尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年8月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催されて、そして大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

法会が始まる前、ある女性の弟子は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を助けた経過を分かち合った。

彼女が39歳で、仕事が最も成功で将来性がある時に、彼女は職場の百態を看破して、4歳の娘を連れて家族を離れてニュージーランドに行って生活している。2001年7月、彼女は5年の移住する生活を終えて、台湾に帰って家族に付き添っていて、その時彼女は自分がすでに生活と仕事の順調さを経験したと感じて、たくさんの国家へ旅行に行ったことがあって、すべての事は誰かに配慮される日を過ぎて、この一生に経験すべきなのがもう経験したと感じて、人生がただこのようなことだと感じて、他の人が思われる幸せな日々が彼女にとって何も言う価値がない。彼女は常に夢の中で自分が家に帰る道が探し出せないことを夢見て、彼女も自分が何がほしいかを知らないで、多くの事に対して認めないで、個性が強くて、気性が激しい。彼女の夫は彼女に対してとても優しくて、すごく親孝行であり、とても家庭を顧みているが、しかし彼女はずっと夫の物事のやり方について好きではなくて、夫に対してとても厳しい。彼女の夫は最も常に彼女に言ったひと言は「人在福中不知福(自分のお幸せは分からない」とのことである。

2004年1月、彼女は父が逝去したため、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した因縁がある。そして施身法法会に参加することを慈悲に許可されてもらって、それから新しい生活を展開した。リンチェンドルジェ・リンポチェの毎週の殊勝な仏法の開示は、彼女にとって青天の霹靂であり、彼女を混沌の泥濘の中から抜き出して、以前に真な人生がまだ始まっていなかった。時間はどうしても十分ではないと思った。そのため彼女はこの世にきっと仏を学ばなければならないことを決心したが、その時に彼女の夫は彼女が一心に皈依して仏を学ぶことに対して非常に反対していた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、夫が賛成しないと皈依することができない、と開示した。どのようにしても、彼女は夫の承知が得られないで、彼女は再度リンチェンドルジェ・リンポチェに伺って、彼女が自分で決定することができるかと聞いた。あの時彼女は、もし彼が彼女の夫ではないならば、問題がなくなるだろうと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女がどんな決定をしても彼女を弟子とすることを許せない、と開示した。だから彼女は続けておとなしく待っていて、最後はついに夫の承諾を得て、そして2005年7月に、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。

彼女は、皈依した後に、すべてが異なったと感じた。上師の加持力があって、彼女はやっと様々な仏を学ぶ障害を越えることができた。リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の教えを長年も聞いていて、彼女は改正したいと思ったが、しかしずっと夫に対する不満を取り除くことができなくて、いつもその所が永遠に解けないと感じて、たまに依然として夫に対して怒ってかんしゃくを起こした。ある日になって、彼女は彼女のアキ護仏の法照が無くなったことを夢見て、翌日に道場で法会が終わった時、彼女のアキ法本が本当に無くなって、彼女に持たれて、当日の道場の法本と一緒に兄弟子に返した。幸いにもその現場で発見して、すぐに持って帰った。その故彼女は非常に自分の夢に注意する。ある夜、彼女は夫が猛毒な小蛇に噛まれたことを夢に見て、体が全く黒くなって、彼女の夫は命がけで彼女を抱いて、彼女が彼と一緒にすることを要して、彼女は大声で助けを求めて、赤の他人は彼女の夫を打ち殺しに来た。目が覚めた後に、彼女はたとえ他の人がすべて彼女の言い方を認めても、夫が数百、数千個の悪い所があると言って、夫を打ち殺しても何も役に立たないと思っている。そのため、これから彼女は二度と夫を咎めなくて、少しも無かったのである。

彼女は母に優しくて対応したが、母はいつも色々な不満を持っている。彼女に母がとても貪ると感じた。彼女は常に母に訓示して、弟子としてすべき親孝行を行わなかった。ある一回、彼女は夢の中にリンチェンドルジェ・リンポチェは母と自分に雪域天山の仙果を一つずつ与えた。母は貰ったのにまた欲しかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは笑いながら、母にいくつを与えた。目覚めた後、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェは本当に慈悲で気前がよい。このような貴重な物は母が話して多く要求しても相変わらず与えた。これから彼女にいつも母が貪って不満足の考え方を除かせて、全ては母の考えに従って行って、母に従った。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示された親孝行は彼女はようやく少し行えた。その後、八十歳余りの母もリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。その後夢の中に何回もリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持を得て、彼女に落ち着いて仏を学んで心の中に何も恐がらない。

2005年4月彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社の社員が過ちを犯した事を見て、リンチェンドルジェ・リンポチェの会社は人の助けが必要だと感じた。だから、彼女は主動にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、自分が財務管理をしているから、集団にボランティアになるのを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「また、検討します。此れは重要ではない。」と開示された。その時彼女はしっかりに仏を学ぶことは最も重要だと分かった。その後ある日リンチェンドルジェ・リンポチェは法席で「福報があれば、始めて教派或いは集団に仕事できる。」と開示された。彼女は自分の仏を学ぶ障碍が深くて重いのを深く分かったから、専念に仏を学んで福報を累積すれば、仏を学ぶ資糧がある。だから、彼女はこれ以上考えなくて、真剣に法会に参加して道場のスタッフになって、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法に従って、仏法を生活の中に活かして自分の悪習を修正しなければならない。

2004年から彼女はずっと中国ある多国籍企業の財務管理顧問を担当している。当時彼女は本当に行きたくないから、高い報酬を要求して、また一ヶ月に唯五日間に仕事していると言った。思わず、彼女をよく知っている社長はすぐ同意して、行けばいいと言った。だから彼女は始めて参考として経営専門家の本を読む必要だけど、その後用心にリンチェンドルジェ・リンポチェの教法を聞けば、仏法を仕事に活かせば十分に対応できる。彼女は世間の全ては本当に因果であると感じた。あの時多国籍企業が流行っているバランスト・スコアカード(BSC)は元々因果法則である。そうすると、彼女は毎月一回に中国に行って、8年に行っているが、法会を一回でも欠席しなかった。しかし、彼女は仕事を止めて専念に仏を学びたいが、中々言えない。社長は彼女が仏を学ぶ決心を分かったから、いつも彼女が来れば、自分が喜んでいると言った。彼女は社長が必ず簡単に彼女に離せないと思った。

2010年末、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に機会を賜って、集団に仕事させて、半日の顧問の仕事である。2011年12月までリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に指示して、管理職を担当させた。彼女は契約の身分で自分がアレンジして毎日10時過ぎ会社に出勤して、皆と一緒に退勤している。この間に彼女は引き続きに中国毎月一週間の仕事をしている。今年4月まである物事を適切に処置しないから、当日彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに厳しく叱れて、彼女は兼職の気持ちで会社で仕事して、このミスは会社に損失されて彼女は責任を取らなければならない。その時彼女は決心してしっかりに専念にリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で仕事している。だから、当日彼女は中国の会社に連絡して仕事を止めると伝えた。また、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔して、自分が今までだらだらして決意しなくて、物事に益々悪くなった。此の世に必ずしっかりに仏を学ばなければいけない。

