尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2011年9月30日

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な直貢噶舉施身法を主催された。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。今日修めるのは施身法であり、一部の人が初めて参加したから、皆さんのために再度説明する。皆がよく誤解されるのは、密法がすごい能力を現すと思っているが、実は決してそうではない。すべての法門は生死に解脱するためであり、単に神通を現すだけではなくて、或いは各種の能力を現すだけではない。チベット語を喋ることができると密法が出来ると思わないでください、もしこのようにならば、チベットのこんなに多くの人口は、誰でも密法を学び得ることができるだろうか。そなた達もいくつか真言を唱えたり、いくつかの手印を打ったり、鈴と杵を持っていたりするのはもう密法を修めていると思わないでください。一部の弘法人がテレビ局で真言を伝えることを聞いて、自分が密法を修めていると思うが、これはすべて誤解である。

仏法は顕教と密法を分けられて、顕は明らかな意味であり、指すのはそなたがとても明らかに知らせる事であり、仏法が仰る一切は何なんであるか、つまり仏法の理論と根基を指す;そして密法がそなたに教えるのは、生死輪廻に解脱することができて、更に衆生を利益する修行する法門を教えるのであり、密法の修行は事、行、瑜珈と無上瑜珈部に分けられる。仏法の説く一切を知っていても、決してやり遂げることができることを代表しなくて、そなたが仏法の理論に対して明らかで正しく体認した後に、一人如法の上師がそなたの修行する法門を教えて、監督することを必要とする。顕教はそなたに仏を学ぶ基礎をよく固めさせて、基礎を安定させれば、これから修行する道を歩くのは順調になり、修行するのは仏法を生活の中に用いるので、理事円融までやり遂げることができて、少なくとも瑜珈部の行者まで修行しなければならないのである。

そなた達が皆、お経に説く「理事円融」を聞いたことがあるが、そなた達が字面により解釈するように、どんな事をしても他の人に感情を害しないで、周到に考えていて、円満に事をするのを、理事円融と称するのではない。自分が読経したり、ボランティアをしたりすることがあったら、理事円融であると思わないでください。毎月、基金会に数百元を寄付して、自分が善事をしているとも思わないでください、これらの小さな善がただ身を処する基本である。理事円融は仏を学んで修行する次第を言うので、そなたが仏法の理論に対してすべてよく知っている時に、生活に事を処理する中に、仏法をやってください、使ってください、「円融」までやり遂げるのはそなたが一日24時間の中のすべての挙動、すべての考えが必ず仏法でなければならなくて、如法に事をすることをやり遂げないとできない。

一部の者は菜食精進料理を食べて、出家して、皈依して、読経と懺悔して、呪文を唱えるのが修行をしていると思っている。そして、ある者は呪文を唱えながら、計数器で数を数えるが、それも役に立たない。実はこれらは別に修行しているのではなくて、ただ助縁だけである。修行するのはすべてそなたを輪廻に堕ち込ませる行為を改正することである。自分を直すのはとても困難であり、そのため、きっと上師の監督が必要であり、自分はお経或いはテレビの仏法番組を見て、修め得ることができるのではない。修行するのは必ず段階に、次第にしなければならなくて、済度するのも何冊の仏経を読経したら出来るのではない。

どうして「チベット仏教」を称すのか。何故かと言うと、最初に蓮師がインドから密法をチベットに持って伝えたから。密法は中国の歴史の上に唐密があり、それから東にある日本に伝わってから東密になったが、しかし唐密或いはチベット密法を問わず、すべてがインドから伝われて、しかも釈迦牟尼仏が伝承された法である。ただ、唐密はそれから後世まで広く伝われることができなくて、その原因はとても複雑で、今日釈明しない。密法を修めるのは、行者が必ず少なくとも8~12年ぐらい顕教を学ばなければならなくて、行者が仏法の理論についてすべてよく知っている時に、仏を学ぶ心がしっかりと不変になった後に、上師は弟子の根器を確認して、ようやく密法を教えて与えるのである。

