尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年6月10日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催されて、1人の重い病気にかかった信者が皈依することを認めて、そして大衆に貴重な仏法の開示を与えた。

法会が始まる前に、ある女子弟子は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩を感謝して、自分に機会を与えて公開に発露懺悔できた。

此処で参列者に自分のエゴを懺悔した。前回に懺悔した時、自分が原稿を全部話しただけと思ったが、皆に貴重な時間を多く無駄した。更に多くの苦しんでいる衆生は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの施身法の済度を待っていることを忘れた。また、兄弟子の好意的な提示を受けず、エゴのままに自分が懺悔する事しか考えなかった。

彼女は義理の父がアルツハイマー病及び体の苦痛のせいで苦しみを受ける様子を見て、自分が親孝行しなかった。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、をして大礼拝、義理の父は上師及び諸仏菩薩の助けを得て、将来を輪廻の苦しみを解脱するように祈った。上師を感謝して、再び自分に発露懺悔する機会を与えた。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に懺悔して、自分が舅と姑を親孝行しない嫁だった。彼女は料理ができないから、いつも言い訳を探して逃げた。それで姑は彼女達のために料理した。現在も体調が悪い舅を世話しなくて、姑に一人で苦労にさせた。通常もめったに電話をかけて彼達を関心しなかった。舅と姑はいつも彼女に優しく対応した。彼女は子供を生んだ後、姑は自分を協力して子供を世話して、彼女に遠慮が無く、安心に仕事ができる。彼女は部屋を買った時、舅が自分に金を借った。しかし、舅は彼女に金を返済するのを依頼したとき、彼女は瞋恚を起して、感謝の気持ちを持たず、舅と姑を自分の両親としてみて誠に対応しなかった。此処で自分の不孝を懺悔した。

姑は子供が菜食するのを同意しないから、彼女はいつも理由を探して子供に実家に帰らせなかった。今年(2012年)4月、舅は八十歳の誕生日の時、姑は二人の子供のために菜食料理を注文した。彼女はとても意外だと感じた。状況は急にこのような大きく変化した。此れは8年間にいつも彼女が悩んでいる問題だった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を感謝して、状況はこのような変化ができた。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に懺悔して、彼女は不孝な人以外、更に先生を尊重せず、先生に恩返しを分からない人だった。長年にリンチェンドルジェ・リンポチェの教導及び加持を受けたが、彼女は仏を学ぶ信心が固くなく、上師に指摘されて加持された後、いつも自分の根器が悪くて、仏を学ぶ事を諦めたいと思った。常に何故他人が仏を学ぶ道が順調なのに自分はいつも障碍に多く遭った。自分の時間を浪費するだけではなく、尚更にリンチェンドルジェ・リンポチェが貴重な時間及び体力を浪費した。此処で上師に懺悔して、自分が恩返しを分からない悪弟子だった。

2005年リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て弟子達に坐禅を教えた。ある一回に上師は弟子達に聞いて、坐禅の時心身はどのような感じがある。当時彼女は心の中に車の椅子の後ろに座ったから、上師が見えないはず。更に多くの弟子があるから、上師は自分を知らないから、用心に上師が質問した問題を考える必要がない。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに呼ばれたとき、頭の中に突然に真っ白で如何なる回答すればいいと分からない。彼女は此処でリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に懺悔して、自分は用心せず、仏法の殊勝及び得難いを大切しなかった。また兄弟子たちに懺悔して、彼女は皆が坐禅を学ぶ因縁を断った。

長年以来、リンチェンドルジェ・リンポチェは止らなくて、彼女が傲慢で独り善がりの人を指摘した。更に貪って、面子を重んじて清浄な心で供養せず、上師、三宝に対して恭敬心を持たず、上師が伝授された法門を全て受けなくて、確実に自分を修正しなくて、常に自分の考えを多く持っていて、百パーセントに上しを依止しなくて、上師に合わせる顔が無い。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に懺悔して、仕事する時に確実に完成せず、私事しか考えなくて、上司に如何なる仕事をできるように気遣いに指導された。会社に損失されて、社長は会社を経営する苦労及び社員のために安定な仕事を与える責任感を体得しない。家族にいつも悪口で対応して、他人の関心を自分の過ちを指摘するとして見た。貪欲が重くて、面子を重んじて瞋恚が重くていつも悪口で人を傷付けた。他人の成就に嫉妬心を起して、負けを認めず、勝気で他人を傷付けても知らない。独り善がりで熱心に他人を協力したが、他人に迷惑をかけた。一切は自分の貪、瞋、痴、慢、疑から起した。リンチェンドルジェ・リンポチェの教導を感謝して、彼女に自分の過ちを検視させて、生死を離れる機会を与えた。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に懺悔して、半年間懈怠のせいで、上師に伝授された法門を確実修めなかった。入場禁止された一年以来、仏を学ぶ心はいつも落胆と感じて、最近体力が益々悪くなったと感じるまで、自分はもはや時間を浪費できないと気付いた。唯尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェにしっかりに従って、確実に仏を学んで生死を解脱するように祈った。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの体の健康、法輪は常に転じて、直貢噶舉の法脈の繁栄、一切有情を利益するように恭しく祈る。

続いてある男弟子はこの前に亡くなった游姓男弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法及び仏法の助けた後、その告別式及び海葬の瑞相を報告した。

游姓男弟子の告別式前数日から、始めて梅雨が降っていた。更に告別式先日夜も引き続きに降っていた。しかし、告別式当日朝、雨が止った。また告別式に伴い、天気は晴れになった。ちょうど告別式のホールの上、空は綺麗な青色になって、太陽も現れた。柔らかな日差しの下、告別式に参加する人ははっきりに温かいと感じた。また、他の所は相変わらず厚い黒雲に覆われた。游姓男弟子の妹の夫はこの男弟子に分かち合って、リンチェンドルジェ・リンポチェを賛嘆した。この日は彼達は一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、与えられた日である。この前に游姓男弟子の妹の夫は嘗て天気予報を調べたが、この数日間引き続きに雨が降って、晴れないと現した。彼も黄暦を調べて、この日は吉日と表した。游姓男弟子の妹の夫は当時リンチェンドルジェ・リンポチェは入定すると、すぐ葬式の日付を支持した。この日は吉日だけではなく、天気予報は雨が降ると言われたが、最後晴れだった。游姓男弟子の妹の夫はリンチェンドルジェ・リンポチェが素とても晴らしいと思って、眷属も天気は晴れになるから、喜んでいる。

公葬する前、游氏男弟子の叔母もリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な加持を賛嘆した。游氏男弟子の大体は冷蔵庫より移し出す時まだポワ法の瑞相が現れ、大体は非常に柔軟で、また梵穴のところに親指の大きさのくぼみがあった。游氏男弟子の叔母は前彼女が彼を散髪したとき、梵穴のところにはこんな現象がない、写真よりこの窪みがはっきり見えると強調で言った。この男弟子と家族にリンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て申された游氏男弟子が阿弥陀仏の浄土の上品上生へ行ったのを分かち合った。家族が聞いた後全部十分喜んだ。家族皆の心の中にの大きい石がたちまち下ろしてしまった事が見えた。

