尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2011年12月18日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、殊勝な「緑度母法会」を主法された。

法会が始まる前に、ある女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが助けた経過を報告した。

2011年3月、彼女の夫は中年失業の危機に陥って、毎日憂鬱で怖ろしい日々を過ごしていた。彼女は顕教に仏を長く学んだけど、無力でどうする事も出来ないが。如何なる夫を助けるのは分からない。だから、彼女は尚更に勤勉に寺に行って、済度位牌を安置して、仏七を参加して、読経拝懺していた。また水陸法会を参加して、山を巡拝して、ボランティアをしていた。毎回一週間、10日間尚更に半月間に行ったのは通常だ。そのせいで、彼女の夫は尚更に恐がって不安していた。お茶も食事も喉を通らないほどだ。その時彼女は始めて異常だと気付いた。故に彼女の出家する妹は誠に慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェを紹介して、彼女を導いて、助けて、煩悩を解決できる。

彼女は夫の許可を求めて、一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。彼女達はリンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いた時、彼女は見たリンチェンドルジェ・リンポチェはマスコミに報道されたのと他のリンポチェと全く違った。当時彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な大威徳力を摂受された。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女の夫に「何の用件ですか。」と聞いた。彼女の夫は「会社は不安定なので、どうすれば分からないです。」と返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた彼女の夫に自分の考え方を聞くと、彼女の夫は「自分がやりたいなら、できますか。」と聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは夫に聞いて、「貴方は社長になりたいか。社長になる運命がないと、社長になる事を考えない。貴方は資金をいくら用意して損失を受けるつもり?百万、二百万か。若し足りないなら、部屋を売って弁償するつもりか。貴方はビジネスを経営するのは簡単だと思ったか。ハー。」リンチェンドルジェ・リンポチェはため息した後、また夫に開示された。「貴方の社長は心が台湾に置かないが、海外に置いた。社長はそなた達に給料の借りがあるなら、訴えればいい。しかし、そなたはビジネスを失敗すれば、誰に訴えればいい。そなたは社長の顧客を奪って自分が経営する事を思わないで。それはそなたの社長が苦労に経営した結果だ。必ず自分に属しない物を取るのはいけない。」その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女の夫に言った。「貴方達の社長は約8月中秋頃、会社は決定を決める。その時の状況を見ながらまた来てください。」彼女の夫は心は恐れず不安もしないが、毎日相変わらず給料をもらえない会社に勤めていた、7月末まで、彼達の社長は中国から戻って、彼達は数人の社員と平和に数ヶ月間に溜まった給料を返済した。また台湾の顧客を彼達に経営する事も同意した。全てはリンチェンドルジェ・リンポチェの加持と助けを感謝しなければならない。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助ける時、仏法の因果教導を離れないと見て、決してこの得難い因縁を手に放せないと感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女に「何の用件ですか。」と聞いた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに教示を求めた。何故自分は長く仏を学んでも、身の回りに苦しい人を助けられないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に聞いて、「貴方は常に自分の師父を親しくしているだろう。」彼女はその時無言に頭を振った。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び聞いて、「貴方が仏を学ぶ師父はいつでも貴方を教えて助けているだろう。」彼女は尚更にしょうがないで頭を振った。確かに寺の出家弟子は師父を一面に会うのは難しいが、在家衆も言うまでもない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは根気強くて彼女に開示した:「仏を学ぶのは念珠を手にかけて、中国の服飾を着て自分が仏を学ぶと思うのではなく、仏法を使ってそなたの家族を教訓して、そなたの親友を縛るのもない。更に仏七、誦経、拝懺に参加する名義で、自分が仏法を学ぶと思うのではない。仏法を学ぶには、是非1人如法具徳な上師が必要で、そなたを引き連れて修める。いつでもそなたには正しくない行為があるかを注意して、間違った観念を正しいの方に誘導する。そうでなければ、他人にそなたが仏を学んでいるとは言わない。」彼女は恥ずかしくて涙が流れた。はい、そうだ、彼女がこの二十数年間仏を無駄に学んで、1人の仏子にふさわしくない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは大丈夫で行ってもいいと仰った時、彼女はまたあきらめなくてまた伺った:「私はもう一件を伺っても宜しいか?」リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:「そなたはまたご用があるか?」彼女は心の中に長く置いた出家の考えをリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った。この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは一層に強く責めた:「先程そなたに申された事は全部耳に入れなかったか?釈迦牟尼仏『寶積経》の中には説いた、出家とは四種類があり、一つは身心とも出家して、次は心が出家して身は出家しない、また身は出家して心は出家しなくて、もう一つは身心とも出家しない。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、心が出家して身が出家しない。家庭、児女、事業があったが仏を勉強して修行する心を影響しない。」この時、リンチェンドルジェ・リンポチェは突然に彼女の夫に聞いた:「まだ叱り続いてもいいか?」彼女の夫は一生懸命に頷いた。心の中にリンチェンドルジェ・リンポチェは彼が言う勇気がない感じを全て言い出したと思った。

