尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2011年3月5日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時50分から夜8時40分まで、79名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年3月6日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な共修法会を主催して、『観世音菩薩普門品』を開示して、しかも異なるレベルの菩提心及びおよび呪文の殊勝な所を開示した。

法会開始前、ある2010年7月18日に皈依の男性弟子は、彼の娘の癲癇(てんかん)が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な助けを受けた過程、及びリンチェンドルチェ・リンポチェの仏法が彼氏に対する殊勝な開示を分かち合って、そして嘗て犯した過ちを懺悔した。

2008年7月30日、彼の長女は既に出産予定日の1週間を過ぎるが、まだ生まれていなくて、妻は出産の陣痛で子宮が収縮する現象が無くて、医者はすぐ入院して陣痛促進剤を注射して分娩まで待つように要求した。妊娠の産前検査はすべて正常であり、分娩過程は順調だと言えるが、しかし娘が生まれるて、娘の頭部の右上方で一つの腫物が隆起していることを発見されて、看護婦は大丈夫だと表したから、彼と妻もすぐ気にしなかった。

家の中で「坐月子」(台湾ではズオユエズと呼ばれて、体の回復のため産後1ヵ月の過ごし方」)が終わって間もなくて、彼らは娘の手足が不自主的に震えていることを発見して、そこでビデオを撮影して病院の小児神経科に持って行って診察を受けて、医師はすぐに癲癇(てんかん)だと断定した。この青天の霹靂の判決は、忽ち彼らがどうしたらいいのか分からなくて、内心が狼狽して手の打ちようがなくて、ただ医師の開示に従うほかなくて、娘に抗癲癇(てんかん)薬「フェノバルビタール」を服用させて、しかし薬を飲んだ後に、娘はよく昏々と眠っていて、動作と認知も段々遅れるようになった。彼はてんかん薬の副作用を心配しているが、しかし妻は娘が痙攣することを見るに忍びないから、引き続き服用するほかなくて、その期間にも核磁気共鳴画像法MRIと脳波図などの検査を受けて、医師は脳部の構造が明らかな異常がないと思っているが、しかし脳の皺が普通の正常な子供より少ないようで、しかも脳波が確かに正常に放電する波形でないことがあり、その発症のタイプは「乳児点頭式痙攣(infantile spasm)」であり、以後の知能指数は殆ど非常に低いと表した。

そこで彼らは溺れる者は藁をも掴むように多くの医者を回り始めて、目的が無いであちこち神頼みや占いにすがって、依然として効果を見てとれないで、しかし心の中の焦慮と重責は少しも減らすことがない。何も助けがなくて、それに娘の未来の人生がどうしたらいいのかということを憂慮して、彼の妻は何度も彼に、娘がこのように苦しいことを見るよりも、彼女は娘と一緒に生命を終えるほうがいい、と言って、なぜかというと彼女は娘が死刑だと判決されると同じような状態を受け取ることができないから。幸いにも彼の妻は本当に行動に移していないで、さもなくば彼は寶吉祥仏法センターに来て、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して殊勝なチベット仏教の教法にあう縁がない。彼は神様のために子供を養うことを見なすように妻を慰めたが、妻の痛苦はそこで決して減らしなくて、更にもう少し所で鬱病になって、娘の癲癇(てんかん)の発作するタイプは年齢に従って転換して、初めは手足が震えることから手足が強張ることに変化して、目つきが元気がないことから驚き恐れると変わって、顔色が膨れて赤くなって、とても怖いと見える。発作の回数も増加して、その期間の中もその他の漢・西洋医学の薬を試みたことがあるが、しかし効果は何も無くて、発作は依然として停止しなくて、良い時も悪い時もある。

2009年8月、娘の作業療法士を通して、寶吉祥仏法センターのある夫婦兄弟子を認識した。彼たちの子供も癲癇に罹ったから、寶吉祥漢方診療所で治療して、病状は多く改善された。殆ど発作しなかった。同時彼たちも極めて息子が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けたお陰を薦めた。当時彼の妻は二番目の子供を妊娠しているから、詳しく聞かなくて、第一時間で尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに会う事を逃した。幸いこの兄弟子は娘の状況を分かった後、非常に熱心に彼に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲及び大能力、自分の弟と兄弟たちを助けた事跡及び無数な衆生済度事跡など伝えた。特に彼の子供も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の元で再び発作しない。彼に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する信心を強く高めた。

2009年10月10日、紹介された兄弟子の説明に従って、まず寶吉祥宝石店に申し込んだ。この兄弟子は自分が彼の代わりに申し込めると言った。当時彼は寶吉祥仏法センターの弟子はサービスがいいと思って、一時にそうすれば、自分が楽だと思ったから、兄弟子が熱心な助けを受けた。しかし、その後彼は娘のために尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁するため、自分は自ら申し込むべきだ。その後、自ら申し込んだけど、もう既に貪慾を起した。今から考えると、彼は懺悔して、自分は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがおっしゃったとおりに、仏法に対してちっとも懇切の心を持っていない人だ。

その夜、彼たち一家、四人は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できた。当時寶吉祥宝石店で人が混んでいた。彼たちは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの席前に跪いた時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼たちに何を求めると聞いた。彼はその時、娘は生まれたばかりに手足が震えた状況が現れて、医師に「癲癇」と診断された。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまた娘は薬を飲むかどうかと聞いた。彼は西薬、漢方薬とも飲んでいたと回答した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは癲癇が漢方薬でも西薬でも治されないとおっしゃった。続いて尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、この病気に罹ったのは祖先が蛇を殺し、得た果報だ。当時彼は分からないから、続いて聞かなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェもこれ以上話さなかった。唯、娘の癲癇が治られるが、いつか治られるか分からない。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が必ず仏法を信じると限らない事を深く分かるから、慈悲に彼を開示された。解決の道は夫婦とも菜食して、法会に参加しなければならない。また帰ってから、両親に菜食する原因を説明する。

そして、彼と娘は10月11日から始めて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは毎週の日曜日に行われた法会及び毎月の施身法に参加した。娘の癲癇は発作する頻度も減少になって、元々一ヶ月に十数回を発作したが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に加持の元で、徐々に桁まで減った。同時彼も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、寶吉祥漢方診療所を経営して、彼たち一家の健康を守っている。

続けて彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは全て申された仏法が彼に対して役に立ったことを分け合わせて、恩に着て、それに、嘗て犯した過ちを懺悔した。

1、彼は初めて寶吉祥仏法センターの殊勝な日曜日の法会に参加して、あえて凡人の疑惑の心でこんな法会を見た。彼は好奇した、道場の中に法衣を着て皆のためサ-ビスをしている相弟子はまるで敬虔なキリスト教徒、毎週教会堂へ礼拝をする、拘束されたくなくて、独りよがりで生活するに慣れた彼に対して大変不思議で。次いで彼がまたこれは何の不思議な宗教団体と思って、騙されるか等の疑い心、セルフビレ- の心がすぐ起きられた。幸に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは楽器の吹奏する下に法座に昇って呪文を唱える時に、彼の涙はわけもなく流れって来て、彼はこういうなじみがなくてまたよく知っている体験を形容することができない,こういう驚かすは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仰ったことがあった、これは上師が弟子の元来存在している善根を開いた、しかし、この善根は弟子のいつもの貪・瞋・痴・慢・疑に騙されて、自分がまだ悪行をしているのを認めたくない。

これ以外2009年10月の施身法法会に、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは大変慈悲な心で修法し終わって、千あまり弟子を引き連れて六字大明呪を読んだ時、彼の涙はもう一度流れてきた、娘の苦しさと衆生の苦しみを思いだした、常に彼は自分の苦しみしか思わなくて、外の衆生も苦しんでいるのを関心しなかった。こんな尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは絶えずに教えて、慈悲で加持をするために、彼がこの道場の中に安住して、珍しい仏法を聞くことが出来させた。

2、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご開示を受け取ったため、1つ大きい啓発を得た。それは彼に自分が良い生活を暮らしたい心を見せた、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持に頼って、娘にもう癲癇が起きた痛苦を苦しませない、利己的に仏法を利用して自分の心をもう苦しませないと思った。彼は思い出した、娘がまだ生まれる前,しばしば貧苦或は心身の不自由方を見たとき、心の中に、せいぜい可哀想と思って、少しも衆生の苦しさを体得する事が出来なかった。娘も事情があったまで、彼ははじめて深く尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがすべて開示されたのを体得する事が出来た、眷属に対してあの執着の貪欲がそんなに強烈で、只自分にもう苦しませたい心はなんと利己的であった。彼らは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依しなければ、永遠で楽しくて苦しみを避けた生活を暮らしたくて、自分が楽しいと痛苦しか思わなくて、我等と互いに密接な関系を持った広範な衆生達も同じな悩みと痛苦があったのを思わなかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てもうされた、お体の病通は全て殺業、悪念と関係が有る、彼は自分がもう苦しまないとばかり望んで、衆生は我等の傷害で苦しい目にあったのを忘れてしまった。まさか返済しなくても良いだろうか?

3、彼は皈依しない前に、心には修行者の自在が羨ましい、顕教の共修及び外道の活動を接触した事があったけれども、彼の内心に同じように騒いで不安で、こちらを見て試みて、あそこに聞いて試みて、尊貴リンチェンドルジェ・リンポチェが説くのように、自分の人生経験を以って仏法を理解し、一知半解に自分が好まない教法を否定した。以降、彼はある在家居士に従って「雑阿舎経」及び相関な経論を学んで、南伝仏教も接触し、釈迦牟尼仏は法輪を始めて転じる時に開示させた真理に対して歓喜し、然し日常生活に実行させなかった。しかし、彼は始めて寶吉祥仏法センターに尊貴な金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが開示させた仏法を聞くと、仏法がこのような質朴が出来る事を体得した。彼の昔の心は極めて混乱し、その上とても複雑で、大乗仏法が神話のような物語と天人鬼等の六道を済度させる事信じなかった事があり、誤伝或はチベット仏教を誹謗させる言論を影響させた事もあり、心の中には大きな懐疑を起した事もあった。彼は体得できないので、大乗仏法及びチベット仏教歴代の上師が教法を伝承するを否定する行為が真にとても大きな過失を犯した。彼は此処に多くの兄弟子から尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受ける自身の経験の分かち合いにより、その上、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが絶えずに仏法を弟子達に教導する慈悲摂受力を加えたり、弟子達に生死輪廻を解脱する空性智慧に教導したり、慈悲心、菩提心の実修法門を開示したり、その上、生活の中に、全ての言行により検視させて、自分の累世以来の悪業を懺悔したりする事で、彼は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが説く「慈悲は全宇宙の中に最も大きな力だ」の示現を見た。

4、尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェは果報を成熟させた時に、癌に罹ったり、事業を失敗したり、離縁したり、子供が素直しなかったりする事のような人生頓挫を経ても、仏菩薩に上手く遣り遂げる事を求めた事もない、ただ歓喜心により果報を受けて、心を尽して懺悔し精進な修行した事だけである。凡夫のような彼は尊き金剛上師のリンチェンドルジェ・リンポチェが仏を学んで修行する最もよい実例に従う事が出来る。

最後、彼は尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェの御身体が安康し、教法を長くて世に留まる事を望んでいる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇った後に、前回に開示した《妙法蓮華経》の中《観世音菩薩普門品》を継続して、法会に参列する大衆に以下のとおり貴重な仏法の開示を与えた。

《妙法蓮華経》の「妙」は美妙ではなくて、巧みではなくて、殊勝なことを表すのである;「法」は方法ではなくて、仏法であり、つまり生死に解脱することができる法門である。「妙法」とは生死に解脱することができる殊勝な法門である。「蓮華」は蓮の花であり、お経に、蓮の花で多くの比喩を行う。阿弥陀仏は衆生を浄土に導く時に、蓮の花で導くので、事実上その他の菩薩も同様に蓮の花を使って衆生を導くのである。「経」は仏陀が修行した経験、及び嘗て仰った話である。お経には諭されるすべての字は全部修行と関係があり、すべては仏陀が自ら修行して証果した経験で開示される境界であり、それもすべての人がやり遂げることができるのである。

《観世音菩薩普門品》は釈迦牟尼仏が無尽意菩薩の祈請を応じて、特に菩薩道を修める行者に紹介する1冊のとても重要な経文であり、その中はとても深くて広い修行する法門を含む。観世音菩薩は法身大士であり、耳根円通法門を修めて成就を得て、地球の衆生との縁がとても深い。「観」は法性で輪廻している世の中の六道衆生の受けている苦悩を観するので、「世」は世の中に輪廻している六道の衆生を表して、「音」は衆生が救度を祈り求める音或いは心の声である。普門品の「普」は衆生を普度するのであり、観世音菩薩は慈悲の力ですべての苦難の衆生を救度する。「門」は一門深入ということであり、生死を離れる解脱門を修習するのは正しい道である。

以前は、リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて、唯一回だけ他の人のために助念(念仏を唱えること)したことがあり、仲良い友達の父親を助けて、友人の父親が生前に仏を学んでいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは専念に阿弥陀仏聖号を唱えておよそ半時間以降、地蔵菩薩が来る事を見て、そして1連の白い蓮の花が亡者を導くが、しかし亡者は妻に気にかかるため、離れたくない。その時、リンチェンドルジェ・リンポチェの親友は接待と法師がお経を唱える事を頼むことに忙しくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは、その親友が父親の耳で自分がこれからよく母親を配慮するからと言うように要して、その後、彼の父親の神識はやっと離れたくて、蓮の花は下りて彼の父親を連れて離れた。これによって分かるのは、もし亡者が気にかかることが分からなければ、どうして助念することが亡者にとって助けがあるかどうかを知っているか。彼の念頭がまだ執着さえあれば、障碍があれば、同様に離れることができない。もし分かる能力がなければ、それでは助念する時に、亡者を済度することが思わないでください、ただ何も求めがない心で仏号を唱えたらいい。

顕教の方式で済度するならば、縁がある人が唱えに来て、ようやく亡者が気になることがないように離れることをさせるが;密法の方式は、直接に法を修めて亡者の神識を押してでるのである。だから、ふだん仏を学ばなければならなくて、よく仏菩薩と接触しなければならなくて、さもなくば時間になって仏菩薩を知らないで、菩薩が来ても、追随して離れることができない。

いわゆる「「有求必応」(求めあれば、必ずかなえる)」とは、仏菩薩が必ずそなたの心が思うのをやり遂げるのではないて、1日中求めても役になるのではない。ある人は知恵を求めるが、しかし知恵は求めてもらうのではなくて、;悟りを開くことも同じであり、もし悟りを開くことが求めてもらうことができるならば、あれも悟りを開くのではない。悟るのは何であるか?悟るのは空性を了解して、空性は求めてもどのように求めてもらうのか?そなたが何も求めるものが無くて修行して、、更に衆生を利楽することができて、たとえ求めなくても、同じく自然と悟りを開くことができる。もしそなたは観世音菩薩に生死に解脱するように助けることを求めるならば、観世音菩薩は必ず相応するのである;もしそなたは自分の私欲を満足させるため求めたら、それなら必ず相当しない。

ある人は自分が自分の考え、自分の欲求を制御することができないと言う。そなたが自分の欲求を制御することができないのではなくて、それはそなたの放縦な心が自分でコントロールしないためである。例えば、そなたに高楼から下へ跳ばせて、そなたはどうして自分が下へ跳ばないことを制御することができるのか。なぜかと言うと、そなたが跳ぶとすぐ死ぬことを知っているから、そなたは跳ぶことをしない。仏菩薩は私達に教えたたくさんの事は、私達がすぐよくない果報があると思わないで、だから自分の欲求を放縦する。

昨日信者達に接見した時、ある1月に皈依の70数歳の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに苦しみを訴えて、彼女は自分の息子が41歳に往生したことを受け取ることができなくて、だからそこから出ることができない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子にこう開示した。この弟子はただ自分の感じだけを重視して、その上、慈悲の心が無くて、私利私欲で欲が深くて、皈依する時にリンチェンドルジェ・リンポチェに承諾した3つの話を忘れてしまって、特に二番目の話が「皈依法、離欲尊」である。欲望を離れて、はじめて尊貴を得られる。古人も、欲がなくて品が高いと言ったことがあるのではないか。彼女は皈依したから、弟子であり、仏法をもって使うことを学んで、必ず欲求を離れなければならない。特にこの弟子の往生した息子がすでにリンチェンドルジェ・リンポチェの済度をいただいて、そして彼女は多くの事もすべてリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを得た。まさかリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の息子をすることを要するのか。彼女も70歳だから、もう1人の息子を出産することができない。この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの恩恵を忘れてしまって、皈依する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェに承諾した誓言を忘れて、結局リンチェンドルジェ・リンポチェが空港から直接に道場に駆けつけて働きすぎて疲労して奔走して、信者達を接見し終わる所、またリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が出てくるように助けてもらって、慰めを或いは同情を得ることができるように私利私欲に期待した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは心療内科の医師ではなくて、たとえ心療内科の医師であっても、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法と能力で、1時間なら100万を収めるのはオーバーではなくて、しかしそなた達も払うことに惜しむことを承知する。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子のチョッキを回収して、なぜかというと、彼女が弟子とする資格を備えていなくて、自分の感じに固執して、因果を信じない。リンチェンドルジェ・リンポチェの開示した仏法が耳に入らないと、再び法会に参加しても役に立たない。これも寶吉祥仏法センターの伝法はその他の道場と異なる所であり、その他の法師は恐らく彼女を泣かせて、彼女がとても可哀相だと感じて、彼女を同情して慰めて、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの教法は弟子が皈依する時の承諾をやり遂げるという事を要求される。リンチェンドルジェ・リンポチェは参列する大衆に気づかせて、《仏子行三十七頌》の中には、家族が水の如く行き来するようだと言う。仏を学ぶのは何を学ぶのか。「生死に解脱する。」であり、生死に解脱して、また家族の集まりの感じに未練を持つか。多くの人はただ家族が自分より先に死亡しない事を望んでいるが、なぜかと言うと、自分が身内を失う苦痛に耐えたくないから、しかし彼が自分で先に死ぬ事を要するが、しかし承知しなくて、これは利己的である!

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の皈依を受けて、1人の弟子を収めると、一つの責任が増えて、弟子を配慮して、弟子に仏法を教えるのである。仏教とその他の外道と最大の違いは、外道はすべて神が最高なので、信者が神の召使い或いはその下に従属することを言っている。仏教で言えば、仏陀は仏教の教主ではなくて、指導者であり、衆生の全てが成仏する本性を備えるのを言う宗教は仏教だけであり、ただ貪、嗔、痴に清浄な本性を覆い隠されるのである。

因果はきっと現れるから、悪の因を植えて、悪果を得る。しかし、もしそなたは悪果が熟する前に、十分な善があることができて、大きな福報があり、しばらく果報の成熟を抑えることができる。抑えるのであり、消滅するのではない。釈迦牟尼仏は成仏する時にさえ9つの難があり、例えば馬の食糧を1ヶ月食べていたこと、人に石を捨てられたこと、頭痛などを、私達はどのように果報を受けないか。が、仏陀がすでに因果をよく知っていたため、仏陀の福報がとても大きくて、だから余り苦しくないで果報を受けることができる。善と悪が相殺することができると思わないでください。そなたが一つの悪なことをした時に、10件の善をやってようやく悪の力を押さえきれることができるが、依然として相殺することができなくて、善の力はただ悪果をそんなに苦くしないで、しかし果報はやはり発生する。これもリンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に悪を止めて善をするように教える原因であり、そなた達はがずっとたくさんの善をし続けて、善の力はそなたの累世とこの世に行った悪を抑えることができて、悪の力を軽減して更に効果が発生しない。そなたの福報が結構大きくて、たとえ悪業が熟して現れても、同じくそなたに影響を齎さない。

一部の人は仏を学んだ後に、悪い事が発生しないでください、良い事は発生することができて、自分のことが良くなるのを望んで。もし、ただ自分の運をよくなることができるであれば、実は仏を学ぶ必要がない。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの人に教えたように、収入の二分の一を政府内政部社会司に寄付して、彼らに社会の慈善事業をさせて、これらは言うことを聞いてそのままする人は、自分の事が本当にゆっくり回転して良くなったことをも発見する。

多くの人は《観世音菩薩普門品》を読んで、仏菩薩が物語を言っているのだと思っている。事実上、仏経は仏陀の好みに従って書かれたのではなくて、論語或いは易経など典籍と同じく似ていない。もしお経に記録されるのは仏陀の修行する経験、仏陀が開示した話しであるが、物語を言うのではないて、むだ話を言うことができなくても、一字一句はすべてその含まれている意味がある。もし普通な人ならば、文字にて説明することしかできない。普門品の中は仏法の名相(専門用語)がそんなに多くはない。しかし リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回普門品を見る時、修行するレベルの違いに依拠して、毎回もすべて異なる感銘がある。だから、もし文字でお経を釈明するならば、三世の仏陀も無実を言い立てると言う。

無尽意菩薩が釈迦牟尼仏に観世音菩薩を紹介するようにお願いする時、無尽意菩薩の聞いたのは:観世音菩薩は何の縁で観世音と呼ばれているのですかとのことである。すべての菩薩は自分の名号があり各自の縁があるから、自分がある名号を称したいのができないで、そして仏陀はある菩薩のために未来の仏号を予言して与えるのも、その因縁があるので、これは縁起性空の道理である。縁生縁滅、観世音菩薩の名号は縁で生んで、しかし観世音菩薩は将来阿弥陀仏の浄土で、阿弥陀仏の弟子の身分で成仏をも継いで、その時「観世音菩薩」の名はもう無くなって、空性の中で縁が消える。無尽意菩薩は大菩薩で、仏法が分かって、因果を信じるから、だから「因縁」この2つの字で仏陀にお聞きして、もしあなた達と交換あれば、ただ「どうして」を聞くことしかできない。このごく短い言葉により、リンチェンドルジェ・リンポチェは見ることは仏菩薩の示現である。

仏法は求めるので、もし無尽意菩薩が口を開いて求めなければ、釈迦牟尼仏も観世音菩薩を紹介する因縁がない。まさに釈尊は仏果を証得したばかりのところ、口を開いて仏法を宣説していなくて、天帝が地球に来て釈尊にお祈りしてから、始めて仏陀は法輪を転じ始めた。だから、いつも信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見を求めに来た時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも彼にどんな事があるのかと聞く。もし相手は、縁がないと口を開いて言わないと、それは縁がない。一部の信者は謁見を求めに来る時に、たくさんの形容詞を積み上げて言ったが、直接に自分が話したい話を言い出さない。ある人も癌のため謁見を求めに来る時、泣いてたいへん悲しんで、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示して、癌にかかっても何か泣き甲斐があるのか。癌にかかって自分がすぐ死ぬことを決して代表しなくて、癌にかかっていない者も絶対に死なないことを代表していなくて、すべての人は皆死亡するから、癌にかかったかどうかと関係がない。

ある者は癌に罹って化学療法を受けるために、リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、自分が痛ませないと望んだ。それは可能だろうか。若し化学療法を受けて、患者は痛まないなら、一つの状況は患者は死んだ。二つはこの薬は効果がない。化学療法とは毒薬を体に注射するから、痛くないとは言えないだろう。此れは医療を受けながら、仏菩薩に求めて、自分の欲望を満足させる。このような状況に遇うと、リンチェンドルジェ・リンポチェは常に相手に若し化学療法を受けて、自分の問題は解決すれば、再び来て叱られない。若し化学療法を受けて効果がないと、また。しかし、多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞くと、化学療法が必ず自分に役に立つと思った。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分も皮膚癌にかかったことがあるが、しかし今すでに問題をすべて処理して、癌のため寿命が短くなるのではない。一日が生きていることができると一日を過ぎる、一週間が生きていることができると一週間を過ぎて、依然として生きていることが出来たら、福報がまだあるので、再び苦労を探してかけないでください。

釈迦牟尼仏が《妙法蓮華経》を開示する時、無尽意菩薩が釈迦牟尼仏に観世音菩薩を紹介するようにお願いするのである。事実上、無尽意菩薩はその果実の位で、どのように観世音菩薩を知っていないのか?これは上師がいるため、弟子は仏道を開示しないべきであり、一部の者はよく法師の前で、また独りよがりで仏法を述べて、法師の誤りを是正する。無尽意菩薩は釈迦牟尼仏の開示を聞いて、釈迦牟尼仏を上師にする。まるで、リンチェンドルジェ・リンポチェは三恩根本上師 直貢チェツァン法王の目の前で、人に対して仏法を開示することはできなくて、たとえ、ある人はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いを立てても、その時にも、彼が直貢チェツァン法王に伺いしてください。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェが説法する事を要するのでない限り、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェはようやく口を開いて言うくことができる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは小さい時の父の管理と教育が非常に厳しくて、年長者の居合わせる場合であれば、もしリンチェンドルジェ・リンポチェは口を挟むと、父はすぐ平手は打って、その故に身につけたのは、リンチェンドルジェ・リンポチェが年長者が居合わせる時に口を開かない習慣を生んだ。世の中の多くの人は上師の目の前は表現して、上師が自分の能力を知らないことを恐れて、また上師で開示する時に法師がどちらが間違ったか言い漏らしたかと言って、このような方法はすべて適当でない表現である。そなたはどのように上師がわざと間違いを言うのではないを知っていて、或いは、言いたくない、聞こえないふりをする。ある上師は年を取っている体が衰えるから、弟子にも任せて何もやっても構わないのであり、だから、上師も自分の体の体力の不足のため、弟子を放任して、弟子に何を言いたい場合、すぐ言うべきでない。

現在西方社会の文化や風俗は仏の説法に合わない。若し弟子に話せなく、師父の話しを聞くと、ある人は此れは民主ではないと反駁した。若し弟子を要求して、師父の話に従えば、ある者は此れは独裁と反駁した。故にカナダやびアメリカなど地区に多くの道場があって、多くの者は仏法を推進すると言っても、それは唯表面だけ、精髄を習うのはとても少ない。唯法会に参加する事や、灯をともす事など分かって、仏法の真義を分からない。それは東方の文化はカナダ、アメリカの西方文化に合わないから、西方文化は東方文化に遇うと、衝突な所は受けない。だから、直貢チェツァン法王の閉関センターはニュージーランド及び欧州に設立されてる。欧州地域に於いて、特に東欧に比較的に仏法を受ける。それはこの地区は管理者に指導される伝統を残ったから。

西方の文化が悪いとは言えないが、唯修行に合わない。中国に伝統な儒家思想は親孝行を強調するが、仏法も両親を親孝行するのを強調する。若し西洋人に親孝行を話せば、西洋人は「Well,I love my mother,I call her every day.」と返事するかもしれない。それは彼たちの観念にこの文化がいなくて、親孝行を分からない。更に西洋人はいつも「私」つまり、Iから始めて話すが、中国人は「貴方」を先に置いた。儒家思想は所謂十善法と意味がとても近いが、儒家は親孝行など尊師重道、親孝行を主張していたが仏法ととても似ている。しかし、孔子も弓術など六芸を教えたが、此れは仏法と関係がない。だから、ある者は孔子が菩薩の転生されたと言った。それは彼は如何なる人道を修める事を教えた。

今世で人になれば、過去は必ず有る世に仏法を習って十善法を修めた事が有った。此の世にどんな宗教を信仰しても、人道の衆生であれば、必ず有る世に観世音菩薩と縁を結んだ事が有った。唯縁が深いか、或いは浅いか。そなた達は今日改めて観音法門を聞くのはそなた達は観世音菩薩との縁がとても深いのを表した。再びそなた達に機会を与えて、そなたたちは一体把握できるかどうか、自分しか頼らない。

十善法の中に一つの戒は不邪淫である。それは一夫一妻とは正淫であり、これ以外は邪淫とは言えない。仏経に必ず一夫一妻であれば正淫だと説かない。釈迦牟尼仏は成仏の前にインドの王子であり、昔のインドも一夫多妻制である。チベットに於いて、かなり辺地な所で一妻二夫制を行う。モンゴルに於いて、ある辺地な所で兄が死んだ後、兄の妻は弟に嫁になる。此れは全て各地域の文化風俗で、正しいや間違いとは言えない。一夫一妻はキリスト教、天主教に言われた事で、仏法に於いてこの戒律の要求ではない。

不邪淫の戒律の中に、人妻と付き合う事が出来ないのを含める。チベットでははっきりに説明したが、お金を貰い生活を世話される女性とも付き合う事が出来ない。それは他人の恩を受けるから、同時に両方の恩を受けるとは恩を忘れる。更に売春専業者を指して、前の客はまだ払わないのに、次の人は始めてこの女性と性交すれば、不邪淫という戒律を破る。また、苦しい状態にいる女性と交わる。リンチェンドルジェ・リンポチェは昔香港でまだ仏を習わない時、ある夫婦を知り合った。ある日この夫婦は離婚した。3日後あの妻はリンチェンドルジェ・リンポチェに電話をかけて、リンチェンドルジェ・リンポチェを誘った。しかし、いずれあの妻は如何なる電話で泣いても、リンチェンドルジェ・リンポチェは行かない。他の男性なら、ヒーローとして行って、この機会を利用して相手を慰めることを考えるかもしれない。更にあの女性に「そなたの夫は君の良い所を分からない」と言った。此れは大変だった。そうすれば、簡単に戒を破る。たとえ、リンチェンドルジェ・リンポチェは当時まだ仏を習わなくても、不邪淫の戒を犯さない。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェは累世戒律を守っているに関わる。

他人夫婦間の事に巻き込まない。昔リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて衆生を済度する時、ある日女性が二人リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。その中に一人の女性は自分の夫は行方不明なので、どうすればいいか分からないと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「貴方の性格が強いが、夫は気分転化のために外出した。彼は電話を一回かけただろう。まだ貴方を思ったという証明だ。一週間に経って怒らないなら、帰る」と開示された。この女性は元々リンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞くと、心は既に安定した。しかし、その時、同行する女性は「貴方の夫はだめだ。唯電話をかけたが、貴方を見るため帰るべきだ。無情過ぎる。」と言った。そうすると、当事者はすぐ顔色が変わって、不満と怒りが現れた。このような事、この女性の友達は言葉で夫婦の感情を挑発した。此れはとてもよくない。

もう一つの経験はリンチェンドルジェ・リンポチェが始めて弟子を取った時、ある女性はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁し、離婚すればいいか、離婚しないほうがいいかと聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時何も言わなかった。何故だろう。彼たち夫婦は結婚した時、先にリンチェンドルジェ・リンポチェに聞かなかった。幸い当時リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に返事しなかった。それは一ヶ月後、この女性は夫と仲良くなった。しかし、一年に経った後、結局離婚した。若し当時リンチェンドルジェ・リンポチェは離婚がいいと言えば、彼たちは一ヶ月後仲良くなった。そうすれば、彼たちは如何なる批判しただろう。若し当時リンチェンドルジェ・リンポチェは離婚しないと言えば、最後彼たちは結局離婚した。そうすれば、彼たちは如何なる批判しただろう。仏は霊験しない或いはリンチェンドルジェ・リンポチェは霊験しない事を言うかもしれない。

ある者は結婚するつもりだから、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。上師は暫く待っていると言ったのに、彼は待たず、早めに結婚しなければならない。結局結婚した後、トラブルが一杯現れた。何故待っていると言っただろう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは既に彼がどんな事に遭うと見た。しかし、彼は深く愛し合っている時、結婚させないとは無理なので、暫く待たせる。時間があって、修行を通して自分の業を少し消させると望んだ。たとえ同じな人を愛してもよくなる。しかし、可笑しいなのは彼は待たない。急いでいる必要があるだろう。

仏教では離婚は悪い事と説かない。尚更に離婚した人は仏法を習えないと説かない。全ては因縁及び因果である。離婚は仏法により、眷属は円満しない。例えばある動物は一緒に伴侶が一つあって、そなたはその中の一つを殺した。或いは殺生のせいで、動物の子供に父母と離させた。だから、此の世に離婚の果報がある。若し累世他人の家庭に巻き込まないと、此の世に裏切らせない。

ある年、直貢チェツァン法王は台湾に来て、噶舉密呪蔵灌頂を伝授された。今まで直貢チェツァン法王は大体この法を六回伝授された。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは供養するお金がないのに、直貢チェツァン法王は特にリンチェンドルジェ・リンポチェが必ず来て、前の席に座る事を指示された。更にリンチェンドルジェ・リンポチェの供養を受けない。この灌頂は朝から夜まで続いて、十五日に掛かった。第五日目、ある灌頂に参加した女性はリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いて、「貴方は離婚しただろう。離婚したのに、仏を習いに来たか?」リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に「はい、すみません」と返事した。

不邪淫は女性に脅迫して、交わる事が出来ないのも含める。女性に酔われて交わるや強姦、催眠薬で女性を姦淫するなどこの範囲だ。また不邪淫は出家衆と交わってはいけない事も含める。むしろ本当の出家或いは仮の出家かを問わず、出家相が現ると出来ない。不邪淫はまた父母或いは仏像の前に交わる事が出来ないのも含める。何故ある母は息子に要求して、結婚した後、部屋に鍵を掛けに寝るだろう。自分の息子に戒を破らせるだろう。また不邪淫は肛門性交が出来ないことも含める。

仏は肛門性交が出来ない戒を定めるのは仏既に未来の人類はエイズが広く蔓延することを予見したから。リンチェンドルジェ・リンポチェも開示されたが、古代文献に明朝では既にエイズがあった。唯この名前を使わず、当時もそのような流行っていない。現在科学者に言ったとおりにアフリカの動物から移されたわけではない。西方天主教、キリスト教では同性愛は罪と思った。仏法では同性愛は罪だと説かない。仏法も同性愛が好いか悪いかと説かなく、唯このような行為は輪廻の業力を起す。天主教、キリスト教では人は生まれたから、原罪があると主張した。しかし、仏法では全ての物事は因果、因縁があり、全ては我々が作ったと主張した。累世に作った善悪業の力は我々が受精、転生と共に此の世に連れてきて、此の世に影響した。此の世に行って、話して、思った事はまた一つの業になって、来世に影響する。故に所謂原罪がなく、全ては我々は自分が行った。

同性愛になるのは過去世に欲望がとても重い人だ。我々は胎児として転生する際、若し父を見て歓喜心を起せば、女性になる。若し母を見て、歓喜心を起せば、男性になる。しかし、若し過去の因果業力は既にこの人が男性になるのを決めるけど、転生する際、父もとても格好いいと思ったのに、既に男性になり、心も変わって、業力も変わったから、同性愛になる。

それでは性転換者は如何なる生じるだろう。性別移行する人は過去世に女性の体でお金をもうけた事が有る者だ。例えば、水商売など職業をする。しかし、女性社員を雇用して、一般的な正常の仕事は含まない。故に今世、このような人は人道を転生した時、この果報を得て、黄門身を得る。すなわち、古代の宦官であり、現代は宦官がないから、性転換者になる。また。この人は女体を保つため、もうけた金は女体を保養に費やされてしまう。つまり、どんな手段を利用して金を儲ければ、最後全ての金をあの物に使う。この性転換者はタイでは数量は比較的に多い。

総合的に言うと、仏が定めた邪淫戒は人に自分の体或いは他人を傷付かないように免れる。

釈迦牟尼仏は無尽意菩薩に善男子と称された。仏に善男子と称されたのは既に登地菩薩を修めた事を現した。一般的には善男子は少なくとも十善法を円満に修める人である。世間話に人道に成れば、仏道に成れるとある。十善法の始めは不殺生である。そなた達は菜食すれば、少なくとも一戒を守るが、そなた達は他の戒を守らない。戒はある奨励や賞罰の道具ではなく、戒を守るのは衆生を傷付かなくて、慈悲心を培養するためだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法に嫌がらない。いつも絶えずに次第に従って修行している。完全に上師の教えに従って、自分の考えを持っていない。上師は閉関修行の日程を指示すれば、すぐ約束した。自分の問題を上師に投げなかった。自分が経営する事業も何も手配せずに、上師が指示された時間及び場所に行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏法を正業としてみて、他には全て副業だ。そなたと同じように仕事は最も大事で仏を習うのは唯暇の時の副業を見るわけではない。

《観世音菩薩普門品》に書かれたが、「もし幾千万億の衆生が、様々に苦しみ悩んでいるとき、観世音菩薩の名を一心に称えれば、 菩薩は直ちにその声を聞き、苦しみ悩みから解放されるであろう。」此処に言われた衆生が、様々に苦しみ悩んでいるという受けるとは肉体は受けた苦しみと心の中に受けた苦しみがある。心の中の苦しみは多く、自分が招いた。例えば、昨日悲しみの中に離れられない弟子は自分が執着した。自分の感覚を執着する人は仏を習えない。現在文人は離れないという言葉を作ったのは全て人に損なう。自分が執着すれば、執着する事を承認すればいい。足は自分の身に付けて不自由ではないから、如何なる離れないだろう。

本当の苦しみは三悪道である。地獄道と餓鬼道の衆生は更に苦しい。六道の中に、地獄の衆生は一秒が止まらずに苦しみを受けている。彼たちは殺された後、生きている。また殺された。永遠に明日がない。明日は何処にいるか分からない。餓鬼道の衆生は食べ物がない。彼たちは余り苦しいから、仏を習えない、そなた達は一日中食べないのを問わず、一食を遅く食べてもそなた達は飢えて、力が無い。嘗てあるチベットの修行者は形容した。「若しそなたは地面に痰を一口吐くと、餓鬼道の衆生は奪い取って食べる。だから、勝手に痰を吐かないで。」畜生道の衆生は愚痴なので、仏法を聞けない。更にいつも食べられる苦しみを受けているから、同じで明日も分からない。天道は楽しんでいるから、仏を習わない。阿修羅道はいつも戦って争っているから、仏を習う時間がない。唯人道の衆生は苦しみが多く楽しみが少ない。人は最も苦しい衆生とは言えないが、人は少なくとも寝た後明日があることを分かる。そなたたちはまだ明日に何をする事を計画できて、自分は事情を把握できて、未来を計画できる。だから、仏を習う因縁を把握しなければならない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常に説かれたが、そなた達は自分は苦海の中に居ることを分からなくて、自分はいい生活を過ごすと思って、仏を習うのは自分の生活によくなると思った。例えば、仏経に説かれた通りに、火宅に遊んだ子供は自分が享楽している思って、仏を習いたくなく、自己満足した。諸仏菩薩は仕方がなくて、外に玩具を置いて、そなた達を吸引して火宅から離せる。若し相変わらず仏を習いたくないなら、死んだ後までリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を救う。そなた達は幽霊になれば、本当に苦しみを分かったから。三悪道の衆生は仏菩薩の済度を得る心は十分に懇切であり、それは極めて苦しいから。

観世音菩薩は法身大士で、法性の中に心で六道の衆生の苦難を観る。六道の中に、地獄道、餓鬼道、天道、阿修羅道は言語ではなくて、心で通じる。只人道は言語で、音で通じる。畜生道なら畜生の言語があり、畜生道の衆生は念仏することが出来ない、またなぜ念仏するか分からない。我らは1つの実験をやることが出来た、一匹の犬に阿弥陀仏を読んで、彼は我らがなんにを読んでいるか分かることが出来ない、せいぜい寺院の中にの猫と犬、仏号を聞くとおとなしくて腹ばいになって聞くかもしれない。

