尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2011年12月4日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、前回に布施供養の重要さを引き続いて、どのように供養布施で我執を捨てて輪廻を断つことを開示し続けた。

法会が始まる前に、ある女弟子は公開に発露懺悔した。また、上師の功徳を称賛した。この弟子は始めて感謝して、更に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの不思議な慈悲功徳力及びこの世に修めた果位は世間に得難い宝物であり、再世仏のようであることを称賛した。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示されたが、衆生は大福報がなくて、釈迦牟尼仏の時代に生れられない。しかし、彼女は今この世に仏と無二無別の金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会って、尚更にリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を聞ける。リンチェンドルジェ・リンポチェが開示された通り、「人身が得るのが難しい。仏法を聞くのは難しい。徳を具える上師に遇うのは難しい。」彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが本当に極めて貴重な仏の宝物であり、彼女の一生を変えられて、衆生に輪廻の苦しみを離れて、衆生を連れて浄土の門に入られる。本当に極めて得難い。唯教えに従って奉じて、話を聞いて完全に従って降伏して、勇猛に精進すれば、上師の恩及び仏の恩を恩返す事が出来る。

この女弟子は懺悔して、既に五年近く皈依したのに、上師の無数な功徳、慈悲な加持、苦労に衆生を助けた事をしっかりに称賛しなかった。それだけではなく、彼女は自分が教えに従って奉じなくて、自分を修正しなかった。相変わらず自分の生活方式で暮した。上師に年寄った自分を心配させたが、本当に悪い弟子だ。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェは老婆心から繰り返し忠告して、厭きず丁寧に話した。その時に心から慙愧の念を起したが、物事に経った後、相変わらず決心してしっかりに修行しなかった。聞いたのに行わなくて、相変わらず日々を暮した。上師の絆と障碍になって、上師を背いた。更に大変に敬わない重犯である。

彼女は信衆から始めて皈依した後まで、共修法会の中に引き続きにリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いて、始めて深く分かったが。仏を学ぶのは生死輪廻の苦しみを解脱するため、如何なる厳しく大事な事である。そうしないと、一般の人が菜食して、仏を念じて、拝懺しているなど同じで、ずっとその意味を分からない。更に自分を反省して、修正しない。或いは自分の過患を検討せず、独り善がりしている。彼女は毎回リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いて、自分が全ての欠点を犯した事を発見して、自分がだめな悪い弟子である。彼女は懺悔して、今後確実に自分の悪い習性を修正する。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ、アチ護法、諸仏菩薩を感謝して、諦めずに自分に機会を与えて、自分に仏法の道に違縁障碍を円満にして順調に生死を解脱する道を歩いた。そうしないと、浄土に行くのは遥かで届けない尚更に不可能な事かもしれない。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの教導を深く感謝した。

この女弟子は引き続きに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の母を助けて、ポワ法を修める事を報告した。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、母が因縁がなくて皈依しないけど、数年間に大法会に参加した事があった。更に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに会えて、加持を得られた。彼女の母は生前にパーキンソン病に罹ったが、上師に加持された後、病状は落ち着いていた。しかし、十年間に病気に罹ったから、彼女の母に97年5月初に危篤した。兄弟は母が生死と戦い苦しみを見たが、慌てて喩えようもなかった。しかし、親孝行している子女でもどうしたらよいか分からず、何も助けられない。当時彼女は始めての念は母を助けるため、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを誠に願った。上師の指示を通して、彼女は逸仙路に行って上師の法写真に頂礼した。三日目に経って、つまり、97年5月8日夜6時頃、彼女の母は落ち着いて、病気の苦しみを解脱して、人生の最後の道まで歩いた。火葬した骨は綺麗な五彩の緑色の瑞相が現れた。

それはリンチェンドルジェ・リンポチェの加護のお陰で、瑞相が現れた。また、母の神識を守って、六道輪廻の苦しみを堕ちさせない。彼女の母は顔色が平和で落ち着いた。彼女は上師の手配を信じて、必ず母を率いて浄土に行かせる。彼女は報告したが、若し尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの福報の加護がないと、彼女の母はまだ如何なる苦しみを受けて、何処に堕ちるか分からない。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力の加持を感謝して、彼女に機会を与えて母の恩返しさせた。彼女は感謝して上師に苦労させたことに懺悔した。

この弟子はまた尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが自分を助けた経過を報告した。2010年3月、彼女は道場へ法会に参加する前にトイレで転んだ。年寄ったから、大変に転んだ。右の手を壁にぶつかったが、音が大きいので彼女に驚かせた。その時右の手は何節を骨折したと感じた。しかし、法会に参加するのは時間が間もなく間に合わないと思うから、その時痛みを感じなかった。唯急いで宝円膏で塗ると思ったが、手が曲がれないと発見した。道場に着いて、医師の兄弟子を依頼して診察された後、多分大丈夫だと伝えられた。当時唯力がないと感じたが、法会が終わるまで何も痛みを感じなくて、腫れなかった。上師が無形な加持、アチ護法の助け及び諸仏菩薩の加護がないと、如何なるこのように軽い怪我の可能と奇跡があるわけではない。法会が終わった後、兄弟子は彼女を連れて病院にレントゲン検査を受けた。始めて右の手の骨は少し裂傷したけど、他は無事だった。同時に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得たので、尚更に早めに治った。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの世話を感謝して、彼女に重い報いを軽く受けて一劫を過ごした。

この弟子は続いてまた分け合った、五年前彼女は嘗て前売りの未完成物件を買って二戸を一戸に改装して、因縁がないので引越して行くことが出来なかった。部屋が完成出来た後、毎月のロンと管理費はかえって彼女の圧力になった。寶吉祥集団の協力で、彼女のため部屋を二戸に回復して、それに、二週間とても短い時間の内に順調に売り出した。これは上師の慈悲でなければ、全くありえないのである。彼女は覚えて皈依したばかり時、ある日本の修行者が道場に上師に訪ねに来て、全ての弟子達に教えた:「そなた達は本当に福報があった。」この弟子は分け合って、確かに同席の皆は福報があり過ぎで、どんな困難があっても、全部急いで上師の協力を求みに走って行った。上師がいろいろなお世話をしたので、弟子達ははじめて安穏な生活を暮らすことが出来て、彼女はもう一度感恩して、それに上師に苦労をさせて懺悔した。

彼女は恩に着た、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが全てした事は全部弟子と衆生のためで、疲れ事業を経営していて、彼女は上師の事業を護持するべきと思った。上師の事業を日々ますます盛隆させて上師の恩を返す。彼女は直貢噶舉教派が清栄して、法輪がいつも回って、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお体が健康で、世に百劫いるように祈った。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ、アキ・ドロルマ、諸仏菩薩に懺悔して、冤親債主、前世今生に彼女に害された全て有情、無情衆生、鶏、鴨、魚、海老、土竜、蟹、蛙に懺悔した。彼女は嘗て母親を手伝って、豚を養って、鼠、ゴキブリ、あり、シロアリ及びキクイ虫に害をした。それに流産することがあって、彼女は一切全て彼女の過ちで、今後是非二度と犯さないと懺悔した。法界の一切衆生は彼女と同じで仏法を聞く因縁があって、輪廻の苦しみを離脱する事が出来て、観世音菩薩、阿弥陀仏の因縁加護を得て、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲功徳力の引き連れを貰って済度されることを得るように祈っておる。

最後、彼女はもう一度尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ、アキ・ドロルマ、諸仏菩薩に感恩して、彼女に多く悪行を懺悔するチャンスを有らせた。

続いてもう1人女弟子が発露懺悔した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に此処で発露懺悔するチャンスを与えるのを感恩した。リンチェンドルジェ・リンポチェは何時も懺悔の重要性を注意させて、またよく仰って、弟子が真に懺悔せず、只過ちを承認して、業報が目の前に現れるまではじめて自分が只過失を認めて懺悔しないのを分かった。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェが昨日彼女になぜ懺悔するかと聞いた。他人のことを見るのが物語りを聞くみたいで、自分が主役になった時、始めて厳しく自分の過ちを検視して、懺悔がどの大切か知った。

彼女の父母は全部リンチェンドルジェ・リンポチェに済度された。父親はさらに2007年リンチェンドルジェ・リンポチェがラーキ雪山で閉関する時往生した。彼女は父親がリンチェンドルジェ・リンポチェの引き連れで阿弥陀仏浄土へ行くように祈請した。彼女の父親は往生した後、沢山の瑞相があって、火葬した後、頭蓋骨に一つの小さいまる穴があった。彼女は懺悔して、リンチェンドルジェ・リンポチェがいなければ、彼女が親孝行とはまったく分からなくて、父母の生前に親孝行をしなかった。若い頃の不肖、彼女に今までやはり悔やませた。親孝行をしようと思って親はもういない。リンチェンドルジェ・リンポチェの言教と身をもって教えるの下に、やっと父母が往生する前の数年間、病気にかかった彼らの世話をして、彼女に少し父母の恩を返させた。リンチェンドルジェ・リンポチェがいなければ、彼女はこの事を完成するのが出来ない。

彼女の夫は広東人で、海の珍味、スープが好きで、20年間とろ火でスープを煮て、いくらの衆生、鶏、魚、海老及び様々な海の珍味に害をしたと懺悔した。それより、果報は彼女と夫と現在全て脊椎の問題があり、彼女の椎間板軟骨が突き出して、神経を押して、状況がとてもひどかった。彼女は懺悔して、綺麗にするために、いくらか分からないの昆虫、ありに害をした。以前階下の部屋を改装した時、多くの蟻が階下より逃げ上がって来て、夫と彼女はせっぱ詰まってクリーナーで処理して、どのくらい衆生に害をしたか知らなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、親孝行をしない果報は眷属が合致しなくて、何もかも不順調で、婚姻生活の中に、女は耐えるべきだ。彼女は懺悔して、夫は二回事業が失敗して、生活が困頓になった事に対して、心の中に多くの憎みがあって、果報を受け取るのを知らなかった。彼女は懺悔して、仏を学んだ後言行挙止が仏を勉強している仏子らしくなくて、耐えることが知らなくて、できなくて、したくなくて、それで夫が今まで、リンチェンドルジェ・リンポチェより仏法の助けを得るとの因縁福報がない。彼女は懺悔して婚前と結婚後、堕胎して罪がない生霊に害をした。彼女が懺悔して彼女の夫は彼女のため、香港の妻を捨てて、台湾に来て彼女と新しい家庭を作った。この事は彼女に苦しませて20年越えた。若い時、知らなくてきままにして逃げて、年をますます取って仏を勉強して、はじめて果報の怖さを知って、ますます自分を許す事が出来ない。

