尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの法会開示

2011年9月11日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、カンポパ大師が「世俗諦」に対する教導を引き続き開示された。法会が終わった後、更に信衆を接見して、午後5時10分から夜6時10分まで、40名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

法会が始まる前に、1名の長年に皈依する女子の弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に公に発露懺悔する機会を与えることに感謝して、みんなが彼女を参考にして、繰り返し悪行を犯さないでください。同様に僥倖と逃避の心構えを持って、自ら騙して、不安な日を過ぎて、《仏子行三十七頌》が説くように:「以行者貌行非法」と似ていることをしないように望んだ。

この女子の弟子はすでに約6年皈依して、今までやっと壇城の前に発露懺悔する勇気を奮い起こして、自分が極悪非道だと感じて、深く恥ずかしく思う。彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持力で、彼女に反省させる機会と、過ちを認める勇気があることに非常に感謝した。これから間違いを再び犯しないと発願した。

彼女は毎週法会に参加しにくることが仏を学んでいると思っているが、事実上自分の悪習は少しも改正していない。性格が尊大であり、話は刀のように自分が理をもっていたら相手を許してあげなくて、知らずに他の人を傷つけても自分が全然知らないで、自分が享受できるものはすべて当たり前だと思っているが、しかしもし他の人であるならば、もったいないと思っている。自分が利己的であるのに、賛美の話が好きであり、もし他の人はちょっとアドバイスしたら、心の中で反感を持つ。自分で真剣に学んでいないが、他の人が厳しいと責めて、仕事をするのはずっと半分調子であり、内心の深い所がとても傲慢であり、自分の我執なのに、他の人が理解してくれないと思っている。

貪念と欲望を減らしていない以外、妄念がいっぱいあり、1日中お金持ちになることを考えていて、いったん利益を得ると他の人の払ったことを忘れて、他の人にすこしの利益を上げたら、ずっとしっかりと心に刻みつけて、他の人がある日に彼女に弁済することを待っている。それ以外に、また両舌の戒を犯して、同僚の間の付き合いに影響して、実際より多くの費用を申請して会社のお金を貪る。その上舅と姑に対して親孝行をしていないで、よく口答えをして、そして根気良くなくて、嗔心をよく起こして、1人の妻及び母として尽くすべきな責任をもやり遂げていない。結婚する前に堕胎したことがあり、結婚した後に更に2人も堕胎してしまって、邪淫を犯して、虚栄心を満足させるために金を借りて商売をして、夫に彼女に対してとても失望させて、子供に彼女に対して諒解させないで、悪因を植えて、彼らにすべて彼女を離れて遠く去らせて、自分が孤独で恥じてとがめる貧しい日を過ぎることしかできない。自分が他人を眼中に置かないため、独断専行して相手に苦痛をあげても自分が全然知らない。彼女は深く懺悔するのを求めて、同時にこれらがすべて仏を謗る行為であり、すべてが自分の間違いだと知っていると表した。すべては地獄に堕ちる果報である!

彼女は以前に、鶏の足、家鴨の翼、刺身、子豚の丸焼、生きている海老、様々な海鮮を食べることが大好きであり、鶏を殺して、家鴨を殺して、幼い時に更に残忍に手で小鳥をつまんで殺して、小猫を虐待して、蛇の肉、羊の肉、兎の肉を食べたことがあり、ゴキブリ、蜘蛛、ミミズを打ち殺して、田螺を殺して、ネズミを溺死して、アリを熱いお湯で殺した。その上偸盗の戒を犯して、他の人の玩具を見るとその玩具を盗んで、他の人をだましてキャンディは食べて、成長する後の劣根を植えた。続けてチャイニーズ シャーペイ(Shar Pei)犬を1匹飼っているが、いつも殴った。この女子の弟子は過去の様々な悪行に対してすべて1つ1つ懺悔して、発露懺悔してもう再犯しない。

この女子の弟子はこう言及した。皈依した後に、依然として教えに従って遂行していないで、戒を破っただけではなくて、仏法を生活ににも用いないで、ただ上っ面を撫でて、いつも阿奇を修めていないで、大礼拝もまだ完成していないで、我が道を行ってしまい、多くの理由を探して自分の誤りを許して、怠けている悪業を犯して、自分の乱れている心をもしっかり見ていないで、自分の貪、嗔、痴、慢、疑を絶えずに放縦して、《仏子行三十七頌》を読むのさえも非常にびくびくしているのである。

彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に利益する心を停止したことがないのが見えて、毎週法座に上がって殊勝な仏法を開示して、ひっきりなしに閉関して自分が修行した福報、体力とエネルギーで衆生を加持して、絶えずに衆生のため法を修めて手伝って、命知らずに無数の衆生に超抜して、いつも弟子を配慮して、大慈大悲力は一人の衆生をも捨てないで、弟子を厳格に育てて、いかなる弟子が間違うことをして地獄に堕ちる果報を得ることを見るに忍びないで、と表している。輪廻が停止なしの監獄のように戻れない道を歩く孤独さであると、衆生に警告した。彼女は懺悔して、輪廻するのは業力により牽引されて結局は無終期の苦しみを受けて、欲望により牽引されて満足できない苦しみを受けれ、生死が限りがないから限りがない苦しみを受ける。釈迦牟尼仏の時代に生まれていないが、しかし今生に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの教法に依止して仏法を学ぶことができるのは、最大の福報であり、最大の幸福であり、世の中のすべての名利を持つことよりましである。

女弟子は起こった一切果報を向き合って受けたいと表した。これから自分の行為を修正して、本当の仏教徒の生活を過ごして、自分に円満な仏道に進めて行けさせる。広大な有情を代表して心願を発して、世間一切煩悩の本質をはっきりに見て、生々世々に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに依止して、有限の命で此の世に覚悟できて、生死を解脱できて、六度を行い菩提心を発して有情を利益する。

女弟子は同時に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、母親を助けた。女弟子の母は2007年3月に三度の脳卒中を起して、台中栄総ICU病室に入院した。昏迷に陥って既に一週間になった。当時この弟子は北インドのパンジャブ省のシーク教区の有名な都市ジャランダー(Jalandhar)で尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を広めて衆生を利益する法会に参加した。この間ある日彼女の頭は突然にねじ切られるように感じた。彼女は「頭が断った。」と叫んで心の中にいつも不安を抱いて落ち着かなかった。台湾に帰った後、彼女は母が入院した情報を貰った。彼女は尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェを祈って、母を助けて阿弥陀仏浄土に行かせる。当時尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に法を修めて、同時に彼女に弟があるかどうか聞いて、母が心から第二番目の弟を懸念していると言われた。この弟子は父が異なった弟が三人有った。第二番目の弟は嘗て鼻咽頭癌に罹った。尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子を指示して、母に二件の事を伝えた。第一、一番目の弟と三番目の弟に母に知らせて、彼達は二番目の弟を世話して、母に安心させる。第二、この弟子に母に知らせて、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩が母を助けたので、安心してくださいと伝えた。

当日午後5時に病院の電話を受けて、母の血圧は急に下げた。彼女はすぐ母を連れて家を帰って、挿管の苦しみを止めた。家を帰った後、母は亡くなった。この弟子は上師リンチェンドルジェ・リンポチェを母の頭の上で観想して、三人の弟と引き続きに10時間に仏を唱えていた。母の顔は非常に落ち着くようになった。火葬した後不思議な瑞相が現れた。一番目の弟から知らせたが、母の骨は観音像と七色の舎利花があった。弟に最高のものを見たと感嘆させた。一番目の弟に此れは全て徳を具える上師尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの助けである。弟は当時非常に感動して、母を代わりに発心して供養した。葬儀社の人も言われたが、今までこのような色が綺麗な骨を見た事が無い。家族の心の中に悲しくなかった。却って母はとてもいい福をもって臨終の時に徳を具えて実証を修めた大修行者、大成就者尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な済度を得られた。

