尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示 – 2011年10月2日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、「世俗諦」と「勝義諦」についてガムポパ大師の教導を開示された。法会が終わった後、更に信衆を接見して、午後4時35分から夜5時10分まで、14名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

法会が始まる前に、ある女子弟子は二番目の姉、兄嫁、姪、甥と一緒に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母が末期ガンの期間を無事に過ごした事を助けて、そして殊勝なポワ法を獲得して、及びこの女子弟子の皈依した経過を分かち合った。

この女子弟子は民国94年(2005年)に胸部に硬い塊が発見されて、心の中ではとても恐れ慌てて、二番目の姉と一緒に、あちこちへ神頼みや占いにすがりに行った。夫の家族が殺生する業界の仕事に従事してから、すでに数代もあるため、工場を受け継いだ後に、身内間と仕事上の問題のため、彼女の心身を全部疲れさせて、多くの晩を連続して寝つくことができなくて、そしていつも原因が分からないでむせび泣いた。それから兄嫁が彼女の状況を知っている後に、彼女が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見に行くことを要して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に親切に「何かあるか?」と聞いて、彼女は泣いているままで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに「私の胸部には硬い塊がある。」と答えて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは手の平にて彼女の右手の平の上で短い距離でそっと滑って、それから彼女に「胸部には3粒の硬い塊がある。」と教えた。彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔して、何故かと言うと、嘗て無知で子供を流産させたことが数回あって、慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が施身法にさんかすることを申し込むことを要して、そして加持して与えた。これは彼女が初めて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに会ったのであり、彼女の長く苦痛な心にもだんだん静まるようにさせた。

彼女が施身法に参加する事について、もともとは彼女の夫はとてもいやいやながらにやっと承諾したので、しかしその後に母の癌細胞がリンパまで拡散したため、彼女は再度夫の同意を求めて、日曜日の共修法会に参加することができて、そして尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て法会の中で、本当に親孝行する人は仏を学ぶ人であると開示されて、その故彼女の夫は同意するほかない。

去年(2010年)4月に、彼女の母は肝臓癌と診断されて、彼女の母が手術を受けることを決定したから、そこで彼らが尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを祈り求めて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェも手術を無事で順調に進むように助けるのを承諾した。手術はとても順調であり、その上傷口が速く復元した。それから彼女の母は直接に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェにお礼を言って、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは連続三回も菜食精進料理を食べているかと聞いた。母は「肉をあまり食べない。」と答えた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが母に教えて、ちょっと少し食べても、食べるのは食べるので、腹はメスで一回手術されて、1匹の魚を殺すようと同じではないか。体の癌細胞も累世の果報の顕現であるから、これらはすべて返済しなければならないのである。私利私欲でただ自分だけを思い付いたら、あれらの傷つけられた衆生はもっと可哀相ではないか。しかし、彼女の母は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞き取れなくて、そこでごく短い半年時間、彼女の母の癌細胞はリンパまで拡散して、彼女の母が再度尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、彼女が法会に参加することを願って、慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは同意して、そして母のかわり彼女の兄に大礼拝をさせて、衆生に懺悔した。

彼女の母はその後いくつの共修法会及び一回の施身法法会に参加した。この間に相変わらず、分子標的治療薬を飲んで、放射線治療、塞栓及び各部位の腫瘍を切除していた。繰り返して引き続きに自分の体と衆生を傷付けた。それで引き続きに法会に参加して福報を累積する因縁と衆生を返済する因縁を断った。彼女の母は癌細胞は早めに転移したけど、彼女の母はガン末期の患者の痛みを持たず、相変わらず力があって、畑に野菜を播くと自ら病院に放射線治療を受けた。菜食するほか、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された一切は彼女は聞かず、因果を信じなくて、懺悔しなかった。心の中に父に深い恨みを持っていた。更に体の苦痛があるから、往生した後、間違いではなく三悪道に堕ちる。幸い尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持があった。この女弟子は非常に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝した。

この女子弟子は報告したが、彼女の母は癌のせいで往生した事ではなく、瓜の棚に農薬を撒いた後、結局衆生を傷付いて自分も中毒した。中毒したから、彼女の母は病院で一週間に泊まった。退院した時医師は特に指示したが、毒素はまだ体内に残っているから、状況があれば、すぐに病院に来なければ成らない。彼女の母は家に帰った後、体は非常に弱かった。二階に昇っても大変だ。また、益々喘いで体も始めて痛んだ。子女として唯尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを懇切に求めて、母に適切な手配を用意しかできない。

彼女の母の状況は一日より益々悪くなった。ベッドから降りる力さえ無くて、呼吸も尚更に難しくなった。8月8日医師は挿管とアドバイスした。母は意識がはっきりするから、母に挿管治療するかどうかを聞いた。母は頷いていいと返事した。その決まりは彼女に尚更に苦しくなった。母は再び口を開けて話せない。彼女は母が必ず後悔してこのような間違い決定をしたと思った。彼女の母は表情はとても怖ろしくて、何回も呼吸管を抜けようなので、両手も縛られた。彼女は見ると、とても悲しくて苦しかった。幸い彼女は当時既に皈依したので、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの開示及び加持があって、彼女に母を慰めながら、慈悲な金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを観想して、母を加持して母の苦しみを軽減して、更に再びリンチェンドルジェ・リンポチェを懇切に求めて母に適切な手配を用意する。

彼女は誠に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持を感謝した。母に多くの苦しみを余り受けなかった。8月12日朝6時3分、母はICUで落ち着いて人生の最後の道を歩き終わった。入院からICUに入るまで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの著作《快楽と痛苦》はいつも彼女の母を伴った。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが必ずいつも母を世話しているのを深く信じた。だから、母が亡くなった時、顔はとても落ち着いて、頬は赤くてふっくらして口は少し開けた。彼女達は甘露丸を母の口に入って、母の耳の側に「恐れないで、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩は必ず母を助けるから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞く。」と伝えた。

彼女の兄は母の梵穴を触ると暖かいが、手足は冷たかった。彼女は分かると、心の中に極めて落ち着いて喜んで安心だと感じた。それは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に加持及び手配のお陰で、彼女の母に往生した後、彼女達に八時間六字大明呪を唱えられた。終わった後、母の遺体を葬儀場に送って、納棺師は再び彼女達に母の顔を見せて、その時彼女達は母が元々開けた口は既に閉まって、更に微笑んで非常に落ち着いた。彼女は非常に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に加持を感謝した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの世話があるから、母にこの間に多くの苦しみを余り受けなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持があるから、彼女達は悲しくなくて、心も落ち着いて安心した。

この弟子の母親は8月12日に往生して、8月14日尊いリンチェンドルジェ・リンポチェが主催した二万二千人あまりの「阿弥陀仏無遮大超度法会」に、彼女はすぐ母親の名前を済度名前リストに書き込んで、知った相弟子達は全部母親のため嬉しくて、もう二日間「阿弥陀仏無遮大超度法会」の済度が得られて、大変殊勝である。

彼女は大変尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲力な加持するのを恩に着て、8月22日母親の告別式を一切順調円満させた。このチャンスによって、彼女も寶吉祥有限会社に感謝して、彼女らのためプレゼントとして《快楽与痛苦》の本と日本食品を用意してくれて、それに二つの食品バスケットで会場を荘厳させた。同時に彼女は遠くより来て公葬に参加した相弟子達に大変感謝して、親友に寶吉祥仏法センターを認識させた。それに《快楽与痛苦》この本を通じて他の人が人生の中に困惑にあった時正確の解答が得られるのをさせると望んで、彼らもこんな因縁福報があって、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得られるように一層祈った。

彼女の母親が火葬した後の頭蓋骨はとても完璧で、それにピンクのみかん、薄紫、また少し黄色が現れて、色は大変綺麗で、梵穴のところに一つ小さいまる穴があった。9月11日共修会前、撮影組の相弟子は火葬日に全て取った彼女の母親の頭蓋骨の写真を彼女に渡して、また母親が尊いリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法の済度が得るのを知らせた。彼女は聞くと涙がすぐ流れて、内心の興奮は本当に形容する事ができなくて、只内心に絶えずに尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、母親のために慈悲な加持と世話をして、殊勝な得難いポワ法を修めた。