公葬する時、彼は見た、ホールの上方の太陽所には1つの雲が明らかに変化して、瑞祥な、かすかな雨が降りた。また特に外のところを見て、確かにただこのホールの上方にこのような瑞相がなかった。手を伸ばして雨に触れると、雨がとても細かくて、柔軟だと発見した。手が雨を受け取らないで、湿っぽくなく、周囲の雰囲気が明らかに温かくて、感動的、感恩的と感じた。異なる時空で、全く葬儀場ではないと感じた。もう1人の弟子も「臭気のないの感じ」と言った。游氏男弟子の容貌を仰ぎ見た時、彼の顔が非常に落ち着いて、口が閉めて、死斑が全くない、特に彼の目、生前腫瘍の圧迫のため、左目は際立ってしかも腫れて、目を閉じることが全然出来なく、右目もクローズすることが出来なかった。しかし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得た後、腫れる部分はすでに明らかに内に縮小して、目も自然と閉じて、大変殊勝だった。

火葬する過程は非常に順調で、あまりお待たせないで大体は火葬炉に入った。外の往生した者の家族と比べると游氏男弟子の家族は悲嘆の情緒がなかった。火葬した後、梵穴には骨拾い時の骨にポワ法の瑞相が現れ、即ち1つのきちんと整って、平らで滑らかな小さく丸い穴があった。游氏男弟子の甥が見た。骨灰は緑色、赤色、ピンクが現れ、また白色、黄色があり、性質は全部とても平均で、綺麗だった。現場の雰囲気が良くて、死体の腐っている味がなくて、臭気の感じも無かった。

游氏男弟子は生前もう1人の出家衆弟子の海葬の瑞相を聞いたため、彼達に船に乗らせると面白く言った。往生する前またこの分かち合う男弟子と外の弟子に、自分が地の大分解をしていると教えた。この分かち合う男弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な加持を賛嘆し、1人癌を14年間かかった若い者の身に意外に彼が生死と重病に対する軽い、落ち着くのが見える。海葬に参加するものが大変多くて、共に2本の船を運転させ、海に出る時、空は晴れて、強烈な日差しがなく、心地の良い海風は吹いていた。骨灰が撒き散らし終わった後、2本の船の間の上方の空に、厚い雲より1つの丸の穴を展開し、太陽のアウトラインが現れ、非常に完璧、明らかで満月の月のような球体で、温和で、直視することが出来て、周囲には綺麗な青い空だった。(図-1の如し)

▲ 図-1

円い穴の周囲の群雲からブルレーを発射して、何分を維持して、非常に殊勝だ。(図-2の如し)

▲ 図-2

彼は撮影の担当弟子に撮影したかときき、あの撮影の弟子は太陽を撮影出来なかった。彼はもう1人の弟子にたずね、丁度この時、殊勝な瑞相がもう一度彼らの目の前に現れた。(図-3の如し)

▲ 図-3

彼はこの一切は本当に大変不思議な殊勝だと賛嘆した。船を降りた後、家族はとても恩に着て皆におれを言って別れを告げ、その上、これは全部リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な功徳と賛嘆した。

游氏男弟子は往生する前数ヶ月前、嘗て数回心よりこの分かち合う弟子に言い、リンチェンドルジェ・リンポチェがなければ、彼は本当に如何すればいいか分からなかった。14年間癌にかかり、後期に目が見えない、1つの耳が聞こえない、もう一つの耳が遠い、自主的に世話と行動が出来ない、安寧な病棟へ入るべきになり、しかし彼は両親が既に年寄り、世話する事が出来ないと心配して、なかなか決めることが出来なかった。このごろ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは全部彼のために手配した。看護を手配した外に、この費用を負担し、彼の生活の不便を解決するだけではなく、彼の心の中にの苦悩も取り除き、同時に法会に続けて参加することを出来させた。彼は往生する一ヶ月前、まだ誠心誠意に、絶えずに供養と道場の護持をした。目が見えないので、毎回法会に参加する時、リュックサックの中から1枚の紙幣を取り出して、彼に1000元の確認を願った。臨終になる前に道場の護持する方は、彼も全力を尽くして護持した。これは彼の心だ。

分かち合う弟子は言った。游氏男弟子は最後のこの期間で、外の相弟子に「日本の法会は何時か?」「日曜日の法会が来たか?」しか聞かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の開示テープを聞く外に呪を唱え、文句或いは体が痛いとの話しを聞いた事がない。游氏男弟子の父親はこの一切を見証し、涙を浮かべてリンチェンドルジェ・リンポチェに感恩し、また「どのように報いるか本当に分からない。」と率直に言った。息子には明らかの病痛がなかったが、直腸癌にかかった弟はモルヒネがすでに最高の分量を注射したのにまだ十分苦痛で、どう仕様もない、二人の苦しみは本当に雲泥の差だ。游との男の母親は自分が言った。リンチェンドルジェ・リンポチェに息子を助けるように願い、息子を早めに行かせば、もう苦しみを受けなくなるだろう。はやり、游氏男弟子は往生する前の日に母親に聞いた:「あなたはもう準備出来たか?時間はあまりない。」また外の相弟子にも言った:「これは最後になった。」往生する当日の朝また皆に言った:「時間はよくつかもう。」家族は彼が何を言ったか聞き分からないと言った。それからやっと分かった、游氏男弟子はまるで彼らに彼が行くべきと話した。

この分かち合う男弟子は更にリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法の殊勝を慈悲で示現することを賛嘆し、游氏男弟子の世話をしただけではなく、彼の家族及び冤親債主の世話もして、一切はこんなに円満だ。特に游の母親の身より一層はっきり見える。若い愛子を失った母親の痛みは本当にこの分かち合う弟子が想像出来ない。しかし、この一切は全部変わった。救急車の救護者を含み、標準な作業手順により、重病患者に対して必ず応急手当をするが、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持で、游氏男弟子はこの苦しみがなくなり、また病院で往生すれば、家族には多くの惜しみと激しい泣き叫び、或いは大体を移りなど亡者に余計な痛苦を作らせる。リンチェンドルジェ・リンポチェがなければ、彼は必ずもっとの苦痛を受ける。この一切、色んな瑞相は仏法の殊勝円満と不思議を示現した。

最後に、彼はもう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩の功徳を称賛し、また尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに弟子達に全てくれるものを感恩する。彼は一切衆生皆が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェと諸菩薩の助けを得て生死より離脱して仏果を得るように祈った。

法会が始まって、リンチェンドルジェ・リンポチェは、7月23日が尊勝なる直貢チェツァン法王のチベット暦の誕生日だと開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王にお伺いして、当日に台北寶吉祥仏法センターでリンチェンドルジェ・リンポチェが長寿仏の儀軌を修めて、そして寶吉祥仏法センターの弟子達が連続24時間の長寿仏の心呪を唱えることで、直貢チェツァン法王に供養することを慈悲に承諾された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは7月23日朝10時に台北寶吉祥仏法センターで長寿仏を修め始めて、すべての弟子達が順番に呪文を唱えて24時間中断しない。年齢は18歳以上、65歳以下の弟子は全て、当日に長寿仏の心呪を13,000遍唱えなければならない。弟子は自分の体力、時間に従って唱えて、段階的に完成することができて、途中に暫く離れて家に帰って料理したり事を処理したりすることができる。すべての弟子は申し込みをしなければならなくて、申し込んだが来ない者、或いは申し込んでいない者は、これから来る必要がない。旦那さんか嫁さんが許さないとか、舅か姑が許さないとか、休みを取れないということを口実にする必要がない。もし弟子は尊勝なる直貢チェツァン法王の誕生日に関する事にさえ障害があれば、これから仏を学ぶこともきっと多くの障害がある。そなた達は13,000遍唱えるが、リンチェンドルジェ・リンポチェが唱えるのはきっとこの数字より多い。

リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐさま、ある年上の男性弟子に全権をもって責任を負ってこの事を手配するように任命された。何故かと言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは宝吉祥仏教文化交流協会の理事長がすでに確かに理事達を率いて事を行なうことができないと感じる。リンチェンドルジェ・リンポチェは、このアレンジを担当する男性弟子が事なかれ主義の人となってはいけなくて、この事を担当する時にもし何か問題がある事、誰かが従わない事を発見したら、リンチェンドルジェ・リンポチェに能動的に報告しなければならなくて、もし他の人のために理由、口実を探してあげて、他の人が実は一心にすると言ったら、この男性弟子が離れるほうがいい、と開示した。そなた達が試験を受けると同じように、答えは正しいが正しい、正しくないが正しくない、採点者はこの受験者が字をよく書いていることを見て、いくらかの点数を増やしてあげることができないだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いて、皆が6月末までに参加する時間がこの男性弟子に報告するように開示して、もしある時間の人数がわりに多いか少ない事情があるならば、合わせて調整して、完全にこの男性弟子に任せて手配して、そなた達が申し込んだ後にもう時間を変更しないで、この男性弟子が変更する必要があると判断するのはこの限りでない。そなた達はよく自分がした事のために理由を探して解釈して、リンチェンドルジェ・リンポチェが納得できない。とういのは、遂行しなかったら遂行しないため、いかなる理由あるいは口実がないから。何故かと言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王が諭された事についてこのように、完全にやり遂げて、上師に悩みを起こさせない、やり遂げていない時にもいかなる理由か口実を探さない。リンチェンドルジェ・リンポチェは既にそなた達に何度も開示したことがあるが、直貢チェツァン法王がどのようにリンチェンドルジェ・リンポチェを教導するかtそなた達にということを教えて、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれまで自分のため説明する理由を探さないで、ただいつも上師のために考えて、上師には悩みを起こさせない。真な根本弟子は上師に悩みを起こさせないが、しかしそなた達はずっと上師に悩みを起こさせて、ただ叱られないならばなんでもいいという心構えを抱いて事を行う。いかなる事を行うのはすべて、リンチェンドルジェ・リンポチェが言ってはじめてやる。さもなくば、リンチェンドルジェ・リンポチェは言ったことがないということを口実として、叱られることを免れるため、以前したことがあれば前例に従って、このようにしたら問題ができないと思っているが、時空も変化することを思い付かなかって、事を行う方法はどうして永久に変わらないだろうか?

だから、本当にほんの少しの人が密法を習って修め得ることができない。というのは、衆生の根器が足りないから。そなた達は自分の考えを持たないように仏を学ぶことをできないと、顕教さえも習えなくて更に密法を学ぶことを言わないでください。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も法会の中で、ある男性弟子が皆に彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前に仏を学ぶいくつかの経歴を分かち合うように開示して、彼がすべていちいちもっともだと言って、皆は多分彼がたくさん多くの経論を読んだことがあると思って、その上彼が出家したことがあって、しかし最近境界が来ると、彼が正体畢露である。だから、別に多くの経典を読んで、よくお経を講じることができる人が修行人あるいは仏を学ぶ人ではない。一部の人は数年間仏学院で勉強して外に出てきて仏法を教えたり、或いはテレビで多くの名相のを言ったりするが、しかしちょっと成就がある修行者さえ聞けば、この人たちがただ多くの仏法の名詞だけを知っていることがわかって、実際には仏法を知らないで、修行していない。

多くの人は仏を学ぶのが人によくして、人を害しなくて、かんしゃくを起こさないことを学習すると思っている。事実上、多くの宗教は全て、人に善をすることを勧めるから、もしただ少なくもしかんしゃくを起こすことだけを望めば、儒家思想とその他の宗教はすべてやり遂げることができる方法があるが、しかし善行をするのがただ身を処するだけの根本であり、仏法は仏法の特有な修行の仕方と過程があって、その他の宗教と違い、ただ善行をするだけではない。もしそなた達はただよい生活を過ごしたいならば、別に仏を学ぶ必要が無く、続けて多くの布施、善行さえすれば、未来ゆが徐々に良くなる。でも、お金を寄付して累積するこの福報は来世使うので、この世にはそなた達が使われないで、ただ修行により得る功徳は累世の業を転することができるが、しかしそなた達によい生活を過させることではなくて、往生する時に使って、そなた達を浄土に往生させるためである。仏を学ぶのは生死に解脱して、自分の累世のすべての悪い習慣を変えて、自分の累世のすべての悪習をこの世にすべて切れてしまうためである。そなた達は出家することができなくて、長時間で修行することができなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て閉関修行して、24時間も仏法を離れていないと同じではなくて、そなた達は自分が朝六字大明呪を唱えて夜護法神を修めていて、日頃菜食精進料理を食べているのは仏を学んでいると思わないでください。牛、羊は菜食料理を食べるが、まさかそれらは修行しているのか。菜食料理を食べるのはただ衆生と悪の縁を結ぶことを止めるのである。お経には、衆生の肉を食べるのは慈悲を育成しにくいことに言及される。在家の者人として、出家の修行する環境がない。しかし、今の出家衆の生活もとても忙しくなる。私達は在家として、修行するのは生活の中にやるから、仏法を生活の中に用いて、仏法が私達に五戒十善を教えて、それを私達の生活の準則にして、本当に自分のすべての輪廻する行為を改正して、すべての業を止まることができて、私達に時間があって弁済させる。借金が返さなくてもいいと思わないでください、仏を学ぶのはよくない事をすべて消えるためではなくて、そなたに弁済させる機会があって、その利息が少し減ってもいいのである。

ただ今言及されたあの出家したことがあって、いくつか仏法の名相を言える男性弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェの会社ですでに5年間働いているが、最初から毎日に1つの小さな誤りを間違って、3日に1つの大きな誤りを間違って、よく客様に苦情を言われて、さらに会社に損をもたらして、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう彼と計算しないで、ただ彼が大きな間違いを犯さなければ良い。しかし、最近この男性弟子は勤務時間にもう一人の弟子と電話して、個人の商売を議論して、また リンチェンドルジェ・リンポチェが経営する売店の女性の社員と付き合っている。もともとは男と女が付き合うことは自分自身の自由であり、リンチェンドルジェ・リンポチェがコントロールしないが、しかし彼は他の店の女の社員をも一心不乱に出勤させなくて、仕事に影響を齎した。彼は最近辞職する時の理由は自分のお金が足りないと感じるからのである。