先週リンチェンドルジェ・リンポチェが法座の上に仰った、もう一人弟子が乳癌にかかって、布施供養を知らなくて、あの悪弟子は彼女である。彼女は先月始め検査を受けた後乳癌2期だを発見した。現在所は寶吉祥漢方薬診療所でお体を保養して、西洋医学の方は医者相弟子の助けで、ホルモンで治療して、体の調子が大変良かった。彼女は懺悔して、自分が仏法より先自分のお腹のことを大切して、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法、衆生の済度のため、広大な事業集団には支持が必要ことを知らなかった。

寶吉祥の弟子として大変し合わせて、西洋医学の方は多くの医者相弟子が助けてくれて、病院で相弟子が彼女のため、穿刺検査をしてくれて、看護係りが針穴の傷を説明してくれたら、医者相弟子が寶圓膏を付ければ結構と言った。またリンチェンドルジェ・リンポチェのお世話だ。パラメディカルが回診して検査結果を見る必要と言ったが相弟子も必要がない、また電話で病状を討論すれば結構と言った。そうして彼女は回診する三日前既に検査結果を知った。組長相弟子も一番早くて彼女に電話して、関心を持って、それに、寶吉祥漢方薬診療所の劉医師に彼女のお体を保養するのを頼んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法のご指導と助けがなければ、彼女はこんなに平静で自分の病状に直面することが出来なかった。家族も彼女の決定を尊重して、手術、化学療法を受けず、積極的に、楽しくて問題を処理することに向かって、会社のボスも彼女に引き続いて働かせた。彼女は懺悔して、真面目に仏を学ばなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェの福報を無駄にした。各位相弟子は彼女を鏡とするのを望んだ。

彼女は昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに面会をして家に戻る車の中に、子供達と懺悔の重要さを話して、彼らは彼女に何を懺悔するかと聞いた。彼女は懺悔することが多すぎると言って、それに彼らに若い頃多くの過ちをしたことを謝った。何時も頑固で自分の過ちを認めなくて、どの過ちでも全部他人のせいにする夫が意外にとても感性的に自分の過ちを言い出して、事業が失敗のせいで家庭の問題になった。娘と息子と全部驚いて話す事が出来なかった。彼女はいままで夫がこんな話をするのを聞くことがなかった。子供達は言った、これは全部リンチェンドルジェ・リンポチェの摂受力に引起された。

懺悔するのを求めるためリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた。彼女は昨日特に祥髪髪芸に行って、まず髪の毛をあらって、SPAをして、マッサージ椅子に気分良いマッサージされて、短髪をカットして自分の緊張した気持ちを多く緩和させた。懺悔を求めに彼女は只自分が多くの間違いことをしたと言って、真に懺悔するのが出来なかった。ここで感恩することを言えなくて、言い尽くさなくて。。。只上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生が輪廻の苦しい海より離脱するのを助ける事が出来る。上師の法輪がいつも回って、世にいつも長居するように願った。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは今日、先週のガムポパ大師の開示を続いて、皆にどのように供養布施で私執を捨てて輪廻を断つことを教えて、これは顕教方面の教法である。ガムポパ大師は、「私達がまず学ぶべきなのは例えば、水、火などの小さな布施である;その次に、劣る物を布施することを練習して、最後、自分が最も必要な物、最も好きな物を布施するべきである」と開示された。

ここで劣る物を言うのは良くない物か要らない物と言うのではなくて、世の中のすべての物を言うのである。仏法から見ると、世の中のあらゆる物はすべて因果、業力から生じて、金銭、体、福報などはすべて劣る物に属する。仏法の最も主要なのはこの世の中の輪廻の苦しみを離れる方法を修行することである。そなた達は事業、家庭、金銭、健康などのために、世の中で作った様々な努力はすべて因果、業力、因縁により生じるので、永久不変で真実な存在ではない。だから仏法の出世間法から見れば、すべては劣る物である。しかし、そなた達にとって、劣る物で布施することもできないから、更に出世法の布施を言う必要がないだろう。

法本の中で多くの内容は供養布施を行うのであり、修法する時の供養する物はもともとは仏法曰く劣る物であるが、しかし上師の禅定観想により、宇宙の中で最も良い物に成らせて仏菩薩に供養して、このようにして、やっとそなた達などの福報がない人に、仏法を聞いて仏菩薩の教導を聞き取る福報があるようにさせた。

昨日ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来て、自分が心霊成長管理顧問会社を経営していると言った。もしそなた達は世の中の楽しみを求めたいならば、彼らに聞くことができて、彼らはそなた達の心が思っているものを言い出すことが出来るから。これらはすべてそなた達の欲望であるから。一部の者は自分が呪文を唱えたり、読経したり、菜食精進料理を食べたり、法会に参加したりしているから、仏を学んでいると思っているが、それらはただ助縁であり、福徳を修行するのである。そして一部の人は自分が菜食精進料理レストランを経営して衆生に縁を結ぶように助けて、慈悲を行なっていると思っている。経営するレストランは料金を納めるかどうか。お金を納めるのは商売をするのであり。もし経営するレストランはお金を納めないならば、無料で食べさせれば、やっと布施であると言える。

どのように供養布施で私執を破って除くか。仏経は布施が財施、法施、無畏施に分けられると説かれる。財施はそなた達の思っているようにただ財物の供養布施だけではなく、財施は世間財及び法財に分けられて、世間財は上述したように、そなたが自分の知能、知識、体力でそなた達は思った世の中の貴重な物事を交換して手に入れる;法財はそなたが仏法を信じて、上師の教導された仏法に従って修行して獲得した法財である。あれらの今生に仏法を信じないで仏法を修習しない人は、今生にどれだけ大きな功名と財産があるにも関わらず、本当に富める人ではなくて、何故かと言うと、法財を少しも得ていないから。修行者は功徳を修行することができて、法財はいつまでも絶えない。

仏を学んで修行するのは本当に法財のためであり、法財があって始めて功徳を得られて、ようやくそなたの累世の業力を転じることができて、輪廻を解脱できる機会がある。今そなた達はまだ法財の布施供養をやり遂げることができないが、しかし、必ず世間財の布施供養をし始めてから、1歩ずつ仏法の薫陶を受けて、捨の心を修習して、累世に執着する貪念を根絶することができる。仏法で言えば、財は衆生の貧困な苦しみを解決することに用いるから、貧困も1種の苦しみであり、この世にそなたが貧困になったのは、そなたが過去世に供養布施を惜しんだから。この世にそなたが財があるのは、過去世に供養布施をしたことがあって得られる物である。世の中では永久不変の財がなくて、財も変えたので、人が死んで財を持って行くことが見たことがない。しかし世の中の人が依然として布施供養をすることを惜しんで、ひっきりなしに努力して財産に累積して、自分が財がないことを恐れて、自分が年を取った時に暮らすお金がない事を恐れる。仏法曰く貧困は単に財産の上のことだけを指すのではなくて、仏法に対して全然知っていない、全然仏法を学習していなくて、修行していないのは本当な貧困である。

多くの者は他の人に菜食精進料理を食べて、念仏して、懺悔するように勧誘して、仏法を他の人に言うのが法布施だと思っているが、実はそうではない。法布施は仏法で他の人に布施してあげて、衆生に利益する能力があることである。人間として 善の念がある筈であり、他の人に生死を解脱するように助けるのは法布施である。禅七、八関斎戒はただ縁を結むだけで、読経、拝懺、座禅を組むのは功徳を累積することができなくて、人天福報が少しあって、そなたに来世に使わせて、この世の業を転することができない。一部の者は自分が禅七をやって、仏七をやって、八関齋戒を閉関するのを修行すると思っているが、決してこのとおりではない。八関斎戒を閉関したことがあったら、少なくともそなたを三悪道に落ち込ませない。《阿弥陀経》には記載されて、もし1日でも、2日でも、阿弥陀仏の仏号を唱えれば、ここで24時間を指すのであるから、つまり八関斎戒を閉関する時、どんな事をもしないで、ただ仏号を唱えて、一日出家者の生活を過ごして、来世に出家する縁を造る。だから、現場にいる出家衆はすべてこのように出家したので、そなた達が思うように、いくつかの原因のため、ようやく出家してしまうのではない。

尊勝なる直貢チェツァン法王はそなた達に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞くように開示して、この含まれている意味はとても深くて、リンチェンドルジェ・リンポチェの話したことはそなた達がきっと聞かなくてはいけなくて、言わないことはそなた達はきっとしないでください。何故かと言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは実修して実証してきて、言った話はそなた達にきっと助けがあるから。しかし、長く皈依している弟子の一部は自分が多く聞いて、リンチェンドルジェ・リンポチェの考え方を知っていると思っているから、リンチェンドルジェ・リンポチェの名号を利用して、新しく皈依する者に、どの事をしてはいけないと言う。これも正しくない。

