尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2012年1月18日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで殊勝な施身法法会を主法された。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。そなた達は一部の者が仏を学んで読経しているが、常に法会に参加すれば加護を得られると思った。確かに法会に参加すれば、加護を得られる。しかし、此れは修行者にとって言うのである。ある法門を修めるとは簡単に法を修める事ではなく、行者は多くの準備をしなければならない。閉関修行、持戒、幾重にも次第の修行を含めて、戒を守ってから定を得る。定ができるなら智慧が現れると、始めて法を修めて衆生を利益できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日飛行機を降りて台湾で戻ったばかり、今日1400人の大法会を主催した。しかし、多くの人は法会の識別証を申し込めなくて、或いは持ち忘れた。そしてある者は今日しか菜食しないと言われた。此れは彼達が今日の法会を重視しなくて恭敬心がないと表した。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの人たちが法会に参加することを許せない。若しそなた達に法会に参加する識別証を持つと、百万元に変えれば、そなた達は必ず忘れないだろう。

今日一部の者は始めて施身法法会に参加して余り信心が足りない。一部の者は家の亡者のため、施身法法会に参加した。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェを見たことがあって、ちょっと信心を持っている。リンチェンドルジェ・リンポチェを見た事がない者は懐疑心を持つ必要がない。仏菩薩はそなた達を騙す必要がない。仏の教えに於いてとても重要な一つの事は不妄語であるから、仏が説かれた事は全て真実な言葉である。なし事は有りと言えない。だから、そなた達は信心があるべき、仏菩薩はそなた達を騙す必要がない。そなた達は法会に参加すれば、三宝に恭敬心を起さなければならない。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの果位に疑う必要がない。それは尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェの果位を認証されたから。そなた達は疑う資格がないのを問わず、今日始めて法会に参加する者はリンチェンドルジェ・リンポチェの素晴らしさを知っていない。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェがとても素晴らしいことが分かったけど、尊勝なる直貢チェツァン法王しかリンチェンドルジェ・リンポチェが如何なる素晴らしいかを分からない。

寶吉祥仏法センターで法会に参加するのはそなた達が金をいくら持つかどうか見えないが、そなた達の心を見る事だ。道場の中を見て、そなた達は功徳主の名前を貼り付けず、光明灯塔を設けない。或いは功徳主に前の席を座らせる事もない。却って未皈依の信衆に前の席を座らせて、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子達は後ろに座った。それは来る者は客なので、厚遇を与えた。しかし、皈依弟子になるとこのような厚遇がない。だから、この信衆に勧めて、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェの教え方式はとても厳しい。先程法会の前にリンチェンドルジェ・リンポチェが先に弟子達を叱ってから法席に昇った。

そなた達は今日法会に参加して、どんな目的でも、少なくとも恭敬心があるべき。況てやリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に法会に参加させない。そなた達が自分が求めたから。今日1400人を超える人は法会に来て、若しリンチェンドルジェ・リンポチェは厳しくなくてそなた達が求めればそなた達に参加させると、毎回の法会は少なく1万人が有る。現在外に入らせなく法会に参加させない者は100人余りだ。更にそなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェの法会に参加してもどんな費用でも払う必要がない。嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェから聞いて、法会に参加すればどのような金がかかると聞いた人があるだろう。参列者は全て聞いていないよと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の経済能力、身分、背景を見ながら、そなた達に法会に参加する事を許すのではない。若し仏法に恭敬心を持たず、たとえ扉の外で跪いてもそなた達に入らせない。そなた達がよく考えて、若しそなたは今日有る事を他人に頼むなら、少なくとも相手に遠慮があって少し敬っているが、何故そなた達は仏菩薩を求める時に、恭敬が必要がないだろう。

別に仏菩薩がそなた達の恭敬が必要ではなく、そなた達は恭敬心を起すと、供養である。供養があれば、福報があって始めて縁起を生じて、亡者に済度を得させる。修法者は仏菩薩、そなた達と亡者など三者の間の媒介である。そなた達は恭敬があるから、亡者は仏菩薩と好い縁起がある。そして済度能力がある修行者を通して、亡者に仏法の助けを得させて済度を得る。何故済度は福報が必要だろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔嘗て一つの比喩を開示された。ある者はある所に行きたいけど、切符を買うお金がなくて、自分を助ける人を探せば、必ず彼のため金を出してあげて切符を買える人を探さなければならない。ある者は彼に何処に行って切符を買う事を知らせるかもしれない。此れは修行している人だと言える。ある者は詳細をはっきりに分からず、概略だけ分かる。一部の者は状況を全く分からないが、そなた達は後者に属する。ある所に行くならば、少なくともその場所が分かってから、そなたが行けるだろう。だから、多くの人は人に助念して助けたが、自分さえ如何なる浄土に行く事が分からないなら、如何なる亡者を助けて浄土に行かせるだろう。