彼女非常に恥ずかしくて、貪、瞋、癡を断たなくて、教えに従って実行することもしなくて、また大供養さえもしなくて、殊勝なポワ法を得るのを望む勇気がない。しかし、尊いリンチェンドルジェ・リンポチェは愚痴な彼らを放棄しなかった。彼女は上師、諸仏菩薩、アキ・ドロルマに懺悔を発露して、前いつも他人が彼女に済まなくて、誤解して、傷害したと思った。ずっと母親が病気にかかって往生した後はじめて発見した。一切の苦しみは全部自らが求めて、自業自得で、反省しなくて、只他人を検討した。若い頃良く嘘つきで、他人の者を自分のようにして、大切にしなくて、自分がまた家を出た。彼女の母親は一通かかって来た電話が家を出た彼女と思って、急いで取ろうとして、上より下に転んで足が折れた。父母を悲しくさせる事を沢山を作って、彼女も嘗て心の中にしゅうとの不公平な待遇に文句を言って、すごく長い時間で姑と舅と全く話を掛けなくて、あの頃彼女の心の中に恨みが満ち溢れた。

皈依した後、自分が姑に対する親不孝さを段々了解して、母方の祖父と先生の一族が歴代で魚を捕る事、漁獲の売買、食品工場等の事業を経営し、全てとても重い殺業を犯して、更に累世で傷つける衆生を言うまでもなかった。彼女は自分が多くの悪業を犯したが改正する事が知らない事を懺悔し、自分の心をうまく制約しないで、自分の行為を上手く改正しなかった。彼女は自分が作った悪業に懺悔した。彼女はこれから努力して自分を改正し、感謝の心、懺悔の心、無比な信心にて仏を学ぶ事を常に気付かせて、仏法を日常生活で運用し、更に言う事を聞いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの教誨を常にしっかり覚えている事を表示した。

そして、この女の弟子の兄嫁は分かち合った。彼女の姑は癌の末期から往生まで、多くの苦しみを経験していないで、彼女の姑が因果を信じないので、自分の命を救うため、絶えず衆生を傷つけていた。法会に参加したが、上師と仏菩薩を利用するだけで、しかし、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが依然として得難い殊勝なポワ法を慈悲深く修めてくれた。彼女はとても感謝し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがある殊勝な得難い大菩薩で、実修実証の修行者である。彼女はこの世で最も正確な決定が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェという大修行者に皈依した。

彼女は8年余り皈依して、皈依する前に、長子が既に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝なポワ法を修めてくれた事を既に貰った。めったにない疾病を得て、本来一生で薬を飲まなければならないが要る末の息子もいつも尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの助けをもらったので命を立たれた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェをあってから、薬を飲める事が要らなくて、喘息さえとても少なく現れて<尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが居ないならば、彼女の末の息子が絶対に普通な人間の生活を暮らす事が出来なくて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが居ないならば、絶対に今日の彼女が居なかった。

彼女はとても感謝してもとても恥ずかしくて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女と彼女の家族にこのように多く助けをあげて、彼女が何が供養をした事が無いで、教導に従って実際で行った事も無いし、五戒十善、仏子行三十七頌も全て行わなかった。彼女は子供から田舎で住んでいて、山に虫を捕って、海岸で魚を捕って、なんとなしに傷つける衆生が数えないで、何度も人工流産させて、はっきり数えられないで、殺業がとても重かった。数年前に、資金操作の便利を貪ったの為に、隣近所に小切手を借りて、また小切手を交換して、結局、離れて悪果を植えて、皈依した後でもこのような悪行をして、彼女がとても懺悔した。

他人に承諾した事は彼女が完成しない事を常に発生し、一切なした事が悪果を植えて、地獄に堕ちる悪因を植えて、彼女は悪業が深くて重いことを感じて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く加持しないで、彼女に機会を与えて道場に残って、仏法を聞いて、福報を累積しないなら、現在、必ずとても悲惨である。彼女がこれから犯す事をしない事を懺悔し、一切の輪廻させる悪習を改正し、菩提心を発して、全ての有情衆に利益し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに頼んで、三界を離れて浄土に往生して、その上、身口意で生々世々に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに供養し、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法体が安康で、寿命が長くて、仏法事業が広めて、直貢噶舉教派の旗が五大洲を挙げる事を望んでいた。

最後、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、尊勝な直貢チェツァン法王、歴代祖師、諸仏菩薩、アチ仏母、彼女から一切が傷つけた衆生に再度感謝し、一切の衆生が仏法を聞かれて、生死を解脱し、浄土に往生していける事を望んでいた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが法座に昇った後にこう開示された。前回の法会の中で言った「世俗諦」と「勝義諦」を継続する。仏法が説くのは宇宙の真実万象であり、釈迦牟尼仏の教導された仏法は八万四千の法門があり、すべての法門は仏が衆生の縁に従って、衆生の別々な問題を対治するため教導して出てくるのであり、その故、すべては衆生に生死輪廻に解脱させられる法門である。これらの八万四千の法門の範囲は世俗諦と勝義諦を含む。「世俗」はこの世の中でとても俗っぽい事を指すのではなくて、衆生が六道の中に輪廻している一切現象を指す。ただ仏法だけは世俗諦と勝義諦に分けられて、その他の宗教はこのように区別していなくて、これも仏法はその他の宗教と違うところである。

仏は我々に、衆生が全て平等であり、全て仏性を持って、次第を通して仏を学んで修行するならば、皆が全て成仏できる、と教えた。仏法は顕教と密法に分けられて、顕教は仏が教えた理論であり、一切の根本であり、そなたは仏法の奥深い理論及び根本をすっかり明らかに悟ることができた後、基礎をしっかり打って、修行する法門の中で役に立つことができる。だから皆はいつも「理事円融」を耳にして、それは先に仏法の基本的な理論を了解することを強調して、ようやく基礎を作り終わることができる。仏法は刀のようにとても力があり、慎重にしなければならなくて、ひと言を間違えて言ったら人を傷つける恐れが有る。どうして多くの人が修行するのは役に立たないか。基礎をしっかり打っていないで、顕教の理論をあまりよく学んでいないから。そなたは仏法の範囲がとても広くて、仏法がとても奥深いと言って、実はそなたが重点を捉えると少しも奥深くない。そなたは仏法が修行しにくいと言ったが、次第に従ってやれば、少しも難しくない。

多くの者が仏を学ぶのはとてもせっかちであり、とても短い時間で多くの法門を学べることを望んで、ある人が皈依した後に、すぐ上師に法を伝授することを求めに来て、このような心構えで法を求めるならば、それは貪念であるから、リンチェンドルジェ・リンポチェも伝法しない。そなたが法を求めたら、上師がきっと伝わらなければならないと思わないでください。八万四千の法門があるから、そなたはどのようにどれがそなたに役に立つかを知っているか。どのようにいつかそなたが学ぶことができるかを知っているか。上師が修行した経験があるから、いつそなたにどんな法を伝えるべきであるかを知っている。上師の教導に従って、1歩ずつして、そなたの縁と福報が足りるならば、上師が自然に法を伝えて、因縁は備えないと、どのように求めても、何も役に立たない。

密法は事、行、瑜伽と無上瑜伽部に分けられて、直貢チェツァン法王が始めて瑜伽と無上瑜伽部を伝え始めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェにこれからどの法を伝えるかと言わないで、リンチェンドルジェ・リンポチェが修め得ることができるかどうかを確認してみて、修め得ることができたら、引き続き伝わる。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王がどの法を伝わっても、きっと自分にとって最も良いことを信じていて、一心に修行して、どんな成就を得ることを予想しないで、そうすると、かえって修め得た。しかし、最近この数年に至って、 リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王にいくつかの法門を伝えれば、直貢チェツァン法王はきっと伝わる。何故かと言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェが今なぜ法を求めるのは衆生に利益するためい、様々な法門が必要であり、自分のために修めるのではない、とう事を知っているから、ちょうど仏を学んだばかりのようなそなた達は何を学ぶか。「教えることを聞き取る」を学ぶ。

