尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2011年6月4日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時30分から夜10時50分まで、121信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年6月5日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで殊勝な共修法会を主催し、引き続き先週に大衆に:ガムポパ大師が大乗波羅蜜多と大乗秘密真言の教法の相違性を開示し続けた。

まずはある男性弟子は大衆に発露懺悔した。5月22日の法会中、リンチェンドルジェ・リンポチェは生起次第の修行する法門を開示する時に、彼の一連の恭しくない行為を厳しく責めて、これにて開示するのは、密法を修習する者が大福報を備えて、しかも上師に対して百パーセント恭敬しなければならない。この話も彼に気づかせて、実は彼は上師に対する心が、あまり恭敬しない。

今年の旧暦新年の前、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼と妻に結婚式の日取りを教えていただいたことをお願いした後に、彼らは結婚前のいろいろな準備をして忙しくて、その中に喜餅(シービン/婚約の際に女性の親戚などに配る菓子)を買う事を含む。彼の二番目の姉は彼に寶吉祥会社の日本食品の贈答用ギフトボックスを参考してみるように気づかせた。皆さんのご存知の通り、寶吉祥日本食品が一定の水準と価値があり、その上リンチェンドルジェ・リンポチェは皆の健康のため厳しく検査するから。しかし、彼の妻は皈依弟子ではなくて、寶吉祥グループの事業に対して余り知っていないが、しかし弟子とする彼は妻に寶吉祥仏法の事業とリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に利益する事績を了解させていなくて、彼は妻にちゃんとよく説明していなくて、これは彼のミスである。

彼の妻は喜餅(シービン/婚約の際に女性の親戚などに配る菓子)について別に自分が好きなのがあり、彼が断固として反対する意見がないから、彼の妻は他のブランドの喜餅を選んだ。皈依弟子とする彼は上師の事業を護持する責任を尽くしていなくて、妻を説得していなくて、これは彼がまず懺悔しなければならない。

その後、彼達は喜餅(婚約式の贈答用お菓子)と披露宴の招待状を持って、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、リンチェンドルジェ・リンポチェに誘って、自分たちの結婚式に参加して、彼達に祝福を与える光栄があれば、ありがたい。リンチェンドルジェ・リンポチェは喜餅と披露宴の招待状を受けて、その時参加する事を約束しなくて、遠慮があって言ったが、何を助ければ、出来るだけ助ける。この話に対して彼達はとても感謝して、心の中に暖かいと感じた。彼達は失望して離れたけど、心の中に無比の感謝が溢れた。翌日の共修法会に彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが戻した喜餅を受領した。その時愚かな彼は妻と結婚式のさじを忙しく手配するから、戻された喜餅に対して、余り気にしなかった。彼はとても懺悔した。それは彼は上師に対して恭敬心が極めて不足である。更に彼は自分が間違い事をしないと思った。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェが喜餅を戻した事について、既に彼に提示された。しかし、彼は全く知らずに一日一日を過ぎて、重視しなかった。それは彼が上師に対して、恭敬心を欠けないから。国父は革命に十回に費やしたのに、彼は唯リンチェンドルジェ・リンポチェに一回を求めた後諦めた。此れは上師と三宝にやるべきではない行為である。

例えば、先週の火曜日(5月31日)施身法法会にリンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、地蔵菩薩はある世に母の行方を分かるため、仏を拝んで手足も全て損傷された。お正月の法会にリンチェンドルジェ・リンポチェは自分が如何なる法王を護持する事を開示された。劣根器の彼は行えなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩に行った事の千万分の一でも達していない。彼は深く懺悔して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝して、妊娠した妻を加持された。彼の妻は今妊娠25週であり、始めて三ヶ月に偶には軽い吐き気を感じた以外、今まで嘔吐していなかった。食べ物の匂いに対しても気持ちが悪くなかった。尚更に一般的な妊婦があった眠気の症状が現れなかった。妻は引き続きに体重が上がって、腹が大きくなる以外、彼女は殆ど妊娠しない人と同じだと言った。

彼はとてもリンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着て、特別に彼の妻に施身法を参加させた。今回の法会は、彼女が始めから終わりまで、只一つの座布団を使って普通の者と異ならない。妊娠糖尿を検査する時も順調に通じた。彼女の指数は標準のより多く低くて、彼の妻はひいては楽しくて診察室より走り出して、口の中にずっとリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を感謝すると言った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの家族に対してのお世話はこれだけではなく、彼の父親は訴訟の事で、もうすこしで家庭を支離滅裂させて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの家庭の調和を維持した。彼の母親は交通事故で、脊椎挫傷して、お医者さんは骨泥を注ぎたくて、侵入性の治療をしようと思ったがリンチェンドルジェ・リンポチェが加持したため、彼の母親は現在骨泥を注ぐ必要がなく、現在レントゲンの上でまだ挫創を見えるが、彼の母親は普通の人のように歩いて、良く回復して、段々自転車に乗ることが出来た。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの家族を加持すること、及び彼に仏法に対しての注意させると提携することをすごく大変感謝する。さもないと彼は只1人利己的で、顔が憎らしくて、自分の過ちを知らず者である。

彼はもう一度リンチェンドルジェ・リンポチェが彼を加持するのを恩に着て、さらにあの黄色布を感謝して、4名は彼のお陰様で加持された。彼、彼の妻、義理お父さんと黄色布の上につけた衆生である。彼もあの衆生を感激して、彼のため、彼がやっと徹底的に自分を検視して、徹底的に上師に加持された。

彼は同時にもリンチェンドルジェ・リンポチェの法体が健康で長く生きることを謹んで祈った。

続いてある女弟子は5月末、彼女が日本法会団を参加して、火供する時彼女が全て感じた、彼女の身の上に起こった不思議な事情を共にした。

彼女は癌の患者であり、今度リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に日本道場の周年法会ツアーに参加させることにとても嬉しい。出国する前の2週間、彼女は39.8度まで熱が高くて、甚だしきに至っては入院した。入院している期間、彼女は絶えずリンチェンドルジェ・リンポチェと護法に、きっと彼女にこのツアーに参加させるようにお願いした。幸いなことに出国する前の2日、彼女は病院を出て、約定どおりに日本法会のツアーに参加した。事実上、彼女の体は依然としてとても虚弱であり、車椅子と杖を持って、母と弟、妹と一緒に、ツアーに従って日本に行った。観光バスを上りたり下りたりする時、彼女はまったく登る体力がなくて、彼女の弟は彼女にプラスチックの小さい腰掛けを用意してあげて、彼女に1階段1階段ずつ踏んで上がるように手伝った。毎回車の階段を上下して、座って起立して、彼女のひざにとってすべてとても大きい圧力で、彼女はとても痛くて、しかし彼女の心の中が参加することができることにとても嬉しい。

火供法会に参加する日に、空は大雨を降っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労して法を修めて、とても厳粛で、過程約3時間ぐらい。リンチェンドルジェ・リンポチェは法を修める時、皆は順番に上がっていく恭しく供え物を受けた。第1ラウンド、彼女は意外にも供え物を受け取っていないで、その時彼女は恐がってそこで止まって、彼女は彼女がどうしたのだかを知らないで、それから、リンチェンドルジェ・リンポチェ彼女を叫び:早く行って。彼女は早く下りてきて、あの時、彼女の頭が一面の空白になった。下に戻って、彼女は兄弟子に、彼女が供え物を受け取っていないで、兄弟子は彼女を再び一回上がっていかせると言った。今度彼女は受け取って、その時ある兄弟子は彼女を支えて、ある者は彼女に杖を持つように手伝って、このように彼女は供え物を招いて、火供の壇城に投げる。

第2ラウンド、兄弟子は依然として彼女に従って上げていって、然し、今度、非常に殊勝的な、彼女が杖をつかないで供品をもらえた。彼女の膝は都合が良くないので、後の兄弟子に遅らせる事を心配し、出来るだけ自分のスピードを加速させた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持に感謝し、それから、不思議な事を一つ一つが発生した。第3ラウンド、彼女は兄弟子達のスピードに従われて、彼女が杖をつく事が要らないし、彼女は早く歩いて上がっていって、早く供品を貰えて、早く歩いて下りてきた。その時の天気は持続的に雨が降っていて、地面がとても滑って、地面に多くの泥沼があった、けれども、彼女は普通な人と同じように階段を上り下りして如何なる障害が無かった。これはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェの加持である。最後の数日に、旅程の間に、彼女は杖が身を離れないけれども、自分が歩く事が既に出来で、その上、益々穏健になって、多くの兄弟子も見た。

最も不思議なのは、彼女は台湾に帰る第1日目に起きた時に、意外に急に自分で立ち上がる事が出来で、彼女は既に長い間にこのような感じが無いで、この前、彼女は起きてから立ち上がる事が彼女に対してとても難しかった。その上、彼女の四肢は日本にとても腫れて、毎回ホテルに帰ってから、彼女が足を必ず高く上げて、逆流させて、腫れる四肢の故に彼女に気分が悪くならせた。しかし、台湾に帰った後に、この一週以来に、彼女の足は意外に多くて腫れが消えた。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに真にとても感謝した。同時、彼女も皆を呼び掛けて、今後ツアーがあったら参加しなければならない、これは福報を自分に累積しなければならないわけである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇った後に、引き続き先週に大衆に:ガムポパ大師は大乗波羅蜜多と大乗秘密真言の教法の相違性を開示した。別の道場であまりこれらの内容を言ってない。多くの人は自分が善行をしていると思って、法会に参加したり、皈依したり、菜食精進料理を食べたり、菜食料理屋を経営したり、ボランティアをしたり、或いはお経を唱えたり、真言を唱えたり、拝懺したりして、外の所から来るリンポチェの灌頂を受けたことがあり、甚だしきに至っては1、2回も八関齋戒をやったことがあるから、自分が修行していると思っているが。しかし実はこれらは別に修行することではなくて、尊勝なる直貢チェツァン法王は以前に既に開示されたように、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェも何度も言ったことがあるが、読経したり、拝懺したりするのは修行するのではない。これらはただそなた達が仏を学んで成仏するための助縁だけである。

外のたくさんの道場は直貢噶舉教派の他の道場を含んで、リンチェンドルジェ・リンポチェが主事する寶吉祥仏法センターはとても厳格な道場だと言う事を聞いたことがあり、甚だしきに至ってはたくさんのチベット仏教の道場もすべて、リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を教えるのは非常に厳格だと言う事を聞いたことがある。リンチェンドルジェ・リンポチェが寶吉祥弟子を教導する方法について、直貢チェツァン法王は嘗て数回も、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法がとても厳格で、これが古代チベット直貢噶舉の伝統的な教導する方式だと言う事を、公然と表した。

古代チベット直貢噶舉の伝統的な教導する方式はどうして現代社会に継続し続けることができないのか。《寶積経》に宣説されたように、末法時代に、名聞利養を貪求するため、仏法を捻じ曲げて、信者にこびへつらう。多くの法師はこのように、あれらの権勢のある高官やお金持ちに対して特別な待遇で扱う。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが正法を広めるのは、完全に仏陀と上師の教法に従って、因縁により衆生を度して、一律平等であり、そなたの身分や地位により差別する事がない。実はそなた達はどんな異なる身分があるのか。衆生は全て仏性を備えて成仏する条件を備えているから、すべては同じであり、そなた達のこの世の身分はただ累世の福報が違うだけ。リンチェンドルジェ・リンポチェの教法は非常に厳格であり、いつも弟子を追い払って、別に権勢のある高官とお金持ちに親しくしないで、信者が法会に参加したくても、すべて先に一人ずつリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いを立てなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。聞きやすい話を話すのは容易すぎるから、もし方法を変更して、例えば信者が聞きたいことを言ったり、よくお金持ちに親しくしたりしたら、毎年の阿弥陀仏無遮大済度法会に参加した衆生が2万数人があるから、リンチェンドルジェ・リンポチェの今の弟子は恐らくすでに10万人を上回って、道場が千坪の場所ではないと足りない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようにするつもりがなくて、やはり諸仏菩薩の教法を如実に皆に教えたいと思っている。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは罵って、人を追い払って道場を離れて、こんなに厳格にしても、寶吉祥道場ではやはり1,000数名の皈依弟子が仏法を聞きに来て、これは諸仏菩薩は、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法が正しい方向であり、正法を広める方法を如法に行っていることを認めて、諸仏菩薩に護持されることを表す。

現在、台湾、日本、中国大陸にはいわゆる仏学院と仏教大学があるが、しかし仏教大学で勉強するのは修行するのではなくて、せいぜいただ仏学名詞の常識を増加するだけ。多くの人は仏教大学を卒業すると、すぐ仏法を宣説し始める。数日前、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏教大学から卒業した一群の人たちがテレビに仏法を解説して、名相を言うことはいちいちもっともで、彼らを困らせることが何もないが、仏法の真な意味を教えることができない。もし、閉関したことがあり、少し修行している者は、彼らが言った内容を聞くと、すぐ彼らがただ仏法の名詞がよくわかることを知っていて、決して仏法の真な道理を知っていない。その他に今の世の中には、いわゆる兄弟子、弟弟子がだんだん多くなり、仏を1、2年間学んで、自分が一部のものを見ることができると思っていて、人に「そなたが後ろに、あるものがそなたについている」を教えることが好きで、これらは本当に仏を学ぶのではない。大衆がこのように自分もあまりはっきりと知っていない人に従って仏を学ぶ時に、先日にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したある盲人が象を触る物語のように、一人は象の足に触って、もう一人は象の鼻に触ったから、それぞれに仏法が自分が接触したあの部分の様子だと思った。

ただ今法会前に公開に懺悔した男弟子は、そんなに長い時間も言っても心から懺悔していないで、それとも上師に恭敬しない。彼は先、黄色の布の上にいるあの幽霊に恩に感じると言って、事実上それは昨日彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来た時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らに開示した内容であるが、しかし彼は言い伝える時に、全然これがリンチェンドルジェ・リンポチェの開示だということを説明していない。そなた達は彼がこのように言ったのを聞いてから、彼がもう直して、恩に感じることを知っていると思っているが、実は彼は「現学現用」(中国の俗語で、その場で習う、その場で使うという意味)だけである。そなた達は気づくべきなのはリンチェンドルジェ・リンポチェが毎回法座の上で仏法を開示する時に、いつもこれは尊勝なる直貢チェツァン法王所の教えられたこと、ガムポパ大師の教導されたことに言及したが、しかしこの男弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの教導を直接にそのままで皆に言って、自分が考え出したのとする。皈依する時、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に上師の功徳を褒め称える重要性を開示した。この男弟子はこのようにすると、それは上師をを褒め称えなくて、上師に恭敬しない。そなた達は金剛乗を学ぶ上師に皈依して、直貢チェツァン法王も嘗て、リンチェンドルジェ・リンポチェの心がとても細くて、1人の大修行者に心がとても細いと言われたら、そなた達の思ったように注意深いことだけではなくて、その人は少なくとも既に明心の段階まで証得できるを表して、つまり外境からの影響を受けない。もし気軽にいくつかの話を言って騙すことができたら、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように高い法座に座ることが有り得ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果に非常に了知している。

リンチェンドルジェ・リンポチェは特にあの男弟子とその家族に開示して、鬼衆に対して心に恨みを生まないでください、かえって恩に感じることがわかるべきである;その原因は鬼衆に、多くの人は心に恐れを生んで幽霊を追い払いたい。しかし、仏教は、鬼衆が生前に悪業を行ったから、ようやく悪道に堕ち込んで苦しみを受けることになると思って、その故私達は彼らにに憐憫する心を起こすべきで、彼らを追い払わないで、逆に彼らに苦しみを離れるように助けなければならない。

更に、この男弟子は先、黄色の布の事に言及したが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らに黄色の布を処理する原因と過程をはっきりと言わなかった。彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェに凄く計略にひっかかって、彼と妻は初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来る時に、別にリンチェンドルジェ・リンポチェに黄色の布が家に入った後に、彼の妻がある男性の幽霊が彼女と犬を悪戯したのを見たことを報告しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の家の中の一つの布に男性の幽霊がいることを見て、この物品は問題があると開示して、彼にあの布を道場までもって来る事を指示してから、はじめて彼らは家に帰ってやっと家族に教えた。あの家族はリンチェンドルジェ・リンポチェが非常に凄いことを知っているから、そこで次会に彼の夫婦2人は岳父、岳母と家族一緒に謁見しに来た。以前にこの黄色の布は男弟子の岳父が蘇州で買って帰って男弟子の妻に贈ったので、鬼道の衆生がその上にいる。このような事が発生したのは、彼らの全家族は三宝に対して恭しくない、因果を信じないからである。この男弟子は法会前に発露懺悔したが、しかし実は本当に懺悔していなくて、先ほど最後まで言えば言うほど声が小さくなり、彼が出て懺悔するのはただ妻が今妊娠したため、リンチェンドルジェ・リンポチェの加護が必要であり、仏菩薩を利用して彼の子供を加持したくて、彼がこのようにしたら、ただ仏法を利用するようである。仏菩薩を利用してのはあれらの仏菩薩を利用しない人に比べて比較的に良いと言うが。しかし彼は既に弟子として、このようにすると間違いで、上師に完全に恭敬する心が無くて、同じく三宝にも恭しくないことがはっきりと現れて、彼の家族もすべて彼と同じである。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子とその全家族が密法を学ぶことができないと指示した。

その他に、先あの男弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社が商売をする事は仏法の事業をすることを言ったが、このような言い方は誤った。また独りよがりなでたらめである。リンチェンドルジェ・リンポチェの商売は世間法であり、仏法の事業ではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで皆に経営される寶吉祥グループの製品を宣伝しなくて、寶吉祥グループの売っている食品が食べると加持があるとも言ったことがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日道場でしたのが仏法の事業である。どうして、リンチェンドルジェ・リンポチェはグループを経営して商売をしなければならないか。何故かと言うと、あれもしようがない、上師と教派を護持するため、たくさんの所が支出を必要として、リンチェンドルジェ・リンポチェの金銭の助けを必要とする。その上、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達に圧力を与えるに忍びなくて、その故そのように苦労してグループの事業を経営しなければならない。そなた達のふだんした多くの事はすべて一家団欒の楽しみ、家庭生活を享受するためであるが;リンチェンドルジェ・リンポチェがやったのはすべて仏法のために、これまで自分のためやったことが一回もない。

そして、リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜあの男弟子の送った喜餅を戻したのか。というのは、彼に上師に贈る食品を気づかせて、食品の安全に注意すべき、気の向くままに買うべきでない。そなた達は一つの事に注意しなければならなくて、修行者への食べものにとても注意しなければならない。別に修行者が食べてから下痢するか、死ぬのを心配するのではなくて、修行者の体はとても重要であり、この体を用いて衆生に利益するため、よく必ず保護しなければならない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは気軽にものを食べないで、食品がとてもおいしいかどうかを見るのではなくて、その安全性に注意するから。

そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは気軽に知名チェーン店で食べものを買わなくて、或いは濃縮された飲み物を飲まない。最近食品の中に非食品の物質が混入された事故が現れて、すべて商人が暴利を獲得したいため、これらの供給商が出現するのである。でも、皆が得をしようとするので、このような商人はこのような事をする。ここ数年台湾で、皆はある一つの習慣を身につけて、安い物のほうは良い。同じものは、この会社が30元を売って、その会社はもし25元を売ったら、皆は25元のを買う。しかしどうして5元を弁償してそなたに売るのか。そなた達はすべて人に金を儲けさせないで、因果の角度から事を見るのではなくて、このような間違いを犯した。

なお、現在の人もかなり怠惰であり、本当の果物を食べず、果物を切るや噛む事も怠けるから、ジュースしか飲まない。妻として家で夫のために果物を切らなくて、唯りんごジュースを飲めたいなら、冷蔵庫にあって自分が取ってくださいと言った。取りに行くさえも怠ける。こうすれば、夫婦の感情は如何なるいいだろう。現在台湾に於いて、多くの夫婦は仲たがいをするのは一部の原因は女性は過去より優しくないから。実は仏経に教えたが、妻として如何なる夫に仕えて、夫に食べ物を用意し、朝になると、夫が起きる前に起きて、彼のために朝ごはんを用意する。そなた達は今誰がこのようなことをしているだろう。いい状況なら、夫が好きな食べ物は直接家族に依頼して、買いに行かせた。だから、今妻は全て外にいて家にいない。また、仏経も夫が如何なる妻を対応する事も開示された。しかし、現代人はこのようにしなかった。世間の法師もめったに仏経の中のこの内容を説かれない。それは自分が既に出家したから、如何なるこのような家庭生活の事を信衆に教えるわけではないと思った。唯彼達は方便に教える内容をピックアップした。しかし、釈迦牟尼仏も出家者なのに、何故夫婦の付き合い道を開示されただろう。それは仏法の目的は衆生を助けて苦しみを離れるから、全ての衆生に対して、方便な法門があって彼達を利益できる。修行とは必ず出家する必要がなくて、この内容は主な家庭生活があって、家で修行している人のために説かれた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日午後4時半から夜10時50分まで約121名信衆余りに接見して、彼達のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。高齢60歳余りの年寄りにとって、六時間以上あぐらをかいて、絶えずに衆生に助けを与えて、その間に唯少し水を飲んで、餃子を三つしか食べられなかった。若し、この肉体を頼るなら、絶対無理である。ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ彼に法会に参加する事を同意した。あるのは如何なる説得しても同意しなかった。皆表面に恭しいと見えるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達の現れた姿が恭しいかどうか決めるわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェの心は彼達の外見の変化に従って動くのではない。心は如如不動なので、本当に彼達の問題を発見して助けを与える。

リンチェンドルジェ・リンポチェは八風に動かれなく、衆生を済度する方法も固定ではなくて、衆生の縁に従って方便な法門を与えて彼達を助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェの指導の下、寶吉祥仏法センターはとても清浄な道場であり、そなたたちの身分地位、富貴を問わず、此処に来れば、仏法の前に衆生は一切平等である。そなたが金や権力を持つのは過去世の福報の現れであり、仏を学ぶ事と関係がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは却ってそなた達を遠く離れる。それはそなた達は既にとても福報がある人だから。逆に金がなく苦しんでいる人はリンチェンドルジェ・リンポチェがもっと多く助ける。善業が多い人は仏を学ばない。金や権勢を持つ人達はとても忙しいから、仏を学ぶ時間がない。悪業が多過ぎでとても苦しい人は苦しいから仏を学ぶ心力がないかもしれない。だから、少し悪業があって、少し善業がある人しか仏を学ばない。特に悪業は善業より多い人は仏を学びやすい。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生にそなた達が言われる苦しみを多く経歴した。破産、商売失敗、皮膚がんに罹り、婚姻も失敗した。しかし、此れは全て業債を返済する事である。返済すれば、輪廻生死に離れる。だから、全ての生命を尽くして、仏法を学びなさい。そなた達はまだ苦しみが分からないから、仏法の貴重さを体験できない。

ある女弟子は寶吉祥集団に勤めている。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔彼女を指摘されたが、彼女の体質はかなり寒いから、余計な事を考えない。また彼女に警告したが、自分が集団に勤めるから職位で他人を制御することや自分の上司がリンチェンドルジェ・リンポチェなので、兄弟子に此れをしなさいとかあれをしなさいとか指示し、顧客を用心に接待せず、顧客に煩悩を起さないなど事をしないでください。例えば、今回粽の事件、彼女は会社に利益を得るため、他の事は全て重要ではない。顧客たちにご迷惑を掛けて文句を起した。リンチェンドルジェ・リンポチェは会社を管理するのはとても厳しい。今回リンチェンドルジェ・リンポチェの社員のミスがあって、顧客に彼方此方に行かせて、ご迷惑を掛けたから、全てのお金を顧客に戻した。例えばある顧客は既に粽を食べても会社もお金を戻した。粽がまずいとは言えないが、食べた人は全て美味しいと言った。粽は問題があるでもないが、唯、リンチェンドルジェ・リンポチェが要求したサービスの品質を行えないから、全てのお金を戻す事を決めた。このような商売をする会社がない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事のせいで、この弟子が顧客と悪縁を結ぶのを望まないから、彼女を助けた。顧客に叱られて、粽のお金も戻せば、憎みを失える。

この女弟子は自分が会社のために利益を得ると思うから、会社の規則に従って事を処理するのではない。結局彼女は金曜日にまだ出勤したのに、土曜日は急には腹が痛いから、急患受け付けられた。筋腫を診断されて手術を受けなければならない。皆は分かるように、会社の規則はそなた達が職場で守る戒律である。戒律を守らないと、福報は早めに消耗された。福報は足りないと、体は病気になる。始めて、彼女に不共四加行を伝授して、彼女に大礼拝をさせる時、彼女は拝まなかった。その後事を発生したから、始めて拝んできた。しかし、相変わらずいい加減にしていた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの会社に勤めて、ある事をしないと指示されたのに、彼女は却って行った。業報は改めないから、今は事故に遭った。理論的には彼女は長年皈依して、菜食もしていた。更にリンチェンドルジェ・リンポチェの会社に勤めているから、その事故に遭わないはずである。その上、彼女は元々に行った病院は完備な治療を提供できない。幸いリンチェンドルジェ・リンポチェは当時台湾にいて、すぐ加持を与えて、この弟子を関心して、適切な病院に手配させて、手術を行わず、三つの穴だけ開くと、筋腫を取れた。そなた達は自分の病気のために法会に参加したが、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に傷付かれた衆生を助けるため。彼達はよくなれば、そなた達はよくなれる。仏法は衆生に憎みを結ばせないから。

他にはもう一人の女弟子は自分の子供が他の女の子の髪に飾ったかんざしを触ったから、息子に邪淫戒を破ったと叱った。此れは妄語である。このような幼い子供はまだ淫が何なんだかと分からないのに、如何なる邪淫戒を破るわけではないだろう。自分は妄語戒を破ったのにまだ分からなかった。この女弟子は家でしっかりに子供を教えなくて、外で間違いを犯して、自分が子供を責めたくないから、リンチェンドルジェ・リンポチェと仏法を使って子供に恐喝した。此れも上師と仏菩薩を利用した二つ目の例である。リンチェンドルジェ・リンポチェは現場であの女弟子に叱って、戒を伝授する上師ではないなら、他人に破戒を叱る資格がない。自分の戒さえうまく守っていないのに、自分の子供だから、仏法名詞を使って勝手に叱ると思えるだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは何回も皆を警告したが、仏法で他人を叱責できない。子供であれば、仏法で彼を叱責できると思わないで。彼は唯息子という身分を持つ衆生である。仏法は我々に自分の行為を修正させて、他人の過失を見る事ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは再び慈悲に皆を提示された。釈迦牟尼仏は《寶積経》に法を伝授する上師の二十条の条件を開示された。そなたはその中に一項でも行えないなら、法を伝授する上師になる資格がなく、仏法で人を叱責できない。此れは末法時代の衆生を提示して、他人の師に成りたがるな。常にある者はまだ一定の境界を修行していないのに、勝手に仏法を使って、人を叱責して、間違いを犯した。例えば数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ顕教を習って、リンポチェの果位に成らない時、一緒に仏を学んでいる女性はある妻がある男と付き合って妊娠した。彼女は電話を多くかけて、所謂兄弟子にこの事に関して、見解を聞いた。皆は彼女に「貴方は大変だ!邪淫戒を破った。」と言った。最後彼女は余り親しくないリンチェンドルジェ・リンポチェに電話をかけて、リンチェンドルジェ・リンポチェのこの事の見解を聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「自分の果報は自分が責任を取ればいい。子供を生んで、彼の家庭を破壊しないで。」と言った。この女性は聞いた後、ほっとして、非常に感謝してリンチェンドルジェ・リンポチェに言った。「貴方の話を聞いた、よかった。私は今自宅八階のベランダにいて、若し貴方さえ前の人と同じ言い方なら、私は飛び降り自殺するつまり。」当時若し彼女は本当に飛び降り自殺すれば、二人の命が失う。

多くの女性、男性でも一緒に堕胎する事は大した事ではないと思った。どうせまだ命ではないから。実はそうではない。男女は性交した後、受胎すれば、命は始まる。仏経にも胎児は受胎してから生まれたまで全ての段階の変化を書かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこの経をある医者弟子に見せた。この弟子は仏経に記載されたことは今の科学機器で見られることより詳しい。だから、受胎すると、新しい命が始まった。堕胎する人は殺人と同じである。堕胎した人は今世多病、短寿、思いの通りに求めず、眷族は円満ではなく、死んだ後地獄に堕ちる。多くの人は法会に参加して、所謂赤ん坊の魂を済度すれば大丈夫だと思う。彼達を済度するのはそなたは彼達との間の憎みを解けるだけ。しかし、そなたはこの前に悪業を行ったから、悪い果報も相変わらず現れる。だから、そなたは尚更に頑張って仏を学んで修めなければならない。

去年2010年往生された大成就者ユンカ・リンポチェは嘗て言ったが、密法は世間に存在している時間はあと700年だけである。そなた達は700年の時間はとても長いと思わない。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェのような密法を修行する人にとって、この時間はとても短い。つまり、末法時代の衆生は業が益々重い。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても急いでいる。密法は消えるとは密法が無くなる事ではなく、衆生は仏法を希求しなくて、善法を習いたい人はいないから、密法は存在する因縁がなく、自然に消える。アフガニスタンは昔仏法が極めて栄える国である。しかし、現代政権が外道を信仰するから、数年前に国内で全世界に最も大きな仏像を破壊した。つまり、この国の人民は仏法に対して希求しなくて、仏法はあそこに残る因縁がない。台湾に於いて、宮、寺はとても多くて、兄弟子、リンポチェも特に多い。台湾人もとても求める事が好き、仏を学ぶ後、そなた達が思った悪い事は全て来なくて、いい事ばかり現れるのを望む。此れは全て仏法に衰微させる。ある者は「求めれば、全て叶える」と言うかもしれない。確かにそうだけど、そなたは生死を解脱する事を求めれば、必ず相応する。仏を学ぶのは体がよくなるのではなく、息子や夫が自分の話に従って、事業は順調に進むのではない。此れは全て世間法であり、そなたの因縁福報に関わり、仏を学ぶ事と関係がない。そなたは出世法をうまく修めれば、世間法は煩悩がない。このように混乱している仏教の存在している状況は、ある如法の上師が有るのは極めて重要である。彼は経験がある修行者であるから、そなたに仏を学ぶ正確な方法に進める事を導かれる。直貢チェツァン法王は嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに与えた認可書の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェに正法を広める。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェの指導で寶吉祥仏法センターの弟子はとても用心に仏法を学んでいる。

ガムポパ大師はこう開示された。「大乗波羅蜜多教法の修行者は論理的推理と理路分析によって、『外境』で『一』と『多』を離れるような理論で、(小乗学者達が思った)外境の実を破壊して、外境を空に作る。」大乗波羅蜜多教法の修行者は若し執境がないと、即ち能執心がないと思った。尚更に若し業は既に執着の境の真相を分かれば、外境を執着する固い結びは自然に解けると思った。

大乗波羅蜜多教法の修行者はとても多くの時間をかけて、論議して、探して、考えて如何なる執着の境相を取り除いて、改めて本来の心性を戻す。人は目、耳、鼻、舌、身、意で外界と接触して作用を起した、如何なる目、耳、鼻、舌、身、意に作用を起さないだろう。我々は分かるが、神経があれば、作用を起す。しかし、如何なる神経の作用を断ち、我々の心の動きを影響させないだろう。顕教は即ち波羅蜜多教法の修行者は目、耳、鼻、舌、身、意が六賊であると思って、人の心の動きを影響するから、煩悩を起して、輪廻に堕ちると思った、顕教の修法とは心に外境と断絶して、外境の影響を断つ。そうすると、我々の心を影響しない。外境に現れず、空性に入るため、仏を礼拝し、経を唱え、拝懺、坐禅など方式により、六賊の影響を低減して、心に煩悩を起させない。だから、禅宗は「山を見れば是れ山である。山を見れば是れ山でなくなり。」「誰が仏を唱える。仏を唱えるのは誰である。」の修行方式がある。多くの人はこのような修行方法を使って、最後は混乱した。修行者は自身もとても強い矛盾を起した。この体は存在して、神経の感覚があるから、たとえ外境の影響を断ち試しても、閉関修行の時も外で虫の鳴き声や鳥の鳴き声を聞こえる。完全に外境に影響されないわけではない。意識の修行を通して、この感覚に存在させないが、大乗波羅蜜多の修行方式なら、たとえそなたは最も深い禅定を修めるまで、そなたの体の神経は相変わらずわずかな作用を存在している。完全に断たれない。

ある者は禅座する時、音が聞こえなくて、見えなくて、ひいては心の跳ぶことを感じないのが大定に入ると思ったが、実はそうではない。禅座は二つの状況があり、一つは昏沉(昏々となる)、一つは掉挙、即ち極度に興奮するのである。掉挙とはそなたの心がいつも落ち着かなくて、とても興奮で静かになれなくて、この状況は割合に処理しやすい、そなたは起きてちょっと歩き、或いは1本の仏経を唱えれば、段々心を静かにさせ出来る。昏沉なら非常に難しくて、とても危険で、禅宗の方式で修行するならこの状況が起こるのを一番恐れる。即ちそなたの心は全体的に全部落ち込んで、外界との接触は全く断絶した。リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を学んだ時、嘗て2回の昏沉の経験があって、禅座した時に、突然に一つ音が聞こえなくて、何も見えない境界に入って、自分の心がもう跳ばないのも感じた。周りはどんなに騒がしくても完全に感じなくて、自分が回りの環境と既に離脱すると思って、気分がきわめて良いと感じた。この時は自分が大定に入って、この状況から出られなくて、幸いにあの時全部因縁があって目が覚めた。例え福報が足りなければ、この状況はずっと続ける。それは、そなたは自分の過去世の修行がこの一生の禅定の程度を影響するかどうか分からないから。心の落ち込む事が生じて因縁がないため目が覚めなければ、そばの者はそなたが昏沉になって、植物人だと思って病院に運ぶ。病院まで運んだら三管されて苦しんだ。昏沉は十分な危険な事なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは今までそなた達に禅座を教えない。

ガムポパ大師は仰った:「この主張を元として、それであれら大乗波羅密多教法の行者達は、この外境に執着する内心に対して、あまり多すぎる審査と解析をしない。」

禅宗は説いた「心包太虚」(心は太虚を包む)リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ラーキ雪山で閉関した時、異なる体得があって、閉関が終わった直貢チェツァン法王に「心包太虚」があまり円満ではないと報告して、直貢チェツァン法王は頷いて同意した。禅宗が述べた「心包太虚」は、禅宗が先立場を設置して、太虚がどのくらい大きいか?所謂「包」は既に先に太虚が限りと認めたので、心がはじめて太虚を包み出来た。こうして心も限りである。それより「心容太虚」するべきで、太虚がどんなに大きくても、心が全て受け入れる事が出来る。

大乗秘密真言教法の中では、外境を断つのを試みなくて、直接的に内心より直して、心から悩みを取り除く。ガムポパ大師は開示された:「大乗秘密真言教法の修行者、彼らは外在の「所執之境」(執着した境界)を多く審査、解析しないが、只「印定」の方式で、直接的に指して確かに断つのを進む。直貢噶舉の行者は大手印を修習して、専一ヨガより次第に修め、印定によって、外境を修行する工具として、直接人の心を指すとの教法である。仏経には載せてあり、ある者は釈迦牟尼仏に伺った時、仏は「入定」をした。また一つ物語りがあり、1人の大力神は神通力を通じて、自分が一つの巨大な石を上げることが出来るのを証明する。釈迦牟尼仏は入定して、心の力でこの巨大な石を固めて、大力神にあの石を挙げさせなくて、その後、仏は心の力で巨大な石を挙げた。

秘密真言教法の修行者は大手印の定境の中に空性を体得する。多くの者は空性を聞いた事があったが、眞に空性を証悟する者は幾らいるんだろう?顕教は外境が空だと修めて、≪大般若経≫には、全部空性を説いて、善智識の教導、実際の修行、閉関の体得を通じなければ、多くの者は最後まで何もかも空、偽に落ちる、表面的に何でも全て因縁生滅法なので、全部執着する必要がない消極態度で、此れは所謂頑空である。一切は全部空性で、全部偽だと思った。ある者はそれより境界が来る時、命を放棄して、どうせお体は偽だと思ったから。先日、1人離婚したい女信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めて、もともと非常に苦しいのに、リンチェンドルジェ・リンポチェの巧みなご開示を通じて、昨日まだ来た時、全体顔が全て朗らかになって来た。そなた達は、眞に空性を体得する事が出来なくて、この者を助ければ、この者に何でも偽で重要ではないのを思わせて、最後多分飛び降り自殺をするだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは会場の出家衆に聞いた:そなた達は業力を聞く事があったが、一体「業」とはなんだろうか?どこに存在するか?業の力はどのように作用が生まれたか?答える者がいなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、業は虚無飄渺な物ではなく、確かに存在するのである。人は目耳鼻舌身意があるため、我らの心の動きを影響した。地蔵菩薩は説かれた凡夫は心を起きて念が動いて、全て業で、罪である。心の動きにより業力が生まれて、業力があれば輪廻する事が生じる。仏経には業がどの様子を載せてない。業は一つ我らに輪廻させる力であり、善業か悪業か問わず全部われ等を輪廻させ出来る。釈迦牟尼仏は嘗て仰った、例え業は固体であれば、空虚がこんなに大きくても置く場所が足りない。それにより、我らは推論出来て、業は固体ではない。また、業は固体ではないである以上、どこに存在するか?人はこのお体で悪行、善行をして、人のお体は善悪業力に蓄積された業報身である。そなたが行ったのはそなたに人をならせる業なので、この世は人になった。そなたが行ったのはそなたが動物になる業ならば、この一生は畜生道に投じた。だから六道衆生は全部業報身である。業は人のお体の中に、人の経脈の中に、そなたの血管の中に存在する。人様ばかりのではなく全ての衆生皆そうである。

どうして我等のお体が良くないか?多すぎる悪業をしたから。なぜある者は礼仏をすればする程お体が良くなったか?なぜ呪文を唱える事もお体をますます好くならせて、業力を軽くしてひいては業力が我らに対しての影響を変わる事が出来るか?それは呪文のどの音でも全部経脈と関係があり、これ等の音は我等のお体の中にの経絡を振る事が出来るから。我らは呪文を読んだ後、お体がとても軽くなると感じて禅宗では所謂軽安との感覚が現れた。例えそなた達は阿弥陀仏聖号を唱えて、多くの者は阿弥陀仏は仏号と思ったが実はそうではなく、実際に阿弥陀仏の名前は無量光無量寿仏であり、「阿弥陀」は心呪である。呪文は1尊の仏の功徳、知恵、福報、願力を含んで、我等の経脈を影響して、あれら、我等の体内にいる我らに害された衆生に仏の助けを受けさせ出来る。業力は軽く回すことが出来て、彼らの悪業は回って変わりたい時、我等の業力ははじめて従って変わる事が出来た。彼らは望まない時、我らはどう唱えても自分の業力を変わる事は仕方がない。善の力を通じて、出離心を固めて、生死輪廻を離脱する願いを起こしてはじめて業を転化する事が出来た。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなたを加持するのは、そなたの冤親債主を加持するのであり、彼らが良くなったらそなた達がはじめて良くなる事が出来るから。

そなた達は阿弥陀仏或は観世音菩薩の心呪を唱える時、割合に読み易いと感じて、それは呪文が短いのではない。阿弥陀仏の願力は輪廻を離脱したい衆生が全部阿弥陀仏の浄土へ行くように助けて、観世音菩薩の願力なら、一切苦難な衆生を助けるから。それでそなた達は彼らの心呪を比較的に読み易い。そなた達も気づいたと思い、呪文を暫く唱えた後、読むスピードも速くなって、これは経脈が段々貫通させたのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年大手印無上ヨガ部本尊を修めるため閉関して、全て唱えた本尊呪文はあわせて150個音で、また観想が必要で、多いものが用意必要で、やっとこの呪文を唱え始めることが出来た。定の工夫が足りなければこの呪文を修めることが出来ない。呪文のどれ音でも全部お体の異なる所の気脈にとって影響がある。

密法にはとても特別の一つの所は、密法を修めてからお体も良くなった。顕教での見方は「修心不修性」(心を修め、性を修めない)性とはそなたの命、お体の状況である。しかし密法なら「心を修めて性も修め」。顕教ではこのお体は偽物なので、重要ではなく、心から勉強すれば結構である。但し密法はお体と心全て同じ重要で、お体がなければ、我らは修行することが出来なく、お体が良くなければ、呪文を唱えるのも、禅座するのも出来ない。だから両方とも兼ねて配慮するべき。そのゆえ密法では長寿仏を修めるべき、寿命を延長してはじめて修行する時間を長くさせ出来て、顕教では修めない。仏を学ばなければお体が良くなるのではなく、福報があれば、お体が自然に良くなった。お体が丈夫で欲しければとても簡単で、このため仏を勉強しなくても結構で、そなたは全ての財産を看病するお金がなく、本当に需要な者に寄付すれば、自然にそなたのお体は段々良いに変わった。

ガムポパ大師が申された:「彼らは詳しく分析しようとして、最初の時、この心はどこから生まれたか?観察を通じて、彼らはやっと発見した:この心は今までどこかに生まれることがない。続いて彼らはまた分析しようとして、真ん中の段階に、この心はまた何処に住んだか?観察を通じて彼らも発見出来た。この心は何処でも住まない。その後、彼らはまだ分析する。最終の時、心がまた何処までに焼き切れたか?観察を通じて、彼らは発見した、この心も何処でも焼き切れることがなかった。」仏法が全て説いた心は人体の器官心臓と異なる。心は何処から来たか?心は何処かに住むか?最後に心はまたどこかで焼き切れたか?心は形がなく、重量がなく、色がなく、探る事が出来なく、見えなく、科学機械を使っても測らない。存在したらしくて,またないらしいだ。これは《金剛経》が全て述べた:過去の心が得なく、現在の心が得なく、未来の心が得ない。《心経》には述べた心は不垢不淨、不增不減(全ての事物は空なるものであるから、増える事もへることもない)《心経》は1本心を述べる経典で、多くの者は全て何回も読んだ。しかし読み終わってもやはり心の作用はなんだろうか分からない。《金剛経》を勉強した者はまた《心経》と合わせて見ればある体得が出来るかも知れない。心は何処にもすまなく、此処にあるらしくてまた外にあるらしくて、あるところには限らない。これも《金剛経》が説いた:無所住而生其心。(応に住する所無うして其の心を生ずべし)。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された、心がある所に住めば、時間空間の制限があれば、どう呪文を唱えて遠方の衆生のため修法するか?心がどこにも住まないまで修め得た者はリンチェンドルジェ・リンポチェのように何千キロメ-トル以外の所に人様のためポワ法を修め出来た。即ち既に空性を証得して、心がどこにも住まなくて、時間空間に制限されない。まるで《金剛経》が説いた無寿者相(寿者相は、妄りに寿命の長短をはかり、幸福と利益を望む観念を寿者相と言う)。時間空間の制限を破って、衆生に助けを与える事が出来る。地球なぜ回るか?科学者には答えがない。実は、科学は我らに教える事が出来なく、なぜ天体が回るか?仏経は我らに教えた、地球がまわっているのは衆生の心が動いているから。六道衆生の心は分秒を絶えずに動いていてので、地球のまわるのを押した。地球の上にのすべて衆生が入定すれば、地球はまわる事が出来なくなった。