彼女は大陸の仕事を辞めた一週間後、彼女の夫は彼女の左の胸に1つの腫れ物があったのを発見した。そして、彼女にすぐ検査を受けさせ、結局乳癌2期と診断された。彼女の夫は仏を学んだ事がないので、こんな事にあって驚かされて、毎日眠れなくなった。彼女の保険カードはあまり使わないのに、病気にかかったと重大患者になり、人生は本当に無常だ。彼女は自分の癌細胞は「多発性、侵略性がある」と聞いた時、すごく面白いと感じた。癌細胞さえも彼女が過去の性格を知った。成功するため、人に対して多発性の侵略と攻撃をした。これは真に因果業報だと感じた。またこの世に現前した。

彼女は仏をよく勉強出来るように早めに返そうと思った。それより乳癌にかかった事は全く気にしないで、少し調子の悪い感覚もない。ある日毎日眠れない夫は意外に彼女に大法会に参加しようと教えた。こんな数年来、彼女の夫は大法会に参加することを承知しなかった。彼女に対しての憎みと色んな不満は全部彼女が癌症を得たことでも追及しない。彼女は大変夫に家族と家事に対する配慮を感謝する。毎週彼女に付き添って寶吉祥漢方薬診療所へ薬を取りに行き、彼女に集中して仕事をすることが出来させた。癌のかかった事を大陸の社長に教えた時、大陸の社長は彼女に多く休んで、考えすぎさせないで、彼女の病気はやっと多くの者に暫く彼女の事を勘弁させて、見逃させた。

ある日会社で、リンチェンドルジェ・リンポチェは会社のことを話した後突然に彼女に「まだ会社でどのくらいするか?」と聞いた。彼女は「ずっと」とすぐ答えた。話し終わった後彼女は突然に思い出した。自分は既に50数歳で、癌にかかって、齢も取ったし、病気もかかったし、まだ社長に報告しなかった。そして、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分が乳癌の2期だが、まだ体力があり、し続けるチャンスを下さるように願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲で承諾し、また彼女にあの日に社員の資料を書かせて、社会保険を入らせた。同時に彼女が不順従で、過去に海鮮が食べ好き事も返済しなければならない、それに彼女に大礼拝をする必要と指示なさった。二ヶ月目彼女は回診した時、腫瘍が既に元来の2.8センチより1.5センチに縮小して、お医者さんさえもおかしいと感じた。

彼女は上師が彼女にこれから愁いなく生活するところがあらせることにとても感謝した。チベットには、仏を学ぶ者は仏寺にいて仏を学ぶなら自分が生活費を準備しなければらならなくて、が、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で勤めて、自らリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法が仕事に使う殊勝な教法を受けて、その上、給料をもらえて、彼女は感謝して感謝し、また、感謝しかない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは会社のすべての得意先、取引先、社員などに対して、すべて注意深い配慮し、手抜かりなく周到なことである。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが年明けに社員に対する仕事を始めて話しを始めて聞くときに、とても感動しました。リンチェンドルジェ・リンポチェは社員に対して自分の経営理念を詳しくて話して、利益を図らないであるいは業績を最優先になることを完全に考えないで、かえって、いかにベスト製品あるいはサービスを提供することを考えて、取引先も同じように配慮し、相手が何かミスがあっても、ただ誠実と信用で往来したら、リンチェンドルジェ・リンポチェはむしろ自分が損をして相手に何も損をさせないい。会社のすべての社員に対して同じように自ら教導し、会社には社員の信仰が何に関わらず、すべて平等にみる。社長は社員を配慮し、社員もまじめな働いて、リンチェンドルジェ・リンポチェも社員があうべき仕事の態度、正確の価値観、人生観も教える。

リンチェンドルジェ・リンポチェの教導は社員に職場で役に立つだけではなくて、この世にすべて役に立つ。会社もリンチェンドルジェ・リンポチェの一貫な教法を持っていて、厳しくて少しでも緩めることができなくて、このような社長、このような会社、彼女はずっとそこに働きたいと思っている。

彼女は自分が若い時に、5年ごとに仕事が変って、なぜならば、彼女は仕事がすで完璧になって、ただ繰り返す仕事を残っていて、他人にさせたら十分であると思っている。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法を聞いてから、彼女はやっとには上があることを知っていて、世間法がまた出世法があって、他の事をする時間がないで、早く仏を学んで、早くて出世法を了解していく。いま、彼女はやっと知っていて、宇宙虚空がすべて因縁により生滅し、一切が本来ただ繰り返して繰り返して尽さず輪廻のみあって、どこでも行けない。いま、ただリンチェンドルジェ・リンポチェに開示される「言うことを聞く」という二つ言葉をうまくてしかやり遂げない。

彼女はこの世に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが出会われることが本当に夢を見るさえ笑えると思っている。同時に、彼女も皆を呼びかけて、リンチェンドルジェ・リンポチェが我々に心配させないで、世間にリンチェンドルジェ・リンポチェに従ってうまく仏を学ぶ以外に、何も値打ちがあり記念がない。最後、彼女は再度金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後に、法会に参加した大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

最近、何回目で皆のためにガンポバ大師の教法を開示し、弟子が上師に依止する条件のである。皈依して仏を学んで拝懺し菜食することがあったら、仏弟子のである。多く人々は皈依すると、上師にどんな授業をするかを尋ねて、いまおおくの人々がこの欠点を犯して、自分が学びたいなら上師が教えるはずだと思っていて、あるいは、上師が本来慈悲深くて助けを与えるはずだと思っていて、これらの観念が間違った。そなたは弟子とする条件をあっていないなら、上師がそなたに教えても、そなたも弟子が上師に依止する功徳を得なかった。世間法により、ある良い高校に入りたいなら、そなたは入りたいと入られるのでしょうか?ある条件を備えて入学することができるのでしょうか?高校の時に大学試験を受けるときも同じように、如何にそなたがどっちの高校と大学を入学したいとそなた達に入学させるのでしょうか?資格と条件を備えなければならない。仏を学ぶことを言う出世法は条件説のではなくて、却って、そなたの根気により、そなたが上師に依止する因縁があるかどうかにより、もし弟子の根気が足りないなら、そなたに学ばせても、効果も産生しない。

