尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年1月23日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターにて、自ら共修法会を主催して、午前中には皆のために黒水財神法と象頭財神法の法門を修めて、午後には引き続いて長寿仏法門を修めた。

法会が始まる前に、ある女子弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母方の祖父を助けた経過を分かち合った。彼女は2000年にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して、彼女の母方の祖父は2011年9月11日に皈依して、2012年1月3日に往生した。

彼女の母方の祖父は肺機能がよくなくて、血気が足りないので、入院して3~5日後に退院して、退院する当日に彼女の母方の祖父は自分がいつも祈っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェのことを考えていると言って、そして前日の夜にリンチェンドルジェ・リンポチェはいつも彼の身の回りで彼を保護していたと言って、彼は恭しく合掌して祈って、リンチェンドルジェ・リンポチェのことを考えていると言った。

彼女の母方の祖父は病院を離れた時、肺部がとてもあえぐことと感じて、そこでもう一つの病院に転院して、彼女の母方の祖父はその時に動悸がとても速くて、血圧がとても低くて、足が度々に上へ高く持ち上げて、彼女と叔母は母方の祖父の皈依証を母方の祖父の身の回りに置いて、母方の祖父の耳の辺で彼にリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の頭のてっぺんの上にいることを観想して、心の中では六字大明呪を唱えるように教えて;もともと仏法を信じていない彼女の父もリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を捧げて母方の祖父に見せたのである。

その時、彼女はもしリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学んでいなければ、彼らの心はきっと狼狽し混乱して緊張して恐れていると考えていた。母方の祖父の血圧がずっと下がっていることを見て、彼女の心の中はリンチェンドルジェ・リンポチェを観想しながら、六字大明呪を唱えていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが最も良い手配をして、母方の祖父に苦しみを受けさせないようにすることを深く信じる。母方の祖父は当日の午後3時53分に往生してしまって、リンチェンドルジェ・リンポチェは、亡者は息が絶えて亡くなった8時間以内、彼を動かないで、邪魔する音を無くしてください、眷属が自分で真言を唱えなければならないと開示された。

彼女達は祖父の遺体をめぐって真言を唱えた。始めた時祖父が口を大きく開けて怒っている様子があって、顔色も早めに黄色になった。彼女は祖父の周りに彼に恐れないで、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想すると話した。また、彼女の父はリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真に向いて、口が『リンチェンドルジェ・リンポチェ、オーン・マ・ニ・ベ・メ・フーン』を唱えた。彼女の父はリンチェンドルジェ・リンポチェを見た事がないが、祥楽旅行団を参加してチベットに行った事がある。更に祖寺ディクンティ寺に行った。祖父は最も上師及び仏菩薩の助けが必要で苦しみを離れて楽を得る時、彼女の父はリンチェンドルジェ・リンポチェに信心を起して、自分もリンチェンドルジェ・リンポチェに祈請して祖父を助けて三悪道を離れて浄土に往生する。此れは全てリンチェンドルジェ・リンポチェの加持である。

彼女の祖父は息を止めて六時間に経った後、彼女達はリンチェンドルジェ・リンポチェが既に祖父の神識を守った事を分かった。更に祖父の口も完全に閉めて、顔色も赤くなって、唇も赤くなった。様子は生前より綺麗だった祖父は病院にいる時嘗て自分の財をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養すると言った。祖父ははっきりに分かったが、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養すれば、自分は福報があって苦しみを離れて楽を得られる。

祖父の遺体は八日間に冷蔵庫で冷やせなくて、死斑も現れていない。顔も落ち着いて赤かった。老人性しみも薄くなってしわもなくなって皮膚はつるつるした。告別式当日に彼女は上師の恩は海のような事を考えると、涙は禁じれなくて溢れた。若し祖父はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しないと、どのように苦しみを受けているだろう。

彼女の家族はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、上師が祖父を助けて苦しみを離れて楽を得させる事を感謝した。彼女の父はリンチェンドルジェ・リンポチェの威儀を感動して、家を帰った後、引き続きにリンチェンドルジェ・リンポチェがとても自在な修行者を褒めて、リンチェンドルジェ・リンポチェが一般人ではないと言った。彼女は上師を感謝して父に因縁を与えて上師に会う機会があって、彼女の父に此の世に因縁福報を蓄積させた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝して、父に仏法の殊勝及び慈悲を見せた。

彼女の祖父は往生した後第七日、他の眷属は初7日の法要を行うかどうかを聞いた。彼女は彼達に言って、この事を行っても祖父に役に立たない。唯六字大明呪を唱えて、リンチェンドルジェ・リンポチェを観想すればいい。彼女達は唱えた後外に出ると、はっきりに空に巨大な竜の雲が現れて、全く同じな仏菩薩を両尊見て、仏菩薩の前に光を発して、目のくぼみがとても深い髑髏がいた。彼女達は此れは全てリンチェンドルジェ・リンポチェの加持及び証量のお陰だと信じた。

その上、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の弟を助ける事を分け合った。彼女の弟はパニック障害のために多くの薬を飲む次第に後遺症を生じて、一番酷い時ショックして、病院へ救急して、お医者さんもさじを投げる。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った3日間後、彼女の弟が言った、何年ぶりこんなにいい気分がなかった。あれから現在まで、5、6年間に起きられたことがなく、これは全てリンチェンドルジェ・リンポチェの助けで、彼女深くリンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着た。

もう1人女弟子は続いて、尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の家族を助けて衆生に利益する事を分け合った。彼女は大変リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女の往生したお父さんとお母さんを救済したことを感恩した。母親は2007年6月に健康検査するところに子宮癌にかかった事を発見した。お医者さんは母親に手術して子宮を取り除かせたが、母親は自分が年を取ってあまり治療を受け取りたくないと思って断った。あの頃リンチェンドルジェ・リンポチェはちょっとラーキ雪山に閉関していた。彼女は覚えてリンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て申されて、身は台湾にいなくてもいないとは言えない。それで彼女は母親を連れて寶吉祥へリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に頂礼した。あれから、母親は病この事を忘れて、もうお医者さんへ見に行かなかった。昨年(2011年)母親は健康検査をしてから一切正常だった。彼女は信じた、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の大福報と大功徳を与えて、彼女は大変リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着た。

2002年彼女が看護の患者は入院して、隣床の13才の女の子は交通事故で脳部を手術して、脳圧が下げられなくて、いつでも死になり、家族はとても焦った。彼女と家族とリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助ける事をわけあっった。そうして、女の子の母親は北上へリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは女の子を助けるため台風の日に松山空港で小さい飛行機に乗って台中へ、病院に到着した時、リンチェンドルジェ・リンポチェの着物は既に半分濡れて、こんなになってもすぐ加護病室に入ってあの女の子を加持して、それに家族に女の子は8日間後よくなると仰った。女の子は本当に8日目に普通の病室に変わって、現在丈夫で元気だ。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつでも何の報いも望まなく、一生懸命衆生に利益している。

彼女は自分が悪の弟子を懺悔し、普段に上師の功徳を褒め称えていないで、上師に親しくする事をしていないで、10年以来上師が彼女に対する教戒を無駄にさせた。彼女は人生が苦しくて短いと深くて感じていて、彼女は再び輪廻をしたくなで、いまから全ての悪を止めて、一切の善を行って、言う事を聞いて、教法により従って実際に行っている。同時、彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは身体が平安無事で、法輪を広めて転じることを望んでいて、その上、多くの兄弟子が彼女の父の送別式に参加する事に感謝した。

