛らなければならなくて、とても厳格でとても重んじた。その上、寶瓶は銅で作ることもとても多くの原因もある。

みんなはすべて多くの本を勉強し、しかし、本を放すとすぐどのようにすることを知らない。仏法は体得を通して学んで、多くの人々は心理学を勉強し、が、自分の煩悩に直面することもができない。仏法は人々に煩悩の根を了解させて、根から掘り始めて、ただ表面をみるだけではなくて、これを断たせて、将来の災いが無くなった。とても多くの方式で掘るわけで、だから、大乗と小乗などの異なる法門をわけてはじめる。例を挙げて、他の宗教はただある花をみて、それから、ただその花を抜いて、或いは草を抜いて、しかし、根まで抜き取ることがないで、うわべから着手して、もし、根まで抜き取ることがないなら、暫く成長していく。仏法は我々に根まで抜き取ることを助けて、根本から問題を解決し、だから、より多くの工具を使って、より多くの力にがかかって、また多くの時間にかからなければならない。どのように徹底的に根絶することができるのでしょうか?上師の連れることがいらなければならなくて、我々は福報がないし、自ら仏をみる資格と仏の教導をもらえることがないで、だから、必ず具徳の上師に依止しなければならない。

当時釈迦牟尼仏は法輪を初転した時に、最初の弘法の対象がそのずっと仏の傍に随っている6位の侍者である。その時に、インドで流行していたのは苦修で、瞑想の方法で修行するわけで、だから、仏は彼らにより受け入れる方式で宣説し、彼らに四聖諦法の苦集滅道と十二因縁法を教導してあげて、彼らに苦しみの成因から思惟させて、思惟を通して悟らせた。彼らは観世音菩薩が知らないで、ただ釈迦牟尼仏だけを知っている。小乗仏法は修める最高の境界が四果の阿羅漢で、阿羅漢はもちろん我々によりよくて、阿羅漢が再び輪廻しないわけで、しかし、阿羅漢の発心の範囲があまり小さくて、ただ自分の生死を解脱することを求めて、だから、広大な衆生に利益する威徳力と功徳力がないで、衆生に生死を解脱するように助ける能力がなかった。

後期まで、仏は衆生の縁が人々を離れて修行することが難しいを知っていて、だから、大乗仏法を宣説することを始めて、凡夫にいかに菩薩を修めてなることを教導した。『華厳経』には菩薩になることがあれらの行為を遣り遂げることを教導し、行住坐臥の中の一切の身口意をすべて衆生に利益しなければならない。一切の仏菩薩は人道から修めて、人間になることがその戒律と方向と規範がある。大乗仏法は六波羅蜜から修めて、その上、慈悲心と菩提心を修めなければならない。一般的に言えば、人間の身体は年齢を増えるので各方面を衰退し、しかし、仏法は特別な心が人間が老いても構わないし、ただ智慧を啓いて、同じように衆生に利益することができる。仏法は後期まで修めて、たとえ人間が動かないでも、ただ心を動いて、同じように衆生に利益することができる。仏は多くて話していないで、ある雑談の話を仰っていないで、仏が曰くすべての内容は全て衆生に輪廻生死を解脱することを助けて、すべて原因があり、仏が口を開いて説いたら、必ず衆生が仕方があって遣り遂げられることのである。

仏は我々に生死を解脱する法門を教えて、ある者は菩薩まで修めて再度地球に戻って衆生を度するをいうかもしれないし、しかし、十地菩薩まで修めるのでない限り、ただそなたはまだ八地菩薩以下であれば、なんとなくすこしの無明を持っている。衆生を度したいで、許せないで賛成しないのではなくて、ある範囲を制限しないでください。そなたはまだ菩薩果位を認めていないで、必ずまた業力があって、この世の善悪業力を除いないなら、そなたは願によりくるのではなくて、帰って、業により来るのである。釈迦牟尼仏は慈悲をして、末法時代の衆生の業が重いことを知っていて、後期で阿弥陀仏を紹介して来て、そなた達に阿弥陀仏の浄土に修行させられる。

仏経に業をもって阿弥陀仏浄土にいけることに記載されている。リンチェンドルジェ・リンポチェはみなにここに言うことが善業で、悪業ではない。決心をしないわけで、輪廻を離れる決心がないで、煩悩を起こすと輪廻にはいる。苦海を離れる決心をしないなら、この世に悪業は一掃することができないで、阿弥陀仏浄土に往生する者は福徳因縁がある善男子と善女子は往生することを発願しなければならない。浄土に着く者はすべて十善法を修める者で、十善法をうまく修める人であれば発願することができはじめて、また、足りる福徳因縁がいるし、リンチェンドルジェ・リンポチェは「阿弥陀仏無遮大超度法会」を主催することがそなたたちに功徳因縁をつくってあげて、しかし、十善法を修めるのがそなたたちの自身が修める意欲によることが必要だ。