顕教で言えば、我々の目、耳、鼻、舌、身、意を六賊と称して、毎日外部のすべての物事の情報を接収して、六根の効果のため私達が心が動くことに影響して、心が動いて業力を産して、私達に生々世々にすべて業力の牽引を受けて暮らさせている。人間さえであれば、きっとこの六根の影響を受けて、死亡するまで、ずっとそなたに影響している。たとえそなたは修行しているから六根の影響を受けないと言っても、昼間そなたはまだそなたの意識にて六根の作用を抑えることができるが、しかしそなたが寝つく時に、目、耳、鼻、舌、身が役に立たない時、そなたの意識は依然として動いているから、依然としてそなたの心に影響している。顕教はこの6つの者を六賊と称すが、しかし金剛乗から見ると、見方が違って、人はこの六根を捨てることができないから、金剛乗の修行は、この六根を修行する道具として利用して、六根の産する様々な反応を、自分を輪廻に堕ち込ませる行為を改正することに用いて、そなたの心にそなたの目、耳、鼻、舌、身、意の反応を制御できるようにさせて、このような修行はそなたの清浄な本性がだんだん顕露することができる。このような修行する方法は仏教しかない。その他の宗教は禅定を修行するが、しかしもし清浄な本性の顕露がなければ、たとえ禅定まで修め得ても、悟りを開くことができない。

多くの人は禅定を修行する時、目を閉じて、或いは老僧が禅定に入るように真似て半分で目を閉じていて、目の根に効果を失わせて、このようにすると、比較的に速く禅定の境界に入ることができると思っている。が、しかし、人の目は長期半分で閉じることがあり得なくて、長くしたら、きっと我慢できない。事実上、チベット仏教が禅を修める方法、目は開けるまま修めるのであり、もし目を垂れているのであれば、一方では寝つきやすくて、一方は幻覚に発生しやすい。たとえそなたは目を閉じても、そなたは依然として光の影響を受ける。耳を詰め込みても、そなたは依然として音波の震動を感じることができる;鼻を塞ぎとめて、そなたの口もやはり味覚がある。たとえそなたは1つの真空の環境の中にあっても、別に何もないのではなくて、その中には、まだ物質、原子の存在があるのである。仏教のいわゆる空はないを言うのではなくて、すべてが因縁により生んで、因縁により消えることを指す。禅定は放空するのではなくて、ある者は必ずいかなる念頭が1つもないのは定だと思っていて、このように悟りを開くことができると言ったが、そなたはテーブルがとても長い時間もそこにあって全然念頭がなくても、しかし、そなたはそれが禅定に入ると言えるか。テーブルは悟りを開くことができるか。その故、このような修行する方法は正しくない。

ここまで講じて、リンチェンドルジェ・リンポチェがぜひとも言うのは:最近ある新しく皈依する弟子が、リンチェンドルジェ・リンポチェへ電子メールを送って、その内容が、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに追随してチベットの直貢梯寺に行って、護法殿が護法を修行し終わった後、正殿で座禅を組んで、結果は目を閉じると多くのものを見たと書いたのである。そなた達はすべてこのような欠点があり、聖地に着いたら、自分がどんな感応があると思っているのである。間違った。仏を学ぶのは感応を学ぶのではなくて、感応を求めるのは、その他の宗教を学んで比較にしやすいかもしれなくて、仏を学ぶ必要はない。もしそなたの心が菩薩とは異なるならば、どのように菩薩を見ることができるか。そなた達は自分の業障が深刻であるから、菩薩を見える資格がなくて、見えるのはすべて魔であることを信じない。それ以外に、このように座禅を組む方法は間違っていて、そなたが目を閉じる時に、長くなると幻覚を発生しやすくて、自分が何かを見たと思っている。

我々は受精して母の腹に入った瞬間から、引き続きに母の身口意の影響を受けて、始めて業力を起した。生まれた後に遭った一切の事はそなた達が覚えていないかもしれない。人は目、耳、鼻、舌、身、意により、多くのメッセージを受けた。このメッセージはそなたが忘れたかもしれないが、そなたの第八意識田の中に存在している。そなた達は寝る時、目、耳、鼻、舌、身、意は作用を起さず、唯意識の作用を残している。そなた達は言われた夢で経歴していない事を見たが、実はそなた達は覚えていない。そなた達は夢の内容は全てメッセージを受けた後に起した意識の作用だ。そなたの前世或いは今世の意識かもしれない。九十九パーセントは偽物だ。《寶積経》にある夢境は前世の修行の果位と関わる事を説かれたが、それは既に菩薩果位を証した修行者だ。更に夢は前世の修行の果位と関わった。唯前世の修行は力を得ないから、夢を通して、今世の修行の方向を知らせた。そなた達は菩薩果位を証しないから、この夢を見るわけではない。だから、此れはそなた達と全然関係が無い。

そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分が何か夢を見るやそんな事を夢を見る事を言わないで、菩薩果位を修めない限り。ある人は夢を見て、自分の往生した家族は綺麗に着たから、自分の家族は既に好い所に行ったと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、実は若し亡者は天道に行くと、着る服は天衣だ。また、各層の天によって天衣が違う。最も高い層の天衣は透明だ。若しそなたは家族が綺麗な服を着た事を見れば、彼はまだ人道にいて済度を得られないと現した。

密宗は夢瑜伽が有ると聞かれて、自分がこのように修められると思わないで。夢瑜伽は寝ている時禅定した。真の密宗の修行者にとっても目覚めても寝ても全ては禅定の中にいる。寝る事が必要なのは、肉体は休みが必要だ。この肉体を維持して、衆生を利益するため。しかし、意識は相変わらずはっきりして、そなた達のように寝ると、熟睡状態になって完全に知覚を失うわけではない。それは禅定の工夫はまだ足りない。夢瑜伽とは修行者は夢の中でも自分の念をはっきりにして、そなた達のように目覚めた後、夢境を思い出して、嘗て発生したらしい事ではない。若し目覚めた後、まだはっきりに覚えた夢はそなた達の欲望と関わる。ある人は自分が行った事がない所を夢の中で見たが、実は全てそなた達は昼に知らないままに多くの刺激や情報を受けた。例えばテレビ、パソコンを見たなど。

直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが既に夢瑜伽の境界を修めた事を認証された。リンチェンドルジェ・リンポチェは自然に夢瑜伽を修めたから、そなた達に如何なる修める教えられない。直貢チェツァン法王は始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに閉関修行を指示された時、リンチェンドルジェ・リンポチェは夜夢の中で貪、瞋、癡の念が現れれば、その時自動に目覚めて、すぐ起こって懺悔した。そなた達のように翌日まで目覚めてから、詳しく昨夜の夢境を思った後、懺悔を分かる事ではない。

多くの人はよく寝られないが、それは一日に止まらなくてメッセージを受けて、脳神経を刺激し続けている。だから、寝る時でも脳は落ち着かない。仏法から見ると、意識は絶えず外在の影響を受けて動いた。医学から見ると、脳神経は多いの刺激を受けた。現在多くの注意欠陥・多動性障害の子供は如何なる起こっただろう。累世の業力以外、我々は生まれた後、幼いから始まって、脳は止まらなくて外界の刺激を受けていた。現在の子供は尚更に常にマスコミ、テレビ、ゲームとパソコンの刺激を接触した。

そなた達は見ると、現在の子供は生まれたから、病院にいて身の回りは全て電子機器、電磁波が有って、いつも子供を影響している。そなた達さえ子供は煩いから、子供にアニメを見せるから、子供の脳神経は休まないなら、子供によくないだ。そなた達も嘗てこのように行った。子供だけではなく、そなた達の脳神経も引き続きに刺激を受けた。最近皆は流行ってソーシャル・ネットワーキング・サービスを使っている。多くの時間にかかって、このソーシャル・ネットワーキング・サイトを使っていた。毎日少なくとも30分にインターネットを使って、彼方此方の事を話した。若しこの時間があれば、何故自分が一日に身口意の行為を反省しないだろう。よく考えてみて、自分が間違い事を行ったかどうか。

