尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2011年8月21日

台北寶吉祥仏法センターの殊勝な共修法会の中で、弟子と信衆は恭しく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2002年12月22日に開示された 「仏法は聴聞し難し」の録音テープを傾聴した。

法会が始まる前に、まずはアメリカに長期住んでいる皈依したある女子の弟子は彼女が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した経過を分かち合った。

1972年に彼女は家族と共に米国に移住して、今まで約40年が経ち、今(2011)年2月27日に多くの殊勝な因縁のため彼女をリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依させて、彼女は自分の機転過程、彼女がどのように寶吉祥仏法センターを探し当てるのか、及びリンチェンドルジェ・リンポチェの教導が彼女に対する影響と助けを分かち合った。。

1976年に彼女は米国で大学を卒業して、ちょうど友人の紹介で日本のある教派に入って、その時に彼女が生命の谷底にあり、彼女は多くのものを求めなければならなくて、その教派が彼女に、「求める」ことを教えて、きるだけ求めて、多ければ多いほど求めることを教えて、彼女が非常に積極的に投入して、そこにある20年余り、彼女が多く求めて、多く得られたが、しかし悩みもたくさんあるのである。

1999年に、彼女は悩みが多すぎてその教派を離れて、間もなくて、ちょうど彼女の親友は彼女が住んでいる都市である宗教団体の分支機構を創立して、彼女は参加してボランティアを担当した。入ってから約10年間、彼女はボランティア、委員から、現地の責任者までやり遂げた。その宗教団体でたくさん有名で、良い言葉があり、例えば、他人を許すのは自分のため幸福をもたらすことである、多くの人はすべて知っていて、甚だしきに至っては暗唱できる。彼女が委員を担当している期間、講師として他の人に教えることを要したが、しかし彼女は、彼女がいちいちもっともなことを釈明するが、しかし境界が来る時に自分ができなくて、無力感を感じる事を発見した。彼女がその他の成員と分かち合う時に、みんながすべて同様な考えが持っていて、とても挫折感を感じる、頭がよく知っているのに、しかし依然としてできないなど事を発見した。しかし彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した後に、彼女は原因がわかった。どうして別の団体は自分の習性を直したいがしかし直せないのか。今彼女はとても幸運だと感じて、寶吉祥仏法センターなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持があり、皆は自分の誤りを体得することができて懺悔して、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と加持力は私達に急速に自分の欠点を見せるだけではなくて、同時にすぐ改めることができて、無力感と挫折感と思わない。

会長を担当してから一年頃、彼女の当地の親友はあるインドラマを要請して、アメリカに来て供養した。彼女達は一緒に修めていた。この友達は引き続きに彼女を誘っていたから、彼女は行った。彼女達は一緒に観世音菩薩及び文殊菩薩など儀軌を唱えて、唱えた後彼女は心が落ち着いたと思ったので、引き続きに行った。ラマは慈悲に彼女に質問された。当時彼女は善事を行うのは仏法の修行であると思ったが、彼女は全ての心力を尽くして行った。だから、彼女はとても自慢だった。しかし、ラマの見解は此れは唯遊びだった。このため彼女はとても納得できなくて、止まらずに質問し続けた。ある日ラマは彼女に物語を一つ教えた。また、此れは仏経の物語であり、自分が作ったわけではないと言われた。内容とはもしある人は地下牢に閉じ込められて、累世累劫でも出られなくて、牢屋の中に苦難を受けた。ある日彼は20分間に放されて、新鮮な空気を吸って、日光を享受した。しかし、その後は必ず地下牢に戻らなければならない。また累世累劫で済度されない。若しこの20分間に逃げる機会を探さないと、この人はまた地下牢しか戻らない。我々は人身を得る事が難しい。物語の中の20分間のように若し早めに生死を解脱する方法を探さないと、また累世累劫で光が無く暗黒に苦しみを受ける。だから、二年の会長が終わった後、彼女は始めて地下牢から逃げる方法を探した。彼女は堅持にあの宗教団体を離れたが、如何なる逃げる方法を探しただろう。当時あのラマは既にインドに帰ったが、彼女も再び彼と連絡を取れなかった。

その後彼女も嘗てある顕教の上師に出会って、始めて仏経と仏号を唱えて、仏経を読んで禅七をして、法師の仏法テープを聞いたなど、引き続きに探索していた。しかし、彼女は他の道場の法師は弟子を世話する能力が多くない事を発見した。2010年始め、因縁があって、彼女はあるチベット仏教の上師に出会って、彼女は彼に四加行を学んだ。この上師は法を伝授する事を重視するから、多くの密法を伝授した。当時彼女は多くの人は十数年以上を修めて、法本を多くもって、多くの大きい法を修めたのを見た。しかし、彼女は他の同修とも感じたが、この十数年以上を修めた人は他人に自分が長年を学んでも彼達と同じように成りたくないと感じさせた。当時彼達は何故自分がこのような感じを持つか分からなかった。この上師はカナタ、ニューヨーク及び台湾に於いて道場があった。上師は彼女に道場に多く行って、法を学ぶ事を指示した。

去年10月彼女は胆嚢手術を受けたから、体がとても弱くて四加行、大礼拝が出来なかった。ある日彼女はこの上師が一部分の伝承は「直貢噶舉」であるので、彼女は直貢噶舉を深く理解したいから、インターネットで直貢噶舉教派の中国語公式サイトを見つけた。この公式サイトは寶吉祥仏法センターが更新しているが、彼女はこの公式サイトから直貢噶舉の中心思想及び伝承など分かった。また、ウェブサイトの連結を通して、彼女は寶吉祥仏法センターのウェブサイトに入って、リンチェンドルジェ・リンポチェの法名前及びリンチェンドルジェ・リンポチェに助けられた多くの弟子が書いた衆生済度の事跡を見た。彼女は読めば読むほど驚いた。彼女は発見したが、信衆或いは弟子を問わず、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に懺悔しなさい。発露懺悔して、深く懺悔して、繰り返して懺悔する事を指示された。尚更に懺悔の仏法テープを十回聞いた後また来るのを指示された。彼女は見た後、とても驚いて、自分が仏を学んだ過程を反省した。多くの法師は懺悔の重要性を話したけど、あっさりと描いた。彼女は聞いた後、背を向けて経文、仏号及び真言に吸引されて早めにあの事を学びたくて懺悔を無視した。衆生済度を読んだ後、彼女は心の中に懺悔が本当に重要かどうか、本当に業障を除くかどうかを考えて、若し懺悔がないと、いくら法を学んでも無駄だろうか。続いて、彼女は「快楽と痛苦」を一冊注文した。本の中に彼女は見たが、「若し懺悔がないと、全て無駄だ。」彼女は答えを見つけた。多くの同修は大きい法を多く修めたが、各方面に於いて相変わらず進歩しないのは此れを欠けた。彼女は引き続きに衆生済度を読み続けて、大部分の衆生済度を読んだ後、彼女は尚更にリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を接触したいから、サイトの中に法会開示を見つけた。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェは毎週日曜日の共修法会の開示である。彼女は読んだ後、呆然としていた。更に非常に用心に読んでいた。故に彼女はこのような考えを起したが、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を学ばなければならない。

始め頃彼女の心の中にすこし悩んで、あの頃まだある上師に従って仏を学んでいたが彼女はやはり自分がリンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を勉強するはじだと思った。それで彼女は一枚メールをリンチェンドルジェ・リンポチェへ書いた。三つのことを願った、まず彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに彼女の往生したばかりの母親を済度すると懇願して、第二、彼女は法テープを求めた。第三、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに素食の事について伺った。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依するには素食することが必要だと分かったが、2003年時、彼女は既に2、3年素食したが、具合が大変悪くて、心臓にも問題が出て、また彼女は地中海貧血で、血紅素は一層ひどく不足で、入院して一ヶ月後また半年を静養して、体力がとても悪くて、お体は大変弱くて、彼女と夫との結論は彼女は素食をしてはいけない、素食は栄養がないため、彼女はまた生臭ものを食べ始めた。彼女はこの状況をリンチェンドルジェ・リンポチェに報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは11月27日の施身法会時彼女の母親を済度するのを承諾して、同時に彼女が懺悔テープを求めるのを許した。素食については、リンチェンドルジェ・リンポチェはきっぱりと申された。彼女の地中海貧血は因果のことで、素食と関係ない。それに言い及んだ、ある男もひどい地中海貧血にかかって、皈依した後多く改善した。あの時、彼女は感じた。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に彼女を加持した。彼女はまたなの躊躇があるか?それであの日彼女は素食し始めることになった。

彼女の夫は医者で、彼女は栄養不足と叱れるに恐れたので、一つ高い茶碗を使って、全てのご飯と野菜をその中において、そうして、よく消化するため立ち食べると言い訳を作った。幸いに夫が食事する時食べながら新聞を読むことになれたので、注意しなくて、一ヶ月が過ぎたのに彼女が素食することを発見しなかった。その後、彼女は素食がとてもいいと思って、夫にも素食させたくて、そうして夫に素直で自分が素食して、お体が大変元気で、倒れることさえもないと言って、夫は思いがけなくあたりさわりのないと返事した:「そうすると、そなたは自分の栄養を配ろう!」別に夫の食事を用意することが面倒臭いと思って、夫の食事さえも素食を用意して、夫も文句しなくて、それで現在夫は毎日の2食は素食で、素食の問題も解決された。

