尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年6月24日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催されて、そして大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

法会が始まる前に、二人とも弟子である母子は皆に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを助けた経過を分かち合った。

彼女は感謝の心を持って、一人が一生の中に大成就者の助けを得ることができて、すでに祖先が善行を積んでようやくこの福報を貰えるので、まして更に命を助ける恩はなおさらである、と言った。息子はまたひどく幸いにこの特別な光栄があって、リンチェンドルジェ・リンポチェが2度も命を助けていただきた。一回はリンチェンドルジェ・リンポチェは息子の天疱瘡という不治の病を慈悲に加持したのである。もう一回は神丹妙薬に匹敵する寶圓膏が息子に聴覚を失われた悪運を免れさせたことである。このように大きな恩恵は、彼女が仕返しのものがないと嘆いた。その故、ただ恩に着て、恩に着て、再び恩に着るしか出来ない。ただ懺悔して、懺悔して、さらに懺悔するしか出来ない。

去年(2011年)5月初め、彼女の小さな息子の左耳が不明な原因でずっと出血していて、痛くない、かゆくないから、彼女にこの事を言っていなくて、彼女も特に注意していないで、ただ普通家の中で常備する薬品である膏寶圓膏だけを持って、ついでに息子の外耳道の入り口に塗っただけである。息子は卒業旅行をして来た後まで、やっと彼女に左耳が依然として出血している状況を教えた。この時、彼女はやっと息子に、頭が痛いか、眩暈がするか、と聞いて、息子は「いいえ。ただ耳がとてもおかしいと感じて、あるものが耳の中にある感じがあるみたいだ。」と答えた。彼女は当時、頭が痛くなくて眩暈がしないであれば、別に大病院に行く必要が無くて、夜に家の近くにある耳科診療所へ行って診察を受けてもらったらいいと思っている。

数回に再診を受けたが、相変わらず出血の問題を解決できない。その時、彼女の長男もアトピー性皮膚炎に罹ったから、寶吉祥漢方薬診療所に診察された。医師は彼にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔して感謝する事をアドバイスした。その時兄弟達は好運でリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できて、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の長男に指示してすぐ道場で大礼拝をして、次男はリンチェンドルジェ・リンポチェに「怠け過ぎだ」と訓示された。当日リンチェンドルジェ・リンポチェは二人の兄弟の供養を受けなかった。彼達は自分のエゴ及び恭敬心が足りないと懺悔した。更に毎週土曜日午後リンチェンドルジェ・リンポチェが200名余りの信者に接見した苦労及び疲労を無視して、更に感謝を分からず、懺悔も分からないから、二人の兄弟はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養する機会を持たなかった。

耳鼻科医院の設備は完備ではないから、彼達は大型病院に行って精密な検査を受けた。医師は耳の撮影検査で彼女の息子の二つ外耳道の状況を観察した。左耳の影像はとても怖ろしいと見えた。外耳道は感染されて、上には全部高温で熱くしたチーズのように白くて粘りついていた。右耳はこぶに妨げられて、見えた所も左耳の状況と同じなので、尚更に深く撮影できない。だから、他の時間をアレンジして超音波撮影を受ける。その時母として彼女は始めて大変だと分かった。

家に帰った後、彼女の心から沢山な思いは止らなくて浮かんできた。沢山な画面は次々に現れて、彼女に禁じなくて涙が溢れた。非常に懺悔したが、長年に皈依しているのに、悪習は相変わらず改めなくて、教えに従って奉じない。彼女は自分の業障が深くて重いと分かったから、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁しようと思ったが、また萎縮した。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは忙しくて衆生を済度するから、とても苦労している。更に彼女は昔に既にリンチェンドルジェ・リンポチェに助けられた大恩を受けたから、如何なるこのような貪欲を持ってリンチェンドルジェ・リンポチェに加持を求めるだろう。よく考えた後、息子を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。土曜日の午後自らリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した人々を見て、最終は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する縁が無かった。

当面にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する縁が無いけど、彼女は一点の明るい灯火は自分を照らすように感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェが通常の開示を思い出して、彼女は突然に心がぱっと開けて、全てを放すと決めて、勇気を持って直面するつもり。若し、此れは彼女及び二人の息子の業であれば、業力が現れる時、彼女は果報を受ける。若し、此の世に次男は聴力の損傷の苦しみを受けるなら、彼女は喜んで受けるしかいない。また、二人の息子に出来るだけ懺悔の仏法テープを多く聞かせて、《快楽と痛苦》を多く読ませた。

お医者さんの診断結果は両耳には別々「右側慢性中耳炎併膽脂瘤」と「左側の外耳道の肉芽が増殖する」であり、情況はあまり楽観ではなく、手術すると決定した。お医者さんは両耳が同時に手術することをお勧めなく、聴力が損害されて日常生活にの不便にならないため。そうして、先右耳を決めて、手術時間は約4時間が必要である。

彼女は自分の決めた事が正しいか間違いか分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェが既に末子の命を救って、今日もし本当に何があっても他人を責めてはいけない一切は全部業力の現れと心の中にそうと思った。考え見るとあの時、はじめてリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った時、僅かな一つの誠意と信任の心によって、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持が何処でも至った。今リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子として、上師より一層の恩沢と加護を受け、信心はもっと十分はずである。彼女は信じて、心の中に唯リンチェンドルジェ・リンポチェがあれば、上師の加持の下に、彼女がするべきことをしても、返済するべきの業を返しても必ず加護される。

末子が入院する前の晩、普段のように、息子のため寶圓膏を塗り、左耳を塗ったばかり、右耳を塗ろうと思った時、彼女は息子に言った。入院した後、御医者さんは彼らに寶圓膏を使わせないかもしれないが、彼女はやはり用意するため持って行き、また息子に自分で多く懺悔させた。話しながら、突然に「ぽ」との音があって、息子の右耳より血が止まらないように流れるのを見た。血を止めるために、急いで手の中にの綿棒を耳の中に入れ、暫くして、綿棒の上に1つの血餅をつけた。彼女はしまった、鼓膜を破ったか?それとも不注意でどこかを傷付いたか?と思った。考えて見ると、やはり先寶圓膏をつけて血をとめよう!この時、不思議なことは発生した。綿棒を息子の耳の中にの入れて伸ばして、取り出したのは意外に小指の爪の大きさの銀白色の肉芽である。同時に息子が案内に聞こえになったと言った。それに耳の中にのへんな感覚も消えた。彼女は大変愉快で、これは本当にすごい。寶圓膏は全く神丹妙薬だろう!