もう一人の男の弟子は出て発露して懺悔した。去年(2011年)の旧正月の時に、彼は皆がリンチェンドルジェ・リンポチェに供養するお金をマンダラをあげるお金になって、その上、午前と午後の二つに分けた。事後に、その件は自分がしたのではないと思っていて、責任を全て他人に圧して、自分がメンツだけを重んじた。上師に開示された事があって、寮を造るお金を他の利用をしたら、大きな応報を受ける。が、彼はこのような大きな悪業をしても、懺悔も知らないで、上師が自分がいままで出で懺悔していないということを厳しく叱正をするまで、自分が懺悔心がない事をして始めて、因果の恐ろしさが分からないのに、このようにずっと間違っていく。

彼は法務の事を務めても上師にお伺いを立っていないで、独りよがりで、自分がとても熟すると思うので如何にする事を知ったら十分である。上師が指示する事も心を尽くしてうまく務めていないで、三昧耶の戒律を破った。彼は自分が貢他我慢の人だと言って、法務の仕事を務める事が立派だと思って、長くて皈依するので素晴らしいだと思っていて、他人の事を考えないで、衆生を思う事が無かった。うまく戒律を守る事がないで、戒律は全て破れてしまった。

彼は利己的な人で、如何なる事が全て自分の為に、ただ自分に対する利益があるだけで、勤めるのは他人を考えなくて、衆生を考えなくて、更に慈悲心を発する事を言うまでも無かった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは何回目で下記のように開示されている。慈悲心がないならば仏法がない。その上、弟子達に如何に慈悲心を修める事を教えてくれて、然し、自分は輪廻の中にいる苦難な衆生を思い付く事が無いで、工夫をして慈悲心を学ぶ事が無くて、ただ上師の庇護の下よい生活を暮らす事を知るだけである。

上師がないで仏法が無くて、仏法がない生活は前途が全て黒くて、恐れを満たして、ずっと六道に輪廻している。上師はこのような機会を与えて、が、彼は上師の恩徳に背いて、本当に人間ではない。上師の慈悲に感謝し、自分に仏法を聞く機会を与えて、彼は絶対に機会を把握して、仏法を学んで、自分の問題を改正しなければならない。最後、皆は彼に例をしてくれぐれも同じ間違いを犯す事をしてはいけない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に上って、こう開示された。今日は旧暦の元旦であり、中国人は習俗でこの日に仏寺あるいは自分が宗教を信奉している所に行って、未来の1年が順調になることを願う。実は、今年は順調になることができるかどうか、そなたの去年した事によるので、もしそなたが去年した事は善であれば、そなたは今年が自然に順調になって、たとえ悪な事に遭ってもあまりに深刻ではない。

ある人は今年が本命年で、対沖(自分の生まれ年とその対極にある年には災いがもたらされること)だと言って、実は今年が殆どすべての生まれ年に影響して、皆が健康、事業と家庭の方面に於いて問題を発生する可能性がある。ある人はその故、安太歳(、お寺か廟の中には太歳神と光明灯が所狭しと並べられていること)をして、太歳神を家に持ち帰って祭ることが必要だと思っている。実は年沖あるいは時沖などの観念は、もし人が過去の時間にはいくつか悪をしたら、ある特定の時間にあってこれらの悪業の報いが現れてきて、だから年沖の生まれ年にあうすべての人に影響があるのではなくて、やはり自分が善を行うか悪を行うかと関係がある。太歳は道教の言い方であり、実は太歳神が凶神であり、皆はすべて凶神と悪人どもを遠く離れることを望んでいるが、凶神を家に持ち帰ってきて、とてもおかしいではないか。

リンチェンドルジェ・リンポチェは小さい時から家族が道教を信奉して、これまで太歳神を家に安置するやり方がない。そなた達は世の中に怖いものが無いのに、却って太歳神を恐れるか。実は太歳は天帝を代表して世間で悪を行った人を懲罰するので、もしそなたは悪事を行っていないならば、天はどうしてそなたを懲罰するのか。地はどうしてそなたを懲罰するのか。もしそなたは善を行っている人であれば、これらの神様はそなたを保護することが足りないから、別に安太歳をする必要が無いだろう。だからこれはすべて要らない。安太歳をしたい人もびくびくして、自分が悪を行ったことがあるのを知っていて、その故事故が起きることを心配している。実は、もしそなたは過去に善を行ったら、太歳神はそなたに対して影響していないで、もしそなたは悪を行ったことがあるならば、太歳神はそなたを懲罰するのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある懺悔しに出てきた皈依の弟子を叱責し、彼の言った懺悔の言葉の中から、彼がそれとも懺悔しないことを見抜くことができて、やはり自分がどこを間違ったことを知っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすでに1年間彼を我慢して、ずっと彼がいつ覚めるかを待っているが、しかし彼は今日までやはり自分の間違いを知っていない。この事により、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの開示が分かないで、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示さえもすべて覚えていないで、このように長年も仏法を聞いたが、すべて修行していないことが分かる。

一般的に言えば、正月1日に人を叱らないのであるが、しかし仏法は忌み嫌う物がないので、リンチェンドルジェ・リンポチェは正月1日から12月30日まで叱ることができる。もしそなた達は叱られることを聞きたくないならば、別の道場に行ってもかまわなくて、もしそなた達が彼らの所に行ったら、全てはとても楽しくなって、顔はすごく笑顔でそなた達に光明灯を点灯することを勧めて、今日居合わせる出家衆はすべてこのようよ信者を接待する方法が良く知っている。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社は大晦日の前日に社員と一家団欒の食事会をおごって、そしてある葬儀社の社長を誘って、彼に挨拶させて且つ歌を歌わせるだけではなくて、そして社員に、彼が良心的な事業を経営しているので、もしそなた達の親友は必要があれば彼に頼むと教えた。普通な会社は誰が葬儀社の社長を誘って自分の会社のパーティーに参加しにくることを案内するのか。全てはひどい目にあうと感じて、しかし死亡は仏法から見ると、忌み嫌う物ではないから、ただ必ず経過しなければならない過程であり、そなたが必ず呼吸、食事をしなければならないと同じように、きっと死ぬのである。

死亡は食事、睡眠と同じように自然であり、別に忌み嫌う必要がない。世の中はすべて死亡を忌み嫌って、もしある者は大雄宝殿の中で死んだら、仏寺にとって不吉で、運が悪い事だと思って、実はこれは福報がある人だけが発生する事である。寶吉祥仏法センターでは全然に死亡を忌み嫌わないのである。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェが皆のためた修めるのは黒水財神であり、皆にもともとそなたに属する財を取って戻るように手伝うので、財も福報の一部分であり、私達の生命も寿命と財など2つの部分に分けられて、1つを欠けてはいけない。みんなは仏を学ぶならきっと供養しなければならないことを知っていて、供養も財が必要である。顕教は財神法を修めていないので、チベット仏教だけが修めるのである。     リンチェンドルジェ・リンポチェがまた顕教を学んでいる時に、顕教の師父は密宗がすべて財を求めるので、仏法ではないと思っている。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教の師父の言い方を信じたが、それから密法を学んだ後に、これが顕教が密法に対する誤解だいうことを知っている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いてこう開示した。《薬師経》には、財を求めるのもあり、そなたは正直に商売をする人であれば、助けがある。そなた達は聞いたことがないだろう。密宗が財神を修めるのは、そなたのもともと持つべきな財にそなたのした悪で、妨げを受けさせないためである。

仏法の中には修行する人が福慧双修をして、仏を学ぶ資糧を累積しなければならないと説かれて、福徳、智慧など二つ資糧がなければ、修め得ることが出来ないから。たとえ出家衆が仏陀を学ぶのも、やはり食事をする財が必要があって、財が無いと修行することができる。仏陀は《寶積経》の中にはこう説かれて、財が2種類に分けられて、一つは金銭の財であり、もう一つは仏法の財である。《寶積経》はあれらの菩提心を発した菩薩道を修める菩薩に聞かせるので、その中には、菩薩道を修行する者が何をやってはいけるか、何をやってはいけないか、とはっきり説かれた。