本来今年の2月台湾に帰るつもりで、チケットが既に買っておいて、もともとの上師の伝法を聞くためだが、心の中にとても足掻いた。あの上師は自分が多くの上師があって、彼女は1人凡夫で二人の上師があっても間違いがないだろう。しかしあの道場では肉で供養するのを励まして、素食を勧めない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに厳密で、自分が恥ずかしいのであの道場へ行って、彼らが肉で供養するのを見て、彼らを許すことに等しいのではないか?自分が既にリンチェンドルジェ・リンポチェに従って、法を勉強して、悪を断つなら、こうするとあそこへ行って汚らわしい者ではないか?悪を作ったのではないか?自分を騙して、リンチェンドルジェ・リンポチェの時間も無駄にしたのではないか?それより、台湾に戻って来た時唯寶吉祥仏法センターへ行って、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して、静かであの道場を離れた。

リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依するため、衆生済度の事跡を見て多くの質問を片つけて、リンチェンドルジェ・リンポチェが聞くかもしれない問題、標準な答えと標準ではない答えを探し出して、答えを暗記した。彼女は台湾に戻って来る時間が有限で、二度と願うチャンスがないので、成功しか許さない、失敗してはいけない。しかし、彼女は皈依を求める時、リンチェンドルジェ・リンポチェは意外に何も言わず承知した。あの頃、彼女もぼんやりした。そうして、リンチェンドルジェ・リンポチェはそばの侍者に彼女がアメリカへ帰る前に皈依を行うことを注意させると言いつけた。考えて見るとリンチェンドルジェ・リンポチェが大変すごいと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは知った、全ての質問は彼女が全部答え出来て、そうして彼女この悪人は我慢貢高になってしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に我慢貢高をさせないため、一つの問題さえも聞かなかった。

仏法の録音テープの懺悔テープでは、リンチェンドルジェ・リンポチェが厳しい口調で「よく聞きなさい!佛を学ぶのはあなたの欲望とは関係ない」と言った。この話を聞いた瞬間、彼女は感激して涙を流した。涙を流した理由には、一つは今まで学んできたのが間違いとのこと、もう一つは今後正確な仏法を教えてくれる人を見つけたことである。仏法を学ぶには懺悔を通さなければ、いくら大きな法でも吸収できなく、相応できないのである。今、彼女は未練もなく他の法を放っておき、すべてリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに従うようにしている。

衆生を利益することは密勒日巴尊者やリンチェンドルジェ・リンポチェみたいな大成就者だけしかできなく、我々凡夫は無理だと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェの教えでは一本のお香でも、一回の頂礼でも、衆生の代わりできることだから、「私」が頂礼するのではなく、「私」がお香を差し上げるのではなく、「私」が呪文を唱えるのではない。最初は自分がこんな人ではないから、わざとらしい感じはしたが、練習すればするほど、度胸が広がっていくことに気づき、身の回りにだんだんとリンチェンドルジェ・リンポチェが言うような「求めずに得る!」ことが発生している。

皈依後、彼女は法会開示の英語版翻訳に携わるようになった。彼女は偏頭痛の持病を持っており、いったん発病すると三、五日ないし一週間横になって安静しなければならなかった。最近、彼女が翻訳している最中、偏頭痛が再び起こり、業障だから衆生の代わりに頭痛地獄で苦しめられると思い、そして進捗を急いでいるからベッドで三、五日安静するところではないと自分にも言い聞かせて翻訳をし続けたら、妙に翻訳の作業が終わる30分前に頭痛が消えたし、ベッドで横になる必要もなかった。だから、今は調子が悪くなると、法会開示の翻訳をしに行くようにする。この仕事は病気平癒に効き目がある!

法会開示の翻訳に携わるのは因縁でもありながら、福報でもある。話に通じ悟って正確に英語で表現できるように、文章を何度も読むことがよくあるから、日常生活で困った時、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェが開示されたことを思い浮かび、短時間で簡単に解決できるようになる。海外在住の弟子兄弟はホームページでの法会開示に頼って生活しているのである。台湾に帰ってくる三、四週間前、彼女は毎日泣いていた。台湾に帰れて感動して泣いたのではなく、法会開示に載せるような「リンチェンドルジェ・リンポチェが密法を伝える時に、皈依していない信者さんに退室してもらって以降、何も文章に記録を残さない」を思い出して悲しむばかりである。同期に皈依した弟子兄弟は皆密法を聞いているのに、自分だけ見えないし、聞こえないし学べないのである。

ある日、早課をした時に、また泣いてまで真言を唱えないで、直接に机の上に伏せて十分に泣いて、それから、起きて再び真言を唱えて行った。気持ちの気がふさぐ下、彼女はホームページで再度日程行事を見て、2011年7月10日の開示を突然に読んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェは多年前に直貢チェツァン法王に「自分が既にこんなに高齢で、開悟する事が出来るのでしょうか?」を尋ねた事がある。直貢チェツァン法王は「ただそなたは上師に対して信心がある」と回答した。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に「自分が既にこんなに高齢で、無上瑜伽部を修め得る事出来るのでしょうか」を再度尋ねた。直貢チェツァン法王は「ただそなたは上師に対して信心がある」と依然として回答した。彼女は忽ち安心して、「ただ上師に対して十分な信心がある」を書いた、規準として、いつも読んでいた。このような、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが密法を教導する機会が無いので、悲しい気持が95%を消えて、然し、まだほんの少しがあった。

然し、「ただ上師に対して十分な信心がある」をずっと唱えていてから、素晴らしい事がまた発生した。彼女は4月にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したストーリを急に覚えた。昔、国王はお金を出して法会を行って、釈迦牟尼仏が主法をした。侍者は釈迦牟尼仏に「今日の法会には誰の功徳が最も大きいのでしょうか」と尋ねた。釈迦牟尼仏は遠くて遠くておばあさんを指していて、「彼女の功徳は最も大きかった。此れは彼女がお金を全て出して、点灯して仏に供養したわけで、また、彼女は全ての功徳を此の国王に廻向した。此れは彼女が国王が此の法会を行ったので多くの人々に法会に参加させられたので、随喜の心を生じて、功徳が最も大きかった」と説いた。此の弟子は、そのお婆さんは貧乏したが心が富裕で、自分が衣食が何も悩まないけれども、心霊が貧乏だと思っていて、お婆さんに学ぶ事に決心した。このような心を起きてから、自分が少し悲しみ気持がすぐ豁然としていて解かれた。

同時に、此の弟子も悟って、リンチェンドルジェ・リンポチェが何度も開示したのように、「凡夫が心を動かし思いを起こせば、其れは皆業であり、罪である」。何も自分で思うためだけで、自分にかわいそう、悲しいと思っていて、表面い法を学びたいが、実は私利私欲をむさぼる考えで、、全て悪事をしていた。此れを思い付いて、自分が泣かない事も出来る事と思っていた。

彼女は前回みんなと一緒に日本道場の法会に参加し、多くの兄弟子と雑談して、皆がとても幸せだと感じていた。多くの人々は最初に接触した道場が寶吉祥仏法センターで、然し、自分が何度も山を越えて、経験し尽して、寶吉祥にやっと入った。リンチェンドルジェ・リンポチェの寶吉祥仏法センターは砂漠のオアシスのみたいである。彼女は多くの道場に行った事があり、リンチェンドルジェ・リンポチェのような大能力、大智慧、殊勝な妙観察智を具えて、また、このように慈悲深くて済度し、弟子に厳しくて勤めて教導し、弟子に世話して、愛護して、心を尽して、このような修行者が希有だけではなくて、まったく居ないだと思っていた。毎回、「リンチェンドルジェ・リンポチェ長寿祈請文」の「希有なる珍宝のような勝利者のご教法 」を唱えると、リンチェンドルジェ・リンポチェが真に希有なる珍宝だと思っていて、皆が上手く大切しなければならなかった。

彼女は自分が因果を信じるのだと言ったけれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示のように、因果を深く信じていないで、多くの悪事をしていた。彼女は此の機会と利用して、発露懺悔をした。彼女は2回目堕胎した事があり、一回目流産した事があり、主人に申し訳ない事をした事があり、子供の頃、盗む行為にした事があった。彼女は道場の多くの子供の為にうれしく思って、特に女の子、彼女達がリンチェンドルジェ・リンポチェの教導の下、自分がそのような罪業を犯して自分が果報を直面した事があるようだ必要が無かった。彼女は恐れて慌てることが既に無いと感じていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分をこの無闇の輪廻地牢を逃げるように連れる事を知っているわけで、リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