実は、上師に依止する弟子になって、とても大きな因縁と福報が要らなければらない。そなた達は毎日に心の中に思っていて口で言ってやり遂げるのではなくて、これもなぜ仏を学ぶことが布施と供養の法門を修めなければならないで、福報を累積し、持続的な仏法を聞いて修行しているのためのである。ある上師に依止する弟子はしたら自分のために何を利益があることを尋ねない。ただ上師に信じていて、なぜならば、上師が弟子の因縁と福報をはっきりしていて、弟子の根気により伝法して教導するわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と同じように在家の身分で、実修を経由して果位を証して、だから、そなた達は仏を学ぶ過程の中にどんな問題と困難をあえるをとてもはっきり知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を皈依する一年の前に始めて菜食し、顕教を学ぶ時に、毎日に如何に忙しくても、必ず3から4時間まで、座禅を組んで、読経して、大悲呪を唱えていた。当時の顕教の師父は先に教えたのは布施と供養の法門で、ただ師父が言ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェがそのままでして、なぜこのようにすることを問わないで、どこに使えることを問わないで、したら自分になに利益があることも問わなかった。もしリンチェンドルジェ・リンポチェはその時に顕教師父の教導により供養と布施を修行することを従わないなら、その後、尊勝なる直貢チェツァン法王に会える因縁と福報も無かった。

ガンポバ大師が開示する弟子が上師に依止する10つ条件は全部円満になると、ある弟子が上師に依止する功徳が立ち上げることが出来る。行者はガンポバ大師が開示する弟子が上師に依止する10つ条件を具えるかどうか、必ず過去世と関係がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの世に自然的にこれらの条件を遣り遂げて、つまり、前世の修行が持ってくるのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは過去世に修行したことがあって、この世に少しの成就させられたけれども、しかし、相対的にそなた達に比べて多くて苦労し、なぜならば、ある本当の行者が多くの苦難を経るわけである。

我々は累世で仏を学ぶ種はすべて第8意識田の阿賴耶識で貯蓄し、上師はそなた達の仏を学ぶ種がこの世に芽生えが成長することを始めさせるのである。皆は知っていて、ある種が芽生えに、成長して、花が咲いて、結果になって、とても長くて時間にかかって、灌漑して一心に配慮を使わなければならなくて、そなた達が仏を学ぶのように、仏法の中に絶えずに薫陶して学んで、多くの因縁がいるし、種をそこにおいて、それが自分で成長してうまく大きくなるのではない。これを成長する土壌の自身はとても肥沃でも、やはり日光、水などの様々な縁がすべて備えなければならなくて、このようにしたらうまくなるのである。

世の中の人は今ただ自分の欲求を以ってだ仏陀の菩薩が助けることを求めにきて、助けを受けた後に、暮らすはず生活を戻ってくらして、少し聞き苦しいと言って、仏菩薩を利用するのである。仏を学ぶのは事件があってきて始めるのではなくて、事件を解決すると来ないのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの人々を助けたことがあって、常にある者は帰ってリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、恩返しの気持ちを表現し、実は本当に仏の恩に報いたいなら、うまく仏を学ぶはずで、しかし、これらの助けを受けた人々がよく恩返しが分からなかった。

今日、皆にあることを開示することが出来て、いままで、このことがすでにひとつの段落を終わって、だから、皆に説明することが出来る。みなはこの前に、ある妊婦が交通事故が起きるニュースを知っていて、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めてきて、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは主動的に彼らを見付からなかった。一部の人々は有名になることを主動的に見舞うかもしれないし、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは受動を採取した。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも受動的に、なぜならば、名声と利益を求めないで、縁を強くて求めないわけである。仏法は縁を重んじて、そなた達が求めてくるのは縁があって、リンチェンドルジェ・リンポチェは一切が因縁法と信じていて、彼らが縁があったら、おのずから来て、彼らが助けを受けて恩返しすることかどうかに関わらず、ただ彼らが求めてくる時に誠意がある心があったら、リンチェンドルジェ・リンポチェがすべて彼らを助けるのである。

その時、この妊婦の家族はリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めて来た時に、大変な悲しんで泣いていて、また、恭しい様子も表した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに彼女の昏迷指数を5を超えて子供が20日以内に退院することが出来ることを承諾し、これらの承諾がリンチェンドルジェ・リンポチェが遣り遂げた。この後、両方の家族はリンチェンドルジェ・リンポチェにすべて感謝してきて、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度彼らに開示し、全部の家族がよく仏を学んでいて、しかし、彼らにリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学ばせることをないで、けれども、彼らは言うことを聞かないで、自分の仕事が大切し、全部の家族の支柱で、時間を見付かって学ぶことが出来ない。皆がテレビのニュースで彼らの状況も見た。妊婦のご主人は相手の関心の気持ちが言葉や表情に表れて、いま、子供が退院し、奥さんがまた病院にいる。彼は仏菩薩の助けを受けた後、子供が退院し、一回の難関を経たが十分だと思っていて、仏菩薩を求めたことがあって、仏菩薩が続けて助けていると思っていて、自分が仏を学ぶこと計画がばいで、自分が続けて仏を学んで福報を累積することが要らないと思っている。彼はただ自分の仕事と生活がとても大切だと思っていて、他の立場で考えることが無いで、もし奥さんはこのように続けて病院に治療したら、健康保険の一定の金額まで給付することしかできない、この後、やはり巨大な医療費用に直面して、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼にどのぐらい医療費用を節約することを助けることを思わなかった。彼らのこのような状況は恩返しが分からないで、リンチェンドルジェ・リンポチェも多くて見た。

我々の福報は生まれてからずっと損耗して、ただ減らして増えないだけである。そなた達は如何なる思い通りにならないことを発生したら、業力を直ちに表すことを代表する。ただ少しの残り福だけで残って、恐らくそなた達に何年ん暮らしを暮らさせるかもしれない、あるいは、残りの暮らしを減らして終わるだけである。仏菩薩はその場凌ぎの手助けはできても、長くて救おうとすることは難しくて、しかし、そなた達に運を変ることが出来ることを代表しない。そなた達は苦しみと困難があったら、仏菩薩がそなた達に助けて、しかし、その後、自分のよるのである。彼らは謁見して来た時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに開示し、相手の運転手と喧嘩しないで、恨みを起こさないで、、意図性的な殺そうと限りに、あるいは誰かがわざとぶつかること人がいない。すでに非事前に謀る事故が発生したら、両方が累世の因縁と業力の牽引だと表して、つまり、彼らの祖先の殺業がとても重くて、天地の間に彼らにうらみを起こして、懺悔して再び福報を累積することが間に合わないで、如何にもっと深く恨みを結ぶのでしょうか?しかし、彼らは謁見した時に、その場でリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を唯々諾々と聞いたが、離れてから言うことを聞かなかった。なぜ子供が退院することが出来るのでしょうか?子供は福がまたあるので、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けをもらえられて命を救われた。しかし、子供の両親はなぜ事故が発生するのか、つまり、福をすでに尽したわけで、再び累積することが必要のだる。彼らがなぜ言う事を聞かないのは因果と因縁に信心がないわけである。これらは世間法のわけで、仕事をして家庭を世話し、奥さんを世話し、仏を学ぶことが重要だと思ってはない。だから、上師に依止する因縁がなかった。