蓮師は仏法をチベットに持って伝われる時に、チベット現地の原始宗教はボン教であり、黒教と称す者があるのではないか。チベット仏教は今ただ紅教、黄教、白教、花教など四大教派だけがあり、黒教がない。今日に至って、チベット僻地にいる一部の民衆がベン教を信奉していることを除いて、今ベン教は殆どすでに消えて無くなった。ベン教の中では、松の枝を燃やして煙の供養を行なって神様に供える儀軌があり、現地の民衆にとても速く仏法を受けさせるため、蓮師は現地の煙供の習慣をそのまま用いるが、しかしその中の呪う真言及び祈祷文を仏教の方法に変えて、だから今日チベット仏教はようやく煙供の儀軌が出来る。皆は煙供を修めるのが密法を修行すると誤解しないで、実は顕教が毎日線香を燃やすことも1種の煙供であり、リンチェンドルジェ・リンポチェは既にリンポチェという果位まで証得したが、煙供をも修めていない。というのは、煙供を修行するのがただ一般の民衆の動作だけであるから。

真なチベットの地元の人は、「活仏」という呼び方がない。活仏は中国の清末の人がただ慈禧皇太后にお世辞を言うため出来た言い方だけであり、もし活仏がいるならば、まさか亡くなった仏がいるのか。これはあり得ない。「リンポチェ」の意味は世の中の宝であり、リンポチェは世の中で仏法を教導して、衆生に生死輪廻の苦海を離れるように助けるから、その故世の中の宝である。リンポチェ果位の承認について、別のリンポチェが言う話により、或いは自分が夢を見て、自分がリンポチェ果位である事を言えるのではなくて;ただ数人のリンポチェと話し合って、ただ彼らだけに任せて、そなたがある仏菩薩の化身だと認めて有効ではない。リンポチェ果位は教派の法王が公的に認証することを通って、且つ坐床儀軌をしなければならない。こっそりとの行為は認められないから、教派の中で公然と進む。坐床とは1台のベッドを仏寺に運んで入って、行者を上で座らせることではなくて、これは1つの儀軌であり、教派の法王は行者をわりに高い下敷きの上で座らせて、公然と法衣と法帽子を授与して、しかも真言、経典などを口伝する。

一名のリンポチェをするのが容易なことではなく、リンポチェは人がやり遂げるのではない。そなた達は多くの人がリンポチェに頂礼する事を見て、とても威風であると思っているが、決してそうではなくて、リンポチェは、自分の生活がなく、自由がない。もしこの人の戒体は不清浄であれば、功徳を修め得ていないで、他の人が頂礼することを受けたら事故が起きたので、軽微なのは健康の問題が出て、更に他の多くの問題が発生するから。出家して、体に福田衣(袈裟)を着て、気軽に他人の頂礼を受けることが出来ると思わないでください。これはすべて返さなければならないので、もし福田衣(袈裟)を着ると頂礼を受けることができたら、それでは福田衣(袈裟)を懸かっていて、皆がその服に対して頂礼したらいいではないか。これも行者個人と関係がないと表した。

すでに功徳を修め得た行者にとって、皆の頂礼を受ける時、禅定に入って、同時に皆を加持して与えるから。法本に説くことがあるが、上師は根器の正しい弟子に出会って法を伝えないと、この上師は破戒となり、金剛地獄に堕ち込むが;もし根器の正しくない弟子に法を伝えるならば、上師も破戒のため金剛地獄に堕ち込む。これより分かるのは、リンポチェをするのがとても苦い、楽ではない。もしそなた達は自分がある果位まで修行することを考えるならば、或いは自分が修行して衆生を利益していると思っていると、これらの考えはすべて誤った。リンチェンドルジェ・リンポチェも信者の身分から仏法を学び始まって、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がリンポチェ果位まで証得できて、機会があってこんなに多くの衆生に利益することを一度も思わなくて、ただ上師の教導に従ってやって、自分の考えがない。

現在直貢噶舉教派はインドのヂャンチュウブリンの寺で伝統に従って、仏学院は顕教を学ぶと密法を学ぶ事を分けた。全ての人は密法を学ぶわけではないが、上師が多くの観察と試練を通して、そなたは密法を学ぶ根器を確認した後、伝授できる。更に「法は六耳を伝授しない」が、必ず上師は弟子に一対一で法を伝授する事だ。公開に説法したのは必ず密法ではない。そなた達は密法を学ばないから、真偽を判断するのは難しい。しかし、真の密法の修行者は見れば、他人が言った事は真か偽か分かれる。特に大手印が無上瑜伽部まで修めた修行者は更にそうだ。