リンチェンドルジェ・リンポチェの心は応に住する所無うして、物質に限られていないから、たくさんのことが見えるわけである。これは神通力ではなく、見たいなら見れるものである。心がいる場所に限られていなければ、突然こういうような能力が身につくようになり、自然に発生するのである。このような能力が欲しくて求め続けたら、神通力を求める邪見に陥っている。2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェがラーキ雪山で閉関中に、閉関部屋内で外にはある護法が毎日パトロールしているのを見た。閉関終了後、直貢チェツァン法王に自分が見た事を報告したら、直貢チェツァン法王がそれがある護法のことと確認してくれた。それから 直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを連れ更に700メートルを上り、ミラレパ尊者が以前修行していた洞窟の傍にある仏寺で法を修めた。リンチェンドルジェ・リンポチェが座席の隣に掛けてあるタンカーにあの護法が描かれているのを見た。それがアキー護法の護法の護法である。つまり、多くの護法はリンチェンドルジェ・リンポチェに守られているのである。

護法のほかに、リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関中にも、閉関部屋に運ばれてくる料理が何だと見えた。これも応に住する所無うとの表現である。いつも皆の生活ぶりを見ているわけではないから、心配が要らないとリンチェンドルジェ・リンポチェが法座で言った。衆生が助けようと求める時こそ、リンチェンドルジェ・リンポチェが心が動いて初めて衆生の過去、現在と未来のことが見え、助けられるわけである。こんな能力を羨ましく思わないでください。一キロ離れたところのことが見えてもあなたにメリットがない。他の人に、リンチェンドルジェ・リンポチェに神通ができていると言わないで下さい。リンチェンドルジェ・リンポチェがこれらの大能力があるのを開示するのは、自分に神通ができていると自慢しているのはなく、明心の修行の境界を言いたいだけである。仏法では神通を重視せず、神通は修行の副産品に過ぎないから、仏法ではない。六神通が修得しなければ、生死解脱することができない。

ガムポパ大師のご開示は、《大藏經》を凝縮しその精髄を皆に紹介しているから、自分の修行境界を通じなければ言えないものである。顕教では、仏経一冊丸ごとで仏法を開示するが、密法の上師は仏経でいう修行のポイントを要約し精髄を取り上げるようにしている。だから、仏経のいくつかの文章だけ深く探ってはならない。あるリンポチェが閉関の時に経典の文章についてよく考えたいと言ったことあるが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの方法は直貢噶舉教派の伝承に相違があると思い、直貢チェツァン法王にお聞きし、直貢チェツァン法王が微笑んで話そうもしないし、否定もしていないとした。だから、大乗秘密真言教法の中では、実修実証そして具徳の上師が非常に重要である。上師と諸仏菩薩が加持をしてくれることができるが、実行に移すのは自分次第である。上師と諸仏菩薩はあなたに動き出す力を与えられるが、覚悟をし修行するかどうかはあなた自分次第である。まるで諸仏菩薩がおいしい料理をあなたの目の前に出しているみたいに、あなたが食べる際に、自分で料理を噛んだり飲み込んだりしてはじめて料理の味が分かるし、栄養が吸収できるから、更に業を転じることができるようになる。

昨日、ある信者は一家そろって父親のことを聞きに、リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いした。もともとこの一家は娘だけしか信じていないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らのことを知らないでいる状況で、彼らの父親が商売する時の方法や各子供のかかる病気を言い出してから、彼らを降伏させ、リンチェンドルジェ・リンポチェなら父親を助けられると信じさせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは決して彼らを知りなくて、どのように彼らの家族の事を知っていることができるか。彼らの父がリンチェンドルジェ・リンポチェに教えたのである。行者は衆生の因果を知ってはじめて彼らに助けられ、 尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは無寿者相、証得空性そして慈悲ができるから、空間に制限されず、彼らのことを知り彼らに助けを与えられる。最後に、リンチェンドルジェ・リンポチェが、皆のことをはっきりと分かり、皆がお会いに来る時には、患者の部屋番号を言わなくてもよく、ただお名前と生まれとしを言い出したら探し出すことができて、なぜかというと、リンチェンドルジェ・リンポチェが空性で入定しているから、そなた達のことによく知っていること、と開示した。

長く生きられない入院中の家族がいる場合、家族はよく、リンチェンドルジェ・リンポチェに病院にいていいか?実家に戻ろうか?と聞きに来るが、昔の人間は家で往生するか病院で往生するか?とリンチェンドルジェ・リンポチェが開示する。病院にいる患者は死ぬ前に、管が三本入れられ、子供を生んだことある女性でしたらこんな苦痛が分かる。こんな感覚が分からなくてやってみたい人は、お金を払って病院で一日を体験することができ、もし病床がないと断れたら3倍のお金を出したら病床があるに決まり、一日だけ体験すれば苦痛かどうかが分かる。

ガムポパ大師は開示した:「真言密続に従い実修する行者は、最初は心の深いところに、全面的で漏れなく「死亡無常」の観念を起こし、現世の一時の利楽から自分の雑然とした野心を取り戻す。これにより、いくら細かい不善悪業に対しても、できるかぎり避けるようにし、いくら小さい十善法行でも、なんとかして実践する。もし、こういうふうに実修できたら、我々が修める法こそ本当の正法となる。」ここまでがガムポパ大師四法中第一である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはもし深く死亡無常との観念を考えなかったら、どんな法を学んでも成就できないし、何法を学んでも仕方がないと開示した。心の深いところに全面的で漏れなく「死亡無常」を起こすのがいちばん大事なことである。リンチェンドルジェ・リンポチェがある男性弟子の母親の皈依師を例に取り上げ、この法師は出家して30年余り、仏寺では二番目偉い役割を務め、たくさんの弟子を持つし如法に修行し、名利を求めないで衆生を助けているが、最後に癌になったが自分を助けようがない。法師は往生浄土と発願したが、病気にかかって以来毎日寝れなくている。理由にはいったん寝付いたら阿弥陀仏が見れなく浄土へいけなくなると思ったからである。法師が死亡無常を深く修得していないから、往生浄土を発願したがこういう正しくない見解を持つのである。幸いなことに、法師が今までの修行で累積福報で彼女が往生する前に リンチェンドルジェ・人歩チェに助けられ、彼女の心が完全に落ち着き寝れるようになり、なお、往生後もリンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝なポワ法を修め往生浄土させた。もし、夜寝ないでいるなら、痛みを感じないことないでしょう?癌による痛みは嗔恨心を引き起こすから、彼女を地獄に陥らせる。確かに往生浄土を発願するのが非常に重要であるが、自分が全面的に漏れなく「死亡無常」の観念を起こさなければ、往生浄土ができず、修行に成就した人の済度に頼るしかない。

人間はかって気ままで雑然とした自分の心を放縦し、好逸悪労そして一時の安楽に沈むことに慣れている。 尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがあなたたちと同じように土曜日や日曜日に家族と一緒にいる時間を楽しめ、利益衆生と弘法に苦労しなくて済めるが、因果と死亡が影のように我々に付き、一切が変動中ということを深く知っているから厳しいし急いでいる。仏経で記載されたように、仏法を学ぶ心は燃えた髪の毛を消火するように急いでいなければならないから、のんびりでゆっくり学ぶことはない。だから、毎日五戒、十善と三十七頌を生活基準とし、着実に実行し懺悔し、雑然とした心を取り戻すべきである。

累世でした悪業をいうどころか、現世だけ数え切れないほどしている。あたたたちにすべての悪業を断ち切るまでできないと分かっているから釈迦牟尼様が慈悲に阿弥陀仏を紹介し出し、阿弥陀仏の浄土だけ業持ちで往生できるが、悪業ではなく善業に限るのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは旅行会社を経営しているある弟子が次の事件があったと開示した。他の人から旅行会社のコースに問題が有ると言われたら、旅行会社を経営している弟子は自分が部下にそういうふうに言いつけていないから、ああいう問題が発生する可能性がないと思い、「でたらめに言うな!」と言い返した。この事件について、リンチェンドルジェ・リンポチェはつい言い出すようなことがないべきであり、この旅行会社を経営している弟子は誇り高ぶり、自分がよく修行し、旅行会社の各方面をよくしていると思うからああいうふうに言い返したのである。仏法での観点を触れず、ビジネス面から見れば、言う側がお客さんだから、旅行会社で不十分なところは謙虚に受け止めるべきである。孔子は「謙受益満招損(謙は益を受き満は損を招く)」と教えているように、どんな職業についても、謙虚に人からのアドバイスを受けると最終的に事を成す。ああいう一句の言い返しはそんなに深刻か?と思わず、弟子が仏法を学ぶなら、佛弟子の基本となる《佛子行37頌》でいう たとえ人に誤解されても、その人を貴賓に持て成すべきであることを守るべきである。相手と親しいから冗談で言うつもりだけだったと思うでしょうが、冗談にも限度があるから、ひょっとしたら相手がこれを覚え、心の中で覚えてしまって怨を結んだら、借りとなり、来世その人が生まれ変わったらあなたは返しに来ないといけないようになるから、上師として貸しや借りなどがないように望むから、ここで開示した。

最近、ある女の弟子は交通事故が起きて、リンチェンドルジェ・リンポチェは昨日彼女に加持させる時に見て始めた。彼女の父は獣医で、彼女の子供時に子犬を助けたい事があったので、彼女の父に犬の足を捉えて注射しにくるように手伝って、父が注射させるのがこの子犬に安楽死をさせる事を思わず、だから、この果報をもらえた。多くの人々は、彼女がこの子犬に安楽死をさせるのではなかったと思っている。こんなに厳重なのでしょうか?こんなに厳重である。そなたは子犬がどの責めと恨みを覚えている事が分からないわけである。だから、如何なる事をしても、注意しなければならない。人間だけで感じがあるのではなくて、動物が全てある。嘗て、ある日本会社の社員は「彼の家に犬がずっと叫んでいる」と言った。彼はまた犬の叫び声を学んで、側にいる人が聞いてから可笑しいと感じていた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは聞いてから開示させて、この犬はある硬い物が食べる事が好きではないで、また、それの後肢がとても痛いと伝えたくて、そのうえ、この社員に犬を連れで診療して貰わせた。この社員が聞いてから、「その通りです」と回答した。実は、犬だけで霊性があって言われて、嘗て、直貢噶舉教派の中に、あるリンポチェは主に鳥の叫び声と昆虫の叫び声が何を表現する事を主に了解して修めている。ただし、この法本が現在伝承が絶えてしまった。

「小さくてまた小さい十善法行でも、力を尽くして出来るだけ実行して行く」というだ。善業も衆生を連れで輪廻してくるのではないでしょうか。創である。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに多くの人々に助けたけれども、一切なした善業が全て廻向する。廻向とは一切の功徳が衆生に与えて、自分が何も残さないで、そうすれば善業により輪廻する事があり得ない。

カンポバ大師の開示は「このような何でもないのは特に深い理趣とは『明知(賢聖自覚境界)』と呼ばれる。このような境界はただ本知本覚が経られる範囲で、妄念の心により幸いがあって少しを覗く事ではない」のである。

「このような原因に基づいて、尊主龍樹菩薩は偈があって下記のように説いた。『あのような言えなくて不思議な般若蜜多は不生不滅で、虚空の体性で、同時に、般若蜜多またただ個人の自覚自証の本知本覚の活動範囲だけである』。心の力が言えなくて不思議なのは、神秘ので、言えなくて考えなくて、他人に言えない事ではなくて、却って、此れが我々の人生経験法則を超えて、言語にてはっきり表現する事が出来ない。仏法と人生経験法は全然違って、そなたは人生経験法の妄念にて仏を学びなら、所知障で、正法を学ぶ事が永遠あり得ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を学んでいない前に、顕教を学んでいる期間に、既に少し自覚する能力があって、因果を深く信じて、だから、境界が来る時に、そなた達と思っている仏を学ぶ事とは全ての事が良くなっていると思わず、発生の一切な事が自分の業をはっきり知っている。自覚のこのような境界は凡夫の考え方により全然理解出来ない。自覚の境界はただ自分だけで知っていて、他人が気づく事が出来なくて、そなたと相同で或は低下の人が知る事が出来なくて、ただ修行果位がより高い行者がだけえしていて、此れはこのような修行過程があるわけである。そなた達はこのような境界に至られないので、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に素直に従う事に教えて、上師がそなた達にある範囲をあげて、そなた達に再び犯させない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはその場である長年に経典を研究している弟子に「虚空の体性」が何でしょうかと尋ねた。彼は、自分は法師から虚空の体性を解釈して聞いた事がないもで説明出来ない事を誠実な回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは宇宙を例にして、国外で、科学者はとても多くのお金がかかって物質が生成する道理を研究し、未だに物質を造る方法が見付からない。実は、仏経にはもっと前に記録させた事があって、これ等の科学者は仏を学ぶなら、回答を探し出られる。現在、科学者は宇宙が絶えずに拡張している事を既に知っている。宇宙の天体が形成の原因は現在の科学者が何か原因でそれを発生させる事も証明できない、ただ偶然で形成した事だけで言えて、此れは仏法の中に縁起縁滅で、虚空の体性は縁起性空の道理である。宇宙には多くの天体にあるけれども、込んでいなくて、我々が夜空を観察するのように、多くの星にあるけれども、込み合うと感じられない、此れは仏経と曰く「一微塵の世界の中にまた一微塵の世界にある」。虚空の体性はこのようである。

顕教は外境の影響を断って心を修めて、密法は外境を断つ事といわないで、しかし、本心の内在から外境にて引き起こさせる悩みを断たせて、此れは心から悩みを断たせるので、悩みが自ずから減っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが去年に大法会に行った時に、多くの事柄に遭って、他人に批評させて、しかし、心がこれ等の批評が影響させなくて。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェの心が如如不動である。仏菩薩の心も如如不動で、だから、そなた達の心の動くを完全に反応して始めて、そなた達にそなた達の心の作用をもっと分かっている。顕教は外境の影響を断たせるので、心が如如不動になって始めて、しかし、そなた達が顕教を修めている時も発見する事が出来で、仏に礼拝し、真言を唱える時に動作を経由して妄念を抑える事が出来で、しかし、していない時に再度現れる。密教は外境を拒絶しなくて、直接に心性を修めて法性に入るまで、業力の良さと悪さが影響させないわけである。

今日、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示により、そなた達は顕教と密法の差異が知られて、実は目標が同じで、ただ修行の方式と過程が違うだけで、しかし、仏の教法を離れない。坊間にはある者は密法を修めた事が無いけれども、密法に対してある程度を評判し、これは一寸適切ではない。厳格で言えば、宇宙万物は全て仏性があって、多少で一部の能量があって、我々の記憶のように、科学者は脳神経の系統に保存し、脳細胞に記憶する事と言われて、しかし、樹と花は細胞もあって、何故記憶する事が出来ないのでしょうか?仏経には解釈する事があって、これは業力である。だから、密法がない事を再び言ってはいけない、密法が真に存在している。そなた達は、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示させる内容が他のところで聞いた事がないと言うかもしれない。勿論聞いた事がない、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが実際な修行経験により貰える体悟分けである。前に言った業力経脈の部分のように、仏経に記載させる事がない、しかし、実際的な修め得ないなら、これらの内容を説かれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日そなた達に多く説いた。既に往生した直貢教派の大成就者のヨンガン・リンポチェは多年前にリンチェンドルジェ・リンポチェに密法を伝える予定が、リンチェンドルジェ・リンポチェが前に居ると、ヨンガン・リンポチェが突然に試験させて、心の境界を尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェは事前に試験がある事が知らないので、準備が出来ない、その上、このテストが範囲がないし、標準答案が無かった。普段にずっと修行していて何か体悟を得る事がないならば、回答出来ないかもしれない、秘密な灌頂を貰える事も出来なかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェのこの世に仏を学ぶ事は何故成就が出来るのでしょうか?直貢チェツァン法王は下記にて開示させた事がある。リンチェンドルジェ・リンポチェの累世で修行する善根が深くて厚くて、この世に発する願力と上師への忠実な事わけである。そなた達はこの世の修行と累世にした事に関係があり、修行してから成就を得ない事が前世に上手くしたわけで、十分な善根に累積していないで、この世により教えに従って実行するはずで、仏法の通りに修行して、この世に生死を解脱する事が出来ないでも、未来世に再び仏を学ぶ機会がある。皆は福慧がとても重要である事が分かって、そなたのこの世の時間が足りないならば、足りる福慧資糧を累積する事が出来ない。この世にそなたは修行して成就を得る事を考えないでも、この世に福慧の累積が足りないなら、そなたの来世も影響させる。そなた達に対して、この世に修行してから成就を得られるかどうか、仏を学んでから悟れるかどうか、或いは懺悔を遣り遂げるかどうかを考えてはいけない、最も重要なのは死亡無常をしっかりと心に刻んで、自分の心の奥に死亡が必ず来て、無常とは如何なる良い事であれ悪い事であれ、すべて変われる事を深くて体得している。『地蔵経』にに記載されているが、衆生が心を動かし思いを起こせば、其れは皆業であり、罪である。そなた達は時々刻々に自分を検討しなければならなくて、こんなに利己だけでしないで、仏法を生活に使っている。そなた達はこのようなしたら、大変だと思っているかもしれないし、随時に注意しなければならない、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に遣り遂げて、生活の中にすべて仏法で、とても楽だと感じている。

そなた達は仏を学んでから何も良くなっている事と思ってはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェは現在の果位を修め得ても、依然として幾つの小さい問題の出現があった。前に開示させるそれらの社員弟子がした事はリンチェンドルジェ・リンポチェの障碍である。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に放棄する事をしないで、もっと苦しんで、業障がもっと多くのは彼らをもっと助ける。仏を学んでから、そなた達が思えている良くない事があったら、却ってよい事で、此れはそなたの若い時に体力があって弁済出来で、リンチェンドルジェ・リンポチェが生きている時にそなた達に助けられる。リンチェンドルジェ・リンポチェの後に誰がそなた達に助けない事ではないし、因縁があってそなた達に助けるかどうかが分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故こんなに厳しいのでしょうか?少し事でも長くて説いているのでしょうか・そなた達が如何なる悪因を植える事を望んでいないわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が来世にどのレベルを修めえる事が分からないので、そなた達がこの世に縁があって仏を学べる事に、正法を厳格で修める方法にてそなたの第八意識田を深く植える。

リンチェンドルジェ・リンポチェは生まれ変わりのリンポチェではなくて、子供から出家する事ではないし、そなた達同じように、そなた達が人生にあった人生の過程の結婚、子供も儲けて、商売をして、喧嘩をする事が全部した事があった。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供の頃からある宗教ような家庭に生まれて、36歳時に仏法を接触し、発心して仏を学ぶと、皮膚癌に罹って、商売を失敗し、離婚になって。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは完全に苦しみを感じないで、ただ自分の果報の成熟だけで、累世にした悪業悪果がこの世に完全に成熟して、未来の仏を学ぶ道に障碍がない。リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学ぶ時に多くの禅定をするかもしれないし、既にある少しの自覚を修めた。仏門に皈依してから、全部の命を尽して仏法の為に学んで、自分の人生が変わった。道理に基づいて、リンチェンドルジェ・リンポチェが子供から海鮮を食べて好きで、生きていない物を食べない、殺業がこんなに重い人であれば、必ず短寿で、50歳を超えないかもしれない。現在、64歳まで生きていて、その上、皮膚癌も気にしないで、薬を飲まないし、診察してもらわないし、全部すべて良くなっている。リンチェンドルジェ・リンポチェの身に仏法の示現を見えて、そなた達も遣り遂げる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは2010年と2000年に直貢チェツァン法王に退職したい事を表示し、しかし、直貢チェツァン法王が同意しなかった。その上「リンチェンドルジェ・リンポチェに段々に退職させる」と開示させた。、然し、三恩根本上師の直貢チェツァン法王がこのように説いたら、リンチェンドルジェ・リンポチェが素直に従っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在の果位を修めえて、時間が足りない事をしていって、一生懸命に修めなければならないだから、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に放さないで、仏法の上に弟子の悪習を放さない。それらの依然として肉食をしている信衆は来ないで下さい、それらの罵られて、処罰されて、修理させる事が出来ない者は現れないで下さい。だから、寶吉祥の弟子は非常に感謝し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生に惜しんでいる事に一緒に感謝した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは5月下旬に日本道場に向いて火供に参加して従う弟子に今回火供の状況を報告させた。火供を修める事は最も大きな福報を累世する事と開示させた。火供の中に10種類余りの供品があって、修法する時に供品を火供の壇城に投げる。自分が修めるならば、真言を唱えてから供品を投げる事が十分である。然し、これ等の随行の1百50位余りの参列者にこの機会があるの為に、リンチェンドルジェ・リンポチェは2千回目の供品に分ける動作をした。その上、此の中の2回目に弟子は皿を供品を接近しないので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの手の皿を投げて、此れは彼らが上師に不注意し、恭敬しない、一心しないわけである。そなた達はこの供品に分ける動作を軽視してはいけない、そなた達は帰宅してから試みる事が出来で、真言を唱えて、観想して、その上供品を持つ者の皿が上手く持つかどうかを注意し、非常に大変である。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の身体の苦労を重んじるならば、2千回近くの動作をする事ができなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一人の女の弟子に機会を与えて、大衆にその日に見る瑞相を説明させた。この女の弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェは火供を修めてから、何群の鳥が空に飛んできて、ある字の隊形を排列し、後ほどある大きな鳥も飛んできて、それらが愉快で鳴いて、空に回って飛んで、法会が終るまで、現場が多くの人々が見た事があると説明した。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示させた。普通火供を修めるなら、空行母の協力が必要、空行母は天道と菩薩の間の中の一道で、仏経が記載された事がない。敦煌の石窟の壁画の上で描く飛天は空行母で、寶吉祥道場の周りも飛天を描いた事がある。空行母は仏法を護持する者と仏法を護持しない者がいる。仏法を護持しないのはカトリック教キリスト教の天使のようである。仏法を護持する空行母は修行者が修行する善の情報を諸仏菩薩に通達し、諸仏菩薩も来て賛嘆する。凡夫の声が極めて微かで、仏の心も如如不動で、空行母の助けが必要し、それらの鳥が空行母の化身である。リンチェンドルジェ・リンポチェは、鳥は普通午後に現れないで、特にその日に雨が降っていると開示させた。弟子がこの象徴を説明させる事はリンチェンドルジェ・リンポチェの素晴らしさを現す事ではないで、皆にこの法会が衆生に助けがあるので、瑞相があって初めて、修行者が真に衆生に利益する事をしたら、空行母でも護持して来る。

2011年6月11日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時から夜10時15分まで、130信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年6月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、続けてガムポパ大師が開示された仏法の重点を解説した。

法会が始まる前、まずはある女弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の父に慈悲な加持と施身法済度を与えた経過を分かち合って、且つ発露懺悔した。

2008年2月23日に、彼女は一人の出家大衆に付き添って逸仙路まで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行った後に、施身法に参加することを始めて、1年11ヶ月間の信者をしていてから、彼女は2010年1月30日に皈依して、途中に外国へ行ったことを除いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾で開催された法会を欠席することがない。彼女は父に2008年8月31日の万人大法会を申し込んであげたが、しかし父は8月28日に肺部が炎症を起こして入院して、この殊勝な大法会に参加することに縁がない。リンチェンドルジェ・リンポチェが祈請文と阿弥陀仏の心呪を唱えている時に、彼女は思わず知らずに涙を流していて、心の中の気にかかったのはやはり父親であり、父親が病院にいる苦痛な模様を思い付いて、心の中はとても惜しくて、そこで再び9月17日にリンチェンドルジェ・リンポチェに面会した。リンチェンドルジェ・リンポチェはぜひとも彼女にその現場で50回大礼拝をやらせて、そして彼女の傲慢と愚かさを叱責した。リンチェンドルジェ・リンポチェのそばにいる出家衆の弟子は彼女をそばまで連れて行って、親切に彼女に、仏法なら求めなければならないものだと言って、彼女に慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェが父を助けて彼の苦痛を軽減するよう求めることを教えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはぜひとも彼女に完全に最初菜食料理を食べて日曜日の法会に参加する事を要した。彼女は逸仙路から家まで帰って泣いておて、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に言った話をずっと考えていて、彼女の娘は彼女がおかしいことを見て、その経過を聞いて、かえってハッハッと大笑いして、「ついにある人は母さんを対治することができる。」と言った。

8月31日から11月22日まで、彼女の父は体調が引き続きに不安定しているから、彼女は父を説得して、台北に来てリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは何も言わずに父を加持された。また、父に甘露丸を一粒与えて、すぐ父に飲ませた。また、彼女に指示して、リンチェンドルジェ・リンポチェを供養した供養金を父の名義で父のような脳卒中であり血液透析を行った老人の医療機構に寄付する。また父に施身法法会に参加させる。2009年1月22日彼女の父は唯施身法に参加した。第二回目の施身法は2月22日日曜日に変更したから、父が2月21日に再度入院したせいで参加できない。2009年3月18日彼女は再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、父に機会があって施身法法会に参加できる事を望んだ。慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは自分が参加すればいいと返事された。当時彼女はとてもがっかりして、帰るとどのように父に説明すればいいと心配した。母は彼女を慰めて、大修行者は多くの重要な事をしなければならないから、とても忙しいが、引き続きに求めないでと言った。父自身は懺悔しないと、罪障を除けないから、債を返済しないと離れない。続いて一年間、彼女の父は状況も段々安定していた。

2010年10月3日、彼女の両親及び弟は皆台北に来て、阿弥陀仏無遮大超度法会に参加した。当日南港展覧館の地下駐車場の保留席が全て満席なので、元々緑エリアに座るべき父は車椅子の赤エリアに手配された。リンチェンドルジェ・リンポチェは法席から降りて、大衆のために加持した時、父が座った車椅子の赤アリアで三回を加持された。リンチェンドルジェ・リンポチェは会場を離れた時、彼女は涙を禁じえなかった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生のために行った全てをとても感謝した。この前、彼女は駐車場の保留席の件に関して、ある兄弟子に怒った。此処にあの兄弟子に懺悔して、当時ボランティアとして兄弟子の苦労を考えなくて、皆にひたすら詫びを入れた。

2011年1月30日彼女は皈依した一年後、始めて四臂観音を伝授された。彼女は法本を受領した時始めて仏法の貴重さを感じられて、心の中に喜んで涙が溢れた。2011年5月8日夜中、彼女の末弟から電話があって、父は高雄にある大型病院に挿管救急を受けた。第二回目脳卒中なので、脳の中に大きい血塊がある。心拍数は唯30回から40回しかなくて、GCSは3点である。母は彼女にカナタに旅行している姉を連絡させて、早めに帰国する。彼女はいらいらして眠れないから、起きて大礼拝をして懺悔していた。朝4時半に二人の妹を通知して、先に高雄に帰らせて、また弟に知らせて、自分は法会に参加した後すぐ戻る。弟は彼女に自分が決めると言った。朝8時くらい、彼女はある兄弟子に電話をかけて、父の状況を説明した。また、リンチェンドルジェ・リンポチェが法席に昇る前にポワ法を求めたい事を伝えた。昼12時くらいリンチェンドルジェ・リンポチェの側の兄弟子は彼女に早めに高雄に戻ると伝えた。当時彼女は我慢できなくて、電話の中で号泣した。あの兄弟子は彼女を慰めて、唯リンチェンドルジェ・リンポチェの通常に教えた話を考えればいい、早めに帰りなさいと言った。彼女の夫は早めに彼女を連れて、兄弟子の家に甘露丸を取った後、彼達はすぐ高雄に帰った。病院に到着した後、彼女は甘露丸を父の舌下に置いて、また父に言った。「お父さん、リンチェンドルジェ・リンポチェは昔に貴方を二回加持した事が有って、貴方はリンチェンドルジェ・リンポチェを覚えたよね。リンチェンドルジェ・リンポチェは貴方を助けるから、恐がらないで。我々は皆側にいる。」話した後、父の目から涙が現れた。夜六時過ぎ、父の動脈血酸素飽和度及び心拍数が上がって正常に戻った。彼女の心は暫く安定して、すぐ台北に戻って会社の仕事を処理した。

彼女は家と会社との事務を処理した後、翌日(5月10日)彼女はまた病院へ行って、家族達に、父のお世話を任して、彼女を無視して、これから上師の法照を見て大礼拝をし始めて、ずっと懺悔して、上師に父を助けるように願って、それに、父の養育の恩を感謝すると言った。300回をお辞儀して、おばさんは彼女に一休みを取らせているところに、ちゃっとお医者さんが二番目な弟に父の瞳が広大して、高圧酸素室へ運ぶと言ったのを聞いた。彼女は二番目の弟に父親は病院に居るのが嫌いのを注意させて、お父さんを家に送ろう!一番上の弟は機嫌が悪くて言った:「姉さんを待たさなくてもいいか?」彼女は言った:「横になったのはそなたであれば、口にパイプを差し入れ込んで気持ちがいいか?姉さんが帰って責めたら、私は責任を取る。」そうして、彼らは父親を家に運んだ。彼女の油断で、看護婦は彼らの同意を貰わずに父親お呼吸パイプを取ったのを注意しなくて、二番目の弟が気がついた時すでに間に合わなかった。彼女は現場で看護婦が鼻胃パイプを父親のお体より離れた頃、父親の顔は直ぐ苦しくて黒くなって、彼女は直ちに甘露丸を父親の舌の下に入れて、父に教えた:「リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを助けるので、恐くないで、我らに連れて一緒に仏号を読もう。」彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの法照を父の頭の上に置いて、皆に念仏を始めさせて、現場で全ての親戚は全部跪いて誠に阿弥陀仏を唱えた。あの日20~30名が父のため8時間を念仏して、この時父親の顔色がが落ち着いて、口が強く閉めて、親友が離れた時全部、父親が寝ているように自然でとても綺麗と言った。

葬儀会社は10時ごろ父の体を綺麗にしようとしたが、彼女はもう2時間念仏するのを堅持した。弟の嫁は言った。「子時が過ぎだら、父にとってあまり良くなくて、納棺する事は翌日になる。」彼女はまだ念仏するのを堅持した。しかし彼女が良く分からなくてうっかりして、父の頭の温度を測らなくて、父のお体を綺麗にする時、左側の方がかえって硬直になって、母は悲しくて、自分を責めた。父の着換えをさせた後、彼女は兄姉妹に順番に続いて念仏すると要求して、また父の耳元に言った:「私が悪かった、そなたにこんなに多くの苦しみを受けさせて、許してくれ、我はするべき事をするのでそなたは何もかも下ろして、安心で阿弥陀仏に連れて西方浄土へ行って修行し続いて、私は今後もあそこへ行くん。」

5月11日午前8時過ぎ、姉は玄関より這って入り父に会い、父を笑わせようとしたら、不思議に父の顔色がよくなり口元も上がったから、最後の父に会った姉はやっと安心でき、引き続き佛号を唱えるようになった。彼女は父への惜しみを我慢したが、やっと限界になって上階でこっそりと泣いたら、妹は: お姉ちゃんは リンチェンドルジェ・リンポチェが父を助けてくれると言ったじゃないか?我々は リンチェンドルジェ・リンポチェを信じるべきだ!と注意してくれた。こう言われたら、自分が上師に対する自信が本当に足らないし、仏法をタッチしたことない妹に及ばないと慙愧に思った。夜12時に入棺する時、父親は全身が柔らかく顔色も良いから皆がこれで一安心した。阿弥陀仏教を唱え終わったら、法師はこの中に密法を学ぶ人がいてとてもいいと言った。彼女は本当に上師からのご加持を感謝しており、父が気絶してから入棺するまで35時間、家中は佛号を絶えないでいた。

5月14日、夫の承諾を得てから、彼女は夫が取っておきの、自分にプレゼントした長年の琥珀ネックレスと父が入棺した時彼女への赤い封筒(お年玉袋に似た物)を持ち、弟と母親と一緒に リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いに来た。弟は父が生前でいちばん好きな腕時計を恭敬にリンチェンドルジェ・リンポチェに供養し父への済度をお願いしたら、ラッキーなことに リンチェンドルジェ・リンポチェは肯いたし供養を受け取った。 リンチェンドルジェ・リンポチェは父親に二回を加持し、父がよく往生できたと言ってくれた。そして弟に施身法に参加してもらうようにし、ここ四ヶ月で仕事が順調ではないが、四ヶ月過ぎたらより順調になるから我慢しなさいと言った。弟は主人を無くした母が一時焦点を失い、でたらめに考える恐れがあるから、リンチェンドルジェ・リンポチェに母へ開示していただいたら、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが進んで母を加持した。上師が彼らの供養を受け止めた時、彼女は慙愧ながら感動した。弟を駅に送る途中、弟は自ら姉に お姉ちゃん、あなたの先生はすごいし、慈悲です。そして死者を尊重しているから、私は敬服しますと言った。

5月15日、リンチェンドルジェ・リンポチェは法席で再度彼女を・責した。その場で、彼女は真に様々な感じを感じていて、真に何も言えなくて、ただ簡単で「リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した」だけで言えた。法会した後、彼女は直に高雄に帰って、亡父の初七日のことに一寸間に合って、その上、法師に『快楽と痛苦』に送って、法師がとても法喜である。仏事の後で、弟が皆を集って会議をして、家族にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する経過をはっきり報告し、その上、リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた事が上の弟に教えて、弟が信じなかったので、「擲筊」をして父に尋ねたいと言って、結局、一回でしてから「聖筊」を貰って、上の弟が父の霊堂の前に額ずいて謝って、激しく泣き叫んだ。下の弟はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に説いた内容が彼に頭から足まで涼しくなって、こんなに素晴らしい者が真に居ている!彼が父に言った時に、リンチェンドルジェ・リンポチェがその場に居ているようである。リンチェンドルジェ・リンポチェは普通人ではないし、彼が死者に対する同情、慈心、悲心、彼の願力が地蔵菩薩と差異が無いのである。下の弟は彼女に上師の心を分かって、何も求めないで下さいと勧めて、父が既によくて、過程の中に小さい瑕があるけれども、彼に本来想像以上に順調になって、ただ上の弟が過ちを改めるなら、父が安心して始める。

5月25日の告別式の中で、父方の叔母さんが挨拶する時は特に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが父への加持に感謝した。火葬した後に、父の頭蓋骨の上で2つの小さい円孔を発見した。兄弟子は彼らが説明した後に、彼女がほっと息をついた。彼らが家族はひどく幸運し、リンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝な世話をもらえて、彼女の心の中にとても感激していた。父の往生している過程は彼女が全程に参加し、感銘を受けて、求めず、愛別離の苦しみを深く感じていて、もっと真剣に自分に警戒させて、死亡が無常で、自分の親孝行しないで、仏を学ぶ心構えが間違って、執着し過ぎて、他人の考え方が気にしないで、上師に十分な信心がないで、恭敬心もないし、自分の福が薄いので、父に多く苦しみを受けさせた。彼女は注文した100冊の『快楽と痛苦』が告別式の会場受付で放置し、ただ寄贈を明記しただけで、自発的に発送していないで、最後1冊だけで残っている事を同時に賛嘆した。

昨日(6月11日)、彼女は上の弟と母を連れで尊き上師に感謝し、その上、母に施身法に参加する事を順調な求めてもらえた。上師の加持がないと、父の法事はこんなに順調で円満する事が出来ない、彼女は多くの兄弟子の助けと激励に感謝し、その上、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教法と時々刻々で衆生に利益する大慈悲に感謝した。これから、彼女はよく仏を学んで、仏恩、上師恩、父母恩と衆生恩に報いている。

そしてある男性の弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の母を助けた事績を分かち合った。

彼の母は2003年に老人性痴呆症に罹って、2005年末に脳幹に脳卒中が発症したから、全然無意識、無能力の植物人になってしまって、この期間にはすべて彼の父と外国人家事使用人が一心に配慮して、ずっと今年まで外国人家事使用人が帰国した後に、彼らは母を老人ホームに転送した。

今年(2011)5月12日、彼は会社に出勤している時に、姉からの電話を受け取って告知されたのは、母が不明な原因でショックを起こして、老人ホームは既に緊急に母を病院に転送されて、しかし病院に到着した時、すでに動悸、呼吸がなくなって、つまり一般にいわゆる来院時死亡(到着時死亡)である。突然このようなニュースを耳にして、彼の心は慌てて、心の中がただ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとアキ護法に母を助けるようお願いして、しかもすぐに台北に戻って、直接に病院に行った。

家族がまだ病院に到着していないため、医者は応急手当SOPに従って必要な応急処置を行うことしかできなくて、非常に不思議な事は発生した、母は動悸、呼吸を停止して、脳部及び全身器官が酸欠状態になって既に30分間をも上回ったが、しかし応急手当をした後、意外にも救われてきた。彼はこれがきっと尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとアキ護法が母に与えた助けだと知っている。

ICU病棟で母を見舞っている時、医者は母の血紅素が少なすぎて、出血性ショックがあることを疑って、その上脳部及び全身器官が酸欠状態になって30分間を上回ったるため、未来2週間は観察期間であるが、しかしたとえ自主的に呼吸を回復できて、機械に頼る必要がなくても、体の状況も恐らくとても悪くなると言った。彼の姉は看護婦であるから、医者の出血性ショックなど言い方について全然に認めることができなく、つまりショックを起こした本当な原因は依然としてまだ確定していない。

実はこの時には医者さんができる事がすでにとても有限になって、子女をする彼らはどんな事もできなくて、どんなことも手伝うことができなくて、心の中は本当にとても恐れると不安と感じて、彼はとても尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェとアキ護法の加持のため、母にほんの少しの時間がまだあるようにさせたことに恩に感じた。彼はこれがもう最後の機会だと思って、彼はただ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェだけが母を助けることができるのを知っている。彼は母の耳で、「母さん、恐れないでください。私達はリンチェンドルジェ・リンポチェにあなたを助けることを願い求めに行くから」と言った。

5月14日土曜日彼は心の中に必ず家族全員で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、母を助ける事を求めたい。更に家族全員は最も誠で恭しい心で求める。しかし、父、兄達、姉達は行きたくない。彼は心の中に慌てて泣いて長兄に言った。「私たちは仏を学ぶのは生死を解脱するためではないか。六道輪廻を離れて極楽浄土に往生できるのを望みたいだろう。若し母が亡くなれば、私たちは母のために助念しても、必ず浄土に行く事を保証できるだろうか。しかし、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝で得難いポワ法は本当に母を助けて浄土に往生できる。若し因縁があって、求められるなら、何故求めに行かないだろう。」長兄は暫く考えると「行きます。」と約束した。長兄は約束すると、父も一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する事を同意した。

彼は姉に電話して、「私たちはリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、母を助ける事を求めたい。家族全員で一緒に行って欲しいと望んだ。」しかし、姉は一日講義がしたからとても疲れて彼達自分が行けばいいと言った。彼は姉に「母のために少し疲れても価値がある。」と言った。彼は姉に如何しても彼達と一緒に行くようにお願いして、その後、姉は無理に引き受けて同意した。

最後彼は二番目の兄に電話をかけた。「私たちはリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、母を助ける事を求める。家族全員は一緒に行って欲しい。」二番目の兄はまだ用事があるから、夜まで台北に戻られないと言った。彼は二番目の兄に「大丈夫。私たちは待っているから。」と言った。そうすると、家族全員は一緒に道場に行って、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。皆は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いていた。彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに母の状況を報告した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に開示された。彼の母は痰を一口喉に押さえたから、ショックを起した。未来4日は重要な時期だ。若し心拍動は安定すれば、助けられる。しかし、若し心拍動は相変わらず上下変動で安定しないなら、よくない。彼は心の中に母が既に最後の時期になると考えた。この時尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェしか母を助けられない。若しまだ口で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに母のためにポワ法を修める事を求めないと、母はまた苦しみを受けているだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に「先に口頭で約束した。」と言った。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが約束したと聞いた時、心の中に本当にとても感謝して、心の中の喜びは文章は形容しにくい、慌てて不安な心も落ち着いた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「先に口頭で約束した。」と言ったが、彼達は自分の心はいつでも変わって、因縁福報もいつでも変わると分かるから。何れしても完全にリンチェンドルジェ・リンポチェを信じて、母のために最もいい手配する。

翌日の朝まだ6時頃、彼らは病院より母親が危篤に堕ちたとのお知らせが貰って、全部の者は6時あまり病院に着いた後、母親の血圧は約80位残った。母親の病床の側に立って、子女として彼らはやはりなにも役に立たないが、彼の心の中にはもう恐懼と不安を感じなかった。子女達は一つ一つに母親の耳元に安心して、彼らは父親のお世話をして、自分の世話もすると言った。それに母親に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは既に彼女のためポワ法を行うのを承諾して、彼女が西方極楽世界阿弥陀仏へ行くのを助けると教えた。母親に大懺悔心を起させて、過去作った殺業を懺悔して、安心で、リンチェンドルジェ・リンポチェに従ってくださる。彼の父親はお釣りが好きで、よく多くの魚を釣って持って帰って来て、母親は何時も父親のために魚を殺した。母親は若い頃も市場で鶏、魚を買って来て、自分が殺して、ひいては以前一匹のウサギを養うことがあって、畜殺した後ウサギのお腹の中に小さいウサギがいたと発見した。話し終わった後、母親の血圧が60ぐらいまで落ちたことを見つけた。

最後、彼の父親は母親の耳元にまた母親に安心させることを言った後、暫く母親は
血圧、心臓跳ねが無くなった。彼は母親が本当に下ろしたと思った。それで、母親は皆が別れを告げた後、やっと去った。彼らは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに加持することを恩に着た。母親はやっと安祥で行った。彼らは直ぐ寶吉祥骨董屋に電話して、留守番電話に母親が往生した時間、生まれ年等資料を残った。その上、もう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに母親のため殊勝なポワ法を行うように願った。

この時彼ら皆は病院の念仏室で、母親の側を囲んで一緒に仏号を唱えて、彼らも尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが常に彼らに対してのご開示を謹んで覚えてある:絶対に亡者の側に泣くことをしなくて、亡者のお体を引っ張って、ぶつける事もしない。約10時頃彼の携帯が鳴いて、彼は直ぐ念仏室を離れて携帯を取った。骨董屋で仕事をする相弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが修法し始めると言った。兄は彼が出て携帯を取るのを見てついでに彼に皆のためミネラルウォ-タ-を買わせた。彼は電話が終ってから水を買う位時間があるはずと思って、まだ2、3分も掛からない内に、彼はまだエレベ-タ-にも着いてないのに、骨董屋での相弟子はまた電話をかかって来て、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に修法終了と教えた。本当に不思議が、僅か2、3分間で、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に母親のため殊勝な得難くポワ法を行った。

骨董屋の相弟子は彼に母親の梵穴を触らせた。彼は先母親の額と頭を触って、全部冷たくて、しかし母親の梵穴を触ると本当に暖かくて、それに、母親の顔つきは落ち着いているようになった。もともと広げた口は完全に閉めなかったが、多く小さくなった。此れは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが母親のため殊勝で難く得るポワ法を修め得た瑞相である。

彼は大変尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに母親のため殊勝なポワ法を行って、母親に本当に離苦得楽させたのを恩に着た。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは母親のために修法して、済度して極楽浄土へ往生するのをさせなければ、母親は安祥で去る事が出来なくて、彼はもう一度尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着た。

5月16 日彼は友達が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れるため、骨董屋に電話を掛けた。骨董屋の相弟子は特に教えてくれて、5月15日法会終了後、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまた彼女に彼の母親の後事の処理状況を聞いた。あの時、彼は本当に万分尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着て、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に世話をするのが仏菩薩の光みたいで時時刻刻弟子達を照って、彼は大変尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着た。

同時に彼は尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェ、諸仏菩薩及び参列者、兄弟子に公的に懺悔し、尊き金剛上師は「自分の心を改正し、自分の行為を改正し、教法に従ってしっかり実践し、上師の功徳を賛嘆する」を常に開示させる。これらは彼が真に遣り遂げない、彼は家族に自分が仏を学んでから何か変り事を見させなくて、彼は常に上師の功徳を賛嘆しない、だから、家族は尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェに信心を生じなかった。

特に上師の功徳を褒め称える。現在、彼はこれが如何に重用である事をようやく分かっている。尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェは法座で「リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子の褒める事が如何に要るのでしょうか?弟子は要るのである。」を一回だけではなくて開示させた。弟子は上師の功徳を絶えずに褒める事により、家族に尊き金剛上師に信心を生じさせて、彼たちに最も需要な時に力を生じる。

彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持にとても感謝した。5月31日の出棺する当日には一切でとても順調で、円満で、彼はすべての兄弟子の関心と協力、その上、葬式に参加した兄弟子に感謝した。彼は「寶吉祥」の赤色のベストを着く兄弟子の出現をみると、心の中に真にとても感動していた。その上、他の葬式に参加した親友は兄弟子が着く目を引く赤色のベストを見ると、特別な注意する。彼の兄の大学時代の仏学社団のある先輩は最近ポワ法を一寸聞いた事があり、ポワ法は特別な殊勝な密法を知っていて、死者の神識を直接に極楽浄土に済度して行けて、仏を唱えて浄土に往生する浄土法門を修める彼たちに対して、これは極めて不可思議である。だから、彼は「寶吉祥」の赤色のベストを着く兄弟子を見てから、特に来て兄弟子に挨拶して、これは尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深く加持と修法のため、因縁がある人に仏法の力がこんなに不可思議で、こんなに偉いことを見させた。

火葬した後に、彼の母の頭蓋骨ただ少なく部分の破損があって、ほとんど完璧している碗の形のようである。すべての親族達は母の頭蓋骨の梵穴の所に丸い穴にある事をはっきり見えて、彼は家族にこれはリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修法完了の瑞相を説明し、皆は珍しさに感心した。彼たちはこの殊勝で得難いポワ法を骨灰がこんなに白くて綺麗である事を見た事がない、その上、一部は緑色で、ピンク色、橙色があった。彼たちの心の中には喜びを満たして、少しも悲しくなくて、彼は母が浄土に行く事を知っているわけで、これはすべて尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝しなければならない。

最後、彼は再度尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、その上、尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェは健康し、常に世に留まって、法輪を常に転じる事を望んでいる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは今日の共修法会の中に、ガムポパ大師の開示された修行の重点を引き続き開示した。ガムポパ大師は「真言密続に従って実修を行っている行者は、最初にも先に内心の深い所で自分に全面的で普遍的に死亡無常の観念を産ませる。」と開示する。多くの人は自分が皈依したり、呪文を唱えたり、読経したり、拝懺したりして、更に数日間の関閉したことがあったら実修だと思っているが、しかし、実はそうではない。ここで、「実修」とは実際的な修行ではなくて、修行するのはすべて自分を輪廻に落ち込ませる行為を改正することであり、実修は仏法を本当に生活の中に運用できるのであり、そして生死に解脱して、輪廻する苦しみを離れる。修行することを始める人は、自分の心の中で本当に死亡無常の観念を遍満させて、事実上これをやり遂げることができるのも密法をも修めるのである。ある人は密法がないと思って、実は確かに存在しているが、ただそなたはどの観点から密法を見るのである。

数日前、リンチェンドルジェ・リンポチェは1つのニュースを見て、ある人が自転車を一人の行商人の出店場所の前方で駐車して、自転車を駐車する人は道路がそなたのではなくて、どうして駐車することができないかと思っているが、行商人は自転車を店の前に駐車されたら、彼が商売をして金を儲けることを妨げると思っていて、二人はこの事のために言い争い始めた。本来で、自転車を駐車するこの人は駐車する時に行商人にお店の前で駐車してもよろしいかと確認して、もし行商人は賛成しないならば、それではすぐ駐車してはいけない。或いは行商人も相手がどのくらい時間か駐車する予定だかを聞いて、少し彼に便利にならせてもよろしいではないか。結果は両方ども相手に譲らないで、言い争い始めた。ある者はこのニュースをインタネット上に置いて、皆さんが是非を判別して誰が正しいか誰が間違うかを批判しなさい。ある人はその中の一方を声援すると言って、一つの小さな事はこんなに大きく誇張されてしまった。自転車を駐車するこの人はとても利己的で、事をする時にただ自分だけを考慮して他の人を全然考慮しなくて、このような人は慈悲を学ぶことができない;行商人は自分の商売をすることを守って、自転車さえも他の人にちょっと止ませることを許さないで、布施する心がなくて、その上慳貪でるから、因果からで見ると、以後この2人は来世また再び出会って、きっとまた言い争い始める。

現在メディアと医療体系の宣伝のため、皆に癌を講じさせると、とても恐ろしいと感じて、不治の病だと感じるが、癌は実はそなたをすぐ死亡させるとは限らなくて、そのほかの多くの疾病はかえって、本当な不治の病である。それに、心臓病などこのような病気は幼い時から成長するまでずっとそなたについていることができる。時にはそなたは彼がとてもうれしく誕生日の歌を歌っていることを見て、後の1秒間すぐ意識がぼんやりして倒して、いつでも病院に入ってあるいは亡くなるかもしれない。体と精神の上でどれだけの苦難を受けて、みんなはどうして心臓病が恐ろしいと感じないか。そして、国内外の統計により言えば、毎年意外にて死んだ人数が癌に比べてもっと多くて、そなた達はどうして意外が多すぎるから、もう運転しなくて、車に乗らないと言わないか。

全世界の最大の問題は、癌を除いて、脱税するのである。普通な人は全て脱税したくて、特に商売をする人はできるだけ方法を探して支払う税金を減少して、脱税できる場合には脱税するのであり、もしできればすでに支払った税金さえも返還して持ち帰った方がよい。そなた達は思ったことがあるか。国家の建設はすべて皆の支払う税金にて行うので、皆が道路の上で心地よく車を運転しているようなことができて、これもすべて皆の支払った税金のためできるのであり、もし皆は個人の私利のために脱税したら、政府はどのように金があり公共建設をするのか。そなた達は歩く道路もないだろうか。これらの社会福祉はどのようにくるか。脱税の果報は癌にかかることより更に恐ろしい。もう1つの問題もとても深刻であり、多くの政府の公務員は多く超過のものを受け取っても大丈夫だと思っているが、しかし国家が公務員に給料を払うから、そなたは給料の以外のものさえ受け取れば汚職だと見なす。汚職の果報はとても重くて、地獄に堕ちる。

最近ニュースで喧しく報道されている塑化剤(DEHPぷら成型剤を飲み物や食物に違法添加すること)とのことも、皆が得をしようとした結果のためである。もし皆は得をしようとしないならば、商売をする人に儲けるべきなお金を儲けさせると、どのように道徳を顧みない商人が出現したのか。現在塑化剤(DEHPぷら成型剤)の問題はすべてサプライヤーのせいに集中するが、しかしこれらのものを製造するメーカーがなければ、サプライヤーはどのように原料商品を供給するか。もし下流のメーカは需要がなければ、上流メーカはどのようにこれらのものを製造するのか。とことんまで追及するのは消費者が自分で得をしようとする結果である。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に来た後に、コンビニへ買い物をしに行かなくて、いくつか外国から輸入されたのでない限り。外国の物が比較的に良いのではなくて、腹に食べこむ物であるから、本当にもっと注意しなければならない。

真言密続に従って実修を行っている行者は、最初にも先に内心の深い所で自分に全面的で普遍的に死亡無常の観念を産ませる。死亡無常は単にそなたの肉体を指すのではなくて、ある人は死亡が亡くなってしまってからやっと発生すると思っているが、事実上生死はいつでもすべて発生するのである。死亡無常は世の中のすべてがひっきりなしに変えていて、止んだことがない。もし死亡無常がいつでも出現することを深く信じないならば、そなたは仏法を学ぶことができない。死亡無常を深く信じてから、そなたが常に自分が自分の心をしっかり見ることに警戒することができる。ある人は1種の消極的な考えが存在して、どのみち最後にすべて死にそうだと思って、恐らく明日死ぬかもしれないから、ただ死亡を待ったらいいではないか。或いは現在を把握して自分の好きな事をして、できるだけ自分の欲求を満足させて、自分の気ままにして、これらはすべて普通な人の邪見である。

リンチェンドルジェ・リンポチェはここを諭した時に、1人の弟子が専念に開示を聞いていなくて、法会開始前に分かち合う弟子が回覧する火葬した後の瑞相の写真を見ている事を見つけて、すぐこの弟子と彼女にに写真を伝えた弟子を叱り付けた。彼女たちは道場の後方で座って、写真をもらってやぶにらみをしてこっそりとねらったが、しかし、 リンチェンドルジェ・リンポチェは視力が良くて直ちに発見して、その場でこの二人の弟子が密法を学ぶことができないのを開示して、しかも彼女たちが直ちに道場を出て行く事を要した。すぐさま、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会の中に仏法を聞く時に、一心不乱にするべきであり、さもなくば果報があることを開示して、法会の中に居眠りをする果報もとても深刻である。一部の人はこんなに凄いのか、こんなに厳格でなければならないかと言う。知ってください、いかなる事をするのは全て業力があるから、その故リンチェンドルジェ・リンポチェはかすかな業さえも注意するのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き開示して:無常はよくない事を指すのではなくて、死亡もただ私達のこの肉体が使えないのではなくて、死亡無常は私達の周りの発生する人、事、物がいつでも変わるので、良いのが悪くなって、悪いのが良くなる。弟子が悪いのが良くなる時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を助けて、少し助けて、彼をおして、彼に少し速くよく転じるようにさせる。良いのが悪くなる時も弟子に気づかせて、しかし気づかせられる弟子が言うことを聞き取って素直にやるかどうか次第である。もしあの弟子が教えに従ってやらないと、このもともとの業力により進んでいく。修行することが最も重要なのは、釈迦牟尼仏が仰った方法によって自分の誤った地方を改正するのであり、仏を学ぶのが最も難しいのは自分の行為を直すのであり、さもなくば釈迦牟尼仏は49年間も仏法を宣説したことではない。世の中では道理が何もなくて、すべては因果である。仏法は道理に合わないのであり、もし道理を学ぶならば、孔子の本を見るのでさえすれば、仏を学ぶ必要はない。

ガムポパ大師は、先に内心の深い所で、自分に全面的で普遍的に「死亡無常」という観念を産ませて、今生の一時的な利楽の中から、自分の放縦して狂っている心を回収することを工夫しなければならない、と開示した。これによって、私達に細くてまた細い不善悪業について、全て極力回避させることができて、小さくてまた小さい十善法行について、全て極力実践させることができる。

現代人は死ぬ前に多くの医療の苦難を受ける。此処を切るとかあそこを切るや挿管など。実は多くの人は親孝行とは年寄りの肉体を此の世に一日でも長く生きたいから、生きられるために各医療の方式でこの肉体を維持する。しかし、よく考えるとそなた自身も受けられるだろう。そなた自身は病院で注射しても耐えられないのに、何故そなたの眷属にこのような苦しみを受けるだろう。患者はどんな病気に罹るのは病院に来た後、医師は唯機器により判断して診療する。この方式が出来ないと、別の方法で試して、本当の病因を知らない。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の手は相手の掌を触らず、上に置いた時、相手はどんな病気に罹った事をすぐ分かる。機器を使って検査してもリンチェンドルジェ・リンポチェの手より当たらない。病気になっても医師に診察される必要がないと言えないが、病気に罹るのは勿論医師に診察される。唯ある病気は因果業力であるから、医師でも治れない。そなたたちも聞いたが、先ほど報告した二人の弟子が言ったとおり、彼達の家族はとても多いけど、家族は重病になるや往生する時彼達は何も助けられない。医師さえ助けられない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に報告させるだろう。表面に上師の功徳を称賛するが、毎回の経験から見ると、人は往生する前かなり多くの苦しみ、医療の苦しみを受けた。全ての人は必ずこのような苦しみを受けなければならないだろう。必ずそうではない。

実は多くの人は死亡無常に対して、深刻の認知を持っていない。多くの人は自分の両親或いは眷属が病気、死亡の過程えお見たけど、彼達は死亡無常に対して、また深刻に理解していない。それはこのような病気は彼達の身の上に発生しないから。痛まないから、死亡無常はいつまでも発生できる事を分からない。だから、しっかりに実修しなかった。実修とは経を唱えるや仏号を念じるや拝懺など事ではない。実修とは生活の中にわずかな悪業でも完全に行わなく、善業は出来るだけ行える。そなた達は悪を一件行ったのは善を一件行えれば相殺できるとは思わないで。悪を一件行うと、せめて善を十件行わなければならない。

実はこの宇宙の中に悪業の力は善業より極めて大きい。悪を行う人も善を行い人より多いから、悪業の共業の中にいる。そなたたちの現代人が分かりやすい比喩で説明しよう。考えてみると、そなたは魚を一匹食べる時ある人はこの魚を捕って、運送して、レストランに到着すると、ある人はそなたのために魚を殺して、料理しなければならない。この間に何人がそなたを助ければ、食べられるだろう。だから、この悪業の共業は如何なる大きい。当然果報も早めに成熟する。昔の人はたとえ家で牛や羊を飼っても、数匹しか飼わなく、鶏を飼っても最大限数十匹だけ飼った。行った悪業の力は限りがある。現代牧畜業に於いて、飼われた動物は数万匹以上、数十万匹以上を一回に殺された。だから、悪の力は如何なる大きいだろう。そなた達は肉を食べるから、飼って殺す人がいる。そうすると、この大きいの悪業の中に巻き込まれて、一緒にこの悪の共業の悪果を受けるだろう。よく考えると、とても怖ろしいではないか。一方、善業も同じだ。善業を一件行うとはこの間に多くの人が助けられるなら、そなたは行える。嘗てある人は善業を行いたいが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に言って、病院に金なし診察できない患者に布施する。彼は金を持って病院に待っても、布施の機会がない。だから、一切わずかな悪業を止めて、不断に善業を行っている。善業は極めて大きくなるとき、過去に行った悪業を全て抑えて止めれる。尚更に影響させない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に提示して、すぐ悪を断ち善を行わなければならない。また、善を行う功徳は引き続きに仏菩薩の功徳大海の中に迴向すれば、諸仏菩薩の善の力と結べて、自分の業を転じる機会がある。そうしないと、自分の力なら本業に従って行かなければならない。

先程報告した女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の往生した父を尊重した事を言った。若し尊重という言葉を使うと、彼女の父はリンチェンドルジェ・リンポチェの果位より高いだろうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を利益できて、衆生を再度出来るが、彼女の父は出来るだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に多くの亡者を済度して、多くの父親や母親が亡くなったのに、全ての亡者に尊重して、頂礼しなければならないだろう。でたらめを言った。リンチェンドルジェ・リンポチェが亡者を尊重する言葉を使えず、「憐憫」すべきだ。仏経に憐憫を説かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者が苦しみを受ける事を忍ばないから、彼達に助けを与える。この女弟子の弟は仏を学ばないから、尊重という言葉を誤用した。しかしこの女弟子は既に皈依したが、弟は間違ったのに、彼女は訂正しなかった。理由は二つであり、第一は弟が怒るのは恐がる。第二は彼女は心の中にその通りに思って、唯リンチェンドルジェ・リンポチェを利用して、不妄語戒を犯した。言葉は心から生じると言われるが、彼女は心の中に上師に恭敬心が不十分だから、このような動きがある。仏を学ぶのは唯上師を利用する。更に彼女は自分の考え方もよく執着するから、自分の父は最も重要だと思って、他の衆生を一切考えない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女弟子は密法を習えないと開示された。そなた達は一語でもこのような結果になるのを思わないだろう。話すときよく注意しなければならない。それはそなたは相手が聞いた後、如何なる考える事を分からないから、他人を損なうかもしれない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を開示された時、二人の弟子はまだ写真を見ているだろう。それは彼女が法会前に報告した弟子の話を聞き込んだから、亡者を尊重する事を考えるから、法会の中にリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を尊重せず、集中する。ある者は思うかもしれないが、今後どんな話を言うとよく注意しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って言ったが、自分は直貢チェツァン法王と話した時、特に注意しなくて、特に言えない事もない。それは自分が心の中から直貢チェツァン法王を敬うから。両親は我々にこの肉体を与えるが、上師は我々に仏法を教えて、生死の苦海を解脱できる。

昨日ある信衆は直腸癌のため、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、自分に癌細胞と戦う力を持たせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、仏法は我々に癌細胞に戦う事を教えない。その後、この信衆は改めて癌を抵抗すると言った。しかし、仏法で抵抗という言い方がない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の請求を約束できない。癌は今益々蔓延して、多くの癌に罹る人は癌細胞と対抗や潰す考え方がある。この違う観念は全て医療体制はマスコミに宣伝された結果である。

癌に罹る患者は最後何も食べられなくて、とても痩せている。此れは果報である。それは昔に多くの衆生を食べたから、そなたに食べさせない。何故癌細胞は大きくなるだろう。それは癌細胞はいつまでもそなたの体の中にそなたを食べて、そなたが死ぬまでに食べる。此れは昔殺生から起こった。ある医師弟子は報告したが、一般の癌患者は食べた食べ物を吸収できず、栄養が足りないから、とても痩せている。また、殆どの栄栄養は癌細胞に吸収されたから、癌細胞は益々大きくなって、多くなる。ある医師弟子は報告したが、医学に於いて一つの笑い話があるが、癌は成功に治されるとは治療した後医学機器は癌細胞を測定できない。しかし、ある癌細胞は0.5センチ或いは1センチ以下であれば、医学機器に測定されない。また、人体に癌細胞は一つ存在すれば、増えるかもしれない。だから、常に治療した後また再発するケースもある。

多くの人は疾病のためリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。常に手術は順調だと求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達の願いを満足して、彼達に手術台に死なせない。しかし、手術の結果は分からない。手術を受けないほうがいいだろう。ある人は手術を受ける必要があるが、手術を受ければ、彼の果報は叶える。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身も嘗て皮膚がんに罹ったが、手術を受ける必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔海鮮を食べる事が好き、尚更にとても工夫した。リンチェンドルジェ・リンポチェは海老を食べるのは必ず人差し指のような長さの海老を食べる。大きいや小さいでも食べない。また、始めて高梁海老を食べた人はリンチェンドルジェ・リンポチェである。そなた達は考えてみて、生きる海老を酒にいるのは如何なる苦しいことだろう。このような悪果を作ったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは此の世に皮膚がんに罹った。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の果報を分かるから、皮膚がんに罹っても直貢チェツァン法王の助けを求めない。更に直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが皮膚がんに罹ることを分からない。仏菩薩を求めず、薬も飲まず、法を修めないが、完全に自分が犯した悪業を懺悔して、直貢チェツァン法王の修行に従って、一歩一歩自分が借りた悪業の債を返済した。上師に強い信心を持っているから、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、死亡は何も恐がらなく、全ては上師及び諸仏菩薩がいるから。此れもリンチェンドルジェ・リンポチェは始めて仏を学んでから、「死亡無常」をよく分かるから、引き続きにこの方向に向かって修行している。自然に結果は変わった。最後皮膚がんは薬を飲まずに治った。仏法を修行する事による完全に治った。

何故手術中手術台に死んだ人がいるだろう。それは手術室に多くの鬼がいるから。そなた達は人が手術を受けた時に大量失血があるや産婦は出産する時子宮異常出血があるのは吸血鬼は側に待っているから。このような鬼は特に吸血している。仏経に地蔵菩薩は善神を支配して、子供を出産するまで妊娠した産婦を守っている。しかし、衆生は感謝せず、安産した後仏菩薩の恩徳を忘れて、始めて悪を作った。産後坐月子して(産後1か月養生する)、体力を回復ために養生してどのくらい動物を殺しただろう。子供を生んだ人は誰でも麻油鶏(鶏肉をごま油とたっぷりの酒と生姜で煮込んだもの。)食べて養生しただろう。更に満月酒(子供が1ヶ月の誕生祝い)を行って、またいくらを殺生しただろう。よく考えると、そなた達はこの一生に結婚と子供を生んでも肉食料理で宴会を行ったが、どのくらいの殺業を作っただろう。本当に死亡無常を修行する人はわずかな悪でも行えず、回避しなければならない。行っても構わないと思わないで。そなた達が食べた物はそなた自身や子供に対しても影響がある。

ある者は状況がこのような厳しいだろうか。私が生んだ子供はまだ無事である。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、それはそなたは唯現在を見るだけ、表面だけ分かった。いつかにそなたの子供に影響するか分からない。安産したかもしれないが、生まれた後間もなく病気に罹るかもしれない。そなた達は現在多くの1才や2才の子供がとても大変な病気に罹った。多くの病院で児童病棟は今は足りないが、満室な状況である。ある医師弟子は報告したが、彼達の病院の例を挙げると、確かに今生まれたばかりの赤ちゃん或いは10才以下の子供患者はとても多い。病院では病室が足りない。この状況は一般病棟だけではなくて、ICUでも多くの10才過ぎ尚更にもっと幼い子供がいる。だから病院はいつも急診を受けた子供患者に早めに帰って、病室が空いているため。

リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を助けるのは貴賎貧富を問わず、金持ちの人と付き合いたくなく、仏法の善縁がないと助けない。この前ある建設会社の社長の奥さんは五十歳余り時、双子を妊娠した。彼女自身は高血圧があって、安産できないはず。この奥さんは多くの友人を通して、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して助けを求めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは約束しなかった。最後、リンチェンドルジェ・リンポチェはその中にある友人は仏を学ぶ人ようだと見て、彼女を助ける事を同意した。しかし、条件は産婦は産後坐月子した時菜食して、赤ちゃんは1ヶ月の誕生の時満月酒を行わず祝えない。その後相手は行って、双子の娘も安産した。現在二人の娘は大人になって、アメリカで勉強している。

死亡無常を分かるから、わずかで些細な悪業でも行えない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは商売するとき、サービスがよく行えない事を発見した時、粽を食べた顧客に対しても金を戻した。このような自分を要求する会社がいない。つまり、ちっとも憎みを結ばないから。粽が美味しくないではなく、唯サービスや流れがうまく手配できない状況で顧客に自分が要求されて、従われると感じさせないから、全部金を戻して、皆に憎みを持たせない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて申された、今日の夜明け頃ある女弟子が往生して、それに殊勝なポワ法を得て浄土へ往生した。この往生した女弟子は本来終始信じなくて、ポワ法を得るはずがなく、しかし彼女の既に皈依した娘は上師に対して信じて、全く従順で、それで母親にこんな因縁福報を有らせてポワ法を得た。

この往生した女弟子と娘はリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受けて、いつもリンチェンドルジェ・リンポチェが只である出家衆と弟子を泊らせた寮に住んでいた。しかし、彼女は病気を掛かった後、寮の皆を騒いで、静かさせなくて、外の者は彼女にご飯を用意したのに、彼女は全部の食べ物を捨てた。

ある同居した出家師は皆にこの女弟子が寮の中に全てした事を報告した。この女弟子は引っ越してばかり時、一緒に住んだ出家師は食べ物が薄い味をするため、この味濃いした女弟子にとってあまり慣れなくて、ずっと最後まで、段々やっと慣れて来た。その後、この女弟子は糖尿病、心臓病などの病苦があって、痛めると他人を無視した。彼女の娘は毎日仕事が終わって帰って来て既に大変疲れたのに、娘が帰って来ると絶えずに彼女の代わりに事を遣らせた。夜いくらおそくになるか問わずに、彼女は痛むとずっと叫んで寮に住む者は良く寝る事が出来なかった。その後段々良くなって、自分もお風呂に入って、自分の事をするのが出来た。但し、暫く前に痛みを耐えなくて気持ちがまた悪く変わって、また夜中に数回自分が119を電話して救急車を呼んで来て病院へ行って、あれから状況はまた悪くなった。出家師は彼女に119を電話するのはこのためではないと言ったが、彼女も無視した。一回この女弟子は出家師に聞いた、懺悔とはなんだろうか?どう修めるか?この出家師は彼女に教えた、良くリンチェンドルジェ・リンポチェの教導に従って、リンチェンドルジェ・リンポチェが申された懺悔のテープを良く聞いて、あの中より上師が全て教えてくれた懺悔法門を学ぼう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仰った、我らは法テープを聞く時、実はただ我等が聞いているのではなく、まだ多くの衆生が聞いているのである。しかし、この女弟子は全部従ってしなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、2週間前、彼女が土曜日にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して加持を求めに来た時に、ある道場案内サービスの女子弟子は彼女に近づいて、関心を持って彼女を勧めたいが、しかし彼女は頭をほうっておいて聞きたくない。もともと、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が救急車に乗って担架で横たわって入ることを見て、心が動いて彼女を加持したいが、しかしこのことを見る時に、彼女の供養を受け入れないことを決定して、更に彼女を引越しさせて外で居住することを指示した。多くの人は、彼女はもうこのように苦しいが、なぜ彼女を外に引越しさせるかと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助ける方法はそなた達が理解できるものではない。

なぜこの女弟子を引っ越させたか?それは彼女この一生が全て作った悪は既に十分彼女に三悪道に堕ちさせるのである。はじめ頃彼女の病状が良くなったのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが何時も彼女を加持したから。ある時リンチェンドルジェ・リンポチェはあれら病気の重い者に寿命を何年延ばさせた。彼らに福を享受させるのではなく、彼らに十分な時間を有らせて仏法を学んで福報を蓄積するのである。しかし、彼女は他の弟子が客間で仏にお辞儀した時、皆を離れさせて彼女にテレビを見るのをさせて、此れはとても大きい罪である。また、用意してくれた食事を捨てて、夜喉を開けて叫んで、外の者に良く眠れなくて悩みを起こさせた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれらを見て、このよう他人を騒ぐ毎に、悪がまた少しを増えて、他人を罵った毎に悪はまた加えて、こんなに全て作った悪業は続いて蓄積したら、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を助けようとしても助けられなくなった。我らは累世以来数えない悪業をして、ご用があった時、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を加持して、そなた達がした事はキャメルを殺した最後の一本稲わらにならないように望んだ。しかしどんな事は最後の一本稲わらになるか誰も知らない。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が過ちをしたのを見るといろんな方法を尽くしてそなた達を助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェはこれ等の事は彼女の最後の一本稲わらにならないと望んだ。しかし、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの家に住んで、あそこには全部仏菩薩が守っているので、彼女の冤親債主が入って来る事が出来なく、だから彼女を引っ越させて、また彼女の娘に母親に好きに遣らせると言った。

実は、彼らと一緒に寮に住んでいる者は病気に掛かった者もいて、高齢97才のおばあさん弟子もいた。97才者さえは毎日自分の事が自分でして、ご自身にてお手洗いへ行って、何故只60才あまり彼はかえって出来なかったか?お医者さんさえも彼女にリハビリをすれば結構と提案したが、彼女はしたくなくて、終日横になるのをしかしなかった。それは一、彼女は因果を信じなくて、死亡無常を信じない。二、上師に対して敬う心、信心がない。三、懺悔心がない。あの97才のお婆さんは毎日仏にお辞儀して、呪文を唱えるのは只一つ考えがあった。上師が彼女に浄土へするのを助けてくれると望んだ。しかしこの往生した女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが私に痛みをさせないはず、私にいい生活を暮らせるはずとしか考えなくて、まったく死亡無常を信じなかった。外の者の口は念仏して、彼女の口は自分がとても痛いと叫ぶため。嘗て一回リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に観音法門の灌頂を与えて、彼女はかえっていらないと言って、全く仏法とリンチェンドルジェ・リンポチェの教導を信じなかった。

この女弟子は怠けばかりで、なんでもしたくなくて、現代人はなんでもかんでも怠けて、フルーツを噛むさえも怠けた。前回の法会の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がコンビに買い物しないと言った。そなた達は商品店で一本ジュースを買って飲むのはフルーツを食べると思った。ジュースはフルーツの代わる事が出来るなら、フルーツ樹の上にはフルーツが出ない、一本のジュースが出るはず。フルーツ樹は一個一個のフルーツが出来たのは必ず道理があった。実は、我らはフルーツを食べる時、この大自然の環境に対して役に立った。なんでも濃縮、便利が欲しくて、自分は噛むさえをしなくて、以後人類は歯がないと予言出来る。そなた達は見た、多くの者は往生した前全部横になって、食べ物を注がせたのである。

それに、この人は死ぬまで懺悔していなく、ちょっとした痛みでも、人の目線を引き付け、世話してもらおうとし大きい声で叫んだりする。この一生で、誰かが世話してくれるのは確かに自分の福報だから、世話するほうは気を使って世話するべき反面、世話されるほうも感謝の心を持つべきである。お金を払って雇ったからと言って、範囲外のことをさせてはいけない。先週手術を受けた女性弟子はこの間違いを犯したし、前からアチ護法さえ修めていなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはとっくにこの女性弟子に、あなたの体質は極めて陰性だから婦人病によく注意しなさいと言っているし、今回は腫瘍によっての手術であった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、当初相手と協議した仕事内容をしっかりと守るべきであり、権力で人を押しつぶしたり、なんでも人にやらせたりしてはいけない、そしてすることはするべきだと開示された。雇われる側は、当初で言った部分だけやることもできず、人の職権に犯さない限り、進んで手伝うべきであり、よりたくさん働けるチャンスに感謝すべきである。

肉体は業報身であり、過去でした業は現在の体となり、借りを返すため、報するために来たものである。人として生まれてくるのは苦しみを受け取りに来るし、苦しみは楽しさより多いとなる。末法時代の人は借りを返しに来るのは大半を占めており、体での各種の病痛は過去で借りた分で、痛みを我慢できれば借りを返すのと同様だから、ちょっとした痛みでも我慢できないようにしないで欲しい。リンチェンドルジェ・リンポチェも病気だらけで、しかも脊髄が深刻な曲がりになっているが、人から見ては分からないようにしている。リンチェンドルジェ・リンポチェも痛いと言ってない。理由はリンチェンドルジェ・リンポチェは体での苦しみを苦しみと思わないからである。だから、人に叱られたら人に感謝すべきであり、自分の過ちを正してくれるし借りを一件返してくれたからである。

リンチェンドルジェ・リンポチェがその往生した女性弟子からの供養を受けないし外へ引っ越してもらうようにした後、彼女は医者さんの言ったことだけ信じ手術をうけることにした。彼女の娘は母親は9節の脊髄を弄る大きな手術をするから、医者でさえちょっと心配していたと言った。でも、母親は意識がはっきりしている時に、賭けてみる!と言って自分で手術のことを決めたのである。手術が終わって状況が楽観的に見えると医者が言った。この時、 リンチェンドルジェ・リンポチェはある医者をしている弟子に聞く:通常では医者さんが患者に言う「治療の結果が楽観的と見通す」というのは成功率はどれぐらいあるか?医者弟子は約50~60パーセントで治療を受けた部分が治るが、癌だったら違うところに移転しないのを保障できないと答えた。 リンチェンドルジェ・リンポチェは更に追究する:というのは、患者や家族の想像にお任せという感じ?あの医者弟子は自信を持ち、はいと答えた。 リンチェンドルジェ・リンポチェはあなたたちは医者に本当のことを言ってもらえないが、リンチェンドルジェ・リンポチェなら本当のことを言ってもらえる。理由は リンチェンドルジェ・リンポチェには医者弟子をたくさん持ち、彼らは リンチェンドルジェ・リンポチェに嘘をつくことができない。医者さんがわざとこういうような言いかたをするのではなく、器械によるデータに頼って判断するだけである。あなたたちは医者に質問を追究することができないのは、医者に資格を持っているからである。今日は皆に医者の言いかたを分かるようにしてもらいたく、医者の言うことから正しい判断をおろして欲しいのである。

この女性弟子は賭けてみる!と言ったのは死亡無常を完全に受け入れていないのである。まるで水二杯のうち一杯には毒ありのように、見かけではまったく一緒だが、上師をする人はどちらに毒あるから飲めないと勧めたら、あなたは依然として賭けてみると思ったら、自然に毒ありの水を飲む確率があるようになる。西洋医学はわずか200年あまりの歴史に対し、仏法は3500年あまりを持っているのに、なぜ仏法で賭けてみないか?考えてみたら、糖尿病且つ高血圧の人では脊髄の手術に耐えられるか?

幸いなことに、彼女の娘はリンチェンドルジェ・リンポチェの言うことをよく聞いており、母親の好きなようにさせたり、体で借りを返させたりする。即ち、彼女の母親はもともと事故で死ぬはずだったが、手術を受けたから地獄に落ちる因を免れた。でなければ、彼女の母親がした悪業では、時間が長さが分からないが先に地獄道に、続いて餓鬼道に、最後に畜生道に落ちるのである。あなただったら、リンチェンドルジェ・リンポチェが我々を追い払うから、きっと私たちのことを相手にしてくれないと思って仕事しないで病院で母親と付き合うに決まっている。でも、彼女の娘は休暇を取らず、いつものように働いている。一昨日、彼女の娘は退勤後病院で過ごすつもりだったが、 リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の娘にお母さんはまだ死なないから帰って寝なさいと言ったら、彼女は言うとおりにした。 リンチェンドルジェ・リンポチェはなぜ彼女の母親が死ぬと知っているか?彼女が引越ししてから僅か二週間で、彼女の体で全ての業を清めて初めて浄土へ行けるのである。人間はなぜ死ぬかと言えば、仏法では福報を使い果たしたから死ぬようになると解釈する。人が生まれた時は何も持たないで来るから、当たり前のように死ぬ時は業力以外、何も持っていけない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの方法を用いて彼女を助け、彼女の娘にも完全に自分の考えを持たず上師がアレンジしてくれたことに従ってするから、早くも母親の体で現世の悪業を返し清めた。娘の孝行によって母親の代わりにリンチェンドルジェ・リンポチェに母親のためポワ法を修めていただき、浄土に生まれる因縁が得られた。今日の早朝、 リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女にポワ法を修めた時、彼女の魂は素早く駆けつけてきた。昔、法会に参加する時の動かず横になっているのと違い、苦しみを受けず浄土に生まれた。これも、親孝行をする子供なら、両親の代わりに法を求めて福報を累積することができるとを言っている。同じ遺伝子だから、両親の浄土へ往生する助けができる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたたちはまだ苦しみを知らないでいるから、死んでから助けてあげるといつも言う。人が往生してから最初の8時間が非常に苦しく、中陰身で7日ごとに目が覚めるが、助けようがない。人を呼んでも答える人がいないし、木を揺らしても誰も知らないから、非常に苦しいことである。ここにいる僅か一部の人だけしか仏を学ばなく、本気で学ばず守られるように求める人が大多数を占めている。人の心は不思議で、随時変わっている。家族が重病を罹っている時、家族が患者の代わりに リンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修めるように求めに来るが、リンチェンドルジェ・リンポチェは「口頭でオッケー」と言うのは、人の心は随時変わっているから、殊勝なポワ法が得られるかどうかの因縁も随時変わっている。

死ぬ前最後の考え方は非常に重要であり、来世どこへ行くかまで左右する。死ぬ前最後の考え方こそ現世でしたことや、現世の考え方の凝縮であるから、死亡無常の概念を日頃の生活に実践できたら、そして因果を深く信じていれば、最後の考え方は浄土への往生に繋がる。いくら自分がよく修めていると思っても、死亡無常を修めなければ、気絶する前の最後の考え方に、もしもう一年延ばせば、上品上生まで修められるかもしれないとふっと思い出したら、浄土へ行けなくなる。死亡無常を信じなければ、人の寿縁を使い果たしたら死ぬと信じない人は、イコール仏が言うことを信じないこと、即ち「疑」だから、仏が言うことを疑えば自然に浄土へ行けなくなるのである。

人は何故死ぬか?それは生れるためである。なぜ生れるか?それは死ぬためである。いわゆる涅槃は生死がなく、不正不死の境界である。現世で生死を断つように十分な福慧資量が貯められないが、これら細かくて細かい悪業を再びしなければ、我々は阿弥陀浄土へ生れるのを求められる。仏教テレビを見て仏法を学ぶ人が多く、人がいいと言う法なら学びに行ったり、あれやこれで集めたりする。これら重要ではないとは言わないが、これらはおつまみに過ぎなく、メインディッシュではない。直貢チェツァン法王が毎回の開示では死亡無常を触れるように、死亡無常こそメインディッシュである。死亡無常を思わないでいれば、仏法での永遠の素人となるとしっかりと覚えて欲しい。

《地蔵経》では、「凡夫起心動念皆是業皆是罪(凡夫が心を起こし念を動かすことは全て業であり罪であること)」と記載してある。もし、あなたに間違いが無ければ、すでに浄土に行っているから、我々が今でもここにいることは我々に間違いがあるに決まっている。浄土では食べたい物があればすぐ現れるし、食器は黄金や銀で作り、食べ終わったら食器を洗うことや、生ごみや残飯を処理する必要がない。何か綺麗な服を着たかったら、思えばあるから、浄土への往生を発願すべきである。

ある上場会社の社長は自分が誠心な仏教徒と名乗り、どの会社にも仏像がおいてある。毎日、仏像に向かって拝むが、癒着ばかりしている。本当の仏教徒は法を犯すことをしないし、佛菩薩も絶対に法を犯す人を守らない。こんなことをする人は朝も夜も拝んでも効き目が無いのである。

ある男性弟子は息子とレストランで食事した時に、リンチェンドルジェ・リンポチェも他の人達とレストランで食事していたから、リンチェンドルジェ・リンポチェの伝票を勘定するのを恐れ、見ないふりをしていた。リンチェンドルジェ・リンポチェがお支払いを済ましてから彼が挨拶しにきた。普段では、リンチェンドルジェ・リンポチェがレストランで食事している時、人の目線を引き付けないことは少ないから、まして弟子として上師がいることに気がついていない。リンチェンドルジェ・リンポチェがハンサムだから見られるわけではなく、こんな人は滅多にいないから気付かれる。前に上がって上師に挨拶しないのは、恥ずかしいからかもしれないが、黙って勘定してもいい。彼はそうしなかったのは、心の中では上師の分を勘定したくないから、いっそのことで見ないふりをした。以前、この弟子は工場が倒れそうになった時も、リンチェンドルジェ・リンポチェが救ったし、その後大儲けしたのに、こういうふうに恩のある上師を対応した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の家からの供養を受け止められない。

最近、この弟子の息子の足が傷ついて、最初、この息子は彼と一緒にレストランで食事し、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に呪う事ではない、リンチェンドルジェ・リンポチェは誰かが呪う事をしない、況して弟子のでしょうか?一切はそなた達の因果である。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が上師に勘定する事を気にしないし、彼が人情義理をとても分からないし、今日はリンチェンドルジェ・リンポが見る事を言えないし、ある目上にいる事を見たら、ここに来て挨拶しないだろう。この弟子と息子の行為は真に孔子が説いた横目で見ないで、その上、食事してから語らない事を遣り遂げる事である。多くの場には、弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに会えて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼たちに勘定させない。ある弟子は自分が何回目でリンチェンドルジェ・リンポチェが食事する事に合って、然し、彼に勘定させない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が上師の為に勘定するかどうかを気にしない、食事費用がいくらにかかるのでしょうか?数百台湾ドルだけである。これはリンチェンドルジェ・リンポチェは人げ芝居をする事を好きではない。彼は「見るふりをする」の演技がとても良くて、芝居をする事が出来るのである。

皈依したその日から、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に警告して、悪友を遠く離れて、悪友はそれらのそなたに酒食遊楽に耽らせる人ではなくて、最も怖い悪友はそなたに仏を学んで修行させない人である。リンチェンドルジェ・リンポチェは1995年から仏法を以って衆生に助けている。1996年、リンチェンドルジェ・リンポチェの現在既に去った親友は、この人の生前に台北で紫微斗数の占いがとても有名である。彼は、リンチェンドルジェ・リンポチェが破産及び人間と思っている様々な不如意の中に、自分の運命が変わっている事見てから、とても好奇心があって、リンチェンドルジェ・リンポチェの八字を八字の占い人にくれた。それから、その八字を占う人を連れでリンチェンドルジェ・リンポチェに「その占い師は『リンチェンドルジェ・リンポチェが仏縁が深い人で、仏を学んで修行したら高い成就を貰える。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を以って衆生に利益するならば、リンチェンドルジェ・リンポチェは58歳に骨癌に罹る』と話した」と言った。普通な人は親友がこのように言ったら、この親友が、私の為に良いと思って、親友の話を聞き入れるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはその時も心を動いていた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはその夜に禅座して入定した時に、急に、この友達の意見を間違う方向に連れる事を目覚めて着いた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のことを体得した。既に死亡無常の観念を受けて、人が絶対に死ぬ事を知ってから、何時に死ぬ事を気にかけるのでしょうか?その上、大乗仏法と金剛乗仏法は我々に仏法を学ぶ事が衆生に利益する事を教えて、衆生の為に生命を犠牲しても構わないので、如何に骨癌を恐れて衆生に済度することを退転するのでしょうか?退転とは衆生に利益する心を消える事である。リンチェンドルジェ・リンポチェの口が何も言えないが、然し心の中に、その親友の話を聞かない事を決めた。幸い聞かないで、現在、60歳余りに生きていて、仏法を以って衆生に利益する事が出来で、或いは、親友の勧めを聞いてから、事が真にその占い師を説く方向の発展していくかもしれない、結局、占い師は真に準確である。これは、リンチェンドルジェ・リンポチェが真に癌に罹って、然し、部位が一寸違って、骨癌ではなくて皮膚癌である。

ある女の弟子は上師の忠告を聞こえないようで、引き続いて彼氏と付き合って、これは自分の心を放縦して死亡無常を信じていない、自分の狂放の心を回収したくない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に付き合う事を阻止しないし、何故そなたにこの彼氏と付き合わない事を特に話すのでしょう?そなたは菜食をして仏を学んで、彼は肉食して仏を学ばない。将来、彼はそなたに従って仏を学ばないで、或いはそなたは彼に従って仏を学ばない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの男性を見た事があって、彼が菜食をしたくなくて、仏を学ばない事を知っているわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは「上師とするのは如何なる弟子は間違って向くので今世で仏を学ぶ機会を失う事を望まない。如何なる弟子の離れを望まない、止むを得なく無限り」と慈悲的な説いた。そなた達も聞いた事がある。ある者は神明に尋ねて、神明の回答は「リンチェンドルジェ・リンポチェは大きくて、神明が小さいである。ここの大小とはリンチェンドルジェ・リンポチェが多くの衆生に利益出来で、数量が多いわけである。」

おおくの人々は「膜型人工肺(*略:ECMO)」という機械を聞いた事があり、ある外科の医者の弟子は「膜型人工肺」が「体外維生システム」と称して、ある体外循環の医療補助のシステムで、つまり人工心臓と人工肺臓の組合せ機械である。「膜型人工肺」はただ患者の生命の兆しを維持するだけで、然し病気を治す事が出来ない。生存の成功率はただ3から4割ぐらいだけである。これにより「膜型人工肺」は万能ではなくて、多くの重病患者がこれをつけてから去っていって、だから、こんなに有効ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に医者さんが説いた話を良く聞かせて、医者さんが言う「そんなに有効ではない」とは何の意味でしょうかを了解させる。「有効」を聞いてから、これは有効と認定する事ではない。

あるストーリは、数年前、建築商の奥さんは病気にかかって、彼の息子は資金に拠出して国外から高価な「膜型人工肺」を買って帰って、病院に如何なる彼の母に死ぬ事が出来なかった。娘とするのはリンチェンドルジェ・リンポチェに求めて母に助けて貰えて、リンチェンドルジェ・リンポチェは「財産に分ける事がまだ終わるのでしょうか」と尋ねた。娘は誠実な承認した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母の寿命が既に尽くしている事を説いて、娘はリンチェンドルジェ・リンポチェに母の良い去る事を求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェが修法していた。1、2日後に、娘は病院からお見舞いの後に、帰宅すると母が彼女の家にいて、その上、彼女に感謝し、同時彼女が現在既にとても心地良くなると表していった。それから、娘は直ぐに病院からの連絡を貰えて、母が既に去った事を知らせた。