彼女は衆生を代わりに祈った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法輪が常に転じて、常に長く此の世に存在して毎年「阿弥陀仏無遮大超度法会」を主催できて、尚更に多くの衆生を利益できて、尚更に縁がある衆生を引いて寶吉祥仏法センターに入らせて、仏法を学べる。この弟子は生々世々でも直貢噶舉の弟子を願って、教派を護持して、確実に教法を学んで上師の恩を報い、歴代伝承祖師の恩を報い。更に身口意で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを供養した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に六回の大法会の司会者を担任させたが、この一切の功徳を一切法界眷属に迴向した。また、全ての兄弟子を感謝して、道場を荘厳して、皆にこの清浄な場所があって、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を学べて、輪廻生死大海を解脱できる。最後上師のご健康をお祈りし奉る、御身が末永く長寿であります様に、事業の旗幟が円満で盛んになる、上師の加持が離れざる様に願う。

続いて他のある信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ及び参列者に発露懺悔した。彼はまず尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、自分に発露懺悔する機会を与えて、皆に自分が如何なる大修行者の時間と体力を消耗する事を知らせた。去年(2010年)6月13日の茶会に当時彼はまた皈依弟子であり、独り善がりで若い兄弟子のために発言して、尊勝なる直貢チェツァン法王に質問した。彼は寶吉祥仏法センターに多くの若い兄弟子は自分と同じな考えがあるかもしれない。何故早めに仏を学んで友達と遊ぶ事が出来ない。

彼は欲望を満たした発言は完全に道場の全て若い兄弟子を巻き込んだ。独り善がりで勇気があって自分の考え方を他の兄弟子の考えとして思った。実は兄弟子達を誹謗して利用した事をわからなかった。当時彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに二年余り皈依したのに、完全に詳しく自分の心を検視しなかった。自分の心は既に悪と欲望が満ちたが、始めて皈依したばかり感謝の心が満ちた時に比べると、もはや自分の心ではない。彼も他の兄弟子達に懺悔して、皆に自分の口実を使わないはずだ。自分の問題なのに皆を巻き込んだ。

彼は思い出した、あの頃自分が皈依した時、他の弟子の皈依した過程より大変順調だった。はじめて法会に参加するのを求めて、一週間を過ぎた後直接皈依するのを求めに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェもすぐ仰った:「心があれば結構だ」この言葉はまるでリンチェンドルジェ・リンポチェは既に彼があれから多分あった問題を知った。しかし、彼はあの時只皈依が出来た喜びに耽って、思い出さなくて、実はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された一つの字か言葉は全部皆が心の中に刻むべきである。

皈依した後、彼は始めからとても従順で、毎日リンチェンドルジェ・リンポチェが全て教えてくれた宿題をして、しかし段々3、4ヶ月後、ある時家に帰って疲れすぎて先寝て、翌日起きてまたアキ・ドロルマを修めて、その後、ひいては修めなくて、心の中に思った:「大丈夫、只一日で、常にまだ修めている」。彼はこんな少し少しの怠惰と油断で自分が既に偽な弟子になったことを気づかなかった。ただ道場へ行った時おとなしいふりをして、家に帰った後怠けの模様だ。その後、彼は兵役をする時さらに誇張で、家に帰らなかった時全部アキ・ドロルマを修めなかった。実は心があれば、軍隊にいても修めることが出来る。この期間彼は母親と彼の考えを相談しなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェにも懺悔しなくて、隠せば隠して、他の過ちを犯した弟子の背後に隠して、法会する時遠く座れば遠いほど良くて、リンチェンドルジェ・リンポチェが見えないところにいたら見付けられないと思って、彼の心は既にこんなに怠けになった。

尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助ける時全く残らない。昨日彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが信者と面会するのを見た。ある家族皆は前にあがって、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを求めた。彼に深くリンチェンドルジェ・リンポチェが「深く愛すれば、ひどく責める」を深く体得させた。皆は常にどんなに従順でないと問わず、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもひどく加持した後、また信者と弟子達に一番優しい開示と加持を与えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに皆を可愛がって、まず皆が気づいたところを綺麗にして、また一番良い薬を擦り付けて、皆に一層速く治せた。彼はこれも何故リンチェンドルジェ・リンポチェが千あまり名弟子達の目の前に彼を指名したと思った。もう彼に過ちをし続けて行かせたくない、だからこんなに厳しかった。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェはかえって彼に信者の身分で法会に参加させて、彼は本当に大変尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着た。

リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を助けるのはこれだけではなく、彼が中学二年生の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の外祖父のためポワ法を修めて、修法終了後、また自らで病院へ彼の遺骸を見に行った。その後、施身法を行った時も彼のおじ、おばと彼の冤親債主達を済度した。

外には、リンチェンドルジェ・リンポチェが2008年末インドで彼に仕返せないほど恩徳を与えて、彼にリンチェンドルジェ・リンポチェの護衛をさせた。彼には武術の背景がなくて、どんな保護能力がないのに、こんな福報があって、リンチェンドルジェ・リンポチェを近く保護して、実はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を保護するようと感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは空き時間に彼と外の護衛にどのように馬步をするとある武術の基礎を教えた。一つの身に近く攻撃武術を教えてくれるとリンチェンドルジェ・リンポチェがまた自らで彼と武芸を比べた。彼は20才位青年で、かえってリンチェンドルジェ・リンポチェに二歩の遠さまで弾かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェのお体の下の部分と馬歩は本当に穏やかで、これは数十年武術の達人があるもんだ。その他、リンチェンドルジェ・リンポチェの足の背中にある肉を隆起した。これは砂袋を蹴るのを練習して、高い所まで出来たことに起きられて、尊い金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまた彼に足の背中のあの肉を触らせた。

彼は武術が出来なくて、何の才能もないので、リンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に歌うことしか出来ない、しかし意外にリンチェンドルジェ・リンポチェは歌うに対しても専門だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に仰った、彼が歌う時感情が入れなかったので歌詞の境地と合わなかった。そうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは彼に歌を聞かせて、リンチェンドルジェ・リンポチェの声は温厚に磁気があって、感情が満ち溢れた。

彼も、リンチェンドルジェ・リンポチェがどのように直貢チェツァン法王に敬愛する事を近距離で見た。直貢チェツァン法王の一挙一動を全て詳しくて対応し、一言一句に全て恭しさを満たしていた。しかし、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに全て身を隠して、発見させられないと発見させられない心構えをして、本当に差異が遠すぎた。その上、彼はインドの日程の間に、ホテルを離れた後、皈依證がホテルで落ちられた事を発見した。大勢の兄弟子を動員させて、ホテルと連絡し、それからやっと持ち帰って来た。彼は皈依證が命と同じに重要な事を見なさないで、本当にとても悪だ。また、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェのガードマンが担当したので、直貢チェツァン法王の身の回りのラマ僧が彼らが離れる時に、ガードマンの皆に厚くて多くの甘露丸をあげた。その場で断らないで、贈り物を貰えた理由は完全でリンチェンドルジェ・リンポチェのわけで、こんなに重々しい贈り物が彼がどのように返すのでしょうか?尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェは彼の替わりに返さなければならなかった。だから、彼はここにリンチェンドルジェ・リンポチェど他の兄弟子達に懺悔した。

法を知りながら法を犯したら、罪が普通により増える事とは彼が皈依した後の状況だ。彼は何度もリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いてから、下記の事項をまたして、多くの戒律が破れた。

去年(2010年)、彼はある女の事が好きた。彼女が「あなたと一緒にお酒を飲みたい」を話したので、日曜日の法会に参加しないで、却って彼女が好きな2本のビールを買って、翌日に彼女と一緒に飲めた。去年(2010年)に退役する時に、彼は友達と日本へ個人旅行を一緒に計画して、しかし、祥楽旅行社で働く兄弟子に知られる事を恐れたので、他の旅行社を見付かって、その上、こっそりと母とお金を借りて日本へ遊んでいった。皈依した後、彼は2回目でおにぎりを食べた事があって、本来菜食のおにぎりを買ったが、結局、食べてから肉食なおにぎりを発見し、すぐ停止していないで、かえって衆生の肉を食べてしまった。彼は依然として海賊版のソフトウェアを使って、ダウンロードの歌を聞いて、海賊版の映画を見て、つまり偸盗を犯した。彼は同じように成人向けビデオを見て、下品な言葉を言って、二舌をして、是非を聞いて、運転する場合によく法律を違反し、母にお金を借りて返さないで、妄語をして、他人に承諾する事を遣り遂げないで、両親に口答えをして、よく遅刻する事をした。

