尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年7月15日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催されて、そして大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

法会が始まる前に、ある女性の弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝で稀有な「施身法」にて彼女の父を済度した過程に恩に着た。

彼女の父は2010年に「阿弥陀仏無遮大済度法会」に参加した後、彼女は父を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、若い時に農業に従事して、無数な衆生を傷つけて、衆生の肉を食べたことを懺悔した。慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは父の頭のてっぺんで加持して、父の顔色がすぐよくなって、それから茹素し始まった。何ヶ月経って、彼女は再び父を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しに来て、父が稀有で殊勝な施身法法会に参加することを祈りも止めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に許してくれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て弟子達に、家にはお年寄りがいったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いに連れてくるように開示されたことがある。彼女の父は既に91歳の高齢であるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの加護と加持で、体が健康であり、顔色もとても良い。ただ人生が無常であり、4月20日(2012年)午前3時過ぎに、彼女の父は台所まで歩いて行って、うっかりと体が倒れて後ろに傾いていて、後脳は敷居にぶつかって、当時母、弟はまた寝ていて、父の叫び声を耳にしなくて、5時過ぎまで母が起きて、父が地面に倒れてしまったことを発見して、急いで弟が119番通報して救助をしてくれることを要した。救急車はついた時に、父の心臓の脈拍を測って、もう生命の兆しがなかった。彼女は弟の電話をもらって父が往生したことを告知されて、すぐ貴重な甘露丸を持って実家に急いで引き返した。

意外での死傷の場合であれば、必ず警察に通報しなければならないから、彼女が実家に着いた時に2人の警察を発見して、彼女が甘露丸を父の口の中に入れるところ、警察に阻止されて、彼女直ちにリンチェンドルジェ・リンポチェの法照(御写真)に頂礼して、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持することを観想した。間もなく警察が父の遺体をちょっと離れた時、彼女は急いで甘露丸を父の口の中に入れて、父の耳の傍で父に教えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の頭のてっぺんで加持することを観想してください、と言って、そして父の側で六字大明呪を唱えた。彼女の父の容顔が落ち着いていて、死体のぶちが無かったのである。

4月28日、彼女は母、弟、妹と息子を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、リンチェンドルジェ・リンポチェが父を済度して告別式を催す日付を選ぶことを祈り求めた。4月29日の殊勝な施身法法会に、リンチェンドルジェ・リンポチェは、煩悩が重くて貪念が重い者が意外で死亡することを開示された。彼女は徳も無く能も無く、どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェが父を済度して苦しみを離れるように助けてもらるのか。彼女は教えを素直に聞き取って、努力して学んで、自分を改正して、リンチェンドルジェ・リンポチェの教導を日常生活の中でに用いることしか出来ない。

彼女はすべての寶吉祥兄弟子達が実の兄弟のような配慮とお手伝いに感謝する。父が火葬した後に、骨灰はピンク、橙色が現れて、頭蓋骨に縁が整然として貫通された丸い穴があって、拾骨師(骨上げ人)さえも賛嘆した。これは大慈悲で大威徳なリンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝とな施身法にて父を済度した瑞相である。

彼女は2004年12月5日にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して、彼女は自分が大修行者の門下で皈依することができることに非常に幸福だと深く感じた。彼女は以前顕教に皈依したことがあり、その時、息子が大人しくなくて、2人の娘は同時に鬱病に罹って、家が落ち着いていないため、彼女はあちこち行って神におすがりして仏像に礼拝して、顕教の師父にも伺いを立てて、また娘を連れて仏寺に泊まって入ったが、しかし依然として改善がない。誰も助けてくれない時に、ある友達が彼女に、とても慈悲な、本当に衆生を助けることができる大修行者が一人を紹介して、それで彼女は寶吉祥宝石会社へ尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁に行って、家の中の発生した事に伺いを立てた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、それが祖先の殺業が重いから、と開示された。はじめて彼女は殺業の恐ろしさが分かって、同時に施身法法会と共修法会に参加することを祈り求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に許した。それから彼女は娘を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、施身法法会に参加することを祈って、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に許して、そして娘の頭のてっぺんで加持して、娘に菜食精進料理を食べることを教えた。その後、娘の体は徐々に良くなり、気持ちも明るくなり、正常に会社に出勤して働くことができるようになった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの助けにとても感謝した。

皈依した後、彼女は3回も交通事故に遭ったことがあって、幸いに、リンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩の加護で、全て大いに妨げることがない。2005年9月、第1回の交通事故に遭って、ただ歯が揺れて口が腫れて、医者は2、3針を縫って、自分で寶圓膏で塗って、家で3、4日休んでから会社に出勤した。2006年1月、2回目の交通事故に遭って、その時病院で直接2粒の歯を抜いて、唇には2針縫って、そして寶圓膏を使って傷のところに塗って、医者は1ヶ月観察した後、他の揺れている3粒の歯を抜いてしまって、他には大いに決して妨げない。今年6月、3回目の交通事故に遭って、頭部が傷ついて3針縫って、20日ぐらい家で休養して正常に出勤した。彼女は殺業が重いから自分がこの果報を受けたことに懺悔して、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩が彼女を3回救って、彼女に重い報いが軽く受けるようにさせたことに恩に着た。

彼女はこう発露懺悔した。皈依した後に、自分の心をしっかり見守っていないで、皈依戒をよく守っていないで、便利にまた宮廟まで問題を聞いて求めたから。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示された仏法録音を聞いてから、始めて自分が深刻に戒律を犯したことが分かって、彼女は上師の大変に教えた教導に合わせる顔がなくて、急いでリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔しに行って、リンチェンドルジェ・リンポチェの頂門の1針で、彼女に懺悔する機会を与えて、道場で大礼拝することができることに感謝する。彼女も自分の私利私欲、貪、嗔、痴、慢、疑、及び過去につくった様々な悪業にも懺悔する。小さい時、家は農業に従事して、ミミズを掘って、蛙をつかんで鶏・あひるを養ったことに懺悔する。会社で働いている時、時間を盗んで私事を取り扱って、ついでに紙とペンを持って帰って自分のものとして占有したことに懺悔する。結婚の披露宴でお客を招待して、産後1か月間の養生をして、数え切れない衆生を殺して、衆生の肉を食べて、土の上で歩くものと水の中で遊ぐ海老と貝などを含んだ。アリ、ゴキブリ、昆虫などを殺したことがある。甚だしきに至っては堕胎など重大な罪業をもしたことがある。彼女は全て深く懺悔する。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが命を惜しまないで苦労して衆生に苦しみを離れて助けて、にわかに各種の方法を使い尽くして弟子達を教えたことに恩に着る。彼女はただ、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞き取って、努力して学んで、自分を改正して上師の恩、仏の恩と衆生の恩に応えるしかできない。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に上師、仏菩薩と大衆の目の前で発露懺悔する機会を与えたことに感謝する。最後には、リンチェンドルジェ・リンポチェの法体が安泰で、常住在世して、法輪が常に転じて、もっと多くの有情を利益することができるように祈願する。

引き続いて、もう一人の女子弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが清浄で広大な慈悲の願力で加護し加持したことに恩に着て、彼女は業力と無常の恐ろしさを感じて、ここで発露懺悔しよう。

彼女は小さいときから、自説に固執してよく姉と口喧嘩して、お金をも盗んで自分の欲求を満足させて、両親に頭が痛くさせた。卒業してから会社で働いて、自分でお金を儲けて自分を扶養できると思って、常に両親のアドバイスをどこ吹く風にした。前夫と付き合う時に、両親の100パーセントの賛成を得ていないで、更に両親のしつけることを受けたくないために家を離れて、両親を悔やんでやまなくならせる。甚だしきに至っては初めて妊娠した時、更に自分の利己的な考えで堕胎して殺生したのである。