何故仏を学ぶのは上師が必要だろうか。それは修行の道に上師が不断に監督及び導きが必要である。そうすると仏を学ぶとは間違いに学ばない。ある者は自分が仏を学びたくないや仏を学ぶ事が自分に関わらないと思うかもしれない。しかし、そなた達は仏を学ぶかどうかを問わず、若し仏法がないと、我々は動物と同じだ。動物は飢えないように頑張って食べ物を探して、次世代を増えるために行動する。我々は人間として仕事して結婚する事も同じで、若し過ちを修正して懺悔して、一切の悪を止める事が分からないなら、我々は人間として動物と分別がないだろう。仏法は我々に因果を教えて、我々にどんな行為を行なえば後遺症があると知らせて、我々に過ちを修正させると教える。決して迷信ではない。

そなた達は常に仏法に誤解が有る。例えば、紙蓮花を折るや往生布団を被るや光明砂を撒くなら済度できると思う。或いは助念団を依頼して亡者に読経すれば済度できるど思う。仏経にこのような事を説かない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示されたが、済度は簡単な事ではない。もし、法会に一回参加すれば亡者を済度できるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて直貢チェツァン法王に報告して、自分が修めない。若しこのような簡単であれば、苦労に閉関修行するわけではないだろう。

仏経に説かれない事は仏を学ぶ人は自分の考えで決めないべき、我々は今世人類の文化は釈迦牟尼仏の法運の中にいて、釈尊が仏法を伝授した後、彌勒菩薩が降臨するまでに仏が住世しない。此れはこの間に仏の化身が現れないとは言えないが、仏は人身から修行して仏果を証しない事である。つまり、今我々は従えるのは釈迦牟尼仏が仏経の中に教導である。ある者は仏の転生を称するや仏が嘗て開示されない事を行うことなど、此れは全て嘘つきである。今仏を学ぶ人は釈迦牟尼仏の教導に従うべきである。

ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、自分の亡くなった家族を済度する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に菜食させる。ある者はやってみるや、出来るだけすると返事した。できるだけするとは何だろう。仏経はできるだけの仏法がない。若しそなた達は自分がやってみると言えば、リンチェンドルジェ・リンポチェもやってみる仏法でそなた達を助ける。何故そなた達に肉を食べないと言っただろう。仏経に衆生の肉を食べると慈悲の種を断ちとある。慈悲は一切仏法の基礎であり、慈悲がないと仏法がない。更に成就があるわけではない。慈悲は仏教に特有な教法である。他の宗教は人に善を行う事を教えるが、此れは慈悲と違う。そなたはある者は食事、病を診療する金がないと見ながら、貴方は彼に金を渡せる。此れは善を行う事であり、唯人としてやるべき事だけ、慈悲ではない。若し慈悲は善を行いなら、仏教は他の宗教と同じではないか。慈悲とは実は二件の事である。「慈」は自分が最もいい物事を衆生に与えて、衆生の苦しみを交換する事である。此れはそなた達は行えない事だ。「悲」は衆生を輪念苦海から抜かせる事である。つまり済度である。そなた達もこの能力が無い。そなた達は亡者を助けて、読経、法事を行ったから済度であると思う。しかし、そなた達は亡者が本当に済度を得たかどうかを分からない。尚更に済度はこのような簡単ではない。助念団を依頼して亡者のために読経すれば、亡者を浄土に済度させると思わない。

そなた達は梁皇寶懺を聞いた事があるが、梁武帝の妃は生前に瞋恚が重いから、死んだ後畜生道に堕ちて、ニシキヘビになった。彼女は夢枕に立って、梁武帝に自分が今とても苦しいと伝えた。梁武帝は在位の時、仏教を護持して、仏を学ぶ出家者は菜食する事を規定して、多くの仏事を行った。更に自分が仏経に見解を書いた。そなた達が行った事より、百万倍が多いが、しかし、梁武帝が福徳しかいないが、功徳がなくて済度能力がない。だから、梁武帝は当時の国師寶誌公に依頼して懺文を書いた。寶誌公は千手観音の化身と言われたが、彼は千人の清浄戒を守る出家弟子を率いて、千仏を拝んだ。五日間まで拝んでいて、始めて功徳を蓄積して梁武帝の妃を天道に済度できた。そなた達が千人の出家衆を頼んだ事を注意して、現在世間に助念団はこのように行っただろうか。尚更に清浄戒を守る出家衆である。世間の助念団は唯人が集まって、全ての人は心が同じではない。亡者は実は自分に助念する人は自分を助けるかどうか分かる。若し能力が無くて亡者に瞋恚を起させて悪道に堕ちさせると、却って亡者を損なった。