だから、人道を除いて、外の道の衆生は仏号、呪文を唱えることが出来ない。普門品の中に説いた「聞是観世音菩薩」、此処での「聞」との字は大変深い意味をする。これが表したのは人道以外、其の他の衆生は唱えるとこが出来ない、それで心で聞く、人類しか観世音菩薩名号と心呪を読むない。だから、我等人類は気をつけて観世音菩薩名号と心呪文を唱える時、あれら累世、われ等と縁がある衆生に観世音菩薩を聞くのを助けて、観世音菩薩の助けを得させることが出来る。

どうしてそなた達に呪文を読む時、衆生の代表として呪文を唱えるのを要求させたか?それは、そなた達はもう幾ら世を輪廻して、幾らの衆生と関係があるのを知らないのである。テレビは嘗て報道した、スコットランドで9,000年前の人類の骸骨を掘り出して、この骸骨の遺伝子と地元のあるの村落のある村民の遺伝子と同じである。これはわれ等人類は只一世の先祖があるのではない。生々世よわれ等と関係があった衆生は、全て我らが仏を学ぶことより利点を得ることが出来る。それで「一人得道、九族升天」はこの道理である。ある者は仏を勉強して、とてもよく出来るならば、そなたの累世の眷属は全部そなたが仏を学ぶため生死より離脱することが出来て、そなたと一緒に離脱する。しかし、これは大変長い時間がかかる、多くの法会に参加して、われ等と関係がある衆生は全部すでに済度を得たと思わないで、これは不可能である。

「一心称名観世音菩薩」の「一心」とは一心に乱れないとの表すである。一心に乱れなくて唱えて、妄念を出る時間を減少することが出来る。我らの心が打ち出して行った信号は脳波のようであり、科学家も実証した、人はエネルギ-を出すことが出来、それに強弱を区別している。心が大変集中すれば、打ち出した電波はとても強くて、観世音菩薩は受け取ることが出来た。心の妄念が多くて、集中しなければ、打ち出した電波はとても微弱である。毎秒、無数な衆生は観世音菩薩に願っているため、観世音菩薩はそなたの微弱なメッセージを受け取ることが出来ない。或は、ある草が風に吹かれて打った信号と思って相手にしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは一心に乱れなくて、定の中で呪文を唱えて、打ち出した電波はとても強くて、観世音菩薩が受け取ることが出来る。それで、観世音菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を助ける願いを満ちる。リンポチェに対して、何回を転生するか或はこの一生に修め得たか問わず、一番大切のは一心に乱れないのを修め得たか?出来るこそはじめて衆生を助ける能力があった。これはなぜ直貢噶舉の上師は全て長期の閉関をする。閉関する中に、はじめて一心に乱れなくて呪文を唱えて修行することが出来る。禅宗では現在修行するのは簡単ではない、それは台湾では深い山がない、1つ静かで辺鄙な所を見つけて修行することは容易ではない。しかし、密法には方法があり、悩みの生活中にもまだ修める方法がある。

なぜリンチェンドルジェ・リンポチェは呪文を唱えるのが比較的に速いか?上手になって速く読むのではなく、呼吸が遅くなるから。我らは呪文を唱えるとき換気する時間を減少すれば、自然に呪文を読むスピードを速めることが出来る。例え、そなた達は一分間に十回呼吸して、リンチェンドルジェ・リンポチェならば只3回で、7回の時間を節約して、自然に速くなった。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在夜寝る時、10秒程呼吸が停止して、つまり定の中で、呼吸するため心臓が動く、心臓が動くと気が動いて、思いが徒って動いた。それより、呼吸が遅ければ、呼吸ゆっくりすれば、呼吸する開いたの時間が長くなって、自然に比較的に思いがなくて、呪文を唱えることが速くなった。これらはすべて練習できる。皆は気がついたリンチェンドルジェ・リンポチェは法を修める時のスピードがますます速くなって、呪文も唱えれば唱えるほど速くなった、つまり定の中で、呼吸が大変ゆっくりである。リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も直貢チョンツァン法王が主催する法会に参加して、観察した、直貢チョンツァン法王が法を修めるスピードは他のリンポチェのより速かった。それは直貢チョンツァン法王の禅定の工夫が大変深くて、自然にスピードが速くなった。

そなた達はまだ定の中で呪文を唱えることが出来なくて、なにも求めない心で呪文を読めば結構で、求めなくて、思わない。20句を読んだ後、観世音菩薩が来られたか?背中が涼しくなって鬼が来たか?頭の上に痺れて菩薩が加持に来たかとしないで、観世音菩薩にどの欲望を願う必要はない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学んだ時、仏経に全て説いた内容を信じて、自分は是非仏が言った方法が出来ると信じて、人が出来なければ仏が言いださないべきである。しかしどのようにするか、如法な上師が教えることは必要で、灯をつけて、仏を読むのが仏を学ぶとは言えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の癌症を治さなければ、そなた達に癌症の問題を解決するのを助けることが出来わけはない。衆生は無明のため悩みが起こられて、殆ど仏法に対して疑い心を起きたが、そなた達はして見るべきで、仏法はそなた達の生活の中に役に立つか御覧なさい。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学んで何時までも迷信しない。仏法はリンチェンドルジェ・リンポチェに対してどの役も立たなければリンチェンドルジェ・リンポチェもそなた達に従ってするのを教えない。

普門品は後ろに続いて説いた:「若有持是觀世音菩薩名者,設入大火,火不能燒,由是菩薩威神力故。」(観世音菩薩名号を唱えれば、大火に入って、火が焼けなくて、菩薩の威厳な神力の故である)仏経の上にどの文字でもすべて修行するに使い、どの経文にの修行はまた自分のと衆生が修めるのに分けて、先ず自分が離脱出来るを修めてはじめて衆生のため修めることが出来る。前その何言目の中に「一心稱名觀世音菩薩」所謂常に自分が修める、自分が修めるとは利己的で自分のため修めるのではなく、やはり衆生に苦しみを離脱させるため修めるのである。先ず自分が離脱出来るように修め得て、自然にさらに能力があるまで修め得て衆生が離脱するのを助けることが出来る。後ろにこの言葉が「持」を使って、この字はつまり衆生のため行った法である、自分があったことを入れて、観世音菩薩を唱えて助けを獲得する。前の法はさき修め得てから、後ろの修法が始めて有効である。つまり、そなた達はいつも絶えずに観世音菩薩を修めれば、用事があった時観世音菩薩を読めば観世音菩薩がはじめてそなたを助けに来る。常に六字大明呪を唱えなければ、必要があるとき初めて読んで、あの時出した電波はとても弱くて、菩薩は全く聞くことが出来ない。地球上で毎日こんなに多い衆生が観世音菩薩に願って、そなたは毎日唱えれば、観世音菩薩はそなたの声が比較的によく知っていて、そなたが苦難にあったとき割合にそなたの声が聞こえた。

声を聞いて苦難を救う観世音菩薩は、心で衆生が苦難を受ける声を聞いて、地獄道、餓鬼道の衆生は心で観世音菩薩に求めれば、一回を求めれば観世音菩薩が受けることが出来る、彼らがとても苦しんで、懇切な心で祈るから。衆生の願いに対して、観世音菩薩の力はあるところに滞在することはしない。例えば、A、B、C、Dは全部観世音菩薩に求めに来て、観世音菩薩の力は只Aの身の上に応答するのではなく、B、C、D等全部同時に応答する。《金剛経》の中に述べたように、住する所無うしてその心を生ず(どんな事にも心を執着させることなく、自由に心を使いなさいということ)。リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修める時、とうして2000キロメ-トルの長さの距離はやはり相手の梵穴に穴を打つことが出来た、つまりこの道理で有る。

普門品に説いた火で焼かなくて、盗賊が害をしないなど、これらは全部事実で嘘ではない。かつて一回,リンチェンドルジェ・リンポチェがすでに出て衆生を助けた時、リンチェンドルジェ・リンポチェが家にワイシャツをアイロンしていて、半分した時ちょっと用があって出掛けて、電源を切ることが忘れて、またアイロンも直接着物の上に置いたままで、用が終って家に帰った後やっと発見した。一般的にこんな情況は必ず大火を引起した、しかしなかった、着物の上に黒焦げの印しか残らなかった、それに、火事が起きなくて、電源線も平穏無事で,焼かなかった。

古代にある者は用心で観音法門を修めて、彼ら家族皆は全部菜食する。ある日、彼は半睡半醒中、観世音菩薩が現れて彼に教えた、何日後、一人強盗が彼の家に奪いに来て、この強盗のあたまかぶの名前さえも全部言い出した。この人は前世あの強盗を殺して、何回を切った。だから、彼はこの強盗に欠けて、この強盗は借金を取りに来た。観世音菩薩は彼にこれらの話をあの強盗に聞かせて、自分が返済したいと言いつけた。果たして何日を過ぎて本当に大勢な強盗が彼の家に不意に飛び込んで、全ての家族皆を縄で縛った。この仏を学ぶ者は強盗のあたまかぶの名前を呼んだ、この強盗は非常に不思議に彼にどうして彼の名前を知ったかと聞いた。彼は観世音菩薩が彼にのご開示を皆に聞かせた。それに強盗に只彼一人を殺して、外の家族を放すると頼んだ。あの強盗は聞いた後、 刀のみねでこの人を同じ多い小刀してから離れた。

この物語は我らに教えた:第一、普門品の中に述べたように、常に観世音菩薩を唱えて、確かに観世音菩薩の助けを得て、刀兵の災厄を離脱する。まるで、リンチェンドルジェ・リンポチェは息子と彼のクラスメートと禍を招く時、やはり観音法門を修めて事柄を変わった。第二、本当な仏を学ぶ者は、まったく順従で、この物語の中にのこの者のように、観世音菩薩がどのように彼に教えて、彼はまったく従って、こうすればはじめて効果があった。第三、因果は変わることが出来ない、観世音菩薩がそなたの目の前に現れても、果報を取り除くことができない、但し、観世音菩薩はそなたに果報が軽くなるのを助ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェは現場で何名出家衆に聞いた:そなた達の外の法師がこんなに普門品を開示したことがあったか?出家弟子達が全部首を横に振って応答した。

ある弟子は立ち上がって報告した:以前嘗て法師が普門品を開示したのを聞いたが、全部只文字の上の解釈で、今までリンチェンドルジェ・リンポチェのようにこんなに自分のしっかり修める経験を融和して、普門品をこんなに透徹で話すのがない、聞いた後、雷が耳を通したような感じた。

もう1人弟子も報告した:以前外の所で仏を学んで、多くのチベット法を受けた、灌頂を受けたとき、灌頂を与える上師は本尊の功徳、容貌、眷属、手勢、使う法器を弟子に紹介して、紹介終ったら、弟子に自分が修めるようとさせた。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのようにこんなに詳しくどのように修行するのを教えることは以前がなかった。それに、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の修行する経験と普門品の経典と一緒に仰って。弟子にどうしっかり修めるのを教えて、この弟子も今までこんなに深い解釈を聞いたことはない。さらに、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェがはっきり開示された、前半は自分の修行の方式、後半は他人を助けるのを聞いた事はない、こんなに詳しく申された。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されなければ、一生普門品を読んでも分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェは中国の経典とチベット仏教の教法を融和して、我らが慣れて、聞き分かる方式で教えてくれて、非常に容易ではなくて本当に1人偉くて得難く上師である。

リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示された:仏を勉強するのが急がないで、絶えずにするべきだ、いつか出来るか、出来るか出来ないか、よくできるかを聞かないで、仏法には所謂良しがない、良しがあれば、自然に良くないのがあり、良し悪しがあれば、つまり分別心がある。密法を学ぶのがとても速いが、1年、2年、10年が出来るものではない。それで、われらは全部の心力を尽くして仏法を勉強するべきで、仏を学ぶのは一番大切なことを見なさい。法本の中に祈った、衆生が非時で死亡するのを避けるように望んだ。誰でも意外にあうことがあり、非時で死亡しなくて、足りる時間があって仏を勉強して修行するのが出来るように希望しておる。仏を学んで良くないことが起こらないように希望しないで、良くないことが起こってはじめてもっとそなた達の出離心を固めることが出来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生沢山の苦しみを受けた、何年前、嘗て夢見して、祖師ジッテン・サムゴンが現れてリンチェンドルジェ・リンポチェのため修法して二日間後、リンチェンドルジェ・リンポチェが大きい交通事故があって、車は毀したが,体は大丈夫であった。そなた達は祖師がすでに修法したのになぜまた事故があったと思った、果報は必ず返さなければならなくて、やはり現れる、但し仏菩薩がそなたを助けることが出来て、果の味をあんなに苦くさせない。祖師ジッテン・サムゴンはリンチェンドルジェ・リンポチェの命を残って衆生を助けることが出来ると思うかもしれない、だから、現在1人命が要らなくて済度するリンチェンドルジェ・リンポチェがいた。人生は如夢如幻で、思いが起こるとないというとまたありそう;あると言って捕まっても捕まえない、そなた達は寝る中夢で見た色んな情景も真実のようであらないか!

リンチェンドルジェ・リンポチェは数百年以来に祖師と緊密な関係を保持させたので、危難の際に、祖師の手伝いを得られて始めた。だから、そなた達に毎日に六字大明咒を唱えさせて、観世音菩薩と良好な関係を維持させるわけである。ある者は、今日、疲れすぎるので、唱えないで翌日にまた補う事と話した。一部の人々は生理期のわけで調子が良くない、一回でお休みをしたい、観世音菩薩が女性なので理解できると話した。この話を言った人は宋朝に生れ変って来るようである。誰は観世音菩薩が女性である話すか。唐朝には、観世音菩薩の法相が2本のひげがあり、宋朝になると、社会文化の背景のわけで、観世音菩薩は段々女性の姿で現れた。観世音菩薩を修める法身大士は男女相の分別がない。記載には、観世音菩薩は32個応化身があり、どなたは真に観世音菩薩のでしょうか?

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に観世音菩薩の潅頂を与えたので、観世音菩薩という本尊をそなた達に紹介させなければならない、そなた達に正確な心構えを持たせる。発心は極めて重要で、発心とは菩提心を起すのである。如何なる法門を修める前に、最初皈依し、それから正確な心構えを持ち、心構えが正確であれば、如何なる法門を学んでからそなた達に役に立たせる。或は、そなた達が何回目に唱えても、そなたに何か効用もない。

カンポバ大師は発心の重要性が3種類を分ける事と仰った。最高なのは広大な菩提心で、此れはとても簡単で遣り遂げる事ではない。そなた達は戒律を守ったり、戒律を持ったり、福報を累積したり、業障を清めたり、供養したり、布施したりする事にかかわらず、これらの一切な法行が声聞菩提、縁覚菩提に向く事が出来ない、却って広大なる菩提心を起して正法無上菩提を証して得るべきである。広大な菩提心とは、そなたは一切の有情衆がそなたの生々世々の父母親であることが知っていて、だから一切有情衆に正等正覚を証悟して、成陀することを助けるため、、各々法門を次第に学んで、疲れて厭きる事をしないで、一生懸命に実行で修める。「自利利他」とは、自身が利益をあらかじめ利益を得てから、他人に利益する事ではない。が、菩提心を発して修行し、広大な有情衆生を利楽してあげるのため、自分が生死を解脱し、仏果を証し、すると、もっと多くの衆生を助けてあげられる。

次第で修行するとは、自分がある程度に修め得ると停滞し向く事をしたくない、新しき法門を学ばない事である。様々な不同な法門をわざと学ぶ事ではないし、自身が素晴らしさを感じるので多くの法門を学ぶ事ではないし、多くの衆生が悟る事を助けてあげるの為に、自ずからより深くて広い仏法を学んでいくわけである。

真に菩提心を発する者は衆生に嫌気がする事を感じられない。ある者が広大な菩提心を発して修行する過程に、衆生に嫌気がする事を感じて、自分が上手く修める事が十分である事を思っている。そうすると、声聞縁覚を修めてる事が変わって行って、阿羅漢果の小乗仏法を修める事が替わっていく。阿羅漢を修めて生死をしないけれども、大乗仏法及び金剛乗仏法により不十分で、菩薩道を修めて仏果になる距離に非常に遥かである。或は、一部の人々は自分があるラベルを修め得る事と思っていて、少々な満足高慢を感じて、このような人々が大変してしまう。或は、あるラベルに上げて修める事が苦労だと思っていて、自分を現在のラベルを局限させる人も駄目である。自分により修めれて、上師が要らない者であれば、即ち「貢高我慢」である。「貢高我慢」は慢心を指す事だけではなくて、心がとても高くて、誰でも依頼する事が要らないと思っている事である。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで直貢チェツァン法王も需要し、況してそなた達のでしょうか。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで直貢チェツァン法王求めて、多くの仏法を伝えさせて、不同な法門を学んでより多くの衆生を利益している。

中等菩提心とは、そなたは一切の有情衆がそなたの母として、慈悲心を引起して彼らを助けるのである。現在、リンチェンドルジェ・リンポチェが皆にずっと教導するのは衆生が自分を母として、衆生が苦しみを離れる事を望んでいる。中等菩提心を発する者は、ある法門を専修し、この法門に堪えずに精進し、ラベルを昇格させる、リンチェンドルジェ・リンポチェが観音法門からそなた達に教える事のようなである。リンチェンドルジェ・リンポチェは観音法門から学んで、観音法門が上手く修めるならば、他の法を修めて速く成就できる。此れは観世音菩薩が慈悲深く代表で、慈悲心と菩提心が仏法の基礎である。もし此れが遣り遂げられるならば、同様に素晴らしい事である。簡略な菩提心は全ての有情衆生に利益する心で、この心を発する者がある法門のあるラベルに留まる。

菩提心は「世俗菩提心」と「勝義菩提心」を分ける事がある。世俗とは俗っぽいではない、それでわざと発する事で、依然としてわざとらしい菩提心を含める。世俗菩提心はそなたの意識にて作って出て来て、ある者はわざとらしいさまと話した。然し、わざとらしいのはしない事に比べて良いである。勝義菩提心は人間の意識を経ないで、空性で自ずからする事である。これ等の上、中、略の菩提心は世俗菩提心を含めて、思って出る事で、しかし、続けて修めて、勝義菩提心が自ずから表せる。五戒を守る者は慈悲の意味を了解して始められる。十善法を修める者は、慈悲を修めて始められる。慈悲心を修めて出てから、自ずから菩提心を発する事が出来る。

経蔵を深く入る事とは、多くの経典を読む事ではない。経蔵を深く入るのは、仏経曰く真に目的がどこにある事が知られる事である、他人から聞いて何か法門が良いと、何を修める事をしてはいけない。他人から聞いて準提菩薩が素晴らしいので準提菩薩を唱える。孔雀明王が良い事を聞いて、孔雀明王を修める。ある孔雀明王を広めさせる法師は、他人に治させる事が真言を唱える事ではない。これはあの法師がリンチェンドルジェ・リンポチェの顕教の皈依師の友人のわけで、だから、一回、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら見て、ある者は彼に治してくれる事を求めた時に、彼は推拿をして、処方箋を与えるような方法を採用した。これは孔雀明王経の法本には潅頂がないので、或いは直接に真言を唱えて相手に助けられる。法会の前に、分かち合いの弟子は、自分が嘗て「雑阿含経」を学んだ事があった事を言った。「雑阿含経」は仏陀が「四聖諦法」、「十二因縁法」を継いでから開示させて、阿羅漢に修めて、つまり出家相を現れる者に修めて、何も要りたくないのである。その上、説法する者は出家相を現れるのみではなくて、仏を聞く者も出家相を現れなければならない。しかし、この弟子は結婚したり、子供がいったり、仕事もあったりする事があり、何も欲しがって、仏経が要求する事が違うので、当然に修め得なかった。「華厳経」には、出家衆は起きてから目を開けてら、衆生を利益しなければならない、お手洗いへ行っても衆生を利益する事も要る。何人が遣り遂げられないのでしょうか?もし遣り遂げないならば、リンチェンドルジェ・リンポチェが教導して伝授する観音法門を素直に従って、毎日に有りのままに唱えて修めていく。

2週前に、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に殊勝な観世音菩薩の灌頂を与えて、多くの弟子達が全身で発熱を感じた。ある弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェが寶瓶を彼女の頭に置いて少し触ってから、彼女がある暖流を身体に入った事を感じた事と話した。ある弟子は、全身がある熱気を周って、これにより汗が出た。ある弟子は、リンチェンドルジェ・リンポチェが始めて灌頂した時に、彼女が既に熱気を感じて、が、その時に空調の設定が変わらなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示させた。灌頂する時には、熱さを感じるならば、上師に充分な信心を具える事を示す。或いは、既に世俗菩提心を既に発した。然し、そなたが熱さを感じられなかったので間違った事ではないし、ある者は感じが一寸遅鈍である。リンチェンドルジェ・リンポチェが灌頂を与える時に、自分の能量をそなたに与えて、そなたの能量を補充させた。然し、そなた達は怒って、肉食が好きで、或いは欲望が重いので、能量を消耗させて、灌頂がそなたに少しを補充する事が出来る。然し、能量を補充してからそなたが全部が良くなっていく事ではない。これはただそなたが修行する方面の障害を減らさせて、重要なのはそなたが自分でしなければならない。前回、リンチェンドルジェ・リンポチェが観世音菩薩、阿弥陀仏、蓮師の三つ合いを修法した時に開示したことがあり、上師から本尊灌頂をもらって、その上、「生起次第」と「円満次第」の観想を伝えた後、そなたはこのように実行で修めるならば、この世に必ず成就する事を得る。成就を得る意味とは生死を解脱する事である。

顕教は心を修める事を教えるが、身を修める事を教えない。密法は身と心を一緒に修めて、その上、密法を学ぶ時に、身体が特に重要で、だから、「大蔵経続部」には、密法が極めて特別なのは身体を修める事が出来て、全ての真言がそなたに福報を累積させられる事を除いて、そなたの身体も役に立たせる。道教も声を利用する法門もある。声は我々の身体に確かに影響があり、これはそなた達が好きな音楽を聞くと、身体も伸び伸びしている事を感じられる。我々の累世の業は、善或は悪に拘らず、と今世に作った業が全て我々の気脈にいる。業は気脈に流れて、我々が呼吸、心脈があれば考えが合ってはじめる。六字大明咒はただ短く六つ字だけけれども、全ての字が我々の身体の気脈に関して、唱える方式が正しいなら、身体に何か役に立つ。もし上手く唱えるならば、病気を治す事も出来る。そなた達は自分の方式で六字大明咒を唱えると作用があり、真言を唱える声が標準かどうかが重要ではない、重要なのは正確な観想を配合して真言を唱える。ただ唱えると成就する事が出来るならば、それでは仏を唱える機械の声がこんなに標準で、まさか成就を得るのでしょうか?

我々がこの世と累世に作った業は、我々の気脈に存在し、心の気脈を影響させて、だから身体が発病が出来る。真言を唱える事は気脈を震動させる事が出来るので、我々が業の気を中脈を押し進めてから、心の気脈が影響を受け入れない、その上「定」の境界に至って、そなたに業力の影響を受けさせない。修行は効き目がある事とは、そなたが「定」の境界を修め出るかどうかに判断させられる。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の為にポワ法を修める時に、禅定の力により修法者の業を気脈から上に押し進めて、此れはとても強い力が遣り遂げられる。胡座により「定」を修める事は長い時間を経ないと至らない。現代人は胡坐により「定」を修める事を得ない。そなたは六祖慧能であれば、可能です。だから、真言を唱える事はインド教の法門ではなくて、仏法の法門である。多くの人々は仏教が真言がないと持っていて、実には我々が阿弥陀仏を唱える時に、仏の仏号を唱えないで、却って阿弥陀仏の真言で、此れはチベット仏教と唱える声が一致で、阿弥陀仏の仏号が「無量光無量寿仏」である。

ある者は密法が無いと言って、ある者は真言を唱える事がインド教から来る事と言う。密法は確かに釈迦牟尼仏が自ら伝えてきて、ただそなた達が法本に見分けがつかない。リンチェンドルジェ・リンポチェの母親は、リンチェンドルジェ・リンポチェが毎日こんなに大声で罵って、未だ3時間の仏法を説かせて、中気が足りると仰った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、密法を修める事によらないなら、毎日このような衆生を助けて、この身体も対応できないと仰った。多く人々は此の中の奇妙が了解しないので、何か誤解があって、間違った伝言をそのまま伝えて、多くの人々にチベット仏法を不正確な観念を引起させて、多くの人々が了解しないので、間違う言論を発表し、顕教と密教の調和を破壊して、これは不適切である。

2007年、リンチェンドルジェ・リンポチェはラチ雪山へ閉関する時に、直貢チェツァン法王はある殊勝な密法本尊をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えた。第一週、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの本尊の真言を唱えた時に、極めて苦労へ、此れは真言を難しく唱える事えはない、実は、この真言がリンチェンドルジェ・リンポチェが早めに知っていたが、此れは直貢チェツァン法王がこの法をリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えて、この真言によりリンチェンドルジェ・リンポチェの全身の気脈を貫通するわけである。

その時の閉関、リンチェンドルジェ・リンポチェは六道衆生が輪廻で苦しみを受ける事を自らみて、泣き崩れることは止まらなかった。此れは彼達が苦しみを受けるので泣くわけが無い、菩薩心を自ずから生じて泣いたわけである。この事を直貢チェツァン法王に報告し、直貢チェツァン法王の開示はリンチェンドルジェ・リンポチェが既に空性を証して、世間の事が既に分別心もなかった。ミラネバ尊者は「六道衆生が輪廻に苦しみを受ける事を聞いたら、聴く事でも聞けない」と仰った事がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がまだ見える事により、修行が十地以上菩薩のミラネバ尊者に比べて余計である事を謙遜で仰った。

法本には廻向に言及する事がある。廻向は自分の家族、認識した人間を廻向する事だけではなくて、全ての有情衆生に廻向し、我々はこの六道にどの位に輪廻する事が知らない、どの位に我々と相関する祖先が六道に苦しみを受ける事が知らなかった。廻向する時に、ただ法本に書かせる内容にて唱える事が十分で、六道の一切の有情衆生に廻向し、そなたの自身も含める。ある女の法師が話すようにしてはいけなくて、「自分で使えることも足りないので、他人に廻向しない」というのはとても不正確な言論である。そなたが六道衆生に廻向する時に、そなたの自身も六道衆生の中に、自分の利益を収めてはいけない、そうすると、上師と本尊の功徳大海にいってはじめる。

経典の記載には、人間の一生の呼吸する総計回数は固定させて、人々が同様で、動物も同じで、ただ最もどれだけ数百回の差異がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは現在の心脈が毎分62回で、今後益々40回になるかもしれない、つまり回数が少なくなって、リンチェンドルジェ・リンポチェがより長寿を代表する。亀の呼吸回数はより遅くて、だからより長寿である。肉食を好む人は呼吸がより速くて、此れは彼達が食べ過ぎて肥満になって心臓を圧迫する事であなくて、此れは食べたのが全て動物の身体で、動物が殺させた時の驚いたので、呼吸が速くて、だから、これ等の肉食をする者の呼吸もより速くて、心脈もより速くなっていく。呼吸が速いのは、気が業力を押し進む時に押し進まない、此れは気が速くて終った。肉食を食べる者は食べられるのが動物の業で、その上、気が業を押し進まないので累積してくる。漢方医学もよく説いて、常に怒っている者がより短命である。リンチェンドルジェ・リンポチェはアチ護法に話して、菜食する事が出来ない者が彼達に法会に参加させない。法会を来る時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に少しを綺麗させて、そなた達が帰宅してから再度食べてまた積み上げている。

今日、多くの顕密方面の修行法門を教えて、仏法を聞く機会を珍重し懸命に実行しなければいけない。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは前週開示の友達の息子と自分の息子を六字大明咒を唱える事を助ける事を役に立つのでしょうか?此れはリンチェンドルジェ・リンポチェが普通に毎日に唱えている。俗語は苦しい時の神頼みを話して、そなた達は普通に唱えないで、関係を繋がない、用事がある時に、あるビスケットを仏に祀って、何も得る事が欲しいならば、無理である。観世音菩薩は多くの護法がいて、ありこちに衆生を見て、常に観世音菩薩を唱える者は護法が先に助けてあげる。

一部の人々は自分が忙しいと感じて、在席の皆はリンチェンドルジェ・リンポチェにより忙しい人がいない。リンチェンドルジェ・リンポチェが顕教を学んだ時に、毎日に観世音菩薩の聖号を1万回を唱えて、2冊の普門品を唱えて、時間があったら40回の大悲咒を唱えて、時間が無いならば14回を唱えていった。帰宅してからテレビを見れば、時間があったら功課をすして、毎日に六字大明咒を唱えない者が今後も来ないで下さい。寶吉祥はこんなに怠け弟子がいない、護法を手伝って撃退して、リンチェンドルジェ・リンポチェが速い遅いでこれ等の人を見付かる。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の顔色を見ると、そなた達が毎日に唱えるかどうかを知っている。此れは常に唱える者が最後に顔が観世音菩薩のようではない、誤解してはいけなくて、それで顔色からすぐ見分けがつく事である。

2011年3月12日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時50分から夜9時40分まで、100名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年3月13日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な共修法会を主催して、『観世音菩薩普門品』の中の重要な観念を開示して、しかも観音菩薩の修持法門を開示した。

法会が始まる前に、ある女子弟子は尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に懺悔した。

彼女は乳癌の三期に罹ったから、この機会と因縁を得て、リンチェンドルジェ・リンポチェに会うことができる。初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、リンチェンドルジェ・リンポチェはとても慈悲に彼女に、どうしたんですかと聞いた。彼女は彼女が乳癌に罹ったと言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェに会って死にきれないと答えた。彼女は家族がすべて彼女が手術を行ってもらうことを望んでいると言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは、「そなたはふだん家族の話を聞いていないが、どうして家族はそなたに手術をうけに行かせると要して、そなたはすぐ行くのか?」と開示した。間違いない。確かに、彼女は両親の話を聞き取ってくれないから、リンチェンドルジェ・リンポチェは一語で彼女の心の中に図星をさした。彼女は死ぬことが怖いから、それにようやく再び手に入れた前夫の姑と子供の親情を失いたくない。彼女はこれらのすべての貪念を惜しんで思って、だから家族と子供は彼女に手術をうけに行かせる時に、彼女の心の中は承知したい。その時に、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに十分な信心を備えていないで、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分も嘗て皮膚癌にかかった事があったが、しかし何も治療をやらなくても治ったと開示した。彼女は「本当にできるのか。」と思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に、もし彼女が手術を行う時間が決まったら、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来なさいと教えた。彼女が上がって帰るところ、力強く敲かれて、彼女は奇襲されたと感じたが、その後に彼女の妹がとても嬉しく彼女に教えて、あれは上師が彼女を加持するのであり、多くの人は求めても求めきれない。彼女が聞いたが、喜びと疑惑は半々である。

彼女は手術を行う時間を決定した後に、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、ぜひとも彼女が菜食料理を食べてからはじめて彼女に甘露丸を上げることを要した。彼女はちょっと躊躇って、リンチェンドルジェ・リンポチェがすぐ彼女を先にそばまではっきり考えてから再び来ることを要して、そして「そなたはこのような病気に罹ったのに、まだ菜食料理を食べないか?」と言った。彼女の心の中では、その理屈があまり理解できないが、しかし依然として菜食料理を食べると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェはそこで彼女に2粒の甘露丸を与えて、手術を行う前後に1粒ずつを食べる。手術を行い終わって、すべてはとても良くて、復元もとても速い。3週間の後、彼女は化学療法を行い始めてもらって、あれは彼女の悪夢の始まりである。医者は彼女が痩せ過ぎているからと言って、心臓が負荷できないことを恐れて、その故新しい薬を使って、毎回は自費で6万数元が必要であり、化学療法は6回しなければならないが、しかし彼女は4回までやり続けたがその後は続けることができない。第1回は熱が高くなったため、白血球は700余りだけに下がって、咽喉の粘膜に起きる炎症のため食べ物を嚥下できなくて、髪の毛は全て落ちて、そのため1週間ぐらい入院した。第2、3回も絶え間なく急診に通っていて、第4回はほとんど彼女の負荷を超えて、全身はやけどのように黒くなるみたい。末梢神経が最もすごく傷つけられたから、手が痛くて物を持つことが出来なくて、足も歩くことができなくて、熱が高くて連続して、咽喉と口は全部潰爛して、完全に食事することができなくて、人も殆ど半分人事不省の状態に陥って、赤血球の指数が低くて5、6だけであり、ずっと抗生物質の注射をした。手と足はやけどの方式で取り扱って、全身はミイラと似ているように包んで、飲食と排泄はすべて看護のお手伝いによることしかできない。医者もとても緊張していて、20年間医者をしているが、彼氏が化学療法の反応がこんなに大きい者を見たことがないから。彼女が退院する時に、医者は彼女に、再び化学療法をする必要はないと言った。なぜかと言うと、彼女の首の所で2粒の腫瘍を取り出したが、しかし化学療法を受けている期間、同じ所でまた1粒の新しい腫瘍が出来て、これは化学療法が彼女にとって効果がないことを表した。その故、彼女は変更して放射線治療をして、結果は放射線治療の地方は全部潰爛して、耐え難く苦痛であり、そこで医者はまた彼女にステロイド-ホルモンを食べさせて、彼女にきっとやり終えるように励ました。

彼女の妹は彼女が苦しんでいる事を見て、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁する事をアドバイスした。それで彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、自分に法会に参加させて、自分は業障が重いと思ったから。リンチェンドルジェ・リンポチェは全ての人は業障がとても重いと開示されたが、彼女に法会に参加させる事を同意しなかった。その後、彼女は再びリンチェンドルジェ・リンポチェに求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に治療が終わったかと聞いた。彼女はとても苦しいと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ言ったが、「治療が終わったかしか聞かなかった。苦しいかどうかを聞かなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは当然苦しいと分かった。」リンチェンドルジェ・リンポチェはまた結果はどうだったと聞いた。彼女はまだ分からないと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェは再び何の用件でしょうかと聞いた。彼女は法会及び施身法法会に参加したいと返事した。リンチェンドルジェ・リンポチェはいいだけど、菜食しなければならないとおっしゃった。彼女は非常に喜んで、いいと返事した。彼女はとてもリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、自分に仏を習う機会を与えて、法会に参加させて、仏法を聞けて、因果の恐ろしさを了解させた。

久しぶりの同僚達は今の彼女を見ると、何故自分の体調がいい姿で、ちっとも重病に罹った人を見えないと思わずに賛嘆した。彼女も仏法及びリンチェンドルジェ・リンポチェの力はこのような強いと発見した。しかし、愚痴、エゴで感謝を分からない彼女は2010年にリンチェンドルジェ・リンポチェが当年大法会を二回行う事に反対投票した。当時彼女は大法会を行なえば、大金がかかると思って、自分の経済能力は負担できないのを恐がるが、綺麗な言葉を言って、上師が苦労になれば、堪らないと心配した。だからエゴで愚かな彼女は反対投票した。逆にリンチェンドルジェ・リンポチェが一生の願いは衆生を済度して、衆生を助ける事を忘れた。リンチェンドルジェ・リンポチェは不断に精力、時間、体力を使って、苦労を考えずに衆生を済度しているが、彼女は自分の利益のために、愚痴で無知に衆生を損なって、法会に参加させない。彼女は自分が犯した間違いに対して、極めて苦しかった。毎日衆生は自分を許せることを祈っている。それは彼女の心が間違いから、自分はうまく行わず、うまく修めなかったから。大法会の当日、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に参加させるのを同意した時、彼女は堪らずに涙が流れた。心の中に不断にリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、自分の祖先たち、冤親債主及び衆生に済度を得た。

若しリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を救えないと、彼女は如何なる食事が出来て、子供と一緒に食事したり、話したりするわけではないだろう。彼女はこのような日々を過ごす資格がないだろう。彼女はまだしっかりに修めていない。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが心からの教えを忘れた。毎回彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが法席に五六時間、尚更に長い時間を座って、面倒を嫌がらず、老婆心から繰り返して衆生を助ける姿を見て、まるで灯台のように迷い衆生を照らした。しかし、私利私欲をむさぼる彼女は最近仕事の関係で常に怒って、同僚によく対応しなかった。ある時話した声もとても多くて、態度が悪い。唯他人が自分によく対応いない事を思って、それは自分がよくないことを完全に思わなかった。自分はよく行わないから、他人に感じさせない上、この結果になった。彼女は怒って憎んでいるのは全て自分がうまく修めないから。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示されたが、瞋恚心を持つと、来世蛇やドラゴンになる。その日彼女は運転した時、偶然に仏法テープにこの開示を聞いて、涙が止まらなかった。何故上師はいつも老婆心から繰り返し、衆生に忠告しているのに、彼女は行えないだろう。そうすれば、如何なる衆生の許しを求められるだろう。日本に起こった壊滅した地震を見ると、彼女はとても驚いた。彼女は自分が如何なる幸運で福地の台湾に生活しているだろう。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは止まらずに修法して、罪だらけの悪弟子として彼女に仏法の守りで仏を習い続けている。嘗て、彼女は愛人になって、悪い女であり、力を尽くせず、姑や子供を世話しなかった。自分の私欲だけを貪った悪女なのに、リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩の守りでいい日々を過ごせる。彼女は深く恥ずかしい気持ちを持ちながら、感謝しているから、全て彼女に発生した悪果は彼女は文句せずに完全に受けた。それは自分が播いた因から得た果である。彼女は再びリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、自分に懺悔する機会を与えた。

続いてもう1人女弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩に懺悔し、彼女が生々世々に全て作った悪業及び起きられた心と考えを懺悔した。

彼女は幼い頃家が農業に徒事して、嘗て無数な小動物を害した。重大な祝祭日に、ひいては鶏を殺して、谷川のそばで魚を掬い上げて、田螺を拾って、また田辺に蚯蚓を攫んでアヒルに食べさせたことがあって、なお嘗て鼠を捕らえて、さらに水で鼠を溺死させて、ごきぶり、ありに薬を噴出して死なせて非常に残酷であった。大人になって嘗て2回アボ-ションをして、肉食が好きで、ひいては家族皆を連れて焼肉して、身、口、意が不清浄で、貪、瞋、痴、慢、疑が起きて、色んな悪業を作って、数え切れないほど多かった。

リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏法を学んでいた期間で、家の中に只彼女が皈依したが、リンチェンドルジェ・リンポチェが全力を尽くして彼女の家族を助けるのをやはり深く感じた。彼女の二番目の娘は大学3年生頃、手は腫れ脹れて力が無くなって、1本歯磨きさえを持っても大変痛くて、遍く西洋醫学を訪ねても病因を捜し出すことができなかった。 その時、彼女の娘が寮で飼っていた猫は毎晩彼女の娘の顔を噛んで、また爪で彼女の娘の手を掴んで、これら猫つめの傷あともずっと良いになることがない。リンチェンドルジェ・リンポチェに伺った後、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された、寮の中に飾った鏡を100メ-トルの外部の空き地に置いて、また過程の中に頭は振り返ってはいけなかった。彼女の娘はお話に従った後、手腕の痛みの頻度は多く下げた,手の上にの猫の爪痕は二日間の内に半分を消えた、飼った猫も温順になった。

三番目の娘は高校三年生頃反逆して、家を出た。この弟子は娘が外で悪くなるのを心配するので、リンチェンドルジェ・リンポチェに伺って、リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、子供幼い時教えるべきで、今更大きくなってやっと教える何で、それに彼女の二番目の娘は三番目の娘がどこにいるか知るはずとヒントした。結局大変順調に三番目の娘を見つけた。娘はその後また家を出たが、今回彼女はもう一度リンチェンドルジェ・リンポチェに伺わなかった。彼女は自分が良くしないので娘が順従にならないと懺悔しながら、もう一方はリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩はきっと一番良い手配をしてくれると思った、最後に、三番目の娘も思い切って家に帰るだと思う, あらためて勉強をすることになった。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のためしてくださったのを大変恩に着て、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに懺悔して、良く従わなくて、いつも執着して、おろすことが出来なかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て仰った、胎を殺すのは一番大きい殺業で、殺業の重い者は癌に罹る事になる。今日彼女の果報は既に現われて、彼女は過ちを知って、それに一切の過ちと果報を引き受けた。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生を憐れんで彼女が全て害した衆生を加持するように祈って、衆生皆は彼女の懺悔によって、上師の加持を得て、皆早めに苦しみを離れるように望んでおる。同時に彼女は恩に着てリンチェンドルジェ・リンポチェは分別心がなくて、弟子達のために因縁福報を蓄積するチャンスを作る。彼女は印度への巡礼が6回行った、その中にの2回が閉関の勉強であった。家の経済状況は許さなくて、家族もたまに文句を言ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸菩薩の配置の下に、最後彼女はすべて順調でリンチェンドルジェ・リンポチェに従って巡礼することが出来た。

去年、インドの閉関定員が10人のみであった。彼女はこの前に彼女に閉関するかどうかを尋ねて、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの優秀あ弟子が多いので、自分が機会がないと思っていると回答した。彼女は、この過程の間に、必ずリンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩が彼女の福報が足りない事を知っていたので、絶えずに機会を作らせることと深く信じていった。リンチェンドルジェ・リンポチェ及び護法の手配の下、彼女の娘は、彼女が閉関の機会を知った後で、彼女に経費を準備させて、彼女にリンチェンドルジェ・リンポチェに順調で従ってインドに向いて閉関を学ぶ事が出来た。閉関の期間には、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の為の手配を絶えずに深く反省して思っていた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが苦心して弟子達に教導して私心のない奉献にとても感謝致した。

リンチェンドルジェ・リンポチェが法会に「仏法を学んでから治さず病気に罹るなら、懺悔心がない」という開示された事がある。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに既に8年間に従って、現在、まだ悪質腫瘤という治さず病気に罹って、此れは彼女の懺悔心が足りないし、教法に従ってしっかり実践した事もないし、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの教導を恥ずかしく思っている。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに病状を報告してから、リンチェンドルジェ・リンポチェが慈悲深く彼女の3人の娘を道場に大礼拜をさせて、彼女の為に懺悔して福報を累積させた。リンチェンドルジェ・リンポチェの手配は彼女のみではなくて、同時に、彼女の家族に福報を累積させた。彼女の長女の偏頭痛の症状、次女の睡眠問題と最若年者の娘の胃腸の問題も改善される事を得た。リンチェンドルジェ・リンポチェの厚恩大徳に報う事が容易ではない。

彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに衆生を憐憫する事を願って、彼女と彼女に傷付けられた衆生が浄土に往生する事が出来て、その上、再度リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝致した。最後、彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが常に世に留まって、法輪が常に転じて、法体の康泰、吉祥如意、仏法事業を広めて発揚する事を願っていった。

法会が始まって、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは先週《観世音菩薩の普門品》の中の重要な観念を開示し続けた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。普門品の中で「一心称名観世音菩薩(観世音菩薩の名を一心に唱えること)」に言及され、ここの「一心」とは、別に他の念頭がないことを表して、ただ1つの念頭だけがあり、何も求めない心にて、全然自分のため求めるのではない心にて、一心に観世音菩薩しかない。そなた達の多くの人が法会に参加しにくるのは殆どある程度求めるのであり、病気が良くなることができるのを望んで、これで1つの心ではない。例えば、道場のたくさんの子供のように、危難がある時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けを比較的に得ることができて、なぜかと言うと、彼らの考えがとても簡単であり、リンチェンドルジェ・リンポチェがとても凄く、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らを助けることができることを信じている。そなた達と違って、そなた達の考えはすべてとても複雑であり、病気にかかった時に、傷口がよくなることを要求したり、また傷口の痛みが無くなるように要求したりして、傷口は良くなってから、またどんな程度まで直れるように期待して、なかなか満足させにくい。そなた達の心の中が思うのはすべて貪、嗔、痴で、自分の欲求に固執して、そなた達の心に妄想を減らすことができるため、そなた達に観世音の名号或いは呪文を唱えるように教えて、そなた達の心にこの名号或いは呪文の上に執着させる。大手印の修行に4つの段階があって、「一心」は第一段階である「專一瑜伽(ヨガ)」まで修め得ることが出来てから、初めてやり遂げるげることができるのである。

「受諸苦悩」の諸苦悩は、そなた達が思っているように、天災に会い、病気に罹ることが苦悩ではなくて、輪迴の大海の中に離れることができないことは苦しみであり、本当な苦しみは六道輪迴の苦しみである。私達は修行するのが自在を得られると言ったが、それはそなたがとても方法があり、何がやりたい場合に何でもやれると言うのではない。いわゆる「自在」は2種類の意味を含まれて、1つはすでに生死輪廻に解脱するまで修め得て、自分が業力の影響を受けないことを掌握できて、輪迴に牽引されない;もう一つは既にもし体はちょっと病気にかかった状況があったら自分でこのような状況を変えることができるまで修め得て、また自分でこのような状況を変えることができる。いわゆる「業」は1種のエネルギーで、私達を輪迴させるように牽引する力である。。業力は善業と悪業に分けられて、ただ悪業だけが私達を輪迴させることができるのではなくて、善業は同様に私達を輪迴させて、生死に解脱することができない。人の体は善業と悪業で出来た「業報身」であり、だからこの一生は事が何もない可能性がないであろう?「自性」は自然に生む法性であり、自己の意識によるのではなくて、人生の経験の掟によるのではない。衆生と仏陀はもともとすべて同じ清浄な自性を持っていて、すべて同じ成仏する条件を持っているが、衆生は一念無明のため六道に輪廻していて、累世の貪嗔痴にもともと清浄な本性を遮られて自分で知らない。仏法はそなた達に、そなたのもともと持っている法性をどのように開くのか、輪迴に解脱する法門をどのように修めるのか、ということを教えて、人に善事をやるべきと教えて、人に接待する時に礼儀が正しく対応して、或いはボランティアをやり、寄付金が被災者を救済することは、これらがすべて人としてすべきなことであり、ただ仏を学ぶ助縁だけであり、仏法の諭された輪迴に解脱するため修行と関係ない。仏を学んで修行して、特に菩薩道を修行して、仕返しを求めないで、名分にこだわらないで、黙々としてする。

今度の日本の大地震は、東京の交通が込んでいることを齎した。事実上、日本の法律の規定により、法人を登録すると、即ち会社・店舗の所であれば、天災の時には、開放して民衆に避難させて、例えば:コンビニ、百貨店など。私達は日本の民衆がとても秩序を守っていることを見て、皆さんはすべて列を並んで物資を受け取っているので、コンビニも無料であれらの家に帰られない被災者に食べ物と保温する毛布を提供する。ちょっと考えてみて、もし台湾だったら、私達はこのように秩序を守ることができるかどうかと自問する。とっくに奪い取ってしまうかもしれない。その上、日本の人民も政府にいくつか時間を与えて処理に行って、彼らが政府が被災者を救済することが遅いにつきて、不平をこぼしたり罵ったりしなくて、前回の台湾の天災が発生した時のように、一部の人が政府を罵ったことがあると違う。考えてみて、人を助けにきた者も人間であり、彼らも被災者を救済しにくることもとても大変であり、かならずいくつか時間がかかって処理に行くことが必要であるから、罵らないでください。甚だしきに至っては、また一部の人はどうして先に大陸人を救ってから台湾人を救うのかということもののしった。来るのは客であるから、もちろん先に客を救くであろう。今華人の観念はすべて変わって、過去の中国の伝統的な美徳はすべて無くなってしまって、自分を中心にするようになって、他の人のために考えることは全然しない。

日本政府はもう一つの規定があり、日本で登録された宗教団体の場所であれば、24時間開放して民衆が礼拝することができるように要されて、閉めることができない。リンチェンドルジェ・リンポチェも日本で宗教団体を創立して、だからこれらの規定が非常に理解した。一部の仏教団体は、メディアの上で自分が被災者をいくつか受け付けた事を広く宣伝した。良い事をするのはもともと人としてすべきな事であり、はばかりなく広く宣伝する必要がなくて、ましてこれは政府の法律の規定はなおさらである。台湾はこのような法律がなくて、だから団体がこの行為を宣伝するのはとてもすべきではない。他の人の危難の時に、それを自分の宣伝として使われて、これも1種の執着であり、慈善事業に執着する。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示して、もし寄付するならば、政府の内政部社会司に寄付したらよくて、基金会に寄付しないでください、何故かというと、内政部の公務員は給料を受け取っているから、そなたは100元を寄付して、彼らは100元をすべて持って助けを必要する人を助けにいく。基金会に100元を寄付すれば、20-30元を外に持って行くことができたら、もう多いほうである。基金会は多くの従業員を養っていて、その他のいろいろな支出があるから。リンチェンドルジェ・リンポチェはとても基金会の運営をよく調べて、だから寄付する時に、基金会に決して寄付しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは当時寶吉祥仏法センターを創立した時、基金会ではなくて、社団法人を選んで登録して、もし基金会を創立したら、リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの支払いをすべて請求し清算することができて、基金会から支払ってもらうことができるが、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのようにしていないで、これまで協会から個人の支出を払うため1元も貰わなかった。何故かというと、リンチェンドルジェ・リンポチェは因果を深く信じて、衆生のお金は気軽にむやみに使うことができないので、同じく使いやすくなくて、使ったらすべて返しなければならない。

そなた達は今日法会に参加しにきて、そなた達が因果、果報を受け取るのではなくて、そなた達が果報を恐れるから。自分がよくない悪業を犯したことがあるのを知っていて、よくない果報の出現を恐れて、だから法会に参加しにきて、よくない事が発生しないでくださいと望む。しかし、もし法会に参加したら、すべてのよくない事は発生しないと、それなら因果がないだとう。もし因果がないならば、そなたが法会に参加するこの善も善果がないだろう。実は、そなたの体が良いかどうか、家庭が幸せで円満であるかどうか、事業が順調であるかどうか、すべてはそなたが仏を学ぶかどうかと関係がなくて、あれらは世間法であり、そなたが過去世に作った善業と悪業がこの1世に現れるからである。ある人は自分が訴訟があり、癌に罹ったことを心配して、しかし六道に輪迴している苦しみと比べると、これらは全然問題にならない、すべてはそなたが自分で作ったのである。もし過去世にそなたが嘗て他の人に無実の罪を着せたことがないならば、誰かがそなたを害して訴訟に陥ることはできない;もし過去世にそなたが嘗て動物をかごの中に入れて閉じ込めることがないならば、この1世にそなたは監獄に入る災に遭わない。自分が運が悪いと言わないでください、いわゆる運が悪い事がない、あれはそなたの福報が使って無くなってしまって、過去に犯した悪事は現れるから。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは皆にきっとずっと法会に参加して福報を累積するように教えて、このようにして、しばらく悪の業力をしっかりおさえることができて、そなたに仏を学んで修行する時間があるようにさせた。

先程懺悔した二人の弟子は一人は子供達と食事する楽しみを執着した。もう一人は既に八年を皈依したのに、悪性腫瘍に罹った。最初の弟子は懺悔と言ったが、実際に本心に懺悔とは言えないだろう。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、自分に家族と一緒に食事をしている。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの目的のため、彼女を助けるわけではない。彼女に時間を与えて、しっかりに仏を習うためだ。それなのに、彼女は家族と食事するのは楽しいと思った。楽しいと感じると、福報はもっと使った。実は子女はそなたと食事するのは楽しい事ではないだろう。多くの人は子女が集まっているのは一家団欒の楽しみを享受し、人情の常だと思って、子女は帰るととても喜んでいる。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはある時も子女と一緒に食事したが、今まで楽しいと思わない。自分がお金を払うから。たとえ子女はお金を払っても喜ばない。それは子女は儲ける金が少ない。しかし、そなた達に映画を見ることや遊びなど禁止する事を言えない。唯心の問題だ。そなた達の福報はとても少ない。そなたは自分が楽しみを享受し、喜んでいる時、福報は少し減った。そなたの福報は極めて深い以外に少し使っても構わない。

もう一人の弟子は既に八年を皈依して、尚更に閉関修行をした事があったのに、何故腫瘍があるだろう。それは懺悔しないから。昔に多くの殺業を行って、自分が皈依して、仏を唱えたから、業は返済済み、無くなるだと思った。心は全て娘達に集中した。彼女は自分が難しくて苦労で娘を三人育てていた。娘は自分のように一生に苦しく過ごしたくないのを望んだ。しかし、自分は嘗て多くの衆生を殺害した事を忘れた。この衆生は誰に追及するだろう。娘が健康で利口なので、人生はとても幸せだと思った。しかし、母親は殺業が重いなのに、娘の体はどのように健康だろう。彼女はいつも三人の娘のことを悩んでいた。このような執着すると、死ぬ時なら、非常に苦しくて、離れられない。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの二人が本心に懺悔しないと開示された。

他にはある弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に指示して、お正月の時に参列者のために弁当を作った。始めて彼女は電話をかけて彼方此方に聞いて、何故このような多くの弟子なのに、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分に指示して、弁当を作って皆に食べさせるだろう。此れは上師を信じない。同じ価格なのに、別の弟子が作られた。彼女は最初厨房のコックは休みなので、仕事をしないから、価格はもっと高いと言った。その後、無理にして、具は少なくて皆に腹一杯食べられない。このような計算した人は如何なる仏を習うわけではないだろう。自分の兄弟子に対して、このように対応したのに、他の衆生に対して言うまでも無いだろう。彼女は始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時、体が悪くて、更に問題が沢山あった。全てリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女を助けて、解決した。リンチェンドルジェ・リンポチェは金を一銭でも受けなかった。彼女はいくらを節約しただろう。彼女も供養しなかった。今彼女は好くなって、問題は全て解決したが、計算し始めた。如何なる恭敬心があって、慈悲心が有るわけではないだろう。感謝を分からない。更に弁当はリンチェンドルジェ・リンポチェに食べさせない。そなた達は何でもいいが、損なう事が出来ない。そなた達は何も求めるが、悪い物を持ちたくない。リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に座った時、そなた達はリンポチェとして見る。リンチェンドルジェ・リンポチェは法席から降りると、馬鹿として見る。リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に仏法を開示すれば、そなた達は聞き取れるが、法席から降りた後話した事はそなた達が仏法ではないと思ったから、聞く必要がない。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはに対して、法席にいるかどうかを分別しない。作った事、言った事、行った事は全て衆生を利益するため、全ては仏法である。リンチェンドルジェ・リンポチェはまた寶吉祥仏法センターの理事長を指示して、大法会の時も彼女の供養を受けられない。更に毎回の法会でも彼女の供養を受けられない事を監視しなさい。彼女は計算が深いから、彼女の願いを満足させる。

仏を習うのはそなたに好い日々を過ごさせるためではない。実はいい日々を過ごしたいなら、本当に簡単であり、仏を習う必要が無い。唯そなたは毎月に収入の七十や八十パーセントを真の助けが必要な人に寄付すれば、そなたの運が変わる事を保証する。若し病気は早く治る事なら、天主教徒は敬虔にロザリオを唱えれば、病状も改善できる。リンチェンドルジェ・リンポチェは現場に過去天主教の弟子を聞いて、このような例があるかどうか。この弟子は確かにそうであると返事した。道教の方式を使ってもとても早いが、唯霊符を書くとすぐそなたの体の痛みを軽減した。しかし此れは源から問題を解決できない。たとえ病状はよくなっても、他には悪い事を発生した。果報は消えられないから、別の形で現れる。表面にこの問題は解決したらしいけど、他には最も大変な事が現れる。

そなた達は仏を習って修行するのは自分の意識を頼って業力で修行する。本当に清浄な自性で修行しなかった。だから、凡夫の考え、感じ、行った全ては自生から生じない。《愣厳経》には「仏が来れば、仏を斬り、魔が来れば、魔を斬る」とあるつまり、そなたは修行する時、仏菩薩或いは魔が現れるのを感じれば、全てはそなたの思いであり、そなたの意識から起こったから、この思いを斬らなければならない。夢の中に観世音菩薩を見るのは全ては自分が想像し、幻覚である。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回閉関修行をする時、関房に兆候が現れると、円満に閉関修行した後、必ず詳しく直貢チェツァン法王に報告した。直貢チェツァン法王に判断されて、此れは本当に修めた境界か或いは自分の幻想、意識の作用か。上師は経験がある修行者なので、そなたたちに対して最も速くて効果がある方式を分かる。そなたはまだ明心見性を修める前に唯上師の話を聞き、上師の教えに従われればいい。そなた達は修めるかどうかは必ず上師に確認されないと出来ない。《寶積経》にも初地菩薩、二地菩薩、三地菩薩まで修める全ての兆候をはっきりに記載された。

観世音菩薩は耳根円通法門を修めて、清浄な心で全ての事を聞いて、尽くすまでに聞くのを修めて、法身大士を証した菩薩である。普門品に「直ちにその声を聞き、苦しみ悩みから解放されるであろう。」「観」とは一般人が出来るわけではない。それは耳で観世音菩薩を聞けば、解放される事ではなく、此処に観とは本性、法性、心で観するという意味である。衆生は皆仏と同じな本質を持っている。即ち自性である。自性とは自然に生じる法性である。心とは心臓ではなくて、心の特質は《心経》に説かれた通り、「不生不滅、不垢不浄、不増不減」(生ずることもなく、滅することもなく、汚れているのでもなく、清らかでもなく、増えるのでもなく、減るのでもない。)先に前に言った求めない心で一心に観世音菩薩の名を称え、そなたの法性が現れるまで修めて、法身大士と繋がれれば、観世音菩薩と相応できる。《金剛経》に「応に住する所無うして其の心を生ず。」仏菩薩は衆生を済度する念がないが、自分が衆生を済度する事を執着すれば、仏菩薩ではない。経典にも最後まで修めれば、正法さえ捨てる。非法も言うまでも無い。非法は法律に違反する事ではなくて、人に輪廻から解脱させないのは非法である。

人は死んだ後四十九日の間に、七日ごとに仏菩薩が迎えに来る。仏菩薩は迎えに来る時、とても強い光及び大きい音がある。その音は雷が鳴るようだ。若し仏を習わない人はこの状況を恐がって、却って弱い所へ行き、六道輪廻に堕ちるかもしれない。通常に観音法門を修める人はあの音を聞けば、観世音菩薩は来る事を分かって、安心して従って浄土に行ける。どんな音だろう。そなた達は必ず分からない。若し分かれば、リンポチェに成れる。各仏菩薩は自分の真言、種子字がある。つまりあの種子字である。ポワ法を修めて成就を得る人は今世に必ず輪廻から解脱できる。つまり、この音に頼る。此れは密法なので、話せない。それはポワ法の法本に記載されたが、たとえそなたは事故に遭って死んでも、死ぬ前の時間は短くて、そなたに観想や呪文を唱えられなくても、そなたはあの音を覚えれば、同じで浄土へ行ける。

人は死ぬとき、皆口が大きく開けた。それは自分が最後の息を分からなくて、口が開けて、息を吸いたいから。しかし、若し既に生死を解脱できる修行者はこの現象が無い。インドマザー・テレサは生前に沢山な善事を行って、ハンセン病に罹った患者でも抱ける。更にノーベル平和賞を受けた。しかし、彼女が死んだ後の写真を見て、第一枚の写真は口が多く開けた。その後ある一枚の写真を見たが、白い布で彼女の口を縛り、閉めさせる。この多くの善事を行った人さえ生死を解脱できないが、尚更、現場にいる人は誰でも彼女より多く行えない。それは他の宗教は人に如何なる生死を向き合う事を教えないから、仏法しか教えなかった。此の世に仏法だけそなたの生死大事を解決できて、そなたに輪廻させない。

我々は何のために仏を習うだろう。福報を累積して、最後に死亡した数秒間に用いる。普門品は説かれた事、即死の一刻で用いる。人は往生する前に体の苦しみ、尚更に業力が現れるから、心は定めるのはとても難しい。若し、自分の心にあの時散乱させないと、平日の修行を頼らなければならない。つまり、平時から長い時を掛け兵士を養成するのは、一朝ことある時の 為の用意であるという意味である。今世修行して累積した福報は最も重要なのは往生前後の一刻である。それは無明を起すと、人は多くの執着がある。執着があるから、離れられなくて、六道に輪廻している。だから、仏菩薩は我々が物事に執着する心を利用して、我々にある法門を教えて、我々に仏号を執着させる。少なくともこの執着は我々に対して役に立つ。若し、自分に往生する前の一刻は他の念を持たなく、観世音菩薩の聖号に定めれば、必ず解脱を得られる。だから、通常に観世音菩薩と仲良くして、観世音菩薩に慣れて、自分の考え、行為、言語は全て観世音菩薩であれば、最も重要な時にそなたは観世音菩薩の済度を得られる。

同席のある者は,家に帰るとすぐ大との字のようにソファの上で座ってテレビを見て、念仏するならまた明日にすれば良いと思って、今日まず仏菩薩に休暇を貰った。仏を勉強するのは授業或は通勤するのではなく、所謂休暇を取るのもない、そなたが念仏するかどうか菩薩、上師と全て関係はない。但し、そなたは毎日絶えずに仏菩薩と接触しなければ、死亡する際には、そなたが過去全部作った業力はやっとそなたを邪魔する。そなたは一心に観世音菩薩しかないことが出来なくて、離脱することが出来ない。毎日3千回を読むのは一番基本なことで、念仏することによって、そなたの妄念を撃ち殺して、そなた達の乱れる心を調伏することが始めて出来る。そなた達は毎週の日曜日に法会に参加してもうとても偉いと思わないで、法会に参加するのはそなた達のために縁を結ぶことしかできない、法会に参加して、如実で、順従で修行しなければ、いくら多くの法会に参加しても役に立たない。

浄土へ往生するのは口でばかりするのではなく、如実で上師の教えに従って、一生懸命に修行すれば始めて出来るのである。学生のように学校へ行って授業を受けて、例え、先生が言いつけた宿題さえ彼はしなくて、お自身にて努力しなければ、勉強できるのは不可能である。いつも遊んで、家に帰って読まなくて、復習さえしなければ、試験が出来るわけはないだろう?仏を学ぶと勉強をするのと同じ道理である。そなた達はあれらあまり一生懸命勉強しない学生のように、すべて遊んでいて、仏法はそなた達にとって只娯楽で、暇をつぶすのである。苦よい時の神をかいたとの諺で、平日に仏法を本当に生活の中に如実でしなければ、試験を受ける時には全部難関を突破することが出来ない。そなた達は全てしっかり仏法に敬わない、仏法に対して真に丁寧する者はそなた達のようにこんな格好ではない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは何度も開示された、例え因果がなくて、仏菩薩、上師に加護を求めていいであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェの上師は尊勝なる直貢チョンツァン法王で、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日朝、昼只直貢チョンツァン法王に電話を掛けて加護を求めれば良いのに、なぜまた苦しく修行するか?尚2007年ラーキ雪山へ3ヶ月閉関して、お風呂に入ったり、髪の毛を洗ったり、話しをかけたりすることが出来なくて、なんのためあんなに辛かったか?それは一切は全て自分が作った、一切の業は全部返すべきで、一切の功徳は自分で修めなければならないと深く信じた。上師はそなたに教えて、そなたの心を加持することしか出来なく、やはりそなたがご自身で一生懸命修行してはじめて本当に浄土へ往生することが出来る。

《観世音菩薩普門品》には言及して「常念恭敬観世音菩薩」「常」とは何時も、「念」とは毎考え方は全部観世音菩薩に敬うのである。ここに述べた観世音菩薩は実が只総称で、恭しくする対象は仏、菩薩と上師を含む。所謂敬うとは教えに従って実行して、仏菩薩と上師が開示された仏法は全て正しいと信じて、疑い心がなくて、何時も上師と仏菩薩の功徳を憶念して、上師の一切の教法は全部自分に対し良いと信じて、簡単と言えば「順従」である。リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで自分の感覚で仏を勉強するのではない。しかしそなた達は全部自分の感覚で判断する。感覚とのことは自分に対して利点があれば良いで、自分が傷付いたと感じると良くないである。リンチェンドルジェ・リンポチェは一回だけではなく申された、ある者はまだリンチェンドルジェ・リンポチェに叱られるのを恐れるならば、あれはとても悪人である。よくやり直したくなくて、恭しいこころがないから。よくやり直したい者であれば、叱れることに恐れるわけがないだろう?上師に誤解されるのを恐れて何故だろう?リンチェンドルジェ・リンポチェは何回直貢チョンツァン法王に叱れたか知らないが、全て何の弁解もしなかった、解釈するものは即ち自分の過ちを認めなくて、誤解されるのを恐れる。人さえすれば,やはりよく出来ないところがあった、リンチェンドルジェ・リンポチェなら、自分はまだ多く所がよく出来ないと思って、それで、今までまだ大変直貢チョンツァン法王のご教導が必要である。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩の代表として仏法を広げる資格がなければ、一番目リンチェンドルジェ・リンポチェを法座より降りさせるのは直貢チョンツァン法王であり、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが全てした事に対して疑い筋がない。

我らは仏を勉強するのは、仏菩薩を手本にして、仏菩薩の行為、言葉、思想を我らが学習の規範とする。そなた達は常に全ての身、口、意は全部自分に利益して、全て自分の感覚で仕事をして、貪・瞋・痴の考え方が起きられて、多くの悪業をした。何故上師と仏菩薩に敬えればはじめて欲を離れるか?それは上師と仏菩薩は全部絶えずに善行して、常に上師と仏菩薩の功徳を憶念する者は、善の考え方が多く起きられて常に観世音菩薩を憶念すれば、例え車に乗る時、特に何の御用がなければ、自分を訓練して、そなたは常に仏菩薩と上師に恭しくすれば、段々1つ、二つ、仏号が全ての思いの変わりになって、十個の思いは十句の仏号に変わって、最後全ての思いは全部仏号になった。上師及び仏菩薩の善行と思想はそなたの欲望のかわりになって、仏法はゆっくり絶えずに陶冶の下で欲望は緩やかに減ることが出来て、漸次そなたの清浄な本性を回復することが出来た。上師と仏菩薩の一切思いは全て善であり、そなたは何時も彼らを考えて自然にそなたの思いは従って善になった。菩提心を修める者は永遠仏菩薩と上師の願力、功徳を憶念すれば、完全に恭しくて全く自分の思いがなくて、上師のご教導に絶えなくてして、何時か出来るか、出来るかどうか?出来たら何の利点があろうか思わない、全部思わなくて、いつも蜿蜒さえすれば、即ち仏菩薩と上師の功徳の大海の中で、一分が出来ると一分の菩提を証得した。顕教で修めれば多くの時間がかかったが密法を修めるのは時空に制限されない。

外に、上師と仏菩薩に敬うなら、自然に衆生に対しても全部恭しくて、人と論争せず、仕事上でも、他人がそなたに対して悪いと思って、紛争することがあらない。

直貢チョンツァン法王はなぜこんなにリンチェンドルジェ・リンポチェを重視するか、それは、リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チョンツァン法王に対して全く恭しくて、上師の話しを疑わなくて、上師が言いつけとすぐして、チベット人さえも尊敬してやまないのである。そなた達は考えて見て、ある者は常にそなたの行為を認めていて、用があった時、そなたは彼の世話を多くしないか?これは勿論そうだろう。そなた達を戻して見て、常にリンチェンドルジェ・リンポチェのご教導を認めらなくて、順従ではなく、生活に実行しない。今回日本は地震が起きられて、発生するときは既に直貢チョンツァン法王が泊まっている当地の夜11時あまりであったが、直貢チョンツァン法王やはり電話を掛けて来てリンチェンドルジェ・リンポチェがどこにいるか関心した。これはリンチェンドルジェ・リンポチェが直貢チョンツァン法王に対して絶対に敬って、それで上師は心に何時も弟子を思っている。

今回日本には大地震が起こった。実はリンチェンドルジェ・リンポチェがものすごく前にすでに予言した、日本には火山爆発と地震が起ころう。但しあの頃誰も信じなくて、専門家の研究により日本の火山が爆発することはありえないと思った。結局、事実はちょっとリンチェンドルジェ・リンポチェが全て予言したのであった。多勢の台湾人は日本に来て、全部東京を選択したが、リンチェンドルジェ・リンポチェはかえって京都を選んで道場を設立した。今回の大地震は京都にすこしも影響をしなくて、これも仏菩薩が加持をして、リンチェンドルジェ・リンポチェに一心で仏法を広げるのを出来させて、リンチェンドルジェ・リンポチェに少し悩みもやらなかった。

《観世音菩薩普門品》の中に言及んだ。婬欲が重くて、瞋心が重くて、愚痴な者は、いつも観世音菩薩に敬えば婬欲、恨みと愚痴を切れ除くことが始めて出来る。愚痴とは白痴ではなくて、仏法を信じなくて、仏のご教導を受けないのである。経文の中にも説いた観世音菩薩を唱えることは人に非時で死亡しないのを出来させる。多くの法本の中に全部非時で死亡しないように求めている。そなた達は皈依した時も話した、皈依した後非時で死亡することはしない、これが指すのはそなた達に十分な時間を有らせて仏を学んで、悪業に引っ張られるはずがなかった。日本今回大地震で往生したのは全て非時死亡であり、それに死傷が一番多く所は全部殺業が大変重いところである。ある者は災難にあったが案外に生きて、ある者は警報が発表しても、走る時間があっても、やはり逃げられなくてこれは即ちさだめで生きるべきならば生きられる。無常は何時でも来て、仏を勉強するには死亡無常を深く信じなければならない、自分がまだ若くて死なないはずと思わないで、死は若い或は年を取ったを問わない。だから、ご自身に全て起きたことに執着するな、これらは全部因果因縁の法則である。

そなた達は、皈依してから意外で死ぬ事がない、此れはそなた達にこれ等の余計な時間を仏を学ぶ事を利用させられて、家族の幸せを楽しむ事ではない。自分は真言を唱えたり、仏に礼拝したり、1、2回目の閉関をしたりする事があると、修める事と思ってはいけない。法会の主催する前に、自分が悪質腫瘤に罹った女の弟子は8年間に皈依しても癌に罹って、此れは上師に恭敬心を持つ事がない、完全に仏を学ぶ事が無かった。心はずっと3人の娘に置いて、自分の殺業がこんなに重いので、一生懸命に仏を学んで冤親債主に謝る事がない事を思わなかった。彼女は心を尽して娘を培養して、現在、娘が成長し、仕事もあるし、彼女の福報も尽して、冤親債主が来たわけである。また、現在、彼女の娘が成長し、母の為に仏に礼拝する事が出来る。もしリンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て彼女の娘を母の為に仏に礼拝させるならば、彼女も絶対に娘の為に口実をさがし、子供たちが若いので、勉強しなければならないと言った。現在礼拝する事が出来る。その上、冤親債主はリンチェンドルジェ・リンポチェが在世する事が知っているので、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを済度させる事が出来て、これから、リンチェンドルジェ・リンポチェがいないならば、彼らが済度を得る事が出来ない。だから、速くて彼女に借金を取り立てることに来たわけである。実は、リンチェンドルジェ・リンポチェは8年の前に彼女に助けた事があり、本来、彼女が8年の前に癌に罹る事がはずけれども、彼女に8年間の時間を仏を学ぶ事を与えて、彼女が娘達に浪費させた。もしリンチェンドルジェ・リンポチェが癌に罹った事がないなばら、彼女に指摘する資格がない、が、リンチェンドルジェ・リンポチェの自身も皮膚癌に罹った事もあった。菜食して、皈依して、法会に参加したら、何か良くない事を発生しない事ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは35歳から菜食し、36歳に皈依して仏を学んで、45歳に至っても同じように皮膚癌に罹った。何故のでしょうか?此れは果報を消えてしまう事が出来ない、依然として現す。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を学ぶ事が人生の最も重要な事と思っているので、何も仏を学ぶ事に比べて重要ではない、だから耐えずに苦労して修めて衆生に利益して、癌に罹っても、薬を飲まなくて、勤勉して仏法を修めて、大きな福報を累積し、自分が皮膚癌の問題を上手く処理させた。

「観世音菩薩普門品」には「是故衆生、常応心念(衆生は常に時と処に応じて念ずるべきである)」というひと言がある。こちらの「応」は肯定文で、完全で、割引かなくて、かけ引きをしない、必ずこのように常に心を念じている。そなた達は仏を学ぶ者が慈悲深く形で、話し方が柔らかい事と思っている。そうではない。仏経には釈迦牟尼仏も常に弟子を難詰する事もよく見える。「阿弥陀経」には、福徳因縁を少ない事が出来ない善男子、善女子は浄土に往生する事を願っている事に記載された。仏経の内容は釈迦牟尼仏は我々に教える話で、我々が絶対に遣り遂げる話であり、我々の人生の経験法則と違って、一言が無駄な話がない。仏から開示された話は我々に輪廻を離れる修行法門である。何故「普門品」には特にこの条件を言い出すのでしょうか?此れは肯定で、必ず遣り遂げなければならない条件である。そなたが、貪、瞋、痴を持つ時、十善法の中に、最後の三つが遣り遂げない、遣り遂げないならば、善男子、善女子ではない、浄土にいける条件を備えなくて、とても慎み深くて、妥協する事が有り得ない。

また、普門品には「若し女人あって設い男を求めんと欲し、観世音菩薩を礼拝し供養せば、便ち福徳・智慧の男を生まん。設い女を求めんと欲せば、便ち端正有相の女の宿徳本を植えて衆人に愛敬せらるを生まん。」も記載された。こちらの「求(求める)」は自分の欲望にて求めるのではない。ある者は自分の欲望により仏菩薩、上師に求めて、彼らが自分標準を遣り遂げた後で仏を学ぶ事を始めて欲しがって、此れは求める事が無理でる。このような条件を商談する事は賄賂して恐喝する行為である。求めて応じる事とは殆ど生死を解脱する願い事を求めて、生死を解脱する事を求めるならば必ず応じる。

子供が欲しがる者は必ず仏弟子で、つまり「仏子行三十七頌」を完全に遣り遂げなければならない、その上、一心に観世音菩薩を唱えなければならない、このように遣り遂げるならば、真に仏菩薩に恭敬する。如何なる貪念がないで観世音菩薩を唱えるなら願いに応じて始められる。このように求め来る子供は必ず累世の善根を具えて、仏菩薩が彼に仏法の過程に生まれて、この世に仏を学んで修行する者である。

「福徳智慧之男」が言及する智慧とは、博士が勉強してもらって、或はとても賢い事を指す事ではない。此れは、彼が生まれてから智慧を既に啓いて、仏を学ぶ過程に生まれて、福徳因縁を具える事である。もしある者は求めえる子供が衆生に利益させる事を望んだら、このような子供を生まれる。この子供は生まれてから親孝行が分かって、修行する事を開始して、仏法が聞いてから分かって、直貢チェツァン法王のようである。そなた達は生れ変るリンポチェが修行する事が要らない事と思ってはいけない。もし生れ変る者が修める事が要らないならば、尊勝なる直貢チェツァン法王も生れ変る様で、直貢法王の伝記に直貢法王が数位の先生に従って学ぶ事を言及しなかった。生れ変る者でも、一切がゼロから学ばなければならない、ただ彼らの学習する速度がより速いである。しかし、生れ変るリンポチェは前世に如何に物凄くでも、あれは全部過して、もしこの世に修めないならば、同じように成就を得ない。

一部の人が子供を求めてから子供を得るのは、彼の生命の中に本来眷属の縁があり、けれども、このよに少しの悪業を作ったので彼の縁を阻止し、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持の下彼に本来眷属の縁を回復し、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に子供に与える事ではない、リンチェンドルジェ・リンポチェは如何に彼が替わって子供を生むのでしょうか?然し、教法に従ってしっかり実践した事がなくて、仏法を生活に用いさせない者は求めて得る子供が冤親債主である。

「端正有相の女」は綺麗でとても美しい風を言う事ではない、端正な風采を言うである。端正とは口を歪めることができなくて、目が一つが大きくてもう一つが小さくて、歯も同様にとても整える事が出来て、身体の障害がない。「有相」とは可愛らしいを言う事ではない、子供は小さい時に可愛らしい、生長してから憎らしい、もう一寸年を増えてから憎い事になる。そなたは彼が可愛らしいと言って、つまり、可愛らしくない時もある。「宿徳本を植える」のは累世に婦徳の根本を植えられる事がある。「衆人に愛敬せらる」はこの女の子が誰でも見ても愛する事で、しかし、彼女に他の考えがある事をさせない、却って彼女に恭敬する。直貢噶舉不共のアチ護法の生まれる相はこのようである。法本にはアチ護法の相が修行者の相だと記載された。だから、そなた達の女の子は男の子が愛しない事を心配してはいけない。実は生命の中に、眷属因縁があったら、自ずから出現する。そなた達が所謂会ってから愛する事とは実はそなたの冤親債主であり、そうではないなら、そなたが彼に会うと愛する事が出来ない。しかし、そなたが見てから嫌がる者はそなたの恩人とは限りない。この前、リンチェンドルジェ・リンポチェはある者が相手に執着させない、彼女は相手にいないと自分がとても苦しがる事と泣きながら言った。そなた達が判断する事が自分の感じに注意し、直ちに見て、ただ1、2年間に最も多くて、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたの生々世よに見える事が分からない。

あなたたちは結婚する時にリンチェンドルジェ・リンポチェを要請して結婚式をとり行うと、結婚してから喧嘩する事がない事と思ってはいけない、依然として喧嘩し、離婚する可能性もある。勿論リンチェンドルジェ・リンポチェを要請して結婚式をとり行うなら、多少リンチェンドルジェ・リンポチェの福を得る。然し、婚姻は心を尽して営む事が要り、相手に多くて考えて、仏子があるべき方式に相手に対応し、そうすると、毎日に喧嘩する事がない。もし男の子の生命には本来妻がいなくて、自ずから離婚して行く。