1997年、借金と不倫のため、婚姻はひび割れが現れたが、自尊心が強くて傲慢で、および両親の年長者の心配と介入を恐れるから、家族に多く知らせなかった。3人の子供に直面して、彼女は自分の心を底がないブラックホールに置くことしかできなくて、毎日の生活は生ける屍と同じように、人生が底につまずいて、自分がとても苦しい、何も助けが無いと感じた。今からこのすべてを振り返って思ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示されたように、殺業が重い者ならば、家族が合わないで、病気が多くて寿が短くて、求めるのは不順である。その上、1日中他の人と口論しかできなくて、すべては自分が正しい、他の人が正しくないと思っている。彼女は自分が我執が重くて且つ殺業が多い悪人であることを懺悔する。

2005年、両親はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して、はじめて彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助けた事績を聞くことが出来た。その時、彼女が生活の中に苦しい状況に遭って、海の中で浮ついている木を探し当てると如く、だから両親に、彼女を連れて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しに行くように願った。そして日曜日ごとの共修法会と施身法法会に参加することを求めて、しかも2006年6月11日にリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教法に依止して、彼女に引率して輪廻を解脱する道に向かった。皈依した後、業力が1つ1つ現れた。

2006年11月下旬、殊勝な「金剛薩埵」法会に参加した後、彼女は定例の一回の腹腔鏡の手術の作業の中で、患者は出血が止まらないため、緊急に伝統の手術方式に変わって止血することを行う過程で、彼女の右の手掌は高圧缶の二酸化炭素に凍傷され、作業が終わった後はじめて傷された右手の痛みを感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェが「阿弥陀仏無遮大超度法会」に与えた慈悲で加持した甘露水を取り出して、手平に塗れて約半時間後、1度凍傷になった手が既に2度焼けどの水ぶくれになり、患部の面積はおよそ半分の手平の大きさに広げた。度々寶圓膏を傷口所で塗ったら、痛みは緩和を得るだけではなくて、傷を受ける面積も新しい皮膚が出来て、傷を受けたあとは全く見えない。

リンチェンドルジェ・リンポチェが申された:すべての事の発生は全部因果がある。今あの時の事件を思い出したら、彼女の長年の働く経験により、これは1つ発生するべきではない「意外」だ。只肉体の痛みだが、彼女は信じてこれは自分が累世の殺生悪業の果報だ。その外に、彼女は時に分けもなく夜中から夜明けまでお腹がかすかに痛くて、甚だしきに痛みが堪えなくて、下痢してから、全体はくらくらして、眼がくらんで、虚脱で、力がなくなって、少し休んだ後はじめて回復が出来、このような状況が1つの短くない時間を続けた。

手傷がまだ治る時、彼女は昔のように、突然にお腹がかすかに痛くなり、本来お腹がこわすと思って、我慢して、仕事が一段落を終ったとはじめて手洗いへ行った。痛くて堪えないため、休憩室の椅子の上に倒れて、お体が電撃されたように麻痺することはしかもこわばり動くことが出来ないと感じた。お医者様に検査された結果は正常だったが、痛みの状況は一回一回より深刻で、ひいては胸に延ばした。彼女は慌てて一心にリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを貪欲して、あの頃、はっきりにリンチェンドルジェ・リンポチェを観想すること出来ないだけではなく、更に集中して「六字大明呪」を読むことが出来なかった。突然に筋肉痙攣して、動悸を止めて死ぬと考えたらはじめて生死無常が呼吸の一瞬間だったと驚く感じた。

彼女の母親は1粒の甘露丸を持って来た。彼女が服用して、間もなく痛みがますます堪らなく、便所へ行って、暫く下痢して、黒いの糞水を出した後、一切の病通を離れた!彼女は信じて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持のため、そうでなければ分けも知らない病通は如何消えて、薬を飲まずに直ったか?それに、今まで再発する事がない。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェにお礼をするために寶吉祥宝石店へ行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは大変慈悲で彼女に申された。彼女は以前海鮮を食べすぎで、脾臓功能が悪くて、彼女を漢方薬診療所へ行かせた。彼女には記憶があってから、肉があまり食べ好きではないが、魚、海老なら食べ好きだった。飲食の欲を満足させるために無数な衆生を傷つけて、彼女は自分の罪業が深くて重いと感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェに救護、加持のことを感恩するほかに、昔、全て害をした一切な有情衆生に誠に懺悔した。

彼女は懺悔した。婚姻が順調ではない時、リンチェンドルジェ・リンポチェがすべて教えてくれた「忍」と「捨」対治法門を修めなくて、一切の事は全部自分の悪業果報が成熟したと真に深く信じて受け取らないで、かえって、何時も我執、貪、瞋、癡を増えて、性格は気丈で柔軟ではなくて、わがままで、独りよがりだった。2007年に離婚して、家が売却された事などぞくぞく来た。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の下に、心にはもう恐れて助けがないとしないで、恨みがすでに下ろして、真に婚姻が終った事を正面して受けることが出来ると思った。実はそうではなく、自ら逃れて、自分の過患を点検したくないで、更に改める事をしない。

2010年4月11日、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲で信者と弟子達に殊勝な「観音菩薩灌頂」を与えた。法会が終わった後、彼女は長女より泣いて知らせたことがあった。前夫が突然に倒れて起きられないで、病院に運ばれた時すでに生命の兆候がない。恨みが起きたため、彼女は「救急」が「急診」と聞き間違って、ためのが怒って思って昇るため、彼女が「応急手当をする」を誤って「急診」に聞いて気にとめないで、長女が2回目かかってきた時はじめて「生死無常」と感じて、既に変わりが出来ないことだった。彼女はあの時意外に我執、利己的な悪念を起こすことを懺悔した。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した「ある者は生前で如法にて仏を学ばないなら、死ぬ前に絶対に苦しみと恐れがあり、考えを起こってから、輪廻苦海の三悪道に堕ちられる」を覚えている。いま、自分がただ一つが出来るのは子供を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに前夫を助けてくれることを頼んだ。前夫は心脈と血圧がないけれども、機械に応急手当の苦しみを酷くて受けて、その上、両目と口が開けた。彼女は甘露丸を前夫の口に入れて、その上、子供を連れでご遺体の側に六字大明呪を約9時間を唱えていた。ご遺体安置用冷蔵庫に移す前に、目と口が既に自然なクローズして寝るようになって、しかし、右首に大きな打ち傷をつけた。なぜならば、前夫は外で突然で死ぬので、法医学者と検察官が必ず検死することを待たなければならないわけである。

子供は20歳が未満なので、前夫の母親が北に向いて捜査を受けることを待たなければならなくて、その上、医療診察の記録を補充して提出して、日付を決めて開廷して死亡原因を確立させられた。そのお年寄りは若い者に送別する悲しみは自分が体験しないなら想像できないで、その場で、彼女は上師がないで仏法がないなら、ご死者の身の回りの眷属が突然やってくる打撃に直面することがどのぐらいの身心の苦しみと苦難を受けるかを分からないことを深くて体得させた。彼女は自分がとても幸いでリンチェンドルジェ・リンポチェの門下に皈依して仏法を学ばれることを深くて感じさせた。

それから、子供とお祖母さんと父方の叔母さんは北に向いてリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲済度を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは経緯をはっきりと聞いて、真言を唱えて加持した後、彼女の前夫が心臓の方面の問題で死んたことを諭し、また、彼が豚を殺したことがあって、自らの手でするとは限らなくて、他人に助けてあるいは側にみても含めることを開示した。同時にリンチェンドルジェ・リンポチェが加持した後で、家族は数日間の身体の調子がよくない状況をその夜におのずから治された。

それから、死亡診断書に確かにリンチェンドルジェ・リンポチェに開示された通り、死亡の原因は心原性ショックである。出棺する前にご遺体安置用冷蔵庫に3週ぐらいご遺体は顔が寝るようになって、本来右首に大きな打ち傷が全部消えて淡く充血に変わって、その上、両耳が赤くになった。ご遺体が火葬した後に、骨灰は薄いピンクの赤色、薄いピンクの緑色といくつか仏舎利の花が現れた。彼女はこの全てが仏法の慈悲深く力を深くて信じている。

