尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2011年10月31日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な施身法法会を主催された。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。今日多くの人は初めて施身法に参加するから、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度皆に今日修める法を説明する。今日修める法はチベット仏教の八大成就法の一つであり、成就の意味は確実にそなたに生死に解脱するように助けることができて、もし根器が良いならば、甚だしきに至ってはこの世に即身で成仏できる。一部の人は「成仏」に論争があると思っていて、今日時間の制限で説明しない。施身法は顕教と密法を含んで、顕教は仏法の理論と基礎である。チベット仏教の中でただ密法しかないと思わないでください、先に顕教を学ばないと密法を学ぶことができなくて、行者は少なくとも顕教を10~12年も学ばなければならなくて、上師はようやく密法を伝授することを考慮する。

施身法は1200年前にチベットのある在家且つ既婚する女ヨガ者が《大般若経》によって創られた。釈迦牟尼仏は証道した後、まずは四聖諦法と十二因縁法を開示して、その後嘗て「般若」を開示して長期に12年も続いたことがある。般若はサンスクリットであり、とても深い意味を含まれていて、普通な人は思った「知恵」だけではない。唐玄奘はお経を訳す時、3種類の情況が訳さない。その1種の情況は1つの語がたくさんの意味がある時訳さない。もし般若はただ智慧を指すならば、唐玄奘は直接に智慧と翻訳して、今ならやっと翻訳できるのではないから。《大般若経》が四万頌、八万頌、十万頌があり、すべての頌は般若の意味を開示しているので、般若は法身の境界に入るので、空性である。この女ヨガ者は《大般若経》の精華によって施身法を創ったのである。

施身法はチベット語で「断つ」の意味であり、私達に輪廻させたすべての煩悩を断つ。そなた達は仏菩薩がそなた達の両親、配偶者、子女を手伝うことを望んで、これはすべて1種の執着である。執着があると煩悩がある。ある人は子供の夫婦の縁のためにリンチェンドルジェ・リンポチェに求めにきた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の子女が結婚するかどうかについて少しも気にかけないで、結婚してもいい、結婚しなくても構わない、すべては子女の自分の縁であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に生み育てる責任を尽くしたから、その他のはもう気に留めなかった。仏を学ぶのはそなた達の欲求を満足させるのではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは在家であるから、そなた達の在家の生活が、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて経験したことがあって、仕事をして子供がいることを含んで、癌にも罹ったことがあったが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは依然として修め得たから、これらの事をそなたの仏を学ぶことができない理由にしないでください。一部の者がリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受け後、礼儀上でリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しにくると思っているが。リンチェンドルジェ・リンポチェは相手に教えて、別にお礼を言いにくる必要がなくて、本当に恩に着る者は仏を学ぶ者である。しかし多くの人は仏を学ぶのが菜食精進料理を食べなければならないことをきいて、すぐ学ばなくなってしまった。そなた達は菜食精進料理を食べて多くの悪事をしたから、やっと菜食精進料理を食べなければならないと思わないでください。

そなた達はすべて因果を信じないで、そなた達はただ殺人、窃盗が捕まれて、刑罰されるこのような大事だけを信じるが、しかし、その他の事はそなた達は因果があることを信じない。そなた達はよく事が順調な時、自分が幸運だと感じる;事が順調ではない時、自分が運が悪くてようやくあうと感じる。このような考えがある者は因果を信じないで、本当に仏を学ぶ者は自分の身に発生した事がすべて因果であり、すべては自分が作ったのであり、その故いかなる事をする前に全部とても慎重にして、絶対に再びいかなる悪をしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続いて開示して、皆は因果を深く信じて、もし会社に勤めてサボると、窃盗の罪を犯したので、ある人がそなたの給料を払うため、そなたはサボって仕事をしないで、その果報は銭がなくなり、さもなくば盗んでいかれる。