多くの人はすべて仏を学ぶのが日常生活と衝突があると思って、普段そなた達は出家衆を見て、恐らくまた出家衆寡がそなた達の直面した問題がわからないと思うかもしれないが。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自身も在家の行者であり、事業を経営して、会社の社員を配慮しなければならなくて、母も子女もあるから、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達の在家衆が修行する困難がはきりと分かっている。そなた達は仏法を生活の中に溶け込まなければならなくて、別に読経して法会に参加しているのは仏を学ぶのではなくて、釈迦牟尼仏が伝授した仏法は間違いなくやり遂げることができるのである。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェに怒らせなくて、自分が叱られなかったらいいと思っているが、結果はすべての人は間違ったのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはいままでも上師に叱られることを心配しなくて、教派のために多くの事をして、直貢チェツァン法王が今もリンチェンドルジェ・リンポチェを叱らないのである。何故かというと、リンチェンドルジェ・リンポチェは上師に気を使わない戒律をやり遂げたから。この出家したことがある男性弟子は会社にいる時にも、また他の人と口喧嘩して、このような驕り高ぶる心構えは仏を学ぶことが出来ない。仏法は慈悲を諭して、誇りは慈悲を習うことができない。様々な現象から見れば、この男性弟子は本当に仏を学ぶ人のではなくて、仏を学ぶのがいかなる衆生と恨みを結ぶことをしなくて、衆生に悩みを引き起こさないのである。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが何度も開示したように《地蔵経》が凡夫が心が起きて念を動くことがすべて業であり、罪であるのを言及していることを信じない。人が心が起きて念を動くのは全て業力を産んで、自分の考えで欲求を発生して、欲求があれば悩みができて、悩みがあれば、悪事をつくる。業はすべて悪のではなくて、善の業も私達が仏を学ぶことを障害するのである。

寶吉祥仏法センターの特別な所は、皆が暗唱できるほどまでずっとお経を講じるのではなくて、大手印の修行する方法を使って、大手印は中国の禅宗が人の心を直接に指す教法と似ている。最近直貢噶舉派の中の一部の若者はお経を弁論することを学んでいるが、皆もお経を弁論する時の双方の互いに手をたたく様子を見たことがあるかもしれない。実は直貢噶舉派がお経を弁論していない。黄教は弁論するが、勝っても修行することが比較的に良いということを代表しない。何故かというと、直貢噶舉派は実修を重視するので、直接に「心」についてそなた達に教導を与えるのである。あの出家したことがある男性弟子は嘗て、2本の重さが五両である黄金を持ってリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したくて、彼はこのようにすることがチベット仏教の法本が諭されるように従って、黄金で上師を供養したら、上師が彼に密法を伝えると思っている。彼は何度も供養することを試みたが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは全然収めなかった。彼は今まで、何故リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の供養を受け入れないことを理解しなかったが、今どうして受け入れない原因を知っているであろう。リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達の心が何を思っているかが分かる能力をちょっと持っているから、リンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に工夫して、落とし穴を設計してリンチェンドルジェ・リンポチェにそなた達に伝法させることを思ってはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは名を求めなくて、利を求めなくて、いかなる求めることがなくて、そなた達はいかなる求めることが何も無い上師に全然仕方がない。たとえそなた達はとても恭しく表現しても、心は正しくないでさえあれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは全て知っていて、細かいところから見てわかる。たとえそなた達は表面上の工夫をしても、護法神はとてもすごくて、いつもそなた達に正体を現させて、重要なのはそなた達の心が転するかどうか、本当に生死に解脱するのを決心するかどうかというのである。

今年6月14日の祖師ジッテン・サムゴン795年大法会は信者に送る参考資料について、寶吉祥仏教文化交流協会の理事達が6月8日の金曜日にやっと資料の原稿を会社に届けて来て、リンチェンドルジェ・リンポチェがご覧くださいますよう、もし問題が無ければ6月11日の月曜日に印刷するということを書いている。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに65歳であり、乱視と近視であり、その上リンチェンドルジェ・リンポチェは土曜日に信者を接見して、日曜日に共修法会を主催して、月曜日にその他の用事があって忙しい。記念大法会は今年が初年度開催するのではなくて、皆は既にこの前の経験をもって、どうして理事達が少し早くリンチェンドルジェ・リンポチェに原稿をご提出しないのか、逆にリンチェンドルジェ・リンポチェはごく短い2日間の以内で見終わるのか。1千余り弟子では気づいて理事達にこの事を注意すると言う人が一人もいないで、皆はすべて自分と関係なくて、全く関心を持たない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ肉体であり、まだ疲れると感じるが、しかし理事達はリンチェンドルジェ・リンポチェが敵なしの鉄の金剛として、どんな事をすべてにリンチェンドルジェ・リンポチェに善後処理させてあげて、どんな事を決定する時にすべて、リンチェンドルジェ・リンポチェが同意しないのをすることができなくて、同意したのをすることができる、と言った。さもなくば、以前はどのようにしたら、今はどのようにする、と言う。完全に時空の背景が異なってやり方も違う、ということを考慮に入れていない。理事達はよく真夜中まで会議したが、しかし会議をしても決めない、決めても行わない、行っても円満ではなく、事をやり終えたらもう結構だと思っている。すべての人はただ復命するだけであれば事をすまして、すべては叱られないならばいいと思っている。叱られないことを恐れる心構えで事を行ったら、どのようによくすることができないであろうかか。すべての人はただ1つの貪念があって、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られることを貪る。もしそなた達は会場の仕事をする時にこのように一心にしていないで、ただ復命して事をすますだけで、。叱られないことを恐れる心構えで仕事をしたら、ちゃんと事をよく行うことがあり得ないのである。そなた達は道場の事、上師の事について、このようにいいかげんにごまかすので、因果応報はこれから他の人もそなたに対していいかげんにごまかすのである。

先日リンチェンドルジェ・リンポチェは朝、空港で旅行社に参加して海外へ遊びに行く人々を沢山見た。殆ど二十世代の若い人である。或いは年寄りは若い人を連れて、家族は全部旅行して一家団欒の楽しみを享受できると思った。しかし、家族は全部享楽して、福報は使ってしまったが、この家はいいだろうか。そなた達は現在も夏休みの時子供を連れて何処に遊びに行くのを計画しているだろう。或いはどんな旅行社の費用は安いのを比較しただろう。この現象を見ながら、リンチェンドルジェ・リンポチェの感触は二十世代の若い人は享楽しか重んじていない。そうすればこの国は競争力を失った。欧州に於いて、全ての国は経済の問題を直面して、状況は徐々に悪くなったが、それは第2次世界大戦が終わった後、欧州の人民は享楽を重んじて先に遊べばいい。失業すれば、社会福祉に頼ると考えた。台湾では現在も徐々にこの現象が現れた。リンチェンドルジェ・リンポチェの若い時享楽を全く考えなかった。当時遊びに行く金がないわけではない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェが分かったが、二十代の時、習い、経験を累積する時なので、しっかりに勉強しなければならない。旅行だけ考えない。皆は国の経済状況が政府のせいなど責めないで、皆は全て責任があるから、自分が起した結果だ。それも皆の共業である。末法時代の共業は悪が善より多いが、若し悪を行うと簡単に影響される。

昨日ある40歳頃の女信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、法会に参加するのを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐこの女信者は仕事をしないと分かった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に次の通りに開示された。そなたは固定な仕事があれば、再び求めなさい。この女信者は困っているかもしれないが、何故法会に参加するのを求めたのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは突然に仕事の事をおっしゃっただろうか。此処では仕事がある人しか法会に参加できないとは言えないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が仕事が無いから、仏を学べば、時間を消耗できると思うのを見たから。若し一人は自分の生活をアレンジする能力が無いと、如何なるリンチェンドルジェ・リンポチェに彼女が自分を修正できる行為があるのを信じるわけではない。若し自分の日常生活さえうまく世話できず、唯怠けのままに日々を過ごせば、どのように人に自分が仏を学ぶ事に対して精進できることを信じさせるだろう。寶吉祥仏法センターは仏法を広める宗旨とは皆に仏を学べば、仕事が必要がないのを言い訳としてするわけではない。或いは心霊の平和を求めるわけではない。皆に仏菩薩の教導に従って、懈怠せず、一分さえ止らないように習えば、自分が輪廻を堕ちる行為を全て修正できる。行うのはとても難しいけど、因果を深く信じる仏を学ぶ人なら、本当に行える。多くの人は元々皈依して仏を学んでいるが、子供ができた後、自分が所謂人生を過ごしたいから、まだ未完成の物事を行うべきと思って、仏を学ぶのは待つ事が出来る。子供が大きくなるや自分が引退するまで学べばいいと思う。此れは多くの人は仏を学ぶ事を中断する理由である。