もう一つの例は目犍連尊者の母である。目犍連は仏陀の神通第一の弟子である。尊者は神通力で自分の母は餓鬼道に堕ちた事を分かるから、神通で食べ物を母に送って食べさせた。しかし、食べ物は母の喉に着くと、火炎に化して呑み込めない。だから、目犍連尊者は釈迦牟尼仏を祈請して、如何なる母を済度する。釈迦牟尼仏は目犍連尊者を教えて、出家衆が円満に閉関修行した時食べ物を供養する。此処に言われた出家衆は一般人ではなくて、阿羅漢である。僧に食事を供して得た福徳は目犍連尊者の母に善道に往生させた。此処から見るとたとえ神通力があっても済度ができない。

この二つの例から分かったが、顕教の方式で亡者を済度すると、たとえ持戒して清浄な出家衆でもかなり長い時間がかかる。勝手に阿弥陀仏を唱えれば済度するわけではない。密乗を修める修行者を探せば、自身の福報で亡者を助けて済度する。

密法はとても神秘なものではなく、衆生に利益する心が既に非常に緊密で、変わりがないのである。密法を修めるのは念仏して、手印を作るだけのではなく、累世の修行が必要で、普通な者が出来るものではない。累世の修行があっても、この世にまず経教の基礎がすくなくとも十年が必要だ。全ての仏理にたいして、全部正しくてもう間違いなく、自分の考えもなくてしまって、上師が観察した後、そなたの因縁と根器によって、本尊法と灌頂を伝える。この前に、先不共四加行を円満して、大礼拝も十万回を終わって、百字明呪を十万回読み終わって、献マンダを十万回、上師供養法も十万回が必要だ。不共四加行を真面目に修めて、真面目とは平均一日間に8時間を修めてすくなくとも2年間が必要のである。そなた達在家の身分で、仕事、家庭などがあることにより出来るもんではない。多くの者は六字大明呪が出来るが、閉関して何もやらずに、集中して呪文を唱えるこそ役に立つ。ある者は計数器を持って、読みながら、計数器を押すのは役に立たない、法本の中には計数器を載せてない。

ある者は家族のため、法会に参加して、あるものは病気にかかって、或いは往生して済度が必要だ。しかし、そなた達は心を広げる必要で、仏経に載せてあり、亡者のために法要を広げる必要だ。法要を広げるのは亡者のため至る所に灯をつけて、済度を申し込みのではない。広げるとはそなたが法会に参加する心がとても広くて、単にそなたこの世の父母親のためではない。我等は無始以来何回輪廻したか分からない、100世であれば、100個父母親は済度必要だ。亡者が済度を得ると、累世彼と関係ある衆生と冤親債主も全部一緒に済度を得た。そなたの父母親だけ済度を得ると望まないで、衆生皆は嘗て我らの父母親で、我等はこの心を宇宙の中に全ての衆生までを広げて、あれらそなた達に害された衆生を含んで、あれらそなたの父母親に害されて、食べられた衆生も一緒に済度必要だ。

施身法は八大成就法の一つであり、成就とはこの一生にこの法だけ修める行者は必ず浄土へ往生するのである。施身法は1人在家の女ヨーガ者マジラ尊者によって創られ、また≪大般若経≫の中に釈迦牟尼仏が菩薩道を行う時布施法門による。釈迦牟尼仏は嘗て六道の中に色んな布施法門を示現して、例え肉体を切って鷹に飼うなど。「施身」とは行者は自分のお体を布施する。法本の中には載せてあり、施身法の行者は修法する時、身につけた守りと仏像を外して、リンチェンドルジェ・リンポチェは法を行う時観想を通じて、衆生の代表をとして自分のお体を諸仏菩薩に供養して、また一切の苦難の中にの衆生に布施して、彼らの欲望を満足して、はじめて彼らに苦を離れて、仏法の助けを受け取ることが出来させた。