リンチェンドルジェ・リンポチェはまず次の如く開示された。これからそなた達は道場あるいは寺院では、そなた達在家者が永遠に出家者の前にいる事が出来ないで、その上、先ほど、数位の弟子は道場に入って頂礼した時に、領眾の出家衆が座った事を注意しなくて、出家衆の前に頂礼して、お尻が出家衆の頭に向けて、礼儀が分からなかった。在家衆は出家衆を見るときに、彼達の前にする事が出来ない、「領眾」とは何の意味だろう?そなた達を引き連れで一切の儀軌をするのである。彼達は出家相を現すと、そなたが彼達の後ろに立って、リンチェンドルジェ・リンポチェのような果位を修めえるには限られなく、前に立つ事が出来て始めた。離れる時にも、丁寧に譲って出家者を先離れさせるべきだ。出家衆が何か特別のではないし、彼らはこの世のすべてのを捨てて仏法を学びに来て、そなた達が彼らに少し尊敬をしなければならない。そなた達は道場に入る時に、目がただ一つのところを見て、他のところが全然気にしなくて、、少しの儀軌、礼儀、躾けが全然分からなくて、ただ自分の気持を気にして、頂礼してから席を見つけて座って、このような心構えにて仏を学んではいけない。何処の地方と道場へ行っても、我々は出家衆を先に尊敬し、次は、お年寄りに尊敬し、そして、子供のお世話、此れは人間とする道である。人間としての礼儀も知らなくて、人道が出来なくて、仏を学ぶ資格が無かった。現在、台湾がこんなに混乱しているのは、尊卑不分で、礼儀が知らなかった。学生が先生に打つ事が出来で、息子が両親に殺す事が出来て、本当に混乱である。そなた達が仏を学んで来ても、またこのような混乱のでしょうか?ただ自分の子供だけで世話し、他のことを気にしなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはある母に「これから、パンを持って息子に食べさせる事が出来ない。此処に清浄な道場え、如何なる玉子の食べ物を持ち込んではいけない」と罵った。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは子供に仏法を聞きに来させて、母親とするのは自分子供だけで世話し、側の子供も世話しなければならなかった。これ等は全て利己的な行為で、自分の事だけで気にして、他人の事を気にしなかった。自分の子供だけで見えて、他人子供が気にしないで、他人子供がそなたの子供を悪戯をしたら、そなたの心の中に嬉しくなかった。小さい頃から、自分の子供が他人と闘って、争うように訓練していた。仏を学ぶ者は人間関係を人間のように対応できないならば、どのほとの仏法を聞いても役に立たなかった。我々は人道に生まれて人間とする条件と標準があって、一切の人間とする躾けと礼儀が分からなければならないで、尊卑がはっきり分からなければならなかった。このような考えたが無いならば、人間ではなかった。

今日人身を得られて此の因縁福報があって仏を学ぶ事に来られて、此れは全てそなた達の累世因縁である。今日は此の機会がったえ仏法を聞けて、真に上手く把握しなければならないで、真に多くの欠点を改正しなければならなかった。此の世にまた来る事とは、過去世で上手く学ばないで、上手く修めた事が無かった。しかし、過去世に仏法を聞いた事があるので、少しで修行した事があるので、この世に此の因縁がまたあった。しかし、この世の因縁を大切しないなら、来世に何時に再度来られる事が誰でも知らなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの世と前世が4百年余りを隔てて、そなた達が思っているこの世が死んだらすぐに帰られる事ではなくて、限りではなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェのこの世に37歳まで、仏法を接触して始めて、これ等の因縁が無いならば、この世も無駄で来た。過去世にリンチェンドルジェ・リンポチェは如何に上手く修めても、この世に善知識に会えないで、開導させないで、機会を与えないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのこの世も無駄になった。

仏を学ぶ事は生涯最も大事なことで、何よりも大切である!私たちのこの世の所謂名利、家庭、子供等は、すべて因果と因縁の法則による、そなたが仏法を修めるかどうかとはまったく衝突しなかった。仏を学びに来ると、そなたの家庭や事業などに悪影響を与えるとは思ってはいけなかった。一部の人々は日曜日に行くところが無いので仏法を聞いてきて、そうではなかった。仏法を聴聞するのは清浄、期待、希求の心で仏法を聞く心により聞くべきだ。今日、そなたの一人が仏法を聴聞に来ると、そなたが連れる世々代々の親族と冤親債主が無数である。そなたが一心して聞く事をしないなら、上師からそなたの勧めをずっと受け入れないなら、そなたの累世の冤親債主と眷属が全てとても失望してしまった。だから、ある法会の機会が簡単だ思ってはいけないで、現在、3百人が此処に居れば、100倍、千倍にかける衆生が此処にいて、甚だしきに至ってはこのようにだけではなかった。ただ一心して、懺悔心により、希求と法を望む心により仏法を聞いて、そなたの事が益々良くなっていて、此れは冤親債主が利益がもらえたわけである。仏法を聞くと自分が何か利益があって、そなたの子供が素直に従って、成績が良くなっているを望むならば、このような心構えがそなたに対する何か利益が無いで、此れはそなたの冤親債主が何も利益をもらえなかったわけである。もし、今日仏法を説く者と仏法を聞く者の心は同じように一切な有情衆生を利益する事を望んだら、此の法会の力が虚空にまみれ、この小さいところだけではなかった。虚空に遍くとは全ての六道の一切の有情衆生、甚だしきに至っては全ての十方法界の一切の衆生が仏法を聞かれて、然し、皆が共同で心を持たなければならなかった。何故釈迦牟尼仏が仏法を説く時に、十方法界の諸仏菩薩を感召し、六道衆生を含めて仏法を聞いて来られるのでしょうか?此れは説く者と聞く者が同じい心を以って、衆生に利益して生死を解脱するのである。

あなた達の心はすべて自分で良いためで、先ほど、リンチェンドルジェ・リンポチェが子供の為にパンを持った母を言った時に、彼女の目がすぐに大きくなって、無念と感じられた。『三十七頌』の中に、公的場所で誰かがそなたが間違いと言っても、そなたが彼が菩薩だと思っていた。だから、彼女のこのような心を以って仏法を聞く事が役に立たないで、受け入れなかったわけである。何故『三十七頌』を詳しく釈明されるのでしょうか?そなたの毎日の生活は『三十七頌』を以って学んで修行したら、そなたの未来が必ず何も問題が無いで、敵もいない事を保証できた。そなた達は如実に修める事が無いので、上師が何を言うなら、心構えがすぐに変わって、表情も一緒に変わって、そうすれば、教導により従う事ではなかった。顕教或は密法を修めても、『仏子行三十七頌』は最も基礎で重要で根本である事である。『仏子行三十七頌』を人間とする指標にしないなら、必ず悪業をした。そなたが皈依した事があっても、彼方此方に道場に行っても、拝懺をしても、仏法を聞いても、何も役に立つ事が無いで、必ず悪事をした。他人に傷害する事とは悪である事と限らないで、仏が説く悪の標準とは、ただそなたの考えが不善で、他人に利益しないなら、即ち悪である。此の標準を遣り遂げる事がとても難しいで、そなた達は少なくとも一つの標準を遣り遂げて、自分が正しいだと思ってはいけなかった。自分が正しいだと思うと、相手が間違うのであり、相手の間違いが何でしょうか?此れは相手がそなたのある考えい満足させる事ができないわけである。

今回「四加行」を伝える前に何故一切の理念がそなた達にとても詳しくて教えるのでしょうか?此れはそなた達がよく知っているなら、そなた達が「四加行」を修める事が問題が無いわけである・此の過程には長くて諭して、そなた達が根気がって続けられるかどうかによった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれからますます凶悪になってますます厳しくなった。前週の金曜日、15人が道場のベストを着ていなかったので、これらの15人がこれから金曜日の施身法がすべて候補の状態である。そなたが「私は知らない。私は明らかではない。私は聞いて分からない」と言ってはいけなかった。此れはそなたが一心に聞いていないわけである。もし有る道場は儀軌がないなら、躾けがないなら、人がますます多くなる時にとても面倒になって行った。

あらゆる善知識はそなた達がが生死から脱離することを望んでいる。真言を唱えたり、禅七をしたり、法会に参加したりする事をしたら、解脱する事が出来る事ではなかった。此れはただそなたの少しの福報を累積する事が出来て、真に生死を解脱する事をしたいなら、自分矜持を捨てて、自分の考えが正確し、矜持を捨てないなら、そなたのこの生死の課題が絶対に破られなかった。そなたが放れられると、そなたが輪廻の苦しみが何処にある事をますます了解して始まった。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの理論をそなた達に教えて、そなた達の本当の内心世界が体得出来る事が代表しないで、此れはそなた達が放れないで、そなた達の累世の習慣、「我」の観念が依然として重くて、とても執着して、此れを簡単に変わらせる事出来なかった。だから、釈迦牟尼仏は49年に地球で仏法を説く事が必要、此の故にこんなに大菩薩と全ての大徳が千年に絶えずに仏法を広めて、衆生が聞き入れる事を望んでいた。だから、「四加行」は以降でチベット仏教の密乗を学ぶ事についてとても重要で、「四加行」がないなら、これからの法が絶対にそなたに教えなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが貰えた密法の法門はチベット族もこれ等の密法を漢民族に伝えないと放した。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王と特殊な因縁があって、多くの特別な密法があって、リンチェンドルジェ・リンポチェが学んで得て、学んだ事とは自分の利益の為ではなくて、学んだのが全て衆生に利益して、しかし、衆生が助けを望む事も必要、助けを受け入れないなら難しく対応した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続けて次の如く開示された。我々はこの瑕がない人間の身体を貰う事が真に難しかった。過去世で両親に親孝行しないで、過去世で十善法を修めないで、今世、人間の身体を貰う事が無理で、貰えても、此の身体が同じように問題があった。だから、仏がずっと「人間の身体はとても得難い」と説いていた。六道の中に、もっと厳格で言えば、全ての有情衆生の中にただ地球の人類だけで仏を学ぶ事が出来で、仏を修める事が出来た。東、南、西、北の四部洲の中で、ただ南部洲の地球の人類だけで仏法を聞けて、残りの三つの洲で人間がいるけれども、彼らが仏がいる事が無かった。だから、我々はこの身体をもらえて、此の身体も我々の過去世とこの世の一切の業力の現れである。此の身体は寶であり、此の寶が享受する事ではなくて、そなたに威風させる事ではなくて、却ってそなたにある工具を与えて、この世に仏を学ぶ事が出来るのである。