ガムポパ大師は開示された。「『世俗諦』は因の『業』として、果の『業の果報』として全て存在している。この点を考えて、「業、因、果」を深く信じる事は確かに極めて重要である。」

そなた達はまだ空性を悟る前に、まだ世俗諦の範囲にいて、業、因、果に対して必ず信じなければならない。自分が現在行った一切は全て過去に行った事を分かる。現在行った因は未来に必ず果報がある。仏法は過去、現在、未来を説かれたが、そなた達は全ては自分が行い、一切は業、因、果は作用する事を分かると、積極的に向き合う。そうすれば懺悔心を起せる。しかし、懺悔は悪い事を一切発生しないと表せず、唯そなたに機会があって改めて行う。「懺」とは自分が過去に行った間違いを承認して受けた。「悔」とは永遠に再びに犯さない。そなたは懺悔すれば、一切はよくなって、悪い事が発生しないとは言えない。果報は相変わらず発生して、唯減少するやそなたに感じさせない。所謂重い報い軽く受けた。業のエナジーはまだ消えない前にその影響は引き続きに存在している。例えば果実を生んで、たとえ種が悪くても、慎重に世話して、施肥すれば、生じた植物もよくなる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今回弟子達を率いて、チベットに行く時、ある女弟子は空港でリンチェンドルジェ・リンポチェの到着を恭しく迎えするのを分かると、心から悪念を起して、このような盛大な場面を用意しない必要がないと思った。結局ラサにいるとき、全ての団員の中にこの弟子の高山病は最も酷くて、多くの苦しみを受けた。此処から見ると、彼女は上師を尊重しないと見えた。皈依したのは唯上師を利用するため、このような悪念を起した、また、彼女は今後修行の間に必ず障碍があった。この悪念を起した女弟子はとても若いではなくて、有名ではない。若し有名人なら、他人に見られて、リンチェンドルジェ・リンポチェはある有名人の上師を知らせた。

実はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子の中にとても有名な歌手もあった。唯リンチェンドルジェ・リンポチェはわざと誇示しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは盛大な場面が好きではないが、弟子達に迎えさせるのも弟子達に上師を供養させて、福報を累積する機会をもっと与えた。若しリンチェンドルジェ・リンポチェは有名になりたいなら、直接マスコミを呼んで、台北で取材されればいい。空港で盛大な場面を用意する必要があるだろう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が此の世に果位を証する事が出来ないと分かるから、多くの異なる善巧の法門を運用して、そなた達を教えて、因縁を作ってそなた達に福報を累積させた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは上師への心は感謝しかいない。上師の言行に対して僅かな悪い考えを完全に持っていない。これもリンチェンドルジェ・リンポチェの福報は足りないから、未来性がない弟子を多く取った。尊勝なる直貢チェツァン法王は大福報があるから、リンチェンドルジェ・リンポチェのような弟子を一人取っても十分だ。何故この弟子はこのような悪念を起しただろう。若し通常に上師を敬うと、このような念を起さない。反って全ての念は上師を感謝する。だから、この弟子は唯上師を利用して、守りを求めて、本当に上師及び仏法を敬う事を証明した。此処から見ると、この悪念を起した弟子は通常に余り供養しなかった。

そなた達は若し通常の時に引き続きに上師への恭敬心を訓練して培養しないと、自分の考えで上師の言行を見て、自分の望みと異なるなた、すぐ悪念を起す。現場にいるそなた達もそうだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは三恩根本上師直貢チェツァン法王に皈依して以来、直貢チェツァン法王に対して感謝しかいない。他の念が無い。それはリンチェンドルジェ・リンポチェはよく分かったが、若し上師の教えがないと、今の自分が存在せず、衆生を利益する能力が無く、多くの人に仏法の助けを得られない。上師のどんな行為でも我々は評価する必要がない。我々は上師の動きはどんな目的なのかを了解する能力が無い。上師がどのような事をしても上師は我々に仏法を教えたのは我々に恩が有る。仏菩薩或いは上師はそなたの恭敬が必要ではない。若しそなたは上師に十分な恭敬心、懺悔心、信心がないと、そなたは上師の加持に入られない。

そなた達は皈依した時に嘗てそなた達を教えた。皈依した後、若しある戒律を犯せば上師の加持を得られない。上師に恭敬心を持たないと、上師はそなたに与えた加持力を断った。一つの念があれば十分だ。だから、そなた達に教えて通常に上師の話を聞き、教えに従って奉じる習慣を養成しなければならない。そうしないと、往生前に一つの悪念を起せば、そなたに悪道に堕ちる。此れは仏菩薩はそなたに罰を与える事ではなく、そなたは自分が行った。自分が修める事を思わないで、上師の加持がないと、そなたはいくら経を唱えても、真言を唱えても、仏を拝んでも成就を得られない。それはそなたは自分に仏法を教えた上師に対しても悪念を起せば、自然に他人に対しても悪を行う。悪があれば、浄土に往生する事が出来ない。

仏法の修行は禅定を修める。そなたは死んだ時に使える。人は呼吸が有れば、念がある。仏経に記載されたが、一念から十念まで必ず浄土に往生できる。此処の念は口で仏号を唱える事ではなく、人は即死する時、唱える力があるわけではないだろう。うまく修行する修行者は坐禅して仏号を唱えながら、往生すれば別だ。通常は彼の周りにある人は一緒に仏号を唱えて、彼の心を強めさせた。此処の念は考えと現した。一念から十念まで、全ての考えは仏号があれば、必ず浄土に往生できる。しかし、一念はどのような長いだろう。有るのは長いが、有るのは短いが、特定ではない。あるのはあっとの間になくなった。それは極めて短い時間以内に非常に多くの念を起せる。そなた達は自分が感じないように短い。

仏法はそなたの問題に対して、解決する方法を教える。仏を学ぶのはそなたに死んだ時に心が乱れない。しかし、一心不乱という事は簡単ではない。往生する時突然に気掛かりの孫を思い出すや自分がとても気になる一つの事を思い出すなら、この念に引かれた。仏はとても慈悲なので、衆生は執着を避けない事を分かって、そなた達に仏号或いは真言を執着させる。そうすれば、機会があって、往生する時に仏菩薩の迎えを得られる。修行とは心で自分の意識をコントロールする事を学ぶ。仏法を修めるのは我々の人生に最後の数秒間のためだ。金剛乗の修行者は行部以上を修めて、見る衆生を全て本尊としてみて、聞かれた声は全て仏の真言として見る。そなたは全ての念は仏号であれば、往生する前に起した最後の念も仏号であり、如何なる悪を行っただろう。自然に浄土に往生できる。仏菩薩は慈悲なので、我々は人間として執着心はとても重いのを分かった。だから、我々が欲望に対して執着を利用して、仏号や真言を執着する事に移した。少なくとも我々に対して必ず役に立つ。若し感情或いは金銭を執着すれば大変である。

そなた達はそこまで行えないから、必ず上師の話を聞かなければならない。何故引き続きに皆に教えて、上師の教えに従って余り自分の考えを持たず煩くないだろう。それは皆の習慣を養成するため、往生する時にも話を聞いて、上師は始めてそなたを助けられる。そうしないと、自分の考えは多く持てれば、上師も難しくそなたを助けられない。だから、そなた達に教えて、上師に依止して、上師に敬う。チベット仏教は上師の重要性を強調して、上師は仏としてみるのはそなた達は若し上師に完全に敬うと、そなた達は往生する時、上師は仏菩薩を代表して、迎え来る或いは姿が現れてそなたを教示する。若しこの話を聞く習慣を養成しないと、そなたは即死する時、心の中に始めてリンチェンドルジェ・リンポチェを呼んで、再び声をかけて、第三回目に声をかけても相変わらずリンチェンドルジェ・リンポチェが迎えに来るを見えない。心の中に何故上師はまだ来ないと思って、霊験ない悪念を起せば、全てはお終いだ。そなたは上師を仏としてみて往生するとき、上師は仏菩薩を代表して、姿が現れてそなたを迎えに来る。そなたは上師を凡夫としてみれば、往生した後、上師は姿が現れてそなたを教示する人である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて直貢チェツァン法王に皈依しする時、直貢チェツァン法王は何の法でも伝授せず、唯リンチェンドルジェ・リンポチェに「話を聞く」法門を教えた。此れも最も難しく修めた。「話を聞く」を行って、完全に自分の考え方がないのは本当にとても簡単ではない。直貢チェツァン法王は坐床大典を行い、法衣と法帽を授けて、公の場で認められた後、直貢チェツァン法王は始めて次々に多くの密法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝授した。リンチェンドルジェ・リンポチェは唯直貢チェツァン法王の教えに従って行ったが、今まで自分は将来にリンポチェの果位を証して、多くの衆生を利益する事を全然考えなかった。また何の法でも学ぶ事を考えなくて、完全に業、因、果を受けた。