彼女の病院の手術室で働いて、この数年間に段々多くの若くて癌にかかる重症者あるいは意外で急診の手術を目の当たりに見た。一部の患者の意識ははっきりで、自分が手術を受けるかどうかを決定することが出来て、また、少なくない患者は家族に決定されて、気管切開と手足切断の手術を直面し、患者と家族の心中に慌て恐れ、緊張、絶望的な状態を感じさせる。手術室を出入る患者はすべてすべての手術過程を百パーセントで順調な完成することが出来ないで、一部の人々は手術過程の中に、死亡を直面して応急手当がいる。また、あるチベットからのリンポチェ様は国際医療の助けを経由して、彼らの病院に来て、生体の肝臓の移植を寄贈する手術を受けて、手術した後集中治療室で回復する過程に何回目で緊急で順調ではないで、医療の苦しみを酷くうけた。

これらの生老病死の苦しみをみて、彼女はこれらの患者が常に彼女に「無常は暮らしの中に毎分、毎秒に伴う」というリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を気づかせることに感謝する。自分のこれらの「病気の苦しみ」がその原因があって、全て自業自得で、誰でも代わることが出来ないこを警戒させる。

皈依してから、彼女と家族は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの庇護の下で穏やかで順調な日をくらしている。彼女は自分のだらけていて、精進な仏を学んでいないで、毎日の身口意が貪瞋痴の悪癖をきえられないで、いつも自分の心を警戒して改正することが無いで、両親の大海のような恩情に応えることができないだけではなくて、彼らに続けて心配させる。この世に真に決心して仏を学んで、生死を離れて輪廻をしないで、真に上師恩、両親恩、衆生恩に本当に応えることを体得した。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深く加持に感謝する。また、上師の法体は健康し、法輪を常に転じていて、法界の一切の有情が速くて解脱することが出来ることを望んでいる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後に、法会に参列する大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

今世の中の一部の自分が証量をもらったと言う者は、多くのが真実でない。私達は何に基いて真実なことかどうかを判断するのか。真な修行者が宣説する仏法は、釈迦牟尼仏の教法と歴代伝承上師の教法を離れないのである。祖師ジッテン・サムゴンは嘗て開示して、彼の宣説する仏法は一方では釈迦牟尼仏の教法、歴代伝承上師の教法に基づいていて、一方は自分の実修の経験によるのである。ここでの実修の経験は、べつに自分で言ったらもう結構なのではなくて、自分が何を見たり、夢見たり、或いは感応したりするのではない。それは釈迦牟尼仏の教法を学ぶことを通じて、自分の過ちを知っていて、死亡無常、輪廻の過患を知っていて、そして本当に因果業報を深く信じて、そして自分の行為を改正する経験を指す。釈迦牟尼仏以来から今まで、あらゆる成就者はすべてきっと伝承があって、しかも上師に従わなければならない。だから、もしある人は自分が夢を見て得るのと言って、上師及び伝承が無いならば、一般には信じなくても構わないのである。

今多くの者は神通を現れる人を盲信したが、しかし相手が完備した伝承を持つかどうかを点検しなくて、ただ相手が自分がどのように訳が分からなくて能力を得るのだと言う話だけを聞いて、相手を上師にして、自分が仏を学んでいると思う。私達は今釈迦牟尼仏の法運の中にあり、どこに関わらず、伝わるのは釈迦牟尼仏の教えた法ではないのでさえあれば、仏法ではない。そなた達は相手がどんな能力を持って迷信しないでください。いかなる宗教はすべて能量を集中する方法があり、人にいくつかの特殊な能力を発揮させることができるが、しかしこれはすべて長い間続けない。もしかすると、一定の時間には彼の福報が十分なので、いくつかの特殊な能力を持っているが、しかし、もし菩提心を発していないと、これらの能力は全部ただ一時的である。彼の福報は比較的に多い時に、言ったすべての話はとても効き目があるが、福報を使い尽くすと、言った話がすべて効き目がなくなるかもしれない。が、菩提心を発する行者は、自身のエネルギーを消耗しても衆生を助けて、しかしやはり補充を得ることができて、続々と絶えずに衆生を度することを通してもっと多くの福報を累積することができて、ずっと衆生を利益し続くのである。

仏を学ぶのはきっと上師に依止してしかも次第に修習しなければならなくて、五戒十善から慈悲心を養成して、菩提心を発するまで、きっと閉関修行を通さなければならない。そなた達は在家衆であり、日頃に家の中で唱える時にたくさん多くの外在のと内在の妨害があって、ただ閉関修行を通してはじめてそなたの身、口、意を暫く外在の影響を受けさせなくて、やっと精力を集中することができて、自分の問題がはっきり見える。その他、閉関修行を通してそなたの福慧資糧を増やすことができて、福報が足りなければ知恵を開くことができなくて、これも皈依する時に、そなた達に上師の功徳をほめたたえることを教える原因である。そなた達は恭敬する心を起こしたら福報が出来る。仏を学ぶのは、もし福慧など二つ資糧がないならば、どのように修行しても修行し得ることができない。嘗てある大徳は、随時随所に閉関修行することができると仰ったが、しかし、それは但し書きがある。少なくとも大手印離戲瑜伽の境界まで修め得なければならなくて、すでに空性を証得できた行者はやり遂げる。離戲瑜伽まで証得した行者は、心が外境を受けて動くのではなくて、随時随所に禅定に入ることができる。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェがやり遂げることができるが、しかしそなた達はできない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今までどうしてそなた達に禅定を教えないか。何故かと言うと、そなた達が今まで、心の中にはまだ雑念と妄想がいっぱいあるので、何でも自分を考えるのであれば、禅定を修めることができる可能性がないであろうか。

自分は年を取って、もう60数歳になって、すべての物事を了解することができると思わないでください。そなたの知っているのはただ人生経験であり、仏法は人生の経験と関係がないのである。仏を学ぶのは必ず専一に如法の上師に従って一心に学ばなければならない。自分が字を見て分かってお経を読むことができて、或いは家で自分がテレビを見て仏法を聞いて修めることができなくて、別に上師の監督が要らないと思わないでください。真言を唱えて金剛杵を持つことを、密法を修行するのだと思わないでください。そなた達が読経して、懺悔して、点灯することなどはすべてただ助縁であり、本当に仏を学んで修行するのは仏陀の教えに従って自分の行為を改正するのであり、そして累世の業を転ずて生死に解脱して成仏することができる。昔から今まで、仏を学ぶ人はきっと上師があって、上師がないならば、修め得ることができない。その上、一人の如法の上師に依止しなければならない。テレビの番組に出て、大道場を持つのがきっと良い上師ではない。世の中、ある者は神通があると吹聴して、また鉢を覆って加持して、その後に出来た白色の粒子が甘露だと言って皆に提供することがあるが。これは甘露ではなくて、甘露の製作やり方ではなくて、更に噴霧器を持ってあちこちに噴き出して済度することができるのではない。今の末法時代に、多くの人は仏法を宣伝すると名乗ったが、実際には仏法を誤解するのである。

先週すでにガムポパ大師の開示なされた「広の菩提心」を開示して、今日は「中の菩提心」と「略の菩提心」を開示する。菩提心を発したら、学んだのとやるのは、はじめて功徳がある。功徳があってから業を転ずることができる。もし菩提心を発していないならば、そなた達のしたのはすべてただ福報を累積して、代々の業を転ずる事ができない。リンチェンドルジェ・リンポチェは他の人の事を言わないで、自分の一族を例にする。リンチェンドルジェ・リンポチェの一族は殺業がとても重くて、家の男の子はほとんど全部高血圧があって、リンチェンドルジェ・リンポチェが40数歳の時に高血圧もあるが、仏法の修行を通じて高血圧が無くなった。全家族はリンチェンドルジェ・リンポチェを除いて、その他の家族がすべて手術を受けた事があって、母親、弟、妹はすべて手術を受けたことがあって、一番上の姉はひどい糖尿病にかかって、二番目の姉は小さい時に脳膜炎にかかって、知能指数は普通な人より低い。どうして高血圧と糖尿病にかかったのか。ある人は遺伝だと言うが、しかし実はすべて代々の殺業と肉を食べたことで招いたのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは45歳の時にも、皮膚ガンに罹って、まだ仏を学んでいない時に多くの海鮮を食べてしまい、仏を学んだ後に癌に罹ったのが自分の因果を知っていて、完全に受けて、仏菩薩に助けてくれるように求めていないで、いかなる医療をも受けていないで、今皮膚癌は完全に全快した。どうして全家族はリンチェンドルジェ・リンポチェだけがまた完全な状態を維持できて、手術を受ける必要がないのか。なぜかというとリンチェンドルジェ・リンポチェは36歳から仏を学んで、因果を深く信じて、努力して修行して、だから体内の衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェと一緒に生活して、後で済度されることを得るのを待つ。