彼女は自分を検視して、この二十数年来、傲慢、過ちの仏知見、謗仏、一切の衆生に害をして、また自分が良く勉強したと思った。なるほど自分があんなに極悪で彼女が恥ずかしくて涙が止まらなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずに申された:「そなたはずっと出家と催眠されないで、そなたはこの一生に出家の縁があれば既に出家した。そなたはこの一生には眷属の縁があって、この一生に是非全て解決して、はじめて返すために来ない、そなたは仏を勉強すればするほど神経病になるだろう。帰ってよく考えてなぜ仏を学ぶか?もういい、帰れ。」

家に帰る途中に、彼女は絶えずに自分にどうして仏を学ぶかと聞いた。彼女は答案をはっきり分かるまでリンチェンドルジェ・リンポチェの具徳な證量、證知、證言、證行があんなに親切と感じた。そうだ、仏を勉強するためは生死より離脱すると衆生に利益するとの二つ事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェが必ず彼女を助ける能力があると信じた。それで、一週間後、彼女はもう一度リンチェンドルジェ・リンポチェに法会に参加するのを求めた。慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは聞いた:「そなたが良く見えたか?そなたは良く考えたか?」彼女は答えた:「リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲を感じだ。」そうして、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に法会に参加するのを承知した。

彼女は初めて法会に参加する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが『普門品』を一寸開示し、開示を聞いた後に、過去で顕教で分かる『普門品』がそんなに薄っぺらで、こんなに細かい『普門品』を聞いた事が無いで、心がそのように揺り動かしてした。彼女は自分にこれこそ追随する具徳の上師と言った。ただリンチェンドルジェ・リンポチェだけで彼女を仏を学ぶ事の疑惑と矛盾を助けて初めて知らせる事を深くて信じた。彼女は今年(2011年)の7月10日に慈悲深くのリンチェンドルジェ・リンポチェに証されて皈依する事を求めもらえた。同時、9月のチベットの旅と11月のインドの旅に追いついた。2回目で上師に従って出国し、彼女は上師が教派、仏法事業、弟子の法身慧命のため、如何なる速くて福報を累積して業障を消えさせる因縁を絶えずに手配し、その上、リンチェンドルジェ・リンポチェがこのように辛労をものともせずに弟子達を率いて彼方此方に向いて、リンチェンドルジェ・リンポチェの務めがこのような重くて偉大で、このような仏法に対して自分の事を忘れる大修行者で、弟子達がいかに幸いだろう!

彼女は1999年の後半から2000年前半の事を続いて分かち合った。この一年間に、彼女のご主人の家族の最も大きな悪夢で、最初、姑が自殺し、そして、義理の兄弟がお嫁さんを殺してから自殺し、舅も脳卒中になって半身不随にった。6年後、自分のお父さんも自殺した。今年(2011年)3月初め、彼女のご主人のお姉さんの電話が来て彼女に「毎日、自分は母さんを夢を見て、自分を引き伸ばして地獄に行かせて、母さんが自分に『弟が地獄にいてとても苦しんで、彼のために済度してあげなければならない』と言った」を言った。

そこで、彼女はご主人にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見していって彼らを済度する事を求める事を言って、が、ご主人が意向が無かったので、それから、自分がリンチェンドルジェ・リンポチェに求めて行って、リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなたはお嫁さんとして、何も決められなくて、帰ってからご主人とご主人のお姉さん及びお兄さんに『此処の済度はお金が要らなくて、何も恐れる事が要らない』と話す」に開示された。そして、彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く開示し、法会に参加できる一つしかない条件が菜食してから申し込んで始めて、だから、彼女のご主人だけで施身法法会に参加した。