ガムポパ大師は開示された。「此処から見ると、世俗諦、自分と他人を分ける分別心念を属するから、徹底的に変わる前に善、悪は全て真実であり嘘ではない。だから、我々は特に悪を避けて善に向く正しい選択を注意すべき。若し今善業を累積すれば、来世に成熟する善果の楽しみに成る。若し今悪い行いを作ると、来世に悪果を成熟して、悪趣の苦しい深淵に落ちる。」世俗諦の範囲の中にいれば、我々が修めた慈悲心は全てわざとして、自分が衆生を利益するために修行して、まだ分別四相を持っている。空性を悟る前に我々は一切の善と悪は全て真実を見るべき、全ては業、因、果がある。そうすれば、我々は如何なる善及び悪の因を判明する事が出来て、悪を止めて善を行える。自然に未来は必ず善果がある。

全ての人は「私」の観念はとても重い。我々は毎日日常生活の中にいつも自分しか正しくて、全世界は間違いと思った。或いは彼のせいで私に物事をうまく行えない。私は分からないから、私は間違いがないなど全ては自他対立の分別心念だ。それは何故毎回法会の前にそなた達に《仏子三十七頌》を読ませただろう。それはそなた達に教えて、生活の中に如何なる弟子としてすべき行いを実行して、徐々に当方、他方の分別心念を除く。

《仏子三十七頌》は仏弟子として必ず出来る標準で、只一項が出来なければ、他人に自分が仏を学ぶのを言う事が出来なく、もう来るな。どうしてそなた達は苦しんでいる者或いは死んだ者を見ると多くとも少し悲しい感覚があって、数滴の涙を流して、真に彼と同じで悲苦な感覚をするのが出来ない。それはそなた達はいつもそなた、私、彼と分けているのである。本当に自、他を分けないのが出来るならば、即ち「同体大悲」が出来た。つまり《金剛経》が説いた、無我相、無人相、無衆生相、無寿者相である。四相を破ればはじめて本当に輪廻を離脱する能力があった。亡者を助けるなら、亡者の考え、執着を分からなければならない、そうしてはじめて彼を助ける事が出来た。

ガムポパ大師が申された:「そなた達、此処に来て教法を聞く皆は是非覚えなければならない:我らは真実を自覚するこの期間で、自分の対立方のそのた「六道衆生」も必ず全部真実だ」。

そなたはまだ世俗諦の階段時、必ず六道衆生が本当に存在するのを信じて、このようではじめて決心して仏を学んで修行して輪廻の苦海を離脱する。言う者がいた、我は地獄、飽鬼道、畜生道が見えない、天道、阿修羅も見えない。六道は仏が言い出して我らを恐喝するもんだろう?こんな話をする者は業、因、果を信じらないのである。なぜある者は懺悔することが出来ない。彼は業、因、果を信じなくて、六道を真実としないから。癌にかかって窮地にあったみたいある者のように、自分の前世は多くの悪事をしたかと聞き、それは彼が業、因、果を信じないのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、前世を言わず、この一生に全て作った悪業は随分だろう!多くの者は自分がこの一生にどの悪でもしないと思った。しかしそなたは只一口の肉を食べた事があれば、即ち悪を作った。この一生返しても済めない、また前世を言う何で?多くの者は多くの悪を作ってはじめて地獄に落ちると思って、実は地獄に落ちるのがとても容易で、一つ恨みの考えがあればそなたを堕ちさせてしまった。そなたは生前良く修めなければ、往生の境界が現れると、側の者は掛け布団を開けて、足に触れて、或いはそなたを囲んで泣いて、そなたが腹を立つと恨みがあって、地獄に堕ちることが出来た。一つの考えで十分で、地獄に堕ちるのは大変難しいと思うな。

ある者は自分が癌にかかってとても可愛そうで、全世界中の人は全部彼を哀れむべきと思った。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェはこれに対して開示された。癌にかかったことがなければ、そなた達に言う資格がないかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェも癌にかかったことがあって、今まで64才になって、癌が全くないとは言えないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの生活に対して確かに全く影響がない。癌は自分の業、因、果のを受け取ったので、どの治療を受け取らなくて、菩薩にも求めなくて、直貢チェツァン法王が修法してくれるのを求めなかった。癌にかかって、誰も哀れまなくて、まだこんな辛くて衆生に利益するため出た。

仏経には人間仏法との名詞がなくて、そなたは人間仏法が有ると思ったら、只人道の衆生を済度できるに執着して、仏法は一切六道の衆生を助けるべきだ。昨日ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った。彼は言って、念仏をする時、突然にある鬼は彼の目の前に現れて、リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った、鬼を見て恐れた者は慈悲心がない、そなたは傷害されるのを恐れた。慈悲心がある者は他人がそなたに害をするのを恐れるか?本当な修行者は鬼に恐れない、そなたが修行する過程の中に鬼が現れたのは、そなたと彼の間に何の因縁があって、助けるべきで、彼にまだ恐れるか?仏の願力は六道衆生に輪廻生死より離脱するのを助けて、只人道に助けるのではない。そなたがまだ恐れてあれば、そなたは仏法が只人道を助けるのを設定した。しかし仏法は六道衆生に適用します。

既に皈依した弟子実はもうリンチェンドルジェ・リンポチェに一山の問題を伺いに来る必要がない。未皈依の信者ならば、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを助けるべきで、彼らは分からないから。既に皈依した弟子であれば、毎週挙げる共修会の中に全て開示された仏法は既にそなた達の全部の問題を解決出来て、そなた達は只繰り返して聞いて、読めば、そなた達に対して大変役に立って、必ずそなた達の問題を解決するのが出来た。まだ自分の問題を解決が出来ないのは、仏を修め得なかったのである。なぜ良く修め得ない、全く上師が全て教導したのを日常生活の中に実行して、まだ自分の少しの考えを雑じれば、修めえなく、自分のことも解決が出来ない。そなた達はまずするべきのは教えに従うのである。もう自分が病気にかかって、上師はそなたを哀れんで、そなたの考えに満足するべきと思わないで、こんな考えは全部正しくない。

多くの者は病気になって、癌にかかったと緊張して、急いで走って来てリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝えるのを求めて、癌にかかったのはこんなにひどいか?そなたは求めるとリンチェンドルジェ・リンポチェは伝わなければならないか?こんな簡単なものがない。そなた達は塾へ行くさえもすくなくとも3軒へ行かなくてはいけない。1回目は見に行って、2回目は値段を聞きに行って、3回目ははじめて申し込む。そなた達は仏法を求めるのはこんなに気軽いか?密宗を修めて最後に一つの法門は簡単に伝授しなく、法を求める者は自分の体重と同じな黄金を上師に供養する。リンチェンドルジェ・リンポチェは冗談と仰った、ある者の体重が100キロであれば、現在の黄金の値段はあんなに高くて、すごかった、一軒ハウスより高かった。これは上師と諸仏菩薩がそなた達に黄金を供養するのを要求するのではなくて、そなた達に仏法は黄金より珍貴だと分からせるのである。これは一つの例えで、そなた達は大切して、それに法が非常に得難いと分かるべきだ。