真に一心に名と称する仏弟子をやり遂げるなら、生まれる子供が彼に悩まさせない、その上、親子双方が仏を学ぶ過程には相互に援助する。古代に、禅宗の中にある名前が傅である行者は彼が生まれた息子も禅を学んで、生長してから父親に修行する事を助けてあげて、その後、両方とも明心見性を修めて得た。リンチェンドルジェ・リンポチェは下記のように開示された。自分の子供がとても少しだけで法会に参加し、法会の珍客で、しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分がこの世に生まれてから36歳までの間の中に仏を学んだ事がないのでこのような子供を生まれる事を知っていて、上師を信じて、菩薩を信じて、一切が因縁である事と思って、無理で求める事をしてはいけない。もし、そなたは心を尽くして、如何に無理で頼んでも、そなたの子供がそなたに従って法会に参加したくないなら、此れは彼が修行して仏を学ぶのではない、無理してはいけない。

「観世音菩薩普門品」には「観世音菩薩を恭敬礼拝せば、福唐捐ならじ」という事を言及した事がある。そなたは何も求めず、懺悔して、恭しいで一心に観世音菩薩を恭敬礼拝せば、全ての礼拝の福が累積する事が出来で、無駄されてしまう事が出来なくて、将来、そなたが必ず用いて、ただ、何時に用いる事が分からない。此れはそなたが上師と諸仏菩薩に恭敬したら、上師と諸仏菩薩の功徳大海に一緒にいて、そうすると必ず加持を得る。「福唐捐ならじ」とは福報を浪費させない、福を惜しむ事は現在で言う食べ物を浪費させない事ではなくて、却って仏を学ぶ福報を大切する事である。ただ、現在セルフサービス食堂には、多くの出家者がリンチェンドルジェ・リンポチェにより多くて食べて、その上十分に酷評し、まったく福を惜しむ事が無かった。

昨日、菜食のレストランを経営する組みはリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは、菜食レストランを営む事が衆生に善縁を結ぶ事ではないし、善縁を結ぶ意味を間違った事をしてはいけない事と開示された。

善業が重いであれ、或は悪業が重いであれ、そなたに仏法を聞き入れない、これも何故我々は仏を学ぶ事が福報を累積しなければならない、供養布施をしてはいけない、此れはそなたの福報が十分な厚くなると、そなたに業力の影響を受ける事が出来なくて、それで法性の中に入って、仏法の教導を受け取るわけである。

昨日、ある出家者はある女衆に率いてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た。この女衆は自分の主人が出家者で、最近、両手が火傷により加護病室にいて、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは出家者が奥さんがいる事と聴いてからおかしい事と感じた。入定してから観て、此の女衆に「彼女のご主人が最近誰かだ鬼を駆除する事をした事があるのでしょうか?しかも費用を受け取るのでしょうか?」と尋ねた。女衆は「確かに」と回答した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、出家相が現れても奥さんがいる、だから戒律を好く守る事が無くて、鬼を駆除して、鬼が気にしなくて、かえって彼に攻撃した事と開示された。その場で、リンチェンドルジェ・リンポチェも出席の出家弟子に、随意に他人にお経を唱えて鬼を駆除する事をしてはいけない、死者に助ける能力がないならば、これ等の事柄をしたら全て返却しなければならないと開示された。道教も方法があって鬼を抓む事があり、然し、根本の方法ではなくて、仏法が鬼を駆除する方式ではなくて、此れを好い所に済度させるのである。

「観世音菩薩普門品」的の内容は難しい言葉を用いなくて、ただしこの1冊の経典を軽視してはいけなくて、修め得る者が体得して始めて、そなたの考えの通りの簡単ではない。

それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは観音法門を修める方法を開示するので、未皈依の信者に退場させた。仏法とはそなたが聞きたいなら必ず聞ける事ではない、特に密法である。他の道場と違って、寶吉祥仏法センターは信衆が供養した事があるので彼らを随意させて聞かれる事がない、此れはまだ皈依せず者が善行をする決心を固める事をしないで、彼らが離れるわけである。

法会は終らせた後で、リンチェンドルジェ・リンポチェは特別なある指が負傷した出家弟子を関心して尋ねた。この出家弟子は指が3ヶ月前に痛みので診療を受けてかさぶたが取れる手術を行って、指の骨の部分が既に腐食した。手術を行った後、傷口の復元して依然として理想ではなくて、非常に痛んでいった。昨日、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の傷口に吹いて加持させて、今日、彼女が既に多くて治して、また痛まなかった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに非常に感謝致した。リンチェンドルジェ・リンポチェの思いは全て衆生で、慈悲深くて、参列者が全て感動していた。

2011年3月20日

台北寶吉祥仏法センターの共修法会で、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年07月06日に開示した「共四加行」を恭しく聞いた。

法会が始まる前に、ある皈依の女子弟子は、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の姉と彼女を助けた事績を分かち合った。

彼女の姉は家族の目の中で完璧に近いような娘と姉であり、両親に親孝行をするだけではなくて、、弟と妹は何かあったら、いつも姉の決定に従う。彼女の姉は成績がとても上手であり、その上彼女の博士論文はたくさんの国外大学の教材となり、彼女の研究は専門で深く、家族がすべて彼女のことで、傲って名誉だと思っている。

ある意外な状況の下で、彼女の姉は肺の腫瘍に罹ったことを発見して、台中の一つの大型病院の医者は手術を行うと提案して、彼女の姉は台北病院へ再び検査しに行きたいと思う。友達の紹介により、彼女は再び検査するとても良い医師を探して、結果は肺腺癌だと診断された。すべての医者は報告を見て頭を振って、これが最も対処しにくい癌だと言った。彼女たちはどのように癌を治すかに直面し始めて、彼女の姉は手術を行わないことを決まったが、しかし母は決して姉の決定を納得できない。

彼女の兄は、いわゆる修行している友達と連絡して、姉のため法を修めに来たが、彼女は非常に納得できなく、彼女は薬師経に諭されたように「初横而死(始めの横死)」ということを心配して、。同時、ある顕教の師父は彼女に家で八関齋戒を修めることを教えて、そして薬師仏、仏菩薩に、姉に正信仏教を受け取ることができるようにさせることを祈って、彼女の姉は事後知ってから、菩薩に明師を与えてくれるように祈った。

約2、3週間後、こちらの弟子は目が調子が悪くてある病院に診察を受けに行って、再診の時、あの診察室で看護婦を担当するある兄弟子に偶然に会って、あの兄弟子が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェまで言及して、そして一枚の新聞報道を彼女に見せた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに関する報道を注意深く読んだ後、すぐさまあの兄弟子に電話して、彼女は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見に行くことを決定した。以前、彼女は一度もチベット仏教に接触すると思ったことがなくて、彼女は呪文が非常に複雑で多いから、彼女は暗記できなくて、唱えることもできないと思っていて、更に彼女が一度も接触したことがないため、真偽を見分けにくいから、特にこの末法時期に、彼女は顕教のほうが比較的に安全だと思っている。その故、何度も誰かがチベット仏教を彼女に紹介して接触する機会ことがあるが、彼女はすべて承諾しなかった。今回、彼女が理屈が分からずに非常にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見したい。

彼女は初めて尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、彼女の姉はちょうど中国大陸で授業を教えているから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に今度姉を連れて一緒に来ることを要したと開示して、彼女は意外にも独りよがりで、姉さんが仏教徒であるから、来るべきだと答えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは聞いてから、「私こそ仏教徒である。」と再度開示した。彼女は2回目に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した時に、すぐじかに報告して、姉が台湾に帰った後にいっしょに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来るから、そして、余計な事を言い出して、先に法会に参加して姉のために福を祈ると言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは参加してはいけなくてと開示した。彼女はとても不思議だと思って、思索せずにすぐ「どうして?」と聞いた、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女をののしって、彼女が疑っていると言って、それから彼女に後ろで立つように罰させた。彼女はその時に、どうして何故を聞くことが出来ないかということが本当に分からなくて、この事のために彼女も姉に数回も罵られた。

彼女は非常に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を感謝した。彼女の姉と彼女はようやく尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁できた。当時、彼女達はリンチェンドルジェ・リンポチェの目が左の斜め方向へ見て、誰に話そう姿を見た。彼女は姉と心にはっきりに分かったが、自分の業力は軽くない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達に家でリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された「懺悔」仏法テープを五回聞かせると開示された。終わった後、リンチェンドルジェ・リンポチェは更に彼女達に五回を聞かせるのを指示された。彼女は非常に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲を感謝して、いつも彼女達のために殊勝な因縁を作られた。このように何回も繰り返して、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達に多くの問題を考えさせた後、また報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示されたが、若し姉は癌に罹らないと、仏を習うわけではないだろう。まだ学術に浸った。此れは間違いではないが、彼女は姉の一生を回顧すると、全ての時間を勉強に投入していた。

彼女は始めて法会に参加した時、リンチェンドルジェ・リンポチェは破天荒に遅刻された。その後に分かったが、リンチェンドルジェ・リンポチェは来る途中で交通事故に遭った。当日、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。これから見ると、当日に参加した衆生は障碍が極めて大きい。彼女は家へ帰った後、姉に法会の事を全て話した。また彼女の姉に言って、訳が分からないが、リンチェンドルジェ・リンポチェの法会に唱えを聞くと、涙が流れた。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲及び摂受力の大きさは彼女が今まで見た事が無い。

彼女の姉が法会の説明を見て、また彼女の陳述を聞くと、とても心が動いた。それで彼女達は一緒に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依を求めて、法会に参加し始めた。彼女の姉は始めて懺悔仏法テープを聞くと、彼女の母及び兄は極めて反対した。更に彼女の姉が法会に参加した事を反対した。更に彼女の姉は体が弱いから、横たわって法会に参加しなければならない。彼女の母はかわいだと思ったから、尚更に反対した。若しリンチェンドルジェ・リンポチェは本当に偉いなら、姉を完全に治って、癌を消させるはずだと思った。彼女と姉は難しく反駁できなくて、母も聞きこめなかった。

毎週リンチェンドルジェ・リンポチェの教えを聞いた後、彼女はいつも姉と一緒に討論した。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが詳しく仏法を説かれて、奥深い論理なのに説明が分かりやすい事を賛嘆した。一方自分が教えに従って奉じなくて、仏法を生活に運用できない事に対して懺悔した。彼女は自分が本当に時間を把握せず、しっかりに仏法を習わない。相変わらず貪、瞋、痴野中に不断に輪廻している。まだ自分の深い悪習に縛られて、非常に怠惰で本当の懺悔心、慈悲心と菩提心を起さない。自分が変わらないから、母に仏法の好いさを感じさせない。

皈依した後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持のお陰で、姉は苦しんで何回も病院へ進出していたが、無事だった。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲及び摂受力は癌に脳まで転移された重症な患者に日常生活されて、外出されて事情を処理できる。更に三回に上師に従って日本法会団に参加した。医学から言うと、此れは奇跡である。姉は最後入院した時、始めて痛みを感じた。医師及び看護婦もモルヒネを注射する事をアドバイスした。そうすれば、痛みを軽減できて、患者に落ち着いて離れれば、人道的なやり方だと思った。しかし、彼女の母は知恵にモルヒネを注射しないと主張した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された。姉は仏を習ってから、変わった。今姉はとても落ち着いて、既に放した。更にアチ護法を求めて、姉の前に泣かないでと指示された。数日後、姉は痛くない。姉が痛み日々は約十日頃しかいない。此れは姉の表情、血圧などから見れば分かる。全てはリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲な加持を感謝しなければならない。

この弟子は家族の要求に応じて、週末に病院で姉を世話した。だから連続に二週間法会に参加できなかった。彼女の姉は病状が悪いから、彼女達は既に心構えがあった。しかし、彼女は母は如何しても受けられないが、医師に言って、自分がこの娘を失えない。彼女の兄は聞くと、とても悲しいから、所謂「能力者」を依頼して、姉の体や枕カバーの中に数枚の呪符を貼り付けた。彼女は病院に見た時、とても驚いて、取り外しようと思ったが、母は非常に厳しく行けないと警告した。家族に誤解させないため、彼女は最後取り外しなかった。その後家の扉の後に法事を行う箒を置いて、部屋の中に多くの所で香灰を撒き散らして、呪符を貼り付けた。彼女の兄は姉の命を延ばせれば、何でも行った。彼女は兄に言って、今姉の体調から見ると、命を延長させれば、却って苦しんでいる。しかし、兄は完全に聞き取れない。彼女はこの事を道場の組長兄弟子に伝えて、兄弟子は彼女に共修法会に参加して、姉のために福報を積めるのを励ました。

お姉さんが最後にお迴光返照することについて、彼女の兄は自分が捜した者の功績と思った、彼女は度々お兄さんに姉が去るなら、仏菩薩に助けと引き連れると願うべきでなぜ魑魅な魍魎を探すと言っても、兄はかえって自分が捜してきたのも神と思った。彼女は兄に、お姉さんがすでに尊いリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したことによりとても明らかで、姉は既に選択した、兄さんは姉さんの決定を尊重すると言ったが、兄さんはまったく耳に入られなかった。

彼女がまた道場に戻って共修法会に参加したニ週間後、彼女の姉さんのお体は一日一日に良くなって、本来唇に多く傷もだんだんかさぶたになって、取れて、元来、腹が膨脹することも消えた、ただ左の太ももはまだ腫脹して、食事をすることもだんだん出来た。12月6日、彼女の姉さんは酸素の装備さえも必要なくて、血圧、胸のどきどき、脈拍、血の酸素はすべて正常だった、午前、お医者さんは胸部のレントゲンを取るのを要求して、それ終わった後病室に帰った。彼女の兄さんはご用で病院を2時間離れて、途中で彼女の姉さんが胸のレントゲンをするため、取った護符がまだ元に貼り付けないのをちょっと心配で、しかし只1、2時間で大丈夫だろうと思って、戻して彼女の姉さんにもう一度護符を貼っておくの要求をしなかった。彼女の兄さんが病院を離れたこの間に、彼女の姉さんがうんこした。彼女のお母さんは姉さんのためタオルでお体を拭いて、それに食べ物を食べさせて、全て済んだら約午後1時過ぎた、彼女の母親は突然に姉さんの額が汗をかけたのを発見した。汗を拭いた時、彼女の姉さんは最後の一息を飲んでしまって、母親の胸の中に倒れて、ただ微弱な胸のどきどきで、数分間後往生した。彼女の姉さんはとても平静で去って、少し苦しさもなかった。兄は病室の出入り口に急ぎで着いた時、ちょっと姉さんが息を絶えた時間であった。

彼女がお知らせを受け取って病院に急ぎで来て姉さんのため念仏する時、はにつなぐて知らせて病院に来る時お姐さんのために読んだことを助ける時,看護婦長は意外に彼女らが8時間を念仏してから遺体を移動するのを賛成した。これは病院であまり有り得ない事である。現場誰でも彼女の母に離れるように勧めたが、惜しむため、母親が始終離れなかった。8時間まで終って、彼女と葬儀社の者とご自分の手で姉さんのため、ベッドを取りかえた、彼女は姉さんの遺体がすごく柔軟で顔色が白くて清潔と感じだ、葬儀社の者はまた彼女に死斑がないと教えた。葬儀社の者さえもこのようなめでたい瑞相がないと言って、それに、十分驚いた。彼女はとても悔しかった、あの頃姉の梵穴を触らなかった。彼女がまだ愚痴で必ずリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修めるのを経由して梵穴が始めて暖かくなると思った。

彼女の二番目の姉さんもお兄さんに話した、一番上の姉さんの選択は非常にはっきりしてた、姉さんがリンチェンドルジェ・リンポチェに従う心はとても緊密である。彼女はすごくリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝して、リンチェンドルジェ・リンポチェの助けがなければ、結果がどうなったか、また癌症で、またこんな多くの邪魔があって、彼女の姉さんは何故こんなない平静で去ったか?

彼女の姉さんが往生した時、ちょっとリンチェンドルジェ・リンポチェがニュ-ジランドから台湾に戻って来る途中で、そのため、相弟子が何時もリンチェンドルジェ・リンポチェと連絡取れなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェが事前既に彼女の姉さんにポワ法を修めるのを承諾したが、因縁が備えるないため、これは即ちリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された、リンチェンドルジェ・リンポチェが承諾しても必ず修めるとは限らない。その後、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れて、慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは仰った、彼女の姉さんが去ったの際、やっと仏法の偉さを体得して、当時、彼女の神識は観世音菩薩の守りを得た、リンチェンドルジェ・リンポチェはまた慈悲で、施身法を行うときもう一度彼女の姉さんを助けると承諾した。

彼女の姉の遺体は火葬してから舎利花を現せた。骨は白色、ピンク、緑色で、梵穴の所にある整然な円い穴があった。その後、彼女は姉がリンチェンドルジェ・リンポチェが修めたポワ法を得た事を始めて知った。彼女の母が知った後で、本来反対の態度がやっと少々緩和していった。然し、彼女の姉は月曜日で他界し、法事が日曜日で行っていた。彼女の母は彼女が姉の為に法事をする事をしなくて、道場で法会だけ参加する事を依然として許させなかった。彼女は、姉は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を得て西法浄土へ行って、法事をする事が要らなかった事を何回目で解釈しても、彼女の母が依然として彼女の遣り方を受け入れなくて、その上、彼女が冥銭を焼く事をしたくない事も許させなかった。彼女の姉は他界した後ほどで、母がとても悲しんだので、鬱病に罹っていった。姉が西方極楽世界で着いた事を知ってから、状況が既に改善させて、現在、鬱病の薬を飲む事が要らなかった。

彼女は上師への信心が足りないので、姉が去って以降にも、葬儀社側も状況を出した。彼女は本来ある葬儀社を採用する事を欲しがったが、彼女の母は父に葬式を手配する葬儀社がよいと思っていったので、彼女の薦めを受け取らなかった。しかし、この葬儀社の社員は我がままで古董鋪と連絡し、彼女の兄と嘘を付いて、リンチェンドルジェ・リンポチェに葬式の日付を開示させる事を要求させた。彼女は自分で謹厳な言行を持っていなくて、葬儀社の社員に古董鋪に連絡してリンチェンドルジェ・リンポチェに邪魔させる事をさせられた事を懺悔していった。土曜日に、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した折、彼女の次姉はリンチェンドルジェ・リンポチェに日付を開示する事を要求させて、リンチェンドルジェ・リンポチェは次姉に「決定権があるのでしょうか?」を尋ねた。次姉は首を横に振った。葬式の時間は結局彼女の母が決めていた。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に利益する為に、時には食事時間がない、彼女はそんなに修行者の福報を無駄させるだろう。彼女は深くて恥ずかしいと感じさせていた。

彼女は、当初、顕教を学んでいた間を回想した。彼女の兄は、仏を学ぶ事は神通を学ぶのではない、仏を学ぶのである事を話した事があった。が、彼女の兄は外道で1年間にいるだけで、神通の事を一心して喜んでいく。彼女は兄に神通の事を尋ねた事があった。兄は「とてもいいです。極めて便利です。」と回答した。彼女は此れがリンチェンドルジェ・リンポチェが説いた「少々の微かな差異でも、大きな差異を明かにしていく」と思っている。方便を貪る事が貪りで、法を貪る事も貪りで、方便を貪る考えがあったら、歩けば歩くほど遠くなる。彼女の姉は一生で読書をもって楽として、最後去る時に彼女に話して、これ等の論文が全部無駄になった。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは「癌に罹るのはただ花の報いを出現し、真に果報が地獄におる」という開示した事がある。彼女は、姉が去った時に、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの加持がないならば、結局が想像を有り得なかった。

最後、彼女は自身が尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの助けを受け取った事を説明した。彼女は長期で生理の痛みを受けていて、発生したら彼女に悲しみのまり死にたい程にさせて、彼女に生理期が恐れと恐さを感じさせた。ただ彼女は重要な10分の以内で足りる鎮痛剤を飲まないなら、病院に急診を送り届けなければいけない。最も悲惨な記録は4粒の鎮痛剤を飲んでも、急診を送り届けなければいけなくて、2回で注射した事があり、その上、筋肉を弛める注射をしてから、制御してしまった。嘗て、医者さんは彼女にモルヒネに注射する予定であった。彼女は何回目で大きな病院に行った事があり、多くの検査をした事があり、何も疾病がなくて、極めて正常であることを話して、彼女の生理の痛みは原発性で、その上ある名医が単刀直入に彼女に「一生を痛めさせる事を準備しよう」と話した事もあった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは去年の初めで普巴金剛を修めてから、此れは多くの疾病に対して助けがある事を開示させた。その上、特別に内分泌に言及した。その夜、彼女の母は確り骨折したので、栄総の救急診察室に入って、彼女により伴って世話し、彼女の自身は一夜に難しい寝って、頭が痛くて吐きたい程度に到達した。彼女はこのような状況は無かった。生理期は10日に遅延した。しかし、これから今まで、彼女は生理の痛みの苦しみを受けた事がない、少々な気分がよくなければ、ともに厳しくない、鎮痛剤を飲む事も要らなかった。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの修法がないならば、業障が深くて重い彼女が今までこの苦しみを受けていて、彼女は上師が慈悲深く修法する事に感謝致した。

彼女は兄弟子の推薦に有り難い、彼女らに機会を上げて上師に出会う事ができる。人身は得難く、仏法は聴聞し難く、上師とは邂逅し難し、と説く。彼女は上師の慈悲に感謝し、彼女に機会を与えて発露して懺悔させた。彼女は誠心誠意に仏を学んで、教法に従ってしっかり実践し、生々世々に上師に従って、その上、上師の慈悲教導、引率と慈悲に再度感謝した。

そして、弟子と信衆は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年07月06日に開示した「共四加行」を恭しく聞いた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続き、四加行を修める前に、すべての仏法に対してあるべきな基本的な概念、心構えなど様々な準備をしておいて、そうすると四加行を修めたらやっと効果ができると開示した。以前は嘗て開示したことがあるが、今日もしも我々は仏を学ぶなら、家族と衝突して、恨みを起こして、これは最もだめな、よくない事である。いわゆる仏を学ぶのは、仏法を通して絶えずに薫陶して、自分の欠点をはっきり見て、他の人の欠点を見るのではない。もしもまた誰かがリンチェンドルジェ・リンポチェに言って、そなたの夫はそなたが仏を学びにくることを阻止するから、そなたが夫と喧嘩して、或いはそなたの娘婿がよくないから、そなたに仏を学びにくることができないようにさせて、これはすべてそなたの事である。

真な修行者は、他の人に欠点があることが見えなくて、ただ自分の欠点だけを見る。修行とは何なんであるのか。そなたは仏法を聞きに来ることや、家の中でお経を唱えることを修行と称すか。修行するのは仏陀が我々に教えた方法に基づいて、我々のよくない行為を改正して修正する。もしも1日中過ちを認めないで、いつも他人の間違いだと思って1日中よく自分の間違いない人を釈明して、そなたはまだ修行をやっていないから。

世の中で言われた「誤解」との2字は、そなたが事をする時、他の人の考え方と他の人の感銘に気が付いていないで、完全にそなたの自分の考えに基づいてやるから。そなたの出発点は彼に対して良くて、彼を手伝うためには関わらず、もしそなたは一心に他の人の感銘を体得しないと、勇夫は突進するように人を助けに行ったら、時にはちょうど予想の逆になる。

仏法の中ではいつも諭されたことがあるが、「仏陀は縁がある人を度する」。「縁がある」の意味は、もしこの人は我々の助けるを受ける条件を備えないと、我々は無理強いしないでください。もしも我々は、あらゆる衆生が仏陀の存在ですぐ苦しみを離れることができる、仏陀がすぐすべての苦しみを受けている衆生が苦しみを離れるように助けると思っているが、しかし、このような考え、は間違いである。宇宙の間、十法界の中のすべての事は全部、因果、因縁と関係があるから、因果の法則を離れたり、違背することができる衆生が1人もない。仏の大能力、円満な福慧で、すべての衆生を度し尽くすことができなくて、まして我々のこのような凡夫の身はなおさらであるか?

だから仏法の中は言うことがあり、仏を学ぶ人は先ずは自利をして利他をする。「自利」の意味は、そなたが仏法を学んでから、世の中での何の利益を得ると思うのではなくて、それはそなたが仏法を学んでから、自分が作った悪業をゆっくりと減らすことによって自分を三悪道に落ち込ませないで、更に再び輪廻しないから。我々は自分が自信があることを知っていてから、初めて我々は能力があって他の人を忠告し、お手伝いに行って、だから古人は「自ら手本を示す」と言っているから、我々は言葉で身の回りの人に改変させる必要がなくて、一部の人を影響して、必ず自分と仏を学びにくる必要もなくて、実はそなたは自分のあれらのよくない行為を変えなければならない。

どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェはぜひとも三十七頌を開示してそなた達に聞かせるのか。そなた達は毎日ひっくり返って聞かなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは今また三十七頌を修行しているから、そなた達はどのぐらい修行するのか。いつも、夫がそなたに仏を学ばせないことを責めて、もしもそなたの行為は1人本当に才徳兼備で、やさしくて賢い妻だったら、ご主人はそなたに仏を学びにくることを妨げるのか。両親はそなたに仏を学びにくることを妨げるのか。そなたの行為は直していないから。またややもすれば人と怒って、ややもすれば人とそなたに自分の理由を釈明して、完全に他人からそなたへの意見と批判を受けなくて、それでは、リンチェンドルジェ・リンポチェは三十七頌を開示してもむだになるのである。

毎回他人がそなたを責める時、すべては先に一体自分の問題がどこにあるのかを検討しなくて、先にこの責任を他の人の身に押して逃れる。ある女子の弟子は最近ますます深刻になり、どんな事が他人が彼女を誤解するので、どんな事でもすべては他人の間違いであり、彼女は全然間違いなくて、彼女は最も素晴らしい。彼女がもう改めないと道場を追い払われる恐れがある。だからこれからそなた達がすでに結婚した女性で、それにリンチェンドルジェ・リンポチェの道場で既に皈依したら、もしもそなたはやはり仏を学ぶという事で機会を探してそなたの夫と喧嘩するならば、そなたも来ないでください。仏はそなたに、夫と喧嘩するように教えていないで、仏は我々に、我慢して、すべてが我慢しなければなりない。もう外のあれらのいわゆる仏弟子を学ばないでください。1日中読経して夫に迴向してそなたに仏を学びに来ることを許すようにさせる。リンチェンドルジェ・リンポチェはたくさんだと言ったことがあって、このようなのは巫女の行為である。

一部の夫の妻は今までまだ彼に従って仏を学びに来なくて、それも彼自分自身が直していないからである。仏を学ぶのは家庭の革命をするようになり、そなたは1人でして、彼女は1人でする。自分の妻さえ影響することができなくて、そなたがこれまで一心にそなたの妻がどんな事を思っているかとを体得していないことを表して、それもそなたが今現在まで直してないと表している。だから、そなた達のような仏を学ぶ者は、もともと仏を学ばないと少し良くて、仏を学ぶ問題がかえって多くなった。仏教界では常に様々なあらゆる種類の異なる言い方、違う弘法の方法と方式があるから、衆生にすべて見失って落ちさせた。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこの数週間、すべてそなた達に六道の過患について釈明して、というのは我々の六道の中に落ち込む機会がとても多くて、生死に解脱することができるのは可能性がとても小さいから。もしもそなた達はまだありのままに如実に仏法を完全にそなた達の生活の中で用いていなくて、やはり僥倖する心があって、やはり、リンチェンドルジェ・リンポチェと護法はそなたを手伝うと思っている、仏法の本当な意味を調べなくて、やはり毎日急いでそなたの事を思っていて、こんなに多い時間を浪費するならば、将来亡くなったら、そなたが三悪道に落ち込む機会もとても高い。リンチェンドルジェ・リンポチェと護法はそなたを手伝っているので、仏法を発揚するのはそなたを手伝っているので、しかし生死に解脱する事は自分によるものであるから、他の人が手伝ってくれるのではない。

今台湾が流行っているのは、人が死んた後に、往生呪を印刷された紙を使って蓮の花と折れて、西方の極楽世界まで済度することができると言う。お経には、このような事を書かれたことがなくて、記載されたことがなくて、言われたことがなくて、歴代に浄土宗、密法を修行してもこの事を言ったことがない。だから、そなた達が考えてみると分かるのは、たとえ今日そなたは仏法を知っていると思うとしても、しかしもしそなたを監督する一人の上師がなくて、邪見に落ち込みやすいから。蓮の花とたくさん多く折れて、どうしてこの時間を使って、亡者のためよく仏経、呪文を唱えて手伝わないのか。この効果は更に良い。衆生が頑迷で、非を認めなkて、気丈であり、自分が既に直して、とてもよくやってたと思っている者は、阿修羅道と天道の中に落ち込みやすくて、これは福報がある人だと言えて、福報がないのは餓鬼道に落ち込む。

だから四加行を修める前に、不共の四加行及び共の四加行がすべて我々が理解しなければならない。今リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に教える「共」の部分は理論の方面である。そなた達はきっと仏が我々に教える理論を受け取って、くれぐれも懐疑が要らないで、仏陀がストーリを言うと思わないでください、このような事は私の身で発生することができないと思わないでください。このような考えがあると、すべて間違いである。仏は真語の者であり、実語の者であり、言った言葉はすべて事実に存在している、気軽な演説ではない。我々は皈依して、仏を学ぶと言って、仏に頼って我々を守ってくださるのではなくて、自分に頼って自分を守ってくださるのである。

最初、そなた達がまだ仏門に入る前に、仏菩薩と上師はそなた達にいくつかのことを手伝ってあげて、そなたにある部分の苦痛を暫く解決させるが、しかしそなたが入門した後に、すべては自分に頼らなければならない。我々はいかなる緩めること、いかなるだらけていること、いかなる僥倖する心があることがあってはいけなくて、自分がまだ時間があると、自分の頭がとても良く、自分の知るべきな事を探し当てることができると思ってはいけない。事実上、仏を学ぶのはどの事を探すのではなくて、仏を学ぶのは我々の多くの要らないゴミを捨ててしまうため、我々の心の中はすべて貪、嗔、痴、慢、疑などの悪念がいっぱいあるので、これまで一掃したことがなくて、将来はとても利己的で、すべてを自分のためであるから。この「利己的」は、我々に悪事を作らせる原動力であり、仏を学ぶのは我々に、もうこんなに利己的をしないように教える。

我々は今日因果応報の事をよく知っていて、理解し、受け取らなければならない。地蔵経に、「凡夫は心を起こして念が動いて、全ては業で、全ては罪である。」と諭された。そなた達は、私が事が起こって何の業があるのか、何の罪があるのかと思っていますか?私が念頭を起こすのはこんなに深刻であるか?実はこんなに深刻である。仏の標準から言えば、そなたは自分に利益する念頭さえあれば、すべては悪の念頭であると言える。だから《地蔵経》には仰ったように、我々凡夫が起こす念頭がすべて自分のため思うから。リンチェンドルジェ・リンポチェは私が好きであるかどうか。私はこの事をしたら、リンチェンドルジェ・リンポチェは私を賛嘆するかどうか。この念頭はすべて悪である。

我々は凡夫であるから、衆生はもともと我々と一体であることを理解しなくて、衆生は我々と分別がなくて、その故、我々はとても自己の念頭に執着する。事実上、我々のすべての念頭や、すべての考え方が無始以来、無明に薫陶されてゆっくりと身につける習慣がなくて、それに子供の時から我々我々の受けた教育は、どのように自分を保護して、どのようにもっと多くを儲かりたくて、どのように他の人の所に多くの利益をもらえることを学ぶ。だから、急にそなた達に改めさせて、本当に容易ではない事であり、そなたは本当に大根器は、再来人でない限り。だから、我々このような習慣がこんなに堅固であれば、このように打ち破らないならば、我々はいっそう自分に警告し、警戒し、反省し、検討しなければならない。

ひとつ簡単な法門があって、毎日眠る前に、自分の今日した事を検討して、私利私欲なことをしたかどうか?仏の仰った方法に違背したかどうか?しったら、そなたは今日一日三悪道の生活を過ごした。我々が検討し終わった後に、翌日再犯するべきでなくて、再びこのような欠点があるべきでなくて、再び言い訳を探して自分を寛大に許すべきではない。だから、以前は一部の大徳は、他の人に対してきっと寛大に許して、自分に厳しいということを仰った。我々は自分に寛大に許して、自分自身を検討しなくて、いつも他人を検討することをしないでください。これは最もよくないことで、最もだめな事である。もしも我々は因果法則を受けないなら、それなら邪見に堕ちる。

業因果報は永遠にすべて存在するため、そなたが今日死んでしまってこの業が無くなるのではない。そなたが仏法をすこし聞いて、業因は無くなるのではない、業因は一旦発生したら、この果はどっちみち発生するから。しかし因から果となる過程の中で、縁がなくてはならなくて、それを推進する動力がなくてはならない。1つの種が土の中で埋めるようで、もしもそれを潤す水分が永遠になければ、この種は発芽することができない。だから、そなたは悪因か善因を植えるには関わらず、中間はそれを推進する縁を必要として、やっと因果応報が発生する。だから、たとえそなたは累世にたくさん多くの善の因を植えても、しかしこの世にもしもそなたは如実に仏法を修行しないと、そなたが過去世にすでに意識田の中で1つのとても良い種を植えたと同じ、しかしこの世に仏法を使ってよくそれを潤していなくて、それを灌漑していなくて、この果がやはりできない。

だから、我々はどのように一名の上師がそなたに助ける資格があるかどうかを判断するのか?それは彼がずっと絶えずに自己要求して、精進することがあるかどうか次第である。世の中の修行者はわけがわからなくて出現することが出来なくて、たとえチベット仏教の生まれ変わりの法王としても、彼らは生まれてから小さい時から初めから仏法を学びなければならない。尊勝なる直貢チェツァン法王は、坐床からずっと2人の先生が身の回りで直貢チェツァン法王にお経とすべての儀軌を教えた。当然で、直貢チェツァン法王は我々と異なって、学んですぐ知っていて、学んですぐわかって、我々は打たれて、ののしられるが、話を聞いてくれないくて、差別はここにある。だからもしある人は突然そなたに、観音菩薩が彼に話して、彼はどんな境界まで修行したと言ったが、そなたはこれまで彼がよく修めていることを見ていないと、あの人は問題がある。

仏が在世している時にはこう仰ったことがあり、末法時代に、いくつかが仏に頼る外道があり、表面上、そなたと仏法を伝えるようであるが、しかし彼は外道の方法を使う。日本で蓮正宗があり、もっぱら《妙法蓮華経》に礼拝して、彼らは仏に頼る外道である。何故かというと、彼らがただお経しか礼拝しないからであり、そなたに《妙法蓮華経》の重要性、どんな法門を言っているか?どんな果を修めるか?どのように因地から修めるか?どのように果地から修めるか?などを教えていなくて、すべては言っていないと、これは仏に頼る外道である。台湾の多くの禅師と偽の密宗はすべて仏に頼る外道である。もしも我々はこのような状況を了解しなかったら、うっかりその中へ入っていって、再び退くのがとても困難である。

昔から今まで、いかなる上師、いかなる修行成就者が先生がなくて、門とを閉めて、一人で証果できた人は一人もいない。たとえ六祖慧能としても、昔から今まで、さらに未来までも、一名の根器がとても良い人だと言えるだろう。《金剛経》を聞いてから悟りを開いたが、しかし彼はやはり五祖の認証を必要として、五祖は彼に禅宗の心法を伝える必要があり、彼はようやく修行していくことができる。だから、今日もしもここにいる皆は自分が学問があり、本をたくさん読んで、多くの仏法を聞いてから、自分が家で果道まで修め得るることができると思っていて、それなら間違って、こんなに良い事がない。きっと絶えずに薫陶、鞭撻、励まし、監督を通して、そなたはやっと1つの法器になることができる。

法器とは何であるか。本当に仏法を受けることができる1つの入れ物、器具になって、そなた達は今まだこの資格まだを持っていない。皈依してから、多くの功徳をしたら、自分が1つの法器であると思わないでください。法器はそなたの心が完全に別の観念がないと言うので、完全に仏が我々に伝えた教えを受け取って、完全にそなたの独りよがりな意識を使わないで今日そなたの耳にする仏法が受けることができるかを判定する。完全にそなたの自己の意識を使わないで聞いた仏法をやり遂げることができるかを判定する;その上、自己の意識を使わないで、自分がわかったと思っている。今日もしもそなたは分かるならば、そなたはずっと欠点を犯すことはできなくて、絶えずに三十七頌の諭される事を忘れてしまった。

三十七頌にははっきりと諭されるように、そなたはやり遂げていないと、仏弟子ではありない。仏弟子とは何であるか。仏の話に言えば、如実にやり遂げて、初めて仏弟子と称する資格がある。皈依したり、丸坊主にしたりすると、仏弟子となるのではない、やり遂げていないのはそうではない。多くの人は仏を学ぶのはとても便利だと思って、参加しにいったら役に立つと思うが、事実はそれはただ縁を結ぶだけであり、修行するのではない。顕教は「一利耳根」を言って、その意味はそなたが仏法を聞いたことさえあれば、成道の種は心の中に植えるから。この二つの話の意味はそなたが気軽に聞くのではない。「一利耳根」の耳根は何なんであるか。根は意識の1部分であるが、しかしどんな人はこの耳根を支配しているか。我々の心である。もしも我々の耳根は一心に聞くのではなければ、ただ耳の風をして、そなたは何回も聞くに関わらず、仏法はそなたの阿頼耶識に入って1つの種になることが出来ない。

どうしてそなた達に眠って、あくびをさせないか?あくびをするのは、そなたが注意していないと表している。ある人は自分の体がよくない、椅子があまりに座りやすい、自分が昨日疲れ過ぎた、 リンチェンドルジェ・リンポチェはあれこれを言うのがすべて同じものであるので、自分がもう聞いたなどと思っているかもしれないが、これらはすべて理由ではない。

我々は仏法を習うのは二つの大変な障碍がある。一つは亢奮と言われる。つまり、多くの雑念、妄念があって、心の中にとても亢奮して定められなくて、落ち着けない。もう一つの障碍は掉挙と言われる。つまり、心の力を沈んで、力が無くて、居眠りしやすい。第一の問題は解決するのは簡単だが、起こって歩けば大丈夫。第二の問題はとても複雑で、リンチェンドルジェ・リンポチェが先程開示された以外、そなたは仏法に対して真剣さ、恭敬心が足りないと、居眠りしやすい。そなたは仏法に対して、余り受けられないなら、居眠りしやすい。最も重要なのはそなたの懺悔心が足りない。