ある男の弟子は人間とすることがとても面白くて、来世に人間になって、再びこの世界に遊んでくると言ったことがある。彼はこのような心構えがあって、以降、業報も同じく彼に見させる。ただそなたがこのように言うと、それでは、そなたは仏を学んで累積するすべての功徳を福徳になる。福徳は来世に使えられて、功徳がないならば、累世の業はこの世に転じられないで、ただ功徳が往生する時に我々に助けてくれる。そなたはこの世に累積する人天福報がそなたに来世にいい生活を暮らして幸せに暮らすことが出来ると思っていて、しかし、ミラネバ尊者が仰ったことがあり、ただそなたは輪廻を解脱していないなら、そなたは必ずある世に地獄に堕ちる。そなた達は地獄に落ちることが難しいと思ってはいけないで、実は地獄に落ちることがとても容易で、仏になることに比べてより多くて容易である。釈迦牟尼仏はある世に地獄にいて、我々はかつて地獄で苦しみを受けたことがあり、この世に人身をもらえるのが我々にこのチャンスがあらせて生死を解脱されることをはっきり知らなければならない。

なぜみなに仏を学ばせるのでしょうか?なぜかというと、仏を学ぶ人が一人が増えると、地球を破壊する人が一人が減らす。人間の力はとても大きくて、この地球は人間にすでにできないようすを破壊された。もし悪を行う人は一人が増えると、地球は多くて破壊を受ける。そなが暮らしているところはようて問題がなにもないと思ってはいけない。実は、そなたはどこに暮らすにかかわらず、すべて地球にいて、違うところの環境はまだお互いに影響する。地球の環境は悪くなるのは自分と関係がないと思ってはいけないで、そなたたちの後代を考えて、未来、彼らはどのようなきわめて悪い環境にくらすのでしょうか?そなたは自分が結婚しないで、子供を生まないなら後代がないことを言ったら、しかし、そなたも來世がある。たとえ浄土に往生することを発願をしても、願により再び帰ることを修めても、その時に、まらよに衆生に度して、もしあちこちにすべて核の銃弾があったら、そなたも衆生に度することができない。

衆生を助けるのは空港で天上の雲に大悲呪を唱えて雲を追い払うことを望んでいて、これは衆生を助けると思うのではない。いかなる真言はこのなりの意味があり、真言はなぜ釈明することがない理由が本尊の修行の功徳、願力、境界で、一部は本尊と護法の間の誓いの言葉で、が、誓いの言葉は公開しないで、だから、一旦に解釈して公開になると、別の方式にて破壊してそなたに誓いの言葉をやり遂げないことができる。だから、大悲呪は公開して言葉つづ解釈された後で、リンチェンドルジェ・リンポチェの個人の見方は大悲呪の力が減らすことがある。かつて大悲呪はとても霊験で、リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて大悲呪も唱えて、毎日に49回を唱えて、だから、とてもはっきりしている。実はあるところの気候はよくないなら、現地の住民の共業で、仏経に記載されていることもあり、あるところの人間は貪念が重いなら、現地の水害がとても多いのである。

だから、チベット仏教は我々に六字大明呪を唱えることを教えて、ただ6つの音節だけあるけれども、しかし、釈明が容易ではない。六字大明呪は観世音菩薩の心呪で、釈迦牟尼仏は六字大明呪の意味を釈明したいなら、少なくとも1小劫の時間にかかることを仰ったことがあり、これはとても長い時間だ。

仏陀は当年に法輪を始めて転じた時に、我々は正法時代と称して、仏の教導下に。人々は禅を修めて持戒することを通して悟りを啓くことが出来た。なぜならば、その時にの衆生の業はより軽くて、福報も足りて、暮らしていた環境もそんなに複雑ではなかった。が、いまは末法時代で、その上、五濁悪世で、衆生の五毒はとても重くて、仏法を信じないで、仏法がますます消えていく。ある者は釈迦牟尼仏が金剛乗を仰ったことがないと思っているけれども、しかし、仏経の中に多くのところで金剛乗の痕跡を見えた。大乗仏法の方式にて修めるなら、十地菩薩を言うまでなくて、この世に登地菩薩を修めたいでも、果を証する菩薩を修めもらってもとても容易ではなくて、だから、仏は金剛乗を紹介してくれた。

