尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示 – 2011年4月

2011年4月2日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時50分から夜10時15分まで、124信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年4月3日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝なる共修法会を主催して、《観世音菩薩普門品》の中の重要な観念を引き続き開示された。

法会開始前、ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェと皆に発露懺悔した。彼はすでに6年余り皈依したが、業障が深刻で、我慢貢高で、独りよがりのため、最近までようやく自分の過ちを反省することができるようになった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは《地蔵経》の、凡夫が心を起こし念が動くのは全て業であり罪である、という話をよく開示された。以前には、彼が聞いてもやめにしたが、これまでこの話を考えて、よく自分を反省したことがない。最近に至って、普通な生活を過ごして、とても普通な考えであるが、、突然彼は自分のすべての考えの内心の深い所が意外にも全部自分の利益のためであることに気づいて、生活の中で有意無意にいつも間違いを犯して、自分で思うようによい事をしたり人をしたりすることでも、意外にも同じく間違ってしまって、ただ自分で知らないだけである。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持力がなければ、彼は反省の機会と、過ちを認める勇気さえない。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼にこの懺悔する力を与えたことにとても感謝して、今日彼が懺悔した後、、この懺悔する力が彼の内心の深い所のあかと悪習を洗って綺麗にする事ができて、今後間違いを再び犯しないよう祈願した。彼は毎回自分の犯した過ちを思い出して、そんなに多くの衆生の肉を食べたり、よく海鮮を食べたり、口業を犯して、貢高我慢で、彼はとても恐れているが、どのように返したらいいかが分からない。彼は多くの問題があり、性格が過激であり、独りよがりであり、内心に不満と嫉妬を満たして、深く貪ってケチであり、供養と布施を惜しまなくなくて、十不善業を彼がほとんど全犯した。

彼は小さい時から田舎と漁村で成長して、子供の時に、小さな昆虫を遊ぶこと及び魚をつかむことを興味にして、どのぐらい殺業を犯したかが分からない。コガネムシ、コオロギ、チョウ、をつかんで、はじき弓で小鳥を打ち、ミミズを掘り、ガエルを釣り、ミミズで魚釣りをして、蛇を打ち、アリの巣に水を入れて入り、鳥の巣を破壊して、わざとアヒルとガチョウを恐がり、果樹園の中の果物を盗んだ。当時年齢がまだ幼いからとても面白いと思ったが、今間違ったことを知っていて、自分自身の無知無明と貪念のため、こんなに多くの衆生に傷つけさせられた。その中の最も憎らしいのは渓河で毒を撒き魚をつかみ、河川を汚染したことである。常に殺虫剤を噴き出して、クモ、ゴキブリ、蚊とアリを殺して、ハマグリを掘ってしかも煮て食べて、蛤を一つずつ熟して開いた事を見て、とても楽しくて、完全に同情する心がなくて、たくさんの衆生の肉と海鮮を食べた。彼は間違ったことを知っていて、今のところ後悔しても追っつかない。この殺生の罪業が、彼はどのように返すのか?

それから彼は会社で仕事をして、会社の見本を盗んで換金し、工場のリベートを受け取り、出張の費用をそのまま実費申請しなくて、このような貰うべきでないお金を貰った。最も憎らしいのは軍隊生活の時に、職務の機会のため、食事費用の偽の支出で申告して自分のお金として使い、これらの不正なお金について、今のところやっと彼は間違ったことが分かった。

彼は生まれつきであまり話をしたくなくて、内気でまた恥ずかしがって、しかし毎回毎回口を開いて話すと他の人に感情を害する。独りよがりな考えは常に人に煩悩を起こさせて、同じく常に他の人の是非を言って自分を吹聴して、自分の意見を合わないと嗔念を起こして、他の人を責める;口業をつくり、妄語を言い、綺語を言い、毎日有意無意に間違いを犯している。今彼は間違ったことを知っていて、彼の独りよがりのため、他の人に多くの悩みが起きさせた。

彼は父母に対して大変親孝行しなくて、いつも父母を心配させて、よく言い返した。自分は父母より賢いと思って、父母が彼に対する恨まず、悔やまずの思いやりと与えは彼がいままで恩に着たことがなくて、当たり前だと思った。彼は毎日貪瞋痴慢疑の心で生活を暮らしている。1回彼は重い病気にかかって、2年間で仕事をすることが出来なくて、全ての貯金も使い終って、お母さんはこっそりとすこしのお金を生活費んをとして彼に詰め込んだ。あの頃、彼は母親がとてもよかったと感じたが、まだ真に恩に着ることをしなかった。彼は自分が間違ったと知った。小さい頃から大人になったまで、彼は父と距離があると感じた、それは一緒に日常会話をするチャンスがすくなかったから、そのゆえ、彼は父に対しての感覚は一層疎くてお父さんに関心を持ったことがない。彼は父母と一緒に住んでいないので、父母に心配を掛けさせて、すこしも体得したことがない。最近ある日の朝、彼の父親は早朝特別に大豆苗を彼に持ってあげて、彼はそれが好きで、あの時やっとお父さんもこんなに愛してくれるのを分かった。彼がすでに50何才なのに、まだお父さんにこんなに心配を掛けさせて、彼は自分が間違ったと知った。自分の不肖のことと父母にたいして恩に着ないのを懺悔した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したからこの6年間に、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に多くのことを助けたが、彼に教えなかった。毎回事後彼がやっとゆっくりと体得した、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持がなければ、彼は切り抜けてくることが出来なくて、今日、自分が間違ったのを知ることも出来なくて、懺悔するために出ることも出来ない。同時に彼はこのチャンスによって、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を称賛する。まず、彼が帰依して1年間あまり後、リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて四加行大礼拝を口授した。彼はそれを聞くと涙がすぐ流れてしまった、深刻に仏法の貴重を感じたから。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した前、彼は嘗て外の四大名山及びチベット仏教を走り回って、灌頂を受け取ったが、仏法の貴重のを体得したことがなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な教法は彼に深刻に仏法の珍しさを体得させた。それで大礼拝を伝えた後、彼は一生懸命にお辞儀をした。しかし、彼は30何才時、ベッドの上で腹ばいになった時、息子に彼の背中の上に飛び上がられた、これから彼の脊椎はは負傷して,重い品物を持つと翌日彼は麻痺の状態になって、床から起きる、体が回ることさえ全部できない。しかし、大礼拝をしていたこれらの日の中に、ある日まだ時間があって、彼の貪欲のためすこし多目にして、翌日彼は全身麻痺になってしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て申された、これは業を取り消すので、彼は我慢して痛みを無視して、やはりし続いて、このように何回を繰り返した後、彼の痛みは知らないうちに消えてしまった。

また、ある夜中に十二指腸潰瘍の痛みは目が覚めて、地面で転がるように痛かった。あの頃、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に懺悔心が起こって、彼の心の中にリンチェンドルジェ・リンポチェに頼ることが出来ると思って、例え彼はお辞儀をして死ぬとしても、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を助けて済度するので、恐れることがない、それよると、彼は痛みを我慢してずっとお辞儀した。彼は以前嘗て夜中谷川に谷川の蝦を釣って、酒で漬けた。蝦は酒の中に漬けられて、全身が縮こまった苦痛を思い出した、それでリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に懺悔して、108回を辞儀した時、3ヶ月ほど痛かったの痛みが意外に消えてしまった。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な力は本当に不思議であった。

十数年前、彼は重病に罹って、多くの薬を飲んだから、彼の頭が障碍を多く起して、考えられない。頭が考えると、割れるような頭痛が現れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て彼を三回、四回見た。毎回見た後、彼の頭が特に痛かった。しかし、数日後痛みが徐々に消えた。それで彼ははっきりに考えられた。このような三回や四回が経った後、彼は始めてリンチェンドルジェ・リンポチェが彼を助けた事を分かった。

彼は昔海鮮が食べ好きだから、皮膚病に罹って約二年半続けていた。毎日いつも夜中まで痒い所をぼりぼりかいてから眠られた。毎朝起きて、ベッドに血だらけだった。幸いリンチェンドルジェ・リンポチェの寶円膏があった。毎回皮膚がぼろぼろして血が流れるまで掻いて、そうすれば痒くなかった。しかし、毎日風呂に入った時、とても痛んだ。寶円膏を塗った後、痛みを和らげた。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された因果を信じて、返済すれば無事になるのを深く信じた。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持が有るから、彼はこのような日々を過ごせた。去年(2010年)まで日本普巴(プルパ)金剛の法会に参加した後、翌日彼は自分が既に眠れた事を思い出した。

人身が得るのは難しい。仏法を聞くのは難しい。上師に遇えるのは難しい。今世彼は全て得て遇えたから、今後彼は余命を使って、上師の命に従って、教えに従って奉じ、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに仏法を習って生死を解脱する。また、自分が仏を習う事を通して、衆生を助けて苦しみを離れる事を願った。

続いて、他の女弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達一家四人を助けた事を報告した。非常にひどい一酸化炭素中毒状況で死ねず、まだ生きている事跡である。

3月13日法会が終わって帰った後、彼女の長女は部屋から出て、自分が非常に気分が悪くて、心拍はとても激しくて、手足が痺れた。それで彼女の夫は長女を背負って病院の救命救急センターに行った。途中で長女は非常に恐がっているから、泣いて彼女に言って、「私はリンチェンドルジェ・リンポチェに会える」、「私はもうだめだ。」彼女は長女に息抜きをさせて、当時リンチェンドルジェ・リンポチェに会えなかったが、リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て説かれたが、リンチェンドルジェ・リンポチェを思えば、助けを得られると言った。長女はリンチェンドルジェ・リンポチェを思いながら、六字大明呪を唱えて、徐々に落ち着いた。娘が更に言ったが、自分が皈依したくて、浄土に行けない事を恐がるから。検査した後、長女の血圧と心拍は正常で、後程出た血液レポートの結果は血液が炎症しなくて、唯貧血である。彼女の夫は彼女に責めて、子供に菜食させて、体が弱い。尚更に病気に罹った時、両親を考えず、リンチェンドルジェ・リンポチェに会いたい。同時に子供に宗教に対して偏差があるのを責めた。彼女は夫に言って、子供が病気になると、父母は助けられない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは「観世音菩薩」のように子供を助けられる。しかし、夫はまだ意見が多いが、彼女は自分が悪く行ったから、夫に仏法を信じれないと思った。

これからの土曜日(3月19日)、リンチェンドルジェ・リンポチェは信衆を接見しなかった。3月20日の法会を完了してから帰った後、彼女の長女は入浴していて終わってから、末の娘が入浴した。程なく、長女は「心脈が速くて、調子が悪いし、もう死にそうだ」を泣きながら話した。彼女は長女を寝る事を慰めた梳きに、末の娘が部屋に入って、ベットに「胸が痛い!死にそうだ」を大声で泣きながら話した。彼女の主人は最初末の娘が騒いでいたと思っていたので、末の娘に罵って、木の匙で打った。末の娘は「もう死にそうだ」を大声で泣きながら大喝した。その時、この弟子の自身もくらくらしていて、彼女は末の娘と長女に横たわらせて、一寸窓の下にいて、だから、彼女の主人が窓を開けた時に彼女がとても心地良いと感じた。だから、主人に窓を窓を閉めないでくださいを教えて、二人の娘も直に心脈を益々安定して寝ていた。その時、彼女の自身もくらくらして寝るように、然しある声があるようで、「彼女が寝てはいけないで、起きて彼達に救う」に話させた。

彼女の主人は彼女が八字を他人にあげるかどうかにとても嬉しくないで責めました。彼さえ気分が悪くて、一頻りが気絶していた。或は彼女は夕食が何を煮たので、食中毒のでしょうか。だから、彼女は台所へ行きたいで一寸確認し、しかし、台所で昏迷して横たわった。どの位分からないで、寝付くようで、意識がなくて、然し、急に心の中に「六字真言」を唱えた。唱えてから、ある指先で弾く声が彼女に驚いて目を覚まさせた。彼女は目を開けて主人に呼んで彼女を支えて、主人が来た時に、彼女が主人に「リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた事があり、皈依したら、戒を破らないならば、鬼のような事を発生しない。」と泣きながら言った。彼女が大変だと泣きながら話して、彼女が必ず何かを間違って、彼女が道場に追い払われて、然し、言ってから、落ち着いて、彼女は主人に彼達が全て中毒したことを教えた。彼女はミルクを持って家族に飲ませて、自分を少しを飲んで、それから宿題をして行った。

牛乳を飲み終わった後に彼女は吐いて、が、宿題が終らないので、彼女はまた居間における壇城の法写真の前に引き続き宿題をした。その時、彼女は居間の窓が閉める事を急に発見し、平日に仏机の上で油灯を点灯しているので、彼女が通常で窓を開けて、だから、彼女が窓を開けて宿題をして、その上、自分が間違ったと考えていた。

翌日の朝の十時に、彼女の家族の4人は一緒に病院について急診にした。彼女達はよく入ったので、医者が厳重ではなかったと思っていたので、検査をしたくなかった。彼女は医者に家族の病状と経過を絶えず言って、その上、前にこのような類似な病状ので急診にして来た事があり、然し、今回は家族の4人であり、状況がもっと厳重し、中毒はずで、また、毎回、子供が入浴し終えてから発生した。医者は一酸化炭素中毒と推測、だから血液検査をした。一酸化炭素中毒を確認してから、彼女達は酸素を吸い込んで、その上高圧の酸素の治療を受け入れた。過程の中には、この弟子は一番速くて高圧の酸素の治療を受け入れて、その上検査の結果が、家族の4人の中に中毒の状況は最も軽微で、皈依しない法会に参加した事がある二人の娘の中毒状況も彼女の主人により軽微である。彼女の主人は治療を受けた時に、治療室の壁の上で1枚のポスターを貼っていることを一寸みて、内容は一酸化炭素中毒の状況と徴候であった。ポスターの情報により、彼達の家族の状況により活きている事が無理だと驚かして発見した。

彼女の心の中に金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェにとても感謝した。彼女達の無知で、緊急である状況の下彼女達の全家族を救ってくれて、その上、彼女の主人が彼女が仏を学んで宿題をする事を強烈に反対しないで、時には彼女に宿題をするかどうかを提示させて、その上、壇城の前の灯が消えない事を問い合せた。彼女は金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェが大慈大悲でいつも弟子に世話してくれる事にとても感謝した。彼女は自分の累世の罪業が深くて重い事を感じて、布施、供養、教法に従ってしっかり実践し、上師に親しくする事をしないで、しかし、慈悲深く上師が依然として彼女と家族を絶えず加持してくれる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に登った後に、引き続き皆に《観世音菩薩普門品》の中のいくつかの重要な内容を開示した。多くの経典はすべて修行する方法を開示するが、ただ普門品は特に観世音菩薩が衆生を救って度する修行と功徳を提出された。普門品の中で、人間として殆ど出会う各種の災難、「非時而死(意外死亡)」の状況をすべて書かれて、どのようにして「非時而死」を免れることを開示して、つまり災難あるいは意外事故の中で死亡しない方法である。仏菩薩はどうして私達に「非時而死」を免れるように助けるのか。なぜかというと、「非時而死」の人は約百パーセント100%地獄に堕ち、そなたが福報がなおあるのでない限り、そなたの家族が大修行者に出会って済度してくれる縁があるならば、やっと悪道に堕ちる苦しみを免除することができる。そなた達に「非時而死」をさせない理由は、「非時而死」であれば、そなたはこの一生に弁済する時間がなくなるから。この世にもし債務を返していないと、来世になってもやはりまた弁済しに来なければならない。仏菩薩は衆生の「非時而死」のことを忍びなくて、だから各種の方法を考えつくして衆生を助けるのである。

普門品に言及されるのは、仏像に礼拝したらどんな事がすべて発生しないのではなくて、災難、意外がやはり発生するが、発生な時に、観世音菩薩の名号を唱えて、菩薩はそなたを救いにきて、そなたを助けてあげる。大事なのは、業果を改変することができないが、しかし一心に観世音菩薩の名号を唱えることを通して、これらの果報を軽減することができて、ようするに重な報を軽く受けることである。もし仏像に礼拝したらどんな事がすべて発生しないならば、経典はそなたに、ただ観世音菩薩を信じるのでさえすればもう十分である事を教えて、そんなに多くの菩薩が衆生を救い度するストーリをも話す必要がない。

そなた達のいわゆる「意外」は、そなた達は発生することを思いがけない事であるが、しかし事実上いかなる事はすべてその因果がある。「非時而死」の人は突然発生する災難あるいは事故の中で早めに生命を終えるため、仏を学ぶ時間がなく、「非時而死」になるのは累世或いはこの世に犯した殺業のためである。実はまだ過去世に言及する必要がなくて、すべての人は今世に生まれてから今まで、衆生を傷害したことがあって、殺業を累積する。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは過去何回も開示して、私達のこの一生の肉体の上で受けたいかなる傷など、小さくは皮膚にちょっと血を流すまで、すべては過去の殺業の果報である。法会に参加して、読経して、拝懺すると、そなた達の累世の殺業を取り除くことができると思わないでください。もしこのようにして業を転じることができたら、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに苦労して閉関修行する必要はないでしょう。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも皆に教えて、すべての事が上師に任せたらいいのではなくて、上師がどのようにそなたを手伝ってもそれとも限度があって、そなたはやはり自分で修行しなければならなくて、仏法を生活の中で実行して、先に自分で自分を守ることができるようにさせる。

お経にはあるストーリを記載される。釈迦牟尼仏は嘗て弟子を連れて1つの林を歩いたことがあって、地の上に1群の群鳥がいて、釈迦牟尼仏は鳥の身の回りに歩いて、この群鳥は依然として安心して自分の事をして、少しも驚きあわてることがない。しかし仏陀の弟子が歩いていく時に、この群鳥の驚き恐れて飛びたった。釈尊の弟子達はとても好奇心があって、仏陀に伺いを立てて、私達の弟子達はこの世にすでに殺業を断ってしまって、すべても阿羅漢まで修行して、どんな原因でこれらの鳥が依然として驚き恐れて飛び去ったのか?仏陀は開示して、これらの弟子はこの世にすでに殺業を止めたが、しかし累世の殺業の余力がまだあるから、動物の感じはとても鋭くて、この余力の作用を感じることができるのである。だからこれらの鳥はこの殺生の余力を感じて、驚き恐れて飛び去った。お経が業力を形容するのは、香りのを1つの部屋の中に入れて一定の時間に置いて、たとえ木を移していっても、依然として香気をかぐことができる。もし魚や海鮮など商品を部屋の中でとても長く置けば、たとえ魚の商品を部屋から移しだすが、しかし生臭さが依然としてとても長く持続するから、人の心念はとても恐ろしい。累世の業力はこの1世に影響する。たとえ、そなたは体、言葉、行為、今甚だしきに至っては考えはすべてもう殺す考え方がなくても、しかし累世に殺業の息が残され、業の余力はまだあって、だからそなたに影響することができる。そのため、そなた達はとても努力して仏法を学習したり修行したりしなければならない。毎日仏菩薩を憶念することができて、そなた達の考えはすべて仏菩薩であり、ようやくこの業の力を変化させることができる。もし心は清浄になったら、殺す念頭がないはずである。

《観世音菩薩普門品》の中は「常応心念」ということに言及される。それは誠な、恭敬する、何も求めない心にて観世音菩薩を唱えたら、このようにして、無縁の広大な衆生に仏法をようやく接触することができるようにさせて、仏法の助けを受ける機会がある。本当にやり遂げることができる人は非常に稀であるから、その故に、もし行者はこの心を発すれば、諸仏菩薩は全て彼を保護しに来る。

観世音菩薩は大威神力で私達を保護して、私達に知らせるとは限らなくて、《観世音菩薩普門品》の中が菩薩が異なる身を現してそなたを助けにくること言及するように、そなたは1人の本当な修行する人でさえあれば、上師、三宝に対して恭敬して、たとえある人は考えが動いてそなたを害したいとしても、菩薩はそなたに知らせる必要はなくて、そなたを保護して、そなたのためうまく処理して手伝う。

直貢噶舉教派で、一名の不共護法がいて、専門に修行する行者を保護して、不共は公然と伝授しない。この護法は、リンポチェ以上の果位までを修行してから始めて伝わることができる。リンポチェこそ菩薩の果位まで修め得るためである。こちらの護法はふだん出現しなくて、そなたが危難がある時に、ようやく現れることができて、ある人は真な修行する行者を傷害する場合、この不共護仏がきっと出てきて助けにくるから、全然求める必要はない。

以前、尊きリンチェンドルジェリンポチェに害を与えようとして法を修めた人がいた。リンチェンドルジェリンポチェはこの人が法を修めて害を与えようとしているのを知らないでいる時から、教派の護法である阿奇(発音:アチー)が リンチェンドルジェリンポチェを危険から守ろうとして被害をもたらす法を阻止していたところをリンチェンドルジェリンポチェが見た。アチー護法の保護によってリンチェンドルジェリンポチェはなんの被害も受けていなかったが、かえって法を修めた人がひどい目に逢われた。その人は リンチンドルジェリンポチェに法を修めたが害を与えられなかったため、害はそのまました人に撥ね返ってしまったわけである。だから、勝手に修行者に批判をしたり、傷害しようと考えたりしないでください。修行者はあなたたちに傷害されることを恐れているのではなく、ただしあなたが修行者の階梯が分からないから、任意に批判すると、悪の果報はやがて自分に戻ってくるし、これは修行者があなたに受けてほしくないことである。

もし、誰かがリンチェンドルジェリンポチェの前で怒り出したり、リンチェンドルジェリンポチェを批判したりすると、リンチェンドルジェリンポチェはその人を直ちに離させるようにする。それは リンチェンドルジェリンポチェが機嫌が悪くなったわけではなく、これ以上念頭を動かさないでいるから、逆に言われたことが撥ね返って言った人に戻ってくるのである。リンチェンドルジェリンポチェはその衆生が傷害されてほしくないからである。

経典では、菩薩道を修める修行者はどこへ行っても何も畏れていないという。これについて二つの言いかたに分かれている。一つは、諸菩薩は菩薩道をまめに修める修行者を守ることから、天神や鬼衆も修行者の指示に従ってくれるのである。もう一つの言いかたには、因果、業力や発生したすべてのことは自分の業だと信じ受けたらいいと思えば、何も畏れることがないからである。

尊きリンチェンドルジェリンポチェは3年間続けて仏法を広めるようインドのシーク教区まで招かれた。シーク教はインドでは最大な宗教ではないが、団結しているからいちばん勢力の強いのである。なお、現役のインド総理でもシーク教徒である。シーク教は非常に排他的で、すべて外来の宗教を締め出している。今でも、シーク教徒の男性は自分の宗教を守るように、腰に常に刀をつけている。法会を行うように招かれた州では人口の90%以上がシーク教で、シーク教以外の宗教はその土地へ宗教の教えを広めに行ったことはまずないである。尊き チェツァン法王もシーク教区で行われる法会にとても重視している理由には、仏法はそれまでそこまで広がったことないからである。ダライラマさえ行ったこともないである。二回目の法会には、 チェツァン法王は何名かのラマを法会の手伝いに送ってくれたが、ラマたちはシーク教徒の強さと排他性を知り行けなかったが、リンチェンドルジェリンポチェはラマたちに私についていれば安全だと、そして万が一何かあったら私が前に立っているからだと言ってあげてから、ラマが安心してついてくれたのであった。3年間続けて法会が行われ、法会の時現地では良くない事が何も発生しないで済んだから、ラマたちはこれで何も畏れる必要がないと分かった。

先日、ニュースでは津波で倒れた地蔵王菩薩像を仙台地元の住民が誠意を込めて正した画像を リンチェンドルジェリンポチェが見たが、住民が合掌してお祈りしたのに、何故こんなに深刻な災難に逢われたのか?日本では、地蔵王菩薩を非常に重視しており、至るところに地蔵王菩薩像があり、墓地やお寺や道の曲がったところ、道端など安置してある。日本人は地蔵王菩薩を土地公(中国語=台湾では一番よく見当たる土地ごとの守護神である)のように拝んでいる。これだけ仏像の多数あるところには、通常はこれほど深刻な災難には逢われないのであるが、何故これほど深刻なのか?について追究すると、これらのところでは漁業が特別に進んでおり、殺業が特別に大きいからである。殺業がこれほど大きいからこそ、仏像があっても、殺業の果報が熟すると災難が現れる。たとえ日本はいくら科学が発展していても天災が絶えず発生しているものである。

更に、日本では天災が特別に多い理由には、日本人が仏に拝んでも守られるように祈っているだけである。もし、守られるようにと、そして無事であればいいだけ祈っていれば、内実が伴われていない仏法の上辺だけでは、役に立たない。菩薩に拝むだけで菩薩がきて下さるわけではない。あなたが拝んでいる時の念頭が仏法と相違があった場合でも、菩薩も来ないのである。菩薩が霊験しないのではなく、拝む人の心が効かないのである。

今回地震による津波で大きく被害された臨海都市は、30年前も津波に襲われたことある。30年もの努力をしてやっと復旧したのだが、30年後再び壊された。事前に備えるように高さ10㍍の防波堤を作っておいたが、14㍍にも及ぶ津波がやってきたら、30年間の努力と財産はすべて泡になった。人間では予想できないことであろう。これは30年前にひどい目に逢われても依然として漁業を発展し大きな殺業を引き起こしたからこそ、今回の災難となったわけである。仏経では、殺業による金銭はながく持てないという。殺生によって儲かった財産は絶対に長く持てないのである。だから、仏は絶えずに人類に殺業を断つように勧め、天災、戦争や疫病を減らすことができる。

儲けたお金を銀行に貯金することが大事だと多くの人が思っているが、仏経では財産は五賊共管(五つの強盗が共同管理すること)と書かれており、一番目の賊は子供に当たること。末法時代では、子供はあなたのお金を使いに来ているわけであり、子供こそ冤親債主であり、何故財産を子供に残すのか?といえば、前世に借りが無ければ、現世には財産を子供に残さないからである。借りこそあったため、現世で返すようになる。第二の賊は天災であり、今回日本の災難のように天災も財産を消耗するのである。他には戦争と国法も財を減らすのである。国法は国家政策の改定によって財産が減ったこと指す。最近、政府が打ち出そうとする新政策では、不動産仲介業者に影響をもたらすのである。不動産の問題で二週間続けて リンチェンドルジェリンポチェに伺いに来た不動産仲介業者がいるが、うちの一人がある仲介業者の店長で商売が良くないから拝見に来たが、こんな心は実に悪である。儲かるときは佛菩薩を思わず、お金が無くなるときこそ佛菩薩の助けを求めに来たのである。仏菩薩を儲ける道具として使うのはとてもよくないことである。

だから、物事を判断する時には上辺だけ見てはいけないのである。観音菩薩は知恵で衆生を助けている。「観音妙智力」は五智中の妙観察智であり、五智中のどれか一つの智を修め得たら、非常に偉いことである。ここで、観音菩薩が衆生を助けるのを特別に触れることは、妙観察智こそ衆生業報の因が見出せ、これこそ衆生を苦しみから解脱させることを助けられる。尊き リンチェンドルジェリンポチェがポワ法を修めて死亡者を済度している時には、死亡者の執着が見出せなかったら、如何に済度できるのか?妙観察智は菩薩の階梯まで修めた修行者こそ持っているものであり、衆生の因が見出せないで、求められた時に加持ばかりあげているだけでは、衆生をとても助けられないのである。尊き リンチェンドルジェリンポチェは特別に出家弟子に次のように開示した:誰かが助けを求めにきたら、自分に妙観察智を持っていなければ、でたらめに助けをしようとしないで、お人好しもしないでください。衆生の因が分からなければ、一番いい助け方が分かるわけないであろう。

慈は自分のいちばんいい物で人の苦痛と交換し、悲は衆生を輪廻苦海から解脱させることである。通常、人に親切にしてあげているのは慈悲ではない。自分の財産で人を助けてから得た楽しさも慈悲ではない。人が自分のしたことによって喜んでいる様子を見て自分に達成感を感じさせたり、金持ちが貧乏な子供を勉強させるためにお金を出して子供にいい成績ができた時に、「これが私がしたことの中でいちばん嬉しいことだ!」と名乗ったりすることは慈悲ではなく、自分の能力で欲しい感覚との交換だけである。両親の居ない子供を見て可哀そうと思われがちだが、実はこの子供がこうした因縁こそ成長でき独立が習えたのかもしれない。だから、子供に倫理道徳、正しい価値観を教えるべきであり、単に金銭だけを供給することではない。

リンチェンドルジェリンポチェが衆生を助けている時、相手に知っても褒めても欲しくなく、衆生の縁に従って助けるだけである。衆生の因果や彼らの考え方を見出す能力がなければ、読んだ仏経で書かれたように同じ方法で助け続ければいい。妙観察智に至る能力がなければ、根本から問題が解決できない場合、衆生の心を助ければいい。

何故顕教では成仏まで修めるのにかかる時間は、三大阿僧祇劫も必要なくせに、密法を通じたら遥かに早めに達成できるのか?それは密法には灌頂があるからである。灌頂はチベット仏教では独特な儀式であり、灌頂というのは上師の功徳を通じ、本尊に弟子をこの法門を習わせるように授権してもらうことである。まるで、博士号や修士号に合格するには口頭試験があるようであり、筆記試験だけ高い点数を取っても、教授が口頭試験を合格させなく、学ぶのを同意しなければ、いくらでも無用である。灌頂と同じように、灌頂がなければいくら上手に唱えられても無用である。

若し今年お正月の時、リンチェンドルジェ・リンポチェは心を動いて、未来災難が多くて、そなた達の業はとても重い事を分かるから、衆生を助けるため、特に皆に観世音菩薩の灌頂を与えないと、先程一酸化炭素中毒の弟子一家はもう死んだかもしれない。そなたは経を唱え、真言を唱え、懺悔した事が有るのに、業を転じられないだろう。必ず灌頂を受けなければならないのを思うかもしれない。確かに経を唱え、真言を唱え、懺悔したより、累積された功徳はそなたを助けて、業を転じられる。しかし、比べると、灌頂を通して、力は尚更に強い。それは灌頂した時、菩薩がそなたを加持する事ではなく、灌頂とは本尊が自らそなたに授権して、この本尊の法門を習う。一酸化炭素中毒なら、彼たちに先に一週間前に状況を起させて、感じらせたわけではないだろう。幸いこの弟子は灌頂を受けて、家に壇城を置いて、リンチェンドルジェ・リンポチェの教えに従って毎日宿題をしているから、全家族は中毒した状況で人を驚かすような危険ではなくて、全家族は救えた。当初仏菩薩を信じない人さえ助けられた。即ち「一人は道を得れば、九族は天に昇れる。」

多くの人は法会に参加して、自分が既に懺悔したから、何も起こらないと思った。此れは正しくない観念である。懺悔とは自分が過去に間違った事を全て認めて、起こった一切果報を受けて向き合う。果報は絶対に消えないから。逆にそなたは灌頂を通して、始めて菩提心を発して、本尊の法門を習う時、諸仏菩薩はそなたを助けて、果報が現れて、早めに業を返済させて、仏を習う障碍にならない。そなたは浄土に往生する決心を固めれば、仏菩薩、上師に完全に信じて、絶対の恭敬心があれば、この果報はそなたに仏を習う事を影響しない。人を驚かして危険ではない過去があり、果報はまた発生したけど、唯諸仏菩薩の加持、守りを通して、果報にそなたの傷害を減少させる。津波のような災難が起こるのはその中に多くの鬼と竜がある。若し累世鬼及び竜族を害さないと、今世はこのような災難に遭わない。そなた達は過去世或いは今世に行った悪は多すぎだから、絶対に災難、事故に遭う機会がある。しかし、そなた達は確実に仏法を習えば、災難に遭っても災いを転じて福となす。多事多難の時代に於いて、若し全ての人は修行して仏を習えば、自然に善の力が起こる。この所に災難が現れるのは少ない。台湾に於いて、この数年間、多くの仏教道場が法会を開催して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは毎年阿弥陀仏無遮大超度法会を行ったから、台湾の天災、風災に傷害をかなり減らした。

恭しく用心に仏法を習えば、神はそなたが住んだ所を守る。地蔵経に毎日恭しく地蔵経を一万回唱えて、一年を続ければ、災難は家に入らない。多くの人は此れが神話だと思った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、仏経に説かれた全ての事は真実であり、嘘ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を習う特徴が一つあって、完全に実修して果を証した。仏経に説かれた内容は若しリンチェンドルジェ・リンポチェは出来なくて、行わないなら、そなたにさせない。リンチェンドルジェ・リンポチェはある所に行って、真言を唱えると、この近くてどんな寺や神を分かる。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは真言を唱えれば、この鬼神はすぐ来た。彼たちはリンチェンドルジェ・リンポチェは彼たちを助けられる。それでリンチェンドルジェ・リンポチェは法を修めれば、皆はこの所にいい物があるのを分かるから、すぐ来て福を付けたい。ある弟子の家は台中にいて、リンチェンドルジェ・リンポチェは行った事がないのに、はっきりに彼女の家の右側に土地公の寺があるのを指した。

皆は《観世音菩薩普門品》に上師と仏菩薩を供養して敬う心を習う。そなた達は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに金を少しく供養した事があるから、供養を行ったのを思わない。真の供養はリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに従って、教えに従って奉じる。そなた達は六祖慧能の大根器を持たず、金剛経を聴くと開悟出来ないから、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩の教えに従って、仏法を習い、輪廻を解脱して、仏果を修めた後、更に衆生を利益できる。必ず自分の欲望を放任せず、自分が根器がよくて、悪友と付き合う事を思わない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に付き合うべからず人と近づかない事を言ったけど、そなた達は従わない。そなた達の心は固くないが、他人が指を動くと、そなた達は従って行った。ある人は車に乗らせても構わないと言うかもしれない。現在は構わないけど、そなた達は扉を開けたから、他人に乗ずるすきがある。

多くの人は法会に参加するのは事業がうまく行って、体の健康、夫に叱らないなど事を求めた。此れは全て正しくない心である。普賢菩薩は説かれたが、仏を習う心は髪が火で燃えて、急いで火を消すような切実である。そなた達は自分が卒業するまで、事業は成就するまで、子供は大人になるまで待つのを思わない。また待って続けるのは死亡に来るまで待つと、もう間に合わない。仏を習うのは直ちにすぐ行う。若しこのような心を持たないと、如何なる習っても役に立たない。

修行者は観世音本尊の法門を修めて、清浄で何も求めなく、私利ではない心で本尊の願力、功徳を習って、全ての念は観世音菩薩の慈悲力であれば、本尊の功徳大海に融ける。そなたは苦難に遭った時、自然に諸仏菩薩を招いて、そなたを救う。普門品の中に説かれた「念彼観音力」(観音菩薩の力を念ずれば)はそなたを救って難関を乗り越える。それは修行者は本尊の修行法門に従って、確実に行った後、全ての念は観世音菩薩であれば、自然に観世音菩薩の守りを得て、一切苦難を乗り越える。例えば、釈迦牟尼仏は在世した時、釈尊を嫉妬する提婆達多は大石で釈尊を殺しよう、結局大石が落ちる途中で大力金剛神に潰された。正果に至る修めて、衆生を利益できる修行者は極めて得難いであり、天人、護法、天竜八部、諸天神に守られる。

《観世音菩薩普門品》に「蚖蛇及蝮蠍 気毒煙火燃」など状況を説かれた。既に人類は此の世に遭える様々な災難-天災、戦争、中毒、牢獄、水に溺れるなどを含めて、全て列挙した。観世音菩薩の大威徳力は全て救済できる。此れは神話ではなく、全ては真実であり、嘘ではない。所謂万法は心の造する所なる。一切は因果因縁から起こる。若しそなたはこの前にこの悪因を播かないと、今世そなたはこの悪い災難に遭わず、影響されない。普門品は唯短い言葉だけど、既に仏法の全て顕密の修行法門を含めた。