何故懺悔心が足りないと、居眠りしただろう。若しそなたは懺悔しなくて、自分が間違いないと思うなら、そなたの冤親債主はそなたに引き続きに仏法を聞かせない。何故毎回法会が始まる時、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず先に百字明呪を唱えるだろう。それはそなたの業を消すため。業を消すのはそなた達にいい日々を過ごさないが、そなた達に仏法を聞ける。多くの人は法会に参加する時、心を起し、念を動くのは正しくなく、全ては守り、理解、分かるのを求め、仏法を習うのは自分の生活によくなれると望みたい。此れは全て間違い。

我々は仏法を習うのは自利利他のため、重点は菩提心を発し、一切の衆生を利益できて、我々と一緒に苦しみを離れて楽しみを得る。発心の動機はとても重要である。そなた達は居眠りするのは自分が仏法を聞くと思う。ある所を説くと自分が分からないと思った時、そなたの心はすぐほっとリラックスして、居眠りした。実は仏法とは理解するためではなくて、若し理解という言葉を使えば、仏経に我々が仏を習うのは薰陶すると説かれない。薫とは煙で不断に我々の心に染み込んでいた。心の中に全て汚い物が消えるまでに染み込んだ後、そなたは自然に豁然として悟って、すぐ仏法を分かれる。

仏法を聞くのはそなた達にこの薰陶を通して、自分の多く欠点を変える。若し今日我々は仏法を聞く時、この心を持ち上げないと、唯自分が来れば利益を得られると思うなら、そなたは居眠りしやすい。その時ある弟子は居眠りしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に忙し過ぎなので、とても忙しくて、寝る時間がない。一日中に自分の能力範囲内、自分がコントロール出来ない事を行っていて、仏法を聞く時、また居眠りしている。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が出て立たせて、そうしないと座ったままにまた居眠りしているかもしれない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは一つの物語を開示されて、そなた達に戒める。リンチェンドルジェ・リンポチェの父は33歳以後道教を習った。始めて道教を習ってから、死んだ前まで、リンチェンドルジェ・リンポチェの父は不正な金を一銭貰っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はは嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに話したが、病院で働いて、経理を担当した。香港の病院は台湾と同じで、行政を担当する人は多く葬儀社と繋がった。昔に病院の社員は若し誰が即死する事を分かると、事前に葬儀社を知らせて、葬儀社は必ずコミッションを社員に渡した。全ての行政人員も受けた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの父は一銭でも貰っていない。そなた達なら必ず受ける。皆は受けたから。結局率先して金を受けて、配た人は酒を飲まずタバコを吸わなくて、一生にそなた達が言ったように家族のために働いた。彼も悪い事をせず、毎日病院にいて、退勤すれば家へ帰った。遊女と遊ばなくて、賭けもしないのに、この人は広東人が人を叱るひどい話の通りに、「子供を生んでも、肛門がない」という状況に遭った。彼は本当に孫を生んで、肛門がない。また、彼は癌に罹って死んで、息子も癌に罹って死んだ。

リンチェンドルジェ・リンポチェの父は33歳から55歳まで、不正な金を取らない以外、誰でも貧乏なら、リンチェンドルジェ・リンポチェの父に依頼すれば、彼は家族は食事が出来なくても先に他人を助けた。また、誰が彼を求めて道法で助ける事を依頼するとき、彼も利益を受けない。彼は義理の母、第一番目の妻の母に対してとても親孝行していた。リンチェンドルジェ・リンポチェの父は妻が二人と結婚した。第一人目は第2次世界大戦に亡くなった。しかし、彼は義理の母にとても親孝行した。更に家まで迎えて住ませた。また、リンチェンドルジェ・リンポチェの母に指示して、絶対に親孝行しなければならない。若し、リンチェンドルジェ・リンポチェの母は言行が間違い、以前の義理の母を親孝行しないと、リンチェンドルジェ・リンポチェの父は怒る。

故に基本的にリンチェンドルジェ・リンポチェの父は十善法の親孝行を行った。また、多くの布施した。しかし、彼の一生は殺業がとても重くて、海鮮が好きだから。昔に中国にいた時、治安機関の人である。その後は心臓麻痺のせいで死んだ。道理によって、この多くの善事を行った人はこのような死ぬわけではない。しかし、彼は悪を行って、また善を行ったから、リンチェンドルジェ・リンポチェという息子を得た。

リンチェンドルジェ・リンポチェは仏に皈依した後、始めての宿題はそなた達は考えられない。そなた達は皈依する時、先にリンチェンドルジェ・リンポチェに聞いて、自分にどんな宿題を与えるかどうか。それはそなた達はすぐ修めたくて、自分がすぐよくなって、すぐいい事に遇い、すぐ分かると思いたい。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて上師に聞いて修める宿題とは父が心臓麻痺で死んだから、リンチェンドルジェ・リンポチェがはっきりに父がよくないと分かるから、どんな方法があってリンチェンドルジェ・リンポチェに教えて、父を助ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェの当時の師父は八十八仏懺を伝授した。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎日一回を拝んでいた。八十八仏懺が終われば、約30分にかかった。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは仕事をしているが、毎日拝んでいた。七、八ヶ月間拝んで、父が現れるのを見た。十六歳の人の姿が現れて、顔色は青い。彼は唯リンチェンドルジェ・リンポチェに一語言った。「私は気持ちがいい。」しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは相変わらず拝んでいて、半年になると、ある人がリンチェンドルジェ・リンポチェに耳の側に言って、「貴方の父は今呂祖の側にいる。」と聞かれた。

この物語は我々に伝えたが、仏が説かれた事は全て正しい。そなたは親孝行して、父母を代わりに引き続きに仏を習えば、そなたの父母は自然にいい。リンチェンドルジェ・リンポチェの父は青い顔色が現れるのは天道にいる人の顔色である。また、呂祖は天道に居る。若しこの人は生前に浄土宗を修めず、仏号を唱えず、仏を習わないなら、そなたの礼拝により、阿弥陀仏に生かせない。そなたは密乗を修める人に遇って、そなたに阿弥陀仏超度法、ポワ法を修めない限りできない。しかし、顕教の方法を使うのは阿弥陀仏に行けず、天道しか行かない。此れはリンチェンドルジェ・リンポチェの経験である。

そなた達は今日仏を習う心はとても怖ろしくて、両親を代わりに仏を習う事を一切考えない。そなた達は仏を習うのは自分が利益を得るかどうか、よくなるかどうか、他人と違うかどうかため。だから、この親孝行の標準はそなた達が行えないなら。自然に居眠りし、自然に家に障碍がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの標準を行ったから、その後仏を習う道は順調で障碍がない。そなた達はいつも障碍があるのは祖先が良くならなく、歴代の眷属がよくならないから。そなた達は言うかもしれないが、自分がいつも施身法を参加しているのにまだ出来ないか。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも施身法法会に参加すれば、累世の冤親債主と眷属を済度できるとおっしゃっているだろう。出来る。しかし、主役はそなたである。そなたは本当に用心に彼たちのためによくなれるように考えるだろう。それとも彼たちは悪いなら、そなたは苦しいから法会に参加するだろう。基本的にはそなた達は後者だ。自分が悪いと恐れるから法会に参加した。彼のためによくなるのを望まない。この心はちょっと差がある。

若しこの因が悪いけど、中間の縁が好いなら、果報が変わる機会があって、転じる機会がある。リンチェンドルジェ・リンポチェの父はいい例だった。つまり、今日そなたは仏を習う心はそなたの縁である。この縁が正しくて、善いなら、この果は必ずいい。若し今日そなたは仏を習う心は悪くて、エゴで、自分のためなら、たとえ自分が仏を習う事を思えば、この果報は必ずいいとは限らない。わずかな念、とても簡単な変化であれば、そなた達が変われて、転じれる。この結果は全く違う。何故仏を習う人は沢山だけど、本当に修める人は少ないだろう。それは中間の縁が間違い、使い間違い、発心が正しくなくて標準を行えないから、たとえリンチェンドルジェ・リンポチェは如何なるそなたたちを勧めても、そなた達は無理だ。何故出来ないだろう。それはそなたは相変わらず私利私欲の方式で仏を習い、事業も含める。

そなたは自分が正しい、間違いないと思えば、エゴである。エゴの人は絶対に心を開けいて、他人からのアドバイスを受けられない。心を開けて、仏からのアドバイスを受けられない。だから、そなたはまだ迷って、探しているのに、自分が思って分かる仏法を探せない。

業因果報とは絶えずに続いて止まられない。若し今日我々は悪い因を播くと、中間に我々は善の縁が有れば、この果はいい。しかし、好い果はまた他の新しい因を起す。つまり、因の中に果がある。果の中に因がある。此れはとても複雑な事である。今日始めてそなた達は自分が悪いから、仏法が助けて欲しいかもしれない。始めてこの考えは許せたが、そなたの問題は解決した後、若しそなたは仏が説かれた方式に従って自分の生活方式を変えなく、まだ迷って、自分の堕落の生活を過ごせば、そなたは変えられない。

だから、今リンチェンドルジェ・リンポチェは再び仏の教えを通して、もう一度皆に因果の重要性とそなたの受け入れる程度を提示された。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に多くの人に因果を信じるかどうかを聞いた。相手は必ず信じると返事した。しかし、信じるとはそなたは因果を深く信じる事とは限らない。深く信じるとはそなたは完全に自分の生活が絶えずに因果法則の範囲にいて、離れない事を分かる。いい状況が現れるのはそなたは昔にいい因を播いたから。悪い状況が現れるのはそなたは昔に悪い因を播いたから。若し、我々は完全に因果法則を受けるなら、そなたは始めて如何なる自分の楽しみ及び苦しみを向き合う事を分かって、如何なる自分の思想を変えるのを分かる。

若し我々は因果は仏が発明した物、因果はこのような大変ではなくて、唯勝手に話す事を思えば、この観念は全て間違い。因果は三世:過去、現在、来世を通して、絶えずに続いて、回っている。そなたは凡夫でも、仏果を証しても、全てはこの原則の中に動いている。だから、若しそなたは今日何も行っても果がないと思えば、この観念は余り正しくない。たとえそなたは中間の縁を止めない限り。彼は心を起せず、念を動かなく、完全に衆生の心に応じて、作用を起す。物事を処置すると、彼の心はまた如如不動になる。

《金剛経》に「不着相」と説かれた。つまり、我々は雁が飛んだ後、わずかな跡でも残さないようだ。我々は現在の問題は全ての事をはっきりに覚える。我々は余り着相過ぎて、他人が我々に加えた事を全て気になる。だから、若し我々はまた仏法を聞かず、法会に参加すれば利益を得られると思えば、そなたは永遠に修められない。

その後の段落は仏は再び因果法則を解釈された。業因果報の現れとは我々は概略に三種類を分ける。第一、黒い悪業である。第二、白い善業である。第三、業の自性である。だから、我々は通常に黒で悪業を代表して、白で善業を代表した。つまり、我々は息法の火供を修める時、白い布を使う。仏陀が説かれた。「黒い悪業は必ず集を断ち。」簡単に解釈するのは小悪は行えると思わない。我々は常に多くの小悪を作って、自分が警戒心を起さない。

先程リンチェンドルジェ・リンポチェは説かれた弟子は毎日自分が間違わず、他人の間違いと思えば、此れは悪である。この小悪は徐々に累積した人はとても横暴で他人の話を聞かず、他人に話す機会を与えない。全ての事は横暴に行い、現れるのが好きだから、多くの人を傷付ける。そなた達は今皆自分を表現するのが好き、実は古代人は既に我々を教えて、余り才能をひけらかしない。儒家は我々を教えて自分を守るのはひけらかすれば、他人に嫉妬を招いて自分に傷付かれるかもしれない。仏教に功労を他人に渡し、他人を助けるとある。自分が何を行っても功労が自分の物だと思わない。

皆は一つの事をしっかりに覚えなければならない。どんな仕事しても、そなたは絶対に自分が一人で単独に完成できない。たとえそなたは自分が芸術者であり、絵を一枚想像すれば、書けるなら、他人と関わらない。或いはそなたは文学者であり、この小説は自分が書いたから、他人と関わらないと言うかもしれない。しかし、よく考えるだろうか。もしこの画家は他人が絵筆、油彩、画布を作らないと、この絵は書かれただろう。また、若し彼はこの景色を見ないと、書かれただろう。彼はりんごを書きたいなら、りんごは誰に栽培される必要がある。風景を書けば、誰に連れられないと出来ない。だから、この功労は彼の物だろうか、天地の間の気だろうか。

小説家はこの小説が自分が創作されたと思う。しかしそなたはよく考えると、小説の中の人物とは全て我々と関わる。若しこの小説家はこの人達と付き合わず、所謂人生経験を吸収しないと、小説を書かれただろう。だから、我々中国古代は版権がなかった。中国古代で小説を書き、音楽を作るのは版権とはない。現在西洋人があって、知恵財と言われて、誰に属した物だから、争い、奪う。

随喜とは何の意味だろう。他人が好い事を行ったのを賛嘆する以外、そなたの功徳を彼を与えて、彼に喜ばせれば、随喜と言える。そなた達が金をいくら上師に供養するやそなたの好みによってが金をいくら与えるのは随喜とは言えない。

仏が説かれたが、我々始めて仏を習う人、小乗仏法を修める間に四聖諦法を多く修める。その中に最も重要なのは集である。我々は全ての小悪を徐々に集まれば、大悪に成る。この大きい悪が現れれば、そなたの心を変えて、そなたの未来を変える。尚更に現在を変える。だから、仏は集を断ちと説かれた。我々は業及び因果の最高指導である。絶対に今日自分が大乗仏法を修めて、金剛乗の仏法を修めるから、小乗仏法を理解する必要がないと思わない。実は仏法の観点に於いて、小乗、大乗、金剛乗を分けない。唯根器によって違う。異なる環境、時空であれば、そなたに異なる、そなたが分かる必要な法門を説く。そなた達の現状に関して、最も怖ろしいのは集である。いつもそなたの小悪を行い続けて、集中している。そなたの小悪は引き続きに集中すれば、、例えば先二人の弟子のように一人は居眠りが好き、他の一人は子供と遊ぶことが好きと同じだ。彼たちは自分が間違いないと思った。此れはエゴの心で仏法を聞き、仏法は薫陶される事を分からない。我々は毎日検討しなければならない。そなたは検討しないと、自分が今日悪を作ったかどうかを分からない。この標準はとても簡単である。私利私欲があるかどうか、独り善がりかどうか、他人を傷付けるかどうか。我々は先に集を断てれば、苦しみを消滅できる。若し我々は集を断たなくて、いつも自分が苦しいと思って、自分が苦しみを分かると思うが、一方不断に悪を作れば、苦しみの因を消滅できない。そなたは証せず、生死を断てない。

四聖諦法は四字だけでとても簡単と聞けば、苦集滅道である。実はこの四字は仏が説かれた本当の仏法に最も重要な意義を含めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは前におっしゃった通りに、人道八苦、六道の様々な苦しみはそなた達に苦しみを体験させて、理解させた。今何故そなたたちは多くの人なのに、まだしっかりに仏を習うのを決心しないだろう。それはそなた達は十分に苦しみを味わわなくて、まだ本当の苦しみを体験しない。自分が病気に罹って、子供は気持ちが悪いなら、十分苦しいだと思った。まだ苦しみの程度に至らない。まだ早い。そなた達は苦しみを体験出来ないから、引き続きに悪を行っている。だから、生死を消滅できなくて、道を証する事が出来ない。

我々は自分の苦しみを体験する以外、また六道衆生に様々な苦しみを体験しなければならない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは過去数ヶ月に引き続きに説かれて、説かれた事を通して、そなた達に輪廻が苦しみである事を体験させて欲しい。更にそなたに伝えて、仏を習うのはすぐそなたに安楽を得られない。仏を習うのは先に苦しみを理解しなければならない。苦しみを分からないと断たれない。故に「苦集滅道」という四聖諦法は我々仏子として、体験し理解すべきことである。必ず台湾に於いて大乗仏法を説かれたから、苦集滅道を修める必要がないと思わない。それは間違いだ。苦集滅道を分からないと慈悲心、菩提心を発し、尚更に菩薩道を行う事が出来ない。菩薩道を行えないと、大乗仏法を修めない。仏は説かれたが、業因及び因果は本当の指導は集を断つことである。だから、輪廻の中に善悪、安楽、苦痛、寿命など全て因果から生じる。だから、我々は諸法が因から生じる事を言われるのは世の中に様々な現象が現れると、原因がないわけではない。必ず先に原因がある。あるのは今世に播いた因で我々は気にしなくて忘れたかもしれない。有るのは我々が過去に播いた因である。そなたは今世に発生した事は必ず原因がないわけではない。我々は全ての事が因から起こるのを分かる。だから、仏教に「果は因から生じる。」とある。外道は因なしに生じると主張する。如何なる因なしに生じると主張するだろう。例えば、ある宗教に於いて、人が悪い事を行った後、神職人員に懺悔すれば、大丈夫だ。同じで天堂に行け、引き続きに悪を作っている。此れは因を除いて、結果しか見ない。仏法では特に凡夫を例として言う。我々は先に因をはっきりに見なければならない。つまり、古哲は常に「凡夫は果を畏れ、菩薩は因を畏れる」と言われたのはこの意味である。

外道は仏法と最大の分別とは外道はどんな事でも原因がないと思った。つまり、結果に対して処理する。西洋医学と漢方医学と区別と同じだ。西洋医学に於いて、体に物を生じたから、そなたのために切る。漢方医学に於いて、脈象が間違いから、まだ生じない前に始めてそなたを治る。この比喩はちょっと粗い、余りに合わないけど、そなた達は分かりし易い。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェの父は道教を修めた。道教は現在の現象を対応する。例えば、ある者はたたりを受けたが、符を書いて、彼を助けて鬼を追い払った。或いはある者が病気になって、符を書いて、彼の病気に治った。しかし、因は如何なる来た事を理解しないから、問題は永遠に解決できない。リンチェンドルジェ・リンポチェは始めて仏を習う後、道教を諦めた。それは道教が悪いとは言えない。道教も我々に善を行ない、悪い事を行わなくて、他人を助けるのを勧める。しかし、彼は修める方法は仏門と違う。仏は我々を教えて、因地から修める。外道は現況から修める。現況から修めて、因果を理解しないと、彼は悪い事をする機会は改めて始まる。それは彼は因が如何なる来るのを分からず、この果報を向き合って処理できないから。

台湾に於いて、多くの仏教界は信徒に説法も果地から説いて、因地から説かない。だから、多くの人は寶吉祥仏法センターのリンチェンドルジェ・リンポチェはとても厳しいと言った。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは厳しいではないが、そなたは仏を習うのは因地から始まらなければならない。そなた達は悪い性格、習慣、思想を必ず改める。若し改めないと、そなたは繰り返して悪因を作る。何故そなた達を管理するだろう。そなた達の欠点は多すぎる。若し改めないと、外に出れば、皆に仏弟子と合わないと言われる。他人が口業を作ったけど、主犯はそなたである。そなたは改めないから。今日そなたたちを厳しく管理するのはそなた達に悪業を作らないのを望む。ある者は仏を習わない時悪業を作る機会は少ない。しかし、仏を習った後却って悪業は特別にお重い、いつも仏法で他人を指摘し、家へ帰ると妻や夫を叱る。これは全て間違い。そなたは相変わらず果報から行った。我々は先に自分から改める。何故我々は今まだ成仏できないだろう。原因と問題は何処など探さなければならない。原因を探すと、結果がある。調度が外道と相反する。

仏法は源を治り、表面性ではなくて、今そなたを助けて、解決すれば大丈夫ではない。先日あるお爺さんは前立腺の問題でリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に癌ではなくて、手術を受ければいいと言って、しかし仏を習う。その後このお爺さんは本当に手術を受けて、大丈夫だと思った。五年後再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁すると、既に癌に罹って、治られない。若し彼は始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した後、五年間に彼は仏を習えば、癌が現れないかもしれない。此れは凡夫の心、外道の心である。結果で仏法を見る。そなたたちも同じで、悪い時仏菩薩は側にいる。いいときに仏菩薩は遠く空にいる。これは果の原則で仏を習い、間違い。例えば、そなたは此れは毒薬であり、毒性がると分かるのに何故食べる?例えば、多くの人はタバコを吸うのは悪いけど、相変わらず吸っている。果報は必ず悪い。実は現場にいる人は多くのことを行えば、必ず影響がある。悪い事が現れる。しかし、また話して、行って、考える。何故だろう。それはそなた達は果報を恐れず、果報が現れるのは信じない。そなた達に発生する事を受け入れない。果報が現れる時そなた達は苦しい死ぬほど苦しい。

仏が説いた、我らは戒を執行する悩みを遮るはずで、善に従って如実でして、一切悪を断つべきだ。我らは良く分かるはずで、我らは凡夫さえ悟ることが出来なくても、深奥な仏法が理解できなくても、我らは必ず分かる:一切現象、一切我らの身の上に発生した事は全て善因が善果を得て、悪因が悪果を得るのである。是非ある悪人が楽しんでいるのを見ると悪行をしても必ず良い生活を暮らすことが出来ると思うな。悪行をする者がまだ良い生活に過ごすことは、彼が過去善行の果報、福報はまだ使い終わらない、しかし、彼が悪因をまだし続いているので、悪の果は必ず生じる。善行する者が苦しんでいるのを見ると彼が仏を学ばなくて、善行をするはずがないと思うな、これも間違った、それは彼の悪の果がまだ終らないのである。但し、彼は仏を学んで善行をしているため、彼の未来はきっと良くなる。

まるで、リンチェンドルジェ・リンポチェが45才あの年に大礼拝をして収入がなくなったのである。以前、リンチェンドルジェ・リンポチェは顕教を勉強した時、大護法で、全て寄付したお金は少なくとも1千万を超えて、毎年拝懺する時全部少なくなくて、それよると商売はくずれたはずがない、離婚するはずがない、仏菩薩がかごするべきで、子供をよく勉強させるはずだ。この物語はそなた達に注意させた、皈依して、寄付して、念仏して事柄がすぐ良くなると思わない。我らは仏を学ぶため、良くない事がすぐ発生するかもしれない。それはそなたがこれから良くなるので、良くないのを先起させて業報現前である。業報現前とはそなた達が思ったのように良くないのが来たら要らないのであらない。そなた達に早目にそなたの債を返させて、速めに善の道へ、とても順調で行っていく。今日、夫、女房はそなたが仏を学ぶのを妨げるのは業障現前で、そなたが喜んで受け取って、仏を勉強する道は今後始めて順調になる。そなたは彼らがあなたを妨碍するのは間違いと思って、仏はそなたを加護しなくて、護法はそなたを加護しないと思えば、こんな心こそ正しくない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の例で説明して、皈依した前1年から素食し始めて、皈依した後持戒し始めて、先生はリンチェンドルジェ・リンポチェをどこかへ行かせて、幾らを出せれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も言わずに従った。尊勝な直貢チェツァン法王に皈依した後もそうである。良くないことは自分の身の上に起こらないべきで、護法は加護するべきで、なぜ商売が崩れて、自分を離婚させたか?まさか仏がきかないか?よかった、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達のような思いがなくて、只自分を反省して、必ず自分の累世の業が現前して、自分によく業界の怖さを見せる。そなた達はこんな心を変わってこなくて、仏を学んできっと良いことが起こると思っても出来る。何もせずに、1日24時間で只呪文を唱えれば。ドラブ・ワン・リンポチェのように毎日六字大明呪を読んで、太腿は気分が悪くて、心臓がよくなくてもお医者さんを見に行かなくて、やはり呪文を唱えた。ある者は彼にお医者さんを見に行くと勧めると彼はまたあの者を叱れてあの者は仏菩薩に信心がないと言って、現在も良くなっている。

あなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと同じではなく、リンチェンドルジェ・リンポチェは果報を受け取る、果報の現われは即ち債を返すのである。そなた達は全く受け取らなくて、これはとても恐ろしい思い出、邪見に堕ちて、因果法則を受け取らない。悪行をする者が良い生活を暮らすのを見ても正しくない思いが起こらないで、仏を学ぶ者、自分を入れて、良くない生活を暮らすのを見ても恭しくない思いが生じない。そなたは善行して必ず善果を得て、悪行をしてきっと悪果を得て、これらは2本平行線で、同等であらない。そなたの善業は悪業より100萬、200萬倍大きくない限り、悪の果が現われても蚊に一口刺さられたようではない。リンチェンドルジェ・リンポチェ現在の脈象は30才あまりのようで、菩薩はリンチェンドルジェ・リンポチェの五臓六腑が壊れないように加護しているが、脊椎大側湾は累世の業で、どんな医者さんが見て貰っても仕方がない。今日そなたが仏を学んで、百パ-セント体が健康と表さない、我らは累世には殺業があったから、この一生も是非殺生することがあった。そなたが殺生することがあれば、お体にはきっと病気に罹る。この事よりもう一度証明が出来て、善と悪は全部同時に1人の身の上に起きられる事が出来る。それで、リンチェンドルジェ・リンポチェを脊椎大側湾で苦しませた。しかし、一生懸命善行をするため、リンチェンドルジェ・リンポチェのお体に30才あまりの状態を保存させて、多くの者を助けることが出来て、人に利益する。そなたを享受させて、多くお金をもうけさせるのではない。

だから,我らは因果法則を分かって、了解した後、如実で修める。《中觀寶蔓論》では述べてあり、貪・瞋・痴は一切不善業の始めである。我らは自分に対して、貪欲が起きられて、人様の賛嘆が欲しくて、いいものを使って、享受するなど;他人に対して瞋念が生じた。業報果報を分からなくて受け取らないとの無明である。この三種類は動機と称して、三門の悪業になり、即ち身、口、意の悪業だ。体の悪業とは殺生、窃盗、邪淫である。語業は妄語・両舌・悪口・綺語に分けてある。意業は貪欲、他人を害する心、邪見で合わせて十不善である。逆に我らはこれらをしなければ、十善と言える。

多勢の者がリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った蟻を殺す、ごきぶりを打つことが出来るか?殺生は五支に分けてあり、五つの条件が全部備えると、殺生の程度が確定された。五つの条件の中に1つがなければ、殺生の程度が少し減った。一番目は所依境で、即ち衆生、一切の有情衆生で、畜生界を入れて、全ての昆虫、動物、魚を含んで、六道に一切の衆生は全部有情衆生である。ある弁解の好き者が言った、科学が証明した、音楽を聞く植物も少しよく生えた。彼に綺麗言葉で話せば、彼もすこし良く出来た、彼は有情か無情か?植物はなぜ食べられるか?仏が有情、無情に対してどう区別するか?第一、有情の衆生が生死に対しての恐懼はとても重い、第二、彼が情欲の要求は、即ち、彼は次の世代が引き続くため、情欲が必要だ、第三、彼は愛、別の分別がある。動物とか、人類とか問わず、彼は好きな対象に対して、彼は愛護して、好きではなければ、彼が妨げる。植物にはこの三つの条件がないこそ、我らは彼を無情と呼ばれている。厳格言うと、我らは我らの色身を扶養するために、この植物を食べて、仕様がない。以前リンチェンドルジェ・リンポチェも申された、我らは今素食しているが、この殺業が完全に切るとは表さない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て我らの教派の1人上師を夢見した、リンチェンドルジェ・リンポチェに1つ呪文を伝えた、彼は仰った、リンチェンドルジェ・リンポチェが食べる前三回を読まなければならない。この呪文は漢文に変えると「化食真言」だ。あの意味は、我らは無情か有情を問わず食べると殺生のチャンスがある。だから、そなたにこの一生衆生に債を欠けさせないように、そなたは必ずこの呪文を勉強して、唱えなければならない。翌日、夢が覚めた、あの頃鐘巴節都(Dzongpa Gyedu)リンポチェは台湾にいて、当時リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ密法を学ばない、それで、リンチェンドルジェ・リンポチェはリンポチェにこの呪文があるかどうかを聞いた、リンポチェはぼんやりした、この呪文は漢民族に伝えないから、それにこの呪文は普通のラマ僧が勉強するもんではない。鐘巴節都リンポチェはこの呪文をリンチェンドルジェ・リンポチェに話した。それより、そなた達は素食するのが偉くて、修行していると思わないで、間違った。

素食するの観念は、我らが殺生するチャンスを減る、しかし殺生することがあるかないか?あった!田を鋤いている時、多くの虫が死になった。水懺の中にも説いた、あれら漬物例え酢、菜漬、我らはかめの蓋を開ける時,上の方に一層の有情の衆生を敷いて、即ちあれらの菌類で、あるは酵母類である。水懺の中に述べた、我らは料理、酢を取る時、やはりあれらの衆生を害する、それで、我らは懺悔する必要だ。

殺生について、我らはまず五つの条件の一番目の条件所依境を説いた、即ちそなたが殺した衆生だ。二番目は思惟、つまり目標に対して明確な認識だ。例え:我らはあれに1つ蟻の巣があるのを知って、巣から彼を出て来させるつもりだ;例えそなたはあそこに一匹の蛇が穴の中に逃込むと分かるくせに、それを捜して出しに行くつもりだ。例えそなたはこの鼠が一日中こちに来たり行ったりするのを知って、あなたはそれを悪戯つもりだ、これは一つ方法を思惟して一つ正確の目標を捜しに行く。三番目は加行で、即ち毒薬、武器、呪文を使って、人様を使わせて、自分が使って、他人を誘って殺させるのである。四番目は動機、つまりそなたは貪・瞋・痴三つの悩みがあり、特に瞋(恨み)だ。蚊、蟻、ごきぶりを殺すことが出来るかどうか?これはそなたに教えた、そなたは貪・瞋・痴の心があれば、殺すことが出来ない。そなた達はどうして蟻を殺すか?彼が悩ましいのが嫌いで、彼が汚いのが嫌いで、彼がそなたの食べ物を食べるのが嫌いから、なぜごきぶりを殺すか?彼が醜い!何の故動物をころすか?貪だろう!彼の毛皮のために,彼の肉のために!痴は心理を知らない。五つ目は完畢で、即ち相手の寿命はまだ尽くさない前、彼を死なせたのである。

もこの五つが全て存在すれば、この殺業が成立された。1つが欠乏するなら,たとえあるとしても この過失はすこし減って、前の因はとても完備ではないので,殺業はあまりとても完全ではない。我らは心が起きて思いが出て、どんな衆生を殺しに行く時、そなたは是非どのもので殺すか、次いで、どの方式で殺すかと考えた、それから、最後にどの根拠より殺すか。仏教が我らに教えた、そなたは素食することが出来なければ、すくなくとも三浄肉、五浄肉、九浄肉を食べるのはこの道理である。例えある者はまたそなたに言って、小乗仏教とチベット仏教のマラ僧は全部肉食するのに、なぜ我らは肉を食べることが出来ないか?間違いだろう!彼らの考え方はそなた達のと同じではない、彼らは殺生するには貪・瞋・痴との動機がない、彼らは毒薬、武器、呪文を使わない、他人に殺すことをやらせない。

二つの物語で説明する、ある日、ある農業に従事しなくて台北の市の若い人はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いに来た、彼は気分が悪かったと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った、そなたはこんなに一匹大きい豚を殺すべきがないのに、なぜ一匹の豚の鬼はそなたについているか?彼はちょっと考えてみたら、言った、かつて廟の縁日の時に、豚を殺す試合を見に行った、人様が殺しているとき彼が見に行って、たいへん堪能して、また手が彼方此方振った。彼には動機があって、例え彼は殺すのではないとしても,彼は殺すことが随喜したから、この豚はいつも彼の後に従っていた。尚、一回印度で、リンチェンドルジェ・リンポチェは1人インド人の後ろに一匹の猪が彼の腰にぶつかって、彼もお体があまり元気ではない。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を見て、彼は狩りの人ではないのに、彼に聞いた。彼は考えて見て言った、小さい頃、叔父さんと連れて狩りに行った、結局彼の叔父さんが一匹の猪を殺した、彼は叔父さんにこのことを助けて、喜んで猪の肉を取った、それでこの猪も彼にぶつかった。もう1つは、ある男の子で、リンチェンドルジェ・リンポチェも一匹の猪が彼の太腿を噛んでいるのを見た、それで彼に聞いた:そなたは猪の肉を食べたことがあったか?彼は言った:食べなかった、一回彼はどこかへ行って、1つ皿の猪肉料理を出して来て、彼が食べなくて、只お箸で取ったり、選んだりして、この猪は彼に従ってしまった。怖いだろう!神通力がなくても利点があった、そなた達はどのように殺したか分からなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは神通力があって、見ると怖かった、そなた達はやはり怖くない。この三つのことは言いたいのは彼には動機があって、考え方が良くなくて、憐れむ心がなかったが、五つの条件が備えなかった。それで、今日この三人はリンチェンドルジェ・リンポチェに会うことがあった、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にこれからもう殺生することが出来ないと申された。彼は今日リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた五つの条件が備えれば、この殺業が成立して、リンチェンドルジェ・リンポチェを見ることが出来なくなるかもしれない、彼は多くの苦しみを受けるかもしれない。

また1つの小話を仰った、ある女弟子の息子は、1回お爺さん、お婆さんを見に帰った、夜、食事をして、とても退屈で、天井板の上より何匹のヤモリをつかまえて遊んで、ヤモリを死なせた。その後、家に帰って母親と言い争った。 まもなく学校で、わけも分からなくて、舌が出してから、縮んで戻ることが出来なくて、首の周囲がとても痛かった。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った、リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:あのヤモリは現在そなたの体にいて、ずっとそなたをやりたい。この小話には二つのポイントがあり、1つは彼が悪業するこの因、本来この果報がまだ熟しなかった、果報が熟したには因縁がある必要だ、悪因縁とは彼が孝行をしない,言い争う即ち孝行をしないのである。例え、そなた達はある考え方があって、父母親がそなたを知らなくて、父母が時代遅れになって、私たちとひとつのギャップがあって、言い争って、これは悪の因縁である。彼は割合に軽くて、またリンチェンドルジェ・リンポチェに伺いと思った、あの日、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに伺うと思わなければ、彼がしまおう!我らは例え今日殺業をしても、すぐ懺悔して今後もう二度としなくて、その間にどの悪因縁がなければ、この殺業の果報が熟しても、とても軽くて、リンチェンドルジェ・リンポチェの熟した果報のようで、脊椎の痛みである。そなた達は自分が殺業をしたと思ったが、懺悔せずに、まだ悪行をし続けて、そうするとこの悪因縁が備えてしまって、果報がすぐ来る。

この数年間、台灣には癌症がますます酷くなって、特に肝臓癌である。多くの者は中国人が肝臓病気に罹るチャンスが比較的に高いのは我らが食事をする時公のの箸を使わないため感染されたと思ったが、道理はこれではない。それは我ら漢民族は特別に殺生することが好きで、新鮮な海鮮、かに、海老が食べ好きである。特に過去の十年間、台湾のテ-クオフで、食べ物は良くて、この殺業が現われた後、仲間には善の因縁がなければ、この悪果が来てしまった。現在果報はそなたの次の世代まで待つ必要がなくて、この一生を始めた。何故この一生に発生するか?それはこの一生に発生すれば、そなたが貪・瞋・痴を始めてきて、そなたを地獄に堕ちさせる。だから、そなた達は殺業のこの五つの条件が全部備えれば、あの殺業の果報は必ずあった。多病、短寿、家庭には一切不順調で、眷属が合わなくて、お願いに適わない。

何故全世界の離婚率はこんなに高くて、特にわれ等漢民族か?それは我らは現在殺業が特別に重くて、婚約する時、結婚する時、妊娠する時、お産をする時、お産をする時多くの衆生を殺して、これらの衆生はそなたに債を請求しに来るか?それで、そなたの夫、女房はそなたが仏を学びに来させなければ、それはそなたが結婚する時従順しなくて、素食宴会をしなかったから。昨日リンチェンドルジェ・リンポチェは一ヶ月ほど結婚したばかり者が離婚した、大変恐ろしかった!チベット人は殆ど離婚しない、それはチベット人の殺業がとても軽かった、そなたは彼らが肉を食べるのをばかり見ないで、彼らは食べる必要時こそ殺す、腹が一盃になると殺さない。我らの業がこんなに重いのに、まだ承認しなくて、受け取らない。見よう彼が一匹のヤモリを殺すことは、彼に舌を吐かせて、首が歪になった。どうしてヤモリは彼にこんなに憎んだか?それは彼がそれを生きより死ぬまで遊んだから、例え、彼はぽんとそれを打ち殺したなら、こんなに酷くならないかもしれない、しかし、彼はそれを虐待した。仏経の中で我らにペットを養わないように勧めた、そなたはそれによくしてあげて、食べさせて、水を延ばせて、風呂に入るのを助けると感じたが、この犬或は鼠が風呂に入るのが好きではないかもしれない!そなたがそれをやって、遊ぶと思ったが、それは寝たいかもしれない。だから仏経の中でわれ等に勧めた、もうペットを養わない、テトラ、鳥を含んで全部である。現在家の中にまだ養魚するならば、死んだらもう養わない、「風水魚」とのことはない、仏を勉強する者なら、まだ一匹の魚を養って、そなたのため煞を遮って、そなたの慈悲心、愛心はどこにあるか?これは全く正しくないのである。ペットを養って、そなたが彼を殺す心がないが、そなたは貪の心があって、彼はそなたの手に死んだら、彼はそなたを憎む外に、彼はそなたと感情があって、そなたは彼のため良く済度しなければ、彼はそなたを捜さないと、誰を捜すか?絶對にそなたを捜す。あの日ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに言った、彼は大変愛心があって、多くの流浪犬を育ている。リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、こんなに多勢の浪人があったのに、そなたはなぜ家に連れて帰らないか?