彼女はとても懺悔で表示した。姑の彼らは10年余りに往生し、依然として三悪道に苦しみを受けているが、彼女が何も出来なかった。彼女もある大道場の住職にお伺いを立てた事があって、しかし、住職は聞いてからすぐに離れて、彼女に残させて何も助けて貰えなかった。とても幸いで、この後半の命はこのような慈悲深くて具徳なる金剛上師に会えて、彼女は各位の兄弟子がこれにより覚えて、同じ過ちを犯さないで、更にその場でよく把握しなければならなかった。最後、金剛上師の加持に感謝し、具徳の上師が難しくてあえるがいますでにあえて、仏法が難しくて聞くがいま既に聞いて、何時までに悟る事を待つだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの身体が健康し、法輪を常に転じて、仏法事業が栄えて、衆生が全て輪廻の苦しみを解脱する事を祈っている。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法席を昇って、殊勝な緑度母法会を主法された。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に次の如く開示された。本日修める緑度母は顕教に於いて修めていない。緑度母は二十一度母のファーストであるから、緑度母を修めれば、二十一度母を修めると同じだ。度母は観世音菩薩の涙の化身である。観世音菩薩は多くの衆生がまだ苦海にいて済度を得られない事を見ると、急いで涙を二滴流した。一滴は白度母に化して、他の一滴は緑度母に化した。若し有る人に呪詛される或いは災難及び事故に遭えば、白度母を求められる。緑度母は衆生を助けて苦しみを離れる。度母はまだ仏果を証しないから、度母は世間衆生の苦しみを見れば、簡単に衆生の祈りに応じて助けを与えられる。

しかし、そなた達は加護を求める心で仏を学ぶわけではない。拝むとして平安を求めて、拝んだ後物事はよくなった後、拝まないと思わない。『寶積経》に説かれた通りに、衆生は仏菩薩の助けを得た後、懈怠して精進に仏を学ばない。仏菩薩はそなた達の欲望を満足しない。若し発心して生死を解脱しないと、唯福報因縁を累積するだけ。仏七をするや禅七をして、ボランティアをすれば修行していると思わない。この事は唯そなた達を助けて仏を学ぶ因縁を累積させる。唯助縁だ。梁武帝を例に引くと、彼は自分が仏教のために多くの事を行ったのを執着した。実は唯自分に人天福報を累積しただけ。達摩祖師は彼は功徳がないと言われた。功徳がないと自分の業を転じられない。だから、最後梁武帝は反逆軍に囲まれて餓死した。福報は此の世に使えないが、来世に使える。必ず来世に人になる事を思わない。ペットとして生まれる時に使うかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは繰り返して皆を勧めて、加護を求める心構えで法会に参加しないが、ある人は聞きこんだけど、ある人は聞き込めない。ある人は自分の考え方を持っている。人によって体得が違う。それは人によって、因縁及び福報も違うから。例えば、釈迦牟尼仏は手で花を持ちながら、大衆に開示されたが、下に仏法を聞く人は多いなのに、大迦葉尊者だけ微笑んで開悟した。他の人は同じで仏の説法を聞いたけど、開悟できない。

若しそなた達は仏を学ぶのは生死を解脱法門を学びたくないなら、何回に来ても役に立たない。いつか護法に追放される。それは寶吉祥仏法センターは仏法に従う道場であり、とても素晴らしい護法があるから。始めて護法はそなた達に時間を与えて、そなた達の問題に暫くそなた達を妨げないから、そなた達に心を安定して仏を学ばせる。暫くしてそなたたちは相変わらず体の健康、夫の事業が順調、子女は話しを聞くなど求めるためを発見すると、此れは全て仏を学ぶ目的ではないから、護法は自然にそなたに行かない。家に訳が分からないである人にそなたに法会に参加する事を阻止する。

全ての衆生は因縁及び福報は違うが、仏を学ぶかどうかと関わらない。そなた達は此の世の生活方式はそなた達が累世の業力から得た。仏を学ぶからそなたに生活をよく転じるや仏を学ぶとそなた達に金を失うわけではない。仏はそなた達の業力を変えないが、唯そなたに時間を与えて修行させて、修行を通して機会があって自分の業を転じさせる。仏菩薩を利用して、そなた達を助けて金を稼ぐや体に健康させるや夫、妻、上司を虐めるのは全て間違い。

仏菩薩と条件をつけると思ってはいけなかった。此の世に得た全てはそなたが撒いた因から得た果報である。若し仏を学ぶ事を通して、悪い事を発生しないと思わない。昔に撒いた悪因に悪果を得させないと、そなたは今日仏を学ぶ善因が善果を得られない。若し因果を違反すれば外道だ。そなた達は今求めるのは唯欲望を満足するだけ。仏を学ぶのは欲望を減少して、決して欲望を増えるわけではない。菩薩は衆生の様々な苦しみに対して、必ず助けを与える。しかし、たとえそなたは菩薩を求めて、因果を違反してそなたを助けても、そなたの問題は本当に解決できない。仏が教えた仏法は唯一つだけ、衆生を教えて生死を解脱する。そなた達は此処に来てこの事を学びたくないなら、来ないほうがいい。仏を学ぶのは若し自分のため、何を求めたいと思うなら、所謂拝んで平安を求める。それは求められない。