衆生の縁が異なるため、仏陀は小乗、大乗、金剛乗という三種類の異なる修行方式を開示した。修行の法門と過程が異なって、しかし、目的がすべて同じ、つまり輪廻生死を解脱するのである。小乗と大乗は因地から修めて、金剛乗は果地から修める。因地から修めるのはそなたはどんな因がどんな果になることを体得してから、ありのままにそなたの身口意を改正し、このような修行方式はとても長くて長い時間にかかって果を証することがやっとできる。

小乗仏法は煩悩を毒ヘビと猛獣でみて、だから、南伝仏法の中に、スリランカとミャンマーの周りの出家人は料理をしないで、料理することも煩悩と思っている。思惟とお経を唱えることを通して自分の心を仲裁し、十二因縁法と四聖諦法を修める。十二因縁法は彼らに絶えず瞑想させることを通して、その因を考えることにて、毎日一から十二まで見て、ある日まで、必ず問題の回答をもらえる。また、四聖諦法は苦、集、滅、道で、苦しみの成因から「苦しみはどのように来るか」を考えて、だから、小乗仏法は一切の苦しみを離れれて修める。小乗を修めるのは必ず出家しなければならなくて、再び悪業をすることを停止することができて、大乗仏法を修めるのは在家者が多数を占める。

金剛乗は衆生の心の中に仏になる種を持っていて、人々がすべて仏性があって、すべて同じと思っていて、だから、果地から修めて、根本から変って、外へ求めることが要らなくて、却って、心を修めて人間の本性を回復し、修行のスピードがより速いのである。衆生はすべて仏になる条件があって、これは本来各々衆生がすべて具えて、ただ累世の業力が衆生に自分がこの寶の存在を知らさせないで、金剛乗の上師はそなたにこの仏性を啓いてくれる寶のような上師で、だから、金剛乗の教法はより激しいのである。すでにスピードは速くなって、きっと厳格になって、具徳てきな上師から率いて監督することが要る。上師はとても重要し、上師はそなた達に自分の問題を発見させることを助けられて、そなた達に自分の錯誤を指摘することできて、一層に、自分の身口意の錯誤を改正することができる。前に部屋の例を開示したとおりに、ただ部屋はまだ臭いのでさえすれば、清浄な本性を回復することができない。

かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに具徳的な上師が備えるべきな条件を開示したことがあり、今日、再び説明しない。ある具徳的な上師とは彼は一定の数量を真言を唱えるだけではなくて、これはもちろん条件の中の一つで、却って、上師の証量と功徳をみる。所謂証量は修行者が果を証するエネルギーだ。上師の証量は衆生に利益してくれることができて、衆生に因縁を作ってあげて仏法を学ばれて、甚だしきに至っては、そなたにタクシーをしっかり止まることができる。あるものは仏を学ぶ後上師の加持があって、タクシーにぶつかられても大丈夫だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアで開示し、証量がある上師はそなたにタクシーをしっかり止まることができて、甚だしきに至ってはトラックをしっかり止まることも出来て、それでは、そなたは意欲に従って、甚だしきに至っては自分が列車にぶつかるのでしょうか?もちろんそうではなくて、上師はそなたのためにすこし止まって、そなたに時間をもって機会をもって仏を学ばせて、しかし、仏を学ぶのはそなたの自身で修行しなければならない。

その上、上師が証したエネルギーはそなたに見させられて、彼の身にそなたに仏法を言われる内容を見させられて、まだに別に一回あるいは自己宣伝をみるのではなくて、却って、行者は毎回心を起こして念を動いて衆生に助けることがすべて遣り遂げて、寶吉祥仏法センターにそなたたちが見えることがその通りだ。具徳の上師はまた功徳を持っていて、衆生に仏法に信心を生じさせられる。具徳の上師はそなた達に輪廻を解脱することを教導し、その上、ソナタタイtに輪廻を解脱する方法を率いて、だから、より厳格だ。

ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェが乗ったエレベーターを急いでのることをして、気がよりよいと思っている。間違いなくて、気がよりよいが、しかし、気がよりよいとしても、その後もそなた達自分からしていて修めることが必要である。そなたは皈依していない者であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに管理することができない。そなたは皈依したら、或いはすでにここに来て仏法を聞いて、それでは、聞くと始めてして行かなければならない。皈依文に記載されているのは「諸々の悪を作すこと莫く、諸々の善を行い」のである。上師はそなた達に方法を教導し、甚だしきに至ってはそなた達に連れであるることが出来で、しかし、諸仏菩薩及び上師はそなた達にしてくれるあるいはそなたたちに代わってすることができない。上師は様々な方式にて教導し、弟子達は上師に信心を具えければならなくて、自分の考えにて仏を学ぶことをしない。或いは、そなた達に修行の方式を教えても、そなた達は教法によりしっかり実行しないで、つまり、そなた達に輪廻生死を解脱することを助けない。