何年前リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て1人弟子に寶吉祥仏法協会のために少し事をすると指示したが、彼は返って自宅の事が忙しくてあまり不便だと表れて、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう何も仰らなかった。上師は彼に皆のために奉仕するチャンスをさせたが、彼はかえって把握するのを分からなくて、結局この数年間彼のお体は状況を出て、彼に苦しみをさせた。そなたに道場のために仕事をやらせたのはそなたに自分を貢献するチャンスをあらせて、自分のため福報を蓄積するのである。是非自分がすごい才能があって、そなたの助けがなければいけないと思わないで、本当な人材はリンチェンドルジェ・リンポチェで、そなた達は只お使いをする。

ガムポパ大師は此処ではっきり申された:「各種善根を未円満するこの期間で、勝妙空性を証得することが出来ない。」所謂円満善根とは、目、耳、鼻、身、意六識は全部純善まで出来たのである。そなた達同席の者は全部出来ない。我等は毎日の考えは全部悪念が善念より多くて、各種純善が円満まで出来なければ空性を証得することが出来ない。《地蔵経》が説いた、凡夫は心を起きて念が動いて、全て業で、罪である。人が全て起きた考えは全部自分を利益するのであり、全て起きた悪念はきっと善念より多かった。

あるオーストラリアの弟子は最近意外にリンチェンドルジェ・リンポチェに手紙を差し上げて、自分が空性を証得して、多くの悟りがあったと言った。そうしてリンチェンドルジェ・リンポチェも彼に返事して、厳しい責めを与えた。そなた達は日頃自分がむやみに本を読んで多く見ると自分がその中の境界に入ると思って、また夢を見て自分の修行が成就を得たと間違って思った。夢の内容は真偽を問わず、全部只意識の反射だけである。自分が見たことがない事物のを夢見て即ちなんにがあって、自分の修行が成就を得たと思って、走って来てリンチェンドルジェ・リンポチェに報告する。空性も一,二句の言葉を見て感覚があって、空性を証得したとは言えなく、長時間で修行する必要で、そなたに輪廻を堕ちさせる全ての行為を修正する。まるで皈依する時、そなた達に教導したように、身、口、意の方を全く断悪善行して、はじめて因縁があって、そなたに空性に対してある体得させようとする。まして、空性を証得するのは自分が言うのではなく、上師を通じて確認する必要である。

ガムポパ大師が仰った:「それで、十善、十法行或いは六度の習いを因としてよらなければ、大覚仏陀の果を得ることが出来ない。それより、十善、十法行或いは六度の習いを因として頼らなければ、見解は広大に見えるが、実は心識は平庸な危険になる」

そなた達は仏を学ぶには十善が出来るべきで、皈依する時の誓い「断悪善行」ができて、またリンチェンドルジェ・リンポチェが前皆に開示したように、分分秒秒十善法、六波羅蜜の修行を生活の中に用いる。さもないと、ガムポパ大師が皆に警告したように表は修行者と見えるが実際に、心の中に少しも修行しなくて、所謂「平庸」とは、そなたが全て学んだのは自分が生死より抜け出すのを助ける事が出来なくて、他人が生死を離脱するのも役に立たない。これは即ち皆が皈依する時、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆に教えたそなたが仏を勉強し始めると心の中に殊勝な道が起きられて、それで必ず十善法と六波羅蜜の習いを通じてはじめて出来た。そなた達は皈依した後如実で戒を守れば、戒毎に善神がそなたを守って、傷害をさせない、しかし加護するのではなく、そなたにいい上師をあわせて、そなたを教導するのである。

此処では顕教の理論を解釈して、それでそなた達に勝義諦の修行を申される。ガムポパ大師が開示された:「勝義諦この方面にとって、経文の中に「業」及び「業の果報」を述べない。それで、一体どの状況に、はじめてこの真実な勝義諦を悟ったか?一旦我等は貪瞋の妄心、驕りの傲慢を離れて、言葉を言詮して、全て自分、他方にすべて堕ちた分別心念は全部元のところで自然に浄化して、徹底で自、他の対立状況を粛清して、即ちこの勝義諦を悟って、この状況の下に、既に無業で、業の果報もない。」

「貪瞋の妄心」とは人には貪と瞋満ち溢れて、自分全部正しくて、全世界の者は全部間違いと思った。そなたは対手を見下げさえすれば、瞋念が起きて、良いものだけがほしくて、良くないのがいらなくて即ち貪欲が起きた。貪嗔心のため我らに妄念を満ちさせて心が清浄を得ない。「驕りの傲慢」は仏を勉強する者が一番犯しやすい悪い所で、多くの者は全部自分が他人より良く修め、或いは自分が出家で他人と違い観念があって、これらは全部傲慢で、他人を批判するのも含んだ。ある者は自らで修めて、自分が衆生を済度する能力があるまで修める考えがあって、最後に我慢貢高になって、≪楞厳経≫の中には言い及んだ、修禅の行者は大変やすくこんな執着があり、傲慢な心が一緒に来ると魔は忍び込んだ。

一旦我らは貪嗔の妄念を遠く離れて、傲慢な心を遠くはなれて、妄念を分けずに、自然に清浄な本性に回復する。四相を破るのを修め得て、空性を悟って、菩薩果位を修め得て即ち勝義諦を修め得た行者は業、因、果が彼に対しても偽りもので、自性のではなく、因縁によって生滅するのである。既に生死輪廻より離脱したので、業力が引っ張るのを受け取らないのが出来た。業、因、果の力は既に心の作用を影響しない。たとえリンチェンドルジェ・リンポチェは脊椎は大側湾だが、そなた達は見た、「阿弥陀仏無遮大超度法会」時、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法した時両足が胡坐をかけて数時間を禅座しても動かなくて、即ち心の力は既にお体を支配するのを修め得た。

リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者を済度する時、亡者の考えを知る事が出来て、空性の慈悲心を修め得て、そなたと私と分けがない境界で、同体大悲で始めて亡者の執着を分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者のためポワ法を修めて、亡者を浄土へ済度する。しかしある者は生前に仏を学んで修行のがない、≪「阿弥陀経」が全て述べたにより、こうしても仕方がないのに、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェが出来ただろう?これはリンチェンドルジェ・リンポチェが亡者の執着を知る事が出来て、亡者のため因縁を作って、亡者に仏法を受けさせて、懺悔心が起きて、仏法に対して全く敬って、善念が起きて、そうしてリンチェンドルジェ・リンポチェの加持力が得られて、同時に亡者は清浄な本性に戻って来て、亡者の業、因、果を変わって亡者を浄土へ済度するのがはじめて出来た。リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法法会の中に申されたように、亡者はリンチェンドルジェ・リンポチェが全て観想した甘露を食べて、彼らの清浄な本性を現れさせてはじめて仏法を受け取るとの
同じ道理である。

そなた達は「何故リンチェンドルジェ・リンポチェが私の事を知っていますか」を常に驚嘆した。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆の表情、言う内容により皆の問題を了解する事ではなくて、自分と相手の分別が完全に無いわけで、自分がその人で、この人の真実な状況を体得する事が出来て始めた。

空性を証して勝義諦を修めえる行者は業力の影響を受けないで、六道の衆生が彼に対して虚仮で真実ではなくて、六道衆生も変動し、永久不変でない事のである。この世に菩提願を既に発して、菩提行を行う行者は衆生の因縁により自由に六道の中に出入して衆生に助けられて、つまり仏菩薩g願により再び来るのである。もしこの世に菩薩果位まで修めないならば、ただ業により再び来るだけで、業力に従って自主的にする事が出来ないで、六道の中に輪廻し、そなた達であれば全て業により再び来るのである。