仏経のいわゆる外道は、外に求めて、主(神様)に求めるのであり、外道の修行は天道に行くが、しかし天道に行くのは男女の慾を断たないとあり得ない。嘗てカトリック教徒であった弟子も、カトリック教は男女の慾を断ってからはじめて天に昇ることができると説かれた。事実上、イスラム教、キリスト教、道教の中ですべて天界に昇るのが男女の慾を断つと言うので、道教では男女の慾を断つ修法があり、禅宗でも、梵行を修めることがあり、つまり男女の慾を断つことである。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いて、《地蔵経》は曰く、この一世に情欲を重ずる者であれば、死んでから地獄に堕ちる。ここの情慾はただ男女関係を指すだけではなくて、この部分について後ほど言う。

《阿弥陀経》と《浄土五経》には、すべて男女の慾を断つことに言及していないで、これは釈迦牟尼仏が講法する対象と関係があるから、仏陀の説法するのはすべて法を聞く人の縁により法を講じるから、その時、釈迦牟尼仏に従ったのはすべて出家者である。浄土を修行するのは在家でも出家でも両方とも修行することができるのである。男女の慾を断つ行者は、禅さえ修めればきっと三悪道に落ち込むことは有り得ないが、しかし末法時代の衆生は業が重くて、そこで釈迦牟尼仏は慈悲に阿弥陀仏の浄土法門を紹介してあげて、在家と出家の行者に業力の中で阿弥陀仏の浄土に往生させることができるが、しかし善業ではないとだめである。

世の中は、仏を学ぶのは男女の慾を断たなければならないのを誤解して、多くの妻は夫が仏を学ぶ事を恐れる。というのは、彼は嫁さんを要らないことを恐れるから。一部の夫は妻が仏を学ぶことを恐れる。というのは妻が家を売って持って供養にいく事を恐れて、或いは妻が自分と別れて別な部屋で寝る事を恐れるから。現在、一部の法師は信者に、夫と別れて別な部屋で寝る事を教えて、身は清浄にして、夜に菩薩がそなたを見にくる時、そなたが一人で寝ることが見られるから。これらはすべて間違いである。リンチェンドルジェ・リンポチェが別に男女の慾があることに反対するのではなくて、男女の慾がなくて、私達はどのように生まれたのか、子供の誕生がなくて、仏法は広く伝わり続けることができないで、伝承が中断になるであろう。浄土法門の中では男女の慾を断つことに言及していない。釈迦牟尼仏は《浄土の五経》を紹介する時にも、男女の慾を断つことにも言及していない。

《浄土五経》は浄土十六観に言及することがあり、その中に、太陽を観て、月を観て、浄土を観ることに言及されるが、しかしこの浄土十六観はもう既に伝承が絶えて、どのように観たほうがいいかを知っている人がいない。今浄土宗を伝えている法師に、浄土十六観はどのように修行したらいいかと聞いたら、きっと返答に窮して、お経の上で記載していないでどのように修行すれば、釈迦牟尼仏はただ講じたことがあり、修行する方法に言及していない。これは密法であり、多くの法師は密法がないことを批判して、甚だしきに至っては密宗を質疑している団体があって、もしこの人たち或いは団体は密法を質疑するならば、それも釈迦牟尼仏を質疑するので、何故かと言うと、浄土十六観は密法なことであるから。

当年、釈迦牟尼仏は生まれた後、実の母は逝去して、実の母の姉さんから育てて成長してきたのである。《浄土十六観》はこの年長者が祈り求めて、釈迦牟尼仏は1対1で伝法して、釈迦牟尼仏の年長者は浄土十六観を修行することに頼って浄土に行った。その中の太陽を観る事、月を観る事は、ここの太陽、月がすべてただ1種の比喩であり、どのように観るか、これは密法であるから、一対一で口伝しかできなくて、すべての衆生が修行する因縁、条件と資格があるのではない。だからそれから釈迦牟尼仏は《浄土五経》を伝えて、密法の条件を備えない人を修習させて、阿弥陀仏の浄土に着くことができる。市の中は教えるように、太陽が光芒を現す時に何分間見て、或いは夜にずっと月を見ていて修行することができるのではない。一名眼科医者をする弟子も報告して、人の目はいかなる時に太陽を直視して、目の黄斑部に傷害をもたらして、深刻になると永遠に失明する。

禅宗を修行するのは出家して男女の慾を断たなければならない。しかも良い上師の指導を必要として、そなたの心のかすかな変化を観察する。ある出家する弟子は、自分で座禅を組む時、心が静かになることと考えている。これも1つの念頭であり、どうして、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだそなた達に座禅を組むことを教えていないか。何故かと言うと、布施法門がまだしっかりと行っていない前、我執を破ることができないから。この出家の弟子は、仏を学ぶのがきっと座禅を組むと思っているが、しかし座禅を組んでただ助縁であり、読経したり仏像に礼拝したりするのはあまりよくやっていなくても、病気に罹らないのである。座禅を組むことをよくやっていないと禅病に罹るから、薬で治せないで、重い者は恐らく半身不随になって、禅を学ぶのは十分な条件が無くてはならない。《楞厳経》は、そなたが座禅を組む時に、いかなる正しくない考えがあると、魔が飛精で口に入ると説かれた。何が正しくない考えであるのか。そなたに輪廻を解脱して手伝うことができない考えをすべて含む、例えば、私が放空すること、私は座禅を組むことなど、これらはそうである。《楞厳経》、《楞伽経》がこれらを記録するのは禅を学ぶ人を気づかせて、先生が教導していない時、注意するべきなところ及び、どのように心の魔を対治するかを教える。もう先生が教導していない下で、座禅を組まないでください、毎日ちょっと座禅を組んだら、自分の気持ちを比較的に落ち着かせていることは修行するのだと思わないでください。座禅も福報を生じるから、迴向するのが必要である。たとえ毎日1分間座っても、1分間の福報があるから、迴向しなければならなくて、一切修行者の功徳の大海に迴向してはじめて功徳に転じられる。肉体のために修行しているのではなくて、禅定を通して我執を減らすことができる。外道も座禅を組むことがある。

古代に禅宗を修める大雄寶殿(仏殿)はすべてとても小さくて、大概この道場の四分の一ぐらい大きさである。すべての修行する人は寮房の中で座禅を組んで、大雄寶殿に行かないで、彼らの閉関の部屋もとても小さくて、リンチェンドルジェ・リンポチェの閉関の部屋と同じぐらいである。法会をも行なわないで、ただ知客僧は信者を連れて大雄寶殿に参拝しに行くだけで、日本の一部の古い禅宗の仏寺の大雄寶殿もとても小さくて、その他はすべて寮房ばかりであり、数百年もそのまま残って変わっていない。今台湾の北、中、南にある禅宗の仏寺と違って、凄く大きく建てられたのである。

ガムポパ大師はこう開示される。「このように実修することにとって、もし『波羅蜜多教法』の伝規で概括に言えば、それでは、輪廻と涅槃など二者、以下の2つの偈頌の通り、それは経論がよく言われるように、「如何執著如彼示煩惱,不緣我與我所獲清淨。(如何に執着するか、彼が煩悩を示す如く、我と我所の縁がなく、清浄を獲得する。)」。(もしも一人なら)、どのように執着するか、それでは、彼は執着する強弱の程度と同じように、各種の煩悩を示してきる;(もし)『我』と『我所』に対して縁対しないと、そうすると最も極めて清浄(涅槃)を獲得する。」

ここの「波羅蜜多教法」は顕教の方法である。人はどうして悩みがあるか。我執があるから。仏を修行するのは自身の簡単な面目を回復するため、頂礼し、読経し、仏に礼拝し、真言を唱え、或いは上師に完全に投降するのはすべて役に立つ。現代人は仏を学んで返って悩みが学べば学ぶほど多くなって、仏を学ぶのはそなたに物を減らすように助けるが、ものを増加するのではなくて、仏は私達に欲求を増加するように教えるのではない。もし全然供養布施の心がなければ、我執を破ることができない。我がすると思って、私が感じると思って、すべては私を満足させるため、すべてはある程度求めるのがある。梁武帝は達摩祖師に、私がそんなに多くの善行をして、功徳があるかと聞いて、結果は達摩祖師が功徳がないと答えた。何故かと言うと、ある程度求めるため、功徳がない。仏を学ぶのは、求めたいものがないべきであり、もし何か求めれば、したのはすべてただ福徳であり、業を転じることができなくて、迴向していない人はすべて、ある程度求めるのである。

もし自分が病気に罹ったら、疾病を道用と転じて、いっそう自分が我執が発生して、間違いの事をして、業報が熟すことをもたらして、自分の肉体を苦しくさせることを知っている。小さな病気なら、薬を飲んで調養して、不治の病なら修行で直面する。もし体の苦痛で返済することが出来れば、それなら痛いであろう。この世に肉体で返済したくないならば、地獄で過ごすほかない。

供養布施の心はとても重要であり、先週に発露懺悔した弟子のように、先週土曜日に来た時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の供養を受け入れなくて、というのは、彼女が供養する時の心はやはりもう少し生きる時間を望んだためである。彼女は火曜日に往生して、土曜日に彼女の夫は彼女に代わって供養しに来て、彼女が臨終になる前に、夫に彼女のかわり供養して手伝ってもらうことを引き継いだため、これは真な供養の心であるので、その故、リンチェンドルジェ・リンポチェは受け取った。だから供養の心構えはとても重要である。

彼女の妹は昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しに来た時、彼女の姉が発病してから往生したまで、何も病気の苦難を受けていなかった、ととても喜んで言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示された。一人の癌の末期の人は、痛くならないことがあり得なくて、彼女は黄疸のため顔色が少しよくなった以外、本当に痛くなっていない。ただ気分が悪いと感じるただ。同じく彼女が話しを聞いて素直に従うから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女子の弟子がぜひとも彼女の夫の手配に従って、医療を受けてほしい場合に医療を受けに行かなければならないように要された。もし上師の話を聞き取ってし直に従ったから、功徳が起こして、業を転じて、わけがわからなく、ある指数が高すぎるため、病院は手術を行わないことを決定した。癌の手術を行って有名なこの病院は一般にはこのようにする可能性が少ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に刀兵の災を免れて、亡くなる前に、手術の苦しみを受けないように手伝った。以前の刀兵の災は戦争であるが、今戦争がなくて、刀兵の災は手術、交通事故、意外事故で骨折することなどである。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女にポワ法を修めて手伝うことを承諾したが、しかし往生した後、彼女も4時間も待っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェを探し当てた。今日表面上から見ると、彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェを供養しに来るのであるが、しかし実際には、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らにお金を節約する事を助けて、もし手術、化学療法、リハビリを行なったら、使った金額ははるかに彼らの供養を上回って、これは少なくとも彼らに四分の三のお金を節約するように手伝った。