入院した後、彼女はお医者さんに息子が以前寶圓膏を塗って肉芽が落ちたこと等をお知らせた。また「息子が聞こえたので、手術をしなくでもいいか?」と聞いた。お医者さんは彼女に「考えすぎただろう。あれは外耳の膽脂瘤が落ちた。内耳道にはまだ多くある。その上、彼女にフイルムの上には全部瘤とのことを注意させて、手術はやはりする」と返事した。

前に、医者は2耳が一緒に手術をおこなうことを薦めていないで、が、手術を行う前の日、医者はまた2耳が一緒に手術をおこなうことを決定し、長い時間にかかる大手術である。彼女は息子にリンチェンドルジェ・リンポチェを観想して懺悔させることを提示した。息子は手術台に上げて、彼女は数珠を持って手術の玄関の外に座って真言を唱えていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが息子のてっぺんに加持することを観想していた。約3時間で手術を完成し、回復室に入って、彼女に手術がこのように順調で速めておこなうことをとても驚かせた。

息子は病室に帰ってから、彼女は息子の右耳に大きなガーゼを包むことを見て、しかし、左耳が全然完璧で、手術をおこなった様子がなかった。医者は手術中に右耳の角化腫と左耳の肉芽がすべてなくなったのを発見された。また、本来瘤がある位置は手術してから大面積の炎症を起こす現象を確認した。聴骨は細菌に侵食されて傷害をうけて、普通は、炎症を起こす状況で聴骨の再建手術を行わないが、医者は評価してかできると思うので、軟骨を取って聴骨を補いにした。左耳の肉芽はなくなったので、手術を行う必要がなかった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに加持にとても感謝し、息子に重い報いを軽くてうけて、また難関を超えた。

その後、息子は毎週の回診の状況はとても順調で、いかなる後遺症がなかった。が、ほかの患者は味覚が変わって、ブンブンと音を立てるのような不適な状況を起された。3ヶ月の後で、息子は回診してヒアリング能力のテストをすることをして、結果が正常で、復元の状況もとてもよいのである。

彼女はこの世でリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依されることをとても喜んでいる。また、二人の息子はこのように大福報があって、子供頃にリンチェンドルジェ・リンポチェの加護と慈悲深く加持をもらえた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持が太陽のよいに空の果てを撒き散らして、どこにも照らしていて、彼女に勇気をあげて人間で自身につける苦しみと試練を直面できる。かつて、彼女は常に苦しみを感じていて、如何に話すほどの苦しみで、しかし、いまの彼女が毎々当年にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見していって救うことを求める瞬間を考えると、彼女がまた勇気があって直面することができて、累世で衆生に欠ける債務を返されて、その上、彼らに彼女に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する機会を与えさせて、彼女に少しの福報があって彼らに返られさせて、彼女は自分の身に発生する一切な果報を誠心で全然で受けられる。

彼女は自分が本当にとても幸せだと深くて感じて、この世にリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを貰えて、その上、皈依して仏を学ぶことが出来で、それから、因果業力の怖さと借金が弁済する変わらず真理をしっていて、どのような因果をつくって、どのような応報を貰って、世の中に何もしないで何をもらえることがない、思わぬ幸運がないで、ただ懺悔して、懺悔して、また懺悔して、努力で教法により実行し、このようにしたら、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩徳に報われて初める。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後、法会に参加する大衆に貴重な仏法の開示をこう与えた。

今仏を学ぶ人は多くて、仏を学びたい人も多いが、多くの仏を学びたい人と仏を学んでいる人はすべて1つの観念を抱いている。それは、仏を学んだ後に、過ごす日がよくなって、旦那さんと子供は大人しくなるよう望んでいるのである。このような心構えを持って仏を学ぶのは役に立たなくて、これらも仏を学ぶ目的ではない。実は、もしただ未来がよくなれば、家庭、事業、健康のためであれば、仏を学ぶ必要がなくて、そなたは毎年、毎月、毎日すべて善行さえすれば、そなたは自然に徐々によくなることができて、或いは外道の方法を使ったらいい。もし、ただ理想的な結婚の相手を獲得したいのは更に仏を学ぶ必要が無くて、バイバイ(神様を拝むこと)したほうがいい。ある者は仏菩薩に生活がよくなることを祈り求めることができるかどうかと聞くかもしれない。仏菩薩はそれを相応することができない。何故かと言うと、これはそなたの欲求であり、仏菩薩の願ではないから。生死に解脱することを求めたら相応できる。仏菩薩は衆生に輪廻の苦海を離れるように助けてあげるのである。

多くの人は仏法がその他の宗教と同じ、人に善行をするように勧めるだけと思っているが。仏法の特色がその他の宗教と最も違ったのは、仏、菩薩と上師がそなた達に輪廻に解脱できる方法を教えるのである。仏法はその特有な修行の方法がある。仏菩薩と上師はそなた達に、因果を深く信じて、仏法を学んで、修行して、生死に解脱するように教えるが、しかし実にするのはそなたたち自身である。そなた達は学生が学校に行って授業を受けると如く、学生とする者はもちろん先生の話を聞かなければならなくて、家に帰って宿題をしなければならなくて、更に試験を経なければならなくて、仏法もこれと同じ、ただ仏を学ぶのはそなたに試験するを受けさせないが、しかし過程にはたくさんの障害があるのである。

ここで言われた障害は「魔考(魔の試験)」ではなくて、仏法は世の中での所謂「魔考」が無くて、魔はそなた達を試験することができなくて、何故かと言うと、そなた達がこの資格がないから。そなた達の出会った障害は心の魔であり、それはそなたたち自身の内心のすべて輪廻に解脱したくない思想、行為と言語である。魔がきっと非常に凶悪だと思わないでください。魔もとても温和で善良な様子を現してそなたに見せるかもしれなくて、しかしそなたに輪廻に解脱するように手伝うことができない。そなたに輪廻に解脱できるように手伝うのは仏法なのである。