「気毒煙火燃」の気毒とは先程報告した弟子のように、一家はガス一酸化炭素中毒しても、無事だった。ガスとは何だろう。気毒である。本来彼女の二人の娘と仏を誹謗する人、本人も含めて亡くなるはずなのに、彼女は皈依して、上師に完全に敬って、上師に伝授された観世音菩薩本尊の灌頂を受けて、始めて修行をするから、上師及び仏菩薩は彼女の家族も一緒に世話した。上師及び仏菩薩はそなたを助けるのは二人の娘が無事に大人まで成長する事を見させなくて、そなたに十分な時間を与えて、しっかりに仏を習って、更に生死を解脱できる。この弟子は全家族が中毒したのも過去に行った悪業と関わる。煙火燃とは火で火傷されることである。他人が行った事はそなたと関係がないと思わないで、若しそなたの家の隣、2棟のビルの間隔の所で火事が発生すれば、そなたは逃げるだろうか。逃げるはずだ。そなたの家に起こられないけど、まだ影響される。若し発心して、仏を習って、修行して、懺悔した後、少なくとも10棟のビルの間隔の所で発生して、そなたに逃げさせない。そなたの時間を節約してそなたにしっかりに仏を習わせる。

経典に観世音菩薩の聖号を唱えれば、悪い事が発生しないと説かれない。若しそうすれば、経典はこのような人類は現れる災難を書く必要がない。唯事情はまだ発生して、果報は現れるけど、そなたに重い報いを軽く受けて、時に在らずして死ぬことを免れ、そなたに一劫を避けられた。仏を習う後、そなた達が思った悪い事が有れば、そなたは真言を唱え、拝懺した力が現れる事を示し、方向は正しくて、そなたに始めて返済している。若し仏を習って、いい事が発生すれば、そなたの福報はまだ修められない事を現した。如何なる好い事が現るわけではないだろう。

ガムポパ大師嘗て開示されたが、最大の供養は恭敬心である。そなた達は上師に完全に降伏すれば、徐々にそなた達の福報を累積できる。そなた達は釈迦牟尼仏の根器ではないから、生老病死を見ると開悟できるわけではない。自分が開悟できるかどうか、いつか衆生を済度できるやいつまでどんなレベルを修めるなど考えないで。リンチェンドルジェ・リンポチェは当年始めて仏を習う時、自分はある日昇座して仏法を開示し、弟子を取る事を全く考えない。唯仏を習う事はいいことであるのを分かった。尊勝の直貢チェツァン法王は如何なる教えるなら、自分は従って行った。

そなた達は仏を習うとすぐ効果を見えるや数年間に習えば成就できるのを思わないで。此れは不可能である。仏を習う事は急がないで、段取りをふんで事を進める。最も難しいのは開始である。予想の心理は必要がない。始めて引き続きに行って、修行を通せば、必ずそなた達の果報を転じられる。効果はいつか現れるか考えなくてもいい。そなた達は出家者として、他人を助ける心が有ればいい。自分はまだ修めないのに、勝手に自己の意識で衆生を助けて、衆生の欲望を満足しないで。そうすれば、彼を損なうかもしれない。

ある出家の女弟子は昨日リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。自分が一ヶ月間の休みを取りたくて、南部に帰って、母の部屋を処分しよう。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ彼女を叱って、彼女は自分が出家の身分を忘れた。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に衣食住行を供給した上、彼女に給料を与えた。しかし、彼女は相変わらずこのような事を考えた。この出家の女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェにこの件を報告した後、一晩の時間なのに、風邪を引いた。彼女はすぐリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔して、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェも開示されたが、今回の事は彼女に風邪を引かせたのは軽い果報であり、彼女に少し債務を返済させた。

昨日ある2人の信者が子供を連れて来てリンチェンドルジェ・リンポチェと面会をもし入れた。子供のお体の具合が悪いと言った、これは彼らが此処に来て二回目だ。一回目に彼らが子供を連れて来なかったので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを助けなかった。昨日彼らは子供を連れて来て、跪いたら妻は自分が毎日薬師仏経、夫は毎日準提神呪を読んでいると言った。子供の状況がなぜ改善するのを得なかったらしいであった。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された、薬師仏経には載せてあり、この経文を読む時十二薬叉の壇城を置くとか、毎日線香をつけるとか必要で、また斎戒沐浴、毎日真っ新しい着物を着替えてから念仏する。決まった儀軌があって、また一心不乱に読んで、このようにどのくらいで読んだら所謂効果があるとは書いてない。この妻はこのように読まなくて、どう求め得るか?こんなに長く唱えても問題はまだ解決できない。こんな儀軌に従わなくてはいけないならば、仏経の上には書いてあらない。それに、あの夫は準提神呪を読んだが口伝、灌頂を通じなかった。自分のため読むならばまだすこし効果が有るが、他人のためなら、絶対に効果があらない。しかし、夫婦お二人がとても誠実に読んだ故で、やっとリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れる因縁があって、助けを求めるのが出来た。それで、やはり効果があるのも言える。

先頃、リンチェンドルジェ・リンポチェは東部の衛生機関より一枚のメールを受け取った。その内容は大体に言ったのが、ある弟子はこの間、検査で大腸癌にかかったことが発見されて、お医者さんは彼女に手術を受けて、是非有効に大腸癌を治療することが出来ると提案して、手術を受けなければとても危険のである。但し、あの弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが癌にかかても手術を受けないと仰ったので、彼女は手術とのご提案を受け取りたくなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは返事した時、先ず便りをする者に賞賛して、公務員として、このように人民のお体の健康に関心を持って真に得難い事で、なお、この公務員に教えた:地蔵経の中に載せてあり、患者に関心を持つのが非常に大きい功徳を得るのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは只仏法を教えて、医療のことが全く分からないので、この信者は手術を受けるかどうか彼女が自分で決めるべきだ。その後、この衛生役員の手紙はまた来た、話しぶりが割合に前回より遠慮して、大体的にこの弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェをとても信じて、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの弟子に手術のご提案を受け取るように勧められると望むのである。

本来、政府機関は患者に治療を受けるように勧める義務がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの弟子が癌の患者だが、この大腸癌にかかった女弟子のように、自分の問題をよく処理しなくて、意外にも相関機関の者にずっとリンチェンドルジェ・リンポチェに手紙を書かせたのがいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで皆に手術を受けさせないと要求しなかった、只患者に確り考えてから決めるのをさせた。手術を受けるか化学治療をするかどの治療をせずか問わず、患者はリンチェンドルジェ・リンポチェに助けを求めに来ればリンチェンドルジェ・リンポチェは必ず助ける。現場の皆も全部実証することが出来る。この手紙の中に話した患者は誰かと分かった後、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの手紙をこの弟子に渡してこの事を処理させて、彼女の弟と家族に一緒にこの来書の公務員を見に行くと指示した。彼はこんなに患者を治すことが出来る把握がある以上、それではサインしてこの患者が手術を受けた後癌症がもう再発作を起さないと保証してくれれば、患者は手術を受けるのが出来る。結果,この公務員はサインしたくなくて、かえって患者が自分責任を持つとサインして、この事はやっと終った。

この事件が終った後、昨日この弟子は母親、家族皆を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェと面会を申し入れに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時申された、彼ら家族皆は仏を学んで全部ぼやぼやしていて、只彼女のお母さんは頭が一番分かる。娘に一語をした:全てそなた自分は貪欲ね!この大腸癌にかかった女弟子はやっと率直に話した、自分が無料の健康検査を見たので、検査を受け取りに行った。検査の結果が出た後病院は彼女の判例を報告して、相関機関は彼女に治療を受けるようにはじめてすすめた。もともとこれは患者の個人と関連することが,相関機関はかえって1人リンポチェに手紙を書くことになった。彼女は相手にリンチェンドルジェ・リンポチェが手術を受けないと指示したのを話したので、相手はリンチェンドルジェ・リンポチェに手紙を書いた。彼女はかえって無料の健康検査を貪って、検査の結果が出た後、恐れてはじめて自分がリンチェンドルジェ・リンポチェを信じて手術を受けないと言った。彼女の家族はまだ彼女がなにかをし間違ったのを分からなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェを怒らせたと思った、リンチェンドルジェ・リンポチェは腹を立たなかった。只彼女の母親はこの事の由来を良く知って彼女が間違ったことをしたのは欲が深いと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェも申された、この女弟子がこんなことを起こしたのは彼女の業が重くて、皈依してから今まで、自分が何故仏を勉強するかなにも分からなくて、その上まったく懺悔しないのである。弟子は丁寧、供養する心であれば、上師に迷惑を掛けないはずだ。  皈依した時、そなた達に貪欲ことが出来ないと教えただろう!この弟子はやはり目先の利を貪欲して、無料を聞くと早く走り行って点検した、天下には只で貰う昼食があるか?大腸癌の結果が出て、自分が手術を受けたくなくて、この問題をリンチェンドルジェ・リンポチェにやった。

仏法には神通を言わないと説いたが、道教、キリストにも全部神通がある。只仏菩薩の神通は自分が修行する果位を証明するのではなく、衆生に利益するため自然に生じたのである。そなたは清浄の本性が現われるまで修め得ると智慧の光がますます強くなって、最後自然に仏経の中に述べた五神通、六神通を持った。リンポチェの果位を修め得た上師は多少既に他心通が備えて、はじめて衆生のことを知るのが出来て、そのために、知恵で衆生を助けることが出来た。神通力がなければ、衆生の心の中に全ての考え方を分からなくて、仏法の因果と因縁の角度から衆生を助けるのがとてもし難い。神通力は衆生を助ける工具で、便利だけだ。ある時、信者にそなたが大変すごいのを知らせなかったら、彼は順従しない。

菩薩の果位を修め得れば、自然に神通を持って、求めずにあった。神通は求みに有ったのではなく、戒定慧を円満に修めれば自然にある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が神通があると言わないが、少なくとも感応能力は皆より極めて強くて、そうでなければどう往生する者の罣礙を知ったか?これらの罣礙を知らなければ、どう亡者のため、浄土まで済度するか?リンチェンドルジェ・リンポチェはすくなくとも他心通があった、そうでなければどのように信者が何を考えているのを知ったか?だから、リンチェンドルジェ・リンポチェを騙さないで、信者が跪くと口を開けなくでもリンチェンドルジェ・リンポチェも彼がなにを考えているかを知った。菩薩道を修習して他人を助けたいならば、これらの能力がまだない前に,この善心があれば結構だ。衆生を助けるのは1つ大変辛いことである。そなた達はただおとなしくて仏を勉強して、何時か出来るのを考えずに、修め続けて、業が清浄してしまうと自然にある。リンチェンドルジェ・リンポチェは何時までもリンポチェになるのを考えたことがなくて、あの頃仏を学ぶのはただ単純に仏を勉強するのがとても見事と思った。そうして勉強して、引き続けてしている。特にそなた達これらの出家衆、止観がなければどう衆生を助けるか?そなた達は「止」さえが出来なければどう観るか?中観論では説いた、左に寄って、右に寄ってはなく、真ん中に寄ってもない。所謂止観とは、まず止を修めて、また観を修めて、止観がなければ神通が現われることが出来ない。今日出家衆がいるため、これを申された、出家衆はこの事を聞いたが、どうするか分からない。これも密法と関係がある、今日話さない。

「広修智方便」とは方便智慧であり、智慧がなければどう衆生を助けるのを知ることが出来ない。そなたが既に智慧を修め得て、神通力が備えても、菩薩はまた広修智方便が必要で、数えないほど、絶えずに、絶えずに、妙観察智を以って衆生を助ける法便法門を修めて、菩薩さえもまだ研修しなければならなく、ましてまだ見性が出来ない一般な凡人だ。

数年前、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て一枚のニュ-スを見た、ある飛行機は元来金門から台灣に飛び戻るつもりだったが、大雨のために離陸することができなかった。空港にある出家法師は皆に一緒に観世音菩薩の聖号を読むと要求した。こうして大雨を止ませるのが出来ると言った。しかし翌日雨がまだ降り続けた。なぜ読んでも役に立たなかったか?この法師は自分の利益のために仏菩薩に求めたので、役に立たなかった。彼はあれらの者に順調に家に帰らさせるのを助けられると思ったかもしれないが、彼は妙観察智で世間の事を観察しなくて、因果因縁の角より見るのではなかった。彼らは考えなかった、この雨はたの良くないことが起さなかったかもしれない、これは妙観察智を用いて衆生を助けるのではなかった。

「恒順衆生」は多くの人々がずっと間違って解釈した。永久不変で衆生の希望によりする事ではない、却って永久不変で衆生の因縁により助けてくれる。つまり《金剛経》曰く「応に住する所無くして、其の心を生ず」のである。仏菩薩のの菩提心は永遠で衆生の因縁により彼に助けてあげるのである。「恒」は永久不変である。この修行者の慈悲心、菩提心は既に引かれなくて変わらない事に代表する。「順」は衆生の因縁により彼に助けて与えて、彼に縁が有ってこの世を把握して仏を学んで修行させるのである。そなた達は外に見たり聞いたりするようではない。ある者が仏を学ぶないなら彼の要求に従って、彼の条件に満足させる。相手に同意しないなら、慈悲心がない事を言われる事を心配する。もっと多くの信衆が参加して、仏を信じるならば、「恒順衆生」だと思っている。

最近多くの不動産仲介業者はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た。その中の一人の仲介業者の店長は彼の足が良くないのでリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来たわけである事を話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に「此れは彼が不正直なので、このような果報が始めある。」を開示する。この信衆は「建物が既に作った。自分は不正直がない」にて反駁した。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示させた。この人は仲介業者として、実際状況を買い手に教えていない、家の主と買い手の間に彼方此方操作し、騙させて、これは不正直のである。この信衆は仲介業者が全てこのようだと思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェも仲介業者を経営した事を知ってから、得意先を詐称しに行って、リンチェンドルジェ・リンポチェの会社に確認して、それから、リンチェンドルジェ・リンポチェが正直で商売をして、自分のような騙させる事が無いのを信じて始めた。だから、昨日リンチェンドルジェ・リンポチェにまた謁見して来て、自分の錯誤を承認した。リンチェンドルジェ・リンポチェがする一切である事は、絶対に試練に耐えられるのである。このような事にあって、リンチェンドルジェ・リンポチェが少しの神通がないならば、その仲介業者が騙す事を知るので、如何にあの人に喜ばせてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来るのでしょうか。彼の因縁が断つのでしょうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは観世音菩薩の広大な智慧を学習し修習するので、異なる方法により衆生に済度する事が出来る。

営業とする者は、前で働いた会社のお客さん或は関係を新会社に連れで来るならば、これも盗むのである。そなた達は此れが自分から作り上げた関係だと思ってはいけない。ただ社長さんがそなたに給料を支払う事があるならば、成果がそなたの個人に属す事ではない、此れは会社の成果である。社長さんとする者は営業さんを募集する時に、経験があって営業を探し当てる事も望んで、市場が戦場のようだと思っていて、彼らの過去に累積する人脈を以って会社にお金を稼ぐを望んでいる。このような観念も間違うのである。

「無垢である清浄な光」とは菩薩の清浄である本性である。水晶のように澄んでいて、光線は直接貫くことが出来て、少しの垢をうちにある事もない。「智慧な日は諸闇に破れる」。六道の一切な有情衆生が輪廻する世間は苦しんで、所謂闇のは輪廻六道の光りが極めて暗くて、仏菩薩の光りが太陽のようでとても強くて、だから、一切な闇を破れて、衆生に輪廻の苦海を離せる事が出来る。仏菩薩の清浄である光りはずっと大地に普く照らして、ずっと六道の一切な有情衆生に助けて与える。人々が往生してから中陰身にいる時に、このそなたに助けてくる仏菩薩のとても明るい光りに慣れないので、自分が慣れるより暗い光に向いて、そうすると、六道輪廻に向くのである。

「風火の災害を伏せる事が出来る」のは観世音菩薩の妙智力が風火の災害を伏せる事が出来る。こちらの風と火は二つの解釈がある。仏経には地球が壊滅する時に風と火の災害を経る事に記載されている。だから、この話は我々に地球が最後壊滅させる時に現れる恐ろしい光景に遭えない事を望んでいる。もう一つの解釈は身体には風大と火大の問題である。最も大きな災害は輪廻の災害で、人々が死亡する時に、身体と心理が極めて大きな苦しみを受けて、身体が地、風、水、火の分解の苦しみを経なければならない。

人体の構成は四大の「地風水火」があって、死亡の前で四大分解の苦痛が現れる。病院にもう去る人が家族に頼んで彼の枕を高くなって、或は枕元を高くてなる事を常に見える。此れはこの患者は「地大分解」の苦しみを受けている。如何に高くなっても、彼は依然として彼の頭が落ちていく事を感じている。あるお年寄りは彼が腰を屈めて背中を曲げて、足がよくなくて、歯を落とす事を見えて、これ等は「地大」を初め分解する事である。一部の患者は他人に彼に触らせたくない、少し触ってもとても調子が悪くて極めて痛い事と感じている。或は一部の人々は他人が如何に彼を持ち運んでも彼が何か感じがない、此れは「風大」の分解である。ある者は皮膚が初めて乾燥し、多くの皺がある事を見えて、此れは「水大」の分解である。人々は年を取ってから、益々寒くて熱いことが分からないである。冷気が強くて開くけれども、ずっと熱いと感じている。気温が暑いけれども、ずっと寒いと感じて衣服をつけなければならない。或は寒さと暑さにとって何も反応がない。此れは「火大」の分解である。人々は往生する前の1、2年に、甚だしきに至っては5年で、四大の分解を見える。もしある者は福報があったら、往生する前に「地大」が分解して初めて、最後の時刻で一回で集中して無比な苦しみを受ける事が有り得ない。修行がある者はこれ等の苦痛を経ない事が出来る。ポワ法を修めた者は自分の寿命を尽す事を知っているので、四大分解の痛苦を経ないで、直接に阿弥陀仏浄土に行ける。

「普明が世の中を照らす」。世の中は地球ではない、此れは六道の一切の衆生である。仏菩薩の光りはとても強烈である。仏の光りは分別なしで此の世に普く照らさせる。地獄道の衆生はより苦しみので、多くて照らして、天道の衆生は福を喜ぶので少なく照らさせるという分別がない。ただそなたが同じ緯度にいて、得る太陽が全て相同である。末法時代、衆生が難しく済度する。釈迦牟尼仏が兜率天にいる時に、仏菩薩達は会議して釈迦牟尼仏に地球に来ない事を薦めた。此れは地球の衆生は剛強自用で、調伏しにくいわけであった。然し、釈迦牟尼仏は結局矢張り地球に来た。仏菩薩の智慧の光りはずっと六道の衆生に照らしていて、ただ衆生は煩悩なので発見できない。もし、修行を以って自分の心に清浄させられて、仏の清浄な光りが六道の衆生に助けてる事を停止する事がない。もし上師と仏菩薩の仏光が我々に照らさせて、加持させないならば、我々がこのような生活を暮す事を有り得ない。

「悲体である戒が雷震のようだ」。観世音菩薩は悲心を以って「体」用をして衆生に利益する。一方、観世音菩薩は悲心を以って戒として、全ての考えが慈悲心で、全て一切の有情に利益するのためである。菩薩の慈悲な戒体は清浄な守って、慈悲の力が大きい雷のように、一切な混沌の悪勢に響き渡る事が出来て、この無比な摂受力を言う事を有り得ない。慈悲は全宇宙に最も大きな力であり、雷震のようである。雷の力はとても強大で、たとえ暗い空としても、ただ一つの雷があったら、全ての空が明るくなって行く。仏菩薩は清浄な慈悲力を以って我々の累世の無明を雷が鳴るのように震えて、智慧の光りを衆生の身に照らさせて、我々の清浄である本性に表せて、菩薩の慈悲の力と一緒に結んでいく。リンチェンドルジェ・リンポチェが信衆に加持するのように、このような力を以って衆生に助けて与える。観世音菩薩の大威徳力は雷鳴が轟くのように、如何に暗い夜でも全ての空を明るくする事が出来る。

仏経には仏光、菩薩光、白毫光に記載されている。多くの人々は白毫光があった事を知らない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような体験があった。実は、各々の衆生は白毫光を持っている。仏経に記載されている白毫光とは眉間から照射していって、白毫光が真実である。が、そなた達はこのような境界を修め得た事が無いわけである。この光りはとても弱いので、そなた達が見えない。何故そなた達は見えないのでしょうか。此れはそなた達の心を啓く事がない、そなた達の心がまだ暗くて、自然で見えない。そなた達は修行により慈悲を育ってから、仏菩薩の清浄な光りをずっと照らしている事を気づいて始める。その上、精進な絶えず修行してから、仏菩薩の光りも益々強くなっていって、そなた達の闇を完全に消えさせられる。仏菩薩は仏光、白毫光と法性にて衆生に済度する。此れは何故リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたが素直に従って教法に従ってしっかり実践して自分の考えにより仏を学んではいけない事をずっと強調しているわけである。

「慈意のような妙大雲」は難しくて解釈する。そなた達は外に法師が適切な説明を聞いた事が必ずない。ある証果した菩薩は彼の慈悲が空性で、空が無いのではない、空が因縁により生じて因縁により滅し、執着しない、永久不変ではない。「意」は意識で、執着な心から生じて、有為法である。ある者はおかしいと感じて、菩薩の慈悲が空性であるけれども、此処に「慈」と「意」を一緒に置いて、「空性」と「有為法」を一緒に置くならば矛盾ではないのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示させた。菩薩はたとえ慈悲心、菩提心を修めて得ても、心を動かないなら如何に衆生に済度するのでしょうか?こちらの「意」は菩薩が衆生の縁にて衆生を済度する心を生じる。金剛経のように記載されている菩薩は「応に住する所無くして、其の心を生ず」の「心」である。心を動いたら意を生じて始める。菩薩が衆生に済度する時、衆生の因縁により助けを与えて、因縁を過してから、何を発生しないように、完全に執着しないのである。空にある雲彩のように、急に一緒に凝集して、風を吹いてからまた消えて散りになる。

仏経に「仏菩薩の身元い何か雲がある事等」という記載された事がある。こちらの雲は天にある雲ではない。雲という者は速くて来て、速くて集って、永遠で止まる事ではない、大きな雲ではない。我々は仏が現れる時に祥雲があり、或は、そなた達は仏菩薩が来る時に描いた祥雲を見た事があり、五彩色だけを現すのは祥雲とは限らない、すべての雲の種類が全て異なっている。妙大雲はあるエネルギーである。仏菩薩は能力があって宇宙の正面のエネルギーを集中させる事が出来で、あるエネルギーになって衆生に助けて与えて、一旦終ったら、自然に散らばっていく。雲のように、行きつ戻りつ、風は来たら散らばっていく。

引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列した皈依していない信者が先に席を離れる事を指示させて、皈依弟子に観世音菩薩の密部修行法門を教授してくれた。

2011年4月9日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時15分から夜10時15分まで、144信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年4月10日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝なる共修法会を主催して、《観世音菩薩普門品》の内包を引き続き開示された。

法会が始まり、ある女弟子は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔した。

彼女は自分が極悪非道で許すことができない大悪人だと思った。それは彼女は完全に改めていないから、いつも扉の外に閉められて道場に入って仏法を聞けず、供養も出来ない。彼女は友達から聞いて、どんな物は体に役に立てば、勝手に買って食べた。このせいで、血小板が2000だけ残られて、もう少しで命を落とす。若しリンチェンドルジェ・リンポチェがは彼女を救ってくれないと、彼女は既に苦難に満ちた地獄で苦しみを受けた。今回彼女は病気に罹って、医師さえ彼女が救えないと言った。また彼女に骨髄切片及び化学療法を受けさせて、プレドニゾロンを食べさせた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の命を救わないと、今は彼女は既に地獄に堕ちる、或いは医療の苦しみを受けて続けるかもしれない。

彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが自分の命を救った事に感謝した。彼女に徹底に懺悔させて、しっかりに仏を唱えて、仏を習うに関して最も重要な事は生死を解脱し、もう悪を作らず、悪を作らない事を決心して、輪廻の道を断つ事が分かった。

今彼女は訴えられて、訴訟に巻き込まれたのは全て昔に株を売買する事が好きで、友達を助けて、未公開株を販売したから、友達に金を損なった。彼たちはヤクザを依頼して彼女に金を求めた。此れはすべて彼女が貪った果報である。更に彼女は懺悔したが、自分はいつもリーダーになりたくて、自分が言った事は他人は必ず従わなければならない。此れは傲慢、尊大、独り善がりなので、完全に修めず、改めなかった。彼女は教えに従って奉じなくて、いつも仏法及びリンチェンドルジェ・リンポチェを利用して、自分の欲望に満足して、因果を深く信じなくて、懺悔及び供養を分からず、貪、瞋、痴を引き続きに行って、破戒しているから、いつも問題が発生していた。

10年前彼女は鬱病に罹った。彼女は懺悔せず、却って他人を責めた。自分の世界に生きて、抗うつ薬を飲んだ。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して、仏法を聞いた後、始めて分かって、精神疾病は全て自分の貪欲が重くて、欲望が高くて殺業が重いから起こった。ある時期に彼女は徐々に薬を止めて、症状も出てこなかった。しかし、話を聞かず、確実に修めず、満足しない彼女はまた発病した。再び抗うつ薬を飲み始めた。夜眠れない時、精神安定剤を飲んだ。彼女は深く懺悔した。それは全て毒薬である。若し自分が改めないなら、仏でも衆生を助けて業を転じられなくて、最後自分に頼って、自分は決心して改めなければならない。今後彼女はこの薬を止めて、漢方薬を食べて自分を助ける。

彼女は次のとおり宣言した。今後尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いて、確実に仏を習って、教えに従って奉じて、悪を作らない。しっかりに宿題をして懈怠せず、完全に教えに従って、身口意の供養を行い、母を親孝行して、仏の恩、上師の恩、父母の恩及び衆生の恩を報う。

続いて、何年も帰依している兄弟が前に上がって発露懺悔する:この兄弟家族は1997年から何度も尊きリンチェンドルジェリンポチェに助けられている。家に難事がある時に、尊きリンチェンドルジェリンポチェは自腹で助けたり、朝早く起きて助けたり、夕食しないで助けたり、夜寝ないで待って助けたり、ネパールでの閉関の疲れを我慢して助けたりするが、尊きリンチェンドルジェリンポチェがおっしゃったように彼らが最も利己主義的な家族である。兄弟二人とも尊きリンチェンドルジェリンポチェのご指導に背き、利己主義で、物事を人に押し付け、責任も取らないし仏法も学ばないでいる。 上師や兄弟弟子及び衆生にちっとも慈悲心や感謝の心を持ってないため、兄弟二人は公の場で尊きリンチェンドルジェリンポチェ、兄弟弟子そして衆生に懺悔したいと思う。

1997年移住してから新居に2名の衆生がいると気づき、その時から家族喧嘩が止まらず、母親も病気で止むを得ず寺院に住み込むようになった。そして、妹は叔父家に預け、兄は台中に住むと家族三人は各地に撒き散らし、家があっても帰られない状態でいた。この状況は妹が尊きリンチェンドルジェリンポチェに拝面できてから状況が打って変わって、尊きリンチェンドルジェリンポチェは彼らの父親、母方の祖父そして飼っていた犬のために法を修めて済度し、更に、彼らと悪縁の衆生との問題を解くように、経済的に恵まれていない中でも、二回続いて自腹でタクシーに乗って基隆の家に向かったことある。

1999年、尊きリンチェンドルジェリンポチェが印度へ閉関に行く前日の早朝に、この兄弟の母方の祖母が亡くなり、翌日妹が道場に向かい、尊きリンチェンドルジェリンポチェに祖母が生死を解脱できるように法を修めるようお願いした。尊きリンチェンドルジェリンポチェは当日の午後印度へ行く予定だが、早く起きてその母方の祖母に法を修めて生死を解脱させた。自身のこと、そして移動や閉関に必要とする体力のことを完全に後回しした。

この男性弟子の女房も尊きリンチェンドルジェリンポチェに拝面して初めて自分の祖母もまだ生死を解脱できてないと分かり、尊きリンチェンドルジェリンポチェは男性弟子の女房の祖母が生死を解脱できるように、彼女を施身法法会に参加させた。

この家族では、祖先に漁業で生計を立てている人がいる。たくさんの漁船を持ち、人を雇って漁をし、無数の殺業を作り無数の衆生を驚かせ、骨肉を分散させる悪業まで植えた。更に、家族全員は教わった通りに行わず、まめに仏法を学ばないから、果報が現れた。男性弟子の母親と一人目の娘は2003年に一酸化炭素中毒によって亡くなり、女房も中毒し危うく命を失うところだった。この男性弟子が夜7:50頃に電話し尊き リンチェンドルジェリンポチェに報告したら、尊きリンチェンドルジェリンポチェは夕食もしないで何名かの弟子を手伝うようにさせた。そして、即刻民生東路にある当時の道場に戻り、夜10時まで男性弟子の母親、娘と女房に法を修めた。尊き リンチェンドルジェリンポチェは手伝ってくれた弟子にいくら遅くても、この兄弟二人を道場までに連れさせなさいと言い付けた。尊きリンチェンドルジェリンポチェは夕食していない、そして翌朝の早便に乗ることを気にしないで深夜二時までずっと待ち続けた。兄弟二人が道場に戻ってから、尊きリンチェンドルジェリンポチェは人生無常、そして因果不変の道理を開示され、男性弟子の女房に、類にない殊勝な塩舎利を与えてから休むようにした。

男性弟子の女房は当時深刻な一酸化炭素中毒で、意識が戻らないままでいた。医者さんでさえ状況が非常に楽観的ではないと明言し、死ぬか植物人間になるか、救えても体と脳部に大きな後遺症が残るだろう。尊きリンチェンドルジェリンポチェはこの一家が難事に逢った夜に、弟子を通じて殊勝な甘露丸を彼女に飲ませるように渡した。彼女が飲んだ後、大量の黄色液体を吐き出してから意識が戻った。尊きリンチェンドルジェリンポチェの助けがあってなんと三日間で退院できた。しかも、後日の検査によって、体と脳に一切後遺症が残らず正常であると分かる。のち、男性弟子の女房が転職で桃園へ行くようになり、尊きリンチェンドルジェリンポチェは彼女が娘を失って間もないから体の弱さと心神不安の恐れがあるので、安全であるように彼女の通勤に当たる車を厄払いしてくれた。早くも、彼女は半年後妊娠ができ、尊きリンチェンドルジェリンポチェは特別に彼女に毎日お経を唱えた後、すべての妊婦さんに回向するように、そして大礼拝をするように言い付けた。出産の時でも、医者さんが着くとたんに、赤ちゃんが生まれたそうである。

女性弟子は2007年6月28日の夜、交通事故に逢って両足の大腿骨と腰骨は全部折れ生死に関わっていた。病院より数回もの危篤のお知らせが出されたが、尊きリンチェンドルジェリンポチェがネパールの雪山で閉関中でも、女性弟子の兄夫婦は寶吉祥宝石店に置いてある尊きリンチェンドルジェリンポチェの写真に向かってお祈りしたら、女性弟子は尊きリンチェンドルジェリンポチェに守られる中、8時間にもわたる手術と後日の治療に安全に過ごせた。尊きリンチェンドルジェリンポチェがネパールの閉関から帰国して、3ヶ月もの閉関とフライトで溜まった疲れを気にせず、この女性弟子に加持と開示がなされた。

この兄弟二人は道場の中に、彼ら以上尊きリンチェンドルジェリンポチェから助けられている人はいないと信じているが、彼らが最もエゴで、恩返ししない人である。まじめに仏法を学ばないし、宿題もろくにしない、金銭に対して細かいし、本当の供養ができていない。尊きリンチェンドルジェリンポチェは仏法では業障を消去できる方法をすべて皆教えたと開示されたが、自分が教わった通りに行わなければどうにもならないでしょう?彼らはこのような悪弟子であり、教わった通りに行わないし、問題に逢うと上師の福報と体力を無駄にさせに来る。具徳の大修行者を彼らの悪行為によって心がけさせ、全力で他の衆生を利益させなくては、実に罪が重いことである。

尊きリンチェンドルジェリンポチェが福報を積ませるチャンスを与える時や、道場に力を入れるチャンスがある時には、彼らはいつも遠くまで逃げている。2002年、尊き リンチェンドルジェリンポチェは妹の女性弟子を寶吉祥グループで働かせるチャンスを与えたが、彼女は給料が安いと思って断った結果、勤めた会社が潰れ半年余りもの失業となった。2005年、道場には悪弟子が現れ道場の秩序を壊そうとしていた時も、兄の男性弟子は進んで道場を保護しないで、自分さえ面倒なことに巻き込まなければと思ったせいで、たくさんの兄弟弟子を裁判所へ行き来させるようになった。面倒なことを嫌がるからこそ、面倒なことから逃げられないのである。尊きリンチェンドルジェリンポチェが設立した寶吉祥漢方診療所は彼ら一家を助けた。男性弟子は昔から海鮮類を好み、皮膚病で10数年も困らせたが、漢方診療所の寶圓膏を患部につけて治るようになった。この男性弟子は自己防衛心が強く、何もかも自分を保護するのを最優先にする。自分の利益に害があるとすぐ反発するという悪業から、彼がすべての西洋医薬品にアレルギーを持つようになり、これも寶吉祥漢方診療所から出された処方を通じて次第に改善されるようになった。妹の女性弟子も大事故で漢方薬に救われなかったら、血圧が低すぎて集中治療室で死んでいるかもしれない。

2010年夏、寶吉祥漢方診療所の治療によって彼の従姉妹の子供が罹った多動性障害が治った。そして従姉妹の姑が罹ったのは肺がんではなく、長期間の咳によっての炎症だけだと正確に診断ができたことから、手術を免れた。これで、彼の従姉妹は寶吉祥漢方診療所から冬虫夏草を購入した。ところが、11月になって、突然従姉妹が寶吉祥漢方診療所の医者に「冬虫夏草に重金属成分が含まれている」と電話した。医者は転じて兄の男性弟子に従姉妹に説明するように電話したが、面倒がりやの彼は寶吉祥漢方診療所で解決し、寶吉祥漢方診療所で漢方薬を検証に出し報告書を出しなさいとまで答えた。尊き リンチェンドルジェリンポチェそして寶吉祥漢方診療所に対してちっとも感謝の心を持っていない。寶吉祥漢方診療所と彼の従姉妹はこの漢方薬を中国大陸にある最も有名なドイツ実験室へ送り検証したら、重金属が含まれていない結果だった。彼は尊きリンチェンドルジェリンポチェ、寶吉祥グループそして寶吉祥漢方診療所に面倒をかけ、悩みをたくさん齎した。人に誤解そして悩まさないように、もっと慎重にそして責任を負って話すべきである。尊きリンチェンドルジェリンポチェが昨日彼に開示されたように、彼は自分が独りよがりだから、すごそうにああいうふうに答えた。そう答えたせいで、法律責任を恐れ辞表を出した医者が一人いた。医者の辞退によって診療所で各種の変更手続き、シフト、募集などのことで非常に面倒だし時間と金銭も大量にかかった。すべて彼の利己主義、独りよがりに起因した。寛大な尊き リンチェンドルジェリンポチェは彼のせいで齎したグループや診療所の損失を責めない代わりに、彼の身分に気をつけ慎重に言動するよう言い付けた。尊きリンチェンドルジェリンポチェはすべての念頭が弟子に置いている。彼は尊きリンチェンドルジェリンポチェからの許しを求められないが、心から本当に懺悔している。

昨日、彼たちは尊きリンチェンドルジェリンポチェに懺悔しに来、そして日本での法会に参加させるように求めたが、尊きリンチェンドルジェリンポチェは深く彼たちを見て「仏法を学んで何するの?日本の法会に参加して何したいの?」と聞かれた。