龍樹菩薩は、地獄に生まれる者、餓鬼、禽獣、僻地に生まれる者、長寿天に住む者、邪見、仏陀が生まれていない状態、聾唖者、すべて正法を学べない、と言う。“十円満”は5つの自円満及び5つの他円満を含む。竜樹菩薩曰く、5つの自円満とは:一、人身を得る事、二、「中土」に生まれる事、三、諸根を欠くことがない事、四、極悪事を働いていない事、五、信心を持つ事。

身を得る時、僻地ではなく、仏、四眾、弟子がいる地区で生まれるのは「生地円満」である。逆に言うと、アフリカや南太平洋の島々に生まれる人は仏法が聞けない。全ての根と器官が欠けていないのは「諸根功徳円満」である(これは前世の修行から得たので、この世で、醜いとか美しいとか、背が高いとか低くいとか、色が黒いとか白いとか、太っているとか痩せているとかは、すべて過去世で、供養布施した事と関係がある。すべて前世の修行によるものである。もし、現世でいい顔をしていたかったら、現世は着実に経典にしたがって修行すべきである。顕部も密法も経典では着実に修行する人は、外在と内在が一緒に変わると言っている。即ち格好は心に従って変わること。もし現在の写真を数年前のと比べたら依然として嫌な顔をしていたら、あなたはよく修行できていないのである。ちょっと賢くなっているだけで、ちっとも慈悲や平和な感覚をさせないのもよく修行できていないのである。人があなたに近づけなく、ちょっと付き合うだけでこれ以上深く付き合わないのもあなたがよく改めていない証拠である。実は、本格な修行者には、外見が変るだけではなく、内心も変るし、体臭さえも無くなる。まだお肉を食べているあらゆる人、業が重い人、心が恭敬ではないのも匂えるし、側に座るとリンチェンドルジェ・リンポチェがすぐ分かる。心が清浄ではなければ外見に影響を及ぼすからである。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェがよく言っているように、黒く見えるのはお化粧をしても黒い、ここで言う黒は肌の色ではなく心の黒であって、心がまだ改めていないのである。占い師があなたには福報があると言っても過去世によるもので、現世では変えられない。現世で使っている体は過去世で修行してきたので、来世で荘厳相が得たかったら現世の修行に頼るのである。現世で修行しなければ来世も刻薄で醜い相に決まっている。諸仏菩薩の相は鏡餅のようなまん丸ではいが、すべて円満な相であるのは何故?諸仏菩薩の福徳が円満だからである。諸仏菩薩の相には頬骨が絶対に出ていない。頬骨が大きいのは人を制御するのが好きで、何もかも自分がいちばん偉いし、自分が制御したい、人が自分の意志に従わないと怒り出すなどは過去世の心構えによる物である。リンチェンドルジェ・リンポチェの叱り方を真似しないでほしい。リンチェンドルジェ・リンポチェが人を叱るのは自分のためでもなく、相手にリンチェンドルジェ・リンポチェによくしてもらいたいのでもないからである。あなたには人を叱る条件あるか?諸根円満でいるのは、少なくとも過去世で良いことをしたことあるし、仏法にかじったことある、そして供養、布施したことあると分かる。

第二、悪業を働いていないとは、今生無間罪(即ち父母を殺害する、仏の血を流す、合和僧團を裂く)を犯していなく、且つ善業(一番大切のは随喜功徳で、上師、修行人が行う全ての衆生を利益する事に対して、心と口から賛嘆し、随喜する)を楽しく行う。善業を楽行するとは、寄付をするだけでは善業ではなく、善業は自ら働きだすが含まれる。もっとも大事なのは随喜功徳である。随喜功徳も極一般に考えられる「お布施にいくらを包むか?随喜!」のことではない。あらゆる上師や修行者が修行の過程、衆生に利益する過程を見て心より褒め称え、口より褒め称えるこそ随喜である。現在、あたなたちはこれがいちばん欠けている。どうして人を叱るの?どうして人の子供を世話できないの?それは分別心が重いからであるう。善業を楽行するのも過去世による物であり、リンチェンドルジェ・リンポチェがここ数年たくさんの衆生を助けてきたが、言わなくても帰依したいと申し込んだ人もいれば、どうしても帰依しない人もいる。これは善業を行う考え方がないからである。なぜかと言えば、帰依は断悪行善の始めとなるからである。ちょっとした悪をしても平気だと思う人もいるが、それは善業を行わないと言う。これを「殊勝心識の円満」と称す。仏陀の教法はすべて善業出生の調伏処であり、強い心神を生じていれば、仏法に心を向いたら、円満を深く信じる。

この世で無瑕円満な宝人身を得たのは過去世で持戒清浄、佈施供養などの行いがあったからである。なぜ佛を学ぶ人には必ず持戒、布施をするかと言えば、それはもし現世で生死を解脱することがなければ、少なくとも無瑕な人身(無瑕円満な人身宝)が得られる。一般に言うと、あなたも含めて人身が得られたら持戒ができる人が極めて少ない。帰依も佛を学び始めたが、一旦利益の衝突があれば、仏法を忘れ容易く破戒する。戒律は自分への束縛と、戒律は破ってから補おうと思われがちである。よく懺悔を謝りのように使うのをリンチェンドルジェ・リンポチェが言うが、まじめに間違いを認めないことや、間違ってもどこが間違っているのか分からないことや、そしてどうしてリンチェンドルジェ・リンポチェがまた私を叱ったの?どこが間違えたの?と聞くなどの間が方や言い方は自分の行為は破戒していないと思うのである。

実は、リンチェンドルジェ・リンポチェの視点より、諸佛菩薩の視点より、そなたの身、口、意にちょっとした破戒があれば、待たないですぐ正すのである。この道場に来てリンチェンドルジェ・リンポチェと友達になることでもなければ、自分の欲望を満足してくることもなく、徹底に仏法を学びにやってきたのである。もし、一日中上師が付いて監督しなければ、簡単に破戒してしまう。こっそりと何かをしたら上師が知らないから、平気!と思わないで下さい。佛菩薩、護法が知る!一旦破戒したら、自然とこの道場を離れていくに決まっている。

戒を守ったとしても、清浄(戒を守った事で何も求めず、ただ以後人天の導師となり、自身を円満な仏の道に向かわせる)を得る人はさらに少ない。持戒はなんらかの福報がもらえ、人に褒め称えてほしいのではない。多くの人は精進料理をするのは偉いことと思っていたるところに自分がベジタリアン(しかも、胎児の頃からずっと)をすると言う人が多い。もしかしたら、その人は牛や羊から人間に生まれ変わったのかもしれない?牛や羊はお肉を食べないから、胎内からずっと精進料理を続ける。なので、ちっとも見せびらかすに値することではない。

持戒は我々個人の行為であり、最も大事な戒は心の中の戒である。そなたの身口意による物は衆生に傷付けるのか、自分ではっきり知るべきである。自分の利益のために嗔念が起こってないか?もしあれば破戒に当たる。自分の利益とは、人が私を見下げるから話を聞いてくれないと思うやら、面子に気を使ってくれないから怒ったりするのは持戒できていないことである。清浄に持戒することが本当に困難である。更に、利益と衝突する時や、外在的な誘惑に遭遇した時に、持戒ができるのはもっと少なかろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェが密法を学ぶ前、顕教を学んでいた時に、皈依してからお酒を一滴も飲まないようにした。商談相手がリンチェンドルジェ・リンポチェがお酒を飲めない、仏教徒と知りながら、このビールを飲んでくれたら契約する、飲まなければ契約しないとお酒を勧めた。一千万元以上の商売だったから、ここに座る各位なら飲んでから考えようと、帰ってからアチターラに懺悔し、儲かったお金を寄付すると言うが、リンチェンドルジェ・リンポチェはどうしても飲まないでいる。そして商売相手に「今日、お酒を飲まされたら、たとえ上手く商売できても、今後は敵でいる。もし、商売しなければ、今後は友好関係が保つに間違いない」と言った。この人はこう答えた「これだけ拘りを守るから、あなたなら今後の合作では絶対に私に害をもたらさない」と言ってすぐ契約してくれた。

