尊きリンチェンドルジェ・リンポチェ の法会開示

2010年10月3日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北世界貿易センターの南港展覧館で、年度の殊勝な「チベット仏教直貢噶舉教派阿弥陀仏無遮大超度法会」を主催し、これは  リンチェンドルジェ・リンポチェが台湾で第六回目にこの大法会を主催して、且つ、この展覧館で開催するのは初めてであり、参加者の人数も既に2万人を上回って、日本、香港、オランダ、フランス、インド、ニュージーランド、オーストラリア、米国、イギリス、カナダ、フィリピン、ブラジルなどを含む国外の信者達がわざわざ台湾へ参加しに来た。法会が円満に終了した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは弁護士、会計師及び銀行專員を招いて立会いして頂き、参加者が供養した新台湾ドル600万元余り供養金を公益慈善事業の費用として全額内政部に寄贈した。リンチェンドルジェ・リンポチェは円満に修法し終わった後、更に苦労と思わないで自ら電動車の上で立って会場全体を回って、甘露水を参加者に撒浄して(撒浄は浄水を撒き散らして浄める儀式)加持して、皆の身、口、意を清浄する。すべての撒浄過程は40分間続けて、リンチェンドルジェ・リンポチェは少しも休まないで甘露水を吸い込んでいる重い吉祥草を振って、清浄な甘露水を、首を長くして渇望する衆生に撒き散らして、衆生の願を満たすため、自分の体の負荷を大切にしなくて、その場面がとても厳粛であり人を感動させた。

法会は8時30分に定刻に始まって、リンチェンドルジェ・リンポチェは経幡、楽器、薫香炉、八供女の先導及び寶傘の護送の下で、電動車に搭乗して広大な会場を横切って壇城に上がった。恭しく仏菩薩に頂礼して、尊き 直貢チェツァン法王の如意寶と 直貢チョン・ツァン法王の如意寶の法席にハタを捧げて点灯して仏を供養した後に、リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に昇り、参列者に次のように殊勝に開示された。

今日修めるのは阿弥陀仏無遮大済度法であり、一般的に言えば、仏法は顕教と金剛乗の修行する方法に分けられて、顕教は因地から修行して、金剛乗は果地から修行するのである。

阿弥陀仏無遮大済度法は直貢噶舉第三十七代のチェ・ツァン法王が自らリンチェンドルジェ・リンポチェに授かったのであり、岩伝法に属する。岩伝法は金剛乗の中の1種の特有な法門で、通常本尊から直接に行者に伝授する。阿弥陀仏は釈迦牟尼仏が紹介なされる大願力、尊き仏である。釈迦牟尼仏は《阿弥陀経》、《無量寿経》と《観無量寿経》の中で阿弥陀仏及び浄土に往生する方法を紹介なされたことがあったが、ただ自分のために修行する方法だけであり、自分に浄土に行かせることしかできなくて、他の人に浄土に往生させる方法について、この三冊のお経も全然記載されてないのである。今日修める阿弥陀仏大済度法は蓮師が自ら阿弥陀仏の浄土に行って、阿弥陀仏に伝授されていただいて世の中に持って帰る法門である。

この法を習うためチベット仏教でとても厳格な次第の修行する方式があって、直貢噶舉教派で金剛乗の法(それも密法だと称す)を修行するのは、まずは少なくとも十年間の顕教基礎をなくてはいけなくて、お経と論についてすべて明らかに認識することができてから、はじめて上師が金剛乗の修法を伝えることを決定する。そして金剛乗の修行する方式は先に不共四加行を修めなければならない。不共四加行は金剛乗を修行する者が修めるのである。それは十万遍の大礼拝であり、そなた達が見たことがあるのはチベット人が全身土地に伏せて仏を礼拝する方法である。そして、10万遍金剛薩埵の長い真言を唱えて、この呪は全部100字があって、それから10万遍マンダラを捧げて、これは供養を修めるためのである。最後は10万遍の上師相応法を修行することである。

不共四加行を全部修行し終わった後に、上師は始めてそなたに本尊を教授することになり、先に灌頂を受け入れる後、更に閉関で本尊の心呪を100万唱えなければならない。もし観音の法門を修行する行者ならば、閉関の部屋の中で観音菩薩の心呪―六字大明呪を100万遍唱えて、その上本尊と相応することができるまで修め得て、上師の確認を通じてから成就することを言える。阿弥陀仏大済度法を修習することについて言えば、行者は先に阿弥陀仏の灌頂を受け入れて、閉関で阿弥陀仏の心呪を100万唱えてから、そして本尊と相応することができるまで修め得て、法本に記載されてある円満な徴候を生む。その後、ポワ法を学んで、行者はポワ法を成就しなければならなくて、はじめて阿弥陀仏大済度法を修習することができて、普通な行者はすべて自分のため修めるのであるが、他の人のため法を修めるまで修め得る行者がとても少ない。

どうしてこのように面倒をかけるか。例を挙げて説明すれば、もしそなた達は台北から高雄に行きたい場合であれば、人に聞く時に、ある人が飛行機か電車などの交通機関に搭乗するように答えること、より良いのはそなたに駅がどこにあるかと言うこと、もっと良いのは自らそなたを駅まだ案内してそなたが乗車することを見ること、最も良いのは彼が自分で高雄に行ったことがあって、その上お金を出してあなたと一緒に乗車して目的地まで連れて行くことである。これは多くの者は浄土宗を修行したらとてもいいと言っていて、浄土に往生することができるから、これは大体そなたの使う交通機関だけを教えたのである。阿弥陀仏を唱える者は他人に駅の位置を教えることができて、もう自分が確かにこの一世に浄土に往生しなければならない者はそなたを連れて駅に行くことができて、浄土に行ったことがあってその上この世に既に自分が確かに生死に解脱できて、浄土に往生することができる金剛乗の行者は、この人に娑婆世界から西方極楽世界まで連れられていく資格がある。

以上諭したのはこの法、及び修法する人の条件であり、引き続いて、法会に参加する者の心と動機の重要さを開示する。ずっとから、リンチェンドルジェ・リンポチェが催したすべての大法会では、きっと衆生の平等をやり遂げて、つまり、そなたの身分が特別であるかどうか、お金があるかどうか、社会の地位がそんなに高くないなどことを問わずに、すべては参加することができる。仏菩薩の前に、衆生が平等である。今日の阿弥陀仏無遮大超度法会は無遮であり、参加する衆生が皆平等で、功徳主をも設けないで、いかなる政府の高官或いは知名な人物をも主導に招待していない。何故かというと、リンチェンドルジェ・リンポチェはすべて縁に従って、そなた達の衆生の縁に従うからである。

修法者は平等心で法を修めて、また参加者の心は第一恭敬心があって、仏経に三宝に敬うとある。恭敬は即ち供養である。そうすれば、そなた達に福報を累積させて、仏法を聞けて、仏法の助けを受け入れる。金剛乗は主法者を本尊として無二無別と認められると主張した。若しそなた達は主法者を阿弥陀仏として認めれば、阿弥陀仏の加持を得る。若し主法者を凡夫として認めれば、凡夫の加持を得る。仏法は分別せず、唯そなた達の心は分別するだけだ。それはそなた達は誠心があるかどうかも決める。

参加者の心に対して、第二は懺悔心が持たないと出来ない。無始以来から、六道衆生は苦海の中に不断に輪廻して連れてくるのは業しかいない。善業があり、悪業がある。小悪を行っても構わなくて、小善さえ行いたくないと思わないで。地蔵菩薩は有る世の母は生前鼈の卵が好きなので、死んだ後地獄に堕ちる。そなた達は此の世に肉を食べて、衆生を傷付けて、貪瞋痴から起こった一切悪念は全て懺悔しなければならない。懺悔とは二つの方面から説明する。第一は懺であり、第二は悔である。懺とは間違いを分かって、一切結果を受けて、責任を負って、向き合う。悔とは間違いを分かった後、永遠に再び犯さない。

第三、法会に参加する時、散乱の心を持つ事が出来ない。六波羅蜜の中に一項の修行は精進である。それは心は法を専念されなければならない。後程の儀軌の中に自分はまだ用事があって何故まだ終わってないと思わないで。上師及び仏菩薩に対して、法会に参加する事より重要な事はない。若しそなたと約束した人はそなたを待たず、そなたは現れないせいで何か取り消しされたなら、そなたは法会に参加したせいではなくて、元々相手は誠意を持っていない。そなた達はちょうどこのきっかけで彼を試して、そなたに本当に誠意を持つかどうか。仏を学んで、法会に参加しても、そなたに伴侶を失って、事業を失って、財を損なわないわけではない。全てはそなたのことだ。何故最後まで法会に参加しただろう。若し中途半端すれば、円満になるだろうか。ある二人は他人経由でリンチェンドルジェ・リンポチェに法会を参加したいが、三十分しか参加できない。その後は他のスケジュールがあるからと伝えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは分かってから、彼達は来ないほうがいいと言った。若し彼達は来ると、暫くしてから身を上げる時、皆に妨げて、気を散らさせる。若しそなた達は専念に法会に参加すれば、今日得た福と縁はそなた達の未来に対してとても大きい助けがある。

第四、慈悲心を持つ。今日まだ多くの衆生は福と縁がなくてこの法会に参加できない。彼達に対して、憐憫心を持つ。そなた達は法会に参加する時、例えどんな理由で来ても、この法縁により一切有情衆生が未来仏法を習う機会があって、生死を解脱できることを望む。

第五、傲慢の心を持たない。若し、今日法会に来て、どんな事を行なう気持ちを持ってきたのは傲慢の心だ。若し、そなた達の母、夫、妻、友達に無理させたせいで来たのは此れも傲慢の心だ。また主法上師は行った事は自分も出来ると思わないで、リンチェンドルジェ・リンポチェは多く準備したから、此処で二万人を直面できた。常に密宗の法会の中に下の人は動いたり、手印をしたりしいている。このような行いは全て異常だ。手印をするのは密を習う事を表さない。唯印だけだ。法会に参加する者はこの五種類の心を具えれば、広大の衆生を利益できる。

本来チベットで阿弥陀仏大超度法を修めるのは一日にかからなければならない。しかし現在は商業社会なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは日曜日でも皆は用事が有って、忙しいのを分かった。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分を苦労して、法を修める時間は半日を短縮する。此れは内容を減少する事ではなくて、唯リンチェンドルジェ・リンポチェは禅定と専念の力を通して、速度を増して修法の時間を濃縮する。皆は暫く我慢してください。

このような大きい法会を組み立てた事はかなり簡単ではない。今回阿弥陀仏大超度法では宣傳、廣告、テレビ報道もなく、マスコミに知らせずに二万人が法会に参加した事は極めて得難いだ。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは縁を信じるから。八百数年前直貢噶舉派 祖師ジッテン・サムゴンは十八万出家弟子があった。チベット、このような交通不便で情報は余り流れていない所でこの弟子は如何なる来ただろう。此れは全て縁である。そなた達は今日この大法会に参加できて、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ずそなた達は過去世に阿弥陀仏を唱えて、過去世も金剛乗を接触した事を断言した。そうしないと、金剛乗の法会に参加しない。我々は福を惜しんで縁を惜しむと言われたが、つまり、正法を聞く機会があったら、この法を続けている。皆は拝む気持ちを持たないのを望んだ。そうすれば今日の時間を無駄にしたから。

毎年リンチェンドルジェ・リンポチェは主催した大法会は全て一年に近く準備していた。多くの人力、財力、物質を用いた。それは全て仏の恩、衆生の恩、上師の恩を報える。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日の修法により、皆は今日如何なる気持ちを持って法会に参加したのを問わず、このような大きい金剛乗法会に参加したから、皆は未来必ず福報を増して、事情は必ず転じると信じた。法会の後、若し少し事故に遭っても自分は運がついていないと思わないで。此れは重い報い軽く受ける事だ。本来最もひどい事件は起こる。

後程から始めて修法して、専念しなければならない。若しそなた達はその後用事が有って、途中に離れるつもりなら、それは専念しない。若しそなた達は10時や11時に約束があれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは先に離れる事をお願いした。恥ずかしいと思わないで。そうしないと、若し途中に進んで、そなたは離れて祖先はまだ此処に残ったら如何しよう。そなたに食べられた動物はそなたを追いかけた。そなたはお金を払わないから、離れても損なわない。しかし、損失もかなり大きい。せめて台湾に於いて二万人の法会を行なうのは殆ど他の機会があって行えないから。更に宣伝もせず、また余り有名ではないリンチェンドルジェ・リンポチェは主法した。こんな多くの人は来たのは台湾の大福報だ。更に今日皆法会に参加して、同時に財施、法施、無畏施を行える。そうすればそなたは来世必ず善の助け及び変化を得られる。そなたは残る事を決めると、逃げないで。そうしないと、夜中にそなたの祖先に殴られるかもしれない。昔ある者はリンチェンドルジェ・リンポチェをおごった時、何人の若い女性を連れて来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは見たが、彼の亡くなった祖母は彼の側に殴って、彼に食事したのに、多くの人を連れたのはお金を浪費したを叱れた。

続いて,リンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な阿弥陀仏大済度法会を始めた、それに、法会の参加者皆に簡単に行う儀軌を説明して,まず三皈依、発心、駆魔である。駆魔をするのは、大法会は沢山衆生を利益することが出来るので恨み重い鬼達に嫉妬の心を起こさせて、お邪魔に来た、修法の過程に妨碍を避けるように行者は先ず慈悲心で駆魔をするのである。その後、献八供を進んで、阿弥陀仏が壇城に来て彼の仏光でこのところを加持するように祈る、接いで呪を唱える内容は浄土の一切殊勝なお水、宮殿、お花、お草などを紹介して、及び阿弥陀仏、大勢至菩薩と観音菩薩の荘厳法像を描いた。これのある部分儀軌はチベットで通常ラマ僧から読みが、今日リンチェンドルジェ・リンポチェが唱えるので割合に速かった。儀軌が続いて進んで、法本の内容はまた阿弥陀仏の功徳を讃嘆して、西方三聖を壇城まで迎えて、西方三聖に対しての供養は、献八供と五妙欲供である。

法本のなかに説いた、いつも阿弥陀仏の聖号を読めば非時で死亡することはしない、つまり意外で死亡する事はしない、それに、一切災害を取り除くことが出来て、われらは常に阿弥陀仏を礼賛するべきである。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を引き連れて阿弥陀仏の心呪を唱える時、そなた達は目をつぶさないで、呪文を唱えるとき目を閉じすれば、一番目、昏迷に堕ちて、幻覚も起しやすかった。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を引き連れて阿弥陀仏心呪文を読む、そなた達は自らで読むと思わないで、集中してリンチェンドルジェ・リンポチェが呪文を唱える声をよく聞いて、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って呪文を読んで、そうするとそなた達は心呪を唱える功徳と仏菩薩及び上師の功徳大海と一緒で、大変広大になった、そなたは自分が読むと思えば、その功徳はそんなに大きくない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは皆を引率して500回の阿弥陀仏心呪を読んだ後、慈悲で、法会の参加者皆の懇願に応じてまた皆を連れてもう100回阿弥陀仏心呪を唱えた。

続いては、身、口、意と自性の四灌頂である。常に弟子信者を灌頂する時四灌頂をしなくて全部三灌頂をするが、今日阿弥陀仏大超度法会を行うため、行者は自分の肉体が本尊と同じな清浄な法身になる必要があるから。引き続き、供茶と供飯の儀軌を進んだ。チベットの気候は寒いので、儀軌の間に、皆にすこし食べさせるので、供飯とのことがあって、現在は只象徴的に少しを食べることになった。ついで、八名チベットの服装を着た少女が壇城に上がって歌を献納して、リンチェンドルジェ・リンポチェは申された:これらの八名は顕教にとって八供女と呼ばれているが、金剛乗にとってダーキニーの代表である、唄った歌はダーキニーが供えた歌で、仏菩薩と上師と護法に供養するとの示すである。続きは、薈供儀軌で、供品を壇城、法王法座と主法上師リンチェンドルジェ・リンポチェに上供した後、勤労奉仕は灑浄された供品を一々法会の参加者皆に配った。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示された:法本の中に述べた、仏菩薩と一緒に食べ物を享受するのはとても善の因縁で、未来仏になる因果を植えたのである。だから、供品を貰ったら全部食べてしまわないで、少しを外の人に残る。

リンチェンドルジェ・リンポチェはテーブルの上にの一枚デスクを指して、皆に仰った、今日法会の参加者と済度する者のネムリストーは全部スクリーンの上に投影して皆に見せた、済度するネムリストは科学の方法でデスクに記録して、一枚デスクの中に沢山名前を載せる、これは寶吉祥仏法センターの使い方で、仏経が説いたのとも合致した、一つの微塵世界にはまだ1つの微塵世界があった、だから名前を黄色紙に貼り出すのが役に立つとは限られない。続いて、一番大切な済度儀軌を進み、リンチェンドルジェ・リンポチェは全て法会の参加者を起立させて、化粧室へ行ったのも直ちに会場に戻らせて、侍従が全て法会の参加者と彼らの祖先の代表として絶えずに仏菩薩、上師に恭しく辞儀をして、また「中陰は閻魔関に恐れて、悩み苦痛に苦しめて、凄涼所の俳徊者、慈悲力の助けを祈る」を唱えた。衆生は死亡した後まだ投胎する時即ち「中陰身」で、凄涼の所で極めて恐れて、諸仏菩薩に皈依するのを祈請する、それに諸仏菩薩が大慈悲力でこれら苦しんでいる衆生を助けるのを懇願する、さらに、皆に教えた、丁寧で済度される祖先、眷属を代表して仏菩薩に三回辞儀をする。リンチェンドルジェ・リンポチェは大変強大な慈悲力で、お自らの無量な功徳で、密法を修め得た巨大な能力で今日皆が済度したい衆生を全部阿弥陀仏浄土へ済度してしまった。

最後に、済度したネムリストを焼いてしまう、民間のように火化する時に亡者を早く走らせるのをまねしないで、既に全部済度してしまったから。これによって亡者累世の悩みと習性を取り除いて、彼らは始めて安心で浄土でよく修行する。

済度法は円満終了して、リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて仰った:毎年大法会にリンチェンドルジェ・リンポチェは皆に素食するのをお勧めた。現在西方国さえも始めて素食するのを唱導している、しかし、かれらは健康を促すため導く。台北市にあるキリスト教病院も全員職員をはじめ、医者さん、看護婦、患者まで全て素食するのを定めた、それは医者さんは臨床経験により素食する患者の方は回復状況が割合に良いと分かったから。仏経の中に説いた、肉を食べるのは慈悲の種を切断する、そなたは衆生の肉さえも絶えなければ、どのように慈悲心を培養出すのか?慈悲こそ仏法のもとで、慈悲がなければ、そなた達が呪文を唱えて、念仏して、礼仏しても役に立たない。仏菩薩がそなたを加護してくれると希望して、しかしどうしても素食しなくて、言えるか?

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に助けてあげて、しかし、そなた達が衆生の肉を続けて食って、このような悪性循環をしたら、そなた達が法会に参加する事が無効である。実には、現代人が雑症難病或は治せず病気に罹るのは総て殺業から来た。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場である法会の撮影者に、若し菜食しないなら、今後リンチェンドルジェ・リンポチェに撮影する事が出来ない、と説いた。リンチェンドルジェ・リンポチェは諄々な善導して、何回目説いて聞かせて、ただ皆が悪を行う事を断絶して、悪を得る事を避ける事を望んでいる。

仏教には、有る人は生前に阿弥陀仏を唱えて、往生していく事を祈っても、然し、業が清浄しないで、死亡の寸前にある人は彼を正念を起こして浄土に往生する事を祈る事を勧めても、然し、若し肉食をしたり、五辛をしたりする人がお見舞いに来たら、彼の一切の正念がすぐに消えてしまって、だから、これにより肉食をする事が有害があって利益がない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはが仏を学ぶ前には、海鮮が精通して食べた。仏を学ぶと、因果の恐ろしさを知って初めって、因果が必ず発生する事が分かっている。そなたの健康、家庭と国の為には、殺生をしてはいけない。天気変化はこんなに道理に合わなくて、これも人々が肉食をする事と関係がある。修行者は生きている時間には皆に絶えずに助けてあげて、皆も自分を助けなければならない。寶吉祥仏法センターの弟子達はお金を出して力を尽くして、そなた達が参加を来る事を得てもらった。表面的には、リンチェンドルジェ・リンポチェが法を修めるが、皆の参列がないなら、今日にこのような因縁でこんなに多くの衆生に利益する事が出来る法会がない。

そなた達は今日2万人程が参加するが、そなた達の各々が連れて来る衆生が真に無量で、そなた達は各々がただ1千人の衆生を連れて来ても、既に2千万人が済度が要る。昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェはその故に殆ど眠る事が無いで、これは衆生が列を作って待っているわけである。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような殊勝な法を修めて、それからの3日間に自分も極めて苦労する。今日、そなた達は一つの大きな善事を作って、この善を続けて延びていて、培養していく。

肉食をすると悪を得る事は菩薩或は上師からそなたに処罰することと思ってはいけない、そなたが食べた衆生である。リンチェンドルジェ・リンポチェの有る弟子は、自分の子供の時に手を折った事がある事を言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは、これは彼女が嘗て海老と蟹を攫んだ事があり、蟹の爪を折ったので、手がこのようになった、と開示された。寶吉祥仏法センターには、このような因果の物語が一杯があり、そなた達が聞いたら恐れている。自分は菜食をしたら、付き合う相手がいない事と思って行けない、肉を食べる酒肉友達は何か良さがない。女の子は菜食をしたら、綺麗になって、男の子は菜食をしたら身体が一層に健康になっている。

リンチェンドルジェ・リンポチェは既に60歳余り、朝8時余りから法座を昇って、午後1時まで、起こしてお手洗いへ行ったこともない、ところで、多くの参列者がお手洗いに行きたいために、会場にに彼方此方に歩いて、その上、多くのが若い者である。リンチェンドルジェ・リンポチェの調子はこれらの若い者により良い、調子が良いのは一方が菜食するわけで、もう一つが密法を修める事と関係がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはその場で若い人に氷を食べてはいけない事を勧めてあげて、そうすると身体が小便をする事をこんなに我慢できない事がない。