魔はやはりそなたに福報を修め得て、そなたに善行をするように教えて、同じく他の人を助けるのであるが、しかしそなたに生死に解脱するように教えていないで、これは魔道を修めて、仏法ではない。このように累積したの善はすべて福徳であり、来世に使うことしかできなくて、今世に使用することができない。ただ功徳だけが今世に使うことができて、ようやくそなたの累世の業力を転ずることができる。悪事をして人を害するのだけは魔であり、そなたに引き続き輪廻させるのはすべて魔である。だから、もしそなたが皈依する時に、良い相手を求めるためであれば、このような考えは自然とそなたを引き続き輪廻させて、心の魔が起きると、仏を学ぶのは自然と障害が発生する。《楞厳経》には言及されるように、もし行者が禅座する時に、感応、神通などを求めるならば、魔は虚に乗じて、彼に能力を得させて、彼に自分がもう修め得たことを誤解させて、しかし輪廻に解脱することができない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を広めて衆生を利益しているこの10数年、20年には、一部の女性の信者が個人の欲求を抱いて仏を学びにくることを見て、密法が彼女たちに愛情運があるように助けてくれて、素敵な旦那さんを探すことができると思っている。世の中で広く伝わる謬論は、密法を修めて愛情運を招くことができるということである。この人たちは学んだ最後に全てが離れてしまった。というのは、仏を学ぶのは彼女たちの欲求を満足させることができないから。彼女たちはこのようにしたら、実は仏法をあまりに浅薄すぎると見なして、仏法のレベルを下がって、神に祈って拝むことに及ばないで、このようにするのは仏をそしっているのである。仏をそしるのはののしるとは限らなくて、仏を学ぶ心が間違いでさえあれば、そなたの言ったの、やったのは仏が宣説したのと違い、他の人に正信仏法に接触する機会を無くすようにさせると、仏陀をそしるのである。だから、一部の人は、仏を学ばなければ悪くなくて、仏を学んだ後にかえって口を開くとすぐに仏をそしるのである。

そなた達は上師ではなくて、仏法を宣説する資格がなくて、文章の断片から意味を取って独りよがりで仏法を釈明して、他の人に仏法について誤解が起きさせて、かえって他人が仏を学ぶ慧命を断つ。お経にも、末法時代に仏弟子が仏法を壊すことを諭されて、そなた達はこのようにすると、仏陀をそしっている。今日開示したのは別に一部の特定な者たけではなくて、女性の大衆だけはこのような問題があるのではなくて、男性の大衆もある。

例えば、昨日ある男女のカップルは一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来て、女の子が先に自分が以前にそばのこの男性と10数年間付き合っているが、それからこの男の子は二股をかけて、今また帰って彼女と連絡したと言った。そして、この男の子も自分が間違ったのを知っていると言って、リンチェンドルジェ・リンポチェに開示するようお願いした。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにただ、「そなた達は二人とも大人であるから、そなたたちが外に行ってコーヒーを飲んで、事をはっきりと説明しなさい。」だけを開示した。最初彼らが仲が良くて、ラブラブの時に、彼らが絶対に先に電話して他の人の意見を教えてもらうことがないでしょう。どうして今仲がよくなくなったら、かえって聞きに来るのか。問題にあったらやっと仏菩薩を利用しようと思い付いて、このような現象があって、テレビのメディアの影響を受けて、このような番組を多く放送し過ぎるでしょう。もし他の人であれば、多分彼らに、そなた達が早く懺を拝んでください、そなた達の業が非常に重くて、冤親債主に出会ったと言った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の縁により大衆を度して、、衆生の縁に従って助けを与えるんである。リンチェンドルジェ・リンポチェは、もし彼らが本当に仏法を信じるならば、ここへ来てこれらの問題を質問しないだろう、を知っている。そなた達は見ても、リンチェンドルジェ・リンポチェがもう彼らを助けることが分からないかもしれないが、しかし事実上、リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに彼らを助けて、そして彼らに知らせる必要がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは別にそなた達がデート、付き合い、或いは結婚をすることに反対するのではなくて、これらはすべて個人の因縁であり、事実上、もし眷属の因縁がある人であれば、とっくに結婚してしまい、今まで待つことでないから。一部の女の子はもう40数歳であり、他人が自分がただ30数歳と見えると褒められて、意外にもたそがれの恋を期待して、また姉と弟との恋が今流行っていると言った。他の人は仏を学ぶのが結婚の相手を探しにくるのではないというような言葉を言うことを聞きたくない、このような事ならば、リンチェンドルジェ・リンポチェがも助けて手伝うことはできない。そなた達は結婚することができるが、しかし結婚の相手はリンチェンドルジェ・リンポチェに求めて探してくれるのではなくて、ここは結婚紹介所ではない。ある人は、お経には観世音菩薩に夫婦の因縁を求めることができると諭されたのではないか。求め得ることが出来るが、もしそなたは決心して生死に解脱してすべての戒律をよく守っている人ならば、観世音菩薩はそなたを助けて、しかしそなた達にとって困難すぎてあり、そなた達の欲望がいつでも変わっているためである。

そなた達は寶吉祥仏法センターに来て必ず菜食精進料理を食べなければならくて、もし探す相手が肉を食べる男性であれば、よろしいであるか。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が結婚、付き合いをすることを阻止していないで、あれはそなた達の縁である。もしただ結婚相手を探すために法会にくるのであれば、仏を学んでそなたに良い相手を探すように手伝うことができると思ったら、それなら帰ったほうがいい。女性の大衆だけでなくて、男性の大衆もこのような心構えを抱くべきでない。ただ女性の大衆が男性より多いから、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する時に女性の大衆を例にして、別に特定の対象を言うのではない。仏陀は嘗て預言したことがあり、末法時代の仏を学ぶ女性の大衆は男性より多くて、今のこの現象はすでにとても明らかになった。というのは、男性の大衆がすべて事業が比較的に重要であり、事業がないと生命がないと思うから、だからすべては事業が重視して仏を学びたくない。

尊勝なる直貢チェツァン法王嘗て開示されたが、読経、真言を唱え、拝懺など全て修行ではない。そなた達は聞くと、この事は常に我々が行っているが、何故修行ではないと思う。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の通りに開示された。此れは唯助縁である。そなたに仏法、上師、仏菩薩の因縁と尚更に深く結ぶため。仏を学ぶのはそなた達に思った通り、菜食したり読経したり真言を唱えたりすれば修行であるわけではない。修行とは一切輪廻の行為を修正するため、発心は最も重要である。ある者は多くの時間をかけて、読経や真言を唱えるが、発心が違うと、唯福徳を累積するだけ、功徳を持っていない。福徳は来世に使うだけ、もう一度強調するが、唯来世しか使えない。此の世では必ず使えない。功徳しか此の世に使えないが、そなた達に亡くなる時因縁があって、仏菩薩の助けを得て浄土へ往生できて、更に未来に成仏することができる。