リンポチェは若し自身が公開に認証されれば、必ず記録があって調べられるから、人に騙されない。どんな教派の伝承、どちらの上師の指導や如何なる修めたのは必ずはっきりに知らせなければならない。だから、そなた達は若しある者は自分がリンポチェを自称した場合、彼の伝承及び上師を注意して、彼が常に教派の重要な公開する場所で現れるかどうかを見る。彼は能力があって、どんな物に化するのを見るわけではない。自分が化けるや物に化するなど言われるのは全て嘘だ。神通は唯修行の副産物で方便法だ。仏経に記載されたが、たとえそなたはある者が水面で歩けるや火の中に入って傷付かない事などを見ても、此れは全て本当の仏法ではない。例えば、ある大学の教授は学校で講義をするが、応募する時も卒業する学校、学位及び指導教授など資料を提供しなければならない。そなた達はあるリンポチェの真偽を検視する時も、必ず彼の伝承、認証された過程及び彼は引き続きに仏法事業を進めているかどうかを注意しなければならない。

世間に於いて、ある者は自分が仏の果位を証する事を自称した。更にある協会に認証されたと言われた。此れは全て謬論だ。協会は如何なる仏の果位を証するだろう。仏しか仏の果位を認証出来ない。若し、ある者は仏を自称すれば、少なくとも仏経に説かれた仏は三十二相、八十随好を具える事に合わないとできない。再びにある者は言われた自分が仏の転生する事を信じないで。仏経に記載されたが、この地球に七尊仏しか住世しない。現在第四尊仏である。全てのリンポチェは如何なる現れるのははっきりに記載される。密法を修めて成就を得る者は相貌が変われる。骨でも変わられる。相貌が変わるとはそなた達が言われた通りに忿怒尊の様子になるやよく変わる事わけではない。それは業を転じるまで修めるから、体の構成と外貌は全て変わられる。そなた達のような一般人は見えないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは見ると、すぐこの人は修めるかどうかを分かる。この事を行えないと、全ては偽物である。

あの仏の果位を証した事を自称する人に対して、相貌から真偽を見える以外、そなた達も彼に漢方医に脈診される。それは脈象は人に騙されないから。リンチェンドルジェ・リンポチェは先日中国にある漢方医に出会った。この医師は非常に傲慢なので、彼を降伏するため、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に脈診されて、彼に伝えて、リンチェンドルジェ・リンポチェは今年既に64歳である。彼はとても驚いて、「リンチェンドルジェ・リンポチェの脈象は唯30歳余りだ」と言った。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの漢方薬診療所に漢方医が三人あって、彼達も嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに脈診された。彼達もリンチェンドルジェ・リンポチェの脈象は唯30歳余りと言われた。此れは確実に修行したから、凡人と異なる脈象を得た。

人の一生は業力に引かれて進めたから、そなたに遭った事は全て業力の現れである。そなたはこの世間で全ては真実で嘘ではないと思ったから、執着が起こった。執着心はそなたに絶えずに輪廻している。絶えずに輪廻しているから、累積した無数な悪業はそなたが元々清浄な本性を覆って、そなたに宇宙真実の世界をはっきりに見えない。仏経に心は清浄すれば、国土は清浄するとある。ある者は釈迦牟尼仏に聞いて、阿弥陀仏の浄土は西方極楽世界にいるが、地蔵菩薩も自分の浄土があって、全ての仏も自分の浄土があるが、釈迦牟尼仏の浄土は何処である。釈迦牟尼仏は「此処にある」と開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、釈迦牟尼仏の仏土はこの地球にいる。此処にいるのに、何故そなた達は見えないだろう。それはそなた達は心が清浄しないから。そなた達は仏の果位まで修行しないから、当然仏の浄土を見えない。だから、仏は法身、報身、化身という三つの身がある。凡夫は発心して仏法を学ぶと、諸仏菩薩は不断に各種な方式で彼に仏法の教導を受けさせる。一語、一冊の仏経、1尊の仏像、一人の仏法を広める上師など全ては化身仏であり、そなた達を済度する。

若しある人は突然に自分がある仏菩薩の化身を自称すれば、そなたたちは用心に彼を観察して、彼の伝承及び仏法を広める方式を理解しなければならない。仏法を説くのは必ず真であると思わないで、ある者は仏法を利用して、自分のある目的を達成するため。世間に於いて、ある仏法を広める者は各種な名目を立てて、信衆に料金を取る。例えば、功徳主を設けて、上師と食事するなど違う価格を設定する。或いは贈り物をするため、信衆を誘惑する。若し寄付すれば、上師が送る仏像或いは加持する物など得れば、このやり方は適切ではない。若しこうすれば、はっきりに商売をすると言えばいい。仏法は取引ではない。