皆の生活方式は異なって、古代に、ある者の時間はとても多くて、することがなくて、だから、仏はより多くの内容を仰った。しかし、仏経の内容を研究して分析することは仏を学ぶのではなくて、仏経をある学問だけで探求しないでください。古代に多くの大修行者、大成就者は字が読めないで、ある者は甚だしきに至っては漁師、猟師で、しかし、彼らは依然として修行して成就があった。仏法を学問を研究することとしてはいけない。この時代にいて、皆はとても忙しくて、ご主人とするのは忙しくて働いて、奥さんとするのは毎日に忙しくて料理を作って、そのような多くの時間がなかった。

金剛乗の上師は口訣を伝授して灌頂し、そなた達の因縁及び根器によって適する法門を教導し、そなた達に仏になっていない前に生々世々にすべて加持している。そなた達は上師から教導してくれる法門からして、スピードがとても速くなる。その上、ある上師はそなた達に仏経の道理を教導し、この上師も依止することも出来る。しかし、ある者が自分がある神通を持っていることを話したら、彼らはこれらの能力があることを証明することが出来ても、そなた達もとても注意しなければならない。すでに在家の仏を学ぶ者で、その上、社会で働いて、仏法を生活と仕事の中に溶け込んで、さもなく出家して人々を離れて修める。ある者は自分も山に行って仏を学んで修行すると思った。しかし、ある名山はすべて現代的な山で、しかし、ここに言う修行は原始の山を言う。もしそなたの身心が一定的な程度を準備していないなら、原始の山に行って閉関して修行することができない。もしそなたは証量がないならば、行ったら事件を発生するかもしれないで、恐らく1ヶ月にならないで死んでしまうかもしれない。

もし、仏を学ぶのは加護を求めるのではなくて、最初にできるかもしれないし、仏経に記載されたことがあり、最初、そなたの欲望を満足させて、つまり所謂欲望にて誘う。しかし、実は加護を求めるのは仏を学ぶことがいらないで、ただそなたのお金を寄付したら十分だ。ある者は野菜を売るお金を寄付し、これは仏法を言われる善事と同じと思っていて、これは人間とするはず善事で、しかし、仏法の善ではなくて、仏法の善は十善法で、過去にとても多くて解釈したことがあり、今日時間が足りないのでしばらく解釈しない。

顕教には小乗と大乗を修めることができて、金剛乗をおさめることができないで、なぜなら、法門及び発心が違うわけだる。そなた達の考え方は貪瞋痴を充満し、自分の欲望を満足させたい。そなた達は皈依した時に、皈依には、法に皈依し、欲を離れるなら尊貴である。法は修法するのではなくて、ただ教導の方法である。そなたが欲望を離れられるなら、自ずから尊貴を得る。何も求めず人は自ずから人に感情を害することがありえなくて、時間が長くなって他人が自ずからそなたを尊重する。賢い人間の頭にて仏法の偉大を考えないでください。そなた達の賢さはずべて貪瞋痴慢疑の賢さを知らなければならない。

大乗仏法を修めるのは最も重要な方法が懺悔である。「懺」と「悔」は二つのことである。懺悔の懺の意味は承認して受けて直面して自分の錯誤を責任を担当し、その上、間違ってしたことの一切の結果を進んで受ける。悔はこれから再び犯さない。懺悔とは懺悔すると問題ないのではなくて、結果を発生していないのではない。そなた達が理解できる例を挙げて、冤親債主はそなたたちにお金を借りるような債権者で、そなたが懺悔するのは自分が彼らにお金を欠けることを承認し、お金を返す誠意を示す。債権者はそなたの誠意を見れば、そなたに時間を与えてお金を返させる。債権者は最も心配することがそなたが消えて無くす。そなたはお金を返す誠意があったら、債権者はそんなに緊迫しして強いないで、そなたに死に追いやってもまだお金を出すことができない。しかし、そなた達はすべて弁済したくなくて、そなた達の懺悔が本当の懺悔ではなくて、ただ債権者と謝って、「申し訳ございません、私はあなたにお金を借りるべきではなくて、しかし、最初、そなたもお金を私に貸すべきではない」と言った。債権者はそなたがこのように言ったら、怒らないなら無理だろう。