彼達は自分に聞いて、「そうだよ。何のために仏を習うだろう。何のために法会に参加するだろう。」彼達は1997年から始めて上師の助けを得たのに、完全に確実に仏を習っていない。毎週法会に来るのは全て守りを求めて、家がいいのを求める心を持ってきた。完全に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが老婆心切な教えに背いた。家に災難があれば、上師に求め、家に少し平和すると、自分がうぬぼれた。本当に上師、諸仏菩薩、道場に謝罪して、尚更に道場を守るため、全力を尽くした兄弟子全体に謝罪しなければならない。彼たちは上師の最も多くの助けを得たのに、誰よりも上師及び仏法を信じない。唯上師、仏法、諸仏菩薩を利用して、冤親債主を抑えて、いい日々を過ごすため、完全に確実に教えに従って奉じない。

彼たちは公開に諸仏菩薩及び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに累世、特に仏を習う以来、身口意が行った様々な悪業、仏を習う時懈怠の悪業、仏法に対して敬わない悪業を懺悔して、また上師を求めて、彼たちに引き続きに懺悔する機会を与え、諸仏菩薩及び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに祈って、衆生を憐憫して、全て縁がある衆生に仏法を聞かせて、生死を解脱させて、浄土に往生させる。

続いて、ある夫婦も発露懺悔した。彼たちは先週に金剛上師がおっしゃった悪夫婦だ。この女弟子は兄弟子に厚情に道場の組の食事会に誘われた時、自分が個人の愚痴とエゴで兄弟子の誘いを断った。全てボランティアの兄弟子は求めない奉献を感謝しない。更に共感を持って兄弟子の熱情な奉献と苦労を見なかった。彼女達は唯仏法を聞き、他の事務に触らない。唯自分が思い事を選別して、自分がやりたいことしか行って、利己しか分からず、利他を知らない愚痴な心は如何なる悪とすべきではない。彼女はまた自分が全て得難い金剛兄弟子、この生々世々の法縁及び一緒にいる貴重な機会を大切しないと深く感じた。彼女達は此処で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔した。彼女達も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を感謝して、彼女一家に自分が長い間の陋習を見させて、彼女達に改めて自分の間違いを検視して、愚かをさせず、頑迷に非を認めさせなくて、一切得難い仏法因縁を大切する事を知らせる。

今日尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きに皆に《観世音菩薩普門品》の偈文を開示された。釈迦牟尼仏は開示されたが、何故観世音菩薩はこのような広大な福徳があって、無辺な衆生を利益できるだろう。とても重要な話が何句ある。その中に一つは「弘誓の深きこと 海の如し」である。「弘」とは大きいの意味である。つまり、観世音菩薩は衆生のために、広大な誓い、願力を発した。その深さ、広さは海のように測定できない。たとえ現代科学は十分に発達しても、少なくとも概略に海の底に最も深い所の位置を分かっても、実際に海の深さと広さを分からない。観世音菩薩が発された弘願の深さと広さも想像できない。凡夫が考えられないが、仏しか観世音菩薩の願いが如何なる深さや広さを分からない。若し衆生の誓願は観世音菩薩の誓願と違うと、観世音菩薩の功徳大海と一緒に出来ない。つまり、観世音菩薩の加持を得られない。

「念彼觀音力(彼の観音の力を念ぜば)、火坑變成池(火坑変じて池と成らん)」。念とは念頭である。観音力の力は力ではなくて、慈悲力である。慈悲の力は最も大きいである。仏菩薩は慈悲心を具えて、妙観察智で衆生を助けるから、後遺症なしで、随縁で衆生を済度して、衆生の縁に従う。観世音菩薩の福徳は極めて広大であり、その慈悲の力は大きくて「火坑変じて池と成らん」、衆生を救済する。此れは全て真実であり、嘘ではない。そなた達は必ず行えるわけではないと思うかもしれない。直貢噶舉教派祖師ガムポパ大師の伝記に記載されたが、ある一回ガムポパ大師はの従者は大師の部屋に入って、ガムポパ大師を見えなくて、唯水たまりを見た。従者は離れた後、暫くして再び入ると、この水たまりが消えて、唯燃える火しか見えなかった。従者は離れて、第三回目に入ると、ガムポパ大師は中に座った姿を見た。そなた達は聞くと、神話だと思うかもしれない。しかし、仏経に記載された内容は必ず正しくて、神話ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは密法を修めた後、此れは出来るのを分かった。

密法を修めた修行者は本当に天に飛ぶ事が出来る。それは密法を通して、地、風、水、火など四大の業力を消せる。若し、地大の業を消すと、重力の影響を受けず天に飛べる。

そなた達は嘗て拙火定を聞いた事があるかもしれない。此れは気脈や明点を修めるのを思ったが、実は此れは禅定の修行法門である。ミラレパ尊者は雪山に閉関修行して、拙火定を修めた時、見回りの雪を融けるまで修めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て2007年海抜4千5百メートルより高いラプチ雪山聖地に閉関修行した。当地の気温は極めて低かった。夜になると、水が結氷し、朝になると、草の露も結氷状態である。関房は一枚一枚の木の板で建てられたから、寒風はいつも板の隙間から吹き込んだ。如何なる保温できる服を着ても、寒気を避けられない。このような低温の中に閉関修行するのも極めて難しい。若し、拙火定を修めないと、出来るわけではない。トイレは天井が有るけど、他の所は遮る物がない。寒風は相変わらず四方八方から吹き込んだ。一般人なら、この状況で恐らくパンツを脱ぐと風邪になるかもしれない。だから、密教の閉関修行は冷たい所に行って、熱帯地域で閉関修行していない。密教もこの地域で仏法を広めて、南方熱帯の国は小乗仏法を中心とする。

観世音菩薩は妙観察智で衆生を助る。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは妙観察智がなければ、ただ今懺悔しに来て、病気にかかったあの女子弟子をどのように助けることができるのか。あの女子弟子はもともと非常によく喋るが、結果は皆に発露懺悔する場合にあうと、話は口に出せない。彼女はこの間に訳が分からずに全身の毛細血管はすべて出血して、全身の血液の量は20パーセント残って、ある医者をする弟子もこのような状況がとても緊急な状態だと表して、血量が不足する時に、体が酸欠になって、心臓が壊れて、そして手や足などの末梢組織も壊死が起こりやすくなる。この女子弟子が危篤になる時、医者も手の施しようがなくて、彼女、その家族と医者はすべて彼女が必ず死ぬと思っている。だから、彼女の孫はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めに来た時には、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼の祖母のためポワ法を修めるように祈請した。リンチェンドルジェ・リンポチェは妙観察智で見ると、この女子弟子が今回まだ死なないことを知っていて、そして、今度病気にかかった理由は、彼女が間違った物を食べてしまった、と彼女に開示した。結局は、この女子弟子は他人の言い方を信じて、末梢循環を促進する一つの売薬を服用して、彼女には高血圧があり、このような薬を食べると、自然に彼女の毛細血管に流血が止まらないようにさせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆にむやみにこのような薬を服用しないでくださいと注意させて、むやみに売薬を飲まないでください、病院あるいは診療所に行って診察して、たとえ売薬でも医師の診断を受けた後に服用すると提案されてから、はじめて服用することができると諭された。

彼女はもとは自分が今回必ず死ぬと思っていて、更に医者さえも命を救う薬がないと言われた。彼女のある息子はずっと彼女が骨髄検査を受けることを要するが、骨髄検査をすると、どんなに苦しいのか。しかし、彼女が今死なない原因は、リンチェンドルジェ・リンポチェの功徳と加持に頼って、そして彼女が諦めなずに、毎週土曜日に リンチェンドルジェ・リンポチェが信者に会う時に、彼女はいつも道場の外で待っているから。道場の中に入ることに及ばないが、しかし彼女が来るため、やはり少しの福を招いて、その故にリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を救う。もしリンチェンドルジェ・リンポチェは妙観察智まで修め得るのでないならば、彼女は今回本当に死亡する。彼女の医者さえ本当に奇跡だと言って、それはリンチェンドルジェ・リンポチェは救ってくれたのである。そなた達が妙観察智まで修めない人は、このような状況を見て、彼女が死にそうだと思って、多分彼女に、心が乱れないでください、落ち着いて仏号を唱えて、或いは彼女の側で彼女を慰めて、彼女が観世音菩薩を思いなさいと教える。彼女のような状況であれば、心が乱れていないことがあり得なくて、往生する前に心が乱れていないことができる人は、ふだん既によく修行しているのであり、ただ年齢があまりに大きくなり、肉体はすでに使うことができなくて、往生する前に基礎をすでに作り終わって、このような人の心はやっと乱れていないかもしれない。その上、この時に彼女が念仏することを要しても唱えることができなくて、もう力がないからである。更にある人は阿弥陀仏の仏号さえ唱えたことがないから、どのように思い出せるのか。

事実上、リンチェンドルジェ・リンポチェはずっと機会を待っていて、彼女がもうすぐ死ぬ時になってから始めて彼女を救う。と言うのは、この女子弟子は非常に誇らしくて、自分が天下無敵だと感じるから。今までやっと自分は間違ったのが分かった。どうして彼女を救うのか。もし彼女は死んだら、彼女は借りた債を弁済する機会がなくて、直接地獄に行ってそこで弁済しなければならない。もし彼女は今死んだら、来世に牛、馬になって、彼女が貪念を起こして金銭の損失を齎した人達に償う。彼女は彼らのお金を受け取らないが、しかし彼らは彼女のため損失を被った。その上、彼女に本当に自分が間違ったことを知らせて、真に懺悔する機会がなくて、懺悔しないと、彼女はどのようにどこを間違ったことを知っているのか。多くの人はすべてもうすぐ死ぬ時まで、はじめて自分が間違ったのを知っていて、だから今彼女が訴訟をすることがよい事であり、多少償うことができる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは、仏を学ぶのは死亡と無常を常に思わなければならなくて、仏を学むのは必死の決心がなくてはならなくて、それは仏を学んで死ぬのではなくて、実は人がもともと必ず死ぬから、と開示した。嘗てある人はリンチェンドルジェ・リンポチェのこのような開示を聞いて恐ろしくて、再び仏を学びに来る勇気がない。仏を学ぶのはとても大きな決心をしなければならなくて、自分に厳しく要求しなければならなく、そなた達はすべて勝手気ままに振る舞うことを慣れて、ちょっと油断して間違うことをする。

「歴劫不思議(りゃくこうふしぎ)」の歴劫とは、観世音菩薩が菩薩道を修行して既にはかり知れない長いる時間を経歴して、どれだけの衆生に利益を齎して、一切衆生を度し尽くすという誓言を発する願力がいつまでも不退転であり、累積した福徳はどんなに深い。不思議とはこれらが決して凡夫の意識で想像することができないことを表して、それは不思議であり、それも体得することができない。

劫は小劫、中劫、大劫などに分けられる。一つの小劫の時間は人類が84,000歳から100年ごとに1歳を減らして10歳まで減少して、再び10歳から100年ごとに1歳を増やして、ずっと84,000歳までのこの時間である。3つの小劫は一つの中劫になって、3つの中劫は1つの大劫になる。観世音菩薩は既に無数な劫を存在しているのである。

「侍多千億仏(じたせんのくぶつ)、発大清浄願(ほつだいしょうじょうがん)」。観世音菩薩は弘誓を発して衆生を利益して、無数の劫の時間を通して菩薩道を行って、そして多千億の仏に供養したことがあり、累世に修行して福徳を集めて蓄えて衆生に利益を齎して、だから、ここでは、釈迦牟尼仏は初めて簡単に観世音菩薩の修行の功徳を説明して、もし詳しく言えば、一つの小劫の時間でも言い切れない。

観世音菩薩が千億尊の仏に供養してこんなに大きな福徳を累積して衆生を利益することができるのは、供養を一度も中断してないこと以外、最も重要な供養はは上師の教えに従って絶えずにして、絶えずに大清浄の願を起こして衆生を度するのである。発願するのはとても重要であり、たとえこの1世に衆生を利益する能力を修め得ることができなくても、しかしもしそなたは常にこのように発願すれば、そなたのこの衆生を利益する考えを第7意識田で役に立たせて、ようやく第8意識田に入ることができて、そして来世になって更に引き続き発生効果を残して、そなたの修行するエネルギーを持続に累積させることができる。

どうして普通な人は大清浄の願を起こすことが出来ないのか。一つは代々の善根がないことであり、もう一つのは自信がないから。最も重要なのは具徳の上師が連れて指導をしてくれないから、上師はそなたに代々の善根を開けて助ける人である。そなた達は自分が退転すると言う資格がなくて、退転することはあれらの既に菩薩道を行って、菩提願を発した修行者は衆生に利益することを止めることを表して、そなた達にとって、そなた達がだらけていて、怠惰である。

ある人は自分の配偶を同修だと呼んでいるが、事実上、同修とは同一の具徳の上師の門下で同じ法門を修習する兄弟子を称すのであり、そなたの旦那さん或いは嫁さんを指すのではない。そなたの配偶を称すのは別にたくさんの名詞があり、例えばhusband、wife、或いはhoneyを言うことができて、自分が仏を学ぶ人であるから、仏法の名詞をむやみに使うと思わないでください。

皆は千手観音像を見たことがあり、千手千眼観音はどのように出来るのか。地蔵菩薩の願は地獄を空かないと成仏しないと誓う。観世音菩薩は倒駕慈航(自分が既に成仏まで修めてから、再び六道を済度しに戻ること)であり、願力は一切の衆生を度尽するが、しかしどんなに度しても衆生を度尽することができないだろう。観世音菩薩は衆生が救度されてもらった後に、後ほど再び悪を犯して痛苦に陥って、どのように度しても、終ることができないので、たいへん焦っていて、そこで頭が7切れ裂けた。この時に観世音菩薩の根本上師である阿弥陀仏は現れて、観世音菩薩の頭を繋がって、11ヶ頭になって、最も上に座るのは阿弥陀仏である。阿弥陀仏は観世音菩薩に千の手をつけるように手伝って、千手千眼になって、これは度しなければならない衆生が多すぎるから、もっと多くの分身と、もっと多くの化身が必要である。千の手も衆生が様様であることを代表して、観世音菩薩は各種の異なる法門を備えなければならなくて、すべての衆生を助けることができる。

観世音菩薩は古仏であり、ようするにこの一代の人類文明の時に成仏したのではない。皆が知っているとおり、仏菩薩はきっと人道から修行したので、お経には記載され、釈迦牟尼仏は第5尊の仏陀であり、以前はまだ4尊の仏陀がいて、人類の文明が今回の文明だけではないことも表して、その上多くの科学者も人類の文明が今回が第1回ではないことを実証して、以前は既にあって、これはお経の言い方と同じである。ある人は人類が類人猿とサルから発展変化して来たのだと思うが、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示して、もし本当にこのような話ならば、同一の時代に属する者は、すべて同時に発展変化して人類になるべきであるが、どうしてまたそんなに多くの類人猿とサルがあるのか。その故に、あれは信じることができない。多くの科学者もどんどんこの状況を発見した。人類は決して類人猿とサルから進化してきたのではない。人が投胎転世して生まれると、隔陰迷があって、そなたの代々の事に対して全て忘れて、だからも自分の前生を知らないで、修行することに頼って累世の善根を開けてから始めて分かるかもしれない。

「澍甘露法雨 滅除煩悩燄」(観世音菩薩は衆生に利益するように妙法を宣伝し、悩みを取り除く)甘露は二種類に分けて、一つはそなた達が目で見られるの、もう一つはそなた達が見えないのである。しかし、あるものはそなた達が見えないが、それは存在しないとは言えない。例えば原子、分子は極めて小さいもので、そなた達は目で見られないのである。例え、皆は全て霊魂が存在するのを分かっているが、科学機械でまだ推量ることが出来ない。坊間ではある者は二つの碗を互に建てていて,碗を開けた後、中にある1粒々のものを見ると甘露と言って、それは正しくない。

なぜ普門品は甘露と説いたか?それはある癇癪を起こしやすい者のように、どんなものを食べてもいつも口の中で苦いと感じて、なにを食べた全部苦かった。癇癪が消えるなら、自然に食べ物の甘さを味わうことが出来る。まるでそなたの心が清浄して、貪、嗔、痴の悩みが無い時、自然に仏菩薩の甘い法露に潤われることを感じできるようになった。

人は無明の考え方のため、悩みが起きられて、悩みで多くの業を作って、六道輪廻の中に堕ちた。これ等の悩みは全て貪、嗔、痴、慢、疑の欲望に生じられた。これ等の欲望はぼうぼうの烈火のようで、その火を撲滅するのが水で、風であらない。ここに説いた法雨とは、仏法は雨水のように、散し出した法水によって、欲望の火を取り消すことがはじめ出来た。一回の雨はどのくらいの雨滴が降っただろうか?誰も知らない。人類の科学はどう発達しても、今まで降った雨は只ミリメ-トルではかることが出来ない。幾ら雨滴が降ったか知ることが出来ない。つまり、多くの量が必要とのことで、我らは多い仏法の法水が必要との表れで、また、法会に参加して、仏を勉強するのも絶えずにし続けて、長期で蓄積すると示す。一回の法会でそなた達の問題を解決できると望むな。仏法は薫陶と説いた、しかし、先ほど出て来て懺悔した兄妹は、彼らの家に累世殺業が多すぎて、この一生ゆっくり薫陶するのが大変尽くし難しい、それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは叱り、処罰など方式を通じて、彼ら兄妹にチャンスを有らせて、自分の間違いところを分からせ次第に改めて、早めに債を返すチャンスがはじめてあって、これは大雨のような甘露の加持ではじめて彼らを助けることが出来る。

≪寶積経≫は全ての仏菩薩が修行する、行いによる一本経典である。そなた達は観世音菩薩を勉強すれば、観世音菩薩の身口意はどう修行する過程と方法を知らなければならない。≪寶積経≫の中には、菩薩が各果位を修め得た時現れる前兆を言い及んで、また、菩薩にはどの兆候があればある法門を学ぶべきと述べた。そなた達はきっと考えたことがないんで、なぜ密法の上師がこんなに多い顕教のものを知ることが出来るか?顕教は基礎で、チベット仏教の中に述べた、顕教の理論を有る程度知ってからはじめて密法を学ぶことが出来て、密法の中に実は顕密両方を勉強するべきである。また、必ず仏経に載せてある内容或いは如法の上師より伝えた法こそ、そなた達ははじめて聞く、することが出来る。ある者は密法がないと言った、それは仏経の中に見たことが無くて、実は密法が存在で、仏経の中に多くのところに密法を書いてあるが、只そなた立ちが知らない。仏経は宝で、仏を学ぶなら、仏経よって修めなければならない。ある者は所謂「観音気功」を教えているが、リンチェンドルジェ・リンポチェは経典を遍くひいてもこのように書いたのを見たことがない。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:発明家をしないで、経典には説かなければ仏法ではなく、密法の上師が口伝するのではない限り。

1人如法の上師であれば、彼の教派の歴史伝承をはっきりそなたに教えるべきで、直貢噶舉教派のように、第一代祖師から現在の第三十七代の法王まで、全部はっきりそなたに全ての伝承を教える。衆生に歴代上師が修行する過程を了解させるので、これは物語りではなく、全部過程がある。釈迦牟尼仏のように、そなたに彼が1人王子ことを話して、彼の修行する過程はどうか全部はっきり説明する。ある流派が突然に立ち上って、自分がどの伝承して来たかも話さなくて、あれは偽の密宗で、そなたが信じるな。ある者は飛び出して自分がなんの祖師を言うのも信じないで、禅宗は六祖慧能の後、もうなんの「祖師」がいない。

観世音菩薩の法門を勉強している時、他人はそなたに良く修め得て観世音菩薩とすごく似ていて、そなたが大変荘厳になるとの話を信じないで、また驕る心、傲慢心が起こられて、自分がとてもよく修めたと思った。ある者は言った、この仏像を置かないで、あるいはこの仏像が良く置かないので自分を不順調させた。これらの話は全部正しくない。何が荘厳だか?荘厳はなんの定義しているか?それで、仏像を買う時、一目をする時、そなたに歓喜心が起きられたと感じさせるならば、これは間違いなく。他人の話はそなたが聞かないで、そなたの上師が言わない限り従わない、それはそなたの上師がそなたに対してなにがいいと知るから。

先ほど出て来て懺悔した兄妹は、彼らが出て来て懺悔するのは自分が間違ったことをしたのであり、自分が間違ったことをしたため、懺悔すると思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前すでに仰った:実は我らは仏に成らなければ、やはり懺悔が必要だ。我らは生々世々全て仏菩薩の大恩を受け取って、仏になってもっと多い衆生を利益するのははじめて仏菩薩の恩を返す。それで我らは全部懺悔が必要だ。彼らは仏をこんな数年を学んだがなぜまだいつも誤ちを犯したか?それは家族累世の殺業はいつでも彼らを影響しているから。殺業はとても恐ろしくて、殺業があれば地獄に堕ちる。しかし、彼らは仏を勉強しに来て、この十何年間、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずにチャンスを作って、彼らを罰して彼らを助けて、さもないと、彼らは是非地獄に堕ちる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたを叱らなければ、そなたは自分がどこで間違ったか知らないから。どこで間違ったか知らなければやり直すことが出来ない。改めないと仏になる道へ進むことが出来ない。

「妙音観世音、梵音海潮音」。この二句の言葉は大変解釈し難かった。妙音は美妙な音楽ではなく、梵音はある者が音楽或は印度語と思ったが、これは正しくない。ここの梵音は呪文と示す、印度語は子音、母音があり、英文の子音母音のようだ。呪文も母音と子音にわけてあり、しかし意味は同じではない。海潮音とは簡単に海浪の声のようと解釈するのではない。例え海浪のように一つの波に一つの波を叩いて湧いて来る声であれば、念仏成片との言葉が現れない。ここは指すのが密法の修行で、そなた達は六字大明呪を読む時、1つの文字に1つの文字をとてもはっきり読んだ。密法の中には所謂金剛誦が呪文を唱える時口の皮が動かないが、そなた達はまだ読んだのが六字大明呪と聞き分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの時金剛誦の読む方法を実地にして見せた。これらは音のある読み方、外にはまた一個音が無し読み方があり、気脈の中に呪文を唱えて、漢方醫学では経脈、密法では気脈と言う。そなた達はこの声が聞こえないが、呪文を唱えるものは耳根で聞く、耳根は耳のことではない。耳が聞くことが出来れば、神経病だと表す。

この情況はまるで我らはとても静かな所にいて、自分の呼吸の声が聞こえるようで、そなた達はまだこの境界までを修め得ないので、只呼吸の情況で説明してみて、そなた達を了解させる。そなた達は気を中脈に導入することが出来ると、中脈の中で呪文を唱えるとき、業の気を引っ張ることが始めて出来て、業の気を押さえる或は変わることがやっと出来る。ある時そなたが呪文を読む時、側の者がとても大きい声で読んで、そなた達は自分の呼吸する声が聞こえなくなったが、彼らは大変小さい声で唱えればそなたがまだ自分の呼吸の声が聞こえることが出来た。人の呼吸はなんだろう?小さい声を読むなら,あなたはやはり自分の呼吸の音が聞えた。 人の呼吸はどうですかの。 1人お医者さんが表した、呼吸は腔道を通じて、いい空気と廃気と交換するのを進んで、絶えずに入ったり出たりして、まるで呪文の声が中脈の中に上上下下で流れる状況である。皆は嘗て聞いた人身が法器で、今日やっと分かった、これは只1つの例えではなくて、確かなことである。

「勝彼世間音」、世間とはこの世界のことを表すのではなく、全ての宇宙のことである。宇宙の中にどの声でもこの声より綺麗ではない。例え、リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を行うとき、亡者を助けられるのは気脈より亡者の業力を一緒に連れて行く。ポワ法を修めるとき全て出した声はそなた達にとって極めて大きいだが、亡者に対して妙音観世音、梵音海潮音、天楽で、仏菩薩が彼らを浄土に迎え声である。

「念念勿生疑(念念に疑を生ずることなかれ) 」、釈迦牟尼仏は此処で特に念念勿生疑を言及して、即ちもう一度皆に「信」の重要性を注意させて、仏菩薩と上師に対して深く信じることが必要で、それより、仏菩薩と上師の加持が得ることがはじめて出来る。釈迦牟尼仏は大変慈悲で、もう一度そなた達に観世音菩薩を信じると仰った。つもり自分の欲望で観世音菩薩に願わないで、どうしよう自分がよく出来ないのも言わないで、どうしようもない、仏菩薩と上師がする、そなた達は只従順さえすれば結構だ。

「観世音浄聖」、観世音菩薩は聖者で、彼は全ての身口意が全部衆生を利益するためで、すこし自分の利益のためではない。

「普門品」の特別なところは理解し易い比喩を多くて使う。例えば:雨、海などの方式にて仏法を紹介する。「普門品」を軽視してはいけない、顕密の理論はその中にある。一部の人々は「普門品」を解釈する時に、一つ一つのワードで説明する。例えばこのワードはどんな意味を代表するかを解釈し、もう一つの言葉で此れを説明し、つまり言葉で言葉を釈明する。彼らは密法の実修した経験がないので、リンチェンドルジェ・リンポチェのように自身の実修経験によりこのように開示してくれる事が出来ない。もしリンチェンドルジェ・リンポチェは自身の経験がないと、四方山話をしたいでもこのように滑らかな事が出来ないでしょう。

市中はある人は散水器に水を詰めて噴き出して、此れが加持である事と言った。もしこのようであれば「噴く」になって「しぶく」ではない。我々が仏を学ぶ時に、外在の形がある程度変える事が出来て、例えば容器が変える事が出来て、然し仏法の精神含意が変わる事が出来ない。此れは何故仏経が「法により人に依らず、意により語に依らず、了義により不了義に依らず」と諭す。「語に依る」のは仏法を解釈する。「意に依る」のは仏法の含意を言い出す。

「慈眼視衆生(衆生を慈悲の眼で看る)」のは観世音菩薩が優しい目付きで、柔和である表情により衆生を視るのではない、平等で分別がない態度による衆生を視る。観世音菩薩はどの人が比較的に好むので多くて加持し、誰かだより多くて供養すると多くて供養する事をしない。一切は因縁により衆生に助ける。「慈」は慈悲心である。慈悲深い目は此処に二つの意味がある。一つは仏の目の中に、良さ悪さ、正しさ違い等の分別心がない、執着心がない。第二種類の「眼」は五眼である。観世音菩薩は5種類の眼を備える。つまり「肉眼」、「天眼」、「智慧眼」、「法眼」、「仏眼」である。もし五眼を備えないなら、衆生の様々な因縁が分からない、最も適する方式により彼に助ける事が出来ない。智慧眼を修めて間違う方式にて衆生を助ける事が有り得ない。智慧眼は修める方法がある。直貢チェツァン法王は自らリンチェンドルジェ・リンポチェに如何に智慧眼を修める事を伝えた事がある。その故に、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの事柄に出会っても、最も智慧がある方式により衆生に助ける事が出来るわけである。此れは智慧眼を使って、「妙観察智」があるので衆生を助けて始められる。

「福聚海無量,是故応頂礼(福の集り海ように無量である、この故に頂礼するべきである)」。此処に諭すのは観世音菩薩の功徳が海のように計算出来ない、つまり観世音菩薩の功徳が測る事が出来ない、数量化が出来ないので、ここに海にて比喩をする。観世音菩薩は何故このような大きな功徳を持たれるのでしょうか。第一は供養であり、第二は千億体の仏に仕えるわけである。一体の仏の時間はとても長いである。観世音菩薩は古仏が再び来るのである。仏経と曰くにより釈迦牟尼仏は第5体の仏であり、この時間がとても長いである。つまり、観世音菩薩は1世で修める事ではない。彼は累劫の時間を経て諸仏の教導により絶えずに修行して功徳を累積する。リンチェンドルジェ・リンポチェのようにこの1世でこの果位を修めて得る事が出来ない、多くの世の時間が累積するわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェはただ自分の幾つの前世を知っている事しか出来なくて、しかし、全部が幾つの世を経る事が依然として知らなかった。ただ直貢チェツァン法王だけで知っている。

梁武帝は達摩祖師に「私はこんなに余計な事をして功徳があるかどうか」を尋ねた事がある。達摩祖師は「君は功徳がないただ福徳がある」と回答した。実は梁武帝は仏法のため多くの事柄をしていた。梁武帝から全ての出家者に菜食する事を規定させて、多くの仏寺が梁武帝から築いたのである。何故達摩祖師は同じように彼がただ福徳だけがあって功徳がない事を説いたのでしょうか?此れは彼が自分がどんな事をした事を気にかけているので、これ等が福徳に替わらせた。仏を学ぶのは功徳を修めて福徳を修めてはいけない。福徳は人天福報であり、修めて得ても、来世に使えられる。功徳を修めるならそなたの此の世の業に転じさせられるわけである。もし自分に利益させる考えは少しがあったら功徳が修められない。リンチェンドルジェ・リンポチェは前回で「ある仏教名義の団体は日本で被災者を救済する時に、また名前を強調し、このようにしたら宣伝する嫌いがある」を説いた事があった。ある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェにこの団体が宣伝をした事が無い事という質疑を提出した。もしこの団体は仏教の名義をしないと、リンチェンドルジェ・リンポチェが此れを評判しない、しかし、仏教団体だと言ったら、相応しくない行為があって、リンチェンドルジェ・リンポチェが指摘する。中国人は「善行を黙々と行い、他人に自分の善行を知られることを望まない」と言う。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当の話を言って衆生が受ける事が出来ない、人々に感情に害しやすいのである。達摩祖師は梁武帝にこの話を言ったので9年で壁に向く事を処罰させた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある仲良いが仏を学んで、多くの法会に参加し、多くの灌頂を受けて、多くて供養したが、結局中風で死んでしまった。此れは彼が生死を解脱する願いを発さなかったので、修めるのが功徳ではなくて、この世で彼の業に転じさせられない、少しの福報を残して来世に使って始めるわけである。

供養は「七支供」である。観世音菩薩は七支供養にて絶えずにして利益する事により福徳を累積し、そうすると、深くて広める福徳を累積られて衆生に救って済度させられるわけである。毎回、法会を行う時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列者に皈依、発心を唱えさせて、七支供が最も重要な事である。七支供は「三業で恭敬して頂礼し奉らん、現に供えし、供物 と心に観想せし供物をば残らず捧げ奉らん;無始より積集したる一切の罪過をば懺悔せん;凡夫と聖者の徳などに随喜せん、輪廻の尽きぬ限りよく御在世し;衆生に法輪をば転じて、自他の善などを大菩提に廻向せん。」此の中に言及する7件の事は我々に使って功徳を累積する為のである。人々に連れで法会に参加する事は功徳をする事ではない、ただ他人にある善縁を結ぶ事を助けるだけである。

「七支供養」の中に懺悔に言及する事がある。多くの人々は「間違う事をしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔する事が十分で、リンチェンドルジェ・リンポチェの許せを求める」を常に言った。実はこれ等がリンチェンドルジェ・リンポチェと関係がない。そなたは何か間違いをしたら、過去に修めて唱えたのが全て福徳に替わらせた。福徳はただ来世のみで使えて、この世に使えないので、またレロから始めなければならない。もしそなたはずっと間違う事をしたら、ずっと時間を無駄になっている。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故弟子にこんなに厳格で要求させるのでしょうか?此れは人生が無常わけであり、こんなに多くの時間を浪費する事がないわけである。仏菩薩は心を動かないので怒らない。リンチェンドルジェ・リンポチェも怒らない、一切が縁に従って、衆生の縁に従っている。もしリンチェンドルジェ・リンポチェがまた怒られるなら、リンポチェではない。一部の人々は仏を学んでから暮らしが順調である事を言った。それは仏を学んでから悪をする事を減らすので、本来に発生するべき障害も減らし、だから、より順調になる事を感じている。そなた達は順調するかどうかを仏を学ぶ事と関係ない、仏を学んだらそなたに順調にならせない、そなたに順調にならない事をさせない。仏を学ぶ事はそなたの仕事と家庭に影響させない。そなたは結婚してから仏を学んで、或は仏を学んでから結婚しでも、仏法に関係がなくて、ただそなたの縁だけである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示なされた。そなた達に頂礼させる事は仏菩薩或は上師が高くいて、そなた達が下にいる事ではない。そなたは頂礼をすると供養をするわけである。仏菩薩と上師はそなたに欠ける事をしない、絶対にそなたに返す。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼をする時に、跪くと、そなた達が見ないけれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが既にそなたに加持して与える。頂礼のも一つの意味はそなたに謙遜になる事を教えて、そなたに懺悔する事を教える。実は仏菩薩に謙遜になることではない、そなたの冤親債主に対して謙遜になるわけである。一部の人々は家に符を一杯に貼って、鬼が入られない事と思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは子供の時に道教を教えた事があり、家で符に塗れて貼っても役に立たない事を知っていて、此れは上には上があるわけである。外道の方式は闘う方式により、が、仏法が慈悲の力にて冤親債主の瞋恚の心を暫く止めさせられて、仏を学ぶ障碍が減らす事が出来る。仏菩薩と上師の加持はそなた達に加持する事ではない、そなたの冤親債主に加持し、彼らに心地良さを感じさせて、そなた達に邪魔させない。考えてみて、そなた達の過去の累世とこの世、どれだけの衆生を傷付けた事があるのでしょうか?どの位を欠けた事があるのでしょうか?これ等の債主が来て借金を取り立てる時に、そなたが他人と喧嘩し、姿が高いのでしょうか?まさかそうするわけにはいかない。卑下にして許せを求めなければならない。そなたは跪いて頂礼する事が出来れば、仏菩薩がそなたにそなたの冤親債主と相談し、なく利息に返還する事が出来るかどうかをに助けられて、しかし、借金が返らなければならない。が、債主はそなたに多くの時間を与える事を同意するかもしれない、福報を稼いで彼らに返す為のである。

あなた達が頂礼する時に、この一つはそなた達の我慢、高慢である心に殺させて、此れは高慢するなら慈悲を学ぶ事が出来ない。その上。慈悲は一切な仏法の基礎である。もう一つはそなた達が頂礼する時に、一切な衆生に代表して頂礼するのである。そなたは善の心により頂礼したら、能量が極めて強くて、そなたの回りの衆生に影響させられる。大礼拜のは、「大」と呼ばれる理由が影響させる範囲がとても大きいである。

ある弟子弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した普門品を聞いた感想をを分かち合った。嘗て他の上師が普門品を解説する事を聞いた事があった。けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェのように深くて説く事をあり得ない。実修の経験を経典の内容に融和して奥深いが分かり易くなる事をあり得ない。先リンチェンドルジェ・リンポチェが開示した「梵音が海潮音のようである」の開示は独特である。彼は法師が真言を唱える声が連続して絶え間ないで、潮のように立ち騒ぐのを聞いた事がある。

リンポチェは「解門、行門」を続けて開示した。多くの人々は「解門」が「解釈」である事と思っている。実は、貪、瞋、痴、慢、疑を「解く」事である。この五つの結びを解いたら、行門に入られる可能がある。慈悲は全ての仏法の基本で、慈悲を基礎にする事が無いなら修め出る事が無理である。一部の人々は普門品がとても簡単で金剛経がやっと素晴らしさだと思っていて、実はそうではない。仏法とは仏に成る方法で、大小の分別がない、ただ衆生の根器と縁法の違いにより、大乗、小乗、金剛乗の修行法門がある。最終の目的は衆生に生死輪廻を解脱して浄土に往生して仏果を修め得る事を教える。リンチェンドルジェ・リンポチェが「観世音普門品」を開示した後、現在、そなた達は、簡単なようである普門品は実は此の中に密法がある事が知っている。しかしどのように遣り遂げる事を述べる事がない、ただ解門があって行門がない。だから、顕教により修行すると、とても長い時間に掛かる事が要る。が、金剛乗に対して、徳を備える上師の口伝教導に頼む事が必要である。

2011年4月17日

台北寶吉祥仏法センターの共修法会で、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年07月13日に開示した「共四加行」の仏法録音を恭しく聞いた。

法会開始前、ある夫婦の皈依した弟子達は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らの息子を救った事及びその家族を統合した事績を分かち合った。この女子弟子は、もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいないと、彼女が今多分人間の地獄の中で生きているべきであることをと表した。