密法は普通な人が修行することができるのではなくて、密法まで修行することが出来る者はとても少なくて、多くの人は密法まで修め得ていないから、密法に誤解があって、密法は双修を批判した。事実上、顕教の中の一部の儀軌が密法と関係がある。浄土宗で、よく「都攝六根、浄念相繼。」という言葉を語られた。リンチェンドルジェ・リンポチェは現場にいる出家の弟子が以前に顕教で学んだこの二つの言葉に関する意味を説明することを指示して、先に何が「都攝六根」とのことを釈明してください。1人の出家の弟子は私達の目、耳、鼻、舌、身、意など六根が、外在する環境の影響を受けやすくて、みんなはすべて外に求めてくれることに慣れていると答えた。もう一人の出家弟子は以前に六根を1か所に撮って、一つ一つの念を修めるように教えたと言った。そして、もう1人の出家弟子は以前に六根を鼻の先所に集中することを教えたと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれらの言い方が全部間違いと開示された。理論上、目、耳、鼻、舌、身、意等六根を1か所に集中して、六根を1か所に定した後、その上外在の影響を受けない。これらの出家衆は嘗てやって試みたが、しかしやり遂げることができなくて、何故かというと、これが密法なのである。顕教は仏法の理論であり、密法が方法であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前そなた達と同じに顕教をも学んだが、しかし自分はどのように努力しても、お経が諭されたことをやり遂げることができなくて、それから密法を学んではじめて方法に欠けたためとのことが分かった、むだ理論があって方法がないと、やり遂げることができない。「都攝六根、浄念相繼」は密法を習ってから、はじめてやり遂げることができる。今日気脈と関係があることをちょっと言及して、現場の人の中では、南珠ケンポスだけがリンチェンドルジェ・リンポチェの意味が分かる。

引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは出家の弟子が顕教で勉強したのにて「浄念相繼」の意味を説明することを指示して、出家の弟子達は以前に念仏する場合に1つ1つつないで中断しないことを教えたと表した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、この言い方も間違いだと開示された。浄念とは菩提心、清浄な念頭で、完全に自分のためではないことである。「浄念相繼」をやり遂げるのは、五戒十善、慈悲心、菩提心、聞思修、戒定慧から修習し始まる。《無量寿経》には浄土に往生する三福を言及して、その中の第三福の1条は菩提心を発することであり、というのは、このツールが便利で使いやすいからである。「都攝六根」をやり遂げることができれば、自然に「浄念相繼」をやり遂げることができる。衆生に輪廻生死を離れて成仏するように助けることができる。

多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しに来た時、自分が仏を学んで衆生を利益したいと言った。しかし、毎回リンチェンドルジェ・リンポチェは見ると、あの人たちの自分の福報はもう足りないで、自分の事を解決することができないのに、どのように衆生を利益するのか。自分がどのように輪廻を断つ方法をさえ知らないで、どのように衆生を助けるか。実は彼らが衆生を利益して福報を累積することができると思っているので、このようにして自分の事がよくなると思っていて、これは功徳を貪るのである。菩提心を発しなければ、衆生を利益することができない。仏を学ぶのは先ずは五戒十善からやり始まらなければならない。仏を学ぶのはどうして戒を守るのか。そなた達は、戒を守らないと悪の果報があるから、その故戒を守ると思うかもしれない。このような考えは間違いである。何故かというと、このような考えが自分が傷つけられることを恐れるから。実は、戒を守るのは自分のためではなくて、他の人を傷つけないためであり、他の人を傷つけなくて、自然に他の人もそなたを傷つけない。この自分のための考え方はつまり《地蔵経》が諭されたように、凡夫が心を起こして念が動くのは全て業であり、全て罪である。ここの「罪」とは引き続き輪廻をもたらすいかなる動作、思想、言語である。まだ輪廻さえ解脱していなければ、まだ衆生を利益する事ができないと、有罪である。

数日前、ある女子の弟子は呪文を唱える時に心臓が発熱すると感じた、と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これが彼女が呪文を唱える特殊な感応ではなくて、彼女がふだんあまりに疲れすぎて、その故呪文を唱える時に血液が心臓へ集中して熱いと感じる、開示された。そなた達はふだんすべてとても忙しくて、たまに落ち付いて静かに呪文を唱える時、血液が心臓へ流れていることを感じて、これも血管が塞がる可能性もあって、血が心臓を流して発熱すると感じるかもしれない。このように発熱した感じは何であるか。もうすぐ病気にかかる感覚である。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を叱責して、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を救って彼女の命を残したのは、彼女に会社のために命がけで働いて金を儲けさせたためではなくて、惜しいのは今日彼女の社長が法会に参加しに来なかった。

昨日ある信者は父が往生したから、リンチェンドルジェ・リンポチェは済度してくれることを求めに来て、彼らはもともと、ただ聞いて見る心構えを抱いていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは先に彼の父に関する事を言って、この信者もちょっと聞いて見る心構えを抱いて、またリンチェンドルジェ・リンポチェが折よく言い当てたと思っている。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定に入ると、直ちにこの信者に、彼の父が生前に彼が家屋の水漏れの問題を処理してほしいことがあると教えて、今まで父はもう往生したが、息子とする彼がまだ何も処理していない。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いてもう一回大声で、まだしないかと責めた。その場でこの信者にひどく驚かせて、そこで恭敬心と信心を産み出した。父の言った事をしないと、親不孝なことであり、子孫が親不孝だと望む祖先がいなくて、子孫が親不孝であれば事がどのようにうまく進むのか。祖先は自分の子孫が不順なことを見ると、苦しいと感じる。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはいくつか事を知らせて、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の子孫を助けてあげると望んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ能力を現れるのか。何故かというと、求めに来る者は恭敬心が起きた時縁が出来て、亡者の福報はすぐ起きるからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法で亡者を助けて与えることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者にポワ法を修めて助ける時、どうして亡者の考えが分かるのか。これはリンチェンドルジェ・リンポチェがすでに菩提心を発したから、亡者の苦しみを体得することができて、菩提心で亡者を助けるから。中陰身の衆生敏感度が生きている者より何倍も大きくて、とても明らかな群れの彼を済度する人が彼を助けることができるかどうかを良く知っているから。もし彼を済度する人は自身が功徳を累積するために亡者を法を修めて助けるならば、亡者を助けることができないだけではなくて、亡者に嗔念が起きさせて悪道に堕ち込むのである。だから、もし1名の済度できる能力がある如法の修行者を探し出せない場合には、最も良いのは家族のほうが自分で唱えるほうが比較的に誠意がある。

ガムポパ大師は嘗て、「広菩提心の起こす方法は、『夢幻のような心構え』の中で、『私が空虚と同様に広大で無辺のすべての母如くの有情を、輪廻の苦しみの海の中から度して解脱する。』と見当をつける」と開示なされた。広菩提心は、夢のように幻のように母如くの衆生を仏の境界に安置する。つまり、そなたが衆生を浄土まで送って行って、衆生を仏の境界に安置する能力があるのである。このために、なんとか工夫して、正等円満の究竟仏果を証得しなければならない。