そなた達は自分が既に多く行って、多く修めたから、功徳を多く持っていると思わない。そなた達が行った事は梁武帝と比ぶべくもない。チベット人は梁武帝の物語を分からないかもしれないが、中国人は皆梁武帝を知っている。梁武帝は仏教への貢献が極めて多いが、梁武帝は嘗て達摩祖師に、自分が功徳を持っているかどうかと教示を聞いた。しかし、当年達摩祖師は彼が福徳があるだけ、功徳が無いとおっしゃった。それは梁武帝は生死を解脱して、衆生を利益するため行わないから。梁武帝は仏法のために多く行ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェさえ比ぶべくもない。彼は皇帝の身分で天下を命令できるから、そなた達が言うまでも無い。そなた達は自分が多く行って、好く修めると思うわけではない。そなた達はもはや我慢貢高しない。

ガムポパ大師は嘗て教えがあるが、「我々はどんな次第の教法を修めても、我々は必ず理解しなければならない。表面の事件は重要ではない。発心だけ最も重要である。また、我々はどのような『法行』を行っても、先に清浄な発心があることを注意すべき。この点は極めて重要であるのを分からなければならない。」

多くの人は表面に仏を学んでいるのを見えて、拝懺或いは坐禅は修行だと思った。しかし、若し発心が間違うと、全ては効果がない。多くの外道は「修行」と言う言葉を間違いに使った。実は「修行」は仏法の特有であり、他の宗教が無い。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは幼い頃、父親に従って道教を学んだ。道教に於いて、「修練」と言われて、自分の魂を天界に受けられるように修練する。仏法の修行は自分に輪廻させる全ての言語、行為、思想を修正する。

ガムポパ大師の教えの通り、我々は仏を学び法を学ぶ行為の中に清浄な発心はとても重要である。発心は「清浄」とはそなたが仏を学ぶ動機は自分のためではなく、必ず僅かな自分の思いでも持たず、完全に自分の欲望のために修めないなら、清浄な発心である。そなた達は今最も大きい問題は全ての事は私を出発点として、私は如何なる修めるか。私は正しく行ったかなど考えた。このような仏を学ぶとは清浄な発心がない。清浄な発心とは自分のための思いがちっとも持たず、全ては衆生のための心である。そなた達の心は全部欲望を満たすが、こうすれば清浄な心ではない。元々人は全ての考えは自分を利益するため、そなた達は何も持ちたいが、損ないたくない。そなた達は因果を信じなくて因縁を信じない。坐禅のときに智慧を求めたくて、開悟を求めて、他人よりよく学んで、他人と異なるなど此れは全て欲望である。欲望があれば、清浄な心ではない。

そなた達は若し此の世にしっかりに仏を学んで修行しないと、浄土へ往生できない。その時業力に従ってまたこの世間に転生すれば、環境は必ず現在より悪い。この前にリンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て開示された通り、末法時代に悪の共業は善の共業より力が多すぎる。たとえそなたは悪を作らなくても簡単に巻き込まれて、必ず影響を受ける。自分はいいならいいと思わない。考えてみて、そなたは住む場所の近くの環境が悪いなら、そなたは出掛ける時注意する必要だろうか。例えば隣のエレベーターは痴漢が現れると、そなた達は女性として極めて注意や心配しなければならないだろうか。隣人は事故に遭えば、そなたは如何なる安心に住むわけではないだろうか。全ても事はお互いに影響するから、若しそなたは自分がいいが、隣の環境が悪いと、そなたも誠に安心して日々を過ごせないだろうか。此れは共業の影響である。

今日ナンジュガムポは出席したから、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても喜んでいる。此処で特に皆に自分の昔の秘密を知らせた。中国人は皆旧暦1月9日に玉皇大帝を祀って、《金光明経》を唱える。表面に玉皇大帝を祀るが、実はその中に仏法を説かれる。ある年の1月9日、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の顕教の法師が行った法会に参加して、真ん中に玉皇大帝の位牌である。あの時顕教の法師は大功徳主、副功徳主、小功徳主を引率して、その後はリンチェンドルジェ・リンポチェに従って、一緒に焼香した。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時心の中に自然にある考えを起して、この法会の一切功徳は全て衆生を利益するためと望む。その時、壇城の後ろにある比丘尼はちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェが香を持つから焼香まで合計四枚、異なる動作と角度の写真を撮った。あの四枚の写真の中に、全てははっきりに見えたが、壇城の中からある白色の手を伸ばしてリンチェンドルジェ・リンポチェの心へ加持した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。心は正しいから、仏菩薩と相応できる。当時顕教法師はリンチェンドルジェ・リンポチェに他人に写真を見せないと指示した。原因も言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで写真を他人に見せなかった。そなた達を代わると、必ずこっそりに写真を持って、他人に「見てください。師父は他人に見せないと言われたが、私は貴方に見せる。しかし、貴方は言わないでください。」しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは完全に法師の話に従って、原因を聞かなくて、今まで写真を他人に見せなくて、この事を公表して自分が他人と違うと現れない。更に今写真を何処に収めたかのを覚えない。今日は「発心」を開示するため、そなた達に知らせて、そなた達に発心の重要を知らせた。リンチェンドルジェ・リンポチェはは自然に衆生のための心を起したのは累世修行の習慣から来た。

三千数年前、仏陀は開示された。人は心を起して念を動く事はよくても悪くても全ての虚空は分かっている。仏法は実は科学より科学である。現代科学者もこの事実を発見した。我々の思いの信号は宇宙へ発射して残るから影響を受ける。

ガムポパ大師は続いて開示された。「『殊勝心』を発することについて、広、中、略など三種類の菩提心の発する方法がある。『広菩提心』の発する方法は『夢如く幻如くの心』の中に自分が虚空のように広くて限りが無い母如く有情を全て輪廻苦海から済度されるのを思う。」

皆はこの言葉をはっきりに覚えなさい。夢如く幻如くの心。夢如く幻如くの心とはその本質は縁起性空である。《金剛経》に説かれるとおり、四相を破るである。我々は毎晩夢を見るとき、夢の中に見た景色はその時真実と感じただろう。昼目覚めた後、夢はまだ存在しているだろうか。だから、執着する必要が無い。実は我々はこの世間に生きている事は全ても同じで、よくても悪くでもいつか経つから、夢如く幻如く。