そなた達は欧米国家の年上が殆ど独りぼっちな貧困であり、身の回りにはが子女がいなくて、伴侶もいなくて、すべては政府に配慮されていることを発見することができる。どうしてこうなったのか。何故かというと、彼らが若い時に、すべては享楽にふけて、あちこちへ遊びに行ってしまい、享楽するのは福報を消耗する。このような心構えは全体の国家に影響して、だから今のヨーロッパはともて痛ましくて、米国はよくなくて、若い者はすべて働かないですべては享楽にふけていて、年取ってから遊ぶことができないと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは日本でもこのような現象を見られて、彼らがとても可哀相だと感じて、多くの老人はすべて独りぼっちで貧しくて従うものが無くて、一人で商店街へ買い物に行って、背を曲げて小さな車をおして独りで街へ行って買い物をして、子女が身の回りにいなくて、政府の配慮によって、社会福祉はとても良いみたいであるが、しかし中国人はこれが福報がないと思っている。仏法の因果から見れば、それはとても苦い。福報は若い時に享楽で使い尽くしてしまう。年取って、ただほんの少しの余福だけが残って、彼らが死亡まで支える。今度の福島の大地震のように、多くの一人住まいの老人は死んだのに、誰も発見されなくて、死んで1、2年間をたっても、発見されなかったのもある、日本の社会もこのような現象を重視し始める。台湾はこのような現象が徐々に現れて、若い世代はとても享楽を重視して、会社が休暇が一日さえ欠ければ、必ず労工局に訴える。

リンチェンドルジェ・リンポチェは若い時によく遊ばなくて、カラオケで歌わないで、以前の時代ならこのような遊ぶ物がなくて、いつも真面目に仕事を働いていて、これまで旅行が何なんだかを全然知っていないで、福報をそのまま残って、仏を学ぶ機会があって、誰が年を取った後に遊んで動くことができないと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に65歳になって、まだ1日中飛行機に乗ってあちこち行ったり来たりしている。もし今体がよくないならば、きっとそなた達に控えられて、息子と娘に控えられるだろう。幸いはリンチェンドルジェ・リンポチェの体が悪くはなくて、だからそなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェに控えられる。リンチェンドルジェ・リンポチェは現場にいる中年の人を忠告して、そなた達の福はほぼ使い尽くしてしまい、これから息子と娘に依頼することを思わないでください、仏法に頼らなければならない。ただ仏法だけは本当にそなた達に助ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこのちょうど発露懺悔した弟子を指摘して、去年の正月一日の法会に、午前の供養金の一部を午後マンダラを捧げる用途に使った。彼は怠けるかもしれない、多分聞く勇気が無くて叱られる事を恐れるかもしれない、或いは皆が午前に既に供養したと思って、午後は面倒をかける必要がないと思って、自分でこのような決定をした。もしリンチェンドルジェ・リンポチェ指摘しないと、彼はずっと自分が間違ったことがないと思っている。しかし、彼のこのような行為は偸盗の行為であり、将来ある一世は必ずお金がなくて、貧乏な苦しみを受ける。法会の供養金は信者と弟子達がリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したので、上師のに属して、その故リンチェンドルジェ・リンポチェがどのように運用するかと決定するはずだろう、上師に聞いて確認しないで、自分で一部を分けて午後マンダラを捧げる用途に使うことを決定するのをしてはいけなくて、これは偸盗である。この弟子はお金を自分のポケットに入らなくて全部の供養金をそれともリンチェンドルジェ・リンポチェに手渡したから、間違っていないと思っている。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは、法律の事務に従事しているある弟子に、このような行為が何か罪を犯したのかと聞いて、この弟子は、もし民営の会社で出勤するならば、業務の不法占有の罪に属して、もし公務員ならば公金を流用して、汚職の処罰条例を犯したので、8年以上の刑期を処罰すると答えた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いてこう開示した。この間違った弟子は世間法から見ると、不法占拠の罪を犯したのであるが、仏法から見れば、更に他の人が供養することを阻止して、もし当日に法会に参加する人が午後の法会に再びリンチェンドルジェ・リンポチェに供養したいと思っていて、この弟子にこのように手配されたら、供養する機会を失わないか。だから他の人が供養することを阻止する罪を犯した。上師と弟子との関係から見て、この弟子は上師が大金持ちであり、だからこんなに多くのお金が要らないと思っている。さっき彼は懺悔した時に、この三つのポイントについて1つの字も言及していないで、今までまだ自分がどこを間違ったことを知っていない。だから全然に懺悔していなくて、このように長年仏を学んだが、上師の説かれた仏法を全然に聞き入れなかったのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に開示されたように、お経には1つのストーリがあって、ある出家衆は信者が仏像を作るため供養したお金が流用して寺院の部屋を建てる事を使って、このような方法は間違いであり、それは破戒であり、とても深刻な因果応報がある。だからそなた達は小さい時に両親からの食事代をもらって食事をしないで、自分がそのまま残って別の用途として用いると、それは偸盗であり、両親の同意を得るか、あるいは両親がそなたにお金をあげる時にそなたが気軽に使ってもいいと言わない限り。もし食事をしなければ、お金を両親に返したらいい、もしこのような行為が成長した後にまだ過ちを改めることを知っていないと、会社に就職して偸盗という間違いを犯しやすい。だから受け取るお金は指定される用途さえあれば、それに従ってやらなければならない。

供養は信者と弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに供養するのであり、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分で用途を決定することができて;マンダラを捧げるのはリンチェンドルジェ・リンポチェは諸仏菩薩を代表して供養を受けるのであり、皆に福報に累積させる。一部の人がリンチェンドルジェ・リンポチェに供養する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは何の用途に使うかと聞いて、助ける完成するように助けるが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは時に事が多すぎて、忙しくなって忘れることを恐れるから、その故リンチェンドルジェ・リンポチェは供養を納める時、特定の用途を指定することをあまり望まない、何故かと言うと、きっと従ってやらなければならないから。供養の用途を指定していない場合、リンチェンドルジェ・リンポチェは最も良い方法を使って布施をしてあげる。毎年の大法会の信者の供養も、すべて内政部社会司に任せて運用されるように寄贈したので、皆のために再び寄付して慈善事業をして手伝って、このように長年寄付したお金の総額がいくらであるか。リンチェンドルジェ・リンポチェも覚えていないで、すべては寶吉祥仏法センター理事長に任せるのである。この弟子は怠惰するとか、忘れるとか、叱られるのを恐らるとかに関わらず、このような行為をするのはすべて戒を破るので、果報を受けるのである。

我々の財はすべて累世に布施、供養して貰えるので、この一世には貧乏なのは、前世に布施、供養をしていなかったから。そなたの一日三食の食べ物があるのが当然なことだと思わないでください。それは過去世にそなたが布施、供養をしたことがあり、この世にようやく得ることができる。法本が記録したように、貧困も1種の苦しみである。リンチェンドルジェ・リンポチェは前世のある一世に布施、供養をしていなかったことがあり、この世にお腹が2日間空いたのである。数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドで閉関修行をする期間に、食事の食べ物を準備するアニ僧が交代する時に、次の食事の食べ者を準備するアニ僧に、まだ行者がここで閉関修行をしていることを教えていなくて、その故リンチェンドルジェ・リンポチェはまるまる二日間食べる物がなくて、水さえもない。しかし二日間お腹がすいたため、それでリンチェンドルジェ・リンポチェはこの果報を応じたのである。

自分に遭った事故は全て自分は過去で作った。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで修めてもまだ残った悪が少しあった。偶には事故に遭って、返済しなければならない。だから、皆は事故に遭わないわけではない。釈迦牟尼仏は成仏に成っても九つの難があって、同じで累世で一切果報を返済しなければいけない。釈迦牟尼仏は一難があって、ある期間に馬糧を食べていた。それは嘗てある世にある者が出家衆に食事を供した事を見て、彼はこのような人は食べる価値がなく、馬糧を食べればいい。供養布施を惜しんだから、その後この果報を得た。また、成仏の福報と功徳がとても大きいから、ちょっと食べればいい。そうしないと一生に馬糧を食べている。先程自分が法会の供養金を手配する弟子はこのように他人に供養する機会を与えない罪を犯したが、必ずある世に貧乏で財がない果報が現れる。