彼女の子供は乳児性悪性大理石骨病というめったにない疾病(台湾では大理石ベビーと俗称する)に罹って、きわめて重度、多重障害の証明手帳を持つが、しかし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはに出会ってから、もっと多くの2年半を生きているだけではなくて、その上品質がある生活を送っているから、彼女は甚だしきに至っては子供がめったにない疾病に罹ったことを忘れて、子供が入院して病院のICU病棟で全身に多くの管を挿し込んで治療を受けた日を送ったことがあるのも忘れて、。しかし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは著作に諭したように、もし寿命がある場合であれば、病気が自然に治れるが;寿命がすでに尽くしたら、あくまで彼が生きている事を要求すれば、ただ彼に苦痛を発生させるだけ、とても大きな副作用を起こして、だから完全に仏菩薩と上師が私達に良くして、我々を利益してくれることだけを信じる。

彼らは初めて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来てから、子供は二度と西洋医学の侵入性の挿管治療を受けなくて、これは尊き金剛上師が絶えずに慈悲に加持して、子供をよく配慮してくれたことに感謝しなければならない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座で開示したように、彼らと親友達が確かに子供がこれからこのように順調に成長することができると思っているが、誰も子供が意外にもこのように早く浄土に行ったと思い付いていない。

上師の慈悲な加持のため、去年(2010年)11月から彼らの夫妻の2人が毎日道場で500回大礼拝をすることを許したが、最初にいい加減にして恭しくないて、それから福報を累積して、子供がポワ法を得る機会がある。この期間には彼女の頭も偶にいくつかのはっきりしている考えが現れて、例えば子供が亡くなる前の3日間、彼女は意外にも1つの考えがあり:上師に子供にポワ法を与えるようお願いしに行くかと思っている。それに自分で結婚する時の黄金を上師に供養すると思っている。当時、慈悲な上師がその時にまた彼女にこのような物を供養することを聞いて、すでに先生の同意を得たかどうかと聞いた。彼女の夫はかなり支持した。多分これらの供養をしたことがあるかもしれなくて、縁があって子供にポワ法を得させると思っている。

大知恵の上師はとっくに子供の状況をよく知っているが、しかし、上師の「大丈夫だ」という一言で、彼女が安心するようにさせて、独りよがりな彼女に子供が無事に過ごすことができるだろうと思わせた。慈悲な上師がとっくに分かったのは、もし彼女に子供の過ごす日々を教えたら、彼女はきっと崩壊してその上愚かな事をして、甚だしきに至っては仏を謗る。実は一部の兄弟子は続々と彼女に、子供のためポワ法を祈るかどうかと気付かせた。しかし、いかなる違う意見を聞き取れない彼女は兄弟子達に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが大丈夫だと言ったから、彼女は子供のためにポワ法を祈る必要がないと感じる、と答えた。執着する彼女は、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが仰った「大丈夫だ」の本当の意図が彼女が気持ちが楽しくて、落ち着いているように子供に付き添ってよくこの日を歩き終わることができて、たとえ子供は往生しても、同じく無事に浄土まで修行しに行くということがどんなに考えても分かたないのである。

彼女は全家族が一緒に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会ってから、特に上師に従って海外へ法会に参加した後に、子供は活力が十分で、元気いっぱいであり、学校の先生さえもいつも彼女に子供がクラスでは歌を歌うことが一番好きで、活力が盛んな子供だと言ったことを思い出した。子供がずっと仏菩薩の配慮を得たから、彼らは全然子供がこんなに早く彼らを離れると思わなかった。嘗て彼らは子供が将来どの小学校に入ると計画して、彼のリハビリのために時間割表をも推定した。子供が亡くなる前日、学校のランニングマシンの上で17分間も歩いて、先生は彼の左足がますます進歩的になって、よく練習したら、未来きっと自分で歩くことができると言った。ちょっと考えてみなさい。めったにない疾病患者である子供はどのように外国へ行くことができるのか。どうして病院で何度も奔走することが要らないのか?その上外国へ行って3回も法会に参加して菩薩の加持を得たことができるのか。

しかし仏菩薩は嘗て仰ったように、三つの事は仏菩薩もやり遂げることができない。因果業力が変えない、すべての衆生を度し尽くすことができない、縁が無い衆生を度することが出来ない。つまり、子供の命の長さを変えることができないが、しかし生命の品質がが正常な人のように上がることができる。道場の中の癌に罹った兄弟子のように、たとえ癌の末期になっても、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこれらの兄弟子達に医療の苦痛を受ける必要はなくて、一部の兄弟子はさらにモルヒネさえ注射する必要がなくて、依然として行動が自由自在で、更に外国へ行って法会に参加することができて、彼女の子供の状況も同じである。

去年8月、彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに子供の脳部のドレナージの管を取り出す期日とのことを伺いを立てることを忘れたので、子供の頬が腫れて、あごが血を流してうみを流すことを招いた。それでも、子供が依然として尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けて、ただ患部に薬を交換する時に、子供はようやく泣くことができて、その他の時に無事と似ているのように、あごの痛みで凄く泣いたり騒いだりすることが全然なかった。その他のこの疾病にかかった子供は、ただひとつの小さな傷口で死亡する可能性が極めて高い。しかし彼女の子供が約4ヶ月間うみと血を流した後に、輸血していないまま、傷口さえ潰爛していないで、甚だしきに至っては無事に外国へ日本の法会に参加しに行った。

確かに尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが法座で開示したように、子供が皈依してから、いかなる戒律を犯したことがなくて、彼が殺生しないし肉を食べないし、彼が病気のために他の人に対してかんしゃくを起こしたこともなくて、更にののしることは勿論である。子供は特によく人とお礼を言って、いかなる事に対してすべてじっと我慢するのである。子供がとっくに彼が亡くなる時間を知っているべき、だから亡くなる前の一週間、彼はややもすれば人とお礼を言って、それに絶えずに何のいわれもなく母である彼女とバイバイと言った。

子供がICU病棟で受けた苦痛と比較して、子供が本当にとても幸せに亡くなって、彼が落ち着いていて母の懐中で横たわって、いかなる医療の苦難を被っていない。子供は父親が道場に大礼拝をしに行くことを選んで、母親は家にいて彼を抱いて付き添って、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは外出するところ亡くなった。彼女が覚えていたのは、子供が彼女の懐で横たわって、呼吸がますます遅くなり、呼吸していないまで遅くなってしまって、また慌てふためく彼女が子供を抱いて壇城の前にひざまずいて、「リンチェンドルジェ・リンポチェ、私を救って」を大声で叫んだ後に、彼女はすでに子供が亡くなった事実を受けるように、早く救急車と連絡して、そして医療関係者に応急手当を要らないと告知した。彼女はできるだけ早く尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを探し当てて、子供にポワ法を与えることをお願いして、泣いて情緒を発散する時間が全くなく、以前子犬が死んでしまって、彼女の情緒の制御できなくなる状況と対比すると、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に彼女を救って、彼女をたくさん手伝ったのである。慈悲な上師は子供に殊勝なポワ法を修め終わった後に、子供の遺体には瑞相が現れて、頭のてっぺんは暖かくて、顔は落ち着いていて、甚だしきに至っては頬が腫れている事及びあごの傷口さえ不思議に元に戻して、これらはその他の家族に非常に驚いてと賛嘆させた。特に彼女の姑が子供の左手を引っ張る時、遺体が依然としてとても暖かいことを発見した時、姑は上師が子供をまた生き返らせたと思っている。彼女の親友は続々と冷蔵装置の中で3日間も横たわる子供を見にきて、すべては子供の頭のてっぺんとおでこの温度はなぜ温度差があったことについてとても驚いて、その上容貌は寝つくように落ち着いているみたいである。

他の弟子達が分かち合ったのと同じように、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得たのでさえすれば、すべての事は円満で順調である。もともと子供の遺体を火葬する日にはキャンセル待ちのストーブしか予定できないから、一定の時間を待たなければならなくて甚だしきに至っては午後まで待つと予想していて;同時に、海葬する時の天気は恐らく風波がとても大きくて、海に出てあまりに遠いところに行かないほうがいいと知らせられた;拾骨師も彼らに気づかせたのは、子供の骨であるため、頭蓋骨がか完備していない可能性が極めて高くて、恐らく全てが灰燼に変わって骨を拾うことができないかもしれない。意外にも、事実上火葬する時に、彼らは第1順位までアレンジされ、急速に火葬することを完成した。ポワ法の瑞相──頭蓋骨の小さくて丸い穴も速く探し当てられて、骨もたくさんのあでやかな色が現れた。更に非常に不思議なのは海葬する当日に太陽があり良い天気なので、海に出るのさえ順風に帆をあげた。特に淡水へ行く途中、当日は連続休暇期間の土曜日であり、天気が晴れ渡っているが、しかしほとんど渋滞していなかった。遺体を火化し海葬する前に、彼女の姑は孫の海葬に参加するのが縁起が良くないかどうかを心配している。その故、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見に行って、リンチェンドルジェ・リンポチェは、お経には白髪の人が黒髪の人を送ることができないと諭さないと開示して、あれはただ民間の習俗であり、だから彼女の姑がとても順調に海葬に参加した。同時に、海葬の儀式に参加する親友も普通な葬式と異なることを感じて、とても穏やかで落ち着いている。これらのすべては全部、彼女は慈悲な金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝する。

同時に彼女も懺悔して、もし上師がいなければ、全身罪過の彼女は、どうして子供を浄土まで修行しに行かせる機会があるのか。特に悪い事をやり尽くして、たばこを吸ったり、酒を飲んだり、大麻を吸ったり、エクスタシーの薬を食べたり、人や金銭を騙したりして、無数な衆生を食べて、4人の子供を流産させて、親孝行ではなくて、地獄をおりるべきな彼女は、またなぜ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに出会う機会があるのか。子供のため、周囲の人にすべて菜食精進料理を食べて仏を学んでおよび慈悲な金剛上師に会う因縁があるようにさせた。彼女は更に諸仏菩薩が彼女を放棄していないことに感謝して、彼女にこの子供を持たせて、彼女の人生の旅の違う道を開く機会がある。もし尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがいないと、彼女はこの生涯に何が浄土であるかが全然分からない。そして絶対に浄土まで往生した人を目撃証言することができない。

彼女はまたリンチェンドルジェ・リンポチェに信心をあまり備えないことに懺悔して、しかも例を挙げる。彼女は過去すべてリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で除障草を買って燃える。が、この前に、彼女は他の地方でもっと安い除障草を見て、すぐ買って試用して、比較してみたい。結果は一回だけ点火して、香炉で一層の黒色の汚れが累積され、過去にリンチェンドルジェ・リンポチェの会社で買った除障草を使って、1年間も使ってもこのような情況がない。彼女は心の中で考えて、もしこれらの油をすべて肺の中に吸い込むならば、体に対して傷つけるのではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェが商売をするのは実はすべて弟子と衆生のためであり、得しようとして、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに対してある程度懐疑する。

彼女は子供の身から尊き金剛上師が開示したように、人は往生する前に、地、風、水、火など四大分解の過程を経験しなければならなくて、歯を落としてから四肢が氷ように冷たくなり、さらに皮膚が乾燥したまでなどのことを目撃した。彼女はこんなに頑迷で独りよがりな人でありるから、何回も生まれ変わっても、きっと下三道の中に輪廻して苦を受けるが、自分がまだ分からない。更に引っ越して戻って姑と一緒に居住することがあり得なくて、粉砕した家庭を統合して、同時に家族はすべて完全に彼らが上師の指示したように子供に関する後事を取り扱うことを認めるから、妨害は一つもない。姑は更に全行程で参与して、自発的に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に加持されたことに直接に感謝しようとも表している。過程に参与した人もすべて遺体が火化した後のポワ法の瑞相を目撃した。子供はこの生涯に勇敢に生きていて、亡くなるのが更にすばらしくて、多くの人に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大威厳慈悲力を見証させて、仏菩薩と親しくして、生命の軌跡を変えて、違う人生を生きる機会があるようになった。子供は彼の生命の歴程で、彼女に学習させて、彼女に多くの贈り物をあげて、彼女はすでに彼に触れることができないが、しかし彼が彼女にくれたものは永遠に彼女の心の中に残している。特に彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが、妄想が絶えなく全身罪が深い彼女に依然として仏を学ぶ機会があるようにさせたことに最も感謝する。

引き続いて、、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年07月13日に開示した「共四加行」の仏法録音を恭しく聞いた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示して、この2回の法会には我々教派の中の南珠堪布(ケンポス)がここにいて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが2001年に直貢チェツァン法王にお伺い、特に彼はやって来たのである。南珠堪布(ケンポス)は雲南省シャングリラで(以前は中甸と称す)の直貢噶舉の寺院「来源寺」にいて、この寺院はすでに3百年余りの歴史があった。来源寺の上方のある地方が地元の人が「祖師洞」と称され、ある噂がある。以前には達摩祖師はインドから中国に入って来た時にあちらで一定の期間も滞在して禅修したことがある。噂によると、いかなる畜生道の衆生が1匹の小さな蟻までを含んでその洞穴で生まれるのでさえすれば、すべて永遠に三悪道を離れることができると言い伝われた。南珠ラマは小さいときから中甸の来源寺で出家して、それから直貢噶舉の最初の仏寺、つまり我々の祖寺──ラサにある「直貢梯(ティ)寺」で勉強してから、その後インドに行った。今度彼を誘ってここに来るのは主に、チベット仏教の儀軌の中でリンチェンドルジェ・リンポチェが以前学んだことがないのがたくさんあって、楽器を演奏すること、多瑪、裝臟、沙壇城、及び壇城の前に様様な装飾がある、それはすべて堪布(ケンポス)の彼らの小さい時から学ばなければならないものであるから、その故、そなた達はもしこれらを学びたい者は先に申し込むことができて、それから比較的に適当な人を選ぶ。

寶吉祥仏法センターは直貢噶舉の中では比較的に特別な道場の1つであり、チベット仏教のすべての道場は全部リンポチェが主持しているため、通常にリンポチェの傍に2~3人のラマ僧を連れて道場の中に居るが、しかし寶吉祥道場では1997年に直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を広めることを許してから、ずっと1つの在家の大衆が修行する地方であり、2003年までやっと3人の出家衆を増やした。しかし我々がチベット仏教の道場であるから、チベット仏教の中の多くの儀軌、儀式はすべての弟子に少し理解してほしくて、さもなくば皆はチベット仏教に対してある1種のとても神秘的な感じを持っている。

実はチベット仏教に於いて、多くの儀式と儀軌は全て昔釈迦牟尼仏が残された多くの方法に従った。勿論あるのはチベット地元、最も原始な宗教-ボン教(黒教)から伝えられた。黒教は密法と関係がない。ボン教も呪文を唱える事を中心した。実はインド教も多くの真言があった。真言とは密宗は特有な物ではない。多くの外道、道教、天主教などを含めて呪文がある。だから、蓮花生大士はインドからチベットに入った時、チベット人に早めに仏教を受けさせるため、チベット仏教に多くの儀軌はボン教の方法を少し吸収した。例えば、煙供はボン教の方法であり、ある葉や香料を燃えて、山神と鬼に供養する。チベットでは今までもとても流行っている。蓮師はチベット人に早めにこの方法を吸収させるため、煙供を仏法に納めて、その中の本尊、祈請文及び真言を変更した。だから、多くの台湾人は煙供を修めれば、密宗を修める事だと思った。この観念も間違った。実はそなた達は毎日焼香して、仏菩薩に供養した時、煙供である。わざわざ彼たちを真似して、チベットの草を探して燃えた後、祈請文を唱える事は必要がない。しかし、我々はある密宗の儀軌は残られる必要があって、ある所は変更できない。

「タルマ(多瑪)」は中国語で通訳すれば、「食子」である。昔チベットで料理するのはとても不便である。天候は寒いくて、更に昔に物質は不便なので、仏菩薩及び一切有情衆生を供養するため、彼たちはタルマという物を作られた。厳しく言うと、食子はハダカムギの粉と酥油(牛乳から製した油)で作られた。現在は進歩なので、手工泥で作られた。我々の道場は現在とても十個の大きいタルマがあって、此れは2002年直貢チェツァン法王は大法会を主催された時、法会に放置されたタルマである。タルマは多くの意味があるが、本尊によって、タルマの形も異なり、仏を供養するタルマは菩薩を供養するや外の鬼神を供養する形も違う。四大教派は作ったタルマの形も自分の伝承がある。例えば、我々直貢噶舉のタルマはカルマ噶舉が作るタルマと違う。カルマ噶舉は直貢噶舉と祖師が同じだと言っても、徐々に分けられた。だから、作られたタルマの形も違う。

タルマだけではなくて、またチベット仏教に於いて、特有で極めて細い砂で作られた壇城がある。壇城とは本尊が住む宮殿を具体的な形で表して、我々に見せる。「マンダラ」とは壇城である。リンチェンドルジェ・リンポチェはある特殊な物を集まったが、それは昔に密法を修めて、後ろの段階で我々が本尊の壇城を全て観想しなければならない。全ての本尊は壇城が異なるから、そなた達の根器から言うと習えない。だから、そなた達も自分がいつ頃この方法を習う事を考えない。現在そなた達に四臂観音を観想させても、問題が一杯あるのに、四臂観音は既に最も簡単である。何故そなた達は観想すれば、多くの問題を起しただろう。観想は難しい事ではなくて、そなた達の心はとても複雑で、妄念が多すぎで、ゴミが多すぎだから。そなた達は清浄な心で本尊の法身が現れるまで観想できないから、そなた達は想像する。想像するのは間違いとは言えないが、此れは唯の過程である。何故チベット仏教は必ず法本に従って、生起次第と円満次第があるだろう。此れは福と慧が両者とも修める。

我々は言われる密とは身口意の密である。観想は最も重要な作用は体を清浄な法身に変えるのを観想し、意を清浄な報身に変えるのを観想し、語は化身である。三つの身を具えて、この法を修めれば、そなたにとても短い時間で十分の福と慧を貯められる。此れはとても短い時間とは一日や二日ではなくて、一年や二年ではないが。顕宗の方式で三大阿僧祇劫が必要な時間により、多く短縮した。若しそなた達はチベット仏教を習ったのに、観想の方法を通さず、自分が思う方法で行えば必ず問題が起こる。此れはそなたの心と方法は全て凡夫の方法であり、大成就者や諸仏菩薩が残された方法ではない。だから、チベット仏教は我々を教えて、目で見た様々な現象は我々を助けて、心の妄念を減少させて、心を儀軌及び法器などが外相に集中させる。

我々は人間として目で好き嫌い物を分別する事が慣れたから、チベット仏教の壇城はとても華麗で多彩である。知らない人は多く言ったが、仏は何も要らないではないでしょう。何故壇城はこのような華麗であるだろう。昔チベットに於いて大尊の古い仏像があって、その上で多くの真珠や宝石などいい物が飾られた。昔にチベット人は自分が最もいい物で仏像に供養した。実は顕教の経典に説かれたが、若し黄金で仏の身に貼り付ければ、来世は必ず極めて富貴になる。だからタイの南伝仏教ではタイ人は仏を拝む時、必ず金箔を少し持って、仏像に貼り付ける。此れも仏経から伝えられた。だから、ある者は仏法を分からないのに、引き続きに批判すべきではない。若しそなた達は《普門品》を見れば、無尽意菩薩は瓔珞で観世音菩薩に供養された。瓔珞は宝石である。菩薩さえ宝石に被っただろう。それは福報がないといい物を手に入れないから。仏経に見えたが、天人は全て宝石や最も貴重な飾りで自分の身を荘厳する。仏菩薩も言うまでもない。だから、ある観念が正しくない。禅宗は、「一切を放下せよ。」と言っても、実は所謂放下とは我々が必要がない物である。つまり、我々の妄念、分別、執着である。この儀軌ではない。

そなた達は凡夫から修行者を変えて、尚更に成就者を変えるなら、先にそなた達が通常で慣れる方式で修業しなければならない。我々は目で見て、耳で聞く事が慣れたから、仏菩薩と成就者はそなた達にこの方式を慣らせて、そなたが入ると、徐々にそなたに此れが要らないと教えて、更に仏法さえ要らないと教えた。勿論此れは最後の段階である。大手印は四つの次第に於いて、最後の一つは無修瑜伽である。無修は修めない事ではなくて、彼は完全に自我本性を証した後、修めたのは全て有為法である。だから、彼は我々のようにどんな真言を唱える、如何なる坐禅するやどんな仏像を見るなど必要がない。それは彼は既に本性を証したから。勿論我々は自我本性を証する前に、我々は累世から連れた習慣をすぐ捨てられず、改める事が出来ないから、我々はこの方法で先にそなたを助けて、この妄念を抑えて、妄念を減少させる。妄念を減少すれば、そなたは始めて徐々に自分の本来の姿を見える。顕教の方式から見ると、三大阿僧祇劫であり、極めて長い時間である。だから、チベット仏教は多くの方便法門があって、顕教及び密法はお互いに補い合う事を通して、我々に速やかに正体を見える。

仏経には正法時代とは釈迦牟尼仏が在世された時である。衆生の業はとても浅いから、唯戒めを守るや持戒を通すと、悟られた。像法時代は仏が滅度された後五百年である。衆生の業は始めて重くなって、禅定を通しても悟られた。しかし、末法時代、つまり我々がいるこの時代は人が禅を通して、戒を通してもまだ出来なくて、仏を唱え、真言を唱える事を通して、密法でそなた達に助けを与える。

末法時代の衆生は如何なる業が重いだろう。全て独り善がりで、自己中心がとても強くて、他人の話を永遠に聞かなくて、自分の考え方で自分の行為を解釈する人である。だから、チベット仏教は千五百年頃から初めてチベットに萌芽して、始めて末法時代に入った。チベット仏教に於いて、とても一切経典、理論を重視する他、この密法は特別重要である。密法を習うのはそなたは習いたいなら、伝授される事ではなくて、必ず既に自分が全て我執の観念を軽減して、尚更に殆どないにさせないと出来ない。最も基本的なのはそなたは見性すれば、密法を習える。密法とは何を作るだろう。そなたの力を増して、衆生を利益するためだ。心が思う通りに変化や分身を持つためではない。密法は加行であり、そなたの修行のエナジーを高めて、成仏の速度を高めて、衆生の力を高める。

密法を習う前に顕教の教えに関して、そなた達は必ず聞き込んで、確実に行えなければならない。決して加減できない。多くの人は常に誤解したが、仏を習う事は通常の生活と分けると思った。この観念は持つべきではない。仏法は元々生活の中に存在しているが、若し仏法は我々の日常生活を離れれば、仏法ではない。仏法をそなたの生活に運用すれば、そなたは一秒でも修行している。若し真言を唱えて、大礼拝をして、他人のために経を唱えれば、修める事だと思うなら、この観念は間違った。此れは唯そなたの福報を累積して、そなたの妄念を抑えただけ。本当の修める事はそなたの行為を改める事である。

我々の行為は累世から連れた習性がとても重くて、改める事が難しい。だから、多く仏を習う人が最初怖ろしい事は上師に叱られる事である。ある出家者を含めて、皆リンチェンドルジェ・リンポチェはとても厳しくて、リンチェンドルジェ・リンポチェに言わないほうがいいと思った。実は仏経に常に見られたが、釈迦牟尼仏は叱っていた。つまり、あの法に従わなく、話を聞かない人を叱った。そなた達は直貢チェツァン法王がにこにこしている姿を見たが、此れは一般の信者に対して、しかし弟子、根本弟子、見回りのラマに対して、遠慮ではない。つまり、上師として、そなたに遠慮して、にこにこすれば、そなたに自分の弟子を認めず、逆に友達、更に友達ではなくて、唯そなたと縁を結ぶだけだ。彼は始めてそなたに厳しく対応すれば、所謂彼は始めてそなたを弟子として見る。この十数年、我々は中国古代の一切倫理を捨てて、師を尊ぶ、道を重んずる事は今台湾で存在しない。だから、全て仏を習う人は仏法を広める人は必ずにこにこして、そなたたちに感情を害する事が出来ない。全ての言葉はそなたに聞かせるのは好きという観念は間違い。法王という貴重な身分を持っても、直貢チェツァン法王は幼い時、若し話しを聞かないと、教師も物差しを出して、法王の手を打った。直貢チェツァン法王は教師が自分に頂礼すれば、直貢チェツァン法王はすぐ逃げた。それは頂礼した後、すぐ打たれたから。そなた達はどんな身分だろう。何故叱られないだろう。そなた達はこのような傲慢の心で仏法を聞けば、いい仏法を聞けるだろうか。

そなたを叱られない人は二種類しかいない。一つはそなたに頼って生活できるから、そなたに感情を害しない。他のは彼の知恵はそなたより低いから、叱られない。そなた達は自分の上師がどっちを望むだろう。リンチェンドルジェ・リンポチェの所はそなた達に遊びや冗談した場所ではなくて、とても荘厳な道場である。確実にそなた達に完全に未来を変えられる道場である。そなたの未来を変えるのは勿論そなたに簡単に言えるわけではない。そなたの動きや言葉遣い行為など注意しなければならない。そなたが不注意のうちに間違い事をすれば、改めて行うのはとても難しい。

例えば、20数人の弟子は供養さえ迷って、今まで既に四ヶ月が経ったのに、相変わらず彼たちに供養させない。此処から聞くと、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても人情と道理に重んじないけど、後程戒律を話すと、そなた達は何故供養させない事を分かる。我々は口が堪らず、怒ると、簡単に謝って、懺悔すれば、何も起こらないわけではない。そなたは話して、動くと、この業の力があって、この種はそなたの阿拉耶識に埋めて、いつか現れる。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じるが、そなた達は信じないから、常に自分がこの事を行っても構わない。人に怒っても構わない。法会の時、仏菩薩の前に人と喧嘩しても構わないなど思った。この観念はそなた達に引き続きに輪廻させる。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェはナンジュガムポを要請したのは、そなた達にこの領域の事を教える以外、そなた達に仏を習う事はそなたの生活であるのを理解させた。我々は今通常に仕事して、行った事は唯仕方がなく行う事である。そなたは仕事をしないと、すぐ餓死して、妻もすぐそなたに来月の住宅ローンは何処などくどくど聞く。此れは全て仕方がない。それは累世の業はそなたに今世このような生活をさせるから。此れは本当の生活ではない。此方の数人の出家者は彼たちの生活はそなた達より、自由自在、愉快である。よく考えると、そなた達は幾十歳なのに、日々を過ごさなく、毎日畜生と同じで目覚めると、食べ物を探して、食事している。仕事とは食べ物を探すことである。毎日このようにしている。所謂名利は実は多くのは自分が考えた物である。

仏は王子の身分を捨てて、出家修行して仏法を広めた。我々は必ず完全に仏様の生活方式に従うとは言えない。唯仏は我々を教えて、一切の物はそなたが要らなくて、放下して、繋がれないなら、世の中に一切名利は唯我々にこの肉体を養って、一切助けが必要する衆生を利益させるだけ。本当なのは自分に落ち着いて恐怖がない生活を過ごさせるなら、必ず仏法を習う。仏法の薫陶や助けを通して、自分に安全で落ち着く生活を見つけられる。我々は毎日とても怖ろしい環境の中に生活している。子供が出かけて、遅く帰っても始めて心配していた。夫は時間を超えて帰らないのに、電話さえ掛けないと、外で接待があるから、知らせないだろう。妻は夫に自分が友達と外でコーヒーを飲む事を知らせる事が恐れる。ある者は仏を習うために、夫に自分が今日実家に戻ると言った。だから、人生は全て恐怖と嘘を満たす。このような状況は我々に心が永遠に落ち着かず、永遠に迷って、永遠に希望を探して、我々の心に安定させる事を探したい。だから、何故リンチェンドルジェ・リンポチェは四加行を伝授する前に、この多く説明されただろう。それはそなた達の心はこのような貪瞋癡の汚れをしっかりに包んだから、我々が本来光で清浄な心を全て包んだ。我々に正体を見えず、修行の心、懺悔の心を発する事が出来ない。慈悲心と菩提心も言うまでもない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは詳しく六道の苦しみを分析した後、再びそなた達に戒の重要性を説明した。戒は仏が発明した物ではなく、奨励や懲罰の道具でもない。戒は我々を教えて、引き続きに偏差な行為と言語をしない。また、そなた達に具体的な方向があるため、仏は戒を説かれた。若し、そなた達は善根を具える人であれば、自然に戒を守り、言う必要がない。しかし、そなた達は皆善根が薄くて、尚更に殆ど持ってないから、仏は仕方がなくて、戒を説かれて、そなた達に規範、方向を与えた。若し、そなたは戒がそなたの活動、思想を制御するや自分をコントロールなど思えば、この考え方は全て間違い。実は天主教、キリスト教も十戒があり、回教、道教も自分の戒律を持っている。そなたは善を行い、よく変わるなら、必ずある規範があって、そなたに自分の身口意を検討させて、間違い所があるかどうか。何故我々は引き続きに輪廻しているだろう。それは我々は過去世に自分が溺れた。溺れる事はとても簡単であり、特にこの社会では誘惑が多くあって、出かけるとすぐある。更にエッチ電話を掛けるなら、ある。

だから戒はわれらを助ける工具で、我らを拘束して、自分をよく管理するのである。是非我らが戒を守って神経病になって、また情理を知らず、外の人と同じではない人間になると思うな!我らは自分を控えることは、他人に我は戒を良く守って、とても清浄で、そなたは戒を守らなくて、戒を破って悪い目にあろうと教える必要がない。1人はこんな話をすると戒を守らないことにに等しい。

本来むし以来、我らのお体は清浄で、無明の考えで、貪瞋痴が起きられて、悪業を初めて作って、我らに輪廻をさせる。それより、戒体とはあらためて我らに過ちを繰り返し犯さないと注意させたが、自分が知らなかった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常にそなた達に仏法で外の者を訓戒しないと注意させた。そなた達は戒律を通じてそなたの身心を変わるべきで、家族は自然に見て、感じて、自然にそなたの側の眷属はそなたに従って仏を勉強するようになる。例えそなたは自分が戒を守って他人より一等を高くなると思うのも問題があり、福報が少し良ければ天道へ、すこし悪ければ阿修羅へ、もう少し悪ければ畜生道へ行く。戒とは仏が我らが仏になるのを助ける方法で、そなたを拘束して、懲罰するのではない。

多勢の者は仏を勉強するのをおそれるのは戒を守るのである。その後何のことをしても出来ないのを恐れた。もともとタバコを吸うとか、お酒を飲むとかするべきではなくて、お体に対して良くなくて、殺人をするのもしてはいけない。だからこれら者は仏を学びに来る勇気がないのは彼がいつも自分を放任して、自分を控えないとの現れだ。それより、彼は仏を勉強するのは他人が我を拘束して支配して、我が不自由と感じだ。こういう思想があった者は、仏の観点より見ると、善根が不足だ。そうしても我らは彼を軽蔑して、批判するのも出来ない。我らは過去世、ひいてはこの一生にこれらのことをしたことがあったかもしれない、但しそなたの祖先が福徳を蓄積してそなたに振り返るチャンスを有らせる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何年か前嘗て人にご馳走して、ある自動車会社の総経理も来て、幾つかの綺麗な女の子を連れてそばに座った。彼が座ると、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の後ろに1人死んだお婆さんが従ってずっと彼の頭を叩いて言った、私のこの孫の孫は道徳を守らなかった!即ち彼女のこの孫は祖先が福徳を貯まったため、彼に総経理になる福報を有らせたが、彼が道徳を守らなかった。だから邪淫この戒はまたクラブのお好みを含んだ。前リンチェンドルジェ・リンポチェがクラブでのあだなは和尚だった。それは彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが素食で、お酒を飲まず、女の子を連れて帰るのもしないのを知っているから。あの頃リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が正しいと思った。この三つ全部せずに、只同伴として連れて行って、お金を払っただけだ。しかし、その後密法を学んでから自分がまだ間違って、それに一番間違ったのを始め分かった。自分が行かなければ、友達が邪淫するチャンスが少なくなるかもしれない。自分は他人にチャンスを作って悪いことをやらせて、自分こそ主犯である。

受戒はとても容易で、台湾では現在多くの者が菩薩戒を受けるのは流行っているが、持戒は本当に大変容易ではない。容易ではないのは我らはいつもひとりよがりで、自分が人を害しないのは持戒と思った。昨日ある皈依した弟子のようで、SARSの時消えてしまって、最近乳房に癌細胞があったため現れた。彼女の息子は昨日かわいそうに泣いて、母親が一生に何の悪いこともしないのに何故こんなに悪い目にあったか?この言葉を言った人は全部懺悔心がない、自分が間違ったと思わなくて、全部他人のせいで、自分は運がないと思って悔しい!悔しい即ち瞋念がある。瞋念が重い者は癌にかかる、悔しい、恨み、瞋念が重い、他人と争うことが好きな者を含んで、癌症にかかるチャンスが特に高いだ。それで、彼女が悔しいと言った時、心の中にとても恨んで、瞋念が大変重いのがはっきり表して、この人は一生いつも拘わって、何でも食うが損しか食わない。この故で彼女に癌をかからせた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは先週開示された邪淫の戒律を引き続き、昨日も2人二十歳ばかりの男女が首をつって死んだ、此れも邪淫の範囲に属して、父母親の賛成を貰わずにセックスするのは、厳格的に全て邪淫と言われる。台湾と全世界現在離婚率がこんなに高くなるのは皆は全て邪淫しているから。古代は父母親の承知が無ければ結婚することが出来なくて、中外ともそうである。現在一切自由を言って、一切人様に支配されたくなくて、自分が好きであれば何でも出来る、それこそ離婚率が高くて、子供の養成がし難しくて、全部父母の過ちである。

現在台湾では婦人病が特に多くて、欧米もそうで、全部セックスがオープンする所である。婦人病が多いの原因は1つの文字しかない:乱!体内の気脈は全部順調ではない。そのゆえで、古代には女が貞操を守るべきと要求された、亭主関白主義ではなく、女のためで、女が老い時お体が丈夫のため。自分が好きなことをすれば、結果は自分が責任を負って、しかし、こんな結果は生々世々になるかもしれなく、長く引き続ける。

仏法は因地より修める、我らは因をはじめて一切の悪を止んで果はやっと良いである。良い果は我らに仏命を延ばすことが出来させて、いい生活を暮らすためではなく、仏命は即ち仏法を絶えずに引き延ばさせて行くのである。どの衆生でも仏法を世間で引き続けさせる責任がある、引き続く方法はどの衆生でも仏を勉強して、修行して、そなたの周りの人間を影響して、仏法が始めて不生不滅で、いつまでも引き続く。我らは説いた「法輪常転」、どの者が仏を勉強する時即ち法輪を回る。だから、誰でも仏の加護を得ることを望めば、仏法の教導を通じて自分が多く起すべきではない問題を変える責任があって、仏法の命脈は永遠で絶えなく続かせるのが始めて出来させる。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは「口」が業を作るの色んな方式を申された:打誑語即ち正しくない話を言う。多くの者は嘘つきが打誑語だと思ったが、実は只1つの部分で、その中に何個重要な要素に分けた。所依境:即ちそなたが話をする時指定な対象がある。思惟:そなたが言葉を通じて他人を騙す。加行:言葉と行為で騙す。動機:貪・瞋・痴である。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に開示された:「口が滑った」とのことがなく、「本意ではない」と言うこともなく、どんな言葉を話し出す是非貪・瞋・痴の動機がある:言葉で他人を損なうのは自分が他人より分かると思って、他人が阿呆で、話がきつくて、これは貪・瞋・痴の範囲である。どの言葉が口に出す前にまず考える:この言葉は相手を騙すか?また自分の動機は貪・瞋・痴だか?終了:相手に全ての話しを分からせる。