嘗て、彼は寶吉祥仏法センターでボランティアを担当していた時に、他の兄弟子は彼を助けてあげる事を尋ねて、彼が力を尽くしてしていないで、それから、自分が他の事を務めたいを言って、チームを離れた。道場で如何なる事をしてもリンチェンドルジェ・リンポチェが与えた機会を考えしないで、分別心を持ってはいけなかった。退役した後、ある者が彼に寶吉祥集団に勤める事を紹介させて、しかし、彼は他のしたい仕事があったので、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に与える仕事機会を断った。

インドに行った時、尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェは彼が楽団をプレーした事を知っていて、だから、彼の楽団に寶吉祥集団の忘年会で出演する事を尋ねて、彼がその場で直ぐに承諾した。しかし、1ヶ月の後、リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなた達の団員が着けるか」を彼に再度尋ねた。彼の回答は「出来ない」を答えた。だから、上師の間の因縁を切れた。その上、上師は楽団のある者が兵役を服するので着けない事を知った事に深く驚いた。実は、彼は上手くしないで、ただしたいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに承諾した事が絶対に遣り遂げて、しかし、彼がその時に逃避を選んだ。その上、彼は上師に承諾した約束が違反できるなら、何も出来ず事が無いのである。

彼はワインの会社にロゴを設計した事があった。小さい頃、テーブルと椅子の上に修正液で丸を画いて、蟻を閉じ込め始めた後に、またゆっくりと丸をいっぱいを塗って、蟻をを窒息して死なせた。彼は嘗てカイコを飼った事があって、それらが多くの卵を生んだ後で、再び全て無くしてしまった。彼は嘗て4匹の亀を飼った事があった。しかし、自分が面倒さを嫌って、常に水が替わらないで、それらを全て皮膚病に罹って死なせた。小さい頃、雨の日、彼の家に蟻があって、ただ彼の机の上に飛んだら、彼がそれらの翼を抜いてしまって、それからものさしにてそれらをきってしまった。彼は小さい頃に肉食する事が好きて、特にハンバーガーとピサが好きである。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェと彼に傷害させられた衆生に懺悔した。

彼の心と考えは時々刻々に悪い考えで、尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に対する教導を浪費させた。リンチェンドルジェ・リンポチェに仏を学んで両親に親孝行をしに来る事を騙させて、仏を学ぶ名義にてリンチェンドルジェ・リンポチェ、両親、家族、友達に騙させた。仏を学ぶ事とは性別と年齢を区別しないで、リンチェンドルジェ・リンポチェが諭した「心があったら十分だ」のである。ここに、彼は尊勝直貢チェツァン法王、尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェ、諸仏菩薩に深くて懺悔し、彼が真に間違った。リンチェンドルジェ・リンポチェに彼にもう一度皈依して仏を学んで発心して供養する機会を与える事に頼んで、道に迷った彼にもう一度上師の側に従う機会をを与える事を求めた。また、彼の自身の誤った経験により、兄弟子に自分の心を時々刻々に気付かせた。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後に:前回の法会に、皆に「世俗諦」と「勝義諦」の菩提心を開示された。世俗とは俗っぽくなくて、そなたは身が六道にさえあれば、たとえ天道にあっても、まだ輪廻に解脱していないことさえあれば、すべては世俗の中にある。世俗菩提は六道一切の母のような衆生に利益するため、六度万行を通して、菩提心を生活の中に用いて、仏法と生活を別れるのではない。「諦」は仏法の重点方向を帰納し整理することを通じて纏められた綱要を指して、釈迦牟尼仏は最初に四聖諦法を教導されて、「苦集道滅」は総則である。過程の中にどんな方法を使うにもかかわらなく、例えば運転して行くか或いは歩いて行くか、方向は正しくなると、間違いの道を歩かない。だから、一名具徳の上師はたいへん重要であり、彼が自身の修行した経験にて弟子達が正しい成仏の道に導いて歩くから。リンチェンドルジェ・リンポチェは、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達が間違いの道を歩いてしまったことを見て、苦労してそなた達を一人一人引いて帰ってきて、正しい道に向かって導く、とユーモアに言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも筋骨がとてもだるくて痛いと感じて、その理由はそなた達を引き延ばして力を出しすぎたからである。

仏陀の教えた8万4千種類の法門は、1種ごとにすべてが衆生に生死に解脱するように助けるので、ただそれぞれの衆生の縁と福報は異なるので、異なる法門を受領して、ちょうど声聞縁覚を修める行者のように、「苦集道滅」の四聖諦法を修習するのである。仏法を多く学んだり、多く聞いたりしたらいいと思わないでください。直貢噶舉教派に言えば、全部で54名の本尊があり、そなた達はすべての灌頂を得てこれらの法門をすべて学ぶことがあり得なく、何故かと言うと、そなた達この一生にもこんなに多くの時間がないからである。上師とするのでない限り、こんなに多く本尊を修行する必要がある、衆生の因縁により、異なる法門にて助けを与えて、上師は自分の能力を高めるために修めるのではなくて、衆生に利益するためである。

ガムポパ大師は、「俗世諦」にとって言えば、「業」があり、「業の果報」もあり、また「生老」、「苦楽」など一切煩悩の法があると開示された。「波羅蜜多」経籍の言い方によって、「清淨涅槃」及び「(仏の)功徳三身」、「本知本覚」はすべても存在するのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。業、因、果が必ず存在するから、仏は私達に諸悪莫作(諸悪を少しもやらないこと)、止悪行善(悪を止めて善行をすること)を教えて、波羅蜜多に従って六度万行の法門を修行しなければならない事を教えて、そなたが純善をやり遂げることができて、十分な善根資糧を累積して、そなたの清浄な本性はとても自然にゆっくりと現れてきて、自然に覚知することができるようになる。そなたの善根がまだ十分ではない時には、上師に対する固める信念にて頼って、上師を信じるのでさえすれば、すべては上師の仰ったようにすれば、上師の加持力を通して、同様にそなたの本知本覚を開くことができる。

お経に説く、仏を学ぶのは善知識と親しく近づくべきである。「善」とは十善法及び持戒を円満に修められる事を指して、「知識」はここでは常識或いは学問を指すのではない。「知」と「識」は二つの事であり、「知」は覚知であり、「識」は意識である。覚知は覚悟であり、宇宙の全てがどのような事であるかを知っていて、既に空性まで修め得て、貪、嗔、痴が完全に無くなって、そなたの清浄な本性に回復して、つまり自分で自分の間違いを非常によく知っている、と言うことである。そなたが覚知まで修め得ると、そなたが目、耳、鼻、舌、身、意を通してそなたの修行して輪廻に解脱するツールとすることができるが、しかしまだ覚知になっていない前に、そなたの目、耳、鼻、舌、身、意はそなたの輪廻のツールになって、そなたが六識でやるのは全て六道に輪廻する。そなた達がまだ空性まで証得する前に、ちゃんと六波羅蜜をしっかりと修めるべきであり、読経する時だけに修行しているのではなくて、或いは他の人の名前を書いてあげて済度されるのも修行しているのではなくて、生活の中に用いなければならない。そなた達の在家者の生活は出家者と異なって、出家者がある期間に何もやらないで、辺鄙な静かな所で修行することができるかもしれなくて、在家者はできないから、その故そなた達は1分1秒の生活の中に用いる。空性は自分が証得したと言うのではなくて、必ず上師の確認を経て、そなたのすべての挙動を見て決定する。自分の犯した間違いを覚知して、六波羅蜜の修行を通して、自分の目、耳、鼻、舌、身、意など六識を修行するツールとなるようにさせて、自分を輪廻に堕ち込ませるすべての行為を改正して、ようやく生死に解脱することができる。

修行していない前に、目、耳、鼻、舌、身、意など六識のすべての反応は、善と悪の業力を形成して、私達を輪廻に落ち込ませる。善業と悪業は同様に私達を輪廻させて、そなた達が仏を学びにくるのは問題があるためであり、もし、あまりにお金があり、すべてが順調であれば、そなた達も仏を学びたくない、これは善業があまりに重過ぎて、仏を学ぶのもとても困難である。そのため、まだ空性まで証得する前に、六波羅蜜の修行を通すべきで、私達の六識を仏を学ぶツールにさせる。もし自分がまだ生死の問題を解決できないならば、他の人を助ける資格がなくて、かえって人を害する恐れがある。