今日施身法法会に参加しにきた人は、多くがすべて家の中のある人が往生して、或いは重病に罹ったから。そなた達はよく自分の父母が悪い事をしたことがないと思っていて、父は一生家のために払って、母のいかなる事についてすべて我慢して、人を殺していなかったのに、どうしてよくない事が発生するか?といつも思っている。これは世間の標準で言うので、しかしお経は言及される善男子、善女人は、ちょっとボランティアをして、基金会にいくつかお金を寄付したら、善男子、善女人となるのではない。善男子、善女人の条件を合うため少なくとも十善法をやり遂げる。私達はこの1世に人身を得ることができて、私達が前生十善法をやり遂げていたことがあるため。たとえそなたは亡者のために済度しても、もし死亡者はこの世仏を学んでいなければ、来世には人に生まれることはできない。

今日初めて法会に参加する者は大勢いるため、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度慈悲に皆に十善法の内容を開示する。十善法の第一は不殺生である。そなた達は皆ただ人を殺すのがやっと深刻な罪だと思っているが、お経に説かれたことがあり、衆生の肉を食べではいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼い時からよく海鮮を食べることが好きで、おいしくないのを食べない、だから45歳の時皮膚癌に罹った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が癌に罹ったのを知っている後に、完全にこれが自分の果報であることを受けて、一度もいかなる医療を受けたことがなくて、今癌はすでに治れた。そなた達が癌に遭った後に、よくすべてせっかちに手術を行って切除するので、或いは化学療法を始めて、毒薬を自分の体の中に注射した。

第には不窃盗である。窃盗の範囲は会社のものを家に持って帰って使ったら、仕事勤務の時間がサボることを含んで、あるいは海賊版の、本物に見せかけるものを買ったら、ネットで権利を取得していない資料などをダウンロードすることも含む。第三は不邪淫である。邪淫とは別に一夫一妻制に背くことを指しなくて、古代インドには一夫多妻制であり、東方社会もそうあでり、一夫一妻は西方社会の制度であり、ただ今私達は大部分が西洋文化の影響を受ける。邪淫は、妻ではない外の人とセックス関係を発生して、主に未成年の者が監護者の同意を経ていない下に男女関係があって、これが邪淫を犯したのである。それ以外に、人妻とセックス関係を発生するのも邪淫である。邪淫の範囲はとても広くて、今日先に一部分を開示して、そなた達はただ一回の法会に来て全部の内容を知っていたくて、それはあり得なくて、更に了解して欲しいならば、それなら皈依する。

第四善は不悪口である。悪口は必ず下品な言葉を言うとは限らない。たとえとても上品な言葉を使って、発言の最後の目的は他人に不幸を望むなら、全て悪口だ。そなた達は常にある口癖があって、例えば台湾語で人を叱る言葉、「夭寿」、「短命鬼」など、子供を叱る事も含めて全て悪口だ。人に短命を叱れば、相手は本当に短命ではないと思わない。此れは全て誤解だ。悪口を犯した人は口腔の中に常に病気に罹る。悪口もある人は善業を行ったのに、そなたは側に阻止して、悪い言葉を話すや他人を阻止して仏を学ばせなく、法会に参加する事など含めて、全て悪口だ。自分は子女が結婚して、部屋を買った後、時間があって仏を学べるなど言われても、実はこれも悪口だ。

第五善は不両舌である。不両舌とは善悪を唆しはいけない。多くの女は女性の友人や親戚の伴侶は他人と一緒にいる事を見ると、必ず彼女に伝えなければ成らないと感じた。そして彼女と共に彼を叱った。自分の味方だから、必ず彼女を助けて、このようにすれば、彼女に役に立つだと思った。実は若しそなたは言わないと、事情は時間に経って過ごしたかもしれない。現在テレビ局は視聴率のため、多くの女を頼んでテレビに自分の伴侶を批判した。そなたはこの番組を見ると、従って叱っても悪口だ。また、そなた達は男だけ悪い人だと思わない。悪い女もいるから。唯テレビの番組は家で夜にテレビを見る人は殆ど女だと考え、視聴率のために仕方がなく悪い男を演じた。そなた達は見ながら叱っていないほうがいい。自分をドラマの主役になるように叱った。此れは自分に同じな果報の因を撒いた。そなた達は政治家の行為を認めないと批判すれば、此れも悪口だ。ある地域にどのような統治者が存在したが、そなた達は投票したかどうかを問わず、実は全て皆の共業である。