この法は既に千年くらい伝えて、歴代の大修行者はこの法を一代に一代に伝えてきて、リンチェンドルジェ・リンポチェ自分が発明したものではなく、それでそなた達は疑い心を持たないべきだ。衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェに済度された後、少なくとも天界に行って、良くなければ人道に、良ければ浄土へ行ける。三悪道に堕ちらなければよかったである。そなた達にある者はリンチェンドルジェ・リンポチェのこの話を聞いてもまた施身法が本当に済度できるかと疑うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に何年施身法を修めて、これ等の衆生のため済度が出来ないならば、問題が出来るはずである。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェはある出家衆に、修法者が亡者を済度する能力がなければ何が起こすかと説明させた。この弟子は、済度能力がなくて済度すれば、お体が悪くなり、お体で返さなければならないから、また死んだ後地獄に堕ちると回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の言い方を訂正した。お体が悪くなったのはお体で返すのではなくて、そなた達が衆生の命を傷害して、そなた達の体で返す資格がない、返すことが出来ない。この回答した出家弟子は嘗て念仏団体の大切な成員で、亡者のため念仏すれば済度だと思って、彼女は受ける供養金の多少に執着せずに、信者のお好き次第で、毎一回は少なくとも21個経文を読んで、とても勤勉だと言える。しかしこの弟子は自分が亡者を済度する能力がない。亡者には鬼通があり、非常に霊敏で、念仏する者が済度する能力があるかどうか知っている。なければ、亡者が恨み心を生じて、それより地獄道に堕ちた。

亡者に地獄道を堕ちさせるとそなたの福報は大変消耗する。健康は福報の一部分で、福報がなければお体が自然に良くなった。この出家衆はあの頃念仏団体に入ってからお体が段々悪くなって、どうしても直さなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後ますます良くなった。そなた達はかえって考え間違った、念仏団体に入ってお体に問題があったのは衆生のため業を負うと思った、実はそうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今年既に65才だが、お体がまだとても丈夫で、それで絶えずに仏法を広げる事が出来た。なぜ仏を学んでお体が丈夫になるか?人のお体も福報で、お体が丈夫ではじめて仕事をして儲けて、仏を学んで福報を蓄積する事が出来る。福徳は只次の世に残って使い、功徳ならそなたの業をまわって、そなたのこの一生を変わる。

多くの者は上師がなくても自分が家で念仏すれば成就があると思って、最近リンチェンドルジェ・リンポチェが聞いた。ある乳癌にかかった弟子は自分が家で六字大明呪を読めば結構と思って、結局ある晩に夢見た、多くの衆生が彼女を掴んで、彼女が一生懸命六字大明呪を読んで、しかし読めば読むほどこれ等の衆生がもっと強く掴んで、急に彼女が大きい声でリンチェンドルジェ・リンポチェの法号を叫んだ。この時全ての衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェの法号を聞くとすぐ手を放して去って消えてしまった。六字大明呪を読むのが聞かないと言っているのでは泣く、読む人の心がきかないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェの法号を読んで役に立つとはリンチェンドルジェ・リンポチェがすごいのではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェがせめて修めていて時々刻々全部衆生に利益して、助けて、功徳があって衆生を済度することが出来るのである。今回出国するように、リンチェンドルジェ・リンポチェが飛行機に乗る時1本機上の者を救って、しかしこんな事は、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に詳しく話す必要がない。

人が世にいるのは債を取るのではなければ債を返すのであり、債を返した後この一生が終わった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てそなた達に申された。病を道用に変わる。病気にかかったのは債を返すのであり、早めに返すのは悪道に堕ちるのより良かった。そなたの身に起きられたことは全部因果、因縁の現われで、そなた達が仏法に接触する事が出来たのを含んで全部前世の因果である。そなた達全部前世嘗て仏を学んだので、この世にはじめて仏法に接触するチャンスがあって、特に金剛乗の法会に参加する事が出来た。そなた達が今日来られるのは全部累世と直貢噶舉派リンチェンドルジェ・リンポチェと縁があり、さもないと接触するチャンスがあるまい。この一生に、仏菩薩はそなた達にもう一度仏法と接触するチャンスを与えた。こんな縁があって、そなた達は本当に縁を惜しむべきだ。縁を惜しむとは人と付き合う状況を言うのではなく、仏法を学ぶ事が出来た縁を惜しむのであり、こんな縁を延ばして、はじめてそなた達が累世善行して得た身体を無駄にしない。

そなた達は全部自分が忙しくて仏を学ぶ時間がなくて、事業が成功して、不動産を買って、児女が結婚した後考えると言う。実は、そなた達はどんなに忙しくても是非リンチェンドルジェ・リンポチェより忙しくない。リンチェンドルジェ・リンポチェも在家衆で、母親、子女、また1200名皈依弟子と100名社員があった。そなた達の言い訳はリンチェンドルジェ・リンポチェは全部了解で、坊間の出家衆のようにそなた達に嚇かされたのではない。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して、仏を勉強するのは毎一分毎一秒するものである。しかしそなた達がテレビを見る時間、よけ話を言う時間があって、かえって仏を勉強する時間がないと言った。そなた達は毎日働きが8時間で、寝るは8時間で、食べる時間は2時間で、残った時間はテレビを見て、世間話をして、インタネットする時間である。忙しいと言うなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは同席皆より忙しかった。皆と同じ毎日も只24時間だが、昨日海外より戻って来てばかりで、今日また皆のために法会を行ないに来て、毎日また多くのそなた達が知らない法を修めて、そなた達はもうこれを言い訳としないで、良く時間割をして仏を勉強して、人生が短くて数十年、把握しないとすぐ終わるから。