今日修める黒水財神は蓮師が伝えた岩伝法であり、力はとても強い。密宗は五色財神があって、黒、白、緑、赤及び黄財神がある。黄財神を修めるのは閉関修行する時資糧があるため、それは閉関修行も資糧が必要である。しかし、黄財神は唯閉関修行する時ある者は食事、宿泊、服など供養する事を助けて、他には何も助けない。一旦閉関修行が終わると無くなる。

チベット仏教で修める財神は民間に謂われた五路財神ではなく、民間の寺が拝んだ財神はほぼ鬼であり、ある部分は神である。しかし、密宗の財神は実は護法である。仏法の護法になれば、少なくとも八地以上の菩薩である。だから鬼道や神の財を拝んだほうがいいか。或いは菩薩と親しくすればいいか。めったに財神法を修めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは一年に一回しか修めないが、自分の会社のビジネスのためにも財神法を修めない。チベット仏教の中にある仏法を広める人は財神寺を建設しても、常に財神法を修めるわけではない。財神は観音菩薩の護法であるから、本尊をうまく修めれば、護法は自然に身の回りにいる。本尊をうまく修めないとできない。

八地菩薩はまだ成仏していなくて、一絲無明がある。菩薩は衆生を済度する心は懇切で急いでるから、かなり厳しい。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助ける時、衆生が相変わらず過ちを犯しているのを見た時、呵責して指摘して過ちを修正する事を望んだ。仏は既に法身を証したから、一絲無明さえ無い。仏は衆生を助ける時そなたの因縁福報に応じてそなたを助ける。若し無縁なら、暫くそなたを放置してそなたを待っている。だから、そなた達が仏の様子はかなり優しいと見えた。実は仏、菩薩及び衆生の分別が無いが、全て人は分ける。何故なら六道に輪廻するのは無明だから。仏は衆生と実は平等無別であり、全て成仏の条件、同じな法性を持っている。無始以来、衆生は一念無明により、貪、瞋、痴、慢、疑を起して、自分の間違いを分からないから輪廻に堕ちる。

密宗は財神を修めるのは急場は助けても貧しさは助けない。そなたにローンを返済させない。住宅ローンは銀行に借りがあるから、そなたは部屋を銀行に返せばいい。既に決心して悪を断ち善を行って発願して浄土に往生する仏弟子しか黒水財神の助けを得られない。意味は元々そなたは過去世で蓄積する福報、此の世に使える財は悪を行ったから妨げた。財神はそなたを助けて障碍を減少して財をそなたに返して使わせる。

財神法は必ずリンポチェしか修められない。出家衆は唱えればいいとは言えない。法本に記載されたが、この法を修める行者は必ず円満に観音法門の閉関修行しなければならない。皆のため法を修める前、必ず先にこの法を一千回、一万回、尚更に十万回修めなければならない。更に閉関修行に修めないといけない。法本に記載された本尊と相応する兆候が現れるまで修める。どのような兆候とは今日は説明しない。修法者は必ず規範を守って、戒を守って空性の慈悲を修める。そなた達は自分が大悲呪を唱えたから修めると思わない。そなた達は必ず思ったが、大悲呪は観音菩薩の真言ではないか。確かにそうだけど、そなた達は慈悲を修めるだろうか。供養布施を修めない人は慈悲を修められない。慈悲を修めるとは必死な決心を抱いて、何も諦めて真の勇猛な人である。そなた達は出来るだろうか。家を捨てて、命を捨てて、どんな事でも捨てるなら、始めて慈悲心を修める。そなた達は慈悲心を修められないかもしれないが、少なくともこの気持ちを持たなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子は九十八パーセントは仕事があって、ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェの集団に仕事して、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達を世話した。仕事の能力が余りよくないとは言え、相変わらず彼達を雇用して彼達のためどんな仕事を彼達に担当させて、処理させて自分が仕事している事を感じさせるなど考えた。そなた達は考えて、このような社長はとても苦労だろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは給料を与えて、社員のため仕事の内容を考えた。他の社長は如何なる金を稼ぐを考えた。赤字ならある部分の社員をリストラした。そなた達の中にある人も社長を協力してリストラするのをした事がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェはビジネスするのは利益のみを追求するだけではなく、会社の社員に伝えたが、顧客は100元をかかってそなたの物を買えば、彼はそなたの恩人である。恩人を対応する心で対応すれば、商売は長く続ける。自分の利益のために考えるわけではない。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェの宝石店で物を買って、リンチェンドルジェ・リンポチェを協力すると言われた。実はリンチェンドルジェ・リンポチェはひすいで彼達を布施した。

そなた達は仏を学んで仏菩薩を恐喝した。この数日間二人の女弟子は多くの弟子にメールを発信して、皆に一緒に跪いてリンチェンドルジェ・リンポチェに請求して今日三十五仏懺を修める事を煽動した。若し彼女達は個人でリンチェンドルジェ・リンポチェに請求すれば、許せるが、群衆の力を動いてリンチェンドルジェ・リンポチェを威喝して恐喝したい。リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな威喝や恐喝も受けない。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に開示されたが、三十五仏懺は菩薩道を行う仏弟子に与える。皆は現在菩薩道を行わないから、今年は修めない。しかし、この二人の女弟子は自分が上師であると思うだろうか。皆を煽動してリンチェンドルジェ・リンポチェを威喝したい。この女弟子は仏を学んでもどんな法は自分に役に立つ事を計算した。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは財神法を修めるが、彼女達は自分は金があるから、必要がないと思うかもしれない。唯懺悔したいが、それは懺悔して泣いた後気持ちがいいから。懺悔した後何も起こらないから、三十五仏懺を修めたい。

その中にある女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の一家を何回も救わないと、現在既に此の世にいない。しかし、彼女は却って騒ぎを立てた。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に三十五仏懺を修めないのに、彼女達は群衆を呼びかけて三十五仏懺を求めた。此れは上師の話に従わない。今日リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を助けて財神法を修めるのはそなた達が仏を学ぶと資糧が必要だと分かった。上師はそなた達の因縁に応じてそなた達に法を修める。この二人の弟子は選別して分別心がある。仏を学ぶとは料理を注文するように自分が好きな料理を注文できると思った。ミシュランの三つ星レストランのコックでもこの料理を作らない権利がある。法を求めるのは大供養が必要である。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達に費用を受けてもいい。三十五仏は一尊ごと金をいくら受けるとか。仏の貴重さは金で計算できない。求めればあると思うなら、上師を虐めた。続いてリンチェンドルジェ・リンポチェはこの二人の女弟子が今後密法を学べないと指示した。

毎回直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝授する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず儀軌に従って、自分の因縁で先に直貢チェツァン法王を頂礼して供養した後に上師に法を伝授するのを懇切に求めた。この女弟子は完全に行わなかったが、上師は弟子に慈悲に対応すべきと思って、求めれば与える。上師は慈悲に法を修める事は当然だと思って、元々衆生を助けるべきだ。若しそうであれば、仏菩薩は最も慈悲なので、日本も仏を拝んだ所だ。何故この前日本福島大地震で酷く死傷があった。此れは衆生は若し縁が無し、福がないと助けられない。実はそなたは上師及び仏菩薩に恭敬心があって仏法に十分の信心があれば、上師はそなたに一眼を見えてもそなたは加持を得られる。