それより、そなた達、外で業務する者は小さい利益のため、そなたの良心、人格ひいては家族を騙して、そなたの所謂標準を達した。ひいてはそなたの愛情の感覚を消化するため、上師が言いつけたもうメデイアを利用してあらわないでこうするとそなたの福報に損をするのを問わず、聞かず、これは正しいと思った。皆は全部このようにしているから。こうすると即ち戒を守らなく、例え戒を守ったとしても不清浄だ。今日そなたは既に皈依して、広東人が言った通りで、そなたの髪の毛が既に濡れたので洗わなくてもいけない。仏を勉強するのがこれであり、そなたは既にこの仏門に踏み込んで、皈依して、上師と誓いがあり、しかしそなたの生活はいつも上師がそなたに教えた方法と相違して、そなたの生活は順調出来るか?絶対に不順調だろう。だから、戒を守るのは既に大変難しくて、清浄で守るのは一層難しかった。

経典に曰く、廣學多聞たりとも戒を守らなければ悪道に落ち、仏法を多く聴聞したとて救いを得ないだろう。なぜ仏子三十七頌がこんなに大切、そなた達はこんなに多く仏法を聞き、唯一つの瞋念が起きれば、特に上師の話に対して違反であれば、以前仏法を聞いた全ての功徳は全部すぐ消えてしまった。そなた達は「火焼功徳林」とは腹を立って、人を罵って、殴る事と思った。実はそうではなく、そなたは上師が全て教えた仏法を忘れて、自分に自分が仏子と注意させない。仏子と言えるか?我らは仏が全て教えてくれた方法に従って日を暮らすべきだ。それより、最近ある者は病気にかかり始めた。病気にかかったのはリンチェンドルジェ・リンポチェが全て教えた事を忘れて、修行して得たごく少しの功徳は無くなって、本当に大変早かった。

その故、そなた達は見て、無数な衆生には仏にお辞儀する者がこんなに多くて、寄付するのも多くて、道理的に仏経ですべて述べたのより、彼らが全部作った行為は自分の業を転化することが出来るはずが、なぜ出来ない?それは彼らがいつも間違い考えがあった:我はお辞儀して、寄付して既に功徳、福報があって、少しの悪を作ってもかまわない。このような考えがあってはいけない、我らは生々世々既に多くの悪を持って来たから。一番大切のは、そなたが皈依して仏を学び始めた時、そなたの累世の冤親債主はそなたを邪魔するのをその秒立ち止った。彼らはそなたと一緒に仏になるチャンスがあったと感じて、やっと止まってしまった。しかし、彼らはそなたの行為はまた自分、衆生、上師、仏菩薩を騙すのを見ると、彼はすぐそなたを邪魔しに来た。なぜそなたを邪魔しに来たか?そなたの行為はやはり騙す以上、どうしてそなたに良い生活を暮らせるか?

多勢の者はこの事を理解できない、彼らは自分が毎日念仏して冤親債主に迴向したと思って、なぜ彼はまだ離れないか?そなたは教えに従って実行しないから。教えに従わない者は永遠凡夫地である。此処でとても簡単な方式でそなた達に教えて、多く聞いてもそなたは福報、功徳があるとは限らなく、だから顕教では言い及んだ:看経は聴経にしかず、聴経は行経にしかず。即ちそなたは行動するべきで、経典の内容でそなたの生活を暮らす。そなたは多く聞くとそなたの生活方式が変えるとは限らなく、しかしそなたは徹底的に聞いた後用いることが出来るべき。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは今週金曜日法衣を着ない弟子に来週金曜日の施身法に参加させない。それは彼らは聞き忘れて、この事は大変簡単で、どうでも良い、仏法と関係ないと思ったから。しかし、この事は上師が仰った事で、上師が申された事はそなたが聞かなければ、仏法を聞く必要もない、そなたが仏法を聞いてもリンチェンドルジェ・リンポチェもそなたが出来ると思わない。それより、リンチェンドルジェ・リンポチェは大厳密な方式でそなた達を管理する。そなた達は既に自分の生活に慣れて、自分の皇帝になったので突然にあるものがそなた達を支配するとそなた達が大変慣れなかった。

仏菩薩の目の前、そなた達は子供と同じで、誰でも関白で、誰でも自分の考え方が会って、誰の心の世界にも、一体聞くか、するかと足掻いた。それでここで説いた、そなたがこんなに多く聞いて、戒を護持して、守らなくて、この仏法もそなたを救うことが出来ない。戒律を受けた後、それに損をさせなければ、この政教の法脈はますます盛んになって、一切魔軍を信服して、それで我らは是非戒律を護持するべきだ。

この戒は我らは在家の一番簡単な五戒、そなたと上師との誓い、そなたとどの本尊との戒律を含んだ。出家の方は当然に比丘戒、比丘尼戒、菩薩戒、菩提心戒、三昧戒があって、これらの戒は我らは全部護持するべきだ。そなたは戒律を護持しなければ、この法脈、ひいては小さい道場さえも段々落ちぶれた。道場の盛りには、この上師は彼が自らの戒律を護持して、それにすごく厳密的に彼の弟子に同じで戒律を守るのを要求させて、そうしてこの道場は盛りになった。

盛栄とは銭財が多い、寄付する者が多い、寺院を建てることを手伝う者が多いのではなく、本当に気をつけて仏を勉強する者がますます多かったのである。所謂教派の隆盛とは、全く仏を学んで衆生に利益すると思った者がますます多くなったか、あれば、この教派の法脈は盛栄になって、我らは全ての内魔、外魔を信服するのが出来た。全ての者は仏を聞き、仏を勉強する心が同じで、一切の魔が害をすることが出来ない。

前暫くある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに言った、彼は法会に参加した後、翌日ドライブして、彼の兄を十八王公へ遊びに連れて行った。彼の兄の業は大変重かった。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子として、兄に仏門に皈依するのをすすめなくて、かえって彼の考えに沿ってあれらの鬼にお辞儀した。彼らはお辞儀した後、彼の妻を除いて、全てお辞儀して、入った者は全部気分が悪かった。気分が悪くなったのは、あれらの鬼は彼が法会に参加して、ある仏菩薩が彼を助けるのが知った。彼はまだ聴かずにこれらの鬼に邪魔しに行って、これらの鬼は彼を見ると離れるべきで、そなた達はまだ鬼が悪戯しに来た?そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仰った、便利と思って外道に頼むべきがない。かれは仏法の偉さを兄に言わなくて、現在まだ仏法を神様としてお辞儀をして、多くの者はこのようである。十八王公は台湾人であれば全部鬼をお辞儀するのが分かって、あれはかたよる者がお辞儀する。

それで、そなたが言ってこの戒を破ったか?破るとすぐ気分が悪くて、彼はあの日緊張してリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いに走って来て、高血圧があって、何でもかんでもあった。これは彼が彼の兄を止まらなくて、彼がドライブをしたから。彼は自分が道を分からないので行かなくてもいいのに。彼の兄は殺業がこんなに重くて、せっかく施身法を一回参加して、翌日また彼を遊びに連れて行って、これは彼がまだ仏を信じなくて、彼が信じれば、あの日の行為が現れなくて、絶対彼の兄を勧めて、彼は勧めなくて、彼の兄を止まらなくて、また彼の兄に線香をつけさせた。仏ではなく、犬にお辞儀するか?今日そなた達は彼を笑わないで、そなた達もこんな事をした。どうしてそなた達は勉強したのにやはり外でぶらぶらするか?それは心が固めなくて、信心が足りないのである。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは今日法座に座る資格があって、この点でそなた達と結構差があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依したあの日から、幼いから大人まで全て学んだ道教の者は全部しまった。多くの者は皈依する時リンチェンドルジェ・リンポチェに伺って、自分が以前お辞儀した神像はどうするか?リンチェンドルジェ・リンポチェは9才より父親と道教を学んで、符呪をかいて病気を治すことが出来て、刀槍不入が出来た。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法がこんなに良くて、殊勝と分かって、あれらのものをすぐいらない。そなた達はまだあちこち考えて、なるべく両方ともいる。もちろん、そなたが両方を信じて、両方とも全部来られない。そなたが皈依した後、全て一切な非人、鬼道のものはそなたを看ると全部離れる。しかしそなたの心はそなたが皈依した戒を違反すると、そなたの護法神はまた離れた。鬼も離れて、護法神も離れて、そなたは空中で引き上げてそなたの冤親債主はすぐ来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェはあちこち仰って、全てこんなにはっきり申されて、そなた達はまだ耳に入らなくて、悲しかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの悲しいで、前世そなた達これらの者にかけたから。リンチェンドルジェ・リンポチェの友達はいつもリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いた、良い根器の弟子に出会ったか?リンチェンドルジェ・リンポチェはないと答えた。これらの弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに面等させなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に阿弥陀仏だ。どうして根器が悪いか?上根器者しか仏を学ぶことが出来ない。そなた達は犯した一番大きい問題は不信だ。上師と仏が全て教導した方式で全く生活の中に用いるのを聞かない、これは不信である。大したもんではなく、大丈夫と思った。だから今日リンチェンドルジェ・リンポチェは十八王公に感謝して彼を修理して、彼に浪子回頭させた。帰ったらよく彼の兄と言って、彼に因果をはっきり了解させて。例え線香をつけて鬼は彼を加護するなら、リンチェンドルジェ・リンポチェも修めない。こんなに多くの仏法を聞いて、そなた達はやはりぼやぼやした。