だから人類は利益のため、間違いことをして、まだ独りよがりと思って、まだ自分が正しいと思った。それより、家の中でごきぶり、蟻などを見ると、一番重要なことは家庭の衛生条件が良くして、きれいにするべきで、これら衆生を見たら、できれば打たないで、毒薬を置かないで、殺虫剤を噴出しないで、農薬を噴出するな。中南部では癌にかかった農夫が多くて、医学で言えば、彼は農薬を噴出するので、彼は中毒した。しかし因果論によって、彼は毒薬を噴出して、多くの衆生を殺したので、彼が果報を受けた。しばらくの間、リンチェンドルジェ・リンポチェは1つ血癌にかかった者を見た、彼はなぜこんな病気になったか?それは彼は庭園の管理者で、葉を掃いて焼いた。しかし、葉の中に沢山の衆生がいて、彼が火で焼くと衆生を焼き殺した。血癌にかかった感覚はどうだろうか?まるで全身があるものに噛まれていたのである。そなた達は殺人しないが、小さい動物、昆虫を殺すチャンスがとても高かった。この地球の上で生きさえすれば、百パ-セント殺生しないのは不可能で、我らは食事さえすれば、やはり殺生する、但し、我らは先ほどリンチェンドルジェ・リンポチェが説いた五つの方式が出来るべきだ:そなたには殺生する動機がない、自分の貪と瞋のため殺すことをしない、人様を使って殺させない、毒薬で殺生をしない。

密法を勉強することが出来るなら、リンチェンドルジェ・リンポチェのように毎日すべて観想して、三悪道の衆生は寿命が短くするように望んで、三悪道にいて寿命が長ければ、彼は苦しみを受けて、我らは彼が善道まで済度できるのを助ける。なぜそなた達に六字大明呪を100萬回読ませたか?それはそなたがこの呪文を読むことができるから、例えそなたはうっかりして殺生するとしても、少なくとも彼が少しの利点を手に入れた。我らは何時も六字大明呪を唱えて功徳を彼に迴向して、畜生道を離脱出来させて、もうこの苦しい生活をしに来させない、仏子はこの考え方はとても重要である。

どうしてリンチェンドルジェ・リンポチェは皈依した者に素食をさせたか?それはそなたがまだ肉食の習慣があれば、殺業の考え方はいつまでも直すことができない。そなたには殺生する考えが存在すれば、そなたの殺業はいつもでも絶えずにし続いて、離脱することが出来ない。我らは動機より言えば、魚、肉、利益のため、貪欲のため、恨みのため殺生する、例え、ある者は犬に一口を噛まれたので、彼を生きより死ぬまで打ち殺して、それこそ恨みのため殺生した。我らは身、口、意で殺生して、愚痴のため殺生した。仏経の中で大変はっきり述べた、是非是非殺した動物でそなたの祖先にお辞儀するな。そなたの祖先は済度が出来ないならば、そなたはまだ彼のため殺生してまるで百に斤を加えたようである。彼は既に百キロを担当したのに、そなたはまた彼のため石を上に加えたのである。それに、そなたの祖先はいつまでも離脱することが出来ない。どのように祖先が離脱したかどうか見るか?眷属が不円満で、終日喧嘩して、願いにかなわないのである。肉を鬼神、祖先にお辞儀するなら、全部殺業で、例えそなたが殺すのではないとしても、他人を殺させた意味と同じである。

「所依境」とは、相手が誰である事を知って、思惟を経てから、そなたは彼が死ぬ事が欲しいである。ある者は自分に借金した者がよい生活を依然として暮らしている事を見たら、そなたの心の中にこれらの人々が速く死んでしまう事を考えるようにである。この殺業の二つの条件を現れた。この悪人は早目に死ぬかどうか?この社会に危害し続けるかどうか?全て我々に関する事ではない、これはこの社会の共業で、因縁果報である。多年前に、三人目の重要犯人がいって、一部の道教の人々は修法して彼らに早めに去らせて、少ない程人が害を受けて、これは因果原則に違反することである。リンチェンドルジェ・リンポチェはその三人目が殺させた看護婦に施身法を済度した時に、その看護婦がはそれらの3人目が何時に去る事をはっきり話した。結局はそのとおりである。これは鬼が命を取り立てるわけではない、これはこれらの3人目の福報が使い尽きで、時間に至ったことわけである。そなた達も聞いた事があり、もしこの人の福報が大きいならば、彼に殺させられた鬼は彼に殺させる事が出来ない。他人は何をすたら、他人の事で、彼は彼の果報を対応して責任を持たなければならない、我々はこれ等の思惟の方式を思ってはいけない。或は「とりあえず彼が死んで、早めに死んだら速めに済度する」という考え方を有り得ない。このような考え方があったら、この殺業の二つの条件を既に備える。我々は、私が彼を殺す事がない、特に殺す事もない、何故このような多くの病気に罹る事を常に思っている。此れはこの二つの条件を既に合った。彼はこのような殺業の事実がないけれども、彼がこの悪の障碍を既に身に就けた。

また、殺害がしないけれども、毎日に殺す事を話していて、その上、自分が罪がない事と思っていて、またこのような言う事がとても微かなだと思っているならば、これも間違うのである。そなたはただ言う事があったら、この殺業も具える。此の豚がよく殺させるのような、口だけで言っても、この豚も彼に迷惑をくれた。随喜の殺業は全て悪の障碍があって、況して他人に殺させる事を言うのでしょうか。だから、女は市場で買い物をして、この鳥を取ってくれて、後ほど帰って取った。綺麗なしてくれて、この魚がよくて、抓んでくれ、後ほどでこの魚を喰う予定である事を言うならば、この五つの条件が全て具えて、それでは、そなた達は懺悔が要るのではないか?多くの福報功徳をするのではないか?釣ったことがあって、他人と一緒に海鮮を食べた事があって、全てこのような事で、随喜の殺業がすべて良くない結果がある。

我々は了解してから、昆虫に対する見方は、衛生的条件のため、不注意でそれを害して、それではこれが大丈夫で、懺悔により、福報を累積する事により、或は自分が修行してそれに役に立つ。そなたは瞋念、貪念、復讐の考え方にてそれを殺すなら、厳しくなる。だから、家に蟻を見たら気にしないで、ゴキブリを見たら、同様に気にしないで、真にそれを恐れるならば、夜に寝る時に布団で被せる事が大丈夫である。もしある者はムカデを見てから、それを打って殺す事をしたいなら、これはとても良くないである。

もし殺業の物語を話したら、話し終わる事が出来ない。嘗て、ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、彼の足がとてもだるくて痛くて、如何に診療を受けても治されなくて、原因も見付けられなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは観てから、彼が10歳余りで遠足して、一匹の蛇が彼の足の位置で這った事を見て、蛇を這った時に、彼が蛇に殺させる考え方を起して、この考え方が彼の足に数十年に痛ませた。だから、跪かれないのは必ず何か原因があり、此れはそなたが衆生の足を断った事があり、だから跪かれない、仏に礼拝する福報でもそなたに与えない。実は、足の痛みを恐れて仏に礼拝しない者はそなたの業が永遠で解決が出来ない。跪かれるなら、真に福報を具えて、福報が無い者はそなたに真っ直ぐに立たせて、礼拝させない。

仏陀は五戒の中に、第一戒がすぐ殺生を許さない。そなた達は衆生を済度させる能力がない前に、他人から「お酒と肉が腸を経て、仏が心の真ん中で座る」という蠱惑する話を聞いてはいけない。或は先に食べて腹に入って、それからそれを済度してあげるなどの邪説を聞いてはいけない。ただ我々は地球に生きているなら、この殺業がする機会があり、我々が注意しなければならない。なぜ法会に参加するのでしょうか。絶えずに懺悔し、絶えずに供養布施をするわけである。法会の折に寝られないのでしょうか。これは我々の業がとても重くて、そなたが想像な何でもない事ではない、我々に有形無形的な衆生を傷害させる数量が計算出来ない。だから、菜食する事は功徳ではない、我々の殺しの悪業を断つわけである。もし社交の為に肉食をし続ける者は彼が悪を断たない、悪を断つ事を惜しんで、此れは彼が社交の為に他人に自分が菜食する事を言う事が気まずいと思っていたわけである。我々は他人に自分が何か食べ物が好きではない事を常に言う。そなたは自分が肉が好きではない事をする。ある者は私の姑が私の菜食するので嬉しくない、両親が私に菜食させないなどを言って、これは問題ではない、問題はそなた達の考え方、菜食する事が罪悪と思っていて、菜食する事が栄養がないとおもっていて、菜食する事が普通な人ではないと思っている。しかし、医学には人々の身体の構成が肉食を適さない事を研究して出た。我々の腸は牛と羊のように巻いて、植物を食べる動物である。肉食をする動物は獅子と虎の腸のようにまっすぐである。そなたは全世界の中に、直腸癌に罹る地方がオーストラリアである事を見える。オーストラリア人は焼肉が好き訳である。胃癌が最も多くのはアメリカで、此れはアメリカ人はステーキが好むわけである。すべて肉食を好むので罹る病気である。今日、そなたに肉食をさせない事はそなたに死のうということではない、そなた達に遅くて死なせる事で、そなた達は肉食を断たないなら、それでは、そなたが慈悲心を起させれない。

「破戒」と「開戒」は異なる事である。仏経には、そなたの身体が真に良くないで、そなたの薬が衆生の肉或は衆生の器官で薬を作る事が出来る。これは仏方便説である。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェとしてすべて出来ない。そなたはこの殺しの考え方を断たないと、そなたが永遠に悪をしている。これは殺念がある者は、彼が瞋念に起こる機会が他人により高くなっていく。そなたは瞋念を起して、自ずから他人に傷害させて、仏が我々に要求させる戒律を忘れてしまう。

第2個は与えずして取って、盗んではいけない。世間には一切の事物がこの所有者がいって、野外の一つの石、一つの花がそなたが取って帰る事が出来てはいけない。ただこの所有者が同意しないなら、そなたが取る事は与えずして取るのである。その上、公務員は汚職することである。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの患者の自身が極めて多くて病気に罹って、また、一部の良くない事は第2代、第3代を延ばさせたを見た事がある。、これは彼のお金が汚職から貰えたわけである。所謂汚職の意味とは、彼の給料を超える部分が全て貰える一切の報酬が汚職である。他人からそなたに食事を頂戴させる事でも汚職の範囲を含める。国家銀行で働く者は常に食事の頂戴を受けて、お土産を受け取って、これらが汚職である。リンチェンドルジェ・リンポチェが説いたあの死者のコミッションを取って、病院に死者のお金を稼ぐのようである。病院は既に彼に固定な給料を与えて、彼がまた余分のお金を稼ぐ事がをしたら、これが偸盗する事で、そんたに貰えても、そなたに返させらなければならない、そなたが返したくないでも、必ず身体が問題があり、或いは家族に何か意外があり、その上、事業もだんだん減らしてしまう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の例を挙げて、21歳の折に、香港の珠宝店で営業マネージャーで、その時、リンチェンドルジェ・リンポチェがあるアメリカ人を認識し、彼と通販の商売をした。この外国人は本来の店の得意先が、リンチェンドルジェ・リンポチェが私的に彼と連絡し、彼と商売をして少しのお金を稼いで、会社が知らなくて、然し、結局、リンチェンドルジェ・リンポチェも珠宝にて落ちて、全ての財産が無くなって、これは因果である。幸い、リンチェンドルジェ・リンポチェは財産が無くして、奥さんも離れて、人が意外が無かった。しかし、現在、一部の人々は財産があり、家、奥さんと娘が依然としてあり、身体が失って、だから与えずして取る事が真に怖いである。多くの人々は国家機関に働いて、他人と食事して、社交の食事なので少しの肉を食べないければならないと綺麗な話した。もし検討しないならば、問題が後ほどで必ず益々表れる。国家機関に働いても、私有機構に働いても、会社の得意先、お金、物を取ったら、全て偸盗である。これはそなたが入った時に、そなたがこの給料を同意したので、出勤して、誰でもそなたに押させる事が出来ないし、そなたに騙させる事もないし、ただこの社長さんはそなたに約束した給料を与えるならば、そなたに1円たりとも少ない事がないならば、そなたがそなたの仕事を遣り遂げなければならない。もしそなたがうまくしないならば、そなたが社長さんのお金を盗むのである。この世に返却しないなら、来世も返却しなければならない。現在、我々の社会はこのようで、各々は現状を不満で、自分が少ないで持って、より良い仕事を見つけたい、これは全て偸盗の戒を犯した。

偸盗を犯すなら何を発生するのでしょうか?富が集まらくて、そなたのお金が必ず失って、思えずになってしまう。家族が病気に罹って、或いは、お金を使い尽きて、或いは、そなたの子孫がそなたに代わって使い尽きて、或いは、そなたが投資が間違って、赤字になるまでである。もっと厳しいなら、他人に盗ませられて、取らせられて、火事、天災、全部で失ってしまう。これは全て偸盗の戒を犯すわけである。そなた達は偸盗の戒を犯して、各々がした事があり、仕事をする時に一心しなくて、会社からの給料を依然としてとる。だから、多くの人々はリンチェンドルジェ・リンポチェに「富が累積できない、来ると失って、思えずにお金が失ってしまって、いつも誰かが私が替わってお金を使い尽きる」を尋ねた。これはそなたが生々世々にこの与えずして取る戒を犯し、特に三寶を供養する物で、多くの信衆はある精舎、センター、仏寺に向いて、ある果物を三寶の前に置いて、1日目、2日目で置いて、子供が飢えるので、一つを取りたくて食べさせて、取ってからラマ僧に「先果物をとって息子に食べさせた、大丈夫のでしょうか?」と話した。勿論大丈夫ではない。与えずして取るのは、当事者の許しをえないで取る事が与えずして取るのである。特に三寶に供養する物で、この罪が極めて重いである。

第2個は「所依境」のちに思惟して、騙し、暴力、盗みでそれを取得する。騙すのはそなた達が常にする事で、例えばある者を売って、この物の欠点は全て被せて知らさせない。例えば、建築をし、この値段が遣り遂げないが、中身を減らしてして行く。これも騙させて、偸盗する事である。仏経には我々が商売をする者が不実であれば、地獄に落ちる。騙すはそなたがサービス業をして、公務員のように、すべての大衆に直面し、心を使わないで対応する事がない。これも盗んで不実である。この物は明かに白いけれども、黒いと話させて、これも不実で、偸盗で騙す事である。例えば銀行のお金に騙させて、期限に至るなら失う事も騙す事である。だから、銀行で働く者は自分の職権を利用して、他人にもっと多くのお金を貸して、これも騙すのである。台湾の多くの銀行で働く者はこの欠点を犯して、お金が国家であると考えて、自分と関係ないと思っている。国家の銭は誰は与えている?人民が与えるので、多くのは欠ける。古人は、何故ある家庭が3代を栄える事が出来ない、3代が全て良くないが出来ないと説くのでしょうか?道理はここのである。ただそなたが騙す行為をしたことがあったら、そなたは商売し、アルバイト、公務員にかかわらず、そなたの富が必ずないのである。そなたは他人に騙して、他人もそなたに騙し、特に我々が暴力或いは盗みにて取る物で、盗みは最も厳しいのが海賊版をする。だから、それらの偽のカバンを買ってはいけない、お金がないなら買わない、必ず本物をかって、買う者がないならば、これらの海賊版業者が生存できない。全ての人々は彼が心を使い尽きて、ある物うまくして、そなたの貪念を起こすので、これらの人に瞋念を起こさせて、だから、そなたに果報を得る。

リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の物語りを説いた事があった。珠宝がタクシーで忘れてしまっても、15分以降に持って帰る事が出来で、これは前世に他人の珠宝を盗んだ事がないので、この世にリンチェンドルジェ・リンポチェの珠宝を誰でも取らないわけである。文殊菩薩も類似な物語が説いた事がある。彼はある者に自分が累世の偸盗の戒と破った事がないので、彼の物が他人に攫われる事が出来ない。この人が信じていないので、文殊菩薩はすぐ彼に見させて、ある綺麗な新しいく靴が城門の大門において、この靴がここにおいても誰でも持つ事が出来ないと説いた。結局、長くて置いても、真に誰でも取らない。これは文殊菩薩の前世、過去世が他人の品物を取らないので、彼の果報が誰でも彼の品物を取らない。家に泥棒に遭って、過去世に必ず他人の品物を掠めたことがあって、ただどの世を知らない、そなたのお金が他人から騙させられて、取られて、家族に使って済み、常に品物が不思議に失ってしまうのも他人の品物を盗んだ事がある。仏は「富みは五賊が共に管理する」と常に諭す。つまり、そなたの子孫、火事、政府、天災である。

動機はそなたが貪、瞋、痴の三毒を以って他人の金を掠める事があるかどうかのである。加行とは、自分が自らして、或いは他人にさせる。だから、銀行はウルトラな貸し、それらの他人に同意してウルトラな貸す銀行の社員が、加行の範囲を含めて、他人に悪事をする事を助ける。完了とはこの品物は他所を移して、他所を移さないでも、自分が既に得る事と思っている。我々の行為は力にて掠める事を分けられて、力が権力がある事を含める。例えは、官員として、銀行社員にこの信用状を行う事が出来る。私はこの権力があるので、いくらの口銭を稼いでも、盗む事を含める。偽の値段で騙して、偽の情報で株価を操作する者も盗む事を含めて、特に台湾の証券市場で、我々の証券市場のお金持ちは偽の情報を出して、我々に入場する株価を売買させる事も盗む事を含める。

与えずして取る事の中には、僧衆の収入を取る罪業が極めて重い、無間罪の重い程度に至る。この事は台湾で多く発生した事がある。僧衆は出家衆を言うのみならず、作用する僧団も含める。例えば、寶吉祥仏法センターは僧団を含めて、在家者、出家者を含めて精進な仏を学ぶ団体で、団体の財務が誰かが運用する事があったら、盗む事と呼ばれる。寶吉祥仏法センターのお金が1台湾ドルたりともリンチェンドルジェ・リンポチェに関係ない、リンチェンドルジェ・リンポチェが1台湾ドルを操作する事がない。また、そなたはある財務をそなたに移してから出す事を盗むのである。この品物は、1枚のイレットペーパー、1本の鉛筆でも、主人が知らないで、そなたが使ったら、盗むのである。特に道場の品物を盗む。台湾はずっとこの事を発生し、多くの在家衆がお金を管理するが、結局彼のお金になって、このような罪が重くて、無間地獄に落ちる事になる。全ての僧団のお金は衆生から供養してくれて、誰に属す事ではない。だから、寶吉祥仏法センターの産業は法人で登録し、つまり、ある日、この僧団が存在しないと、これらの品物がそなたの誰でも属すではない、政府に属すのである。台湾の仏教界は最も厳重な問題が産業の問題で、彼らがこの罪がこんなに重さ事を知らない。多くの人々は仏教団体を利用して彼の利益的な目的に至って、これも偸盗である。だから、普賢菩薩は「全ての僧衆の品物はそなた達が売買の心構えでする事が出来ない、この罪が重いである」と諭した事がある。

それから、邪淫を説く。不倫は邪淫のとおりであはない。「所依境」は他人の奥様、他人の娘である。つまり、未成年である。第2個の意味は彼女の両親の許容を得ない場合である。現代人の多くの人々が邪淫の事を犯した事がある。リンチェンドルジェ・リンポチェは「多くの男女が離婚する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは常に彼らを下記のように諭す。そなた達が結婚する時に、リンチェンドルジェ・リンポチェに尋ねた事がない、離婚がリンチェンドルジェ・リンポチェと関係が有るのでしょうか?始めて付き合った時に、そなたの両親に尋ねた事がないし、離婚がそなた達の両親と関係があるのでしょうか」を冗談で説いた。だから古代に何故男女の欲望は両親の許容を得る事が必ず要る事を規定する。現代こいう説法を転覆させて、男女が成長してからこの行為が当然だと思っている。ただ彼の両親を許容しないと邪淫の範囲を含める。特に他人の奥様で、この奥様は正式に結婚するとは限らない、他人の婚約者も含めて、他人の彼女も含ませる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは香港に二つの物語を見た事がある。ある男性、彼は結婚した婦人と付き合う事が最も好んで、結局、彼の出場がとても悲惨で、中風、行動不便、奥さんが彼を離れて、子供が彼を離れて、最後、自分が屋根から飛び降りて自殺してしまった。第2個の物語は、ある者の両親が極めてお金持ちで、時計店を開店して彼に社長さんになってあげた。彼はある女房をめとって、この女房が綺麗である。しかし、この人がある変な弱点を持っていて、彼はあれらの結婚した婦人と付き合う事が大好き、自分がとても風流を話す事をよく話した。結局、数年後、彼は他人に拉致し、匪賊が彼のお父さんと連絡し、200万香港ドルを恐喝した。彼のお父さんは彼に救う為に、ある側近を指示させて、200万香港ドルを持って行った。結局、数日後、息子とする彼、とこのお金を持って行った者の二人は殺された。お金を持って行った者は他人に殴殺し、また衣服を着けた。この息子は麻袋の中に放されられて、素肌を見せて、生殖器官も切り捨てられて、生きていて流血して死んでしまった。この果報が怖いだろう。

嘗て、リンチェンドルジェ・リンポチェは台湾に来たばかり折にある者を認識し、その日に雑談し、彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに「結婚した女を認識する事が幸い」と話した。リンチェンドルジェ・リンポチェは聞いてから怒って、彼に「貴方の奥様をくれるのでしょうか?」と話した。彼はすぐに怒った。リンチェンドルジェ・リンポチェは「ただそなたの奥さんは私にくれない、が、何故そなたが他人の奥さんと付き合われるのでしょうか?」と話した。リンチェンドルジェ・リンポチェも多くの女性を勧めて、この男はそなたが結婚した事が知るが、依然としてそなたに追求したら、この男性と付き合う事が出来ない。これはこの男性が既に道徳がない、彼がただそなたに遊ぶだけである。

この邪淫は未成年の女の子、また、両親から監督する女の子、他人の彼女と奥さんを含め、その上、両親の4代以内の家族で、つまりいとこである。何故我々の中国が同姓の結婚が出来ないのでしょうか?これはそなたが同姓であれば、そなたが必ずこの血統があり、だから、結婚出来ない。現在、台湾もこれを破れて、多くの同姓も結婚する。その上、持戒の比丘尼と優婆夷である。優婆夷は在家の女性で、彼女は在家し、まだ結婚するなら、彼女は持戒して修行して、彼女が同意しない場合に、そなたが交合をしたら、同様に邪淫である。

自分の奥様でも、奥様が「八関斎戒した」を守っている期間で、或いは奥さんが発病していて、妊娠していて、極めて悲しんで、彼女が極めて悲しい時に、生理期間で、産後がまだ治らない期間で、彼女と交合をしたら邪淫である。三宝の前に、つまり仏堂の前に、寺のうちに交合をしたら、これらが邪淫の範囲を含める。第2個が思惟で、つまりこの欲望が欲しがる。多くの人々はしないけれども、毎日考えて、考えてから病気に罹る者もたくさんいる。簡単で言えば、女子色情症患者である。だから、なぜ未成年の男女が色情の映画をみる事を阻止し、これは彼が多く見てから考えていく。なぜこの業界に従事する人が全て地獄に落ちて、これは彼が他人に邪淫を引き起こさせる。だから、この思惟は却って最も重要である。我々は行動の前に必ず思惟があってから行動をして行く。だから、仏経には、全ての女は他人のご主人を心淫してはいけないと記載する。つまり、そなたは他人のご主人を思い出さなければならない、ただそなたが思ったら、実はするにより厳重である。以前、多くの女性は主人が浮気があるので良くない事を常に話、それでは、「そなたの心の中には他の男子を思った事があるのでしょうか」を尋ねる。そなたがしないけれども思った事があったら、実は仏の定義により同じで、ただそなたが行為に至らないし、意が既に邪淫をして行く。だから、我々はそなたの主人が浮気を責める時に、自分が「他人のご主人を心淫するかどうか」を反省しなければならない。女は常に思惟をする。そなた達は現在多くの記載は男の子が肉欲を重んじて、女の子が情欲を重んじする。

思惟は最も重要である。出家衆にはある戒本に記載した事があり、出家衆に拳闘する事を見させない。これは彼らが多く見るなら、意識の中にこの闘争の思い方を積み立てる事を心配する。だから、そなた達の女の子であれば、それらの未成年の男の子であれば、毎日にこのような事を思惟したら、そなたの多くの行為に偏差をさせて、多くの不正確な観念がある。「加行」は進行の行為である。動機は三毒の貪、瞋、痴である。完了とは二根を接触してから、この楽しみを喜ぶのである。我々は兄弟姉妹の近親のこのような淫行が禁忌で、発生できない。結婚した婦人などの婚姻の禁忌も邪淫である。比丘、比丘尼なので西方禁忌の邪淫で、最も重要なのは母親或いは羅漢女に姦淫し、罪業が極めて重い、五無間罪を入る。だから、台湾の社会は真に混乱し、息子が母親に姦淫事こともあるし、孫がお祖母さんに姦淫した事もあるし、母子が淫行をした事もあり、これらが邪淫である。ある女の先生は若い男の子に淫行をする事を含めて、これらが邪淫の範囲である。

邪淫はなぜこんなに厳しいか?邪淫はまだ不正な性行為を包括する;換言すれば、男女の性行為を除いて、一切性行為は全部邪淫です。同性愛、動物と淫行する事も包括する。邪淫とは生きている時に、そなたの夫婦が離婚させて、身体の状況が百出し、事業も失敗してしまう。年寄りになると、いくつの病状が現れるかもしれない、一つは老人痴呆、もう一つはパーキンソン病である。エイズはこの邪淫の範囲を含めている。死んだ後に地獄に落ちて、地獄の果報を終わってから、鳥或いは淫心がより重い動物に生まれ変わる。この循環が1世、2世ではない、生々世々で、極めて厳重な事である。だから、常に社交的な食事をするし、不正な酒宴を飲むことへ行ったら、そなたの福報を消耗し、そなたの道徳を壊れて不正確に成らせる。

我々は有情衆をとし、淫欲がある事がしょうがない。我々のこの世に生まれるのは、両親の淫欲の為に我々に生まれる。我々がこの世にまた来るのは我々の生々世々に淫欲の習慣である。仏を学ぶのは我々の在家衆が淫欲を捨て要らないのではない。そなたに第一邪淫が出来ない、第二淫行を重んじる事が出来ないのは教える。「地蔵経」には情欲を重んじるのは地獄道に落ちる事を記載された。密法の中気脈明点の考えにより、そなたは情欲を重んじるならそなたの気脈をしたに向いて、これは地獄に落ちる現象、前兆である。それらの淫欲を重んじる者は、上記に思惟をする者を含める。これは彼が長期で心を丹田の下にいさせて、だから、往生する時に、彼はこの気を上げる事が習慣できない、それでは下に向いて、そうすると、地獄に落ちる。在家衆は出家衆ではない、情欲があって、淫欲があるのが正常で、しかし、邪淫に落ちる事が出来ない、情欲を重んじる事を落ちる事も出来ない。掌握して制御しなければならない、自分を放任してはいけない、或いは地獄に落ちる機会が100パーセントである。

なぜ私たちは密法を学ばなければいけないのでしょうか?これは単に顕教の理論により、そなたの身体が体得出来ない。密法を学んでから、そなたは仏菩薩の慈悲を真に体得できる。仏菩薩は我々への勧め、教導が我々に悪道に落ちる事を防止する。彼様の全ての説法が必ずこのなりの根拠があり、偽の話ではない、随意に説く事ではない。淫を対応する事は、在家衆が仏を学ぶので、そなたの相手の要求を拒絶してはいけない。実は、大乗仏経には記載した事があり、我々が菩薩道を行う者はそなたに正確な要求があったら、そなたが彼の希望を満たして、拒絶してはいけない。台湾で仏を学ぶ多くの者は夫婦と喧嘩し、最も重要な原因が別々で就寝し、配偶者と正確な行為を行わない、相手に仏法の誤解を生じる。相手はまだ仏を学ばない時に、そなたが仏を学ぶので彼に仏法を誤解或いは瞋恚を生じるなら、そなたのこの悪業が重い。もし、そなたは男女の行為が要らないと思っていったら、結婚しないはずで、はやく出家し、他人に害する事をしてはいけない。既に結婚し、これはそなたの縁であり、そなたはこの縁がうまくて円満完了する。仏を学ぶので、そなたの正常な生活に大きな変化を生じさせない。仏経には、仏を学ぶのは我々の習性を修正する事と曰く。最も主要なのは淫欲の習性である。我々の性格、気性、好み等、これらが我々の生活習慣で累積する経験で、真に所謂習性ではない、我々に輪廻させる最も重要なのは淫欲である。

2011年3月25日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な直貢噶舉施身法を修めて、1300人を上回って法会に参加した。リンチェンドルジェ・リンポチェは、法座に昇った後、大衆に殊勝な開示を与えた。

今日リンチェンドルジェ・リンポチェは特に、人が往生する前後のいくつか状況に関して開示した。この方面の事について、一部の人がそなたに、往生する前にどうなるか、往生した後にどうなるかと教えたが、あれらはもしかすると、他の人の言ったのを聞いてからそのまま伝えたり、或いはお経にいくつか陳述を読んで取り出して言ったり、甚だしきに至っては自分で考え出すことを言ったりするかもしれない。しかし、これらの事を述べる者は自分で死亡の過程を経験したことがないから、言い出したのはすべて耳学問であり、真実な状況について、やはりめちゃくちゃであり、分からなくて理解しない。これはすべて人のが独りよがりなことおよび風習の文化と関係があるが、しかしお経の中で記載していない。もし亡者に対して助けがあるならば、仏陀はきっと私達に教えるから、お経に記載されていない事を自分でしたのはすべて仏法と関係がない。

ある者は亡者の家族にいろいろ教えて、亡者の遺体安置室の前で擲爻(易占いのひとつ)をして、亡者に何を食べることが好きであるかということを聞くと言って、紙の蓮の花を折ると言って、亡者のために往生する掛け布団を被せると言って、数人の執業する出家者が唱えるように依頼すると言って、そうすると、亡者が浄土に行くように助けることができると思っているが、しかし、これらはお経にはすべて言及されていなくて、すべては耳学問である。多くの人は亡者が生前よく肉を食べることが好きであるから、肉をもって亡者を拝むと思っているが、実は、もし亡者を拝む時に肉入りの食物を使うならば、かえって亡者をもっと多くの悪業に累積させる。《地蔵経》には諭されることがあり、肉で亡者を拝んで、亡者に「百上加斤(中国語の諺で、百キロの物に一キロを加えてもすごく簡単なこと)」をさせるので、つまり、亡者が生前肉を食べて殺生して既にたくさん悪業を作ったから、そなたは亡者のためにまた殺生して、この業も亡者が負わなければならなくて、亡者の悪業をもっと多く増やすのではないか。

世の中に、たくさん済度する方法があり、民間では、亡者のために、「做七」という習俗(仏教では、死後四十九日までを忌中とし、この間は7日ごとに7回の法要(法事)が営まれる。)があり、ある者は3回或いは5回をするが、しかし皆さんは四十九日(七七日)との言い方を知っているが、どうして5ではないか、どうして仏陀は49日を仰るのか?お経の中で8、10がとてもよく使われるが、何故8、10を言わなくて、7を使うおか。実はこれが密法と関係があることで、そなた達は密法まで修め得ていないから、今日皆に教えなくて、しかし顕教の理論から言えば、次の通りである。

人が死んた後に、どうなるのか。彼は生前にやった物事と行為と関係があり、彼が善か悪をなしたことにより彼がどの道に往生するかを決定する。生前に十善法を修める者は三善道に往生することができて、彼らは仏門に皈依するかどうかに関わらず、外道は同様である。多く善行をする者は三善道にいくが、逆に悪を多くすると三悪道まで行く。善をなすのは寄付金を寄付したり、ボランティアをしたりすることを指すのではなくて、それは十善法を修めるのである。十善法では第一個が不殺生であり、肉を食べるのは必ず殺生することがあり、過去世にを別にして、この世にそなたは肉を食べて、皈依する前に肉を食べて殺生したことがあったら、十善法の一つが少なくなった。だから、また肉を食べている人は何に基づいて自分が仏教徒だと思っている。お経に諭された菜食精進料理を食べる事さえあなたもしたくないから、そして仏を学ぶことを話すことが要らないであろう。今日もう10善法を多く言わない。殺人し放火するのはたくさん悪をなすのであはなくて、よく肉を食べることが好きであれば、人に地獄を落ち込ませることができる。ある人は本当だかと反駁する。もし本当にこのようになると、大部分の人は死んだ後に全てが地獄に堕ちるのではないか。はい、その通りである。ほとんどは地獄に堕ちる。地獄に堕ちるのが難しいと思わないでください、間違いである!堕ちやすい。

もし十善法をよく円満に修めた人は、死んで息が絶えた時、天界に行く。生前もし十善法を修めていたが、しかしあまり円満に修行していない場合に、往生した後で人道に生まれて、その上富貴な家である。もし大悪をなしたら、例えば肉入りの食物のレストランを経営したり、屠殺業をしたり、魚釣りの用具を売ったり、飼料を売ったり、堕胎薬などを売ったりすることで、直接に地獄に堕ちる。大部分の人は殆ど大善あるいは大悪な人ではなくて、すぐ投胎(生まれ変わる)することができなくて、その故に49日間(77日)を待った後に、ようやく彼の業力に従い、どの道に生まれ変わるから。人は息が絶えた後に神識は肉体を離れる。すべては8時間の後、神識がようやく肉体を離れるとは限らなくて、8時間掛からない者もいるし、更に長い時間を待つ者もいる。もし家族はその側に泣いたり、、道教の人がその傍で鈴を鳴らしたり、或いはその側で詩歌を歌ったりすることで、全ては亡者に安心に離れせない。もし亡者はそのため怒るならば、嗔恨心と一緒に地獄に堕ちる。

神識は肉体を離れた後、1種の睡眠に似ている状態に入って、49日間(77日)は重要な時期で、7日ごとに一回目が覚めて、それからまた寝つく。毎回目が覚める時、仏菩薩の化身は亡者を導くたびにくるため現れて、同時に亡者の業力も彼を邪魔しにくる、冤親債主は彼のよく知っている親友に化けて、彼を三悪道まで導く。生前もし修行している者は、この時に冤親債主に妨害されなくて、、仏菩薩の化身に追随して生善道へを歩きます。だから、仏陀を学ぶのは何のためであるか。、体がなくなるためではなくて、良く事業が順調に進むためではなく。往生するところに間違い道を歩かないようにするためである。、だからこの49日間が非常に重要である。

先ほど言った大善や大悪以外の殆どは、亡くなってから幽霊になるわけである。これでは餓鬼道を指すのではなく、すなわち六道以外の、一般で言う幽霊のことである。幽霊になってからすぐに生まれ変わらないで、生前の善悪や因縁によって、次第に生まれ変わって「報に応じる」のである。「幽霊」の状態は49日に限らず、長く留まる場合もある。仏経によれば、幽霊は長くて1200年以降に生まれ変われることもあるから、最年長の幽霊は1200歳にも及ぶそうである。だから、ある人たちのように、お家の高齢者を「老鬼(日本語で、「ジジイ」や「ババア」」と呼ばないべきである。それは長く幽霊で居れ!と呪うことと同様である。幽霊でいる時は、自分がいつどの道へ生まれ変わるのか分からない、途方に暮れる状態では、実に苦痛であって極めて清浄な環境を必要としているのである。幽霊は人類より感官面では100倍ぐらい鋭いから、あなたが誠意を持って助けてあげようとしているか否かは判別でき、あなたがこうしたら彼らに本当に役に立つかどうかも分かるわけである。家族は亡者が気絶する前から、亡者の手を絶えず撫でたり繋いだりしてあげていると、亡者の手からのちょっと動いた反応を見て、自分が相手を感動させたと思われがちであるが、実はそれは身体四大が分解中に当たってちょっと触っただけでもピリピリを感じさせて極めて苦痛な状態に陥らせることから生じた現象である。小説に影響されないように、そして、あなたの想像にも任せないで下さい。こうしてあげると、亡者を苦痛によって憎しみを抱かせるだけのである。

ここにいるどの世帯でも家族が往生した経験があり、そして間違いなく誰でも往生することである。誰かが往生する時には、何をしたらいいか分からなくて慌てているように見える場合がよくある。仏経では助念団に助けてもらうと、亡者を浄土へ送られると書かれていない。出家者にお経を唱えてもらっても、賛美歌を歌ってもらっても亡者が助けられない。出家者を雇ってお経を唱えれば済度できるわけではない。ましてお経を唱える出家者自分でさえどう済度すればいいか分からない!因縁がなくて亡者を助けられるように有能な修行者が見つからない場合、亡者の親族自らお経を唱えたほうがいちばん望ましい。親族が誰よりも心を込めて唱えているから、亡者を安心させる効果がある。仏経で諭される助念は、亡者が生前、ある僧団で仏の教えそして生死を解脱する法門を習ったことがあって、彼が往生する前に同門の兄弟子(別称で同修)により、馴染みのある法門にてお経を唱えてあげることであって、亡者が往生する時にその信心を固めさせ、妄念によって三悪道に陥らせない、そして業力に影響されないようにも役に立つのである。

釈迦牟尼仏は《無量寿経》、《観無量寿経》、《阿弥陀経》には、阿弥陀仏を紹介して、その中の《阿弥陀経》には、往生浄土の絶対条件を触れた。それは「福徳因縁を備える善男子と善女人が浄土に往生する発願した。」とわずか一句だけである。福は供養と布施により、徳は修行によって得るものである。お経を唱え、拝懺してそして呪文を唱えることは、助縁する効果に留まるだけことである。戒、定、慧を修めることこそ功徳であって、功徳こそあなたが浄土への往生を助けられるものになる。因縁は本尊の願力を修め、本尊の修行法門によって如実に菩薩道を修行するのである。善というのは何かと言えば、十善法を修めることである。

済度とは唯上師が口で唱えればいい、とても簡単だと思わない。顕教の方式で亡者を済度するのは簡単ではない。実は《梁皇寶懺》及び《地蔵経》に仏陀が目連尊者を教えて、僧侶に飲食供養という方式で母を済度する以外、仏経に亡者を済度する方法を説かれない。仏経に自分を助けて修める方法しか説かれない。それは顕教は仏法の理論であり、密法しか他人を助ける方法がない。そなた達の中にある人は必ず菩薩道を修める人は衆生を助けて成仏させるのは自分が成仏より重要ではないか。何故先に自分を修めるかと言うかも知れない。確かにそうだけど、先に自利しないと利他できない。自分が成就まで修めて、生死を解脱できれば、衆生を済度できる。菩薩道を行うのは自分が能力があれば、他人を助ける。例えば、施身法の法本も二部分を分ける。第一部は自分が修める法である。そなたは成就まで修めて、自分が生死を解脱できれば、第二部、他人を助けて修める法を修める。

密法は済度の法門があり、必ず次第の修行がある。儀軌は前行、正行、回向を分ける。如何なる超度法を修めたのは成功が有るかどうかを分かる。そなたは済度できたと言えばいいとはない。法本に記載されたが、済度が成功する時、どんな兆候が現れる。済度は遊戯ではないが、台湾に於いて多くの発明家があって、自分が分からないから、独り善がりで自分の考えで仏経の内容を解釈する。若しそなたの考えは正しいなら、そなたは仏である。リンチェンドルジェ・リンポチェは最も恐れるのは一知半解の人である。

昔密法をチベットに伝えたのは蓮花生大士である。蓮花生大士はチベットにいたとき、ある国王の大臣は家で火事が起きた。大臣以外、家の中に全ての人と畜生が焼死した。国王と大臣は蓮花生大士に求めて、大臣の家族を済度する法門を伝授する。蓮師は既に仏果を修めて、自分の浄土を持つ大成就者であり、一切の神通力を具える。蓮師は大神通力で阿弥陀仏浄土に行って、阿弥陀仏に法を求める。求めたのはそなた達は常に聞かれたポワ法である。ポワ法は釈迦牟尼仏が説かなくて、阿弥陀仏は自ら伝授された殊勝な済度法であり、亡者の神識を直接浄土に送れる。ポワ法は必ず自分が先に生死を解脱できるまで修めれば、他人を助けて修められる。ポワ法を修めて成就を得る修行者は成就に至る修める時、兆候がある。修行者の生理及び心理は全て肉体死亡と中陰身の過程を経歴する。更に死亡に恐怖を持たない。それは既に理解するから、恐れない。だから、世の中に物事を処理する時異なる見方がある。ある人は結婚するから、法会に参加しなくて、尚更に菜食しない。このような人はリンチェンドルジェ・リンポチェは沢山見た。最後彼たちは常に後悔した。仏を習うのはそなた達の婚姻、家庭及び仕事を影響しない。例えば、リンチェンドルジェ・リンポチェは常にそなた達に開示されたように、出世法を修めて、成就を得れば、入世法も問題がない。死亡さえはっきりに分かって、把握できる。此の世にそなたに困らせる事がいないだろう。