ガムポパ大師は、「中菩提心の起こす方法は、:『私が夢まぼろしのように母如くの一切有情にすべて、究竟の円満の菩提仏果を証得させて、このために、私がある法行を実修しなければならない。』見当をつける。私達がこのように思惟していて、『中菩提心』を起こす。」と開示なされた。中菩提心はそなたが大衆に成仏することを教えて、衆生にどのように浄土に行くことを教えて、即ち菩薩のやる事であう。そなたは衆生を教えることができる前に、まずは自分がすべての方法を学んで知っていてから、はじめて他の人に教えることができるだろう。一人の先生は学生に教える時と同じ、自分が先に学習の過程を経て、習い得た後に、ようやく身教と他の教育方法を使って学生を教導することができる。だから、一切の母如くの有情衆生に修行して円満の仏果を証得するように教導することができるため、ある1種の法行を実修しなければならない。

ガムポパ大師が仰った:「略菩提心を起こす方法は、『如夢幻の考え』で、自分が『一切母親のような有情を利楽するため、ある段階の法行を実修するべき』と思う。我等はこのように考えるべきで、『略菩提心』を起そう。」略菩提心の中に言い及んだ『利楽有情』の利楽とは楽しい事を言うのではなく、仏法の中にの楽とは輪廻生死を離れるのである。多くのお金をもうけて、お体が丈夫ではない。利楽有情とは自分が仏法の実修を生活の中に身教として用いて、衆生が五毒を減らすことを助け、少なくとも衆生が三悪道を落ちないことに役を立つ。

済度の三つの段階は即ち広、中、略の菩提心である。広菩提心とはそなたが既に衆生が浄土へ行く事を助ける能力を持つ、衆生を仏の浄土へ送るのである。中菩提心なら、そなたが衆生に修行して仏になるのを教導するのであり、略菩提心とは行者は少なくとも自分が輪廻を離脱するのを修め得て、有情衆生を利楽して、彼らに三悪道に落ちないのを助ける。

仏法にとって、神通は衆生を助けなければ、わざと現れることをしない。そなた達は他人がそなたに有る能力を現れて、有る事を教えると彼を迷信するようにするな。目前坊間ではそなたの後ろに衆生がついてる或いは女の鬼はそなたに従い、そなたが前世彼女の婚姻を決裂させたから、現在そなたに感情生活を不順調させるため連れているとの話が流行っている。この言い方だ、どうはなしてもそなた達が正しいと感じる。重点は、彼は言い出すことが出来るなら、そなたのために解決するべきだ。しかし通常はそなたのために解決する能力がない、多くともそなたにいくつか代価を払えば、鬼を追いかけるのを助け、鬼を済度するのを絶対に言わない。彼が済度する能力がないので、追いかけるしか出来ない、そなた達はまだ深く信じて疑わなく、本当に騙し易い。略菩提心は嘗て面会を求める信者に、側に犬がついていると言い、それは彼のため済度するから。そなた達にあとに衆生がついていると教えるはかえって済度能力がない。

ガムポパ大師が開示された:「それで、我等はどの『法行』をしても、清浄の発心が必要だ。この点は極めて重要だ。」密法修法には前行、正行と迴向と分ける。前行は一番重要で、即ちそなたが修法する発心である。正確の発心がなければ、そなたの正行がいくらをしてても、全部役に立たない、衆生を助ける事が出来ない。

ガムポパ大師が仰った:「はじめて修法の『加行』段階では、『如夢幻の考え』を用いるべきだ。先ず広、中、略この三つの菩提心の中に1つの菩提心を起す。」これは修法の動機を言っている。修法する前に、全て皈依、発心、四無量心を読み、そなた達は唱える時、必ずよく知っていいて、これは只短くていくつか字と思わないで、これは一番重要な部分だ。そなた達が四無量心の最後の一つの言葉「願一切衆生遠離愛憎常住平等捨」を読んだ時、すこし定する。ここで、皈依しない者が聞いても役に立たず、そなたの好奇心に満足するだけで、そなたが聞いてしたがってしても役に立たない。なぜ皈依しない者が聞いても役に立たないか?そなたの心と上師と相応する事ができないから。

そなたの心と上師のと相応が出来なければ、上師の加持を得ることが出来ない。これはリンチェンドルジェ・リンポチェには区別心があると思わないで、区別心があれば、リンポチェにならない。主にあるのは、そなた達が皈依するのをまだ決心しない。それは断悪を決定しない、仏法を勉強するのを決心しないとの現われだ。まだ肉食する者はどう戒を守って、慈悲心を培養するか?慈悲心がないと菩提心が出来ない。上師が既に菩提心を起こした、それで自然にそなた達の心と上師のと相応できない。仏菩薩は衆生に対しての加持は太陽の光が大地を照らすみたいで、自然な現象だ。しかし、大地の上にやはり影、日の照らせない地方がある。そなた達はまだ抵抗して、あちこち避けて、影所に隠れれば、自然と仏菩薩の加持を得ない。仏菩薩の加持を得なくてもそなた達が自業自得だ。此処に来て聞いて、学んで家に帰って自分で読めば役に立つと思わないで、上師の加持がなければ役に立たない。上師の加持は充電するように、そなた達が仏を学ぶ過程で、そなた達を監督して、そなた達の修行に間違いを起させない、だから皈依しなければならない。

仏を勉強する過程に上師の監督が必要で、今更、直貢チェツァン法王がまだリンチェンドルジェ・リンポチェを監督している。直貢チェツァン法王はネットサーフィンしてリンチェンドルジェ・リンポチェがなにを話したかを見て、ある時またリンチェンドルジェ・リンポチェに評判を伝える。それで、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェを監督する必要がない、直貢チェツァン法王が監督していて、そなた達のはいらない。リンチェンドルジェ・リンポチェがし間違ったら5,000メートルの高山へ閉関しに行くかもしれない。

誰でも高山で閉関することが出来ると思わないで、あんな閉関はそなた達が堪えない、多くの状況はそなた達が受けることが出来ない。あの時、リンチェンドルジェ・リンポチェは4,500メートル高さのラーキ雪山で閉関し、関房は只木の板で作られて、猟師の発射する音をまた聞こえた。地元の者は全部知っている、地方から者は必ずいくつかお金を持っている。台湾ドル1万元はネパールで結構使いやすい。どこでも人間がない深山の関房で、菩提心が起さなければ、関房の中にある人がドアを壊して押し入って略奪しに来るのを心配するかもしれない。それに、関房の周りには全部数百年の老樹で、台風する時、樹がびくびくする音、多くのおかしい音など、そなた達が聞いても恐れると感じ、鬼と思うかもしれない。菩提心がなければ、この閉関をしていくことが出来るわけがない。

衆生を利益するが出来るになるのは必ず菩提心を起こすべきで、また多くの閉関をする必要だ。閉関することこそ福報を蓄積する事ができる。しかし、福報は自分が良い日を暮らすために使うのではなく、衆生を利益するのである。そなたは衆生を利益するにはまた十分の福報が有らなければならない。福報は金銭のようであり、自分には先ずお金があってはじめて金銭の需要する者に布施するのではないか?そなたがお金がなければ、どう布施するか?