出家衆は自分が既に開悟して勝義諦を修め得た事を思ってはいけなかった。『金剛経』に記載された「無我相」、「無人相」、「無衆生相」、「無寿者相」という四相が破れて尽くさないならば、勝義諦を修める事が有り得なかった。「我相」、「人相」、「衆生相」はあなた、私、彼の分別心である。寿者相とは寿命ではなくて、時間と空間に対する分別心である。そなた達がまだ遣り遂げないので、仏法の教導を完全に従って修行して行って、全ての考えが六波羅蜜により修めて、浄土に往生する事を発願した。チベット仏教と顕教宗派が違うところはチベット仏教が全ての経典の精華が全部纏めて修行の法門になって、浄土と禅定の法門を含めて、そして、上師から弟子の因縁により伝授して与えた。世俗諦は業因果により六道輪廻の解脱を修めた。金剛乗の教法は世俗諦及び勝義諦が一緒に修めた。勝義諦まで修めるならば、菩薩果位である。

人間が死亡してから、業力に従って生まれる前のこの間に、完全に自分がどこへ行くかを知らないで、自分が海の中に置かれるみたいと感じて、周りに全て岸が見えないで、とても苦しんだ。どこまで行くか?どの位の時間に待っている事を全て知らなかった。そなた達は死亡を恐れて、死亡野過程を恐れる事ではなくて、この過程が何秒で終わって、往生する前に業力が現れる事にかかわらず、医療を受ける苦しみと四大分解の苦しみを受けた。然し、真に苦しみのは中陰身のこの間である。我々は忘れたけれども、意識田の中に同じように生々世々で輪廻する苦しみを覚えていて、だから、我々が死亡を恐れた。中陰身の状況が煙により軽いで、雷が鳴って電光が閃く時に恐れて隠れて、光線があまりに明るくて避ける事も要って、人々が多いなら避けるも必要し、食べたいでも食べられなくて、毎日に避けて恐れて、苦しみだろう。だから、そなた達は発願をするべきて、再び輪廻する事をしてはいけなかった。

私達が母の腹の中で時、とても暗いで、とても苦しんで、これも何故古人が言ったことがあって、女が妊娠の最初の3ヶ月と最後の3ヶ月と胎児が産んだ後の3ヶ月で交合することをしてはいけなかった。最初の3ヶで交合したら、胎児が自分がぶつかられてぼんやりする事になる様に感じて、最後の3ヶ月で殴るように、胎児に対してとても苦しんで、しかし、現代人がこのようなことを信じていないで、勝手にした。胎児が生まれる場合に、帝王切開術をしても或いは自然で生まれて、二つの山に挟まれてるみたいで、山に挟まれる苦を受けると感じで、生まれてから、一層の皮をむかれたみたいで、亀が殻を脱けるように非常に痛くて、この苦しみも赤ん坊の生まれる時の声をあげて泣く原因である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは現場の出家衆に開示された。そなた達は空性まで証する事ではないので、死者の執着が知らないでそして彼に済度する場合で、読経したら彼の為によく読経して、多くの考え方を持ってはいけないで、自分が彼の為に読経して、彼に済度して与える事を思ってはいけなかった。そなたはこの能力があるのでしょうか?実は、人間が往生した後、鬼が鬼通があって、人類により百倍に鋭敏で、あなたが彼の為に済度する事が出来るかどうか、鬼がはっきり分かった。そなたが「死者のために読経し、彼にあそこに行ける事を助けられる」とすっと考えていて、しかし、結局いけないならば、鬼が誰かが見付かるのでしょうか?一部の人々の因縁福報が浄土に行けないかもしれないで、そなたが彼の為に読経する場合に、彼に絶対に浄土に行く事を依然として話して、これが彼にある執着を起こさせるのでしょうか?もし行けないか?だから、チベット仏教の出家衆は死者の為に読経する場合に、どのような結果を設定する事をしないで、ただ読経することが死者に対して良い事を知る事を十分である。そなた達は何によりなん本の仏経を唱えて彼らに浄土へ行ける事を助けられる事と思っていたのでしょうか?死者に対してよい心があったら十分である。

昨日、ある女の信衆は主人が逝去したのでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した。彼女は自分が主人によく世話していないので彼に去らせた事を責めていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの前にとても悲しんで泣いていた。結局、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に大声で罵って、彼女に後で5分間を考えて済度謁見して来させた。そなた達は彼女の主人が既に死んで、何故リンチェンドルジェ・リンポチェがまだ彼女に罵る事をか絶対に考えていた。彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した場合に、心が既に乱れて、如何なる諭しが耳に入らなかったわけである。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の考え方により彼女にしたがって、それがつまり彼女を続けて泣いていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を耳に入らなかった。

しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは死者がとても苦しみを知っていて、死者に急いで助けて、しかし、家族が求める事を言わないでので、死者に助ける縁が無かった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に罵って、彼女が自分が罵られることを耳にして、自分がこのように悲しんでなぜまたこのように罵られた事を急に感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェの指示により後で5分間に再度考えて再度帰った場合にリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を注意して始めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは大能力で彼女に多くの彼らの夫妻の間だけの知っている事を教えて、彼女がぽかんとして、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の主人に助けられて始めて、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の主人に済度してくれる事を求めて、そして、彼女の主人にリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを貰える機会が有って始めた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日現場で居た弟子が驚かせたかどうかを尋ねた。その時に側でリンチェンドルジェ・リンポチェに仕える出家衆は、この信衆が最初リンチェンドルジェ・リンポチェの開示が完全に耳に入らなかったと表示した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェ彼女に強くて罵った後で、彼女が後で5分間を考えて再度謁見した場合で、全ての心が開いて、リンチェンドルジェ・リンポチェが各々の衆生に助ける方法がとても殊勝な事を見えた。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示はこの信衆がお金持ちで、普通な人であれば、お金持ちに感情を害しなくて、彼女により丁寧する事と思っていた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように思わないで、するのが如何に最も有効な方式で衆生に助けるのである。衆生の業をより重い場合には、採用の方法がもっと素晴らしさ手段である。

ある人の家は新しく生まれる息子がいて、ついに代々血統を継ぐことができる事を待ったのでとても嬉しくて、至宝を手に入れたかのようで、太子のように抱いた。このような感情があったらある執着で、子供がこの世で来て、恩返しをするか復讐するか、未だにまだ分からなかった。そなたはどのように子供が自分の家に来る縁が知るのでしょうか?このような情けの執着があったら、往生する前に苦しみを知ってしまって、放す事が出来なかった。

仏を学ぶ事は生々世々のことで、自分でタイムテーブルを設定してはいけなった。リンチェンドルジェ・リンポチェが最初閉関する場合には、事前に設定した事が無いで、今回の閉関が自分が何を見えるか?どんな感じがあるか?どんな果位まで証するか?法本と記載された内容で何を修めえるか?何も考えないで、ただしていった。そなたは事前に予想がある場合に、これも執着である。多くしたら絶対に良い事ではなくて、嘗て顕教を学んだ時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日に45分から1時間で座禅を組んで、金剛乗を学ぶまで、現在、毎日に座禅を組み時間がないけれども、毎秒で全て禅定に入っていって、そなた達が現在遣り遂げないで、リンチェンドルジェ・リンポチェのように学ぶ事が出来ないで、するべき宿題をしなければならなかった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示する仏法内容はそなたが身口意で実行するのでしょうか?もし今までそなたが「身」について困難があって出来ないならば、例えば大礼拝の環境がない、少なくともそなたの口と意の方について遣り遂げて、全部の考えが善念で、絶えずしていって、ある日までそなたが仏法がそなたへの助け、衆生への助けを体得する事が出来た。

チベット仏教の不共四加行の中に、10万回の大礼拝を完成しなければならなくて、が、ある上師が不共四加行を伝える時に、在家衆に「在家衆の時間が足りないので、ただ1万回の大礼拝をしたら十分である」と説いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは少しも妥協しないで、完全に伝統な教法に従って、弟子達に10万回で完成することを要求した。何で10万回の大礼拝を完成しなければならないでしょうか?これは10万が円満な数字で、一部の人々が1万も整数と言い争って、しかし、10万が仏教の中で殊勝な意義があった。そなた達は仏教の中に10万億仏がいる言い方を聞いたもあった。その上、我々のこの業報身は身の上に付けるのが業だけで、大礼拝を通して、そなたの気脈の間の業を益々減らさせて、甚だしきに至って一掃することを助けられた。もし礼拝する回数が足りないならば、この業が減らしにくいのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子に教導するのは10万回で礼拝しなければならないで、もし1万回だけで礼拝したら、身体の気脈の業の効果に対して大きくなかった。密法の修行次第は「事」、「行」、「瑜伽」、「無上瑜伽」に分けて、全て気脈を修めて、密乗を修める修行者は普通で20歳余りで準備して、40歳以降に体力が足りないで、その時がとても苦労して、修めて上がっていかない、リンチェンドルジェ・リンポチェが40歳で不共四加行を修められて、密法を学んで始める事がとても特殊な事で、見た事が無かった。