発心はとても重要である。しかし行えばいい。唯必ず行わなければならない。此れは唯の過程なので、引き続きにこの過程の中に執着しないで。例えば炊飯でも過程があるが、若しそなたは炊飯の間にいつも鍋ぶたを開けて、水は足りるかどうかを見たり、ご飯は如何なる炊くのを見たりするなら、このご飯は長く炊くではないか。尚更に時間がかかるではないか。更に必ず美味しく炊くとは限らない。仏法も同じな道理で、唯行えばいい。我々は米を洗ったあと炊飯器の中に置いて、スイッチを押した後、離れてほっとしても構わない。仏を学ぶ事も同じで、そなたはいつか成果が出るのを考える必要がない。発心した後もしっかりに捉まえる必要がない。いつか効果があると聞く必要がない。このような発心は正しいかどうか考える必要がない。自分は他人よりよく行うのを考える必要ではない。こうすれば、我慢貢高の心である。また、自分は既に菩提心を発して、菩提心を発しない人と違うと思わない。そうすると分別心である。始めて自分が他人と違うと感じて、分別心があれば、徐々に傲慢になってきた。傲慢な人は懺悔を分からず慈悲も学ばない。慈悲心がないと如何なる菩提心を発するわけではないだろう。慈悲がないと成仏して生死を解脱して衆生を利益する事が出来ない。

仏経に記載されたが、最後法さえ捨てる。非法は言うまでも無い。正信仏法さえ最後で必ず捨てる。正信仏法とは輪廻を解脱法門であり、輪廻を解脱するため修めないのは全て非法である。必ず捨てなければならない。つまり我々に法執に落ちない。一切は全て因縁である。何故仏を学ぶだろうか。生死を解脱するため、何故仏法があるだろうか。衆生は済度される因縁が必要だから。上師、仏菩薩があるから、因縁があって仏法を生じられる。若し衆生は全て済度されて成仏すれば、自然に仏法もいらない。それは仏が49年間仏法を説いているのは衆生に済度されて、更に成仏できるため。若し衆生は全て成仏すれば、皆は同じで同じな次第になる。つまり仏法を説く必要がない。皆は顔を見ると、笑ってもいい。自然に仏法を説く縁が終わった。しかし、天道、色界天の衆生は勝手に笑えないが、それは男女は相手に見ながら笑うと、人道で性行為と同じ意味である。

ある者は思ったが、仏を学ぶのは唯自分の両親のためいいと望むが、此れも間違いだろうか。仏を学ぶのは我々に親孝行する事を教えるだろうか。実は若し仏を学ぶ発心は唯此の世の両親のためなら、とても狭い。仏法に説かれたが、衆生は全て嘗て我々の累世の両親である。我々は此の世の両親は唯我々の累世の両親の中に一部分だけ。だから此の世の両親だけを執着しないで。まだ多くの世の両親は輪廻苦海の中にいるから、我々は大乗仏法を学ぶ発心は広大で、母如くの衆生を輪廻苦海から救う発心を持たなければならない。それは衆生は全てはそなたの累世の両親になったかもしれない。

全ての人は衆生の中にいて、若しそなたの発心は衆生のため、衆生が好ければ、そなたと親族眷属自然に好くなる。そうすれば、如何なるわざわざ名字を言って彼達に迴向するわけではない。我々は迴向する時、世間のように名字を沢山唱えるのをまねしないで、全ての衆生を迴向すべき。衆生はそなた達の両親及び全ての眷属を含めて、そなた自身も含めた。だから、小さい範囲に囲まれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで読経して自分の息子に迴向して、彼に菜食させて仏を学ばせない。息子は唯息子の肩書きだけ、唯一つのリンチェンドルジェ・リンポチェとの因縁である。しかし、そなた達はこの点について手を離せない。自分の伴侶に迴向して、自分に仏を学ぶ事を妨げないようにしないで。そうすると仏を学ぶ事は巫術になる。此の世にある者はそなたを妨げるとはそなたの過去世に嘗て他人を妨げたと表し、懺悔しなければならない。仏を学ぶ人は外見が一般人と同じだけど、心の中に違う。若しそなたは仏法の方式で生活を過ごして、因果を深く信じて、一切輪廻の身口意を修正すれば、他人は徐々にそなたの変えた事を見える。

仏は過去世、現在世と未来世と説き、即ち三世である。我等は是非過去世があり、勿論未来世もあり、過去世には何もしなければ、この世には全て発生した事も現れることが出来ない。そなたはこの世が終るとなにもしまいと思い、未来世がなければ、この世にはなぜこんなに苦労して良いことをするか?そなたはどうして苦労して勉強して、努力で働くか?それは1つの素晴らしい未来を望むから。だから、未来は必ずある。そなたがお腹が空いたら食べたくなるのように、如何した食べるか?それは、そなたのお体はそなたに「食べないとそなたのお体は未来には良くなくなり、これこそ未来がある。但し、仏が全て仰った未来はこんなに簡単ではない、我らには必ず三世がある。只この世があるのではなく、但しこの世は一番大切である。そなた達この世に生死を離脱するのを修め得なければ、次の世にはリンチェンドルジェ・リンポチェを見つけない、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう来ないから。リンチェンドルジェ・リンポチェのようにお金も、命も欲しくないで衆生を利益する上師が本当に見つけ難いである。ミラレバ尊者は嘗て申された:この世に輪廻を離脱しないと、未来にある世が必ず地獄道に堕ちる。

ガムポパ大師が続いて仰った:「覚えておく、彼らを二乗の「声聞菩提」と「縁覚菩提」の果に置くのではなく、究竟的に「無上菩提」の果に置く。このために、私は正等円満の究竟仏果を証得するようとして、仏果を証悟の法門として、ある段階の法行を実修する必要である。我らのこのように思惟して、「広菩提心」を起こそう!」