ある者は地獄どうか知らなくて、見たこともなく、地獄が存在するか疑って、死んだ後本当に地獄に行ったらまた考えようと言って、ひいてはリンチェンドルジェ・リンポチェが大変すごければ地獄を現れて彼に見せるはずで、こうして彼がはじめて信じる、と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されて、実は地獄は死んでから行くのではない。1人は純善が出来るなら、往生する前とても安祥で、苦しみがない。亡者が息を断つ前、そなた達は良く彼が非常に苦しんで両手が強く握拳して眉をひそめて、こんな相が現れると死んだ後悪道に堕ちる事になる。古代人と比べると現代人が臨終する前に多くの医療の苦しみを受け取った。またある独り善がりで親孝行と思った子女は医者さんに必死で臨終者を救急させて、もう一分の命を延ばしてもいいと思って色んな応急手当をした。例え電撃、心肺蘇生法等、患者の肋骨さえも押切った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者の済度を助けて、亡者の神識を呼び出した時、応急手当を受け取ったならば、来た時全部リンチェンドルジェ・リンポチェに自分の胸が大変痛かったと言った。実はそなた達が亡者にしたこれ等所謂応急手当は亡者に凄く重い恨みを起こさせて、彼に地獄を堕ちさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に応急手当をさせないのではなく、ある者は確かに応急手当を通じて息があった。但しそなた達は患者の状況を見る必要だ。お医者さんも既に彼が最後の階段になると判断すれば、応急手当をしても只彼に苦しみを増えた。西方医療界も既に分かった応急手当は臨終者に対して大変な苦しみをもたらす。それにより、所謂緩和ケア病棟を広めて、患者が自分のお体に対しての決定を尊重する。かえって台湾に多くの者はまだこんなやり方を受け取る事が出来なくて、父母が臨終する時応急手当を差し上げれば親孝行と思って、実は仏を学ぶこそ本当な親孝行である。

そなた達は地獄に堕ちるのが余り大したもんではなく、18年間後また1人立派な者と思わないで、そんなに簡単ではない。人類の時間によって、少なくとも千年が必要だ。終わった後すぐ人道に行くのではなく、まず餓鬼道へ、何世代を経えた後はじめて畜生道へ、業を返して畜生道を離れてはじめて人道に投生するチャンスがあった。人道に行っても非常に窮困、貧乏な家庭に生まれる。この世に仏法を聞くチャンスがあるのは何世代を修めてはじめてチャンスがあって、この世に仏法を勉強するチャンスを失うならば、もう大変得難くて、一生に今回を逃がして、手放しするともうチャンスが無い。男女友達を失ってまた付き合えば出来て、財産が失ってまた儲ければあるのようではない。仏法はそうではなく、そなた達は多くの世に善を修めたためはじめて仏を学ぶチャンスがあって、もし失ったらもう得難い。

施身法は密法である。この法会に参加する事が出来たにより、そなた達は過去世に密法を聞く因縁があり、それで今日はじめて来た。そなた達は疑い心があらないで、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに多く仰ったとも思わない。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当にそなた達に対してこんなに多く申される必要がなく、只今日来た者は信者が多くて、ある者は家族が往生して済度が必要で、家族に連れて法会に参加して、ちょっと見るとの考え方で、こんな考え方で法会に参加するなら、どの役にも立ったない。法会に参加するにはまず恭敬心、懺悔心と慈悲心が必要で。そなたがし間違った時認めて、懺悔する勇気がある必要だ。自分の誤りを承認出来ない者は結果的には必ず不順調で、今回の選挙のように、ある者はし間違ったが承認しなくて、今回の選挙の結果により見られる。皆が法会に参加する心が同じではなく、法会に参加する結果も同じではない、修法者は平等心で衆生を助けて、そなた達の背景を問わずにそなた達を助ける。しかしそなた達が法会に参加する時上記の三つ種類の心がある外にも静かに集中して、もう彼方此方考えなく、或いは自分の欲望をまじらないで、そなた達と関係ある無数な衆生は助けを得ることがはじめて出来る。