円満に修法した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。今年は金融が余りよくないが、多くの会社は影響を受ける。例えば、通貨の変動が激しいから、会社に損なわせる。今日リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を助けて、財神法を修めたが、そなた達は金持ちになるや法会後ロット籤を買えば当たると思わない。当たらないと保証する。今日修めた法はそなたに元々得るべき財を得させる。供養布施を分からない人に始めて供養布施の重要を知らせる。過去嘗て供養布施を行なった人達に未来の一年間に安定な収入がある。法本に記載されたが、法を修めた後、行者は財が満ちられる。そなた達は行えないが、此れはリンチェンドルジェ・リンポチェのような衆生を利益できる修行者を言われた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて皆に修めるのは象頭財神を修める。象頭財神は白マハーカーラの護法の一つである。マハーカーラは黒マハーカーラと白マハーカーラを分ける。チベット仏教四大教派は共同に供える護法である。寶吉祥仏法センターの壇城に祖師ジッテン・サムゴンの仏像の隣に供えるのはマハーカーラである。象頭財神を修める前に必ず観音菩薩を修めなければならない。マハーカーラは昔とても凶暴な悪魔で、大勢の衆生を傷つけた。観音菩薩はマハーカーラを降伏するため、マハーカーラの要求に応じて全宇宙で最も美しい女を与えた。此れは観音菩薩は最も美しい女を生み出したわけではなく、マハーカーラの心に応じて彼が考える最も美しい女を生み出した。その後マハーカーラは引き続きに仏法を護持している。

象頭財神は昔王子であり、非常にお金持ちで、しかも他人を助ける事が好きだった。ある者は彼に求めれば、彼は助けを与えた。たとえ金で武器或いは麻薬を買えても彼は相変わらず相手を助けた。最終事なかれ主義の人になった。だから、マハーカーラこのままするとだめなので、彼を殺した。彼は生前に沢山な善を行ったから、その後護法になった。マハーカーラは彼に象の頭を与えた。それは象の力はとても大きいから、人を助ける力も大きい。ある者は象頭財神がヒンドゥー教の神だと思ったが、実は行った事は衆生を利益出来るなら、菩薩である。仏法は分けないが、全てはそなた達が分別した。

象頭財神の側は二つの護法がある。鼠と猿である。鼠はそなた達に追いかけられて打たれた鼠ではなく、銭鼠である。猿の動きはとても速いから、インドで多くの人は猿を供える。鼠は金を隠す事が得意で、猿の動きはとても速いから早めに必要な人に助ける。象頭財神を祈る時少しあまってもいい、例えば最近常に社長に叱られて首されるかもしれないが、象頭財神に首されないように祈れる。

象頭財神を修める時リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に沈香木を出すのを指示して、またある香を商売する弟子に今高級な沈香木の価格を聞いた。この弟子は今最もいい沈香木は1斤が約三十万余り台湾ドルと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って言ったが、寶吉祥仏法センターはコストを惜しまず、最もいい香で仏菩薩を供養した。仕方がないが、象頭財神はこの香の匂いが好きだから。わずかな香は約3万台湾ドルを値した。そなた達は行えるだろうか。そなた達は買えない事ではなく、惜しんだ。全ては心の問題だ。過去ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが財神法を修める香を用意する時、勝手に節約するため、普通で安い沈香を買って仏に供える。仏菩薩は構わないと考えた。結局リンチェンドルジェ・リンポチェに頭ごなしに叱れた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは特に有る弟子の義理の父を指摘して、孫からリンチェンドルジェ・リンポチェがある葬儀社の業者を褒める事を聞いた後、彼は孫に言って自分が10万台湾ドルを出してこの業者に渡せて金なし葬儀を処理できない家庭に分けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、彼はこの布施の心はわざとして、この業者も彼の金を受ける必要がない。この弟子の義理の父は考えないが、この業者はリンチェンドルジェ・リンポチェの関係でこのように商売していた。彼は業者に寄付する事を考えたが、何故リンチェンドルジェ・リンポチェに供養するのを考えないだろうか。彼の息子と娘はこの数年間に若しリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受けないと、今はもはや亡くなったかもしれない。更に彼の財力で10万台湾ドルは布施ではなく、彼にとってうぶ毛を一本取るように大した事ではない。

供養布施の考え方は他人がお金が無いので彼にお金を上げて助けるとするべきではない。我等は我らの福が非常に薄くて、供養布施を通じて自分の福報を蓄積して、福報があるこそ仏を勉強する事がはじめて出来ると考えるべきだ。供養する時細かく計算しないで、細かくすると執着があって、そうして悩みを生じた。先ほど話した皆を起こして三十五仏懺を求めた2人の弟子のようで、細かく計算する心で仏を学ぶ。ある法が比較的に役に立つと思って、上師の手配を信じない。供養とは呼吸のようにするべきだ。お金が無いことに恐れて、供養するのを惜しまない。自分の心を放任させないで、そなた達は自分が法会に参加して百、二百くらいを供養すると供養したと思わないで、リンチェンドルジェ・リンポチェに連れて海外へ行って法を広げて自分が良く勉強したと思ってこれは全部放任だと言える。

供養する時自分の要らない物を供養しないで、統一発票、デパートの割引券、ポケットの中に残ったコイン或いは怠けてかわす外貨を供養するな。こんな供養刷る考え方は全部正しくない。仏菩薩はそなた達には借りがない。そなた達は嘗て他の道場で寄付、供養したため福報を蓄積して、そなた達に今日この道場に来るチャンスを有らせて、だから供養するのは必ず役に立つ。

供養布施する時、比較的な考え方をしないで、他人に聞くもするな。他人が1,000元を供養するのを見て、そなたが供養する50元は多い或いは少ないと嫌がって、50元はそなたの全てのお金かもしれない。皆の経済状況は同じではなく、同じの金額は経済能力の良いものに対して小銭だが、経済能力の割合に良くない者に対してかえって少なくない数字で、供養するのは自分が出来る能力ですれば結構だ。もう「随喜」この仏法名詞を乱用しないで、随喜とはそなたが他人が善行しているのを見た時、喜んで賛嘆な心が起きられたこそ随喜である。仏法名詞を乱用すると地獄に堕ちるべきだ。ある者が幾らか供養するかと聞くと勝手にと返事する。リンチェンドルジェ・リンポチェは前顕教を学んでから、供養する時、幾らを思い出すと、幾らにした。あの時、リンチェンドルジェ・リンポチェの皈依した法師はリンチェンドルジェ・リンポチェに仏像を作るなどお金が必要と言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは直ちにお金をあげて、疑わなくて問わなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずに供養布施していて、食事するお金が無い時、仏卓の上に必ず花と線香を供養して、それに一番良い線香をして、お金が無くても供養して、これはそなた達が出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て貧乏で一ヶ月が只1,500元があり、灌頂の申し込み料金1,200元を払った後只300元を残って、一ヶ月の生活費になった。あの時、リンチェンドルジェ・リンポチェは電話代、電気代を払うお金がなくて、何時も電話を止めて、電気を切る前にはじめて払う事が出来て、冷房とは知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは車に乗るお金がなくて、どうバスに乗るかも知らなくて、夏時民生社区より信義路と新生南路との交差口まで歩いて仏を学びに行った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは何時もでも悲しくと思わない、かえってとても楽しくて、自分が債を返していると分かったから。前全てしたことは現在一回返済した。そなた達は是非ある言い方、お腹を先世話して、次は仏様と聞くな。供養するのはお金の多少を問わず、供養する心が一番大切だ。そなた達は古人のように自分の最後の一枚着物を仏に供養して、仏に渡させることが出来なく、さらに自分の最後のお金で灯を買って仏に供養するのが出来ない。そなた達もリンチェンドルジェ・リンポチェに真似なくても、家に帰って家族にリンチェンドルジェ・リンポチェがどう供養するのを話す必要がなく、さもないと彼らが聞いていいと思わなくて、良くない言葉を使ってリンチェンドルジェ・リンポチェを批判すれば、彼らに対してかえって良くない。