声聞、縁覚を修めるには先ず全ての悩みを隔絶する必要で、出家衆に適し、そなた達は全部適しない。小乗仏法声聞、縁覚の行者は、タイの修行者のように、ご飯を炊かないで、仏珠をつけないで、観世音菩薩或いは阿弥陀仏を唱えてもない、只釈迦牟尼仏を唱える。そなた達在家衆は出来ない、在家者はご飯を炊かなくて、働かない事が出来るか?ありえないのである。声聞を修める行者は六祖慧能のように、仏経を唱える声を聞くと見性することが出来、そなた達が仏法を聞くのは既にこんなに長くなったのに、まだこんなかっこうで、声聞を修める根器ではないとの現われである。縁覚を修めるのは因縁があれば覚悟し、そなた達を見て、リンチェンドルジェ・リンポチェに出会って、かえって時間を把握して早く修めない。だから、もう誇らないで、聞いてみて手に入れると全部仏法を思わない。考えて見ると、そなた達は小学校より大学校まで勉強することはどのくらいがかかるか?なぜそなた達は仏を学ぶのは簡単と思うか?幾ら仏法を聞くと仏を修めえることが出来るわけがない。大乗仏法は四衆(出家両衆、在家両衆)に適し、一緒に修める。つまり、出家と在家とも全部修めることが出来て、やることができて、そして、仏を学ぶのは清浄な発心が一番大切なのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェはまた皆にもう1つ物語りを教える。ある1回飛行機に乗って昆明へ、臨席の1対の外国籍キリスト教の牧師夫婦で、家に3世代があり、すべてキリストで、大陸に住んでいる。話しをかけ始めて、リンチェンドルジェ・リンポチェはが仏教徒まで話した後、あの年寄りご夫婦はもう話さない。その後、途中で飛行機が乱流にあって、すごく上下に揺れて、おばあさんは緊張して恐れて絶えずに鋭く叫んで、おじいさんがどのように慰めてもおばあさんはやはり絶えずに叫んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは軽くておばあさんの方をたたいて、彼女に仰った:「そなたはいい人で、そなたの主は守ってくれて恐れないで。」おばあさんは聞いた後、すぐ落ち着いて、顔色も赤くになった。おじいさんがこの情況を見て、直ちに態度を変わって、主動的にリンチェンドルジェ・リンポチェに一枚自分の名刺を渡した。そなた達なら、多くとも心の中に相手がもう叫ばないように、仏号を唱えた。随縁済度する智恵がなければ、どの方法で彼女を助けるか分からなかった。

またもう一回、リンチェンドルジェ・リンポチェの香港にいる妹の家にのフィリピン籍の手伝いさんは嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに助けるように願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にすべて信奉のカトリック教の《バラ経》を唱えば彼女の天主が守ると教えた。彼女はあのごろ、非常に嬉しくて、彼女の主はまだ彼女を思っている。例え彼女に観世音菩薩しか唱えさせなえれば、きっと:「それは誰か?」と聞く。しかし彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を勉強する時間がなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の因縁を知っているので、智恵をつかって、彼女に離苦することを助けた。そなた達はきっと思いもよらないだろう!彼女の主はまだ仏法が済度することが必要で、まだ天道にいるから。六道衆生であれば、全部仏菩薩の輪廻を離脱する済度が必要である。

仏を学ぶのは自分の行為を修正して、そなたに話題をさせるのではない。ある者がリンチェンドルジェ・リンポチェに法会に参加するのを求め、その理由は「もっと仏法を了解したい。」仏法はどんなに尊貴で、そなた達が凡夫より菩薩と仏の果位に変わることを助ける。それはそなた達凡夫俗子が了解するもんではない。そなた達は仏が了解したいと言うのは、実は損を食う、騙されることに恐れるから。しかし仏菩薩はそなたを騙すか?仏菩薩はそなたを騙す必要がない。そなた達は仏を了解したいと言った時、つまり仏を学問として研究し、実は謗佛である。そなたが疑いがあるので、了解と始めて言った。

学問の高い者はかえって割合に仏を勉強し難い、それは「所知障」があるから。特に学問が高ければ高いほどこの障碍が有り易い、それは彼らは何でも研究してはっきり明らかにする事に慣れたから。仏を暫く勉強すると自分が仏経を読むことが出来ると思って、始めて自分で仏経の内容を解釈する。悩みがあればまだ結構で、悩みが現れて、そなた達は多少自分には悩みがあることを知った。しかし「所知障」が現れると仏を学ぶことを仏経の上にの文字を研究することに変わって、貢高我慢の心を起こした。傲慢する者は慈悲を修め得ない。末法時代の衆生の業障が重くて、口を開けると謗佛した。仏法が了解したいというのは謗佛であり、そんな縁起もあまり良くない。だから、皆に注意させ、仏法を話題としてさせない。それぞれ衆生の因縁が同じではない、そなたの智恵がまだ開かなければ、衆生皆の因縁を分からなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが挙げたこの二つの例のように縁に従って衆生を済度することが出来ない。そなた達がまだ出来る前、他人に謗佛をさせ、或いは正法を学ぶチャンスをなくさせるかもしれない。

特に皈依していない信者は、仏法をそなたの話の話題とするのではない。嘗て1人ブランド店の社長は自分が仏を学ぶ者と思うマネージャーを連れてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェに伺った。リンチェンドルジェ・リンポチェと雑談して良い印象を残すことが出来ると思った。しかし、僅か3つの話を言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは叱り始めた。仏法はそなたにチャットするの話題をさせるのではない、そなたは直貢チェツァン法王なら、リンチェンドルジェ・リンポチェと仏法を話して、リンチェンドルジェ・リンポチェは大変嬉しかった。

ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の同僚が自分によくするのを求めに来た。それは坊間では密法を誤解して、愛情運が連れてきてそなたに人気をよくさせ、密法は確かに出来、密法の増法である。しかしそなた達のため修めない、そなた達は仏を勉強して生死より離脱して、衆生を利益するつもりではないから。これらの法門は既に発心した修行者を助け、彼らの世間な事に彼らの仏を勉強するのを邪魔させない、欲望を満足するのではない。人気が悪い者は過去人気を修めなく、この世によく懺悔せずに、まだ修法を通じて自分に人気を良くさせるのを望んだ。この世にはもっと耐えて、一切を受けて、よく懺悔するべきである。仏法を巫術にならせて、他人を呪って、他人に自分にたいして良くするのをさせるのではない。

皆は法本を読む時、一番簡単な方式は法本によって、法本の教導方式に従って発心すれば結構で、自分の考えと欲望で求めないで、悟るさえを求めるのも必要のない欲望で、更に自分が発明必要がない。ある者は阿弥陀仏が48の願、薬師仏なら12の願に自分もっと1つ、二つの願をだしてもいいと思った。実は彼らは既に十地菩薩を証得し、自分が出来る事良く知って始めてこんな願いを起こし、そなた達が出来るもんではない。発心が正しくなければ、その後、全てすること、唱えるもんは只時間を無駄にして、どの効果もない。