ある者は密宗がとても神秘と思って、実は只そなた達が知らないため、神秘と思った。例えば、1人大学教授が全て説いた内容は小学生が当然聞き取らなくて、とても神秘と思った、しかし博士まで読んだら神秘だと思わない。また1人教授は只1人、2人位博士学生を受け取って、百名を受け取らない。しかし小学では1つクラスには四十名を受け取って、彼らが全て習い内容は階層には大変差別があった。

リンチェンドルジェ・リンポチェの教法は非常に厳しくて、密宗界でも相当有名で、多くの者はリンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に教導することが非常に厳しいのを聞いたことがあった。リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに厳しくなければ、現在少なくとも十万人の弟子があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を選ぶ事がすごく厳しくて、多く者が皈依する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らになぜ皈依するかと聞いた。考え方が正しくなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは承知する事が承知しない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に仏を勉強するのを薦めて、そなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依するを薦めるのではなく、そなた達は今日仏法の助けを受けって、今後仏を学んだほうがいい、そなた達は外の道場へ勉強してもう寶吉祥仏法センターに来ないで、ここでは既にいっぱいで困った。現在多くの道場には信者を欠けて、そなた達が行くならば、彼らも大変嬉しかった。

しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に参加する者が一生に菜食料理を食べなければ習いように要求して、なぜであろうか。何故かと言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェの済度法会は一部因縁が良い家族と祖先を浄土まで済度するように助けることができて、ちょっと悪くても天道まで、一番悪くても人道まで済度できるから、浄土、天道にいる衆生が神通があるので、本当にそなたを加護したあげることができる。が、逆に、この浄土、天道、人道にいる祖先はそなた達が現実に仏菩薩を利用し終わったが、しかしまだちゃんと仏を学んでいないことを見たら、彼らはそなた達を修理するのではないか?

市中には、ある者はドルの樹を植えてからドルになられて、これは無理で、仏菩薩の時代にはドルも知らなかった。そなた達は法会に参加してから、一切が良くなっていくことを思ってはいけなくて、却って、事件を発生するかもしれない、そなた達は病気にかかるかもしれないで、或いは、少しの意外があって、これらは重い報いが軽くて受ける事で、そなた達にチャンスがあって債務を返済させた。

ある人は居眠りをしたいならば立ち上がって離れてください。仏経に言われるのは仏法を聞く時に居眠りをする人が来世に畜生道に落ちる因果応報を得て、これはそなた達を恐喝する事ではなくて、仏経に言われるのである。もし寝たいなら、古人のように学んで尻を刺して、或いは脚を少し挟んで、側の人に助けて貰う事も出来て、そなたが居眠りをする事をみったら挟んでくれる。結局、帰宅してから、全ての脚が打撲傷があって、幽霊がそなたに悪戯をすると思っている。幽霊はそなたを食べる事をしないで、今日、修法して鬼がリンチェンドルジェ・リンポチェの身体を食べて、そなた達の身体を食べない。しかし、そなた達は法会に参加した事があるので、来世に動物になってから、ペットの犬と猫になって子供のように可愛がる事とされる。いま、このような多くのペットの犬は前世で法会に居眠りをした者で、だから、福報があってペットに成られる。

引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な施身法を修めて、その上、参列者に自分の目上が自分の右手の側にいて、同輩と目下の人が左手の側にいて、六道衆生が我々の後ろにいて、累世の冤親債主が我々の前にいて、壇城に直面する事を観想させて、一回だけ考えると十分である。観想とは側に座る人は自分の目上になる事のではなくて、そなた達にこのように観想させるのがそなた達に自分が法会に参加するのではなくて、そなた達に関する衆生を代表して参加する事を気付かせる。

修法した後で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示された。今日、そなた達は既に法会に参加し、旧正月の期間に肉食をしないで、そなた達はこれから菜食する事が出来ないなら、再び法会に参加する事をしないでください。菜食する事は便利ではないで、気まずい事を思わないでください。これはすべてそなた達の感じで、明らかに菜食をしたらただ利益があって無害で、その上、何か悪い事もではなくて、菜食をしたら友達がないと思ってはいけないで、本来、そなた達があるのはまさかの時に頼みにならない友である。リンチェンドルジェ・リンポチェは36歳から菜食してからいままで、何か不便がある事を感じていないで、外国のミシュランの3つ星級レストランさえ菜食を注文し、外国のコックも何とかして考えて菜食をして、日本でこんなに難しいところでも順調に菜食する事も出来で、便利かどうかそなた達の自身の考え方だけである。一部の人々は言い訳を探して、自分の家族が反対する事を言って、旧正月の期間に食べないなら母に罵られて、ご主人に怒られる事を言った。そなた達は人々に騙せた事があって、仮に肉をたべるなら嘔吐する事をしないか?そなたは肉を食べてから嘔吐したら、家族はそなたに引き続いて食べさせる事を信じられない。