この弟子は先週の土曜日にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは加持を与えた後、この弟子に力があって、翌日の法会の前に公開に発露懺悔して、20分以上続けた。それは彼女が懺悔したから、福報を起した。元々彼女に暫く苦しみを受けさせるはずが、二日後の火曜日に往生させて、更に完全に苦しめなかった。つまり、彼女の短寿で医療及び疾病の苦しみを受けない事に換わった。仏経に記載されたが、殺業が重いのは多病、短寿、死んだ後地獄に堕ちる。このようだ。しかし、彼女は教えに従って、無常を受けるから、往生前に余り苦しくなかった。そなた達も必ず彼女が早めに死んだ事を考えなかった。昨日彼女の夫は彼女が昔に聞いたリンチェンドルジェ・リンポチェの開示の仏法テープを持ってきた。多くの仏法テープを聞いたのに、教えに従って修正しないから、業は転じられない。しかし、彼女は8年を皈依して法会に参加して、閉関修行もして、上師に従って海外へ法会に参加した事があるから、この僅かな福報は彼女に浄土に行かせた。

そなたは病気に罹る時、そなたは喜ぶべきだ。それはそなたは始めて債を返済する。この弟子が行った殺業によって、必ず地獄に堕ちる。そなた達は冤親債主が既に済度されたかを考えるかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは冤親債主にそなたとの憎み、瞋恚を済度した。しかし、そなたはこの事を行った果報は相変わらず存在している。しかし、そなたは始めて仏を学んだから、機会があって果報を軽減して、果報の味を変えるかもしれない。だから、病気に罹るのは泣く必要がない。若しそなたは病気に罹った事で泣いたのはリンチェンドルジェ・リンポチェは受けないが、若しそなたは懺悔で泣いたのはリンチェンドルジェ・リンポチェは受ける。

何故そなた達に上師を賛美するだろう。それは仏菩薩と上師はそなた達の賞賛が必要ではなく、そなた達は家族に上師、仏菩薩の功徳を賞賛すれば、そなた達の家族は始めてそなた達の上師が何を行った事を分かった。この弟子の夫は昨日来た時、始めてとても感動だと行って、リンチェンドルジェ・リンポチェが行った事を分かった。そなた達は上師を賛美せず、他人が聞きたくないと言い訳した。しかし、可笑しいのは多くの時に他人が嫌いな言葉なのに、そなた達は引き続きに話していた。何故上師を賛美する話は他人が嫌いを恐れるから、言わないだろう。

供養とは自分が最も大切な物を使った。そなた達は皆先に使う物を分配して、残った物があれば、供養する。更にある者は他人が債務を返済する物として供養した。どうせ使わないから、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養したほうがいい。そうしないと、そのままに置くと、見ればある者が自分の金を借りたのを思い出した。此れは供養ではないが、施与だ。幸いリンチェンドルジェ・リンポチェは貪らない。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは30数歳から始めて物を蒐集したから、見た物も少なくない。

その時ある弟子の目はじっと右側に座った娘を見ている。リンチェンドルジェ・リンポチェは二人にすぐ道場を離れて、更に次の如く開示された。現在極めて重要な供養布施を話しているが、そなた達に今後の修行に対してとても重要である。この人は自分に関わらないと思って、どうせ自分がお金がなくて、供養布施は娘が行ったと思って、自分に関わらないから、専念しない。このような人も加護を求めて、今後この二人の供養を受けない。この心を持ったなら、さっさと帰ったほうがいい。日曜日にも此処に行かなくてもいい。子供を連れて外に出て所謂家庭生活を過ごせばいい。

現在皆は西方人を真似したが、親心を重視して子供を伴い成長している。休日でも一緒にいて、一家団欒の楽しみを享受して、子供に最もいい物を与えた。このようにすれば、子供は将来自分を親孝行した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、必ず親孝行しない。こうすれば、全て子供の欲望を満足しただけ。古代の人は子供を乳母に育てて、或いは教師を任せて教導して、めったに一緒にいた。反って子供はかなり親孝行した。若しそなたは子供と密接にいれば、そなたは子供にはっきりに見せて、そなたが何が好きや何が嫌いのを知らせたから、かえって子供に利用された。距離を保持したほうがいい。現在の子供はとても賢いなので、両親を利用する事を分かる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは寶吉祥仏法センターの理事長を聞いて、多くの人は供養を禁止しただろう。理事長は「はい、そうです。」と返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェは話したが、若し仏法センターの動きはこの原因で経費が足らない場合なら、リンチェンドルジェ・リンポチェに伝えて、リンチェンドルジェ・リンポチェは少し援助する。

供養布施は仏を学ぶ事で最も重要な事である。供養布施をする人は自然に福徳がある。しかし、仏は我々を教えて、供養布施は福徳を得るためではない。真の意義は我々に捨てさせる。捨てるがあれば、得る事がある。何を得るだろう。功徳である。功徳しかそなたの業を転じられない。福徳は唯来世、二世後或いは未来ある一世に使える。若し福徳だけ修めれば、癌は治れない。ある人は現在自分の日々順調に暮せるのは自分はよく唱えて、よく修めたからと思った。このような考え方があれば、おしまいだ。それは我慢貢高の心を起した。人はまだ成仏しないなら、必ず間違いがある。まだ成仏しないのにこのように傲慢だ。仏果になれば、もっと大変だ。宇宙の大きさでもそなたに行く空間がない。

此処まで話したは、リンチェンドルジェ・リンポチェはある眼科の医師弟子にリンチェンドルジェ・リンポチェが今回閉関前後に目の変化を報告させた。この弟子は説明した。一般人は65歳になるとき、コレステロール及びトリアシルグリセロールは白目に累積したから、つまり、虹彩の部分だ。白目に徐々に黄色になって混濁になった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは前回の閉関した後、白目に黄色や混濁の部分は徐々に消えた。今回閉関を出た後、白目は裏は白くて青いを透した状況になった。非常に目立てだ。此れは医学上に不可能の事だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、そなた達は何故唯7日間に閉関修行したのにこの大きい変化があったかを思うかもしれない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは老ける速度は遅いだろう。実は功徳が既に修めた時、体は自然に変化がある。此れはとても自然な状況だ。

宇宙の中に全ての物事は無自性である。法性だけは自性有である。無自性とはどんな事でも自然に起こるわけではない。因縁によって生じて因縁によって滅びた。生滅はあり、永遠ではない。即ち因縁生滅法則である。病気も因縁生滅法である。そなたはどんな病気に罹っても、そなたは死ねば、病気も無くなった。世間に言われたように癌のせいで死ねば、鬼になっても癌がある鬼になり、何処が痛いとか叫ぶ事を信じない。そなたは癌細胞が鬼になるのを聞いた事があるか。唯鬼になるとき、神識はまだこの記憶があって。この病気の苦しみを執着するから、痛みを感じた。

人だけ病気に罹るわけではない。六道の衆生であれば、皆病が有る。唯病の種類が違う。動物も動物の病がある。天道、阿修羅道も彼達の病がある。鬼道の衆生も病が有る。生むのは融通がきかないことに及ばない病だ。仏経に記載された。鬼道の衆生は体が若し車に砕かれて欠片になったが、死んだ後に風が吹くと全ての体の欠片もまた結んで生きた。続いて、また車に砕かれて欠片になった。このように繰り返して引き続きに死んだり生きたりして、止まらず苦しみを受けた。

死んだ後始めて我々がどの道に行くのを分かるわけではない。往生する前の様子から見れば分かる。死ぬ前に昏迷して目覚めないのは必ず畜生道に行く。よだれは彼方此方に流れたのも必ず畜生道に行く。三悪道に生まれるのは様子がとても醜いだ。人道と天道に生まれる様子は大きい違いがある。

波羅蜜多の教法は顕教の方法である。所謂「涅槃」とはそなたは涅槃に入ると、そなたは再び新しい業力を起さない。昔の業力は全て返済済み、新しい業力は再び生じない。だから、輪廻の動きがない、自然に再び輪廻しない。涅槃という言葉はとても簡単だけど、行うのはとても困難である。人は往生した後何も残さないが、唯業を連れて、第八意識田に存在している。《阿弥陀経》に説かれたが、業を連れて往生する。業は全て我執から起こった。連れられるのは善業で悪業ではない。輪廻や涅槃を問わず、執着があれば、必ず煩悩が存在している。一切の煩悩は全て業力の現われである。

ガムポパ大師は次の如く開示された。「必ず分かったが、『自我を執着』から、貪愛を起して、、『自我を執着』からも瞋恚を起した。私の子女を執着するから、貪愛を生じた。私の憎い敵を執着するから瞋恚を生じた。美名を執着するから、貪愛を生じた。悪名を執着するから瞋恚を生じた。称賛を執着するから、貪愛を生じた。誹謗を執着するから、瞋恚を生じた。」