前回の法会の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆にガンポバ大師が開示する「少しもけちではない財の供養により善知識に依止するはずである」を教導した時に、『上師に仕える五十頌』の中に教えることがあって、自分の奥さん、子供、命を供養しなければならない。普通な人は聞いたらびっくりし、しかし、金剛乗を修める人がわかって始めて、これは自分の奥さんが上師に送って、子供に出家させて、あるいは自分が命を亡くすのではない。いま、市中は一部の人々が子供に出家させて、このようにしたら子供を仏菩薩に供養すると思っている。しかし、実は、子供が出家の因縁がないで強くて彼に出家させるなら、後遺症もあって、逆に良くなくなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の息子を出家させないで、あるいは、彼に必ず仏を学ぶことを強制しないで、ただ心の中に息子を仏菩薩に供養することを思っていて、普段に特別な彼に回向していないで、修法した後の功徳も同じように全部衆生に回向し、ただ施身法を修める時に、彼をちょっと思って、結局、すべての衆生に助けて、息子も衆生の中の一人で、同じように助けて、結局、息子がその後言うことを聞くことになった。

自分の妻、子女及び生命を供養する。この事の要点はそなたの供養心である。身、口、意の中最も重要なのは意であり、心の考え方である。そなたは自分が執着する意さえ捨てられれば、何を放せないわけではないだろうか。通常引き続きに布施、供養を通して、捨てる習慣を養成する。何故人は死ぬ時に苦しんでいるだろうか。それは多くの懸念があるから、生前に我々に最も懸念させる事は死ぬ時に手を放せない。そなたが即死する前に様々なそなたによく見える事を行えば、却ってそなたに亡くなる前に最も手を放させない。人は死ぬ時財産及び眷属は我々を障碍する。懸念しないと分かれば、死亡する時苦しめなくて、自分の肉体を未練する人は死亡する時も極めて苦しんでいる。

現在多くの人は常に読経して、自分の体が何か悪くて、此処に痛くてあそこに快適ではないと感じて、呪文を唱えれば、自分の後ろに涼しいと感じて、自分が鬼衆を招くと思った。また、ある者は呪文を唱える時、心の中に熱いと感じて、菩薩に加持されると感じた。此れは全て彼達は自分の肉体を気になると示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは今までこのような感じを持たず、真の仏を学ぶ人はこの恐怖を持たない。既に菩提心を発した修行者は此れを恐がらない。

そなた達は若し鬼を恐がれば、多くの悪を作ったかもしれない。それもそなた達は慈悲心を持たないと示した。三悪道の衆生はとても苦しいが、真の修行者は彼達を恐がらなくて、彼達を助けて苦しみを離れる。実は人は鬼より百万倍を恐れる。鬼は憎みが有れば、必ず復讐して恩が有れば必ず恩返し。人は憎みが有れば、倍に仕返し、恩が有れば必ず恩返ししない。仏経に記載されたが、昔蓮師は始めてチベットに入る時、多くの魔を降伏した。これ等はその後降伏された後、皆蓮師の護法になり、仏法を護持するのを誓った。《地蔵経》にも記載されたが、釈迦牟尼仏は多くの鬼王及び羅刹を降伏した事がある。この鬼王及び羅刹はその後仏法の助けを得て、発願して仏法を護持して再び人を損なわない。彼達は仏法を護持するのを変えるのは感謝だから。却って現在の人は完全に倫理道徳観念が無くて、先生を尊敬しなくて全て恩義を忘れて、修行者だから、彼達を助けるべきだと思った。若し彼達が思った要求を行わないと、彼達は仏を誹謗する。現代人の貪欲はとても怖ろしい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて衆生を助けて、今まで人を助けたのは数えられない。また次の状況に遇った事が有る。多くの人は唯加護を求めて、仏菩薩は自分の事を解決して欲しい。彼達を助けて解決した後再び現れない。完全に恩を知らない。十人の中に九人は此れから再び姿が現れなくて、先程交通事故に遭った例と同じだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアに言ったが、常にこのショックを受けている。常にこのようなショックを受けているから、自分は如何しても肥っていない。若しリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助けるのは名聞利養のため、菩提心を発しないと、本当に引き続きに衆生を済度する事を難しく維持できない。リンチェンドルジェ・リンポチェは縁に従って衆生を済度している。そなた達の縁に従って、そなた達は恭敬心で仏法を求めるかどうか、そなた達は縁が有るかを決める。若しそなた達は仏法の助けを求めて、自分は唯方便な菜食料理しか食べられないと言って、この冗談な気持ちを使えば、リンチェンドルジェ・リンポチェもそなた達の縁に従って、方便な仏法でそなた達を助ける。

仏を学ぶ動機はとても重要である。それはそなたは縁が有るかどうかを決めるから。若しそなたは自分の有る目的のために仏を学べば、いつか離れる。そなた達は始めて仏を学ぶ時いつも敬虔だけど、その後長く学ぶと、皆顔に貪が現れて、すぐ上師及び仏菩薩に自分の欲望及び考え方を満足させて、開悟を求めても貪欲である。我々は何故輪廻しているだろうか。それは無始以来、一念無明であり、執着により煩悩を起して、続いて貪、瞋、痴、慢、疑が現れるから、止らなくて輪廻している。諸仏菩薩は衆生を憐憫して、衆生を助けて輪廻を離れるのは衆生が執着により煩悩を起して受けた苦しみを分かるから、助けを与える。

弟子が上師に依止する十箇条を行えば、始めて上師と相応できる。そうしないとたとえ毎日唱えても人天福報を累積するだけ、業力を転じられなく、此の世に輪廻を解脱できない。リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターを催して弟子達に毎年大法会の経費を護持させる以外、通常にリンチェンドルジェ・リンポチェは慈善バザーや弟子に特定な事を行なうため金を出すのを要求しない。そなた達は来たのは広告を見るや或いはリンチェンドルジェ・リンポチェはテレビに出たのを見るわけではない。徳を具える上師は名利と財のため考えない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは因果、因縁を信じるから、名聞利養のため衆生を助けるわけではない。そなた達も他人に金を寄付するのを言われれば、寄付するのをしないで。そなたにある肩書きを与えて受賞されて表彰を受ければ、そなたは行かないで。そうすれば、金を寄付した福報が無くなった。少なくても人天福報を少し累積できるが、輪廻を解脱する事に対してちっとも役に立たない。

何故現在の人は益々難しく修正できないだろうか。現在皆は唯如何なる自分に多くの利益を貰うのを分かった。この現象があるのは社会教育と家庭教育の失敗だ。一方、此れも仏法教育の失敗だ。現在家庭教育はそなた達に人として謙虚、正しい礼儀、損にならないように教えなく、唯そなた達に全身で武器をつけて、自分に傷付けないのを教えた。だから、職場で僅かな損でもしない。現在の若い人はそうだけど、50歳過ぎな人も同じだ。社会の中に多数の人はエゴであれば、この国の競争力は自然に落ちる。現在ある有名な国際の慈善基金会の会計帳簿も問題が出る。それは現在の人は皆貪って金を見ると誰でも動揺するから。