そなた達は「お酒と肉を腸を経て、仏が心の中に座る」を言う必要がない。そなた達の心の中に何を思う事はリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達の代りに予め言った。これは済公つまり道済和尚が説く話で、濟顛は食べた魚を吐いてから生きさせる事が出来で、これが出来るなら、禅宗により少なくとも一心不乱を修めえて、密法により離戯瑜伽の境界を修めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分でも食べた魚を吐いてから生きさせる事が出来ないので、肉食する事が出来ないを表示し、そなた達は肉食する勇気があるか?本当に勇敢である。実はこの話は禅の言葉で、仏が真にそなた達の心の中に座られるか?仏はとても巨大になる事が出来で、そなたは如何に囲むのでしょうか?

仏を学ぶ事が出来るかどうか、ただそなたの決心により、菜食する事はただそなたの飲食習慣が変わって、科学の角度により、いま、地球の暖化が厳重になる事も肉食して来て、そなた達は肉食をするために、大量で動物を養殖して、その上、大量でを栽培する牧草で家畜を飼育して、その上、これらの動物が排出する気体も地球の気温が高く上がることを齎す。

ある者は菜食をして多くの豆類の製品を食べ過ぎるので痛風を招くと言って、実は、多すぎるの揚げた茸を食べて、揚げた食べ物がよりよくないで、その上、茸の栄養成分がとても高くて、その上、と特定の元素があるので、痛風を招く。そなた達は菜食をしたら栄養がない事を言ってはいけない、我々が食べる物が身体の細胞になって、だから、鶏肉を食べ好きであれば、鳥に似ていて、豚肉を食べ好きであれば、豚に似ている。科学、環境保護、仏法因果の角度により、皆に菜食をしなければならなくて、然し、そなた達はどうしてもやはり肉食をして、実は肉食をする事がただそなた達の食欲を充たすだけである。そなた達は肉を食べて嚙んでから吐いたら、また嚙んだ肉を食べる勇気があるのでしょうか?実は、肉の自身は何も味が無いで、肉を料理する場合には何を調味料を加えないなら、美味いだろうか?そなた達は魚を蒸す時に、ショウガ、ネギといくつか調味料を加えないなら、食べる勇気があるのでしょうか?だから、実はそなた達は調味料を食べる。肉を食べるのはただそなたの欲望だけである。実は、菜食をしたら、皮膚に対してより良いである。女の子は菜食をしたら、何か保養品が要らなくて、毎年、多くの費用を節約する事が出来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母は既に90歳になって、暫く前に手術をして心拍の調節器が変わって、手術してから一つの鎮痛剤を飲んでいないで、その上、7日後に抜糸して退院することができて、医者さえ奇跡だと言った。彼女はまた鎮痛剤を医者に返って、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に医療費用を支払って、その上、医者が貨物を出るなら費用を返す事をしない事を知らなかった。実は、この世に、奇跡がないで、これは全て息子とするリンチェンドルジェ・リンポチェは努力して仏を学んで、ずっと母に修めてあげる。仏経には記載されているのは本当の親孝行な人が仏を学ぶ者で、これは子供が仏を学ぶ善を両親に影響されてる。が、リンチェンドルジェ・リンポチェの母は殺業があるので、2回目の手術を行わなければならなくて、返さなければならなくて、ただ重い報いが軽くて受けられて、普段にこのような手術を行う人間に比べて、多くの苦しみを少なく受けた。