多くの人は会社に小人があると思うやある人が自分を批判するから瞋恚を生じた。実は会社の同僚は如何なる長くしても、一日24時間に一緒にいるわけではない。いつか変わる。他人は自分に悪い態度を対応した時、覚えない。それは因縁生滅法なので、行った後過ごした。そなたは引き続きに他人は何故自分を批判したのを考えると、その件を記憶に置いて、執着する。また其れに新しく始まる命を賜る。更にある人は我々を批判すれば、《仏子三十七頌》にも自分の敵を感謝すると説かれた。それは実は彼も布施している。ある人に批判された時、いい修行者は検討して、自分の徳行はまだ円満ではないから、人に攻撃された。そなた達は少し悪いのは自分が何処かうまく行わないから、このようになった。ある人はしかし、私は彼によく対応していると考えるかもしれない。しかし、そなたは彼をいい対応だと思った所は彼が必ずいいと思うのは限らない。だから、相手は我々に伝えたのは実は相手も布施した。完全に納得して間違いを修正すればいい。供養布施を行う人は執着と得失心を持っていない。どんな衆生が与えた批判に遇っても、全て自分を反省して、自分に煩悩を減少させる。煩悩を減少させるのは仏菩薩及び上師が自分を助ける事に頼らないが、自分が決定して、機会があって他人を助ける時、自分が恩を施すのを思わないで、他人を感謝して自分に機会があって供養布施をした。

婚姻の中に多くの貪愛がある。そなた達は結婚したのも貪愛から生じた。ある者は結婚前に相手及び家族の背景をはっきりに分かっただろう。相手はそなたに優しくさせるなら、貪愛を起して、そなたに悪くさせるなら、憎みがある。既に結婚してこのような因縁があれば、婚姻の中に発生した事で自分の貪愛を減少する。若し貪愛は満足できないと、憎みを起す。医事紛争はそのようだ。実はある時完全に医療人員を責めない。患者は福報があれば、このような事を発生しない。供養布施を修めない人は貪愛を起しやすい。自分の家族は早めに死ぬ事が出来ないのを執着する。長く生きる事も貪愛である。

人によって縁が違う。眷属の縁が有れば、この眷属の関係を通して修行する。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家衆であり、そなた達と同じで恋愛、結婚、子供を生むなど過程を経歴した。毎回の婚姻の中に検討して、相手の間違いを検討しないが、自分の貪愛を検討する。自我を執着するから、貪愛を起す。貪愛は何処から生じる事を検討して、婚姻の本質を理解して、自我の存在を減少しなければならない。全ては因縁である。しかし、そなた達に一人を見ると、愛するわけではない。そなた達は女として、夫は優しいと望んだ。男は自分は外で仕事して苦労なので、妻は自分の話を聞くべきだと思った。此れも貪愛である。

若し自分の初めての性体験は相手に与えたから、他人に報いを求めて、自分に優しくしなければならないと思うが、誰でも初体験がある。そなたは自分が一分を与えると、相手は必ず一分を返すと要求すれば、此れは取引行為と同じではないか。そうすれば、初めて文書化ではっきりに書けばいい。前世そなた達は冤親債主だったけど、今世は眷属になるかもしれない。そなたは彼を多く愛すれば、そなたは彼を多く借りるかもしれない。その代わりに彼はそなたを多く愛すれば、彼はそなたを多く借りるかもしれない。死ぬほど愛すれば、過去世に最もそなたを憎む人かもしれない。それは結婚した後、始めてそなたを悪戯した。夜中2時にお腹が空いたと言って、そなたを呼んだ。或いは電話をかけて、そなたに明日母を連れて買い物に行くなど。労働者を依頼してこの事をすれば金をかかるが、このようなのは金をかかる必要がない。あるのは死ぬほど愛している。或いはそなたにとても優しくして、突然に交通事故に遭って亡くなった。そなたに泣かせて、一ヶ月や二ヶ月も食べられなくて、死ぬほど泣いた。二人は若し生前に離れないなら、必ず死亡で別れる。此れは生きながらの別れ、死によって永遠に別れて しまうことである。

私を執着すれば、自分に憎みの心を起させる。相手は浮気したとき、そなた達の間にとても複雑な要因がある。第三者だけ間違いではないが、そなたの眷属とそなた自身も問題がある。海誓山盟、太陽は西方の出てくるなどこの話は全て嘘だ。地球から見ると太陽が東方から出てくるが、そなたは地球を離れる時、別の所で太陽が出る方向を見れば、違う。愛人に遭った事は我々は懺悔しなければならない。そなた達が思ったように相手は邪淫戒を犯したから、私は彼に代わり懺悔して、彼を迴向するではない。それは自分が嘗てこのような同じな事を行ったのを懺悔する。過去世に行ったから、今世にある者はそなたにこの事をした。また、自分が末法時代に生まれたから、このような多くの誘惑があって、正常の人に不正常になった事を懺悔する。

この世に遭ったのは必ず過去世で行ったから、我執を起して、自分が傷付かれたと思うから、相手に敵としてみた。また、憎みは生々世々に続けている。だから、仏法は世間の事を逆に見て、そなた達の人生経験法則と全く違う。読経坐禅とも我執を破る過程であり、自分を訓練して妄念を減少するのも布施供養の法門だ。仏を学ぶのは物を得る事ではなく、仏法を学ぶ事を通して、煩悩を減少させる。我々は輪廻で人生経験を累積していた。つまり、業力である。だから、我々清浄な本性に現れない。仏を学ぶのはこの物を減少するため。しかし、そなた達は仏を学ばないならいい。学べば学ぶほど、貪念はかえって多くなる。若しそうすれば、学ばないほうがいい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは再び皆を提示して、愛人に関わるテレビ番組を見ない。長く見ると、自分も瞋恚を起しやすい。この番組は全て悪い男を演じて、視聴率のためにした番組だ。それはテレビを見るのは女が多いから。実は女も悪い人がいる。

多くの事が発生したのは両者が共に行ったが、例えば夫婦喧嘩は皆相手が間違い、自分は正しいと思った。それは「自性有り」と思われる。しかし、それも因縁法だ。たとえそなたは本当に相手に多く犠牲しても、そなたのやり方は相手が受けられないかもしれない。更によく考えると、自分が間違いがあったが、天下は広いなのに、何故自分は却ってこの人を選んだだろう。付き合った時に自分が理性的にこの人の長所、欠点と個性を分析しただろう。当時は唯貪愛で相手に自分の需要を満足させた。大部分の人は当時用心に観察しなかったから、問題が起こるとき決して相手の間違いしかいない。リンチェンドルジェ・リンポチェはプラトン式の愛情或いは恋愛小説の愛情を信じない。

多くの人は子供が自分の物を執着して、必ず子供に自分の話を聞かせる。子供は話しを聞かないと、苦しみ、煩悩は起こった。このような考え方がある人は無常を受けない。無常を受けないとはっきりに物事を見えない。全ての事は必ず因果関係があるから、無常を受ける人しか見えないが、執着は始めて減少できる。若し毎日仏菩薩の加護を求めて、子供が話しを聞くなら、このような心で仏を学ぶと仏を附着する外道である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは無数な布施供養を行った。多くの事は弟子達さえめったに知らない。唯周りに僅かな弟子しか分からない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは美名を完全に気にしないから。しかし、そなたの福報が十分すれば、わざと宣伝しなくても他人もそなたを助けて伝えた。名声も自然に人に知らせた。皆は分かったが、最近故宮博物院は《龍蔵経》を出版した。実はこの事は全て尊勝なる直貢チェツァン法王及びリンチェンドルジェ・リンポチェは金を出して力を尽くしたから、始めて成功できる。最近既にある者から伝われて、マスコミも既に公開に報道されたから、もう秘密ではない。だから、皆にこの事の由来を知らせた。皆はマスコミやニュースから聞いて、或いは現在故宮に保存された康煕帝時代の《龍蔵経》を見た事がある。当初唯直貢チェツァン法王は台湾の故宮にこの経典を保存した事を分かって、リンチェンドルジェ・リンポチェに指示して、如何してもデジタルカメラで取ったから。

上師には願いがあれば、弟子がその願いを満足させるべきだ。上師が既に言い出して、リンチェンドルジェ・リンポチェは命をかけてもするべきだ。最初直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが故宮を良く知ってデジタルカメラで≪龍蔵経≫を写真取るのを望むと仰った。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアで開示された:上師の願いに満足したが、全く従順しなくて、直貢チェツァン法王が仰った通りデジタルカメラで写真を取ることに従わなかった。それはこの≪龍蔵経≫は康煕の皇帝版本でとても貴重で、入って見るさも全て手袋、マスクをかける必要で、それに多くの冊がこのように撮影し難かった。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の商売の経験と多くの関係で、沢山人に頼んだ。協力してくれる者も妨碍するもいて、二つの王朝を越えてやっと完成して、八つの数字程のお金がかかった。直貢チェツァン法王の大功徳、リンチェンドルジェ・リンポチェの小功徳及び諸仏菩薩の助け、加持の下にやっと直貢チェツァン法王の願いに叶ってこの経典を世人に表れることが出来させた。これは必ず世人にとって役に立つ。≪龍蔵経≫こんないいものを出版出来て、地元の人に対して大変良くて、政治面を示すのではない。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは美名を貪欲しないくて、捨てる事が出来るので言い出さなくても良いで、外の者ならばもう出て自分の貢献を宣揚した。

ガムポパ大師は申された:「美名に執着する次第に貪愛を生じで、悪名に執着する次第に瞋恚を生まれて、賞譽に執着する次第に貪愛を引起して、誹謗に執着する次第に瞋恚が出た」自分が悪名があったと思うと恨み心が起これて、これも八風の範囲だ。供養布施を行うのが大変困難で、それは我らが幼いより大きくなったまで受け取った教育は供養布施するべきを教えなくて、本の中に唯我らが他の者に優しくして、良い人になるのを教えるのである。これは布施ではなく、善行するのは人としての本だ。仏法は皆に執着を減らすのを教える。うやうやしい心で供養すれば、お金が眞になくて供養が出来なくでも、心が正しければ、仏経の中に載せてあり、一本の線さえ供養する事が出来て、これは古代インドであった。