二回や三回に法会を参加すれば、全ての事はよくなるわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは36歳から仏を学んでから、今まで既に64歳になる。何年にかかっただろう。若しそなた達は二回や三回に法会を参加して、十分だと思えば、そなたの根器はリンチェンドルジェ・リンポチェより言いと現して、そなたは法席に昇れる。現代人は簡単に「怠け」という欠点を犯した。そなた達は幼い頃から勉強して、大学から卒業するまで、長年にかかった。更に朝から夜まで勉強している。仏を学ぶ事は如何なる簡単ではないだろう。若しそなたは法会を参加するのは体がよくなるや子供の成績がよくなると望めば、そなたは来なくてもいい。勉強が上手か無いか加持を頼る事ではなく、業力の障碍があるかどうかを見る。勉強が下手な人は今まで他人にいい事を教えないと現した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは能力ではなく、自分の命を使って、平等心で一切衆生を助ける。例えば、今日皆のために施身法を修めて、1400人余り参加したが、そなたた達に役に立つかどうか、霊験するかどうかそなた達は自分が法会を参加する心を判断する。そなた達は若しリンチェンドルジェ・リンポチェの果位を疑うと、尊勝なる直貢チェツァン法王を疑う。若し尊勝なる直貢チェツァン法王を疑うと、つまり、全ての教派を疑う。そうすれば、法会に参加する必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて施身法を修めた以来、法会に参加する人は益々多くなった。此処から見ると、この法会は確かに衆生を助けられる。中陰身及び鬼道の衆生はそなた達よりはっきりに分かったが、若し彼達を助けられないと必ず修法者を許さなくて、尚更に多くの人に参加させない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に来させるのを要求しない。そなた達が来られたのはそなた達の冤親債主がそなた達に来させた。若しそなたは恭敬心を具えて、三宝に完全に敬って、完全に仏法を受ければ、今日の法会はそなたに役に立つ。更に此処はそなたの身分、職業、金持ち或いは貧乏を問わず、皆は全てが平等だ。そなた達は見えたが、今日功徳主を設けないが、未皈依の信衆に対して、供養も受けない。反って未皈依の信衆に一番の前に座らせて、そなた達にリンチェンドルジェ・リンポチェが如何なる厳しいのをはっきりに見せた。供養がある皈依弟子は後ろを座った。そなた達は恭敬心、懺悔心、慈悲心を具えて、法会に参加すれば、そなた達に関わる衆生は全て利益を得られる。若し、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが他の仏法を広める人と同じでそなた達を阿諛する事を望めば、二度と寶吉祥仏法センターに入らないで。

この世間の一切現象は全て我々の心より一つの表相を起した。《地蔵経》に凡夫は心を起して念を動くと、全て業であり、罪であるとある。それは我々は全ての念は自分を利益して、他人を傷付くから。仏法を学ぶのは皆に仏法を教えて、どんな事を行うべき、どんな事を行わないべきと理解させて、更に決心して修行する。仏を学べば、どんな事でも行えないと思わないで。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学んだ後でも引き続きに商売して、常に旅行している。たとえそなたは出家者であり、そうすれば、異なる戒律を守らなければ成らない。そうしないと、仏を学ぶのはそなたの生活に影響しない。

仏法は因果と説かれた。実はある事はそなたが行わないべきだ。そなたに知らせて。この事をすれば、将来も自分が悪果を受ける。此れは全てそなたに役に立つ。仏を学ぶのは全ての事によくなるわけではない。反って債務を返済するため。この世に全て受けた事は自分の前世に行なった。重要なのは来世にもはや苦しめない。はっきりに自分が何故仏を学んだ後、始めて自分が長く累積した悪習を捨てて諦めて、決心して仏法を学んで生死を解脱して、世間で遭った様々な障碍もすらすらと解決できる。そなた達は生命の意義を論議したいなら、仏法しかいない。他の方法が無い。

施身法を修める時、修法者の身につけた保護の聖物は全部取り除けるべきで、すべの鬼道の衆生に自由に彼のお体を食べさせて、これこそ「施身」法と呼ばれて、全てのお体を布施して、供養した。行者は禅定の工夫を通じて、自分の肉、骨、血液、内臓全部甘露に化したと観想して、全ての鬼道の衆生に食べさせて、また諸仏菩薩に供養する。鬼道と地獄道の衆生になるのは、生前は全部肉食が好きで、それで、観想を通じて彼らが生前好きな食べ物に変わって、彼に食べさせて、実は、彼らが食べてしまったのは全部甘露で、これ等の甘露は彼らの本性を清浄することが出来て、仏法のご開示を聞き入れる事がはじめて出来て、この方式で彼らを摂受して、仏法の助けを受けさせる。顕教では蒙山施食を修めるが、只彼らに食べさせて、彼らを済度しなくて、来年これ等の鬼道の衆生はまた来る。所謂禅定との工夫は、顕教では禅定と言われて、西蔵仏教直貢噶舉教派では即ち大手印だ。大手印は四つの階段に分けて、専一ヨガ、離戲瑜伽、一昧ヨガ、無修ヨガである。どの階段にはまた3段落に分けて、あわせて12個段落がある。施身法を修める行者はすくなくとも離戲瑜伽階段まで修めなければならない。