ガムポパ大師は財供養を開示された時、次の通りに説かれた。ちっとも吝嗇ではない心で上師に財を供養して、念を起せば行うべき、計算しない。例えば住宅ローンを払えないと心配して、最後に残った金を供養する。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に住宅ローンを払わず全て布施供養するのを言わなくて、唯そなた達に計算の心で布施供養をしないのを教えた。若し計算の心で布施供養して或いは供養した後後悔すれば、餓鬼道に堕ちるかもしれない。しかし、布施供養した事があるから、餓鬼道に堕ちた後、そなたの福報はかなりよく、人が出たよだれを食べられる。福報が悪いのは便所の側にしゃがんで大便を食べる。現代に於いて便所が無いから、この餓鬼道の衆生は下水道に隠れた。

供養すれば、必ず計算せず、後悔せず、人と供養金の金額を比較しない。そなた達は上師に供養したい時、気持ちを静めて始めて起こった念である。若し念を起した後後悔すれば、供養しないほうがいい。上師に自分を好きにさせて、上師に注意させるためにわざわざと供養する必要がない。此れは全て正確ではない。昔施身法を修める時、嘗てある者は発票(領収書)、ワインの割引券、更に外貨の硬貨がある。ある者はそう考えるかもしれないが、発票を供養すれば、当たるかもしれない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは発票を照合する時間が無い。此処も基金会ではない。基金会は金を払って人を雇用して民衆が寄付した発票を照合したが、此処にこのようなスタッフが無くて、当たるかどうかのため発票を照合できない。布施供養すれば、怠けないで。寄付したいなら、自分の発票を現金に変えた後、社会司に寄付すべきだ。

昔はある者は多くの食べ物を持って、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは通常にお菓子を食べる習慣が無くて、簡単に三食だけ食べた。幸い現在このようなする人はかなり少ない。供養の内容は上師の好みと関わらないが、唯弟子は上師を注意するかどうか。上師の立場で考えるかどうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に供養する時、必ず上師のために考えて、どんな物を供養すれば適切やどんな供養は直貢チェツァン法王が受けないなど。ある時リンチェンドルジェ・リンポチェはある物を直貢チェツァン法王に供養する時、事前に直貢チェツァン法王の教示を聞いて、直貢チェツァン法王は必要するかどうか。上師に迷惑をかけないようだ。

上師はそなたが供養した物は貴重であれば受けるわけではない。完全にそなたの供養心を見る。供養心が正しいなら、たとえ一枚の硬貨でもリンチェンドルジェ・リンポチェは受ける。心が正しくないと、たとえ二千万でも受けない。嘗て弟子は巨額な現金をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したいが、心が正しくないから、リンチェンドルジェ・リンポチェは受けない。こうして現金を持って往復に5回に来たが、リンチェンドルジェ・リンポチェは特に護法を求めてこの弟子に略奪されないよう守った。

仏法は我々に供養する事だけ教えたが、我々に何を見るや何を感応するのを求めるなど教えなかった。若し上師は我々に加持しないと、引き続きに仏を学ばない。世間に於いて、多くの人は毎日夫、子供に迴向して彼達は自分と一緒に仏を学ぶのを望む。或いは不倫の愛人に迴向して早めに自分の夫を離れるなど。実はそうする必要が無い。この心は実は何を求める。そなた達は皆自分と家庭のためによく計算している。しかし、あることわざ「策士策に溺れる」とある。実はそなたは子女、眷属及び生命を全て上師に供養して、後顧の憂いが無くて仏を学べば、上師及び諸仏菩薩は自然にそなたを助けて彼達を世話して、そなたに後顧の憂いが無くて仏を学べて、好い事でも悪い事でも無事に過ごせて安心に仏を学んで障碍が無い。

リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学ぶのはそなた達と違って、完全に自分を考えなくて、自分の生命を上師に供養して精進に修行している。リンチェンドルジェ・リンポチェも家族を諸仏菩薩に供養した。それは家族は若し仏法と縁がないと、仏を学ぶ障碍になる。仏菩薩はそなたの家庭を壊れなくて、仏を学ぶ事も冤親債主を追い払うわけではない。唯善縁或いは悪縁を見るだけ、分けるとは必ず悪縁とは言えないが善縁かもしれない。極めていい縁もそなたに執着を起して、そなたに亡くなる時障碍が有って手を放せない。極めていい縁や悪い縁でもそなたを妨げる。善縁でも悪縁でもそなたは執着して放せないなら、仏を学ぶ障碍になる。だから、仏菩薩はそなたのため少し調整して、そなたは本当に菩提心を発して仏を学べば。

ガムポパ大師は次の如く開示された。「ちっとも汚れが無い増上心で善知識に依止すべき。」此処に言われた「汚れ」とは声聞、縁覚以下の発心である。意味は声聞、独覚以下、どんな発心で動機としてすべきではない。「清浄な増上意楽」-菩提心で善知識に依止しなければならない。

仏経に説かれたが、仏法は求める。菩提心と清浄な心を備える必要であり、衆生を利益する心で仏法を学ばなければならない。上師は教えた仏法は世間の事のためではなく、皆に輪廻の苦しみを離れれば、清浄と言われる。上師の教えに対して、愚かで無知の心で学ぶことができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏門に皈依した第一の観念は仏法が自分と衆生に対して必ず助けがある。そなた達は仏を学ぶ時、沢山な条件を連れて、唯契約を結ばないだけ。

そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する時、皆自分の目的及び要求を持っている。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて直貢チェツァン法王に会った時、どんな願いでも提出しなくて、唯直貢チェツァン法王に求めて、仏像のため撒浄する事を求めた。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの謁見の心が素直で何も求めないのを見ると、直貢チェツァン法王は主動にリンチェンドルジェ・リンポチェに数珠を一緒に持って加持を与えた。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王を離れない。若しこの前にこの間にリンチェンドルジェ・リンポチェは日常生活の中に精進に仏法を学べないと、この世に直貢チェツァン法王に拝謁する因縁がないかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王にしたがって仏を学ぶ道の上に、そなた達のように上師に法を伝授することばかり願うのではない。そなた達が法を求めるのは全部自分のため。リンチェンドルジェ・リンポチェは全く上師に依止する。上師は何を教導して、リンチェンドルジェ・リンポチェは何をして、全て順従だった。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学び始めから、上師に何の法を伝授するかと聞いたことはない。ある法門は尊勝なる直貢チェツァン法王がまだ伝授しないと分かっても上師に何の法を伝授するように願わない、最近に至って、済度の需要ためにようやく法を求めた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは既に数回申された。あの頃ミラレバ尊者はマルーパ聖者に皈依して、マルーパ聖者はミラレバ尊者に家を建たせた。ミラレバ尊者は家を建とうとして、建ったり、取り除いたりずっと何回も繰り返した。マルーパ聖者はミラレバ尊者になぜ取り除くか言わないで、如何建てるかも教えなかった。しかしミラレバ尊者は全く上師のお話に従った。その代わりにそなた達はきっとこう思った:「私は仏を勉強しに来たのに、なぜ家を建たせたか?」そなた達は知るべきが、上師がそなた達に何をやらせたら全部そなた達のために。マルーパ聖者はこんな方式でミラレバ尊者を教導するのはミラレバ尊者は嘗て多くの者を殺したから。また那洛巴の上師帝洛巴も12本難題を出して、彼にお金を盗ませたり、他人と喧嘩させたり、断崖を飛び出させたりしたが、那洛巴も順従で聞こうとしてもない。那洛巴はこれらの事をしたため半分の命しか残ったまで打たれた時上師帝洛巴は彼の命を救って来た。そなた達は安心してリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に喧嘩させたり、断崖を飛び出させたりしない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは上師が全てしたことは全部弟子に利益するため、上師の教えは自分が出来るかどうか、或いは何時か出来るかと考えないで、只完全に上師の教導に従い、自分の考えがない。そなた達の目の中に、上師にやらせられるのるのは仏法ではないみたい。しかし、実は上師は一切の方法を用い、弟子に業障を取り消すことを助ける。法会する前に分かち合った弟子が言ったとおり、リンチェンドルジェ・リンポチェは分秒に全部仏法で日を暮らす。皆のように二分法をするのではない。そなた達は全部リンチェンドルジェ・リンポチェが法座の上言ったことこそ仏法で、法座を降りるとリンチェンドルジェ・リンポチェが馬鹿と思った。