法会の最後には、リンチェンドルジェ・リンポチェが法座を下りて会場を回して、自ら加持した甘露水を以って皆に灑淨をしてあげる事を宣言して、その上、灑淨により皆の身口意の罪業を清浄する事が出来て、身体が健康して、皆の福報を累積してあげて、皆に未来に速めに仏を学ぶ事が出来て、それから生死輪廻を解脱する事が出来る、と開示された。灑淨する過程には皆が席を離れる事が要らなくて、ただ本来の席で座るが十分で、リンチェンドルジェ・リンポチェは自ら電動車を乗って会場を回して皆に殊勝な灑淨をしてあげて、参列者は同時に領衆法師に従って廻向文を唱えた。

すぐさま、リンチェンドルジェ・リンポチェは壇城から歩いて下りて、八供女と随扈を先導して道を開いて、各々座席を回して、各々で甘露水にて参列者に灑淨をしてあげた。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身の脊椎が曲がりと頚椎が移位の問題に関わらず、始めてから終りまでずっと車に立って、絶えずに手持ちの吉祥草により懸命に参列者の為に清浄な甘露水を散布してあげて、甘露水が一回で一回で参列者の身に散布して、多くの人々は手を挙げて嬉しくて甘露水を迎えて、その上、多くの信衆は両方の道側に跪いて、恭しく合掌してリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝加持を感謝して、また、一部の信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェの車に従って、殊勝で得難い灑淨加持を得る事を望んでいる。リンチェンドルジェ・リンポチェは苦労を厭わないで各々の所を回して、参列者は会場で設立の大きなスクリーンにてリンチェンドルジェ・リンポチェが各々の所に向いて自ら灑淨をする画面を見て、深く感動を受け入れてから、半分以上の参列者は起立してリンチェンドルジェ・リンポチェを恭しく待って、拍手の音と喝采の声が彼方此方に起して、会場には感謝と喜びを揃えて、参列者はリンチェンドルジェ・リンポチェが一回でまた一回で灑淨をする動作を見てから、感動させて、多くの人々が思わずに涙を流した。

本来計画した回すルートはただ会場での何本より幅広い道を経て、リンチェンドルジェ・リンポチェも回して灑淨をする後に会場を離れる予定である。リンチェンドルジェ・リンポチェの自身は既にずぶ濡れてになって、それで大幅に手を振って灑淨をする事も痩せた身体に大幅に動揺させて、体力が早く損耗した。但し、多くのブロックの参列者は依然として両手を挙げて灑淨を望んでいて、リンチェンドルジェ・リンポチェは自動車をもっと多く本の通りを続けて回す事を指示させて、より多くの参列者に甘露の加持を得させられて、まるではてがない輪廻苦海の中に苦労に奔走して、無量の衆生を済度するようにしていて、自身の調子を完全に関わらず、無私無我で信衆たちの希求を満足させた。清浄な甘露の雨、南港世界貿易展覧館の会場に直ちに浄土に変わって、衆生が加持と救度を渇望する心がこんなに急いで、仏と差別無しのリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲心が顕露の余すところなくのである。

尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは法座を下りて参列者に灑淨させる事を見てから、全体の寶吉祥弟子たちは恭しく立って、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生達の需要を満足するために、自分の年を取っている体、頸椎転位、腰椎S型側弯症、右肩の関節に滑液嚢がないこと(骨と骨が直接に摩擦する)、ひじと手の碗の関節が痛い病気を顧みないで、続けざまに持続的にに大きい動作にて甘露水をこぼして、特に狭い車の上で馬歩にしゃがんで体を幅大きく撒き散らす動作を支持することができなくて、毎回力をいれて甘露水をいっぱい吸い込んでいる重い吉祥草を振ると、リンチェンドルジェ・リンポチェがほっそりしている体を後座の力のため激しくぐらぐらして、その腕が耐える巨大な負荷と体の苦痛を考えてみると分かる。普通の人はそのように5分間手を振るのでさえすれば、手はすぐ持ち上げられないが、しかし大慈悲心を備えるリンチェンドルジェ・リンポチェは、会場の中で多く手を振り回して手を高く差し上げて、無数に待ち込む渇望する目つきを見て、何度も車を運転する弟子に更にもっと多くの席区を回ると指示して、何度も力の限りを尽くしてもっと多くの清浄な甘露水を撒き散らして、顔は依然として慈愛の笑顔を連れて、親切に大衆とインタラクティブして、まるで肉体の苦痛と疲れは完全に存在していないようである。リンチェンドルジェ・リンポチェは皆に、十分に慈悲心を備えている修行者が心の中でただ衆生を考えて、肉体のすべての苦痛さえ彼の心に影響することはできないことを見証させた。弟子たちは上師の辛労を惜しむので、既に涙が満面を流して、上師は衆生の為に生命が要らないで、リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生に利益するために、すでに自分がない、ただ衆生が仏法が要るなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが自分の負荷を考えずに助けをしてあげる。このような40分の時間を連続してこぼす動作をして、壮健な若い人も耐えない、既に63歳のリンチェンドルジェ・リンポチェがさらに言うまでも無い、大慈悲心と大菩提心を備えないなら、命が要らないように会った事がない参列者に完全な献身してあげるのであろうか?

灑淨完了してから、リンチェンドルジェ・リンポチェは再度壇城に戻って、身体が早くから既に疲れて耐えられなくて、二人の侍者を支えて立てる事が出来始めて、侍者弟子が肩にリンチェンドルジェ・リンポチェの為に支えを提供して、絶えずに泣いて出た。身体は既に力が無いが、リンチェンドルジェ・リンポチェが依然として力を尽くして、再度参列者に殊勝な開示をしてあげた。皆は仏菩薩の加持を得たい、一部の人々は自分が甘露の灑淨を得ないと思っていて、実には得てもらった。リンチェンドルジェ・リンポチェは自身から皆に灑淨をしてあげる時に、多くの人々が病気に罹った事を見て、ここに話して、仏弟子とするリンチェンドルジェ・リンポチェにその場で思わずに涙を流して、一時的に説く事が出来なかった。参列者はリンチェンドルジェ・リンポチェの無比な慈悲を感じられて、心から雷ような拍手の声でリンチェンドルジェ・リンポチェを賛嘆した。リンチェンドルジェ・リンポチェも参列者に開示させて、今日の灑淨が皆により健康して、皆がリンチェンドルジェ・リンポチェの勧めを聞き入る事が出来て、再び肉食をする事をしてはいけない、或は10位のリンチェンドルジェ・リンポチェを疲れて死んでしまっても皆に助けてあげる事を足りない。若し皆は仏菩薩の諭しを聞き入れて、殺生をしないで、仏法を学んで、十善法を修めて、善事を多くしたら、仏菩薩も皆に感謝している。

それから、楽器、経幡と八供女の先導で、リンチェンドルジェ・リンポチェは随扈と一緒に車に乗って会場を離れて、会場の2万人の参列者が起立してう恭しく送り届けて、拍手の声が絶えないで、その上、参列者が何回目に一致してリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝を表して、リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な修法済度と皆に加持してあげる事に感謝致した。

2010年10月10日

台北寶吉祥仏法センターの弟子と信衆は寶吉祥仏法センターで、恭しくリンチェンドルジェ・リンポチェが2003年に4月13日に開示した仏法テープを聞いた。

法会開始前、ある女子弟子は、次のように分かち合った。彼女の父は2010年9月4日にリンチェンドルジェ・リンポチェが加持してくれたことを求めて、9月6日午後家の中で安詳と他界した。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に加持して、彼女の父が受けなければならない病苦を短縮して、且つ殊勝なポワ法を修めて、彼女の父を浄土に往生させたことについて感謝した。2010年3月9日に彼女の父は検査で食道の癌に罹ったことを発見されて、医師は腫瘍がもう手術を行うことができなくて、電気療法と化学療法しか受けられないことを表した。もっと多くの医療の苦難を受けたくない父は、電気療法か化学療法をとるつもりがなくて、彼女の家族もすべて父が西洋医学の治療を取らない決定ことを支持して、その期間、父は漢方薬を服用することを始めて体質を調整している。4月下旬、父が漢方薬を服用して鍼灸治療を受けたが、明らかな治療効果があまりなくて、しかも持続的に痰咳して、嚥下困難になるから、信心は動揺して、周囲の親友の好意の説得のもとで、西洋医の治療を試みる考えが出てきた。生きていく「望み」のため、彼女の父は手を放してつかみかかるつもりである。4月23日に父は病院に入って、まずは肺炎を治療して、そして化学療法と電気療法を行うことができる時機を待っている。

5月15日に彼女は初めてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、彼女の父が病気にかかる期間にもっと多くの苦しみを受けないように助けることを願い出て、リンチェンドルジェ・リンポチェは口を開くとすぐ彼女の盲点に図星を指した。「あなたの父が病気にかかるこの事は、あなたが一人で決定することができるのか」。引き続いて彼女が戻って家庭会議を行ってから、再びリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来るように要した。5月29日に彼女は母親、妹達を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに来た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女たちが医者と詳しく治療のプログラム、結局をはっきり聞きなさいと注意して、そして自分が嘗て皮膚癌に罹って、電気や化学療法を受けないで自然と全快したことを例として、リンチェンドルジェ・リンポチェは決して電気や化学療法に反対するのではないことを強調して、しかしきっとはっきりと確認してから決定したほうがいい。その後、慈悲に「彼を三悪道に堕ち込ませないことが、これは私がきっとできるので、もしその後仏法の助けを必要とするならば、いつでも帰って来てください。」と言った。

そして、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を指して、彼女が「孝順(親孝行をする)」を言った。彼女は「孝順(親孝行をする)」というこの2つの字に合わせる顔がなくて、父の病苦を分担することができないことは恥ずかしく思って、父の体が警報を出す時に直ちに彼の体の健康に関心を持たなかったことを悔やんで、彼女は私利私欲であり、父親が子女を大切にして愛護する気持ちを頼りにしていて、一人で外地に働きに行って、父に一族の仕事を分担して手伝うことができなかったことに懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女が親孝行をすると言われたから、彼女は一生懸命に父の病気にかかっている時、他界した後のあれゆる事を尽くした。「孝順(親孝行をする)」この2つの字はリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女に与えた加持であり、彼女が父の生命の最後の1段の道に付き添っていることを支持する最も珍しい加持である。6月5日に彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、彼女を法会に参加させるように願い出た。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女が菜食を食べるのに妨害があることを知っているから、彼女は考慮した後に、リンチェンドルジェ・リンポチェに、彼女が菜食を食べることをやり遂げることができることになった時に、また法会に参加することを求めることを報告した。

5月中旬、彼女の父は反復の吸入性肺炎で肺部の炎症を起こす問題が有効な改善を獲得することができなくて、そのため医者はしばらく食事しないようにすると提案して、静脈の栄養を注射して及びアルブミンを補充する方式で、父の体力と栄養を維持する。6月4日、彼女の父は胃管カテーテル手術を受けて、胃にかすが少なく流動食を注入されて、この時から彼女の父はようやく肉食を食べて衆生と悪縁を結ぶことが無くなった。肺炎の情況がコントロールすることができた後に、6月18日に放射線の治療を始めた。放射線の治療を始めた後、間もなく肺部の問題はもっと深刻になって、検査で食道の腫瘍が気管支を圧迫して左肺が崩れ落ちることを招いたことが分かった。医者は肺部の機能を維持するため気管支の支柱の手術をしようと提案したが、しかし医師も詳しく手術のリスクを説明して、例えば手術中で大出血が発生する情況など。彼女は6月26日に母を誘って一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに父の手術が順調に進むことを加持するよう願いに行って、リンチェンドルジェ・リンポチェは父の姓名、生まれ年と手術の期日を尋ねて、すぐ呪文を唱えて加持し始まった。同時、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女が法会に参加する願いを承諾した。父の手術は順調で平安で、手術後の集中治療室で三日間泊まってから一般病棟に帰室して、術後の回復の状況は良好である。

昔の彼女は、自分が渾然と分からない悪の中で生活していて、いつも自分が生命の価値に対してある程度堅持して、簡単に物事の成り行くままに従わない人だと思うが。しかし、共修法会に参加し始まって、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示をお聞きして、注意深く自分の身、口、意を点検すると、自分が凄く間違ったことに驚かして、自分の心はとっくに貪、嗔、癡、慢、疑など五毒に汚染されてめちゃくちゃになったが、自分が愚かで知らなかった。利己的な彼女は甚だしきに至ってはまた2年前に堕胎して、罪がない生命を殺害した。過去に犯した様々な悪業を思い出して、殺生したり衆生の肉を食べたりして、道筋を取れる人はどこまでも行けると思っていて、両親と言い争ったこともあって、彼女は穴があったら入りたいように恥ずかしく思う。

7月17日に、彼女は二番目の妹と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見に行った。妹はリンチェンドルジェ・リンポチェに彼女を法会に参加させることを願い出て、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに父に代わって彼女に供養させること及びポワ法を求めることをを願い出て、その時彼女はただ信者なので、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の供養を受け取っていない。リンチェンドルジェ・リンポチェは冷ややかに「ポワ法は求めたくて求め得るのではなくて、ポワ法を求めるのは大福報がなくてはならない。」と言った。その時にまだ皈依していなかった彼女は、心の中で、とっくにリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女が従う上師であることを確定した。7月18日、彼女の願いは円満に叶えて、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依してリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子になった。

8月13日に医者は彼女の父の気管支の支柱の下に穴があることを発見して、場合によって、更にもう一回の手術を行わなければならない。手術するかどうかはどちらも難しくて、主治医は彼女たちの家族の意見を求めて、父の考えは「手術をしないと何も希望がないので、なんとかやって見ようと思う。」ということである。8月21日に彼女と母は父のためにリンチェンドルジェ・リンポチェに再度謁見して、リンチェンドルジェ・リンポチェは呪文を唱えて父を加持することを始めて、呪文を唱えて終わった後に、リンチェンドルジェ・リンポチェが更に何を開示していないのを見て、心がさ迷って定まらない彼女は貪の念を起こして、口を開いていくつかの話を言って、彼女が話し終わることを待っていないで、リンチェンドルジェ・リンポチェは「手術を行うのはただあなた達に見せるだけ。」と言った。返した後に、兄弟子は彼女の気落ちする表情を見て、彼女と、父親のために急速に福報を累積する方法を分かち合った。例えば、大供養をすること、大礼拝をすること、父に代わって衆生に懺悔することなどを願う。

8月23日に医療会議の討論が終わった後に、レジデントの医師は父に支柱の手術と化学療法などの積極性の治療を行うことができないことを控え目に表した。彼女が父に化学療法をすることができないことはかえってよい事であると慰めて、なぜかというと、化学療法がとても多くの必要でない苦痛をもたらすことができるから、彼女も父とリンチェンドルジェ・リンポチェの衆生済度の事績を分かち合った。そして父に、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼のことを助けることができて、病床の上で横たわる時によくリンチェンドルジェ・リンポチェを観想しなさい、と言った。

兄弟子の分かち合った「大供養は最も重要なのが質であり、量ではない。」という経験に従って、彼女は大供養を着手して調達する。彼女と二番目の妹は「自分の力を尽くしてやる」の共通認識が成立して、残りの家族は供養の重要性を全然受け入れなければ、彼らに煩悩の心が起きないようにさせる。父のために何かを求めるべきであるかを躊躇っている時、心の中はある音が出た。「自分の知識と能力がすべて足りないから、何も求めてはいけなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェと諸仏菩薩が父に対して最も良い手配をすることができるように信じましょう!」。8月28日に大供養をする朝、彼女は《快楽と苦痛》を閲覧して、ちょうど第90ページを開いて、最後の1段の話はこのように「…私達が佛菩薩や上師の助けを求めるとき、心中で期待する結果を思わないで、ただ完全に佛菩薩や上師はあなたがよいように計らい、あなたにご利益をもたらすと信じるだけでいいのです。」と書かれた。この一段の話があるので、彼女の信心はこの上なく固める。

8月28日晩に、彼女は二番目の妹と一緒にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に供養を受け取って、そして彼女の父に1粒の甘露丸を賜って、同時に彼女に父に代わって大礼拝をすることをも承諾した。病院に戻った後に、彼女と妹はすぐ父に甘露丸を服用させて、父は甘露丸を服用して終わった後で、食を注入するのは順調で、嘔吐することはできなくて、頻繁に咳をしていることによる胸先の痛みも停止したのである。8月30日、病院に勤める兄弟子が病室へ父を見舞いに来て、そしてリンチェンドルジェ・リンポチェの衆生済度の事績と自らの経験を分かち合って、兄弟子が病棟を離れた後に、彼女は父にリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行くかどうかを聞き出して、今度、父はついに承知である。 9月4日に父は救急車に搭乗して道場に向かって、リンチェンドルジェ・リンポチェが加持してくれることを求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に彼女に父のためにポワ法を求める願いを承諾したが、しかしもポワ法を修め得るかどうかというのは以後の因縁次第であると強調した。

9月5日の日曜日の共修法会の午後3時ごろ、父は危篤に陥って人事不省となって、共修法会が終わった後に、彼女と妹は慌ただしく病院に急いで引き返した。妹は父の目の前で、手にリンチェンドルジェ・リンポチェの法照を持って絶えず父がリンチェンドルジェ・リンポチェを観想するように注意した。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、「あれらのお金がなくて病院の診察を受けない人や読書ができない人にお金を寄付して。怠けないでください。自ら気持ちを患者の手の中に送り届けなければならない。」と言った。彼女と妹は供養と布施の重要性を知っているが、しかし彼女たちがいつも便利を図って、寄付金を医療の基金会へ振り込みしていいかげんに済むのである。彼女は自分の不精さ、直ちに教えることに従って遂行することができなくて、緊急にまでいつもやっと苦しい時の神頼みをすることに懺悔する。彼女は9月6日午前8時に看護人員に病院の社会福祉士を連絡することを協力するに願い出て、社会福祉士を通して、病院で医薬費を払えない患者を探して、そして順調に患者の手までお金を寄付していった。

午前10時過ぎ、主治医が病室に来て、彼は「父の呼吸の状態を見たところで、今日中いつでも亡くなるかもしれない。」と言って、医師のこの話は彼女たちに「父を連れて家に帰ろう」という考えを起こさせた。午後2時半頃、彼女たちは家の中に帰ってきた。父は酸素マスクをほうっておくことを堅持して、彼女と妹達はリンチェンドルジェ・リンポチェの法照に向かってひざまずいて祈願して、大礼拝して、リンチェンドルジェ・リンポチェは父を連れて他界するを祈っている。4時40分、彼女は父の側でひざまずいて、仏号を唱えていて、父の呼吸がだんだん鈍化していくことを見ていて、かるやかに咳をいくつかしてから、それから息が絶えた。仏菩薩およびリンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲な加持と助けに感謝して、彼女たちに残念な思いがなくならせて、父に付き添って最後の一刻まで行ってしまったから。

午後5時50分ごろ、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修め終わった情報を受け取って、兄弟子は「リンチェンドルジェ・リンポチェは父親が生前に道教を修めたことがあるのかと聞く」と言った。母親は嘗て、婆さんの話によって「父親が小さい時、仙公祖(台湾語、呂洞賓を指すこと)に義理の息子とされたことがある」とのことを聞いた。彼女はこの情報を兄弟子に答えて報告した。それから兄弟子は彼女に、「リンチェンドルジェ・リンポチェは呂祖(呂洞賓)が父親の手を引っ張ってリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来たからと言った」と教えた。呂洞賓さえ父を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに会いに来ることを知っていて、リンチェンドルジェ・リンポチェの大能力は本当にどうしても賛嘆しなければならない。その時、道場で大礼拝をしている彼女は母親に電話をかけて、母親が父の梵穴とおでこに触れてもらって、母親は電話の中で父のおでこが冷たくなり、後頭部の突き出た部分は暖かいと答えた。夜8時ごろ、彼女と妹は家に帰って、順番に持続的に父の身の回りで仏号を唱えていた。彼女と妹は8時間以内遺体を触れないようするのを覚えている。事後にやっと、リンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めた後に、亡者の神識がすでに浄土に超脱したから、其の梵穴に触れても亡者に対して決して影響をもたらすことができないのが分かった。愚かで無知な彼女は、現場にいる他の身内に父の梵穴に触れせて、自らポワ法の殊勝さを経験することをしなくて、本当に重大なミスである!8時間仏号を唱えて、父のもともと開けた口は閉ざして、口もとはかすかにほほえみで上昇したように見えて、もとは悪い顔色も同じくだんだん良くなった。掛け布団をめくって父の遺体を移動するところ、父の両手が依然として安穏に腹の上で畳んでいて、右足が気楽に曲がっていて、姿が彼の往生する前にそっくりである。父親はリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲に加持されたまま、とても安詳に落ち着いて浄土に向かった。

10月6日、彼女の父が火葬し終わった後に、検骨室(お骨を拾う所)に踏み込むと、妹はすぐ「わーい!とてもきれいな色。」と驚嘆した。火葬後の骨は、ピンク色と粉の緑色が現れる。彼女たちは朝飯前で、頭蓋骨の上の円孔を探し当てて、円孔ははっきりとして明らであり、これらはすべてリンチェンドルジェ・リンポチェが父のために殊勝なポワ法を修めた瑞相である。リンチェンドルジェ・リンポチェの大恩恵に感謝する。彼女が自分の視野が浅くて執着して、直ちに父のために来世準備をしていないことが分からないで、父の病状の好転をむさぼり求めて、その結果、必要でない金銭と力を浪費して父のすでに使えない肉体に配慮してしまって、父のために福報に累積する多くの機縁をぐずぐずして遅れたことに懺悔する。

彼女が自分の大いに親不孝を懺悔する。リンチェンドルジェ・リンポチェの指示に従わないで、医者にはっきり確認して、父を別に放射線の治療の必要でない苦しみに耐えさせた。彼女は化学療法が父にむだに苦痛を増加することができるだけを知っているが、しかし意志の固めない彼女はかつて「もし父は化学療法をうけるつもりがあったら、それならやってみよう。」との考えがあって、父の生き延びようとする意志、は彼女に恥しらずに自分の貪念を合理化させた。幸いなことは、彼女の父の体の炎症指数と肺炎の問題で、ぐずぐずして彼が化学治療を受け入れることができなくて、さもなくば彼女は十八層地獄に落ち込んでも惜しまない。