施身法を習う行者は、まず顕教の10~12年基礎が必要で、また四加行を修めべきで、即ち10万回の大礼拝、10万回の百字明呪、10万回の献曼達、10万回の上師相応法である。四加行を修める行者は割合に速くとも約3年間がかかって円満して、そうして、灌頂、閉関を通じて本尊の呪文を修めて、一般的に先観音法門を勉強し、上師に観想と本尊呪を伝えられて、閉関の中で100万回を読み終わった。閉関が円満して、上師が確認した後、施身法を伝えるかどうかまた決める。

施身法の法本は一般に二つの種類に分けて、一つは自修で、もう一つは他人のため修めるのである。施身法を勉強する行者は少なくとも大手印の中にの離戯ヨガまで修めてはいけなく、離戯ヨガの第三段落まで修め得た行者は、世間の一切な事と物に対しての見方が全部一般な者のと同じではなくなって、、世間の一切は一回のゲームのようで、全部仏経が説いた通り、夢幻泡影のように、虚仮で真実ではなく、世間の一切に対してもう執着がなく、ひいては他人が自分の見方さえ、賞賛或いは非難を問わず、全部念が起きられなくなった。

古代には1人済公和尚があって、彼は嘗て西蔵へ行ってとても長い時間を修行して、普通の人と同じではない挙動をして、それで瘋癲に見えて、即ち離戯ヨガを修め得た行者だ。歴史の上でも嘗てこれ等の行者を載せてあり、この法を修める行者はある時かえってわざとある行為を作って、仏法の離戯の強さを現れる。しかし末法時代では、この修行方法は既に相応しくない。上師はこの方法でそなた達の目の前にある瘋癲の話しをして、異常な行為をして、そなた達は是非この上師が神経病と言って、翌日是非ニュースになった。

施身法は西蔵の女ヨガ者マジラ尊者が《大般若経》によって創られて、般若とは智恵で、施身法の修法者は智恵によって、衆生の悩みと執着を斬って、文殊菩薩の手の中にの剣のように智恵の表われで、とても鋭い。修法者はまた空性の慈悲心を修め得なければならない。慈悲心は二種類があり、そなた達の慈悲心は全部思い出すもんで、わざと作って、心の中より自然に流した空性慈悲心ではない。例えそなた達今日あ空虚の衆生の代わりに法会に参加しようと思って、即ち思い出すのである。しかしそうしても我等はやはり慈悲心が起こるのを習うべきだ。空性の慈悲とは即ち「無縁大慈、同体大悲」で、一切の衆生に対して仏は全部平等な慈悲心で救う。言う者がいて、皆は全部仏が一番慈悲と分かって、それ以上、なぜ世界中にはまだこんな多くのところに災難が絶えずに起きられて、仏の救いが得られないか?それは縁がない、仏は嘗て仰った、無縁のを救う事ができない。無縁とは縁がないのではなく、因果、仏法を信じない者であり、仏も彼らを助ける事が出来ない。

この時、ある信者は手で足を抱いて、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの者を叱って、彼に足を下ろさせて、ご開示された:足が痛いため動いて、そなたのお体も不端正で、心もはじめて集中しなくなった。他の法師はこんなことを叱れないかもしれないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは看るとぜひ叱る。以前リンチェンドルジェ・リンポチェあ信者だった時、始め頃にも足が痛かったが、足が痛いのでお体が動く事がなくて、恭敬心があるから。ある者が法座で辛くて法を説いて、皆に助けを与えるのを知って、尊重をあげるべきだ。どうして足が痛かったか?それはそなた達は日頃に胡坐を組むのに慣れなくて、次はそなた達は肉食するから。そなたが胡坐を組む時気は関節のところに通わなくて、神経がそなたに動くと知らせて、それで痛みの感覚があって、痺れのではない。そなたは彼を相手にしなければ、この感覚は段々消えてしまう。しかし一回、二回の法会に参加して済むことではなく、時間がかかって訓練する必要である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と同じで神経があり、「阿弥陀仏無遮大超度法会」時、両足は数時間を組んで、すこしも動かなくて、恭敬心があるから、そなたは足を抱くのは敬わないのである。勿論しばらく訓練しなければならない、しかし法会に参加した後足が切られた者がいないと覚えておく。今晩そなたは足の痛みを耐えて、そなたの累世の悪業が多く取り除くが出来た。まさかそなたは今後横になって始めて返すと望んだか?これさえも耐えなければ、そなたはどう他人の感受を体得するか?