皆が末法時代生まれる理由は全て業がとても重くてまた根器が無いである。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分で模範になる事を言うまでもないが、少なくとも自身が例を挙げられて、根器が良くないけれども、この一生に仏を学ぶ因縁が絶対にそなた達に良いである事を謙虚的な仰った。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依した一年前に、旧正月に友人がリンチェンドルジェ・リンポチェを連れて広欽老和尚に謁見して行って、リンチェンドルジェ・リンポチェは広欽老和尚の側に立て、広欽老和尚は何も言わないけれども、ただ目でリンチェンドルジェ・リンポチェに見張って、帰宅してから、リンチェンドルジェ・リンポチェは再び肉食をする事が出来ないで、食べると吐いた。その時のリンチェンドルジェ・リンポチェの奥さんは男が菜食をしたら体力がないといって、リンチェンドルジェ・リンポチェはいやいやながら食べて、結局、食べてから吐いて、それから、リンチェンドルジェ・リンポチェに肉食をさせる事がなかった。それにより、リンチェンドルジェ・リンポチェの縁はそなた達に比べてよくて、広欽老和尚はただリンチェンドルジェ・リンポチェに一目を見張って、リンチェンドルジェ・リンポチェが肉食をする事が出来なくて、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェはあやして、騙して、罵って、あれこれと説得しても、そなた達は依然として肉食をしている。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに厳格になっても、またある弟子がこっそりで蟹を食べて、結局、その人が半身不随になって動きがとれないで、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に蟹を食べたかどうかを尋ねて、最初、彼は承認しないで、第二回目を尋ねて、また、彼に承認しないならリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に取り合わない事を話して、この弟子がやっと承認した。肉食をしたら、必ず因果応報があって、多くの人々は親友が往生した前に多くの病気の苦しみに受けてから往生して始める事を見た。全ての人々は往生する前に必ずこれらの苦しみを受けると限らない、仏を学ぶ者は往生する前に完全に苦しみを受けらない機会がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは二つ目の良い因縁が尊勝な直貢チェツァン法王に謁見して来て、その時、尊勝な直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが見ると、手で数玉を持ってもう一つの端をリンチェンドルジェ・リンポチェに渡して、直接に伝法をして、そなた達は恐らく何もないようだと感じて、然し、我々は密法を修める行者は普段に数玉を他人にぶつからせる事をしないで、そなた達が思っている数玉を他人に触ったら汚いためではない。却って、触ると伝法を始める事を表示し、その中に特別な意義があるので、今日説かない。

1995年の時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはチベットにおける直貢梯寺へ向いて、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはただ接待のラマ僧に寺の中に最もお年寄りの修行者に謁見したいだけで話して、結局、デンジンニマ・リンポチェのお付きの者は彼の上師は彼に今日ある外国から来る人がデンジンニマ・リンポチェに謁見する予定を話すことを言って、つまりリンチェンドルジェ・リンポチェと思った。その時、デンジンニマ・リンポチェは閉関していて、普段に閉関する時に人と会見しないで、然し、例外でリンチェンドルジェ・リンポチェを接見した。その時、関房にはただ一つの小さい窓があって、ラマ僧に食べ物を修行者に送って、リンチェンドルジェ・リンポチェは頭を小さい窓に伸ばして入れてデンジンニマ・リンポチェに加持される時に、“ガチャン”の音を聞いて、デンジンニマ・リンポチェがはさみを持ってリンチェンドルジェ・リンポチェに少しの髪を切って、直接にリンチェンドルジェ・リンポチェのために皈依させて、デンジンニマ・リンポチェは口伝で皈依文を伝えて、そのうえ、法号を与えてくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは求める必要が無くて、そして、大リンポチェに弟子を納められて、そなた達ですか?多くの人々はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する事を求めたいでも求められない。

これらはリンチェンドルジェ・リンポチェの累世の善根で、けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝な直貢チェツァン法王に見させても、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは決心をして努力して仏を学ばないで、自分が変わらないなら、その後の一切が発生する可能性が無い。『地蔵経』に開示されているのは全宇宙の中に最も難しく度するのが地球の人類で、気丈で、難しく伏せる。だから、決心をして過ちを改める事がとても重要で、そなた達は良い因縁に会ってもよく大切にして、徹底的に自分の問題はこの一生に解決して、このようにしたら縁を惜しんで、この縁を円満させる。

もうすぐ旧正月で、多くの人々がとても楽しくて、然し、正月とは自分がこの世でまた一年を少なくなると表示し、また一年を少なくて仏を学んで、何かとても楽しむのでしょうか?大晦日の時に、多くの人々は非常に遠いところで運転し、数時間で渋滞し、却って団らんの食事をする。人々の移動、車両の使用、多くの排気ガスを排出して、空気汚染をもたらすので、地球の暖化の原因の一つのである。団らんの食事はただ一つの習わしだけで、これは初期の農業社会には皆が会えることが難しくて、普段に仕事をして休まないで、ただ正月で皆が集って、また、普段により簡単で食べて、だから、この時により多くて食べる。いまビジネス社会で、皆が会える事が簡単で、普段に多くて食べて、本当に団らんの食事で肉食をする必要がない。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に帰宅して団らんする事を阻止しない。

法会は円満になって、リンチェンドルジェ・リンポチェは正月の楽しみを祈って、参列者はリンチェンドルジェ・リンポチェが辛労を問わずに皆の為に殊勝で修法してくれて、無数な有情を利益する事に声を揃えて感謝した。

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2012 年 03 月 01 日 更新