ある人はただ8万、10万遍の六字大明呪を唱えて、リンチェンドルジェ・リンポチェに手柄を横取りしに来て、実はそなた達の唱え方は効果がないので、100万遍さえも唱えても言う甲斐がない。呪文を唱えて役に立つのは、灌頂、伝法と閉関することを通さなければならない、その上生起、円満次第を修習しなければならない。そなた達はテレビで弘法するあれらの人の毒に当たったので、彼らがある呪文を唱えていくつかの効果があり、或いはいくつかの経を読んだらどのような効果があるかと言うことを信用したから。もぢそなた達がこのように数万遍だけを唱えたらすぐ有効であれば、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェが既にたくさん唱えたことがあるから、とっくに直貢チェツァン法王に報告して、自分が閉関しないと言うのである。お経の上に記録があり、仏法が将来壊滅するのは外道に壊されるのではなくて、仏を学ぶ者に壊されるのである。仏弟子が正しくない方法で宣説して、広く伝わるから、如法ではなくて、その結果仏法は衰微する。

現在人がテレビで多くのテレビ放送局が仏法を宣説していることが見えて、仏具店は仏経を売っていて、さまざまな大悲呪のバージョンを売って、唱えるのも歌うのもあり、更にラップのバージョンもあり、市場の流行っている需要に応じて出来る。もしレコードを売る方法を使うべきならば、さっき壇城の前に上がって懺悔した弟子も言ったように、リンチェンドルジェ・リンポチェは歌を歌うのがとても上手であるから、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェがもっと前に先にするべきではないか。これらの極端な商業化の行為のため、今多くの人が仏法を大切にすることを知っていないようにさせた。ある人はテレビの上で人に教えて、ある呪文を唱えて特定の効果が発生することができて、もしこのように学んで呪文を唱えたらもう十分であれば、それではリンチェンドルジェ・リンポチェは苦労して閉関する必要はないが、今年11月に再び閉関しに行くのである。実は上師の灌頂を通っていないで、たとえ何回も呪文を唱えても役に立たない。

別の教派の法王に会って、いくつかの呪文を伝えてもらって、帰って来た後に、自分でチベット仏教の壇城を飾り付けて、鈴、杵を持っていて、いくつかの手振りをして、自分が密宗を修めていると思わないでください。真に密法を修めている行者は顔立ちが変えるので、ベテランの人でさえ見ると真偽を知っているが、しかし世の中で弘法する人は自分がいくつかの呪文を得て、1日中に他の人にどの呪文がどんな効果があるということ教えているが、しかし次第がある教導を経ていない。すべての呪文と経典は、上師が口伝されてから、はじめて修行するべきであり、釈迦牟尼仏はこのように教導するが、弟子は筆記も、録音もしていないで、これもどうしてチベット仏教がたいへん上師を重視する原因であり、上師がいなければ、仏法を学ぶことができない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弘法する人を批判するのではなくて、彼の使う方法が伝統のと異なって、伝承によって教えるのではないから。

以前の弘法する人は上師が伝わったのを聞いて、経書の上で一字一句を開示して、何も増加しないで何も減らしないで伝わり続けてきて、これは経師を称す。密法を修め得る行者は、既に仏法を了解したから、様々な方法を使って衆生に利益することができて、表面上は善か或いは悪かに関わらず、すべては衆生に良くて、開示された内容はすべてお経を離れない。実修を通して出来た上師は仏法を教えるのが縦横の筆をふるったので、既定のモデルがなくて、とても活発であり、衆生の因縁に従って異なる助けを与えるのである。皆はきっと教えに従って遂行しなければならなくて、やっと間違いの道を歩くことができない。

顕教と密法は目的が同じであり、すべては衆生に利益して成仏するためであるが、ただ顕教は理論であり、密法は実行する方法である。顕教では多くの経文がとても長いが、真言は仏菩薩本尊の願力、功徳、慈悲、知恵を1つの真言の中に濃縮して、そなた達の飲む濃縮コーヒーのように、たとえ濃縮したのとしても、依然としてコーヒーの種を土の中に埋めて、成長して木となって、コーヒー豆を結んで、磨いて粉にして、更に濃縮コーヒーを作成するように、固定なプログラムを経てからやっと製造することができる、真言を唱えるのも同じであり、一名の上師が教えることを必要として、次第があっていつまでも続いて絶えずに修行しなければならなくて、ようやく呪文をとなえる力が現れる。そなたが空性まで修め得ることができる時に、そなたは他人に利益するため唱える真言が役に立って、六字大明呪をもて人に病気を治して助けるように、必ずすべての音の発声部位が同じでないことを知っていなければならなくて、すべての真言は身体の異なる部位に効果を発生するから、分かってから、はじめて本当に助けることができて、、一般の人がちょっと唱えればもうできるのではない。

一般の人は自分が唱えている「南無阿弥陀仏」が仏号だと思っているが、実は「阿弥陀」はもともと仏陀の心呪であり、真な仏号は無量光無量寿仏であり、「阿弥陀」は真言であるが、しかし中国まで伝われた後、ただ「仏」の呼び方をプラスしたのである。「南無」は皈依の意味であるが、しかしなぜ直接に皈依と翻訳していないのか、「南無」の意味はただ皈依のこんなに簡単ではなくて、更に多くの意味があり、空性をも指す。真言の中に仏の功徳、知恵、慈悲及び願力を含んで、そなた達が真言を唱えている時、事実上仏の功徳、知恵、慈悲及び願力を唱えていて、これもお経に「常憶念」を諭される原因であり、「常」とは恒常で、「憶」は心であり、「念」は念頭である。

真言は必ず如法の上師が口伝しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて金剛乗を修める時、ある一回に余り長く付き合わない知合いと食事したが、その中に一人はリンチェンドルジェ・リンポチェが密法を修めると分かって、彼はすぐリンチェンドルジェ・リンポチェに真言を伝授すると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時返事せず、断らなかった。それは始めてきたばかりから、他人の言われた事を直接に断るのは恥ずかしいから。結局食事した後、この人は始めて真言を伝授する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは体内で忿怒尊が起こると感じた。始めてリンチェンドルジェ・リンポチェは抑えてみたが、相手は始めて真言を話すとリンチェンドルジェ・リンポチェは突然に跳んでプルパ金剛の姿が現れた。相手は驚いてすぐ逃げ出した。これから一度でも会わなかった。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは累世の善根が十分なので、法を伝授する人は如法しないと、護法はリンチェンドルジェ・リンポチェを守って、リンチェンドルジェ・リンポチェに聞かせない。そなた達は善根が足りないから、いつもテレビの法を広める人に言われた事、此れを唱えるとかあれを修めるとかを聞いて、修められない内容を一杯聞いた。

そなた達も世間所謂仏法の本を読まなくてもいい。それは書かれて本として販売されたのは決して密法ではない。密法は勝手に外に伝授されない。尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝授する時、多くの観想や尚更にある真言でも法本に書かれなかった。女の子は特にこのような本を読む事が好き、今日リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いた後、本を読んでリンチェンドルジェ・リンポチェが説いた内容を書いたかどうか。若し書かないと、疑惑の心を起した。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は彼達よりいいだと思った。このような比較的な心は持つべからず、仏は我々を害せず、開示された事は全て我々を利益する。だから、そなた達は仏法に疑い或いは比較的な心を起す必要がない。

ガムポパ大師は開示された。「此処から見ると、『世俗諦を属すとは自分と他方の分別心念を分ける。』から徹底に変わる前善、悪は全て真実であり嘘でない。だから、我々は特に悪を避けて善に向く事を重視して正確に取捨する。若し今善業を累積すれば、来世に善果の楽しみを成熟する。若し今悪い行いを作ると、来世に悪果を成熟して、悪趣の苦しい深淵に堕ちる。」