人の身体は「外気」、「内気」と「密気」に分けて、そなたの外気が切れた時に、そなたの脈拍と心脈を量りきれない、もし内気と密気がまだ切れていないなら、生き返らせる事が出来で、もし、外、内、密気がすべて切れるなら、この人が真に死亡になる。リンチェンドルジェ・リンポチェが知っているのは2回目のこのような経験がある。一回はある1年に一日の中に、4人の死者の為に4つのポワ法を修めて、脈拍と心脈が停止する事に修めてなって、然し内気が切れずので生き返らせた。もう一回2007年にラチ雪山に閉関をする時に、ある日に外気、内気がすべて切れて、ただ密気だけで切れず、アチ護法はリンチェンドルジェ・リンポチェに救ってくれて、だから、今までには絶えずに衆生に利益している。植物状態の人間であれば、もし彼の神識があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が何を考えいる事が分かれて、もし「神」が既に離れて、ただ「識」だけで残るなら、彼が何を考えている事が分からない。ポワ法はまた「遷識法」と称して、つまりそなたの神識を浄土に送っていく。そなたの「神」が離れて、然し、そなたの「識」がまたそなたの身体に残っているなら、修行者の神識がそなたの身体に入られる。ポワ法を修める時に、修行者の大能力により、死者の神識を身体の頭のてっぺんに押して出るわけである。

実は、ストーリの中のこの母はすでに死んで、つまり、我々が言う「神」が既に離れて、しかし、「膜型人工肺」の機械を使って、心臓を脈打つ事を表面的な維持して、その上、彼女が自分が既に死ぬ事を知っていて、しかし、機械が彼女に自分の心臓が脈打っていることを感じさせて、だからとても苦しみである。そなた達は考えてみて、そなた達の心臓を開いて、機械を置いて、心臓に強制的に拍動させると心地良くなるのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは修法して、彼女の能量を消えて、機械があっても作用がないと、彼女が死なれる。時には、救急する時には強心針を注射し、心臓が何回で拍動してから停止し、これから再注射したら、役に立たない。ある医者弟子は、「強心針の目的は主に心臓と頭脳の功能を強化し、しかし、他の器官はそれを気にしないで或いは放棄して、心臓と頭脳に足りる酸素量を心臓に拍動させていて、が、他の器官は相対的な酸素量が下がる。だから、患者は常に組織が壊死するので手足の切断手術をされて、そのため言ったらそれをある毒薬と言える」を報告した。

小さくてまた小さい十善法行でも、すべて力を尽くして実行し、それから、そなたの善の力は上師、諸仏菩薩の善の力を溶け込んでいて、そなたの善の力を段々強める。そなたは悪の力を抑えられるなら、そなたの悪の業力に現させないで、或いは弱らせて、甚だしきに至っては消えなくなって、そなたに作用を行わないなら、そなたの仏を学んで修行する道に障碍させないなら、そなたが段々そなたの業力が変られて、一切が良くなっていて善の方向に向いていく。一部の人々は仏を学んで、家族が反対し、甚だしきに至っては様々な手段にてそなたに邪魔させるなら、治まって良くなっている事が出来る。仏法と曰く「消業」は仏を学ぶ障碍を消える。もし家族はそなたに仏を学ぶ事を障碍したら、自分の心の中に仏を学ぶ事が一番大切な事をはっきり知らなければならない、その影響を受けない、他の事が一切が益々変られる。仏を学ぶ者の心はセメントのようにとても固めて、外力を受けない。如何なる事でも自分の仏を学ぶ心を変ってはいけない。

またたく間に6月にまたすぐに終わって、半年はまた終わった。この半年には、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の為に多くをして、多くの実修法門を開示して、何回目でそなた達に気付かせて、何故今週もう一度死亡無常を説いて、これはそなた達に仏を学ぶ基礎に固くて括らせて、そなたの以降の修行の道に順調に歩む。学ばれない事は必ず学ぶ事ではないが、しかし、死亡無常の基礎がないなら、他を学んでも役に立たない、学んで得なくて、学んで貰えないわけである。堅固なビルを築かせるなら、基礎をよくしてから上に築かれるのでしょうか。しかし、堅固なビルを築く事は長く時間にかかって、それを破壊するなら、何秒間に倒壊する事が出来る。そなた達は仏を学ぶ事も同じように、自分の心をよく注意させt、細くてまた細い悪でも遣り遂げない。多くの人々は世間の中に悪をしても大丈夫だと感じて、自分がそんなに運が悪い事がない、これも因果を信じていない。そなたは人々が過去で善業と悪業がどの位累積している事が知らない。何故連続2週間に皆に自分の心を放縦しない事を忠告させて、如何なる細い悪を犯す事が出来ない。これは仏を学んで修行する事が最も基本的な重要な観念である。

来週、ガムポパ大師の四法の中に第2項目の「法趨於法」を説く予定である。我々に如何に正確で修行して学んで自分と衆生に解脱する事を助けられる事を知らせる。

2011年6月19日

台北寶吉祥仏法センターの共修法会で、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年09月14日に開示した仏法の録音を恭しく聞いた。

法会が始まる前に、まずはある女子弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を助けた経過をを分かち合った。

先月(5月)26日、彼女はバイクに乗って会社に出勤している途中には、1台のSUV車にぶつかられて、体が投げ出されて、それからひどく地面まで転んで、左側の頭部と肩部はひどく地面に落ちて、その時彼女はただヘルメットの内部の構造が分解された音だけを耳にして、その後痛いと感じて、気が遠くなってしまい、この時彼女の頭の中で上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲深くて優しい容貌を出現して、そこで彼女はすぐリンチェンドルジェ・リンポチェの法名を唱えて、突然に頭がはっきりするようになった。病院に着いて、彼女は意外にも自分で検査室に歩いていって、X線(レントゲン線)とコンピュータ断層撮影法の検査を受けた。痛いが、しかし辛抱することができて、彼女はこれがすべてリンチェンドルジェ・リンポチェはの加持を知っている。検査し終わった後に、医者に、左鎖骨の完全骨折と脳震盪だと診断され、彼女にきっと手術を行わなければならないと言って、同時に半年ぐらい休養しないとようやく治れないだろう。彼女が手術を受けることを悩んでいる時に、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェはの加持をいただき、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持している時に、彼女は鎖骨が切れた所の筋肉が絶えず脈打っていて、しかも刺がささるようにちょっと熱いと感じていて、加持し終わって、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の鎖骨が切れたと言って、これはX線(レントゲン線)検査の結果とそっくりなのである。

以前は彼女は、医者をするある兄弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェの手がX線と同様だという話をよく聞いたが、実はリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲力は、たとえ空間をあけても、依然としてX線の機械よりもっと凄い。その後彼女はその他の病院に転院して、医師は彼女に手術を受ける必要がなくて、6週間の後で骨がゆっくりと癒合することができると教えた。彼女はたいへんリンチェンドルジェ・リンポチェに恩に感じて、実は彼女の完全性骨折の状況で、臨床上で必ず手術を行わなければならないが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のため、彼女に手術を受ける痛みを免れさせて、甚だしきに至っては今に至って、痛みに弱い彼女は意外にも半分粒の鎮痛剤をも服用していないくて、或いは痛み止めの注射をも打ったなくて、これはすべて上師の絶えずに慈悲に加持されたためである。彼女の自身の腎臓はよくなくて、そして深刻な貧血症であり、もし手術を行ってうけたら、絶え間なくて抗生物質、鎮痛剤を注射したり、また輸血したりしてから、彼女は命が恐らく半分しか残らないだろう。先週彼女は病院に戻って診察をうけた時、医師は彼女の鎖骨がすでに成長し始めると言って、彼女本当に非常に上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の命を救ったことに恩に感じる。

彼女の父は獣医だけではなく、さらに農場を経営していて、常に動物を結さつして、或いは動物を安楽死させて、甚だしきに至っては魚養殖池のを掘って他の人に魚釣りに来させて、殺生の事業を利用して、金を儲けて彼らを養ったから、彼の父も癌に罹って、その上往生する前に応急手当を十回もした、三ヶ月間ぐらい入院した後に恐ろしく他界した。彼女の兄は幼い時に腎臓病に罹って、1年半入院していて、 掛った費用は約半分棟の家のお金であり、彼女の弟は心臓病もあり、しかも軽微な低能であり、皈依する前に、ほとんど3日ごとに救急車に乗って病院に行って、皈依した後に回数は既にずいぶん減らした;彼女は幼少から体がよくなくて、いつもいくつか医師がうまく治療できないめずらしい病気に罹って、皈依した後に、上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のため、彼女の健康状況がだんだん改善してきて、このすべては殺業のためであり、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示して、殺業が重い家庭は、その家族がきっと円満ではなくて、しかも病気が多く短寿であり、彼らの家は明らかな例であり、このすべては殺業の恐ろしさを実証した。彼女も非常にリンチェンドルジェ・リンポチェはの加持に恩に感じる。彼女の家族と彼女などの情況が大きく改善を獲得した。

彼女は同時に懺悔して、ふだん教えに従って素直に遂行していないで、四六時中戒を破って、慈悲の心もなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を開示して、車の事故に遭った一瞬の間に恐がられて、彼女がふだん常に無常を観修していないから、ようやく恐れと恐懼があることに懺悔して、そして卒業してちょうど社会を出た所、犠牲奉献の心がなくて、看護婦をする時に、患者に対していらいらして、更に病を親と見なす基本的な態度をやり遂げていない。今度の交通事故で、彼女の右膝はひとつの血腫が現れて、血腫の上で意外にも一人の女性の顔が現れて、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持した後に、この血腫は消えてなくなって、リンチェンドルジェ・リンポチェは、これは彼女が幼い時に1匹の犬を抱いて父に注射されて、父はその犬を安楽死させたことがあると開示した。彼女は深く懺悔すると感じて、あの犬を殺すのは彼女ではないが、しかし彼女は父に抱いてあげるため、だから彼女も殺業があり、彼女が殺したことに等しい。彼女は非常に上師リンチェンドルジェ・リンポチェはに恩に感じて、もしこのように具徳でしかも大慈悲力、大知恵がある上師にしたがっていないと、彼女のように大悪な人であり、しかもこのように恐ろしい殺業を作って、この果報はいつようやく完済することができるか分からないで、彼女は深く因果の恐ろしさを感じる。

彼女は上師リンチェンドルジェ・リンポチェはの加持にたいへん恩に感じて、同時に彼女が病気にかかっている期間に、寶吉祥漢方医診療所が彼女に最も良い薬、丁寧な配慮をくれれ、たくさんの兄弟子達の配慮と協力に感謝した。最も重要なのは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に感じて、大慈悲力で、彼女に無上の正法を領受させる因縁をあり、彼女に仏法を教えて、彼女と子供を配慮して、彼女に仕事をくれて、後顧の憂いがなく仏をよく学ぶことができる。この浩瀚広大で限りがない恩恵は、彼女が永遠に報いるものがなくて、ただしっかりリンチェンドルジェ・リンポチェに従って、うまく仏を学び、教えに従って遂行して、仏法を生活の中に実行することであり、彼女は身、口、意で完全に上師を供養することを望んで、リンチェンドルジェ・リンポチェが常住在世、法輪常転することを祈願する。

そして、もう一人の女子弟子は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の母を助けて彼女のためにポワ法を修めた事績を分かち合った。

彼女の母は10年前に、彼女の父が逝去した時、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法が彼女の父の身にはっきりと現れたことを自ら見て、信心を起こして台東から台北まで金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法の開示を聞きにきて、さらに皈依して仏弟子になった。この期間に、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが至れり尽くせり配慮を受け、路頭に迷っていないで、彼女の母が四加行の大礼拝、百字明呪をも完成して、そして何度も金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの海外の弘法行程を追随して、インド、ネパール、日本、チベットに行ったことがある。

2009年の初め、彼女の母は滑って転んで、その上既存の病気の糖尿病は腎臓機能などの様々な体の調子の悪さを誘発して、病院に入院して治療を受けた。しかし意志が薄弱なため、ベッドの上で力が抜けて動きたくなくて、ずっと入院していて、入院し続けることができなくなってから、養護所に転院して、、リハビリにより両足を機能回復させるように望む。この期間、多くの兄弟子は養護所に向かって励ましに行ったが、依然として好転の気配がなくて、養護所の内で彼女の母が人に触られ事が嫌がって、ちょっと触られると大声で悲しく叫んで、看護する者人にとても頭を悩まさせる。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に1ヶ月の休暇を取らせて、彼女に母の身の回りで付き添わせて、彼女の母に関心を持つ人がないと感じないようにさせる。この一ヶ月、彼女は母に車椅子に座るように強制して、また母に数回もかんで傷つけられて、結局は母がゆっくり3分間、五分間、十分間まで端座して、その後に立つことができるようになって、そしてさらに歩行補助装置を使って歩くことが出来るようになった。約8ヶ月の後、彼女の母は宿舎に帰って、ある兄弟子が看護してあげる。この時に彼女の母はもう自分でゆっくりと歩くことができて、しかし依然として強烈に他の人にサービスを求めて、甚だしきに至っては情緒がよくないため、忠告を聞き取れなくて人に怒って悪口した。

2010年は彼女の母が更に自分でゆっくりと道場に歩いて入ることができたように進歩して、そして車椅子に座ったまま法会に参加した。今(2011)年は4月に自分で歩行補助装置で歩いて、そして自分で入浴することができる。5月初めに背中が痛いため、よく急診に行って、彼女の母は甚だしきに至っては自分で119番に連絡して、自分を各大病院まで送られて、痛み止めの注射を求めた。

彼女の母は自分で嘗てこう言ったことがあるが、痛み止め薬の効果が過ぎると、依然として痛みが同様だろう。何も効果がない。しかし彼女はやはり強情で急診を要して、宿舎のルームメイトの生活を混乱させた。彼女の母は強烈に医者から自分の病症が実際に何だかを教えて欲しいと望んで、痛みを止めることを望む。ある急診の時に、医者は彼女の母のためにMRI検査を行って、そして彼女の母の脊椎には三つの節が模糊してはっきりしないと表して、多分、不明な細菌に感染されただろうと判断して、すぐに必ず手術を行わなければならなくて、約9節の脊椎の面積を占めている殆ど全体の背中を引き離す大きな手術に相当して、やったら半身不随にならないか可能である。医者もこう強調した。彼女の母は糖尿病、高血圧と腎臓機能のよくないことがあって、これらはすべて手術を行う時のリスクであり、しかも脊椎の手術は大きな手術であり、専門の医者さえ把握することができなくて、しきりに彼女の母に言って:無理に手術を行わないが、手術が順調に行けば50%の確率があるが、しかし半身不随にならないことを保証することができない。しかし彼女の母は「賭けて見ましょう」と言った。

5月29日に彼女の母は7時間の手術を完成して、外科の傷口の回復は良好であり、両足は感覚がなおある。手術で取り出された物について化学検査を行って、1ヶ月の後でやっと結果が分かる。手術の翌日午後に食事を始めて、第3日に胃潰瘍を誘発して、4日目に鉀離子が高すぎて、水分を取り除けないで、必ず鉀離子及び利尿の治療を行わなければならない。このように毎日1つの病症が増えて、一つの治療が増えて、1群の医師が増えて、数本の導管が増えた。彼女の母は意識がはっきりしている状態から、科学的なおかしな人の模様のようになった。彼女の母が自分の主張があるため、ただ医者の話だけを聞いて、だからこれらの処置と手配はすべて彼女の母の同意のもとで行ったのである。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の母が教えを聞き取れなくて、因果を信じなくて、仏法を信じなくて、ただ体で弁済することしかできないと開示した。公務員として、貰うべきでない物を貰うと汚職である。台東このような田舎では、すべての人がこのようにしていることを見て、自分が間違いがあると感じない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に、もう彼女の母にリンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩の加持を求める事を言わないで、彼女の母が耳に入らないから、かえって彼女が嗔念を起こさせると警告した。

彼女の母は懺悔心を起こしていなくて、深く自分が間違ったと感じていないで、だから自分が死亡しないと感じて、ただずっと病気が何故よく治れないかと考えている。入院する二週間、体は金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示する四大分解の現象が現れた。たとえ既に掛け布団を3層も掛かっても、そしてライトにも照らさせられても、彼女の母が依然として寒くて身震いして、体がずっと下へ落ちると感じて、肺積水で呼吸が困難になり、口を開けて、一口一口で息を吸わなければならない。

6月10日に彼女の母の腎臓機能は悪化して、体内の水を排除することができなくて、医者は緊急に腎臓の血液浄化療法を手配した。その夜、敗血症のため腎臓が衰弱して、彼女の母はICU病棟に転送されて、彼女がすでにに応急手当を放棄する同意書をサインしたが、しかし6月11日朝、彼女の母が賛成したもとに、医者は胃鏡検査をする時、挿管処理をしたが、たとえこのようにしても、依然として彼女の母に対していかなる助けがない。彼女の母の意識は途切れて、ただ医者の言った話だけに対して反応して、体はすでに経脈が切れるた象が現れて、口の中で血が流れていて、右目が突き出て血が流れて、ピントを合わせることができなくて、甚だしきに至っては彼女が今まで見たことがない怒る目つきが現れる。彼女の心の中がとても悲しくてしかも無助だと感じて、金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、諸仏菩薩の慈悲をにずっと求めて、、彼女の母を速くて他界させて、再びしきりに支えないでください。

先に気が狂ってしまうようになって、決して落ち着いて立っていることができなくて、良く乗り越えてくることができないと思っている。すべての医療関係者は彼女の安定について、すべて信じられないと感じて、絶えず彼女の身分を確認した。彼女の母が死亡する時、服を交換して手伝う看護婦は:普通は間もなく死亡する人が、死ぬ前に死体のぶちが現れ始めておよび体がこわばる現象があり、最も遅いのは死亡してから30分間前に出現するのである。このように彼女の母がICU病棟で亡くなって、医者が死亡を宣告することまで待たないと体に装置を除くことが出来なくて、その上衣服と身の回り品などを着替えてから、死亡の時間ともうすぐ2時間をたった。更に、体が意外にもとても柔軟であり、皮膚が白くて柔らかくて、本当に珍しい。もし寶吉祥の尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なぽワ法の瑞相を言わないと、彼女はまた本当にどういうことが分からない。

彼女の母の最後の示現したように:伏せて食事をしたり、食べて吐いたり、ほえて悲しんで泣き叫んだり、怒る目つきをしたり、仏法を信じない、因果などを信じないすることなどはすべて三悪道に堕ちる特徴であり;10年前に彼女の父が黙々として病苦を我慢していて、人に悩みを起こさせない、執着をおろして、はっきり一件ごとに後ろに事を引き継いで、極めて大きな対比である。一人が臨終する前に仏法に接触してすぐ仏菩薩の看護を深く受けられた;もう一人は無神論であるから、ただ自分だけを信じて、仏菩薩を信じない。かえって生前に多く仏法に接触していない父が臨終する前に仏菩薩を深く信じて、病気に罹る苦しみ時、深く苦しみを体得して再び輪廻しにくることを望まない。まさにリンチェンドルジェ・リンポチェが開示したように、仏菩薩の手はすべて衆生を同情し救度することである。15分に離れてから、しかし衆生は手を伸ばして、はじめてこれは縁があって接収してくる。

彼女は「金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力はとても不思議で、全て衆生にたいして最もよい方式により手配する」と表していた。世の中に如何なる言語をこのような慈悲心を形容できなかった。如何なる力をこのような願力に追い越せる事がなかった。彼女は金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェがした一切な手配と遠くて広い慈悲力にとても感謝し、彼女に安定させて、両親の死亡の対比の過程をはっきり見させられて、そして、機会があってみんなと分かち有ってはじめた。

最後は彼女は「尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェが全て考えるのは弟子と広大な衆生だ」と表していった。彼女は上師の恩徳に深くて感謝し、尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝した。

それから、法会の参加者はリンチェンドルジェ・リンポチェの仏法のテープを聞き始めた。我々は未来世に苦海で輪廻しないのため、だから、我々が絶対に福報が要る。福報は我々に最も重要な時に使って始めて、つまり死ぬ前のである。参列の皆さんは多くの人々が家族にある者を去る事を見た事がある。そなた達は家族の去った者が、そなたが知っている親戚親友が既に去った者も含めて、去る前にはっきりしているのでしょうか?基本的に、各々の去る予定の人々は死ぬ前に昏迷の状況を陥って、彼は昏迷しないでも、人事不省になっている。この道理は何のでしょうか?此れは病気が重いので彼に昏迷させる事ではなくて、此れは彼の福報が足りないわけで、所謂業力が手前に表れている。これ等の衆生は昏迷を陥って人事不省になっているならば、百パーセントに三悪道の地獄、餓鬼、畜生道に往生して行く。彼が死んでから、誰かがお経を唱えて阿弥陀仏のところへいけると思ってはいけない。お経を唱えて彼に三悪道に落ちさせないのは密法を修行する者だけで出来る。だから、この点により我々は「善を行うのはよい生活を望んでいる事ではない」と知っている。我々はこの一生に時間にかかって仏を学んで、実は一切の準備工夫をして、我々の往生する前に最後の1、2分の為である。我々が生きている時に、「身、口、意」は悪をしているなら、そなたが去る前に絶対に悪のである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て皆に諭した事がある。1991年、我々の教派は雲南であるリンポチェが断崖から落ちて行って、その夜、そのリンポチェが帰って食事していないので、皆が彼を探して、結局、崖の下で彼を探し当てた時、彼が既に死んで、此れは落ちてから傷付けたので死んだ。しかし、彼は座っていて死んだのである。もう一人は施身法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えるラマ僧で、彼が胃癌で死んだ、然し、彼が去る前に昏迷しなくて、 はっきりしていた。これ等の現象は下記にの事が確認できる。もし彼が願力があったら、彼はまた来る。もし彼が来たくないなら、絶対に善道に行けて、少なくとも天道に至る。だから、仏菩薩は我々に絶えずに勧めていて、心が悪念を起きてはいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェも「我々に全ての考えが善念で、如何なる悪が出来ない、如何なる恨みを抱いて、不平する事が出来ない、あったら悪念だ」と常に勧めている。我々のこの世に善の程度に至らないなら、そなたが出家があっても、皈依があっても、仏を学ぶ事があっても、そなたが善道にいける事のではない。死んでしてからリンチェンドルジェ・リンポチェが皆の為にポワ法を修めてくれる考えを持ってはいけない。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェの自身が何時に死ぬ事も知らないわけである。だから、皆は仏を学ぶ事が依存性があったら、自分がこんなに精進する事が要らなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェがまたとても長寿して長くて生きている事と思っていたら、また時間があって自分にゆっくりかかられて、この観念も間違って、此れはそなたも自分が何時に去る事も知らないわけである。

だから、我々は必ず自分に一切の生活で善の境界に入り、自分の一切所謂ニーズ、面子を忘れなければならない。お金を重視するなどこのような事はそなたに悪業を起させる。だから、仏は我々は必ず持戒して、我々は戒を守るのは善を行い。そなたは戒を守らず、自分は小さい間違いを行っても構わないと思えば、益々累積すれば悪である。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に皆の相が変わらず、顔色が変わらないと言われたが、何故だろう。体調が悪い事ではなく、心は相変わらず悪である。心の中に相変わらず悪念を持って、全ては貪瞋痴であり、全ては分別、執着を持っている。だから、自然にそなたは善を行えず、行えるなら、如何なる福報を持っているだろう。福を修めないと、そなたは尚更に深くて殊勝な仏法を学ぶ資格や条件がない。それは後は説明する事は全て我々を助けて、生死を解脱できて、尚更に成仏できる方法である。今そなた達はこのような懈怠な人なら、生死を解脱するわけではないだろう。

何故金剛乗に於いて、とても弟子及び上師の関係を強調するだろう。弟子は上師に対して必ず敬わなければならない事を強調して、ちっとも疑い気持ちを持つ事が出来ない。そなたは疑いを持つと、そなたは始めて悪を行う。それはそなたは疑うと、必ず多くの奇怪な考え方が現れる。この奇怪な考え方は我慢貢高であり、所謂貪瞋痴慢疑である。この五つのものは全て我々を妨げて、仏法を学ぶ最大の敵である。現場にいる皆は全てこの五つの問題を持っている。若しそなたがないなら、必ず発心して、精進に仏法の領域に引き続きに自分の一切悪い行為を修正している。そなた達は毎回上師が罰を与えないと、自分の間違いを理解できない。何故罰を与えるとそなた達は分かっただろう。それはそなた達は相変わらず欠点を持って、毎日自分が今日の間違いを検討しないから。

仏が説かれたが、凡夫は心を起して、念を動くのは全て自分のためである。仏も説かれたが、念を起すことは怖ろしくない。最も怖ろしいのはそなたは自分が悪念を起す事を感じない。此れは最も恐怖で怖ろしい事である。そなたは自分が間違わなく、上師に誤解されると思うと、《仏子三十七頌》の言われた通りにたとえ無実の罪を与えられて、誹謗されるなら、そなたは彼を善知識として見て尊重しなければならない。何故そなた達は行えないだろう。それはそなた達は修めない事が現れる。そなたたちは声聞縁覚を修めても菩薩乗を修めても、必ず確実に行わなければならない。全ての頌の後、一語を加えるが、行えれば、仏子である。行えないと仏子ではない。仏子とは何だろう。つまり、仏の弟子である。そなたは三十七条の中に一か条を行わないと、他人にそなたが仏を学ぶ人であり、仏の弟子であるのを伝える資格がない。

若しそなたはこの三十七項条件を行わないと、必ず試練を禁じえなく、常に他人に言われたが、そなたは一体どんな仏法を学んだだろう。仏を学んだのは一体何処に使った。そなた達は常にある観念を持っている。私はゆっくりに仏を学んでいて、今まだ病気に罹って、事業はまだ順調ではないから、元気になった後、頑張って行う。此れは間違い。そなた達は用心に自分の問題の始末を理解できないと、そなた達は永遠に仏、菩薩と上師を神として拝んでいる。厳しく言うと、このような方法は仏を誹謗する。仏は神ではなく覚者であり、我々六道の煩悩、苦痛の来由を悟って理解した。仏は我々にこの方法を教えた。だから、釈迦牟尼仏は初転法輪した時、始めて《四聖諦法》、《十二因縁法》を説かれて、その後引き続きに三無漏学、戒定慧を説かれ、更に《仏子三十七頌》を説かれた。また引き続きに小乗の《阿含経》から、仏の境界を修めるまでの《妙法蓮華経》を説かれた。此れは全て我々凡夫の心を1種の次第の修行に転化する。そなたは此処から分かるが、釈迦牟尼仏の知恵により、仏の側に全ての弟子は阿羅漢である状況でまた四十九年に説法していた。我々衆生の業はとても重いから、今日仏法の重点、そなた達が出来る事をそなた達に教えて、多くの時間を節約して、全ての経典を見る事を免じた。しかし、そなた達は却って受けなくて、構わないと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは叱ると言っても、我々に引き続きに残させた。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて不共四加行を伝授した時、そなた達は始めて修める。若しそなたは菩提心で修めないと、自然に護法に淘汰された。それは密法に於いて、根本大戒は10個がありから、若し衆生は菩提心を発しないと、法の伝授者として彼に大乗部仏法を説かれない。だから、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲しなくて、説かないと思わないで。如何しても説かないが、それはそなたは聞く資格がなくて、聞く条件を持っていないから。若しそなた達は菩提心を発せず、私利私欲でどんな事でも自分しか考えないなら、そなたは大乗仏法を修められなく、学べなく、聞けない。

何故最近そなた達を厳しく追いかけただろう。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を広める時間を遅れさせたから。例えば、ある四五年に皈依した人はまだ分からなくて、問題が沢山ある、他人は浄土宗を修めて、二年に確実に修めれば、すぐ改めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法の中に用心したのは唯一年しかかからなかった。何故そなたたちは出来ないだろう。そなたたちは仏法を聞くのは福報があって、自分の事を変えられると思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは人を追い払わない。しかし、護法は追い払う。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは常に言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの弟子が必要がない。六祖慧能でも一万以上の弟子があったけど、本当に成就があるのは四十数人だけである。だから、今後追い払われる人は益々増えるから。十数年前、直貢チェツァン法王は台湾で法衣を賜った時、当時十七人が法衣を着た。しかし、今はリンチェンドルジェ・リンポチェは一人しか直貢チェツァン法王の側に残さない。唯リンチェンドルジェ・リンポチェが一人で本当に直貢チェツァン法王の顕密二つ方法しか学ばない。だから、淘汰率は非常に高いと思われる。

ドラブ・ワン・リンポチェは今まで灌頂せず、弟子も取らない。テンジン・ニンマ・リンポチェは完全に在家弟子を取らないが、唯リンチェンドルジェ・リンポチェが唯一人の弟子だけ取った。更に灌頂もしなかった。ユンガ・リンポチェも完全に外の人と会わない。何故この大修行者はこのようにしているだろう。そなた達は必ず彼達は慈悲ではないと言うかも知れない。それは違う。我々の観念により、此処は人を止めないなら、自然に人が止められる場所がある。つまり、このところ、この人は大乗仏法を学ばないと、我々はそなたと繋ぎを持たず、我々は他のところに行って、尚更に苦しい衆生を助ける。たとえば。蓮花生大師はまだ地球にいて、羅剎国で国王になる。羅剎とは何だろう。鬼である。どんな鬼だろう。人食い鬼である。蓮花生大師は羅剎国で国王になり、この羅剎を制御して、彼達が引き続きに悪を作っている事を止めるから。

だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような多くの物語りを話したのはそなたを恐喝した事ではない。それは我々直貢噶舉教派は顕教から次第に修めて、必ず密法である。密法に於いて、ポワ法はかなり修められる法である。しかし、そなた達は現在の習い態度及び方法から見ると、ポワ法を習う事を問わず、六字大明呪でもうまく唱えない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは昔に説かれた仏法テープは三無漏学、戒定慧、三十七頌、八正道などそなた達は全て聞きなさい。我々はこの一生を浪費しないで、勉強のため、仕事のためだけではなく、仏を学ぶ事は尚更に必要である。出世法をうまく学ぶと世間法は障碍がない。そなた達は現在最も気の毒なのは出世法も学ばず、世間法もうまくできず、毎日問題が沢山出てくる。多くの戒律に於いて、いつも我々を提示して、そなた達は一切言行に対して慎重しなければならなく、油断しないで。若しそなたたちは引き続きに油断して、自分はまだ明日があると思うなら、その明日は絶対に光明の明日ではない。仏を学ぶとは絶えずに不断の心、永久の心が必要である。また、一暴十寒(少しだけ努力して、あとは怠けることが多いたとえ。)とは言えない。今はとても頑張っていて、半年に経つと感応がないから、学ばない。また半年に経って他の上師に従うことではない。このような仏を学んでも学べない。そなた達はこの正しい言い方を受けて完全に自分に伝えて、必ず上師の話に従えば、そなたの問題は解決できる。

例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子達にアチ護法の法写真を与えたが、多くの弟子はまだ法写真を持って、リンチェンドルジェ・リンポチェに開光をさせない。上師がそなた達に与えた物は必ずとても重要である。しかし、そなた達は今までまだ持ってこなくて開光しなかった。そなた達の気持ちは何だと分からない。尚更にそなた達に法写真の金を受けない。此処から見るとそなた達は仏菩薩に誠意を持つかどうか分かる。そなた達の心は何だろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは上師から与えられた物を受ければ、宝物のように対応して、髪の毛が一本でもリンチェンドルジェ・リンポチェは宝物としてみた。恩返しとは何だろう。しっかりに仏を学んで、衆生を利益するのは真の恩返しである。そうすれば、そなた達は誰の恩に恩返しするだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェに復讐しただろう。弟子達はリンチェンドルジェ・リンポチェに怒らせるのは復讐である。戒律の中に説かれたが、そなたたちは大法を学ぶなら、必ず常に上師に喜ばせて、つまり上師に常に歓喜させる。そなた達は常に上師に心配させる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が三悪道に堕ちる事を心配する。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの多くの物語りを話して、多くの例を挙げた目的はそなた達に上師に対して敬う事はとても重要である。

《根本毘奈耶経》に仏が説かれた戒律にある。若し仏の弟子として、第一信じない。第二懈怠。第三、悪口。第四考えに恥を知らず。第五悪知識に近づくなど行うと、上師として教えて、責める責任がある。更に上師は五つの事柄を弟子と一緒に行えない。第一、共に語らず。そなたと話を話さない。第二、教授せず、そなたに仏法を教えない。第三、共に受用せず。つまり、上師は供養した物を全て、弟子達は受ける資格がない。上師の全て宝物を含めて、弟子達は一緒に用いれない。第四、共に善事するを許さず。一切善を行う機会をそなたに与えない。第五、同室を許さず。同じ部屋にそなたと一緒にいない。此れは仏の戒律である。そなた達は何を行っただろう。第一信じない。第二懈怠。そなた達はすっと思ったが、仏を学ぶ事はとても楽であり、自分は金があるから聞くために来たから、聞かせないと出来ない。寶吉祥は戒律を主体として行った。そなた達はこの五つの事柄を犯すと、責められるべきだ。だから、共に語らず、教授せず、同室を許さず。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。アチ護法の法写真を開光に持たない弟子達に先に退席させた。

悪知識とはなんだろう?最近ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに訪ねに来て、他の道場にある者は彼に彼は密法を修めることが出来なく、また彼は亡くなった父親と霊と通じて、彼のお父さんはお墓が必要と言った。こんな者は表面的に仏を学び、実は悪の善知識である。仏は説いた一切亡者に対して彼を済度するのは主として、彼の欲望を満足させるのではない。どの経典でも全部載せてあり、仏は我らに忠告した、人が死んだら、火葬するのを主として、お墓は必要がない。そなたはチベットを見てあそこにお墓がなく、それであの者、彼は我らのチベット密法を勉強すれば、チベット、青海にはお墓がないと分かるはず。なぜないだろう?チベットの人は全て仏陀の教導を従って、水葬ではなければ、火葬か天葬をして、骨灰さえもない。この者はリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず彼を追い出す。上師に従って仏を聞かなくて、勝手に他人の言いことを信じて、神通はこのように用いるか?鬼と通じれば神通があると言えるか?そうしたら、占い者も神通があるんだろう!だから、経典には述べた、末法時代には邪師が恆河の砂のようであり、少し勉強出来たら、独り善がりで、終日嘘ばかりで、人と自分に害をする。

我らは以後四加行を伝授し、大手印まで伝える。大手印は我ら噶舉派の不共禅定の方法で、これも仏になる方法で、悟るの方法である。どの直貢噶舉の祈請文の中に、全部われ等の歴代の上師に願って、我らに加持を与えて、我らに大手印の境界を証出来させる。大手印まで修めるには、そなたは上師の教導に対して、一糸一毫の疑いがあれば、そなたは勉強得ることが出来なく、証得することも出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは覚えてあり、ある年の閉関には、直貢チェツァン法王は自らで口訣をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えるとした。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に言った:大手印は仏になる方法で、リンチェンドルジェ・リンポチェはあまり勝手にしていけなく、百字明呪を読んでからはじめて大手印の方法を受けるために来る。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは二十日間の内に、十一万回の百字明呪を読み終わって、直貢チェツァン法王の関房へ、直貢チェツァン法王が口伝する大手印を聴いた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように勉強していた。そなた達は出来たか?十一万回百字明呪、僅かの何時間の寢ることを除いて、ずっと唱えた。なぜ読むか?それはリンチェンドルジェ・リンポチェが大変謙虚で、いつも自分の福報が足りなくて、自分の業がとても重いと思ったのである。そなた達のように、いつも自分の業が重くなくて、福報が大変良くて、よく勉強して賢いと思わないから。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのように仏を学んで、上師に対しての丁寧な心はそなた達のと比べると、そなた達はまたまただ。リンチェンドルジェ・リンポチェは十一万回百字明呪を修めたのは直貢チェツァン法王の要求ではなく、実は、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に四加行を勉強終わった。リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり足りなくて、もっと修めなければならないと思った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て直貢チェツァン法王に大手印を勉強するのが難しいかと伺った。直貢チェツァン法王は仰った:難しくない。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在も難しくないと思った。難しさはなんだろう?そなた達は必ず百パーセント教えに従って行って、一糸一毫の疑いがあってはいけなく、僅かの割引することがない。それは大手印には理部と続部と分けて、理と全て説いた道理で、続とは密法で、そなたと連れて正果を修め得る。1人上師として、彼は理論をそなたに教え出来るが、やはりそなたがご自身にて如実に勉強しなければならない。そなたは勉強しなくて、また聞き終わったら分かるようになって、即ち修め得ると思えば、間違いだ!それは出来ない。チベット仏教の四大教派にはそれぞれ自分の成就する特殊な方法があり、我ら噶舉派は大手印で、ニンマ教派なら大円満である。

どうしてわれ等は大手印を勉強するべきか?それは大手印を勉強するのがわれ等は「止」と「観」を学ぶのを助けた。それより、われ等は通常の生活の中に考えが少し減らせて、われらが往生する前に一切の考えを止めて、仏の境界に入るのに役を立った。だから大手印は我ら直貢の弟子が学ぶべき法門である。しかし大手印を学ぶ前、不共四加行を勉強し終わる必要で、不共四加行が勉強しなければ、そなたに大手印はどう修めるか教えても修め得ない。われ等は仏を学ぶには階段、次第があり、乗り越えることが出来ない。ある者は突然にそなたに彼は感応、通霊があり、誰と通じることが出来ると教えることがあれば、これらの者は全て問題がある。リンチェンドルジェ・リンポチェもよく申された、尊き法王として直貢チェツァン法王この世も幼いより改めて一切の法門をはじめて学ぶ。但し直貢チェツァン法王とわれ等との差別は彼は割合に勉強し早かった。それは彼が過去世に既に学んだので成就も大変速かった。実は、われ等は誰でも過去世全部学んだことがあったのに、なぜこの世には覚えないか?それで仏経にはこれを「隔陰迷」と呼ばれて、一つの世を隔ててそなたは過去全ての物事を忘れた。但し、忘れたら存在しないか?まだ存在するか?どこか?われらの阿頼耶識の中に。この阿頼耶識の中に、この種はどんな状況に萌芽するか?因縁が必要だ。それより、上師がそなた達に仏法を申されるのは、そなたの因縁を作って、そなた達に過去世に仏を学んだあの種を萌芽、成長、開花、結果をさせる。

だからこの過程の中に、一切仏法を説くのは一つの灌漑、肥料を施すに等しくて、そなたこの花をよく咲かせて、果が美しく出る。それより、そなたはこの上師が与える灌漑を受け取らなくて、上師がそなたに一切の仏法の教導を受け取らなければ、そなたの花は綺麗に咲くことが出来るか?そなたの実は良く出来るか?きっと出来ない。そなたは見て1本いい果樹は良く成長して、この農夫はそれを助ける時が大変辛くて苦しいんで、そなたの上師もこのようである。上師と農夫と同じではなく、農夫は果樹が実を出た後、かれはこの美味しい味を味わうことが出来て、ひいては彼は儲けることは出来た。但し、上師は一つ仏を学ぶ種を灌漑する時、彼はこの美味しい味を味わうのを考えなくて、彼は全く一つの観念もなく、彼は何の報いが得るのを思わなかった。それは彼がとても分かって、ちょっと金剛経の中に説いた「無衆生可度」のようで、我らは衆生を済度していると思わないで、実は所謂衆生は全部一体で、区別がなく、この区別はどうやって来たか?そなたの累世の業力より、それで、同席するそなた達は、そなたはどんなに愚かでも、学問があるかどうか問わず、そなたは只灌漑を受け取って、とても精進的に仏法の中に絶えずに自分を薫陶して、そなたは是非仏果を証するチャンスがあった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは只とても簡単に大手印の一つの概念をそなた達に教えた。直貢噶舉の不共四加行はわれ等は五支道と呼ばれて、その中に一番重要の一つは大手印である。ジッテン・サムゴンは嘗て仰った、直貢噶舉の大手印、五支道の大手印は一匹獅子の四つの爪と一つ口の利き歯に等しくて、獅子は仏法の中で勇猛の代表である。われ等は仏を学ぶ者の心が勇猛でなくて、これを畏懼したり、恐れたり心配したりするとそなたは只退いて進まない。だから仏法の中に獅子は仏を学ぶ心が勇猛するべきとの代表である。獅子はまた鋭い歯、鋭いつめを備えれば、この獅子の力はもっと強くなった。それよりこの五支道の喩えは:われ等はこの五つの条件を備えてこの不共四加行を修めてそなたの力は大変強いである。その中に大手印、皈依、懺悔、上師相応法とマンダを捧げるを含んだ。この五つを加えて、われ等は五支道と呼ばれた。大手印はわれ等がこの心の訓練を通じて、われ等に世間に対しての様々な物事が正確な見解が有らせるのを助ける。所謂正確とは八正道の中にすべて説いた正知、正見である。

正知正見とはなんだろうか?われらは世間と仏法と実は一体だと了解べきとの意味である。われ等は仏法の最終の目的がなにかをわれ等に教えるかを了解して、われ等が未来に成仏するには役に立つ。それより、われ等が仏を学ぶ知見は自分のため、運を変わるため、自分に他人と同じではないのをもっとわからせるためと思えば、この考え方は全部間違った。われ等は修行する過程の中に、そなたは一体果位を修め得たか、そなたは一人リンチェンドルジェ・リンポチェか全部重要ではなく。重要するのは何だろう?そなたは八正道の中に仏がわれ等に教えてくれた一切の方法を分かるべきで、われ等は大手印の訓練を通じるとわれ等に日常の生活の中に多くの所謂妄念、間違った見解も減らせる。しかしそなたの根気はどのよかったと問わず、そなたは前どの法門をまなんだか問わず、そなたが大手印を勉強したければ、必ず一人そなたを引導する具徳の上師が必要だ。簡単に言えば、この上師は大手印この領域の中に、彼はすでに方向を了解して、経験を分かって、どこからしたほうが良いか分かっている。それで、1人証果、証道の上師が引き連れるのがなければ、そなたは例え全て一切大手印を解釈する本を見終われてもそなたが了解とは言えない。その故に、禅宗の中に説いた:文字で書かない。と言うのは書く文字がないではなく、禅定の境界は言葉で解釈出来るものではなく、全く自分の悟りで、自分が如実的に修行するを通じて、悟った後そなたの上師に認証されて、はじめてそなたはどの境界までのを分かった。そなたの上師だけ、そなたの境界が正しいかどうか分かる。金剛乗の中になぜ上師がそなたに対してとても重要と説いたか?それはそなた達は只自分の人生経験によって、例え境界が目の前に現れてもそなたは正しいと間違いとの体得することができない。なぜと言うと、われ等はよくわれらの意識を本当の本性と見間違った。われ等は六意識を見間違い状況で、多くのうそばかりを生じて、自分が霊と通じられて、霊と話して、なにを見た、これは全部正しくない。

だから、大手印は一切仏法法門での大切な基礎である。ポワ法を修めようと、那洛六法を修めようと、更にその後すべての境界まで、大手印との基礎は重要な作用を引き起こす。大手印は帝洛巴から伝わり始めたから、厳しく言えばチベット仏教の中では印度から転入された法門が大手印である。何故かと言えば、サキャ教派とゲル教派が学んだのはインドから転入したものではないからである。大手印は代々引き継がれ、伝承を途絶えたことない。直貢噶舉の例を取り上げてみれば、ジッテン・サムゴンから直貢チェツァン法王までの三十七代では伝承が途絶えたことないことにより、祖師である ジッテン・サムゴンは直貢噶舉教派の上師は加持力が特別に強いと言ったことある。加持力が強い理由は、伝承が途絶えたことないからである。

伝承が途切れたことないから加持力がより強い理由は?中には代々諸仏菩薩、過去、現在、未来佛のすべての願力、そして一切上師の願力も受け継がれているからである。途切れると言えば、この教派の中で揉め事や分岐などの変化が起きることは、伝承が途切れたこと同じ意味である。多くの修行者が大手印との法門を修め、一生内で菩提を悟り即身成仏できた。だから、昔ある大修行者が次のように言った:大手印は簡単な名詞ではなく、修行者を悟りへ導く法門であり、悟ると大手印である。悟りへの道は実修するしかなく、大手印を聞くだけでは悟らないから、直貢噶舉の教法を学んでから、教法に従い修めれば、直貢噶舉の上師からのご加持が得られ、早く悟るようになる。