ガムポパ大師は申された:「少しもない蒙昧の智恵で、善知識に依止するべきだ。」-これは我等は善知識に依止する時、上師の様々な教導となぜあんなに教導する原因に対して少しの蒙昧無知が出来ない。「一切の衆生が愛憎を遠く離れ、平等捨に長く住むように願っている。」

上師に依止する時少し蒙昧ものない知恵でするべき、仏を勉強するのは何のため、そなた達は是非良く分かるはずだ。欲望があって、仏を勉強しに来れば、自然に離れる事になり、上師が彼を追い払うのではない、自然に長く滞在できないで自らで離れて行く。「無知」とは知らないのではなく、「痴」で仏を学ばない。自分はどこが間違って、どうやり直すか分からないと言う者がいる。こう言うならやり直しないとの現われで、自分が間違ったと思わない。求めがなくても、上師に自分のために何かをしてくれると要求しているばかり。

自分が何かが聞こえ或いは見えると言い好き者がいる。しかし耳が不明な声を聞こえるのは腎虚のためかもしれない。目が光を見たのは乱視、緑内障などの問題かもしれない。仏経の中に載せてあり、神通は修行のあるとの表れではなく、仏を学ぶのは感応を求めるのではなく、例え何が見えてもそなたが既に悟るとも言えない。目を閉じて紅光が見えて、自分が紅観音を見たと思い、白光を見たら自分が白観音を見たと思う者がいる。実はそれは目が長く閉じて、血管を圧迫して生じた感覚だ。或いは本来目が覚めた時、光を見て、光線が目玉に入って、目を閉じた後暫くの記憶のあるため、光を見たと感じた。感応と神通を求めるとの考えは大変危険で「楞厳經」の中にも言い及んだ。感応を求めば入魔し、酷ければ謗仏になり、それは、そなたは最後に自分が本尊と思うのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を勉強して、感応と神通を求めない。それは、幼いより父親に従って道教を学び、父親は非常に厳しくリンチェンドルジェ・リンポチェに感応を求めてはいけないと教えたから。仏経にもこれらは全部仏法ではないと載せてある。

呪文を読んで、自分が観世音菩薩を見たと思う者がいた。実は菩薩果位を証得する前、本当に報身仏の現われを見る福報がない。そなた達は輪廻を離脱するさえまだ決心しないなんで。報身仏と菩薩が現れる時、大変強烈な光が出て、これは太陽の光より強くて、福報のない者は見て絶対に恐れた。そなたに憤怒尊の現われを見せたら、更に大変になり、そなたは是非恐れる心が起きた。本尊の側にの護法と眷属はそなたが恐れることを見るとこう思った:「この者は絶対に業障が重い、早く彼を連れて行こう!」本尊と相応まで修め得るなら、証果をした後、上師がそなたの境界を確認してから本格と言える。末法時代の衆生は福報が足りないため、全部化身仏が皆を助けしに来る。仏経、法器、上師は全て仏の化身である。

ガムポパ大師は申された:「すこし我慢のない恭敬により、善知識に依止するべきだ。」これは我らは善知識に依止する時、上師に対して「医王想」、自分に対して「病人想」、教法に対して「良薬想」と思って、また患者がお医者さんに恭敬するように、善知識に恭敬する。

少しもない我慢の心で上師に依止するべき、仏経の中に仏を医王と呼ばれ、心の病を含み、心には病がなければ、肉体には病がない、それで仏法は薬だ。心病が減らせば、肉体の痛めも減る。浄土宗の中に説いた三福の一つは尊師重道だ。1人の心が傲慢であれば、必ず修め得ない、傲慢な者は慈悲心を培養することが出来ないから。しかし一切仏法の基礎は慈悲だ。我らは自分が病気に掛かったと分かるべき、病気がなければ仏になり、もうこの世に来て人間にならない。

多くの者はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する時、すべて「自分は何が出来るか?」と聞き好きで、そなた達は何が出来るか?そなた達が出来ることは食べる、寝る、通勤、デート、テレビを見る、テレビにの者を叱る、喧嘩、肉食ぐらいことだろう。1人は自分の生命を支配出来ない時、また何が出来るか?しかし多くの者はやはり「自分は何が出来るか」と聞き好き。この場合はリンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに大礼拝をさせ、多数の者は出来ないと言った。父母は多くの力と時間を尽くしてはじめてそなたを成人に育てって、今更父母の代わりに一日2,000回の大礼拝をすることが出来ないと言う何で、不孝だ。ある者は威張りで自分が出来ると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに現場で300回大礼拝をやらせ、彼らはそれをすると「私が出来ない、現在自分が出来ないとやっと分かった。」と言った。通常こう聞く者は尊師重道をしない、傲慢心がある。そなたは傲慢する時、仏法とそなたと関係がない。それは仏法には慈悲、慈悲心の培養及び菩提心のを主とするから。

坊間には助念団に参加することが好き者はいっぱいで、助念して済度が出来ると思った。そなた達は亡者のため8時間を助念した後、亡者の顔色が赤くてつやつやしていて、口が微笑むになる事は既に済度した現われと思わないで、こなんことは亡者が既に浄土まで済度されたとは言えない。ある者は自分が天命を備え、前世に発願して、今世済度しに戻って来て、しかし、彼らは死亡の過程さえも良く分からなくて、自分が浄土へ往生する事も把握出来ない。自ら自分さえを済度することも出来ないのに、如何済度するだろう?