言う者がいるかもしれない、リンチェンドルジェ・リンポチェが仰ったのは私が全部聞き取れない、以前は全て聞いた事がない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも申された、法会がきくかどうか修法者と関係なく、主催者とも関係なく、法会に参加する者の心にかかる。騙されるのを恐れないで、そなた達は既に何度も騙されて、またこの一回が増えても構わない。例え騙されても損がない。人は一番騙されやすくて、鬼こそ騙され難い。彼らを済度することが出来なければ、修法者のお体は必ず状況を出て、それに人もますます増えることがない、只段々少なくなった。外の道場では気持ちのいい椅子があって、そなたに座らせて、またの水があって、そなた達はそれに参加しなくて、かえって寶吉祥仏法センターに走って来て、即ちそなた達と此処と縁が有るとの表われである。

こんなに多く言ってそなたに聞かせるのではなく、あれらそなた達が見えない無数な衆生に聞いてもらい、彼らは聞き入れて、受け取ったら、後、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法することが割合に気楽だ。そなた達が敬う心で法会に参加するのは即ちあれらそなた達と縁がある衆生の代わりとの表われだ。そなたはこの世にいれば、そなたの歴代祖先はこの法の助けが必要だ。この法会はあれらの衆生を済度する外に、そなた達も済度する。死んではじめて済度が必要ではなく、そなた達は現在生きていても済度が必要だ。そなた達の正しくない価値観、そなた達のあやまちの見方、そなた達のお体の中にあれらの衆生を済度する。我等は恭敬心と懺悔心で法会に参加して、法会を通して、この宇宙中にの衆生の業力を多く減る事が出来させた。多くの修行者は全部絶えずに仏法を広げて、法会を行って、即ち衆生に累世の悪業が減るのを助けられると希望した。

そなた達の心が落ち着ければ、自分の父母目の上者は右手で、同輩は左手で、六道の衆生は後ろに、冤親債主は目の前にのを観想して、一回で結構だ。嘗てある者は法会に参加した後、リンチェンドルジェ・リンポチェに伺って、自分が法会に参加した後右の肩は大変痛くて、彼は法会中にずっと観想したから。寶吉祥仏法センターのメンバーが多くて、それより、色んな同じではない物語りをそなた達に聞かせる。

引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な施身法を修めて、また、参列者を連れて六字大明咒を長くて唱えた。修法が円満な終わった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示された。今日、地蔵菩薩と観音菩薩が来て皆が済度したい衆生に導きに来た。今日、、済度する時に、一部が水で溺死し、一部が山で遭難した。その上、死ぬ前に身体が臭くて、糖尿病の患者のように、傷口が潰爛して悪臭があった。その上、女衆が死ぬ前に怨みがとても重くて、死んでもずっと家に残して災いを招いて、彼女の家族に影響させた。その上、地獄から起きて、そなた達の間の祖先が動物を飼った事があったのに、彼らをよく取り扱っていなくて、だから、この因果を得た。これにより、我々が生きている時に、自分が怨みの心を減らす事を訓練して、執着の心を減らして、さもなくば、死んだ後、このような心があるから、解脱する事が出来なかった。

そなた達がそれらの愛人、情婦、情人というドラマを見てはいけないで、甚だしきに至っては見ていて、自分でドラマの主役として、見ながら、自分の身の回りの男を罵って、これは自分の恨みの心に強化させていった。天に大きい声で叫んで、天を怨む人は、因果を信じていないのである。眷属が円満せず、自分の修行が良くない事を責めよ。そなたが未来の人生は新しい悪業をせず事が出来る事を望んだら、ただ仏法だけで、他の方法が無いのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはテレビがある以来、ドラマを見た事が無いで、それはとても偽りと感じるわけである。ただ面白い事とするならば気軽にそれでよい事を見たらがいいですけれども、くれぐれも本気にしないでください。