第六善は不妄語だ。不妄語とは人を騙さない事だけではなく、主なのは修行者は自分が既に修めた。果位を認証されない前、人に自分は既にある境界に達した事を言った。第七善は不綺語である。修行者にとって、仏法に関わらない事を話して、衆生を助けない事を話せば、全て綺語である。一般人にとって、若し下ネタジョークを話して、皆に喜ばせても綺語である。綺語の範囲もある事を話して、他人に愛される事を唆して、他人を誘惑する事も含まれた。此れはそなた達は他人に愛を表せない、「愛している」とは言えない事ではない。そなた達は好きな人を見て、常に相手を唆して、誘惑する事を話せば全ては綺語である。

第八善は不貪である。そなた達は自分の家族のため言いと望むと、実は一つの貪である。貪欲が有れば、執着がある。そなた達に輪廻に堕ちさせる。我々は何故輪廻の中にいるだろう。それは煩悩、執着があるから、仏を学ぶ人は徐々に自分の執着は減少する事を発見して、一切は全て因果である事を分かった。往生する前にうまく行ける。第九善は不瞋である。瞋とは怒る事だけではなく、それは唯一部分である。瞋恚は最も主なのは憎みである。そなたはある人が好きではないと、様々の原因を遠慮して、相手を攻撃できないが、心の中にそなたはいつか事故に遭うかを待っているのを考えると、此れは憎みである。第十善は不痴である。痴とは因果を信じない。

今日1500人余り施身法法会に参加した。若しリンチェンドルジェ・リンポチェはある者に行かせないと、1500人を超える。仏菩薩を利用して、仏を学びたくない人はリンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に参加させない。現在道場に来た人は益々多くなって、リンチェンドルジェ・リンポチェも弟子を選別した。間違いを行ったのはそなた達に別の道場に行かせる。他の道場は選別しないから、そなた達が行くと、彼達はとても喜んでいる。そなた達は今日法会に参加できるのは昔にそなた達も嘗て仏を学ぶ事を現した。此処の道場は空間が余り大きくないが、皆も今日少し我慢して、なぜならそなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと縁がある。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子として、尚更に我慢すべきだ。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは年寄ったから、苦労に衆生を済度したのはリンチェンドルジェ・リンポチェは地蔵菩薩と同じな願力を持つから。地蔵菩薩の願力は「地獄を空かないと成仏しない」であり、リンチェンドルジェ・リンポチェの願力は「衆生は成仏しないと、私は成仏しない」である。

先週の土曜日(10月29日)ある二人の兄弟はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分の往生した父を済度する事を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に聞いて菜食できるかどうか。二人の兄弟は「できますが、唯三年の菜食だけしたいです。」と返事した。此れにより、二人の兄弟は仏法に対して、全く信心がない。心の中に完全に仏法及び仏菩薩を敬わない。唯人は死ねれば、済度が必要だと考えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に亡者を助けて済度する事を全く信じない。一般人のように形式上に法師鈴を鳴らして、法を修めて亡者を済度する。そなた達は菜食出来ないと、法会に参加しない。法会に参加した後、肉を食べ続けない。若し肉を食べて続ける人は今後来ないでください。