所謂慈悲とは労働奉仕をして、盲者を連れて旅行へ行くのではない。実は盲者を連れて旅行にするのは只自分が善行していると感じて、自分の感覚がよくなるだけで、しかしこんな感覚があったのは正しくない。盲者をお寺へ連れて行って、そなたは少しも間違いなく仏像を彼のために描いてあげるか?またまずそなたの目を数日かぶってから、そなたを引き連れて風景を見に行って、繰り返してそなたに風景がどう綺麗かを話して、目がかえって見えなくて、最後、そなたが是非怒った。いい事をしたと思って、かえって他人の欲望を増えて、欲望が満足出来ない時恨みが起きられた。そなた達は労働奉仕をして、他人を助けては善行だと思って、実はこれは只人として基本するべきだ。基本の善行さえも出来なければ、人にならない。そなた達は只自分の気分が良くなるためこの事をして、その後そなたがとても良いと感じれば、これもそなたの福報が使い尽くしたとの現われだ。それより、布施は何の報いも望んではいけない、悟るさえも願う事が出来ない。

ある貧乏な者、そなたが可愛そうと思って、彼にお金を上げて彼を助けると思った。実は、そうには限られない。彼はこの一生に窮困して、前世がよく供養布施が出来なかったかもしれなく、この一生を過ぎて、窮困の果報が返済した。今の所にそなたが彼にお金を上げて、彼に貧乏を離れ出来ると思わせて、結局なくて、かえって彼に害をした。だから人様を助けたくても智恵が必要である。

暫く休憩した後、尊いリンチェンドルジェ・リンポチェは午後2時20分にもう一度法座に上って、皆のため殊勝な長寿仏を修めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:長寿仏の法門は顕教ではー大乗と小乗を含んで全部修めなく、長寿仏は阿弥陀仏の報身仏である。そなたはまだ凡夫時、死んだ後化身仏が迎えに来る。菩薩果位まで修め得た時、死んだ後報身仏が迎えに来る。そなたが法身を証得した時、はじめて仏の法性に融和する事が出来る。

以前、リンチェンドルジェ・リンポチェが仰った、長寿仏を修めるのは我らに仏を勉強する時間をたっぷり有らせる。「長寿」とは突然に意外で死ぬことをしなくて、所謂「非時而死」である。我等は累世に多くの悪業を作って、その中に一番酷いのは共業で、悪の共業に巻き込まれれば、我らに寿命がまだ尽くさない前にある要素で非時で死ぬことに成らせる。長寿仏を修めて我らの寿命を補充することが出来て、延ばして、我らにたっぷり時間を有らせて、仏を学んで生死より離脱する。誰の寿命の長さは自分の過去世に善行することと関係があり、但し、この一生に作った悪行のためにも減らして、ついては意外で死んで、そなたに仏を勉強するチャンスをなくさせた。

しかし注意して、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために法を修めた後、皆はやはり絶えずに怠けなくて努力して修行するべき。リンチェンドルジェ・リンポチェは修法するのはそなたと冤親債主との協調者のように、先そなたのため暫く冤親債主をとめて、冤親債主にそなたに時間を与えさせて、仏を勉強して債を返して、彼らをたすけるから。そなたがよくなってかえって努力しなければ、彼らが抱いたそなたが彼らを助ける望みは落ちて、彼らはもっと怒るではないか?まるで債主は本来1つ殴りをするつもりだが助けが得られないので利息を足してそなたに二つの殴りをするかもしれない。

本当な菩薩道を修めるのは実は金剛乗、大乗仏教の中に般若の方式で修行して、すくなくとも三大阿僧祇刼が必要ではじめて仏果を証得することが出来た。金剛乗の方式で修行するの方が比較的に快速で、しかし行者は全く自分が無いように出来る必要で、上師と仏菩薩との教導にたいして完全に投降して、人生経験法で仏法を検視しなくて、また勇猛精進で修行して、これはそなた達が全く出来ないもんだ。

そなた達はどの修行もない、仏の信者さえも言えなく、仏の信者としてせめて因果を信じるべきで、そなた達はやはり信じない。≪阿弥陀経≫の中に説いた浄土へ往生する者は必ず福徳因縁を備える善男子善女で、此処の善とは十善法、まだ肉食するものは一番目の善不殺生さえもできない。多くの者はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った、ゴキブリを殺す事ができるか?リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子がとても多くて、面会を求める者も多くて、しかし今まで殺すはだろうかとのご開示或いはどう修行するかを聞くものは1人もない。「殺」とはそなた達が言った人或いは動物、昆虫を殺害するだけではなく、これらは全部表で見られる。綺語も殺の範囲の内で、行者によって、綺語とは仏法と関係なくの話で、信者によって、他人に勾引或いは誘惑な話を言ってはいけなく、他人に貪欲を起こさせて、ついては満足が出来なくて恨みが起きられて、他人に輪廻を堕ちさせるのは全部「殺」である。

出来ないならば言わない、言い出すと是非できて、勝手に承知するな。実はそなたが他人に欲望を起こさせて、他人にそなたが彼の手伝いになることが出来ると思わせて、結局出来なくて、輪廻を離脱出来させない恨みが起きられたのは殺だ。あるいは他人の貪欲を起こさせて、例え盲者を連れて旅行へ、風景を盲者に言って、彼に貪欲の考え方を生じさせても殺である。今日リンチェンドルジェ・リンポチェが「殺」に対してのご開示は大変細微で、それもそなた達が今まで聞いたことがない。

浄土へ行く事はあんなに簡単もんではない。この前1人弟子の父親のため法を修めた。リンチェンドルジェ・リンポチェがこの弟子の父親のため修法した時、呂祖が亡者を引き連れてきたのを見た。皆は全部知っていて呂洞賓は最後に仏道へ修行して、修法が終わった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の家族を聞いた。なぜ呂祖は彼のそばにいるか?はじめて分かった、この弟子の父親は小さい頃から呂洞賓を義理お父さんとして、但し彼は皈依しなくて、呂祖も彼を済度することが出来なくて、そうして彼を引き連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いに来た。あの頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは父親の代わりに拝懺した。八十八仏懺拝を一年間してはじめて父親を見た。とても若い様子で顔が空のブルと現れた。リンチェンドルジェ・リンポチェに彼が現在が大変よくて、呂祖の側で修行していると言った。経典の中に載せてあり、天道に往生する者は往生する齢を問わず、全部約20才の模様が現れて、そして顔がコバルトの色である。しかし、天道に着いてもやはり六道の輪廻を離脱しなくて、只寿命が割合に長い。

ある海外より帰って来た者は今日法会に参加した後、自分の国に戻って来て、自分がよくになって、好きにすると思った。1、2回法会に参加して、自分の全ての問題が全部解決すると思わない。どこは我らの家か?浄土こそ我らの最終の家で、地球上で我等は只1人過客で、それぞれの人は違う縁があるため、我らを同じではないところに生まれさせて、アメリカー、或いは中華民国のパスポートなど違う国のパスポートを取った。

リンチェンドルジェ・リンポチェの会社の中にある社員も皈依した弟子で、今日元旦の法会に来なくて、一昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに叱れて、自分が間違わないと思ったので、今日の法会に来ない事をした。リンチェンドルジェ・リンポチェは申されて、彼女は今日来なくて今後とも来なくてもいい、すべての法本と寶吉祥仏法センターの赤い法衣は全部没収することになった。そなた達はなぜまだいつも過ちを犯すか?輪廻を離脱するのを発願しないから。我等は考えると無明、貪、瞋、癡、慢、疑が生じて、自分がし間違ったのをかえって知らなくて、たびたびし間違って、六道輪廻の痛苦の中に堕ちた。既に生死輪廻を離脱するのを発願する者はまたし間違うわけが無い。是非時々刻々も大変謹慎で戦々兢々で、金剛乗は果地より修める。そう考える者がいた、かもしれない、我は仏を勉強したくなくて、こんな事は私と関係がない。しかし生死より抜けることを発願しなければ、自然にいつも過ちを犯して、悪を作って、最後に自分が苦しんで耐えないだろう!