直貢噶舉この教派に帰依した人は、簡単に直貢噶舉人と名乗ればいいわけではなく、自分が直貢噶舉の弟子と思うと、法に従い修行すべきである。あなたが私の広東弁の中国語が分からないであろうが、年配であろうが、この門下に帰依したからこそ、修行の道では自分を諦められない責任がある。大手印には根大手印、道大手印そして四瑜伽次第果の大手印と分かれる。 リンチェンドルジェ・リンポチェが輪廻を解脱するには専一の禅定を悟ることが必要であり、これこそ大手印の一つ目の瑜伽である。

大手印では専一瑜伽、離戯瑜伽、一昧瑜伽と無修瑜伽があり、また各果には三次第に分かれているから、無修瑜伽まで悟るには12の次第を経過すべきである。ある人達は、一生の時間をかけても専一瑜伽まで修められないから、12の次第なら早い!一年に一つの次第では12年さえあれば修得できるなんて思わないで下さい。ドラブ・ワン・リンポチェが法会で公の場で リンチェンドルジェ・リンポチェが希少で大機根の修行者だと褒めたのは、それなりの道理がある。 リンチェンドルジェ・リンポチェの果位は皆に言う必要がないが、直貢チェツァン法王や大修行者が知っていればいい。大修行者が公の場で言ったことは、絶対に妄言ではないのである。

大根気とは、早く仏になる資格のある行者である。なんであなたたちに向かって言わないのか? リンチェンドルジェ・リンポチェは生まれつきの大機根ではなく、このことに対して非常に心を使っているからである。仏を学ぶやら、仕事をするやら、家庭での役割やら、何もかもに対して心を使うべきである。心を使うことはなんでしょう?真心を使うことである。真心とは?真心は《三十七道品》で書かれたように、自我の思想がなく、すべては人のためにという心こそ、心を使うこと、真心である。 リンチェンドルジェ・リンポチェが仏門に帰依した日から、いつか自分が法座に座るようになることを一度も考えたことないように、自分では境界を想定しないし、自分がどれほどよく修めているや、よくできているとも考えていない。唯一、リンチェンドルジェ・リンポチェが知っていることは、心を使って仏を学び、名利も人の目線も気にしないことである。

現在、我々が家庭内や社会では、衝突や摩擦が絶えず発生しているのは、我々が心を使わないからである。心を使わないで、目、耳、鼻、舌、身、意の六根で進むと、自然に貪、嗔、痴、慢、疑が付いてくる。心を使うことや意識を使うことは、文字でははっきりと説明するのが難しいが、試して実践してみるといいと思う。どんなことをしていても、それによる結果が自分に利益があるか害があるかと考えず、商売でもどんな肩書きでも、自分がこれをしたら相手に利益をもたらせるかどうかを思えばいい。利益は相手を儲からせるとは限らないし、あなたが損になって相手が儲けするのでもなく、相手をあなたと商売するから喜ぶ心を持たせること、たとえあなたに儲けられても喜ぶことこそ、心を使うことである。だから、アルバイトでも、経営者でも、夫、妻や子供をする人でも、真心を使うべきである。もっと簡単に言えば、みんなが分かるような言葉でいうと、誠実な心を使うのである。誠実とは?自分の考え方がないこそ誠実な心である。もし、自分の利益が人への助けより前に出ると、誠実な心と言えるか?これなら違う。

大手印はこの心をトレーンしてくれている。ここ数年、 リンチェンドルジェ・リンポチェが仏の教えを言う時は大手印も含めて言うが、ただこの名詞を言い出す時間になってなかったため、この名詞を紹介しなかったのである。ここにいる皆は、私の言うことを分かるかどうかに関係なく、絶対に疑うことや、分からないと思って私に関係ないと思わないで欲しい。経典で言う「一立耳根,永為道種」とは?あなたが心を使ってデタラメに聞かない限り、聞き終わったらこの種が中に植わった。分かるかどうかは大事ではないが、最善の注意を払って聞けば、成仏の種が永遠に心に植えてあり、機会を待つだけである。 リンチェンドルジェ・リンポチェが以前もよく言うように、直貢チェツァン法王がチベット語で仏法を開示される時に リンチェンドルジェ・リンポチェも聞いて分からないが、依然として座って動こうとしない。心を使って聞けば、因縁時間が足りたら、知恵が開くようになり、種も発芽し実るようになる。今、あなたたちにいちばん大きな癖は、 リンチェンドルジェ・リンポチェが言うことは私に関係ないだろうと思うことである。聞こえないやら、分からないやら、今日聞きに来れば利益がもらえるなどの考え方はあってはいけない。年齢に関係なく、最善の注意を払って聞くべきである。なぜ最善の注意を払って聞いてもらうか?なぜ居眠りをしてはいけないか?なぜ背筋を伸ばして聞いてもらうのか?それは威儀を犯すからである。威儀とは?仏を学ぶにはそれなり有り様があり、有り様がないように仏を学ぶなら、威儀を冒すと福報が無くなり、いったん福報が無くなったら何もかも無くなるのである。あなたたちに厳しくするのは、 リンチェンドルジェ・リンポチェのためではなく、あなたたちのためである。

悟りを開くことを理解するには、いわゆる正統の伝承と実修が必要である。正確な修行が無ければ、悟りを開くことが不可能である。正確な修行とは?一切正確ではない行為を改めることである。一切の法門は、一切正確ではない行為を改めるように助けてくれるのである。相応するまで修めたことこそ修行なんて、仏法とは関係ない!タンキー(台湾語:乩童、台湾の道教では霊媒師のように、神の意志を人間に伝える役割を果たす人)でさえ相応する。外で密法を学ぶと名乗る多くの人はある間違いを犯し、神通があるように修めると密法まで学んだというのは間違いである。神通が福産品に過ぎず、神通なら、カトリック教、キリスト教、道教、イスラム教にもあるから、正統的伝承も正確に修行するのも大事である。どうやって正確に修行ができるか?善知識に多く近づくこと、即ちあなたの上師に近づくことである。上師の役割は、あなたに仏法を教えるほか、あなたを監督し監視し、ちょっと逸れたら即刻正すのを果たすことである。だから、チベット仏教を学ぶ人は、チベット仏教が神通を学ぶ宗教ではないと覚えて欲しい。

ある年、リンチェンドルジェ・リンポチェが香港へ直貢チェツァン法王を台湾に迎える時には、直貢チェツァン法王に台湾に来られた時、公の場で密宗には神通がないことを開示するように要請した。なぜ直貢チェツァン法王に公の場で言っていただくかと言えば、もし法を学ぶには神通を学ぶべきだったら、経典では邪見となる。何回も言うように、神通第一の目犍連でも果報を避けられないから、まして私たち!直貢チェツァン法王が リンチェンドルジェ・リンポチェの意見を受け、台湾に来られた時に、公の場で密法には神通がないと開示された。ここにいる諸君がまだチベット仏教は神通を講じると思ったら間違いである。神通があるのは正常であり、猫にでも犬にでも神通があり、猫や犬は地震が予知でき逃げるようにする。それに反し、人間にはできない。鳥にも神通があり、台風が来る時、隠して飛ばない。アリにも神通があり、台風が来る前に隠しどこにもアリが見当たらないから、神通があるか?人間なら知らないでおり、衛星などで判断して初めて分かるが、衛星判断で間違いだらけの時さえある。

だから、神通は仏法の正確修行とは関係なく、もしある人が神通を見せびらかし密法を学ぶと名乗るなら、この人は邪師に決まっている。なぜ リンチェンドルジェ・リンポチェにお会いしに来た人に「ご用は何でしょう?」 リンチェンドルジェ・リンポチェと聞くか?どうして リンチェンドルジェ・リンポチェは私の用件が分からないの?とおかしげに思われるが、用件が分からないのではなく、仏法は縁起を重んじるから、口をあけないと答えられないし、回答をあげないが、知らないことを表していない。もし リンチェンドルジェ・リンポチェに分からなかったら、これだけ多くの弟子がいるわけではない。いくら頭がよくても、すべての経典を研究したことあるかどうか関わらず、正統的な伝承が無ければ、そして修行の方法を如実に分からなければ、なんの成就も達成できないから、これが非常に大事な観念である。帰依したから直貢噶舉の正統的な伝承が得られたわけではなく、帰依後、誠実に上師に従って仏法を学び、上師が絶えずその上師からの伝承が教えてくれるこそ正統的な伝承であること。

簡単に言えば、金剛乗を修めて貰えるのは伝承が要らなければならない、だから、現在、台湾に多くの偽の密宗がある。彼が「活仏」の在世と称して、彼に「何方は彼の上師でしょうか」と尋ねたら、彼は「いない」と回答し、彼は生まれるのでしょうか?此れは全て問題がある。此れは経典にはっきり記載されて、釈迦牟尼仏から弥勒菩薩が再度来る前の間には、すべての一切の仏法を修行する者が必ず上師がいる。だから、顕教えあれば、密教であれば、彼は自分の先生を言えないなら必ず問題があり、少なくとも一つの問題があり、つまり「貢高我慢」である。此れは、彼は先生が自分に教えてから先生による優れていて、自分が先生により素晴らしいので、彼を言う必要がないわけである。

釈迦牟尼仏は「我が仏法を説いた事がない」を諭した事がある。何故このように説くのでしょうか?二つの道理がある。一つ、釈迦牟尼仏は真に仏法を説いた事がない、此れは全ての仏法が因縁により生じさせて、そなた達は全て仏に成ったら、釈迦牟尼仏が説く必要がない。此れはそなた達は仏に成る事がないので、そなた達は仏に求めて、仏が説いて始めて、此れは「縁起性空」で、此れは空性という事だ。二つ、此れは仏法は釈迦牟尼仏から発明ではないし、過去世の毎代の古仏が自身の修行方式を伝承してくれるだけである。だから、釈迦牟尼仏は「我が仏を説いた事がない」を説くわけである。この意味は正統な伝承とはこの上師が釈迦牟尼仏が如何に諭して、彼の上師が如何に諭す事を絶えずに説いて、が、自身が如何に諭すことを少なく言う。だから、ある者は自身がとても素晴らしさと思っていて、自身が分かると思って、しかし、彼の上師を忘れるなら、彼は教派で皈依があっても、学んだ事があっても、彼が正統な伝承を持っていない。上師を忘れる者で、感恩せず者で、感恩しない者が完備している人のでしょうか?そうではない。

だから正統的な伝承は彼が教派に対する忠誠が従来に変わらない、直貢チェツァン法王を説くのように、リンチェンドルジェ・リンポチェは教派に対する忠誠心が変わらないし、従来に変わらないのである。直貢チェツァン法王は「リンチェンドルジェ・リンポチェは上師に対する恭敬で、上師に対する忠誠で、チベット人でも出来ないとは限らない」を公的に説いた事もある。だから、今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは学んだ事が幸いではなくて、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが大功徳主なので貰える事ではなくて、仏法に従って修行し、正統な伝承の加持をもらえるわけである。そなた達が貰えないのはそなた達が上師と伝承に対する依然として懐疑があるわけである。依然として守りを求める心構えにより仏法を聞いて来て、そなたが正統な伝承を得ない。何故毎回そなた達に道場を彼方此方に行ってはいけないと事を勧めるのでしょうか・此れはリンチェンドルジェ・リンポチェがよくて、他人が良くないではない、此れは正統な伝承を得るわけである。そなたは必ずそなたが悟る前に、ある具徳の上師に従う事をずっと要っている。もしそなたは彼方此方に行ったら、そなたが正統な伝承の加持を貰えない。例え今日は同一の教派をとしても、今日私の所に来て、明日他人の所に行って、依然として正統な加持を貰えない。此れは各々の上師も違っているわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェの根本上師が直貢チェツァン法王のように、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王の全ての伝承の加持力を得る。他のリンポチェの上師は直貢チェツァン法王ではなくて、他のリンポチェであるかもしれない、そなたは彼のところに行ったら、そちらの正統な伝承を得る。しかし、そなたは彼方此方に行ったら、両方の上師の目をはっきり見えない、かっきり見えないなら貰えない。

だから多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに「私があちらを知るので気まずいので、帰ります」を常に尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを妨げるのでしょうか。そのようにしない。此れはそなた達は了解しなくて、そなた達は仏法を人情になって、相手が連絡が来たら行かないと気まずいと思っている。我々はどのような状況に行けるのでしょうか?此れはある目的で、彼達の為に募金してくれる。我々の寶吉祥は大法会を行うのように、他人の為に募金し、自分の為ではない、それでは、此れが行けて、此れはそなた達が善根を植えるわけである。しかし、普通他の道場にて法会を行って、いつも大功徳主或は小功徳主が点灯し、多くの事が裏にある。リンチェンドルジェ・リンポチェのところで、そなたがお金持ちかどうかを関わらず、そなたに大事なお客さんのように対応する。この意味はそなた達が平等で此処に座れて、却って皈依せず者は前に座っている。だから、正統な伝承とは、この上師がこの伝承から彼への加持と重視を得るかどうか、だから、後に言う事があって、我々は実際な修行をしなければならない、或は如何なる成就を遣り遂げない。

「大手印」とは何でしょうか?嘗て一部の邪師が言ったことがある。つまりとても大きい手の印で打ち落とす印で、でたらめを言った。もし大手印は手を言ったら、それでは、あれらの人の手が比較的に大きくて、彼が悟る出来である。実は、大手印の内の意味はとても深くて広くて、しかし、我々がより簡単で文字にて皆に説明し、字面にみると、大手印が全ての衆生を含めて、貧賎富貴、男女老少に関わらず、全ての衆生が本性を悟る潜能があって、此れは広範に普遍である。だから、先リンチェンドルジェ・リンポチェが諭して、そなたは何歳に関わらず、そなたが聞いて分かるかどうか、ただ一心に聞いたら、ある日に悟る事が出来で、道理は何でしょうか?今日そなたに説明し、此れは如何なる衆生が彼の本性が平等で、彼が仏法を悟って、仏果を悟る潜能を具えて、だから「大」とは一切な有情衆を含めて、此れは我々の人類だけではなくて、六道の一切の衆生も含める。何故我々寶吉祥は貧賎富貴を区別しないのでしょうか・そなたが誰か?どんな職位、財産があるかどうか、お金があるかどうか、何歳に関わらず、ただそなたが一心に仏を学んで、解脱を固くて決めたら、上師とする者が絶対にそなたに教えて、そなたがお金がないので駆除する事しないし、そなたが特別に恭敬なので多くを伝える事をしない、全て平等に見て、だから平等な心を仏法を発揚しに行く。

この意味は、今日、我々は「自分がお年寄りになるので修めない。リンチェンドルジェ・リンポチェが説く事が聞き分からない。現在病気に罹っているので仕方が無い。家に色々な事柄があるので仕方が無い。貧乏しすぎので仕方がない。お金を多く持つので仕方が無い。」という錯覚を持ってはいけない。これ等はそなたの錯誤の見解である。そなた達はすべての衆生が仏になる条件を持っている事が分からない、だから、我々が常に仏法平等と言われて、平等とは何か?そなたの業力により平等を言う事ではなくて、我々の本質によるのである。我々の本質が同じで、そなたの根器が良いであれ悪いであれ、上、中、下根器に関わらず、我々の本質が同じである。だから、我々は常に「信じてる」を説いて、何を信じているのでしょうか?自分はある日に能力があって潜能を開発して仏に成って衆生に利益する事が出来るのを信じている。

仏法と外道の最も大きな差異のはここにある。外道はそなたが資格が無いといって、そなたは私と対等にする能力がない。そなたは永遠に我が奴隷である。仏法は「そなたの学ぶ過程には、勿論、そなたが上師、仏菩薩に恭しくなければならない、しかし、此れはそなたが仏にならない事ではなくて、そなたが永遠に上師と仏菩薩の学生ではない事を現している」と諭している。地蔵菩薩の願力は何でしょうか?「地獄が空にならなければ成仏せず」のである。だから、多くの弟子、多くの学生は仏になるけれども、地蔵菩薩は同じように菩薩である。それでは、地蔵菩薩は菩薩のでしょうか?違う。地蔵菩薩は仏になった。

だから、大手印の「大」は我々に極めて明らかで聞かせて、そなたは今日どんな身元に関わらず、そなたは如何なる理由が自分が修めない事がない、如何なる理由が自分が学ばない事がない。此れは我々の本質が同じで、そなたが学ばないで、分からなくて、そなたが学びたくない、問題がそなたの本質ではない、却って我々の累世の悪癖である。何の癖のでしょうか?だらけている。だらけているのは我々に三悪道に落ち込ませて、だから、上師の効用がどこでしょうか?そなたを督促するだろう!そなたに怠けさせないだろう。そなたの本質、本性が早く現れて、此れは上師の効用である。

手印は法門を象徴する。この意味は、大手印を修めるなら、彼が他の法門を修める必要がない。これは、この法門が一切な法門の要領が既に結びつけて、円満的な一切を含める。大手印は偶にそれぞれの上師の使い方が違っているので、「大無上」或いは「大中観」も称する。しかし、本質が同じである。究竟の意味により、円満な法門を代表している。我々は8万4千個の法門がある。これは仏が説いた我々の一生を尽くしても、すべての法門を学ぶ事が無理である。だから、我々が「一門深入」を常に説く。多くの人々は浄土宗を修めると「一門深入」だと思っている。禅宗を修めると「一門深入」だと思っている。華厳を修めると「一門深入」だと思っている。そうではない。これらが「一門深入」ではない。浄土宗の中に禅を含めて、懺悔を含めて、祈りを含めるわけで、浄土が一門だと思っているのでしょうか?既に多くの法門を含めている。禅宗の中に懺悔して礼拝する法門も含めている。華厳宗はもっと複雑になる。天台宗はよりに複雑になる。だから、我々の台湾の仏教界に流行している「一門深入」のは衆生に間違わせて、多くの人々は阿弥陀仏を唱えるなら「一門深入」だと思っていて、観音菩薩を唱えるなら「一門深入」だと思っている。現在、多くの浄土宗を広める法師も「そなた達が仏号を唱えるなら、座禅をする事が出来なくて、座禅をすれば雑を貪っている」と話した。違うだろう。所謂禅は定の意味で、仏号を定にて唱えないなら、一心に乱れずにどのように至るのでしょうか?だから、多くの法師は実際に修めて証する事を経ないで随意に話した。

所謂「一門深入」とはある法門をすべての仏法の要領をこれを濃縮する事が出来で、我々に時間を節約させて、それでは、我々がこの法門にいて、一生にこの方式により従っている。簡単に言えば、「一門深入」とはこの方式により一切の方法を含めて、然し、この中で濃縮しなければならない。そなたが大手印を修めると他の仏法が要らないのではない!この意味はそなたが苦労して修める事が要らない。例えば浄土宗を修める者は般若三昧を修めて、90日を寝ないで、座らないで、ずっと歩いていて真言を唱えて、大手印が修めるとこれを要らない。「不倒丹」を修めて、つまり、夜に寝ない者である。大手印を修めてからこれを修行する事が要らない。一部のリンポチェはは、彼がチベットで冬に寝る時に布団が要らないと言って、が、大手印を修める事がこれが要らない。布団が要らない事は修行する事だろう?身体がいいなら布団が要らないだろう。これは修行と関係ない、彼は布団が要らないを言ったら、彼の修行が良いを代表する事ではない。だから、多くの人々は衆生に間違わせて、一部の人々はこれを聞いてから、彼が上手く修行して、何か工夫を修めるので、布団が要らないと思っている。一部の人々は生まれから熱さを恐れて布団が要らない。これはすべて 重要ではないだろう。

太手印は一切仏法の精要を含めるから、我々はこの法門により開悟できて、多くの必要がない動きや修める事をする必要がない、我々の時間も浪費しない。簡単に言うと、一門深入とはある方法に集中する事である。大手印は法門に円満である。円満とは何だろう。つまり、欠陥を起さない。例えば、先程リンチェンドルジェ・リンポチェは説かれたが、般若三昧の修法は多くの人は修められない。それは90日に眠らず、座れないとは基本的には多くの人は出来ないが、この法は円満ではない。意味はそなたは大手印を修めれば、誰でも修める資格が有り、誰でもこの法門を修める機会がある。大手印も上師の使い方によって違うから、大中観と呼ばれる。使い方とは何だろう。彼は衆生を済度する時、修める時、修法する時を含める。

中観は仏法に於いてとても重要な論点である。龍樹菩薩が生まれた前、釈迦牟尼仏は涅槃した後、仏法はとても大きい衝突が現れた。ある一部分の人は一切の修行は有為法から始める。だから我々は「有部」と言われる。他の一部分は一切世間の事は全て仮相であり、偽物である。だから「空部」と言われる。釈迦牟尼仏は涅槃してから、龍樹菩薩が生まれたまで数百年の間に仏法はとても大きい争いが起こった。「有部」は正しいか「空部」は正しいか。龍樹菩薩が現れるまでに基本的には論理に於いて、結論を論議している。龍樹菩薩の前世は維摩詰居士であり、維摩詰居士は在世した時、既に中観の意義を説かれた。中観の最大の重点は何処だろう。我々は空へ偏らず、有へ偏らず、有を執着できず、空も執着できない。だから、我々は非空非有と言われる。我々は使った鈴及びきねもこの意味である。若しそなたは有ると思うと、それも邪見に陥る。若しそなたは一切が空だと思えば、それも邪見に陥る。《心経》に多くの理論を説かれた、所謂色は即ち空であり、空は即ち色であるとは中観の理論である。リンチェンドルジェ・リンポチェも嘗て直貢チェツァン法王に教示を求めたが、中観論は実修であるかどうか。直貢チェツァン法王は違うと言った。中観論は理論であるが、この理論を理解すれば、また実修しなければならない。実修とは何だろう。閉関修行する事だ。現在台湾に於いて、仏を学ぶ人は欠点を犯し、理論を聞く事が好きである。菩提道広論を含める。論は理論である。理論は実修であるかどうか。それは違う。中観論は実修であるかどうか。違う。真にそなたに仏が説かれた一切仏法の意義を体験されるのは実修しなければならない。実修は次第に仏法を学んで、更に閉関修行を通して、そなたに悟るまで証する事が出来る。若し、この段階を経歴しないと、いくら自分が密法を学んでも、全て問題がある。

故に論は我々に理論の基礎を与えて、我々に少し仏法の意義を理解させる。しかし、本当に仏法の意義を体験できるのは真に確実に大手印の実修しなければならない。必ず教えに従って奉じる。つまり、上師が教えた方法は疑わなく、確実にそなたの生活の中に運用する。自分の欠点は全て一歩一歩に減少されて、一歩一歩に捨てるなら、大手印の中から人生の本当の意義、世間の正体を理解できる。そうしないと、そなた達は勝手に仏を学んで、勝手に理論を沢山言った。だから、そなた達はいつまでも探していて、この上師を探して、あの上師を探した。ある大成就者に会ってそなたを加持して、開悟させる事を望んだ。間違いだ。何故大成就者は我々に加持を与えるだろう。我々にもっと衆生を利益できる事を望んで、我々に何を与える事ではない。

大手印の解釈とは字面でとても簡単にそなた達に理解できる意義を解釈した。しかし、そなた達に本当に理解させるのはとても難しい。何故だろう。我々は常に「義に従って、不了義を従わない」と言った。意味は我々は仏を学んで、本当の意義を理解しなければならない。文字だけ解釈できない。若し今日そなたに本当に仏の意義を理解させるなら、単純に文字だけ解釈できない。若し今日そなたに本当に仏の意義を理解させるように説明すれば、不了義を言った。それは文字で仏の境界を解釈できない。だから、仏法を広める人は唯基本の概念をそなたに教えて、如何なる自分に理解させるだろう。実修は最上の法門であり、近道がない。仏法は常に説かれたが、私は腹いっぱいになった。それはそなたは腹いっぱいになった事ではない。私の前にご飯が一碗ある。そなたの前にご飯が一碗ある。私は食べて、腹いっぱいになったが、そなたの前のご飯、そなたは食べないと如何なる腹一杯になるわけではないだろう。

修行とは我々は上師及び仏が説かれた方法を聞いた後、必ず行って、加減でも出来ない。うまく出来るかどうかを心配する必要がない。そなた達は現在最大の問題は私はうまく出来るかどうか。仏法に於いて、好いと悪いの定義がない。そなた達は仏を学ぶ事はいいと思って、うまく学ばないと心配した。それはどんな心だろう。執着、分別心である。だから、そなたは上師が教えた方法に従って、段取りをふんで事を進め、不断に行っていると必ず機会があって、自分に自分自身が変わるかどうか感じる。他人に言われる必要がなく、自分が分かる。現在そなたたちはまだ分かっていない。それは第一そなた達はまだ疑っている。何を疑っているだろう。私は行えるかどうか。こうすれば、とても苦労ではないか。いつまで行っているだろう。この方法は正しいかどうか。問題が沢山あって、疑問も沢山あった。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに法を伝授した時、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの法は何のために使うかを一切問わなかった。直貢チェツァン法王は法を伝授して、簡単な言葉を話した後、そなたは閉関修行する。このようなやり方である。リンチェンドルジェ・リンポチェのような長く説明する事ではない。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関修行して、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに会ったのは長いなら一時間である。他には一人で閉関修行している。そなたはうまく出来るかどうかは自分しか頼らない。更にリンチェンドルジェ・リンポチェは上師が説かれたどんな方法でも疑わなかったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは修められる。疑いを持つのは必ず上師を疑うとは言えないが、そなたは自分が出来るかどうかを疑い、この事すればいいだろうかを疑い、疑惑が沢山ある。半年に唱えて何も感じないと、他の法を学んだほうがいいかと考える。尚更に半年に唱えて、何も感じないなら、学ばない。他の事を学んだほうがいい。例えば、この日曜日に有る人に仏法を聞かないのようだ。授業料を払って潜在エネルギーを開発するため。本当の潜在エネルギーは我々は全て持って、授業料を払って開発する必要がない。自分のために修めればいい。

大手印は本当の意義について、円満の法門を代表する。円満とは何だろう。福と知恵は両方とも具える。だから、我々は仏が両足尊と言われる。ある人は解釈したが、両足はとても尊きだから、我々は仏の足を捧げる。先日ある有名な寺は学生が夏休みに受験したとき、道場に大きい足を二つ用意して、学生に足を捧げると試験はうまく出来る。此れは迷信である。我々は両足尊とは仏の福報及び知恵はとても十分であり、円満であり、とても尊きという意味である。仏の両足を捧げれば、両足尊とは言えない。だから、このような邪師は本当に怖ろしい。昔魔王は釈迦牟尼仏に話したが、魔王は仏が円寂された後、魔は子孫を指示して、仏の弟子になり、仏法を破壊する。だから仏経に説かれたが、末法時代に仏法を破壊するのは沙門だ。沙門とは何だろう。仏法を説く人である。そなた達はよく見て、現在はこの現象が現れる。出家相は現れて、他人にこのような方法をすると言った。道場に道教の符呪も書かれた。そうすれば、やはり道教を学べばいい。人を騙さない。だから、衆生はいい縁が無いと、邪師に従いやすい。何故邪師に従っただろう。それは過去世仏を学んだ過程に邪見があって、過去世に上師に疑ったから、今世に邪師に従う。

大手印は根、道、果が三つの部分を分けた。根大手印とは仏性を説いた。仏性は全ての衆生の中に隠れた覚悟本性である。この覚悟本性は元々が会って、汚染せず、純粋で清浄である。だから、何故我々は《心経》は経の王様と言われただろう。此れは心を説かれたから。「真如」ある者は仏性を呼ばれた。この物、この本質は全ての有情衆生が持っている。蟻でもあって、鬼でもあって、天道でもあって我々が全ての人を持っている。この物は如何なる来ただろう。例えば広欽老和尚はなくなる前に「無来無去」と説かれた。無来無去とは私は死がなく、生きがなくという事ではない。多くの人は誤解してこのように解釈した。それはこの本性は「元々来た事がなく、去ることでもない。我々の本性は仏経の解釈に従って、我々の本性は虚空を広めた。現在我々は見た所謂地球、所謂惑星は我々の神識、意識から起こった。我々の本性、我々の本質は元々来去がなくて、引き続きに虚空の中にいる。

無始に関して、ある人は始めがないと解釈したが、仏経に於いて、「無」という字を多く用いた。多くの人はないと解釈した。「無」とは濃縮に簡単に説明すれば、縁起である。縁起とはどんな状況だろう。つまり、性空である。どんな事は起こって、消滅されでも、その本質、自性は固定ではなく、変化である。無始以来とは因縁からこの事を起して、始めがないとは言えない。若し始めがないと必ず終わるだろう。しかし、必ず終わるがないかた、無始は終わらないはずだ。

仏法が説いた生滅とは一体で二ではなく。生滅はわれらの分別法で、それで、われ等は始めなければ終わりがない。しかし、終わりがないというのは正しくない。われ等は多くの事情の終わりが見たので、「無」この字はわれ等はないと解釈することができない。それより前が説いた:文字で仏法を解釈すれば、三世の仏は抗議する。仏が全て説いた仏法はそなたにどのようにそれの文字を解釈するのを教えるのではなく。だからそなた達は仏経を読み分からない、この字がとても深奥のではなく、それは古文のためでもない。仏が説いた仏法は仕様がない時言葉で解釈するので、字の中にとても深くて広い意味をする。、どうその深さ、広さを体得するか?すなわち1人上師に従って、如実に修行するのである。だから<心経>の中に説いた全て一切の境界は心の境界のである。まるでわれ等にわれらと諸仏菩薩と本来が一体と教えた。われ等は諸仏菩薩との差別はどこにあるんだろう?それはわれ等はまだ迷って、諸仏菩薩は悟った。諸仏菩薩は今日あれらの必要がないものを全部捨てて、われらのもともとの顔に回復したから。

われらの心にはまだ多くのごみがあるので、そなたが自分の本当な顔を見るわけがない。われ等はチベット仏教の中に五方仏を修めるべきだ。五方仏は五智を代表して、われ等は貪嗔痴慢疑から変わってきた知恵と現れた。その中にの一つは大圓鏡智で、大圓鏡智はわれ等に教えた。われらの心は鏡のように、われらの心は本来一つ反射作用である。そなたは鏡をみて、そなたは鏡の前に立ったときまだ映像があり、そなたが出たらまだあるか?われらの心はもともとこの鏡のようが、しかしなぜわれ等はあると思ったか、そなたが執着するから。そなたはこの鏡のように、只この現象を反射して、ここにあそこがないと反射するとないである。その故に金剛乗の中に述べた:全て諸仏菩薩は四相を破る必要で、仏菩薩は必ず大圓鏡智まで修めえなければ成らないから。例え仏菩薩は大圓鏡智を修めえなければ、諸仏菩薩は法を広ける時執着分別が生まれた。

今日話したものはとても深かった。多くの者はリンチェンドルジェ・リンポチェに一つの事を伺った:私のこのような考え方は因果があるか?正しいか間違ったか?実は正しいと間違いともわれらの意識の作用で、そなた達は正しいと思ったのはそなた達に対して有利的であれば正しいと思って、間違いとは罰されるのを恐れに、そなたに対して不利であれば間違いである。仏の境界によって、これも因縁で、そなたは正しいか間違いと言ったのも因縁法で、仏法と関係ない。例えそなたは一切物事を正しいと間違いと区別すれば、そなたは所謂有為法に落ちた。

仏を学ぶには一番重要な2点:因縁法と因果法である。われ等は因果を深く信じるべきで、一切物事は空性が現れて、只因果は空きにならない。なぜ因果は空きにならないか?果が円熟した時、それはまた因になって、始めてからまた果がある。例えば、今日リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学び、仏を学ぶのは因で、果は也成仏で、成仏がした後、リンチェンドルジェ・リンポチェのことではないか?そうではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは成仏した後まだ済度し続いて、この新しい因はまだ始めた。済度し始めた後、もう一つ果がまた現れた。なぜ仏がいつもわれ等は因果を深く信じると強調したか?そなたの一語と一つの行動さえ、反射作用が全部現れる。なぜ仏はわれ等は純善まですべきと勧めたか?出来た純善は反射した結果は善で、少なくともそなた達は三悪道に落ちる事が出来ない。

何故そなたたちに上師、仏菩薩を敬う事を勧めただろう。敬う事は我々に対して空であり、我々が必要ではない。しかし、何故そなたにさせただろう。それは我々の心は情欲、累世の習慣に制御されてたから。そなた達は常に自分をコントロールする事はとても難しいと感じたが、問題は何処だろう。仏経には「敵を父とみなしました。」とある。目、耳、鼻、舌、身、意という六つの感じは自分の主人公だと思った。この六つの根は如何なる作用を起しただろう。我々はこの六つの根で外に一切の境界を接触した後反射を起した。所謂神経の作用を起した。我々はそれは自分の本当の感覚と思った。我々は本当の感覚を認めた後、物事は離れず捨てられないから、この賊は自分の父として引き続きに従っているから、業を作った。悪業善業を起して引き続きに輪廻の中にいる。だから、仏は我々に教えて、この六つ物は仮であり、存在しないとは言えないが、相から見ると存在している。目で見て、耳で聞いた事は存在しない人は誰だろう。その体は仮だけど、変動して固定ではない。つまり、今日我々は目で物を見て、各一秒で受けたメッセージも違った。そうするとそなたは始めて受けたメッセージは固定だろういか。最後のメッセージは固定だろうか。そうではなく、変動しているから。つまり、今日耳で聞いた事、我々の皮膚で感じた事、各一秒に起こった念を含めて、全て変動している。所謂仏の意味は我々の六つの根-目、耳、鼻、舌、身、意は接触した全ては変動している。だから、我々の心、本当の本性は不注意すれば、連れられて動いた。だから、我々は何の仏を学んだだろう。我々はこの六つの根で仏を学んだか、誠な心で仏を学んだかをはっきりに見なければならない。だからそなた達はある欠点を起した。ある者は真言を唱える時ふらふらしていて、ある者は自分が何を見たり聞いたりしたと思った。此れは誠な心を使わず、自分の意識で唱えて、自分の意識で見るから。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェの開示はそなたから見ると、とても難しい事である。それは我々は生々世々にこの意識で日々を過ごす事を慣れるから。突然に我々の誠な心で使うなら、そなたは却って慣れない。だから、大手印の作用は我々に能力があって、そなた本心で物事をするか、そなたの意識でするかを判断させる。だから、習いや訓練を通して出来るだろう。我々はできる条件がないと言えないが、我々は累世の習性、累世の習慣、生々世々に連れた習慣は我々に不注意して簡単に意識に陥りやすい。だから、唯識学とはこの事を説かれた。しかし、唯識に於いて、説かれた事は余り鋭くてくどいから、我々の現代人に向いていない。だから、唯識学、唯識論を学ぶのは実修ではない。

仏法の中に多くの論はとても重要であり、それは理論の基礎だから。そなたはそれをよく知らないから、学べない。 しかし、我々は自分の生活方式をよく分からなければならない。在家者として、多くの時間にかかって全ての論を研究できないから。実修は却って我々にとって役に立つ。だから、四大教派に於いて、特に直貢噶舉は実修を重視する。それは寧ろ理論をよく理解しても、うまく説かれても、実修しなくて、悟らないなら、そなたは一切衆生を利益できる能力がない。利益とは何だろう。仏法を説いた後、そなたが分かれば利益を得るわけではなく、そなたは唯常識を少し得ただけ。如何なるそなたに利益を得るだろう。それはそなたに自分の過失を深く理解させて、そなたに自分を徹底的に変えさせて、自分に此の世に必ず生死を解脱する事を伝えれば、真にそなたを利益する。若し、我々は今日仏法を学問として見て、研究して論議すれば、実修ではない。だから、直貢噶舉に於いて、実修する人は果位は学問が高い人より高い。リンチェンドルジェ・リンポチェは実修派であり、理論派ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは体験した境界はいいとは言えないが、せめて間違い道に歩かなかった。何故直貢チェツァン法王は台湾で万人大法会を行ない、リンチェンドルジェ・リンポチェは座った位置はローチェン・リンポチェ-我々三大リンポチェの側で、続いてガムポが一人いる。この位置は直貢チェツァン法王は手配したが、それは我々は実修して、衆生を利益するから、講義を開きそなたに仏学を教えず、そなたに成仏する方法を教えるから、必ず厳しくそなたと冗談しない。

佛を学ぶのが簡単と思い、ある寺院へ行って座り、寺院にいる出家僧がここのご飯が美味しいから、ご飯を食べて帰ろうと言うのは佛を学ぶことではなく、友人を作るのである。友達を作るなら、清浄な生活する出家僧に邪魔しないように仏門に行かないで欲しい。台湾の人はよくこんなのを好んでいるから、台湾に来た多くのチベット仏教のリンポチェもこういうふうになった。たくさんの人には間違えた観念を持ち:ここに来なくても他にも道場がいっぱいあるから、彼らが慈悲であり、 リンチェンドルジェ・リンポチェだけ慈悲ではないと思う。もし、 リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲心を修めなければ、法座に上がったら護法が リンチェンドルジェ・リンポチェを追い払うようにする。どの上師の法座にも護法があり、法王の法座にも護法があるから、勝手に座ってはいけないし、いったん座ると、軽い場合病気になるが、思い場合死んでしまうでしょう。

今日はこれだけ言うのは恐喝するのではなく、どの人にも仏を学ぶ条件があり、どの人にも悟りを開くことができ、どの人にもできると分かって欲しい。なぜあなたにはできないのか?一つは怠けること、もう一つは自分が賢いと思うこと、これらが最大の問題である。三つ目は「私に時間があるようになったら」である。自分にまだ時間があると思うと無常を信じないことである。仏は我々に人生無常と教えたのに、あなたがこんなに怠けていることは、人生無常とのことを信じないことである。佛を学ぶのが難しいのか?大変なのか?今、法を伝える方法から見て少しも大変ではないから、まだ何を求めているのか?日曜日に叱られたり、立たされたりする以外、ほかにすることはある?昔、 リンチェンドルジェ・リンポチェが大修行者を会いに行きたい時、車でガタガタ揺さぶりながら行って大変だった。一年目、直貢梯寺に行った時は道路さえもなかった。だから、あなたたちの福報がよりいい。福を惜しむことはこのような福報を無駄にしないこと。 リンチェンドルジェ・リンポチェが守ってくれると思わないで欲しい。 リンチェンドルジェ・リンポチェにも休み時間が必要であり、ちょうど リンチェンドルジェ・リンポチェや護法が休んだら、見られないから自分に頼って欲しい。

今はまだ見性していなく、自分本来の面目が分からないが、これさえ知っておけば、これがあるとさえはっきり受け入れれば、ある日に自分がはっきり見えるはずである。ある日、 リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェツァン法王に付き添い、香港にある顕教仏寺に行った。ある男性出家僧が直貢チェツァン法王に「我々にいったい真如があるか?」とご開示いただいた。若い出家僧に佛が言う真如本性が存在していないと思う人がいる。仏法を学問のように研究するから、学問研究者には知らない、分からない、見えないことをくつがえすようにする。でも、佛にも言うように、真如本性は佛が探し出してくれるものではなく、佛が与えるものでもないし、突然に現れたことでもないのである。なぜ我々には分からないの?それは我々にたくさんの無明、業力があり、この本生を覆うだけである。我々の本性は本来太陽のように輝くが、曇りが遮ったからその光が見えなくなる。曇りが累世の悪習で、累世の業力で、累世の貪嗔痴慢疑である。どうやってこれらを次第に消していくか?それは仏法の薫陶に頼り、曇りを退けて減少させるこそ、本性が現れるようになる。

ある人達がリンチェンドルジェ・リンポチェにお会いに来、知恵を下さるように願うが、知恵はあげるものではなく、どの人にも知恵と仏性を備える。佛は仏法平等と言い、平等は業力によるものでもなく、身分によるものでもなく、同じ本質によるものである。本性は誰がくれるものではく、探るものである。完全に、仏法の薫陶、如実に仏法を学び、実修の下で検証できたものである。例えば、「縁起性空」との四つの字はいくら言っても体感できないが、それはまだこの段階になっていないからである。ある日、 リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関の時、歩いていると椅子に当たったその時、縁起性空を体感できた。この体感は言語、文字を通じて形容できるものではなく、経験した上師だけしか知らない。 リンチェンドルジェ・リンポチェが閉関終了後、この体験を直貢チェツァン法王に報告した。 直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェは悟ったと表した。直貢チェツァン法王も悟ったからこそ、 リンチェンドルジェ・リンポチェが言ったことが正しいかどうかが判断できた。

あることを体感するにはどれぐらいかかるか?あっという間で一秒間で分かるが、体感ができるまで前置作業が必要となり工夫を凝らし、生生世世の可能性もある。禅宗の公案を見ると、どの禅宗の大師も悟るのは突然にやって来たことで、リハーサルもアレンジも考えもしないで発生した。曇りが太陽を遮った時に、突然に風が曇りを吹き退いてくれるように、光が現れた感じである。ここまでは誰にでも成仏する資格と条件を持っていることを分かって欲しい。根大手印の意味は仏性がなければ、仏法を学ぶ資格と条件がないことである。一本の大木では佛を学べるか?一つの花は成仏できるのか?できない。この本質を持っていないからである。有情衆こそこの本質を持っている。「禅師説法、頑石点頭(禅師が説法すると、頑石も頷く)」とは言うが、石にも仏性があるのはもう一種の解釈であり、言い続けるとあなたたちは頭がフラフラしてしまう。

どの人、どの動物、どの鬼、どの衆生でも六道にいれば成仏できる。なぜ我々は衆生の肉を食べない、人を叱らない、人を恨まないのか?それは彼らは未来佛だからである。仏経では「異禅体」との特別な名詞がある。佛を学ぶ機根がない、業が重いが佛から見てこの人には仏性がある。この一生は全然仏法を触れないし、来世も仏法を触れないが、成仏ができないことを表していない理由はその人の本質にはこの条件があるからである。なぜ《三十七頌》には、我々の姿勢を低くするのか、それはどの衆生も未来佛であり、どの人をでも軽視すべきではない。なぜ上師に不恭敬してはいけないかと言えば、上師こそ未来佛からである。

佛が言う仏法は、論理学よりロジックだから、聞こえるように、見れるように推理できる。佛も示現して見せる。仏経で記載されるように、佛は鹿や、熊や、猿や孔雀になり、そしてある一世は地獄に落ちたことあるが、佛となった。密勒日巴尊者からも、殺人による重い罪を見せたが、即身成仏した。理由は大懺悔心、大菩提心を発し、因果を深く信じるからである。密勒日巴尊者はもしあなたも因果を深く信じられれば、あなたも密勒日巴尊者と同じように修行者だと言ったことある。あなたたちは未だに修行者をする資格がなく、因果を深く信じられいし、因果を佛が自分を懲罰する道具と思う。因果をうそで存在していないと思っているから、怠けてよく リンチェンドルジェ・リンポチェに許してもらってばかりしている。 リンチェンドルジェ・リンポチェがよく答えるように、 リンチェンドルジェ・リンポチェに関係なく、 リンチェンドルジェ・リンポチェで教えられることはすでに教えたから、するかどうかはあなた次第で、あなたの果となる。