此処で説いた「すこしもない我慢の心で上師に依止するべき」ある者はひいて上師を軽蔑し、ある者は仏像は割合に重要で、寺院に着いたら先ず仏像を頂礼する。リンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆に申され、なぜチベット人は寺院へ行って先上師に頂礼してから、仏像に頂礼するか?それは上師は仏菩薩の代表としてそなた達に仏法を教導するから。仏像はそなた達に話すか?釈迦牟尼仏の時代に仏像がない、釈迦牟尼仏の弟子は誰に頂礼するか?釈迦牟尼仏で、つまり彼らの上師だ。仏像はそなた達に話すことが出来ない、但し、ディク寺には1尊ジッテン・サムゴンの仏像は話すことが出来る。本当に菩提心が起きた金剛弟子は何時も修法祈願すれば、始めてそなたと話すをあける。南珠ケンポスもこの事を知っている。

この間、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本で台風が間もなく台湾に来て、酷い傷害をもたらすことを見た。そしてこの台風にの衆生に言った:「ちょうど待って、私は済度することを手伝う。」何日後、リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を行った時、2本黒い竜が済度を受けに来た。台風の中には竜と鬼があり、復讐しに来る。復讐とはそなた達が思った人を天災で死なせるとは限られなく、恐懼させるのである。ある者は業障が重ければ、台風の中に死に、そなたの業はまだ死なせれば、そなたを恐懼させる。

そなたの心には恐懼が起れば、そなたのお体の健康に対して影響を受け、そなた達に免疫力を下ろさせて、多くの無名の病気は連れて生まれた。考え見て、台風はそなたの家の扉と窓を吹いてぎしぎしと音を立っている時、そなたは恐れるか?人間は殆ど恐懼心が起きられ、心の中には恐懼を生じると、お体は良くないの影響を受けて、そうして病気にかかることになる。そのゆえで、復讐と言う。なぜ彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェの話しを聞くか?彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが菩提心を起こして彼らに手伝う事を知ったから。仏法は大変細微で、三千大千世界の現象は全部良く分かり、只拝懺して、生死の離脱を求めるのではない。さもないと我等は「仏法浩瀚」と言わない。

ガンポバ大師は「少しも躊躇わない親孝行により善知識に依止する」と開示されました。つまり、我々は善知識に依止する時に、(息子と娘は両親に親孝行するような)上師のすべての教誨にすべて迷いもなくて深くて信じている。

今の人はこの項目を難しくてやり遂げて、なぜならば、いまの人々が親孝行をしていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供のごろに家庭の家訓が親孝行である。子供時代には、目上は一緒にチャットする時に、自分が急に話したら、すぐに罵られる。「いつに子供から話すのでしょうか?」そなた達が言う「いつに私の順番になるか」のようではない。そなた達は子供から尊卑の区別がないで、両親に親孝行をする習慣を養成していないで、普段に親孝行をしないなら、上師にも親孝行をしていない。師長を尊重しないなら、三寶に尊重していない。すべて自分の思いにより、上師に依止し仏を学ぶことがない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは旧暦の年明けの法会の前にわざとそなた達を試みて、今年の年明けの法会三十五仏懺を修めないと言って、弟子たちの反応を見て、結局、すぐに二人の弟子が生体を現して、上師が彼女たちが学びたい法を修めるはずで、この二人の一人が当時に家に多くのことを発生し、だから、三十五仏懺を修めたら彼女に対して役に立つを思っていた。もう一人は自分の原因もあった。彼女たちはこのような要求があって、つまり、上師に恭敬しないで、ただ上師に利用し、上師がそなた達のために修法すると思っている。これも師長を尊敬しないで、道を重んじない表現で、ただ自分の目的と欲望で求めてきて、弟子が上師に依止するような状況をやり遂げない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは子供から両親に親孝行をして師長を尊敬することを教えられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは母親にとても親孝行をして、母親を自分の身の回りに迎えてきて生活し、様々なことをとても注意して、母親のすべての動作がリンチェンドルジェ・リンポチェがすべて知っていて注意し、そなた達が思うのが誰かが見付かって世話することが十分のではない。このようにので、おのずから、上師に対して親孝行をして、上師が何を需要し、何を需要しないことを知っている。上師に親孝行をして、上師と関係が良いなら、それでは、すべての歴代伝承上師がそなたに加持する。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて祖師ジッテン・サムゴンと関係が深くて、だから、この世に再度直貢噶舉派に皈依することができた。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ情報を出して台風を止ませて、台風が止めることはなぜでしょうか?これは後ろで歴代伝承上師が加持があって、とても堅いバックグランドがあるわけである。そなた達に対して、リンチェンドルジェ・リンポチェが上師で、しかし、実はある代表で、諸仏菩薩と歴代の伝承上師を代表してそなた達に仏法を教導してあげる。

そなた達は普段に両親に親孝行をしていないなら、おのずから上師に親孝行をしない。感謝を知らず人はおのずから上師に少しも躊躇わない親孝行ができない。もしそなたは上師に恭敬と親孝行ができるなら、他人に恭敬になることが可能だ。そなたは他人に恭敬ができるなら、他人の悩まさないで、他人がおのずからそなたがうまく付き合いを感じて、そなたのことがだんだん順調になる。

ここに話して、リンチェンドルジェ・リンポチェがあることを思い出した。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法センターの理事長に大法会に下記のことを尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェに関するDVDを放送することがなぜ何回目で督促しても提出しないのでしょうか?前週の金曜日までたっとリンチェンドルジェ・リンポチェに提出した。また、この中の資料はまた間違いがあった。すべてリンチェンドルジェ・リンポチェに関する個人の資料はただリンチェンドルジェ・リンポチェだけで権力があっていかに使用することを決められるはずである。そなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェがいかにすることも分からない。理事はなにより資料をかぶせるか?リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は弟子とする理事長が完全に上師に尊重してないで、また、一部の法律に関する問題なので遅延になると話した。本当に法律を言ったら、この資料の所有権はリンチェンドルジェ・リンポチェのもので、この中のすべての写真がリンチェンドルジェ・リンポチェがすべて肖像権を持つ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法会を主催することが名声と利益をもらうのではなくて、その上、大法会の当日にこのDVDを放送できないと指示した。理事たちは仕事を務めることがただ罵られないを求めるだけで、自分の考えだけでして、上師の立場を完全に考えなくて、だから、ずっと状況を発生し、これも上師に対して親孝行をしないのである。そなた達は親孝行をしないで、師長を尊重しないで道を重んじない。普段に親孝行をする者は上師が修法する時に風邪を引かせるのでしょうか?上師が歩むする時にものにぶつからせるのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはその場である壇城チームの弟子に指示して、今回、大法会が完了すると、リンチェンドルジェ・リンポチェの個人の写真と資料がすべて回収する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示した。たまには信者の家族は一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェが謁見する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが娘に尋ねるときに、母親が速くて回答する。母親に問題を尋ねる時に、回答するのはまた他人である。彼らはこのようにしたら好意だと思っていて、当事者が分からないを心配し、だから、彼らに代わって急いで釈明し、しかし、実はこのように話の腰を折ることで、尊卑の区別がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは漢人の身分により、チベット人ので生存することが出来で、ガンポバ大師が開示されるこれらの条件がやり遂げるわけで、ナンジュウ・ケンポはリンチェンドルジェ・リンポチェがすでにこれらの条件をすでにやり遂げるを知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは多年の前に教派のために多くのことをすでにしたけれども、2003年尊勝なる直貢チェツァン法王がやっと公的なリンチェンドルジェ・リンポチェが教派に対する払うことを褒めて、この前に一言でも話さないで、なぜならば、直貢チェツァン法王は前にリンチェンドルジェ・リンポチェがまた高慢の習慣があって、だから言わないわけである。