数日前ある弟子は寶吉祥仏法センターの名義で募金し、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に法座の上に彼女が全て犯した間違いを開示されたのに、何日前彼女は意外にリンチェンドルジェ・リンポチェのことを扱う一人の弟子に手紙を書いた。手紙の中に≪地蔵経≫の中にの出家衆に供養してどの功徳を得るとの一段落の経文を書き、これは彼女が功徳を貪欲するとの現われだ。彼女はこのように身のほどを知らないで、即ちリンチェンドルジェ・リンポチェを上師としないで、自分がリンチェンドルジェ・リンポチェより仏経を分かると思った。文末にまた書いてある:「ある日、天が必ず潔白を返してくれる。」。「天は潔白を返してくれる」とはなんだろう?≪仏子三十七頌≫には載せてあり、ある者が自分に無実の罪を着せても、仏子は全部我慢して受け、潔白を返す必要があるか?また、そなた達は毎回悪い目にあって救助する時全部何にを叫んだか?「天!」ではなく、「リンチェンドルジェ・リンポチェ」だろう?この弟子はまだ「天」と書き、明らかに仏を良く勉強せずに、上師のご開示を良く聞かず、今までまだ良く分からない、これは外道の言い方だ。彼女は自分が上師よりすごくて、仏経によって解釈して、こんな弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェも受け取る事があえない。

数年前、ある人はリンチェンドルジェ・リンポチェのことを嫉妬して、リンチェンドルジェ・リンポチェに害をしようと思って、誅法を修め、結局出来なかった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェがも修法して彼を返報しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの若い時の性格により、相手が自分を打ったら、すくなくとも相手に1足を蹴り、例え蹴らなくても相手に言い返した。しかし、仏を学んだ後自分を修正し、相手は態度が悪くてもリンチェンドルジェ・リンポチェも反撃しなく、彼に自由にさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは事なかれ主義ではなく、仏を学ぶ者は事なかれ主義ではない、事なかれ主義者は仏を学ぶ事が出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関する時見た、ある者は嘗て誅法で彼を害し、この人は誰かとも良く知ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは相手にどの恨みもなく、かえって彼を感謝し、彼のおかげで嫉妬はどんなに恐ろしいものを体験させた。そなたは嫉妬心、区別心を起こすと、五毒に清浄の本性を覆い隠させ、例え修行する者でも、心が正しくなければ過ちを犯し、更にまだ凡夫のそなた達、仏を学ぶ者に対して良事と悪事との区別がない、良い事と悪い事とも我らの修行することに対して役に立った。良い事はかえって我らが仏を勉強することの障害になりやすい。

そなた達は法本の中にの四無量心の最後の1つ言葉「願一切衆生遠離愛憎常住平等捨」の最後の1つの字を読む時、一寸入定して、次の考えが立ち上がるまでに、また次の部分を修めはじめる。入定とはなんだろう?入定とは思いをおこさないのではない。そなたが仏を勉強したいのも1つの考えである。所謂入定とは身、口、意が全ての動作を停止するのである。この部分はとても自然となり、わざとする必要がない、入定する時間はどのくらい必要のもかんがえなくてもいい、長ければ長いほど良いと思わない。実は時間の長さは全部我らの心が区別している。「金剛経」の中に説いた「無寿者相」の「寿」とは時間で、寿命のではなく、古代には「時間」この名詞がない、それより「寿」を使った。

「無寿者相」とは時間と空間との区別がないのである。現在科学も証明した。時間は絶対的のではなく、時間は只我らが作った定義と区別だ。そなた達も類似な経験があると思う。そなた達が集中で1つの仕事をする時、時間がとても早く過ぎたと感じた。一時間も大変早く過ぎたと感じた。例えば、そなた達は何時も遊ぶ時間が大変早く過ぎると感じる。心が集中しなければ、一分間さえも大変遅いと思う。だから、入定は時間の長短の問題ではなく、例え、0.0001秒を入定しても役に立つ。心理に入定の長さを望む必要がない。今日は0.0001秒で、明日は0.0002秒と計画しない。

読み終わった後入定して、ますます四無量心をそなた達の第八意識田の中に、所謂第八意識とはそなた達の累世とこの世の一切身、口、意習性を蓄積するところであり、パソコンのように、そなたが保存して、一旦ある日ある者が1つのボタンを押すと呼び出して使う事が出来る。そなたに未来の修行には使わせる。そなたが最後の1つの言葉「願一切衆生遠離愛憎常住平等捨」の「捨」を読む時、この音の上に止まって、自分が考えが立ち上がると感じたら、即ち定しない。これと放空と同じではなく、わざと「私が入定していて、考えがあってはいけない。」と考えないで、これは1つの考えであるから。続いてまた考えた:「まずい!私が考えを起してしまった!」これはまた二番目の考え、例えそなたがまた考え続いて「私は考えがあってはいけない!」これは即ち三番目の考えだ。そなたはどんな考えを起すとこの定が既に終ったとの現われだ。なにをそなたに知らせたか?そなたの考えはどんなに憎らしいと知った。そなたにそなたの考えは全部自己的と知らせた。入定した後起きた考えはきっと良くない考えだ。そなた達もこんな類似な経験があると思い、全部大変不潔で下品だ。実は、あれはそなたの心の中にまだ残る五毒だ。良くない考えが起きた時、気にしないで、それも縁起縁滅である。だから入定を通じて起きた考えは、我らに自分の問題はなんだろうと分からせ、考えを起すのを恐れないで、考えがあればはじめて修める事が出来、考えがなければ修める事も出来ない。密法の中に、悩みも修行することに使う事が出来、修行の工具になれる。

ガムポパ大師が申された:「正式修法の「正行」階段では、如夢幻のように全ての修めるべき法門を体得するべき。」ここにの如夢幻とはそなたが修法することに執着しない或いはこの法を修めた後どの効果が起きるか、これ等を全部かんがえないで、さもないと法執が起きる。まるでリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助け、菩提心で衆生を助け、しかし助けた後、相手はどの変わりがあったか、きっと良くなるかどうか或いは自分が相手を助けた後自分が良くなるかどうか、これ等は全部考えないで、執着しないで、ひいては自分が衆生を利益するのも感じない。

法執があれば、そなたを障害して輪廻し続ける。そなた達が聞くかもしれない:「仏法さえも我らを障害して輪廻するか?」此処で1つの例を挙げ、以前蘇東坡は嘗てあるところに寄宿した。人様は彼に1つの部屋のドアを絶対に開けてはいけないが、傲慢また自負する彼は警告を問わず、やはりドアをあげて、その中に1尊な金身が有ると発見した。そのそばに一枚のメモがあり、大体この金身がどの行者で、次の世は蘇東坡と呼ばれ、何年何月何日にこのドアをあげて、このメモを見た。このメモは即ち蘇東坡の前世が全て書いてあり、彼は前世が修行者で、また良く修めた、さもないとこれ等の事を予測することが出来るわけがない。しかし、法執があるため、また輪廻し続ける。蘇東坡はあの世に修行しなく、来るのも無駄になる。前世が良く修めてもこの世も修めるべきだ。転世活仏はきっと良く修めるとは限られない、隔陰迷があれば改めて修めるべき。ある者は自分が転世の行者と名乗り、この世にかえって閉関しない。そなた達は全部気をつけて、迷信しない。ところがリンチェンドルジェ・リンポチェ自分の過去世にも法執があるため、ずっと来て、この世に知って、もうこの問題がない。それより、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの世に名聞利養ことを非常に慎重で、貢高我慢して法執が起きることを恐れる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは出家衆に申された。仏経の中に載せてあり、正法さえも全部捨て、まして不法だ。自分が信者を持って、開悟が出来て、ひいては生死輪廻より離脱することが出来るのを望めば、厳格的に全部自分のためと言える。ガムポパ大師がすべて仰ったように、一切如母の有情を利楽するため菩提心を起こすべき。実は我らも全部衆生の一分だ。法執さえはそなた達にまた来させて、更に一般な執着、執着があれば悩みがあり、悩みがあれば輪廻し続ける。

そなた達はすべて多くの執着がある。そちらの真言を唱える時に心臓が発熱することをいう女の弟子も自分が修法することを執着し、これも貪念で、自分が法をうまく修めること思っているので、血液がすべて心臓へ突き進んで、発熱の感じがあるわけである。そなたたちはこのような類似な経験があると信じている。好きな人を見る時に、胸のうちに熱くなって、嫌い者を見たら、このような感じもあり、これはなぜ執着なので血液がて心臓を集中する原因である。我々が仏を学ぶのは欲望を減らして煩悩を消えて、一層に、貪瞋痴慢疑という五毒に覆われる清浄な本性を回復し、何を貰えるためではなくて、必要がない物を取るのである。そなた達は仏を学んでから、感応と神通を求めて、もっと求めて、逆に煩悩と欲望をますます増えていく。

ガンポパ大師は下記のように開示された。修法が終わる「結行」の段階に、夢幻のような有情に利益するために善根を回向するはずである。その後、「回向できる主体」の「私」に対して、また、「回向する物件」の母のような有情、その上、「回向の物事」を加えて、前記のそれらの修法するので生じるすべての善根により、前記の三者に対して、我々は「夢幻のような心構え」にてこの三方面が「自分の心性」を実は異ならないことを認識する。また、前記の三者はただ「不二の本体」の「心性」の変化のみだと認識するはずである。