昨日ある乳癌に罹った皈依女弟子は夫を連れて、一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。彼女の夫は跪いた後言った。「リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲を願って、彼の妻にまた四年や五年に生かせて、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って、もっと数年間に仏を学べる。」このような求めれば、仏菩薩を恐喝した。実は彼は妻が医師の治療を受けて欲しいが、上師として弟子の夫婦喧嘩を見たくないから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女弟子に夫の話を聞いて、若し夫は彼女に手術を受けたいなら、手術を受ける。彼女に化学治療を受けたいなら、化学治療を受ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を信じない人に機会があって、仏を誹謗する事を望まない。また仏を学んで家族と争い事も望まない。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の夫に開示された。そなたは仏菩薩を求めて、妻に四年や五年に生かせる。そうすると、公平して同じに医師に保証を求めて、妻にもっと四年や五年くらい生かせる。医師はそなた達に保証を与えるかどうかを見なさい。そなた達は癌に罹ると手術を受けて、化学治療を受けて、多くの治療を受けた。しかし、医師に把握があるかどうかを聞くと、医師も全く把握できないが、唯皆はこのようにするからと言われた。またそなた達も医師に要求して保証する事を恐れるが、却って上師に保証を与える事を要求した。兎に角そなた達は唯医学院の証書だけ信じる。実はリンチェンドルジェ・リンポチェも証書もあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェの証書は尊勝なる直貢チェツァン法王に認証された。現場はすぐ雷のような拍手の音が鳴った。

そなた達は家族を勧めて、余り仏法を迷信しないが、この言い方はとても可笑しい。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に治療を受けさせないと要求しないが、そうすると、すぐ報道されて、迷信があるから医療時機を遅れるなどを記載される。だから、現在最も大変な仕事はリンポチェであり、非常に自分の言行を慎重しなければならない。衆生に仏を誹謗する悪い因を撒かせる事を深く恐れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に衆生が一人でも地獄に堕ちる事を望まない。

嘗てある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた時、リンチェンドルジェ・リンポチェはあの信者の家に1本古琴があるのを見た。彼女が古琴を買った後お体には状況が有った事を始めた。古琴の上に本来主人の亡霊をつけたから。この主人の心の中にこの琴を気にかけたので、琴の上に滞在して離れなかった。だから、仏経には説いた、家の中に往生した者があれば、彼の生前一番好きなものを供養に持って行くべきだ。亡者の名残惜しい心を破りながら亡者のため福報を蓄積する。しかし、現在の者が全部出来ない、また亡者が残ったのは全部後代にやる遺産と思った。亡者が残った黄金を見ると自分に残ってくれると思って、黄金の値段が上がると売り出した。亡者が残ったハウスも現金に変えた。仏経を遍くひっくり返って、「遺産」との言い方が全く言い及んだことがない。そなた達は亡者の代わりに、残ったお金を社会局に寄付して、社会局を経由して、多くの善事をして、亡者に布施するチャンスも有らせた。

尊いリンチェンドルジェ・リンポチェも現場の信者に勧めた。寄付すれば、基金会にせずに、内政部社会局にして、基金会に寄付したお金の20%だけは公益をして、その他のお金は基金会の費用を対処した。政府機関の者は本来給料があったので、全部のお金は助けの必要者を助けに使って、彼らはむやみするのがしない、そなた達は政府を信じるべきだ。政府さえも信じなければ、さっぱりして、台湾に住まなくても良いだろう!政府のスタッフが汚職をすれば、そなたが彼を控訴しても良い。但し、基金会は弊害があっても相手が大団体で、人が多勢を見て、そなた達もあえて基金会を告訴することが出来なくなった。

一般的に亡者は生前かつて大悪をしたことがあれば、息が絶えた後すぐ三悪道に堕ちて、生前が大善をしたことがあれば、すぐ天に昇った。しかし大部分の者は生前に大悪或いは大善をしないので、息を断った後また49日間の時間があって、その後、業力によって投胎する。この間に亡者の家族が修行者を見つけて亡者を助ければ、亡者が三悪道に堕ちない事をはじめてさせ出来た。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に随意に亡者を動かないと仰った、それは亡者がそれにより瞋念が引き起こって地獄に堕ちるから。