現在間もなく年末なので、外に多くの道場に於いて、ある者は電話を掛けて、そなたに戻ると誘われた。特にまだ皈依していない人に多くの者は電話を掛けて、師父はとても懸念していると伝えた。そなたに戻らせて、法会を行なうと伝えて、そなたに戻って済度リストを記入して、総功徳主、副功徳主になると言われた。そなた達は行けば、彼達はとても喜んでいる。仏経にこのやり方を説かない。供養は金額を規定するわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今までそなた達に電話を掛けて法会に参加させない。毎年の年末に皆のために多くの法を修めるのは多くの供養を貰うためではない。そなた達は一年間に多くの悪い事を行ったから、今日の修法を通して、そなた達に一年間に溜まった悪業を少し清浄させて、障碍を減少させて、そなた達に因縁があって引き続きに仏法を学べる。

今日修める法本は蓮師から伝えた密法である。通常は蓮師が伝えた密法は法身本尊が自ら伝えた。緑度母の法本が多くの種類があるが、今日修める法本は供養を主とした。主法者は衆生を代表して本尊を供養して、本尊と皆の縁に結べれば、そなた達は始めて仏法を学べる。今日修める法本は多くの儀軌を行う必要がない。過程もかなり簡単だ。法本の儀軌は広軌と簡軌を分ける。広軌を修めると長い唱える時間が必要だ。今日修める簡軌は本尊の心法であり、とても濃縮である。主法者は緑度母の仏像を用意して、法会に参加する人は斎戒して入浴して、八供、四種類の曼達を用意して、酒を飲めず肉も食べられない。法会に参加する時、世間無常に輪廻を離れる出離心、菩提心及び皈依の心を起す必要である。

出離心は輪廻の苦しみを分かり、仏を学ぶのは生死を解脱するため、このような心で世間の様々な無常の変動を見れば、行った全てを執着しない。若しこのような心で仏を学ばないと、唯人天福報が多くあって、来世に使える。そなたたちは起す念はとても重要であり、そなた達はリンポチェの果位を修めないと、本尊を此処に迎える能力が無い。だから、話を聞く。輪廻を離れる心及び二種類の菩提心を起す。世俗菩提心及び勝義菩提心を含める。そなた達は因縁、福報があって、今日の法会に参加したが、まだ多くの衆生はこのような縁が有って参加できない。だから参加する心は一切広大な有情衆を代表して、法会を参加すべき、法会に参加できない衆生を全て未来に生死を解脱できるを望んだ、このような広大な心で法会に参加すべきである。

現場にいる人は多くのがまだ懐疑心を持って、自分は既に何回も法会に参加したのに、何故病気は相変わらず治ってないと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、そなたの病気は引き続きに悪化しないなら、いい。そなたに金を多くかかって診療を受けさせないならいい。つまり、仏菩薩は既にそなたを助けた。

そなた達は仏、法、僧三宝に皈依すると、表面に皈依するだけではなく、仏の教導を受かる。若し法会に参加する時、そなたは今日の法は自分に役に立つかどうか、どの方面に役に立つか。如何なる修めれば私に助けられると思うなら、此れは全て皈依なし心だ。そなた達は学校に勉強する時、必ず先に登録しなければならない。先生に認識された後始めに学べる。皈依とはこの道理であり、仏菩薩に自分が仏を学びたいと知らせる。そなたは小学校一年生の時、先生に何を教える事を聞く勇気があるだろうか。此れを学ぶなら役に立つかどうかを聞く勇気があるだろう。全ては先生が教えた物を受けた。現在そなた達は仏を学ぶとかえって学べばどんな用途を聞いた。人は年取れば年取ったほど複雑だ。現場にいる出家弟子と同じである者は学べば学ぶほど複雑だ。自分の考え方は沢山がある。今日修める法はどのような法だろう。私の業障を消す事に対して役に立つかどうか。将来衆生を利益するのを用いるかどうか。いつか開悟できるかなど考える。此れは全て懐疑心を起す。

仏法は出離心、菩提心及び皈依心を離れない。修行者はこの心を具えれば、始めて息、懐、増、誅、四つの法門で衆生に助けを与える。この心がないと菩薩ではない。菩薩に成れば、とても素晴らしい能力があると思わない。菩薩は衆生の縁により現れたが、若し衆生は苦しみがないと菩薩も現れない。それは菩薩であれば、衆生が三悪道に堕ちる事を見たくないから、衆生に助けを与える。