病院で父の危篤になる情況を処理して、彼女は意外にも年長者達の善意の助けること及び忠告に対して、心は嗔念を生んだ。年長者達が意見を提出する時に、あちこち言葉を発していて、彼女の考え方と違う時、彼女が突然「冤親債主が現して、彼らに取り合わせなくて抜け出したい」との悪念が起きた。幸いなことに、すぐ自分の偏差の考えに気づいて、年長者がその考えと意見を出した後に、先に深く彼らにお辞儀をしてお礼を言ってから引き続き発言して、そのため、嗔念と執着で、補うことができない衝突と大きな災いを形成していない。

彼女は父の病気のきっかけでリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した前、彼女の頭にこのような思いを浮かんだ。「弟子としてある者に従って習いたくて、ある者に直接に自分の悪いところを指摘されたい。」思わず慈悲な仏菩薩は彼女に賜って、世間得難い宝物-リンチェンドルジェ・リンポチェに従って、修行及び仏を習う因縁を与えた。彼女は完全に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの厳しい教法を降伏した。生々世々にリンチェンドルジェ・リンポチェに従って修行して仏を習って、永遠に退転しないと願う。

続いて法会に参加した信衆と弟子は恭しくリンチェンドルジェ・リンポチェが開示された仏法テープを聞いた。

今日ある者は始めて施身法法会に参加した。「施身法」はチベット語では断つことを意味する。施身法は修行の間に修法者は禅定観想の法門を通して、自分の肉体を一切衆生に布施した。中国語で「施身法」を言われた。その論点の基礎は般若を立てて、即ち我々は言われた知恵である。我々は輪廻して六道に絶えずに生死して、悩んでいるのは我々は多くの妄念、分別及び執着があるから、この力は我々に苦痛の煩悩の苦海に不断に輪廻し続けた。

釈迦牟尼仏は今回娑婆世界に行き、仏法を広めたのは最も重要な目的はそなた達に神通感応を与えなくて、そなた達に良い物を与えるわけではない。唯我々を教えて、如何なる此の世を過ごして、我々の煩悩を断ち、生死を離れることだ。釈迦牟尼仏は49年仏法を説かれたが、最も多く説かれた事は般若と知恵である。大蔵経に大般若経は全ての三分の一を占めた。それから見ると、般若はとても重要な修行法門と分かれる。知恵は仏から与えるだろう。知恵は求められるだろう。知恵は外で求められるだろう。この観念は全て間違う。一切有情衆生は全て仏と同じな知恵を具える。唯我々は覚悟がなくて、貪瞋癡慢疑と言う五毒に知恵を覆われて、自分の本来に具えた清浄な法性を見えない。毎日真言を唱え、仏を唱え、大礼拝をしているのはそなた達に本当に知恵を開く方法ではない。此れは全てそなた達を助けて、修行の方式を通してそなたの煩悩を抑えた。だから何故そなた達に毎日必ず真言を唱えて、仏を拝んで、毎日仏と上師の教えを覚えている事を要求しただろう。それはそなた達の煩悩は断たれないから。そなた達の煩悩は草のように抑えた石を移すと、そなたの草はまたゆっくり植えてきた。だから何故チベット仏教で特に上師と弟子の関係を重視するだろう。具徳上師は必ず如何なる方法を使ってそなた達を助けられる事を分かった。しかし、問題なのは弟子は完全に依教奉行出来るかどうか。依教奉行とは上師は説かれた一切仏法について、そなたは自分の考えを持たれなくて、完全に受け取らなければならない。

最近に起こった簡単の例を挙げた。そなた達はインドへ行った前にリンチェンドルジェ・リンポチェは自ら皆にインドへ行く人は当地のアイスクリームを食べないと言った。結局二人は話を聞かず、一人は今まで下痢している。彼女は自分の体調はいいと思って、上師の話は勝手に聞いた。結局チフスに罹って下痢した。彼女は下痢すると、上師を思い出した。死亡を恐がったから、何回も電話をかけて、リンチェンドルジェ・リンポチェに病院へ加持に行く事をを求めた。簡単な事なので聞かなくても構わないと思わないで、結局必ず事故が起る。もう一人はインドでアイスクリームを食べて、劇症肝炎に罹った。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼を加持したから。今はまだ死んでいない。そなた達はこのように話を聞かなくて、勝手に行った。そうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは如何なる法を修めても、そなた達に対して助けが限界がある。

今まで現場である人は既に皈依したのに、まだ肉食している。そうすると、そなたは何故法会に参加しただろう。どんな仏経の中に仏は絶えずに我々を勧めて、仏が説かれた方式に従って生活に運用する。そうすればそなたは自分の未来を変えられる。例えば今回インドへ行ったのは年寄りの人は怒って、若い人も満足しなかった。そうすると仏を修める必要がない。

煩悩は如何なる来るだろう。執着だ。自分は正しくて、全世界は間違い事を執着するのは煩悩の源だ。知恵とははっきりに世間の全ては縁によって生じ、縁が滅して終わることで自性がない。我々は世間に見る事、聞く事、感じる事は全て因があり果もあり、全ては生滅法がある。仏法の名詞で解釈するのは空性である。空はないとは言えない。空とは我々が人生経験を通して、分かった事は全て自性がない事である。原因があるから起こった。原因があるから滅す。《仏子三十頌》に不断に我々を勧めて、執着できない。絶えずに我々を勧めて、誰に誹謗される事を恐がらなくて、軽視される事を恐がらない。それは我執を破る。我執が強い人は仏を習う事について、成就を得られない。何故だろう。我執が強い人は如何なる衆生の苦しみを感じるだろう。慈悲心を培養できるわけではないだろう。慈悲心がないと、仏法はない。だから、大般若経に多く説かれたけど、唯「空」を一字説いた。

仏はいつも多くの例を挙げて、我々に世間に様々な事を執着しないのを説いた。そなたは修行の道で体験した事、感じた事、見た事を含めて全ては偽物だ。少し執着心があれば、そなたの煩悩は断たれない。だから、何故夫婦は喧嘩しただろう。夫として妻は思い遣りがないと思い、妻として夫は優しくないと思った。此れは我執だ。若し妻は夫がとても苦労だと思って、夫は妻が苦しいと思うと、喧嘩するわけではない。自分の周りの人の苦しみさえ感じないと、仏門に皈依した弟子を言う資格がない。もう修行していると言う資格もない。そなたは皈依すると、此の世に生死を解脱できると望むなら、五戒十善は必ず修める法門であり、免れない。そなた達はいくら行っただろう。そなた達は毎回間違いを犯した時、懺悔すると言い訳が一杯あった。そなたは理由が有って解釈できると思うのは懺悔ではなくて、唯お詫びをしただけ、まだ自分は間違いではないくて、仏菩薩、上師に誤解されたのを思った。現在この世はとても混乱しているのは皆は自分は間違いではなくて、他人の間違いだと思ったから、争いは起こって戦争は起こった。若しそなた達は強く決心しなくて、仏法をそなたの生活の中に徹底しないと、例えそなたは皈依しても、毎日アチ護法を修めても必ず此の世に生死を解脱できて、災難に遭わないとが限らない。

多くの人は仏を習うと菩薩は自分を制約して、上師に制約されると思った。実はそなたを制約しなくて、上師達は既に因果の恐ろしさをはっきりに見えたから、そなた達の思想や行動は全て自分のためを見てとても危ない。それはそなたは改めて六道輪廻に堕ちる。何故菩薩は我々に全ての思いは衆生である事をを教えただろう。若し今日我々は全ての思いは衆生が自分よりいいと望むと、そなたは自然によくなる。しかし、人は惜しまない。お金があれば先に子女を与えて、お金があれば先に息子にいい生活を過ごさせた。結局自分は最も苦しくて、仏菩薩は霊験ではないと憎んだ。仏菩薩はとても霊験である。そなたは話しをしっかりに聞くと、この世に必ずそなたに生死を解脱させる。簡単に言うと、仏を習うのは現在の安楽を求める事ではなくて、未来は富貴や健康になる事を求めるわけではない。更に未来に開悟できることではない。このような物は求める必要がない。そなたは依教奉行出来て、仏法を完全に生活に用いると、求めず自然にある。そなたたちは毎日アチ護法に求めても求めた事が有っただろう。それはそなた達の求めは全て因果法則を違反した。そなたは善を行わなくて、衆生を利益しないと、仏が説いた原理に違反する。そうすると、そなたは如何なる求められるだろう。不可能だ。我々が言われた「求めれば必ずかなう」とは因果法則に従って求めれば、必ず仏菩薩に相応できる。若し因果法則を違反して貪慾で求めると、例えそなたは法会に一万回や十万回参加しても、僅かな人天福報しか積む。しかし、この福報は簡単に使い切れたが、怒ったや誰を叱ると消えた。

そなた達は此の世に仏法を聞けるのは過去世に五戒十善を修めた事が有るから。過去世にそなた達は嘗て修行したがうまく修められなかった。此の世に来てから、我々は隔世迷が有って過去は自分は嘗て承諾した一切の願いを忘れた。どんな願いだろう。衆生のために仏法を習う事だ。そなた達は仏を習うのは自分は苦しくて、問題があって、運を変える必要があると感じたから、仏を習った。此れは仏菩薩が説いた方法と違う。我々の中国人の古代人は器量がある者は福報も大きいと言われた。仏もそう説いた。若し本位主義を捨てて、他人は自分よりいいと望むと自然にそなたの福は増えて、自然に修行の間にそなたの障碍も減少して、自然にそなたは求める事は全て叶える。若しそなたは全ては自分のためにいいと求めれば、このような狭い心はそなたに求めた全てを叶えられない。どんな経典でも我々にこのような仏法を習う事を教えた。しかし、そなた達は却って聞き取れない。そなた達は常に今生きている世間に一人で独自に生きられない事を忘れた。そなたは必ず多くの人に助けられないと出来ない。若しこのような人は悪くと、我々はいい生活を過ごすわけではない。

だから、仏を習うと先に家庭から行った。自分の思想行為を変えて、善向けの方向に進めて、自然にそなたの眷属もそなたに従って仏を習う。そなた達の眷属はそなたに従って仏を習うのはそなたは彼を騙したから。仏を習う時も夫に友達と出かけてお茶を飲むことを言った。夫はそなたが嘘を付いた事を分かると、如何なる仏法を思っただろう。五戒十善の中に不妄語とあるのに、行わない事を自分が行ったと言って、行った事を自分が行わないと言った。そうすると、如何なる夫を影響して、そなたに従って仏を習うわけではないだろう。仏を習う事は悪事を行うだろうか。若し仏を習うのは悪事を行って眷属を隠すなら、仏を習わないほうがいい。それは既に戒を破ったから、また仏法を聞いても役に立たない。法会に参加しても役に立たない。若し仏を習うのはこっそりにする必要があれば、習わないで。それは魔の心だ。魔の心で仏の慈悲心を習うと、如何なる習うわけではないだろう。仏を習うようないい事さえ隠すと、そなたはよく計算していると表した。絶対に多くの事を隠した。そなたはまだ信用されるだろう。そなたの父母はそなたに従って仏を習う事を影響できないのはそなたはまだ直っていない事を表した。多くの人は自分の父母は頑固なので、変えられないと言ったが、頑固という事がないが、そなたはまだ直ってないから。そうすると、如何なる年寄りは息子としてそなたは仏を習ったのを信じて、そなたに従って来るだろう。

仏を習う問題は何処だろう。そなたは自己を中心として、悪い習慣を変えないから、自然に他人を影響できない。他人はそなたの言行を見て、仏教徒に合わないから、如何なる彼に仏を習う事を誘うだろう。先ほど話したとおりに、五戒十善を行った人は顔色は黒くなくて、少し白いだ。何故だろう。心は黒いから、心の光は現れなくて、まだ菩提願を発しない。

施身法は一般人が修められる法ではない。必ず仏法をよく理解しなければならない。理論について、はっきりに分かって、仏を習うのは犠牲と奉ることが必要だ。自分の利益のためではない。そうすれば、この法は習える。もっと簡単に言えると、法会に参加する人はこの修法者と同じな心を持つと、法会に参加する人は得た功徳は修法者より大きい。我々は「随喜功徳、賛嘆功徳」と呼ばれた。そなた達は法会に参加するのは皆自分はよくなるや子女、夫、妻の事業はよくなると望んだ。しかし、此れは仏が説いた犠牲と奉る心とちっとも繋がらないから、如何なる仏菩薩と相応できるだろう。

金剛乗で毎回法会が始まる前に上師は皆に伝えて、そなた達は心の動機はとても重要である。そなたの心は仏菩薩と同じなら、得た加持、功徳は仏菩薩と同じだ。そなたの心は自分のためなら、得た功徳は僅かで埃より小さい。よく考えると、毎日いくらの衆生は苦しみを受けているだろう。若し仏を習う事は自分のためなら、外道の心だ。外道とは何だろう。つまり、毎日神や媽祖を求めて自分の願う物を与える事だ。仏は我々に物を与えなくて、我々に多くの必要がない物を捨てるのを教えた。だから、仏を習うと必ずそなたの心を変えるかどうかはっきりに分からなければならない。若し上師は毎回の法会に同じな事を繰り返しに忠告していたのに、そなたは行わないと、自然に徐々にそなたはこの上師の縁は消える。縁はお互いに同じな考えがあって、同じな行為を行うことを望む。そうすればこの縁は良く起こった。仏菩薩と上師は毎日毎秒いつも衆生は苦海に居る事を思って、衆生は苦しみから離れるのを望んで自分の存在を忘れている。そなた達は毎分毎秒このような考えがあるだろう。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を教えて、自分の身口意を検討して、せめて思想で衆生の苦しみを思うかどうか。若し出来ないと、如何なる真言を唱えても、坐禅してもまだ外道だ。仏と菩薩の成就を得られなくて、生死を解脱できない。

施身法という法門は最も偉いところは我々に煩悩は何処から起こったとはっきりに知らせた。施身法の理論基礎は心経から生じた。心経に「一切物事は全ては仮相であり、執着しない。我々は自分の本来具える清浄な本性を分かれば、世間の様々な貪欲を捨てられる」とある。《仏子三十七頌》には褒められると、喜ばないで、損なわれると、却って彼に感謝しなければならない。彼は私の菩薩である。何故《仏子三十七頌》はとても重要だろう。我々は金剛乗を修めるから、金剛乗は必ず菩薩道を修めるのを通して、成仏できる。菩薩道を修める人は六波羅蜜を修めないと、出来ない。《仏子三十七頌》は六波羅蜜の最も重要で最も基礎の理念である。若し、三十七頌の理念をそなたははっきりに把握しないなら、此の世に更に世間法に僅かな成就でも得られない。

施身法の理論は大般若経の中に最も重要な心経を基づいて、作った法である。施身法を通して、我々が累世に連れて、此の世に作った無名な煩悩を断たれる。煩悩は断つと、そなたの知恵は現れる。法本に我々は恭しい心で心経を一回唱えた功徳は般若経を十万回唱える功徳と同じだ。施身法は心経の理念を通して、また密法を加える。その中にポワ法、気脈明点を含めて、まだ直貢噶舉に最も禅定の方法―大手印がある。この法は顕密とも使われた法門である。直貢噶舉不共の護法-アチ度母は離れる前に最後修めた法は施身法である。彼女は施身法を修めた後、虹の光の身を変化して浄土へ行った。これから見ると、施身法は我々の噶舉派の中に極めて重要である。

若し全世界はこのような混乱すれば、そなたは何時までよく過ごしているだろう。世間は混乱せず、国土安全であれば、我々仏を習う人は安定な環境があって引き続きに仏法を修められる。若し国土は混乱すれば、例えそなたは成仏を修めても不安だ。法会に参加する時に、自分のために求めないで、例え家の中に誰か病気に罹っても単独に彼のために求める必要がない。いくらの人は毎日病気に罹っているだろう。いくらの人は仏法の助けを得られなくて、病気の間に如何なる苦しんだろう。そなたは自分の眷属が病気になった事を見ると、そなたは悲しい。何故このような悲しい考えをもっと広めて体験してみないだろう。そなたの眷属は病気で苦しんでいるが、他人も同じで苦しんでいる。そなたはこのような心を広めると、此れは菩薩の考えである。そうすれば、そなたの眷属に対して尚更に役に立つ。誠心の誠はどんな意味だろう。つまり心であり、仏菩薩の教えに対して、必ず一つの考えしかいない。つまり信じる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで母のために求めない。リンチェンドルジェ・リンポチェの母も全身に病気に罹った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの母は毎回も災いを転じて福と成した。それは世間にの母は全てリンチェンドルジェ・リンポチェの母である。そなた達は常にリンチェンドルジェ・リンポチェは老人や子供を加持した事を見ている。彼達は自分の眷属のように見て加持して分別心がない。父母は子供が病気に罹った苦しみを見て、子女として父母が病気を見る苦しみはリンチェンドルジェ・リンポチェも感じられる。それはリンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達と同じで母が有り、子女があるから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの心を広めて、この多くの人を助けられる。

魔と仏の分別は何処だろう。魔は必ず醜い相が現れるとは限らない。仏も必ず綺麗な相が現れるとは限らない。顕宗に鬼道を済度する観音菩薩は焦面大士と言われて、凶悪な様子である。密宗に馬頭観音も凶悪である。だから外見で此れは魔であり、此れは仏である判断するのは間違い。魔は我々に生死を断つ事を助けない。仏は必ずそなたに如何なる生死を断つ事を教えた。第二、魔と仏の分別について、魔は衆生を助けると、条件があり対象があり、彼を敬わなくて、供養しなくて、彼の考えを合わないとそなたを助けられない。対象とは何だろう。つまり彼の好みだ。しかし、仏はない。そなたは縁が有り、誠心があれば、必ずそなたを助ける。例えば、最近リンチェンドルジェ・リンポチェはある子供を助けた。彼女は生れた時にひどい脊椎側湾症に罹った。彼女の脊椎は手術を受けて、多くの医療方法も受けた。リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した前、この子供は自分は大小便できなくて、食べられなくて、歩けなかった。毎週彼女の父母はこの娘を連れて、リンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁して、合計四回くらい来たみたい。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェは五分間に彼女を加持していた。現在この子供は始めて歩けて、顔色も赤くなる更に自分も食べられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を知らなくて、供養も受けなかった。しかし、女の子の両親は敬った。毎回リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回この子を加持した時、彼女の両親は側で引き続きに頂礼していた。リンチェンドルジェ・リンポチェの心に彼達はリンチェンドルジェ・リンポチェに頂礼しなくて、諸仏菩薩及び一切衆生に頂礼したと思ったから、女の子は速めに進歩できた。両親は仏法を聞いた事がないけど、一件だけ行った。此れは誠心である。誠心があれば、物事はすぐ転じられる。だから、この話から見ると、一つを証明できる。そなたは仏菩薩に誠意を持つと、心は疑わないなら、物事はすぐ転じる。誠心とは何だろう。そなたは仏菩薩を信じて、仏を習う事を言うと、自然に自分の考えは全てを捨てる。自分の命を仏菩薩に任せて恐がらない。仏菩薩は必ず我々を損なわない。だから、仏を習うとどんな事に遭っても恐がらない。此れは全てそなたの果報は現れて、仏菩薩に関わらない。そうすれば、累世の業は転じる機会があって、清浄に消滅する機会がある。

施身法を学ぶ者はとてもつらい過程を通じてはじめてこの法を修め得る、それに、この法で衆生を利益することが出来る。施身法は外の法門と同じではなく、外の法は経典、呪文を読めば結構で割合に気楽である、この法門は顕教の理論に対してすごく了解して、また体得して悟った必要があり、その上、修法者本人は密法の方に成就があったこそ、施身法で衆生を利益することがはじめ出来る。だから、そなたはこんな因縁でこの殊勝な法会を参加して、あまり利己的しないでこの心量を広める。実は、我らは心量を広めれば全宇宙諸仏菩薩は全てそなたの心を知った。その故で、そなたは今日菩提心を起してこの法会に参加して来て、そなたこそ仏菩薩の思惟模式で、こんな思惟模式があった者はそなたの累世の寃親債主が自然にそなたが良く修行、成就することを助ける。そなたの心は自分本位で利己的であれば、そなたの寃親債主はそなたを助けないだけではなくまたそなたを妨害する、それはそなたが自分のためしか考えなくて、そなたがよくなるとあれらそなたの寃親債主は誰に債を請求するだろう?だから、そなたを妨害して助けない。そなたが菩提心を起して衆生を利益すれば、そなたを含んでそなたの眷属と累世の寃親債主は全てこの衆生との範囲の中で、そなたの寃親債主はまたそなたを悪戯わけがあるか?そなた達は法会に参加して利益をもらえないのは、そなたの考えはあまり利己過ぎで、自分のため、悟るため、こんな利己的な者は生死を断念することが出来るか?