懺悔したら弁済する必要がないのではなくて、ただそなたに時間を与えて働かせて、そなたの家族のことを良くならせるのではなくて、そなたは心配しないで一心に働いて弁済することが出来る。果報は同じように存在し、しかし、懺悔した後、果報が軽くなって、そなたは何を間違ってしたら悪の因で、悪の果を成熟していない前に、懺悔の力がそれを軽減させて、完全に消えさせるのではない。

仏法には、仏菩薩はそなた達の冤親債主を追い払うのではなうて、却って、冤親債主はそなたが仏を学ぶことを見ると、そなたは将来浄土にいくなら、彼らがそなたに従って浄土にいけて、だから、彼らはいまそなたに一寸ゆったりして、そなたに時間を与えて仏を学ばせる。冤親債主を済度してからそなたと関係ないと思ってはいけないで、冤親債主は最も権力があって連れられる者で、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの済度法会に参加したことがあって、冤親債主を済度されるのではないかというかもしれない。その通りだ。そなたは法会に参加して冤親債主を浄土に済度して、彼らは毎日に蓮花に暮らす生活がそなた達によりよい、が、仏になる前に、同じようにしこしの無明があって、煩悩を持っている。

衆生は浄土に往生するならすべて神通があって、だから、浄土に済度された冤親債主はそなたに続けてみることができる。そなたの冤親債主は浄土でそなたが地球にいて自分をうまく改正しないで、依然として乱行や悪事を働いて、肉食をして続けて殺生をすることを見たら、彼らの心の中に「この人は生きないほうがいい」を思っている。それから、そなたに苛める。祖師ジッテン・サムゴンが仰ったことがあり、そなたの病気が治されると、そなたは始めて再び仏を学ばないで、病気が再度そなた達に見付かって、つまり、冤親債主が再度そなたに見付かる。そなた達はかつてこのような仏法を開示することを聞いたことがないだろう。

一部の人々は生活が問題が現れるために、ある境界が現れるので、自分の心を警戒を起こさせて仏を学んで来たい。法会に来て仏法を聞いてから福報があって、仏を学ぶ後自分にいい生活を暮らさせると思っている。一部の人々は問題をあうと如何に処理することが分からない。一切を仏菩薩に手配することを言った。仏経に仏菩薩がそなた達のために手配してくれることを言ったことがないし、これらの人々は表面的に仏菩薩にとても恭敬し、実は因果を信じていないで、問題を仏菩薩にあげた。そなた達は仏菩薩の手配を信じることをいい、仏菩薩はそなた達に最もいいことを手配することと思っていて、このような心構えも貪である。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見してきると、大変なことを知っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に真相を話して、リンチェンドルジェ・リンポチェが因果を知っているわけである。冤親債主はそなたに仏を学んでよくなって、彼らが利益をもらえることを知っていて、それから、暫くそなたに邪魔しない。密法は所謂誅法が有るけれども、しかし、誅法を使う時機はこの事件が仏法に影響を産生したら使って、まして、誅法をした後で、最終の目的は同じように慈悲深くて相手に済度する。

ある者はお経を唱えて相手に回向し、これも巫術である。お経を唱えていて他人を苛めることを考えてはいけないで、この人が悪果をえるので彼に阻止することと限らない。仏経には殺す方式を使えたことがあり、なぜならば、相手は悪を行ってよくない果報を知っているわけで、その命をとって、彼に悪道に落ちることをさけることを助けてあげるわけである。もし助けるのではなくてただ人々を害するのために、効果がない。そなたのご主人はそなたの冤親債主で、そなたは彼の冤親債主だ。そなたは真言を唱えて相手に回向する時に、相手の祖先はそなたが自分のご主人あるいは奥さんを傷害していると思っていて、そなたに苛めるかもしれい。その上、ある家庭はほかの神様に保護されている。

そなたはある金剛乗の上師を離れてから、再び帰りたいならとても困難である。そなたはある金剛上師に皈依したら、そなた達は安心することができて、金剛上師の願力はすべての衆生に苦しみを離れることを助けて、生々世々の輪廻の問題は金剛上師に頼まれて、ただそなたは離れないなら、上師の加持力がずっといる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは10月21日に日本の東北の石巻市に行って修法しゅい、なぜならば、現地の観光局は懇切な誘ったわけで、いままでには如何なる教派は現地に修法していったことが聞かないように、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本に向いて修法していくけれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは同じようにそなた達を見ている。

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2013 年 03 月 27 日 更新