ある本尊がある事に対して役に立って始めて、外にはないと思う人がいた、これは正しくない観念だ。実は諸仏菩薩は全部同じ見方で、衆生が苦しんでいるのを見るに忍びなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する時も、良く修法本尊ではない菩薩が衆生を迎えに来た。ある時観世音菩薩を修めたが地蔵菩薩が迎えに来て、ある時地蔵菩薩を修めたが観世音菩薩が迎えに来た。それぞれの衆生の因縁と福報が同じではなく、阿弥陀仏を修めて全部阿弥陀仏が迎えに来ると思わないで、阿弥陀仏と縁がなければ、地蔵菩薩が迎えに来て、地蔵菩薩の願力は衆生が悪道より離れるのを救済から。

緑度母法会に参加した後、ミストレスにそなたの夫より離れさせ出来て、そなたの家庭、事業を順調させて、隣家にそなたを叱らせなくて、自分が感応が出来ると思わないで、緑度母を修めてからお体が緑になるとも思わないで、仏を学ぶには迷信が出来ない。タイには1人極めて有名な宗教人士がある回台湾に来て1人女の子に過去世に彼と縁があると言って、彼女に1年の365日間に全部白い着物を着させて、この女の子は本当にこうしたが、結局最後に彼女が全て倒産した。

密法には事部と行部がある。ある四臂観音を修行するマラ僧は毎回ドアに入る時横になって通じた。自分が修める本尊は四臂観音で側には両手があってドアに入る時邪魔になると思って横になって入った。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:これ等は全部迷信で、密法の事部と行部が説いたのはそなたの外貌が本尊と同じように修め得たのではなく、全て修行する事は本尊のと同じのである。事とは仏法事業を示す。我らが言った無二無別とはそなたの法性と仏菩薩のと同じだと表わす。

仏を勉強して身につけて神経病にならないで、事柄をお見舞う智恵が有るべきだ。例え本当に四臂観音であって、菩薩がまさかドアに入る時両手を下ろさない事はないだろう。それに、中国顕教には観世音菩薩が32相があると載せてあり、そなたが本尊と同じように修めたかったら、一体どの相貌になるだろう?家族はそなたが四臂観音を修めて、毎回ドアに入る時横になって走るのを見るとまた何の観想があるだろう?仏を学ぶのは外貌を見るのではなく、仏を学び始めると自分が他人と同じではなく、一般な者がしない事をして、他人にそなたが仏を学ぶ者と感じさせると思わないで、こんなやり方は正しくない。仏を勉強する者はする事が他人のと違うのではなく、違うのは考え方のである。自分が皈依して仏を勉強すると知って、心の中にの考え方は仏菩薩の教導にしたがって、自分を修正するべきだ。

修法の第一段落は本尊に供養して、四つの曼達供養がある。本尊の加持をお願いして、一切の障碍を消して、一切の飢餓と戦争を消滅して遠近の国土の皆に喜ばせて、政府に福を増えさせるのを含んで、不祥な夢と前兆がすべて取り除く事が出来て、この法は我らに生死より離脱するまで救済させ出来ると望んで、我らに本尊と同じさせる。

法本の中に引き上げた、緑度母を修めてあれらの寿命と財産を増やす事が出来る。そなたに寿命と財産を少し多めにさせるのはそなたにいい日を暮らさせるのではない。そなたが病気にかかるかないかと問わず、一年間を過ぎて即ちい1年間を減って人の寿命が段々短寿になる。肉食、罵るのは全部寿命を減らさせる。仏法に対して疑って、特に上師に敬わないのは一層に減る。これ等は全部これ等に短寿させる。此処に我らの寿命を増やすのはこの一生に足りる寿命があって、仏法を勉強して生死より離脱するためだ。財産を増加するのはそなたにお金を有らせて、この肉体を養う。そなたが本来仕事がなければ、そなたに一つの仕事を有らせて、自分を養うことができて、そなたに仏を勉強し続かせて、困窮の苦しみも仏を学ぶ障碍から。そなたにロンを払って、クレジットカード費用を払うお金をあらせるのではなく、これ等の財産なら求めえられない。ロンを払うお金がなければ銀行に部屋を没収させて、お金がなければ、一生懸命クレジットカードを使わない。

法会に参加した後なぜ寿命と財産が全部増やさなかったかと思わないで、こんな話をする者は地獄に堕ちようとする。法本の中にの寿命と財産を求め得れば、そなたが前仰った出離心、菩提心と皈依心を引き起こさなければならない、この三つの心があった者はやっと求め得る。堅い決心があったのが、生死より離脱するのを修行するためだ。自分の欲望を求めるためなら役に立たない。