ただ女性だけで恨みの心を起きる事ではなくて、男も出来た。が、男が最も重要なのは責任を負って、遣り遂げる事が承諾し、遣り遂げないなら、無責任に言ってはいけなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモアで下記のように説いた。女は男が言った話が死ぬ前まで忘れない事が出来で、もしそなたが死ぬ前に、彼女はそなたが遣り遂げない事を覚えるならば、そなたの側に言って、これがそなたに良くないところを率いた。さき来たばかりのある男の鬼のように、死ぬ前に、家族が彼の側にこの人がどれらの良くない事をした事を言った。

市中の多くの人は自分が能力があることと名乗って、他の人の後で多くの衆生に従う事を見えて、然し、処理する事が出来なくて、ただ話して他人の恐れをあげられただけである。真に見える成就者は簡単に言う事をしないで、見ても言わなくて、悩みを他人を与えたくなかった。実は、皆の後ろに多くの衆生に従って、誰がそうではないでしょうか?しかし、真に行者は衆生が自分の後ろに従う事を恐れないで、これは因果を信じているわけで、これらの衆生がそなたと恨み及び仇が無いならば、そなたに傷つけないで、かえって、そなたが修行する事を待って一緒に成就して行った。仏法が因果を諭して、そなた達が現在するのは過去でした果報で、だから、現在でするのが未来で往生してから行くところを影響し、一切が全て自分でしたのである。自分の後ろに多くの衆生に従う事を知ったら、心も懺悔心を起きなければならなくて、自分の過去でした悪を知らなければならなくて、以降で改正しなければならなかった。先、修法していた時に入った衆生はびっこを引いて歩いて、生前が不具者で、これも殺業のわけで、彼の身にまた一匹の蛇を巻きつけていて、これが彼の生前に蛇を殺した事があったわけである。

いま、市中にはこのような状況があったら解消することを流行していて、だから、様々な料金徴収の行為があった。実は、法を修めてそなたに解消してくれる事が出来なくて、真に解消するのがそなたの自分によるのである。そなたが懺悔して、改正して、善行をして、仏を学ぶと、そなたの冤親債主も利益を貰えさせて、そなたと彼の恨みがやっと解消する事が出来た。

リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法の法本の三つの話を下記のように特に釈明されてた。一つは「三界の下土と彼之上を遍く」のである。この中に「彼之上」とは全ての宇宙の中で天体の皮で、また、地殻の下の全ての衆生も含めた。修行者は観想を経由して、自分の骨、血、肉、内臓を山のように積み上げて、全ての来客つまり衆生に楽しんで食べさせた。全ての六道で輪廻する衆生は同じように肉食の考えを持っているので、修行者がこれらの衆生に済度したいなら、彼らの考えを満足させる以降、また彼らに「そなたが私のを聞こう」と諭した。もし菜食を山のように積み上げる事を観想したら、彼らが恐らく見ると離れるかもしれなかった。

観想の中に骨、血、肉、内臓があるので、肉にて供養する事が出来るのを思ってはいけなかった。だから、そなた達が肉食する事が出来るのを誤って思ってはいけなかった。実は、肉を観想する事とは、三悪道に堕ちる衆生が生前に全て肉食した事があるので、肉を観想して彼らに自分が慣れる食べ物を食べさせて、衆生が腹の中を食べてからこれが甘露を知って始めた。甘露とは外で言う「赤い明点」と「白い明点」ではなくて、衆生の瞋恨と悩みが烈火のように燃えて、だから、甘露の比喩で烈火を水にて消えて、彼らの煩悩を消えた。もし修行者の自身の煩悩と執着が断たないなら、鬼道の衆生が食べるのが甘露ではなくて、かえって綺麗ではない水で、修行者の自身が悩みを断たれないなら、如何に他の衆生に助けるのでしょうか?