地蔵菩薩の願はなんだろう?地獄を空かないと仏に成らぬ!観音菩薩の願はなんだろう?全ての衆生を済度する!リンチェンドルジェ・リンポチェの願はなんだろう?一切衆生が成仏することを助ける!簡単に言えば、自分が重要ではない、全て八大菩薩の願は全部衆生を成就させる、成仏する為にこの事をするわけでは無い。例え、仏菩薩と特に菩薩乗を習う者はまだ我相、衆生相、人相、寿者相があれば、菩薩であらない。この四つは何の意味だろう?即ちまだ「私」がなにをしている、「私」は誰を助けることに執着するのである。覚えておいて「我らは衆生の中の1つである」、そしてそなたが衆生を助けるとは自分を助けるのである、この力は大変大きいである。しかし、そなたは必ず自分を助けると思えば、あの力はすごく小さいで、また仏菩薩の望み、考えと違反する。実に仏菩薩はわれらに教えてくれたこんな方式はわれらを世間法の方、事業上、官位を問わず全て大成就を得るべきである。施身法の法本の中に載せてあり、施身法を成就すれば、名声は故もなく多く者が知られて、沢山の宝物が現れて彼に見せる、ひいては彼の手に入れた。

仏法によって、われらは只この一生ではなく、始めてから、我らは既に何十万世、ひいては何百万世をかけた、世の中の者は過去世で既に我らと関係があったかもしれない。

どうして現在新しい流行病が起ころうか?これは殺生でおこられたのである。香港、シンガポ-ル人は一番生ものがすきなので流行病はこの2つ所で大変ひどかった。仏はわれらに素食をするように勧めた、素食するのは功徳がないが、そなたと衆生と悪縁を絶えずに生じることを断って、そのゆえで、そなたはやっと衆生に欠いた債を返す事が出来る。もっと簡単に言えば、もともと借金していて、旧債は返さないうちにずっと新しいのを増えて、なかなか終れなくて、それは素食する原因である、素食しない者は特に病気が多くて、問題も別に一杯である。癌症は殺生に起こられて来て、多勢者は癌症にかかってすごく悔しくて、一番目の反応は:私は悪いことをしないのになぜありえない?一生に誰が人を叱る事はなくて、誰が人を憎むことはない?自らで刀で動物を殺すことがなくてもごきぶり、蟻を打ったくらいことは有ろう、あれらの殺生することはどう勘定するか?そうしてそなた達はきっと聞く、毎日はどのように暮らすか?だから、我らは仏を学ぶ、これこそ彼らに返すチャンスがあり、我らは毎日全部殺生していて、素食しても全てまだ殺生している。素食するのは偉いと思わないで、只動物を殺すより少し良かった。ください。耕作、野菜を栽培するには植物をきれいに成らせるため農薬を散して幾らの衆生が死んだだろう!癌症にかかったのは心は不慈悲で、衆生の苦しみを気にかけなくて、自分が良くなるのをしか望まなかった。

台灣の統計によると平均九分間ごとに1人は癌にかかった、大勢者はこういうニュ-スを見ても恐れない、自分が癌にかかった事は思わない、しかしSARSを見ると皆は死に恐れた、SARSは現在あんなにひどく伝染していて、全世界には二百名死んだ、イラクで戦死したのより少なかった、そなた達はイラク人が非常に惨めと感じだか?そなたと関係ないのでなかった。そなた達はSARSに恐れてマスクをかぶったがなぜそなた達はイラク人があんなに多く死んだのを恐れなかったか?どうしてそなた達はこの戦争を怖くなかった、そなた達と関係ないのである。アメリカ人はここに打って来なくてSARSは来るので、皆が恐れて、飛行機に乗るさえも勇気がなくてなにもかもする勇気がなかった。そなたは人の利己的な考え方が見えた、例え、今日そなたにイラク戦争は台湾に伝染してくると教えたら、皆は直ちに恐れた。

施身法は我らに勧めた、どんなあなたは正しいことと思ったことに執着しないで、世間には絶対の正しいと間違いがない、全部主観的である。主観は現代名詞で、仏法の名詞では我の見方、我の考え方に執着するのである。イラク戦争のようで、そうと思わないか?アメリカ人は自分が正しいといって、イラク人も彼が正しいと言った、一体誰が正しいだろうか?

仏法は因果この2つ文字で世間の様々な現象を解釈する、そなたが今日全て貰った一切のは、是非前因があって、突然に発生することではなく、必ずそなたがあることをしてはじめてこの力を起した。因果は仏が発明したものではなく、1つ神秘、玄妙なことでもなく、そなたが自業自得である。例えリンチェンドルジェ・リンポチェは弟子に印度へ行ってアイスクリームを食べないと仰った、弟子が上師の話に従わなくてアイスクリームを食べたのは前因である、その後病院で横になったのは果で、これこそ因果と言う、とても簡単である。以前私達は沢山ことをしたが、われらは忘れてしまったので、果報が出来た時、私達は受け取らない。皆は自分が仏を信じると言った、仏を信じるには一番大切のは深く深く因果を信じるのである。簡単に言えると、今日我らは他人に1つ善意の笑顔をあげれば、善の因は現れた;そなたは他人に1つ聞き難い言葉を話せば悪因は既に生まれた、悪果も遅かれ早かれあわれる、只何時か起こったことである。リンチェンドルジェ・リンポチェはこの一生に良く禍を転じて福となした、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが常に他人にとてもやさしくする、この善因は十数年前植えたかもしれない。それよると、因果は仏法の重点で、そなた達は因果を信じなくて、只運が良いと思えば、それは全体宇宙の自然法則と相違する。現在科学者とも因果法則を言う、因果法則が実際に存在するのを既に証明した、それで現代人、学識のある者としてまた迷信して、自分の身に起こった事は全て悪運、全部他人のせいと思った、それではあなたは自分がブッジストだと言う資格がない。

1つ考え方で、我らを成仏させて、菩薩にならせる、考えの瞬間も我らを地獄に堕ちさせる。地獄に堕ちるか天国に行くか、誰で支配するものではなくそなたが自分で決めるのである。そなたの考え方は悪くて、行為が悪くて、或いは言語が良くなければ、これは地獄に堕ちるの根である。そのゆえで、同席の皆さん,そなた達は仏を学びに来るのを絶対にあなた達の眷属に騙さないで、夫、妻或いは父母親を含んで家族はそなたが仏を学ぶのを反対すれば、先ず来ないで、騙す方式はしないで、そなたは彼らを騙すと戒を破った、慈悲心と菩提心はあらない。家族がそなたが仏を学ぶのを受け取らなければ、先ず自分を反省してなぜ家族が受け取れない、彼を憎んで、または彼のせいにしない、他人が言った、夫はそなたが仏を学ぶのを妨げてくるのは前世彼に欠けたのを聞かない、こんな言い方は正しくない。そなたは前彼と恩も怨みもなければ、この世なぜ彼の眷属になったか?彼はそなたが仏を学ぶのを妨げするのはきっとそなたがあることを良く出来なかった、もう他人が言った、大悲呪を多く読んで彼にあげて、彼はそなたが仏を学ぶのを邪魔しないのを信じないでこれはシャ-マンの方法で、そなたはよく直すれば、彼は自然にそなたに仏を学びに来させる。だから私たちは基本の動作、行為及び思想がよく知って、後ほど行う施身法はそなた達をはじめて利益することが出来る。また外道の思想で法会に参加しに来て、自分の現世の利益しか求めなければ、この法会はそなたにの加持が限られた。

引き続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは施身法を行い始めた。

修法円満終了後、リンチェンドルジェ・リンポチェは続いて開示された:家の中に子供がいた者はもう子供に肉を食べさせないと望んだ。皆に1つの物語りを教えた、前に1人信者がリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れに来た、彼は1人四才の子供がいた、風邪で加護病室に入って、直ったらこの子供の下半身は動けなくなった。医者様は病毒が入ったので下半身は動けなくなったと言った。リンチェンドルジェ・リンポチェは病院に行って子供を加持した時、その父親に聞いた、子供が発病する十日前、子供を連れて海辺に行ったか、屋台で買った肉を彼に食べさせたか?子供の父親は確かにこんなことがあったと承認した。この子供はこの肉を食べたこそ、この病気にかかったのである。そなた達は現在終日子供が栄養のないことに恐れた、実は子供に害をしていた。医学或いは科学を勉強した者は全て知った、現在肉の中に多い抗生素ホルモン及び不思議の薬が入ってある。そなた達は何時も子供に鳥腿肉唐揚げ、豚カツを食べさせた、子供はこれ等肉を食べたため、発育が早めになった。そのゆえ、この世代の子供はお体が良くなくなって、風邪及び病気にかかりやすかった、多い抗生素を食べたため、自分は全部抗体がないのである。うっかりして不潔な肉即ちお辞儀した或いは感染された肉を食べると病気にかかった。肉が沢山食べた子供は問題も多くあった、そなた達は信じなければ、家の中に二人子供がいればやって見て1人は肉食して、もう1人は素食して、どれが割合に元気だろう。

仏はいつもわれらに素食すると勧める、直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェと全部素食する、直貢チェツァン法王のお寺にの全てラマ僧も含んで素食するのでそなた達は素食しないわけがない。そなた達は素食しないので何時も沢山理由をつけて、夫或いは姑が賛成しないと言った、しかし、そなた達は食べ嫌い物であれば、そなた達は大きい声で他人にそなたはこれが嫌いと言った、相手に死ぬまで打たれてもそなたが食べたくない、ひいては相手と怒り出すさえも惜しまない、なぜ肉を食べないのは犯罪者のようになったか?それで、仏は仰った、そなた達が正しいと思った事は間違いかもしれない、我らは人情世故になれるため自分が仏を学ぶ原則を破壊しではいけない。家族はそなたが素食するのを反対する理由は幾つかあるかもしれない、1つ、そなたが出家するに恐れた、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェは今まで皆に出家するのを要求することはない、そなた達が家庭の世話をしないようにも頼まない、なぜそなた達はこの重点を家族にはっきり言わないか?仏を学ぶことで家族が喧嘩するようになった。仏を学ぶのは1つ見事で、家族が喧嘩する理由になるのは不合理的である。其の他天主教を信じる者は大きい声で他人に自分が天主教を信ずると言うがどうしてそなた達は言う勇気がないだろう?そなた達は自分が素食することを他人に言うのを恐れて、他人はそなたを怪物を見て遊びを誘わない。あなた達は覚えておいて「物は類をもって集まり」、そなたと寄り合う者と同じタイプで、例えそなたは1人とても敬虔ブッジストであれば、あなたは自然に温和で善良な人と寄り合おうとする。そなたの心は仏法に対して篤信しなくてまだ疑えば、周りにそなたが仏を学ぶを妨害する者が多く現れた、沢山理由があってそなたが仏を学ぶことをさせなかった、それはそなたの心は仏に対して十分の信心がないのである。どうしてそなたは仏が述べた法理に十分信心がなかった、それはそなたは独りよがりで、自分がすごく賢くて、才幹のある、学問のある者でどんな事でも知ると思って、仏が仰ったことを疑った。仏は全ての仏経の中に申された、仏が全部仰ったことは真実語で、どんな理由があっても我らを騙さない。仏は我らが五戒を守ると要求した、その中にの1つは誑語をすることが出来ない、そのゆえで仏が仰ったことは我らに騙すわけがない。今日そなた達が仏が申されたことを疑ったのはそなたはまだ因果を深く信じないのである。

そなた達は自分が仏を信じる事を常に話して、しかし、そなた達は仏を信じる事がない。仏を信じるのは仏が諭す事を有りのままに作って、ありのままに自分の暮らしに使っている。仏を学ぶもはそなたの暮らしと衝突がない、仏を学ぶのはそなたの暮らしを各々分けてはいけない、これは間違っている。仏法は我々の生き方で、仏法が暮しにて使わないならば、そなたが真言を唱えても、そなたが皈依があっても、そなたが各々の有名な仏寺へ行っても、多くのリンポチェに謁見しても、役に立たない、これはそなたが仏法を暮しに使う事が無いわけである。だから、今日、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に厳重な教えて、そなたは仏に学びたいので、そなたの付き合いを偽るなら、行かないほうかいい、リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような状況を最も好きではない。今日、そなたが仏を学ぶので、他人に口を開いて仏を誹謗する事を起こすなら、そなたの間違い、そなたの罪で、話すこの人は罪が無い、これはそなたが彼に仏をを誹謗する事を起こすわけである。在席の皈依者は、若しリンチェンドルジェ・リンポチェにそなたが騙す方式で仏を学ぶ事を知らせるならば、そなたに離れてください、これは騙すのは仏が我々に教える方法ではない、仏が我々に教えるのは真実語で、「直心が即ち道場」ということである。自分の目的に達する為に、布施を騙す事が要らないし、他人に甘えないし、騙す事をしてはいけない、却って、実際な事を他人に話してあげて、このようにすれば真に仏を学ぶ者である。或は、そなたはそれらの良くない悪業の習慣をしている。仏は我々に仏を学ぶために他人を騙してあげる事を教えない。

我々は六祖慧能を回想して、五祖の衣鉢を獲得しても、但し時期にはまだ至る前に、彼は山に隠れて、狩人と一緒に16年に暮していて、彼はずっと我慢して、殺生しない、肉食を混じる菜食を食べて、これは方便で、ただ随意ではない。そなたが仏を学ぶのは、仏に極めて十分な信心を持つ事が要って、我々は何か障害と困難に会っても、これの縁に従って、放棄ではないし、騙すのではない。六祖慧能は狩人の側に16年に居ても、誰も彼が六祖である事を知らない、然し、彼の心を変わる事がないので、一代の宗師に成られる。我々が仏を学ぶのは、これらの大徳の過程を学んで、心掛けて、自分が我がままではない。何故そなた達にミラレバ伝記を見させて、これはそなた達にミラレバがどんな心構えで仏を学ぶ事を少し学んで心掛けている。そなた達はどのような心構えでしょうか?何故、ミラレバ尊者が説いた事があり、ただ誠心誠意でミラレバの伝記を読めれば、必ずミラレバの加持を得られるのでしょうか?これは、そなたが極めて誠心でミラレバの伝記を読む時に、ミラレバの心を学ぶわけで、だから、ミラレバは必ずそなたに加持してあげて、物語りを読むようのではない。

我々が仏を学ぶのはある実例を要して、我々は仏菩薩を実例とする事が出来て、但し、そなた達はこの地位をまだ至らないので彼を学ぶ事が出来ない、だから、我々は嘗ての大徳を実例として、そなたの上師を実例をとして、このようにすれば方法へしていって始めて、我がまませず、自分の方法を考えせず、自分の個人を考えせず、ずっと解釈せず、自分の理由にて上師が我々に教える諭しを分析するのはしないはずで、リンチェンドルジェ・リンポチェは何回目で説いた事があり、直貢チェツァン法王は何を諭すに関わらず、リンチェンドルジェ・リンポチェがすべて首を縦に振って、首を横に振る事がない。これは迷信でしょうか。そうではない。迷信とは、盲目で思考しない前に彼を信じている事である。しかし、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依する前に、リンチェンドルジェ・リンポチェがそなた達に如何にある上師を検視することを既に教えた事がある。リンチェンドルジェ・リンポチェも説いた事があり、リンチェンドルジェ・リンポチェが合格と思っているなら、残して、リンチェンドルジェ・リンポチェが合格しないなら、離す。が、残る事が腹を決めたら、心構えを再び変わる事がない。若しそなた達はこんなに多くの考えがあったら、すぐに離れるほうがいいである。多くの人々はこの一生に仏を学ぶ道に彼方此方に探して、これは彼が彼の心中に思っている好きな人を探し得たい、それなら大変である。リンチェンドルジェ・リンポチェも諭した事があり、自分が顕教を学ぶ時に、ただ一人だけの師父がいる。密宗を学ぶ時に、同じようにただ一人だけの上師が居て、他の者が居ない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこんなに多くの諭すを説いて、そなた達は帰ると再びよく考えてください。先唱えた経文と同じように、この中にある話があり、我々は死亡が何時に来るかを知らない、若し我々が今回の人身を把握しないなら、我々も今回の時間を浪費してしまう。死亡はずっと我々に従って、自分が70歳或は80歳で死ぬかも知れない事を思ってはいけない。我々の仏を学ぶ人は、自分に無常を自分の身元に居る事を教えないなら、そなたが必ず腹を決めないで仏法を良く学ぶ事をしない。「無常」とは何でしょうか?随時に変わっていく!総ての秒で、分で変わっている。そなた達が仏を学ぶのは困難があり、これはそなた達が「無常」を信じさせない、そなた達は「常」と思っている。「常」とは変わらず。そなた達が科学をする者ならば、良くはっきりして、世間の中に物と事が変わらず事がない。だから、そなた達は「息子が私の者で、私がお金を貸して、彼によく商売をさせる」という考えがあり、そなたはこのようにすれば彼を愛させると思いきや、実には彼に害させて、自分にとって悪業をしてくれる。そなた達が能力がないと他人にお金を貸して、最後に至るまで、そなたがこの人に債務を欠けて、そなたが返却する事かどうか?我々の世間の人はこんなに愚昧で、家族に助けてあげる事がはずでと思っている。何か「助ける」のでしょうか、彼に道徳倫理を教える事が「助ける」のである。能力がないと、福報がないと、彼にお金をくれても、彼も総て掛かってしまう。だから、この法則をはっきりする後で、そなたは「無常」という事を受け入れて、その上に堅固に暗唱して、簡単に如何なる仏を学ぶ機会を放棄してはいけない、それなら、そなたが一心をして始める。或は、リンチェンドルジェ・リンポチェは上に仏法を説いて、そなたが下に息子に話す。

「人生無常」は仏から説き出すのであり、この前に説いた事があり、仏が我々をを欺くことをしない、彼が我々を恐喝する事ではない、彼が我々にある現象を教える。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分のある昆明における友達を見るように、41歳から43歳までの間に危険があり、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼に話して、が、彼が聞き入れる事が出来ない、急に死んでしまった。彼は毎月にリンチェンドルジェ・リンポチェを見えられて、そなた達の考えにより、リンチェンドルジェ・リンポチェに謁見するなら、必ず加持があり、必ず死ぬ事をしない。こういう事がない、各々に修めて、リンチェンドルジェ・リンポチェの弟子としても、各々で修めていく。仏菩薩と上師はそなたに助けてあげる事が出来て、但しそなたの業を転じる事が出来ない、そなたによらないければならない。仏菩薩と上師は我々に一切の教導を教えて、我々が有りのままでして、割引くことができない。無常がずっと我々に居る事を覚えていて、無常が死亡ではない、変動である。そなたは良い生活を暮すと思っている時に、注意しなければ行けない、良くない事をもうすぐ現れる。そなた達は良くない生活を暮す時に、悲しんではいけない、良い事を現れるかもしれない。だから、有る弟子はある女の子を率いて、リンチェンドルジェ・リンポチェにこの女の子が極めて苦しい事を言って、この女の子は先に来た衆生が苦しみ事がない、彼女は本来に苦しみを感じている事がない、この女の弟子により側に彼女が極めて苦しみと言って、彼女がすぐに自分が極めて苦しみと思っている。そなた達は良い人と思っていて、が、実には人々を害する事も知らない。そなた達は幾らの衆生が来るのか見えない、これらの衆生がどのぐらい時間を待つ事も知らない、今日のこの機会があって、鬼道を離れる。

そなた達は現在全く苦しくなくて、その上、幸せがあって仏法を聞かれて、幸せがあって服を着きれて、そなた達は良い生活を暮している。よい生活を暮している時には、我々は自分を警戒しなければいけなくて、良さと悪さが同時に発生する事で、だから、総ての時に、我々が自分の身口意を注意しなければ行けない、必ず悪をしてはいけない。そなたは真に悪を止まって善を行う事を遣り遂げるなら、そなたの運命が転じて始めて、改正して始めている。一つの事をはっきり知らなければいけない、我々の生々世々に必ず多くの悪をした事があり、さもなければ、我々は何故来るのでしょうか?我々は阿弥陀仏のところに居たはずである。来るのは我々が一部の業が返還しない、だから、こんなに多くの世、我々が作った悪で、そなた達が少しの小善をすれば、変われると思っているのでしょうか?不可能である。そなたが真に思い定めない限り、自分にとてもひどい、すぐに悪を止める。「断悪」とは何でしょうか?教えに従って素直に行って、そうすると、この善が開始していく。このようにすれば、真に修行をしている人で、仏を学ぶ人である。そなた達は遣り遂げないならば、そなたがこのように聞かれる仏法がただ未来世にそなた達に少しの福報をくれて、然し同じように輪廻していく。そなた達はこの世に仏を学んで、仏と上師から教えてくれる方法に寄らなくて、そなたの悩みを減らないなら、そなたがこの世に学んだ仏法がただそなたに来世にペットになっていく。そなた達は多くのペットを見て、彼達の過去世に必ず皈依があって、仏を学ぶ事があった。但し、何故ペットになるのでしょうか?これは彼が痴である。彼は仏法の真に意義を受け入れない、ただ仏が彼に幸せをくれる事を受け入れて、彼の痴の故で動物の身を得て、彼が少しの幸せがあるので、ペットになって、人にいだいていて養う事がこんなに来る。

だから、若し仏を学ぶ心構えははっきり知らないならば、同じように六道に輪廻している。これは極めて微妙な事で、ただ一縷の差異だけで、はっきり知ると、そなたにすぐに機会があって生死を解脱する。だから、「仏子行三十七頌」は重複して重複して再び聞く事を要して、一回だけで聞いたら分かる事を思ってはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェとしてもずっと三十七頌を修めて、そなたが一回で聞いて分かる事と思っているなら、上師により素晴らしくて、すでによいしているのである。帰ると聞いて、そなたの生き方と三十七頌の区別があるのでしょうか?あるなら、すぐに改正しよう!聞いた事があったら十分で、知ってると思ってはいけない、遣り遂げなければ成らない。仏法はこれを学問にて研究する事をしてはいけない、「解門」が知っていると、「行門」は修行の行動で、必ずつくらせて来なければいけなくて、「解門」は「行門」により重要である。

そなた達は、我々の歴代の大徳を見て、多くの人々が最初に仏法の解釈に知られていないが、彼が有りのままでして、後にすぐ分かっていく。六祖慧能は字を認識しなくて、そなたが彼に説いたら彼が分からない、だから、「解門」とは彼が無くて、然し、彼が有りのままで暮らしに遣り遂げるので、「行」があってから「解」がおのずから出現する。もう一人は広欽老和尚で、彼も字を知らなくて、が、誰かが彼の修行が良くない事を言う勇気がない。そなた達は一日中に仏法を学問に研究して、間違った!仏法が学問ではない。ただし、現在、台湾には有る現象があり、仏法の研究が好きで、然し、仏法を有りのままでそなたの暮らしに使う事が好きではない。総ての大徳、上師を含めて、常にそなた達に説いて、仏経の読む事が分かる事が要らなくて、了解が要らなくて、誠心に読んだら、ある日にそなたが悟ることを開くことができて、経典の内容が悟る事が出来る。若し、文字と言語で経典にて経典に解釈すれば、それは間違って、そなたはただ文字だけで文字を解釈していく。だから、仏は何故仏法が極めて深くて広い事を諭して、深さと広さが理解できない事がではない、妙なる事ではない、これの意義で、そなたの覚悟の程度にてより了解し、上師は人々に言うように、「心経」が再び説く可能性があって、今回説いたら1年ぐらいかもしれない。何故同じな「心経」が再び説く事が出来るか?境界が同じく無い、だから、上師が説いたテープが2回、3回を聞いたら分かると思っていて、そなたが自分が分かる事を言うなら仕舞い、これはそなたが有りのままで、上師が説いたテープをそなたの生活を用いる事がない、そなたがただ学問にて、聞いたら覚えるが自分と思っている。