衆生には苦しみがあって、緑度母に願いすれば、緑度母は助けてくれる。但し前提は既に仏を学ぶ心を引き起こした者である。全ての苦しみは全部仏を勉強する心を障碍して、そなたに苦しみため安心で仏を勉強出来させない。それでそなたが緑度母に願いすれば、緑度母は助けてくれて、そなたに暫くこんな苦しみを止まらせて、そなたの心を堅くさせて仏を勉強しようとする。仏菩薩は因果と業力を変わることが出来ない、そなたが最近割合に順調になって、そなた達に良い日を暮らせるためと思えれば、冤親債主はまた頭をまわしてそなた達に訪ねて、また事故が発生しようとする。現在既に年末で、皆に注意させ、1年はまた過ぎて、仏を学ぶ時間が既に段々少なくなって、もう時間を無駄にするな。僥倖な考え方があらないで、またリンチェンドルジェ・リンポチェの助けが得ると思わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは死亡無常を信じて、自分がいつでも死のうとして、そなた達に似なくて、死亡がそなた達に大変遠く離れていると思った。

法本の中にリンチェンドルジェ・リンポチェは皆の代表として緑度母に請い願った。緑度母が自分の只の独り子のように見てくれて、皆に加持を与える。皆を助けて、魔障、疫病、病、苦しみを断って、皆に吉祥、幸福、豊か、円満、精進研修をさせて、また一切の善法を増やさせる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは申された。皆が良く聞くべきで、此処の願いは暫くそなたの苦しみを止まって、無くさせるのではない。そなたが法会に参加するのは生死を解脱するためではなくて、ただ自分の病気を少しよくさせるため、自分の息子が大きくなって嫁を貰うのを見ることが出来るなら、そなたの病気はまた戻って来る。寶吉祥この道場には多くの例があって、そなた達に見せることが出来る。

前の乳癌にかかった弟子のように、リンチェンドルジェ・リンポチェは最初彼女に加持した時に既に彼女に教えて、彼女に彼女の寿命を増えさせて、彼女に多くの時間に与えて仏を学んで生死を解脱し、幸せに暮らして或いは死後の事を手配するためではなくて、彼女はどうしても信じないで、弟と妹は自らに世話られると思っていて、彼女は彼たちに責任があって、自分がまたお金を稼いで彼たちにあげて、自分が死んだら、彼たちに世話する事が出来なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に再び勤める事をしないのを勧めて、が、彼女は自分がお金がない事が出来なくて、同じように続いて勤めている。彼女はこれはリンチェンドルジェ・リンポチェに彼女を話される事を忘れてしまって、彼女は上師への承諾を違反した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に加持した後、彼女は自分の状況が好転していく事を見て、ほかの患者に比べて病状の差別がとても大きくて、自分がよい暮らされて、自分がまた若くて死にたがらないと思っていて、精進で修行していないで、だから、速めに病状がまた急転直下になった。

法本には祈請文に記載されて、我々に病気に罹らないで長寿になってまた自在させられる。此処に言う自在とは生死が自在して輪廻を解脱する事のである。発願するために輪廻し、業力と因果のため輪廻する事ではないのを望んでいる。菩薩が何も恐れない事とは大胆不敵な何も恐くない意味ではなくて、菩薩が衆生に済度する心はとても勇猛で、一切が衆生に利益するために、自分の事を考えなくて、全力を尽くして、出離心、菩提心、皈依心を発したら、つまり無畏である。

修法が円満してから、リンチェンドルジェ・リンポチェは「先、修法している時に唱える廻向文に説かされる『本尊が私の苦しみを了解する事を祈る』とは、この苦しみが世間因縁法の苦しみではなくて、病気に罹る事或いはご主人さん、お嫁さんが私の事が好きではないという苦しみではない。本当の苦しみは輪廻の苦しみが解脱されないで、この苦しみは緑度母が真に救ってくれる苦しみのである。仏菩薩はそなたの身体を救ってくれる事ではなくて、身体がある日まで必ず使えられなくて、堅持で使えても苦しみを受けるだけで、何年間を救っても苦しみを多くて受けるのみである。衆生に輪廻を離れて助ける事が仏菩薩の願いで、そなたは決心をして輪廻の苦しみを解脱して、仏菩薩に頼んだら、必ず助けを貰えられて、世間のこのような小さいな因縁法が自ずから解決し、これもリンチェンドルジェ・リンポチェが多年で修行の経験である。」に開示された。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自身の辛労をものともせず、全ての参列者に一人一人で壇城の前に加持を受けさせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは右手で緑度母の本尊のドマを支えて、左手はベルを続いて鳴らして、1千位余りの参列者に壇城に向かせて殊勝な加持を受けた。リンチェンドルジェ・リンポチェの右肩の関節は軟骨がなくて、腕を引き立てる動作を維持させたら、身体に対して負担が多くて。またとても辛労した。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェは自身を顧みないで、如何なる苦しんで疲れて或いは耐えない事を少しでも現していないで、全ての参列者に加持を慈悲深くて与えて、過程の中に、重い本尊のドマを取って、車椅子に座る参列者の頭に置いて長くて加持した。参列者は壇城に向いて加持を受けている時に、リンチェンドルジェ・リンポチェも参列者に率いて緑度母の心咒を絶えずに唱えていた。参列者はリンチェンドルジェ・リンポチェの無比な恩徳と摂受力を深くて感じて、リンチェンドルジェ・リンポチェがとても慈悲深くて、辛労をものともせず皆に加持させて、多くの参列者が思わず感動して涙を流していた。