先週ある女弟子は自分の結婚相手、相手の両親及び自分の両親を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、リンチェンドルジェ・リンポチェにお願いして、彼女達の婚期のために婚期を選んで欲しい。彼女は自分が恭しくて相手を連れて求めれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは相手と結婚できるとおっしゃると、彼女は結婚すると考えた。若しリンチェンドルジェ・リンポチェはだめだとおっしゃるなら、彼女は結婚しない。彼女はこうすれば、自分が教えに従うと思った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達のために日付を選ばない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ分かるが、相手とその家族は全部肉食している。それでリンチェンドルジェ・リンポチェはこの女弟子に聞いて、そなた達の披露宴は菜食料理で開くのを決めただろうか。結局相手は菜食料理で開くことを同意しなかった。よく考えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達のために結婚の日を選んで、宴会を開く時に皆はほろ酔い気分の際、テーブルごとに魚をもう一匹食べて、ロブスターをもう一匹殺せば、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達と一緒に殺業を作る因果を背負っただろうか。そうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェを損害しただろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果のことに対して全てはっきりにしているから、この女弟子は相変わらずエゴで自分が菜食すればいい。他人が肉食しても彼達の事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは日付を選れば、責任をリンチェンドルジェ・リンポチェに取らせた。リンチェンドルジェ・リンポチェを利用して、自分の婚姻を順調に進めたい。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を恐れるから、彼女のために日付を選ばない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女弟子に結婚させないと言えないが、彼女は結婚しないと、彼女の父親に喜ばせない。彼女は因果を信じないなら、今後仏を学ぶ必要がない。

この女弟子はこのような相手を探して、相手は菜食料理で披露宴を開きたくなくても、彼と結婚すれば、強引に縁を繋がる。この女弟子は自分が好きな相手を探したと思って、通常に自分が如何なる相手を叱っても相手は離れないから、相手は自分の話によく従って、必ず自分を愛していると思った。しかし、決定的な瞬間に遭えば、相手は彼女の話しに従わない。此れもこの女弟子が仏を学ぶ心が間違い。それは類は友を呼ぶから、気の合わないものは一緒に集まらない。例えば、大統領は強盗と一緒に食事しないようだ。泥棒もいつまでも法師の側にいるわけではない。たとえこの泥棒は足を洗って、仏を学ぶつもり。簡単に言えば、そなたは好きな物が現れれば、業の始まりだった。それは彼はそなたが仏を学ぶ事を妨げた。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在叱らなくて、唯その中の道理をそなた達に分析した。

更に数年前この女弟子の母は嘗て中毒して、皈依した後も高雄に行って、こっそりに蟹を食べた。リンチェンドルジェ・リンポチェの素晴らしさを信じなくて、高雄は遠い所だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かないはず、彼女は蟹を食べる様子を見ないと思った。蟹をこっそりに食べた後、戒を破るから、上師と護法の加持力も断った。この女弟子の母は中毒した後、顔や口が歪んで、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。様子がとても可笑しいと見えた。当時医師弟子も如何なる治るか分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェの指示を得たから、始めて如何なる投薬を分かって、彼女を治った。医師弟子は報告したが、当時この女弟子の母は顔に帯状疱疹を起した。目、耳、鼻は脳部の神経と繋がるから、顔に帯状疱疹を起せば、ウイルスは簡単に脳に侵入して、脳炎を起す。死亡率は非常に高い。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が蟹を食べたから、神経中毒したと開示されたから、医師弟子は病状に応じて適宜に投薬できる。

当時リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女弟子の母に言って、彼女は蟹を食べたから、この珍しい病気に罹った。彼女はすぐ否定した。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び彼女に聞くと、彼女は正直に自分が確かに皈依した後、高雄でこそこそして蟹を食べた。この女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母親を救ったと分かったのに、殺業の恐ろしさを信じない。因果を信じなくて、好きな相手と結婚するため、衆生の命を傷つける。今後は本当に仏を学ぶ必要がない。そなた達は他の所へ行けるが、他のところは厳しくそなた達が殺生しないのを要求しない。そなた達に教えてゆっくりして、若し行えなくても構わないと言った。またそなたに縁に従えばいい。他の所はリンチェンドルジェ・リンポチェのようにそなた達を叱責しない。そなた達は行けば彼達はとても喜んでいる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは全ての教導は仏経に説かれた通りである。そなた達は若し叱られたくないなら、今後も来る必要がない。

また、他の昔弟子である女信者について、リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで彼女の懺悔を受けなかった。それは彼女は弟子としているとき、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子達に賜った甘露丸を多く取った。上師の物さえ盗んで上師の損失を起した。仏経に記載があるが、上師の財や物を損なう事が出来ない。だから、勝手に上師の物を取ったのは上師の物を盗むと同じである。

先程懺悔した女弟子は実は誠に懺悔しなかった。唯自分の体が悪いから、懺悔しようと考えた。そなた達は皆勘違いで懺悔した後、何も起こらないと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に皈依した時、体が最も健康で、最も金持ちであり、全ての状況は最高な時である。そなた達のように状況が最悪の時始めて仏菩薩を求めると思って、運を変えたいから、求めに来た。仏を学ぶのは運を変えて、いい日々を過ごすためではなく、仏を学ぶのは生死を解脱するため。生死を解脱するため、必ず累世の悪業をこの世に解決しなければならない。此れは簡単なことではなく、必ず上師に頼るから、いい日々を過ごすのを考えないで。

先日前、リンチェンドルジェ・リンポチェはテレビで見たが、全世界一番の金持ちは女でオーストラリア人だった。彼女は唯五十数歳なのに、自分の子女と訴訟をして、家族の信託財産を争った。だから、喜んでいない。世間に於いて、真の楽しい事がない。若し仏を学ぶのは唯運を変えていい日々を過ごすためなら、本当に要らない。そなたが金を多く寄付して、善を多く行う或いは他の宗教の方式で使えば、そなたに運を変えさせる。他の宗教も皆を教えて、好い人になり、良い事を行う。仏を学ぶのは外道と差別は仏を学ぶのは生死を解脱するため。

仏経の中に常に仏が弟子を叱責しているのを説かれた。故に上師は当然に弟子を叱責して、弟子に過ちを起さないようだ。直貢チェツァン法王及び多くのリンポチェも話したが、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法は古代チベット人の教法である。若し上しの叱責を耐えない人は仏を学ぶ必要がない。例えば教師は生徒を教えるように、仏を学ぶ事によって、皆は幼稚園の年少組のレベルだけ。よく考えると、若し年少組、年中組、年長組の子供は教師の話に従わないわけではないだろうか。よく考えてみて、そなた達は幼稚園から小学校までの時、完全に教師の話に従った。何故今仏を学ぶのは教えに従わないだろうか。大人になると違うから、自分の考え方を持たれて、教えに従わなくてもいいと思わないで。