我らは離脱の戒を良く出来なくてもその他の戒律は我等が一切の力を尽くして護持するべき。我等は破戒があれば、すぐ如法懺悔する。懺悔とはそなたがこれからもう二度としない。それで我等は破戒した後、我等は後悔して、自分を恨んで、これらの者はあれら持戒して傲慢するものより良かった。ある者は素食して大変驕って、これこそ持戒して傲慢するのである。これらの者はあれら戒律を破って懺悔が分かるのより悪くて、それは持戒して傲慢する者は絶対に魔道に落ちる。

若し今日そなた達は間違いを起こして上師に責められた後、懺悔をして二度と犯さないほうが、戒を守って傲慢になる者よりまし だ。それは、間違いを知るので、魔道に落ちないからだ。だから、持戒する者に対して常に随喜するべきで、また自分が持戒するように感じ、常に懺悔と随喜するべきだ。成仏する前は、皆懺悔しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今でも懺悔し続けている。それは、成仏せず、衆生を利益する事が出来ないのは間違いだからである。如何なる仏の恩返しするだろう。供養をすれば、恩返しと呼ばれる事ではない。本当の恩返しとは完全に仏が説かれた方式に従って、仏法を学んで衆生を利益する。衆生を利益するために成仏になるとは真の恩返しの心である。

故に懺悔はとても重要である。もし、自分は間違いが無いと思い、懺悔するのは安らかな日々を過ごしたいと考えるのならば、そんな懺悔は間違い役に立たない。そなた達の懺悔は冤親債主が自分を邪魔せず、冤親債主に迴向して自分から離れていくと望んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは却って彼達に離れないように求めた。衆生を済度するなら、何故先に自分の冤親債主を済度しないだろう。こんな多くの冤親債主を済度させるのにそなたが済度せずに、、そなたと因縁、関係が無いのを済度して正しいか?だから、世間に多くの人は懺悔を間違く解釈した。多くの人は業を消すとは冤親債主を追い払って、懺悔の力で追い払った事を言われたが、間違いだ。それは懺悔の力で彼らがそなたの邪魔に来るのを止めさせるだけである。冤親債主まだいるから、そなたはまだ成仏出来ないから彼らがそなたと一緒に成仏できない。しかし、若しそなたが本気で仏を学び、衆生に利益しようと発心すると、彼らはそなたの護法になる。懺悔をはっきりに分かって、毎日愚かで懺悔して冤親債主が自分から離れるように言わないで。此れはとても怖ろしい。巫術だった。金剛乗を学ぶ事を決めるなら、金剛乗は仏の心で、衆生のために苦労をし、恨み言を言わない。だから、我々は病気に罹ったり、事故に遭ったりするのは当たり前だ。まだ成仏しないから、それは冤親債主が我々に少し刺激を与えて、早めに修行しないと間に合わない。仏を学んでも何も起こらない事を思わないで。それはそなたはまだ成仏していないから、無事とは限らない。釈迦牟尼仏は此の世に成仏しても、また九つの苦難がある。仏は頭痛して、石に投げられて、人に誹謗されて、馬糧を食べるなど。それは仏の果報の表れである。そなた達は無事に成りたい事は可能だろう。

故に仏を学ぶ事は我々に生死を離れて、本当の道理を分かった後、仏を学ぶのは進めている。ある時そなた達は病気に罹ってリンチェンドルジェ・リンポチェは病苦を軽減させたり、治癒させたりするが、そなた達に安らかな日々を過ごさせて、お金をもっと儲ける或いは子供を世話させるためではない。それは我々を延命させて、限りある今生の命の中で、覚悟を成遂げ、生死を解脱するためだ。だから、上師として、毎日自分は長生きが出来ると祈っている。それは生きたい為ではなく、唯開悟して仏果になり衆生を利益できる事を望んだ。だから、時間が必要だ。人の寿命はとても短くて無常なので、仏菩薩の助けが必要で此の世に行えて再びに来ない。若し再びに転生すれば、必ず菩薩身で来る。

故にそなた達は随喜して懺悔しなければならない。他人がすこしばかりの衆生に利益ことをするのを見ても、彼らに感謝し、褒め称え、口には出さなくても心では随喜するべし。 持戒する者に随喜すると、そなたは彼が持戒しているのと同じ功徳大海にいるのだ。何故在家衆は出家衆に礼儀を尽くすべきだろう。それは彼達は清浄戒を守るがそなた達が出来ない。それは随喜だ。出家の身分はそなたより高くて、大きくて偉いわけではない。それはないだ。彼の生活は戒律の中にいるが、そなた達が出来ないから、随喜しなければならない。随喜とは他人に礼儀を尽くし、他人に恭敬心を持ちなど。だから、今日責められた理由は分かるだろう。つまり、我々は常に懺悔して随喜を行わなければ成らない。

我々はこの一生でとても大きな福報を修めて天道に生まれたとしても、依然として生死を解脱することができない。華厳経に、人身を得るのは極めて稀で、清浄、円満暇があることを得るのは更に稀だと言う。だから、我々は人身を得るとは簡単に勉強して、卒業して、結婚して、子供を生んで事業を経営するためではない。それは唯人生の過程だ。唯自分が生きられるために必ず行う事だから、我々が追求するためではない。実は眷属は多く、事業が多いのは必ずいい事とは限らない。この体を得るのは我々に修行させるため、修行は個人の縁によって違うが、必ず出家相が現るのは本当の修行とは言えない。

いわゆる「中土」とは元来仏陀が成仏の地とするボードガヤーのことである。もしも我々が5根を備えなければ、受戒の器になることができなくて、聞思修の善縁もない。だから、戒の中に多くのは我々に因縁が有って、仏法を学ばせる。ある者は生まれた所はよくない。例えば、生まれながら猟をしたり魚を捕ったり養殖業をしている。多く中南部から来た信衆は見れば彼達は殺業がとても重いと分かった。彼等は常に生まれたからこの生活していると思っているが、仕方がないと言った。それは懺悔心がないのだ。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に彼等に伝えたが、生まれたから仕方がないと限らない。そなたは過去世で悪を多く行い、今生でも悪を続けたとしても、そなたは此れを変える事が出来る。因縁を具えず或いは善縁が不足であれば、悪地に生まれた。妓院の子女として生まれ、所謂水商売の子供或いは幼い頃から外道を学び、身口意など三門で仏法に逆うと、仏法を聴聞する事が難しく、無間罪を犯しやすい。だが外道 がいくら殊勝で恐ろしくても輪廻を脱離する事が出来ないので、我々は完全に仏の教えを信ずるべきである。以上は5つの「自円満」である。

5つの「他円満」:龍樹菩薩曰く:「仏が出世して四教法を示すと、教法は随行衆をなだめ、仏が故に心に慈愛が満ちる」。我々は仏が有る時に生まれ、仏を見えないけど、仏法は残っていて多くの大徳が絶えず仏法を広げ、仏、仏法、弘法する人々が慈愛の心で我々を教え導く。我々は常に末法時代を聞いた。つまり、釈迦牟尼仏の教法はまだ一万二千年続くが、その後に、弥勒菩薩が誕生されて成仏するまで50数億年も待たねばならず、その50数億年の間に生まれたら、仏法を聞くことができなく、何度も輪廻することになる。更にそなたもこの一万二千年の間に再び仏法を聞ける事を保証できない。

現在そなたは闇の世に生まれず、釈迦牟尼仏の教法の時間に生まれた。「明劫」と言われた。殊勝な導師が円満に教え導いてくれる。たとえ仏は転生しても、仏法を開示しないなら、利他できない。故に我々は法輪が常に廻る事を祈る。多くの祈請文は七供養が有る。その中に一つは法輪が常に廻る事を祈る。仏が仏法を開示するだけではなく、その上教法がこの世に住み着く事は得難く、今教法は依然として世の中で広く伝わる故、「安住世間円満」と称する。教法は残っても、護持、講義をする者がいなければ、学ぶのも難しい。今は護持、講義をする者が居る故、「法の教えに順調に随う円満」と称する。我々が学習を始め、家庭の懸念を一切置く事ができ、心を落ち着けて「聞思修」の努力が出来る事は、尚更稀なる事であり、これを「意楽を増す円満」と称する。

「置く」と言う事は在家衆にとって並大抵の事ではない。またそれも修行に対して方便な事だ。出家相が現る利益とは出家衆は家庭事業の懸念をすべて取り去っているが、我々在家衆は死ぬまでこれらの懸念が付き纏う。 しかし我々は人身を具えたが、家庭や事業を捨てても煩悩がないとは限らない。出家衆はやはり別の悩みがある。例えば、仏法を広める道場が有るかどうか。説法を聞かれる信衆があるかどうか。正法を学んで自分に生死を解脱させるかどうかなど煩悩がある。