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な長寿仏を修め始めて、参列者を引き連れて祈請文及び長寿仏心呪を唱えて、それに五色旗を振って、皆を加持して、また薈供儀軌を進んだ時供品を参列者に与えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはさらに疲れを問わず、参列者皆1人1人に前に上がらせて、リンチェンドルジェ・リンポチェが長寿仏宝瓶で加持するのを与えて、それに珍貴な寿球、寿酒(ジュースが代わりに)を賜った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示された。先唱えたばかりの祈請文の中には「意外で死ぬ事は全て粉砕する」に記載されていて、長寿仏を学ぶのはそなた達に足りる時間を与えて仏を学んで生死を解脱するわけである。我々はこの世にした悪なのに、我々の福報を消耗させて、だから、短寿になる。世界の中に所謂意外が無いで、全てそなた達が作るのである。リンチェンドルジェ・リンポチェのいまの果位を修めても、過去世とこの世にした悪業を既に完済しても、果報も同じように表れて、嘗てした悪業が残っている少しの残悪も依然として表す。依然としてそなた達が思っている良くない意外な事件をいくつ発生する。

先、薈供儀軌は皆が供え物を貰って、仏法の中の薈供はそなたが祀ってから供え物をもって帰って食べる物が違って、民間の中元済度のようではなかった。多くの人々は済度の時に少しのキャンディを奪って帰る事が好きで、それらは鬼道の衆生に祭っる物で、食べたら良くなっているか?何か奪う必要があるのでしょうか?その上、一部の人々は少しの硬貨を持って帰って、ただ持って帰ったら、鬼が従って帰った。甚だしきに至っては一部の人々は奪わないのに机をひっくり返って、このように瞋念が起こると机をひっくり返る事が完全に人間の行為ではなくて、鬼の行為だ。仏法の中の薈供とは我々に機会を与えて仏菩薩と一緒に食べ物を楽しませて、これらの食べ物をそなた達が分けたら、食べられるならそなた達に利益がある。そなた達は考えていて、仏が食べた食べ物方がいいか?或いは鬼が食べた食べ物方がいいでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェが食べた食べ物の気ほうがいいか?或いは鬼が食べた食べ物の気方が良いでしょうか?

外の一部の仏寺は仏に供える供え物が予め大功徳主に送って、残りの信者は側に並んで少し分ける事を待っている。在席の出家衆も頷いて確かにこのようだ。寶吉祥仏法センターは完全に違って、全ての参加する者が一つを貰えられて、皈依しない者もお金が要らないでも一つを貰えて、完全に平等だ。仏を供える供え物を食べてから一切が良くなっているわけではなくて、そなた達に仏菩薩と衆生に善縁を結ばせる縁を与えた。

法本にはいくつ記載されている話し特に皆に教えた。一切な素晴らしい供える物はこれに対して懐疑が起きるべきでなくて、食肉処理業者或いは上等な人であれば、全て相同な仏性を持っていて、全て加持を貰えられて、衆生が全て平等で、全て未来仏である。修める法と上師がする事に対して懐疑心を起さない。法本に記載される供養とはそなた達が想像し難い、今日、暫く説明をしなかった。そなた達が分からないのは正常で、然し、そなた達は懐疑をしてはいけなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは声名と利益の為であれば、このような辛労な修法する事が要らなかった。実は、法会の中にする多くの儀軌はそなた達に見せて、真に修める部分はリンチェンドルジェ・リンポチェが観想して、これはそなた達が見えなかった。ただそなた達は上師と仏菩薩に対して信心があって、リンチェンドルジェ・リンポチェの一つの目つきでも、そなた達に対して全て加持がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは声名と利益が要らないで衆生に利益し、一日中に皆の為に三つ法を修めてあげた。市中には、そなた達は一つの「梁皇宝懺」を要求したら、幾らの供養金が要るのでしょうか?今日、三つの法があって、そなた達は幾らを供養するのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達にお金を計算しているのではなくて、が、そなた達が真に供養していなかった。全世界には最も安いリンポチェは寶吉祥道場にいる。

今日、修める法は全て岩伝法で、岩伝法とは直接仏菩薩から伝えって、人為的な編纂を通じていないで、世々で伝えて来て、とても直接で、とても清浄で、だから、力がとても強いだ。ただそなたは上師に信心があったら、三寶に恭敬したら、今日修める法がそなたの未来に対して必ず役に立つ。そなた達に未来のある世に阿弥陀仏の浄土に往生させることが出来る。当年、直貢チェツァン法王は自らこの法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えていた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは依然として儀軌、頂礼、供養、法を求める事に従って、一切が決まりに従った。そなた達は何により跪いてから法を求めるだろうか?もし真に法を求めたいなら、大供養をしなければならない。『三十五仏懺』を修めるのは、三十五仏で、そなたは幾らを供養するのでしょうか?そなたは計算したいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたにより計算する事が出来る。受けるかどうか、リンチェンドルジェ・リンポチェから決める。そなたの供養するお金が欲しいのではなくて、却って、供養してから、そなたが福報があって始める。長寿仏は報身仏で、だから、真に発心して仏を学んで、菩薩道を修めたら、そなたに真に役に立つ。もし仏菩薩道を修めないなら、今日の法会に参加しても依然として役に立て、が、ただそなたに阿弥陀仏と縁を結んであげる。

今日、正午に昼食を食べる時、弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェにかつて他の道場で旧正月に5日のマハガラを修める事を言って、そのようにとても良いと思っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は、旧正月の間に5日のマハガラを修めるのは全てのチベット仏教の道場にされる行事である。マハガラは護法で、彼の仕事と誓いが道場に保護して、道場の運営に順調にならせるのである。マハガラを修めるのは必ずリンポチェのレベルで、その上、普通なリンポチェが修める事が出来ない。

そなた達は先リンチェンドルジェ・リンポチェが長寿仏を修める時に、五色旗を持って皆に損耗の地、風、水、火の元素を補充するように手伝って、最初、長寿仏の本尊のドマをリンチェンドルジェ・リンポチェの自分に向いて、何故ならば、予めリンチェンドルジェ・リンポチェに加持するのである。そして、長寿仏の本尊のドマを反転させてそなた達に向いて、なぜならば、リンチェンドルジェ・リンポチェに先に加持してから、充電した後、それから、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に加持し、これは真にそなたの為に修めてあげる。5日のマハガラはそなた達のために修める事と思ってはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェは達人だから、非常に分かった。市中の道場、本尊が転じる事を見た事があるかどうか?双ではない。これはもっとも大切なポイントである。

チベットの仏経には我々が多くの事をして、全てそなた達に因縁を作って上げるわけである。例えば、我々は仏菩薩に線香を供えて、食べ物を供える。仏菩薩がそなたの線香が要るのではなくて、仏菩薩が食べる事が要るのではない。『浄土五経』に記載されていて、浄土にはそなたが何か食べたいなら、食べ物を自ずから現れて、その上、全て金の箸と碗である。浄土に既にこのようで、況して仏菩薩であろうか?もし食べ物が要るならば、仏菩薩のではない。然し、何故我々はまたこの作業をするのでしょうか?つまりそなたの為に因縁を作って、おsなたに供養させるので福報を持っている。例えば、薈供の場合に、そなたは上師、仏菩薩と一緒に食べ物を楽しませて、因縁を作ってあげて、そなたに食糧が切れさせないで、仏を学んで修行するのが足りる資糧が要って、未来世に仏に成られる。これは皆に福報があって仏菩薩と一緒に平等な受けさせて、お金持ちと貧乏な人と一緒に食べるか?ありえない。彼は得票数ためにそなたと一緒に屋台で食べでない限り。