違う視点から見れば、衆生はとても無明である。無明とは怒り出すことではなく、本当の無明は真理を受け入れず、輪廻から解脱するのを助けてくれる真理を受け入れないことである。もう一種の言い方は精神的により困惑すること。経典から言えば、あなたは覚悟していないし、困惑している、独り善がりで、仏法の教えを受け入れないでいる。これらはすべて無明である。人類が進歩だし科学が発達しているように見えるがこれが悟りを開くことではない。科学が発達しているとは何でしょう?あなたが科学者ではなく、ただ昔我々の知らないでいる物を探し出すだけである。発明家も科学者ではなく、我々の人生経験を絶えず変えるだけである。例えば、今は自動車に乗るが、以前で乗る馬車とは働きが変るのでしょう?いいえ、変らない。物理学では最小の分子を探し出すことができたことも、仏経ではとっくに記載されている。科学者や発明家は我々生生世世生活の累積に、もっと便利な方法を探り暮らすだけである。ただ、本当に便利になったのか?いいえ、パソコンを使って便利だと思われるが、停電するとお金さえもらえないぐらい、お終いになる。以前、パソコンがなかった時は逆に便利であり、サインさえすればお金を引き落とせる。いったいどちらが便利なのか?人間が益々怠けていくだけである。仏経では、末法時代の人間は佛を学ぶのが困難であると記載されている。益々怠け、働きたくなくなるし、動かないから、パソコンというものが現れた。近年、多くの若者はパソコンを通じて悪いことを覚えた。便利しすぎだ!一切有情衆生には覚悟の本質を持っているが、探られないし、悟りを開く方法さえ一切知らないのは衆生の無明である。仏法の定義から言えば、教育をどれだけ受けても、博士号をダブルに取っても、エキスパートでも、悟らなければ無明である。

いわゆる学問とは何でしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェの定義により、ある物を学んで得てそなたにお金をより簡単で稼いで、しかし、これは我々の人生の真に意味が何か助けがあるのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは人生に対して真に何か助けがないと信じている。我々の悩みが手前に現れている時に、すべての本を読んでも我々に悩みを伏せて、如何に悩みを菩提になる方法を教えない、だから、我々が絶えずに無名が現れている。だから、現在、多くの人々は仏を学んでから無名を学んで得て、通霊を学んで、神通があって、無名を益々多くなっている。衆生は確かに覚悟の本性を具えて、然し、この本性が無名に隠させて、だから、輪廻をもたらす。なぜそなた達に因果を受け入れて信じている事を勧めているのでしょうか?これはそなたが因果を信じていてから、そなたが悪をしなくて始めて、善行をして、それから、自身の悩みを伏す事を知っていて、それから実修する子事が分かって、そして、自分が無名の怖さを了解する。それでは、そなたは業をし続けなくて、輪廻を止ませる事が出来る。

我々は仏法を聞いてくる理由がただ福報のため、良い人とするの為、それでは、仏法が簡単過ぎてある。衆生は全て仏性を具えるけれども、覚悟の本質を発掘しないので、衆生が迷惑し、愚痴し、輪廻の苦しみを受け尽くす。未だにそなた達が死なないけれども、輪廻の真に苦しみがどのような様子を感じていない。しかし、仏の定義により、輪廻とは我々が死ぬまでを待つ事が要らない、私達が生まれてから我々が輪廻を始まる。我々の身体の生老病死の変化もある臨廻である。情緒の喜怒哀楽の変化もある輪廻である。我々が事柄に対する執着、思い切れない、放さないのはある輪廻である。一寸考えてみて、我々が自らこのような輪廻を体験したら苦しみかどうかのでしょうか?そなたは苦しさを足りないと思っても構わない、現在、少しの悪業をしてから地獄に落ちてみましょう。「私は地獄を見る事がない」を言う人が絶対にいる。そなたが見る事がないのは当たり前である。仏経の中にはっきり言う事がある。ただ二つ種類だけの人々が地獄に行ける。一つは悪業をしてから地獄に落ちる。もう一つのは菩薩である。それでは、そなた達はなんのでしょうか?地獄に落ちる時間がまだので、地獄を見えないことが当たり前でしょう。また、そなた達は菩薩ではないので、行く資格がない。世間に言う「観落陰」は偽である。

だから、我々はずっと戸惑っていて、自分が知らないが、一切の輪廻の苦しみを尽くした。それでは、我々は日常生活の中で自分が仏性を具える本質を感じられるのでしょうか?実は我々が感じられる。何故そなた達は分からないのでしょうか?第一、上師がそなたに教える事がなかった。第二、そなたが注意しなかった。古代、孟子は「人性が善である」を言った。荀子は「人性が悪である」を言った。誰か正しいのでしょうか?二人は正しくないし、間違う事もなかった。善と悪の言い方は彼たちが人とする道徳により見て、この道徳標準が各々の民族の標準が異なっている。日本人であれば、切腹にて自殺をしたら高尚で、我々が見てから良くない、違う道徳標準である。例えばモンゴル人の兄が死んだら、弟が彼の嫁さんを接収することが出来で、我々が見たら近親相姦だ思っていて、彼らから見ると道徳が問題ないで、モンゴルの文化がこのようである。今まで、チベットの一部の落後の地区は、一人の女が二人の男に対応する事が出来で、彼らに対して正しいである。これは彼たちの生活が貧困なので、一人の男が一人の女に世話する事が出来ない。だから、道徳倫理により善と悪を見ると、この標準が間違った。これは各々の地方の文化が異なっていて、しかし、我々は自分の日常生活の中に我々が仏の本性があるかどうかを益々体得する事が依然として出来る。

最も簡単な例は、我々が今日ある人を恨んでも、例えば家に息子と娘にいて、そなたがこの子供が明らかに好きではないし、彼が多くの悪事をして、突然にそなたが「彼が私の息子で、彼に少し良い世話する」と感じている。主人と嫁さんも含めている。我々は自分の両親、自分の親友に対して、自ずからある親愛でわざと要らないことがある。異性と付き合う事が違っていて、この愛がわざとして、自ずから表す事ではない。我々が両親に対する愛は、前世に欠けて復習して来る事を除いて、或いは、これを自然にある愛を現して、我々が子供に対するある愛を表して、これは自然で何を学ぶ事が要らない、これは我々が仏性の本質である。厳格的に言って、我々がこれを仏性を称さない、つまり我々の心で、我々の自然の心はこれの本質が如何なる衆生を傷害する。だから、仏経と曰く、ある極悪非道で許すことができない人を見て、そなたは彼に許す事ではないし、彼を寛恕する事もないし、そなたがこれが因果の事を知って、彼が彼果報を絶対に受けて、だから、そなたが「とても悪くて、速く死にましょう」と言う事が要らない。因果により、そなたは彼にすぐ関連があって、彼が聞けないでも、ある日に彼と道に会えて、これはそなたがこの因があって、二人が絶対難くて過ごす。

何故皆に「政府を再び罵らないでください」を勧めているのでしょうか?先に因果法則をはっきり分かって、今日、この政府が共業があって、共同な業力があって、我々は福報があったら必ずある良い政府があって、福報がないなら、必ずある悪い政府があって、そなたは毎日中にそれを罵ったら自分に罵るのではないのでしょうか?今日、そなたはそなたの上司に批評する事が同様な道理である。そなたは福報があったら、自ずからあるそなたに可愛がって、愛して、関心する上司がいる。そなたの福報がないなら自ずからがない。それでは、そなたは彼に罵ったら自分を罵るのではないのでしょうか?だから、このような仏性本質が我々があって、ただ私達が注意しないで、とてもうかつに忘れて、だから我々が如何にこのような仏性を完全に発展して、我々のこのような愛或いは慈悲がそれを広くて永遠になるのでしょうか?これは正確的な修める事による。だから、これは悟りを得る大手因の根――仏性を招いて、これは結んだ実と同じくで、ある種とこれが最後に結んだ実が見て違っていて、形が違って、色も違って、味も違って、見ると関係がないけれども、しかし、果実が種による事が事実である。

今日、我々は仏性のこの種があって、我々が仏になる事が出来るのが事実である。この種が果実になる間に、とても長い時間を経てもこの事実が変わらない。今日、我々が仏を学ぶのは何を学ぶのでしょうか?真言を唱える事ではなくて、大礼拝をする事を学ぶのではなくて、如何に懺悔する事を学ぶのではなくて、仏になる因縁を学んでいる。この種があるので、果実に成る前に因縁が要るので、灌漑して施肥しなければならなくて、それを世話しなければならない。我々は何を学ぶのでしょうか?仏になる因縁を学ぶのである。この因縁が具えると、この果実が生む事が出来で、何故この因縁がこんなに重要のでしょうか?此れはそなたが灌漑しないと、種が芽生えなくて、花が咲けないわけである。何故我々が仏法を聞く事が要るのでしょうか?何故ある上師に従って仏を上手く学ぶのでしょうか?此れは我々がこの因縁が要るわけで、この因縁がないと、種が永遠に種である。この因縁の過程の中に、恐らく雨が降って、風が吹いて、太陽を出して、太陽がないかもしれない、此れは全て因縁である。我々は仏を学ぶ過程には所謂障碍、障碍も因縁法で、此れはそなたがこの因があってこの果が必ずがある。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「皆は今日仏を学んで、外で学んでお経を唱えて主人に廻向して、そなたの主人に自分をもっと愛させる事をしてはいけない」を常に勧めていて、此れは間違う観念である。今日、主人はそなたに愛しないなら必ずそなたと関係があり、彼が悪い事ではないし、彼が良くない事ではない。今日、子供が親孝行しないなら、必ずそなたと関係がある。だから、そなたがお経を唱えて真言を唱えて彼らに廻向する事をしたら、彼らがそなたによい事を望んだら、それではそなたが因果を信じていない、因果を違犯する。仏としても彼が業を転じる事が出来ないと諭して、それでは、そなたが何によりそなたの主人と子供の業を転じるだろう。我々は如何に彼の業を転じるのでしょうか?自分が先に転じて、自分が先に点検して、自ずから彼がそなたに従って転じる。そなたは改正しなくて転じないなら、何に基づいて彼を転じるのでしょうか?

世の中に様々な事は仏法の観念によって見たら全て空性で、全て変幻で、全て縁起性空のものである。だから、今日、そなたはこの件を気にかけて、よいであれ、悪いであれ、全て未来生に影響させて、今日、そなたはある者に絶えずに誰かが恨んだら、この人がそなたに申し訳ないと思っていて、そなたのこの考えが瞋念で、皆の知る通りに「火地獄」に行く。もし、そなたは今日そなたの眷属に未練を残ったら、「寒氷地獄」に至る。そなたは「愛が要らないのでしょうか?愛がないなら我が木ではないでしょうか?」と言う。仏法を誤解してはいけない。

先週のようである。リンチェンドルジェ・リンポチェは読書が最も重要ではないと説いた。ある者は直彼の母に読書が最も重要ではないと言い、此れは文章の断片から意味を取るのである。仏法はそなたに執着をしない事を教えて、そなたに愛さない事を教えない、この人はそなたのことと思っていて、惜しまなく、放さない事を思ってはいけない。此れは執着である。しかし、そなたが彼に対する愛は仏性の光りが自然的な現し、わざと現しのではない。何故多くの奥さんは「我がなにをしても、お姑さんは我が何もよいないと言って、全て私を責めている」と訴えてきた。問題点はどこでしょうか?そのお姑さんのせいで?奥さんの間違ったのではない。彼女は本性と心をこの事をする事ではないし、彼女は彼女の意識によりして、彼女のお姑さんが彼女によい事を望んで、だから、彼女はこの事を上手くする事により賄賂をして、此れは肥前に誠心に使わない、彼女のお姑さんが自ずからそなが偽でする事と感じていた。

仏法と曰く事は我々の毎日の生活にて使って、だから、我々は大手印の根を具えている。だから、現在我々がしなければならないのはこの特質を開発し、それから、この大手印の果を成就して行く。全ての祖師は嘗て我々と同じ平凡で、然し、彼らが精進な実修を経てから仏になる本質を開発し、だから、彼らがこのように殊勝して平凡えはない。現在、我々はこの機会があって、この本性の存在を体得する事が出来る。そなたは自分が仏性を具える時に、悟りを決める事が可能で、此れは所謂根の大手印である。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に説いて、リンチェンドルジェ・リンポチェが遣り遂げた事がそなた達も遣り遂げられる。そなたが出来ないのは、問題が仏菩薩と上師の教導ではなくて、そなた達は信じていないわけである。歴代の成就者と祖師は本来我々と同じように凡夫で、然し、彼が私達と唯一異なる点は彼が上師から彼への教導を受け入れて、この事の体得が極めて重要で、彼もこの方法により修行したら自分が利益を得るだけではなくて、他人に利益できる事を知っている。だから、今日、そなた達は直貢噶舉の門下に皈依出来で、そなた達は大手印の仏法を聞く機会があって、此れはそなた達は機会があって自我の本質を発掘することができると表して、この自分の本性を開発する力が如何にもらえるのでしょうか?そなた達の本人により、仏菩薩から与える事ではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェから与える事ではない。だから、心配して恐れる事をしてはいけない、この大手印は真に深くて難しく修めるのでしょうか。リンチェンドルジェ・リンポチェにより難しくなかった。

2011年6月25日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北国際センターで「チベット仏教直貢噶舉派祖師ジッテン・サムゴン794年記念大法会」を主法して、正法を伝承し続けて、直貢噶舉派の法脈を広めて、そして台湾この土地の幸福と世界平和を祈るためである。

午前8時30分に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは経幡、宝傘、楽器、八供女などの先導の下で、ケンポス、顕密出家衆がついて行って、及び3,200人の参列者は起立して恭しく迎えて、ゆっくりと法会の現場に歩み入って、壇城に上がった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは先ずは、尊勝なる直貢チェツァン法王、チョンツァン法王のお写真及び仏菩薩に恭しく頂礼して、そして燃灯して仏に供養してから、主法の法座に昇った。この時、壇城の下で、300人の信者の代表は順番に300個の灯を点して仏を供養して、この300人の代表は入場する時に自らくじ引きして抽選されて、点灯するのは費用を支払う必要がないのである。

法会に参列する大衆が皈依、発心などの経文を唱えた後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。今日台風の影響を受けたから、朝には風と雨はとても凄くて、皆は依然として風雨を恐れないで、予定どおりに法会に参加するのは非常に容易ではなくて、とても良かった。お経には記録されるように、大風と大雨の、天気が良くない日に法会を開催する功徳はとても大きくて、なぜかというと、このような時に多くの衆生は風雨の中に傷つけられて、この時に法会を開催してこれらの衆生を助けることができる。だからそなた達が風雨の日に法会に参加しにくることができるのはとても良くて、多くの衆生に利益できる。風雨の関係のため、少数者は、法会に参加しに来なくて、とても惜しい。彼らは一回の法会に参加しなくても大丈夫だと思っているが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、仏法よりもっと重要なことは何もない。

いかなる宣伝を行っていない状況で、今日依然として3200数人は雨天に殊勝な法会に参加することができて、そなた達は前世にきっと仏を学んだことがあり、或いは歴代の上師か直貢噶舉と縁を結んだことがあることを表した。そなた達が今日上師供養法の法会に参加したことがあるため、同じく未来そなた達に縁がある上師を探し当てて仏法を学ぶように助けることができる。

直貢噶舉教派の祖師はジッテン・サムゴンであり、ジッテン・サムゴンの前世は龍樹菩薩であり、龍樹菩薩の前世は維摩詰居士である。龍樹菩薩は密法を紹介してきて、中観論は龍樹菩薩が作られて、中観論は大乗仏教にとって非常に重要である。華厳経も龍樹菩薩が竜宮に行って法を求める時に持ち帰ったのである。祖師ジッテン・サムゴンの主要な教法は寶積経を広めることで、寶積経は釈迦牟尼仏の大蔵経のの一部分であり、寶積経は主に初地菩薩から十地菩薩まで修行する過程の中のあらゆる身、口、意の変化を陳述する。8百数年前、直貢噶舉祖師ジッテン・サムゴンの時には、18万人の出家衆がいて、この18万人の出家衆は広告やテレビ宣伝のため集まって来たのではなくて、祖師ジッテン・サムゴンが過去世に多くの衆生と縁が結んだことがあるのを代表して、多くの参列者は過去世にジッテン・サムゴンに追随して仏を学んだことがあるかもしれない。

以前には、「壩(ダム)は直貢の壩であり、山は直貢の山である。」との言い方があり、ダムがある地方はすべて直貢噶舉の寺院があり、直貢噶舉教派はその時にとても栄えていることを明らかに示した。直貢噶舉教派は閉関、実修を主として、多くの寺院は非常に奥深い山の中にあり、俗世間と別れる。甚だしきに至っては今まで、いくつかの直貢噶舉の寺院はまだ深山の中にあるから、政府さえもどこにあるのかと知っていなくて、あれらの所は馬に乗って着くことができるのではなくて、人がゆっくりと歩いていかなければならないのである。だから以前に直貢噶舉教派は人の群れを遠く離れて修行するのであり、今弘法して衆生に利益するために人の群れに入って、尊勝なる直貢チェツァン法王の開示のように、直貢の伝承に報いるため、今日台北国際会議中心で祖師ジッテン・サムゴン紀念法法会を開催する。

仏法は釈迦牟尼仏が伝わってきたのであるが、しかし私達は自ら仏陀に会うことができる福報がなくて、私達に仏法を教えてくれるのは私達の上師であるから、上師は私達にとってとても重要である。その故、最大の供養、もっとも速く福報を累積する方法は上師への供養及び恭敬であり、供養するのは物質の或いは金銭の供養であるとは限らなくて、身、口、意にて供養しなければならなくて、お経にはよく曰くように、仏菩薩、上師を憶念しなければならなくて、ようするに、身、口、意は上師の教えに従って生活の中に実行するのである。

仏菩薩の願力とは衆生を済度して、輪廻の苦しみを離れる。ある金剛乗を修めて成就を得る上師は発した願力はとても広大であり、全ての衆生を助けて、成仏させる。金剛上師は衆生を助けて成仏させて、上師は弟子に対しての三昧耶とは生々世々に発心して仏を学ぶ弟子を引き続きに守って、弟子は成仏に至るまで。だから、直貢噶舉の歴代上師と護法は必ず発心して仏を学ぶ直貢弟子を守らなければならない。また、弟子は上師に対しての三昧耶とは上師の教えに従って、用心に仏法を学んで自分の行為を修正する事である。

若し、不注意に在家五戒を破ると、上師に懺悔する事を通して補えるが、若し弟子は上師に承諾した三昧耶を破れば、難しく補えない。先程尊勝なる直貢チェツァン法王がビデオに開示された通りに、若し過去世に上師と弟子の間の三昧耶戒を破ったら、今日にこの機会で改めて懺悔して、補わなければならない。

たとえ累世に修行し続けても、修行者は相変わらず障碍に遭った。だから、必ず上師が必要である。上師とは世間に所謂師父ではなく、経験がある修行者である。そなたは仏を学んで困難に遭った時、一言でもそなたを助けて問題を解決できた。更に若し仏を学んで生死を解脱したいなら、上師がないと出来ない。祖師ジッテン・サムゴンは八百年前にいた。リンチェンドルジェ・リンポチェは皈依した後、自らジッテン・サムゴンを見た事がないけど、リンチェンドルジェ・リンポチェは此の世に嘗て、直貢噶舉の祖師ジッテン・サムゴンに命を二回救われた。ある世に縁を結んだかもしれないが、此の世に苦難がある時に上師が助けを与えた。弟子であれば、誠に発心して仏を学んで、生死を解脱するのを発願すれば、上師も生々世々に弟子を世話している。

今日殊勝な上師供養法を行っている。そなた達は此処に座れて法会に参加できるが、後ろにかかった財力、人力は難しく計算できない。3200人の法会について、リンチェンドルジェ・リンポチェは功徳主を設けず、点灯も如何なる料金を貰わない。唯一つだけ願ったが、直貢噶舉の正法は衆生を教えて、衆生に因縁があって仏法を接触させる。だから、そなた達は法会に参加する時、もはや椅子の背凭れに背中を持たせかけないで。そなたは元々法会に参加する気持ちを問わず、法会に参加する時最大の恭敬心及び信心を具えなければならない。

仏を学ぶのは皆に出家させるわけではない。リンチェンドルジェ・リンポチェも出家しなかった。在家の身分で仏を学ぶ事を影響しない。それは尊勝なる直貢チェツァン法王の教えがあって、仏を学ぶ方向を分かるから。再び私は時間が有るまでに始めて仏を学ぶやある事を完成した後に再び学ぶなど言わないで。リンチェンドルジェ・リンポチェは在家して菜食しているけど、自分の生活に不便をかけなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆と同じで在家の修行者であり、物事もとても多くて忙しい。2007年尊勝なる直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに指示されて、ラプチ雪山に三ヶ月間、閉関修行した。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐかしこまって、何故閉関修行に行く理由や行けばどんな利益を得るなど聞かず、尚更に事前に事業も手配しなかった。直貢チェツァン法王の指定時間に行った。しかし、現在そなた達は自分が忙しくて仏を学ぶ時間がなく、時間が有れば行くと言ったが、そなたは時間があるまでに通常は間に合わない。

今日修める上師供養法はチベット仏教密教に於いて、特有な法門であり、顕教では修めない。何故上師は重要だろうか。歴代の修行者の根器は我々よりいいのに、上師の教えがないと、成就を得ない。仏を学ぶ事は自分が一人で完成できる事ではなく、自分が本を読めるから、仏経を理解できて、家で自分が修められると思わない。自分は勝手に仏具店で仏経を一冊取って始めて唱えるや家のテレビを開けて、ソファーに座って足を上げるなら仏法を学べると思わない。若しそう出来れば、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関修行する必要がない。一日でも成仏しないなら、上師の教えに従わなければならない。生死を解脱まで修めるのは必ず上師に導かれないと出来ない。特に成仏の前に最後決定的な瞬間に上師の教えがないなら、この世に仏法を修められない。

仏を学ぶのは必ず徳を具える上師の教え及び指導がないと出来ない。上師とは一般的な出家法師或いは師父ではない。徳を具える上師とは既に菩薩果位を証して、衆生を利益できる衆生である。経典に記載されたが、直貢噶舉の祖師ジッテン・サムゴンは既に十地の菩薩を証した。修行者はジッテン・サムゴンの浄土に往生する事も発願できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学んで修行した過程にもいつも三恩根本上師直貢チェツァン法王の教導に従った。唯、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに仏法を開示された時、多く話す必要がなくて、唯重点を話した。唯短い言葉だけど、リンチェンドルジェ・リンポチェも理解できる。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に十分の恭敬心及び信心を持っているから、修行の方法を得られる。リンチェンドルジェ・リンポチェは感謝の気持ちを持っておっしゃったが、今世直貢チェツァン法王に会えないなら。如何なる覚悟できない。直貢チェツァン法王は恩人であり、上師は恩人である。

チベット仏教は伝承を重視している。たとえ苦難な時代に於いても、直貢噶舉の伝承は祖師ジッテン・サムゴンから今まで断たなかった。つまり、どんな時でも必ず法王が一人いて、教法を持って、教派を率いたから。法脈は今まで紛争が起こらなくて、全ての伝承はとても清浄である。だから、加持力は特に殊勝で強い。

だから、そなた達は今日この法会に参加したから、必ずそなたに役に立つ。その助けはそなたが思ったように金持ちになりや好運など助けではない。しかし、必ずそなたに役に立つ。

仏を学ぶには欲望を満ち溢れるのが出来ない。少し仏法を聞いて、一回法会に参加して、そなたにすぐよくならせて、或いは悟らせるのが出来ない。ある者は何年念仏をして、自分は観世音菩薩が見えて、観世音菩薩が彼に話すのを聞いた、これは全部嘘ばかりだ。われ等は現在全て得たのは、全部過去に作られた。現在全てしたのもそなたの未来を影響して、仏を絶えずに学ぶ続くべきで、生々世々のことである。

ある者はご開示の内容は自分と全く関係ないと思って或いは分からないので眠くなった。そなた達の福報が大変良くて、法会に参加しに来てまたこんな気分が良い座席に座って、ある者は頭を上げて椅子にもたせかけてまるでもちのように柔らかくて、柔らかくソファの中に落ち込んだ。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても後悔して今日の会場を選んだ。しかし、その他使う場所がなかった。ここには冷房があって、とても快適で、本来この場所は人に歌を聞かせて、ショーを見せるため設計されて、通常入場する場合はお支払いが必要で、今日そなたがここに来て法会に参加してそなた達にお金を取らなくて、そなた達はかえって眠くなった。そなた達にとても気分がよく座らせて、勉強するのも大変難しくなった。チベットでは法会に参加する時、信者が硬い床板の上に座って、頭のてっぺんに大きい太陽をかけて、そなた達のように快適な椅子を座って法会に参加することがない。お体は椅子の背中にもたせかけると自然にとても眠りやすくて、例え法会に参加しても役に立たない。そなたが寝るなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを離せる。今日の場所がこんなに大きくてもそなた達は遠く座って、リンチェンドルジェ・リンポチェに見られないと思わない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に法会に参加す時座りが端正すれば眠くなることがないと注意させるのを聞いたが、ある二人親子の信者はやはり聞かないように、やわらかい椅子にもたせかけて寝てしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェが見た後、開示された、彼らは寢るなら、家に帰って寝て、法会に参加しなくても結構だ。そうして現場の係員は2人信者を引き連れて直ぐ離れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、法会に参加するのは苦労するべきで、そうすれば始めて仏法の助けを得ることが出来た。リンチェンドルジェ・リンポチェが主催する法会こそこんなに厳しいである。法会の中に居眠りすると来世の果報は畜生道に落ちることになった。そなた達は見た、多くの動物は一日に16時間を寝て、人類は只8時間で、それは、人類は学習の自覚があり、尊き リンチェンドルジェ・リンポチェたは衆生が三悪道に堕ちるのを見るのが耐えなくて、やはり彼らを離れるようにさせた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った:例えそなたにおとなしくて法会に参加して、寝なければ100万が貰えると言うなら、そなたはきっと出来る。お金がもらえるから。眠りになったのはすぐ得られる利益が見えないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは前仏を勉強し始めてから、法会に参加する時、どんなに疲れても今まで居眠りしなく、上に教えてくれる者を感謝そなた達は居眠りになるのは感謝しないのである。そなた達は分かるべきで、こんな法会を挙げるには数えないお金と人力がかかって、ものすごく容易ではなく、そなた達は謙虚な心で上師を敬って、そなた達は注意して、享受の考え方で法会に参加しない。台湾では仏を学ぶ者は福報がいいすぎだ。しかし福報が多くあればあまり修め易くなく、業も返すのが難しく返す。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは始めて上師供養法を行い、それに法本の中にの意味を解釈した。

一番目の段落の祈請文は、そなた達を怒って、そなた達を傷害する悪魔に暫く邪魔しなくて、そなたが法会に参加するのを障害させないようにお願いした。以前自分が作った悪縁はそなたに仏法を耳に入らせない。なぜ法会に参加して、眠りになるか?即ち睡魔が邪魔しに来た。そなたが眠りになった時、そなたに仏法を聞かせなくて、聞く福報を有らせなく、一句が聞かないと一つの善の因が減った。法会に参加する時集中するべきで、東だり、西だり考えない。

続いて帰依発心することであり、諸仏菩薩と上師に帰依してから身、口、意より善を行うようにする。浄土宗にとって佛号を唱えれば往生浄土と発願すれば行けるが、《阿弥陀経》の記載では、往生浄土には福徳因縁を具える善男子、善女子に限るが、ここで言う善はお金を寄付しボランティアをするのではなく、五戒十善を指すこと。もし、まだお肉を食べているなら、いくら念仏しても効かない。チベット仏教ならお肉が食べれるなんて思わないでほしい。ラマがお肉を食べているところを見たら、自分も食べられると思ったり、衆生を食べることは衆生を済度するなんての可笑しい言いかたをしないで欲しい。ある者は仏を学ぶため精進料理を食べると思っているが、事実上、このような言い方はそんなに正しくなくて、仏教以外の多くの宗教も精進料理を食べることを提唱して、なぜかというと、精進料理を食べるのは全体の世界にとって比較的に良いから。800年前のチベットは非常に植物を植えるのによくない環境だし、精進料理が進みにくい状況であったが、ディクン・カジュの祖師である ジッテン・サムゴンも、多くの歴代大成就者も精進料理を徹底している。聖なる直貢チェツァン法王も精進料理を続けている。ましてチベットの環境はだいぶ改善されたから、精進料理に変わる他の教派も多数存在している。他の人ならゆっくりと精進料理に変えてもいいという人はいるが、現在世界中に多くの災難が発生するのは衆生の殺業によるものである。皆で精進料理を進むと災難も減少していくことになる。

宝積経では、菩薩はどんな心を発すれば阿弥陀仏浄土に往生できるのかと弥勒菩薩が釈迦牟尼にお聞きしたことある。そうすると、釈迦牟尼が十種類の発心方式を開示された。これを通じ、ある佛菩薩を専門に修めるとあの佛菩薩の浄土へしかいけないことではないことが分かる。佛菩薩は一切衆生を利益するためだから、衆生が自分の浄土へ行かなければならないことがない。阿弥陀仏浄土への往生を発願すれば、どの佛菩薩でも助けてくれるに決まっている。

佛を学ぶ発心、動機が重要である。多くの人は守られるように思って今日の法会に参加したが、今日の法会で衆生を利益し、衆生に役に立つようと祈るから衆生の一人であるあなたは、衆生が良くなれればあなたも自然によくなる。菩薩道を修め乗願し再び度生に来るという人がいるが、現世で菩薩道まで修めるのは実に苦労で簡単ではないものだから、現世で修めなかったら、来世で乗願してくることが不可能である。だから、往生極楽世界浄土を求め、阿弥陀仏が発した大願は必ず達成できるものだから、佛菩薩も助けてくれる。毎回法を修める前に唱えるように、慈悲喜捨を修め、菩提心を発し、七支供養をし、釈迦牟尼が現世で住世し仏法を教えてくれる上師であるため、釈迦牟尼を供養し褒め称え、其の後再び釈迦牟尼を供養するようにする。

次に鈴を加持する儀軌である。法器は店で求めば使えるものではなく、決まった儀軌に従えば効果が出るわけである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは参加した皆さんに禅定灌頂を与えた。灌頂し禅定法門を習ったり修めたりするのを授権し、身、口、意を清める。椅子に寄りかからないで胸を張って座らないと、背中の気脈が通じなくなる。禅定とは自分で座禅ができ、清らかさを求めることではない。そうであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関に行かなくてもいいのである。禅を修めるには、身、口、意を清めなければ危険である。そして上師の指導がなければ問題が出て、禅病になる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法会参加者を率い、祖師ジッテン・サムゴンの真言を唱えた。真言は諸仏菩薩の功徳、知恵、願力の集合であり、その故、お経には『常憶念仏菩薩』を要すると言われて、「常」とは永久不変であり、「憶念」は考えがすべて仏菩薩の功徳と願力であり、諸仏菩薩の真言を唱えれば、諸仏菩薩の功徳大海に溶け込み、善の力が次第に増えていく。

リンチェンドルジェ・リンポチェは法会参加者を率い、祖師ジッテン・サムゴンの真言を唱えた。真言は諸仏菩薩の功徳、知恵、願力の集合であり、その故、
お経には『常憶念仏菩薩』を要すると言われて、「常」とは永久不変であり、「憶念」は考えがすべて仏菩薩の功徳と願力であり、
諸仏菩薩の真言を唱えれば、諸仏菩薩の功徳大海に溶け込み、善の力が次第に増えていく。

八供女が壇城に上がり、献供歌を歌った。この献供歌は俗世並の歌ではないし、人間が作った歌ではない、ダーキニーが書かれたのである。仏経では歌声で佛に供養できると書かれる。綺麗な歌声で上師や佛菩薩に供養するのも衆生の感謝を表現することができるとリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した。

それから、薈の供養の儀軌を進むようにし、参加者は主法上師と諸仏菩薩と食べ物を分かち合う殊勝な因縁が得られる。佛菩薩と一緒に食物を食べれるのは諸仏菩薩と浄土にいる因縁を結ばれるが、病気がすぐ治ったり、万事順調やすべてが一回で解決できたりしないとリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された。

続いて、茶の供養と飯の供養の儀軌を進むようにする。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これはチベットの伝統であり、天気が寒いから、法会の途中で上師の体力が落ちたりするから、上師に酥油茶を供養する。一部の参加者はトイレに行き始めたが、リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修め続けるから、席に戻ってもらうようにし、本当に病気に罹っている人以外、トイレに頻繁に行くのは実に体がよくないからだし、リンチェンドルジェ・リンポチェが60何歳だが、朝八時に法座に上がってから一度もトイレに行ってないと開示された。病気であろうが、体が弱いであろうが、すべて自分によったものであり、途中でトイレに行く必要があるのは、帰依していない信者の多くがまだお肉を食べていることに起因するのである。他の多くの教派も精進料理をするように進め始めたが、ゆっくり精進料理に改めようという人もいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは佛を学ぶならゆっくりしてはいけないから、急いで一日も早く悪を断ち善を行うべきである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に連れて「吉祥法界祈請文」を唱えて、上師の限りがない恩恵を憶念して、リンチェンドルジェ・リンポチェは祈請文を歌う時に思わず涙にむせんでいて、上師に対する全然の恭敬の心及び憧れの心が自然に現れて、人に感動させる。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは法席が下りて、壇城にいるケンポス、出家衆ろ率いて、雄壮偉大で荘厳である八供台の前に祈願文を唱えて、そして、点灯して仏前に供えていた。

最後には、「瑪尼廻向文」を修めていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に連れて六字大明咒と唱えていて、一生の中には六字大明咒を一心に唱えるなら、六道輪廻に入らない事が出来で、しかし、菜食する前提が要る。廻向文の中には、全ての衆生も既に含めて、一部のはそなた達が考える事がない衆生も含めている。これ等の衆生に浄土に至る事を助ける事を祈っていて、此れも自分のために極楽浄土に往生する因縁を結んでいて、ある日までに行ける。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に連れて一部のお経を唱えていた。皆が唱えてから、リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなた達は騙されて、先一緒に唱えていた者が将来必ずある日に菜食をして仏を学ぶが、しかし唱えていない者はそうではない」と慈悲的な開示させた。

それから、尊勝である直貢チェツァン法王、チョンツァン法王、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの「長寿祈請文」を唱えていた。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は「お金持ちの弟子を求めると、『長寿祈請文』が書かれる事ではない。修行の果位が自分により高い行者が書いて始められる」のである。先程、唱えたばかり二人の法王の長い版の「長寿祈請文」はダライ・ラマが二人の法王の為に書いてあげた。短い版の「長寿祈請文」は二人の法王が子供の折に、彼らが教導して与える親教師が彼らに書いてあたえた。「長寿祈請文」とはこの世の長寿を求める事ではない、菩薩が絶えずに来て衆生に利益させる事を祈っているわけである。ずっと唱えていて、ずっと唱えていて、毎回を唱えるなら、毎回の力があって初めて、菩薩の耳に胼胝が出来たほどと唱えて、菩薩が必ず再度帰って再度一回苦労してくる。

リンチェンドルジェ・リンポチェの「長寿祈請文」は弟子が尊勝である直貢チェツァン法王に求めて書いた事で、上師が弟子に随意に書いてあげる事をしない。尊勝である直貢法王はすべての求めて来る者が彼の為に書いてあげる事ではない。「誠懇」である書くのは、仏法の中の意味が授記である。「長寿祈請文」の内容は現在の成就と未来の果位をを授けて、つまり書く者が責任する意味である。リンチェンドルジェ・リンポチェの最後の内容には、「百劫に住している」のように、一劫がとても長い時間で、百劫が大中小劫のでしょうか?実はどちらに関わらなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェ尋ねる事をしなくて、上師が書かれたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは尊勝である直貢チェツァン法王が書くの通りにしている。

生まれ変わりのリンポチェが必ず良くて、より素晴らしいのでしょうか?実は参列の皆は全て生れ変りの者で、ただ前世にどちらの道とは限らなかった。たとえ生れ変りの者としても、同じようにゼロから学び始める。尊勝である直貢チェツァン法王とチェツァン法王のが全て生れ変りのように、一切が同じで最初から学ばなければならない、ただ彼らが前世に修めた事があって、善根がより良いので速めに学ばれて、だから、この世に学んで得る事がより簡単で、より早目に成就ける事が出来る。

そうして、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に率いて再度一座の観音法門を修めて、また下記のように開示させた。前に修めた儀軌は利他で、現在が自利で、此れは前に皆が既に供養と布施をしていて、福報を累積していたので、現在、自修して真言を唱える事が役に立って始めている。六字大明咒を唱えたら、六道の輪廻の扉を閉じることが出来ている。釈尊は「六字大明咒を解釈する時間が一大劫にかかっている」という開示した事がある。現代、ある者が簡単で説明する事が間違っている。一生には六字大明咒を一心に唱えているなら、六道輪廻に入られない、が、肉食していない前提が要るのである。

今日の法会が開始する前には風雨がとても強くて、一部の人々は台風が台湾に向く事を恐れるので欠席し、雨が降ったら不便だと思っていた。実は、今日法会があるので、台風の方向が変わって台湾に襲い掛かって来なかった。参列者は同感を深く感じていたので激しい拍手で応えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが苦労で修法してこの土地に利益させている事に感謝した。そうして、リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示させた。そなた達は「ただ数千人の法会だけで、こんなに影響があるのでしょうか?」という考えを持っているかもしれない。目先に見えたのはただ3200人余り参加し、しかし、そなた達が連れて来ている衆生を数え上げなくて、そなた達の累世の祖先と食べた衆生を含めて、今日の法会の為に利益をもらえて、だから台風が転向した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に再度菜食する事を呼びかけて、皆が菜食する事が栄養が無くて、菜食する事が健康ではない事を言ってはいけない。現在の医学も菜食する事がより健康で、肉食したら多くの文明病を連れている。リンチェンドルジェ・リンポチェが自分を例を挙げて開示させた。リンチェンドルジェ・リンポチェは36歳から菜食して仏を学んで始まって、今までには既に65歳で、朝8時30分から座って、今まで約4時間余り、お手洗いへ行った事が無くて、ずっと正座して絶えずに修法していた。そなた達も見えて、却って一部の若者がまた起きてお手洗いへ行った。仏経に所謂「放生」とは、わざと海岸にいって、儀式を行って、それから一部の動物を買って放してやって、帰ってから再び衆生の肉を食べて続ける事をしてはいけない。そうすると、役に立たない。ただ心が殺生しないで、肉食をしないで、このようにしたら放生である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは最後まで皆に依然として繰り返して忠告させて、そなた達は家庭が調和し、国家の災難を減らす事を望むなら、自分からしなければならない、殺生して肉食をしないで下さい。一口の肉を食べると、全て自分の悪業を累積し、時間があって仏を学ぶ事をしてはいけない、事件があったら間に合わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは涙に咽んで皆に「衆生が自分と同じように苦しみがあって、菜食をする事だけではなくて、行為も如何なる衆生を傷害させない事」を提示させた。法会は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く開示した後で円満な完了した。リンチェンドルジェ・リンポチェが法席を降りる時に、全体の参列者が絶え間ない拍手していて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが苦労的な修法して開示して、皆に法喜に満たさせている事に感謝していた。

2011年6月26日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、ガムポパ大師の開示した三士道を解説された。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで共修法会を主催して、ガムポパ大師の開示した三士道を解説された。

去年(2010年)8月に、彼女の母が病院へ定期的に検査を受けに行ってきた後に、頭がくらくらして、気分が悪いと言った。翌日、彼女は仕事がひけて家に帰って母を見舞って、母の顔色が非常に青白さで、椅子の上で力が抜けて動けないことを見た。当日、母に入浴させて手伝って、ただ彼女がずっと力がなくて後ろへ倒れるのを見て、しっかりとよく座ることができなくて、それを見て、彼女はとても苦しい。その夜、彼女は自分の家に帰って、転々として眠りにくくて、母がとてもおかしいと感じるが、しかし実際に何が問題なのかは分からない。

翌日彼女は再度実家に戻って、再び母に入浴させるように手伝って、しかし彼女の母の情況がもっとひどくなることに気がついて、すぐ父と相談した後に、母を病院に連れていった。病院はいくつか基本的な検査をした後に、医者は母の採血された血が透明で、深刻な貧血であり、血紅素のモグロビン濃度が3.0 g/dlぐらいしか残っていないを告知し、その故すぐ輸血して、同時に危篤のお知らせを出した。当時彼女は混乱してどうしたらよいか分からなくて、兄弟子の提示を通じて、彼女は骨董店に電話をかけて伝言して、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持することを祈って、そして外科の医師をする兄弟子に助けてもらうように電話をかけて、できるだけ早く入院することを手配してもらう。彼女は急に用事があるから、甘露丸を身で持っていないで、それから桃園地区の兄弟子に助けてもらう。

急診病棟で、彼女は外科医師をする兄弟子が急いで来て看護師に彼女の母の状況を尋ねたことを見て、彼女に甘露丸をもって来て、彼女は非常にこの兄弟子に感謝する。病院の検査で彼女の母は胃腸が深刻で出血することを発見された。土曜日に彼女は母を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行って、母の状況を報告して、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に母を加持して、そして出血する状況が来週の火曜日に改善すると言った。病院に戻って、彼女の母の血紅素のモグロビン濃度が10余り g/dl まで上がって、病院は食事することができるのを告知し、結果はその日に彼女は先に家に帰って休んだ。しかし彼女の弟と母は一緒に1つ肉入り弁当を食べて、その日の夜、母はずっと寝つくことができなくて、でたらめを言い始めて、翌日仕事がひけて夜までずっとこのような状況を続けて、彼女は再び病院に戻って母を見舞って、母はずっと目を大きく見張って天井板を見ていて、寝つくことを恐れていて、血紅素のモグロビン濃度が4余りg/dlまで下がって、また輸血をし始めて、医療関係者にてんやわんやの大騒ぎをさせた。彼女の母の体の水腫はとてもすごくなって、糖尿病、高血圧とパーキンソン病の病痛で、排尿することができない体は水のボールと同じように腫れている。

彼女は母を落ち着かせ慰めて、母に目を閉じてもらってよく休んで、もう天井板を見ないでください、結果は母は寝つくと、医療関係者は母を検査する時、懐中電灯を使って母の瞳を検査して、そしてずっと母の名前を呼んでいて、また数人の医療関係者が来るように要して、いくつか酸素を提供する器具を用意して病棟に入って、彼女はそれを見てとても苦しくて、扉の外に歩いて、心の中でリンチェンドルジェ・リンポチェに母を助けてくれるようにお願いして、彼女の妹は緊迫していて、ずっと母親の名前を呼んでいる。とても殊勝なのは、母は目が覚めて、彼女と妹に「私をびっくりさせて、先にある者は私を下ろそうとした。」と言って、彼女は、もしもリンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、どうしたらよいかを知らないと思っている。それから住院医師(レジデント)は入って来て、母の状況を調べて、彼女たちに母親が静脈の挿管の動作をしなければならなくて、且つICU病棟に入院する必要があり、リスクがとても高くて、肺部を傷つけて気胸をもたらすことを教えた。母にICU病棟に入院するように手配するほかなくて、彼女は母が体に多くのパイプに挿管されたことを見て、彼女はとても苦しい。リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て開示したような「3管齊下(三つのパイプが体に挿管されること)」は、彼女の母の身で彼女は見た。彼女はとても彷徨っていて、ただリンチェンドルジェ・リンポチェに母が病痛の苦しみに解脱して助けるように願うことしかできない。

翌日、母の血紅素のモグロビン濃度が上昇して、正常に排尿して、彼女と妹はリンチェンドルジェ・リンポチに謁見しに行ってそして感謝する。リンチェンドルジェ・リンポチェは妹に、再び母に肉を食べさせないでください、用事のため再び仏菩薩に祈りに来ないでくださいと教えた。1週間をたって、母の血便はまだまだ改善していないで、その上問題が探し出せない。外科医師をする兄弟子は、するべきな検査はすべてして、大小腸の検査は難度が高いから、母に検査を受けることを提案しないで、彼女は負担することができないと言った。

土曜日、彼女は病院から休暇を取って、母を連れて リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母に、そなたは結構良くなったと言って、そいて、まだ何かあるのかと言った。彼女は母の血便がまだ改善していないと報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に母を加持してあげて、そして来週の木曜日までに良くなると言って、それから母は速く治れた。もしリンチェンドルジェ・リンポチェはずっと母を加持しているのではないと、彼女が母親のため出来ることは本当に何もない。