本来、今年、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関する事が要らなくて、然し、直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェに帰って閉関させて、これが直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェが済度するために、福報をそなた達に多く消耗させた事を知っていて、だから、再び帰って閉関して、リンチェンドルジェ・リンポチェの身体にもう一度充電して、もっと多くの衆生に利益する事が出来た。

リンチェンドルジェ・リンポチェの教法ととても厳格で、市中の仏法を広める者がそなた達に丁寧な言葉を使って、そなた達に感情を害する事をする事をしないで、慈悲深くのような「阿弥陀仏」を言う事もしなかった。実は、伝統な教法は打ったり、罵ったり、叱りつけたりすることにより弟子を教えて、また、チベット仏教の不共四加行の伝統がとても長くて、その上、仏教の中に探せることが出来で、不共四加行が誰かがの発明ではなかった。この上師は随意に修行の内容を変更して、伝統に従って教導することではなかった。実は、10万回の大礼拝をするのは我々の身体にいる文武百尊と関係があって、しかし、これが密法と関係があって、リンチェンドルジェ・リンポチェが多く説く事が出来なかった。

何故六波羅蜜を修めるでしょうか?これは六波羅蜜を修める事により、六道に堕ちないわけである。六波羅蜜の前の三つ項目の修行は「布施、持戒、忍辱」である。「布施、持戒」を修めると、餓鬼道と地獄道に堕ちな事が出来る。大礼拝をするのは自分の為ではなくて、衆生の為にして、これが衆生に布施する事である。不共四加行の伝統を守る事も持戒である。上師から教導する仏法はそなたがしたら、これも持戒である。忍辱は罵られて返事しない事ではなくて、人間が我慢できない事を一切が我慢するのである。仏法を学ぶのは瞋念が重いならば、これも我慢しないで、阿修羅道に堕ちられて、また、天道も高慢である。そなたが身体の苦労が我慢して大礼拝を完成することも忍辱である。大礼拝をしてから死ぬ事を聞いた事がなくて、礼拝してから身体が痛みを感じでも特に問題がないだろう。これはとてもよいである。これは弁済である。たとえ礼拝してからもうすぐ死ぬ感じがあっても、実はもっと良くて、そなたに先に死ぬ感じを体験させて、これから如何に修行する事が知っていた。

そなたが在家衆のでとても忙しくて10万回の礼拝する時間がない事を言ってはいけなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェも在家衆で、同じように礼拝する事が出来た。況して、リンチェンドルジェ・リンポチェは40歳余りに大礼拝をする時に、最も貧困な時で、往々一日中のお金が一つの弁当を買えて、昼食を食べてから夕食が食べられないで、少なくとも1列のチョコレートをかった。その時、車を乗る金のも無いで、如何にお金があって、冷気と扇風機の電気代を支払うのでしょうか?台湾の夏の温度がどれだけ高いかを皆が知っているので、夜にビルの中で少なくとも38度に達して、このような条件にて如何に礼拝するのでしょうか?然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは業因果を信じていて、ただ上師の加持だけで求めて、自分に大礼拝を完成させた。なぜ大礼拝をするのでしょうか?そなたが苦しみを経ないなら、苦しみを了解しないで、苦しみを了解しならいなら、苦しみを離れる事を望まなくて、如何に衆生の苦しみを体得して、それから、衆生に輪廻苦海を離れる事を助けるのでしょうか?

尊勝な直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに説いた事があって、尊勝な直貢チェツァン法王でも、当時が子供の時に、尊直貢チェツァン法王が腕白なところがあったら、経師も直貢チェツァン法王に頂礼してから責めて打って、これが経師が直貢チェツァン法王を弟子として教導してくれた。同様に、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に弟子として、だからうって責める方式によりそなた達に是非させて、或いは、ある日までリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に丁寧したら、そなたが弟子とする事ではなくて、そなたに駆ける予定である。

あなた達が回想してみて、小学校の1年生の場合に何も分からないで、先生に何を教えるの確認する勇気があるでしょうか?現在、自分が成長して自分が決められると思っていたのでしょうか?しかし、仏法はそなた達に生死を解脱する法門を教導し、そなたの人生経験法を全く異なって、だから、仏法の方について、そなた達が小学校の学生により及ばないのである。仏を学ぶのは自分にタイムテーブルを決めるようにしてはいけなくて、因縁が成熟したら自ずから果実があって、何も求めず学んだら、一切が業因果を転じている事を信じていて、仏を学ぶ善因があったら、果報が自ずから現れた。

そなたは何回目で生まれ変わる法王或いはリンポチェでも、ただそなたが生まれ変わると、全てはじめから学ばなければならない。そなたの地位、背景、権力、学問はどのようになるかかわらず、同じように最初から学ばなければならない。出家衆は自分が出家したので他人と異なって直接に後ろのを学ばれると思ってはいけないで、同じように最初から要して、英語を学ぶ時にABCからを学ぶのように、出家衆と在家衆の違いのは、ある例を挙げて、ただABCの字がより綺麗で書くだけで、やはりはじめから習い始めた。

ガムポパ大師は「もし真にこのような深義を証するなら、それでは、この人が利己の狭い心構えを離れて、全てのほかの衆生に利楽する輝かしい事業を嬉しくて行う。これにより、もっと善妙で素晴らしい事を証すると、我々は有情衆生の大悲の心をもっと豊かで奥深くなる」と開示された。

そなた達は「阿弥陀仏無遮大済度法会」にリンチェンドルジェ・リンポチェが法席で涙を流した事を見て、これは感動或いは考えを起きるので涙を流す事ではなくて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェは急に多くの鬼道の衆生が絶えずどっと入る事見て、これらの済度してからもうそれらのが来て、済度して終わる事が出来なかった。これらの衆生はとても苦しんで、だから、悲心を起こすと、急いで泣いてきた。皆は何故緑度母がいる事を知っていて、これは観世音菩薩が苦しみを持っている衆生が済度して終わらない事を見たので、2滴の涙を泣いて、それから、度母になった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身が観世音菩薩を言える事が出来なくて、が、涙を流す原因は少し似ているのである。

泣くのは悲心の表現だけではなくて、これはそうとは限らなかった。苦しんでいる衆生はこのような多いので、本当の主役はつまり法会に参加する民衆がずっとお手洗いを行って、あっちもこっちも歩いた。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが泣いたので、皆が見てから少し収斂することができて、これらの参列者なので来た衆生が仏法の助ける機会があって始めた。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは、来年の大法会、小便を抑える事が出来ない者がオムツを着いて法会に参加し、お手洗いを行く事を免れるようにして、その時にもし自分が用意しないならば、寶吉祥仏法センターも皆に発給する事が出来ると指示された。

今日、開示されたのは修行の次第で、修行の段階で、実は本当の行者は世俗諦と勝義諦と一緒に修めていて、然し、現在のそなた達が遣り遂げる事が無理で、ただそなた達に知らさせた。必ず上師の教導に聞いてしていて、自分の考えにより仏を学ぶ事を再びしてはいけないで、そうすると、利益を貰えなかった。

今日、共修法会が円満な終わった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の苦労を顧みないで、信衆と一部の弟子が次第に離れる場合に、リンチェンドルジェ・リンポチェが再度法席に戻って、待っている14位の信衆を続けて接見していて、仏法により各々の信衆に開示と加持を与えて、午後の5時10分まで、縁がある衆生に利益して利益された。

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2011 年 10 月 12 日 更新