金剛乗にとって、煩惱は毒薬ではなく、我々に人生の苦しみを理解させ、仏法を修行する 決心をさせる。故に、一切の眷属と事業も我々の道場であり、我々は家庭、事業において、絶え間なく仏法で暮し、自分を薫陶して、他人に仏を学ぶように影響 する。これぞ大道場である。我々の道場は毎日の生活であり、仏法を以って日々の暮しの悩みに向かい合う。これが修行である。本当に離れなければ成らない時、自分が既に多くの事を行って、離れるべきだと感じて、自分がまた残りたくて、懸念があると思わない。

若し家族はそなたに仏を学ばせないなら、彼を騙せず正直に伝えた。若し彼はそなたに行かせないなら、暫く来ないで。家族はそなたに行かせないのはそなたはまだ修正しないから。仏を学ぶ事を妨げる眷属は全て累世で他人が仏を学ぶ事を邪魔したのだ。彼は此の世にそなたを妨げた。若し、仏法で修正して、仏法で生活の中に運用すれば、そなたの眷属はそなたが来るのを歓迎すると信じる。ある人は両親に自分が仏を学ぶ事を知らせる勇気がない。何故他人が他の宗教を学んでも公開に話せたのに、仏を学ぶならこっそりにしなければならないだろう。そなた達の心は何だろう。仏を学ぶ事はださくて外国人っぽいではないだろう。仏を学ぶ事はダサいではなく、そなた達の上師はださいではない。それはそなた達の心は正しくなく、こっそりの心で仏を学んだから。

仏を学ぶ事は公明正大な事だ。仏は我々にいい方向に向いてくるのを教えた。何故そなたは自分の両親に知られるのは怖ろしいだろう。だから現場の若い人は両親がそなたに仏を学ばせないなのは、そなたの親孝行が足りないからであり、また多くの事を良くやっていない。そなたは過去に必ず両親に喜ばない事を多く行ったから、そなたの一切行為に対して全て認めなかった。現在世間に多くの正しくない観念があって、子供に出家して勉強しない事を勧めた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような人ではない。そなたは出家できるかどうかとはそなたの個人的の行為だ。そなたは今日こっそりに仏を学んで他人に知られる事を恐がって、他人に話す事を怖がるなら、そなた達に来ないで。仏を学ぶとは泥棒見たいなら、何のためだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に悪い事を行うのを教えただろうか。そなた達に二十四時間に引き続きに拝ませただろうか。そなた達に結婚させなくて、子供を生ませないだろうか。そなたに仕事させず毎日に来る、全ての金を上師に渡すなど指示しただろう。全てはないだろう。そうすれば、何故そなた達はこっそりに仏を学んだだろう。唯一の原因はそなた達は多くの問題を改めなくて、まだ問題児童であるから。

そなた達は仏を学ぶ心を変えなければならない。他人に仏を学ぶ事を笑われても恐がらない。リンチェンドルジェ・リ ンポチェは始めて仏を学んで菜食する時、友達は「貴方は悪い事を沢山したから菜食したのだろう?」と冗談を言うが、リンチェン ドルジェ・リンポチェは「そうだ。私は悪い事を多く行ったから菜食する」と答えた。本当だ。リンチェン ドルジェ・リンポチェはかつて沢山の海鮮を食べていた。そなた達なら必ずこのような話しを言う勇気が無い。しかし、リンチェン ドルジェ・リンポチェは言った勇気がある。自分が間違いであった事を認めれば、他人はふたたび言わなくなる。しかし、そなた達は自分の間違いを認める勇気が無くて、自分のいい所ばかりに言ったが、他人に自分が仏を学ぶのお陰で好くなる事を感じさせなかった。だから、他人は何のために仏を学ぶ事を分からなかった。何故今日仏を学ぶだろう。仏を学ぶとは自分は悪くて間違いが有ると分かって、向き合う勇気があれば、自然に他人にそなたが仏を学ぶ事を納得してくれる。ある人は菜食した後、母に叱られて、妻が離婚させると言われたが。若し菜食すれば、自分が肉食が嫌いと言えばいい。問題なのはそなた達はしっかりに家族に自分が間違い、自分が悪いと言えない。いいものを学んで自分を変えて家庭を変えるため、言う勇気もない。だから、他人は自然にそなたが仏を学ぶ事を納得してくれない。リンチェン ドルジェ・リンポチェは自分が多くの悪い事を行い、自分が間違いと認めてた後、リンチェン ドルジェ・リンポチェが菜食するのは馬鹿と言われない。つまり、裁判官の前に罪を認めれば、軽い刑罰を受けた。そなた達は間違いを認めないから、そなた達は懺悔しなくて、唯謝っただけ。だから、仏を学ぶのは多くの問題が起こった。

他の人にどうして仏を学ぶかということを徹底的に理解させて、他の人にそなたが仏を学ぶのがとても高尚だと感じさせないでください。他の人に仏を学ぶのが自分が誤りの行為がたくさんあるから仏を学んで、仏を学ぶと誤りの行為を正し、未来に良くして、家庭に良くすることができるように感じさせてください。姑はそなたが来る事を許せない場合に、そなたは姑に、仏が私にいい奥さんをしなければならないと教えるから、その故私は仏を学びに行きのであり、上師が姑に親孝行しなければならないと要して、私が今あまり親孝行でなくから、親孝行することをよく学びたい、と言うことができる。そなた達は言わないから、他の人はもちろんそなたを阻止する。だから、皆はきっと徹底的に直さなければならない。

「普賢上師言教経」では、もし我々に順縁がなく、善知識の摂授を受けられなければ、はっきりと法性を了解することが出来ず、皈依したとしても用を為さぬゆえ、必ず善知識の摂授に従わなければならない。この5項目は他力で始めて備わるゆえ、五他円満と称する。

それ以外、ある器世界(天体)が「成、住、壞、空」を経ると1劫であり、仏の出世がある劫は「明劫」と称し、なければ「暗劫」と称する。仏経の記載では、大昔、「現喜劫」があり、その時から今に至るまで4つの「明劫」と1400の「暗劫」を経過している。これでこのように長い時間の中、ただ4つの劫は仏が住世して、仏法を講じて衆生に利益するが、この4つ劫の中で仏法を聴聞出来る衆生は限りがある。地球の歴史は今まで50数億年であるから、1つの劫が非常に長くて、もしその劫は仏が居ないとき、衆生は非常に苦しい。そなた達は仏法が住む世に生まれ、上師に巡り会い、仏法の伝授を受ける、極めて稀な機会を得たのである。

台湾の2100万人口の中で、仏を学ぶ人がとても多いが、しかし、1つの道場の中で1日中叱っている上師に出会うことがない。外ではすべて叱る勇気がなくて、何故かと言うと、弟子が逃げることを恐れるから、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子が多すぎることを恐れる。リンチェンドルジェ・リンポチェが広告をぜず、道場のニュースと雑誌を出版せず、テレビに出なくて、人に知られている事を恐れるのであり、そなた達は因縁があり道場に来られて、また上師に追われても離れないから、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが過去世、生々世々にそなた達に借りがあるが、この1世にリンチェンドルジェ・リンポチェは既にはっきりと説明したから、これからもう借りが無くなる。そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェが説く仏法を聞く機会があれば、重要なのはまずは聞くことだけで、後で時間があったらやることをしないでください。間に合わないかもしれない。この世にそなた達に完済して、来世ならそなた達は絶対にリンチェンドルジェ・リンポチェを探し出すことができない。直貢チェツァン法王が再来しない限り、リンチェンドルジェ・リンポチェは帰ってこない。仏法を聞けることはロト6を当たる確率より更に稀有で、たいへん容易ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の例を挙げて、もし37才の時、仏を学ばなかったら、今世は駄目だったろう。もし台湾に来なかったら、仏を学ばなかったかも知れない。もし20数歳の時に、宝石で成功して金を稼いだら、台湾へは来なかったかも知れない。直貢チョンツァン法王とドラブ・ワン・リンポチェはリンチェンドルジェ・リンポチェの過去世と直貢噶舉の関係が深いことを確認し、其の力がリンチェンドルジェ・リンポチェの後半生を導いてきたのである。普通の人にはこんなに深い因縁がない。故に、この度因縁が有って、直貢噶舉の寶吉祥道場に来られて、リンチェンドルジェ・リンポチェのこのように厳しい上師に会って、皆がこの因縁をしかり把握するべき、たやすく放棄してこの一生を無駄にするべきではない。もし仏を仰ったとおり、本当に恐ろしくて、数兆の一の機会としてそなたに仏を学びらせる

今私達があるこの劫には千仏が出世し、賢劫と称し、その後で6暗劫があってから、はじめて1つの明劫がある。今釈迦牟尼仏から弥勒菩薩が教え終わるまで、60劫を待ってからようやく仏が現れるから、あの期間はとても長いから、本当にとても恐ろしい。あの明劫を功徳荘厳劫と称し、あの劫が終わる後に更に1万の暗劫を通じてから、やっと明劫が出て、美音劫を称する。明劫と暗劫はこのように交替していて、14060ヶ暗劫の中に、仏陀が世間に現れる明劫は7つを上回らないで、確率は非常に小さい。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に皆にすぐ悪を断って善行をするように勧めているが、しかしそなた達は話を聞き取られない、福を少しやったら無事に過ごすことができると思っているが、しかし、それはあり得なくて、必ずすぐ悪を断たなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を学んでいた時にまだ知らないで、密法を学んでやっとすべての悪をすぐ断たなければならなくて、よく修行しなければならないことを知っていて、さもなくばすべては間に合わない。