11月、彼女の母は頭がくらくらして気分が悪くて急診に行って、医者はコンピュータ断層撮影をして、母は急診室で大量に嘔吐して、検査結果は小脳が出血して、つまり脳卒中であり、出血する所は脳幹まで1段の距離がまだあり、もし出血する所は拡散し続けるならば、恐らく脳幹に圧迫して、人は人事不省に陥って、必ずすぐICU病棟に入院居住して手術を行わなければならなくて、彼女はその時の状況を1名の外科医師をする兄弟子に教えて、同時にもう一人の兄弟子が持ってきた甘露丸を受け取って、彼女はとても兄弟子に感謝する。

翌日、彼女は母を見舞う時、母の情況は悪化して拡散していないで、圧迫される所も手術を行う必要はない。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持で母に難関を過ごさせることに感謝する。

退院した後に、土曜日になって、、彼女は母を押してリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し感謝しに行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母に、そなたは良くなって、もう大丈夫であり、そして彼女に、まだ何か事があるかと言った。彼女は、母の立ち上がる時に頭がとても気絶して、出血する所は自分の体の吸収によってゆっくりと改善したと報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女の母を加持して与えて、彼女の母にとても良く回復させたから、彼女はとてもリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に恩に感じる。

今年(2011年)3月に、ある土曜日の朝、彼女は父が交通事故で入院する話を受け取って、病院に駆けつけて父を見舞うところ、父が苦しく病床の上で横たわることを見て、父にどこでどんな車にぶつかられたか、及び誰が彼を病院まで送ったかと聞いて、父はすべて知らない。検査結果が出て、父はただ肩甲骨に裂傷を負って、手と体が挫傷して、決して大した事ではなくて、入院しない必要はない。彼女は父がこのような状況だけになることがすべてリンチェンドルジェ・リンポチェに加持されたからと知っていて、その故彼女は父を家に送った後に、すぐ台北に戻ってリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見し感謝しに行った。それから警察局は交通事故の当日の現場にある交差点のモニターの記録を調べて、実は彼女の父はあるトッラクにぶつかられて、もしリンチェンドルジェ・リンポチェの加持がなければ、彼女の父が交通事故で受けた傷害はきっとこのような傷だけではない。

4月下旬、彼女の母は下半身が痛くて、起きてトイレに行くことができなくて、歩行補助器を使ってはじめてゆっくり移ることができて、翌日になると歩行補助器さえ使っても苦しくて、そこで彼女は休暇を取って家に帰って母を配慮する。最初の数日には、彼女の母の情況は好転したが、しかし良いことはすぐ去るから、ある日彼女の母は非常に痛いと言って、病院に送って痛み止めの注射をしてもらっても痛みを止めることができなくて、続けて2本を注射してから、やっと痛みを止めて、検査により胸椎骨折、椎間板ヘルニアなので、手術を行うリスクは極めて大きい。

土曜日、彼女は父と妹を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行って、上師に母の状況を報告して、同時に彼女の父も直接にリンチェンドルジェ・リンポチェにお礼を言って感謝した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父が先日に交通事故が起きた事と母の情況を了解した後に、直ちに彼女が大礼拝をすることを要した。

続く日々に、彼女の母の痛みはますます凄くなって、同時に下半身が半身不随になって、大小便がコントロールできなくて、歩くことができなくて、腹が一日一日と大きくなって、食事できなくて、彼女の心がとても惜しくて苦しいと感じるが、しかし手の施しようがなくて、毎日上師の法照の前で上師の加持で、母に苦痛を軽減させて、安着して往生することができ、もう医療の苦痛を受けないように祈った。彼女は母の苦痛を軽減することができなくて、母に代わってどんな事をすることができない。

彼女の母が往生する前の2日に、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの法照を母が見得る所に置いて、母にリンポチェの名前と様子を覚えているかを聞いて、母はリンポチェがハンサムな男だと答えた。

彼女の母は往生する前に、意識がとても明らかであり、往生する前にこんなに多くの苦しみを受けることを予測していない。往生する当日、普段と同様に、彼女は母にマッサージをしてあげて、彼女の母は起きて座りたくて、その時、家の中では彼女と母だけいて、彼女は母に、彼女なら一人で座ることを助けることができなくて、父が家に帰ってから母を支えることを待ってくださいと言った。昼ごろ、彼女が再び母を見舞うところ、母が全身発汗を起こしたことを発見して、彼女は急いでタオルを持って母に拭くように手伝って、彼女と父は母を支え始めて坐っていて、後ほど母にすこし心地良くなるのかと聞いて、母はどうしても答えなくて、彼女は見ると、母の唇が白くなって、呼吸はますます遅くなって、急いで父が119を電話することを要して、救急車が到着する時、母は既に呼吸していないで、救護者は彼女の母がもう脈拍がないと言って、応急手当をするかどうかと聞いて、彼女と父は母を動かないでくださいそのままにしたらいい、と言った。彼女は急いで骨董店に電話をかけて、兄弟子に母が既に往生したことを伝言するかどうかと尋ねて、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェが母を殊勝なポワ法を修めることを祈った。兄弟子は既に求めたかどうかと確認して、彼女は彼女の母がこんなに速く死亡したことを知らないから、求めることに間に合わないと答えた。兄弟子は、まさか平日道場でこんなに多くの兄弟子が分かち合ったことをそなたがすべて聞いていないかと言った。それから彼女に、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが電話をかけてもらったら、リンチェンドルジェ・リンポチェに報告すると言った。彼女は甘露丸を母の口に入れて置いて、そして母のため真言を唱えて、同時にリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に向かって、加持するように願う。

彼女はとてもリンチェンドルジェ・リンポチェの加持に恩に感じて、彼女の母の葬式はすべて順調に進んで、母の骨灰は白色であり、白色の中に紫や緑があり、梵穴には縁が整然とする丸い穴があり、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲に加持され、済度された瑞相である。葬儀の過程は論争と障害が全くなくて、非常に円満である。彼女は再びリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。

最後は彼女は、もしリンチェンドルジェ・リンポチェがいなければ、彼女の人生は白黒であり、仏を学ぶのは目標がなくて、方向を知らなくて、何回も探してみても生死に解脱する方法を知らない。彼女は再度リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは今日ガムポパ大師の教導する仏を学んで修行する精要と重点を引き続き開示する。前回の法会の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆が因果を深く信じることを開示して、この世界で誰が誰より運が悪くなくて、誰が誰より可哀相である事がない。そなたの身で発生した事はすべて、きっとそなたの過去世と現在にやったことと関係があって、すべてはそなたが自分で作ったので、すべては自業自得であり、全然に他の人を責められない。過去世にたくさんの業をつくったから、この一世に再び輪廻して、その故そなた達がそなたを輪廻に落ち込ませるいかなる行為を改正するべきである。善を行ったり悪を行ったりするのは全て業力を生んで、善業が重いのも或いは悪業が重いのも全てそなたを輪廻させる。人生には善業に比べて悪業がきっと何倍も多くて、もしそなた達は善業が重いならばここに来ることができなくて、人に生まれる理由は悪業が重いから。小さな悪ならやることができて、小さな善をしたくないと思わないでください。業を作ることを恐れるため、消極的になることをしないでください。

そなたの業障が重く、しょうがないともう1度言わないでください。これはすべてただ自分で口実を探すためである。このように言う人はすべて因果を信じなくて自分を改正したくない人であり、仏を学ぶ者は放棄する心理があるべきでない。業障が重くないならば、そなたはまたこの世界で現れるか。善業があまりに重くて多いのは仏を学ぶことができない。悪業が重くて、苦しみが比較的に多いのは、かえって比較的に仏を学びやすい。当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に皈依する時に、とても金がある時であった。そなた達がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しにくるのは、病気にかかったり、事業に問題があったり、訴訟があったりして、家庭が合わないことなど、すべてこのような人ばかりである。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは業障が比較的に重くて、直貢チェツァン法王の福報が比較的に大きくて、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子を収めてもう十分である。

現代人は情報に制御されている。10人に6人は朝起きたら、携帯にメールが入っているかをチェックし、4人はパソコンを立ち上げブロッグにメッセージが残っているかどうかを確認する。あなたたちはそんなに大切なの?リンチェンドルジェ・リンポチェにも携帯を持っているが、電話をする時以外、電源をオフにしている。何もかもパソコンに頼る人がいるし、物事にうろ覚えをしたら、パソコンでチェックしなければ思い出せないぐらい、昔の人はパソコンがなかった時代はどう生活してきた?人間の記憶力がそんなに優れないの?パソコンがあるようになってから、かえって記憶喪失になったかのようになっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは今でもEメールの使い方が知らないから、インターネットで情報を探せる直貢チェツァン法王がさすが上師である。リンチェンドルジェ・リンポチェがパソコンを習わないのではなく、毎日処理する作業がすでに複雑だからである。

リンチェンドルジェ・リンポチェが科学が良くないと批判するわけではなく、ただ末法時代の人間が益々怠けていくから、科学産品によってデメリットが多数生じた。中国史では北宋の時代、すでに紙、火薬や印刷が発明されたが、時代が南宋に変ったらあまり用いられないようになった。これが、当時の祖先はすでに事実をはっきり見分けし、科学が生活に利便性をもたらすが危害にも伴うと分かった。現在はインターネットが発達するから、多くの人がパソコンの後ろに隠し、言いたいだけ言い、自分の欲望を放縦するようにする。暇な時も、パソコンのゲームをして遊ぶ。リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に、インターネットで彼氏と知り合って敢えて結婚までした人がいるが、こうした交際方式の可能性は昔の文通みたいに、いい結果にはなり兼ねる。

こんなことをするのはあなたたちは自分の心を放縦するからである。心の深いところで追究し満足したい欲望をはっきり見分けしないで、人から何かくれて欲しているなら、たとえ佛を学んでも心構えは外道と変わりが無いのである。佛を学ぶことは精神科医ではなく、欲望を満足してくれないのである。いつも佛菩薩に何かをくれるように求めたりするのは守られるように求めていることだから、外道とは変わりが無いのである。外道の信者は何かあったら主に求めるし、間違いを犯しても許してもらうようにお願いすればいいし、新しい命をくれるようにし、何もかも主に任している。男性の弟子に、一家三代でカトリック教を信仰してきた人がいてこれが事実だと説明し、カトリック教の信徒では何もかも主に求め、絶えず求めている。「外道」と呼ぶのは批判をするわけではなくて、外に求めてばかりいて自分に要求しないでいるが、佛は自らし自分の心や行為に何かの問題があるかと何らかの方法で自分を反省するように教えてくれる。もし求めればいいなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労して閉関する必要がないし、これだけたくさんのことをする必要がないだろう。こんなのなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎日電話し直貢チェツァン法王にご加持を求めれば、守られるようにお願いすればいい?

仏法は他の宗教と同じように、人に善を行うように勧めるだけだと思う人がいるが、善を行うのはそもそも人間がすべきことであり、仏法は生死輪廻を重んじ、最初は善を行うように進めるところから着手するが、その後の教法内容は他の宗教とだいぶ違っている。仏法は善を行い、福報を累積するように教えるのである。こうするなら、心が比較的に安定し、仏法を聞き入れて仏法を受け入れるから、悪業の果報が現れるようになった時に、心が悪業に影響されないようになる。

仏法は仏陀の教法に従い、浄土への大道に向かう方法を教えてくれることであり、即ち『法趨於道』である。佛が言う方法は我々の人類ならできるものである。できなかったら、あなたたちが覚悟をしないで自分が達成できると信じないから、痴との範囲に落ちるわけである。法会に参加した福報は現世の生死解脱を助ける功徳に転じることができなく、来世でしか使えない。ペットになる可能性もある。仏経では動物や畜生道に生まれると書かれる。あなたがお経を唱えたり、持呪をしたりする時に、犬があなたの足場で静かに聞くなら、この犬も浄土に生まれると思うことは実に不可能である。この犬はあなたを守るように、犬に変った護法神やダーキニーは例外である。だが、これは本当の修行者のそばに現れるしかないのであり、修行者でなければ守ってくることがない。

ガムポパ大師が内心では現世利楽が溢れる修行者は、「博学者」、「高尚者」、「賢良者」と尊称されるが、実は世間で浮き沈みする法師で「八法」に過ぎなく、世間八法の代名詞だけしかない。

誰でも八種類の欲望があり、好きや嫌いなこと:苦、楽、得、失、毀、譽、稱、譏は世間八法であり、八風とも言われる。修行の過程では自分の内心をはっきり分かれれば、日頃の行為は八風に関係なくなる。表では仏事を行っているが、もし八風に関わるようになったら、それは仏法に関係なくなり、強いて佛付外道にしか言えない。佛付外道が良くないというわけではなく、ただ彼らのすることや言うことなどは仏陀が教えてくれる生死輪廻に関係ないからである。一般の法師は法会や灌頂を行うと名乗るが、心の中ではお金はいつ届くか、もし届かない場合、少なく言おうかなとの考え方は八風に溢れる。

もし心の中には八風に溢れるなら、いくら品徳が優れても、学問が良くても、善をどれだけ行っても、それとも仏法をよく教えても、法師であろうが、リンポチェであろうが、佛を学ぶ修行者ではない。ある転生のリンポチェはよく前世ではいろいろな大能力を持っているのを言っていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのリンポチェに「もし私と同じように腕白な信者がいれば、あなたの書かれた前世の事跡を見れば、今でも見せてくれと言うでしょう」と言った。行者が前世で持った能力は現世の修行とは関係ない。何もかも一からスタートしなければならない。ただ前世の修行があったため、現世では修行がだいぶ早くなる。もし、現世は誘惑に耐えられなかったら、修行も成就しないでしょう。このリンポチェが自分の前世を書いたのは、仏寺の義捐金のためだったから、あくまでも八風に落ちている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは八風のことに気をかけているから、リンチェンドルジェ・リンポチェはマスコミからのインタービューをあまり受けない。いったん有名人になったら、福報がこれによってちょっと減るからである。リンチェンドルジェ・リンポチェが毎年のように万人大済度法会を行い、年々参加人数が増えていくから、ニュースリリースを自ら配布するかとお聞きしに来た弟子がいるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは縁に従うが求めないようにし、記者が報道したいならば報道されるが、自ら宣伝しようとしない。1987年に直貢チェツァン法王に帰依して以来、リンチェンドルジェ・リンポチェが教派のためにたくさんしてきたが、2000年までの10数年の間、直貢チェツァン法王は大勢の前でもプライベートでもリンチェンドルジェ・リンポチェを褒めたことがない。理由の一つは、この弟子に福が足りなかったら、いったん褒められたら福報が尽きるとの恐れもあるし、もう一つの理由は善を行う福報があれば、行うのは当たり前であり、あなたに物事をするチャンスを与え福徳資糧を累積させるから、どうして褒めるのか。

寶吉祥仏法センターは清浄な道場であり、光明灯を灯さないし、年末になると信者に光明灯を灯すようと催促の電話をしないからである。リンチェンドルジェ・リンポチェが主催する法会もいわゆる功徳主を設けたことなく、今までなかったし、現在もこれからもないのである。大法会での全部の出費は寶吉祥仏法センターが共同で護持し、もしする能力がなければ、行わないほうがいいと思い、法会のためにわざわざ功徳主を探しに行く必要がないからである。しかも、お金をたくさん出す人が功徳が大きいとは限らない。もし、あなたの義捐金によって表彰されたら、あなたの寄付金による微細な福報も表彰によって用い尽くされる。

仏法はあなたと「心」について話すが、ここでの心をは恋愛を指すのではなく、発心が大事であることを指している。仏経では、ある物語を記載していた。ある国王はお金を出して釈迦様に法会を行うようにお願いしたが、法会が終わってから佛の弟子が釈迦様に誰の功徳がいちばん大きいかとお聞きしたら、釈迦様が「このお婆さんは国王がこの法会を行ってたくさんの人を喜ばせて歓喜心が起きたと褒め称えた」から、随喜の功徳がいちばん大きいである。仏経にこれを記載するのは弘法者に有名になるために信者にお世辞することができないことを注意してもらうからである。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏経で開示された内容に気をかけている。釈迦様が書かれたものにはそれなりの理由がある。ここ数年、リンチェンドルジェ・リンポチェが主催される対外の大法会はどれでも円満に終了し、たくさんの衆生を利益し、参加人数も年々増えており、これも諸佛菩薩と護法からのご加持とご加護にあたるものである。

法会が始まる前にある女性弟子が前に上がり自分の母親がリンチェンドルジェ・リンポチェがハンサムだと褒めてくれたと言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれで嬉しく感じないし、もっと修めなければならないと思う。仏経では佛の相貌荘厳には32相あると書かれる。男女に関わらず、相貌は累積の業報となり、本当の修行者なら相が変わり、心によって相が変るからである。女性が50歳過ぎてから、若いと褒められたら喜ぶし、おしゃれにもっと時間をかけ、もっとたくさんのお金をかけてアクセサリーを買うようにする。よく考えてみれば、なぜ相手があなたを褒めるのか?目的はどこにあるのか?相手に褒められたからこうした行為をしたのは、実に八風に吹かれお金も出していった。60歳近くの男性が若い女性にかっこういい、さらに好きだと言われると、嬉しくてたまらなくなり、服装や髪型まで拘るようになる人がいる。もし八風に吹かれなければ、この女性の目当てはお金だとはっきり見分けるが、もし自分が貧乏人だったら彼女に褒められないし好きになることはさらにないでしょう。信じないならば、明日倒産すると彼女に言ってみたら、まだ自分を相手にするかどうか分かる。腕が上手い彼女なら、お金があるかどうかに関係ないなんて言ってくれるかもしれないが、さらに翌日に彼女に100万元貸してくれ!と言ってみたら逃げるに決まっている。女性の人も綺麗だと褒められるのを好まないで下さい。そう褒められた時に、あなたの綺麗でいる福報もついでに使われるから、早く老けてしまう。おしゃれに気にしないでほしいわけではないが、一日中の時間をかけて顔に塗ったり、余計に着飾らないようにしてほしいのである。美容整形しに行く人もたくさんいるが、表だけ若く見えるが細胞まで整形できるのか?できない!いつもの通りである。最近、あるニュースはある有名な雑誌の80数歳の創立者がもとは1人の20数歳の女子学生を娶るが、それから女子学生はお金に取れないことを発見して、すぐ方向を変えて同じな年齢の人を探してと行く。どうしてそなたのこの年を取った年齢の者に気に入って、そなたがお金を要して、現金が受け取らない時、自然に逃げるだろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある女弟子の付き合い相手はよくないと分かったから、既に彼女にこの恋を断つと忠告した。彼女は相変わらず相手と付き合いのを主張して、相手は自分に優しいと感じた。若しそなた達に恋人が重要か上師はが重要かを聞けば、そなた達は必ず恋人は重要だと返事した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、三宝は最も重要である。この女弟子は若し自分が別れれば、相手との約束を守れないと言った。彼女はそのまますれば、いつか仏を学ぶことと衝突する。彼女は約束を守ると言ったが、相手は約束を守るだろう。彼女は自分が諸仏菩薩及び上師との約束を守る事を考えない。彼女はこのやり方は今後他人が彼女に約束を守らない因を播いた。また、八風に影響されて、失えなく、手を放さないと思った。実は彼女は最も自分の考えをはっきりに分かって、自分は何のために相手と付き合った。ある時唯一筋の命に賭けるが、如何しても手を放さなく、人生は有常だと思って、先日にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された死亡無常の教えを聞いていない。実はたとえ彼女は手を放さなくても最後相手も死んで彼女と分かれる。しかし、彼女は自分が手を放せないと思った。可笑しいのは当時相手と付き合った時にたとえとても大きい勇気が必要であれば、一緒にした後はどんな未来でも彼女は対応できて、また付き合いたくて、一緒にいる勇気を持っている。現在自分は手を話せないと言ったのに。唯そなた達は皆ばくち打ちの性格を持つしか言えない。

ある者は愛情を重視して、愛情をとても偉い事としてみた。男女或いは同性愛者の恋を含める。中国人は文字を作るのはとても理屈がある。実は「情」と言う字は心は青をつけた。青色は黒を現した。つまり、黒い心の意味である。愛情は相手を占有して、相手に自分の考えを満足させる。《地蔵経》に情欲を重視する人は死んだ後地獄に堕ちるとある。情と欲は二つ事である。一つは心の貪欲を追求する。もう一つは体の欲望、情欲を執着する人である。そうすれば、多くの貪り及び恨みを起した。そなたは相手と一緒にいる時、必ず相手に自分の心の中にある貪欲を満足させる。二人は一緒にいる時必ずお互いにある需要を満足するため。しかし、この需要は変わられる。満足できない時、恨みを起す。貪り及び恨みはそなたに地獄に堕ちる因を撒かせる。仏を学ぶのは実は好くて、そなたに清浄な心で相手をはっきりに見せた。多くの人は「私は永遠に貴方を愛している」と言う言葉をとても信じている。だから、離婚や別れは多くの人に対して、極めて苦しい。それは失いたくないから。此れも八風の範囲の中にいる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある時道で恋人が手を繋ぎって歩く姿を見た。リンチェンドルジェ・リンポチェは見ればそう思ったが、三十五度の高温の下で彼達は如何なる手を繋ぎっているだろう。両手は濡れて粘りするから、握っても手を放せても悪い。そなた達は苦しいかどうかと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは若い時も嘗てこのような事を行ったが、相手は手を繋がないと怒って、相手は自分を愛していないと思った。しかし、今仏を学んだ後、このような行為を見て、彼達は情欲を重視するせいだと分かった。自分の気持ちが変わったから、同じ物事に対して異なる考え方がある。釈迦牟尼仏は嘗て説かれたが、皆は正しいと言われた事は必ず正しいとは限らない。皆は間違いと言われた事は必ず違いとは限らない。

ポチェがこの数年間の開示は全てそなた達を助けて八風を対峙するためだ。若しそなた達は教えに従って奉じるなら、八風を離れて、そなたを損なう人に会えない。それはそなたにこの人はどんな人をはっきりに見せて、人を間違えなく見える。そなたは忠告を聞かず、恋人を別れたくないのに、言い訳して自分は業が重くて、前世に彼に借りがあったと言った。此れは最低の言い訳だ。そなたは自分をはっきりに見なくて、いつも外に求めたくて、自分が分からず出来ないと言うのは全て逃避する行為である。

先程法会前に皆報告して、リンチェンドルジェ・リンポチェに助けられた女弟子は多くの些細な事で親心を説明した。また母は自分の胸の中に息を止めたと言って、自分が母を親孝行したことを表現して、長く話して、皆の忍耐力を試練した。リンチェンドルジェ・リンポチェは休憩室にいても彼女の話しを止めたいと思った。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の母への加持を感謝したと言ったが、そなた達は聞くと、彼女は本当に親孝行だと思った。しかし、長く聞くと、彼女はいつも母を連れて加持を求めた事しか聞かない。リンチェンドルジェ・リンポチェは母が治されると話した事を信じて、母は引き続きに生きたいと望んだ。本当に仏を学ぶ人は聞くと、彼女は実はある修行者力を浪費したのを分かった。

実はリンチェンドルジェ・リンポチェは元々年寄りに対して優しくて、年寄りはリンチェンドルジェ・リンポチェに求めた時、リンチェンドルジェ・リンポチェは年寄りに話して、目的は彼達の心を慰めて、年寄り達に自分の病は余り苦しくないと感じさせた。しかし、この女弟子の報告した間に完全に彼女は母を代わりに懺悔する事を聞かなかった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがこの前に開示された死亡無常の説法を全く受けなくて、仏法に完全に観念がないと見えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の母を一回助けて、血色素量を高めた。しかし、彼女は母の状況を見ると、すぐ母を代わりに懺悔しなかった。また、母に肉を食べさせた。それは彼女が通常に上師の功徳を賛嘆しないのを表した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に大礼拝をさせたが、彼女は唯リンチェンドルジェ・リンポチェを利用して、母の病を治されて、完全に懺悔心を持っていない。何故母を代わりに懺悔しないと出来ないだろう。そなた達は最も自分の両親が行った事をはっきりに分かったから、自分の両親はいい人なので、悪事を行っていないと思わないで。若しそなたを生んだからいいと言えば、唯そなただけにいいだろう。わずかな人は胎児から菜食した以外、全ての人は両親に育てられた時、両親は子女のためにいくらの命を殺しただろう。そなた達は食べてみたから、知らないといわないで。毎年お正月の時、家族は集まった時食事して、母は厨房に料理して、魚や肉など数時間に切ったが、そなた達は喜んで一時間に食べた。しかし、殺生の業はもう播いた。此れは全部懺悔が必要である。

更に彼女は兄弟子が自分に甘露丸を送ったことを話した。甘露丸は勝手に食べられないが、即死の人に食べられて、彼に三悪道に堕ちない。そなた達はそなたに与えるべき物としてみて、電話をかけるとそなたに甘露丸を与えるべき。実は甘露丸があるかないか、寿命が有れば、甘露丸を食べなくても生きられる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に対してよいから、そなた達は大切にしなければならない。嘗て一回チベットにいる時、ラマはリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子に甘露丸を与えて、ちょうど側にあるチベット信衆が見ると、手を出した。そのラマはすぐあのチベット人の手を打って与えなかった。甘露丸は勝手に与えられないが、何故ラマはあの弟子に与えただろう。それは彼の上師はリンチェンドルジェ・リンポチェであり、リンチェンドルジェ・リンポチェは教派のために沢山の事を行った。若しリンチェンドルジェ・リンポチェがないと、そなた達は如何なる甘露丸を持っているだろう。

この女弟子の心も違いが、無常を信じなくて、この前の法会にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された因果を深く信じる事を聞きこんでいない。また、そなた達も彼女の話しを聞いたが、自分の母は早めに死んだことを思わなかった。実は若し母は体調がよく健康なら、母が長生きを望めばいい。しかし、若し母の体調が悪い場合、長生きを求めるのは唯母に苦しみを受けさせる。尚更に彼女の母は長年に病で苦しんでいる。仏経にある物語りに記載された。嘗てある母は息子が死んだから、泣きながら釈迦牟尼仏に求めて、自分の息子に生かせた。釈迦牟尼仏は彼女に近所の隣人を聞かせて、自宅で死んだ人があるかどうか。若しある家の中に死んだ人がいないなら、釈迦牟尼仏は彼女の息子に生かせた。死亡は必然的な過程であれば、我々は自分の周りに生起死亡の観念を持たなければならない。そなた達は自分は早めに死ぬ事が出来ないと思ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの側にいる人は常にリンチェンドルジェ・リンポチェは自分がいつでも死ぬかもしれないと言った事を聞けた。

リンチェンドルジェ・リンポチェの母も八十数歳で体も多くの病で苦しんでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て唯一回で尊勝なる直貢チェツァン法王に自分の母を加持する事を求めた。目的は母に仏を学ぶ因縁を持たせた。その後、リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで直貢チェツァン法王に母を加持する事を求めていない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは分かったが、自分が修めて、母を助けなければ行けない。そなた達のように通常に姿が現れず、問題が起こると、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めた。自分はしっかりに修めず、両親を代わりに懺悔しなくて、不断に上師の体力を消耗し続けた。此れは上師及び仏菩薩を利用して、自分の貪欲を満足した。このような貪る人は仏を学んで、唯表面的に仏弟子を見えた。しかし、完全に修正せず、相変わらず八風の中にいて、母を失いたくなく、得失心は変わらない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの女弟子は密法を学べないと開示された。

リンチェンドルジェ・リンポチェは笑って言ったが、今後益々の人は皆に報告する勇気がないかもしれない。実は心配しないで、用心にリンチェンドルジェ・リンポチェが開示を考えて、仏を学んで、出来ない部分に対して懺悔すればいい。

一般的にはある人は「敏感」と言われるのは八風をしっかりに手を捉まって放せない事である。そなたは八風を離れると、そなたは拝んで唱えるのはそなたの福報を累積できて、福報があって仏を学べる。我々の今世は全て業が集まって来たから、苦楽得失を問わず平常心で日々を過ごさなければならない。何故そなた達は上師と相応できないだろう。それはそなた達は教えに従って奉じないから。上師の言ったことに従わない。若し一分一秒でも仏法を日常生活に活かさないと、そなたは真言を唱えでも仏経を唱えでも拝懺しても、尚更に閉関修行しても功徳になってそなたの累世の業を変えられない。少なくとも人天福報になって来世に使え、今世は使えない。中国古代梁武帝は仏法に関して如何なる多くの事を行っただろう。しかし、達磨祖師も彼が唯福報があって功徳を持っていないと言った。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に毎日寝る前に《仏子三十七頌》に従って当日の全ての身口意を検討させた。そなた達は常に身口意が間違い事をした後、自分に理由を与えて解釈した。《仏子三十七頌》に各条の最後に於いて、全て行えるのは仏弟子であると説かれた。そなたの行為は合わなくて、仏弟子の行為を行わないのは間違い。法会に参加した時だけ修めて、出るのはそなたの正体を戻すと思わない。仏法は毎日使えているが、大礼拝をして、懺悔する時しか修行しない事ではない。通常に行える。現代社会に於いて皆はとても忙しいから、そなた達も長い時間を持って、数ヶ月間に閉関修行できないから、毎日の生活から行って、自分の心を起して念を動き事を検視しなければならない。若し自己を利益するのは悪念であり、すぐ懺悔して再び犯さない。それは本当の修行である。若し自分は当日《仏子三十七頌》に説かれた事を行えないなら、一日の生活を無駄にした。この一日は無駄に居てそなたも一日の修行の時間を減った。

若し八風を離れないと、平等の慈悲心を修められない。学んだ仏法で衆生を助けられない。そうすれば出家しても無駄になる。毎日他人がそなたを悪く対応していると思った。他人は物置の場所が少し違うと、そなたは相手が自分に意見を持っていると思った。それは世間八法を離れない。菩薩道の修行は慈心、悲心及び菩提心を修める。リンチェンドルジェ・リンポチェはある皈依の出家者は慈悲心を修めず、一緒に暮した人は物を正しく置かないと、怒って包丁を持った。幸い他の出家者は彼女は人を殺さないと分かったから、彼女と恨みを結ばない。若し他人であれば、恐らく警報を出すかもしれない。このような心は如何なる菩薩道を修行するわけではない。一緒に暮した高齢の老人はうまく行うと、彼女に怒った。ちっとも老人を尊重しない。古人は敬老尊賢(年上を尊敬し敬う)と言った。老人さえ尊重できないなら、他人を尊重するわけではないだろう。そなたは老けないだろう。そなたは老けない状況は二つしかいない。一つは直貢噶舉教派の中に不死の身と言う密法を修める。或いはそなたは短命なので、老けないまでに先に死んだ。そうすれば、そなたは老けない。このような年寄りを尊重しない人は目の上の人を無視している。

今度リンチェンドルジェ・リンポチェの会社はチマキを売った後に全額を返金することは、消費者のため商品の品質を厳しく監督することができなかったのである。この事件の担当者は、自分の下の者にチマキの製作する店を見に遣らせて、彼らが手袋をかぶったか、マスクをつけてチマキを作るかをチェックするべきが、彼女はしなくて、なぜか?それはこの者は通常人を尊重しなくて、他人を尊重すれば、商品の品質を監督するさえも考えて、消費者に安心なものを作ってあげる。

ある女弟子は病気にかかって、外国人労働者を雇ってお世話を貰って、彼女はきわめて無礼で、これあれを遣らせて、まるでお金を払うと勝て気ままな事が出来て、彼女に文句を言った。これこそ人様を尊重しないのである。

ガムポパ大師は申された:「彼らは非法の行為を如法のようにかぶったので、彼らが全てしたものは只黒心邪教の代表であろう。」

ガムポパ大師はここでとてもひどく言った、彼らは非法の行為を如法のようにかぶったので、彼らが全てしたものは只「黒心邪教」の代表であろう。また彼らは既に集めた苦難な世間の「悩みと業」に騙されて、それで彼らのすることは「輪廻の廻果に堕ちた」と言い過ぎない。例えそうであれば、あれは所謂「法趨於道」のではないだろう。

所謂黒心とは、彼らは作ったのは悪業、黒業なので、黒心と呼ばれた。しかし邪法とはそなたに悪事をさせるのではなく、そなたに輪廻を離れさせない方法である。魔はそなた達が想像したようではなく、外道が言ったように顔つきが醜くて怖いのではなく、終日そなた足しと戦争して或いはそなた達に悪事をさせるのではなく、実は魔はそなたに悪事をするのをおしえなく、そなたに良しことをさせる。福報は大きくなければ、善業は厚くなければ魔になれない。仏と魔と違うのは魔はそなた達に生死より離脱させなくて、そなた達をまた輪廻させて仏はそなた足しに生死より離脱するのを教える。魔は魔道の堕ちたのは輪廻を離れる方法があるのを信じなくて、輪廻はくるしいのを思わなく、善行をして来世また来ると思った。

最近ある者はテレビで人のため占い、また運を変わるならあるリンポチェに伺って、お金を払って加持を下さる。これは仏法ではなく、商業行為である。古代には占い師の地位がとても低くて、他の業種が全部出来なかったらするものである。古人も言った占い者は最後必ず一は貧乏、二は寡、三は残であり、きっとその中にの一つになり、ある者は三つともあった。だから仕方がなければ占い師にならない。現代人のように公然的に自分が占い師と言って、まだ自分が高級住宅、有名な車を持ってとてもお金持ちと示した。人様が命を占い方式で良く判断して、もう時間を尽くして手配しないのを見たことがない。

ガムポパ大師は仰った:「例え全面的に慈心、悲心と菩提心を起こして、どんなことをしても例えどんなことをしても如母有情の利楽へ成辦し、そうしてわれ等は全て修めるこの法は即ち道に行くのであろう!成辦とは衆生が生死を離脱するのを助けるのであり、それで自分が生死を離脱するのが出来なければどのように衆生に利益するか?そなた達は出来る前、まず発心して、慈心、悲心と菩提心を修習するべきだ。

例えどんなことをしても全部衆生を母のような恩人とすれば、必ずどの衆生に対しても慈心、悲心と菩提心が起こって、成辦利樂有情へ行き、そうして全て修めるこの法は即ち道に行く、仏になる修行する道へ行く。

どの衆生でも世間で数えない世代を輪廻して、どの世でも必ず2人父母がいて、たとえそなたは既に1万世を輪廻して、即ち1万カップの父母がいた。前世の父母は全てそなたと縁がある衆生で、この世には十分の一縁があって出会って、またそなたの父母、そなたの兄弟姉妹、そなたの主人、子供などになって、そなたのそばにいて。或いはそなたと縁がある衆生と、前世一緒に善業或いは悪業をして、それは共業であり、前世に善業か悪業を結んだか、お互いに恩或いは仇を返すか、債を返す或いは求めるか問わず、この世でそなたが全部返すべきだ。そなた達は衆生を自分の母親のように見て、例え縁がなければ、この世でそなた達も出会うことが出来ないのを分かって、そなたは彼に自分の母親のように扱うべきだ。どの衆生でも全部そなたの前世の父母を観修出来て、尊重して、彼に慈悲、菩提心を生じてお互い債を返してしまったら、生死より離脱して仏になる道へ行くことが出来る。仏弟子として仏法の観念でそなた達の縁を一層良くならせるべきである。

そなたは眷属ああるかどうかこれと仏法と関係がなく、只そなたの縁である。「寶積経」では言い及んだ、行者は眷属の縁があれば拒否するのが出来ない。眷属は全部そなたの家族は全部あなたの冤親債主であり、今日家族になるのはすべて過去世に一緒に善業と悪業をして集めたのである。リンチェンドルジェ・リンポチェはあの頃自分の生まれたばかりの息子を見ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは笑った。自分は痛ましくなるのを分かった。今後この息子のため苦労するのを知った。われ等は家の中に新しいメンバーを祝い、これは只中国文化の伝統で、実は、家に新生児が生まれた時、彼も只縁を結ぶため来たのを分かるべきで、縁がどのくらいかも知らず、あまり嬉しくしすぎるな。

ガムポパ大師は続いて開示された、例え只自分の利益のため修行すれば、それは声聞と縁覚を修める道へしか行かない。

末法時代の衆生は声聞縁覚を修めるなら、一切悩みを切るのが出来なく、出家衆さえも出来ない。先ほどあの出家衆は上師の教導に従わなくて、菩薩道を修めなくて、また声聞縁覚を修め得なく、この一生には出家したが、上師に皈依して仏を学んだが上師の教えによってしなくて、これは修めなくて、あれも修め得なくて、そなた達は一体何を修めるか本当に分からない。

現代の出家衆は多くの信者を貰う為、また外へ出て信者と付き合わなければならない。このようにしてお寺での勢力が割合に大きくなり、人がすくなくなれば勢力も小さくなって、掃除、料理場などの担当をさせて、ひいては大殿にいるのが出来ないと要求させて、その故で、出家衆は多くの信者が欲しかった。現在顕教とチベット仏教の中にこの状況全部あって、大変良くない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはやはり出家衆に勧めて、こんな信者を招く考え方が有らないべきで、勝手に供養を受け取ってはいけないはず、此れ全部返さなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て見た、既に往生した大成就者テンジン・ニンマ・リンポチェは往生する前数年、ハダさえも受け取らなくて、そなた達の供養も受け取らなかった。そなた達は仏を学ぶ者ではないので、そなた達に借りたくなかった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの供養は彼が受け取った。また嘗て一回インドで直貢チェツァン法王の図書館が開光するため、リンチェンドルジェ・リンポチェとドラブ・ワン・リンポチェと大殿前の広場で座ってダラィ・ラマが来るのを待っているところに、1人台湾の信者ははだを持って、ドラブ・ワン・リンポチェの目の前に跪いて、長い時間を跪いたが、ドラブ・ワン・リンポチェはやはり彼のハダを受け取らなかった。その後この者は恥ずかしいと感じて自らでそのハダを自分の首の上に掛かった。リンチェンドルジェ・リンポチェもドラブ・ワン・リンポチェがお金を捨てて返すのを見た。以前教派の大成就者永噶リンポチェは長く閉関して信者さえも見なくて、欠けたくないから。そなた達も分かる、この者は本気で仏を学ばなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の供養を取らない。既に皈依した弟子に限られなくて受け取って、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに返すことが出来るから。例え供養を取っても、またそなたに仏法の教えでそなたにもっと返し、全ての供養を超えた。

ある者は雑誌社で働いて他人のプレゼントを受け取って、それに当たり前と思った。リンチェンドルジェ・リンポチェも商売をしていて、今までプレゼントを取らないので、多くの面倒を省いた。

経典の中に載せてあり、龍樹菩薩は嘗て累世の業を返すのを示現した。龍樹菩薩は彼を殺しに来た者に仰った。我は既に累世の全部の業力を返してしまって、只一つを残った。それはある世に一枚の葉で一匹のありの頭を切った業がまだ返さなかった。そうして龍樹菩薩は彼を殺す者に教えた。一本の草で龍樹菩薩の頭を切って、それで最後の業力を返して、転輪聖王になって、彼も偉い大怙主直貢巴―ジッテン・サムゴンの前世である。龍樹菩薩は頭が切られたため痛いと感じるのが少しもない。証悟を修め得たので、業力に影響されることはない。

ガムポパ大師が開示された、「道遣除迷謬」とは、実が仏法を修める各次第を含んだ。こういうとどの様に「道」によって「遣除迷謬」をするか?全ての迷謬に対して、色んな対治品で直接取り除く。例えば、あの今生が「有常」に執着する観念は錯乱と迷謬で、それの対治品―死亡無常の修習を通じて、今生の暫く利楽に対して、一旦我らは「どうしてももう無窮に追求する事が出来ない」との考えを生じると、この時、即ち、死亡無常の修習する道を通じて、「今生有常に執着する」との迷謬を取り除き、これは下士の修法である。

「迷」は間違いを悟らず固執する事であり、「謬見」とは間違い見解であり、「道」は仏になる方法で、直接の方式で迷謬に対治し、各種対治品とはさまざまな問題に対して対治の方法と示す。

ガムポパ大師は申された、同じであれこの苦難の輪廻を幸福安楽の観念としても錯乱と迷謬で、それの対治品―輪廻過患の修習を通じて、輪廻善趣(よい行いをした日とが死後に生まれ変わる好い世界)の中に幸福と安楽様なものに対して一旦我らは感覚を生じて「どうしてももう恋恋として、執着出来ない」との考え方、この時も輪廻過患の修習する道を通じて、「執着善趣安楽」との迷謬を取り除く。これは中士の修法である。

リンチェンドルジェ・リンポチェの1人仲良しも占いが上手で、あの頃彼はリンチェンドルジェ・リンポチェのため尊勝な直貢チェツァン法王に紹介して、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に大変感激した。この仲良しは昨年往生してしまった。彼は死亡無常と輪廻過患の苦しみを深く信じなかった。彼は嘗て言った、こんなに多くの法会に参加して、多くの修行者、法王を伺って、1000回を超えた灌頂を受け取って福報が悪くないべきで、来世また遊びに来る。最初彼は北京へ行った前リンチェンドルジェ・リンポチェはまた彼に北京が寒かったと注意させた。気をつけてあちこちへ行かないで、彼はやはり信じなくて、一つに一つところへ交際して、このレストランより他のレストランへ行く途中で中風された。あの頃彼はリンチェンドルジェ・リンポチェを直貢チェツァン法王に紹介した。1人成就が得て衆生に利益する修行者に手伝う事が出来たら、一緒に功徳大海の中にいて、非時死亡することがない、しかし彼は真に輪廻過患の苦しみさを了解しなく、まだ世間な暫くの愉快に執着し、ついに死亡無常を深く信じなくて、彼の冤親債主はやはり彼を離れたくなかった。彼が倒れた時、なんでもなくなった。所謂良い友達さえもどこかへ行ってしまった。やはりリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を北京より台湾まで引き連れて、後事さえもリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を手伝った。あの頃、直貢チェツァン法王はちょっと台湾にいて、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた直貢チェツァン法王に病院へ彼を加持して、彼のため善縁を結びように懇請した。彼は只一語を言い間違ったのに、こんな結果が得て、だから話をするのが気をつけらなければならない。

そなた達は毎日目、耳、鼻、舌、体、意で日を暮らすには慣れて、心が影響されて動くと、貪、瞋、癡、慢、疑を起こして、そうして輪廻の中に堕ちた。そなたは借りがあればまた輪廻する。彼はそなたに借りた或いはそなたが彼に借りたか問わず、全部来て返すはずだ。そなた達は少し悪事をしても構わないと思わない。ある女はごきぶり、鼠を見ると怖くて叫んで、隣の男が英雄として美人を助けると思って、ごきぶり、鼠を追いかけて殺した。人を殺生させるのは罪一等を増えた。男女は付き合う時、海が枯れても石がただれても心を変えなく、生々世々一緒にいると言うな。日本の大地震、津波が来ると、石さえも無くなった。ある時、そなたはこの話をしたのを忘れたが、相手が覚えれば、彼はそなたを引っ張ってまた輪廻する。例えそなた達は永遠一緒にいると思っても出来なく、二人の業は全く同じはずがなく、同じではない業ため違うところへ行く。例えば2人は24時間でずっと一緒にいることが出来るか?出来ないだろう!トイレへ行くと分かれるだろう?トイレへ行く時、そなたは不注意で一匹の蟻を死なせて、相手はなくて、そなた達は同じではない業を作った。