上師を利用しないで。あの結婚したい女弟子は因果を信じなくて、両親を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェを利用して、婚姻を順調にさせるのを望んだ。彼女の父も特にある団体の徽章を付けて、リンチェンドルジェ・リンポチェに自分が金持ちだと知らせたい。思わず、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は金持ちが多いのを知らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に対して特別に応接しなくて、皆を平等に対応している。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの身分や財産を見るではなく、彼達は恭しく婚期を求めると見えたが、リンチェンドルジェ・リンポチェがいいと言われたら、結婚するが、悪いと言われたら、結婚しないとすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェに敬うと思った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは唯因果しかを見ないが、明確にこの人達の中、多くの人は肉食するのに、リンチェンドルジェ・リンポチェに婚期のため教示を求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼達を協力して殺生させる。若し彼達は本当に三宝を敬うと、教えに従う。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に友達にならないや結婚しないと言えないが、唯縁を強引に繋がない。彼女の母は教えに従わず、自然に彼女も教えに従わない。所謂「この親にしてこの子あり」である。

顕教を学ぶとかなり楽であり、密法を学ぶとかなり緊張だと思わない。或いは顕教を学ぶと、聖人と同じで、密法を学ぶと一般人と違うと思わない。実はむしろ顕教を学んでも密法を学んでも法理と結果は全く一緒である。顕教と密教は唯修行の過程と方式が違うが、法理と結果は全く一緒である。全て生死を解脱するため。そなた達は必ずこの点をはっきりに分からなければならない。必ず生死を解脱する心がある。悟りとは何でしょうか。悟りとはそなたが既に自分の過ちをはっきりに分かって決心して再び輪廻しないと言われた。

直貢噶舉は実修の教派で、必ず閉関の修行を通じて暫く俗世間の一切を断絶して、静かにしてはっきり自分の問題を見る。ガムポパ大師は嘗て申され、人の群れを遠く離れる大雪山で閉関するべき、洞穴など見たいな所だ。今皆は閉関する福報がない、坊間では色んなパイプの閉関を行い、例え八関斎戒、しかしそれは全部円満な閉関ではない。場所、時間が重要ではないと言うものもあり、閉関することはすぐ出来ると思い、しかしこれはそなた達が出来るものではない。この境界まで出来る者は、大手印によって、少なくとも専一、離戯ヨガを修め得た行者が始めて雑念がなく、すぐ集中で閉関が出来て、どの情況でも閉関が出来、最低な生命欲望、食事、睡眠、体力があれば結構で、修行の方を全身全力する。リンチェンドルジェ・リンポチェは何時でもすぐ閉関が出来る。

一般な者はあんなに簡単に閉関が出来ない、そなた達に対して場所が大変重要で、高山或いは森の中へ閉関するべき、福報が足りないため閉関する因縁がない、日常生活より修め、自分の心を仏法の正確方向へ努力し、仏法でそなた達の心を長く薫陶させる。本当に仏を学びたいかどうか、そなた達の小細工より見わかり、表面的に綺麗に言ってごまかす事が出来ない。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに与えた長寿祈請文の中に言い及んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の因縁により仏法を教え、本当に仏を勉強したい者こそ縁があり、さもないとリンチェンドルジェ・リンポチェが多く開示してもそなた達も耳に入らないのである。

私達は出家衆のように経典を読む時間があらない。在家衆が仏を学ぶのは仏法を生活の中の全ての動作と思想に溶け込み、閉関したいであれば、因縁が熟してはじめて出来る。私達は時間が足りなければ、分割払いで修めることが出来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に毎晩自分の当日の身、口、意が<仏子三十七頌>と五戒十善と相違するか検討させ、過ちがあると改めて、明日もう二度と犯さない、しかしそなた達は全部やり遂げない。

仏を学ぶには先に執着を取り消す。例えリンポチェの果位を修め得ても、仏を勉強するにはやはり障碍が現れる。所謂障碍とは、そなたに輪廻を引き続きさせるのは全部業で、業障は仏を学ぶにの障碍だ。そなたが下ろさないのは即ちそなたの障碍だ。この方に良く頑張らなければらない。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼いより性質が良くない、人と衝突しやすい、仏を学んだ後、修行を通じて自分をやり直し、最近のドライバー事件―凶悪な言葉に向かい合われて、手振りの侮辱されるなど業報が目の前に現れると仏法を修行する効果を見抜くことが出来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは相手に感謝し、冤親債主を菩薩とした。冤親債主と出会ってはじめて自分が修め得た果位を実証させた。また自分が以前必ず人を罵ったことを了解させた。今日は大変嬉しくて、やっと返済が出来た。そなた達のように冤親債主と出会うとすぐ「どうしよう?どう解消するか」と伺いに来るのではない。

この時、ある女弟子があくびをした。リンチェンドルジェ・リンポチェの視力は極めて良くて、直ちに申された:「この女弟子は此れから信者になり、寶吉祥弟子の赤い法衣を戻れ。」彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが全て仰った仏法は自分と関係ないと思ったので聞き続けることが出来なく、人の群れの後ろに隠して、頭を下げてこっそりとあくびをした。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェのすごさを全く信じない。あの結婚の日取りを求めに来た女弟子と同じ、彼女の母親が皈依した後、リンチェンドルジェ・リンポチェが見えないと思って、高雄でこっそりカニを食べて、リンチェンドルジェ・リンポチェのすごさを信じない。この法会の中にあくびをした女弟子は三宝、仏法を尊重しない、ご開示の内容は自分と関係があれば、集中して法を聞くべき。そなた達は尊重する人の話しを聞けば、あくびをするわけがあるか?

そなた達は寶吉祥仏法センターに法会に参加しに来て、リンチェンドルジェ・リンポチェが坊間の団体のようにそなた達より授業料を取るのをしない。そなた達が本当に仏を勉強すれば、小さい所より見られ、本当に良く学びたいならば、心を刺激し始めて、自分に居眠りをさせない。リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝なる直貢チェツァン法王のご開示を聞く時、多くのリンポチェもいて、多くの場合には直貢チェツァン法王がチベット語で話し、チベット語が全く聞き分からなくても絶対に眠りをしない、それは直貢チェツァン法王に対して恭しいから。

我等は無明を考え、色んな悩みが生じ、自分が仏を勉強することを障碍する。全ての障碍は全部過去世の業力との現われで、我らは生々世々に全部自分の気ままで暮らし、このような暮らしは心地がとても良いが、晩年になると大変になる。そなた達は生死より離脱する法門を勉強しなければ、寶吉祥仏法センターに来ない。顕教を学んで自分が過ぎたい日を暮らしてもいいし、上師に叱れる事がないと思わない。一つの金剛乗の道場に来て、修行経験のある上師、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に博士クラスで、そなたの過ちを見ると必ず叱る。そなたを弟子として見て、そなたの過ちを見ると叱らないわけがないだろう。叱れないなら密法を学ぶ事が出来ない。顕教か密法の勉強を問わず、自分の考えを考えなければならない。