釈迦牟尼仏はちょうど成道したばかりの時、衆生が教化しにくいから、仏法を説きたくない。剛強自用で、調伏しにくい地球の人類を済度しに来られたくなくて、かえって別の最も苦い世界に行きたくて、衆生が苦しい時であり、かえってよく済度される。例えば、蓮師は今羅刹国で国王をしているように、羅刹は専門的に人を食う悪霊なので、一部の人は突然におかしい病気に罹ったら、それは羅刹の悪霊は彼を食っていて、蓮師はこれらの衆生を悪事を引き続きやらないようにさせて、人道を助けるため、その故そこに行って国王を担任してあれらの羅刹の悪霊を管理するのである。本来、釈迦牟尼仏は真に人類衆生に教化したくないで、帝釈天と大梵天の祈請故に、釈迦牟尼仏はやっと法輪を転じた。この歴史の記載があって、だから、仏法を聴聞したければ、請い願わなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェに仏法で助けを願う場合、やはり口に出して願わなければならない。もしある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに、上師が私を見て何か問題があるのかと聞いたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も答えない。人としたら、きっと問題があるから。仏法ならば、そなたが必ず口に出るをようする。何故かと言うと、第一は、そなたが口で言わないと縁が無いから、第二、全ての上師と仏菩薩は、三昧耶の戒律を守るので、口に出して祈請すれば、上師と仏菩薩が必ず助けて下さる。以降、友人に連れで口に出ないし、上師が占い師とするし、リンチェンドルジェ・リンポチェはその友人を連れる者に罵って、何か問題があったら、直接に尋ねて、まずい事が要らなかった。一部の人々は上師が霊験するかどうかが確認したいので試みた。リンチェンドルジェ・リンポチェは随時に不霊験になって、が、霊験する時に、誰でもより霊験で、不霊験する時に、誰でも不霊験になった。だから、仏法に伺いを立てる遺教はずっと今まで伝われてきて、甚だしきに至っては未来まで伝われる。リンチェンドルジェ・リンポチェは法会を行うならば、必ず直貢チェツァン法王にお伺いに立てて、もしお伺いに立てないなら、直貢チェツァン法王がこの考え方があってもしないで、これは縁が無いわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェはお伺いに立つと、直貢チェツァン法王が必ず同意するので、必ず円満になるわけである。だから、お伺いに立つ事が要るし、そうしないなら仕方が無かった。

諸仏が教えるすべての方法の中で、密乗の教法はきわめて稀有である。顕教なら文字を通してそなたがその意味をすこし分かることができるが、しかし密法なら、もし上師の解説、教えがなければ、学ぶ得ることがあり得ないので、密法が残ることができるのはきわめて稀有で、だから顕、密は同時に在世するのがもっと稀有である。もしかすると過去仏の教法はすでに失って、未来仏が来る前に教法がなくて、もしかすると教法は在世しているが、しかし学び得ることができる人は少ない;もしかすると外道の教派が非常に多くて正法に背離するかもしれない。以前は釈迦牟尼仏が出世する前のように、全世界はすべて外道で、中国は5000数年前で幽霊に礼拝するから、その故今まで中国人がまだ幽霊を礼拝している。それは民族性のためである。商という時代から今まで幽霊に礼拝してきて、それは外道で、以前インドもいろいろ外道がある。

たとえ正法を聞いたり、学習したりすることができても、しかし大部分の者はただ現世の安楽果報を追い求めたくて、そなた達のように、すべては生死に解脱する果報を追い求めるのではなくて、これは正法に違背して、外道の思想である。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつもそなた達に指摘し、警告したように、そなたは絶対に間違いなく出世法を修めたら、世間法は障碍がなく、ずっと現世にいい果報を希求し、現世によくなることを希求すると、そなたは出世法はうまく修行できないし、世間法もよく修行する仕方がない。どうして仏を学ぶのか。簡単に言えば、生死に解脱するため。生死に解脱して、衆生に利益することを肯定する者は、冤親債主もそなたを手伝うから、自然に世間法もうまく進める。もし出世法を学ぶが、しかし世間法の心にて学ぶと、冤親債主は何も利益が得られないで、あなたが出世法を修行することを助けないて、あなたの世間法は自然に障害が多い。そなた達ははっきり聞いて、そなたはお金があるかお金がないか、成績がよくできるかどうか、そなたが仏を学ぶのと関係がなく、そなたが仏を学ばないのと関係もなく、これは過去世にそなたが持ってくる事なので、そなたが仏を学んでから更にもっと良くなることでは無くて、リンチェンドルジェ・リンポチェと同じになったら、もっと善くなれる。というのは、すでにいかなるものに執着しなくて、縁に従って事をするから。そなた達は執着して、主人と結婚することさえも多く質問しなければならなくて、あちこち聞いて、決定していないで、それは執着である。

今日法を耳にすることができる者は心構えが間違ったのが多くあり、多くの人は仏が仰る仏法の意義を捨てて、真の法理を了解することができないが、不正な教導と論理の論争にふけて、この情況に堕ち込む人は大勢いる。あれらの名相を重んじて、禅を学ぶ者は一日中に多くの理論を言って、実修していない人は、生活の上で本当に仏法を運用していなくて、自分のすべての執着する心を改変していない。例えば、一部の教授がテレビの前で仏法がいちいちもっともだと言ったが、しかし境界が現前すると、すぐ駄目である、彼はただ理論で仏法を推敲して、文字で文字を釈明していたが、生活の中で仏法にて修行していて、更に仏陀が説く仏法の意味を体得するのではなくて、再び修行を通してありのままにそなた達に伝える。しかし多くの人は名相を聞くことが好きで、仏法を学問とする。もし、仏法が学問であれば、そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェのこの《大蔵経》を見てください。そなたが毎日8時間で読んでも、六年間も読め終わらない。いわゆる読み終わることはそなたがその真の意義が了解してないで、ただずっとページをめくって読んでいるだけである。

仏法は学問ではない。此れは我々の未来を変え、我々に生活方式を教える法門である。そなたは名相を知ってよい、ただしその中に迷い込み、出て来られないのではいけない。多くの人はとても奥深い仏法の名詞を言うことが好きで、1冊の仏教学の辞典の中に、すべては名相であり、どのくらい時間が掛かってからやっと分かるのか。難しい。数千年をたって、その中には、一部のものは仏陀が仰ったのではなくて、その後の大徳が説いたので、各宗はまた異なる名詞があり、その上に研究するのは時間を浪費する。真に仏法を了解すれば、それを生活に用い、自分の執着心、分別心、妄念を徐々に減らしてこそ、実修である。真に仏法を了解するのは、生活に用いて、自分の執着心、分別心、妄想をゆっくりと減らさせて、はじめて実修がする。もし執着心、分別心、妄想は依然として重い人ならば、例え《大蔵経》がすべて暗記できても、仏法を学び得ることを代表しない。現在まで、リンチェンドルジェ・リンポチェが仏経を暗記できないが、一部の人が凄くて、仏経を暗記できて、全部を暗記して唱えることができて、リンチェンドルジェ・リンポチェが暗記できないが、しかしお経の意義を了解している。

昔、廣欽老和尚、六祖慧能は文字が読めず、直貢噶舉派の祖師ディロバ、ナロバ、ミラレパも文字が読めないで、ただマルバだけで文字を読めた。台湾の多くの信衆は法師が博士である事を望んでいる。博士と仏学院を卒業した者だけが仏法を知っていると思っているが、それは間違いであることとわ言えない、が、迷信して執着する事も要らなかった。文字、言語は仕方がないので使っている道具で、真に仏法は心から啓発されるものである。仏法を論理的な論争にするのは、仏法ではない。生活の中に使われるならば仏法とは言え始めた。。仏法は世間法を離れない、釈迦牟尼仏も人間なので、彼が説く仏法と一切の法門は必ず人間が出来で、さもなければ言わないのである。釈迦牟尼仏は天道に説くお経があるが、しかし人間が見えないで、なぜかというと、人ができないからである。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェが説く「37の実践」は、必ず生活の中で使えた。、「37の実践」を生活にて使われると、必ず徐々によくなってくる。リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた「37の実践」はそなた達が帰宅してから再度聞くのが何人がいるのでしょうか?始めて如実で使えるのは何人がいるのでしょうか?「37の実践」が記載された範囲が難しくない、必ず遣り遂げて、そなた達が遣り遂げないのはしたくないわけである。そなた達が分からない仏法を学ばなければならない事と思っていて、実は仏法が真にとても簡単で、そなた達が了解したら、簡単になって、複雑なところがどこであるか?そなたの心が複雑し過ぎで、だから、問題が絶えずに現した。だから、仏を学ぶのは最も重要なことが上師で、道を間違えて、仏の意義を忘れてはいけない。名相にて他人に自分が上手く修める事を現せることが間違った。

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2011 年 08 月 29 日 更新