過去世の輪廻は皆が全て覚えていないで、未来の輪廻は皆もまだ見てない。欠ける業力は存在したら、再度輪廻しなければならない。だから、何故仏を学ぶ事を善行しなければならないのでしょうか?此れは善の功徳の力が強いあんら、彼がそなたに恨む心を圧する事が出来る。輪廻はそなたが死んだ後である事ではなくて、現在、我々が毎日の生活が輪廻の中に暮しているが、そなた達も依然として輪廻の苦しみを体得できない。ミラレバ尊者は「六道輪廻の苦しみは考える勇気がない。」を説いた事がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ラチ雪山に閉関していた時に、自分の眼で六道輪廻の苦しみを見た事がある。自らの目で見る事とは眼で見ること或は想像する事ではない、言語にて形容する事が出来ない、ただ経験があった者が知って始める。だから、出関してから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事を直貢チェツァン法王に報告し、直貢チェツァン法王の確認をもらえた。此れは直貢チェツァン法王が既に修め得たので、知って始められて、そなた達は勿論知らない。現在、そなた達は体得が出来ないけれども、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが再度皆に教えて、真にとても苦しいである。

坊間には所謂仏教団体は信衆に来世に帰ってこの団体の会員に成らせて、もし彼らが200年以降再度帰ったら、その時にこの団体がこの世に存在しない、そうすれば、彼らが害させるのではないでしょうか?このような願力を発して再度人間になるのは生死を解脱する正法を修める事ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの外道を見た事があって、彼らが生前に菜食する事もあるし、仏に礼拝する事もあるし、が、生死を解脱する事を修めなかった。彼らだ死んでしてから、全て孤魂野鬼になって、前に修めていた一切である事が無用する事を発見していた。だから、これ等の鬼は乩童の身に付けて、或は土地神様などになっている。釈迦牟尼仏は後期に大乗仏法菩薩道の修行法門を紹介して、世人がこの世に菩薩果位まで修め得ることが出来て、来世にお願いに乗ってまた来て衆生に利益するのを望んだ。最後まで釈迦牟尼仏は末法時代の衆生が一生に菩薩果位を修め得るのがとても難しいのを見て、衆生をものともしないことが出来なくて、それでまた阿弥陀仏を紹介してくれた。純善だけ修め得て、蓄積の功徳がある条件に合えば、まだ菩薩果位を修め得なくても、先阿弥陀仏浄土へ行くチャンスがあり、証果が得るまで修行し続ける。在世時法界に融和するのを修め得れば、やはり生死を離脱するのを修め得ることが出来る。阿弥陀仏の48願は10地菩薩を既に修めえてから発した願いで、菩薩が自分が既に遣り遂げる事を知っていてから発する願いである。

釈迦牟尼仏が涅槃してから所謂「像法時代」に入って、此のときにの仏を学ぶ者は「有部」と「空部」の2派の言い方があって、両者がすべて円満ではない見解である。「有部」は一切な現象が真実である事を思っている。「空部」の「空」はないことではない。一切が空である事を執着する者は一切が偽で真実ではないと思っていて、つまり「頑空」である。例え再び生死せず涅槃に入っても「無餘涅槃」ではなくて、有漏の涅槃である。そなたが既に法界に溶け込む程度を修めるとは限らない、法性に入ってから再び生死しない。人々は仏と相同な仏性を持っていて、皆が相同な「根本智」を持っていて、「後得智」が仏を学んでからもらえる。然し、仏法を修めてから根本智を開発する事が出来で始めている。根本智が後得智を加えてから、益々実修して行って、真に空性を証して、宇宙の中に一切な事物の経緯を知られて、このように大きな力があって、真に衆生に利益する事が出来で始める。

この心構えがあったら、今世に短期的な利益と快楽を追求しない、心構えが変わったら、何をみてもはっきりして行く。しかし、人々は自ら苦しみを見つける事が好んでいる。智慧は衆生に輪廻を解脱する方法で、求めもらえる事ではない。仏を学んでから、慈心、悲心、菩提心を修めて、自分の執着と今世に「有常」の観念を消えさせて、この観念を持っている人であれば、自ずから新しい業を再度集らない。

また例えば、それらの自分が寂楽の解脱をもらえる「自了漢」を望んでいる観念は錯乱して間違っている。対治品の慈心、悲心、菩提心を修める事にて、一旦に我々が他人が自分により重要な心構えを生じると、その時、慈心、悲心、菩提心のこのような「道」を修める事により、「自分だけで寂楽解脱をもらえる」という間違いを除かせる。同様の道理で、それらの「執実執相」の観念が間違って、それの対治品を修める事により、つまり諸法実相とする空性で、一旦我々が一切諸法の「空而無主」が虚空のような事を悟って証するなら、その時、「諸法性空」のこのような「道」の修習に合格し、そして「執実執相」の間違いを消させる。これは「上士」の修め方である。

中士の修める方法はそなたが輪廻過患を知ってから、自分の身口意を注意し、如何なる間違いを犯す事をせず。我々は他人が自分により重要な観念を生じるなら、慈悲心を修めて始めて、心構えが高慢を持っていない。我々は誰かが悪行をする事を見たら、批評、学習、称賛が要らない、彼に感謝するべき。此れは彼がしている悪がそなたに因果の恐さを見させて、そなたにこのようにする事が出来ないを知らせて、そなたに慈悲心を修める事に助けさせて、だから、そなたの恩人である。教育に関して、正面と反面に分ける事もある。他人が苦しみを受けないなら、自ずから自分も苦しみを受けない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自身を例を挙げた。多年前に、当時の奥さんは離れたいで、本来、リンチェンドルジェ・リンポチェが離婚したくなかったが、その後考えて、そのまま続けると駄目だと思っていて、奥さんも嬉しくないで、子供に良くないで、結局、奥さんの決定を尊敬したので離婚した。その時にの顕教師父は「離婚が一寸良くない、他人にあげる印象が良くない」と話した。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分でむしろ一人で苦しんでいた。リンチェンドルジェ・リンポチェが感情に対する考え方は鮮やかな手際で処理し、自分に他人をはっきり見させて、同じように他人に自分をはっきり見させている。しかし、これもそなたが帰宅してから、相手に離婚する事を言う事ではなくて、これはただリンチェンドルジェ・リンポチェの自身の例だけである。我々はその主導的な立場をしてはいけない。離婚してから必ず嬉しくて暮らしている事を言う事がない、そうとは限らない。商売も同じように、リンチェンドルジェ・リンポチェはその時破産していた時に、小切手帳とクレジットカードが要らなくて、欠ける事がこのままだけで、新しい債務を増えていなかった。そなた達であれば、必ず再度借金して商売を挽回し、結局再び欠けて行く。

多年前に、リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教で仏法を学んでいた時に、暫く何も欲しくないし、仕事をしたくないし、家庭も欲しくない程度があった。出勤がいるので真言を唱える時間がないと思っていて、奥さんがこれが欲しくて、それも欲しくて、とても嫌がっている事と思っていた。多くの人々は仏を学んでからこのような状況に合う。結局、ある夜に寝ていた時にある夢があって、自分がとても綺麗衣服をつけて、もう一人の自分がもう一つの受付所に立った。そのところの自分が五濁惡世の中に、大衆にとても簡単な言語にて仏法を広めて、仏法を聞く人が全て嬉しかった。目が覚めると、自分の本来の考え方が間違って、大乗仏法を修める者は人々を遠くられるべきではない。或は声聞縁覚の方に修めて行った。既にこれ等の時間を使って仏を学ぶなら、衆生に利益しなればならない。釈迦牟尼仏は仏経の中にそれらの声聞縁覚を修める者に罵って、声聞縁覚を修める事が間違う事ではなくて、此れは広大な衆生に利益できないわけである。幸い、リンチェンドルジェ・リンポチェは累世の善根があって、だから護法が来て保護させて、リンチェンドルジェ・リンポチェが間違う方向に向く事を提示させた。仏法は絶対に役に立って、リンチェンドルジェ・リンポチェも常に皆に開示された。仏法はリンチェンドルジェ・リンポチェの身に役に立つなら、皆にも役に立って、これから、そなた達が決めてするかどうかだけである。直貢チェツァン法王は当年に法衣に与えた時に多くの人々を貰った事がある。然し、今日まで、上師になって仏法を広めるのはただリンチェンドルジェ・リンポチェの一人だけだる。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がある日に上師になって、仏法を広める事が考えたことがなくて、壇城の前に、仏菩薩の前に、絶対に嘘をつかれなかった。

釈迦牟尼仏は衆生の共業にて予言した事がある。末法時期、地球は干ばつ、ひもじさ、砂漠化があって、二つの太陽があって、最後、地球が爆発する壊滅して行って、そして、ある禅士が一部の人々を連れで天界に飛んでいく。。現在の科学により、太陽が二つに分裂する可能性があって、此れはある天体が爆発する前に、二つに分裂するためで、全ての大陸に炙って乾かして、水がないし、食べ物も無いし、生物が生きられない。現代の時間に見える現象ではなくて、しかし、現在の地球がこの方向に発展している。全ての人類は仏を学ばない限り、この共業発展の方向を転換する事が出来る。

ミラレバ尊者は「ただそなた達は六道に輪廻し、そなたが如何に修めても、ある世にそなたが地獄に落ちていく」を説いた事がある。リンチェンドルジェ・リンポチェの昨日の開示と同じように、ただそなたが直貢噶舉の弟子であれあ、直貢噶舉の上師が生々世々にそなたに世話してくれる。つまりそなたを地獄に落ちさせない。

そなた達は今日帰宅してから、よく考えて、自分は「下士」、「中士」或は「上士」を修めるのでしょうか?「上士」を修める者が高慢できなくて、「下士」を修める人も落胆しないでください。此れは「中士」と「上士」はすべて「下士」から来るわけである。「下士道」が基礎で、よく修めないなら、「中士」と「上士」も修めて行けない。家を建てるのように、基礎が造り終わっていないで、建物も建築する事が出来ない。そなたは「下士」、「中士」或は「上士」を修めるかどうかに関わらず、死亡無常の観念が心の中にしっかり覚えている。多年前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の父親が往生していた事を見ると、リンチェンドルジェ・リンポチェに死亡無常を強烈的な体得させた。道教を高いレベルを修めた父親は往生してから何も出来ないで、リンチェンドルジェ・リンポチェに人々が死んでから何も出来ない事を体得させた。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を接触してから、仏法だけで我々の生死大事を解決する事が出来で、だから、全部の心力を尽くして仏を学ぶ事を一心不乱になっている。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学んでいる過程には、順調だと言えて、その間に、離婚と破産があったけれども、リンチェンドルジェ・リンポチェに対して障碍ではない。最も重要なのは自分の身体え、自分に引き続き学ばせられる事が十分である。阿呆な人は仏を学んで始めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が阿呆だと謙遜的に言って、だから、仏を学ぶ事が出来で、賢い人は仏を学ぶ事が無理である。

寶吉祥仏法センターの理事長はリンチェンドルジェ・リンポチェと参列者に報告した。彼は法会の為に、内政部の科長を訪問し、科長が既にリンチェンドルジェ・リンポチェが大修行者に褒め称えている。彼は去年にリンチェンドルジェ・リンポチェが主催した阿弥陀仏無遮大超度法会に参加し、その時に、彼の岳父が一寸往生したばかりである。法会に参加してから、彼の娘が彼女の母方の祖父を夢見て、全ての髪が黒色になって、人も若くなって、彼の娘が彼女の母方の祖父に聞いて、何故このような変わりがあるのでしょうか?彼の岳父は「此れは全てそなたの父が助けるわけだ」と言った。その上、そちらの科長は特に理事長に頼んでリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝し、此れはリンチェンドルジェ・リンポチェが済度法会を行う以外にお金も受け取らない、その上また寄付して行く。毎年に全ての供養金を内政部に寄付し、その上、これまで用途を指定しないで、彼達に急難が救助する事にさせて、無数な困苦の家庭と多くの人々を助けている。今年、彼らの部長はリンチェンドルジェ・リンポチェが主催する大法会が円満して順調する事を祝賀するため、自ら中堂を書いた。それから、モンゴルとチベット委員会に着いた時に、委員会の人々も祝賀の中堂をリンチェンドルジェ・リンポチェに送って、その上、益々多くの人々がリンチェンドルジェ・リンポチェが知っている事を言った。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「これ等の事がリンチェンドルジェ・リンポチェに対して重要ではない、重要なのは人々に直貢噶舉教派が真に衆生に利益して、多くの事をして、台湾社会の助けを知らせて、これが十分だ」と開示させた。

理事長も言った。昨日、法会に参加する信衆は「法会に参加する信衆はこんなに静かって整斉で整然で法会に参加する事を見た事が無い」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「此れは法会の中に追い払われない事がないかもしれない」を笑いながら言った。昨日、法会の中に、その寝ている信衆に現場に離させて、わざと別に異なった意見を表明する事ではない、分からない人がリンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲ではないというかもしれない、我が疲れるので、勿論寝って、彼らに法会に参加させなかった。しかし、仏経の中に、法会に寝ている果報が畜生道に落ちていて、だから、彼らの来世がペットになるかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らが畜生道に落ちる事を望まないので、彼らに離させた。彼らがリンチェンドルジェ・リンポチェに嬉しくないかもしれない、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェが全然気にかけない。彼らがこれから仏を学ぶかどうかに関わらず、少なくとも今回の経験により、彼らに法会に参加する事が恭敬心がいる事を知らせた。そなた達が読書する時に、教授が台上で授業をつけて、そなた達は下で眠って、教授がそなた達に怒る事がありえないのでしょうか?講演者は台上で講演し、そなたが下に寝ていて、此れは恭しくないのではないか?まして法会に参加する事が重要である。実は、顕教の中に多くの公案がこのような事を記載されて、信衆が居眠りをする時に、法師が物を取って彼を投げる。仏経に「耳根にした事があったら、道種に永遠になる」を記載された事があったが、彼らが耳にした事があって、聞き入れる事がいって、睡眠中に聞いた事を含まない。『寶積経』と『大蔵経』の中に、信衆に媚び諂って、仏法を歪んでいく事が出来ない。

寶吉祥仏法センターのこの道場がそなた達に属しなくて、直貢噶舉教派に属している。リンチェンドルジェ・リンポチェが往生してから、直貢チェツァン法王はほかの人々が道場に主持させるかもしれない、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが死なないで下さい、そなた達が先に去る事を言ってはいけない。もしそなた達が死んだら、リンチェンドルジェ・リンポチェに供養する者がいないならどうするのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは「やはりリンチェンドルジェ・リンポチェが先に去ろう」と冗談で説いた。

2011年6月30日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な施身法法会を開催した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、今日修める法門はチベット仏教の八大成就法の一つであり、多くの人は「成就」の意味についてあまり理解していなくて、仏法の上でいわゆる成就とは、別にリンポチェがそなた達の考えを満足させなくて、仏菩薩がそなたの欲求を満足させるのもではなくて、この一生に生死輪廻すに解脱するためである。実は私達がするいかなる事は学習を含んで、引き続きし続ければ、最後まですべては力が発生することを知ってください。一般には学校でした学習は、最後によくテストという方法を使ってその効果を計って、今多くの人は試験を受けて免許を取るように、例えば運転免許の試験を含む。世間法では、試験を受けて免許を取る方法により、そなたが資格があるかどうかを確認することができるが、しかし、免許証を貰ってもそなたは百パーセントにできることを決して代表しない。仏を学ぶなら、ただ仏法の理論だけを習って、実修する力がないと、仏法を生活の中に用いることができないので、そなたが運転を学ぶように試験が合格して、政府もそなたが運転することができるのを許可するが、しかしそなたはよく運転できるとは限らない。そなた達は初めて外で運転する時に、緊張して身震いしていて、そなたが前に進むのに、結果は後退してしまい、左に曲がりたいのに、結果はそなたは右に曲がる。なぜこのようになるのか。そなたは確かに運転免許証があるが、実行する場合に依然として問題があり、これはそなた達がただ理論だけを習うから。私達が仏を学ぶのは何を学ぶのか。どんな結果があるのか。座禅を組んで、念仏を唱えて、懺悔することができたら、仏を学んで修行するのではなくて、仏を学ぶのは衆生に輪廻苦海を離れて助けることができるため、これこそ「成就」である。

仏法も同様な道理であり、顕教の顕はとても明らかにそなたが知っていることをさせられるが、しかし知っていても、できるとは限らない。一般に顕教で勉強した事は読経して、懺悔するのはすべて理論であり、仏を学ぶ基礎である。まるで運転するのは免許証が必要するように、基本的な理論を知っていなければならなくて、しかし理論だけあっても、実行する時にやはり困難があり、理論がないと仏法を実修することができない。ある者は車のエンジンを動かすことが出来て、しかし運転の知識に対して完全に概念がないと、同じく車をよく運転することができない。そなた達は仏を学びたいから、すでに仏を学ぶ車のエンジンを動かして、しかしどのようにこの仏を学んで修行する車を運転したらいいのか、必ず一人の上師に依止して、仏法の理論と実修する方法を勉強しなければならない。上師は経験がある修行者なので、そなたにどのように仏法を用いるように教えることができて、例えば運転の場合、許可証がもらった後に、さらに実際に運転する時にどのようにして、自分を傷つけないで、自分を利益することを知っていなければならなくて、車を目的地まで運転することができて、甚だしきに至っては他の人を利益して、他の人を彼の行きたい所まで連れて行くことが出来る。

仏法は宗教ではなくて、他の宗教はすべて信者が最高の神を崇拝するのでさえすればで、一貫してもし言って礼拝するならば際限がなくていつも雌で、キリスト教はイエス・キリストに礼拝して、しかし信者は最後にこれらの神が敬う下にただなだけ、そなた達がなることがあり得ないのは際限がなくていつも雌で、イエス・キリストにもなることがあり得ません。ただ仏法は衆生が全て仏陀性があると言って、縁を備えるのでさえすれ(あれ)ば、すべて生死に解脱することができて、縁がある人は仏陀の教えを聞いてしかもやり遂げる人を実行することができるので、お経の上に言うことがいて、浄土者を生むへ必ず福徳の縁を備えなければならない。福はどのように来ますか?5までやり遂げるのが10やめる良いである。

仏を学んで別に家がテレビを見る上の法師をよけて仏法を言いなくて、家でネットサーフィンするのもではないて、毎週を見ます リンチェンドルジェ・リンポチェ所の開示する仏法は学んで得ることができました。仏を学ぶことにとって、力をサポートするのはとても重要で、ただそなた達は本当に現場に来て、1位がドイツの師を備える上から仏ようである教えて、やっとサポートを得ることができます。いわゆるドイツの師を備えて上、ここの「ドイツ」が功徳で道徳ではないて、どうして道徳を言いませんか?なぜかというと道徳的にありかの地区、民族、時間、歴史変化に従って、功徳は通して修行して来るのである。1位がドイツの師を備えるのは上行者を修理する経験のがあるので、彼はどのようにやっと本当に衆生を助けることができることをするかを知っている。だからあれらの恐らくののしって罰した人も仏を学びにこないでください。恐らくののしられてよけて仏を学ぶ人に来ないで、直したくなくて、直す人は恐らくののしられることはでき(ありえ)なかった。自分を直すのは全宇宙の最も困難な1件の事で、もし師の常にの監督と教えに行くならば、偏差がありやすいである。運転するみたいで、すでに何ヶ月を出発し始めますが、しかしもし十分に休む長い一定の時間はつけませんならば、そなたもどのようにつけることを忘れます。仏法は日常生活の中で実行するので、連綿と続いて絶えないでします。チベットにラマ僧の見解があって、仏法の正しい観念を衆生に紹介するのである。釈迦牟尼仏の言い方の49年、衆生の各自の縁、業力と地域で異なるので、小乗、大乗と金剛の乗る仏法を教えました。もし細分するならば9が仏法に乗ることと言えて、しかし今日の討論の範囲以内にない。

今日加法に参加するのはそなた達の運をよくならせるためそうではなくて、あるいは病状は好転して、そなたの旦那さんに言うことを聞かせることもではない。再び運命判断をして或いは本の上で書いたことを信じないでください、ある地方である物品を放して中継輸送して運命を直すことができて、あれはすべて役に立たない。自分の事を中継輸送して、要してあるいは病気になって好転するとても簡単で、仏を学んでもやり遂げることができる必要はなくて、大きい部分の収入だけが必要で寄付していって他の人を助けて、自然とゆっくりとよくなって、しかし多くの人はすべてこのようにしません。中継輸送するのはとても簡単で、しかしそなたの運命を回転して、とても大したものになりました。そなた達のこの一生の発生した事のため、すべて亡くなってしたのなことがあって、今生して、そなた達の来世に影響します。仏を学ぶのはそなた達のを来世が良くならせていないことで、もしそなた達は過去のしたことを望むならば、仏を学ぶのためもともとこので現す因果応報発生でないを産むべきなことを使用して、あれはこの一生仏陀のを学んでよく、未来にすぐ因果応報があることはでき(ありえ)ない。そなたが心臓学の仏陀を出して時に修行する、そなたのが来世良くなっていませんために修理して、自然の多くの世の中の問題はすぐすらすらと解決して、似ている リンチェンドルジェ・リンポチェは常に開示して、そなたの現れ出る法は修理するのが良いことができて、世の中法も自然と良くなる。もししかしとらえないで今生もし着実な学問の仏陀が修行するならばならば、そなたの運命は仕方がなくて回転したのである。

そなた達は今日施身法に参加しにくることができて、すべて代々の縁で、前生は仏を学んだことがあることがいて、この1世だからそなた達に再び同様な事をしにきます。どうしてそなたはこの1世あることごとが発生しますか?そなたが前生した(作った)ことがあったため、この1世も再びそなたにさせます。そなた達は加法会に参加しにくる機会があって、このような福の新聞を大切にして、このような縁に続きます。

リンチェンドルジェ・リンポチェは沢山な衆生を助けた。彼達はリンチェンドルジェ・リンポチェの前に来た時、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の殺業がとても重くて、肉を食べて、悪を行った事を見た。多くの人は自分が分からないと言って、言い訳して、昔に仏を学ばないから、殺生する事を行った。この言い方を話した人は懺悔心がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼いから仏教の家庭に育てられなく、皆はよく知っているが、香港人は海鮮が大好きなので、食事する時必ず魚料理がある。それ言われても、リンチェンドルジェ・リンポチェはよく考えると、幼いから大人になるまで殆ど殺生の機会がなくて、包丁で肉を一枚切った事もなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは幼い頃、お婆はリンチェンドルジェ・リンポチェの母に指示して、リンチェンドルジェ・リンポチェに厨房に入らせない。お婆は「男の子だから、厨房に入るな。」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは大人になった後、始めての仕事は香港で最大なホテルの厨房に料理人の徒弟になった。見習い期間は唯三ヶ月だった。厨房にいるから、魚を切るや肉を切るわけではないだろう。しかし、不思議なのはこの間に彼達はリンチェンドルジェ・リンポチェにクリームを作るやトーストを焼くやバターを丸状に作ったなど仕事を担当させた。完全に包丁で肉を切った事がなかった。同期の二人の徒弟は早めに包丁で肉を切り始めた。この状況はリンチェンドルジェ・リンポチェは過去世の殺業はもはや返済して、また嘗て殺生しないと発願したから。リンチェンドルジェ・リンポチェのお婆も自分の菩薩である。現在の男性と同じで家で料理を作って、彼女を誘って食べさせる手法で彼女を追求しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今でもご飯だけ炊けるが、料理が出来ない。ある男性はロマンチックして、彼女の手を繋ぎって砂浜で散歩して、貝殻を掘りながら、とても綺麗だと言って、彼女に送った。結局また殺生した。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔今までこのようなロマンチックしていない。

そなた達は口で因果を信じると言ったが、本当に因果を信じないから、肉を一口食べても構わないと思って、小悪を少し作っても構わないと思った。そなたたちはいつも小悪を少し作っても構わないと思って、また仏菩薩に謝って、神や仏菩薩に守りを祈ればいい。実は此れは仏菩薩に関わらない。そなた達は自分は悪果を引き受けかなればならない。若し神に守りを祈れば本当に役に立つなら、ある媽祖を深く信じる有名人は長年に投獄されていない。何故投獄されただろう。それは果報を変えられないから。

先日ある弟子のお婆さんは病気なので、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼達に開示されて、お婆さんの寿命は間もなく終わるから、彼達一家に仏菩薩を求める。しかし、弟子の父は信じなくて、またお婆さんを送って、病院に手術を受けさせた。色々な医療方法を使って、お婆さんに大変させた。結局最近医師は出来ないと判定して、彼達にお婆を家へ連れると言った。そなた達は皆ライセンスを取る人を信じて、ライセンスがない人を信じない。此れは因果を信じない。ライセンスを取る人はライセンスによって話したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果の角度で物事を見た。

多くの人は自分が死んだ後どの道に行く事を分からないと言った。実は死ぬまでではなく、そなたは往生前五年にそなたがどの道に行くのをはっきりに見えた。そなた達は親戚が往生前に応急手当、手術や挿管など苦しみを受けたことを見た。全ての人は往生前に必ずこの苦しみを受けなければらないだろう。そうではない。そなた達は昔の出家衆を見て、戒律をうまく守れば、たとえ生死を解脱するまで修めなくても、三悪道に堕ちないと保証できる。更にめったに癌に罹る。そなた達は出家者が暮した生活はかなり清浄だが、現在出家者の生活はとても複雑なので、多くの人は死ぬ前に癌に罹るのを思うかもしれない。

一方、世間に流行っているが、自分の配偶を紹介する時、お互いに同修と呼ばれた。実は夫は夫であり、妻は妻である。同修という名詞はこのような使用されない。「同修」とは同じな上師に皈依して、仏を学び共同に生死を解脱する事を習うのは同修を呼ぶ。台湾でいつから、誰からこの名詞を使ったのを分からない。

仏は嘗て説かれたが、ある始めて仏を学ぶ事を発心する人に対して、彼達に因果を深く信じる事を教える。しかし、ある空性を悟る修行者に対して、彼達に因果も空性であると伝えた。始めて仏を学ぶ事を発心する人は因果を深く信じれば、一切の悪を断たれる。しかし、既に空性を悟る修行者は因果をはっきりに分かるから、わずかな業でも作らない。だから、この時彼に因果でも空性であり、尚更に世間の一切も縁起性空である事を習う。

そなた達はよく考えると、知らない人は今そなたの様子を見れば、必ずそなたの幼い写真の中に正しくそなたを見えない。ある人は恋するとき、子供の写真を相手に見せた。通常に言われたが、そなたは誰だと見えない。老けたとは言えないが、唯相が変わった。それはそなたも因縁と業力はそなたに変えさせた。

今日修める施身法はあるチベット人女性の在家瑜伽士マッチラ尊者は書かれた法である。マッチラ尊者は結婚があって、子供も生んだ。施身法は大蔵経の中《大般若経》の空性、六波羅蜜の慈悲、大手印の禅定、及び密法のポワ法を含めた。施身法を修める修行者は少なくとも十年の顕教の基礎を持って、六字大明呪を百万回唱えなければならない。百万回とはそなた達のように立ちながら唱えるや車で唱えるやテレビを見ながら唱える事ではなく、閉関修行の中に唱えて完成しなければならない。そなた達にある部屋に三ヶ月間に閉められて、人に会える事や話すや風呂に入られない。上師が教えた密法の生起次第及び円満次第の観想方式に従って、確実に百万回を唱えないと出来ない。終わった後、上師に審査されて、そなたは条件を満たすなら、そなたに不共四加行を伝授して、大礼拝が十万回、百字の百字明呪が十万回、マンダラを十万回差し上げると十万回上師相応法をしなければならない。全て完成すれば約三年にかかる。続いて、若し上師はそなたを認めれば、また阿弥陀仏灌頂を伝授する。その後に修行者は始めてポワ法を修める。ポワ法を修めて成就を得て、自分を助けて修められる後、尚更に悲願を発して、空性を悟れば、上師は始めて施身法を伝授する。ポワ法はまた自分のために修めると他人を助ける修める二種類がある。自分のためにポワ法を修められるのは一万人の中に唯一人だけだ。他人を助けて修める事は尚更に難しい。そなた達は現在施身法を修めるのはかなり難しいと分かるだろう。また、同時にこのような多くの人を助けて施身法を修める修行者は尚更に見る事が難しい。

このような多くの習い過程を通した以外、施身法を修めるのはまた一つの重要な法器が必要だ。この法器は人のすねの骨で作った。勝手にすねの骨を一本持てばいいわけではない。この法器を作ったすねの骨は法本に記載されて、特徴な条件及び特定な形が必要。尊勝なる直貢チェツァン法王は嘗て開示されたが、古代チベットに於いて、直貢噶舉の寺であれば、必ず毎日施身法を一座修めている。しかし、今はその伝統が既に続けなかった。それは施身法の法器を得る事が難しく、また、この法を習いのを発心する修行者も珍しく見たから。

施身法は重病な患者、自殺した人或いは事故により死んだ亡者に対して、特に役に立つ。実は仏法に於いて、事故死という言い方がない。全ての事は因果がある。人は事故死になるのは多くの悪業を累積するから、ある時間に突然に死んだ。つまり、時に在らずして死ぬことだ。ある人はある者は勉強が上手でとても利口な子供なのに、交通事故により死んだのはとてももったいない。若し死なないと、将来必ず国や社会に多くの貢献を与えると言うかもしれない。再びこのような話を言わないで。このように話せば因果を信じない。

修法する時、修法者はまず自分身の上にの護輪など聖物を外して、六道衆生はこれらの物を恐れるから。そうして自分の血、肉、骨を甘露に変わったのを観想して、鬼道の衆生に食べさせる。そなた達は観想して結構かと言うかも知れない。確かに役に立って、道場では多くの子供と年寄り者は嘗て衆生がリンチェンドルジェ・リンポチェのお体を食べているのを見た。しかし大人は見られなくて、彼らは考えが多くあったから。まだ道場に入らないのに、今日の法会が我らに対してどの役に立つか?冤親債主が済度されるとわれ等は良くなるかと考えた。思いが多かった。例えわれ等は抱いた思いは早く冤親債主を済度して、いい生活が出来るであれば、この考え方で法会に参加すれば、冤親債主は行きたくない。我らに害された衆生に直面して、われ等は懺悔心で彼らを助ける。そなたは仏を学び始め、仏菩薩はそなたが冤親債主との調停を助けて、絶えずに法会に参加するのを通じて、そなたの冤親債主は済度が得るのをさせて、そなたにもう恨まなく、そなたのことは始めて変わりが出来た。

この時、ある者の携帯電話は突然に鳴いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、携帯電話が鳴いたため法会を断って、われ等はとても荘厳な所へ行くなら、入る前衣装を片付けて、携帯電話さえもチェックするはずだ。そなたは忘れたと言わないで、閉まったと思ったと言わないで、これは油断だ。そなたは解釈するなら間違ったと承認しないとの現れである。間違ったら承認すれば結構で、そなたはまだ上師がそなたを誤解したと思えば、そなたはもう仏を勉強しに来る必要がない。

四年前、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てある男信者に彼が端午節前用があるので夜お酒を飲みに出掛けないと教えた。そうして彼はとても注意して、ずっと端午節のあの日の夜、彼は家でお酒を飲んで結局故がなく彼女に殴られた。もう1人はキャバレーを持ち、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんな利欲を貪る者が仏を勉強するにはとても難しいと分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼には用があるのを見た、彼に夜出るのを要求させて、さもないと酷い害をされるかも知れない。かれも大変賢くて、災難を避けるためわざわざアメリカへ飛んで行って、そうしたら外へ出るのを誘ってくれる知り合いがなかった。結局、ある日の夜酒場でお酒を飲んだ時わけもなく外国人と喧嘩して、殴られて、それに何ヶ月入院した。それより、例えリンチェンドルジェ・リンポチェは神通力があって分かって、そなたに教えても業報はやはり避けられなかった。

そなた達は今日法会に参加しに来て、ある者は自分が済度法会に参加しに来て、只自分の祖先、眷属と冤親債主を済度するためと思った。ある者は今は心の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェがなぜまだ法を行い始めないか、ずっと仏法を申されていたか?リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った、済度とは六道衆生を済度する、人道を含んだ。そなたが死んだ後はじめて済度するのではなく、生きている時済度必要だ。仏菩薩は六道一切有情衆生を済度して、そなた達は人道の中にいて、仏法を聞くのが出来て、それで、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が聞き取れる言語で仏法を開示されて、さきそなた達に教えて、済度して、そなた達の間違い見解を済度する。済度(北京語で超度との意味)は二つ部分に分けて述べる。「超」とは苦しい海より超え抜くである。「度」は?友達に紹介して法会に参加しに来て、他人を連れて皈依氏に来て、菜食、念仏して、他人を度出来たのではない。もう自分がいくら様を済度して仏門に入ったこんな話をしないで、これは全部打誑語である。「度」とは嘗てあるところへ行って、そなたが自分が先どう行くのを知って、自分が行く能力を持って、はじめて他人が行くのを助けるのである。そなた自分さえどう生死を離脱するか分らなければ、どう他人を助ける寡?先自度をしてやっと他人を済度出来る。法会に参加する動機は十分大切だ、そなたは自分の眷属が苦しんでいるのを考えばかりにしないで、勝義菩提心を生じするべきだ。菩提願を起こすのがそなた達は現在まだ出来なく、世間ではまだ苦難のある衆生が多いと考えれば結構で、彼らも仏法の助けを得るように祈る。

自分が良く修めて傲慢すると思わないで、このようであれば修行しないのである。傲慢する者は慈悲心を培養することが出来なく、それで、菩提心を修習して、自らの知恵を開いて、生死より離脱して衆生を助けることが出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは36才から仏を勉強し始め、二十何年を勉強してはじめて命を変わることが出来て、少し自分の業を転化してしまった。尊勝な直貢チェツァン法王に皈依しなくて、直貢チェツァン法王よりこの二十何年で加持とご教導がなければ、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分どの成就がないと信じた。それで、そなた達は何回の法会に参加して、何本の経文を読んで、仏を一、二年勉強して成就が得るように希望するなんで、これはありえないだろう?「妙法蓮華経」の中に説いた仏像にお辞儀して、仏道が既になった。そなたが既に仏になったのではなく、そなたは仏になる道で歩き始めたのである。

仏を勉強するのはわれらの身、口、意を修正して衆生に利益する。人の目は全部他人の間違いを見ている。我らは他人の過ちをとても見やすくて、自分の方はかえって見難い。毎日起きて、目を覚めると全部外の人、事、物を見て、自分のを見ず、この世界中には鏡或いは水がなければ、われ等は永遠自分の面容を見ることが出来ない。

われ等は輪廻を断って、浄土へ往生しようと発願する。輪廻とは単に一つ命を終わって、もう一つ生命の輪廻に投生するのではなく、死んだ後はじめて発生するのもなく、生きている時既にあり、そなたの情緒輪廻を含んで、そなたの毎日の心理と生理上にの変化は全て輪廻で、われ等は毎日ずっと各種輪廻の中にいる。施身法、チベット文で「断」との意味で、我らに輪廻をさせる悩みを断つである。仏法が説いた、人様には51個心所があり、どの心所でも違う情緒を管理して、十分細微で、仏経によると、人の悩みは貪、瞋、癡、慢、疑のため八万四千種類の悩みがあり、即ち八万四千種類n情緒があり、こんなに多くの情緒を言わず、そなたは現在はどの情緒と言って、そなた自分も分からない。それで八万四千種類の法門があって我らの情緒、悩みを対治する。毎度法会に参加して、一つの悩みを断つことが出来た。だから、そなた達は長期で法会に参加して、自分の性格はだんだん変わったのを発見することが出来た。ある事はそなたはいつも腹が立ったのに、現在かえって出来なくて、これは法会に参加して、そなたの八万四千種類の悩みをだんだん断たせて、そなたのもともと清浄な本性が始めて回復出来た。我らはどの事に対しての執着は全部悩みで、甘いものが好きのを含んで、或いは髪の毛はどの辺に分けるが決まっているとか、実はこれらは全部悩みである。お金に対して細かくして、稼いだお金は自分のものにして、惜しまずに供養、布施しなく、これも一つの悩みである。

自分は時間が多くて、暇があったら始めて仏を学ぶと思わない。一生懸命お金を稼いで貯まって、子供に残ろうと思った者もいた。この一生に全て得たものは全部前世作られたのである。例えそなたはお金持ちであっても死んだら持って行けるか?そなたはお金が子供に残るのが間違ったかと言うかもしれないが。仏経では述べてあり、お金は五賊が一緒に管理して、その中にの一つは子孫である。そなたはどうしてもお金を子孫に残ると言うかもしれなく、実は家の中にお金が多すぎると子供があまりよく勉強しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは出身が貧困ですごくこの点を体得出来て、そなたはお金を子供に残れば、只彼が業を作るのを助けた。

当時、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に皈依した時に、とてもお金持ちである。現在、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見している信衆は病気に罹って、或はお金がない者で、問題が一杯がいる者である。皈依弟子は10人の中に9人がこのように重い業障を持っていて、誰かだ微笑んで来てリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、自分が嬉しくて仏を学んでくる事を言った者がいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の業障が重くて、全てこのような弟子を納めていた事を開示させた。所謂同じ羽の鳥は群をなすのである。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェの願力と関係があるかもしれない。外の法師は数人の官員或は顕貴なる人を納められると同じではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェがとても苦労である。

引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法して開始し、修法してから、リンチェンドルジェ・リンポチェが引き続いて開示させた。法本の中に、施身法は往来経過の鬼と我々に解脱を障碍させる魔を済度する事を記載された。魔が醜くてとても恐怖である事とおもってはいけない。釈迦牟尼仏が成仏した時に、魔王が魔女を派遣させて仏を誘惑させられて、魔女がとても綺麗である。魔はそなたに悪事をさせる事限らない、魔もそなたによい事をさせて、しかし、魔がそなたが輪廻を断つ事を望んでいない、魔も輪廻の中にいる。我々は道教の影響を深く受け入れて、殺したり、駆除したり、封鬼したり、実は鬼が善門に入らないので、そあたが多くの善を行うなら、鬼がそなたに近く事をしないで、そなたに保護し、が、そなたが多くの悪業をしたら、鬼が来て始める。魔も善を行って、大福報があったら、魔王に成れて、一部の人々が仏を学んで修行し、修行すれば修行するほど高慢になる事が知らない、その時、魔がそなたの口からそなたの身体に入って、そなたの心に入って、『楞厳経』に記載されたのように、魔が飛んでから口に入れる。すべての魔は心から生じている。

法本には下記のように施身法を形容させた。施身法は魔鬼と悩みを切れる奇妙法で、空の中の太陽のように、雲に離れて、太陽の金色の光が四方に放つのように、広大無比な布施と供養をする事が出来で、時間と空間の制限を越えられる。布施は「法布施」、「無畏布施」、「財布施」を含めている。そなた達が出来るのはただお金、体力にて財布施だけで、今日、法会に参加すると、法布施をして始める。

そなた達に気づかせて、多くの人は果物で仏陀を供えて、もし果物で仏陀を供えるならば、市場に着いて、再び子供あるいは夫にどんな果物を食べることが好きなことを聞かないでください。それから、その果物を選んで仏陀を供えにきて、そのようにしたら供養がない。ただ自分が食べたい果物にて仏に供養したら、やっと買えって自分で食べさせろ。仏に供養する物は、果物屋に着いたら、自分が好きな物を選ぶ事ではない、自分の能力以内に最も良い果物を選んで仏に供養する。また、果物の賞味期間を超えてから早目に取って食べさせてはいけない、このような事をしてはいけない。花を供養する場合に、花の保存期間を越えてから変わって始める事をしてはいけない、道の側にある花を取ってはいけない、此れは万物がその主人がいる。草であれ、木であれ、この主人がいる。文芸の小説を学ばないでください、随意に花を取って女の子に送ってはいけない。そなた達毎日に新鮮な花と果物を仏に供養する事が出来ないでも、しかし、心がとても重要し、実は、最も大きな供養が素直に従っている事である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは肉食している者に再度注意させて、機会があってこのような珍しい施身法に参加し、もし法会に参加してから依然として肉食をして、一回で騙される事と思っているなら、御法もそなたに再び来させる仕方がない。一部の人々は自分が法会に参加するので、菜食し、が、自分の娘に肉食させて、このようにしたら栄養があると思っていて、これは錯誤の観念である。現在、肉の中に、全てホルモンである。そなた達はもし養殖業の記録映画を見たことがあるならば、現在アメリカの牛を飼う業者が牛の胃で一つの穴を作って直接餌をやって、鳥を飼う場所に鳥が一杯がいるので動かない、この方式により養殖して、肉の中に累積する事がすべて可笑しい毒素である。こえらのそなたに食べられた動物がそなたに復讐する能力がないでも、彼らの恨みが全て肉にあって、食べてから恐らく問題を出ないが無理である。

現在、女の子は何故生理期がより早目に来るのでしょうか?此れはそれらのホルモンを注射している肉を食べるわけである。生理期が早目にくる女の子は将来早目に老衰している。西洋の女の子は20歳を過ぎると、より年老いる事になって、これは肉食をして過ぎるわけである。だから、そなた達子供を連れで西洋式のファストフードの店に行って食事を再びしてはいけない。子供は食べられないので泣いたら、彼に泣かせるようにしましょう。彼に食べさせると却って彼に害させる。その上、何故「臭い男の子」を称するのでしょうか?これは肉食をし過ぎてから、自ずから臭い味を出して、どうしても皆が信じないで、臭い男の子が好きのでしょうか?これも共業である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「夏休みになって、そなた達は子供を連れで山辺の川、川に行って殺生しないでください。その上、彼らを連れで焼肉を言ってはいけない」を慈悲深く大衆を指摘させた。現在、ある高校生になっている弟子は、皈依した前に、また小学校生の説きに、ある日に急に厳重である急症に罹って、2週以内に死亡になる不治の病状である。彼の母親はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、彼に連れで焼肉をして行った事を言わないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に加持していた時に、彼のおじさんが彼に連れで谷川に焼肉をして行った事を見た。山の中に谷川の河辺は多くの竜族と空行母にいて、焼肉の味は空行母と竜族に病気に罹らせて、彼らが病気に罹ると誰かだ決算するのでしょうか?勿論そなた達である。そなた達は否認してはいけない、自分は焼肉を完了してから病気に罹らない事を言ってはいけない。現在がないが、そなたが死ぬ前に、福報が作って尽きし、彼がそなたに見付かってくる。「子供が焼肉をする事がない、ただ側にいて、私達がただある肉を挟んで彼に食べさせただけである」を言ってはいけない。実は全て共業にいる。焼肉をして遊部事は子供が嬉しいだと思ってはいけない、何か問題があったらまた楽しくなる事が出来るのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは30年前に台湾に来て、人々が癌に罹る事を殆ど聞かない、しかし、誰かが中秋節に焼き肉を要することを提唱することを知らないで、現在、多くの癌に罹った人が肉食するわけである。

そなた達は今日法会に参加してから、明日以降に全ての事が好転し、良くない事が発生しない事と思ってはいけない。一部の人々は法会に参加してから、恐らく幾つかの事を発生するかもしれない。ある者は参加してから交通事故にあって傷付けて、実は本来そなたに足を切らせて、しかし、そなたが今日法会に参加したのでただ小さく傷つけて、そなたに重い報いを軽くて受けさせた。果報が変わる事が出来ない、しかし、法会に参加してから果の味に変わって、こんなに苦しみがないわけである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「今日の法会に円満になった」を引き続いて開示させた。参列者は一緒に尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝していた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「謝る事が要らない、そなた達に感謝し、そなた達とあって、この法会があった。リンチェンドルジェ・リンポチェがする事はただリンチェンドルジェ・リンポチェがするべき仕事だけである」と謙遜的な説いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは「この世に『広東中国語』にて仏法を広めるリンポチェがこれから見付かる事が出来ないかもしれない」とユーモアな諭した。今回の施身法は何故前のように金曜日で手配する事ではない、却って木曜日で手配するのでしょうか?此れは土曜日に既に約170人の衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見する予約があって、もし金曜、土曜、日曜を3ヶ日を連続したら、体力がとても要るが、リンチェンドルジェ・リンポチェの年齢が益々お年を取って、何回目の施身法を修められる事も知らなかった。

2011 年 08 月 01 日 更新