此処に言われた善と悪は全て真実であり嘘ではない。善因を播くと必ず善果がある。悪因を播くと必ず悪果がある。だから、まだ覚知する前に一切の善及び悪は全て真実である。そなた達は必ず自分の身口意など一切行為を検視して、はっきりに自分が善を行うや或いは悪を行うか分からなければならない。業、因、果を信じる人は自然に悪を作らない。まだ悪を作っているのは因があれば必ず果がある事を信じなくて、まだ僥倖の心を持っている。仏を学ぶ人は自分を修正する事がとても難しいとは言え、更にいつまでも自分の心を検視しなければならない。非常に大変だけど、そなた達は全てはそなた達のためだと分かるはず。そうすると、実行すれば大変だと思わなくて、自然に行えた。

先日ある女弟子の夫は心臓の大動脈が完全に切られた。リンチェンドルジェ・リンポチェはある医師弟子にこのような状況の患者はどうなるかと聞いた。医師弟子はこのような患者は約1分間に死んだ。この女弟子は通常にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された「無常」を生活の中に運用しないから、このような事に遭った時、彼女は止まらずに泣いて、とても慌てた。自分がどうすればいい事を全然分からなくて、一心に唯自分の夫に生かせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女と夫を加持して、夫に手術を受けて順調に大動脈を心臓に接続した。唯彼女に3日間の時間を与えて、彼女に自分の夫が間もなく死ぬという事実を受けさせた。彼女の夫に生かせるわけではない。しかし、この女弟子は相変わらず無常を受けず、夫は間もなく死ぬ事実を受けられない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて医師弟子に聞いて、心臓の大動脈が切られた後、再び接続した例を聞いた事があるかどうか。医師弟子は今まで聞かないと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、心臓の大動脈は切られたとはこの人は血が無くなるのを現した。医師弟子も言ったが、血が足りないと、血は他の処に行って、たとえ心臓に戻っても悪い状況になるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、この弟子土曜日にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは止まらなくてこの弟子を責めていて、彼女に泣かさせない。自分が処理するべき事を向き合える。一般人は人は即死なのに、責めないはず、彼女が若いのに夫は死んだ事はとても気の毒だ。実は彼女も若くないが、息子は二人とも二十歳余りだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、心臓の大動脈は切られた人は切られた瞬間がとても痛い。あの痛みはどんな癌の患者が受けた痛みより痛い。そうではないと、彼女の夫は眉をひそめない。大動脈が切られた人はこの世に行った悪がとても多くて、彼女の夫は一生に善事を行わない以外、全ての悪も行った。このような人は如何なる3日間の寿命を与えただろう。叱れば、この弟子を助けた。よく考えると、大動脈が切られた人は如何なる生きているだろう。彼達は夫はこのような悪い事を行ったかと思うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、若し行わないなら、大動脈が切られた病気に罹らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一生に法律を違反せず、人を害する事をしないが、唯生きる海鮮を食べる事が好きだから、皮膚癌に罹った。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を唱える事を通して、自分の体によくなれるのを考えず、唯自分の過去に間違った事を分かって、止まらなくて自分の過失を懺悔していた。

そなた達が現在の段階に於いて、どんな事を行う時、善と悪ははっきりにしなければならない。そなたの言葉、行為、念は全て善悪に対してはっきりに把握して、小悪でも構わないと思わないで、一切の悪を断ち、一切の善を行う事を頑張る。リンチェンドルジェ・リンポチェが現在の段階になると、ある時そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが人を叱る事を見て、表面的に悪を行うと見えたが、実際は善を行い彼達を助けた。例えば先に言われた女弟子の通り、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が仏法を信じないことを分かるから、叱りながら、彼女の夫を加持して、医師に順調に手術を受けて、彼女の夫に3日間を生きられて、彼女に夫が事故に遭った結果を受けられた。昨日彼女は夫が助けられたと思って、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず止まらなくて叱って、彼女に覚悟させて、引き続きに泣かせなくて夫が臨終する事実を向き合えた。彼女の長男は納得しなくて、父は既にこの状況になったのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きに叱っていると思った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して、この長男は如何なる思って、如何なるリンチェンドルジェ・リンポチェを見ても構わない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような行えば、彼達に役に立つと分かったから。そなた達は聞くと、リンチェンドルジェ・リンポチェを真似して、帰ってから自分の伴侶を叱って、相手のために言わないで。若しそなたの伴侶はそなたに言われたくないと思うなら、そなたに法会に参加させないかもしれない。

ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られないと言ったが、叱られる事を恐がる人は間違いを修正したくない人だ。此れも悪念を起した。上師はそなたを責めるのは必ずそなたのためだ。多くの人は訳が分からなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェに厳しく叱られた後、事故に遭っても災いを転じて福となした。それはリンチェンドルジェ・リンポチェがそなたを責めた時、同時にそなたの冤親債主も聞いた。彼達はそなたがある徳を具える修行者に叱られて、少なくともそなた達の業を少し消えさせた。言い返すと、そなたの冤親債主はそなたがある人に叱られた事を見れば、彼も喜んだ。それはようやくある人はそなたを叱って、そなたに自分が間違い事、自分が修正する事を知らせたから、そなたを妨げないかもしれない。或いはそなたに数年以上の時間を与えるかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が間違い事を行ったのを見れば、彼達を叱った。仏経に記載されたが、信衆に愛語及び巧語を話した。愛語とは綺麗な言葉や彼が好きな言葉を話すことではなくて、彼に役に立つ言葉を作った。そなた達は見たが、リンチェンドルジェ・リンポチェは人を叱った時にとても厳しくて直接に叱った。悪口ではないけど、叱った口調と言葉もとても厳しくて厭だと感じた。父母は子供を愛して、子供が間違い事を行ったのを見れば、必ず叱って、彼に繰り返して間違わないと望んだ。このような意味だ。出家衆として、若し信衆が間違ったを見て、如法しないと、責めず相変わらず供養を受けるなら、正しいだろうか。仏法を広める人は信衆に阿諛追従して、仏法を歪むべきではない。また、信衆を残すために一切手段を尽くして、彼に引き続きにそなたを供養するわけではない。若しそうすれば、このような信衆はそなたが彼に少し満足させないと、彼は離れて、残られない。そこまで仏を学んだら、苦労過ぎるではないか。

そなた達は常に自分を簡単に許して、他人を許す事が難しい。そなた達は常に自分の間違いをはっきりに見えず、他人の間違いを簡単にはっきりに見えた。しかし、仏法はちょうど世間の観念と違う。仏法は我々を教えて反対に行った。仏法は我々を教えて自分の行為を修正して、厳しく自分の問題を検査して、他人の問題を見る事ではない。他人は自分を分からない事を言わないで。そなた達は自分さえ分からない。よく考えてみると。そなた達は何故血液は先に心臓に流れた後、体の各所に配る事を分かっただろう。そなた達は何故髪の毛が生えて、爪が生えた事を分かっただろう。この問題は医学界に於いて今までも具体的な答えが無い。そなた達は自分さえ分からないのに、如何なる他人が自分を分かる事を要求するだろう。そなた達は唯他人に自分の欲望をはっきりに分かって、自分の欲望を満足させるだけだ。

そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時に、若し自分の病気が治るとしっかりに仏を学んで、将来衆生を利益できると言われた。このような恐喝で脅しの方式で仏菩薩を対応した。昨日ある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、リンチェンドルジェ・リンポチェに依頼して、自分を助けて寿命を10年延ばして欲しい。それは彼はまだ多くの事を行う必要だから。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に「10年だけ足りるだろうか。」と聞いた。10年後になると、彼はまたもっと10年を生きたがった。またある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに求めたが、「私の病気を治させて、私はこの一生に悪い事を行わない。」此れは全て脅しだ。そなた達は小さい善事を行えば、業を転じられると思った。此れは不可能だ。リンチェンドルジェ・リンポチェは45歳に皮膚癌に罹ったとき、上師或いは仏菩薩を求めなくて、自分の債なので返済すべき事を分かった。そなた達は借金が有るのに返済したくないのは可能だろうか。懺悔した後全てはよくなれると思わないで。業の果の味は変わられるけど、因があれば必ず果があるから、苦しみを受けられて、借金を返済できれば、冤親債主はそなたを見れば暫く許して、そなたに仏を学ぶ時間を与える。