修法してから、リンチェンドルジェ・リンポチェは「リンチェンドルジェ・リンポチェの母は一生で人々を罵らないで、騙さないで、主人の話をすべて聞いて、とても伝統的な中国婦人です。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの叔父は魚を売ったので、リンチェンドルジェ・リンポチェの母も魚を殺して助けた事があって、平日に料理をするので多くて殺した事がある。結局、心臓は機械を入れて、しかし、他の人と同じように器官を切る事が少なくとも要らなかった。他人の心臓が機械を入れてから10数年に使えて、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの母が数年で装置してから、昨日、また手術を行って新しいのを装置しなければならなくて、これは全て殺業の因果である。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェの母は手術を行う時間が20分から30分ほど終わって、麻酔をした事があったけれども、手術室を離れていない前に彼女がはっきりしていて、頭がとても明らかで、また、『何故病室に戻らない』を聞いた。病室に帰ると、血圧を測量して、既に70/130に回復する事を発見し、甚だしきに至ってはリンチェンドルジェ・リンポチェの血圧により更に正常である。その上、腹が減る事と言って、すぐに一茶碗のおかゆを食べられた。彼女の87歳の高齢により不思議なのである」に開示された。

ある医者とする弟子はこの事が極めて不思議で、彼をとても驚かせて、リンチェンドルジェ・リンポチェのお母さんの年齢により、普通は麻酔を受けた後、麻酔のため血液に移動して速度を緩めさせた。下肢の血液循環は影響を受けるので、心臓がもっと大きな力により血液に移動させる事が要って、患者が目がくらんで現象と吐きたいという現象があって、入院して2から3日ぐらいに観察しなければならなくて、特にお年寄りのでもっと注意しなければならなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェのお母さんのように早めて回復して、その上、血圧が正常であれば、普通な人であれば可能性が少なかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「この件はリンチェンドルジェ・リンポチェが自身が如何に素晴らしさ或いは凄さを自慢するのではなくて、皆にこれは全て仏法が表す事を見せて、多くの供養布施をして、諸仏菩薩と護法の加持により、リンチェンドルジェ・リンポチェの母の血圧にこのようにすぐに回復して正常に戻させることが出来て、彼女にこれにより恐れていない心を持たせた。」に開示された。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに頼んで彼の命を救って、これは無理な事で、仏菩薩は果報が変わられなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェがこんなに素晴らしいでも、自分の母親も意外があって、如何にそなたの果報を消えてなくならせるか?

母としても、リンチェンドルジェ・リンポチェが母の因果応報を変える事も出来なくて、しかし、彼女は生きている時にこの2回目の手術を受けてしまったので、地獄におちる因果応報が無くして、或いは、生きている時に殺生をした事があったら、必ず地獄におちて、これも重い応報ですが軽くて受けるのである。何故彼女に手術を行わせたか?つまり因果応報である。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深くて信じているので、因果応報を受けた。母が文字が読めないので、息子とするリンチェンドルジェ・リンポチェは黙って母に助けて与えた。仏経では「本当の親孝行は仏を学ぶ者である」に記載された。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、仏を学ぶ事により両親に悪道に離させた。だから、非を認めたくない事をしてはいけなくて、自分の考え方により仏菩薩を脅してはいけなかった。