だから「三十七頌」が出来るだけ多く聞いて、聞く後に自分の生き方と「三十七頌」の区別程度を検査していく。あればすぐに改正し、私が聞いた事があり、分かったという話を言ってはいけない。そなた達は、よりよい修行するのが諭す仏法が異なっている、と思っている。仏法ただ一種類だけで、そなた達に生死を解脱する事が出来て、ただそなたの根器と不同な因縁に基いて、方便の言語でそなたに解釈してあげて、然し、この道理と原則が変わらなくて、過程も変わらず。仏は説いた事があり、方便の為に、小乗、大乗と金剛乗がある。仏法ただ一乗だけがある、何でしょうか?如何に自分に衆生を助けてあげさせる事と自分に仏に成せることである。唯一つだけの方法で、が、何故この間にはこんなに多くの法門を経なければならないでしょうか?これは総ての人の根器が同じく無い。だから、そなた達は多く学んだら、多く分かると思っている。そうではない。そなたは上師になる資格がない、有る上師がより分かるのは、彼が不同な人々を対応するわけである。そなたは自分の為に、家族、友達のためかもしれないし、その上、衆生の為に生死を解脱して、一つの流派を深く学ぶ。「一門深入(一つの流派を深く学ぶ)」とは何でしょうか?そなたは私に阿弥陀仏を唱える事が一つの流派を深く学ぶ事ではない。或は観世音菩薩を唱える事が一つの流派を深く学ぶ事ではない。そなたはある上師を認めると、そなたが彼に従って、追随して、彼が説いた道理を良く学んで、疑ってはいけなくて、疑うなら「一門深入」のではない。

チベット仏教はそなた達が知っているそれぞれの宗派を含めていて、天台、華厳、中観、禅宗、浄土が総てチベット仏教を含めている。簡単に言えば、仏が説いた仏法はチベット仏教に総てある。チベット仏教は宗派を分ける事が無くて、ただ4派を分けて、だから、そなたの根器が禅を学ぶなら、上師がそなたに教える方法があり、そなたの根器が仏号を唱えるなら、上師がそなたに教える方法があり、そなたの根器は打たれて、叱られるなら、上師がそなたに教える方法もある。様々な法で、これらの法門がこれがそれにより素晴らしいのではない、間違う根器な人に対応する方法で、然し、この結論がすべて同じである。この法がその法により素晴らしさ、この人がその人により素晴らしいと思っているなら、それは分別法で、これが仏法ではない。ただそなたは何方の上師に縁がより深くて、そなたが何方の上師が仏法を聞かれる。今日、こんなに多く説いて、帰ると良く考えましょう。

子供に肉食しない事出来るなら、なるべく与えない、これは彼達に良い事で、栄養が無い事が恐れてはいけない。現在の子供が難しく教えるのは何でしょうか?嘗て母親が母乳を食べさせて、現在粉乳で食べさせる。粉乳が牛から来て、この子供が一匹の牛を似てる事でしょうは?如何に言っても聞かない、彼を引きしないなら従わない。何を食べるなら何を似てる。現在の医学を言う母乳を飲む事がほうがいいでしょうか?身体は健康であるか?そうではない。これは彼の性格が母親に従って変わっている。子供から彼にミルクを飲ませて、成長するときに肉を食べさせて、だから、彼の習性が何か似てる?畜生である。だから、そなた達はそなたの子供が動き好きで、素直に従わないと言い、一匹の豚と牛が素直に従うか?一匹の鳥が素直にあそこに止まないのでしょうか?そなた達は彼達にある習慣に養成させて、何を食べると何を似て、本当にこのようである。だから、そなた達は子供を罵る事が出来ない、そなた達が作らせる怪物である。だから、皆は帰ると良く反省して、菜食する事が罪ではない、アメリカがこんなに先端である西方国家はたくさん人が菜食して、益々高いレベル、益々高い知識分子は却って菜食している。ただ一部の愚昧な人だけで肉食をしていて、肉食をすればお金持ちと思っている。そなた達はアメリカとフランスという国へ行って、益々高い学問の人々が菜食をして、これは彼が分かっている。そなた達は高いレベル或は低いレベルがほしいでしょうか?自分が考えていて、これはそなたに罵るのではない、SARSという病気が総て肉から起こすのである。

2010年10月16日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時30分から夜10時30分まで、163名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010年10月17日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な共修法会を主催して、心の体性を開示して、しかも法会が円満に終了した後に、信衆に接見して、夜6時過ぎまで、43名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

法会開始前、ある男性弟子は皆に、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の父を済度した事績を次のように報告した。彼の父は阿弥陀仏無遮大済度法会を開催する10月3日の朝に、家の中で首をつって自殺して、、もとは自殺して亡くなった人は無間地獄に堕ちなければならないが、幸いなのはちょうど当日が大法会であり、リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲と大威徳力の済度のため、やっと彼の父に善い所に往生させて、その上、遺体を火葬した後に、其の頭蓋骨の梵穴に、一つ丸い穴が現れて、円満に済度を得た瑞相である。

あらゆる弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した時間が早いか遅いかに関わらず、すべては必ずリンチェンドルジェ・リンポチェのたくさんの助けを受けたことがあって、更に彼の自身が1999年に皈依してから十数年間、とっくにリンチェンドルジェ・リンポチェのどれだけの恩恵を受け入れたかが分からない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつも老婆親切に繰り返し忠告して、真に仏を学ぶ皈依する弟子は、自分の身、口、意を改正しなければならないが、しかし、彼はすべてやり遂げていないで、甚だしきに至っては表面的に仏を学ぶことさえもなくて、だから、もう少しのところで自分の父にそんなに恐怖の無間地獄に堕ちさせて、まだ自分の上師にそんなに多くの精神と体力を払ってそんなに苦労して彼の父を済度するようにさせた。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、1人の合格する弟子が上師に気を散らして配慮することをしないで、できない弟子が非常に悪であると言ったことがある。

10数年前、当時の彼女、即ち今のすでに皈依した妻は、もとは出家したくて、彼の妻が彼を連れてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに行った時に、リンチェンドルジェ・リンポチェの撮受力のため、すぐ妻の考えを変えて、そして彼の妻に仏法に対して正しい認識を持たせてしまって、だから、彼の妻は彼と別れていないで彼を引き取って世話した。結婚する時、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼らの夫婦の両手を握っていて、妻を彼に手渡したと同じ、だから、彼の妻もリンチェンドルジェ・リンポチェが彼にくれたのである。彼も妻の引き立てで、初めてこのように殊勝で清浄な道場に入ることができて、リンチェンドルジェ・リンポチェの足もとで、リンチェンドルジェ・リンポチェの仏光を受けることができる。

2000年に、彼と妻は結婚することを決めて上師にこのことを報告して、上師が慈悲に彼に台北に残すように指示して、彼が南部に戻って父母と居住する考えはただ生活の支出を節約するため、すべては偽の親孝行であることを叱責した。父が10月3日に発生した事に対応して、リンチェンドルジェ・リンポチェは1語で事実を当たって、、彼は偽の親孝行をするだけではなくて、その上とても親不孝であり、そのため父にこのような1本の道を選ばせて、自分の一生を終えた。

彼は結婚して10年来、妻とずっと安楽で穏やかで順調な日を過ぎているが、数年来自分の無知、無能で、福を大切にすることを知らないで、自分の父にリンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝な功徳を見せることができなくて、父に仏法対して信心、恭敬心が起きせることができないから、彼は息子とする資格がなくて、更に弟子とする資格もない。彼は順調で安楽な時に、自分の最も近い親戚と側の家族に上師の仏法を受け入れるようにさせる方法がなくて、自分が本当にとても利己的であり、その上目先の安逸をむさぼる。

彼と奥さんは結婚して2年以後、まだリンチェンドルジェ・リンポチェの福徳のお蔭で1人の息子を獲得して、リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に子供を抱いて、しかも子供に命つけして、このように言えば、この子供もリンチェンドルジェ・リンポチェがくれたのであるが、しかし彼らの夫婦は基本的な礼儀、儀礼さえもなかった。子供は8ヶ月から4歳までの間、とても深刻なアトピー性皮膚炎で、手足の四肢の皮膚の表面に、面積が広く潰爛して、まるで魚が揚げられて、肉の腐っている様子ようである。もしリンチェンドルジェ・リンポチェがこの4年間の助けがなければ、子供はとっくに敗血症のなどの状況で生き残ることができない。たとえこのように何回もリンチェンドルジェ・リンポチェの恩恵を受けても、彼はやはり本当な懺悔心が起きることができなくて、自分の父母のため懺悔して手伝うことがわからないで、ついに重大な悪果をもたらした。

リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に数回も恩恵と機会をあげたが、彼は物事に対して無感覚なだけではなくて、その上傍観した。リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲のため、阿弥陀仏無遮大済度法会の当日、すぐ午前9時に首をつって自殺した彼の父を済度した。今年(2010年)6月にリンチェンドルジェ・リンポチェはもとは彼らの夫婦の供養を受け入れないが、しかしあの時彼の父が前立腺癌第3期に罹ったため、彼らの夫婦は父母に代わってリンチェンドルジェ・リンポチェに供養する機会があるように求めた。リンチェンドルジェ・リンポチェは慈悲に承諾して、彼らの夫婦のわずかな供養を受け取った。今年7月、父に嘉義からリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見しに北上するように説得した。その時、彼の父はリンチェンドルジェ・リンポチェへの信心がまだ十分ではないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の父に長く加持して、翌日嘉義の病院に戻って定期的な再診の検査を受けて、前立腺癌の指数はもとの1.9から1.6まで下がってしまって、彼の父が往生する前の半年の中、彼の父は前立腺癌のため、全然肉体の上で苦痛を受けなかった。彼は父の心がたいへん恐れて不安であることを知っているが、しかし自分の無知及び、面倒なことを避けることで、父がくどくど言うことを恐れて、ただ上師に彼の父の体の病苦を軽減することを切に願うだけであることを知っていて、上師に父の恐れて不安な心を落ち着かせるように願うことがわからなくて、それからやっと父のこのような悪果を生んだ。

いかなる言葉もすべてリンチェンドルジェ・リンポチェに恩に感じること表現できない。葬儀をする7日間、彼の4人の姉と姉婿と甥達を含んで、すべてはとても安穏でとても落ち着いて葬儀をうまく行うことができて、そして彼の母に落ち着かせた。ある平日葬儀場で仕事を手伝うおばさんさえこう言った。彼らの家の葬儀の過程はとても特別であり、普通に葬儀を行っているのはとてもよくなく、とても悲しい雰囲気を漂っていることが見えないで、特に普通に自殺して往生したのはきっと悲惨で耐えられない雰囲気に全家族を覆うことがある。このすべてはリンチェンドルジェ・リンポチェの大威徳力で彼に与えられた恩恵である。因果を信じなくて仏をよく学ばない人がどんなに深刻で恐ろしい因果が発生したことがあるのか、皆さんが彼のことを一つのかがみにしなさい。

そして、もう一人の弟子は上がって、皆に尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェが10月3日に殊勝な大法会を主催して、他の教派の参加しに来たガムポ、法師が上師への賛嘆を報告した。今度の大済度法会に参加したあるニンマ(寧瑪)派(俗称、紅教)のガムポは、彼が法会の現場に入った時、彼がとても驚かして揺り動かして、その上非常に印象的であり、台湾でこのように多くの人がチベット仏教の密法の殊勝な大法会に参加しにくることができることを思い付かなくて、彼がたいへん賛嘆すると言った。そして、あなた達の上師リンチェンドルジェ・リンポチェは本当な慈心と大悲心であることを言った。あなたの上師リンチェンドルジェ・リンポチェは一つの偉大な事を完成して、それはこの大法会を開催したのである。この弟子はあのガムポに、10月3日に見えるこのように多くの人と過去にリンチェンドルジェ・リンポチェが主法した5回の大法会の参列者はすべて、媒體で廣告もせず、宣傳をせず、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの弟子達の口コミで親戚と友達などを誘って、参加しに来たのであるということを教えた時に、あのガムポはこう言った。いかなる広告をしない状況の下にこのように多くの人が参加しに来たのは、あなた達の上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲心の瑞相を表した。これは非常に素晴らしくて、あなた達の上師リンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲心を代表して、だからやっといかなる広告と宣伝がしないまま、そのように大勢の人はこの殊勝な密法の大法会に参加しに来た。彼が特に言及したのは、このような方式で法会を開催するのこそ、本当に仏法を使う方式であり、真な正法である。その上、彼はすぐに尊きリンチェンドルジェ・リンポチェと彼の上師 ――ニンマ派のペノル法王と比べて、彼はペノル法王も同様にいかなる宣伝をしないからと言った。

また、ガムポは本来今回主法する上師はチベットのリンポチェだと思ったが、法会の現場に入って聞くと、漢人のリンポチェだと分かった。またこの弟子はガムポに話して、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2007年に教派直貢チェツァン法王に特に指定されて、またリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に従ってラプチ雪山に三ヶ月間、円満に喜金剛の閉関修行した。此れは教派では始めて直貢チェツァン法王自らリンポチェを率いて閉関修行円満した。また、喜金剛を円満に修めたリンポチェである。リンチェンドルジェ・リンポチェは教派の歴史に於いて始めの者である。更に我々のリンチェンドルジェ・リンポチェは在家のリンポチェである。このガムポは非常に賛嘆していた。すぐにそなた達の上師はマルパ大師と同じ、在家修行の瑜伽士だと言った。また、そなた達の上師は本当の瑜伽士と言った。この弟子はそのガムポに話したが、当年ディクンティ寺の金頂は破れた時直貢チェツァン法王は特にリンチェンドルジェ・リンポチェに金頂を修復再建を指名した。当時リンチェンドルジェ・リンポチェはお金がなかった。しかし、直貢チェツァン法王の指名を受けた後、リンチェンドルジェ・リンポチェはすぐに承諾した。更に直貢チェツァン法王は特に開示されたが、「この直貢金頂が修復されれば...」この弟子はそこまで話したばかり、あのガムポはすぐに「そなた達の教派は再び大いに栄える時である」と話した。だから他の教派のガムポは本当に分かった。

この弟子もガムポに言って、法会当日朝三時くらいに地震は発生した。ガムポはすぐに言った。「仏経には釈迦牟尼仏は成仏して悟る時、瑞相が一つ現れた事を記載された。特に大法会の前にこの現象は現れたのは極めて殊勝な事である。」更にガムポは法会の中にリンチェンドルジェ・リンポチェは何回も菜食する事を主張していた。これもとても重要だと言った。この弟子もあのガムポに言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは法席でいつも直貢噶舉教派では祖師ジッテン・サムゴンから始めて菜食して、法王の寺に法王及びラマ、リンチェンドルジェ・リンポチェは本人でも菜食している。彼は非常に賛嘆して此れはとても素晴らしい事だと言った。また、このガムポは法会の現場で多くの弟子は楽器を吹いているのを見た。彼は元々チベット人は吹いたと思ったけど、この弟子は全て我々の皈依弟子であり、壇城の上にタルマを含めて全ては我々の尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは始めから皆を教えて、皆を率いて行った。法会現場に全ての手配、接待や引導など全て細かい事もリンチェンドルジェ・リンポチェは毎週会議を開いて、皆を指導した。このガムポはとても驚いて賛嘆した。「リンチェンドルジェ・リンポチェは弟子を教えて、楽器を吹き、タルマをした事非常に素晴らしい事だ。特に現在出家衆は益々少なくなった。そなた達の上師リンチェンドルジェ・リンポチェはチベットの本当の仏法の伝統を伝えて引き続けているのは賛嘆した。」なお、ガムポに言って、当年リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて直貢チェツァン法王に会った時、直貢チェツァン法王は自分が使う数珠をリンチェンドルジェ・リンポチェに持たせて、すぐ金剛薩埵を伝授した。其の後、リンチェンドルジェ・リンポチェも教派に年寄りのラマ及びリンポチェに尋ねると、尊勝の直貢チェツァン法王は始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに会った時に既にリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王の根本弟子を認める事をやっと分かった。あのニンマパのガムポも非常に賛嘆に言った。「此れは全て過去累世殊勝な因縁のお陰で、今日がある。だから、そなた達のリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王の根本弟子であり、直貢チェツァン法王の根本弟子である。」

もう一人法会に参加した顕教法師は賛嘆に言った。彼は非常に我々の上師リンチェンドルジェ・リンポチェを賛嘆した。彼は嘗て多くの超度法会に参加した事があった。しかし、主法者は法会の中に「今日の済度者は全て済度された」と言える人はいなかった。彼は尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェしか言えない。この大きい法会で殊勝な密法に関して、リンチェンドルジェ・リンポチェしか「今日の済度者は全て済度された」言えなかった。此れはとても素晴らしい。彼は今まで聞いた事がない。また、今日上師は言ったから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に行った。だから彼は極めて賛嘆した。

また、六年以来、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは主法した阿弥陀仏無遮大超度法会は参列者は今まで七万四千人余り、六年以来大法会の中に書かれた済度者リスト総数は二十四万一千人余りである。若し外で市場価格で計算すると、済度者を一人書いて一千元がかかると、二十四万一千人余りの済度者は二億四千万以上である。しかし、尊き上師リンチェンドルジェ・リンポチェは主催した法会は全て無料であり、済度リストも無料だ。皆はよく考えると、リンチェンドルジェ・リンポチェは如何なる名利を求めず、自分の命を考えなくて、仏法を広めただろう。上師を感謝した。

続いて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に昇って、開示された。この前ガムポパ大師は心の教法の開示を引き続けた。前回心の表象を説いたが、今日心の体性、即ち心の本質を開示した。

我々人として、心臓の拍動が有れば、呼吸があれば、自然に「私」の思いが現れて、そなたの意識及び経験により、我執で一切物事を見ている。我執があれば心の元々の光が現れない。我々は全ての思いは私利私欲で自分を守るためである。地蔵経には「凡夫は起心動念が全て業であり、罪である」とある。それは衆生が思ったのは全て自分のためだ。此処に言われた「罪」とは外道に言われた原罪ではなくて、間違いを行って犯した罪ではない。仏教に言われた罪は習った仏法を用いて、自分を輪廻かた解脱できない。更に他人に解脱させない事だ。僅かな善及び悪でも業を起した。つまり我々に輪廻させる力である。

我執は主観的な考えとは言えないが、例え客観的な考えても、「私」の観念が少なくなってもまた「私」の観念を入れて、我執だ。そなたは主体と客体の差別があると思ってから、この事をそなたにとって利益或いは損害があるかどうか分析したから。そなた達はまだ完全に「私」の観念がなし事を習えず、行えず、修められないなら、話を聞かなければならない。上師の話に従って、依教奉行して、仏菩薩の話に従わなければならない。

最近ある団体はチベット仏教の法会を行なうことを分かると、会場で反対のチラシを配った。今回阿弥陀仏無遮大超度法会の検討会議を開いた時、ある男弟子はこの問題について、アドバイスした。今度我々は事前に参加する信衆に他人のチラシを貰わないのを要求できる。この弟子はこのようなアドバイスがあるのは全て「私」の立場で考えて、自分は速めにこの問題を解決すれば、トラブルがない事しか考えない。しかし、彼は大法会に参加した信衆は全て自由に参加したから、参列者は色々があって、皆も異なる考えを持っている。若し事前に彼達にチラシを受けない事を要求すれば、ある者は我々の道場は何か恥ずかしい事をしたか或いはこの道場は覇道だと思うかもしれない。全ての衆生は各自で因縁があるから、彼達は持ちか見るか見た後如何考えるか全ては彼達の縁だ。彼は表面に仏法センターのために、道場を守って、仏法を守る事を考えるけど、実は自分は傷付ける事を恐がって、上師及び教派の立場を考えなくて、仏子三十七頌の教法に従って行わなかった。だから、まだ我執の考えである。

今朝、リンチェンドルジェ・リンポチェはある弟子に電話を掛けて、ある人の電話番号を尋ねた。始めて電話を受けた弟子は自分が知らないと言って、他の人に聞かないと分からないと言った。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはその人に電話を掛けた。しかし、この人はまた自分が分からないから、前の人しか分からないと言った。だから、リンチェンドルジェ・リンポチェは電話番号を聞くために電話を三回掛けた。このような状況が発生したのは責任を取らず、他人の責任と思って、責任を逃れた。自分は既によく行ったから、まだそなたに誰を聞くべきも言った。そなた達は生活或いは職場の中でも常にそうだった。しかし、そなたは私が知らない、誰に聞かないと分からないと言ったとき、実はそなたは分かった。唯そなたは用心に事をはっきり覚えないから、「私は分からない」という言い訳で責任を逃れたのが私を守った。リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に頼まれた時、分からない所がある。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは絶対に分からないと返事せず、すぐ手配したと承諾した。

そなた達はいつも外の者と通じるべきと言う、お互いの考え方を了解するのを通じて共通認識することに達することが出来るようになる。しかし、そなた達は良く考えてみれば、所謂通じるとは、他人が自分の考えを受け取らせるのではないだろうか?実は、これは我執とのやり方ではないか?しかし、そなた達に我との観念を要らせないのは、何の事も自分は考えせずに、他人の言うことに従うのではない、悪いことさえもするならば、痴人になった。

あなた達は大法会の中に見た、リンチェンドルジェ・リンポチェは修法円満終了後、法座を降りて自動車に乗られて全場で回って甘露水で法会の参加者皆に灑浄した、手に吉祥草束を持って、甘露水を激しく撒き散らして40分間程長くかかった、簡単な動作に見えるが、実はきわめて力を費やした、それに、リンチェンドルジェ・リンポチェの手部の関節はもともと持病があったのである。何故リンチェンドルジェ・リンポチェが出来たか?これはリンチェンドルジェ・リンポチェ既に「我」との観念がなくなったのである。信じなければそなた達は家に帰って自分でやって見よう、こんなに絶えずに激しく撒き散らすことは、只5分間でそなた達はもう我慢出来ないのに、30分間で持続すれば、そなた達は翌日る石膏をし始める。