昨日ある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、彼は8月14日「阿弥陀仏無遮大超度法会」に参加した後、体調が悪くなったと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐあの信衆を叱って、「そうすれば、今後そなたは法会に参加しない。」と返事した。あの信衆は感謝を分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェは当日法席にはっきりに開示されたが、「今日法会に参加した後、帰ると悪い事が発生するかもしれない。それはそなたに機会を与えて、早めに借金を返済させる機会を持たせる。もしそなたにこの機会で早めに返済しないと、往生した後地獄に堕ちて返済しなければならない。」此れも因果を信じない。そなた達は如何なる自分の過去世にどんな悪業を行った事を分かっただろう。そなた達も自分の祖先はどんな悪業を作った事を分からない。此の世に返済する機会があれば、返済すべきだ。死んだ後に返済するまで待たない。今返済すれば、その後地獄に堕ちて返済するよりいい。今返済すれば、死んだ時に楽に離れられる。例えば、仏菩薩は世間から離れた時にはっきりに苦しめず離れたようである。

多くの者は眷属が重病にかかった時、いつも彼は一生に良い人で、殺人、悪事もしなくて、一生に本分を守ったのでなぜ癌にかかったかと言った。癌にかかったのは全部因果で、絶対に嘗て大変な悪の因を作って、今日はじめてこんな悪果を得た。皆は全部知っていて癌にかかった時お体は多くの痛苦を受けた。現場で1人医者弟子も癌の患者が通常があった状況を説明した。癌の患者は死ぬ前お体が臭くて、身に近くすると腐った肉のような味を嗅いだ。ある者は死ぬ前に大小便が抑えられなかった。彼は嘗て癌の患者より自分のお体の痛みは針に刺されて、電気ドリル、火を焼くのように痛くてあえて動かなくて、また動くをやむも得なくて、座って立っても安定ができなくて、非常に苦しくて、ある想像が出来ない形容詞は全部使って来た。

リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、過去嘗て夜7時病院の腫瘤科の病室へ患者を加持しに行った。あの時ある患者が痛いと叫び始めると他の患者も叫んで現場で聞いた悲しい声は号叫地獄にいるようで、あんな苦しみは言葉で言えないのである。だから、同席に癌の患者はもう自分の癌は膿疱が出来てとても苦しくて、リンチェンドルジェ・リンポチェお願い、加持して膿疱を取り除かせると言うな。そなた達は了解するべきで、そなたは他の癌の患者の味と苦しみがなければ、そなたは既にリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩の加持を得たとの表われだ。もうあんなに貪欲するな、傷はおできが流れるさえもリンチェンドルジェ・リンポチェに願って、そなたに完全に回復させる。現在生きている時お体は膿みが流すの方は死んだ後おできが流すより良かっただろ!そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェのように全部の生命で修行して、仏を学ぶには限られなく、ひいてはそなた達が全て作ったささやかな善は業力を回すことが出来ない。

我等は業力に影響されてこの業報身を得て、そなたの名前、誕生日より、業力はそなたに一層従う事物で、生まれ変わると業力の影響はし始めた。業因であれば、必ず業果があって、但し、果報がまだ未熟する前に、そなたに果の味を変わらせるチャンスがあった。そなた達は仏を学ぶ事は現在の事を変わる事が出来ると望んで、なるわけがないだろう。仏を学ぶ者は業、因、果これら一切が自分が出来たものを知った。現在まだ債を返す事が出来て見事で、現在病気にかかって、肉体でそなたの累世の業を返して、三悪道の苦しみを受ける必要がない、割合に良かった。そなた達は仏法の中にの業、因、果を分かって、深く信じてはじめてそなた達が現在全て受けた苦しみを受け取る事が出来て、これ等は全部自分が作った因果と知って、やっと終わり日が来る。

そなた達は仏を学ぶポイントと方向を知るべきで、全て犯した過ちを向かって受ける勇気があって、自らで債を返す。皈依して仏を学んでから一切が良く変わって、病気にかかったらすぐ治ると思わないで、この一生にそなたはお体の病苦で債を返さなければ地獄へ行って返すしか出来ない。そなた達は返済する事に是非恐れないで、能力があるこそ返済する事がはじめて出来た。念仏することは冤親債主を追い出す事が出来ると思わないで、これは恨む心で、つまり彼らをもう一度害して、そなたがどう念仏してもどの役にも立たない。

我らは仏菩薩に現在能力がある時早めに返済させると願えば、こんな懇請なら、そなた達の願いに満足する事が出来る。良くない事が現れるのを恐れないで、どんな大きい困難でも過ぎた事がある。果報が既に熟すれば、そなたが受け取らなくて、心の中にもう一つの苦しみを生じて、もっとの悩みと妄念が起きられて、もう一つの苦果が生まれた。素直に果報が現れるのを受け取って、自分が出来て返済すれば結構だと分かって、そうしてこの苦果は終わりになって、もっとの悪因がもう起きられない。一切業、債を返した後、どの負担がない、また1人の好漢になった。

業は切ってしまわなければ、空性を修め得る事が出来ない。ある者は座禅をして放空すると言って、そうして私が放空欲しいと思った。実はこれも一つの考えだ。暫くしてまた考えた:なぜまだ放空しないか?これはもう一つの考えだ。また続いて考えた:どうすれば放空が出来るか?これはまた一つの考えで、絶えなくて続けている。我らはまだ呼吸して、心が鼓動して、血液が体内で流しているのに、どう放空するか?まるであそこに1本の柱があるのに、そなたはないと言えない。このように修めれば、先生に願いしてそなたの内臓を全部掘ってしまって、こうすると本当に放空することがはじめて出来た。

多くの者は起きられた考えは妄念と思って、そうではなく、所謂妄念はそなたが分別心を起こしたのである。あれら自分に対していい事があるのを選んで、自分にとっていい事がないのを排斥するのこそ妄念である。そなたの腹がすくとお腹がなくと感じたとか、或いは天気が寒いと多く着物が着たいとか、これは全部妄念ではない。そなたの六識がまだ作用していれば、考えがあった。たとえ肉体が死んでも第七と第八意識もまだ作用している。

同席のは殆ど在家衆で、在家衆の修行は即ち仏法が教えてくれたのを日常生活の中に実行して、二分法で仏法と生活と分けるのではない。ある皈依した弟子、最近法会の中に、良くリンチェンドルジェ・リンポチェに呼び出して当日聞いた心得を分け合った。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:皆はこの弟子の分け合いを聞いてこの弟子が大変良く修めたとか感じたかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは常にわざと彼を呼び出して彼も自分が大変良く修め得たと思った。この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で働いて、しかし最近返って会社の制度によって仕事をしなくて、会議の中にこの事を聞かれて、彼はまた全部の上司の目の前に、責任を他の女性同僚に押し付けて、制度が正しくないと言った。この弟子は嘗て出家して、弁経する事も出来て、ダライ・ラマと多いゲシェを見た、インドへ行った事があり、チベット語が出来て、≪菩提道次第広論≫は暗記出来て、≪菩提道次第広論≫多くの経論に対しても見解があった。しかし境界が目の前に現れた時かえって全て学んだのを全部頭の後ろに捨てた。

そなた達の多勢者は通勤、働く時もそうであり、多くのお金、量の少ない、責任がない仕事が欲しくて、或いは会社の規定に対してとても反感で、守らない。そなた達はある会社に入って働いて、給料が貰えば、会社の規定を受け取るべきで、会社の規定に不満があれば、離れれば結構だ。リンチェンドルジェ・リンポチェの会社のルールはリンチェンドルジェ・リンポチェが制定したのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはもう1人側にいる弟子にこの弟子が何の戒を犯したかと聞いた。あの弟子は報告した:妄語の戒を犯した。また、会社の制度はリンチェンドルジェ・リンポチェが決めて、彼が守らない即ち上師に敬わない。この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが会社の中にいれば只彼のボスで上師ではないと思った。案外に、リンチェンドルジェ・リンポチェがした一切な事は全部仏法に従って、生活と仏法と分けない。