ある時は1つの文字を話しておかしいと思って、飲んでしまって、まだ未完成ので業力がすこしを減った。口より出たらこの業がすでに存在して、そなたが話した相手は修行人であれば、彼がそなたのこの言葉を執着しなくて、心の中にに置かなくて、この業力が彼にとってはじめてなくて、そなたに対してないのではない。そなたの第八意識田の中に、そなたの動機が貪・瞋・痴を使ったため、この記憶はそなたのコンピュ-タ-の中に置いてある。何時も他人を批判して、きつくて、あざける者は、そなたの話が絶対に良い言葉がない。良い言葉とはそなた達が好きな言葉ではなく、良い言葉はそなたの行為と思想に対して変えることが出来るのである。すごく聞き難くても、そなたの行為は良い変化があるため、全て良い言葉だ。仏経の中に四攝法が説いた愛語は、現在台湾では全部微笑んで話すと曲解された。「大徳そなたは本当に発心で仏を勉強する」とのような話すばかりで、これらはお世辞である。リンチェンドルジェ・リンポチェもこのようにお世辞すれば、信者がもっと多くなる。リンチェンドルジェ・リンポチェはセールス出身で、お世辞して、人様に神仙のように飛んでいる感じをさせるのがとても上手だ。しかし、神仙のように漂う結果の次には転んで来るだろう!だから我らは他人を賛嘆、称賛するとき、あまり露骨するな。

誑語の類型はいくらを分ける:上人法誑語。即ち仏法を説いた者は釈迦牟尼仏と上師の教え方法に依らず仏法を述べる。例えある者は百萬元で一本の蓮を買って必ず西方極楽世界へ行く、これは打誑語と言う。あんなに多くの貧乏な者はお金が無くてどう行くか?例えこの上師は法座の上でいつも仏法を言わず、すこし世間な事を説いて、そなたの貪、嗔念を起こらせて、これも打誑語である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て前顕教の法師先生に聞いた、なぜ法会の総功徳主はこんなに多いお金が必要か?なぜ総功徳主は必ず前に座って、お金が無いのは是非後ろに座るか?答案がなかった。しかしある法師はリンチェンドルジェ・リンポチェに言った、彼は発心が大きいため、少し前に座らせて、仏によく見えさせた。例えまだ分別があれば仏ではないだろう。「仏眼」は全て宇宙のどの隅所が見える、微塵まで細くさえも見られて、仏が見ない限り。今回図書館の開光典礼の中に、ダラィ・ラマは真ん中に座って、直貢噶舉チェツァン法王は達隆噶舉の小法王とダライ‘ラマの右手で座る。薩迦の1人伝承とゲルの法王はダライ・ラマの左手で座って、何名大リンポチェとリンチェンドルジェ・リンポチェは上に座った。後ろにそなた達が見たあれらの俗家人はチベットの貴族で、前の国王に等しい。諸候、政府の役員などは下に座った。その他のリンポチェとラマは全て下に座った。あれの中にも功徳主がいて、いつも直貢チェツァン法王に寄付するある者も下に座った。それで、仏法を広げる者として、仏法を説くことは因果法則と相違することが出来なく、仏と上師の教えを離れることが出来ないこそ、打誑語ではない。

前回リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に聞いた、問訊とはどう解釈するか?ある者は他の法師に伺って、法師は彼に言った:平等心で見る。これは即ち打誑語だ。分からないなら分からないと言って、勝手になんの名詞で信者と弟子にごまかす事が出来ない。法座に座る者は勝手言うことが出来ない。まだ果位を証得した前、自分があったと言って、現在台湾での多くの偽密宗、偽のリンポチェ、偽の法師のようで、全部打誑語の戒を犯した。

1人前もともと小ラマだが、台湾に来て自分でリンポチェになって、これは打誑語だ。例えそなたの上師はそなたの果位を認証しなくて、そなたがどうしてもするなら、これもこの戒を破った。リンチェンドルジェ・リンポチェは何時もそなた達に申された、直貢チェツァン法王がリンチェンドルジェ・リンポチェがすることを認めなければ、例えリンチェンドルジェ・リンポチェが知って分かってもする勇気がない、この戒による。だから、どの法師、リンポチェ、上師がそなたに法を説いて、しかし、彼が大変自分の能力を標榜すれば、これは少し慎重してはいけない。

第二、 一般的な誑語:相手に利益か害を受けさせる。例えば:ある者はあるものを雇用したくて、そなたの見方を聞いた。ちょっとそなたはあの方と仲良しので、彼の能力を大げさに言って、他人に彼を雇用させて、これも打誑語だ。これはわれらがいつも犯す。人様の感情を害したことを恐れる。多勢の者は良くこのようで、自分が責任を負わなくて、全部上の方にせいして仕様がないと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前業務を管理した時、ボスがどのように自分を叱ったのを言わず、下の者に皆が一生懸命して、出来なかったら、そなたと一緒にやめるのをしか言わなかった。このようで下の者がはじめて服従して、彼はそなたが彼と一緒と感じたから。そなた達は彼に恩を欠けさせて、事実を言わなくて、彼の欠点をごまかして、全て打誑語と言う。そなたのごまかすため、この団体、国家を害するかもしれない。

ある女弟子の一番好きな話は:リンチェンドルジェ・リンポチェに言わないで、言うと叱れる、これこそ打誑語で、こういう考え方が一番恐ろしい。間違ったことをしたら間違おう!それを誤魔化さなく、隠さなく、この事が遅かれ早かれ現れる、世間には他人が知らないことはない。続いて、また仰った、利益のない、害のない誑語は利害がないが、この言葉を言い出すと実在ではなく、存在ではない。

第三、大誑語、即ち善悪、因果を言う。以前ある出家衆が「因果がない」と言って、結局500年で狐になった。これは大誑語だ。人が死ぬのは電灯のように消えたと言う者がいて、これは打誑語だ。ある者は輪廻こんなことがないと言った、あれも大誑語だ。1部の者はそなたにこんなに怖い果報がなく、これは嘘で、仏がそなたを恐喝するため言って、そなたを恐れさせる、あれも一番良くない嘘つき方式だ。我らは眷属、友達にこんな言葉を言わせないため、そなたの身、口、意が治るべきで、是非仏法で他人を戒めない。人様がそなたが良く治して、修行者のようになるのを見なければ、例えそなたがどう話しても無駄で、聞き取ってくれない。そなたが話せば話すほど、彼は「なんの仏を勉強するだろう」とこんな話が現れた。これも打誑語だ。多くの者はこんな刺激を受ける事があって、それを聞くと心の中に直ぐ瞋念を起して「私はどの仏を勉強しないか?私はそなたより良くて、少なくと毎日念仏して、法会に参加して、少しの供養をした。」他人にこの考え方を起させないため、自己の言語が徹底的に拘束するべきである。

一番酷い打誑語のは仏陀様の悪い口を言うのである。例え仏を学ぶ者は因果法則を受け取らなくて、仏を神様のようにお辞儀して、遅かれ早かれ彼は仏の悪い口を言う。まるでSARSこの時期で、ある男弟子は彼の母親に来ないと要求して、仏法はそなたを加護しないと言って、これは謗仏と言う。ある者は始めて仏を学ぶ時とてもよく勉強したが、突然にある事が起きられて、彼が直ぐ思った「何故仏が私を助けに来なくて、加護しに来なくて、仏が叶わない」、これも謗仏だ。実は謗仏の者は、大分既に皈依した者で、外道は謗仏するチャンスがかえって少ない、それは彼が我らに近くしなくて、皆がお互いに平和に無事である。

暫くの間ある信者は彼の妹が紅斑性狼瘡をかかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼をはじめてみた時既に彼に言った、彼の妹は現在死なないが、必ず因果を受け取って仏を信じて、毎日六字大明呪を読めれば治る。結局彼は信心が不足で、むしろ1年500万元をかかって、薬を買っても、お金をチベットに寄付しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼のため千名のラマ僧に頼んで念仏するのに。だから、多くの者はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺う時、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部彼にすごくはっきり仰った、そなたは仏を神様としお辞儀して、リンチェンドルジェ・リンポチェを童乩(またはキートン乩童占いをする若者)を見ればそなたを助けることが出来なくなった。なぜ?リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が以降謗仏するから、只少し事柄が彼の欲望に満足しなければ、彼はやはり言いはじめる。

なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれらの弟子に供養をさせない、彼はこのDVDを買った後やり直すと承諾した、これは打誑語だ。そなたが悪行をし続けて、上師を絶えずに騙して、謗仏するのを恐れるため、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに悪行を止むのを助けて、そなた達の供養を受けとらなくて、皆がお互いに平和に無事だ。そなた達の供養を受け取らないのはそなた達を罰するのではなく、そなた達のためだ。上師さえ騙すことが出来て、世間の者に誰を騙さないか?そなた達は全部言い出すことが責任を負わない。我らは皈依した時言った:依教奉行、仏陀が全て教える方法に従って、百パーセントそなたの生活の中に使った、割り引きすることが出来ない。それより、そなた達が出来なくて即ち上師を騙したのもこの戒を破った。

だから、そなた達は皈依する前に、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に2、3ヶ月の緩衝の時間を必ず与えて、そなた達にはっきりみて、はっきり聞いて、はっきり考えさせる。そなた達は結果がどのように厳重である事が知らない、話してから好むなら変わられると思っている。そうすると、そなた達の未来は衆生の縁に対して益々薄くなっていく。なぜそなたの家族はそなたの話を聞いてくれないのでしょうか?なぜ家にはある者が話す事が出来ないのでしょうか?これは妄語をしない戒律を破るわけである。上師に騙すのは極めて厳重である。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に皈依してから今まで、甚だしきに至っては未来まで、ただリンチェンドルジェ・リンポチェが承諾する事であれば、水火も辞さないで、すべてしてはいけない。そなた達はこのような勇気があるのでしょうか?自分の利益と少し衝突があったらすぐ変わっていく。このような心はどのように仏を学ぶのでしょうか?以降に如何に衆生に利益するのでしょうか?

引き続いて説いた。両親を騙した事は皆がした事があった。何か両親を騙す事のでしょうか?商売をする時に、先に帰って両親に「確りしているお金を稼いで、安心してください。赤字になったら私を弁償する」と話して、お金を出して貰ってから他の件を次ぎで考えしておく。女の子は両親がこの男の子が好まない事をはっきり知っても、帰って両親に「彼が無くては駄目だ」と話した。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くのお年寄りに「そなたの子供に再びお金を与えない。そなたは子供にそなたを騙す事を助けて、彼を地獄に落ち込ませる。そなたの子供は何もする事が出来て、少しの智慧も無い」を罵った事がある。

リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いてから、誰が自分が好い人を言う勇気があるのでしょうか?考えてみたら、私たちはとても汚いで、我々が暮す生活が全て騙す事である。自分の利益を貰うために、相手はどんな人にかかわらず、話してから結果を後ほど考えて、してから結果を後ほど対応して、だから、そなた達はこのように大変分けである。日曜日ごとに仏を学んで来て、自分の問題は何処にあるかをはっきり分からない。此れはそなたに気付かせる人がない、そなたに警告させる者もないわけである。全ての法師はそなた達に罵る勇気がない、そなた達は出てからこの法師が慈悲ではない事を言う事が恐れるわけである。

嘗て、リンチェンドルジェ・リンポチェもこれ等の間違いを犯した事がある。しかし同じではないのは、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を検討する事が出来て、過ちを改める事が出来て、間違いを累積してか正しさに成る事をしてはいけなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分に「まだ凡夫に属している」をずっと警告させていて、況してそなた達のでしょうか?何故、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がまた懺悔している事をよく説くのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェはまた上師の恩に背いて、仏の恩に背いるわけである。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェは未だに仏に成らないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが懺悔する事が要るわけである。況してそなた達のでしょうか?我々の日常の生活の中に、真に慎重で注意しなければいけない、気ままにしてはいけない、少しの不注意があったら、害悪が尽きる事が無くて、後悔しても間に合わないわけである。そなたは他人に与える傷害は救って回復する事も間に合わないわけである。妄語をする事とは、我々の人間が最も犯しやすい事である。地獄、悪鬼、畜生道はこの戒律を犯さなくて、彼らは話せないで、ただ考えのみを持っている。

第2の「語」に関して、我々は常に犯す欠点が「両舌」である。所依境は仲よく暮らすである。この意味は、彼が元々仲よく暮らして、そなたの挑発のため、彼らを論争に発生させる。思惟は彼らが分裂する事を望んでいる。加行は事を引き起こすようにしむけたり、挑発したりするなどの行為である。動機は三毒の貪、瞋、痴であり、特に瞋恚である。完畢は相手がこの意味を理解する事である。両舌は我々常に犯して、特に女衆がこの欠点を犯しやすいのである。そなたの親戚と親友の中に、彼女の夫が何か事柄があっても、何か意見を与えはいけない。他人はそなたに尋ねたら、「平和が最も大切である」と回答した。「そなたの夫は本当にすべきではない、そなたがこのようなよい女が居ても、彼がまた外ででたらめをする」を言ってはいけない、此れは怒って油を増やす事のである。

数年前、二人の女はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、その中の一人の夫が突然行方不明になった。リンチェンドルジェ・リンポチェは見てから「そなたの夫は大丈夫で、そなたの圧力を耐えないので、外で雰囲気が変わってして、大体ある時にきっと帰る」と説いた。側にいた彼女の女性の友達は怒って油を増やして、彼は外に女と付き合うのでしょうかと尋ねた。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場であの女に「そなたと関係があるのでしょうか?」と罵った。本来、この妻はリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞いてから怒らなくて、彼女の友達により煽ぎ立てる事になった。

もし男はあなたの友達の嫁さんが外で別の男とお茶を飲むことを見るならば、同じく言わないでください。そなたの事に関連しない。女は他人の夫が他の女と一緒に居る事をみたら、そなたの事も関連しない。自分が善い人なので彼に教える事を思ってはいけない、此れは両舌である。人々は浮気があるかどうか、全て彼の因縁と因果である。

一回、ある夫妻は喧嘩したので、リンチェンドルジェ・リンポチェに伺いを立てて来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなたの妻は外に不倫があるかどうか」を簡単で尋ねた。夫とする者の回答は「無いです。ない事を確定です」である。リンチェンドルジェ・リンポチェは「よい。もし女は外に不倫がないならば、彼女が必ず好い嫁さんです。それでは、何か聞きたいのでしょうか?」と説いた。何でも無かった。帰っても喧嘩しなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはある例に遇った事もあった。ある女は彼女の夫が浮気がある事を知っていて、ナイフが既にテープルの上に置いて、彼女の夫が帰ったら斬る予定であった。リンチェンドルジェ・リンポチェが一寸遇った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなたは何時に夫が不倫があったことを知ったか」と尋ねた。「一周間の前に隣人が見た。私はこれからいって見て、真にあった」と回答した。その隣人は本当に憎らしい。もしその女はその日にリンチェンドルジェ・リンポチェに遇った事がないならば、少なくとも一人の命、もしかして二人の命が無くしてしまうかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはその女に「そなたは知らない前にとても嬉しい暮らしているだろう」と諭した。彼女は「そうです!」と回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは「そなたは分からないとする。」と話した。この女は真に知らない事をして、ナイフを片づけた。だから、多くの人々はひと言を言うと多くの人々を殺す事が出来る。男女の事は阿羅漢、仏菩薩がの能力があって彼らの過去世の因縁を見られる事を除いて、我々の凡夫眼が見えられない。良いであれ、悪いであれ、すべて彼の因縁であり、少し話して、少なく意見をあげる。両舌が最も厳重なのは他人に挑発して離婚させる事のである。

第2は:相手は誰に対して憎しみをゆっくりと忘れてしまった時に、しかし、そなたは「彼はあなたに過去でどのように対応する事を忘れますか」を挑発してしまった。多くの人々は此の話を言った事があり、此れは「両舌」である。我々はても義侠心を重んじるようなであり、恨みを選んで出た。多くの占い者は何故大変で死ぬのでしょうか・此れはこのような話を常に要った。彼は話さないと効き目がないで、効き目がないならば如何にお金を受け取るのでしょうか?占いをしたら、「そなた達は本来八字が合わないので、しょうがない」と話した。女の子を聞いたら、合わないと分かれた。古代で離婚はとても厳重な事である。だから、我々は他人を挑発して他人多くの事を引き起こせて、全て他人に害して、自分がまた自分が正しいと思っている。これから、我々は友達の考え方は我々能力により助けて、提示ではない。我々は先生として他人に気付かせる事が好きである。我々は真にこの事件の発生を知ってる事を除いて、我々が能力があって解決する事が出来るので言う事が出来る。或は、言ってはいけない。

ある有徳な占い者はある者が死ぬ或は厳重な事を発生する事を見たら、普通で話さなくて、その上占わない。嘗て、何人の占い者はリンチェンドルジェ・リンポチェの為に占って、45歳まで占わなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは45歳以降に幸せを享受すると思いきや、そうではない。後ほど本来45歳になると死んでしまうと知っている。両舌は話さない以外に、考え方がある事もあり得ない、他人に挑発する行為もあり得ない。行為とは何でしょうか?国中生、高校生は匿名の中傷の手紙を書く事が好きである。

「両舌」は二つがある。一つは直接で進行する「正面両舌」である。もう一つは側面で進行する「側面両舌」である。手紙を書いたり、匿名の中傷の手紙を書いたり、宣伝をして検挙したりする事は側面両舌の範囲である。或は、「あなたに話して、彼に話さない」という事も含めている。その上、暗中で進行する「隠諱両舌」を含めて、総計が三つの種類がある。暗中で進行するのはゆっくりと、ウマウエでなくて、階段で話して種蒔きが同様であるようである。

そのうちは師徒或は僧団を分裂させる事は最も重要である。此れは台湾で仏を学ぶ者は特に在家居士が常にこの弱点を犯す。多くの人々は上師の前に功を争って過失を避けて、上師が良くないし、弟子が良くない事を言って、師徒に分裂させる。僧団はある共修団体で、此れを分裂させるならば、最も厳重である。だから、嘗てある者はアティーシャ尊者に「破和合僧」とは何でしょうかを尋ねた。アティーシャ尊者は「和合僧に破らせる者は僧団の内部に闘争を起こさせる」と回答した。「僧団」の定義は四衆が備えて、悟りを認めて、生死を離れるという法門に向いて精進で修行する団体で、このようなのは僧団と呼ばれて、慈善事業をする団体のではない。「和合」のは四衆が諧合共同な理念の下仏を学ぶ団体である。台湾でこの僧団に破壊させることがあって、内部に闘争させる。だから、仏寺の主持が往生してから、財産を勝ち取る故に多くの闘争を生じて、出家衆、在家衆を含めてこれ等の事を犯したことがあり、此れは極めて重い罪であり、此れは「和合僧団に破らせる」のである。和合僧団に破らせる者は無間地獄に落ち込む事が出来て、僧人は地獄で無量劫を受けさせられて、俗人は60劫で、此れは極めて厳重である。

我々は闘争に陥る事がないでも、この僧団が党派を分けるなら、全て地獄で8劫を経なければいけない。僧団に党派を分けさせないでも、団体にお互いに敵視させるなら7劫を経泣けばいけない。如何なる紛争を起こさないでも、団体に合わなくて、雰囲気が間違わせて、死んでしてから、蟻に生れ変って、蟻が死んでから地獄で生まれる。

なぜ仁欽多の吉仁波はあなたたちを許すことを許さなく是非を話すことを切りますか? 相弟子を批評することを許すことを許さなくて、出家の衆を批評しますか? 1個にあるので団体内面に精進して、常々で批評して、舞いまで決して党が配属することを分けて、到底合いません。 この仕えた人がみな地獄に落ち込まなければいけないことを起こして、追随した人也は地獄に落ち込むことに従っています。 仁欽多の吉仁波は原因と結果を知るそら恐ろしさを切って、この報いは到底変動不能です。 もしあなたたちは悪の因を植えれば、ふりむきざま難しい。 たとえ、仏門に悔い改めさえすれば救われると話すことがあると言っても、あなたは本当に振り返ってみなければいけない。 振り返ってみたくなくて、それとも是になることでないことを溜めて、河童の屁についてたくさん独善的間違いを犯します。 だから、仁欽多の吉仁波は切要に《仏陀の子行は37はほめる》を強調して、あなたたちは必ず聞き方を重複して持たなければいけなくて、必ず修理しなければいけない。 ただ自分で感じていかなる人もと、かかわらずあり相弟子、同輩、家族と、時間紛争を生じていて、みな《仏陀の子行は37はほめる》を聴かなければいけなくて、あなたはやっとはっきりしていて自分でまたどんな問題から出す。 すぐ変わって、引きずってはいけなくて、ちょっと引きずり下げて問題はまた来た。

その日、ある皈依弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェにお休みを取る事を伺いを立てた。理由はある有償な「自我の潜在を開発させる」の課程に参加する事と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェ彼女にこれから来させないと諭した。所謂「自我の潜在を開発させる」をすれば、仏法を聞くほうがいいである。そなたは自分が自我があるならば、この人の執着心が極めて重いである。執着心が極めて重い人であれば、仏を学ぶ事が無理である。しかし、世の中の者はこんなに痴で、料金を払うところが良いところと思っている。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは方法が変わらせて、そなた達が仏法の1つのシリーズを聞いて、3ヶ月に20万台湾ドルが要るならば、そなた達が来るかどうか?絶対に毎日に来て、一日を少ない事もしたくない、これは料金を払ったわけである。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が従う事をさせなくて、そなた達は戒律を破る事を望まないわけである。

「和合僧」に破らせる後、仏法が盛んなところで実修をしても、つまり閉関であり、12年間で実修しても成果がない。何か問題があったらリンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねてきて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが判断できて、そなた達は判断できないわけである。リンチェンドルジェ・リンポっては事柄により人によらないで対応し、そなた達は人により事柄によらないで対応した。現在、一部新しき皈依したばかり者が、前に皈依した者が、組長に多くの不満があり、相手は何も出来ない事と話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは何故そなたに組長に担当させないのでしょうか?そなたは必ず何か問題があった。組長は一部のところが円満ではないでしたら、そなた達が提示させる事が出来て、甚だしきに至っては彼に助けることも出来て、そばにたって冗談を見る事をしてはいけない。これはとてもよくないであった。

2001年、直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに「金剛舞」を行う事を指示させた。目的は下記である。第一は台湾のためであった。リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に多くの災難がある事を明らかな知っているので、金剛舞を通して、災難に減らさせる事を望んでいた。第二は、金剛舞を通して、直貢噶舉の名称を台湾人に知らせてる事を望んでいった。第三は金剛舞を通して、直貢チェツァン法王の為に図書館を造る事が要るお金を募金する事を望んでいった。始めて行う時に、教派と他の人々はこの事をしっかり見ないで、幸いアチ護法のお蔭様で、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日にアチ護法に金剛舞を成功させて、法王の為に、20万ドルを募金してあげる事を頼んでいった。結局、20万ドルは多くも少なくもなかった。金剛舞を行っている過程には、一部の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に従って、他人の意見を聞けなかった。現在、離れてしまった。彼は彼の話を全部で従って他人の意見を聞けない事を要求し、これは彼が専門家わけである。これは「和合僧」に破らせる。リンチェンドルジェ・リンポチェの全ての弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに意見を提出する資格があった。然し、受け入れるかどうか、リンチェンドルジェ・リンポチェの決定であった。だから、このようなすれば、是非、挑発がない事を遣り遂げた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子が離れる事をはっきり知っていったが、彼に離させられた。彼の強烈な性格なので、すべての団体の運営を影響させないわけである。上師として、とても困らせる。全ての方面を配慮して状況を出さないてはいけない、そうすると戒律を破る事が有り得ない。

仏経には何度も諭した事がある。未来世で、僧衆はお互いに殺害して、全て無間地獄に落ちる。俗人は、ただ赤い黄色い服により仏衣と思って、仏塔を建てて供養するならば、三十三天に向ける。僧団は戒律を破るけれども、彼らが果報を受け入れて、地獄に落ちるわけである。そなた達の世間人は彼が赤い黄色い服を着けるので彼に供養するので、同じように三十三天に向ける果報を得る。しかし、阿弥陀仏の方にいけない。これはこの僧団は如法に従わないので、阿弥陀仏の方にいける事を助けれ与えない。お互いに殺害して、僧徒を殺したとは限らなくて、そなたは彼が仏法を広める慧命を断つなら、これも殺害である。これはかえって最も厳重である。だから、経典は我々に常に警告させて、出家相の人に評判させてはいけない。彼は何か間違いがあっても、少なくとも相手がこの福縁があって、この世で出家相に現れる。だから、そなた達は如何なる出家相に評判してはいけない、果報がとても重いわけである。リンチェンドルジェ・リンポチェは為に説いて、これは評判ではない。これはそなた達に、そなたが如法をしないなら、出家相を現れても、修め出ない事を諭した。だから、出家者であれ、在家者であれ、四衆は皆が平等な原則の下、仏の教導のもと、精進な仏法を学んでいて、衆生に利益する。出家者は自分が在家者によりよいし、在家者により高いだと思っているならば、これも間違った。もし在家者は出家者が修めよくないと思っているなら、これも間違った。皆は平等な心により皆の因縁に観る。そなたは出家の因縁があったら、そなたの因縁である。そなたは出家の因縁がないならば、彼らの因縁である。我々は平等な心により、一切な修行者を観る。

引き続いて、「悪口」を講じて、所依境は衆生のため、思惟は耳に心地良くない言葉を言いたいと思うことを指して、加行はこの行為を指す。終わって、この話がすでに言い出して、動機は三毒を指して、特に嗔恨である。悪口のタイプは三つあって、一は直接の悪口であり、直接向かい合ってとても極めて悪い言葉で罵る。二は側面の悪口であり、嘲笑を合わせて耳に心地良くない言葉を言う。三は間接的な悪口であり、他人をおだててそそのかして悪口を言わせる。これらは皆はすべて犯したことがあり、悪口は他の人を呪罵することを含んで、たとえ極悪非道で許せない罪を犯した人でも、私達は彼を呪罵することができない。例えば、以前に多くの人が重要指名手配犯人を呪罵して、このような人が速く捉えられて速く死んだほうがいいと言って、これはすべて悪口の行為であると言える。仏弟子として、今日彼が悪を行って、彼の因果応報であり、私達と関係がない。仏弟子として、私達は彼に対して同情することしかできなくて、この人が仏法を聞く福報因縁がなくて悪を行うと思って、私達は彼を1つの菩薩の化身として、自分とすべての家族に警戒して、幼い時から成長するまで貪嗔痴ができなく、言葉で彼を呪罵するのではなく、自分がとても偉大であるように、すべての悪人を閉込むことを望んで、これは悪口の範囲であると言える。我々はいつも犯し易くて、いつもいつの間にか言って、付和を含む。多くのお婆さんは子供が命が短いことをののしることが好きで、これらはすべて悪口であり、口癖だと思わないでください。言ったら大丈夫だとと思わないでください。言い出すのでさえすれば、この悪口の種はそなたのものになり、この悪口の果報はそなたのである。

悪口が重い人は生きている時にきっと病気がたくさんあり、高血圧、呼吸道の問題がある人はすべて悪口、両舌である。悪口を多く言った人は、ゆっくりと彼の言った話が自分の身で適中され、他の人の身で適中されるのではない。というのは、彼が1日中同様な事をののしるから。多くの出家衆は、今まで悪口がまだあり、そなたは唱えることができるか。そなたは行うことができるのか。これはすべて悪口である。耳に心地良くない言葉は悪口で、他の人をからかうこと、他の人を軽蔑すること、わざと人が最も痛く、最も聞くことが好きでない話を選んで他の人に言うことを含んで、これはすべて悪口である。直接悪口は罵ることであり、側面のはいくつかがとてもユーモアらしい話を言うが、しかしその中はやはり人を批判する。間接の悪口は、他の人に言わせるのである。この前、ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに不満で、降参しなくて、心の中では、どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェが法席に座ることができるが、彼ができないか、と考えた。彼は他の人が一枚の密告する手紙を直貢チェツァン法王に書くように指図させた。ちょうどこの手紙を書く者は我々の教派の中のある堪布(ケンポス)に尋ねて、その堪布(ケンポス)は彼に、あなたはこの事をしてはいけないと教えた。何故かというと、第1はリンチェンドルジェ・リンポチェは本当に衆生と教派のために事をするから、第2は、あなたがこの手紙を書くと戒を破るから、あなたは書くことができない。考えてみると分かって、悪口は容易くて、彼があの人の話を聞いている時に、この2人が同じ時期に仏を学んで、一人は法席に座ることができて、もう一人はできなくて、 直貢チェツァン法王のえこひいきするのではないか、智慧がなくて間違い人を見るか、と思っている。直貢チェツァン法王に注意させてみる。多くの人はこのような事をして、上師にこの人はうまく事をすることができないと注意するのも、悪口であると言える。一部の者が悪い言葉を言わないが、しかし柔軟な言葉を使ってテ相手の心に怒らせるのは、悪口である。例えば、ある人が好きでないで、わざといくつかの反語を言って、たとえば、甲が好きでないが、わざと彼の前に「あなたは彼を誤解して、甲は本当にとても良い…」と言って,あなたはもっと多く言って、彼がますます怒るようになる。多くの人は一部の人をたきつけることができないことを知っているが、けしかけてその気にさせる方法で彼をたきつけて、とても聞きやすい話を言って、事実上彼に怒らせることで、特に姑と嫁の間の紛争の時に、たくさんに義理の妹をする者は、わざとこれらの話を言って、このような悪口はとてもよくない。

両親、聖者に悪口する過失は最も深刻である。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前にそなた達に気づかせたことがあって、たとえそなたの両親、上師のいくつかの行為や言葉を他人に受けられない場合があって、他の人たちはそなたの前で批判する時、そなたは避けて聞かないと教えた。もしそなたが聞いたら、たとえそなたは自分の好奇心を満足させるためとしても、甚だしきに至っては論争することを望んで、実はそなたは彼と同じに悪口する。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは以前に皆と言ったことがあって、リンチェンドルジェ・リンポチェを批判する人がいても、そなた達は説明する必要がなくて、第一個の原因はその通りであり、第2の原因は多分リンチェンドルジェ・リンポチェが過去世に他の人を批判したことがあって、この1世に人に批判されてしまって、そうすると、リンチェンドルジェ・リンポチェの果報が弁済して終わる。もしも私達はずっと解釈、或いは論争しに行ったら、相手の悪口はだんだん多くなり、そなたは彼が悪口を造る機会を増やすので、本当の主導者がそなたであり、彼ではない。その故、この論理で言えば、私達は聞くことができないから、まして私達が主導的に父母の是非、聖者の是非、そなたの上師の是非を言うことはなおさらであろう。

多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに会って、彼の父母が合わないと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも彼らに、くれぐれもそなたの父母の事を言わないでくださいと教えた。これは彼ら二人の事であり、そなたと関係がなくて、そなたは言うと、そなたはこの戒を破れる。まさに多くの離婚した人が、よく彼の子供の前で配偶の悪いことを言うことが好きで、この子供に以後ずっと彼の母親或いは彼の父親を批判させて、これも悪口である。人の父母として、たとえそなたは離婚しなくても、そなた達の夫婦の間、共通しない考えがいくつかあっても、すべては子供の目の前で配偶を批判しないでください。というのは、そなたが言う時に、子供は必ず聞いて、多く聞いた後に、彼は父親或いは母親が多分間違いがあると感じて、批判をもし始める。だから、今は問題の児童がこんなに多くて、すべてはそなた達の家庭から出てきるのである。家の中で父母は問題があって、あちこち批判して、多く言ったら、子供は父親が母親をいじめて、あるいは母親が父親をいじめると思って、子供は悪口をしてしまった。同性愛はどのようにできるのか。これは父母が育成するのである。もしも母親はずっと父親が間違いと言うなら、この子供は自然に男性が好きでないようになる。父親が毎日母親が間違いと言うと、この子供は女性が好きでなくて、恐れるから、接近する勇気がない。

だから、父母は子供の前に相手の欠点を言わないでください、相手の事を批判しないでください。合う場合には、一緒に居るのはとても良くて、分ける場合でも、仇にもならないでください。息子や娘をする者は、くれぐれも両親の是非を言わないでください。たとえ彼らは本当に悪い所があっても、言うべきでなくて、社会はおのずと天下の公論があり、因果の法則も逃げられないから。私達は仏弟子として、彼らのため懺悔し、彼らに福を貯めるのは余り時間がなくて、さらにそなたの口がまだ批判する必要がない。我々の社会は病気になり、我々の社会はすべて問題を造って、すべてはずっと他の人の問題を批判して、自分の問題に重んじないで、我々のの次世代に中毒させて、私達の次世代に情報を受けさせるのは殆どマイナス面なのである。両親の行為が分かったらよく、機会があれば、自分を変えて、仏法でゆっくりと彼を忠告して、あれらの正しくない行為を変えて、彼の間違いを批判する必要がない。

引き続いて「綺語」を講じて、所依境は衆生であり、思惟は衆生の心が軽くしたくて雑談することを指して、そなた達は最も雑談することが好きである。加行は意味がない言葉を言ったと歌を歌うのであり、どうしてそなた達はカラオケを歌ったらののしられるのか。今聞いたでしょう。終わるのはこれらの話を言い終わって、動機は三毒であり、特に愚痴である。綺語のタイプは三つあり、第一は、外道のたたえる或いは呪文を唱えることなどであり、非法をを法にして、心を逆さまにする綺語である。今多くの仏寺が「白衣神呪」を推進しているように、《大蔵経》にはこの呪文がなくて、これが多分以前道教の書かれた呪文であり、《大蔵経》には無くて新しいものが出来たものでさえすれば、密法でない限り、しかし密法の呪文は公開して外伝しないで、公開してこのように修行するのではない。以前はひとついわゆる紅教の2人の夫妻の道場で、彼らはある1冊のお経を印刷したことがあって、このお経は一貫道が書かれた仏経であり、ある人は嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに見せて、見るとすぐに偽のお経だと分かって、これらは綺語であり、外道のたたえる文を唱えることを含む。

だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に説かれたが、若しそなた達の家である時仕方がなくて、外道の宗教活動に参加する場合、体が参加して、口が言わない。つまり、神に自分に何を与える事を求めない。心が動かなくて、何を感じるのを思わない。出来れば避けたほうがいい。「非法で法として見る」非法とは何だろう。非法は正法ではなく、我々を助けて、今世に苦しみを離れ、楽しみを得て、生死と輪廻を断たない仏法は非法である。たとえ、彼は仏法の名相を一杯説明して、尚更に仏を修める外像が現れても、彼の理論、方法は我々を助けて、生死を離れないなら、全て非法である。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは昔に説かれた《寶積經》野中に、釈迦牟尼仏は末法時代の衆生を教えて、如何なるある如法の上師を検視する二十条の条件の仏法テープは皆が聞きなさい。そうすれば、そなたは非法の上師を分かる。

「心は放逸や雑談に溺れる」という要求はレベルは高い。出家者から見ると、世間に関してどんな事でも彼は話せず、名利や八風に関わることも話さない。話せば、全て綺語である。寺に多くの法師は常に信者に「そなたはとても発心した。」「そなたの様子が変わった」などを言った。此れは全て綺語の範囲に納める。例えリンチェンドルジェ・リンポチェはいつもそなた達を話したようにリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に皈依してから、蛇年大法会まで直貢チェツァン法王は全然公開の場所で、リンチェンドルジェ・リンポチェの前にリンチェンドルジェ・リンポチェを一語褒めなかった。それは直貢チェツァン法王の要求はとても高くて、直貢チェツァン法王が思った仏法の標準を達さないと、公開に賛嘆しない。若しこの信者は仏が説かれた五戒十善を行わないなら、そなたは公開に彼を賛嘆すれば、綺語である。いつも彼が発心したのを言っても綺語である。発心とは金をいくら寄付する事ではなく、そなたは本当に菩提心を発したかどうか。本当に此の世を離れる心を発したかどうか。有れば褒められる。ないなら、出来ない。そうしないと、彼に貢高我慢をさせた。出家者として、世間法のことに対して、通常は話さないほうがいい。聞いても分からないふりした。在家者はこの歌手が最近どんな服を着るやこのスターは最近どんな事に遇ったなど話さない。