多くの者は親友が往生した後、亡者のため済度する必要と全部分かったが、済度とはそなた達が全て思ったのではない:往生かけ布団を被って、いくら紙蓮花を折って出来るもんではない。またある者は念仏して亡者を済度する。念仏するのが確かに済度が出来、但し念仏する修行者が必ず一心に乱れないように念仏して、供養を貪欲せずに、それに自身が戒を守って、亡者を済度することがはじめて出来た。ある者はいくらの出家衆を招いて念仏して、自分がかえって側でマージャンをして、こんなにも役に立たない。

仏経に載せてあり、亡者のため広く仏事をするのではない。「広」とは至るところに仏事をするのではなく、多くするのでもない。そなた達は今日済度法会に参加しに来て、それは家の中にある者が往生した。これは一件ただそなたに起こることではなく、誰でも父母親があって、仏法によって、どの衆生でも嘗て我らの累世の父母親で、我らが輪廻の中に大変長い時間をしたから。それで法会に参加した時、只自分の家族が助けを得ると思わなくて、一切の衆生が全て仏法の助けがもらえるように望むべきだ。こんな心は即ち広大な心だ。そなたは広大な心で亡者の代表として法会に参加すれば、亡者に福報を蓄積させた。亡者が福報があってから仏法の助けを受ける事がはじめて出来た。

これ以外、「広」とも修行者の心が広大するか、亡者を助ける能力が十分あったかとの表われだ。ある寺院は信者にお金が寄付すれば結構で、来なくても構わないと教えた。しかし寶吉祥仏法センターでは、本人は必ず来て、お金があるかどうか関係ない、お金がなくても構わないが必ず来ると要求する。それはどの事柄でも因縁により、そなたの参与するため、亡者が助けを得る因縁を始めてあった。

修法する過程の中に、そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェが主催を見てリンチェンドルジェ・リンポチェが何をしているか了解したくないで、或いはリンチェンドルジェ・リンポチェが何を唱えているか知りたくないで、そなた達は知るわけがない。知るならば即ちリンチェンドルジェ・リンポチェの上師直貢チェツァン法王だ。後程全ての修法は全部リンチェンドルジェ・リンポチェがして、そなた達はする必要がない。そなた達は一体霊験かどうかも考えないで仏菩薩が霊験しないわけがない、霊験かどうかそなた達参加者の考え方により。中国人が文字を作るのはとても面白かった。霊(靈)は三つの口があり、即ち修法者、法会に参加する者および済度された者である。そなた達は只恭敬によって、衆生の代表として法会に参加すれば結構だ。恭敬こそ福報が生じた。1人亡者が済度を得るかどうか亡者の生前の因縁、福報と関係があり、しかし亡くなった後、亡者の家族も彼に助けを与える事が出来る。恭敬心によて、亡者の代表として法会に参加するのも亡者に福報を蓄積する事が出来させた。

多くの者は自分が癌にかかったことを知った後、終日心配で恐れて、自分が間もなく亡くなると感じだ。実はそなたが癌にかかってもなくても、最後に全部同じに死ぬ事になる。癌症は一番怖くない病気で、心筋梗塞及び意外に事故で横死より、この二つ状況はすぐ死ぬになり、但し癌症はそなたにすぐ死なせない。しかし癌症にかかってリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた者は誰でも癌に大変心配した。多くの者は癌細胞に対抗するため、大量な精神、体力とお金を注いだ。実は癌細胞は只お体の細胞に小さい部分を占めて、そなた達他の大部分の良い細胞を注意しなくて、只この小部分良くない細胞を気にして、それも現在医学に影響されたから。リンチェンドルジェ・リンポチェも嘗て皮膚癌にかかったことがあって、手術をせずに、薬を飲まずに現在全て良くなった。これはリンチェンドルジェ・リンポチェは全ての精力を仏法の学び、衆生に利益するのに使った。自然にお体の中にの良い細胞が多くに変わって、良い細胞が増えると悪い細胞が生存する空間がなくなった。

ある者は法会に参加して、家族を済度して、冤親債主を済度して、下ろされた胎児を済度した後、大丈夫で一切は全部大変良くになった。そうではなく、これ等冤親債主が済度されたが、そなたが彼らに害をして全て引き起こった悪果がまだ存在して、果報がやはりいている。施身法は意外に往生した者に対して特に役にたって、病気にかかった者に対しても役にたつ。

リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学ぶのはそなた達のように長い間に一回で来るのではなくて、顕教を学んでいた時から、法会があったら絶対に最初から最後まで全部に参加し、「梁皇宝懺」と「水陸大法会」でも決して欠席した事が無かった。そなた達から見て既にとても精進程度で、そなた達の考えによるなら、用事がないはずで、しかし、その後、リンチェンドルジェ・リンポチェが依然として皮膚癌に罹った。済度してから何も用事がないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは36歳から仏を学んで、45歳に至ると皮膚癌に罹らなかった。

寶吉祥仏法センターの場所は大きくなくて、他の基金会のように人々がお金と土地を寄付する事が無くて、だから、皆が一寸我慢して、法会の中に足を抱いてあるいは足を上げては行けなかった。そなた達は肉食をしたのゆえに、毒素が血液の中にあって、だから、足がだるくて痛くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て信衆とした事があって、最初胡坐をかく時に同じようにだるくて痛くなって、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェがただ法会に座禅を組んでから、動かないで、リンチェンドルジェ・リンポチェが「人々が法会に参加して座禅を組むので足が落ちる」という事を聞いた事が無かった。もし真にこのように足が落ちるなら、これも自分の事で、仏法と関係が無かった。そなた達は足がだるくて痛いと感じる時に、これを気にしないで、痛みの故が肉食をして血気が不順調で、血が流れて行かないで、実は最も痛むほどに至ったら、経てから痛まなかった。実は座禅を組む時の痛みはそなた達に入定にする事を助けて、そなたが一心に足の痛みを注意する時に、完全なほかの考えが無くて、心を一つの事に一心して、如何なる雑念が無いで、これは定である。

法本に記載された事があって、施身法を修める時に、修法者の身に如何なる自分に保護する聖者をつけてはならなくて、護輪と仏像でもつけなくて、そして、密法の観想により、自分の身体を甘露になって、本尊と諸仏菩薩に供養し、一切な衆生に布施した。鬼道の衆生が見るのは彼らを生前にもっとも好きな食べ物で、食べてから彼たちに満足させて、そして、仏法を以って衆生に受ける事を勧めて、衆生が済度を得られて始めた。そなた達は鬼衆がそなたに食べる事を心配する事が要らなくて、そなた達の肉が臭くて、骨髄が栄養が無くて、そなた達の血を飲んだら中毒する事が出来で、鬼衆が食べるのがリンチェンドルジェ・リンポチェから変わる甘露である。

一部の顕教の人々は密宗が骨で法器をする事が好きだと思っていて、これに対してたくさんの誤解があった。だから、ある者は密宗が鬼を祀る事と言って、リンチェンドルジェ・リンポチェが当年で顕教を学んでいた時に、顕教の上師もこのような考えがあった。しかし、これは彼らを密法を学んだ事が無いで、だから、本当の状況が分からなかった。実は、密宗は鬼衆に助けて済度し、如何に彼らを礼拝するのでしょうか?密宗はたくさんの骨を以って法器を使う理由が下記のである。一つは釈迦牟尼仏の時代に仏が弟子達に出離心を生じさせて、身体が偽物を知らせて、全て業力にて組み合わせて、「白骨観」の修行法門を教えた事があった。二つは骨を使うと因縁の生滅を代表し、縁を起こしたら縁も消えられた。三つは、そなた達が骨を見たら、自ずからある程度悲しんで悲嘆して、もし骨を見ると何も感じがないならば、人間ではなかった。象は同類の骨を見たら、全て止めて哀悼して離れたくない、ました人間とするのでしょうか?