そなた達は游氏男弟子の例を聞いた時、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めた後、彼の目の腫瘍はなぜ消えたか?只本当に不思議と思った。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼のために手術しない、お医者さんも彼のためにしないのに、腫瘍はどうやって消えてしまったか?不思議だと思わないで、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を済度した時、癌細胞さえも一緒に済度を得て、腫瘍が自然で消えてしまったから。何の故游氏男弟子は往生するまでずっと痛くなかったか?大体同じな時間に往生したその他の二名弟子はかえって痛くて、更に痛みを止める針を打つことが必要になったか?それは游氏男弟子は業がすでに完済し、最後まで仏を勉強することは自分ではなく衆生のためと分かったから。それより業障が彼を妨げないで、彼に法会に参加する体力をあらせた。これ等の癌細胞は良く分かり、彼が浄土に着くと、彼らも一緒に済度されることが出来、自然と彼と平和共存することが出来た。外の2名の女弟子はなぜまだ痛かったか?それは、自分の考えがまだあり、業障がとり消えないと当然痛くなった。実は游氏男弟子は二年前既に往生するべきが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼がまだ十分の福報を蓄積しないのを分かり、彼に時間を有らせ、福報を蓄積する事を助け、福報を足りさせて、行くべきなら行ってしまった。これこそ浄土へ往生する因縁を有らせた。

そなた達を言ってみよう、1人が少しの痛みもなくて平静で往生することが出来たら、福報があるか?1人の名前が絶えずに言い及ばれて、福報があるかどうか?往生した後千あまり者が彼のため呪を唱えて、福報があるかどうか?これこそそなた達が羨ましいべきことだ。他人の財産、子女、家庭などことは羨ましいものではない。これらは過去世に修め得てこの世に現れた因縁である。そなた達がこの世に修行して得た善果は次の世に残って使う事しかできない。游氏男弟子は往生した後まだこんな多くの者が彼の名前を言い及んだ。それは彼が福報を蓄積した。そなたが福報があれば、他人が自然とそなたを言い及び、それに正面性のことを言う。ある者はよく往生した父母親の済度することをリンチェンドルジェ・リンポチェに願いに来た。彼の父母親の生まれ年を聞く時、答えは何時も知らないのであり、これはこの亡者が福報がないとの現れ、その故で眷属が思い出せない。

そなた達は只加護、自分のことをよくなるために仏を学ぶならば、布施、善行を多くすれば、未来に自然と益々良くなり、そなた達に所謂のいい日を暮らさせ、仏を勉強しに来る必要がない。仏法も求め必要だが、仏菩薩に加持を願い、自分の心を懈怠させないで、変わりたいと決心させる。仏を学ぶのは圧力、恥ずかしい事ではなく、他の宗教の信者は全て大声で自分の信仰を言い、なぜ皆が大声で自分が仏を学ぶことを承認しないか?仏はそなたに悪事をさせるか?皆の心が正しくない、自分が仏を学ぶ者との事を認めなく、受け取らない。他人の批判に恐れて畏縮する。仏を勉強するのは表面だけではなく、そなた達の仕事、家庭も影響しない。仏を学ぶ者も普通の者と同じで、仕事、家庭の生活をし、外在的な形式は同じだが、心はところが同じではない、一番大切のは心理状態にの異なりのである。真に教えにしたがって、因果を深く信じれば、他人に仏法がそなたに影響を与えた事をますます見せ、次第に仏を学ぶことを納得させる。

ある者は仏法はただ宗教だと思うなら来ることが要らないで、他の道場に行くのが十分である。閉関したことがあって密法を伝えられたことがあれば仏を学ぶとは言えない。そなたは自分の一切な輪廻される行為を修正するかどうか?自分の因果を受けるかどうか?多くの人々は癌に罹ることがとても厳重なことと思っていて、癌に罹るなら自分がとても速くて死ぬと思っている。しかし、癌に罹るならすぐに死ぬのではなくて、游氏の弟子は14年で癌に罹っていてから死んで始めた。が、癌に罹らないなら死なないことも言えない。癌に罹ってまた思考しないで自分が間違いをしたことをしないで、これが自分の悪報受け入れないで、ただ方法を探して癌細胞を消えて、癌細胞に死なせるなら、これは何か役が立たない。癌細胞は生命体で、これを必ず殺したら、逆にこれを他のところに移転させる。人体の全身はこんなに多くの細い血管があって、癌細胞がこのように小さくて、一つの癌細胞がとても簡単な逃げて発見されない。

一部の病気に罹る人はリンチェンドルジェ・リンポチェに寿命の延長を求めてきて、自分の妻がまた若くて、子供がまた小さくて、このような早くて死んだら、責任を完了せずと話した。実は、本当にこのような責任感を持っているのでしょうか?正直に言ったら、自分が死んでから妻が若いのでまた他人と結婚し、子供が他人の氏名に換わることをそなたに不愉快になるだけである。仏法は人々に死なれないことを救うのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェでも死なれて、如何にそなたに死なせないだろうか?またある者はリンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て助けて、いま大リンポチェですので、助けないことになると思っている。人々はすべて感謝しないで、ただ他人が慈悲ではないと思っている。かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に助けて、彼に時間を与えて仏を学んで生死を解脱させて、彼の身体に死なせないことを思ったことがない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの仏を学ぶ機縁を救うことが出来で、そなたの法身慧命に延長させることができて、そなたに生々世々の輪廻を離れることを助けられて、しかし、そなたの壊れた身体を救われない。車のエンジンのように全部壊れて、如何に運転するだろうか?

「悟」は本当に人生無常を悟って、死亡が我々の身体を従うのである。これは仏を学んでからすぐに死ぬを示すのではなくて、却って、人々がある日に必ず死ぬので、本当にこんなに多い時間と精力を如何に自分を死なせることを浪費してはいけないで、逆に、死亡をする後で如何になって、死んだ後に何処にいくことを考えなければならない。人々は必ず輪廻があって、未来があって、所謂三世因縁は過去世、現在世、未来世である。所謂正知、正見、正解は輪廻を信じなくて因縁を信じないなら、正法ではない。この世にした一切なのはつまり来世の果報である。この世に全て発生する一切なのは過去世のわけである。今日、した一切なのは必ず因果応報があって、未来も必ず仏を学ぶので変わられる。

釈迦牟尼仏でも仏になる時に九つの難があって、最後、全ての釋迦族が滅亡された。仏は道の中で三日間で止めっていて、結局、起きて離れて、最終、家族が滅亡される果報を逃げられなかった。仏でも因果をかわられないで、が、仏は三日間で止めていたので、その時に、滅亡される国王が水の中沈んで、だから一部の釋迦族の成員が逃げられて、しかし、大部分の族人が消滅されて、これはすべて因果応報である。そなた達は自分が少しを唱えて礼拝して、因果を変われることを思ってはいけない。仏を学ぶのは自分を変わって、そなたに勇気があって生活の中に一切なことを直面することができて、よいか悪いか関係ない。好さと悪さはすべて冤親債主の出現で、これもそなたにそなたの修行が如何になることを見せられる。仏法の学習により、因果を深くて信じていて、業障が現れる時に、これが果報で、勇気があって直面して受けることが出来てはじめる。リンチェンドルジェ・リンポチェが前週に法会に開示された運転する時に冤親債主にある例のように、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深くて信じていて、精進な仏を学んでだらけていないで、相手と論争していないで、果報を軽くて変わった。もし下車して論争したら、事が終わられなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェはかつて皮膚癌にかかったことがあって、その時、医師の弟子が検査した後に黒色素の細胞のこぶだで、あるとても悪性の皮膚癌で、すぐに治療をうけないなら、急速に命に危害させると表示した。しかし、医者弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに報告した後で、リンチェンドルジェ・リンポチェがただ受けて、如何なる治療をしないで、ますます癌に治していった。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時に医師弟子に検査し、ただ自分の果報を確認するだけで、なぜならば、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て多くの魚を食べて、魚を食べすぎな人でれば、癌にかかって易いわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が癌にかかる後で、とても歓喜で受け入れて、累世の業がこの世で完済されて、生々世々でまた返済してくることがいらないわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の皮膚癌にますます消えさせて、そなた達は見るととても簡単だと思っていて、実は精進な仏を学んで修行することにより自分の累世で作った業を消えられる。