仏法は1足す1と2になり、必ずどうになるのではなく、仏法は一増一減で、一増とはそなたが仏を学んで修行する時、そなたの功徳と福徳がますます増え、一減とは仏を学ぶとそなたの欲望と悩みを段々減らさせ、一増一減何時も続けて行くと、そなたはますます上師が全て説いた仏法の意義を悟ることが出来、清浄な本性は始めて段々現れてきて、自然にゆっくりと修め得る。仏を勉強するのはそなたの欲望を満足させるのではなく、そなた達の心性は本来清浄だが、貪、瞋、癡、慢、疑の垢にかぶせられて、仏を学ぶのあこれらの垢を段々減らし、取り消し、一層欲望を増えるのではない。一人金剛乗の上師は、そなたが好きなものを見せないで、そなた達が嫌いことを特にやらせる。なの故か?そなたの我執を破るのである。そなたの執着はなんだろう?つまりそなたの欲望である。

上師の務めはそなた達にこれらの垢を取り除くように助けて、そなた達の清浄な本性が早く現れさせる。これも仏を学ぶことが必ず上師が必要するわけである。上師はそなた達の問題を速くて見付かって、そなた達に解決するようにたすけて、そなた達の仏を学んで修行する障碍を減らさせて、本来の清浄な心性を回復させる。しかし、これもある如法するかどうかの上師による。どのような人間は自分が上師と称して、そなたに何をさせるなら、そなたがすべて聞き入れることがないのである。だから、チベットには、上師を検視しなければならないと言われる。『寶積経』にはある上師とするもつはず条件に記載されていたことがあって、リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて開示したことがあるので、今日、繰り返して言わなかった。

広大な菩提心を発して、すべての衆生は仏の浄土に置かれる。そなたの願いは衆生が先に仏になってからそなたが仏になることであれば、あるいは、そなたが仏になって衆生にすべて仏になられるように助けれることであれば、すべて衆生が仏の浄土に置かれることを望んでいる。釈迦牟尼仏はとても慈悲で、末法時代の衆生の業がとても重いことを知っているので、またこの法門を残っていて、つまり阿弥陀仏を紹介してくれて、われわれに先に阿弥陀仏の浄土にいける。

金剛乗の上師は弟子が仏になる前に生々世々に弟子を加持して世話し、これは金剛乗上師の特質である。が、そなたは誓いを破れて、三昧耶戒を破ることとは限らない。ジッテン・サムゴンはリンチェンドルジェ・リンポチェのこの世にリンチェンドルジェ・リンポチェを2回目を救った。我々は完全な言うことを聞かれて、教法により実行することがやり遂げるなら、仏菩薩と上師の功徳と福徳が保護覆いのようにそなた達に保護する。しかし、そなた達の心はまた自分の考え方を混ぜるなら、そなたの心を開けられないでしっかりしめて、上師と仏菩薩がそなたの心を打って入られないで、そなたが加持をもらえないで、一切な輪廻の行為を改正することができない。

そなた達は決心して言うことを聞かなければならない。なぜそなた達は言うことを聞くことを強調するのでしょうか?そなた達にこの世に習慣に養成させるわけである。我々はこの世にうまく修めて、この世に仏果を証されるなら、阿弥陀仏の浄土に行けることがいらない。そなた達はこの世に仏を学んで、修行がどのようにやり遂げないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェもこの世に正確な観念をそなた達の意識田に深くて打って込んで、隔陰迷があっても、来世に仏を学ぶ正確な習慣をおのずから産生させる。あるいは、来世にまた来たら、前世で学んだのがすべて忘れてしまう。しかし、この世に仏を学ぶ時に、自分の方式で学んで、上師の加持がないなら、来世に仏を学ぶ習慣を覚えられないで、ただ業により歩くことしかない。また拒否する人は仕方がない。

今年(2012年)直貢噶舉派祖師ジッテン・サムゴン記念大法会は木曜日(6月14日)に行った。一部の人々は当日が休日ではないので、参加してくる信者がこのわけで減らすことを言えた。しかし、この日は祖師ジッテン・サムゴンに指定される日で、また、直貢チェツァン法王に指定される日である。リンチェンドルジェ・リンポチェも尊き直貢チェツァン法王にお伺いを立てたことがあるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは休日に法会に行わないで、これは上師に恭敬して尊敬する。他人に換わるなら、休日に行うことを薦める可能で、信者が少なすぎることを心配するわけである。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊き直貢チェツァン法王に日付けをお伺いを立てる時に、直貢チェツァン法王にその日が木曜日で報告したことがあって、直貢チェツァン法王は「木曜日であれば問題があるか?」と尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「問題ないです。ただ直貢チェツァン法王の加持があったら、問題ないです」と回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェはある金剛乗弟子が上師に恭敬心と信心を表れた。縁によるので、縁があったら自ずから来て、その日に来られないなら、縁がないで、強要の必要がない。やはり、法会の行いは非休日の影響を完全に受けなかった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはその日に特別にそなた達の社長さんに感謝して、そなた達に休暇をとって法会に参加させられた。

今日、開示するのは仏を学ぶ観念で、仏を学ぶ観念をはっきりではないなら、仏を学ぶ道に多くの障碍があって、発心が清浄ではないなら、正行もうまく修められない、なぜならば、そなたの如何なる意念は清浄ではないわけである。だから、そなた達にいうことを聞かせて、しかし、いうこと聞くのはそなた達に何も考えないであほになるのではない、仏法には「聞、思、修」を重んじて、如何なることを思わないなら、ただ聞いて考えないなら、これから「修める」動作がない。しかし、仏法を曰く「思」は自分が分かるかどうか、上師が曰くのが一体どんな意味か?或いは如何なるしたら上師が曰くことを遣り遂げるの考えるのではない。そなたは聞いてから、何時にそなたに作用を起こすが分からない、が、そなたの未来に絶対に助けがある。聞思修の思は仏法を聞いてから、毎日に上師が開示する仏法にて自分の行為思想言語の対照をすかどうかを考えている。自分の如何なる行為が仏法と違反するかどか?自分の続けて輪廻させかどうか?できるなら、修めて改正させる。

一部の法会には、直貢チェツァン法王は仏法を諭すときにチベット語を使って、リンチェンドルジェ・リンポチェはチベット語が分からないけれども、入定に聞くのでリンチェンドルジェ・リンポチェの心の中に打たれる。返ってから、リンチェンドルジェ・リンポチェはゆっくりと了解してから遣り遂げられる。これは聞、思、修によりくるわけである。