昔ピンホールカメラのビデオ事件がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは大反対して、そなた達にあのビデオを見る事を許さない。それは見れば、全ての戒を破った。先に不邪淫の戒を破った。そなたは他人がこの事を覗くなら、邪淫である。見た後人と論議するのは不綺語の戒を破る。今はようやくこの恐ろしさを分かっただろう。何故そなた達に見せないだろう。多くの人は好奇心を持って、見た後忘れると言った。しかし、簡単に忘れるだろう。忘れないならどうする。そなたはそなたの阿賴耶職の記憶に種をしっかりに撒いた。仏経因果論に説かれたが、我々はどんな行為を行って、他人にマイナス面の結果を起させると、この物は地球から消えるまで彼の果報が消えない。若し消えないなら、彼の果報は引き続きに地獄にいて出られない。だから、この事件、撮られた人、販売した人、公表した人は全て地獄に堕ちる。見た人、尚更に見た後すっきりと感じた人も地獄に堕ちる。見た後批判した人は尚更にもう一つの地獄に堕ちる。元々我々は累世連れてきた淫欲の心はとても重いから、若し外でこの誘惑を受けて、引き続きに強めるなら、我々の行為は偏差がある。仏法は薫陶と言われるが、このような方法を使う。この種は因縁を起さないと発芽せず、果を生まない。我々は生々世々に淫欲の習性があっても淫欲の種があっても、結婚して性交しても、我々はこの行為に輪廻の法則を影響させない。我々に以後往生の一瞬間にこの念を起さない。だから、周りに発生した事に対して、我々は減少して増やさない。何故経典に出家者は人が拳闘する事でも見えないとある。それは心に薫陶させて、この闘いの念を引き続きに薫陶した。我々は在家者として、夫婦因縁があるのは今世この因縁を断たれない。しかし、我々はこの求めを増やさない。特に他人のプライバシーの事を覗くと、多くの戒を破る。

だから、我々は通常他人のプライバシーを頻繁に聞かず、了解しない。多くの人は遇った時、先にそなたはどんな仕事をしていると聞いて、いつも他人の事を聞いた。外国人はかなりプライバシーを尊重して、めったに聞く。たとえ他人が主動に話した。しかし、我々は主動に聞く。人はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも先に彼に聞いて、「ご用件は何でしょうか。」彼は聞けば、リンチェンドルジェ・リンポチェは話す。聞かないと、リンチェンドルジェ・リンポチェは話さない。たとえ、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼のある秘密を分かれば、タイミングが違うなら話さない。彼は信じないと、話さない。そなたは多く話せば、他人のプライバシーを分かる事が好きなら、この考えを起しやすい。

綺語の方は他人の事を話す事が好きで、意義がない言葉を話すのは綺語である。仏の標準から見ると、我々の話は全て他人を利益しなければならない。利益とは財や名利ではなくて、彼を利益して、彼に仏法を習い、因果を了解させて、生死を離れる言語である。他の言語は作用が起こらないのは余計である。そなたは必ず言ったが、仏を習う事はつまらなくて、何も話せない。此れもだめで、あれもだめだ。こうすれば、つまらない言葉を実現した。つまらないとは何だろう。そなたの心は落ち着かず、いつも外で言われた埃、欲望を吸引して落ち着かない。何故そなた達はテレビを見て、新聞を読んで、映画を見て、コーヒーを飲んだだろう。此れは全て心が落ち着かないから。若し心は落ち着かないと、そなた達は閉関修行できない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一ヶ月間に閉関修行すれば、一語でも話せない。若しリンチェンドルジェ・リンポチェは通常にそなた達のように雑談する事が好きなら、閉関修行はとても苦しい。たとえ、リンチェンドルジェ・リンポチェと会話する人がいなくても、自分も独り言を言う。だから、自分が通常にどんな日々を過ごすのを見てください。話すが好きより、真言を唱え、仏号を唱えたほうがいい。何のために多くの話を話しただろう。意義がない。話した事全て綺語である。歌を唄う事も含まれた。

そなた達は言うかもしれないが、チベット人は毎日歌を歌っているだろう。チベット人は歌を唄うのは特に寺に唄う歌は全て仏菩薩の様々な慈悲、上師の様々な修行を賛美する。愛している、愛される、憎んでいる、憎まれる、別れるなど話がない。我々は現在流行っている歌は全てこのような種類である。此の世に歌手になって、人気があるのは過去世に絶対に修行者である。絶対に大衆を引率して仏経を唱えて、真言を唱えた事がある。そうしないと、今世歌手になって人気があるわけではない。しかし、隔世迷のせいで、忘れた。だから、今世彼は歌手になった。何故此の世にこのような歌を歌って、他人に聞かせただろう。それは過去世に心に綺語があって、念を動いたから、愛欲、情欲を忘れないから、今世に歌を通して現れた。だから、長期にカラオケに行って、歌を歌って、多く唄えば、自分は主役のように、真実のように感じる。それは我々の心は簡単にこの環境に変わられる。

本当の修行者は心が環境を変える。しかし、凡夫は心が環境に変わられる。そなたの心はまだ定めない時、ある場所にいくと、必ず回りの環境を見て、この環境がとても快適であり、あそこは汚いと感じた。何故だろう。そなたの心は環境に変われた。若しそなたはカラオケに歌を歌って、照明は暗くなって、雰囲気が変わると、更にみだらな音楽を唄うと、全ての状況は起こられる。多くの人は歌を唄うのは自分の感情を打ち明け、心の底まで歌って、自分の思想を打ち明ける。此れは間違い。本来彼女はこのラブソングを唄わないと、まだ思い出さないかもしれない。しかし、唄った後昔この男は自分を損なった事を思い出した。帰ってから、彼の写真を破って便器に捨てた。我々は有る昔の記憶、所謂種は因縁がないと、現行を起さず、行動もしない。この歌を唄う行為は仏経に多く書かれたが、ダンスもこの範囲に含まれた。何故ダンスが好きだろう。一人を抱くなら、気持ちがいいから。他の運動は抱かないから、好きではない。

我々中国人は昔に何故儀礼之国を呼ばれただろう。それは中国人はダンス時、一人で踊って、一緒に踊らないから。しかし、現在は違う。リンチェンドルジェ・リンポチェも嘗て若くて、昔にスローダンスが好きだった。しかし、この事は仏子として引き続きに行えない。絶対につまらないと感じないで。此れを行えず、あそこへ行けないと、人として楽しくないと思わないで。唯仕事して、仏法を聞き、リンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるだけ。実はリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られて、また笑い話を聞ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは一生の物語は多彩とは言えないけど、とても複雑である。皆はリンチェンドルジェ・リンポチェの物語を聞くのは修行の過程である。

昔リンチェンドルジェ・リンポチェも歌を唄って、映画を見て、ダンスした事がある。全てはリンチェンドルジェ・リンポチェが行った事がある。あの比丘、比丘尼と違って、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの事をした事がある。自分がこの物は本当に一人の心を連れて行き、一人の心を変え、一人の行為及び思想を全て変えると感じた。だから、昔台湾と香港の学校は校内にパーティーを開けない。パーティーを開けない事は正しい。当時皆この規則は間違いと思って、何故パーティーを開けないだろう。許されないなら、私は開けよう。現在仏を習って、本当に間違いのを分かった。子供はこの環境の中に悪くなるのが簡単だ。親として、若しこのような習慣があって、ラブソングを聴くのが好きで、結婚記念日に遇うと、子供に家で食事させて、自分は夫とダンスして記念すれば、如何なる子供にダンスさせないだろう。だから、現在リンチェンドルジェ・リンポチェはダンスせず、カラオケも歌わないから、娘にこのようなことをさせない。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは自分がこの事をしないから。

先日ある女弟子は風邪を引いたから、マスクを被って、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に跪いた時、自分のマスクを取って、咳をした。彼女は風邪をリンチェンドルジェ・リンポチェに移すと、自分が治ると思うかもしれない。続いて、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに報告して、自分は法会の当日に合宿に参加する。つまり遊びに行く。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女は開示されたが彼女は休みを取れればいい。どうせ彼女は既に病気に罹ったから。結局彼女は休みを取れないと言った。休みを取れないなら、今後彼女も仏法を聞けない。

ある時人はとても可笑しい。彼女は自分が合宿に参加しないと、今後同僚と付き合うとき、悪く対応されるかもしれない。人情を尽くさないかもしれない。彼女は自分が活動を指導する必要なので、必ず行くと思うかもしれない。そなた達に自分の遊びが好きな心を全部捨てるわけではなく、仏法を聞く事は何より大事である。実はラマも遊んで、たまにはお互いに悪戯している。遊戯や冗談が悪いとは法会の場所にいる。特に法会がある時そなたが参加しない。例えば、ドラブ・ワン・リンポチェは主法する二日の法会があるのにそなたは自分が遊びに行く。それは既に約束したから、行かないのが出来ない。このような事は綺語を犯した。多くの人は職場にいるとき、リラックスを表すため、お互いに打ったり、押したり冗談したりするのは全て間違い。

この前リンチェンドルジェ・リンポチェは申されたばかりで、もう我らの大統領のことを言わない、もうこれあれを批判しない。今日台湾にはこんな政府があって、それは皆の福報が足りないのでこんな大統領があった。皆は全て知っていて、劉邦が市井のごろつきで、どの学問がなくて、国家を治めたばかり時、只三則の憲法を作ったのに、ちゃんと管理した。彼が使ったのは道教の「無為而治」何も問わず、皆はこの三則を犯さなければ良い、しかし漢朝が盛栄して来た。何の故?これこそこの時代の者が福報があるため、こういう明王が現れたのである。

だから,そなた達は常に役員或は人士を批評して、これは全部綺語の範囲だ。1人の将軍は兵士を連れて戦争しに行って、勝負するのが全て福報因縁と関係がある。占いによって、即ち運と関係がある。実は、そなた達は中外の歴史を見て、多くの戦争は全部,たくさんの戦争は全部訳もなく、不思議で勝った。警察官はある時ある者を捕まった、それは彼らが不思議に自分が来て、あるのがどうして見つけない。それより、一切全部因縁、福報である。我らが上司を批判するのを含んで、そなたは福報がよければ自然に良い上司があって、これはそなたの福報と関係があり、彼が悪いのではない。だから、そなたがそなたの部下の前に上司を批判するのはが正しくなく、これこそ綺語だ。しかし現在皆はこの言い方を受け取らなく、全部上司が間違って、上司が良くない、国家がよく出来ないと思って、これは全て間違った。

今日は政府が無ければ、我らはどうなるか?彼が良く出来るかどうか問わず、少なくとも彼は我らの代表として多くの事をした。イラクは政府がないのあの期間で、大変乱れていたのではないか?皆はイラクの政府が良くないと言ったが、政府が無くなったらどの情況だろう?つまり、そなたの上司が良くできたかどうか問わず、そなたが判断することではなく、好きでなければ離れて、しなくても良いが、一日中お喋りして、彼がどうしたら良いかと言うな。そなたが福報があるなら既に彼の席を座って、福報が良ければこんな上司を得ることが無く、割合に良い指導者があった。そなたの福報、因縁が良ければ、あるいい所に生まれる。しかし、この共業の中に生活をして、そなたが変わられるのではなく、そなたが批判する必要もない。

シンガ-、モデル、ミスコンテストこの種類全部綺語である。特にそなた達女の子、今日は誰がこんなに醜く着たか、誰がとても綺麗に着たかと言うことが一番好き。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェは一枚の面白いニュ-スを見た。ある民衆は千元のステーキをただで食べるため、朝四時から翌日まで列に並んだ。彼らに仏法を聞くのをさせたら、例え彼らに千元をあげても列に並ぶ者がいない、信じるか?だから人の貪欲は本当に大変恐ろしい。

先程全て言ったのは世間の綺語で、続いて仰ったのは非法器に法を教えるのが真実綺語だ。これは言うのは密法を勉強しない者に密法の修める方法を言うのが、全て綺語である。それより、現在外の教派は台湾で公然で多くの密法を説き、全部この戒を破った、言えないから。リンチェンドルジェ・リンポチェは覚えてある年直貢チェツァン法王は信者に質問を提出チャンスをさせた。ある信者は聞いた:「密宗には気功があるか」直貢チェツァン法王はとてもはっきり聞いて、彼が何を聞くのも分かっているがかえって彼に答えなく、相手にしなく、それに頭を回した。これこそ、この者は法器ではないので、例え彼がこの名詞を知っても直貢チェツァン法王は彼に解釈しない。

だから, ある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに何年従ったがリンチェンドルジェ・リンポチェが密法を話す事をあまり聞こえない。正直いうと、そなた達はまだ法器ではなく、それでリンチェンドルジェ・リンポチェは話す事が出来ない、話すと戒を破った。綺語は1人の修行者にとって、仏法ではない話すさえもする事が出来ない。何年か前リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チョンツァンを招いて法を広げに雲南中甸へ行った。ある信者がこの事を知った後、上海より昆明に急ぎ行った。リンチェンドルジェ・リンポチェを通じて直貢チョンツァン法王に伺い事が得た。直貢チョンツァン法王を拝見した後、この者は先ず一万人民幣を供養して、これはあの頃大陸では大変大金だ。次いでこの信者は自分の財布より二枚の名刺を出して、直貢チョンツァン法王にどちらと商売した方が良いかと伺った。直貢チョンツァン法王は見ることをせずに、回答もせず、そのままにあそこに座った。そなた達が取り替えたら、心の中にひそひそ話して、どうしてお金を取ったのにまだ口が開けないか?すこしも慈悲ではなく、自分は商売をするのがこんなに重要と思って、直貢チョンツァン法王まだ話さない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの場面がまずいを見てから、この者に少し解釈した:直貢チョンツァン法王は如法の修行者で、それに証道の修行者で、そなたが聞いた問題は仏法と関係ないので、直貢チョンツァン法王は基本的にそなたに答えない。また、そなたはどちらが割合に良いか、まるで直貢チョンツァン法王に戒を破らせる。そなたはどちらが良いかと聞き、直貢チョンツァン法王は1人を批判して、もう1人を褒めてはいけないだろう?こうすると戒をやぶる。それで直貢チョンツァン法王はそなたに答えることが出来なくて、本当な修行者はこうである。まるで、ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺う時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の心は仏法を聞きに来たのではないと感じると、彼を離れさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チョンツァン法王より酷くて供養さえも受け取らなくて、そなた達がくどくどしないため。そうでないとそなた達は外でリンチェンドルジェ・リンポチェがお金を取ったのに話さないと言い、そなた達に悪行を少しさせない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示された、そなたは仏を学ぶ者でなければ、ドラブ・ワン・リンポチェはそなたに相手をしない。リンチェンドルジェ・リンポチェも自分の目でドラブ・ワン・リンポチェが供養金を相手に返すのを見た。そなた達は運命が良くて、リンチェンドルジェ・リンポチェに従うことが出来て、例え直貢チョンツァン法王或はドラブ・ワン・リンポチェに従って、そなた達に泣くに泣けず笑うに笑えないにさせて、リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ少し道理をそなた達に聞かせる。だから,非法器であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェと諸上師は絶対に密法を教えなく、ひいては呪文さえも話さない。多くの者は聞いた呪文、例え灌頂されて呪文を得て、或は《大蔵経》の続部の中より写した呪文を弟子に読ませて、これは密法と言う、こういうのは全て綺語である。

どんな仏菩薩の本尊呪文は全て上師を通じて口授する、上師はなぜ口授することが出来るか?まず本尊の灌頂を与えて、自分は息、懐、増、誅この四法を既に認証されて、そなた達が思った毎日十小呪、往生呪、或は《大蔵経》続部の呪文を写して読んで、即ち持呪と修密ではなく、これは間違った。密法を修める一番基本な観念は身、口、意は密で、それで法門を観想するのは仏の様子を思うのではなく、必ず生起、円満次第を通じて、密法の外密の部分にはじめて入る。

今日我らは台湾の仏教界既に本分を守らない。そなたは律宗を修めれば、良く戒律を修めるべきで、ある呪文を写して弟子に読ませてはいけない、彼らを密法を修めていると間違い導いた。そなたは禅宗を修めれば、なんでも要ってはいけない、深山の中に隠れるべきで、信者さえ接待することが出来なくてよく修行する。そなたは浄土を修めれば、ただ一句の仏号で、十小呪がなく、何も無い。そなたは華厳経を修めれば、すぐ出家相で現れなければならない。只チベット仏教密法は全ての法門を納入してから、上師がそれぞれの部門や類別に分けて個別に法を伝える。

以前リンチェンドルジェ・リンポチェも十小呪と大悲呪を読んだが可笑しいと思って、なぜ読んでも役に立たない、誰がリンチェンドルジェ・リンポチェを騙したか?仏菩薩は絶対に騙さない、書き表した呪文は必ず役に立つ。何故読んだら役に立たないか?それは身、口、意の密がないので、生起次第、円満次第が起きられなくて、役に立たないのである。また伝承上師の加持を得なければ役にも立たない。

だから、綺語も法師或は上師が勝手に一句の呪文を伝えるのを含んだ、大悲呪がとても普通らしいと思わないで、皆は観音法門を修めるには全て大悲呪を読む。実は《大悲陀羅尼》の中にどう修めるか大変はっきり述べてあり、閉関、戒肉、戒色が必要で、一週間内に相応まで読まなければならない。それより、そなた達は現在早課、晩課時5回、7回を読むのは役に立たない、ただそなた達に観世音菩薩と縁を結ばせて、来世また来る。しかし《大悲陀羅尼》の中に説いた効果が出るまでするのはは不可能である。

現在、チベット仏教は皆に五彩金剛結をあげて、これはこの仏経と曰く、五彩の糸で結び目をつくって真言を唱えて信衆に着けさせて、顕教が現在しないが、チベット仏教が遣り遂げた。此れは経典の中に諭した。なぜチベット仏教からのリンポチェが説いた事が出来ないのでしょうか?此れは彼がこの顕教の経典を読んだ事がない、この理論を知らなかったんで、言う事が出来ない。実は、チベット仏教の多くのが実際できなしている。

現在、多くの人々は「綺語」を犯す事が知らなかった。此処にはっきり説いた。もしある者は密法を学ぶ資格がないならば、彼に教える事が出来ない。ここの資格は学問と地位ではなくて、法器に成られるかどうかのである。嘗て、昆明に、ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに真言を伝えたいが、その時に、リンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チェツァン法王に皈依したばかり、このような事の厳重性が知らなかった。然し、此の者は話す前に、直貢チェツァン法王が不動明王に伝えた事があったので、リンチェンドルジェ・リンポチェが不動明王が自分の体内に居た事を感じて、すべての様子は不動明王になり、急に立った。相手はこの状況を見ると直に驚いて、直に言わないと言った。相手は言わない事を言うと、リンチェンドルジェ・リンポチェが不動明王が離れる事を感じた。此れは真言を伝える者の違い、なお、仏法を学ぶ者の自身が法器なので、彼の本尊が遮って、彼に聞かせい機会を与えない。考えてみると分かって、如法に従わないで仏法を聞いたらはずではない、このような事がとても厳格な事である。法器ではない者が伝えて或は聞く者は全て真実綺語を犯して、世間の綺語により厳重である。

だから、我々はある上師に仏法を学ぶ前に、彼に背景を知らなければならない、これは彼の出身ではなくて、かえって彼の仏を学ぶ過程である。彼は誰に学んでいるのでしょうか?彼の伝承は何でしょうか?全部は明らかでしてあげる。ある者は彼の自身が今日急に何々生れ変り、何々活仏で、此れは大妄語である。はずではない。ある徳を具える上師は甚だしきに至っては直貢チェツァン法王でも、何処から仏法を学んで、何方から学んだ事を説明してあげた。リンチェンドルジェ・リンポチェのように、そなた達に「自分の上師が何方でしょうか?仏法が如何に学んだのでしょうか?」と話した。とても明白である。このような上師であれば如法であり、彼が修める果位は高いかどうかそなたと関係ない、此れは彼が如何によい修めてもそなたに与える事があり得ない。彼はそなたの心に考える果位を修めないでも、そなたに仏を学ぶ事を影響させない。ただ彼は彼の伝承を明白で説明する事が出来て、彼が説く仏法は仏が諭す正法を超えないなら、ある伝法者である。しかし、そなたは仏を聞ける法器も要る。我々は説法者と法を受け入れる者の間の交流、お互いの身分と背景を知らなければならない。了解してから、我々は戒律を破る事をしない、どのような心構えにより仏法を受け入れる事を始めて知っている。

綺語の中に、仏法を求める時に、考えが不集中がもっとも厳重である。現在、そなた達はそなが仏法を聞く時に、欠伸をしたり、居眠りをしたりするならば、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェが罵る事が知っているのでしょうか?そなた達は仏法を聞く時に、何故欠伸をしたり、居眠りをしたりするのでしょうか?此れはそなた達の考えが緩むことため、この心を集中しないで聞く事をしないので、欠伸をするわけである。そなたはつまらないと思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた内容はそなたが全部聞いた事があり、これらが最も大きな綺語を犯した。如何なる者は法席で座ってそなた達に仏法を開示させる時に、そなたが聞く事だけではなくて、そなたの歴代祖先と冤親債主がすべて聞いている。そなたが聞く時に、弁済して、福報を累積し、そなたが聞かないなら直に無くしてしまった。

そなたが眠って、欠伸をする時、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に立ち上がって走らせる事はそなた達に戒律を破る事を望まない、そなた達に愛して、可愛がるわけである。実は、そなた達は寝たり、欠伸をしたりする事をしても、リンチェンドルジェ・リンポチェと関係ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が説いて、そなた達はそなた達が聞く。これは、我々の金剛乗は耳で聞く事ではない、そなたの心を聞いた事までである。だから、そなたが仏法を求める時に、もしほかの事をずっと考えて、そなたの考え方があったら、ずっと分別心により聞いたら、自ずから欠伸をして寝たい事になる。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に話した事がある。毎回、直貢チェツァン法王が仏法を説いたら、リンチェンドルジェ・リンポチェが欠伸をして居眠りをする事をしてはいけない。時には直貢チェツァン法王はチベット語で説いて、リンチェンドルジェ・リンポチェも分からない、何故欠伸をする事が出来ない、その上、動かない事が出来るのでしょうか?これはリンチェンドルジェ・リンポチェの心が散乱する事がない、心を集って、比較的にもう少し深く説いたら入定で聞くわけである。

嘗て、2002年の大法会に、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェが法会の前の一日に寝ていない事をはっきりしていて、その日で場所がそんなに熱くて、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェの眼を閉じた事を見たのでしょうか?欠伸をして眠ると言わないで下さい。最初から最後まで、リンチェンドルジェ・リンポチェは上で座って、如如不動な仏法を聞いた。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェは自分で聞く事だけではなくて、その日に多くの衆生が直貢チェツァン法王が仏法を説く事を聞いた事をはっきり知っていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは不動が出来るなら、多くの衆生が自ずから不動が出来た。そなたは散乱で、子供に世話し、食べて、眠って、これらが散乱な心で、此れは最も大きな綺語である。

私達は朝晩の授業時間をするの間に、もし他の言語を混じるなら、成就が出来ない。多くの人々は祖母をして、真言を唱える半分で子供に制止させて、或は電話が鳴るならだれかがとって、これらが綺語である。普通の法師は「大丈夫だ」と言って、唱えたがあったら十分である。朝晩の授業時間には、すべての個人の事を下ろす。電話が来ても、彼が何か用事があったら既に用事があり、電話をもらえるかどうか同じである。もし重要な事があったら、今回を取らないでも、彼がまた電話が来た。もしそなたが真言を唱える時に、この飯が不味いなら、そなたの命である。そなたは何故真言を唱える前に飯を炊いて時間を省くことのでしょうか?米は先に鍋に入れて先にニュースに挿し込んで、こちらで読み終わって一寸飯がよく完成、そうすると、そなたの心が散乱しないと可笑しくなる、雑語を混じらないと可笑しくなる。我々は関房の中に、真言を唱える時に、言うを言わないで、しゃみをして、咳をしても最初から唱えなければ成らない。欠伸をしても最初から唱えなければ成らない。そなた達は此処で座って、毎日に欠伸をして、真言を一回で唱えてから、こちらが痒くて、こちらがつかむ事を始めた。もし法本を曰く条件を遣り遂げるならば、そなたが絶対に成就がある。そなた達は成就がないわけが遣り遂げない。リンチェンドルジェ・リンポチェは随意に説いて、仏が私に許させる?仏と関係ない、リンチェンドルジェ・リンポチェと関係ない、そなたが成就するかどうかそなたの本人のことである。しかし、仏とリンチェンドルジェ・リンポチェは方法をそなたに聞いてあげる。

ある者は真言を唱えて、唱えてから夫が電話がかけていないと思っていて、それから数珠をマークして、先此処までとなえて、電話をかけてまた唱えて、もう役に立たなかった。今日、そなたが3千回を唱えると思っていったら、この3千回の中に如何なる言語がある事が出来なかった。もしそなたは3千回の時間が長くすぎなら、少し縮小して、5百回から始めて、それから1千回、2千回、3千回のようにプラスした。始めるのでくれぐれ速めてはいけない、一日300回、急速に100万回を完成し、このようにしてはいけない。ただそなたはこの間に他の言語があったら、今日唱えた真言はそなたは観想があっても、しかし、この真言が効果がなくて、役に立たなくなかった。道理は何でしょうか?誠がない、清浄ではない、二心で、一心にて唱えるのではない、だからこの真言の能量が発生出来ない。

特に共修法会の中で、多くの人々は綺語を言った。したで真に唱えるようない、彼は側に冗談ではなして、この読経しているものに笑わせて、特に冗談をして他人に心をを集中することができないように引き起こし、すべての衆生が修法する功徳を破壊し、これはとても厳重である。もし、出家相を現れて、師祖からそなたにあげる期待に背いた。綺語は冗談をする事以外には真言を唱える時に、急いで、半分で唱えてから唱えないことを含んで、これも綺語である。仏事をする前に、中間、最後、皆はある意見の為に論争に発生する事も含めて、これも綺語である。まして法意が知らなくて、ただ文字が知って、真剣な唱えないで、自分が過失があって、他人の功徳も破らせた。例えば私たちは六字大明咒を唱えて、我々が如何に唱える事が分かるけれども意味が知らない、リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた仏法のテープを聞けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは六字大明咒を詳細な説明し、そなた達に意味を知らせて、そなた達が真剣で唱えて行った。所謂「他人の功徳を破らせる」の「他人」はどなたでしょうか?そなたの冤親債主である。今日、そなたは仏法を聞けて、真言、経典を唱えられて、此れはそなたの冤親債主がそなたに成就させて、助けて、邪魔しないわけである。しかし、そなたは一心しないで、欠伸をして寝たら、そなたが過失があるだけではなくて、そなたのそれらの冤親債主、かれがそなたの功徳主で、そなたが彼らが害しているのである。だから、我々が仏法を聞く心は調整してきて、自分でよい為ではなくて、衆生の為であり、そうすれば、そなたがより慎重になるようである。

我々は寡言修行を精進して、寡言とはそなたに話させないことではない、少ない話すのである。この綺語の果報が恐れる事が出来て、話が言い終わってから大丈夫と思っていて、冗談な方式により他人の真言を唱える方式を評判させて、他人上手くない唱えて、牛の声のように話した。ある物語りは、ある者は他人の真言を唱える声が牛の声のように、来世に至ると彼が牛に生まれて、これも綺語の範囲である。他人が唱える音が標準するかどうか、上手くよく唱えるかどうか、他人に評判してはいけない、これも綺語の範囲だる。そなたは彼がどのように評判したら、そなたの果報がそのようになる。そなたは鶏のような唱えて、それではそなたの来世が鶏である。我々は自分の言語に対して慎重しなければならない。所謂「寡言」の「寡」は衆生に利益がない言語を多く言う必要が無い、我々は冗談して、ユーモアがあっても、評判の方式によりしてはいけない。我々はユーモアの方式により他人に如何に変わる事知らせる事のような話が言う事が出来て、然し、他人の欠点を言う事をしてはいけない、他人の口を突いて、人の傷跡をあばいて、これはすべてよくない。だから、この綺語は、特に我々の口が身口意の中に最も犯しやすくて、最も容易で間違っている。だから、我々は常に口は災いのもとと言って、一切の果、一切の因が口から始めるわけである。もし我々は慎重ではないなら自分の口に少なく話をさせて、欠点が沢山があって、一つの油断して、不注意で一つの命を害して、他人に多くの良くない事に発生させる。

以前はある者は他人の夫がよくないと言って、結局その女に毒を飲んで自殺させた。彼女が言ったときに、友達の為によいと思って、友達がこの男と続いて付き合わない事を望んでいて、速めにこの不幸な婚姻を終らせた。結局、この女の事が思い切れないで毒を呼んで自殺して、本当の元凶は誰でしょうか?いったものであり、彼女は他人に死なせた。彼女はただ「彼女は真に思い切れないで、こんなに愚かであるか?離れたら大丈夫だ」をやはりこのようい言った。この人の罪業が深いである。だから、我々のひと言で言うのは考えてから言い出して、くれぐれも私が口をついて出ると言わないでください。自分が如何に言う事が分からない、私はどのように言う事をしらない事を言ってはいけない。言う事が出来ないなら言ってはいけない。行動で表現する。いう事が知らないなら少なく言いましょう。くれぐれも再び「口をついて出る」この言葉を言わないでください、此れは責任を避ける話で、自分が間違いがある事を承認しない話である。だから、我々の身口意の中に口の部分も絶対に注意しなければいけない、くれぐれも間違ってはいけない。

一回、ある者は兄が病気に罹ったの為リンチェンドルジェ・リンポチェが向こうへ行って加持さえる事を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の兄が去るはずで、彼に甘露丸をあげた。彼は口を開いて「兄が飲まれない」と言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは直に持ち帰って与えなくて、これは彼の話により縁を切れたわけである。多くの人々はこの欠点を犯しやすくて、他人は何か与えても、何を話しても、何か動作をしても、必ず彼の原因がある。そなたは「なぜ私にくれるのでしょうか?如何に使いますか」と尋ねる事が出来る。多くの人々は自分が極めて賢くて、彼が飲まれない、此れは彼が管に挿し込んだためである。彼は拒絶するとこの縁がない。直に斬ろう!直貢チェツァン法王は始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに閉関をする事を指示させた時に、もしリンチェンドルジェ・リンポチェが考えるならば、直貢チェツァン法王に1ヶ月に延長するかどうか、時間が短くなるかどうか、それではリンチェンドルジェ・リンポチェはこの縁拒絶するのである。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはあっさりで「はい」と回答した。何時にいける事が分からない、お金が何処に来るも分からない。しかし、直貢チェツァン法王が話したら、絶対にリンチェンドルジェ・リンポチェのよいため、考える事が要らない。そなた達はある欠点を犯して、リンチェンドルジェ・リンポチェがこの話を言うのは自分が遣り遂げるかどうかを先に考える。予め説明しろうか。だから、口で言うのは我々の人生の中に話す事の中で最も最も重要な事であり、くれぐれも間違えて説明してはいけない、くれぐれも無闇に言ってはいけない。遣り遂げるあら、我々は修行の方で既に少々多くなった。

2011年4月22日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な直貢噶舉施身法を修めて、1300人を上回って法会に参加した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、こう開示された。今日修める「施身法」は寶吉祥仏法センターが毎月に一回開催される法会で、チベット仏教の密法の八大成就法の一つである。台湾では現在寶吉祥道場だけが固定に毎月に法会を催していて、その上毎回もすべて1000数人は参加した。仏教は顕教と密法に分けられて、いわゆる密法は秘密を指すのではなくて、どんな神秘的な法門ではなく、それは本当に衆生を助けて済度することができる方法である。施身法の意味は今日あまり説明しなくて、皆は寶吉祥仏法センターのウェブサイトまで観覧することができて、過去の毎回の施身法法会に全て紹介したことがある。

済度するのはそんなに簡単ではなくて、そなた達が思うように、数人の出家者を頼んで、ちょっと読経したり、往生被という掛け布団を掛けたり、折り紙の蓮の花を折ったりしたら済むのではない。もし仏陀の知恵で済度ということを言うならば、とても長時間で言わなければならない。簡単で明瞭に言えば、済度とは衆生を六道輪廻の苦海から超抜して助けて、彼岸まで度することである。もし顕教の方法によってとても長い時間が必要である。ある人は「做七」は七日ごとに一回お経を唱えると思っているが、しかしそうではなくて、毎日すべて唱えなければならなくて、四十九日まで、毎日24時間も絶えずに読経しなければならないから、そなた達は遣り遂げることが出来るか。遣り遂げることが出来る者はどうぞ手を挙げてください。この時には、ある女性の信者が手を挙げて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、そなた達はまた本当に自分がやり遂げることができると思っているのか、と開示した。ここで言った24時間も絶えずに読経するのはそなたが自分で唱えなければならないことであるから、そなたが3時間唱えてから、そして他の人がリレーして唱え続けるのではない。手を挙げる人はとても誇らしくて独りよがりであり、他の人に彼女がとても親孝行だと褒められるようにさせる。

この前に仰ったのは最も基本的なことであり、それ以外に、読経する前に、更にお経の方法によって壇城を飾り付けて、新鮮な花や新鮮な果物を供えて、入浴してから、毎日新しい服を着なければならない。線香を供えるのはそなた達が普通な仏具店で数百元だけで買ってまた高いと文句を言ったその線香のではないて、もしも白檀の線香なら、今白檀の線香は1キロで10万元ぐらい売るべきであろう。更に香水で仏を供えなければならなくて、そなた達が一般に買ってくる香水ではなくて、それは生花で煮てできる香水なのである。どうしてこのようするのか。人の体が業力を充満する業報身であるから、読経する方法にて衆生を助けることが容易なことではなくて、だからこれらの条件はそなた達に恭しくなるようにさせるためである。考えてみてください。今日そなたが1位の重要な人物に会う時、そなたはシャツ、ショート・パンツ、サンダルを着るのか。あまりやらないでしょう。少なくとも服装をちょっと整然としていなければならない。道理はこのとおりであり、その故、リンチェンドルジェ・リンポチェはサンダルを買わなくて、自分がサンダルを着て人に会う機会を免れることができるから、これは男子が適用され、女子なら適用されない。上述の様々な条件は、現代人はどれかをやり遂げることができるか。だから、どうしてそなた達は読経という方法が効果がないと言うか。というのは、お経に諭される条件をやり遂げていないからである。古い時の人は3年間も服喪をすることができるが、霊堂の前にいて3年間外出しないで、現代人は3日もやり遂げにくい。第2日になって、あちこち電話をかけて自分がとても煩わしいと言って、誰か探して外に自分を連れて行って紛らすのである。

顕教の経典は仏陀の仰った理論であり、すべてはどのように自分を改正するかを教えているので、ほとんどどのように済度するかと言及していない。しかし、密法はどのように実行する方法である。人が読経してくれる事を頼んで済度することができるのではなくて、ある人は「そうでもないだろう、私達は唱えたら、亡者に助けるはずだろう。」と思っている。あれも病者が以前に仏法を一定の程度まで如実に修行したので、一度も仏を学んで修行することがない人なら、そなたがどのように彼のために唱えても少しも効果がない。

仏経に於いて、始めて済度に関わるのは釈迦牟尼仏の弟子であり、神通第一の目犍連尊者は母を救う事である。目犍連尊者は自分の大神通力で母が餓鬼道にいて苦しみを受けているのを見た。餓鬼道の衆生は非常に苦しんで、全ての食べ物は口の中に食べられると、火になる。喉は渇いたのに、水を一口でも飲めない。両眼は突き出て、首と手足もとても細くて、腹はとても大きい。そなた達はアフリカで飢餓に苦しむ子供は食べ物を食べない様子もそうではないか。また、癌の患者は間もなく往生する前も同じで、癌は最後まで食べられないだろう。医師は癌の患者は腹がとても大きいのは腹水があると思ったが、実はそれは食べられた衆生である。リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法で亡者を済度した後、亡者の腹水は消えた。それはこの衆生は亡者と一緒に済度されたから。だから、輪廻は死んだ後まで待つ必要がない。この世にどんな相が現れるのを見れば、どんな道に行くと分かる。餓鬼道では、状況がいいのはウンチを食べて、尿の臭いがした。もっといい状況であれば、人が吐いた痰或いは排泄した分泌物を食べる。本当にせつなくて苦しんでいる。何故餓鬼道に堕ちるだろう。一つは生前に吝嗇で供養と布施を惜しまない。或いは他人が供養する事を妨げるや他人にこのような多く供養するのは要らないと勧める。供養と布施を惜しまないから、死んだ後、食べられない苦しみを受ける。