殺業があったら、治されず病気に罹られて、しかし、勇敢な直面することが必要し、自分にこの世に過去の債務を完済させられる。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェの癌が良くなるのでしょうか?ただ善に向かったら、悪い細胞は自然によい細胞に変わる。人間であれば、必ず死ぬ。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは体の為に執着していない。市中のある人は患者に多くて拝懺し、点燈させて、実は、ただこれをしたら、この世の果報を変わることに対して何か助けがない。点燈はただそなたの来世の皮膚が美しくならせる。善因をしたら善果を貰えて、悪因をしたら悪果をもらえる。仏を学んでから悪果を現れないことを望んだら、それでは、仏を学ぶ善も現れない。そなたは悪の果を慣れるなら、それでは、善の果報を現れるなら、そなたも同じように受けることを拒絶し、これはそなたが既に責任を避けることを慣れた。自分の果報を逃げてはいけない、逃げることをなれる者は本来あるとてもいい機会も失う。皆は果報を受けない習慣を養成されて、なにもいい事がほしくて、結局、善の果報も無くして、全て受けない。この一生のなかによい機会を現れれて、そなたが把握しないでそれを無くさせるかどうかを回想四手見て管際。これはそなたが万事を直面しないで、責任を逃げるので、この善の果を貰える福報がないわけである。

運命が変えることができるか?運命はもちろ変えられて、が、仏法を信じてから変わられてはじめる。ただ速くて仏法を以って自分を変えるなら、果報を現れても依然として歓喜で受け入れる。冤親債主の現れは自分に過去でしたことをはっきり見せるので現れる果報で、自分のこころが正しくないなら、自ずからことが発生する。顕密に関わらず、如何なる法門を修めても、仏の教導を離れないで、すべて生死を解脱する。上師はとても重要し、密法を修めると上師を通して学んではじめて、顕教を修めても同じように法師を尊重する。上師は弟子のために善の因縁を作って、游氏の男弟子で例をあげて、彼のこころ嘗て偏差になったがまた帰って、しかし、上師の助けを同じように必要し、彼が浄土に往生して上品上生を貰えて初めて、続けて修行したら花開見仏ができる。これは上師が彼を如何に助けることを知っていて、その上、助けを与える。彼の身体の状況を益々悪くなる時に、自分が自分を世話する能力がないで、彼が鬱憤を生んで心がむやみに落ちることかどうかをかんがえてください。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の問題をみて、自発的にお金を出して、24時間の看護を雇用して彼に配慮し、彼の罣礙えを解決し、彼の心に静って止んで、依然として定期で共修法会に参加し、心の中に他の考えがない、持続的な心の中に六字大明呪を唱えられている。他人であれば、ほかの兄弟子に順番に彼を配慮する事を話すかもしれない。が、他の兄弟子は働きなければならなくて、これが長い目で見た計画ではなくて、その上、彼の両親が高齢で、彼を配慮することも出来なくて、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ負担できる状況の下で、自分から手配する。これは彼のために未来でいく道を手配するのである。ある如法の上師はそなたの未来世を見えて、そなたのために最もよい手配することが出来て、これはそなたでもわからなくて、だから、ただいうことを聞いて受けることが十分である。

游氏の男弟子は両親と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに供養して来るときに、リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で彼に供養金を彼の両親に供養することを指示し、これは游氏の男弟子に福報を累積させられて、浄業三福のなかに「両親に親孝行をする」を遣り遂げて、特別に仏菩薩の前に両親に供養し、福報を起きる。多くの人々はこのように考えないかもしれないで、彼の供養金を納めて彼に福報を累積させると思っていて、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子のために最もよい機縁を造って、弟子に最も大きな福報を累積させて浄土に往生することができる。

因果は絶対的な善と悪のではなくて、とても複雑で、だから、仏が多くの方法があって、皆を自分の心がはっきり見えさせて、自分がして行くことが必要である。直貢チェツァン法王は多くの法を伝えて、が、これもリンチェンドルジェ・リンポチェが自ら修めること必要である。この游氏の男弟子は最初心が変わって悪になって、腫瘍が再発し、すべての顔にいっぱいな癌細胞を生えていて、人も醜くなった。しかし、結局心はまた変わって来て、結果も良くなっていく。そなた達は誰でも本当な仏を学ぶことがない、もし因果を恐れるなら一心に仏を学ぶ。仏が曰くことはすべて確実な存在し、因果法則が必ず存在する。仏の教導を必ず忘れれられない。皆の因果業力が違っているかもしれないし、しかし、植える因が相同で、果報も同じで、ただ軽重のレベルが違っている。ただ因果を深くて信じて因縁を受けるなら、仏法が自ずからそなたの生活に入られる。しかし、ある日までに果報が現れる音もうので、我々が何もしないで、ただ一日中に果報の出現をまって、或いは、速くて命を終えると言って、このような消極的な考えも間違えて、仏を学ぶ者がとても積極的に自分を変えることが必要である。

今日、皆は直したくても、上師と仏の助けがあったらやり遂げてはじめる。顕密に関わらず上師が必要し、そなた達は家にいて自分がお経を唱えられて修められることと思ってはいけない、そなた達は六祖慧能によりすばらしいことがこの限りでない。六祖でもただ見性をして、最後、五祖を心法を伝えてから完全に悟ってはじめた。自分がお経を唱えることにより修められるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが修めることがいらない。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが顕今日を学んだ時に、多くの仏経を唱えている。そなた達は基礎を遣り遂げないで、博学があるが才気がないで、経論を多くて読んでも、ただ博学で、衆生を利益する能力がない。多くの人々はリンチェンドルジェ・リンポチェが謁見する時に、自分が衆生を利益するために仏を学びたいと話した。しかし、自分の問題でも解決できないで、如何に衆生を利益するのでしょうか?所謂「自利利他」とは自分が衆生に欠ける債務を完済し、好きか好きでないかすべて欠けて、これを完済してから自利利他をすることができる。

今日、開示される仏法は聞いてから有り触れた話だかもしれない、が、とても重要である。因果を信じていて、それから、能力があって直面し、積極的な自分を変えて、境界が現れる時に、自分がようやく制御できることができて、仏菩薩がようやく現れてそなたに保護する。もしそなたは仏法の教導によりしたら、因果を深くて信じていて、仏菩薩が如何にそなたに保護してこないのでしょうか?寶吉祥仏法センターの特徴はある全身が問題まみれの上師にあって、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行により自分の問題を一つ一つで解決し、だから、そなた達に見るときに、そなたの一杯の問題を見える方法があって、そして、そなた達に助けてそなたが発生した問題を解決することが出来る。上師は弟子に福報を累積して智慧を開いて助けることができて、最近往生したばかりの三人の弟子が最もよい例である。そなた達は上師の手配を信じるなら、仏法の助けを貰えられて、そなた達の未来世によい果報があることを助ける。いま、そなた達の生活が如何にしても先に受けて、これは現在世で発生する一切なことが過去世でした業である。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェはある重病の信者のために皈依の儀軌を行ってあげた。

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2012 年 09 月 13 日 更新