ましてリンチェンドルジェ・リンポチェは既に63才で、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが車の上に立つのを見たが、実は車の上には狭くて、リンチェンドルジェ・リンポチェが馬歩を立て力を尽くす場所もなかった、弟子が用意してくれた吉祥草束はまたかなり長くて太くて甘露水を濡れた後、撒き散らす時はとても重くなった。若いそなた達さえは、この姿勢で5分間で繰り返したら手は多分挙げることが出来ない、40分間で撒き散らすならば半月間で休養する必要になるかもしれない。,ましてリンチェンドルジェ・リンポチェは既に60高齢でなお脊椎はS形大側湾で、なぜこんな体力を持って衆生のため灑浄することは40分間に長かったか?これこそリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲心の現れである、リンチェンドルジェ・リンポチェは全く自分のことさえも考えなくて、衆生が必要のを見るとすぐやる。寶吉祥漢方醫学診療所の二人漢方医者さんさえも心配で、、終わった後リンチェンドルジェ・リンポチェの休憩室の外に急いで走って来た、リンチェンドルジェ・リンポチェは手が折ったと思った、灑浄した後、体力は足りなかったが、1時間を過ぎた後リンチェンドルジェ・リンポチェはもう大丈夫であった。そなた達であれば、多分手は石膏をする必要がある、そなた達は信じなければ家に帰って、箒で水を撒き散らして見よう。どうしてそんなに早めに回復出来たか、これこそリンチェンドルジェ・リンポチェの慈悲力の顕わすのである。慈悲とは全宇宙の中に一番大きい力である、慈悲心があるため、リンチェンドルジェ・リンポチェは病気にかかってもあの苦しみの感覚は一般な者より大変軽かった。リンチェンドルジェ・リンポチェは皮膚癌にかかった時さえも痛みを感じなかった、風邪を引いてもそなた達のように熱があって、咳をして耐えられない程であらない。リンチェンドルジェ・リンポチェは大慈悲力を持つため、自殺した亡者さえも済度が出来た。

慈悲とはよい事をして、好い人になるのではなく、これは只人間の基本である。所謂「人道成、仏道成」とは、人の基本条件が出来たら、自然に成仏になれる。人の条件は即ち五戒、十善が出来るとの事で、これ等さえも出来なければ人に成る資格がない、さらに、仏を学んで生死を離脱することを言うわけはない。

あなた達は我執を取り除くことは出来ないので、「無縁大慈、同体大悲」まですることは出来ない。縁がなければ済度することが出来ない、無縁とは衆生が願えば慈心の力は現れて衆生に助けを与えて、衆生が離苦すれば、力がもう存在しない、まるでリンチェンドルジェ・リンポチェは大法会の中に法会の参加者皆に灑浄するのようで、即ち「無縁大慈」との現れである、そのゆえで、灑浄終了後、手部の痛めもすぐ消えてしまった。「無縁」とはここに縁がないとの事ではなく、縁起性空との道理である。

「同体大悲」とは即ち本当に衆生の苦痛を体得するのが出来るのである。そなた達は流浪犬を見るとある者はすぐ涙を出る、これは慈悲心ではなく、そなた自らの感覚と執着で、そなた達は流浪者を見れば涙は流さない;同様に,そなた達は自分の家族が重病にかかったと耐えなく悲惨と感じて、極めて苦しんだ、他人の肉親が病気になったのを見ればいささかも悲しく感じしなくて、自分と関係ないと思った。そなた達の家族が亡くなった時悲しく感じたが街の側で他人が葬儀を行うのを見るとかえって悲しくしない;自分の民族が死亡するのを見ると悲しくて、他の民族が死亡するのを見ると同じの悲痛が無かった、それは全てそなた達の分別心である。そなたは「我」の観念を取れた後、我執がないと慈悲心をはじめて修め得たことが出来た、無我相、無人相、無衆生相を修め得たまで、はじめて我と衆生と全部同じとの事が体得出来て、同体大悲である。リンチェンドルジェ・リンポチェは亡者のためポワ法を行う時こそ、「同体大悲」が出来たので、衆生の苦痛を感じられて、彼らを済度することをはじめて役に立った、「同体大悲」が出来ない行者は口が破ったまで読んでもやはり済度することが出来ない。

あなた達は「我は成仏が欲しい」と思えば、こんな考え方も間違って、それも我執で、それも魔の心である。何故成仏するだろう?それは衆生は苦しみがあった、衆生を利益するのため仏になった、衆生を離脱するのを助けるのである、自分が仏に成りたいのであらない、自分が修めていると思うのも「我」の観念があった、まだこんな考えさえがあればそれでは分別心である、まだ「我が修めている」考えがあれば、阿修羅道に堕ちた、それでは傲慢な心である。本当な修行者は自分が修めていると言わなくて、上師の教導と加持だと言う。そなた達は呪文を読む或は仏に辞儀するのは全部意識でよんで、意識で辞儀して、心を用いるのではない。そなた達は呪文を読んで仏に辞儀すれば良い事があると知ったのでこうしていて、これこそ意識の作用で、心より何も求めなく只衆生を利益するためのであらない。

そなた達は呪文を読んで、念仏して、仏に辞儀するのは全部助縁だけで、修行するのではなく、本当な修行であれば、自分の一切輪廻に落ちる行為を直すべきで、これは一、日間で出来ることのではなく、とても長い時間が必要で、自分で出来ると言うものでもあらない。それは、なぜ上師が必要で、修行する道の上で上師の監督と指導があれば間違い道を歩くはずが無かった。

今回10月3 日の大法会の中に、1名嘗てリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して道場より追放された女信者はリンチェンドルジェ・リンポチェの許可を貰えないのを分かるくせに、大法会の参加を申し込んだ、チャンスにつけてごまかして会場に入って隠した、その後労動奉仕達は彼女が入場したのを発見した。今日法会の中でリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に聞いた、なぜ入場券が無いのに入って来た、彼女は言い逃げてもう1人皈依した弟子が入場券をくれた、現場でリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を責めた、状況が分からない皈依したばかり弟子に責任を押し付けたのは他人を害して処罰されるのである。彼女を入場させないのに、彼女がいろんな方法を考えて入場したが思わなくてリンチェンドルジェ・リンポチェはその後、全て会場の外で待ち者を入場させた。彼女は道場が立ったル-ルを守らなかった、それこそリンチェンドルジェ・リンポチェの話を聞かないのである、あの頃、彼女の娘は天も地も求めて、はじめてリンチェンドルジェ・リンポチェの認めを得た、彼女がもう一度戻って、日曜日の共修法会に参加するのをさせたのに、彼女は相変わらず話を聞かず、ルールを守らずに、十何名の労動奉仕に会場で彼女を探させた、万一見つけなければこれ等の弟子が連累されて叱れる。現場リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を離れさせて、彼女に今日の法会に参加するのをさせなかった、また開示された、従順でなければ、また法会に参加しても役に立たない!彼女のこんな行為は「我」の観念があった、「我」は法会に参加したいのに、そなた達は「我」に参加させなくて不慈悲と思った、「我」は大法会に参加してはじめて十分な福報を得てから、娘こそ「我」にもっとお金をくれる。

そなた達に上師の話を聞かせる事は極めて難しくて、現代社会の先生は、学生に体罰を加えることができないし、跪を罰することが不可能で、随時に告訴される事が出来て、これは現代人が師を敬って道を重んじる観念が無いわけで、学校の先生の話が聞かないなら、上師の話が一層に聞かない。そなた達は仏を学ぶ事がただ聞いてみて罵られる事がない、然し、そなた達は何か間違いがあれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが絶対に罵る。リンチェンドルジェ・リンポチェが仏法を開示する事を聞いて戻ってから自分が修めて得て、或は法会に参加すると守りがあって、自分が成就がある事が思ってはいけない。若し真にそうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが第一人にて修めない事をいって、一日中はただ直貢チェツァン法王の加持により自分で、何故苦労的な閉関して修行していくのでしょうか?そなた達は上師が居ないで、所謂自修で十分と思っていけない。実は、自修とは他人に寄らなければいけない、自修という事がない、そなたは先生がいないで自分が分かっても、そなたが必ず他人に問い合わせた事があり、或は一部の参考書を読んだ事があり、そなたが問い合わせる相手、これらの書籍がそなたの先生である。

そなた達は皈依する時には、リンチェンドルジェ・リンポチェが上師の功徳を称揚する重要性が開示した事があり、何故上師の功徳を称揚する事が要るのでしょうか?上師はそなた達が称揚する事が要る事のではない、これは仏菩薩と上師がそなた達の実例である事で、そなた達が学習の相手で、そなた達が我執を断絶する事が極めて難しくで、だから上師の功徳を称揚する事のより、そなたに自ずから学ぶ心を生じて、自分が如何にする事を知っている。

心は「光明で、空霊で、相続をせずで、認知する事が出来ない、無依で、赤裸だ」のである。心は停止をしないで活動する事が出来ない。増加する事がないし減少する事もない、心は認知する事が出来ない、つまり、現在の科学にてこれの存在を探測することが出来ない。そなた達は現在、リンチェンドルジェ・リンポチェが説いた内容が聞き分からないと思っていて、実にはそなた達が知っているのである。そなた達の心は我執にて遮蔽されて、だから、そなた達が普段に心の存在を難しくて感じている。

心は光明である事で、ただ衆生の心の光明が業により遮蔽させて、空中に光を遮蔽させる暗雲と白雲のように、暗雲が悪業で、白雲が善業で、白雲も太陽の光を遮蔽させて、暗雲もさることながら、だから我々もこれを断絶してはいけない。心の「光明」が目で見えられない、一人が慈悲心を修めて得るならば、心の光明を現われて、他人の目をみえないが、この人の顔色がよりきらきらして、そなた達は慈悲を修める事がないので、顔色を見るとグレーという感じ、そなたの心が光明であれば、他人がそなたに見たら、そなたが総ての人がきらきらという感じで、このきらきらはが乳液或は保養品を塗装する事ではない、そなた達は多くの乳液を塗装しても、或は化粧しても、顔が依然としてグレーという感じである。そなた達は自分がもうすぐ寝ている時を体得してみて、そなたの身体と意識が総ての作用を停止し、如何なる考えがないの一瞬、或は、そなたがもうすぐ覚める時に、少し光の感じを感じていて、これは心の本質のである。何故多くの人々が不眠で、煙草を吸ったり、お酒を飲んだり、或は睡眠薬を飲んだりする事をすれば、寝る事が出来て始めて、これは多くの考えが興奮して過ぎて、これらの考えを心を充満して遮蔽して、心の本質を顕露させない。ある仏を学ぶ修行人は、ただ少しだけを定をして簡単に寝静まる事が出来て、これは我が考えに多すぎる考えがないわけである。

「空霊」の霊は霊験ではないし、或は何か事に対して感応があることではない。時には、そなた達が見えなくて聞かない事けれども、突然にある感じがあって自分が如何にする事を知っていて、そなた達はこの経験があり、実はこれはそなたの心の知覚が作用を生じて、心の本質を現われる。一部の人々は極めて真剣に勉強しても、ただ試験が同じように上手くない、そなた達がテストの運が悪いと言うが、実には心が得失心にて遮蔽させてしまう。そなた達は体得した可能性があり、このテスト内容を勉強した事がないし、急にある回答を得て、その上、これが一寸正解で、これは心の作用である。そなた達は無雲の青い空を見ている事がって、心がとても穏やかに何も考えがない、これも心の作用である。空が何故青いであり、他の色のではないでしょうか?実は、これが密法と関係があって、今日は予め説明しない。

「認知不可」とは心が人の常識で理解する事が出来ない、つまり、人生経験法により解釈する事が出来ないし、経験の範囲を超えて、説明する事が出来ない。「相続不断」とは、心がずっと存在していて、然し、目、耳、鼻、舌、身と意の影響を受けて、心に遮蔽させる。「明瞭」とは一切な因果現象に対して、総てはっきりして分かっている。「無依」とは心が何もよりがない、これは心が何も物に付けて存在する事ではない。

そなた達は障害を克服する事をよく話して、然し、障害を克服する事ではない。我々の一生には障害がある事が必然で、が、如何にこれらの障害を越える事が仏法の助けをよらなければいけない。リンチェンドルジェ・リンポチェは、出世法がよい修めるなら、世間法が必ず問題がない事とよく諭し、これは皆に如何に世間の障害を越える事を教えてあげる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは今回10月3日に行った「阿弥陀仏万人無遮大超度法会」のように、一人の媒体記者が参加するを要請しない、この事を完全に報道しない、有る官員が参加しても、然し全程で参加できないなら、断ってくれる。このような大法会を行う事が極めて善的な事で、若しリンチェンドルジェ・リンポチェは自分の名と利の為に法会に行うなら、これがある善業になって、同じように輪廻していく。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは今回の2万人の大法会に媒体を謝って、プレスリリースでも発行しない、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが仏法が縁を曰く事を信じていて、嘗て祖師ジッテン・サムゴンの時代には、何も宣伝がない場合に、18万の出家者がジッテン・サムゴンの門下に皈依する事が出来る。その上、ある市長は参加する予定であるが、半時間だけで参加することが出来て、全行程に参加する事が出来ないと言って、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは謝らなければいけない。普通の人であれば、必ず大歓迎で、これは政治人物が出席すれば、多くの記者を連れてきて、完全な無料的な宣伝である。然し、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェはこの2万人の大法会を行う事が全然衆生を利益する事為に、自分の名誉と利益ではない、リンチェンドルジェ・リンポチェは本来自分の名誉と利益になる福報が衆生を済度して輪廻を解脱する力が変わって、だから、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは把握があって、助けが要る衆生がその日に再度する事が出来る。

2万人の大済度法会を行う事は極めて大きな善事で、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは自分の名誉と利益を捨てて、全心で衆生を利益して、今回の大法会の善が善業に変わる事が出来ない、輪廻の力を変わらない、仏を学ぶ事を障碍しない、これらは細かい差別で、然し、影響が極めて大きいである。する事は善行になるなら、修法の過程に慈悲の力が作用がない、無量な衆生に済度利益する事が出来ない。ただそなたは慈悲心を修めてるなら、自ずから保護を得て、多くの事が遣り遂げて、求めないでも得る事が出来る。だから、一部の修行者は最も大きな障害が名誉と利益をする事である。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは何回目に全宇宙にもっとも大きな力が慈悲な力事と開示された。慈悲力を生じてから仏菩薩の大きな力を結ぶ事が出来て、衆生に助けられて、2万人が宣伝がない場合には法会に参列する事が出来て始めて、これら尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲力の現われのである。

現代の西洋医学は益々発達すれば、切られる人々が益々多くなっていて、仏法により地獄の中の刀剣地獄の同じ、刀剣地獄の中には、そなたが切られて斬られて、それから治してから再度切られて斬られて、絶えずに絶えずに切られる苦しみを重複して、極めて怖いである。現在の人々も三管で一緒にして、そなた達は百年の西洋医学を信じていて、何処か問題があったら何処に切られて、そなた達は、現在ある糖尿病患者が手術卓上に横になって西洋医学の医者さんから足を切られて、心臓だけで切られない、肺が問題があらば一つの肺を切られて、腎が問題があれば一つの腎を切られて、肝臓が問題があれば一部を切られて、一つを切られても構わないと思っていて、また残りの一つを対応できる。が、我々は一つの肺或は腎が要るならば、我々が生まれる時に一つだけて居て、二つが居る事がない。人体はそれぞれの器官の存在が必ずこの意義と作用が要って、有る器官が半分できられて、残りの器官の運作が正常する事可能でしょうか?在席の皆、学生時代には蛙を解剖した事があり、そなた達は麻酔して手術房に入る時には、蛙のように人々に切られる。そなた達はこの悪でも解決できないので仏を学んで仏になる事言うでしょうか?

菩薩は何も恐れない。そなた達は多くの事に怖れを起したのは、そなた達は傷付く事を恐がって慈悲心がないから。慈悲心を修める人は何処へも怖れを起さない。それは彼が学問がよく知識が博学で各種な状況を対応できる事ではない。彼は私の念がなくて、自分は傷付かれる事を恐がらないから、何も怖れがない。そなたは慈悲心を修めた後、自然に心の光の本性は現れる。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは数週間前に嘗てポワ法である亡者を済度した。あの亡者は呂祖に連れられた。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼の家族に聞くと、始めてこの亡者は幼い頃に嘗て呂祖の養子になったから、呂祖は彼を助けた。呂祖は嘗て道教で其の後も仏教に皈依した。しかし、修行果位は高い呂祖はまた彼を助けられない。それは修めた法門は違うから、呂祖は彼を連れて、尊きリンチェンドルジェ・リンポチェを頼んだ。

心はまだ開悟していない時、心は体の真ん中にいる。しかし、修行開悟した後、心は何処でもいる。例えばリンチェンドルジェ・リンポチェは今回日本にいたけど、台湾弟子の亡くなった父を助けて、ポワ法を修められた。此れは心は何処でもいるから、慈悲に衆生を利益する事でも何も出来る。仏を習うのは慈悲を修めないと、神経病まで修める。他人が悪業を犯した事を見て、批判した。しかし、自分を批判しなかった。他人を見ると、目障りなら慈悲を修めない。

今日開示されたことはまだ理論である。上師リンチェンドルジェ・リンポチェはまだ修める方法を開示していない。そなた達は聞き取れても行えない。若し、また自分の考えがあって、独り善がりに仏を習うと、二度と来ないで。リンチェンドルジェ・リンポチェは今日仏法の開示は此処までして、これ以上ならそなた達は昏迷になる。また非常に奥深い。実は仏法は深いや浅いの分別がない。全てはそなたの心は分別している。今日の法会は普通より一時間早く終わる。それはリンチェンドルジェ・リンポチェは昨日四時半から十時半まで信衆に会って、まだ多くの信衆に会えないから、今日引き続きに43名の信衆に会って、夜六時過ぎまでして非常に苦労である。

2010年10月23日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時30分から夜10時30分まで、153名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010年10月24日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な共修法会を主催して、仏法の特有な心の教法を開示して、しかも法会が円満に終了した後に、信衆に接見して、夜5時30分まで、26名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

法会前、ある女子の弟子はこう懺悔する。彼女は今年8月に自分が乳癌に罹ったのを発見して、しかもすでに末期ガンになって、発作すると寝ることができないほど痛くて、椅子に座らないと寝付くことができなくて、毎日いつも泣きながら寝る。しかしリンチェンドルジェ・リンポチェに加持された後、すぐ痛くなくなってしかも寝つくことができたようになった。この前に右手の平がとても凄く腫れていて、リンチェンドルジェ・リンポチェはこれが彼女の殺生した因果応報であるからを開示して、しかし10月3日阿弥陀仏大済度法会が終わった後、彼女の手がとても明らかにいくつかしわが現れて、水がゆっくり退いて、今までただほんの少しだけが残って、2匹の手の平もすでに平均している。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て、彼女が長年に皈依したが全然懺悔することと供養することが分からないと開示した。リンチェンドルジェ・リンポチェは初めて彼女を加持した時、彼女はまだ懺悔心と恭敬心を持っていないで、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女の供養を返された場合、彼女は、このように長年に皈依しても、リンチェンドルジェ・リンポチェは本当に恭しくなっていません心を切っておよび心を懺悔して、ただリンチェンドルジェ・リンポチェの福報を消耗するだけに、やっと深く懺悔した。リンチェンドルジェ・リンポチェは二回目加持した時、彼女に胸部の右側には何粒腫瘍が成長したか、左側にはまた何粒の腫瘍が成長したといことを告知して、医者より更に明らかに詳しく教えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは同時に彼女の手が腫れていて痛い原因が、腫瘍がとても大きすぎて、神経を圧迫してしまったからと開示して、リンチェンドルジェ・リンポチェは甚だしきに至っては腫瘍の大きさを表すことができるのである。

彼女は嘗て自分に傷つけられた衆生に発露懺悔して、彼女は人工流産をしたことがあって、ニワトリ、アヒル、魚、蛙、ドジョウ、タニシ、エビ、カニ、蛇、カタツムリ、毛虫、ミミズ、ハマグリ、野菜の虫、トンボ、バッタ、蚊、セミ、おかいこ、アリ、ハエ、ミツバチ、ノミ、ネズミ、チョウ、クモ、コオロギ、カマキリ、小鳥、あさり、コガネムシ、ムカデ、川のエビ、川の魚、オタマジャクシ、ヒキガエル、シラミと名前知らない昆虫などを殺したことがあって、川の辺で肉を焼きながら石を動いて竜を傷つけて、彼女はそんなに多くの衆生を傷つけて、今日この病気は彼女の当然受けるべきな因果応報であり、皆さんが彼女のこのような因果応報を見ることで、彼女を鏡にすることができて、更に繰り返しこのような誤りを犯さないでくださいと望んでいる。

彼女は美徳と能力が何も無いが、こんなに良い上師が彼女を助けてくれることにあうができて、西洋医学は既に彼女が手術を受けることができないと言われたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を救ったのである。もともと背中痛と腰痛のため立つことさえもできなくて、体は腰部から2段に分けるようで、上半身と下半身は分離していて、今立っていて、列を並んで道場に入ることができるようになって、すべてはリンチェンドルジェ・リンポチェの加持のためである。尊き金剛上師と諸仏菩薩に恩に感じて、彼女にこんなに大きな助けを得ることができて、彼女は自分がこんなにたくさん間違っている事をしたのに何も懺悔心がないことを懺悔した。発病し始まったところ、ひざまずいて大礼拝をただ一回しかできなくて、手が痛くて、もうすぐ裂けて、立ち上がって喘いで呼吸することが出来ないような状況から、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持されたことによって、25回大礼拝をすることができて、今まで一気に150回大礼拝することができるようになった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のため、彼女に大礼拝をして懺悔をする機会があるようにさせたのである。

彼女の両親もリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受けたが、彼女は恭敬心、懺悔心と恩に感じる心がなくて、そして上師のことを賛揚しなくて分かち合わなくて、彼女は自分がとても悪くて悪な弟子だと思って、みんなが彼女のようにならないでくださいと望む。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を加持する時に、特に次のように開示した。命を残すのは彼女に幸せに暮らして使わせるのではなくて、彼女に仏を学ぶことができる機会があって。懺悔することが出来て、大礼拝を行い終わることができるようにさせる。金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にこのような機会を賜ることに感謝する。