今回リンチェンドルジェ・リンポチェはインドのジャーランダルへ行く時、途中貧民窟を通じて、あれは本当に貧民窟で、非常にかわいそうで、毎日唯何ルビーをもうけて、生活するところは地元ごみを捨てるごみ山だ。しかし、そなた達はどうなっても供養するお金がないはずがない。食事さえが出来るなら、是非供養が出来る。だから、そなた達は線をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養しないで、自分がお金がないとも言わない。

皆は知っていて、インドの歴史の上に阿育王は仏法を全面的にアジアまで発展して広げた。何故彼が国王になったか?それは阿育王は前の一世にまだ幼い時、大勢の子供達と川の辺で遊んで、釈迦牟尼仏が通った事を見ると、とても恭しい心で、砂で一つの塔を作って釈尊に供養して、次の世代に国王になった。そなたは言ってみて、砂は値打ちがあるか?しかし、彼は丁寧な心を用いたので福報があった。あの時、彼はまだ子供で、普通は子供が遊んでいる時あまり面識のない者を相手にしないのに、阿育王は砂で作られた塔を供養して、また仏に対して恭しい心を生じた。これも彼の累世の善根のため、はじめて彼にこの世に自分の目で仏を見た福報因縁を有らせて、それに恭しい心を生まれた。

ガムポパ大師が引き続いて仰った:「このような二元対立の区別な心(もともと簡単な現象なのに、自業自得に執着して心を邪魔してさまざまな乱雑な事になった。)そのため、我らも輪廻の牢獄を逃げ出すことが出来ないばかりではなく、実際に最後にかえって絶えなく限りがない苦しい深淵に向かっているだろう。それより我らはこの執着より逆に回って来て、崖の前馬を引きとめて、道楽息子が戻って来て、もう「我」と「我所」と子の二つの罪悪の張本人と同流して汚染された。

多くの者は他人が悪い事をするのを見ると呪詛した。そなたの番になった時どうするとの話を言わないで、こんな話は即ち憎み、呪詛だ。彼は福報がまだ多い時、そなたがどう話しても、彼はやはりそのままで変わりがなく、彼の業界が既に熟するとそなたが言わなくても彼が自然に良くなくなっった。しかしそなたは彼の業力の中に入るな。

中国歴史に嘗て三武滅仏との事があった。西蔵古代にも嘗て1人とても酷い国王が仏法を破壊した。そなた達はあれらのラマ僧が法を修めてこんな事件を阻止しないわけがないだろう。是非法を修めたが、これ等は全部因縁生滅法だ。業界がまだ熟しなければ、どんなに一生懸命に変わりたくても事件がまだ存在する。業果が熟して、果報が現れると事件が自然に消えた。蓮花生大士はあの時既にこの事件を予言した。それに人達に鉄で1個東方に向かう普巴金剛の仏像を作らせて、サイズの大きさも全て記載したが、あの頃人達が従順しないのでこの事件がやはり起こった。

仏法の中に事件には正誤がなく、唯因果である。仏法が我らに教えた。どの事でも良しと悪しに分けないで、二元対立分裂な心が有らないで、知恵で見るべきだ。二元対立とは即ち是否、良悪、正誤との分別心がある。人生経験法は我らに対立を教えたが、仏を勉強した後二元対立をすこし減らす。世間の一切は全て因縁法で、自性的ではなく、業力が熟した後自然に現れたのである。二元対立の心仏を学ぶ者に対して一番あってはいけない考え方だ。しかしそれを破るが大変容易ではない。布施供養を通じてはじめて捨てる事が出来て、輪廻の牢獄より逃げる事が出来て、道楽息子が戻ってくるべきだ。

ガムポパ大師が開示された:「こんなに体得して実修する時、我らは良く観察するべきだ。この所謂「我」を見て、一体「有実」か「無実」か?一体「有常」か「無常」か?一体「有自性」か「無自性」か?こんなに如実に観察した後、我らはやっと発見した。所謂「我」は実は「無実」、「無常」、「無自性」で、それより、我らは「我」に対しての貪愛を遠く離れる事が出来て、自我に対しての貪着を取り除ければ、自然にその他の一切の「我所」の愛着を遠く離れる事が出来た。」

「我」は累世経験法則が全て蓄積した主観的な考え方で、「能」と「所」、「所」は根で、「能」は「所」の反応によって生じた能量で、目に者を見させて、お体に感覚を生まれさせて、色んな動作を出来させた。我らは全部「我」に執着したため、心がはじめて六根、即ち目根、耳根、鼻、舌、身、意六根の影響に動かれて、また悩み業力が生まれた。六根は生まれてから生まれつきで、一切の有情衆生は全部あり、六根が外界に対して感覚があって、頭に反応を起こさせる次第に行為が生じて、ついに「能」の業力が起これて、我らに我の執着を有らせて、世間に輪廻させた。

「我所」とは六根が全ての現れ、体得に生まれた作用で、これもそなたに「我」の存在を感覚させて、「我」の反応に執着させた。実は「我」と「我所」とは全部偽で、全て因縁生滅法だ。多くの者は全部経験法則中にの「我」に執着して、沢山の悩みを生じた。しかし「我」はなんだろうと良く考えてみて、例えばそなたは一つところへ行って、名前、生年月日、身分証明書の番号、パスポートの番号を全部取り除いたら、そなたは何方か誰が知るか。我らは「我」が存在と思ったのは自分の名前、生年月日、身分証、仕事など資料があったから。一山の数字と資料を取り消すとこの我の存在がなくなった。現場には1200に近く人がいて、全ての人様の名前、資料を全部取り除いたらそなたと我との違うところを分ける事が出来るか?唯外貌が同じではいないだろう。

「我」はただ数字と符号の表現である。中国人は中国語を使って、アメリカ人は英語を使って、日本人は日本語をこの「我」を代表した。「我」は無常で変動である。無常は随時に変動し、如何なる事が変動がない事がないで、無常の観念が宇宙の全ての事で発生する。未来を考えないで、嘗ての事を見る事を要して、以前からいままで、随時に変わるかどうかのでしょうか?或いは、何も変わる事がないのでしょうか?自分の仕事は変わらないと思っていて、が、給料と同僚と仕事の内容も変動する。一部の人々は「私の結婚する相手はいつも変わらない」と話した。しかし、お年を取るする事になられるのでしょうか?彼のいまの様子と当年で結婚する様子が同じでしょうか?夜にひょうと見ても驚いた。そなた達は子供が成長する事と思っていて、じつは変わるのである。子供の様子とそなたのいまの様子は何か違いがあった。一部の家庭には、子供の人数は多いならば、両親がそなたに子供の写真に見せて、そなたが見ても「これは私のでしょうか?私は何故このように醜いのでしょうか」というかもしれない。これが自分ではないと思っている。無常を知ってから執着をして始めて、無常を修める事を要して、心が捨てる事を要して、執着の心を捨てられて、相手に助けてあげられる。

凡夫は無常から有常に変わって、この事が自性あるいは無自性をはっきり見る事をしないで、境界が来る時に、とても辛い事と感じていた。仏法は分裂法により世間をみるのではなくて、却って有常と無常で、有実と無実で、自性或いは無自性で見て、これらは仏を学ぶ者が持っているはず観念である。常にこのような観察を以って、自分に観察する事から、家族、親友、全ての社会に観察する事まで、一切が無常、無実、無自性を体得する事を要して、仏法の薫陶により如実に修めて、常に仏法も以って薫陶して習って、そうすれば、偽の「我」と「我所」を切られて、このようにしたら苦しみを減られて、貪愛と瞋恨を遠く離れられる。

一切の煩悩を執着する事に対して、自我を執着する事に対して、却って無常、無実、無自性にて観察しなけばならなかった。このようにしたら、貪愛と瞋恨を遠く離れられる。貪愛と瞋恨を持っている人間は慈悲を修める事が無理で、空性を体悟する事も出来ないで、が、空性の供養布施により功徳に産生して始めて、転業して始められた。我々の生々世々には「我」の観念があるのでずっと輪廻し、「忍(我慢)」を修める事は無常、無実、無自性の観察を通して、世間の一切の好き嫌いをはっきり見通して、自分が受ける傷害を受けて、それから、「我所」を遠く離れる。「我所」が作用を産生し無い時には、自ずから「能」の業力を産生しないで、そなたは本来の清浄な自性に戻られる。

仏法が説く「忍辱」は外道が説く「他人はあなたの左顔を殴って、右顔を人に打つ」という意義が異なって、これは忍辱ではなかった。六波羅蜜の「忍辱」は一切な人間が我慢できない事を我慢し、よい事と良くない事でも我慢し、これも「捨てる」観念である。普通な人は良くない事が好きではなくて、自分に楽しませない事を捨てたいが、良い事であれば、捨てることをしたくない、捨てないなら我執があった。だから、重点は我執を捨てて、事にあったら、これが私に対して利益があって、或いは悪い事という対立の見方を思ってはいけない。これは普通と思う我慢ではなくて、多くの事が身体の自然な反応で、我慢できないで、そなたは身体に飢餓あるいは排尿の感じを我慢させなかった。

このように修めるのは一切が構わない事と思うのではなくて、ただ有情衆であれば感じがあって、菩薩は覚有情で、つまり覚悟した有情衆である。我々は完全に他人の事に反対或いは転覆させるのではなくて、却って観察してから、執着心がないで、煩悩心が減る事になった。仏法は消極的ではなくて、却って精密で観察し、真相がどこにある事をはっきりみて、「我」が実際にはない事と無常を理解しなければならない。