正行が終わる時に、それから結行と回向です。我々は回向する時に、特定な相手に回向するのではなくて、六道の一切の有情衆生の善根に回向する。六道衆生は相同な成仏する本質と条件をすべて備える。そなは善根に回向する時に、衆生の福報を累積し、善根に表れて智慧を啓いて、衆生の智慧を啓いて、菩提心を発するなら、彼らはまたそなたを害すのでしょうか?これも善根に回向する道理である。自分は仏に礼拝して真言を唱えて癌細胞に回向し、癌細胞と一緒に共存することを望んで、自分が浄土にいけるなら、それも私と一緒にいくと言ってはいけない。あるいは回向する時に、癌細胞を小さくならせて、癌細胞を痛ませないと言ってはいけない。このような祈りは正確ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは如何に祈るのでしょうか?もし死亡は私に対していいであれば、私に死なせろ。もし病気にかかるのは私に対していいであれば、私に病気に罹らせろ。もし健康するのは私に対していいであれば、私に健康させろ。死んだら一切の累世の債務を完済することが出来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに輪廻を解脱させるなら、死亡にて返済してもよいである。もし業は死亡で返済する程度てはないなら、病気に罹らせて累世の債務を返済させて、未来世がよくなることができるなら、それでも、病気にかかって、が、そなた達は病気にかかることが欲しがらない。もし健康で衆生に利益されるならば、私に健康させろ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ健康するのでしょうか?もっと多くの衆生に利益するわけである。

そなた達は健康が求めたいなら求められい。そなた達が求める理由は自分が幸せに暮らしたくて、子供が成長して結婚して子供を産むのを見る事を求めて、ご主人の事業がもっと上げることをみるために求める。このようなことを求めるなら健康を求められない。リンチェンドルジェ・リンポチェは健康を求めるのが衆生に利益して自分のためのではない、このようにしたら役に立つ。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に信者を接見し、午後4時半から10時半まで、絶えずに仏法により信者に開示し、翌日、また、2、3時間で仏法を諭しで、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を諭すときに草稿を作らないで、ただいくつか要点だけを見て、数時間で連続して開示することが出来て、これは健康があってやり遂げられてはじめて、気が足りず人間であれば遣り遂げない。

人間は一生で呼吸する回数はすべてたいして違わない。ただある人の毎分の呼吸回数は比較的に少ないだけ、だから、ちょっと長くて生きられる。とても疲れない限り、さもなくば、リンチェンドルジェ・リンポチェの普通の心脈は毎分56回から58回までで、普通な人間比べてちょっと少なくて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが長寿になることを表す。呼吸と心脈回数は殆ど同じで固定で、皆の知るとおり、亀がとても長寿で、亀の呼吸がとても遅いわけで、が、ネズミの心脈がとても速いので短寿になる。だから、呼吸と心脈の頻率は多くなったら、寿命がより短くて、プロ選手の寿命ような平均でより短くて、これと関係がある。これは皆が運動することが出来ないとはいえない、アマチュアの運動員が異なる。だから、そなた達は貪念が多くて、よく怒るのは、呼吸が容易で差し迫っていて、心脈が速くなって、そなた達に短寿をさせる。雑念と妄念が少なくて、甚だしきに至ってはないならば、自ずから長寿になる。

昨日、ある弟子はお兄さんが往生したので、お兄さんの家族を連れでリンチェンドルジェ・リンポチェにご死者を済度することを求めてきた。リンチェンドルジェ・リンポチェはご死者の家族が済度法会に参加することを同意し、また、お伺いを立てる人に一生で菜食することを要求し、結局、相手が同意する勇気がないで、家族がすぐに離れた。かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように厳格な要求しないで、しかし、いま、求めてくるこの人に一生に菜食して法会に参加してはじめることを要求し、なぜならば、衆生の業がますます重くてなるわけで、もし一生で菜食することを承諾するならば、求めてくる人がご死者に代わって善行を行って、往生した死者の福報がすぐに起きられて、そして、リンチェンドルジェ・リンポチェが因縁があって彼に助けられる。そなたは人間が死んでからどのようになることが私もみえないで、地獄におちるかどうか誰かが知ってるというかもしれない、その時にまた考えよう。実は、百万人が往生したら、百万人はすべて地獄におちるかもしれないで、そなた達は信じなければならない。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの自身から言えるのではなくて、仏が諭すのである。仏の開示により、地獄道の衆生が雪が降るときに雪片のように多くて、雪が降る時の雪片はいくらあるのでしょうか?多い程度は数えない。仏が曰く内容は我々に騙さない。地獄に堕ちるとしることを言ってはいけないで、そなたの往生する5年前に暮らす生活と受ける苦しみにてそなたが往生してから地獄に堕ちる状況を表れる。もし多くの苦しみを受けるなら、死後で絶対に地獄に堕ちる。もし菩提心を発するなら、往生する前の暮らしが苦しみをうけないのみならず、却って良くなっている。

前日、リンチェンドルジェ・リンポチェの息子は父親の顔にある黒いぶちが無くしたことを発見し、そして、疑問を提出した。リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて若い時に左顔にひとつのとても明らかな黒いぶちがあり、西洋医学は原因を見付からないで、漢方医は肝臓がよくないで肝斑だと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれを気にしていないで、ただずっと仏を学んで、修める時にこの斑を考えないで、その後、斑がおのずからなくして、おのずから治された。だから、きれいなことを好んで、皮膚がよいことを欲しがって、自分がこのように老い状況を見られないなら、菜食することがいて、慈悲心を育成して、菩提心を発して、顔色がおのずからちょっと美しくなる。

ここでガンポバ大師が開示する「私」と「回向する物件」と「回向する物事」は顕教が布施する時の三輪体空を釈明し、実はそうではない。顕教が曰く三輪体空は回向する人がいないで、回向する相手がいないで、回向する物事がない。このような釈明は「輪」を完全に言及していないで、いかに三輪体空を言えるのでしょうか?実は、三輪体空がこのように釈明するのではなくて、三輪が身口意を示して、この中に密法を含める。空は普通で放空で説明されて、仏経には放空という言葉がない。あるいは『心経』には「色は即ち空だ」でないと説明し、しかし、これらの釈明はすべて正確ではない。(修めもらえるなら衆生に利益できて、そなた達は輪の存在を感じられない、)なにか需要がある時に、この輪が生じて、需要はない時に、この輪が現れないで、つまり、空性の中にある。実はすなわち空性を体得して悟るのである。ここの境界はとても深くて、いってもそなた達もわからないかもしれない。そなた達はただ名詞の説明にいるかもしれない。

夢のような意味とは、そなたは菩提心を発して、菩提行をしてから、これらのすべてが縁起性空と縁を生んで消えることを了解しなければならない。ガンポバ大師が諭す内容は『金剛経』を曰く「どこも住まないでその心を生じる」を濃縮することができて、また、ガンポバ大師に言われる内容は『金剛経』を曰く「どこも住まないでその心を生じる」を釈明することができる。「どこでもすまない」はいかに釈明するのでしょうか?ある者はテレビの番組でみなに「どこもすまない」の意味が地球に住めていないで、その上、「何も恐れない」の意味は上師がいたら何も恐れないといった。このようにいい加減に釈明したら、本当に仏法を壊す。仏経は「無」をつかって、「無」の意味ではなくて、もし「無」がないと代表したら、禅宗の非中観、有無、不公平、二分法に落ちられて、「無」が実は空性と因縁生滅を示す。