そして、姉妹三人は、母、と子供二人をつれて一家族6人で、次の如く分かち合った。彼女達の父は99年9月19日の日曜日に尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得ることができたのはすべて、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの大慈悲の加持に頼った。彼女達の父は今年80歳で、彼は長期に慢性病に罹っているため、肺がよくなくて、だから父は長期に肺病の薬を飲んで40年も続いて、この期間に月に一回病院へ再診しに行かなければならなくて、その上、後期になって甚だしきに至っては週に一回再診しなければならない。98年、99年に至って、いつも病気のため病院に送られて急診を貰って、毎回ただ発病する時はとても危篤になるようであるが、しかし、すぐ父は普通の時より更に健康になって、だから何度も親不孝な私は父が自分をとても大切に可愛がっていると思ってちょっと大袈裟に誇張した。父は仏法に対してあまり尊敬しない。尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て次のよう、もし自分が努力すれば、真面目にすれば、ちゃんと教えることに従って遂行すれば、家族はこのように殊勝な得難い仏法を阻止する理由がないだろう、と開示したことがある。

彼女達の全家族は99年9月18日の土曜日に尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに彼女達の父が更に医療と病気の苦難を受けさせないように助けることをお願いして、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェが2回も繰り返して彼女達の母に、あなたは放下することができますかと聞いて、母さんは頷いてできと言った。尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは再度、放下して、それでは私は呪文を唱えるよと言った。暫く加持した後、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは、あなたの父の肺の上半部分の全ての微細血管は完全に機能がなくなって、当然に酸素を吸い込むことができないと言った。医者さえ明らかに原因を説明しなくて、医者はずっとただ父に、大事にしてください、気をつけてください、と警告している。なぜかと言うと、父の肺の機能がただ30%の機能しか残らないから。

彼女達は尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに、父にポワ法を修めてあげることを祈って、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは先ずはあなた達に承諾したが、しかし実は因縁次第ですと開示した。あとで、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェはあの姉妹三人が、すぐ父に代わって108回大礼拝をするように要した。加持した後に、その夜、全家族は病院に戻って彼女達の父を見舞いにきて、父が晩ご飯を食べることを見て、父はとても落ち着いていて、ずっと「直った。もう大丈夫。あなた達は帰って。」と言った。当晩、彼女達の父がなかなか寝つくことができなくて、よく寝返りを打っている。彼に「あなたは気分が悪いか。」と聞いて、父は「分からない」と答えた。もうすぐ朝までこのように続けて、彼女達の父は一晩中寝返りを打っていて調子が悪くなるかもしれないので、疲れて寝てしまった。翌日の日曜日の朝8時33分に、彼女達の父はいかなる苦痛と辛抱がないまま、ただ医療機器に、心拍数が速く80、70、60、50、と下がってゼロまでなくなってしまった。尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは父に最も良い手配をして助けたことに恩に感じる。

彼女達の父は最後に酸素ボンベに頼って生きている人で、食事をすることさえも酸素を一口吸ってご飯を1口食べる人であるから、いかなる苦痛と辛抱がないままに往生した可能性がないであろうか。そして病棟の医者は「私は応急手当をやる前にもう往生しましたか。」と言った。主治医師も非常に不思議だと感じて、ずっと「平静に往生したのが良い。平静に往生したのが良い」と称賛した。この時、母はすぐ医者に「私達はリンチェンドルジェ・リンポチェが法を修めて助けてくれることを願ったことがある」と言った。主治医師は「それならよかった。それならよかった。」と答えた。しかし、父は恐れて最後の一口の空気を吸い込みたいから、父が口を非常に大きく開けた。父の往生した後、彼女達は父のため六字大明呪を唱え始まって2時間を経ってから、父の口は驚き恐れたままからほほえみになった。彼女達は独りよがりでこれがポワ法を得た瑞相だと思っている。先に父の梵穴に触って、わーい、熱いです。結果は尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは、あれが父さんの神識がまだ梵穴の中に残していて、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェの済度を待っているから。当日の正午12時に兄弟子の電話を受け取って彼女達に、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェがこれから法を修め始めることに知らせた。12時10分ごろ、兄弟子はまた彼女達に、尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェは既に法を修め終わったことを通知した。彼女達は急いで父の梵穴に触って、あたたかくて、手と足は冷たくなったが揺れ動くことができますが、顔の表情が赤くてつやつやしていて、往生したばかりの時のそのように青白いのと違う。10月4日の火葬する日に、父の頭蓋骨が一つつまようじのように大きさの円い穴を見て、とても平らで滑らかで、整然として、丸い穴の角度は斜角の45度でまっすぐな線で、その他の骨は殆どが雪の白色で、ある部分が緑色で、ほんの少しのがオレンジの色と紫色とピンク色が現れる。弟子とする私達は実は内心がとても明らかである。彼女達は何徳何能(美徳と能力が何もないこと)であるが、どうしてこの稀有で得難く殊勝なポワ法を得ることができるのか。これはすべて尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を大慈し大悲憫する心で、すべての衆生を済度と教化しに来たのである。

彼女達は親不孝に再度懺悔する。皈依してから7年8ヶ月も経ったが、金があっても供養を惜しんで、ある者はただ皈依している時間がとても長いのに、とても不精であまり仏をよく学んでいない。しかし尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェが弟子達に賜るのは、天より大きく、山より更に高くて、海より更に深くて、言葉で表現することができないのである。父の往生したことは彼女達の全家族にほんの少しの悲痛も齎さないで、ただ憶念と祝福ばかりである。彼女達が本当に知っているのは、如実に教えることに従って遂行して、真剣に仏を学んで、おとなしく言うことを聞いて、不精にならないで、すべてを尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに任せて、すべての事はいずれも完善な結果が出来る。最後に非常に尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に感じる。というのは、私達に仏を学ぶことができるようにさせて、私達に日曜日ごとにこの殊勝で得難い仏法を聞かせて、私達の身内より更に親しい金剛兄弟子にこの期間に私達に助けを与えるようにさせたから。尊き金剛上師 リンチェンドルジェ・リンポチェに恩に感じる。

法会は始まって、リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に昇って仏法を説かれて、次の如くに開示された。今日の法会は引き続きに「心」を開示した。他の宗教は全て主に自分を与えるとを求める。しかし、仏教はそなた達を教えて、上師の教導を通して、仏陀の教法を習う。更にそなた達に自分でも成仏まで修められる。そなた達はガムポパ大師の「心」の教法を口訣としてしっかりに覚える。今はまだ理解や体験できなくても構わないが、何時かそなたは分かると信じる。此処に言った心は心臓ではなくて、恋愛をする心ではなくて、心に想うままに事が成るわけではない。仏教の中に特殊な修行である。

皈依した後リンチェンドルジェ・リンポチェを頼んで、ポワ法を修められればいい、自分は修めなくても構わないとは思わない。リンチェンドルジェ・リンポチェはいつか離れるから、リンチェンドルジェ・リンポチェが成仏してから再びそなたを救えない限り待っている。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの願力は「衆生は成仏しないと、私は成仏しない」が、衆生は全て成仏すると、極めて長い時間なので、そなた達は待たない。願力とはそなたは能力があって、できる時に行う事を承諾するのは願力である。そなた達は勝手に発願しないで、若し仏菩薩を真似して、発願しても出来ないなら、不渡り小切手を出した。だから、阿弥陀経の中に最後衆生に伝えて、浄土へ往生する事を発願する。それはそなた達は必ず行えた事だ。そなたは誠に懺悔心を発して、五戒十善を行って、慈悲心及び菩提心を培養すれば、必ず浄土へ往生できる。仏菩薩の果位を修めないと、再び転生して衆生を救済する事を発願しない。リンチェンドルジェ・リンポチェは謙虚に自分がまだ菩薩のように行わないと言った。しかし、せめて既に菩薩の願を習って、行い始めたから。菩薩とは全て衆生を助けて、自分のためを考えてない。だから慈悲の力がある。リンチェンドルジェ・リンポチェはある癌に罹った弟子を助けて、ほれ上がった腕にほれを取られた。つまり能力があって衆生を助けられる。そなた達は出来るだろう。

先程始めて懺悔した弟子はいくら話っても自分は浄土へ往生という発願を話しなかった。これから見ると、彼女はまだもっと長く生きたい考えがあって、まだ自分の弟と妹を世話させたくて、彼達はよくなると望んだ。しかし、若し彼達は本当によくなると、彼女も離れたくない。そなた達はそうだった。若し親族が悪い状況を見ると、自分は全ての苦しみを解脱したいと思ったが、若し親族は全ていいなら、放せない。仏を学ぶのは生死を解脱する事を発願しないと、如何なる修めても無駄である。

500元を寄付すると、自分が善い事を思わない。隣の近所は募金に来れば、そなたは恥ずかしいから、数百元や一千元を寄付した。此れは全て仏を学ぶ事に関わらない。仏を習う難しさは話を聞かない。仏を学ぶ事もとても簡単で話を聞けばいい。皈依とは具徳な上師に従って仏を習う事である。同時に頼りがある。具徳な上師とは功徳があって、福徳ではない。仏法は他の宗教と比べて極めて違いのは功徳を修める。しかし、現在台湾人は仏を習うのは殆ど人天福徳を修めた。そなた達は今日行った事は全て唯僅かな福報を貯めるだけだ。この僅かな福報は此の世に使えなく、そなた達を助けて累世の業を転じられなく、そなたが障碍に遭った時に助けられない。功徳しか業を転じられない。業は全て悪いとは言えないが、業は善業と悪業を分けた。全て我々に輪廻を継続にさせる動力は業と言われた。具徳な上師に皈依して、障碍に遭った時に上師は自分の功徳で妨げる。若し浄土へ往生する事を発願せず、唯平安や健康を求めれば、そなたを頼んで二度と来ないで、上師の体力と功徳を浪費しない。

仏を拝んで仏を唱えたから無事だと思わない。そなた達も宜蘭の寺は今回の風災に襲われて、倒れた。中にいる出家者は全て亡くなった。更に此れは凄く歴史がある寺で新しいではない。理論的には仏像がある所はこの事に遭った事がないはずだった。何故起こっただろう。仏は霊験しないだろう。仏は霊験しないから、中に居る出家者の心は霊験しなくて、仏法に従って修めなかったから。そなた達は皈依したから自分が何もしなくても全てはよく転じると思わない。先法会前に発露懺悔した女弟子のように自分が皈依すればいい、何も起こらないと思って、しっかりに仏を習わない。若し皈依して全ての事を解決できるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に直貢チェツァン法王に皈依したから、修める必要がない。苦労に閉関修行も要らない。実は皈依は唯そなた達に権利を与えて仏法を習えて、上師及び仏法に頼られる。行なうのはそなた達自身だったから、そなた達は自分が修めれば、業を転じられる。

何故今回の台風は東部でこんなに大きい災害を起したか?仏経に載せてあり:山には山神、地には地母、樹には樹神、水には水神がいる。我らがこの土地の上に安らかに暮らし、楽しく仕事に励むことが出来たのは、全て地母が鎮圧して保護しているのである。しかし、近年人類が絶えずに殺生、伐採と環境を破壊することは、山神を怒らせた、それで天災が終始起こられている。そなた達がバーベキューする味と煙は、山に住んでいる山神と竜に病気にならせる、そのゆえ彼らに腹を立たせた。特に台湾の人は、何時からは知らず、中秋節になると焼き肉する。実はバーベキューは環境の破壊に対してとても酷かった、全て排出したイクゾ-ストは地球に対して大変悪い影響をしている、台湾は全世界で温度上がるのが一番速い地域である、終日焼き肉した後のイクゾ-ストが空気を汚染したから。

現在ひいてある者は中秋節外の日さえもバーベキューする、そなた達は焼肉しながら、歌ったり踊って、皆が寄り合ったのは団欒、天倫之楽と思った、実はバーベキューも極めて退屈なことである。また、ある者は子供が栄養のため沢山肉を食べた方が良いと思った、焼肉用の肉は全部一番下品と知らなかった。 最近ある女弟子が交通事故で転んで負傷した、この弟子がリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れに来た、自分がどこか間違ったかまだ知らなくて不注意で引き起こしたと思った、自分が皈依した後まだ肉料理を作って他人に食べさせたのは破戒したと知らなかった、それで事故が発生した、まだ懺悔するのを知らない。

そなた達は全部因果を信じない、そなた達に仏を信じるかどうかを聞くと、そなた達は全部信じると答えた、そなたが因果を信じるかどうかを聞いたら、そなた達も信じると言ったが終日殺生しているばかり、現在者はまた遊びながら食べているのが好きである!今回の風災の中に、どうして蘇花公路が崩れたか?これは皆が旅行するとすべてまず蘇澳へ海の珍味を食べてからまた花蓮へ行くのである。こんな行為は山神を怒らせた、なぜ1本道を開けてかえってそなた達にこの道を利用して衆生を殺害させたか?だから公路が崩れようとした。

そなた達は若いとは生活を楽しめ欲しいと思わない、今自分を放任して福報を使い終ってしまったら、以後苦労をなめようとする。そなた達は一日中にぶらぶらしているのが好き、リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、買い物してもぶらぶらしてあちこちを見ない、買う必要があれば買いに行って、買って終わると帰る。ある女はショッピングすることがすき、これこそ欲望が重いのである、必ず買い物するとは限られないが、見て、手で触るのが好き、これ即ち、自分の貪欲を放任するのである。ある者は大学時代から買いたい物があったがずっと我慢して今買っても過ちとも言えないが、これも全て欲望である。リンチェンドルジェ・リンポチェは若い頃まだ仏を学ばなくてもこんなに時間を無駄にしない、全部の時間は考えにかかった、どのように人生の経験と学問を蓄積して今後生活上の必要とした。

昨日ある信者はリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れて来た、彼はいつも病因を見つけないと言った、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に素食をさせが結局彼は目玉が二回をまわしてから立ち上がって頭を回って行ってしまった;また1人皈依した弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェより何度も助けを貰った後、今更家庭の要素で学仏することが出来ないと言った;もう1人女弟子は本来足が間もなく切れるが,今直ったのに、また家庭の要素でもう来られなくなったと言った、この女弟子は結婚もせずに、彼氏もいないのに、なんの家庭要素だろう?彼女達は全く上師及び仏菩薩を利用して、少しも決心して仏を学ぶことはしない。それで仏経に述べてあり、衆生を済度するのは難しい!

仏を一時期学んだ後、順調になったのは全て上師がそなたに一重な保護ネットを与えて、そなたの累世の業障に暫くそなたの借金を請求させなくて、そなたに時間を有らせて、良く仏を学んで将来返す能力があって、これ等は全部上師がそなたのため妨げている。多勢者は一時法会に参加した後、沢山ことが全部順調になった、自分が修め得たと思って、自らで修めれば結構だろう。実はそうではなく、例え仏菩薩と仏光が時時我らを庇蔭しなければ、われらは日を暮らすことが出来なくなった。今回風災の中に往生した者は即ち非時で死亡したのである。誰でも所謂時沖、日沖、月沖、年沖がある。宇宙の天体の変動は地殻の変動を影響して、気候の変化、天災を引き起させた。ある者は仏を学んだ後寿命が長くになったみたい、それは学仏することでそなたを延寿させたのではなく、そなたは元来こんなに長い寿命があった、仏を学んでもう悪業を作らなくて従来あった寿命が表れたのである。そなたが一口肉を食べて、衆生を殺害さえすればそなたの寿命はいつも減少している。学仏することはそなたにお金を有らせるかどうかのではなく、これはすべてそなたの過去の福報で、学仏することとは関係ない。

今回の10月3日の阿弥陀仏大超度法会には、有る信衆は韓国ウォンと知らない通貨の小銭を供養箱を入れて、皆はリンチェンドルジェ・リンポチェが大法会の供養金を全数を寄付することをはっきり知っているし、そうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェが如何に両替しているのであろうか?これは供養する心がなくて、自分が使わない物がリンチェンドルジェ・リンポチェに随意にあげた。嘗て、一部の人々はお酒の割引券とカラオケの割引券をリンチェンドルジェ・リンポチェに供養してあげて、一部の人も発票(領収書)を供養してあげて、リンチェンドルジェ・リンポチェが基金会なので発票によりお金を稼ぐ事が出来る事と思っていて、基金会は多くの人々を雇用して発票を確認して、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの人員が居なくて、その上63歳の高齢が如何に発票を確認する事が対応できるであろうか?真に供養は自分が最も大切な物にてあげる。

昨日、ある男の弟子は父が往生したので、始めてリンチェンドルジェ・リンポチェに供養して、リンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修めて彼の父親に済度してもらうように頼んだ。ポワ法はそなた達は求めれば得る事ではない、死者が必ず大福報があれば得て始める。チベットの伝統により、若し家族には誰かが去るようにならば、家族が家の中に最も良い事を供養してあげて、仏寺からあるリンポチェに迎えて家にに暫く住んでいて、そうすれば、毎日にこのリンポチェに供養する機会があって、その上、リンポチェも毎日に臨終者にとって修法をしてあげた。人が去ってから、リンポチェがポワ法を修めて完了してから、家族が再度最も良いものを供養して、リンポチェに仏寺に送ってくれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは既にそなた達は多くの事を節約して、そなた達がこのように迎える事が要らないし、これはリンチェンドルジェ・リンポチェが死者の側に修法する事が要らないのであり、リンチェンドルジェ・リンポチェはインドに居て、死者の遺体が台湾に居ても、ポワ法を修めて完了してから同じように死者の頭のてっぺんにある穴を打つ事が出来た。この弟子は済度を求めて来た時には、リンチェンドルジェ・リンポチェに彼の父が中国に居て、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼の父の神識が中国の実家に戻った事を知っていて、然し、この弟子は普通に供養を惜しんで、父親に去る事に至って供養をする事を思えだして、死者にポワ法の福報を累積する事を間に合わなかった。

そなた達は総て同じように、両親が往生してから、何かが物を供養として持ってくる事を思っている。そなた達は素直に従わないなら、上師の加持が断った。然し、素直に従わない弟子に出会っても、リンチェンドルジェ・リンポチェが父のように自分子供を慈しんで、仕方を考えて尽くして、弟子達に機会を作ってあげて因縁福報を累積してあげた。先、分かち合ったばかりの弟子のように、彼女達は供養したくない、福報がないなら彼女の父にポワ法を修められない、彼女達の父に福報を累積してポワ法を得させる為に、彼女達に道場で大礼拝をさせた。

世間には「不意の出来事」がない、そなたの身に総ての発生した事が自分が作ってきたのである。何故皆は同じな車で共同で死んで、必ず過去世或はこの世に共同で良くない悪業をした事があり、だから、皆がこの共の悪業に居た。若しそなた達は過去に悪をした事がない、他人が悪をする時には心の中に賛嘆の心を生じないなら、そなたは必ずこの悪業に入られる事が出来ない。だから、仏は我々に随喜を教えて、随喜とは他人がおひねりが幾らを供養するかを問い合わせてから随喜にて回答する事ではない、これは随意で随喜ではない。他人が良い事をしたら、我々の心に賛嘆の心を生じるなら随喜のである。仏経にはある「三十三天」を仰った事があり、それは天が三十三階を分ける事ではない、その時には有る人を創始して、他の三十二人を探して一緒に仏寺と舎利塔を築いて、この三十三人がその故にこの共の善業に居て、だから、その後に一緒に天道に往生して行って、三十三天と呼ばれている。随喜の功徳が極めて大きくて、随悪の結果も極めて厳重である。この中に参与して一緒にする事含める事と思ってはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの前、ある弟子の父に済度してくれて、彼女の父の身の後にある豚が居て、然し、彼女の父が豚を殺した事がない、原因は彼が側に立て他人が豚を殺す事を見ながら、拍手して喝采して、これは随悪で、殺業の悪報がある。

先、発露懺悔して、乳の癌に罹った女の弟子は真に懺悔する事ではない、彼女はただとても幸いで、自分がガンに罹ったが、大能力の上師リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依したので、リンチェンドルジェ・リンポチェの加持により自分の苦しみを消却した。彼女の殺生の悪業がこんなに重いにより、十八層地獄に百回に落ち込んでも誤らない、懺悔をする事をまた分からないのでしょうか?仏菩薩、上師は彼女に時間をくれて、長短にも拘らず、彼女に人生を楽しませる事ではないし、彼女に時間をくれて、仏を学ばせて、仏に礼拝して、機会があって福報を累積して、ポワ法を得て初めて浄土に往生していける。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェの加持を受けた後に、何故痛まないか?何故手の腫脹は消却する事になるのでしょうか?これはリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女業障を除いて、彼女の体の中にいる癌細胞にしばらく彼女に仏を学ぶ事を障害しないで、然し、それから彼女が自分がしていかなければ行かない。

阿弥陀経にはこの五濁悪世の中に、世間は阿弥陀仏の法門は生死を解脱できる事を難しく信じない。そなた達は経を唱えて、仏を拝んで唱えれば済度できると思わない。またある者は亡者に助念すれば、亡者を助けて、浄土へ行けると思わない。そなた達は今行った全ては唯福報を累積する。功徳があれば浄土へ往生できる。例えば、そなた達はある所へ行きたいなら、切符を買うお金が必要だ。若し誰に頼みたいなら、この人は切符を買うお金があるかどうか。助念は唯亡者に阿弥陀仏の方向を伝えるから、彼を行かせない。しかし、金剛乗の修行者はポワ法を修める事を通して、亡者を助けて切符を買って搭乗させて、自ら阿弥陀仏浄土へ連れる。ポワ法で済度する修行者は因果を信じるから。若し因果を信じないと出来ない。

大蔵経、大般若経には釈迦牟尼仏は12年をかかって空性を説明されたとある。釈迦牟尼仏は亡くなった後、世間の人は有部と空部のために争って、龍樹菩薩は寶積経によって、中観論を書かれたまで。中観とは真ん中に立って、両側、前後、上下などを見ないとは言えない。「中」とは偏頗せず、執着しない心である。観は般若、知恵で宇宙に全ての現象を見る。凡夫の目或いは意識、経験法則で物事を見るではない。中観は心の相があるが、体性は空性だ。我々は空性で宇宙万象を観する。何故仏は衆生の過去、現在、未来千万世の事を分かるだろう。それは知恵を開く事に至るまで修めたから、宇宙の森羅万象をはっきりに分かった。若し論議の方式で論議すれば、論議ほど混乱して、尚更に心の体性を理解できない。