この弟子は嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに密法を伝えるのを何回願った。リンチェンドルジェ・リンポチェは全部伝えなくて、ある1回この弟子は密法を求めるため、また黄金を供養して、リンチェンドルジェ・リンポチェも受け取らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、上師はとても根気があって、ゆっくりゆっくりと弟子の原形が現れたまで待った。この弟子は上師に対して敬わないので、彼が過去に全て作った一切の功徳は全部福徳に変わって、なくす事がないが、福徳に変わった後、この一生には使えないが来世には始めて使える。

この弟子は全ての女性に対して見下げて、彼は只自分を重視する。幼い頃のように、皆は全部両親が我らに対して特に良くしてくれると望んだ。大きくなって、会社にいても同じの考えで、ボスがそなたに対して特に良くすると望んで、一軒合理的な会社を見つけるのを希望する。所謂合理的もそなたの考え、要求に合わせるのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはボスとしてボスの見方で話すのではなく、ボスとして、仕事をするには色んな層面を考え、単に只ある社員のためルールを作るのではない。この弟子は菩薩戒を受けた。菩薩戒の中にの1本:女性を軽蔑しない。この弟子は会社の中に全ての女性従業員を見下げて、リンチェンドルジェ・リンポチェが女性従業員に言いつけて実行することであれば、彼は全部協力しなかった。なぜ菩薩戒の中に女性を軽蔑しないと述べたか?女が割合に可愛そうではなく、仏法の中に女性は慈悲の代表で、それも我らは生々世々の母親の代表で、母親を軽蔑する者は親孝行出来るか?親孝行しない者はどう仏法を修め得るか?

この弟子は会社の中に多くの規定は社員がボスを騙してするのと思った。それで彼は守る必要がなく、また自分が色んな理由で分からなくて、守らないと解釈して、自分の過ちをもう1人女性社員に押し付けて、それに上師と論争して、独り善がりで、過去彼は間違い上師に従ったので、貢高我慢を学んで得た。尊勝な直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェのため傲慢な習気を取り除く時、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部受け取って、上師はそなたと道理を話さない。リンチェンドルジェ・リンポチェがし間違ったところは直貢チェツァン法王も直接にリンチェンドルジェ・リンポチェに開示して、リンチェンドルジェ・リンポチェは頷いてはいと言って、絶対に言い返さない、リンチェンドルジェ・リンポチェも直貢チェツァン法王が出家衆で会社の事を分からないと思わない。上師は弟子の一切に対して全部弟子のためと深く分かったから。ある時、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェとある自分の事、自分の奥向きを話して、ひいては直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェと雑談しても全部仏法で、全部生活の中に用いる。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された、この弟子は上師の話を聞かなければ、もう仏法を聞きに道場に来なくても良い、直ぐ離れても結構だ。この弟子は口をあけて懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った、そなたは既に何度も懺悔した。

前日、ある7歳の小さい女の子はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して行った。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに「彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに嫁ぎます」をとても真面目なで言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で彼女に下記のように開示した。もし彼女は現在リンチェンドルジェ・リンポチェと結婚したら、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェと彼女のお父さんが全て捕まえて投獄された。そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に開示した。普通な人間であれば、彼女の幼い心を傷つける事を恐れるの為、彼女に「あなたまだ若いのえ、大人になったら再度話します」のように言った。そなた達は通常このように子供に答えて、子供が若いので、彼女をすこし騙させて十分だと思っていた。しかし、もしこの小さい女の子は聞いてから本気になって、大人になって願い通りに結婚する事が出来で、此の言葉を承諾になったら、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェが承諾を背くのではないだろうか?何時に再度帰って返すのでしょうか?しかし、その時に、小さい女の子は既に70歳で、リンチェンドルジェ・リンポチェが7歳かもしれないだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは智慧によりこのプロポーズをする小さい女の子に開示して、彼女に事実をはっきり知らせて、このような事が出来ないを知らせて、彼女に此の考えを切らせた。

多くの歴代の大修行者は一生の中に多くのを苦しみを経験した事があった。尊勝な直貢チェツァン法王は子供から法王を認証られたけれども、一生の中に多くの困難を経験した事もあって、そなた達が思った何でも順調ではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェも多くの人生の苦しみを遭遇したことがあって、癌に罹って、商売が失敗し、離婚した事などがあった。大修行者は何故こんなに多くの苦しみを経験しなければならないのでしょうか?初めの原因、過去世の苦因なので作った苦果をこの世で報いて返って、これ等の業力を自分が仏を学んで修行する力を再び影響させないのである。ある行者は真に修行する事があるかどうか、彼が苦しみを経験した事に判断した。業を消す事とは業力が消えて無くす事ではない、因があったら必ず果があって、業力が必ず顕れる。業力がそなたに修行して仏を学ぶ事を邪魔させないのは業が消えさせるのである。

人々が一生で累積する一切の功徳は最も重要なのがそなたに短い数十年の歳月に好い生活を暮して享受させるのではなくて、却ってそなたの往生する前の一刻でそなたに浄土に往生する事を助けるのである。先此の弟子の一生は重大な苦しみを受けた事がないので、業の力を持続的な彼に邪魔させた。もう一つの理由は、相同な苦しみの経験があったので、衆生の苦しみを体得られた。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが発心して仏を学んだ後、財産が無くして、離婚して、子供が素直に従わない苦しみを全て経験した事があって、だから、信衆が相同な問題があってお伺いを立てる時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが経験者にて仏法を助けを与えられた。リンチェンドルジェ・リンポチェが10歳ぐらい時に、小さい女の子はプロポーズをして来て、母親が辞めた経験があった。だから、今回、この小さい女の子はプロポーズをして来た時に、適切な開示を与えられた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学んでから、自分がリンポチェになって、こんなに多くの衆生に利益が出来た事を思った事が無かった。かつて、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んだ時には、毎日に少なくとも4時間にかかって読経して、仏に礼拝し、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日同様に出勤しなければならなかった。毎回、寺院が法会を行わせた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは全て全行程で参与で、最初から最後まで礼拝して終った。皆の知る通り、梁皇宝懺が千仏に礼拝し、ミッドフィールドで皆が休んでいて、リンチェンドルジェ・リンポチェがそれともずっと礼拝して休んでいなかった。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた法会の功徳主で、現在の顕教の功徳主のようではなくて、ただ壇城を上がって線香をつけて仏を供養する事だけで十分である事ではなかった。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェが密法を学ぶと、すぐ商売を失敗し、貧しく食事も食べられない、妻と離婚し、子供が素直に従わないで、そなた達であれば、早めに修行を放棄して、所謂「生活を先に世話し、それから仏に世話する」の謬論である。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは此の一切が弁済する事を受けて、何時まで弁済して終られると思っていた。そなた達であれば、病気に罹ってから仏法を助けに求めてきて、また、自分が病気に治してから多くの人々を助けられる事を言って、仏を学ぶ事がこんなに貢高我慢を学んた。リンチェンドルジェ・リンポチェは善行をして、数十万人に助けて、そなた達がしたのが取るに足りないで、自分がこんなに偉いだと感じるならば、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を学ぶ事が要らなかった。

だから、そなた達は「発心して仏を学ぶ事が業を消えさせる事とは病気に罹らないで、悪い事を全て発生しない事がではなかった。此れはそなたが仏を学ぶ業を障碍する事を消えて、善業と悪業を含めた」と了解しなければならなかった。だから、法会に参加してから自分の一切が全て好転する事を求めてはいけなかった。密宗は財神法があるけれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分のビジネスのために財神法を修めた事が無いで、ビジネスがビジネスで、修法と関係が無かった。況して、密宗の財神法はある者が懺悔心を起こして、その上供養をし、しかし、彼らが悪をした事があったので富を減らして、彼らに足りる仏を学ぶ資糧に与えるの為、彼らに財神法を修めて与えて、彼らが本来あるはず財を彼らに返し、然し、ただ彼らが本来あるはず富を障碍する事を消えるだけで、彼らが多くのお金を増えて与えるのではなくて、返って、衆生に利益する上師だけで遣り遂げた。