特に皈依していない信者で、毎回リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を開示することを聞いて、自分にとても心地良いと感じさせて、何度も来て、が、ただ
聞いて考えないで修めていない。そなた達はずっと来られて、が、ある日に、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が明らかな変化がないと感じて、恐らくそなた達に続けて来させない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に人々に追いで、このように彼らを自分が間違って反省することを知らせる。もしリンチェンドルジェ・リンポチェは叱らないで追わないなら、心地良い日を過ぎることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように厳格ではないなら、いままで少なくとも5万人の弟子がある。祖師ジッテン・サムゴンは18万出家弟子があって、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が謙遜で自分が重要ではない役で、少しの弟子があることが十分だと説いた。また、弟子があるかどうか、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して本当に重要ではない、リンチェンドルジェ・リンポチェは名声と利益を求めない。そなた達は寶吉祥仏法センターに来る時に、嬉しくてきて、離れたいなら、嬉しくて離れて、多くのわけを探しで説明にくる必要がないで、強要しないで、縁が尽くすなら離れる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは子供頃から出家していないで、そなた達と同じに在家で、また、生まれ変わりのリンポチェもではないで、普通の信者から修めてこの世に証するリンポチェである。そなた達が仏を学ぶ過程はリンチェンドルジェ・リンポチェはすべて経たことがあって、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェが修められてそなた達が出来ないのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはいうことを聞くわけで、完全に上師の教導によりして行った。だから、何故上師が重要であるか?これは上師が経験がある修行者である。誰かが罵られることを恐れるといったら、最も悪な人で、罵られることを恐れるのが改正したなくないわけである。本当の弟子は随時に上師に罵られるを準備しておいて、上師の責任はそなたが間違いを見たら、そなたの誤りを是正して、そなたに再び犯さない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの果位を疑わないでください。リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に座られて、もし資格が合わないなら、直貢チェツァン法王に駆けることがいらないで、護法がリンチェンドルジェ・リンポチェに駆ける。法席はそなたが気軽に座りたいなら座れるのではなくて、そなた達が気軽で座るなら、結果がとても厳重である。リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなた達はこれをただ木製の法席だと思っていて、が、法席の下にある特別な物を置いて、ナンジュウ・ケンボスが知っていて、そなた達が知らないで、そなた達に教えない」と笑って諭した。

そなたは自分がよく修行しているのであれば、業力が無くなると思わないで。そなたの業はすべて完済するならば、そなたが仏になって、またここにいるのでしょうか?『地蔵経』に記載されているが、凡夫が心を動かし思いを起こせば、其れは皆業であり、罪である。そなた達は如何なる考えを起すのが自分を利益するために、全て貪瞋痴慢疑の五毒で、何故罪のでしょうか?そなた達は仏果をならないで、自分の能力があって広大な衆生に利益させないわけで、これは罪があるだろう。生死を解脱し、仏果になって、そして、広大な衆生に利益していないのはすべて懺悔しなければならない。だから、毎日に懺悔しなけれならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいままで毎日に依然で毎日懺悔し、自分が仏果にならないことを懺悔し、もっと多くの衆生に利益できない、上師の仏菩薩の恩に背いた。

何故そなた達に上師と仏菩薩の功徳を褒め称えるか?上師或いは仏菩薩はそなたの称賛がいるのでがなくて、功徳を修め貰える上師が加持力があって、そなた達は功徳を修めていないわけである。なぜそなた達は他人に仏法をいう時に、他人が聞きたくないで、甚だしきに至ってはそなたと言い争い始めるのでしょうか?これはそなた達は功徳がないわけで、自分が聞く仏法を他人に話して、他人に認めないのでそなたと論じさせて、他人に仏を謗らせて、一部の人々は帰ってから自分の考えにより家族に聞かせて、喧嘩になった。

カトリック教徒、キリスト教徒は如何なる事でも神様の恩恵といって、ある有名なスポーツ選手はシュートする得点の時に、全て天を指して、そなた達か?仏教徒として、上師と仏菩薩の功徳を褒め称えないで、すこしよくなって、自分がうまく修めると思っていて、自分の功労と思っていて、如何なることでも自分が修めるという。なぜこのようになるか?これも『寶積経』に記載されているように、末法時代に仏弟子は名声と利益の為に信者にこびへつらって、仏法を曲った。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまで信者にこびへつらったことがないで、多くなくとも、信者がないと思っている。しかし、仏と上師が教導してくれることをしなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して、弟子があるかどうかを重要ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一切なことが仏法により従って、そなた達に嬉しい開示を聞かせるなら、坊間で有償な講演をきいてください。

私達がいかなる事に出会う時に、すべて縁に従って過ぎて、どんな境遇にも安んじて、よいか悪いかに関わらず、全て安んじなければならない。そなた達はいま空性に安んじることができないで、しかし、戒律のなかに安んじて、聞く仏法の中に安んじさせる。仏法はそなた達が思う1は1を加えると2になることのではなくて、仏法が因縁により変化があって、リンチェンドルジェ・リンポチェは務めることも随時に変わって、だから、上師が務めるときに、衆生の因縁により調整し、それでは、そなた達が如何に何も変わらないで過去の方法により務めるのでしょうか?何も変わらないならそなた達の次々と現れた問題に対処できない。

前回の法会の中で、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがある癌症末期の信者に皈依させることをみて、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別にある者に皈依をおこなうことが少ないで、が、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの信者をみて、彼女が皈依したい決心をともて強めて、ただ皈依できることを求めて、その上、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女時間が少なくことを知っているので、彼女の希望を満たした。結局、6月14日大法会を終わってから、彼女は往生して行った。その上、彼女は往生する前に完全に如何なる苦しみがないで、往生する時にもとても平静である。往生した後、家族もとても嬉しくて、彼女が死んだことを嬉しいのではなくて、癌症末期の患者が往生する前に如何なる痛みがないで、基本的に無理である。これは上師の重要性で、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が決心を決めて、その上、彼女の時間が多くないことを知っているので、彼女の皈依を受けて、彼女に仏法を聞かさせられて、仏法に大恭敬心を起して、去る前に平静な離れられる。

今日の開示はそなた達に仏を学ぶ困難がどこにあることを知らせて、そなた達が仏を学ぶのは自分がなぜ仏を学ぶことをはっきりしなければならなくて、この世に仏を学ばれるのが累世の福報因縁で、同じ世にぼんやりするならば、決心をして清浄な自分の考えがない発心により、仏法を学んで修行して、一層に生死を解脱して未来に仏になって衆生に利益しないなら、それでは、この世にくることが無駄になる。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェはガンポバ大師が教導する広い菩提心を先に開示し、中と略の菩提心を次回で続けて開示する。

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2012 年 09 月 13 日 更新