「福徳因縁が足りる善男子、善女人」と言えば、最近ある3人が往生の時間はほぼ同じだけど、仏菩薩から得た助けは違った。この言葉に最もいい表れである。始めの人は難病に罹った。通称は乳児性悪性大理石骨病の子供である。彼は死んだ後、すぐリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得られて、済度された。この子は始めて道場に来たのは六ヶ月であり、医師の見解により、間もなく死亡する。結局彼の両親は彼を連れて、皈依した後、子供はほぼ一般人のように回復した。彼の両親は子供の成長を見られると思った。この子はもう二年半を多く生きた。この二年半は彼を助けて福報を累積するためだ。子供は経を唱えず、福報を修めないから、上師に頼って福報を累積させる。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の両親を指示して、毎回の法会に参加して、一回でも欠席できない。彼は子供なので、悪を行う機会がない。つまり、善男子を言われる。毎回法会に参加すれば、因縁がある。子供は往生する前一週間はとても気持ちが悪くて、彼の両親は再びリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの夫婦は通常に仏を拝んでいないを見て、彼たちに指示して、毎日道場に行って、500回の大礼拝して、この子のために福報を累積する。子供の両親はこのようにすれば、子供は治ると思った。実はリンチェンドルジェ・リンポチェはこの子のために多くの因縁を作って、子供に因縁福報があって、浄土に往生できる。結局、子供は往生した時間は朝であり、ちょうどリンチェンドルジェ・リンポチェは起きて、準備が終わって空港に出発する前一時間である。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは電話を受けた後、すぐこの子に殊勝なポワ法を修めた。

子供の父は当時子供は様々な瑞相が現れた事を説明した。この子は往生する前一週間は全身の体温が低かった。死ぬ前一時間、手はとても冷たい。息を止めた後、手と体は逆に徐々に熱くなった。顔は眠るように見えて、更に全身は熱くて、特に梵穴の所に極めて熱かった。子供の婆さんは一度子供が生き返ると思った。実はその時に既にポワ法を修めた後だ。子供の様子は眠るように見えた。更に生前に眠る時の様子よりもっと落ち着いた。此れは不思議である。全てはリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝する。

他にはある夫婦弟子の母も間もなく往生した。お婆さんは生前にリンチェンドルジェ・リンポチェは既に彼女が死んだ後にポワ法を修めてあげる事を約束した。しかし、この夫婦も言ったが、たとえリンチェンドルジェ・リンポチェは約束しても、必ず彼女を助けて、ポワ法を修める事を保証できない。彼たちに護法を求めると指示した。お婆さんは往生した時、リンチェンドルジェ・リンポチェはちょうど空港のVIPルームにいって飛行機に搭乗する事を待っている。電話を受けた時、四十五分後飛行機に登る。亡者はポワ法を修める因縁を得られない。皆は知っているが、リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修める時、特殊な声を発する。空港のVIPルームに多くの人がいるから、若し現場に法を修めれば、多くの人はびっくりして跳んでいるのであろう。特にある外国人は可笑しいだと思うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは他人に変人として見て面子がないのを恐がらない。唯、リンチェンドルジェ・リンポチェは修行者として、わずかな細部でも注意して、他人に仏を誹謗する機会をちっとも作らなくて、他人に口業を作らせない。もし当時にVIPルームでポワ法を修めれば、よく分からない人達に良くない話を話せるかもしれない。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは当時先に呪文を唱えて、彼女の神識を守って、今日を待って済度する。

リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、呪文を唱えた時、亡者の娘は側に号泣していた。後ろは亡者が既に亡くなった父は立った。家族は今までお爺さんがまだ済度されない事を分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ電話を掛けて彼女の娘を制止した。相しないと、彼女の母はもう怒っている。怒れば、地獄に堕ちる。また亡者の父に伝えて、亡者を妨げなくて、今日の施身法法会に一緒に彼を済度する。そなた達は言われる冤親債主は実はそなたの家族であり、本当の冤親債主とはそなたが死ぬ時に妨げて、そなたに三悪道に堕ちれる。側に泣いて、亡者にいらいらさせて怒らせる。怒れば、地獄に堕ちる。若しその時能力がある修行者に遇わなくて、亡者の見回りの事を分からなくて、先に亡者を助けて処置しないと、如何なる亡者に安心に済度を受けれるだろう。

第三人目は皈依弟子の親友は癌に罹って、非常に苦しくて、モルヒネを注射しても痛い。彼の家族は始めて完全に信じないが、この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を彼に見せた。結局見た後、その夜彼は痛くなく眠れた。モルヒネを注射しなくても痛いのは金をいくら節約できるだろう。その時、全家族は始めて信じる。また、患者を運んで、一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェは見ると、彼たちに伝えたが、患者は元々公務員だけど、多くの不正な金を受けた。つまり汚職した。しかし、この前も善を行って、金を本当の貧乏な人に与えた。だから、今日機会があって、リンチェンドルジェ・リンポチェに遇えた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの父が約4日間の寿命しか残らない事を見て、彼を加持した後、彼を先に離れた。更に三人の子達に道場で各100回の大礼拝する事を指示して、父に福報を累積する。結局この父は2日後死んだ。彼の息子達はリンチェンドルジェ・リンポチェに済度を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは患者の三人の息子に言って、父が残った財産は四分の一を内政部社会司に寄付して、善事を行った。結局その中に一人の息子は出来ないと言った。実はリンチェンドルジェ・リンポチェは元々彼たちに父が残った全ての財産を寄付させるつもりが、四分の一を寄付するのは遠慮はある。実は汚職から得た金はわずかでも残られない。残れれば、事故に遭う。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼たちが障碍が現れる事を見て、別の方式を変えた。彼たちに皆菜食させて、今後も菜食しているのを指示された。彼たちも出来ないと言った。出来ないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは今日彼たちに法会に参加させない。リンチェンドルジェ・リンポチェは既に彼を済度するのを約束したが、子女は布施を惜しまないから、たとえ将来彼たちの父は人を転生すれば、貧乏の苦しみを受ける。そなたたちは何故リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲ではなくて、彼たちに法会さえ参加させないと言うかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェは極めて慈悲なので、彼たちは上師の教えを聞かないのを見た。つまり、仏法と上師を敬わず、敬わないなら、供養がない。供養がないなら、福報がない。こうすれば、法会に参加しても役に立たない。修行者として、そなたの家は病気がある事を見える。体の病気ではなくて、業の病気である。そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェに教示を教える時、リンチェンドルジェ・リンポチェは医師である。医師は処方薬を与えるが、この薬を食べるかどうかそなた自分が決める。

同じ上師なのに、このような違う結果があった。以上の三つの物語から分かった、因縁、福報の違いによって、結果は違いになった、もう仏が効かないといい、まったく自分が出来たのであろう!《地蔵経》が説いたように、亡者のために、「法要を広くやり」、広いとは多いではなく、一山の法要をつくるため、各寺院に拝懺、お辞儀、光明灯をつけるのではなく、心を広げて、一切の衆生を助けるのである、狭い心で、只自分の親友のため求めるな。実は本当の意味は慈悲心を広げるのである。仏は慈悲し過ぎで、一般な者は慈悲心が無いと知ったので、慈悲と使わずに、そなた達が出来るの「広い」を用いた。

なぜ《地蔵経》には載せた、亡者の代わりに法要を作たの功徳は、1/7は亡者が得る 6/7は法要を作った眷属が得たか?これは外の法師が紹介したことがなかった、それはこれも密法と関係があるから。リンチェンドルジェ・リンポチェは現場で何名の出家弟子にきいた、済度とは亡者の何を済度するか?人様が死んだ後何が残ったか?生きている者は六根–眼、耳、鼻、舌、身、意がある。亡者は肉体、眼、耳、鼻、舌、身この五根がなくて、意と業しか残らない。済度とは亡者の神識、及び眷属の六根を済度する、それより七分に分けた。どうして眷属の六根も済度するか?そなた達が法会に参加する時、仏菩薩がとても荘厳と、リンチェンドルジェ・リンポチェが非常に荘厳するのを見た、此れこそ眼根の部分である。また耳が仏法を聞いて大変殊勝と感じた、此れは耳根の部分である。お体の方は、仏法を聞く時集中するとて、きちんと座る。ここにある者は両手が胸を抱いて仏法を聞くこそ、集中しなくて、恭しくなくて、即ち「身不端正、心不端正」である。だから人様が非常に済度し難い。そなた達は清浄懇切な心で亡者のため仏法の助けを求めて、亡者は業を清浄する助けを得て、自分が六根の清浄の助けを得た。それより、念仏して得た功徳は1分は亡者が得て、6分は自分が得たのである。これは顕教での言い方が、密法は全く違う解釈で、そなた達は聞く資格がない。そなた達は密法を学ばないので言っても聞き取れない。

ある者は長期で菜食したが、往生する前に突然に肉を食べたがって、本当に食べさせたら、二口を食べてから食べなくなった;これは冤親債主が因縁を作って彼に地獄を堕ちさせて、彼に殺生の悪業をさせたのである。リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子及び信者を訓誡した、この時、彼がもう時間が多くないので是非彼の需要を満足させて、彼のために従順した方が良いと思うな。実は現在多くの素食は葷食のように作って、味も大変似て、まったく分けられない。これらの素食を彼に食べさせて、どうせあの時彼も分けられない。絶対に彼に悪業をもう作らせない。

この時リンチェンドルジェ・リンポチェは1人きちんと座らなくて、足があちこち動いた信者を責めた、こんな動作が現われたのは彼らはリンチェンドルジェ・リンポチェが全て開示された内容と彼らと関係がなくて退屈だと感じたのである。足が痛くてあちこち動いたのは一は肉が食べ過ぎで、ニは仏法に対して不信で、三は、懺悔心が足りない。多くの者は全部知っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの脊椎はひどい大側湾で、そのため、まっすぐ足をくんで法座の上にこんなに長い時間を座って、また開示、また修法するなんで不可能である。リンチェンドルジェ・リンポチェはご自身も信者よりリンポチェの果位まで修め得た、以前信者だった時も下に座って、それで信者はどんな感覚があるかリンチェンドルジェ・リンポチェはすごく分かる。ンチェンドルジェ・リンポチェは以前始め頃、足もそなた達のと同じように痛かったが、仏法がとても珍貴と分かって、仏法に対して大変恭しくて、例え痛くて死んでも我慢出来た。そなた達もこんな経験があった。例え1つのことを集中するなら,そなたはお体の他の感覚を忘れてしまった。そなたがリンチェンドルジェ・リンポチェが開示している仏法が集中して聞けば、足が痛いと感じでも、心の中まで痛くて動かなければならないことがない。そなた達は心が仏法の方に集中しなくて、心がどこかへ跳んでしまった。それで、そなたの痛みはそなたの注意力を転移させるの一番速い方式でる。右の足だったり、左の足だったり、腰だったり痛くする。

ある者が来たかったのに、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼らを来させなくて、慈悲ではないだろうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲し過ぎるわよ。彼らは法会に来てちょっと何かを説くかを聞いてみて、仏法に対して恭しくない考え方があると分かったので、彼らに上がって来させない。リンチェンドルジェ・リンポチェは便利なドアを開くが、勝手なドアではない。この世に仏を学ぶの因縁を惜しまなければならない、過去世にどう修め得たか問わず、この世こそ一番大切である。上師は必ずそなた達のために福報を蓄積するチャンスを作るが、そなた達は良く把握して大切しなければいけない。

今日行った施身法は古代の1人チベットの在家女ヨーガ者に創られた。彼女は結婚して、子供を生んだ。施身法についてのご紹介は時間が足りないので、そなた達は自分が寶吉祥仏法センターのホ-ムぺ-ジを見て、あの中に過去のリンチェンドルジェ・リンポチェを詳しく紹介することがある。今日の施身法は尊勝な直貢チェツァン法王が自らでリンチェンドルジェ・リンポチェに伝えて加持力が特に強いである。法本の中に法会の参加者が横になって、お体で仏菩薩に供養すると説いたが、法会の参加者が多勢なので、そなたが横になる空間があるわけはない。それに、そなたが横になると眠りやすくて、だからリンチェンドルジェ・リンポチェは皆の代わりに、禅定観想を通して、自分の肉体を上の仏菩薩に供養して、下の六道の一切の衆生に佈施する。また、施身法を修める時、修法者は身の上に全ての守りの聖物、護輪など物は全部取り消さなければならない、全く結界、保護を配置しない。

ご開示、修法する前に、リンチェンドルジェ・リンポチェはもう一度皆に広い慈悲を起すように注意させて、こうすると法会に願うことは必ず叶うべきだ。叶うべきとはそなたがもうける事が出来るのではなく、全ての衆生が苦しい海より離脱するのを助けることが是非叶うのである。心は只自分の家族、周りのことに局限しないで、全ての亡者は仏法の助けが必要だ。そなた達は心を落ち着いて、もうあんなに多くの考えがあらない。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは皆のために殊勝な施身法を行い始めて、それに、皆を引き連れて六字大明呪を唱えた。

回向文を読んだ後、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自らで皆を引き連れて《求生極楽浄土祈請文》を唱えて、1つの字、1つの言葉は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェのお口より伝え出して、綿厚で深くて広げて殊勝な法音は衆生皆に上師のこの上なくの慈悲な加持力と摂受力を感じさせて、多くの者が思わずに涙ぐんでいる。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは《求生極楽浄土祈請文》法本の内容によって、皆に殊勝な仏法を開示された:そなた達は《求生極楽浄土祈請文》を軽蔑しないで、只短くて幾つかの文字だが、既に《阿彌陀経》のポイントを全部濃縮したように書いた。

「稀で得難い無量光佛尊、右に尊者大悲観世音有り、左は大力大勢至菩薩、周りは無量仏菩薩に囲まれる」という四つ内容は希有な得難い阿弥陀仏、観世音菩薩と大勢至菩薩を紹介させる。「彼方は無量の稀有な妙安楽、その名も極樂世界の淨土」という二つの内容は《阿弥陀仏経》の精華である。「妙安楽」とは快楽ではないし、所謂「禅悅」でもない。これはそあたが生死の恐れを離れる事が出来る。その楽は言語、文字で形容する事が出来ない。ポワ法を修める成就がある行者は修法の過程に、彼の身体、心理、気脈が死亡を経歴する。彼が死亡をけ経歴した後に、死亡にたいして再び恐れない。心がこのような恐れず境界に安んじる事が出来るなら、仏が嘗て開示した「不可説」のようである。言われないではない、が、そのような境界が人類の経験範囲を超えるので、人間が考え出す事が出来ない。「無量」とは数量がない或は数量が大きいのではない、その上、不可思議な多くほどのではない。実は、本来人間は清浄な仏性があり、人間の心は汚れとか、浄らかとかの二見はなく、増えるとか減るとかの二見もない、所謂多少の分別がない、しかし、無明の影響なので、多くの悩みを起して、比較、計算に慣れて、だから数量の観念を有って始めるわけである。「無生法忍」の境界を修め得ると、何を学ぶのではないし、何を捨てるのではないし、却って本来の清浄な本性を回復し、汚染があり、汚染がないという観念でも持たない。それは空性の境界である。一切の事物は縁生縁滅で、希有な殊勝である安楽の境界に対して、欲しがるならある事で、欠乏する事が絶対に無い。「極楽」とは極めて快楽する事ではない、此れは欲界天、色界天、無色界天に一切な「楽」と思っている体験を越える。浄土にいる衆生はこのような楽を安んじるので、浄土が極楽世界と呼ばれる。

「自他がこれより命を終える時、他生がその中で阻まんを得ず」の「自」が自分で、「他」が他人で、つまり六道の一切の衆生である。行者の発願は自分及び一切の衆生を含めて、この世を終ってから、阿弥陀仏浄土に向いて修行して花開いて見仏する事に至るまで、それから仏になる事を修めて行く。浄土に着くのは最も安全で、浄土は三つの不退があり、そのうちの一つが菩提心が不退転である。浄土において修行してから、願いにより菩薩身にて帰って衆生を済度する。「他生がその中で阻まんを得ず」は、他生が六道に行く事である。この観念は極めて重要する。ある者は菩薩道を行うので再び来る事と言い、この話し方が間違わない、経典の中に、願いにより帰る事を確かに記載した事があり、しかし、とても重要な一つの条件はそなたの此の世に既に菩薩で、菩薩道を既に行って、そうすれば、そなたの来世に願いにより再来する事が出来て始めて、或は、ただ業により帰ってしまう。だから、仏菩薩は我々に祈請文の中に浄土に往生する事を固くて発願をして、仏に成る前に六道に輪廻する事を再び入らない。仏果を証する後、その時、各々の願力により、因縁により世間に再び帰って衆生を済度してあげる。「観世音菩薩普門品」のように、菩薩が衆生と同類を以って現れて彼らを済度し、だから、そなた達が修行して果を証する後に再び帰っても人間とする事ではないかもしれない。ミラレバ尊者は「そなたのこの世に浄土に往生する事修行する事を発願しないで、ただ六道を再び輪廻をしたら、結局、地獄道に堕ちて苦しみを受ける機会がある」を説いた事がある。

「願わくは彼の境地で弥陀仏の御前に参ずることを、我今此の如く誓いまする。 十方一切の諸佛と菩薩、恙無く成就を得るように、加持を授け給わん事を。」ただ行者は阿弥陀仏の浄土に往生する事を誓願を発して祈るなら、この人が阿弥陀仏を唱えないでも、十方一切の諸佛菩薩が全て助けと加持を必ず与える。「恙無い」の恙とはそなたに仏を学んで修行する事を妨げる。出世法を上手く修めるなら、世間法が悩みがない。生死輪解を解脱する法門が上手く修めるならば、世間の物事が自ずからそなたを妨げさせない事が出来ない。言ったばかり子供を往生するこの両親はこの前、子供の為に常に喧嘩し、相手が子供を上手く世話しない事を責めて、此れはある障碍である。現在、子供が浄土に向いた事になり、彼らの障碍を消して、今後よりに少なく喧嘩させる。そなたが浄土に往生する誓願を発してから、全てのそなたに障碍させる修行する事が自ずから停止し、だから、普通な人間を思っている事ではなくて、そなたにお経を唱えてご主人、奥様に廻向し、彼らをそなたに仏を学ぶ事を邪魔させない。この方式は呪術の遣り方である。「加持を授け給わん事を」とは、仏法が必ず祈って求めらなければならない。求めの意味は仏が高くていって、そなたが求めて行って加持を得て始めるのではない。「求め」のこの言葉の使いはそなたが仏法への希求が至誠で懇切で、その上、そなたが累世の輪廻の懺悔心に代表し、第三はそなたに高慢の自我の心を消却させる事を助ける。

リンチェンドルジェ・リンポチェはユーモラスに開示させた。そなた達は全部騙されて、そなた達は先刻仁リンチェンドルジェ・リンポチェに従って「極楽浄土に生まれしことを求める祈祷文」を唱えて、とても喜びと感じて、実は浄土に往生する事を既に発願した。皆は先ほど唱えて願いを発して、努力して修行する事をしないならば、そなたの冤親債主がそなたに許させない。本来、彼達は極めて嬉しくて、そなたが浄土に至るなら、彼達もそなたに従って一緒に行けて、しかし、そなたがもし他の事こととて仏を学んで修行する事をしないならば、例えば結婚するの為に、法会に参加する事が出来ない等、彼らに機嫌が悪く為させる。

人々が数十年に仏を学ぶのは、ただ死亡の一瞬間のみ準備しておく。そなたの此の世の全ての事は全て過去世に蒔いた因であり、今日、果報の出現である。我々が仏を学ぶのは未来世の為に準備しておく。もし仏を学んで、良くない事を発生しないなら、仏を学んで得る善の果も出現しない。この世の全ての事は全て因縁により来て、因縁により行く事を既に知ったら、その場で全ての事を努力して上手くして行って、このようにすれば、そなたの悩み、苦しみを減る事が出来る。多くの人々は仏を学ばない時に悩みがより少ない、仏を学んでから、これが欲しがって、それも欲しがって、悩みが多くなっていく。仏を学ぶ事はそなたに他人と違って成る事をさせない、リンチェンドルジェ・リンポチェは法衣を着けないなら、誰でもリンチェンドルジェ・リンポチェがリンポチェである事が知らない。ただ専門家のみ風采が衆人と違う事を見えて、ただ修める事を知ってる人間だけでリンチェンドルジェ・リンポチェが修行者を知ってる。もしある者は社交的な食事なので仕方がない事をまた言ったら、肉食をして酒を飲まなければならない。そなた達は社交的な友達を聞いた事があるだろう。肉食をして酒を飲むので商売をする事が出来で始めるならば、此のお金も長くて持つ事が出来ない。

今回の日本の大地震は、この前のミャンマー、ニュージーランドなどの所の地震を含めて、地球の自転にまた速めさせて、差別が1秒に至らないでも、しかし、此れは人間の寿命がまた減らして、此れは時間が短くなっていくわけである。此れは仏経と曰く事を応じる。現在、地球における人間の寿命が減らす段階である。現代人の平均寿命がただ70歳のみで、福報がより好いのが80歳余りである。仏経には、人間の寿命は本来84,000歳があり、1百年ごとを経たら1歳を減らし、平均年齢の10歳ほどに至って、それから84,000歳に増える事を開始する。だから、釈迦牟尼仏は我々に再度輪廻をする事を望まない、そなたが地球に再びを来たら「劫に応える」を遭えるかもしれない。

これらの年は、天災が不断で、最近日本の地震がそなた達と関係がないと思ってはいけない、ただこの地球のある所が何か発生したら、全ての人々が全て影響を受けて、つまり、皆が業が重いである人で、共業における。今回の日本の地震が最も厳重な罹災の所は殺業が重いところである。30年の前に、津波が全てを取って、30年に辛労して努力して、今回の津波によりまた全部無くしてしまった。仏経には、殺業により得る富が長くて保つ事が出来ないと曰く。

今日、ある信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼の母に病気を治してあげるので、法会に参加して来た。彼の母は毎日に外出したいだけで、家にいる事を欲しがらない、尿と糞便をベットにやたらに塗って、その上、首っ玉が気分が良くないと言っていった。家族は彼女が神経症があると思っていて、多くの医者さんを診療を受けて治されないので、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た。リンチェンドルジェ・リンポチェが観ると、彼女は嘗て鶏を殺した事があり、鶏を殺すのが首っ玉から殺して、だから、首っ玉が気分が良くなかった。そなたは鶏を抓んで籠に捕らえ入るときに、鶏ごとが自発的ではない、必ず必死になった。ただそなたが殺生をした事があったら、果報が必ず地獄に堕ちる。そあたが自ら殺さないでも、他人に魚を殺す事を見て、側に「上手く殺し、この1匹の魚が必ず美味い」と言ったら、この殺の共業における。飼料を売ったり、釣り竿を売ったり、漁具を売ったりする事はこの殺業の範囲を含める。

台北におけるキリスト教病院があって、全ての医者、看護婦、患者に菜食させる事を要求し、宗教の原因ではない、菜食をする事が身体に対してよいで、患者に速く復元できるわけである。外道も菜食する事を薦めさせて、そなたは自分が仏教徒を言うが、また肉食をするのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは再度皆に衆生の肉を断たせて、肉食を再びする事をさせない。仏教なので、そなた達に菜食させるわけではない、リンチェンドルジェ・リンポチェは殺業因果の恐さを見える。そなたは肉食をし続けるなら、そなたが殺生の機会がとても高いわけである。もし全ての人々が魚を食べないし、肉を食べないし、それらの魚、肉を売る人が転職して行く。彼たちが殺すけれども、そなた達が食べるので、彼らが売れて、だから、そなた達が主兇である。そなたが気にしたら、そあたは生活の全ての事が仏法の示現を発見し、全て仏経と曰く道理を述べている。そなた達は信じない事をしてはいけない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは「キリスト徒、カトリック教徒は大声で自分がキリスト徒、カトリック教徒と言う勇気があり、主の恩典である事を話す勇気があり、或は主のアレンジなので、我々が受けるだけでよい。何故そなた達が自分が仏教徒をいう勇気がないのでしょうか?これはそなた達が心に鬼がある。」と常に考えている。そなた達は仏法を利用して自分のある欲望を満足させて、満足させられないなら仏が霊験しない等と言い、だから心の中に鬼があり、言う勇気がない。仏法益々衰えていく事が見える。

2011年3月26日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時30分から夜10時15分まで、131名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011年3月27日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝なる共修法会を主催して、《観世音菩薩普門品》の中の重要な観念を引き続き開示して、そして観世音菩薩の修行する法門を開示された。

法会を行う前に、ある女の弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェが家族を助けてくれた経過を報告した。彼女の弟は去年(2010)12月24日に肝硬変の併発症なので往生した。その時に、彼女は極めて絶望し、兄弟子にある大修行者のリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して弟を済度する事を求めなければならないと話してくれた。この弟子と妹は12月26日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの開示と慈悲深く加持の下、彼女の弟が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を得られて、、その上、この弟子に施身法を許す事を得られて、その上、今年(2011)の1月9日に日曜日の共修法会に参加し、また、1月16日に皈依した。

彼女の弟は肝硬変に罹って、10年以来長期に頻繁に病院で治療を受けて、この2年間が特に健康の状況が益々悪くなって、腹水が極めて厳しいし、足が常に痙攣し、食欲がよくなかった。医者は彼たちに随時に死亡する可能があり、家族が全て心配していった。彼女の母は顕教に皈依したけれども、師父がただ彼たちに放す事を話して、何も仕方も無かった。この弟子のあるチベット仏教の友達は彼女に「あなたの弟がこのようになった原因は殺業が重い過ぎで、あなたがお経を常に唱えて彼に廻向させて、或いはあなたの弟が往生する時に三悪道に易くて堕ちる」と話した。殺業が重い過ぎだと聞くと、彼女は、弟は病気に罹ってから死ぬまで消極的な治療のみを受けた事をやっと分かった。弟は子供から優秀で、その上、子供の時に父親が意外で去った後に、性格が大きな変わった。成長してから就職する時に、家族の反対に頓着しなくて、基隆の魚市場で3年で働いていって、その後、肝硬変に罹ったので離職して始めた。しょうがない彼女はただお経を唱えて開始し、その上、彼女がこんなに多くの本を唱えて、どれだけ優秀だと思っても、これらは彼女が最も親愛な家族に助けてくれなかった事を悟った。その時、彼女は何も能力もないし、全然困惑して、毎日にただ仏菩薩の助けだけを望んでいった。

12月21日の朝、弟は急に吐血したので病院に入って救急し、病院が危篤通知を提出した。弟は胃出血が厳重なので、その上、肝硬変で食道静脈瘤の破れを引き起こさせて、病院が緊急な治療を受けて、家族も最も悪な打算を打った。12月22日に、弟は吐血しないで、鬼門関から一回で帰ったように、状況を改善し、家族が病状が既に安定と思いきや、12月23日朝の6時40分ぐらいに黒い糞便をしてから厳しい吐血し、病院がすぐに救急した。大きな吐血した時に、血塊が喉元を障害させて呼吸困難に引き起こさせたので、弟を救うの為に、病院が「気管内チューブ」を挿入を行って、気管挿管の苦しみを知るので、人間に暫く戻るようであるけれども、実は地獄にいつ事を知っていった。彼女は何も出来ないし、弟が彼の人生の突き当たりに向かっていった。

主治医師は彼らを教えて、胃出血が厳しくて、必要があったら午後に外科医師が手術を行う事を手配する予定である。この時、身体に呼吸器、鼻管と輸血管にいっぱいで突っ込んでいった弟を見て、彼女はただ自分が知ってる方式により弟に助けて、その上、妹に彼の側に来て一緒に阿弥陀仏仏号と六字大明咒を唱える事を嘱託して、その上彼の側に「時間が至ったら、あなたは全ての累世の冤親債主及びこの世に傷害させた衆生に誠心誠意に懺悔して、特にあなたが魚市場で働いた期間に傷害させた衆生に懺悔して彼らの許せを求めて、この色身を放して、誠心誠意に仏菩薩に観想し、諸仏菩薩に従って、諸仏菩薩はそなたに助けれて、姉が母親に世話しなければならないので、放して安心して執着してはいけない」と話した。その後、第二回目の救急を経て、彼の苦しみに減らさせたので、彼女は心肺機能蘇生術と強心針を注射する事を放棄する同意書を捺印した。

第二回目の救急を行った後ほどで、血圧はまっすぐに昇ることへ帰ることができなかった。弟の凝血機能がよくなかったので、輸入した血が残らなかった、また彼の下半身中から大量で流出した。その期間には、弟は間接性的な急に痙攣し、眼差しが緩んた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのご開示の通り、死ぬ前に地、水、火、風の四大は全て崩れている。12月24日午後ICUに入ってから5分の以内に呼吸と心脈を一度に停止し、然し、5分以内に呼吸と心脈がまた回復した。医者は彼女達にもうそろそろして、夜の12時ぐらいに去る予定である。

ICUの外に座って、家族が阿弥陀仏仏号と六字大明咒を絶えずに唱えていった。夜の10時ぐらいに、彼女は良友がある徳を具えるチベット仏教の上師に従って学んだ事を急に覚えだして、それから兄弟子に連絡して彼女の助けを求めたいで、その場の唯一の考えはただ弟に助けて三悪道に堕ちらないで、三善道或いは浄土に往生していける事を望んでる。

12月24日朝の7時ぐらい、看護人は彼女らがICUに入らせて、これは時間もそろそろで、病室に入ってから、弟が極めて平静し、就寝するようにである。医者は彼女らに昨日の夕方に呼吸と心脈が戻るとこのようになり、普通病室のような苦しみが一寸違い事に話させた。心の中になぜこんなに大きな差異を怪しむと感じて、7時56分に弟の呼吸と心脈が停止し、往生したいった。朝の9時ぐらい、遺体を往生室に移送する予定した時に、友達が電話が来て、当日に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが既にある施身法の法会を行う予定し、彼女に弟の名前と十二支を与えて、彼女が法会に弟の名前を呼んで、そうすると、弟に助けて上げられた。友達は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが加持した珍しい甘露丸をくれて、弟に助けた。彼女は数年前に祖父母が去った前に、あるチベット仏教に皈依した友達が甘露丸をもらえて祖父母に助けた事があったので、この甘露丸が極めて珍しくて得難い事を知って、彼女は道場に向いてもう一人の兄弟子に甘露丸をもった。基隆に帰ったと、甘露丸が弟の口を入って、また、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの名前を何回目で唱えて、彼が必ず覚えさせて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に助けれて、心配してはいけなかった。

12月26日日曜日、妹と彼女はようやく尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、弟を済度する事を求めた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは弟の名前と生まれ年を聞いて、観想した後彼女に弟は昔どんな職業をしたと聞いた。彼女は正直に弟が嘗て三年間に魚市場で働いていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは「貴方の弟が殺業を犯した。」と開示された。金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは再び観想した後、彼女達に聞いて、弟が沢山な子供を助けた事があるか。その時、彼女は呆然とした。心の中に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが何故分かったと考えた。弟が沢山な子供を助けた事は家族及び隣人しか分からない。その時、彼女は自分の求める事が叶えるらしいと考えた。仏菩薩は彼女達を助けて、彼女たちに一人の大修行者に遇えた。本当にこの限りがない恩沢を感謝した。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、弟は嘗て生前にこの善縁を播いたから、弟は彼女達を導いて、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの側に来た。だから、彼女達は縁があって、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに合えた。その時、震撼という言葉で自分の気持ちを表せないと出来ない。彼女達は再び尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、弟を済度する。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲に約束した。すぐ呪文を唱えて加持した後、微笑んで彼女に見て、開示された。「そうすれば、貴方はやっと安心できる。」元々無知及び疑いを抱く彼女は当時心から感服した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは意外に自分が心配する事を分かった。それで、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達を指示して、施身法に参加する事を申し込む。彼女は唯知らない人なのに、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達を助けられた。此れは限りがない恩徳である。

その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女達がまだ聞きたい事があると気付いたそうで、非常に彼女達に他には何かあるかと聞いた。妹は嘗て17年前に病気に罹って、頚椎の所は常に痛みを感じた。当時抑えたけど、去年(2010年)5月、再び痛くなった。だから、妹は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに開示及び助けを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは妹に何処か痛いと聞いた。妹は頚部はいつも痛みを感じていた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは妹に聞いて、鼻の後ろの頚椎に痛みを感じるか。更に首が回ると痛い。此れも妹は右足が長期痛みを感じ、左足と右足の長さ及び幅が平均ではなくて、常に心悸亢進の原因である。そうではないかと聞いた。本当に不思議であり、病状は全部当たった。また、彼女達に嘗て山の近くに住んでいたかと聞いた。確かにそうだ。彼女達は小学校と中学校の時、山に近く住んでいた。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、妹は幼い時、同級生或いはある子供に言われて、彼女に投薬して、ある小動物を毒死し傷付けた。だから、いつも痛みを感じて、尚更に益々酷くなった。妹はすぐ尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに誠に求めて、自分を助けて欲しい。リンチェンドルジェ・リンポチェは非常に慈悲に同意して、すぐ妹を加持した。また妹に必ず菜食して、施身法法会に申し込んで、被害された小動物を済度する事を指示された。妹は非常に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝した。

その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子がまだ聞きたい事があると気付いたそうで、非常に彼女を見て、他には何かあるかと聞いた。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが既に彼女達を沢山に助けたから、リンチェンドルジェ・リンポチェに面倒を掛けないように思ったが、リンチェンドルジェ・リンポチェの尋ねを聞くと、勇気を出して、自分が長年に脊椎の痛みを受けて、脊椎は二つが湾曲して、S型になった。多くの大型大学病院に受診されたけど、答えは此れは生まれつきなので、治療がとても難しい。悪化しないのは幸運だ。それで尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに開示を求めて、弟子を助けた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子に言って、彼女の体内に多くの魚と海老があって、脊椎の病気の原因である。菜食しないと間に合わない。彼女は突然に叔父は嘗て船員になったが、毎回帰港した時、多くの海鮮を持ち帰って彼女達に食べられた。その時非常に驚いた彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが不妄語と信じた。彼女は始めて菜食していたが、殆ど肉料理の野菜を食べた。自分は母を世話しなければならないのを考えると、純粋な菜食を約束した。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはその時、この弟子を加持して、また彼女に施身法法会を申し込んで、被害された魚と海老を済度するのを指示された。

その時、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を見ながら、開示された。「貴方はしっかりに仏法を習わなければならない。」彼女は非常に驚いて、この話の本当の意義をはっきりに分からないけど、六年前に彼女を育てた祖父と祖母は一年間に続いて亡くなった時、とても悲しい彼女は始めて仏法を接触した。生死とは何だろうか。親しい家族は往生した後、何処に行ったかをはっきりに理解したい。本当に迷っている。しかし、上師が導いていないから、唯自分が仏経を読んで、仏門の外にうろうろしていた。心の中にある徳を具える上師に遇えて、自分に仏法を習い道を導きたいと望んだ。その時、彼女は驚いて考えた。心の中に求める上師は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェでしょうか。

1月8日、母を連れて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、弟を済度する事を感謝した。慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは母に言って、「安心してください。私は貴方の息子を助ける。」彼女達は本当に非常に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを感謝した。母は顕教にいる時、今までこのような話を伝えた師父がいない。リンチェンドルジェ・リンポチェは再びこの弟子にしっかりに仏法を習うと開示された。当時彼女は誠に尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに求めて、上師に従って習っていただけないかと聞いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に先に法会に参加させて、また非常に慈悲に母も一緒に参加する事を同意した。

弟が火葬した後の骨灰はとても綺麗で、火葬所の者は彼女に言った、彼女の弟があんなに沢山の薬を飲んで、往生する前にまた大量な薬品を体内に注射して、骨灰が黄色くて黒くなるはずなのに、骨灰の多くの所にピンク色に現われて、非常に容易ではない。これは尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの加持力である。1月15日心の中に既に1人彼女が頼りたい上師を見つけたとはっきり分かったので、上に上がって皈依を求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に聞いた:「ここに、我の規則が多くて、我も人を叱って殴ることをする、そなたがまだ皈依するか?」彼女は考えずに回答した:「弟子が叱れて、殴られるのが当たり前で、恐くない、お願い、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子を受けって、皈依させる」尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが承知した時、彼女の心の中に非常に嬉しかった。

1月16日皈依法会、彼女は壇城の前に跪いて、リンチェンドルジェ・リンポチェが皈依の意味を申されたのを聞いた時、涙が突然、思わずに流れてきて、それに、抑えることが出来なかった。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが嘗て仰った、彼女の家族は飲食業をしたことがあって、殺業がとても重すぎだ。仏経に述べてあり:「殺業が重過ぎだったら、子孫は全ての願いが叶わず、子孫が短寿で、諸事が円満ではない。」この時、彼女はやっと本当に分かった、家族と彼女の罪業がどんなに酷かった。なお、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ彼女の家族を助けた。あの頃、彼女は祖先も1本正法の聞く道を歩いて来たと感じるのを思った。あの時、彼女は家族の累世の冤親債主に懺悔して、彼らのゆるすを願った。この時、彼女は突然に悟った、弟が去ったが一番貴重なプレゼントを残しておいた。弟は彼女を尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの目の前に連れて来て、彼女に皈依弟子をさせた。この際、自分の命はこれから以前と違う旅程があるのを知った。彼女は発願して、生々世々上師と三宝に皈依して、真面目に仏法を学んで、自分を助ける以外、将来に能力があって、はじめて衆生を助けることが出来る。お願いが、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのお体が健康で、世に永く居て、恩に着よう!