実修するには、「我」をしっかり観察し、全ての事をしたら注意深く観察し、偽の私を執着したら、何時に戒律を破る事になって、上師を諭す事を聞かない事になる。全ての自分の身に発生する事をよく観察し、有常或いは無常で、有実或いは無実で、自性或いは無自性を観察しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの身体が良いので、教派と直貢チェツァン法王に多くの事をするわけである。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがずっと台湾にいる事と思ってはいけなくて、ある日、リンチェンドルジェ・リンポチェが急にそなた達に見たくないなら、消えてそなた達に見つけさせない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何回目に諭した事があって、そなた達は何回目に仰ったが、同じように台湾にいると思ってはいけなかった。尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに頂く長寿祈請文の中に、「自在で諸善縁にいる」のようである。何処に善縁があったら何処に行く。リンチェンドルジェ・リンポチェが毎週に台湾にいて仏法を開示する事により、そなた達は真に聞かなければならなくて、その場ですぐにして行かなければならない。自分が病気に直してから、私がして始める事を思ってはいけない。そなた達は法会に参加する事が加護に求めるのではなくて、このように皆に対して何も助けが無かった。

「無実」、「無常」、「無自性」のをはっきり了解する過程により、我執が益々減らして、我執を減らしてから慈悲を産生して始めて、慈悲があれば空性を修める可能性があって始めて、空性を修めてから勝義菩提心を産生する可能性があって始めて、或いは、ただ空論だけである。これも三輪体空の中に諭す布施がない私である。空性の慈悲心を修めないなら衆生に助けられない。そなた達の慈悲はわざと、偽である。一部の人々はリンチェンドルジェ・リンポチェがそなたに勧めるが、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェがそなたに罵ると思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェは真に罵るならば、話し方と用語がとても厳しかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの香港式中国語は聞いてからより厳しいかもれしなかった。

ガンポバ大師は「要するに、嘗てこれらが説くのはもともと無我ですが、「我が」を妄想して執着し、だから、『我が子供』、『我が敵』、『我が財宝』などを生じる。多くの『我が』、多くの『我所』は何もないがある事になって『我』と『我所』を妄想して執着する。だから、我々も苦難の輪廻の中に漂流しなければならない。だから、我々はこの所謂「我」が夢のように、幻化を明白しなければならないはずである。同時、我々もこの『我』が実は危ない脆くてで無常である」を開示された。

ここはいわゆる夢と幻化は皆に真剣で回想させて、そなたが過去で遭った様々な好きで嫌って事で、如何に経ても、多くの事がいま存在しないのでしょうか?様々な好き、嫌な事にあって、仏法は皆にこのように無常な心構えにより直面する事を練習させた。そなたは「無実」と「無常」と「無自性」をはっきり見えると、事の発生も因縁生滅宝で、ある日に終わって、そなたがこれに執着しなかった。そなたはそれを執着しないならな、そなたが覚えないで、よいと悪い観念がなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが多くの衆生に助けるのように、多くの人々は再度リンチェンドルジェ・リンポチェに拝見してくる時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが真にこれらの人々を覚えないで、これは執着しないわけである。

一部の人々は病気に罹って、或いは子供が言う事を聞かないで、彼は過去世に多くの良くない悪業をしたので起こさせると思っていた。実は、そなたの過去世を問わないで、そなたのこの世でする悪業と造る殺業がそなたに十分で返さなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは累世で造る悪業がそなた達に比べて多くて少なくて、然し、依然として果報があった。一部の人々が作る殺業がより少ないかもしれないし、が、常に悪念を起こしたら、長期で累積したら、自分の寿命を減らせた。寿命が福報のなかにある。福報が多いならば、寿命が自ずから長くなる。

一部の人々は他人に誰の前世が王女或いは王子を教えて、が、一部の人々が自分の前世を聞く事好きである。それらの他人の前世を知る者は全て騙して、ただ仏だけでそなたの毎世を知って始める。『宝積経』に記載されるのは既に証果をした菩薩がどの程を修めたら、彼の夢の中にある徴候がはっきり現れて、彼に自分の未来の修行の方向に知らせて、これらは修行に助ける事の為にするわけである。仏法が最も重要なのは過去ではなくて、現在で、そなたはいま良く修行したら、そなたの未来に助けて影響させられる。

人生は危ないで脆くて無常で、寶吉祥仏法センターに仏法の現れる事を見えた。今年の三つの例はそなた達にみらせて、そなた達がストーリを聞かないでください。無常は全ての人々の身に発生する可能性がある。この前に、心筋梗塞で往生した弟子は前週がまた元気で、一週を経てから去った。前週、発露して懺悔する弟子であれば、そなた達は彼女が台上に息がまた足りる事を見て、彼女が火曜日で去る事を思わないで、彼女の自身でもこのような速い事も思わなかった。

ガンポバ大師は「このように了知を通して、縁対自我をしないで、縁対自我をしないので、だから、全ての『我所』を縁対をしないで、だから、お経に記載されているのは『我と我所に縁を結ばないでもらえる清浄』である」を開示された。

仏法は縁を重んじて、そなたの縁がカトリック教、キリスト教、道教を信じるかもしれないで、ただそなたが良い人が出来るならば十分で、そなたに仏に学ばせる事ではない。だから、仏法は他の宗教のように対立する事が有り得ないで、そなたに必ず仏を信じさせる事がない。そなたはそなたの縁があって、しかし、仏教徒なのに易くて苛められない。仏法を言ったら、リンチェンドルジェ・リンポチェは易くて苛められない。

嘗て、有る弟子は彼の子供を抱いて来て、リンチェンドルジェ・リンポチェに名前を直される事に頼んで、本来がいいことけれども、この弟子がいらいらするので怒った。彼は多くの理由があったかもしれないが、これにより良くない縁起をあってしまった。修行者が名前を付ける事を言わないで、年長者に子供に名前を取らせる事に求めても、子供への祝福で、然し、彼の態度が間違うため、良くない縁起を起こってしまった。チベット仏教は縁起を重んじている。この弟子の家の中に富がとても多くて、自分の家族が一番大切で、小さい頃から他人が自分に聞こえられる事と思っていて、自分が修行者に求める事も面子をくれる事と思っていて、まだわざと人を困らせなければならないか?お金持ちとしてもどのようですか?リンチェンドルジェ・リンポチェは多くのお金持ちを見た事があった。かつてある台湾のとても有名な企業家は彼の弟が癌に罹った時に、リンチェンドルジェ・リンポチェに頼んで助けてくれる事を求めた事もあって、しかし、恭敬心が無かったので、リンチェンドルジェ・リンポチェが縁が無いで助けられなかった。

この時、ある赤ん坊はずっと泣いていて、リンチェンドルジェ・リンポチェは赤ん坊の母に彼を連れて後のお手洗いまでに行かせて、母子二人がお手洗いへ着いた前に、赤ん坊が泣く事が止めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「普通、子供が泣いても、リンチェンドルジェ・リンポチェは構わないと思っていて、しかし、この母が子供を世話する事が分からないので、彼たちの母子に暫く後に行かせた。子供はお手洗いが着いてからすぐに泣かなかった」と開示した。やはり、リンチェンドルジェ・リンポチェは仰ると子供を助けて、皆に仏法の殊勝を再度証明させた。

我々は「我」と「我所」の観念を減らして、甚だしきに至ってはそれに作用を発生させない。そなた達は『地蔵経』と記載されるている「凡夫が心を動かし思いを起こせば、其れは皆業であり、罪である」を覚えなければならない。これは我々の存在、一切のする如何なる事、全て業力の産生がある。仏法の修行は外在を修める事ではなくて、内観を修めて、内在の間違う身、口、意の事を改正する。「我」と「我所」に対して、両者に破らせられないでも、この方向に向かなければならない。毎回、言った前に、もうちょっと考えなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めて死者に助けられる事は「我」が既に無いわけで、リンチェンドルジェ・リンポチェは「私は修法する」という観念もなくて、甚だしきに至っては、「亡者に助ける」という観念もなかった。これは死者とリンチェンドルジェ・リンポチェの法性が同じで、リンチェンドルジェ・リンポチェは「同体大悲」を修め得て、衆生相を既に破れた。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、「我」と「衆生」の差別がないで、衆生が苦しみを見ると、自分が彼と一緒に苦しんでいる。こちらは私の弟子ので、少し少ない助けて、自分の息子なので、多くて助ける事をしなかった。却って、逆になって、自分の息子を気にしなかった。行者は空性の慈悲を修められないなら、死者に助ける事が出来なかった。

ガンポバ大師は「このようにのため、だから、我々は全ての我執を捨てるべきで、何も利益が無い輪廻を捨てるため、我執の悪魔と一緒に悪事をしないで実修を修めるはずである」と開示された。「(『我と我所を縁に結ばないでもらえる清浄』で言わさせる)清浄」は涅槃の法ので、(だから、清浄をもらえて、つまり涅槃をもらえる)、だから、我々は上文が言うようにして、水と火を布施するという小さい事を始めてして、身を布施される事を学ぶまで、その上、全ての愛情を捨てられて、全ての貪りを切られて、全ての錯誤を認識して捨てられて、また、一体何処に間違いを存在する事をよく観察し、一旦発見したら、容赦しないでこれを全て放れるべきである。

なかった。本当の身体を布施する事のは空性の菩薩を証されて、釈迦牟尼仏のように肉を切って鷹に餌をやる事が出来た事があって、切った肉が自ら生じて、目が自ら生じて、しかし、これは八地菩薩だけで遣り遂げる身体を布施する観念で、そなた達の普通な人間が遣り遂げられなかった。仏経には遺体と骨髄を寄付する事を言わせた事がないで、もしそれは衆生にたいして利益があったら、仏が早めに諭させた。だから、骨髄を寄付するのはそなた達がくれぐれもしてはいけなくて、また、骨髄を寄付してから、寄贈者の身体が段々に悪くなって、受贈者に対して大きな助けも無かった。