法本の最後の段落は廻向で、廻向とはそなたのご主人に廻向して彼の事業に順調に成らせるのではなくて、また、不倫の対象に廻向して相手をそなたのご主人に遠く離れさせる事ではなかった。そなたはこれらの事があったら、全てそなたの因縁で、そなたと関係があった。廻向の本当の目的は一切な衆生に廻向し、衆生に足りる時間を取らせて、この世に縁があって、輪廻を離れて、生死を解脱する事のである。一切の衆生は我々と同じように仏果を証して、自分の私欲のためではなかった。法会が開始する前に懺悔の弟子は長年に仏を学んでも、然し、間違って学んだ。嘗ての師父は彼女に拝懺して、禅七をして家族に廻向して事柄が解決する事が出来るのを教えた。現在、市中は全てこのような方式により信衆に教えて、仏を学ぶ本当の目的が分からなくて、だから、家の中に同じように意外が発生した。しかし、彼女のご主人はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来る時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のご主人に本当の話を教えたので、彼に仏法が真に衆生に助けられる事を了解させてはじめた。

自分の思想により仏を学ぶ事をしてはいけないで、法会にずっと参加して鬼が見えないと思ってはいけなかった。一日中に鬼を見える人間であれば、実は自分が鬼衆で、貪瞋痴を持っている。自分が観世音菩薩に会うことも言わないでください。中国顕教の観世音菩薩は三十二相があって、そなたがあうのがどちら様でしょうか?

上師と仏菩薩はそなたに障害を一時的に停止するように手伝う事しか出来なくて、そなたは上師の教導を聞かないでよく仏を学ばないなら、障害がまた現れた。嘗て、ある者が離れた後問題があって、このような多くの例があった。仏菩薩が彼に処罰する事を思ってはいけなくて、却って、彼は本来寿命がないで、ただ上師と仏菩薩の加持により彼に多くの寿命に与えて仏を学んでくるためで、が、彼が離れた後加持を貰えなかった。市中の一部の人間はある者が天命をついてから来て、彼が使命を務めないなら、神様が彼の命を取り戻すという事ではなかった。これは間違った。仏経には「天命(使命)」という言い方に記載された事が無かった。命は天から或いは誰かが与える事ではなくて、自分がした結果である。つまり「使命をついて仏を学んでくる」という言い方も無かった。

そなたは前に開示する仏を学ぶ動機がないなら、或いは、前に開示する三つの心を持って法会に参加して来る事がないなら、これから参加する事が要らなかった。年末になって、外の多くの仏寺は師父がそなたを思っている事を言えて、そなたに帰って見させて、しかし、寶吉祥仏法センターが異なって、リンチェンドルジェ・リンポチェがこれまでそなたを思っている事が有り得なくて、そなたが事故があって、そなたを思う可能で、そしてそなたに助けれあげる事を含まなかった。そなたにリンチェンドルジェ・リンポチェに親しくさせて、リンチェンドルジェ・リンポチェが特におなたの事を思って、これはそなたが上師に親しくするので、上師がよりそなたに注意するわけである。諸仏菩薩は衆生に考える時に、指定対象がないで、特に誰かが良い事がなくて、もしこのような分別心があったら、仏菩薩ではなかった。そなたはいい時にリンチェンドルジェ・リンポチェが却ってそなたに遠く離れる可能で、なぜならば、そなたが自分に世話する事が出来で、特に助けが要らないわけである。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを考えて、そなたの名前を呼ぶ事がいいことと思ってはいけなくて、たまには逆になるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは随意に誰を見つけて一緒に食事する事をしないで、偶には、突然にそなたを見つけて一緒に食事する事をしたら、そなたに特に良い事ではなくて、そなたが助けが要るかもしれない。

仏を学ぶのは良い事で楽しい事である。そなたの家族は認めないなら、そなたがする事が他人にそなたの神経が問題があると感じさせる。誰かがそなたに障害したら、そなた達は腹を決めて生死を解脱する仏法を修行する事がないで、心の中に障害を起こして、だから、仏を学ぶ事に対して障害を引き起こした。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学んでから、誰かが障害する事が出来る事が無かった。修行はとても自在で、わざとらしくない事である。うわべで高く道徳感をもって或いはみると道行が高い事ではなくて、手に身に多くの物につけて他人に自分が仏を学ぶ事を知らせることではなくて、その上、仲間と離れて孤独に暮らす事もではなくて、なぜならば、そなた達は一生に仲間と離れて孤独に暮らす事が有り得ないで、依然として衆生の助けを要する。

ふだん暮らすべき生活は普通な人間と同じで暮らして、然し、そなたの内心が固める心があって仏法を学ぶ事を要して、上辺は他人と異なるとは限らなくて、ただ仏菩薩がそなたが良い修めるかどうかを評判する事が出来る。法会の最後、リンチェンドルジェ・リンポチェは心を込めて皆を勧めて、今日仏を学ばれるこの因縁を大切にしなければならなないで、無駄になる事をしてはいけなかった。

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2011 年 12 月 29 日 更新