続いてもう1人女弟子が登場して懺悔した:彼女の姉さんは嘗て尊き上師のポワ法を得て浄土へ行った。姉さんの関係で、彼女は2009年3月22日に上師に皈依した。上師を恩に着て、彼女の家族皆に仏法を接触することが出来させて、彼女の家族皆を変わった。お母さん、弟、妹、おいは全部既に上師に皈依した。彼女は姉さんが去った後、自分の問題が多かったと気がついた、その上婚姻には状況が出て、もっと気抜けて、憂うつになり始めた。毎週日曜日の法会で、上師が申された仏法を聞いて、段々、彼女は自分が変わったのを発見した。常に人様とあまり付き合いたくない彼女は母の伴になりはじめて、また前の職場に戻って、人の群れに向かうことが出来た。

彼女は夜中に胆石が発作したことがあって、痛くて耐えられなくて、彼女は跪いて上師に願って、数分間後、彼女の痛みが緩和された。彼女は知っている、只上師が彼女を助けることが出来て、上師が彼女に加持することを感恩する。昨年(2010)8月17日お医者さんは彼女に右側の扁桃腺のリンパ癌の第二期にかかることを教えた。お医者さんは言った、化学療法で治療することが出来て、統計によると70~90%治癒率があって、一番高いのがひいては百パ-セントに至って完全に治癒出来たのが可能である。しかし治療のコ-スは注射する方式で、合わせて6剤で、過程はとても軽くて、治療の効果もすごく悪くないかもしれなくて、医師は彼女の入院することを手配する。これは彼女が仏を学ぶの妨げである。あの頃、お医者さんの話は確かに彼女の心を変わらせて、西洋醫学で治療したかったから。

家の中に考えていたあれらの日、思いがぐずぐずしていてはっきり出来なかったが、彼女は上師が法会の中に教えて申されたのを思い出した。病気になる時するべきなことは「懺悔」である。彼女の心の中に本当にこう思った、化学療法を選択した結果と意味は:衆生に対して恭しくなくて、三宝に敬わない。リンチェンドルジェ・リンポチェは仰った、毎回法会に参加して蓄積した福報はそなたが一番需要な時に使う。あの頃、彼女が本当にとても幸運で、自分で出来た決定が正しかった。それは彼女が知った、これからリンチェンドルジェ・リンポチェの教法がなければ、残った命はどんな意味もなく、それに生活がさらに苦しめる。だから、彼女は病院に行かなくて、上師に報告しに行くのを決めた。

尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェ及び諸仏菩薩を恩に着て、彼女を捨てなくて、彼女を救って、彼女に正しい道を歩かせた。仏法で直面したことを選択した。病気になってから上師は何時も彼女と家族皆に因縁を作るのを助けて、福報を蓄積する。現在回想して、病気に罹った後はじめてリンチェンドルジェ・リンポチェに伺って、それにリンチェンドルジェ・リンポチェに病状とお医者さんの提案を報告したとき、リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て申された:「手術するかどうか自分を決めて、家に帰って、家族と相談して、少人数は多数のに従って、決めた後また我に教えよう!」彼女が帰った後、かなり懺悔した、常に彼女は家族とあまり相談しなくて、言葉の使いも下手で、子供に仏を学ぶのいい所もあまり言わなくて、上師を称賛するなんてとんでもないだろう!リンチェンドルジェ・リンポチェはずばりと彼女の問題をついた。そればかりではなくリンチェンドルジェ・リンポチェはまた彼女と子供のために、仏を学ぶ因縁を作るのを助けて、彼女に子供と討論する勇気を有らせた。当日家に帰った後、喉が腫れて痛くて飲みおろすことが出来ない情況もリンチェンドルジェ・リンポチェの加持ですぐに改善を得た。

第二回目に上師に謁見して行って、上師に「家族は共同で手術を行わないし、化学療法をしない事を決めました」を報告した。リンチェンドルジェ・リンポチェは「彼女がリンパ癌に罹った」と諭した。その時に、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに病状に報告した事が無かった。が、リンチェンドルジェ・リンポチェは何も知った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の最も大きな障碍が家族と子供であり、その場で彼女に助けて子供に加持させて、その上彼達に化学療法をする苦しみと身体に対して傷害を説いた。彼女は極めて感謝し、此れは子供に疎通させる事が彼女が普段に最も仕方がないところである。リンチェンドルジェ・リンポチェは再度弟子と子供に未来で仏を学ぶ因縁を手配させた。

リンチェンドルジェ・リンポチェは心が安んじてから、家族が安んじて始める事に開示させた。姉は心が安んじないので、家族に混乱させた。リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼女の病気が仏を学んだ前にあって、皈依した後、心構えも正しくなかったと続いて開示させた。彼女は確かに間違って、此れは彼女が加護を求めて、上師の話を実際にする事をしないで、上師に褒める事を少ないして、菩提心がない、ただ自分だけを考えていて、考えが衆生を以って考えて、因果を信じなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは、因果を信じる者は自分がした事を真に懺悔し、愉快で平常心により全ての因縁を受け入れて、然し彼女はこのようではなかったと開示させた。

第三回目で感謝するの為にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して行った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女のリンパ癌が小さくなった事を開示させた。その上、彼女の子供に「医者と科学は遣り遂げられない事は仏法が遣り遂げられる」と開示させた。上師は彼女の子供に何回目で仏を学ぶ因縁を作ってくれて、上師は彼女に「一切を仏菩薩を手渡して、今から病気が治される事を考えないで、仏を学ぶ事がそなたの病気のためではない、上師と三寶に少しの不恭敬を持ってはいけない、もしあったら、病気が直に変わって、加持が直に断つ」と開示させた。彼女は自分の考えを極めて懺悔し、此れは一路以来、彼女がリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を確り遣り遂げる事をしなかった。

昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して行った時に、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度彼女に「彼女が最も大きな問題は子供の事を安心出来ない、心の中に罣礙があって、信じない」と開示させた。彼女は極めて懺悔し、上師の話をよく覚えないし、身体が一寸よくなると、上師の懇ろに言いつける事を忘れてしまって、上師の福徳を消耗させて、自分がまだ身体に世話させる時間があると思っていて、仏を学ぶ事が最も重要な事を忘れてしまった。弟子とする彼女は上師に心配させないなら、上師が最も多くの衆生を助けれる事も忘れてしまった。

上師は「金剛乗の弟子にとって仏を学ぶ事が最も重要なのは素直である」と開示した事がある。家族の中に、子供が病気に罹った事があり、或は自分が病気に罹った者は毎回の福報を大切しなければならない、リンチェンドルジェ・リンポチェははっきりで彼女に「今から何をしても、一心に浄土に生まれる事を求める」と開示させた。しかし、彼女はずっと自分の考えにて仏を学んで、皈依した後、彼女の心が安んじないで、仏を学ぶ事が最も重要な事と思わないし、上師に恭敬しないし、此れも彼女が最も懺悔するはずである。病気に罹った後、彼女は上師のリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の頼りを知っていた。法会に参加してリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を説く事を聞けるのは彼女の福報である。彼女は毎回の法会が最後の一回で参加して行く事を自分に警戒させて、素直に従って、自分の心をよく修めて、彼女が嘗て傷害させて殺させた衆生に連れで浄土に生まれる事を望んでいる。

最後、彼女は上師と諸仏菩薩の前に、傷害させて殺させた衆生に懺悔を求めた。上師が彼女に発露懺悔を与える機会に感謝し、一切の衆生が苦しみを離れて楽を得られる事を望んでいる。最も尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェに感謝致した。

彼女は大悪人で、無始以来、家族の殺業が極めて重いである。

1、自分は極めて悪ので、作る業力が数えない、衆生に苦しませる事を懺悔する。
2、彼女は主人と結婚したので、舅がお礼参りをしたのである大きな豚に殺させて衆神に祀った事を懺悔する。
3、自分が二人の潔白な生命をおろした事を懺悔する。
4、鱒は彼女と家族が釣られて死んで、その上活魚の三つ食べ方の食材になった事を懺悔する。
5、観光旅行の中に、商家の家に一匹な大きな魚が台所にて遊動していて、夜になると、それを刺身になって食べさせた。随悪の彼女が懺悔する。
6、澎湖の海釣りに参加して、随悪で罪を作ったので懺悔する。
7、多くの蜘蛛、ゴキブリ、蟻に家に清掃していた過程に殺害させた事を懺悔する。
8.家の中には多くの鼠が出現した事があり、最初に何匹の鼠が粘鼠板に粘ったので殺させた。鳥と昆虫が粘鼠板に粘ったので、殺させた事を懺悔する。
9、ある蛇と猫は息子と彼女が運転させる車を殺させた事を懺悔する。
10、仕事は思いどおりにならなくて貪、瞋、痴を起す事を懺悔する。

彼女は多くの悪を作って、彼女は喜んでして受け取ってともに直面して、ここに深く懺悔して、皆の反面の見本になる事を望んでいる。

彼女の弟は現場に補充した。家計は姉にとって大きな責任であり、彼女は仕事にとって捨て下げる事が出来なった。毎回法会に参加して上師の開示を聞いて、上師の加持はそなたにそなたの欲望を満たせる事ではない、そなたにお金を稼がせる事ではない、家族を集る楽を満たさせる事ではない。上師の加持はそなたによく仏を学ばせる訳である。本来、姉は今年(2011)の6月までに仕事して、然し、今年の年初に今年の3月まで働いて、現在、離職を申請中で、けれども、3月が終らない前に身体が既にこれ等の状況を出現させられた。これ等は兄弟子達によい警戒に与えることができて、上師の加持は皆に家族を集る楽を楽しませる事ではない。

今日、尊きリンチェンドルジェリンポチェが引き続き《観世音菩薩普門品》中のいくつかの観念を開示した。《観世音菩薩普門品》に書いてある偈頌をさっと読んでいる人が多いが、実際に中には本尊の修行方法や功徳などが含まれている。

仏経では、各本尊が仏法開示後に後偈文が付いている。より簡潔な方法でこの本尊の願力、功徳、修行に対して改めて総括するのである。《観世音菩薩普門品》では最後の偈には何句か非常に典型的な仏法開示があり、中には観音菩薩がどんな能力で一切苦難の衆生を救えたかについて触れてある。「観音妙智力、能教世間苦」。観音菩薩は法身大士で、その法性勝妙智慧力で輪廻苦海の一切衆生を救うのである。妙と智は違うことで、「智」は智慧、「妙」は妙観察智の殊勝、得難く、希少なことを指している。

智慧は仏法に特有の名詞である。現在、あなたたちが言っている智慧は社会的知能に過ぎなく、智慧ではない。普段、よくある人には智慧があると褒めてるが、実際に、それは智慧ではなく賢さである。賢いというのはすべてのことを自分の利益から考えたり実行に移したりすることを指している。すべてしたことは自分の意識そして人生経験より思考して動き出し、多かれ少なかれこうしたら自分にメリットあるか、自分が傷害されないかと考えるわけである。だが、智慧というのは衆生に利益をもたらすように、衆生の過去、現在、未来の問題を解決してくれて、ちっとも利己する念頭を考慮していない、一切は空性の中で、自我の考え方が全然ない。空性の智慧は因縁より生じ、また因縁より滅し、清浄本性より生じるものである。仏菩薩は衆生を利益するときには、そなたを助ける考えがなくて、覚えていなくて、更に仕返しを求めなくて、あなたを助けた後にそなたが知っているかどうかさえ重要ではなくて、そなたを助けてもそなたに教えるとは限らない。

どの衆生にも本来仏と同様な智慧を持っているが、衆生の智慧は累世の貪嗔痴によって遮られた故、知らないでいる。我々は誰でも累世の業を持ち、業には良いのもあれば悪いのもあるが、どちらでも仏を学ぶ障害になるのである。本性はもともと性清浄であったが、無明煩悩によって清浄な本性を露出させなくなるのである。智慧は求めても得られない。経験のある上師に従って仏の教えを教わり、漸進的な修行を通じてはじめて開けるのである。智慧には根本智と後得智に分かれ、如実な修行をすれば後得智が得られ、後得智は仏果を得たとはいえないが、後得智で菩薩道を修行して衆生を助けると次第に根本智が開けるようになる。後得知に生まれつきの根本を結合すれば、空性が得られ更に仏果を得るのである。求めさえしなくても、一歩一歩実修して自然に得られるものである。

根本智はそなたの本来の清浄な本性であり、後得智は戒、定、慧の修行により得るのであり、世の中の聡明で、処理してなしたすべての決定が、きっと多少欠失があって全部が円満ではないから、ただ仏法の智慧にてようやく徹底的に衆生を助けて今と未来のすべての問題を解決することができて、その上そなたのため徹底的に解決して助けていかなる後遺症がない。つまり仏法の智慧だけは、そなたに本当の問題、本当の苦しみーーつまり世の中を輪廻する苦しみを解決するように助けることができる。

今多くの人はすべて1種の誤った観念があり、禅定により必ず知恵を開くことができると思っていつが、そなた達は六祖慧能のような大根器者ではなくて、《金剛経》を耳にして、すぐ見性して悟りを開くことがありえない。だから自分で家にいて座禅を組むこと、禅定、経書を読むことにより、見性して智慧を開くまで修めることが絶対にできない。

昨日、某名山に帰依したことある信者が リンチェンドルジェリンポチェに会見を求めにきた。この信者は禅宗を習っていると自分が思っている。多くの人は法会に参加して修行方法を聞いたら自宅でお経を読んだり、座禅したりすると禅定の境界に達せると間違えた考え方を持ちがちである。これこそ解門と行門と思うが、実際は無理である。この信者は自宅で禅を修めて大般若経を全巻読み終わっても中の意味がまったく理解できないで、経典にある二句に絞って自分を空性観想させようとする。自分の体が空である、体が存在していないのを観想し続けたら、精神病に罹るようになった。空性観想というのは世間の固体物を存在していないと観想するのではなく、身体があるくせに、いくら空と観想しても体を捻ったら感じないだろうか?この信者は出かけて法会に参加しようとしないで自宅に引き篭もり、本当の上師が導いていないので、信者は自分に気脈に害を齎し、精神病に罹って十数日も経っている。これが禅病である。禅病は修禅による病気であり、仏法のほかには治す薬がないのである。釈迦牟尼様は《愣伽經》、《愣嚴經》にこれを触れたので、その深刻さが分かるわけである。なお、上師が導いていないと極めて危険なことである。

正しい観空は世の中の一切を空性と観するので、縁に従って生んで消えて、永久不変の存在ではない。今の人はすべて、自分が修行し座禅を組んでいる時にあのような楽しい感じを追求することが好きである。仏を学ぶのはそなたに心が落ち着くようにさせるのではなくて、もし気持ちが落ち着くため、もっと多くの詩詞歌賦を読むとやり遂げることができて、その他の宗教、例えばカトリック教、キリスト教もやり遂げることができて、雑念さえ減らせば、心が自然に比較的に安定する。ある人は仏を学んで一定の時間の後に、自分の性格がよくなったことを発見して、以前と異なって、旦那さんさえこのようなことを感じて、自分がもうよく修行したと思ったら、それは我慢の心である、今までの修行を台無しにしたわけである。

この信者は自分が修行していて、自分が家で本を読んだら仏法が了解できると思っているが。お経に所謂修行の境界はきっと経験がある修行する上師に頼って、そなたを連れて1歩ずつ実修して得るものである。決して自分でお経の文字の意味を見て悟ることができない。

リンチェンドルジェリンポチェが昔顕教を習っていた頃、ある日禅定をした時に気脈が急に第八意識田にぶち当たり、自分の口より二句を言い出した。リンチェンドルジェリンポチェの母語は北京語ではないが、言った二句は北京語であった。リンチェンドルジェリンポチェはこの二句をメモに取って台湾中の名道場の法師を漏れなく訪れたが、誰もこれに対して回答がなかった。当時、有名な寺院の住職に拝見する機会があって進んで聞いたら、住職は禅宗でいちばんすごい方法-まるで「仏説不可説(仏は言えないと言うのである)」と言るように、眼を閉じて語らないで応じてくれたのである。のち、リンチェンドルジェリンポチェは 直貢チェツァン法王に皈依し同じ質問をしたら、直貢チェツァン法王は「それは大手印の境界である。そして、リンチェンドルジェリンポチェは前世に大手印を修めたことがある」と開示した。リンチェンドルジェリンポチェは当時まだ密法を習得できてないため、 直貢チェツァン法王はここまでしか言わなかったのである。リンチェンドルジェリンポチェは一般の人のように前世に修めたことがあると知っていると、傲慢してくるのではなく、相変わらず今生の修行に専念している。後、閉関を通じてこれら句の境界を実証した。リンチェンドルジェリンポチェは前世にどれだけの成就ができたとは言えないが、確か累世の修行が重なり、そして今生にはたくさんの気力、精力、更に自分の命さえかけて習得してはじめて、自分の業を動かせ少し成就ができるわけである。

若し禅の境界は言語で表れれば、現代人に書かれる待つ必要がない。古代の大徳は既に書かれた。そなた達は自分は文字を読めば分かると思わない。六祖慧能は禅宗に最後認証された成就者さえ、後期に嘗て「不立文字」と開示された。そなた達の根器は如何なる六祖慧能と比較できないだろう。唯ある経典を聞くと、開悟できるわけではない。傲慢しないで。仏の境界は不思議であり、単純に文字から理解できない。ある者は密法がないと言ったけど、実は密法は確かに存在している。

外道に於いて、禅定の境界は仏法の禅定ととても似ている。唯紙一重の差である。修行者はたとえ考えが間違っても自覚しない。若し経験がある上師は導いて修めないと、簡単に外道の四禅八定に落ちって、非想非非想天に修める。非常に危険だ。ある年リンチェンドルジェ・リンポチェはインドで閉関修行した時、両者の差別を体験した。この細微な差異は必ず上師が既に仏法の禅定の境界と方法を体験した後、始めて教えられる。例えば、そなたは人を高雄に連れて、必ず行った事があれば、真実な体験がある。伝えれば、役に立つ。更に能力がある人しか連れない。単純に本の図面、文字を読むによって、人を連れたいなら、いくら高雄の景色を描いても、隔てがある。

密法で衆生を助けるのは常に両刃の刀であり、必ず慎重しなければならない。例えば、現代コンピューターは皆に多く助けたが、子供達に多くの問題を起こった。昨日数人の父母は子供がネットサーフィンが好きという問題をリンチェンドルジェ・リンポチェはに求めた。現代の子供はとてもネットサーフィンが好き、科学は益々快速に発展している。例えばインターネットが発達して、簡単に検索すると、多くの悪い情報を受けられる。現在スマートフォンがあるから、尚更に早くて、手でタッチすれば、受ける。科学はもっと進歩すれば、悪い事を行うのももっと簡単だ。過去リンチェンドルジェ・リンポチェは幼い時、映画を見ても難しかった。現代人は自分が思ったいい方式で他人を対応して、人に役に立つ物を発明した。しかし、発明した人は唯ある所だけ役に立つのを考えた。知恵で問題を解決しないから、通常後遺症が残っている。密法を学ぶのはきっと上師の教導が必要であり、厳格な監督され、少しも間違うことができない。

ある信者は子供が行方不明から、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの前に嘗て彼に言ったが、若し3日間に情報がないと、戻られない。当時、彼は信じない。昨日彼は再びリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した。彼の子供は本当に戻らなかった。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに自分がもう絶望した。現場の皆は必ず有ることわざを聞いた。「天は人を絶やす路がない」(捨てる神あれば拾う神あり)リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に言って、まだ生きているから、如何なる絶望しただろう。しかし、この信者は引き続きに口答えして、自分の考えを言った。若しそなた達は自分の意見を多く持つなら、リンチェンドルジェ・リンポチェに会う必要がないだろう。今日リンチェンドルジェ・リンポチェに会ったのはリンチェンドルジェ・リンポチェの教えを求めて、従うではないか。リンチェンドルジェ・リンポチェは若し自分の意見を言うなら、帰ってくださいと言った。この信者は本当に離れた。今後そなた達は友達を紹介して、リンチェンドルジェ・リンポチェに求める時、若し彼たちは自分の考えを話してリンチェンドルジェ・リンポチェの説法に従わないなら、来る必要がないと伝える。リンチェンドルジェ・リンポチェは情にもろい或いは妥協して、そなた達が聞きたい事を話して慰めて、そなたの欲望を満足するのを思わないで。仏法で見たそなたの問題、真実をはっきりに言ったのに、まだ意見がある。つまり、衆生を済度する事は難しい。

リンチェンドルジェ・リンポチェは簡単に妥協しない。過去嘗てある建設会社の社長はリンチェンドルジェ・リンポチェに二軒各三百坪の部屋を与えて、リンチェンドルジェ・リンポチェに道場及び事務所として使用される。唯一の条件はリンチェンドルジェ・リンポチェに弟子を取られて肉食させる。この部屋は東区の繁栄な地区であり、合計金額は億である。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは少しも動揺しなかった。この人は菜食出来ないなら、仏法の教えに違反した。若しこの人と約束すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは破戒する。たとえ彼は多くの金を与えても受けない。尚更にリンチェンドルジェ・リンポチェは自身も金を儲けるから、絶対利益を貪って仏法を違反しない。

直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェに正法を広める事を指示された。仏は我々に殺生しない事を教えた。だから、若しリンチェンドルジェ・リンポチェはあの建築者に肉食を同意すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは妄語して破戒する。若しそなた達なら、構わなくて、先に受けて彼に皈依した後、徐々に彼を変えるのを思うかもしれない。しかし、仏法はゆっくりに出来ない。

「世間の苦しみを救える」とは、世間に最も苦しいのは生老病死及び輪廻の苦しみである。「以漸悉令滅」、此処の漸とは徐々に変えるという事である。病気にかかるのは福報を使い切るから、福報は使い切ったり、ゆっくりと再び累積しなければならなくて、ただ一回はしっかりと行ってあり得なくて、それは何故リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に引き続きに法会に参加させる原因である。ある者は一回を欠席しても、そんなに影響があるのかと言うかもしれないが、実はかなり影響が大きい。一回を欠席すれば、一回を減少する。所謂休みがない、別に仏菩薩、上師と関係がなくて、福報は徐々に累積してくるものであるから、一回を欠席すれば、自分が福報を累積する機会も一回減少する。そなたは往生する時に始めて重要性を分かる。別に、リンチェンドルジェ・リンポチェは法会に参加する人を必要とすることではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェは経験がある修行者であるから、どのように福報を累積したら皆様に対して役に立つことを知っているのである。

一切は全て因縁因果である。因果法則は宇宙自然の定律である仏菩薩は業力を消さなくて、発生させない事が出来ない。しかし、果の味を変えられる。酸っぱいや苦しくさせない事が出来るが、果を現せない事が出来ない。釈迦牟尼仏は当年道の真ん中に座って、軍隊を止めて彼たちに釈迦族を攻撃させない。しかし、3日間を止めて、果報が変えない事を分かると、仏は起きて離れた。全ての釈迦族は消滅された。仏の大神通力で釈迦族が滅びられた運命を変えない。リンチェンドルジェ・リンポチェは累世仏を習って、此の世に努力して、全ての精力、時間、生命を尽くして、仏法を習って衆生を利益している。だから、自分の業力を少し転じて、皮膚癌の病気は2007年ラプチ雪山に閉関修行した時、最後のかさぶたはようやく取られた。本当に問題を解決した。

ある弟子は今年一月に皈依した。彼女は皈依する時既に肺腺癌に罹った。おとといに施身法法会に参加した後、帰ってから15分間ぐらいすぐ往生した。更にすぐリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法を得て済度されて浄土に往生した。現場にいるある医師弟子は一般的に肺腺癌の患者は非常に痛んで、尚更にこの往生した弟子は彼女の癌細胞はもう脳に転移された。理論的には食べず、寝られなくて、とても喘いだ。ひどいなら、息が苦しい。多くこの病気に罹った患者は天に向かって叫びたいように痛んだ。あの苦しい泣き叫びは言葉で形容するのは難しい。一般人は聞きたくない声である。たとえモルヒネの注射を受けても、依然として絶えず呻く。しかし、この往生した弟子は逆に完全に鎮痛剤とモルヒネを注射する必要がなくて、喘がない。彼女が皈依から短い時間に対して、1月から3月の間に数回法会しか参加できないのに、リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法を得て済度された。多く8年や10年皈依した弟子は必ずポワ法を得るのは限らないが、他の原因がなくて、つまり信じる。

この弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに対して十分な信心があって、毎回リンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた時リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女の痛みを減って軽くなるのを助けると要求することがなかった。只一心でリンチェンドルジェ・リンポチェに彼女が浄土へ往生するのを助けるとお願いした。かえってそのため彼女は病苦の苦しみがなかった。彼女は家族、息子と娘についてすべて下ろした。その上、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女にそんなに痛くないようにさせるのは、もし彼女がとても痛いならば、彼女の心は落ち着くことができない。元々リンチェンドルジェ・リンポチェはこの弟子が施身法法会の中に往生してどんな苦しみを受けないべきと思ったが、彼女は法会の中に亡くならなくて、また家に移されて、あちこちしてすこし苦しみを受けた後亡くなった。彼女は只1つを欠乏した、それは「供養」である。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得て、病苦の苦しみを減って、モルヒネさえ注射する必要がなくて、本来醫療の上でかかる費用を省いてしまった。癌症の患者が元来受ける果報はそなたに医療の上にお金を尽くさせた後死なせるのである。それをよるとリンチェンドルジェ・リンポチェの加持で省いたお金は、そなたに残って貯めさせるのではない、供養するのを分かるべきである。彼女は供養しなかったため、業は転化することが出来なくて、やはりすこし苦しみを受けてはじめて往生することが出来た。

この肺腺癌にかかった弟子、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女のためポワ法を修めた時、ある男が彼女の左の手を触っていたのを見た。彼女の息子だと思ったが結局病院のお医者さんが彼女の遺体を検査していた。幸いにリンチェンドルジェ・リンポチェが見た、すぐ彼女が起こした嗔念を抑えて、彼女に腹を立たせなかった。末法時代の衆生の業は全て大変重くて、病気になるとすぐ病院に運んで、現在のお医者さんと看護婦もこの観念がなくて、多分この時間もないんで、だから、ご家族の中にある者が往生して、止むを得ない時、お医者さんがまだ呼吸するか、心おどるか検査する時、是非まず亡者に今ちょっとそなたの手を触って、それはあなたを助けるから、怒らないと言っておいて、彼女が怒らせないため、そうでないと彼女に地獄を堕ちさせて彼女を害した。どうしてこの往生した弟子がまだ怒ったか?それは良く修行しなかったのである、幸いに、上師は彼女に怒りをおさえてはじめて順調で浄土へ往生することを出来させた。

多勢の者は病気になった後水腫を生み出した。腎臓病の患者ではなく、糖尿病、心臓病のも全部水腫になる。お医者さんの角度より、内分泌の失調か、排尿の不順調で…等に起きられると言うかもしれない、患者に水を少し飲むのを要求する或いは排尿させるを助けようとする。しかし、とても不思議があまり水を飲まないのに、どう排尿してもやはり水腫になった。こんなに多い水はどちから来たのか?水腫は人の貪欲に起きられて来たのである。そなた達はすべて貪欲することがあった、食べること、お金、自分の考え方を貪って、貪欲な感覚 …等、これ等の貪欲より水腫を生み出した。糖尿病にかかったのは肉食するから。リンチェンドルジェ・リンポチェの多くの弟子が本来糖尿病にかかったが、菜食した後、全部よく治った。だからそなた達はおろすことを勉強するのを分からなければならない。金銭から捨て始め、次第に自分の感覚を捨てる。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェはいつも皆に供養をさせているか?そなたのお金が欲しいのではなく、そなたが「捨」を勉強させたいのである。多くの者が往生した後、リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法の済度を得て、元来腹にのたまった水は全部消えてしまった。あれらの水は排出されたのではなく、シーツ、掛け布団カバーはまだ乾いてまったく湿らなかったから、水は根も葉もなく消えてしまった。それはあれらの水はそなたの冤親債主で、全部リンチェンドルジェ・リンポチェに一緒に浄土まで済度された。

続いて普門品の何句の偈頌であり、信者、弟子と仏菩薩と両方の心を説いた。「真観清浄観」真とは真誠、懇切な心で、清浄とは何も願わず、事前に立場を設立せず心で、清浄観と垢無しの本性である。多くの者は仏菩薩に助けを求める時条件を作り出して、仏菩薩に自分のある願いを叶わせると要求して、達成すれば、自分がどのくらい菜食する或いは仏を勉強する。この方式は仏菩薩を脅迫、恐喝して、自分の欲望を求めるのである。そなた達は眞に仏菩薩を信じれば、また結果がどうなるかを聞くか?仏菩薩は全てしたことは、そなた達に対して是非役に立ったが、そなたの思い、欲望に満足させるとは限らない。仏菩薩がそなたを助ける際も懇切、清浄、何も願わず心でそなたを助けて、そなたに彼がそなたを助けるのを知らせなくて、そなたが知っているかどうかも気にしない。

観世音菩薩は衆生を済度する時、一視同仁の心で済度して、好し悪しの分別、種族、国家、信仰を問わず、苦しんでいる衆生であれば、彼が必ず助ける。これもなぜ観世音菩薩は衆生が苦しい目にあったのを見て、急に二滴の涙が流れたのである。そなたはこんな心で仏菩薩に求めれば、自然に仏菩薩と相応することが出来る。まるで信号の頻度は同じ時、自然に通じるのである。しかし、仏菩薩は多くの外道神様のように、人を助けるには条件を交換して、欲望で衆生を助けるのではなく、信者弟子は自分の欲望で仏菩薩に願いすれば、自然に仏菩薩の清浄な心と相応することが出来なくて、仏菩薩の助けを得ることが出来ない。これもなぜリンチェンドルジェ・リンポチェは仏菩薩に求め得ることが出来るがそなた達は求め得ない原因である。

同じのように「広大知恵観」も行者の修行することと仏菩薩が衆生を助けるのと二つの方面から見る。広大とは一切の衆生で、単にある者を示すのではない。仏菩薩は衆生を助けるのは全て平等で、誰が割合に重要ではなく、全部知恵の心で一切の衆生を助ける、衆生は懇切、真誠、清浄な心で求めれば、仏菩薩は全て彼の因縁によって、清浄な知恵で助けを与える。それで、行者は仏菩薩に求める時、特定的な対象のため、仏菩薩にそなたが思ったのを達成するのをばかり要求するはずではない。六道に仏菩薩の教導を受ける因縁がない一切の衆生を思い及ぶべきで、自分の欲望のためではない。諸仏菩薩は既に広い心で衆生を助けて、相対に、行者は広い心で仏菩薩に求めれば自然に相応を得ることが出来た。

「悲観と慈観」この言葉の中にの「慈」と「悲」は二件の事で、慈とは自分が一番貴重、一番好きなものを他人にあげて、衆生の苦しみを取り替えたのである。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェのように施身法で衆生を助ける時、観想を通じて自分の一番貴重な肉体を衆生に布施して、衆生の願を満足させて苦しみより離れることが出来させる。悲なら衆生が苦海を抜けて、輪廻の苦しみを離脱するのを助けられるのである。世間に全ての事に対して、分別心がなく、好し悪しの分別がなく、執着がなく、慈悲がはじめてある。慈悲心がなければ、修め得ることが出来ない。この事はそなた達は現在まだ出来ないが、少なくとも上師、仏菩薩のこんな広い心を了解するのが出来る。上師、仏菩薩に祈請する時、清浄な、事前に立場を設立しない心を用いて始めて相応することが出来た。

「汝らも常にそのようになるように瞻仰するようにしなければならない。」の願いは希望ではなくて、発願であり、浄土に往生する事を常に発願する。常に仰ぎ見ることは仏菩薩と上師を常に仰ぎ見る。そなた達は上師を常に仰ぎ見るなら、上師の模様がそなた達の第八意識田に種を蒔かせて、そなた達が一旦何か危難を発生したら、第八意識田の種が直ちに作用をさせて、上師の模様を瞬間で現れる。先話したそのポワ法を得た弟子は、彼女が毎回リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た説きに、目がリンチェンドルジェ・リンポチェを離れない、彼女が道場を離れてリンチェンドルジェ・リンポチェを見えないまでであり、此れは常に仰ぎ見る。しかし、一部の人々の目はリンチェンドルジェ・リンポチェに見え敢え無い、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼たちが上師に仰ぎ見る事をしたくないのを知っている。瞻仰とは、仏菩薩或は上師に瞻仰する事であり、普通な死者を瞻仰する事ではない。瞻仰は死者にて使うならば、何とかおかしいである。チベット仏教の中に。弟子の目が上師に離れない。

この往生した弟子はある者が彼女の左手に動かせたので怒って、幸い彼女の生前に上師に百パーセントの信じがあり、その上、上師に常に瞻仰するので、上師の法像が彼女の瞋念を起すと現れて、彼女の考えを圧した。そうしないと、彼女は三悪道に堕ちて苦しみを受ける。これにより、死者に済度する者は能力が無くて死者の執着を知る能力がないなら、死者に順調な往生する事が出来ない。また、死者も助念させる者が済度の能力があるかどうかを知って、もし能力がないなら、死者も彼に自分の考え方を知らせない。此れは鬼が他人に自分の考えを知らさせない仕方がある訳である。

「無垢な清浄である光り」は依然のお年寄りは人の肩の上には二つの明かりがある事を曰く。現在、科学も人々から発した光りを測る事が出来る機械を発明した。ただ六道の有情衆生は光りがあって、ただ累世の業力が違うので光りの輝度が違う。人々が生まれてから光りを具えて、ただ累世の垢がしっかり覆わせられて、仏菩薩の光りは無垢染の清浄な光りである。清浄な光りとは綺麗な光りではない、却ってこの光りが非常に強烈し、眩しくて、そなた達がそれを見たら恐れて接近する事が出来ない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てこのような経験がある。顕教を皈依した二日後、リンチェンドルジェ・リンポチェがはっきりして夢を見た事があり、夢の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェがある仏寺の大門の前に至って、ドアを開けてから仏像から出した強烈な光りにより震え上がらせて立ち入られなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェの皈依師は後でリンチェンドルジェ・リンポチェに入られる事を言って、リンチェンドルジェ・リンポチェが入って始めて、その上仏像に頂礼した。入ってから何か発生したのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは今日にそなた達に教えなかった。

「その広大な太陽のような智慧で諸々の闇を破る」のは仏が常に太陽により智慧の光りを形容し、恒久不変がまっすぐに存在する。衆生の累世の業力は積立る暗雲のように、太陽の光りに隠させて現れる事が出来ない。衆生は現在自分の智慧の光りを気づく事が出来なくて、しかしそれがずっと存在し、ただ暗雲を開いて、日当たりがまた現れる。こちらの「諸々の闇」は六道の輪廻である。智慧の光りは日当たりのような強烈し、六道の闇を打破させられる。

仏菩薩の清浄な強烈である光りは一切の輪廻六道の衆生を遍く照らさせて、然し、衆生が其々の業力により、仏菩薩の光に気付くことができない。仏を縁がある者に済度させる事を曰くのは衆生が仏菩薩と同じような考えを持っていて素直にさせて、このようにすれば縁がある。仏菩薩が業力を変わらせる事が出来ない、ただそなた達に業果の味を変わらせる事を助けてくれる。しかし、業報は依然として現れて、ただそなたが行う善が多くて、力が悪の業を被せる事が出来るならば、悪の業を暫く作用に生じさせられない。

衆生が中陰身における時に、夢里中陰或は死んだ後の死亡中陰に拘らず、無垢な清浄である光りを見ると恐れる。人々が往生してから七七の四十九の7日目ごと、仏菩薩が接引して来る光りが強烈である。仏菩薩の光りが太陽のような強烈し、我々が目で太陽を直視する事が出来ない、直接見たら目が陥るわけである。そこのように、仏菩薩の光りが出現する時に、我々が恐れて慣れないので我々の光りを接近する六道の光りに向いて、そして、六道の輪廻に堕ちる。だから、何故リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたが懺悔する事を繰り返し忠告させて、それはそなたの垢を減らせて、そうすろと、このような清浄な光りが段々に現れる。そなたの垢が減らして、仏菩薩が接引して来る強烈な光りを恐れなくて、それに従って浄土或は善道に往生して行ける。

金剛乗上師は弟子の生々世々を世話して仏になるまで、これも「その広大な太陽のような智慧で諸々の闇を破る」法門を使う。弟子は上師が何か過失がある錯誤があったら、此れは弟子の自分の心を問題があり、上師が過失があるのではない。このような錯誤を対治する最もよい法門は「信」である。所謂「信」とは盲目で信じる事ではなくて、これはそなたがこの上師がする一切な事を衆生に利益する事であれば、何か懐疑がある事をしてはいけない、百パーセントで上師に信じて、上師に依止する。そなたの考えと価値観により上師の行為を判断してはいけない、そなたは上師の行為が如何に衆生に利益させる事が分かる事が無理である。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはニュージーランド弟子に引っ越させる事を指示し、その弟子が聞き入れてする事をしないで、一寸待っても構わないと思っていて、結局今回のニュージーランドの大地震が彼女の部屋が倒れて危ない建物になり、住む事が出来なかった。幸い彼女は皈依したので無事である。だから、尊勝直貢チェツァン法王は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに何かをする或は何かを買う事を指示すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが直にする。多くの人々は上師がただ随意に説いて、構わないと思っている。実は上師が随意で説く事をしない。

金剛乗の行者により、説く内容は衆生に対して無益で、あるいは仏法に関係ないなら妄語をする。リンチェンドルジェ・リンポチェに対して、説いたら仏法であり、が、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが法席における諭す話が仏法だけで、聞き入れて、法席を下げる諭す話が仏法ではない、聞き入れる事が要らないと思っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対随意に説く事をしないで、すべてはそなたを助けるから、弟子とするのが必ず教法に従ってしっかり実践しなければならない。もしそなたがリンチェンドルジェ・リンポチェの企業で働く事を指示すれば、そなたが給料が少ないと思っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの側に働く圧力が大きい事を心配したら、常にリンチェンドルジェ・リンポチェに罵る事を心配したら、それも構わない、悪事がそなたに発生したら、それも仏菩薩と構わない。

先ほど話したばかりの子供が行方不明であるこの母親は、他の宗教団体であれば、彼女がかわいいそうので彼女を慰める。坊間の一部の団体は災難がある時に、被災された者の肩を触って、彼らの泣き言を聴く。衆生に助ける方式はただ一つの固定な方法だけではなくて、各々衆生の因縁が違って、リンチェンドルジェ・リンポチェが違う法門により彼らを助けてあげる。かつて直貢チェツァン法王は何か法門を伝えたら、リンチェンドルジェ・リンポチェが何を修める。この2、3年に至ると、リンチェンドルジェ・リンポチェが自発的な直貢チェツァン法王に特定な法門を伝える事を求めて、此れはリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子が多くなって、もっと多く事を学んで衆生に助けなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の根気が知らない事をはっきり知って、ただ上師だけ知るので、上師が自分に最も適す法門を伝える。そなた達のようではない、上師が他人に法門を伝えてそなたに伝えないなら、そなた達がまた怒って、このような人であれば如何に仏を学ぶのでしょうか?

多くの人々は管理される事を欲しくないので仏を学ばない。しかし、人々はこの世であれば管理されない事を無理である。国家には法律の制約があって、学校で勉強する事は学校の校則があり、何により、仏を学ぶ事は先生が要らなくて自分が学ぶ事が出来るのでしょうか?

経典が諭す内容は全部真実で嘘ではなくて、仏が説く内容は一言が衆生に役に立たない事がない。仏法は衆生に利益する事が出来ないなら仏法ではない、必ず見える。それから、リンチェンドルジェ・リンポチェは参列信衆に離れさせて、皈依弟子に観世音菩薩の修行法門を教授してあげた。

法会が完了してから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは続けて信衆を接見し、午後の4時50分から5時20分まで、12位の信衆の為にこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2011 年 04 月 19 日 更新