ガンポバ大師の開示は「少しも騙さず正直により、善知識に依止する」のである。つまり、我々は善知識に依止する時に、虚妄と騙しを切れて、言行が心からになるべきで、心から表裏が同じように上師に恭敬な務めるのである。

縁起はとても大切し、騙す心により上師を求めれば、上師が絶対に理会しない。仏法は我々に教えるのがこころが正直になるのである。そなた達が仏を学ぶのは自分の欲望と要求を抱いて来る。一部の人々はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する時に、多くの形容詞と長いストーリを話して、最後と言って、修行者が心を動かすことを望んでいて、それから、彼らの欲望と考えを満足させる。

上師に依止する最も主要な作用は上師がそなた達に菩提心を増えさせて、金剛乗の弟子になることができる。ガンポバ大師が開示される弟子が上師に依止する十個の条件がやり遂げて、輪廻を解脱する心があることまだ足りないで、その上、菩提心を発して、ここに言うのが金剛乗の弟子をいうわけで、金剛乗行者は衆生に利益する心が金剛のように堅くて変らずわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは金剛乗を修めて、心が金剛石の硬さのように堅くて、だしきに至っては石より更に堅くなる。

一部の人々はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の問題を知らせたくない、甚だしきに至っては上師を隠したい。明らかに自分の問題を解決られる修行者にであうけれども、面子を下りられないで問題を明らかにいえないで、これはよい縁起がない。仏法は縁起を重んじて、しかし、この縁はそなた達が自分から啓かなければならない、もし何も言わないなら、縁がないと示した。仏を学ぶのはすべて悪者で、悪者なのに仏を学んでくると言えて、自分がすべて問題があることを知っているので、仏を学んで来たいのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは悪者が好きで、ある悪者を良い人になることがとてもよいことわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が悪いをしっているこそ、だから、特別に彼を注意し、最も心配なのは自分が良いひと思っていて、このような人が仏を学ぶことができない。それらの自分が良い人を表現したら、もし、陰にこそこそと悪いことをしたら、誰でも知らないで、このようにしたら逆に良くない。

この世に家庭に破壊される人はそなたがかつて他人の家庭を破壊したことに絶対に関係があり、ここの家庭とは人道とは限らなくて、他人の不倫の相手になることのではなくて、そなたは肉食をする時に、動物の子供あるいは両親を食べて、あるいは、彼らの配偶者などを離散させて、動物を去勢することを含んで、このような果報をとても重いである。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて肝癌に罹る医者を助けたことがあり、腹が大きくて膨れて、医者とする彼が自分の病状を何もできないので、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めてきた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の病気の因果をみて、彼がかつて多くの動物を去勢したことがあるわけである。しかし、この医者は本来獣医ではなくて、いかにこのような多くの動物を去勢するのでしょうか?彼は前に海南島で軍医になったことがあって、つまらないときに、現地の鳥と犬などの動物を去勢した。一部の人々は自分が流浪するネコとイヌを救って、これらのネコとイヌを続けて繁殖させないので、あるいは自分が養うペットを捕まえていって去勢して、このようにとてもよくないで、すべて果報がある。もしそなたが病気が罹らないで、何も問題がないで、他人に気軽に去勢させることを許すのでしょうか?自分で去勢されることをしたくないなら、このようなことをしないでください。

以前、社員とする人は社長に感謝の気持ちを持っていて、社長は自分に順調な暮らして成長を学ぶ機会を与えることに感謝し、社長に彼に仕事があることに感謝する。しかし、現在の人々はこのように考えないで、特に若い人で、自分が社長のためにお金を稼いで、あるいは、自分が社長さんの手伝いを助けると思っている。しかし、会社は損になることに、そなた達は一緒に損になるのでしょうか?少数の社長が社員に損をさせる以外には、大部分の社長はすべて自分が黙々として賠償をする。そなた達は自分が社長に助けてお金を稼いで、それでは、そなた達は社長に全部の考えを助けて、社長にお金を稼がせるのでしょうか?

今日の開示はそなたがやり遂げるかどうかが重要ではない、最も重要なのが聞き入れて、この習慣を身に着けることを始める。今日の開示はそなた達が仏を学ぶ道に助けるだけではなくて、そなたたちに社会に、職場に如何に人と付き合って仕事を如何に処理することに対して役に立つ。もし、そなたは生活に運用することができるなら、おのずから、社長に良くないで、官員を務めても汚職をしない。人生にはもしこれらの条件をやり遂げないなら、これらの条件に対立をしなければならない。人道をやり遂げると仏道をやっとやり遂げる。これらの条件は他のところで言う勇気がないで、みなが聞いてから逃げることを心配し、多くのとことがただそなた達に心地よく楽にならせるだけである。

かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれらの文字をみたことがないで、しかし、おのずからやり遂げられて、これは累世の修行と関係がある。今日、みなに上師に依止する条件を知らせるために、リンチェンドルジェ・リンポチェがやっとこの文字を見て、そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェがするのがすべて合うを引証される。このようにこんなに短い時間には成就を修め得るのはリンチェンドルジェ・リンポチェが完全に弟子が上師に依止する条件をやり遂げるわけである。このようになったら、もし教え与えるなら、ひとつが上師に謝って、もうひとつがそなた達に謝る。

リンチェンドルジェ・リンポチェは信者あるいは弟子がないことを心配しないで、人が少ないならかえって心配をすくなって、だから、もし信者が菜食をしないなら、再びこないでください。昨日、ある依然とする信者の父親は息子を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、彼らは前回に来たときに、リンチェンドルジェ・リンポチェ特別に開示したことがあって、もしこの信者の息子が菜食しないなら、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェに再び謁見してこないでください。昨日まで、彼は同じように菜食しないで、両親がいるので、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見することができると思っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場でこの信者の息子に離れさせた。上師の話を聞かないならば、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学ぶことが要らないで、他のところへ行けて、他のところにこんなに厳格ではない。そなた達がどんなに身分と地位でも、リンチェンドルジェ・リンポチェがすべて平等にみて、直貢チェツァン法王と仏経に教導されるのが仏法を広めて衆生を度する。

そなた達はずっと法会に参加してきて、多くの開示を聞いて、しかし、仏を学んで修行するのは開示を聞くと上師の加持による十分であるだけではない。重要なのはそなた達は聞いてからしていって、そなた達はしないなら、聞いても無駄になって、必ずそのままで仏法を生活で運用するはずである。

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2012 年 09 月 28 日 更新