一つの内容は「私の今日の功徳を上まで三善道に至って、下まで阿鼻地獄の一切の衆生に布施される事を望んでいる」である。阿鼻地獄とは五無間地獄を堕ちる事である。法本の中にこれらの諭しが密法に属して、本来言えないはずで、しかし、そなた達に仏法の慈悲と仏が如何に求める事を知らせた。金剛乗の心量はこのように大きくて、そなた達が思っている変わるとは密宗である事ではなくて、或いは、自分の安楽を求めて、加護を求める事ではなくて、かえって、自分の心量を無限な大きさを広める事である。我々の普通な人間は宇宙にこのような多数な衆生を難しく想像出来なかった。そなた達は「考えるだけで遣り遂げるか」を言うかもしれなかった。「勿論出来ます!」そなた達が有る人を好む事も考え出して、ある者を嫌がるも考え出す事も出来て、ある物を食べる事を好む事も考え出したのである。そなた達は今日リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法にてどのような観想を聞いてから、自分が帰宅するとそのまましてはいけなかった。くれぐれもしてはいけなかった。密法の訓練を経由しないとこのように考えるならば、身体が必ず状況を出した。

禅を修めるのは一部の人々が思っている目を閉じていて、見えないようなそこに座って動かない事とは「禅定」である事ではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故皆に禅組みをずっと教えないのでしょうか?そなた達がまた多すぎる考えを持っているわけである。多くの人々は目を閉じて禅定をやっと出来る事と思っていて、しかし、目を開けるならば、同じように見えるのではないでしょうか?目を閉じて見えなくて妨害しない事と思っているでしょうか?目が見えないでも、心も見えられた。大手印の禅定は目を閉じる事ではなかった。いま、そなた達が仏を学ぶの最も大きな問題とはそなた達の感じで、そなたも目を突いて、耳を切り落とす事も出来なかった。六根の感じが取り除けないで、だから、如何にそなたの六根を利用して修行の工具になる事が上師の教導が要って、そして、如実でして行った。その時、ある男の弟子の携帯の鳴りを響いて、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子が直ぐに道場に離れる事を指示させた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「今日、法会を参加し終わって、皆も他の道場を選んで仏を学ばれて、寶吉祥仏法センターまで来るとは限らない。そなたが以降で仏を学ぶかどうか、或いは、いま家庭の中に困難があって暫く仏を学ばないで、しかし、『十善法』を修めなければならない。仏経に諭された善男子、善女子とは十善法を修めた事がある人間です」と開示された。十善法の第一は殺生しないで、つまり菜食をしなければならなかった。そなた達の女性が綺麗な事を好きで、化粧が何か効果があるけれども、60歳を超えて顔も同じように崩れて下りてきて、しかし、菜食したらそなた達に綺麗にならせた。男性が菜食したら、女性にそなた達にもっと好きにならせて、肉食する男がとても臭くて、女性が勿論好きではなかった。「臭い男」という名詞は古代で男が肉食する機会がより多くて、肉食を多く食べると自ずから臭くなって、菜食したら臭くなることが有り得なかった。

第2は偸盗しない。簡単で言えば、そなたの品物ではないなら持ってはいけなくて、海賊版と偽物を含めている。一部の人々は海賊版のブランドのかばんを買う事が好きで、実は能力がないならば買わないでください。いま、ヨーロッパで、もしそなたは偽物のブランドのかばんを持ったら、税関に捕まれて、何故偽物を買っても罪があるのでしょうか?これはそなたが買わないなら、誰も偽物を作らないわけである。悪口をしないで、両舌をしない。つまり唆す事をしてはいけない。綺語をしないで、妄語をしない。修行がそのレベルに至らないなら、自分が既に至った事を随意に言ってはいけなかった。

《阿弥陀経》に記載されたのはいま五濁悪世である。我々はこのような五濁悪世に生まれて、所謂「見濁」があって、いまの全ての見解が誤った。実は、人生が生きている場合に損をする事を受け入れるなら、面倒な事を多く減らせられた。例えば、最近、ある者は買う紅茶という飲み物が商店が少なく与えるので報道させて、これらの事でも報道して、これもメディアが育成したのである。商店が不注意なので少なく与えて、或いは他の原因があるかもしれない、そなたが満足しないならば、次回、この店を行って買わない事が十分である。その上、そなたがこのようなことを会うのもそなたの果報で、そなたが嘗てこのように他人に対応した事があるのを代表した。現代人は損をする事受け入れないので、コンビニに盗む事を発生した。現在の子供がこのような多くの問題があって、このような多くの社会事件を発生し、これも家庭教育が失敗したわけである。若し家庭教育がうまく教えるならば、このような事件を発生しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔の人間がこのように言い争う事を有り得なかった。

そなた達は累世に修行しないならば、この世に仏法を聞く機会がないで、が、そなた達の前世の修行を利益を得なかったので、この世にもっと機会を把握して、決心を決めて仏法を学んで、生死を解脱して行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日全ての命を尽くしてそなた達に助けを与えて、再度皆に肉食をしない事を提示された。参列者は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに口を揃えて感謝した。

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2011 年 10 月 12 日 更新