目犍連尊者は釈迦牟尼仏に祈って、自分の母を助けて餓鬼道から離れる方法があるかどうかを尋ねた。釈迦牟尼仏は目犍連尊者にこう言った。結夏後、1200位の修行者は閉関修行が終わる。この修行者に齋僧(僧に食事を出す)、供養して福報を彼の母に迴向を出来る。目犍連尊者は教えに従って確実に行ったから、彼の母は天道に転生できる。何故結夏があるだろう。それは当時インドの天候に関わる。その時インドでちょうど夏末であり、現在夏の温度は50度ほど高くて、過去も30度や40度があり、天気はとても蒸し暑いから、外で活動するのは適切ではない。第二は夏では非常に多くの虫が出ているから、これらの修行者は不注意に彼たちを踏んで死なせる事を避けるため。第三は天気は熱いから、衛生条件から見ると家々を巡り托鉢する事も適切ではないから、修行者たちを集まっている。しかし、皆は三点を注意しなければならない。第一、仏の指示に従って確実に行った。第二は菜食で閉関修行が終了した修行者を供養して、肉で供養しない。第三、閉関修行が終わったのは阿羅漢果を証した修行者であり、福報はとても大きいから、彼たちに供養する福報も極めて大きい。だから、現在言われる齋僧大会はもはや当時の条件に満たさない。更に目犍連尊者の母は生前に仏を習わないから、浄土に済度されることではなくて、三善道の天道に行った。

人は全て浄土に済度されたのは限らない。亡者の福報と因縁によるから。当年梁皇寶懺を書いた寶誌公は梁武帝の妃を済度して、天道までしか済度されない。これから見ると、とても複雑な要因がある。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに、往生した眷属をいい所に済度するよう求めたが、肉食したかどうか聞くと、若しあれば、浄土に行けない。どんな所はいい所と言えるだろう。実は善いか悪いと分けない。完全に亡者の福報と因縁によって、行く所を決める。同じでリンチェンドルジェ・リンポチェは修法して、分別心がないが、参列者が1300人余りなのに、全ての人は得た結果が違う。施身法にポワ法があって、法会に参加すれば、六道に無数な衆生を助けられる。若し亡者は生前に仏を習った事があって、因縁を具えれば、浄土にいける。福報があるのは少なくとも人道に済度される。たとえ人道に行っても仏を習う家庭に生まれた。少しいい福報があるのは仏法を聞ける天道に行ける。法会を一回参加すれば、全ての問題を解決できると思わないで。

今日法会に参加する信者の中に一部の者は自分の往生した眷属のために来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはある者はもはや、葬儀社は仏経を唱える人を頼めば、五万元をかかると言ったが、此方に済度法会に参加すれば、いくらかかるかどうか分からないなどと考えているが。世間に灯をともすや済度リストを書くと、全て固定な価格があるかもしれない。供養金が多い功徳主は前の席に座る。しかし、寶吉祥仏法センターは今まで済度の価格がない。済度リストを書く価格や冤親債主を済度する価格もない。そなた達も見たように、壇城前にそなた達に灯を点せず、功徳主も設立せず、往生位牌もない。此方は全て無料である。与えるかどうかそなた達の自由である。多くの供養金を与えれば、前の席に座り、少ないのは後ろに座る事ではない。却って信者だから、供養がなくても一番前の席に座る。それは来るのが客であるから。

供養とは多くの種類がある。供養は金額の多少と言わない。仏経にはある物語りを記載されたが、昔ある国王は金を出して法会を行なって、釈迦牟尼仏が主法された。法会がもはや終わる時、側の従者は釈迦牟尼仏に聞いて、今日の法会に誰の功徳が最も大きい。釈迦牟尼仏は群衆の中に遠くて後ろにいるお婆さんを指して、彼女の功徳は最も大きいとおっしゃった。側の従者はとても可笑しいと思ったが、国王が出資して法会を行なったのに、何故このお婆さんの功徳は最も大きいだろう。釈迦牟尼仏は説かれた。彼女は自分の僅かな金を全て出して、小さい灯をともして仏を供養した。尚更に彼女は全ての功徳をこの国王に迴向した。それは彼女は国王がこの法会を行なって、このように大勢の人は法会を参加できた事を見て、大勢の人は法会を参加してから、心から歓喜を生じた。だから、このお婆さんは歓喜心を起したから、お婆さんは随喜である。随喜功徳なので、今日は彼女の功徳は最も大きい。釈迦牟尼仏が開示された通りに、このお婆さんは点した灯は小さいけど、永遠に消えない。その後もそうの通りであり。そなた達が参加したから、今日の施身法法会がある。

多くの者は供養する時側の者に幾らを供養したらいいかと聞いて、もう1人は「随縁」と答えた。皆はもう仏法名詞を乱用しないで、随縁は勝手ではなく、諸仏菩薩が衆生の縁によって彼らを救度するのであり、そなた達がここで言う勝手ではない。だから供養が大変重要で、そなたは一番目最初考え出した数字で、もうあそこで考えたり計算したりするのではない。もともと100元を供養するつもりだが、側の者が1000元を供養したのを見て、それではもうすこし多く供養しようと思った。或は側の者が50元を供養するのを見ると少し供養したくて、供養してから後悔して、これは大変良くなくて、細かく計算する。また、1つの重く積み重ねられた紙幣を出して、幾らを供養するか計算するのもしないで、そなたの手は入ってどのくらいを取り出すかそれをする。ここでそなた達が幾らを供養箱に入れるか知る者が居ない、彼らもそなたが誰だか知るはずが無い。

仏経に載せてあり、地蔵菩薩はある世に母親が往生した後どの道へ行ったかのを知りたいため、全部の財産を仏に供養してあげて、それに絶えずに仏をお礼拝して、四肢の関節と額が全て血が出たまで、仏はやっと姿を現わして彼に彼の母親が地獄に居るのを教えた。此処にはどの時間をかかったか言わなく、ただ絶えなく仏をお礼拝したと教えた。お礼拝をするのが即ち1つの供養で、福報を蓄積することが出来る。そなた達はこんなに多くの者がリンチェンドルジェ・リンポチェにお礼拝して、リンポチェになるのが大変威風だと思わないで、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養或はお礼拝すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部そなた達に返さなければならない、絶対にそなた達に欠けない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を初めて勉強してから、ある日に法座に昇って、リンポチェになるのがこんなに辛いと考えたことがない。これは全て直貢チェツァン法王、衆生にさせられた。

この世界では天災、人災がしきりに生じて、流行病および意外が絶えずに起きられた。そなた達は自分の災難が少なくなって欲しいならば、もう悪行をして肉を食べるな。今回日本では地震に起きられた津波が全部殺業の重いところに発生した。30年前このところにも津波があって、全てのを巻き込まれて行った。後、日本政府は10メ-トルの高さの防潮堤を建設したが。今回の津波は案外に14メートルを高く達して、やはりこの30年以来人々は零から始めて、もう一度蓄積したのを全て何もかもすっかり破滅した。

我々仏を学ぶ者を本当に大変赤面させるのは、台北あるキリスト教の病院はお醫者さん、看護婦から、患者まですべて菜食して、彼らは慈悲心のためではなく、お体健康のためである。現在欧米では多くの若い者も素食し始めた。仏を学ぶとして者はかえって素食しなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の胆識を感嘆する。リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じて、因果を見て、因果を知っていて、それでそなた達がお肉を食べて悪行をするのを見ると必ずそなた達に教える。寶吉祥仏法センターの弟子は必ず菜食しなければならなくて、人様の半キログラムを食べて是非0.5キログラムを返すべきだ。そなた達は全部お肉を食べて栄養があると言った。考えて見て、食べてしまったあれらの栄養はどこかへ行ったか?即ちそなた達の細胞の中に。なにを食べて何になって、牛肉を多く食べるのは体臭が同じではなく、豚肉を多く食べるのは体臭も同じではない。

ある菜食する者は家族の反対、姑の反対を心配して、菜食するため叱られた。彼らは何故そなたが菜食するのを望まないか?それは一緒にお肉を食べるなら、一緒に地獄に堕ちて、所謂類を以って聚まる。また、菜食するため叱られるのは本当にそなたの業障を消えるのである。菜食しなくて叱られるならば、そなたは交通事故など良くない事を起すかもしれないが、菜食するため叱られてそなたの業障を消えて、其の他良くないことは起きられないかもしれない。それより、叱られるなら黙って受け取って、怒るな。実は菜食するのが大変簡単で、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と同じ在家で、商売をして、眷属もいて、世界各地に行って商売をする時も相変わらず菜食して、いささかも困難がない。そなた達が思ったように、菜食して商売が出来ないのではない。ただ始めに菜食する時、友人は聞いた、多くの悪事をしたため菜食する事になるか?リンチェンドルジェ・リンポチェは、はいしか答えなかった。友人はもう何も言わなかった。自分は自分が悪いを承認して、他人はもう言うことがない。そなた達を入れ替えたら、きっとすぐ解釈して、私が何の悪いことをしたか?このようなら勿論喧嘩する。

施身法の中に、ポワ法を含めていて、ポワ法を得るかどうか、過去世の因縁による。この世、リンチェンドルジェ・リンポチェが欠けるのは彼に助けて、更に或は恭しく心がある。最近、ある女の弟子は母親が往生してからリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法を修めたから済度をもらえた。この弟子はただ平日1百台湾ドルとか、2百台湾ドルとか、特に供養がないけれども、母親が往生する前に、この弟子が素直に従って、道場で大礼拜を続けてしていった。ある者はこの状況をあったら、家に多くの事柄を処理しなければいけないように言うかもしれない、そして、大礼拜をし続けない。しかし、この弟子は素直に従って、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェが念動して、彼女の為にポワ法を修めてあげた。この弟子は「母は浄土に往生する条件がまったく合っていなかった。往生した折、身体が硬くて冷たくて、その上多くの死体の斑があった。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェが母の為にポワ法を修めて完了した後、死体の斑がすべて消えてくなって、身体も柔軟になって、身体が冷たかったが梵穴が暖かくて、その上、容貌が寝るように平和して微笑みを持っていた」と表示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のよう開示させた。人々が死んだ後の死体の斑は我々が食べさせて傷害させた冤親債主で、そなたに連れで一緒に落ちるのである。死体の斑はなぜ消えてなくなるか?此れは一緒に浄土へ済度して行くわけである。ある者が往生する時に、自分の家族或は自分が最も信じる人がそなたの為に現れて、これ等が冤親債主が替わって、そなたに一緒に連れで地獄に落ちて行く。そなた達は彼女が普通1百台湾ドルとか2百台湾ドルとか何か供養があるかと言ってみる。ない。しかし、彼女が素直に従うので恭しいで、恭敬が供養なので、福報が上げて始める。

もう一人の弟子の姑はポワ法を得た事がなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にポワ法を修めてあげる事を承諾したけれども、彼女の生前の前に仏を学んだ事が無くて、菜食する事もないので、身体が一寸よくてまた肉食して、だから、ポワ法を得る因縁を切れて、何日の苦しみを受けてから、今日に彼女に済度することができた。しかし、そなた達は「私が大礼拜したのに、何故ポワ法を得なかった」と思ってはいけない、先が一つの例だけで、或は、ポワ法を得ることが因縁福報により決めた。

最近、ある上海の信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに始めて謁見した時に、20万人民元を供養した。然し、リンチェンドルジェ・リンポチェはただ1千人民元だけを納めて、彼に残りのお金を必要がある人に寄付させる事を要した。その人の娘婿は数千人民元を供養し、リンチェンドルジェ・リンポチェが全て納めた。そなた達であれば、1百万台湾ドルが収めてからまた考えます。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようにする事がありなえない。何故彼の娘婿がただ数千人民元だけで、リンチェンドルジェ・リンポチェは全部で納めたか?差別は恭敬心で、お金の金額と関係がなかった。時には却ってお金がない者は全て納めた。

そなた達は全て誠心であれば霊験だという事を聴いた事がある。霊(備考:靈/中国語)は三つの口があり、嘗て祈祷師が呪文を唱える時に口を使って、現在、そなた達の参加者、修法者、仏菩薩の三人に代表した。仏は大智慧があって、智慧が円満し、何故仏菩薩が霊験する事をいわないのでしょうか?却って誠心の事を諭したのでしょうか?此れはそなた達は誠心であれば、修法者と仏菩薩がそなた達に助けなくても、ただ二つの口があるので役に立たなくて、依然として霊験ではない。そなた達の心が極めて誠意があって、然し徳を具える上師の助けを得ないが、ただそなたと仏菩薩の二つの口があっても、霊験ではなかった。だから、福徳因縁は集ってから真に死者に助けてあげた。リンチェンドルジェ・リンポチェはただそなた達に代わって仏菩薩に求めて行った。そなた達の参列者は一部の人々が「如何にリンチェンドルジェ・リンポチェができるかどうかを知っているか?」と考えている。リンチェンドルジェ・リンポチェは4千5百メートルの高さの雪山で厳しい環境の中で3ヶ月に閉関して修行する事が出来て、もし普通人であれば活きている事できなかった。

そなた達は疑念を抱く事をしてはいけない、役に立つかどうかを思ってはいけない。彼が何をしている事を知っていない。そなた達は勿論知っていないで、知っているならば、そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェになった。密法はまた金剛乗と呼ばれて、此れは行者が既に発心して、発心する事とは幾らを寄付する事ではなくて、却って菩提心を発すのである。衆生への承諾で、仏菩薩への承諾で、衆生を済度する事が永遠に退転する事があり得なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日朝6時に起きてから今までには止まった事が無くて、飛行機を下りて台湾に到着してから直に会社に入って、数時間の中に絶えずに一杯な会社の事を忙しくて処理し、それから法会を行う事を急いで来た。そなた達であればしてみて疲れるかどうか、恐らく特に頷いて居眠りをするだろう!後ほど修法する時に、そなた達は修法者がどの位の体力と能量を消耗する事を見える。この全ては衆生を助けるわけである。その上、そなた達は退社してから法会に急いで参加する事も敬虔な心も備えている。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの世がとても大変に修めて出て、多くの経験してした事が言えないなら、そなた達が全然知らなかった。しかし、多くて言うなら、聞く者にはっきり聞かない事を恐れるので、リンチェンドルジェ・リンポチェは一切の力を尽くしてしている。そなた達の話で言えば、命が要らないでして行く。命が要るなら、この法が修めなかった。一切は衆生に利益する事である。施身法は自分の為に修めて、その上、衆生の為に修める事を分けて、この法を修める時に、修法者は自分の身に一切な保護させる物、護輪を全て取った。その上、修法する時に結界してこの地方を保護して邪魔を受けさせない、ただ、施身法を修める時に、結界しないで、縁がある一切衆生が近づいて仏法の助けを受けさせられる。そなた達は心を安じて、そうすると、六道の衆生が全て仏法の助けを得る。

2011年4月23日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時から夜10時15分まで、142名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年4月24日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝なる共修法会を主催して、仏を学ぶ重点及び顕経と密法の修行過程での相違を開示された。

法会が始まる前に、ある女子弟子は先に前に出て公開に発露懺悔した。まず彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に壇城の前で発露懺悔するこの機会を賜ったことに感謝して、彼女はすでに4年間皈依して、今やっと壇城の前で懺悔したことを凄く恥ずかしく思う。

彼女は自分が尊大、利己的、傲慢で、しかも我執、貪る考えと欲望がとても重い人だと思う。両親に親孝行をしなくて、口答えをして、根気良くなくて、過去の舅と姑にも親孝行をしなくて、そして、妻と母としてすべきな責任をやり遂げていないくて、身の回りの人を眼中に置かないで、恩に感じる心と慈悲心がなくて、相手に煩悩を起こせて自分が感じない。そして、会社の商品を家に持ち帰って使って、道場のボランティアを担当する時に事をしっかりと行っていなくて、兄弟子との感情をも害して、更に無数の衆生を傷つけたことがあって、よく鶏、あひるや魚の肉を食べて、金魚をすくい取ることも好きで、金魚が死んでしまった時にも哀れむ心を起こしていなくて、ゴキブリを打ったことがあり、クモをつまんで殺して、毒を使用してネズミを毒殺したことがあり、更に一つの巣の全てのアリが生きているまま水で殺して、彼女は今これらの行為がすべて自分の間違いだと知っている。

彼女は、この地球に住んでいて、もしも仏法がなければ人生がなくて、もしも尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに出会うことができなかったら、彼女はどのように仏法の浩瀚広大さと偉大さを知っているのか、と表している。もしも尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの貴重な仏法の開示を聞くことができなければ、彼女はどうしても修行するのが徹底的に、容赦なく自分の行為を改正しなければならないことを知っているのか。どのように自分の心がなんと悪であり、なんと悪いことをはっきり見ることができるか。

2007年に彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、実は貪ることを思う心を持っていて求めにきたので、彼女の長年の病苦について助けを求めたいが助けてくれないのである。しかし慈悲で大威徳力のリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を加持するだけではなくて、そして珍しく貴重な甘露丸を賜って、同時に彼女の眼球乾燥症、筋肉のこぶと皮膚炎を治療して治った。特にトップクラスの寶円膏は彼女の皮膚が乾燥して痒くならないようにさせた。彼女はよく考えてみて、自分がどんな徳、能があるか、大成就の修行者に彼女を助けてくれるから。

皈依した後に、彼女は教えに従って遂行していなく、上師の話を聞き取れなく、戒を破って、仏法を生活の中に用いなく、やはり我が道を行き、自分の乱れている心をしっかり見ていなく、自分の貪嗔痴慢疑を放縦した。しかし絶えずに見られたのは尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが文句無しに繰り返し衆生を教導し、面倒を嫌がらないように開示し、ひっきりなしに自分で修行する福報、体力とエネルギーで衆生を加持して、絶えずに衆生に法を修めて助けて、命知らずに無数の衆生を助けて、いつも弟子を気にして、弟子に対して喜んだり笑ったり怒ったり叱ったりすることはすべて、弟子がちょっと油断して間違いの事を犯して地獄に堕ちるのを見るに忍びないから。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの行ったのはすべて、教派と仏法を護持し、一切衆生に利益を齎し、すべての衆生が苦を離れることができるよう期待するためである。それで、彼女は諸仏菩薩と護法に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの健康を守ってあまりに働きすぎて疲労にならないように祈願した。衆生はリンチェンドルジェ・リンポチェの教えがとても必要である。彼女も今の病気の苦しみと間違っている事が彼女に傷つけられ衆生の受けた苦しみを体得することができる事に感謝して、この因縁で彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依させた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に傷つけられた衆生を済度し、できるだけ早く彼らに苦を離れせるように祈った。彼女も今後きっと教えに従って遂行をすることに誓いを立てて、リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞き取れ、因縁と因果応報を深く信じて、この1世にきっと生死に解脱して、もう輪廻しなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェにしたがって仏をよく学ばなければならなくて、上師の恩と仏陀の恩に背かないと誓った。

続いて、第二番目の女弟子は発露懺悔した。彼女は尊き金剛上師に感謝して、自分に発露懺悔する機会を与えた。彼女は罰を受けて、道場に入れず、供養も出来ないのは既に二年以上であった。しかし、業障が深くて重い、貢高我慢、独り善がりなので、偶には自分の小さい過失を気付いたけど、心の底に自分が本当に問題を見つからないのが分かった。今年二月にリンチェンドルジェ・リンポチェは主法する殊勝な観音菩薩灌頂法会でリンチェンドルジェ・リンポチェは道場の中の信者及び弟子を加持された後、わざわざ道場の扉を出て、入場禁止された弟子達を加持した。彼女は当時とても感動した。更に自分が独り善がりでリンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲なので、自分をも加持したと思った。最近やっとリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲心を深く感じた。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは自分に傷付けられた衆生を加持した。また、自分の間違い所を知らせてから、改める。若し尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲加持がないと、今日までまだ自分の間違い所が分からない。間違いを認める勇気もなくて、尚更に自分の余命を利用して、過去の間違いを向き合うや債務を返済する機会がない。

幼いから両親の寵愛を受けたから、彼女は自分が両親より偉いと思って、常に両親に心配されて、口答えが好きだった。両親が好きではない彼氏も意地っ張りに付き合った。母は彼女の健康のために、常に栄養食品を料理して、彼女に食べさせたのに、彼女は面倒臭いと思った。社会に出て仕事を探した時、母は彼女が騙されるのを心配したから、彼女と一緒に会社に見に行った。しかし、彼女は母は針小棒大にするのを思った。両親が報いを求めずに奉献した事に対して、彼女はいつも此れが当然だと思って、感謝の心も少しも持っていない。両親に対して本当に不孝であった。

社会に出て仕事をした時、上司と同僚は会社のサンプルを取ってこっそりに売って、昼食の食事代として使った。自分が悪いと分かったのに、反対もせず尚更に悪人とぐるになって悪事を働いた。更に出勤の時間に仮に顧客を訪問する名義を使って、サボって遊びに言った。また会社のOA機器を使って自分の副業をしていた。妄語及び偸盗の罪を犯した。もう少し利息を儲けるため、彼女は金を証券会社に借りて、高利貸しさせた。社会安全を危害するだけではなく、多くの家庭に一家が分散し肉親を失い事をさせた。その以外、自分の食欲を満足するため、衆生を傷害した上、更に他人を指示して、自分に料理させた。十不善法は全て犯したが、引き続きに犯している、本当にいつか返済済みできるかどうか分からない。

他にはリンチェンドルジェ・リンポチェの会社に勤めた時も多くの間違いを犯した。
1.自分が懈怠なので、元々各部署に配布情報を全て同じメールに入れて、皆に渡した。各部署に自分の部署が担当以外事を見せた。
2.仕事に自分が予想しない支援を得ないから、会社の会社員に自分の苦情を話して、その会社員に会社に対して信心を動揺させて、両舌の口業を犯した。
3.仕事で問題がある時、先に関連部署の協力を求めずに、公文書を書いて社長に報告した。組織を無視して報告した。更に報告の内容もはっきりに書かないから、無実な同僚に罰を受けさせた。

彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの指摘を感謝した。自分に今後このような状況に遇った時、もう少し考えて、衝動に行えない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を多く助けた。彼女は皈依した前に自分の子供の祖先を済度した。彼女は皈依した後、体調はよくなって、家庭の衝突も少なくなって、全ては順調だった。また、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の父、お爺と二人のお婆を済度された。尚更に彼女を助けて人生無常に向き合って、放下する事を教えた。彼女の父は肝癌に罹って亡くなった。発病から死亡まで唯七、八ヶ月しか経たない。生離死別(非常に悲しい生き別れと死に別れ)に対して、彼女はいつも放下できないから、父の葬式に悲しくて涙が一滴でも流れない。この執着心は彼女に苦しく過ごせていて、十八年に経って、上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したまで始めて放下を習った。若し上師の慈悲に加持及び教えが無いと、彼女はいつも父を執着して、父に済度させない上、二人に来世引き続きに絆がある。本当に尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝してこの問題を解決した。

リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してから六年以上、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を極めて多く助けた。しかし、彼女の行為は私利私欲で、拝んだから守られると思った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示されたが、「ある者は始めて仏を習う第一年目はとても敬虔であり、第二年は仏を側に置いた。第三年は自分が最も偉くて、仏を捨ててもいいと思った。」昔に聞いた時、いつも自分がそのような人ではないと思った。しかし、今よく考えると、自分の行為は確かにそうだった。教えに従って奉じなくて、自分の行為も改めない。尚更に私利私欲で貢高我慢で独り善がりして、自分の利益に関わる事が有れば、避けた。また、瞋恚はとても重くて、自分の思いに従わないと、他人を責めて、今まで自分を反省せず、一体問題は何処があるのをちっとも考えない。その他、供養するの考え方も正しくなく、供養がすれば全てのことは解決出来るはずだと思った。事柄が割合に順調になれば、自分が修め得たと思って、まったく自分がリンチェンドルジェ・リンポチェの福報の加護のしたに、はじめてこんな良い結果を得るのを忘れてしまった。一日中に十不善業が絶えずにして、仏子三十七頌を修めることなど何でさらに言わない。彼女は上師の時間、精神と体力を費やした。上師リンチェンドルジェ・リンポチェ、恩に着た、彼女がこんなに多くの間違いを犯してもまだ離れず捨てずにずっと教える。彼女は、今日の懺悔は心の奥底の垢すり、悪習を取り消すように祈って、今後謹んで自分の身口意を守って、教えに従って実行して、仏法を一生懸命に勉強して生死より離脱して、上師を何時までも離れなく、それに、上師は寿命が長くて、法輪をいつも回って、仏法をずっと世で生きているのを祈請しておる。

続いてある男弟子は上がって自分が助けを得た物語を分ち合った:先ず彼は大変恩に来て、このチャンスがあって上師の功徳を賞賛する。彼は2006年古い職務を離れて、三、四ヶ月を休んだ後、やはり適当な仕事を見付けなかった。その後、香港で1つの仕事を見つけた。しかし台湾にいて続いて仏を勉強することが出来ないのをとても心配で、切羽詰って心の中に上師に祈請した、彼は台湾で仕事を見つけなくてどうするべきだ?何日間を過ぎて彼は1つの夢をした、夢の中に彼は大変大きい原野に横になって、側にある目上は彼にすこしの話をした。しかし目を醒めると彼は目上が彼に離れなく、さもないと無駄になると言ったことしか覚えなくて、あの頃彼はまだ情況を良く分からなかった。その後、彼は台湾でも仕事を見つけた。実は台湾の会社が提供した給料福祉は割合に良かったが、あの時彼はこれがリンチェンドルジェ・リンポチェの美妙な手配をまったく思わなかった。考えた後、彼はやはり香港の仕事を選んで、この期間で、二週間毎に台北に戻って法会に参加する事になった。

暫くして、香港会社には人事の問題が起きて、彼も巻き込まれた。彼はちょうど一冊の本《如何成為仏陀的学生》(どのように仏陀の学生になる)を読んだ。本の中に引き上げた、衆生は火が焼いている部屋の中に遊んでいる子供のように、玩具に執着して、上師と諸仏菩薩は目上に化身して、もっと良い玩具で衆生を火宅を出奔するように誘引した。あの時、彼はやっとびっくりした、上師は夢の中にの目上で、焼き部屋はまるで輪廻の過患である。彼は大変感動して、涙がひどく泣いた。彼は仏法が世界で一番珍貴のを体得して、台湾に戻って仕事を探すことを決めて、それに順調に1つの台湾の仕事を見つけた。

台灣に戻って来た後、彼は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依することを祈請したが、リンチェンドルジェ・リンポチェは承知しなかった、あの時、彼は自分の心の中に我慢があるのを知らなかった。暫く、会社が合併されたため、彼が減員された。何ヶ月を過ぎて、彼の生活は不安定で、仕事をあちこち転々して、彼はまるで債を返すと感じた、この期間で、彼はまだ自分の人脈で仕事を見つけた。ある日、求人企業は思わず彼の申込書をあるアメリカ会社に送って、あの会社が彼を采用することを決めた。この会社が与えた年俸は大変引き付けて、彼は一時にどう選択するか分からなくて、その後、前香港の仕事の経験を思い出して、彼は今回の配置は彼が高給のため仏を学ぶチャンスを放棄するかのテストかもと思った。彼は良く考えて、この一生は仏を勉強するチャンスを放棄すれば、福報を使い尽くしたら、地獄に堕ちるのを待つだけ、それで彼はアメリカ会社を断った。その後、彼がまた皈依を求める時、リンチェンドルジェ・リンポチェはやっと承知した。

彼の了解により、地蔵王菩薩の願力は地獄を空かないと成仏しないのである。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェは一層に偉くて、リンチェンドルジェ・リンポチェの願力は衆生は成仏しないと成仏しないから。彼は自分が大悪人と感じて、前彼はこの一生が富貴功名を得なければ、寧ろ死ぬと思った、現在この思いが間違って、大変まちがったとはじめ分かった。以前仕事を確保するため、彼は多くの口業を作った、彼は懺悔する外に誓い、この一生は必ず仏を勉強するチャンスを把握して細微の悪を改めて、生死より離脱する。同時、彼はこの一生或いは未来生死より離脱することが出来るように望んで、それに、生々世よリンチェンドルジェ・リンポチェに従って、生死より離脱することが出来なければ、累世に上師と諸仏菩薩の恩を覚えるように希望しておる。

そして、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇って、皆にいくつかの仏を学ぶ重点を引き続き開示された。

仏陀は初めて口伝という方式にて仏法を伝授するので、噶舉は口伝という意味である。呪文を唱えて読経するのは修行ではなくて、仏法を学ぶことを通して、仏法を生活の中に実行して、このようにしてようやく仏陀の教導の意義を体得することができる。お経が仏陀が滅度した後に、仏陀の弟子達は集めて一緒に仏陀の教えた内容を記載したのである。当時が仏陀が在世して法を講じる時間ととても長く経ったから、弟子はどのようにはっきり覚えているか。だから阿羅漢まで修め得たこれらの弟子達は神通力を使って、仏陀の諭した法を覚えた。最初のお経はインドの1番古い文字である梵語(サンスクリット)で書かれたので、一つの点やしるしを欠けると、意味はかなり異なる。チベット語は梵語とよく似ているように、チベット語の文字はもともとは梵語を参考してから発展してくるのもあり、字母で合わせてできるので、1つの点、画を増やしたら、意味は全然異なって、だから同一の字母が多くの意味もあるかもしれない。

インドの各地区はすべて異なる言語があり、リンチェンドルジェ・リンポチェは北インドのシーク教区に弘法しに行ったことがあり、現地の各新聞は全て多くの紙面で報道され、ただ言語は4種類もあって、英文、インド語、シーク教区の現地言語、及びイスラム教の使われる言語などで報道している。たとえ今日でも歴史学者は依然として、仏陀が仏法を広める時に使った言語が何だか、よく分からなくて、推論によって、仏陀は生きている時に、インド、ブータン、ネパールなど地域に通って弘法しているので、そのため現地にいる人民の使われる言語を使うべきで、まるでリンチェンドルジェ・リンポチェの母語は広東語であるが、しかし台湾で弘法する時に国語(北京語)を使う。しかし、広東語と国語(北京語)を転換する間、どうしても相違があり、お経を訳している時、同じくこのような状況が現れる。

お経はインドから中国に伝われて、漢朝、隋朝から唐朝時代までの間に、一定の果位まで証得できる修行者が中国語に訳して、唐朝時代まで仏教は最も真っ盛りであり、多くの高僧大徳が現れた。その後、お経の訳本は固定してしまった。そなた達が異なる時代の訳されたお経を読む時、各種の文体を見られて、読んだら異なる感じをさせる。というのは、これは昔の大徳がお経を訳す時に、その時の民間の言語を使うから、すべては同じ中国語であるが、しかし時代、文化、背景などの原因の影響を受けて、いろいろな慣用の用語と語法が出来た。そなた達は政府の公文書と民間の文字と表現方式が違う所があることを知っていて、お経を翻訳する文字は、その時普通な民衆がよく受けることができる用法を使ったのである。

例を挙げて、「花」は古代にも「華」を書くこともあり、もしこれを知っていない人にとって、恐らくお経の内容を誤解するかもしれない。それ以外、漢朝時代の翻訳されたお経の中で、仏陀を「大羅金仙」と称し、これは民衆が仏法に対してあまり熟知しなくて、その時道教が流行っていて、道教の中で最高な果位は大羅金仙であるから、その故、この名詞で比喩を行ってしまって、さもなくば仏陀はなぜただ「仙人」の果位だけであるか。後代はもしかすると民衆がすでに仏陀の果位がもっと高いことを知っているから、お経の中で直接「仏陀」の呼び方を使った。

皆も発見することができるが、たとえすべての家庭の中でも、いくつかの特有な言語の使用方法もあって、その他の家庭と完全に異なるので、例えば両親が子供を叱る場合、この家はこの語彙を使うが、他の家は別の語彙を使う。台湾では、国語と閩南語(びんなんご/中国福建省南部で話される言葉)など2種類の言語を言えて、事実上、閩南語が台湾に伝われた後に、地区の特有な台湾語にも進展変化して、たくさんの用法は福建当地の言う閩南語と違い、どちらのほうが正しいか。どちらの法が正しくないか。言語の使用者は全てそれぞれ自分の意見をとって、いくつかの自分の用法が受けられると思っているが、しかし実はこれが決して間違いがない。

その故、皆は異なる時代乃至現代人まで訳されたお経の訳文を見ると、その文字の風格の中から異なる体得をも得ることができる。しかし、言語の表現はたくさん種類があっても、仏法はただ1種である。言語は人類の生活経験を累積して作られるものであるが、しかし仏法は生活経験と全然に異なり、どのように言語で述べるのに関わらず、やはり仏法の本当な意味を表現することができなくて、そのため、ただ自分で家で拝懺をしたり、呪文を唱えたり或いは読経したりすることだけに拠ったら、余り効果がないから、きっと具徳、実修の経験を備える上師に頼って行われなくてはいけない。

仏教の発展は唐朝になりきわめて盛んで、武則天が天下の皇帝であるから、きっと多くの人が彼女に仏法を宣説したことがある。武則天はなぜ「願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)」を言うのか。何故かと言うと、彼女はたくさんのお経の訳本を見た後に、仏法は文字が述べられるのより更に深くて広いことを知っていて、ようやくこの願を発したのである。

もしずっとお経の文字の内容だけを研究すれば、どのように探求しても、仏法の意味をよく了解することができない。仏法は聞思修を言って、聞は単に聞くことを指すのではなく、「聴く」という語句は唐朝時代にもう現れて、しかしどうして「聞く」を使うか、「聴く」を使わないか。お経を訳すこれらの古代の大徳は少なくとも既に見性してから、はじめてお経の中の意味が分かることができるから。ここでは聞くという字を使って、もし聴く場合であれば、ただ耳の効果であり、聞くと同じように、一心に受け取るのでない。一部の人がどうして他の人の話を聞き間違うのか、1つは一心不乱でないから、左耳に入って右耳から出て、電車よりもっと速い。もう一つの原因は業障が重くて、だから彼に役に立つ話を聴いて、耳の中でその他の意味になり、別のひと言になる。

六祖慧能は《金剛経》を聴聞した時、見性することができるが、依然としてすぐ悟りを開くことができなくて、五祖の教導を受けた後、ようやく明心することができて、しかしやはり衆生に利益する福報が十分になくて、だから猟師のために食を煮る生活を十数年間経て、その期間絶えず修行した後に、ようやく悟りを開くことができる。だから、上師が連れて修行することがなければ、成就があり得ない。そなた達の根器は六祖と比較することができなくて、またどうして仏法を聴くのでさえすれば、成就まで修め得ることができると思うのか。誇らしくならないでください。もしある者はまた上師に叱られることを恐れると言うならば、このような人は心の最も悪な人である。上師の仕事は人を叱るのであり、どの先生が学生を叱らないか。大学の教授さえ人を叱って、ただ使う方法は異なる。直貢チェツァン法王と教派の中の大修行者も人を叱るので、もし仏法、修行の上に間違いの地方があったら、たとえリンポチェでも依然として叱る。上師はそなた達の行為が悪道に堕ちることを見たら、もしそなたに教えないと、上師が間違って、もし彼はそなたに教えたら、そなたは話を聞きとってくれないと、受けられないと、それは上師と関係ない。