在席の医者弟子は確かにこのように表示し、また下記のように説明した。骨髄に寄贈する者は必ず一定の年齢以上の人がして初めた。これはより若者が作る骨髄が新鮮で健康で、若者が骨髄をまた増える事が表して、骨髄に寄贈する事を適さなかった。年齢がより上の人は造る骨髄が実は身体に特に役に立たないので、西方医学がこのような人が骨髄を抜いても構わないと思っている。しかし、実は、その意味は一旦骨髄を抜いてから、実は自分の身体が再生して補充する事が出来ないと表した。ある者はある腎臓を寄付しだ後に、暫く経てから、残りの腎臓の効用も下げる事を発見し、このような現像が益々現れるのである。その上、寄贈を受ける病人は最初寿命を延長しようと思っていて、しかし、身体が排斥抵抗の作用があるので、段々状況を起してしまって、腎臓を寄贈する者と受贈者は両方とも人工透析を受けなければならないという例もあった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示された。密法を修める観念により、器官を寄付するのは励まさなかった。骨髄は我々の精と地を代表し、その上、骨髄が再生して補充する事が出来ないので、寄贈者の身体が悪くなって、これは彼が以降に仏法を修行する事に対してよくない影響させる。仏法の角度により、彼に因果に了解させないならば、ただ病者が自分の身体に愛する事を増えて、受贈者に希望を持たせてから、絶えずに失望させた。今回の1組になる事が出来ないなら、再度他のを試みて、持っている希望が大きいなら、失望がもっと大きくなって、最後、何も方法を試みる事が出来ないなら、彼がいかにこの打撃を受けるのでしょうか?ましてそなたはいかに1組になる事をしても、受贈者に対して役に立つ事とは限らない。

実修は座禅を組んで、読経して、仏像に礼拝するのではなくて、実際で上師の教導を聞いて自分の身口意の過ちを改正する事のである。言う事を聞く者であれば、事が変わられて、なぜならば、世間法が業力で、出世法がするのは全て生死を解脱し、出世法を実修すれば、転業することができて、功徳があったら、世間法の事が変わられる。

自分の過ちを捨てるのは実はある布施で、自分が正しい事を執着するので、自分の過ちを認識をして過ちを改正する事をしたくないで、だから、ガンポバ大師は我々に自分の間違いが何処にある事をよく観察して承認して、その上、過ちを容赦しないで全て消える事を教えてくれた。

仏法は正しいと間違いがないで、ただ因果があって、懺悔も供養布施である。寶吉祥には、他の道場に比べて最も大きな違うのが、多くの生き生きとしている例があってそなた達に見させて、だから、寶吉祥仏法センターで懺悔法門から教えて、此処に理論を説くのではなくて、却って、仏法を直接に現せた。発露して懺悔しなければならなくて、心の中に黙々として思うだけで十分ではなくて、家に隠して仏像に懺悔する事が役に立たないで、仏菩薩に対して言い出しないなら含まらない。上師にお伺いを立てて、その上、上師が発露懺悔する事機会をくれる事を同意し、もらえてから、皆の前に発露して懺悔する事が出来て始めて、自分の過ちを何も隠さないで言い出す事を要する。皆が知る通り、前に立つ事が面子を気にしないで、自分の過ちを言い出して、これも我執を破る事を含める。このような懺悔は力があって始めて、功徳が起こして始める。

何ヶ月前に脳が出血して脳卒中になった弟子は便器を抱いて上師になって懺悔したけれども、面子を心配しないで心から上師に懺悔したので、助けを貰えられて命を拾って貰えた。懺悔も供養布施で、また、七支供養の一つで、懺悔してから功徳を転じて始めて、業を転じて始めて、上師の諭しを聞いたら功徳があって始める。「懺」とは自分がする悪業の果報を承認して受けて、心から懺悔する事が遣り遂げないなら、業力が転じる事が出来ないで、改正しないなら役に立たないで、だから、「悔」は改正する。法会を主催する前に、発露して懺悔した癌に罹った弟子は社長さんに感謝し、癌に罹っても彼女に勤めさせて、が、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の病痛している時に彼女に本当の助けを与える事を何で感謝する事が分からないのでしょうか?

全ての人々は自分の貪執があるので、自分が正しくて、全て相手の間違うと思っていた。全ての家庭はこのなりの家の掟があるのように、皆の掟が全然異なった。姑と嫁の問題は嫁がこの家に来る時に、姑は嫁が彼女の家の掟によりする事を望んでいて、が、嫁は彼女の嘗て家の方式に慣れて、だから、姑と嫁の問題に発生してしまった。

ガンポバ大師は「(これらの執着と過ち)何時に再度来る事が分からないので、また、災害が身につけて、死ぬ事に来る前に、再び悔やんで文句を言ったら、無知で可笑しい良くない行為で、だから、ただちにから、我々はすぐに精進的に実際に実修をしなければならない」を開示された。

仏を学ぶ事はわざとするのではなくて、自然的にするのである。例えば、バスの上に、飛行機の上にある者が常にわざと座禅を組んで真言を唱えて、特にチベットへ向く飛行機に、胡坐をして真言を唱える者が最も多かった。自分が仏を学ぶ者で他人と異なる事はわざと表現してはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェで、しかし、飛行機の上に、同じように寝た。仏を学ぶ事は心から修めて変化して、外在を学ぶ事のではなかった。

仏法は内省する事を重んじる。そなたは無常、無実、無自性の観念を知ってから、如何なる事が無常で行き来る事を思うのではなくて、そなたに主観的な考えがないのではなかった。我執を破るのは主観性を破るのではなくて、かえって、如何なる事に対して、有常を執着する事をしないで、「私」が閉関する事を執着をすれば、閉関をしても役に立たなかった。そなたは毎日にするはず事も同じようにして、例えば、そなたがお腹が空くと食事し、疲れると寝みたい、これらは身体の需要で、寝て食事する事も同じようにしている。如何なる事でも構わなくて、どのみち無常である事お思ってはいけなかった。そなたは「私」の執着が持たない事が出来るなら、間違いをしない事が出来た。そなたは再び間違う事をしない事が出来るなら、生活が必ず幸せになる。

ある人は皈依しても依然として肉食をしてタバコを吸って、明らかに上師がそなたにさせないことを教えても、どうしてもして、上師がそなたに教える事が却ってしたくなかった。知らなければならなくて、過ちをしたら、戒律を犯したら、懺悔して改正すると大丈夫になって、然し、上師が諭す話がそなたが聞かないなら、問題が厳重になった。一部の人々は自分が仕方がないで肉食をしてタバコを吸うことをしなければならないと思っていて、これは無常の観念がなかった。これらの事が「常」を執着している。リンチェンドルジェ・リンポチェは11月にインドに向いて閉関していた時に、毎食麵を食べていた。2007年、ラチ雪山へ向いて3ヶ月の閉関をしていた時に、毎日、お湯にてラーメンを煮て、上に2枚の野菜だけで浮かんでいる。そなた達であれば、絶対に食べられない。

いわゆる縁がある者は皈依があって、法会に参加して、菜食をする者であれば、縁があるとは言えなかった。出家しても縁がある事とは言えなかった。仏が説く方法はそなたが自分の行為を確実に実際でして改正する事をしないならば、縁が無いのである。だから、自分がまだ多くの仏経が研究する事と思ってはいけなくて、あるいは、自分があるお経がとても了解する事と思ってはいけなくて、或いは自分が何も分からなくて、それから、実修する事をしたくなかった。

精進とはなんでしょうか?精進とは毎日に真言を唱えて拝懺する事を多くてする事のではなくて、或いは少ないするのではなかった。精進は集中して、一心不乱である事をしている。仏経には説かせないのはリンチェンドルジェ・リンポチェが説かない。「私」により聞いたら、遣り遂げる事が出来なくて、自分が何も間違いがない事を思ってはいけなくて、自分に寛恕しずぎるけれども、他人に許さないで、仏法が逆にして、自分に厳しくなって、自分の一切の意識に対してよく観察し、或いは執着煩悩が再度来る。精進を要して、つまり集中して、着実な実修をして行く。

我執を破る観念を聞く事が易くて、然し、累世に「私」の観念に対してとても堅固で、我々にする予定場合にとても困難にならせて、だから、訓練しなければならなくて、薫陶の方式により、毎日に少しの時間にてして行く。事件を発生する直ちに、そなたはすぐに判断する事が出来ないかもしれないで、しかし、夜に帰宅した後、時間を利用して、その日に発生する事が一つ一つを検討させている。このような修行方式は最初に本当に簡単ではなくて、上手いするかどうかを問わないで、どのぐらい時間にかかることも問わない。仏経には、上手いするかどうかを説いた事がないで、ただ絶えずにしている事を諭した。そなたは随時に観察する事が遣り遂げないで、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に一日を経ると身口意を少なくとも反省する事を教えて始めた。自分が改正する事が出来ない事は言ってはいけなくて、自分が改正する事が出来ない事を言う者は懺悔心がないで、自分が間違いがある事と思わないで、このような人間がいかに衆生に感謝するか?如何に慈悲心を養成する事が出来るのでしょうか?

自分が悟りを開く事を求める事も間違った。悟りを開く事を求める事は自分の修行果位を上げさせるなら、このような考え方も間違った。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがどのように素晴らしさが真に分からなくて、ただ直貢チェツァン法王と諸仏菩薩が知っている。火曜日に往生した弟子は本来癌に罹ったので手術をしなければならなくて、が、彼女に手術を行わせないで、すぐに死なせて、これは素晴らしさかどうか?そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に如何に配慮する事が真にしらないで、そなたがもうすぐ死んだら、リンチェンドルジェ・リンポチェがどのぐらいよい事が知って始めた。だから、病気に罹ったので、リンチェンドルジェ・リンポチェに見つける事も良くなくて、すぐに死ぬかもしれない。

最後、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度心を込めて強調した。注意しなければならなくて、ガンポバ大師は此処に皆に教えてくれる事がすぐに精進な実際で実修させた。仏を学ぶ事は待つ事が出来なくて、いまを見て、過去を見ないで、集中を要して、その場ですぐにして行く。この以外には、他の深く法が無かった。

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2011 年 12 月 15 日 更新