末法時代、衆生が仏を学ぶ事を障碍させる事が多くて、外で、ある者がパンフレットを出して密法を謗って、密法に対して誤解があって、密法を修め得ないが密法の名詞を解説し、例えば「双身仏」の修め方を随意に解釈し、このようにとても良くなかった。「双身仏」は表面的な男女の関係ではなくて、もしこのようならば、動物も交合する事が出来で、仏を修めえるだろうか?そなた達も多くの人々は結婚した事があって、そなた達がこのように仏を修めえるだろうか?このようなでは無かった。これ等は外の人が了解しないで、或は幾つうわさを耳にして、或は、一部の人がこれにより良くない事をして、「双身」に誤解させた。そなた達が寶吉祥道場でみてる仏像が全て「単身」の仏像で、「双身」の仏像が無かった。

密法の中の「双身仏像」とは慈悲の事業の双運で、此の意味が非常に奥深くて、普通な人に聞かせることが出来なくて、誤解を起こす事を恐れて、それは密法上師が修めて始める法門で、そなた達が理解できる事のではなかった。それらの人々は密法が了解しないが密法を批判するようで、とても良くなくて、しかし、そなた達が弁解に行く必要が無くて、ただ彼らの宣伝ビラを持たない事が十分である。寶吉祥はとても清浄な道場で、仏をよく学んで、上師の教導をよく聞く事が足りた。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは56信衆の為に皈依儀式を行った。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は下記のようである。仏教の皈依儀式はとても簡単で、然し、意味がとても深遠で、新しき皈依弟子は皈依を解説する仏法のテープを伺いを立てて聞けた。皈依した後、五戒を守らなければならなかった。五戒とは不殺生、不偸盗(海賊版と贋物を買う事も含める)、不飲酒(煙草を吸わないで、麻酔の薬物と麻薬を飲まない事を含める)・不邪淫・不妄語(誑語を言わないで、悪口をしないで、綺語をしない事を含める)の五つである。

皆は来週の土曜日にリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に法名を直す事に伺いを立てられて、皈依の日付が書き込む必要が無くて、過去に一部も人が自分で書き込む事が好き、上師からそなた達に書き込むはずで、さも無くそなた達が自分で上師になるだろう。

皈依の儀式が行った後、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲深くある皈依弟子に「そなたの妻は既に安産するでしょうか?」を尋ねた。此の弟子は「法会が開始する前に依然として生産していなくて、しかしすでに4指をつけた」と報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて開示した。此の弟子の妻の生産がとても重要或は特別ではなくて、毎日に多くの赤ん坊が生まれた。リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に尋ねる原因は彼の妻が3日前に羊水が破れて、しかし、昨日まで依然として1指をつけた。だから、昨日の土曜日、此の弟子は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を求めてきた。その場、リンチェンドルジェ・リンポチェは依然として彼らを罵って、然し、子供を生む事がとても苦しい事なので、リンチェンドルジェ・リンポチェがまた彼らを加持して、昨日1指だけでつけて。今日既に4指をつけた。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持がないならば、真に生まれないで、何故このようになるだろうか?此の家族は真に仏を学ぶ事をしないわけである。

此の男の弟子の妻は顕教を学んで、自分が上手く学んだと思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェに懐疑があった。此の弟子も妻がこのような事を言った事があるを実証した。子供を妊娠した後、一回、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの家にある他人から贈ったキラキラの布がった事をみて、彼らに此の布の上に幽霊をつけて、彼の妻がやっと密法がこんなに素晴らしさを信じていた。しかし、彼の妻は恭敬心がないで、父から彼女にその布を贈ってから、ある男の幽霊を明らかに見た事があるけれども、その場で言わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが能力がある事を見てから、第2週に彼女が父などの全ての家族を連れでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は幽霊が普通な人が述べる狂暴の様子ではなくて、彼がある品物をつけなければならなくて、どのような人が此のものを貰うのでしょうか?一つは此の家庭の道徳が何か不円満なところがあるので、所謂類は友を呼ぶのである。もう一つは此の家族が何か良くない事を発生する予定である。何故彼らはこのような品物を貰ったのでしょうか?此れは彼が真に仏を学ぶ事が無いで、此の家の家長さえ率先して戒律を破った。此の弟子の父が皈依した後依然としてお酒を飲んだり、煙草を吸ったり、肉食をしたりする事をして、甚だしきに至っては肉をお祖父さんに食べさせて、戒律を破った。だから、今日、両方ともの家族はこのような苦しみを受けなければならないで、この数日間も心が苦しんだ。此の弟子が結婚したばかり時に、出家者を招待し、妻が大功徳主はずで、然し、妊娠していた時に幽霊に出会って、解決する事も出来なかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、この男の弟子の妻に問題を解決してあげた後で、彼女の妊娠する時に毎日に『地蔵経』を唱える事を開示させた。彼女はそのままする事をしないで、偶には唱えて、偶には唱えなかった。此の弟子は妻を恐れるの為、彼の妻も勧めなかった。彼は妻が比較的に重要だと感じていて、月曜日から金曜日までずっと彼と一緒にいるわけで、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェがただ日曜日だけで見えた。この皈依弟子は妻にリンチェンドルジェ・リンポチェの諭しを従う事を勧めなかったので、今日、彼女がこのような苦しみを受けた。もしそなたが勧めて相手が聞かないなら、それは相手事である。しかし、今日、此の弟子は勧める事さえ勧めていないで、本当にすべきではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは此の男の弟子に指示して、法会の後で、大礼派をし続けた。

『地蔵経』に記載されたのは女が妊娠する時に、地蔵菩薩は善神を妊婦と胎児を保護するように派遣して、然し、多くの妊婦が殺生して、此れは栄養を補充する事だと思っていた。殺生して肉食をしたら、保護の善神は離れた。実は、胎児は子宮の中でとても苦くて、光りを見えないで地獄にいるようで、母が熱い物を食べたら、胎児が「火地獄」にいるように、母が冷たい物を食べたら、胎児が「寒氷地獄」の苦しみを受けるようである。子供が産道を通って産む時、頭は山の壁にしっかり挟まれるような苦痛で、例え帝王切開術をしても同じである。何故子供が生まれたばかりに泣くのでしょうか?一つは産道からとても痛いわけで、頭が山を挟まれるようである。もう一つは前世の記憶がまた残って、再度苦しみを受ける事を知っているわけである。子供はちょうど生まれる時、頭の天辺が柔らかかったことががあって、3歳がようやく合わせる事が出来で、だから、幼児は偶にはいくつの事をより敏感である。道教が修めるのは頭の天辺で、開く状態を修めえてから、多くの事を知る事が出来で、が、仏教が修めるのは梵穴である。だから、誕生日は母難日で、特に祝い事がないで、しかし、現代人は西洋人を学んで、誕生日を祝って、歌を歌って祝って、母親が生産する時に受ける苦しみを全然忘れて、誕生日の意義も忘れて、此れはそなたが人間でまた1年の修行して仏を学ぶ機会を少なくなるのである。

今日の開示は新しき皈依弟子にとって、或は長くて皈依弟子にとって、全て仏を学ぶ事に対してとても重要な観念で、どの位をしても構わないが、することを始める事が要って、連綿と続き絶えずして、そなた達はある日に仏法がそなたへの変わりと助けを発見する事が出来た。仏法の特徴は効果を起こす事が出来て、そなた達いこれにより信心を生じさせた。着実でなく衆生を利益する事いってはいけないで、このような願いがとてもよいが、先に自分を利益する事が遣り遂げて、それから他人に利益して始めた。自分に利益する事とは自分がお金を稼いで、身体が健康である事ではなくて、自分が生死を解脱する事が出来て、これを遣り遂げるなら衆生を利益する事いって始めた。多くの人々は「私は読経して衆生に廻向する事があって、此れは衆生に利益する事ではないか」と言った。大きな差異があった。衆生に廻向する事がはずで、しかし、所謂衆生に利益する事とは、真にしてから効果を見えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが密法にてその弟子の妻に助けるのように、昨日加持してから、今日、4指をつけて、此れは見えた。

今日、共修法会が円満して終ってから、リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の苦労に関わらず、法会の中に既に3時間ぐらい開示して、信者と一部の弟子が次第に離れていた時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが再度法席に返って、40名の謁見して待つ信衆を続けて接見し、仏法により全ての信者に開示と加持を与えて、午後の6時10分まで、縁がある衆生に慈悲深く利益した。

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2011 年 09 月 30 日 更新