如何なる法行をして、夢ような心構えによらなければならない。善行をして衆生を利益し供養布施をするなどで、すべて工夫を凝らして覚えている必要がなくて、なぜならばすべて縁を生じて消えるのである。衆生は手伝いが必要があったら、これは縁起で、助けてからこの縁が消える。助けて完了する結果はどのようになることを執着をしないで、なぜならば、如何なる結果がすべて因縁と因果である。相手に気にすることもいらない、とりあえず、必ず相手に対して助けがある。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような多くの人々を助けたことがあるけれども、助けて終わってから忘れて、ある特別な事件がある、あるいは、彼はずっと来て、常に現れることと限らないで、リンチェンドルジェ・リンポチェが覚えてはじめる。これはリンチェンドルジェ・リンポチェは三輪体空をやり遂げて、相手に助けることが相手もよくて、必ず効果があって、効果がいつに現れると心の中にぜんぜん気にしない。そなたたちは心配するかもしれない、三輪体空をやり遂げるなら誰かだ助けることも覚えないで、それでは、仏を学んで精神医学認知症にかかることになるか?そうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェはなにもわからないのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェはきわめて明白である。なぜ覚えていないのでしょうか?なぜならば、このようになって、そなたが彼に助ける善業をそなたに引いて輪廻をし続ける利からをならないわけである。

リンチェンドルジェ・リンポチェの心はとても注意深くて、仏を学ぶことは本当にとても注意深くて、さもなくば弟子に騙された。昨日、ある男弟子は供養を連れでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し、彼はまずリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の母親に済度することに感謝し、母親に代わって供養し、それから、彼の母親が生前に最も気にかかるのが彼の弟で、先日彼の弟が間違うことをして彼の悪いで、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて彼が母親に代わってする供養を受けることと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはある出家弟子にこの弟子の話の意味を説明させた。出家弟子はこの弟子が自分の往生した母親を以って、リンチェンドルジェ・リンポチェが気持ちを変えて彼の弟を助けることを望んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは幸い自分が貪念がないで、おひねりを見るときに、手がせっかちに伸ばして納めることがないで、彼のわなに落ちないとユーモアいった。

この弟子がこのような方法で上師を脅して上師に強くて求めることが間違って、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で彼に道場で直ちに大礼拝をさせて、もしこの弟子が単純なリンチェンドルジェ・リンポチェに彼の弟に懺悔させることを求めるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェ恐らくまたちょっと聞いて、しかし、彼は意外に自分往生した母親にリンチェンドルジェ・リンポチェに脅して強要した。幸い彼の母親はリンチェンドルジェ・リンポチェに済度されて、いま、すでに浄土にいて、いかに人間のことを気にするのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはまた彼に2回目の機会を与えて、彼は同じ話を重複いって、同じ間違って求めた。だから、ある者の心は正しくない場合に、菩提心を発しない時に、求めても間違って求めてなる。彼は母親が自分に弟を世話することを指示し、自分が親孝行をするので、求めてくると考えるかもしれない。また、ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼にあるテレビ局で務めないことを開示し、彼はやはり行って、結局、いま問題があった。彼はなぜ行かないことを考えるかもしれないで、リンチェンドルジェ・リンポチェがわからない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいかにわからないのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに未来のことを見たので、状況を出ることをしっていて、だから、この弟子を気づかせて、しかし、彼は言うころを聞かないで仕方もなかった。

どうしてそなた達はまたずっと間違うことをするのでしょうか?そなた達は繰り返して間違って改正しない理由がそなた達が菩提心を発していない。そなた達は菩提心がないで、そなた達があるのが貪りである。一切が衆生のためにのは言ったら簡単で、するのがそなた達に本当に難しいのである。菩提心を発する行者は自分の一切が捨てることができて、すべて与えられて、そなた達が惜しむのでしょうか?なぜ仏を学んで菩提心を発することはそなた達に対してとても困難なことでしょうか?そなた達は如何なること自分だけで考えるわけである。そなた達は自分を考えないといって、すでに退職して勤めないというかもしれない。が、そなたは毎日考えるのが何を美味しいもの食べて、何か食べ物を食べたら栄養があって、自分の身体に対してよいを考えて、これも自分のためである。そなた達は生れ変りのときからどんなこと自分のために始めて教育する。しかし、そなた達に日常生活になにも考えないで、自分を保護する最低限度もあるべきで、しかし、仏を学ぶ道に、完全な衆生のために、少し自分のために心を持ってはいけないで、そなたがするすべての動作で、ひとつの明かりをつけて、一本の線香をついても、すべて衆生のためにしなければらならない。

そなたたちはリンチェンドルジェ・リンポチェはこの世で仏を学んで修するスピードがとても速いようとみて、それは累世の修行をこのように持ってくるわけである。この間、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に言ったっことがあって、かつてリンチェンドルジェ・リンポチェは顕教で衆生に代わることを観想して線香をつけて、その場で撮った写真を殊勝な状況が現れら。金剛乗は菩提心を修めることを強調し、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが金剛乗を学んでから菩提心を発するのではなくて、かって、顕教を学ぶ時にすでに菩提心を発して、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが累世ですでに菩提心を発すわけである。が、もしリンチェンドルジェ・リンポチェはこの世で決心をしないで、直貢チェツァン法王に会えないなら、それでは、前世に如何にうまく修めても、この世も無駄で来る。そなた達も累世である物をこの世に持って来て、が、連れるのが業で、これもなぜリンチェンドルジェ・リンポチェが法席で座って、そなた達が下の席に座るわけである。

かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助ける時に、またいくつかの方便な法門がまだいるし、いま心により一心にすべて衆生のために、衆生に利益する時にこんなに多くの準備が要らなくて、これは菩提心で力がもっと速くて、が、この部分の進展はリンチェンドルジェ・リンポチェが同じように直貢チェツァン法王に確認しなければならない。

仏法と他の宗教の違うところは衆生が輪廻苦海にいる因縁を起こして、だから、悟る仏の出現があって、人々に修行して成仏する方法を教導する。衆生と仏は相同な本性を具えるならば、一切の衆生が輪廻を解脱して成仏にってから、仏という言葉を存在しないで、つまり仏法が要らない。仏菩薩も衆生に教導して利益するわけで利益と福報をもらう。仏菩薩は最高だと思わないで、もし衆生が済度をもらえるなら、因縁も消えた。

だから、何を高慢するのでしょうか?自分が最大ではなくて、自分が他人と異なるのではなくて、もし苦海にいる衆生が済度することがないで、修行者が福報を累積することができなくて、成就ももらえない。高慢な人は慈悲心と菩提心を修めないで、慈悲と菩提がないならば衆生に利益することができない。

今日開示する仏法はとても重要し、リンチェンドルジェ・リンポチェがすでに広菩提心、中菩提心、略菩提心をすでに解説した。そなた達はいくらを受けるなら、そなた達の根気と決心により、所謂根気がそなた達が言うことを聞く程度がいくらあることによる。もしまた自分の考えにより、完全な言うことを聞かないなら、それは根気が足りない。根気がよいかどうかもそなたがいくらの決心をする。そなた達は下に座って、必ず言うことを聞いて、時間を把握して仏を学んで修行し、菩提心を発して、因果を深くて信じて、ゆっくりすることができると思ってはいけないで、それは無常を信じていないで、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達により速くて去って、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼まれるという幸いな心構えを持ってはいけないで、あるいは、来世にまた修められて間に合うという幸いな心構えを持ってはいけない。

そなた達はを学んで修行をすることを決心をしなければならなくて、再び今生にむだに流れ去らないでください。仏を学ぶことは衆生に利益することができて、なぜだろう?自分の福報を衆生を与えられて、しかし、功徳を修めてから与えてはじめる。ある人間がお金があって他人がお金が足りない問題がある時に彼が助けられるようである。衆生のことが変わられて、これが福にて衆生が替って支えて、衆生が起こられて始めて、この点をやり遂げるなら、五戒十善、慈悲心、菩提心により次第で修めなければならなくて、しかし、最も重要なのはそなた達が決心していくのである。今日の開示は仏を学ぶ基礎で、そなた達に対して仏を学ぶことがとても重要である。そなた達は本当に決心をして、自分のために仏を学んでくる心構えを捨てて、このようにしたら、累世の業が変わられて、浄土に往生していくことが可能で、一切の我々に関する母のように衆生に利益する。

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2012 年 09 月 13 日 更新