施身法を修める時に、人の脚の骨の法器を使って動物の脚の骨を使わなかった。修法者はこの人の脚の骨の法器を吹き鳴らす時に、鬼道の衆生を感化する事が出来で、鬼道の衆生が聞いてからとても心地良くてのびのびすると感じること耳にして、互いに同類の故に、やっと入って助けを受けた。それ以外に、人間の骨を法器になる事も皆に気付かせて、皆が最後までただ骨を残って、そなたが仏を学ぶ事があるかどうか、最後死亡にした。我々はこの身体がとても気にかけて、身体の栄養が足りない事を心配し、一寸よくて食べて、良くて付けて、良くて暮らしていて、毎日にこの身体の為に悩んでいた。しかし、人生は如何に暮らしても、皆が結局独りで死亡を直面して受けらなけばならなかった。

仏法は死亡無常と説いて、すべての事が因縁法で、因縁で生じて因縁で消えた。宇宙の間にすべての物事は因縁で生じて、因縁が終わってから消えさせて、永遠が無かった。人々は一生の全ての事がただそなたの過去世の業の現れて、映画みたいに一つ一つ現れて、この中の因縁がとても複雑である。我々は執着なので苦しみを生じていた。毎日、我々が暮らしている生活は起きて勤めて仕事をしてからお金を稼いで、この身体を扶養するのでまめに働いて、大きくと、結婚して子供を生まれて、子供に子供を生まれさせてしまって、このように一生を完了した。このような生活は動物と異なる事が無いで、それらも自分の子供を配慮して、食べ物を見つけることも出来た。リスも食糧を貯蓄する事が出来で、冬になると、近くで松の実を埋めて、松の実を隠して冬を越す事が出来た。これはそなた達にお金を貯蓄して老後を過ごす事を同じ道理である。異なっているところは人間が思想があって、自分の行為を変える事が出来た。

皆は癌に罹っている事がとても大変で、すぐに死んでしまうと思っていて、実は癌がただ花が咲いて果報ではないで、ただ花が咲いて果実にする事がまだで、また時間があってこの果を変えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは45歳に皮膚癌に罹って、手術をしないで何を注射しないで何か治療をしないで、ただ仏法の上に続けてたえず修行していて、最後、皮膚癌がみずから消えた。癌に罹れば、基本的に、道徳の上に何か欠点があって、例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが海鮮を食べる事がとても好きで、多くの衆生を殺して、だから、癌に罹った。

顕教には、一部の人々が密法に対して誤解があって、密法が全て財を求める事と思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て顕教を学んでいた時に、上師が密法が偽物である事を聞いた事があった。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分で始めて密法を学んで、密法が前に顕教で聞いたただ財を求めることだけのではなかった。実は『普門品』を唱えた皆はお経には観世音菩薩に子供を求めて、男を求めると男を得て、女を求めると女を求める事を全て見た事があって、その上、財を求める事もあるし、これも顕教経典で記載された内容である。一部の人々は密法に対して誤解があって、自分が修め得ないので了解しなかった。仏菩薩に子供を求めて、自分の欲望を以って求める事のではなくて、自分の家庭の才徳兼備な風の為に、子供を教育する事が要って、このような気風を続いて、そなた達に子供を生まれて子供を生長させる考え方に満足させるだけではなかった。財を求める事はそなた達に良い生活を暮らすのではなくて、ただそなた達に仏を学ぶのを資糧を欠けないで、そなた達に仏を学ぶ障碍を消えたわけである。そなた達は決心して仏を学ぶと、如何なることでもそなたの障碍にならなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは当年で仏を学んで衆生に利益する事を発願いしてから、誰でもリンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学ぶ事を障碍する事ができなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは既に60歳で、また自ら修法して、とても大変である。一部の仏法を広める人間ようなではなくて、ただ法席で焼香して、残りの部分がしたの弟子が忙しくする事をみるだけで十分である。密法の上師はとても大変で、特に施身法法会で、必ず自ら修めた。密法行者として、能力を具えて衆生に助けないなら、戒律を破るのである。だから、そなた達は三寶に恭敬しなければならなくて、これはこのような密法法会に参加する機会が多くなくなったわけである。

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2011 年 11 月 07 日 更新