仏陀が在世する時に、口伝する方法にて教導し、最初の教導の対象は最初に仏陀に従って苦修をする5人の従者であり、仏陀と従者達は世の中の苦難を見て、解脱を求めるために苦修する方法を使った。。そなた達が一部の画が仏陀の体がやせていてただ肋骨しか残らないと書かれるのを見たことがあり、それは苦修する時の様子である。しかし仏陀は長年の苦修を通っても、やはり生死の苦しみを離れることが出来る方法を発見できなくて、そこで山林を離れた。最も早く1人の羊飼いの女に出会って、羊飼いの女が供えた羊の乳を飲んで、体力を回復して、その後、インドボダイジュの下で仏果を証悟したので、魔宮を驚いて、魔王が魔女を派遣して仏陀に邪魔にしに来た。だから、多くの人はよく仏教徒が乳を飲むかどうかを聞く。もちろん飲める。何故かと言うと、仏陀が飲んだからである。仏陀が往日の五人の従者の目の前に来る時に、従者達は仏陀の容貌が豊かになることを見て、仏陀がすでに苦修の道を離れたことを知っていて、先ずはいくつか軽蔑する心を起こした。だから、仏陀は先に従者達に《四聖諦法》:苦、集、道、滅など四諦を開示し始めて、彼らに苦の出所と苦を離れる方法を釈明して、だからこれらの従者達は仏陀の教えた内容を彼らが受けられると思って、残る。そこで、仏陀はそして《十二因縁法》を開示して、彼らに「煩悩はどうして生むのか」などの十二種類の因縁を釈明して、衆生に一つずつの縁を観修してそれを割ることを教えた。その時、インドが流行っている宗教がとても多くて、たくさんの宗教はすべて輪廻を受けることができて、生活の困苦のため、皆は苦を離れる考え方を持っている。しかしどうしてこんなに多くの苦を受けなければならないか。どのように苦を離れることができるか。宗教によって修行する方法も異なる。その故、大勢の苦修の行者が現れた。

昔の時には、インド人がお腹いっぱいになった後に、あまりやる事がなくて、たくさんの時間があって心を静めて一つずつ観修することができるが、しかし現代人はやり遂げることができないのである。仏陀は像法時代と末法時代の衆生の業がとても重いだと知っていて、そんなに多くの仏法を修習する時間がなくて、そのため、それから菩薩道、大乗仏法を開示された。仏陀のその時期の教導も原始仏教と称される。

《地蔵経》に曰く:凡夫は心を起こして思いを動かせば、全てが業であり、罪である。業は1種の力であり、私達に引き続き輪廻させる。まだ空性まで修め得る前に行った善、悪は全て業が出来る。しかし、もしそなたが今日あらゆる起心動念を衆生に利益するのに用いたら、悪を転じて善をなすことができる。

先週金曜日の施身法には、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェがある女子弟子に言及したことを見て、彼女の母が数日前に往生したが、しかし彼女は依然としてリンチェンドルジェ・リンポチェがこの前に開示されたように道場で大礼拝をしていたから。この弟子は大人しくて上師の話を聞き取って、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が母が往生した時に依然として道場に行って仏像に礼拝することを知っているから、彼女の誠意に感動されて、そのため念を起こして彼女の母にポワ法を修めた。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェは日本にいて、そして車の中にいて、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めるのを自ら見たように、法を修める時に行者が1種の特殊な音を出すことを知っていて、音声にて亡者の中脈を震動してから、神識を体から押して出て浄土まで往生することができる。施身法を修める時にもこれと似ているような音を出す。もしそなた達はこのような音を耳にすると恐れたら、業が比較的に重いことを表している。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェは当時車の中でこのように修法したら、突然そんなに大きな音を出して運転手に驚かせて、恐らく交通事故が発生するかもしれない。さらに、あの運転手はリンチェンドルジェ・リンポチェが修行者であるということを知っていないから、その日リンチェンドルジェ・リンポチェが車の中で座る時にも法衣を着ていなくて、突然に口を開いて法を修めたら、きっと運転手が慌ててどうしたらいいか分からないようにさせる。そのため、リンチェンドルジェ・リンポチェは完全に観想する方式にてポワ法を修めて、音を出していないで、法を修行し終わるまで、同車の前席の2人ども、何か起こったか全然知っていないのである。

殊勝なポワ法を得られる条件は3種類あり、1つはこの亡者は生前に仏を学んで修行して十分な福報因縁を累積して得るのであり、2つはこの亡者がリンチェンドルジェ・リンポチェと宿世の因縁があるのであり、3つは大人しく諭すことを聞き取って素直にやるのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て諭したことがあるが、法座の上に居る時、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェがリンポチェだと思っているが、法座を降りると馬鹿だと思っている。法衣を着る時に、リンポチェであり、法衣を着ないとそうではない。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、言うこと、行うこと、思うことは全て衆生に利益するためである。1つの目つきは向こうへ見て行っても、それも衆生を助けるためである。そなた達の人類の頭で上師の行為を推測しないでください。もし、リンチェンドルジェ・リンポチェはあなた達のようにこんなに多くの分別心があれば、どのようにあの亡者を助けるのか。

例えばこの女弟子の母は業がとても重いだけど、女弟子は教えに従うから、上師を感動して、自分を助けた。感動とは仏法の名詞であるが、そなた達が言われた通りではない。例えば、男性はわざわざ映画館に女性に跪いてプロポーズし、ロマンチックの雰囲気を作って彼女に感動させた。若しこの方式はこの女性が好きであれば、彼女は感動を受けると、約束するかもしれない。しかし、若しこの女性は好きではないと、この行為は彼女に感動させない。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔有る知合いはバラの花を999本ある女性に送った。結局このバラの花は捨てられた。此れはこの女性の好きな方式ではないから。

如何なる上師及び諸仏菩薩に感動させるだろう。此れはそなたの供養の金額と関わらない。先程言った教えに従った女弟子は多くの供養をしなかった。重要なのはそなたの心である。そなたの心は確実に誠で恭しいなら、上師と諸仏菩薩は相応できる。所謂「感応道交」とはそうである。そなたは誠意の心で自分の考えを持たず、教えに従って行い、教えに従って奉じれば、諸仏菩薩と共に成仏の道に歩ける。仏経に説かれたが、仏像に恭しく頂礼すれば、既に仏道を成した。そなたは既に成仏できた事ではなくて、そなたはもう成仏の道の方向に進んでいる事である。現代人は仏法名詞を誤用した。例えば、「全ては無言の中に」も仏法名詞である。それは二人の恋人は情愛のこもったまなざしを向け、全ては無言の中にいることではなく、仏陀のように、花をひねて微笑んだところ、大迦葉尊者は開悟した。つまり、黙って何も言わない状況で発生した。

だから、若し上師の教えがないと、仏法を誤用しやすくて、間違い方向に行った。例えば、汽車の軌道は元々平行であるが、若しそなたは同じの軌道に行けば、同じの方向に進める。しかし、交差点で分かれた時、若し方向は少し偏差があって、違うと、その後歩く方向は徐々に遠くなる。つまり、「失之毫釐 謬以千里」(これを毫釐に失すれば 謬るに千里を以てす)。例えば、引率する人は前に歩いているが、そなたは後ろに一歩を歩いたり、三歩を後退したりするやそなたの方向は側に少し歪むと、長く経つと目的地に到着できない。そなたを率いて、この道を導いた人はそなたの上師である。何故教えに従う事はとても重要だろう。若し上師はそなたにある方向へ導いて、そなたは却って自分の意見を持つと、間違い道に歩いた。一つ念の差があれば、簡単に三悪道に堕ちる。

リンチェンドルジェ・リンポチェはある長年に皈依した男弟子が最近往生した。細菌に感染されて、高熱を出した数日間後昏迷に陥った。前後数日間しかかからないのに往生した。医師さえ原因を見つかなかった。理論的には彼は既に皈依して、菜食もして、尚更に引き続きに法会に参加しているから、失医状況が現れないべきだ。失医とは何だろう。失医とは医師は正確に患者の病を診断できない。或いは処方した薬は効果がない。ある人は福報があれば、医師は勝手に薬を処方してもそなたに役に立つ。患者の病は治るかどうか、患者の福報、医師の福報と関係がある。

この弟子は数年前リンチェンドルジェ・リンポチェに従って、ネパールに行った。当時ある出家の比丘尼はウエーターを呼びたがったけど、英語が出来ないから、この弟子は下手な英語で彼女達を通訳して、ウエーターと会話した。その後、出家女衆と一緒に食事をした。比丘尼は男衆と同じな机に食事するのは破戒である。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは見たから、すぐ彼を叱った。この行為は適切ではないから。この弟子は表面に何も言わないけど、帰った後こっそりに文句した。自分はいい事をしたのに、何故人の前に叱られて、メンズも与えなかった。

この考えがあれば、間違い。ある修行して成就を得た上師は他心通が有る。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子が文句して、上師に怒る事をはっきりに分かった。つまり、この原因で上師の加持力を断ったから、ポワ法を得られない。最後昏迷の果報は畜生道に行った。昏迷は所謂痴であり、仏法では痴は仏法を受けず、上師の教えを受けない。しかし、彼の妻は耳の側に上師は既に彼を加持した時、彼は懺悔心を起して、涙が流れた。懺悔があるから、上師の施身法の済度を得られて、三悪道に堕ちない。

上師として、慈悲心がないと、そなたに頼れる価値がない。上師として、菩提心がないと、そなたに頼れる価値もない。頼るとは依頼ではなくて、そなたは何も行わず、唯リンチェンドルジェ・リンポチェに頼って、ポワ法を修める事ではない。若しそなたは既に真言を唱えないなら、頼れる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェがおっしゃった事に対して、完全に従って、信じなければならない。「頼る」とはそなたが上師の教えに従って、確実に行うことである。寶吉祥という道場はとても特別であり、多くの実例が起こって、全ては仏法の現れる事を見えた。この往生の男弟子は念の転化は彼に地獄に堕ちれるが、彼にいいところに行かせても出来る。

ある弟子の友達は年齢が約四十歳であり、嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェが主法した大法会を二回や三回参加した事がある。しかし、忠告を聞かず、引き続きに肉を食べている。その後、若いのに脳卒中した。ある人は彼を連れて、霊能力があると言われた「兄弟子」に会って、結局その兄弟子は見ると、この人は後ろにチベット仏教の菩薩及びチベット仏教の宝帽を被った上師がいる。この人は聞くと、自分が嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェの大法会を参加したのを思い出したから、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回の大法会の中に老婆心で繰り返して皆に菜食する事を勧めていた。しかし、多くの人は相変わらず因果を信じない。口腹の欲を満足するため、引き続きに肉食してる。リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に老婆心で繰り返して皆に菜食する事を勧めても、皆はこの事を重視しなかった。だから、脳卒中の果報を変えられない。しかし、彼は大法会に参加したから、わずかな加持を得られて、命を残させて、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できる。そうしないと、彼はもはや死んだ。

ある物語りがあるが、チベット人は通常道路の側に泥で文武百尊の塔を建てて、供養した。文武百尊とは密法を修める時、必ず修める本尊である。寂静尊及び忿怒尊がある。ある時雨が降って、一人は歩いて、文武百尊の塔を通した。文武百尊の塔は雨に濡れられて壊れるかもしれないを見て、心の中にこうすれば恭しくないと思って、彼方此方を見て雨に覆われる物を探していた。最後唯草鞋を一つしか見えない。だから、恭しく草鞋を塔の上に置いて、雨に濡れられるのを免じる。その後、もう一人が来て、ある者は草鞋を塔に放置した事を見て、仏菩薩の頭に靴を放置することが出来ないと思って、それは敬わないと思ったから、靴を取れた。この二人は誰が正しいでしょうか。誰が間違いでしょうか。若し二人に遇えば、恐らく喧嘩するかもしれない。一番目の人は二番目の人のやり方が間違いと思うかもしれない。二番目の人も一番目の人のやり方が間違いだと思う。

仏菩薩は彼たちの外在から現れる行為を見ないが、彼たちの心を見て、出発点は何だろう。一番目の人は通った時、恭敬なので、雨が降って壇城を破壊する事を恐れるため、草鞋を壇城の上に置いた。二番目の人は一番目の人が草鞋を放置する原因を分からなくて、唯恭敬を持って、草鞋を壇城の上に放置しないべきだと思った。この二人は全て間違いない。それは事件が発生した当時、彼たちの心は全て恭敬で清浄であるから、二人とも正しくて、功徳もある。この物語は我々を教えて、心は最も重要である。多くの人は皈依しないほうが問題が少ない。皈依した後、問題が沢山に出ている。家に仏机に物は悪く放置されるや間違い放置する事など心配して、わずかな事さえリンチェンドルジェ・リンポチェに迷惑を掛けた。何故いつも尋ねているだろう。それは間違いを犯して、罰を与える事を恐がるから。実は若しそなたの心は恭敬で清浄な心であれば、たとえ仏像の位置は少し歪んでも仏菩薩もそなたを許した。しかし此れは壇城は勝手に放置する事と言えないが、恭敬で清浄な心で行わなければならない。

多くの出家者は昼過ぎると、何でも食べられないというやり方がある。昼過ぎると、何でも食べられない規則は当年釈迦牟尼仏が定めた戒律である。当時文化時代の背景がある。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェはいつも皆を開示されたように、戒は懲罰や奨励の道具ではない。《普門品》の中にも「悲しみの姿たる戒めは雷の振るうが如く」も説かれた。この規則があるのは天気がとても熱くて、衛生条件の関係があるから。更に当時インド人は他には行う事がなくて、食事が終わると寝る。だから、あの僧侶は午後に出掛けず、皆は部屋に打坐して、余り体力をかからなくて、食事もしない。それはそなたが必ず従わなければならないとは言えない。直貢チェツァン法王も昼過ぎると、何でも食べられない事をしない。リンチェンドルジェ・リンポチェもしない。昼過ぎると、何でも食べられない事は現代の時空背景は適切ではない。たとえそなたは出家しても、頭に相変わらず多くの事を考えていて、能を使うと体力も消耗した。食事をしないと体力がない。体調が悪いのは考え過ぎだから。厳しく戒律から見ると、女出家衆は山門さえ出かけないが、現在常に夜十時過ぎでも出家衆はレストランに食事する事を見えた。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェはガムポパ大師の開示、顕教は密法と如何なる違う所に関して、開示された。若し詳しく《大蔵経》の中に全ての名詞の内包を解釈すれば、数年の時間をかかっても話し尽きない。だから、ガムポパ大師は簡単に要約して、その中の重要な内容を皆に説かれた。「大乗波羅密多教法の修行者は意識臆測は親証ではないという共相の道理を修行の相手とする。しかし、大乗秘密真言教法の修行者は実際の理地を修行の道とする。」この話は数年間の仏学院を勉強した人は理解するかもしれないが、殆どの人は聞いても余り分からない。例えば、我々はある目的地に到着するため、多くの道を歩けるかもしれない。唯ある道は渋滞であり、あるのは渋滞を避ける。間違い道を歩くと、そなたの時間を遅延する。顕教と密法はまるで違い道のように、そなたは同じで目的に到着できる。しかし、密法は上師の引率を通して、渋滞が無い道を見つけて、そなたに早めに到着させる。例えば大統領の車は前に導く車があって、道を空けるから、速やかに渋滞アリアを通した。しかし、導く車は離れた後、交通ぞ状況はすぐ戻る。若し、導く車に従わないと、大統領の車でも渋滞に陥る。車も相変わらず側にいて、離れてなくて消えない。例えば、上師はそなたの業力を暫くそなたに妨げさせないけど、業力は相変わらず残っている。ある具徳上師は前にそなた達を率いて、導く車のようにして、そなたちは従えば、早めに目的地に到着できる。却って若し速度に合わないやそなたはまだ導く車と違う道を歩きたいと思うと、そなた達は渋滞に陥るかもしれない。

喜金剛は無上瑜伽部を修める時、最も重要な本尊である。リンチェンドルジェ・リンポチェは2007年ラプチ雪山で閉関修行した時、即ち喜金剛という本尊を修めた。閉関が円満になって、閉関部屋を出た時、全ての体験を次々に直貢チェツァン法王に報告した。直貢チェツァン法王に正しい事と正しくない事を判断させた。それは上師は経験がある修行者であるから、如何なるすれば、そなた達に役に立つのを分かった。ガムポパ大師は喜金剛のある偈語を一段落開示された。死亡無常、輪廻過患を思惟する事は極めて重要である。そうしないと、修行の中に世間八法を満たして、輪廻を解脱できない。多くの宗教は死亡を論議する事を忌諱したが、仏法は忌諱しない。死亡は肉体の死亡を待つ必要がない。縁から生じて、縁から滅びる事は即ち死亡である。我々は毎日経歴している。

人の細胞は引き続きに生死変動している。ある医師弟子は報告したが、人体細胞は平均約7年に一回更新している。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、7という数字は仏経に頻繁に現れた。釈迦牟尼仏は菩提樹の下で七歩を歩いた。何故五歩ではないか。陰陽五行という意味を表す。或いは八歩ではないか。発達を表す。全ては論理があって、密法と関わる。そなた達は一歳から七歳まで大きい変化があるのを見て、七歳から十四歳青春期-所謂始めて反抗する時期まで、十四歳から二十一歳成年後、情緒は尚更に違う。リンチェンドルジェ・リンポチェはある報道を見たが、全ての大企業は50年以後九十九パーセントは滅びて、永遠に存在していない。つまり、仏経に説かれた論理に合う。

仏経に記載されたが、今人類の寿命は減るの段階にいる。昔に我々は寿命が短くなると思った。しかし、今回日本の地震は既に地球の地軸は尚更に斜めになって、地球が回る速度は速くなって、毎日の時間に減少させた。一日に一秒間を減らさないのに、人の年は早く過ごす事が現れた。つまり、仏経の論理に合う。

仏を習う人の心は如何なるだろう。死亡無常、業因果報、輪廻過患を思惟する。死亡無常とは仏を習う最も重要な根本、基礎である。死亡は仏経の解釈により、そなたたちは簡単に肉体の死亡として見ないで、一つの事が終わるのは死亡であるのを思惟しなければならない。無常とはいつまでも変動している。死亡無常とは死亡は影が形に添うようにいつでも来る。善い事或いは悪い事を問わず、全てはいつか終わる可能性がある。死亡無常を思惟するのは空性を了解するとは限らない。空性とはどんな事でも自性からあるわけではない。全ては縁から生じて、縁が終わると滅びる。いつも不断に変動して、固定ではなくて、永遠ではない。若しそなたは常に死亡無常を思惟していると、いい縁が現れる時、そなたは此れが消える事に対して苦しいと感じない。悪い縁が現れる時、そなたはいつか終わる時を分かるから、自分執着心は減少して、尚更に持ってない。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェが常に皆勧めたが、「縁に従って過ごして、どんな境遇にも安んじる。」この男弟子は死亡無常を思惟しないから、既に退職した人なのに、テレビを見て、雑談する時間は真言を唱えるより多かった。

世間八法とは八風である。八の事とは利益や損失、ほまれとそしり、称賛と非難、楽しみと苦しみである。人の心は八風に吹かれて様々な煩悩を起した。そなたは八風に影響されないと、そなたの分別心は減少して、尚更に持ってない。分別心がないと、慈悲心を修められる。仏を習った後、若し悪い事が発生すれば、この事は元々発生して、唯早めに現れるのを現した。祖師ジッテン・サムゴンは嘗て開示されたが、石は何処までに転がるやいつか転がるか全て因縁がある。だから事故という事があるわけではないだろう。ある人は仏を習った後、仕事は順調になり、家族も喧嘩する機会が少なくなる。それは仏を習った後得られたのを思った。若し、そなたはまだ子供と一緒に食事して、一家団欒の楽しみを享受するのは楽しい感じるのを執着すれば、そなたは八風に影響されて、却って此れはいい感じを執着して、輪廻の苦しみを忘れる。だから上師に供養する金を計算しないで、上師はそなたを多く助けて、そなたに一家団欒の楽しみを享受させる事を言えるが、此れは他の事をいくらしても出来ない。実は上師に供養するのは金額ではなくて、最大の供養は上師に仕えることである。

若しそなたはまた「ある人は私がとても肥った」や「ある人は私の悪口をした」など言うなら、そなたは八風に影響された。実は肥るか痩せるか全て過去世の因縁である。ある子供は「学校に多くの人は私の悪口をしたから、リンチェンドルジェ・リンポチェに修法して相手を処置させる」と言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法して誰を処置しない。無上瑜伽部を修めた修行者に対して、目に見た衆生は全て本尊である。如何なる正しいや間違い、いいか悪いかという分別がない。他人は自分の悪口を言うと、若しそなたは反応を起せず、例えばある者はそなたにプレゼントを与える時、そなたは受けないと、相手は仕方がなくてプレゼントを回収しなければならないように、若し彼はこの話を話した時、そなたは怒って、反応があると、自分は既に他人から送ったプレゼントを受けた。

現在多くの人は皆自分が煩悩を招く事が好きだ。子供は学校の先生は自分が好きではないやクラスメートは自分が好きではないなど心配して、若しそうであればどうすればいい。父母は子供が青春期になって、始めて反抗するから心配している。心配する事はないだろう。そなた達は誰でも反抗期を経歴して、幼いから大人まで完全に両親の話を聞いて口答えしない人はいないだろう。現場に若し手を挙げる人があるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ彼を離れられる。子供は何故反抗するだろう。自分が彼を伝えただろう。何が怒る事がないだろう。将来彼はまた伝えて、彼の子供は彼に心配させればいい。両親と口答えの果報は地獄にいる。若し両親は間違い所があれば、そなた達は口は言わない。彼は自分の果報があるから。心に相変わらず彼たちを尊敬しなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェの息子、娘も嘗て自分の話しを聞かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て二年以上息子と話さない。そなた達は誰が出来るだろう。そなた達は必ず恐がって、若しこうすれば、彼は自分を父母として認めないかもしれない。認めないならいい。子供を一人失えば、心配も少なくなる。

現代人はとても怪しい。皆は子供にドラゴンになる事を望みたい。(子供の出世を願い)実はドラゴンになるのはいいことではなく、仏経から見ると、たとえドラゴンは天に飛んでもまだ畜生道にいる。唯福報がある畜生である。更にドラゴンは憎みがとても重い動物である。そなた達は子供にドラゴンに成せるから、彼たちはそなた達に憎んだ。

仏を習うのは時間にかかって悟る必要があって、焦らないで、早めに家族に仏を習わせる事を思わないで。ある人は必ず自分の母を済度して、家族に仏を習うのを執着する。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、このような苦労ではなくて、自分さえ済度出来ないのに、家族を済度するわけではない。釈迦牟尼仏は仏果を修めた後、有る一部分の釈迦族はまだ済度できない。そなた達は如何なる全部の家族を済度するだろう。自分が先に行えば、家族を助けられる。そなたは家族の遺伝子と同じだから、そなたの遺伝子が変わると、そなたと同じな遺伝子を持つ家族も変わる可能性がある。そなたの遺伝子は通られるから。この女弟子のように母にリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得て浄土に済度できる。即ち一人は道を得れば、九族は天に昇れる論理である。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェはうまく修めて、弟子を守られるようだ。そなたが言った事は家族は聞き込めるのは彼たちの縁であり、聞かないのも彼たちの縁である。

自分が仏を習って修行すれば、福報があって、事はすぐよくなると思わない。福報は来世に使うから。例えば皆苦労に仕事していて、今月に給料をもらえるだろう。出来ないが、来月に給料をもらえる。だから、今世修めた福報は来世に使える。

人は死んだ後始めて輪廻するわけではない。輪廻とは人の一生の中に不断に現れている。情緒の輪廻、思想の輪廻を含める。「思想輪廻」とは一秒前に此れを考えて、一秒後また他の考えがある。若しそなたは世間八風を離れないなら、思想輪廻がある。彼は私を褒めるかと考えたり、またこうすれば、私に利益があるかと考えたりした。そなた達は嘗て自分の伴侶は愛しているやそなたに優しく対応すると話を聞いた。ある人は永遠にそなたを褒めているだろう。此れは永遠だろうか。全ては真実ではない。優しいとは何だろう。中国字は全ての意味がある。優しいとは体をそなたにくっついている。若しある人は毎日体でそなたをくっつくと、そなたは耐えるだろう。何故体でくっついて、心でくっつかないだろう。

ガムポパ大師は皆に開示された、他人よりそなたの本性はどうかを教えてくれるのを期待しないで、そなたは上師、仏菩薩の教導より自分が自分の本性を体得しなければならない。生まれつき本智は即ち仏性、自性で、≪心経≫が説いた通りで、心は不生不滅、不増不減との意味である。上師と仏菩薩はそなた達に只紹介して分からせるが、そなたのため開くことが出来ない。たとえ上師と仏菩薩がもっと紹介しても、そなたは実地に修行しなければ、そなたはやはり悟ることが出来ない。

歴史の記載により見られ、多くの成就者全ては一生に多くの苦労をした、苦を食わないと苦を了解できなく、苦を食ったためやっと衆生が六道に輪廻する苦しみを体得が出来て、はじめて苦を離れたいのが出来た。

仏は如如不動で、仏が不慈悲で衆生を助けないのではなく、仏光は分秒がに助ける,仏光は分秒を止まらずように大地の衆生を遍く照らしている。特にどの方、どの人種、どの民族、どの道に執着しない。地獄道の衆生は特別に苦しいので地獄道の衆生しか済度しないとは言わない。しかし、そなた達は仏が自らでの助けを得ることが出来ない、なの故?まるであるお金持ち彼はお金をあれらの貧乏な者にあげたい時、彼は自らでしなくて、是非他人にやらせる。このお金持ちは大変忙しくて、時間がないわけではない。例え道の側に乞食がいて、お金持ち様はとても豪華な車を止めて彼を助けようとして彼を乗車させたら、乞食はあえて乗せない。それで、あれらのお金持ちは通常下の者にこれらことをやらせた。そなた達は仏が自らでの助けを得る福報がなく、まるで仏法上の乞食であるから。仏は法身菩薩に教え、法身菩薩は報身菩に教え、報身菩薩は化身菩薩に教え、化身菩薩こそそなた達六道の衆生を助けに来る。仏経に載せてある十方法界とは、現代科学で言うと十度空間である。つまり、我らは現在見たのが道場なんだが、同じこのところで、仏菩薩の目から同じではない空間を見える。そなたは仏のような果位を治め得ない限り、そなた達はこの宇宙を離れることが出来なくて、つまりそなたは証悟を修め得て法界に融和しなければならない。

1人具徳な上師に供養するのは仏に供養するより功徳がもっと大きいのである。何故だろう?そなた達は自らで仏に供養することが出来ないから、 そなたは空性の中に供養する或いは呪を読むことで転化して供養しない限り。禅宗を修めるには、少なくとも「四禅八定」の中の四禅を修め得てはじめて仏に供養することが出来る。まるでそなたはプレゼントを社長に贈りたい、しかし、マネージャを通じなくて直接社長にあげると、社長はおかしいと思って、マネージもそなたが何の目的があると思った。1人初発心の菩薩、彼らは衆生に欠けなく、必ず返す。人はどうしてこの世また輪廻しに来たか?お互いに欠けるから、人に欠けるのと欠けられたのと全部来るべきだ。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に欠けなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法でそなた達に返す。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て1人知らない信者にポワ法を修めた、法を行った時やっと分かった、ある世にリンチェンドルジェ・リンポチェは1人出家衆で、閉関より出たばかり時、この者は道の側でリンチェンドルジェ・リンポチェを見て、礼をとして、とても恭しく合掌した、このような因縁で、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に欠けて、この一生に珍貴なポワ法を彼に返すことになった。この者は北京ダック店で仕事をして、焼いたダックを上に掛ける、それでこの一生彼も首が縄に縛られて吊り下がった。それより、出家衆を見た時勝手に批判するな、そなたは彼がどの程度まで修行したか知らないから。彼らはこの因縁福報で出家して、衆生に利益する心でそなた達より良くて、そなた達は彼らに敬わなければならない。出家衆のある行為、そなたが良くないと思ったについては、批判しないで、そなたは彼がどう修めたか知らないから、彼が正しくしなかったら、彼は自分の果報があって、そなたの口はよけなことをするな。

具徳な上師にしたがって、巧みで方便な教導の下に、十分な福報を修め得て、はじめて生まれつき本智を開くことが出来る。この三つの条件はとても重要で、多くの出家衆はどう修めても力が得ないと思って、それは具徳な上師の教導がなく、それに十分な福報がないのである。上師は巧みで方便な方式でそなたを教え、つまりある特定の時空の下に、そなたにそなたにとって相応しい方法を教える。ここの特定の時空とは因縁が熟して、因縁和合するときのである。例えそなたはあることのためリンチェンドルジェ・リンポチェに願って、リンチェンドルジェ・リンポチェは見ると因縁がまだ熟しないので、先に言わないかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェの経験によって、先仏法を聞いて直接修めて行って、して、徹底的に自分の一切輪廻させる行為を修正する。修めて結果があれば上師に伺った後、仏経をひいて、ある程度まで思惟をしてはじめて正確な思惟が得て、はじめて仏経が全て説いた道理を験証する。そなた達のようではなく、仏法を聞いた後、まだ東だり、西だりして疑って、その中の用意を考えて、結局全く勉強しなかった。只聞いてしなければ、そなたはもう一万年を聞いても修め得ない。自分が出来るかどうか、良く出来るかどうかを考えないで、ある大徳は嘗て言った、毎年我らは反省するべきで、仏法に対して多く了解したか?衆生に対して慈悲が多くあるか?

多くの者は全部「縁起性空」を聞いたことがあって,例えソナタは文字の意味を知っても、本当の体験は何だろう?そなたはあちに座っていつも思惟して、いつも思惟して知るものではない。修行する中に縁起性空を本当に体得が出来なくて、只言葉でこんな境界を解釈すれば、完全にはっきり言うことが出来ない。それはそなたの思惟はそなた凡夫の人生経験、意識で想像して、仏法と同じではないから、そなた人類の頭はどう思惟しても思惟が出来ない。しかし、そなたは上師の教えに従って、絶えなくして、十分な福報を蓄積して、因縁が備えた時「ぱ」とそなたは自然に本当にこの言葉の境界を体得することが出来た。何時因縁が備えるか?人々の情況は同じではない。ある修行者はコップを打ち破る時体得出来るため、そなたも自分がコップを打ち破る時体得出来ると思って、終日コップを打ち破るな。まさかそなたはギリシャ人、特別な慶典にコップをころぶか?具徳な上師は能力があって、そなたが悟るのを助ける適合な条件を作る。まるで釈迦牟尼仏のように時機が来たのを知ると花をひねて微笑んで、大迦葉尊者が見ると悟った。いつかリンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに百メ-トル折って引き返しを走らせるとそなたが悟るかもしれない。

ガムポパ大師は申された:「こんな渾然天成な境界にとって、最初階段ではそれが蛮力で作られたのではない。中間階段では、それはまた不住である、最終階段では、それも不壊だよ!有為法生、住、滅三者を遠く離れる。」仏を学ぶ最初階段では蛮力によってはなく、毎日経本を開いて全ての文の意味を思惟してずっとずっと考えるのではなく、幾らお辞儀をして、とても勤勉に経文を読むのでもない。所謂蛮力を使わないのは、毎日自分を検討して、自分を輪廻させる行為を修正して、その上慈悲心、菩提心を起こす。普門品が説いた「弘誓深似海」ように、発心が大きければ大きい力がある。所謂「最初階段」とは、皈依ばかりで、念仏して、法会に参加する信者ではなく、死亡無常、業因、輪廻過患について絶えなく修めて本当に慈悲心が起きられて、このような境界は最初の階段に含んだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは謙虚で仰った、自分は中間階段に至った。中間階段とは「心不住」である。上師の心は永遠である点の上に止まるのではなく、心は来たり行ったりするが、これは心がいつも動いているの表すではない。まるで≪金剛経≫が述べた:無所住而生其心。例えリンチェンドルジェ・リンポチェはまだこの外在のものに執着すれば、どう空間を破って2000キロメ-トル遠さに、車の上に観想の方式で音を立たずにポワ法を行った。ある者が言った、この間空港のVIP室で人様のためポワ法を修めることが出来ないか?これは二つの事件で、同列に論じてはいけない。仏経にも乗せてあり、鳥が飛ばれるところまで全部ポワ法を行うことが出来る。「鳥が飛ばれるところまで」実は、亡者は地球の上であれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは全てポワ法を修めることが出来る。

仏を学ぶには順序がある、12345順序によって勉強し修行するが、しかしそなたが既に5まで勉強すれば、其の他の順序に拘る必要がない、気ままにすることが出来る。仏法は最後まで、眞に大変簡単で、そなた達は想像し難い。仏菩薩は衆生を助けるのをそなた達に知らせない、助けて済んだら結構で、広く宣伝することはしない、そなたは彼の弟子でない限り、彼はそなたに教える。

顕教と密法と違うところ:顕教教法は共相に対しての憶測を通じて仏法を推量する。密法は実に修めるを通じて験証する。共相は憶測されたの、文字の推量を通じてできたのである。このような共相を修行する対象として、誤解されやすくて、悟り難い。天台宗はなぜ現在段々没落して、それは良くないのではなくて、それは思惟を細かい過ぎで分析して、現代人に相応しい。末法時代で、衆生の業は重い過ぎで只思惟で仏法は悟り難い。多くの者は白毫光を聞いたことがあるが、白毫光はどの様子かどう修めるか?ただ顕教の方式で白毫光を理解し難くて、それである者は自らで白毫光がなんだろうか推測する。しかし、密法を修める者は法本によって白毫光を修める事が出来る。あれこそ真実で了解して、憶測ではない。

何の故彌勒菩薩がいらっしゃるか?多くの出家衆は全て彌勒菩薩の浄土兜率天に往生するように発願する。兜率天は声聞、縁覚に修行させるところから。阿弥陀仏の浄土はそなた達一般的な凡夫を行かせるところで、あそこには全て阿鞞拔致がいて、初地菩薩である。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた出家衆に開示された、衆生を助けるのは急がないで、この心があれば結構で、急ぎで衆生を助けたいと思って、かえって多くの問題を引き起こした。

ある男弟子が報告した、リンチェンドルジェ・リンポチェは実修実証な大修行者で、彼の修行は深くて測らないのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは全て実修の経験で仏法を開示される。ちょっと前仰った普門品のようで、実修の経験によって皆に仏経の内容を教えて、一つの確かな教義になった。以前のようではなく、経論を勉強する時、経文の中にの内容はいつも自分が思った可能な意味で解釈して或いは推測した。誰でも「共相」に対して自分の憶測と想像があって落ち着かないと感じた。それで、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェのご開示を聞いて、それは一つの肯定な加持と証量である。

ある女弟子は報告して、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回仏法を仰って、自分がとても感動と感じた。自らの耳でこんなに大修行者の仏法のご開示を聞くことが出来て、どの言葉でもすべて加持である。先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェが言い及んだ白毫光は以前嘗て一つの物語を聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェははじめて雲南の曹渓寺に行った時、正殿の観世音像を見て、観世音菩薩は白毫光を放し出してリンチェンドルジェ・リンポチェを加持した。自分は法会の中にある時精神が少し怠慢だったが、とても集中して聞く時、どの文字でも全て加持していると感じて、絶えない加持力は心の中に入って、心の中に一つ軽い感覚があった。

外にある出家衆が報告して、以前寺院で普門品を読んだ時、その中身に対していつも只文字の解釈をして、リンチェンドルジェ・リンポチェのご開示を聞くとやっとその中に多くの修行の方式を含むのを分かった。かの上は大変感動された。

台南より北に上がって法会に参加するある女出家衆も報告して、以前仏を勉強した時、いつも意識の上より考えて、どうしても体得することが出来ないと感じた。今日リンチェンドルジェ・リンポチェのご開示を聞くと、今後修行の方向は直心との事を知った。それで彼女はとてもリンチェンドルジェ・リンポチェに恩に着た。

法会が完了してから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続けて信衆を接見し、午後の4時50分から5時10分まで、6位の信衆の為にこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011 年 05 月 02 日 更新