また、『阿弥陀経』に記載されているのは仏像に対して恭敬な頂礼したら、仏道に既になる。此処に曰く「仏道を既になる」のは一部の人々がむやみに既に仏に成ったことで解釈のではなかった。仏経に言われる衆生がすべて未来仏なので、帰宅してから自分が既に仏に成った事と言ってはいけなくて、これは高慢で、それなら大変になって仕舞う。「仏道を既になる」のは仏になる道へ前進を始めるのである。

明日は旧暦の1月2日で、一部の人々は奥さんの実家に帰って、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度皆に食肉をしない事を言いつけて、母が料理を手配する事がとても大変なので、食べないなら親孝行をしないと思ってはいけない。これらは全て自分の考え方と口実である。そなたが本当に親孝行であれば、菜食を料理して両親にたべさせられる。もしまた肉食をしている者であれば、これから来ないくださいを頼んで、もし言う事を聞かないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも護法に頼んでそなた達に駆ける。ただ肉のスープだけで飲むを構わないと言ってはいけなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に来たばかりの時に、牛肉タンメンの中に牛肉が無い事を発見し、とても特別で、ボスは牛肉が鍋の中に、お客さんにあげる麵の中が無いと言った。だから、そなた達は自分に騙す事が好きである。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に率いて廻向文を唱えて、その上、開示された。修行の最後、我々は回向をしなければならない。中国人は文字を作るのがとても学問があって、「廻」という言葉を使って「回」を使っていないで、下にある船のように加えて、我々が法船と呼ばれる。船が何処に出航するのでしょうか?仏菩薩の功徳大海に向いて、功徳大海へ廻向し、功徳がようやく業を転じさせる。昔の人々は言葉を使うのがとても簡単で、多くの仏経が唐代から翻訳して伝えて、その中の言葉を使うのがとても簡潔で、時には一つの言葉が多くの意味を代表する。例えば、そなたは相手に尋ねてから、「否」と回答した。一つの「否」だけで回答した。そなた達であれば、「リンチェンドルジェ・リンポチェ、無いです」必ずと回答した。

如何して「廻」を要するのでしょうか?これは我々が仏を学ばれるのが上師と仏菩薩の教導があるわけで、だから、上師と仏菩薩の恩徳に報う事を要して、浄土に帰って修行しなければらない。「向」とは方向で、だから、法本の中に長寿仏を修めるならそなた達に富を貰えることに記載されていないで、かえって、衆生が我々と同じように輪廻生死を離れる事を望んでいて、つまり廻向の本当の意味である。廻向とは功徳を載せる法船で、清浄的な仏性に向いて、衆生が全て仏になる事を望んでいて、如何なる特定な人間ではない。いま、なぜ過去に廻向をしても役に立たない事を知っているだろう。これは廻向が間違った。もしお経を唱えて自分の主人に廻向をしてから、主人が不倫が無い事と思っていて、自分の妻に廻向して、妻が言う事を聞く事を思っていて、自分の子供に廻向してから子供の成績が良くなっていると思うならば、これらは役に立つ事が有り得ない。

多くの人は仏を学んでから、家族に一緒に仏を学ばせて、これはとても利己的な行為である。もし家族はそなたと同じに仏を学ぶならば、皆が全てそなたと同じに、そなたに管理させないで、何か喧嘩がある事がないで、全て自分の利益の為である。リンチェンドルジェ・リンポチェはの子供は菜食をしないで、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を構わないで、子供に必ず一緒に菜食して仏を学ぶ事を要求していないで、子供は肉食をして法会に参加しなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェも彼に廻向をしない。そなたの両親はそなたに従って仏を学ぶ事が彼が仏法がそなたの身に変化を見るわけである。嘗て、リンチェンドルジェ・リンポチェの母はただ道教を修める父だけで信じていて、息子が仏を学ぶ事が反対しないけれども、信じていなかった。それから、その後、息子の変化を見てから、リンチェンドルジェ・リンポチェの母も一緒に菜食して仏を学んでいる。

一部の人々は自分の子供の業障が重いことを言えて、自分の両親の業障が重いことを言えて、だから仏を学んでこない。もしある者はこのようにリンチェンドルジェ・リンポチェに話したら、リンチェンドルジェ・リンポチェは「そうです!業障が重いのでそなたに生まれてしまった」と回答した。自分の両親が業障が重いことを言ったら、とてもすべきではなかった。多くの出家衆は側に「だから両親のために点燈してあげる」と口添えで話した。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は両親が我々の恩恵に対して、我々が彼らに何も求めないで報いて世話する事はずである。仏経に記載されているのは「1人が権勢を得て、一族は昇天する」のである。そなたは修めてから仏果を証してから、全てのそなたに関する衆生が利益を貰えて昇天する事が出来る。そなたの福徳を足りるなら、そなたの業力を揺れ動く事が出来で、然し、そなたは功徳を修めるなら、そなたの業力を回す事が出来で、そなたが修めるのが功徳になる事が出来てはじめる。生死を解脱する事を決める人間であれば、必ず間違う事をしない。

今日、法務を担当するこの弟子は多くの事を間違って、その上、リンチェンドルジェ・リンポチェの為に茶供の用意する事を忘れて、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に処罰していなかった。彼は年を取るので彼方此方を忘れて、動作が遅いで、彼に同情した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼と同じようにお年寄りで、感じが同じである。彼を身の回りに連れて利益もあって、「忍(我慢すること)」という法門を修めている。

我々に抑える人間がないなら、我々が自由自在だと思ってはいけない。実は、全ての人々は業力で抑えて、因果応報に制御されて、自由ということを存在しなかった。ただ生死を解脱したら真に自由である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何故風邪を引いたのでしょうか?これは多すぎる人を加持するわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェの漢方医の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに脈を取る時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関し終わったばかりの時に、マジンガーZだと話して、然し、絶えずに衆生に加持している後に、心の力が段々に損耗させた。そなた達は加持したらエネルギーを使わない事と思ってはいけなくて、これも何故リンチェンドルジェ・リンポチェが毎年に閉関をして、多すぎに消耗されるわけである。

昔に曰くひとたび師と仰げば、一生自分の父親の ように大事にする。これは上師をそなた達の父とするのではなくて、これは上師がそなた達に仏法を教導して、そなた達に恩があって、そなた達は上師に恭敬し、上師の教法により従って、決心をして遣り遂げるはずである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは朝の9時30分から参列者の為に開示されて修法されて、連続で二つの財神法を修めてから、ただ昼ごろに簡潔で食事したのみ、そして、続けて参列者の為に長寿仏を修めてあげた。リンチェンドルジェ・リンポチェは風邪なので調子が悪くて、然し、依然として慈悲深くて皆の為に修法してあげる。修法の過程には、偶にたとえ咳をしても、リンチェンドルジェ・リンポチェが少しのお休みを取らないで、自身を少しも顧みないで大衆のために5、6時間で真言を唱えて修法して、とても疲れた。長寿仏を修めた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に壇城に向かせて、自ら1,200人以上の参列者に一人一人で加持し、その上、参列者に寿球と寿酒(ジュースとする)を与えて、過程には絶えずに真言を唱えて、ベルを鳴らして、リンチェンドルジェ・リンポチェの右手の肩が軟骨がなくても、参列者に加持する為に、ずっと長寿寶瓶を支えて、あげる動作を10分余りに維持していて、少し下ろして休んだ事が無かった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の事を全然考えなくて、誠心誠意で衆生に利益し、参列者は殊勝な加持を受け入れるので全てとても感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に65歳の高齢で、が、長い時間で修法する事が出来て、疲れて衰弱している様子を現さないで、更に金剛乗行者の成就の殊勝な表れる。

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2012 年 03 月 31 日 更新