釈迦牟尼仏は大蔵経、寶積経に心に関わる内容を多く説いた。ガムポパ大師は心の体性次の言葉で濃縮した。「心は非有であり、非無であり。非常であり、非断ちである。二辺を離れる中道である。」

有りというのは有りを執着する事である。しかし、何も要らないとは言えない。そうすれば、それは執空、頑空である。今までは唯言語文字を聞いただけ、まだ本当に修行を体験しない。全て宇宙の中に人類は唯一で聴覚を頼って情報を受けたり、言語でコミュニケーションしたりする生物である。だから、言語で仏法を伝える必要がある。しかし、必ず言語を使うとは限らない。六道の中に有情な衆生でも無情な衆生でも更に石でも皆仏性を具える。其の中の道理はいくら話しても、人の水を飲んで冷暖自知するが如し。実は心の力はとても大きいである。例えば、尊き直貢チェツァン法王とリンチェンドルジェ・リンポチェは師弟の心は緊密である。ある時リンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王を思ったばかりに直貢チェツァン法王は電話を掛けて、「私を捜しますか」と言った。直貢チェツァン法王はリンチェンドルジェ・リンポチェを思った時もリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王に電話を掛けた。

世の中に全ての事は縁によって生じ、縁が滅して終わる、永遠ではなくて、止まらないに変動している。心は因縁法によって起さない以外、宇宙の全ては因縁合和であり、全ての法は有為法で自性有ではない。そなた達は現在何故心の存在を感じられないだろう。それは貪瞋痴に蔽われたから、仏法を習って心を開発しなければならない。心の体性は恒常ではなくて、中断できなくて、色や形もない。金剛経には音で我を求めて、色相で我を見れば全て邪見邪說である。若しある者は自分が家で坐禅すると、自分の心を見えると言えば、此れは可笑しい。実は所謂特殊な体質があり、菩薩或いは鬼を見えることはない。台湾と香港の例を挙げると、居住地と飲食は異なるから、住民の体質は自然に違う。北部と南部も違う。

科学では心という物を話さない。それは見えなくて、機械も測らない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の分かれるのは神通を使わなくて、知恵を開発したから。知恵で見て、見性の力で衆生を助ける。癌の患者に痛みを感じさせないのは明心の力で衆生を助ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て英語の記事を見た。人の体の元素例えば鉄、カルシウム、亜鉛など元素を分解してから、其の重量を測ると、実はかなり軽い。この「我」は最も重要だと思わない。仏は不断に我々を教えて、「我」の存在がない。そなた達は思った「我」は唯因果の業報身であり、そなたに遭った全て事は業力の顕現である。業報は全て報うと、そなたは此の世から離れる。何故人体に鉄、カルシウム、亜鉛など各種な元素があるだろう。科学でも証明したが、全ての人は取り組み元素は全て同じである。此れも仏経に説かれたのは仏と衆生の本質は全て同じで平等である。だから、仏経に「同体大悲」とある。

仏は3000年前に顕微鏡など科学器具がない時代、寶積経に既に人の腸に数億万の細菌がある事を説かれた。目と眉の中に、首の中に全ては虫があっる。古代には細菌という名詞がないのに、何故仏は分かっただろう。此れは仏は知恵で観したから。また、現在科学もこの所に皮膚の毛嚢の中に寄生虫があると証明した。どのように清潔しても相変わらずきれいに清潔できない。そなた達は多くの水や石鹸で洗浄しても尚更に多くの寄生虫が生じる。一方若し細菌の助けがないと、食物を消化や分解できなくて、胃腸に吸収されない。リンチェンドルジェ・リンポチェは開示されたが、釈迦牟尼仏は何故このような事を話しただろう。必ず無意義ではない。仏が説かれた事は全て我々に助けがあって、意義が事を話さないから。私の自身は仏を習って仏を拝んだ事を思わない。数えられない細菌は我々と一緒に生きている。衆生を助けるために、先にそなたは身の上の細菌を助ける。細菌は科学で完全な生命体を認めないけど、仏法から見ると、有情衆でも無情衆でも全ては仏性があって、我々は彼を済度して利益しなければならない。これから見ると、この体は自分の物ではないだろう。こんなに多くの衆生は我々の体にあるから、若し我々は輪廻を解脱して済度を得れば、この衆生も一緒に済度される。我々は仏法を習う事を通して、先に彼達を利益しなければならない。仏を習うのはそなた達を助けて性格を変えて、そなた達に落ち着かせる事ではない。そなた達は性格を変える或いは落ち着くのは心理の医者を頼めばいい、仏を習う必要がない。仏を学ぶのは自分を改めて、一切の衆生を利益する事を決意する。仏法は最先端の科技であり、科学より科学である。

それに、そなた達は用事があった時心理士を見に行く、こうすれば自分にとって本当に役に立つと思うか?た,1人醫師を数年担任した弟子は言った、実は心理士が役に立つかどうかとても不確定である、しかし、非常に確定するのは  人がいかに打算しても天には勝てなくて,天よりリンチェンドルジェ・リンポチェの方は勝である。お金を使って心理士を見に行くのより、このお金を1人具徳上師リンチェンドルジェ・リンポチェに供養した方が良いである。

ある女信者は法会の中に膝を抱き込んで、リンチェンドルジェ・リンポチェは現場で彼女を指摘した、それに開示された、普通リンチェンドルジェ・リンポチェにこの挙動を指摘された者は、以後もう法会に来なくなる。彼女は只講演を聞きに来て自分と関係ないと思って、三宝に恭しい心はなかった、リンチェンドルジェ・リンポチェが高齢で始めから全て胡坐をかけた姿勢で皆に無料で法を申された、彼女はこの点によって多少尊重するべきである。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に正座するとお金が貰えると言えば、信じてくれ、彼女は是非膝を抱き込むのをしない。例え、本当に集中すれば、足のだるくなったことに注意されて動きたいはずはなかった。

リンチェンドルジェ・リンポチェは大法会の中に半時間以上甘露水を撒き散らした、リンチェンドルジェ・リンポチェは脊椎大側湾で、また右肩の関節に軟骨がないとの身体情況によって出来るわけがない、そなた達はお代わりにして5分程撒き散らしたら、手が挙げなくなってしまったべき。なぜリンチェンドルジェ・リンポチェが出来たか?それは集中である。リンチェンドルジェ・リンポチェは衆生の需求に集中して、全く自分のことを思わなかった、それで法会が終った1時間後、箸を持って料理をはさむことが出来た。寶吉祥漢方醫学診療所の医者弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに多くとも1分間位マッサジーしてくれた、一般的な人であれば、少なくとも3か5日間で手が全て力がなくて、また炎症を起こして一週間で動けなくなったかもしれない。リンチェンドルジェ・リンポチェはあんなに早く直したのは集中と慈悲の力のためである。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは2009年に既に予言した、2010年には非常にひどい水害があり、雨が降るのは水を注ぐようにして、皆に今年は水を離れるのを注意された。なぜ、リンチェンドルジェ・リンポチェのようなこんな大修行者は事前に見たがそなた達は見えなかったか?これはリンチェンドルジェ・リンポチェが因果を深く信じて、そなた達は信じないのである。大勢者は毎日悪行をしてまだ懺悔するのを知らない、それは彼がこれ等は法律規範の悪ではなくて自分が間違いないと思った、しかし、彼らは判らない、法律は只その所の必要に合致して、地域性の制限がある規範である;因果のように全宇宙に適用するのではない。また、自分が分からずに過ちを犯してたので懺悔する必要がないと弁解する者がいたかもしれない、しかし、なぜリンチェンドルジェ・リンポチェ前も聞いたことがないのに、こんな過ちを犯さないか。

今回風災の中に、被害された台湾籍の旅客は救援人員が先大陸旅客を救ったことに対して十分不満と感じた。先ず、仏法を言わず、儒家思想にも自分の利益を度外視して人を助けると説いた。自分が既に救われたのに、まだ嬉しくないなんでこんな考え方はとても良くない。リンチェンドルジェ・リンポチェは相手が大陸人のため偏頗するのではなく、この点より台湾人がますます利己的に変わったのを分かった。なぜこのようになったか?これは多勢の政客がたびたび両岸の差異を唱導して、沢山民衆に従来身に付いた慈悲心を失わせた。これよると、そなた達は話をする時非常に気をつかなければならない、そなたは自分の話が他人にどんな影響されたか分からないのである。

リンチェンドルジェ・リンポチェは如何なる政党かに代言して支持する事をしない、ただ世事の発展の因果を見て、甘い話を言う人は信頼できない人である。若し真に大衆の為に働いて、社会に利益する人とは、どんな政党にしても我々が支持を与えるはずである。若し毎日に批評して、社会に利益がない人であれば、どんな政党にしても、我々は彼を選んではいけない。

ガムポパ大師は、心の体性が互いに続けて断らない、破れても壊れる事が出来ない、修正が出来て変わる事が出来ない、阻む事が出来て止まる事が出来ない、と開示された。今日、リンチェンドルジェ・リンポチェは心の体性を開示されて、そなた達にとって極めて深いかもしれない、その上難しいかもしれない、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示しなければならない。そなた達は真に修行してから開悟できるまで、このいくつの話は最も重要な時に作用を発揮していて、そなた達の心の作用を体得させられる。仏法は何故「分かる」といわないで「悟る」と説くのでしょうか?リンチェンドルジェ・リンポチェは閉関した時には、椅子を蹴ってから「縁起性空」を悟られて、昔から行者が茶碗を打ち破って、水滴を落下する音を聞くと明心見性して、大迦葉尊者も仏が花を捻じってからその場に開悟して、言語が修行の境界を描写する事が出来ない、ただ自身が体得してから分かってはっきりする事が出来て初める。表面的な簡単と思いきや、見性できる前に、長い時間にて修行して遣り遂げて始める。仏を学ぶのは一日、二日ではないし、十年、二十年の事ではないし、長い時間により薫陶して学ぶ事が要る。

何故リンチェンドルジェ・リンポチェはこの世の修行がちょっと成就できるか?これはリンチェンドルジェ・リンポチェは完全な三恩根本上師直貢チェツァン法王の教導を素直に従って、自分の考えがない、これは仏法が無為で、しかし、そなたたちの考えはすべてわざとする事で、有為で、もし、仏を学ぶ時には自分の方式にて修めるならば、いかに修めても修めて得る事が出来ない。だから、仏を学ぶ事は必ず徳を具える上師に寄らなければいけない。

直貢チェツァン法王の身元の二人のカンポスがいて、かつて直貢チェツァン法王は仕事を調整した時には、この調整を意見があり、直貢チェツァン法王に謁見して来て再調整をする事を求めるのに論争した。これは法王が説いた話しは彼たちに聞かないで受け入れないで、そうすると加持が断った。その後、この二人のカンポスは一人が車椅子をして、もう一人が往生していった。これは直貢チェツァン法王が彼たちに処罰させる事ではない、これは直貢チェツァン法王と関係がない、彼たちは直貢チェツァン法王、仏菩薩、仏法に恭敬しない、懐疑を生じて、自分の因果業力の現れたのである。

自分の子供は若いなので、彼に生死を解脱する観念が早くて過ぎて、この考えを持つ人が無常を信じられない。今回の水害には毀れた仏寺には、ある3歳になったばかり子供も去った。その上、ある子供は子供時期から生死を解脱する観念を持っている人なら、彼だ素直に従わないのでしょうか?両親の話に従わないなら、親孝行をしない人は生死を解脱する事が無理で、仏を学ぶ事は子供に知らせて、彼が悪をする事の勇気がない。

金剛経には曰く「無寿者相」とは、心の体性が互いに持っていて続けて、所謂時間と距離の分別がない。これはそなたたちに時間観念がいらなくて、仕事をして時間に従わない事ではない、ここに説く時間は、過去、現在と未来とは分別ではない、同時発生して、ただ人の心の分別の故に、区隔がある。所謂時間とは、ただ人々が分別して、もし宇宙には太陽の上がって下ろする事と四季の変化が見えないならば、そなたたちは時間を感じられるのでしょうか?宇宙には、ただ1時間まで地球の昼夜の変化を見られる。しかし、地球では24時間を経てから昼夜の変化を見て始める。我々は光年にて天体の間の距離を説明するが、所謂光年とは同様に人々に分別して得る。仏菩薩にとって、現在、過去と未来を区別する事ではない、だからそなた達の過去或いは未来の多く事柄を知られて、仏菩薩の心が動かないで、動いて分別するのはそなた達のである。何故リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の事を知っているか?これも心が不動である。修行者は何故そなた達の過去、現在と未来を見られて、神通がある事ではないし、これはすでに「報身」と「法身」を認められて、仏菩薩の境界に入られるのである。神通と智慧が同じくない、神通はそなたが変化できる能力で、智慧とは「見性」の力で、智慧により宇宙の一切の真実相を見られる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは時間を空間の区隔を破られて、人がインドにいても、2千キロメートルの台湾にいた死者にポワ法を修められて、死者の頭蓋骨にある穴を打つ事が出来て、これは金剛経に曰く「無寿者相」を認められる。何故リンチェンドルジェ・リンポチェは死者の事を知られるか?これはリンチェンドルジェ・リンポチェは衆生にポワ法を修める時に、自分の事がない、自分は完全に衆生と同じ、これは「無衆生相」である。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分と死者を分けないで、両者が一体で、このように「同体大悲」である。何故リンチェンドルジェ・リンポチェはそなたに加持されてそなたに腫れを消して痛くならせないで、これはリンチェンドルジェ・リンポチェはすでに「明心」の力を修めて得て、自分と衆生の心が同じ事を知っている。行者は自分が心を作用をはっきりして明白すれば、衆生の心を知っていれば、行者の自分の福報を衆生にくれる事が出来て、能力があって衆生を済度して利益して始める。

この前、ある弟子の父が往生して、大福報があってリンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝なポワ法を修めて浄土に行けた。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法した時には、呂洞賓が死者に率いてきた事を見て、本来、死者の生前に道教を修めた事があると思いきや、その後家族に確認して、死者の子供の時には呂洞賓の養子になった事がある。呂洞賓は道教には「大羅金仙」の果位を修めて得て、これもすでに道教に極めて高い境界で、身体を離れて仏を修めてから今までには済度の能力もない。死者は呂洞賓に養子になった事があるので、呂祖が彼にずっと保護して、しかし、彼に済度させる能力がないので、彼に率いてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来た。

リンチェンドルジェ・リンポチェはここに開示して、参列の皆がぼうっとする事に陥るかどうかを尋ねて、そして、ある男の弟子にまた聞いていけるかどうかを尋ねた。この弟子は自分がぼうっとする事がない、またリンチェンドルジェ・リンポチェの開示を聞いていける事が出来て、その上、リンチェンドルジェ・リンポチェが開示させた内容は、彼がリンチェンドルジェ・リンポチェに皈依した前に、かつて他の道場に学んだ事があるが、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の実際な修行経験にて開示させて、内容はいっそうに素晴らしい。

所謂徳を具える上師とは、自分の修行経験にて弟子に教導して上げられる事で、表面的な言語、文字にて教導してあげるのではない。仏経には、仏が最後に文字により修める事がはずではない。仏は言う不可とは言われない事ではない、仏を学ぶ人が文字を研究する事に陥る事をはずではない、意味を従って、言語に従わない、法を従って人に従わない。そなた達はテレビにて見て聞く仏法開示のは、ただ縁を結んで、真に修行する事ではない、真に修行とはある修行の経験がある徳を具える上師がそなたに率いていく事がいて、そなたに本来この無用な身体に利用して仏法を学んで、仏陀の教導を従ってして、輪廻の苦海を離れて生死を解脱する事が出来て初める。仏を学ぶのは、一日、二日のではないし、十年、二十年の事もではないし、極めて長い時間が要って薫陶して学んでいる。今日、そなた達に説いたのは理論で、そなた達に方法を教える事がない。だから、そなた達は家に戻ってから自分が座禅をして自分の心をはっきり見えたい事をしてはいけない、これは作用がない。

法会は円満開示した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きに苦難がある信者達に会って助けた。

2010年10月29日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な施身法法会を主催された。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこう開示した。今日修める法は『施身法』であり、チベット仏教の密法の八大成就法の1つで、一生にこの法を専修すれば必ずこの世に生死輪廻を解脱することができるから、福と知恵を累積する修行する法門である。施身法はチベット語で『断つ』との意味であり、何を断つのか。断つのは煩悩である。私達が輪廻の中で受ける苦痛は、すべて自分が起きた貪、嗔、癡、慢、疑からできるので、つまり煩悩であり、どのようにして煩悩を断つのか。知恵で断つ。私達が見る仏像の中では、右の手に剣を持つ文殊菩薩があり、ある者は仏法が慈悲を教えるのではないか、武器で切ったり殺したりすることが必要であるかと思っているが、これは誤った言い方である。剣は文殊菩薩が鋭い智慧の剣で衆生に輪廻の悩みを断ち切るように助けるのを代表する。智慧は世の中のいわゆる聡明さではなくて、そなた達のような凡夫が思う知恵でもなくて、仏法には知恵は根本智と後得智に分けられて、六道の一切有情衆生はすべて生まれ付きの仏と同じ知恵があるから、根本智だと称して、ただ代々の貪、嗔、癡など様々な悩みのあかに覆い隠されているので、自身が気づきにくい。根本智は仏法を学ぶことにより再び新しく開発しなければならない。どうしてそなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した仏法を聞いても分からないと感じるか。というのは、あなたの根本智がまだ開いていないからである。

大蔵経に記載されているのは、釈迦牟尼仏が在世している時に、嘗て12年間を使って、絶えず絶えず空性、知恵を開示されて、世間の人は仏法のいわゆる智慧をすっかり悟るのが容易ではないことに分かる。そなた達の智慧が開いていない前までに、唯一できるのは言うことを聞き取るだげので、1位如法で具徳の金剛上師に追随することを通して、仏法を学んで、教えることに従って遂行して、そなたに根本智を急速に開くように助けることができる。

今日修める施身法は、チベットの古代の1位の尊者―マジラ尊者が大般若経の十万頌の要義、心経及び仏教中の布施の教法ににより創られた。マジラ尊者は一名の在家の行者であり、結婚して子供を生んで、チベットでヨーガ士と称す。大般若経は、八万頌のバージョンがあり、十万頌のバージョンもあり、そして、後者の内容は比較的に完備している。諸仏菩薩の願力は衆生に生死に解脱するように助けることを望んで、智慧を用いることを除いて、衆生に助けて与えることができるために、福徳があることが必要である。だから施身法は更に仏法の中の布施の精神に頼らなければならない。

菩薩道の六波羅蜜を修める修行の中で、布施するのは一番重要であり、そなたに仏を学ぶ両大資糧–福徳と智慧を累積するように助けることができる。布施は、財施、法施、無畏施があり、そなた達は財施しかできなくて、法施、無畏施をやり遂げることができない。財施は財産で布施して他の人を助けてあげることだけではなくて、そなたの知識、能力、体力で他の人を助けることは財施の範囲にある。一部の人の生活が貧困であり、それは仏を学ぶためではなくて、それはそなたが代々に布施を惜しむためこの世に貧困な苦しみを受けるが、仏を学ぶから因果応報を早めに現れさせるから、喜んで受け取るようにしなさい。

法施は凡夫がやり遂げることができるのではなくて、法施は彼に読経してあげたらいいのではなくて、法会を通してようやくやり遂げることができるのである。仏法で衆生に生死輪廻に解脱して助ける能力があるのははじめて法布施と称することができる。施身法により、衆生に煩悩を断つように助けて、更に生死に解脱することができる。無畏施は衆生に恐れさせないことではなくて、苦海の境遇におちる衆生を超抜することができるのである。施身法の中で、行者は観想を通して自身を衆生の大好きな食品に変わって衆生に布施してあげるので、法本の中に衆生に肉を食べたり酒を飲んだりすることをさせると言及があるが、しかしこれは本当に彼らに肉を食べさせて、酒を飲ませるのではなくて、行者自身から転換した甘露を食べるので、先に衆生の食べる欲求を満たして、さらに心が安住して仏法の助けを受け入れて三悪道を離れるようになる。

私達が仏を学ぶ時出会う障害が2種類あって、1つは煩悩障であり、一部の法門により軽減することができる。在家なら煩悩が比較的に多くて、出家は少し良くなるが、しかし近代的な出家衆の悩みもとても多くて、一部の人が出家したが、まだ仏寺を持てるかどうか、弟子があるかどうか、、悟ることができるかどうか…などを悩んでいる。悩みはこんなに多くて、どのように修行するのか。もう一つは所知障であり、これは比較的に深刻な障害である。そなたが仏法を学ぶのでさえすれば、「私が知っている。」、「私が分かった。」、「私が修め得た」の考えがあると、それは所知障があるのであり、そなたが完全に修行していないことを表している。多くの人は仏を三年か五年間学んでから、自分が既に分かったから、仏法を他の人に釈明してあげることができると思って、これはすべて貢高我慢の心構えであり、今台湾の世の中の仏教団体の乱れた現象はここから生むのである。そなた達は幼い時から大学を卒業したまで、少なくともすべて20年の教育を受け入れなければならなくて、どうして仏を2、3年間学んだら、修め得ることができるのか。一部の人はとてもせっかちである。仏を学ぶのはそなた達のこの一生の数十年の事だけでなくて、金剛乗から言うと、それが何回も生まれ変わっても仏法を修習しなければならなくて、この一生まで終わるだけではない。

金剛乗の密法が絶対に公然と伝授することができなくて、大蔵経の続部に中で言及されることがあって、非根器者は密法を伝わって与えてはならなくて、続部の内容は外密である。法本の中に「法が6耳に伝わない。」ということがあり、それは上師が弟子と必ず1対1で伝法しなければならないので、弟子の縁と根器によって伝授する。上師は非根器の弟子に出会ったら密法を伝授することができなくて、密法を学ぶ根器の弟子に出会うと必ず伝わなければならない。上述した二つ原則の1つに違背すると、金剛上師は三昧耶戒を破れて金剛地獄に堕ちることになる。仏は私達に妄語を言わない事、存在しないのはあると言えない事、存在するのはきっと言い出すことを教えるから、これから見ると、仏は私達を騙す理由がない。

密法を学ぶなら3、5年間経ってすぐ学ぶことができるのではなくて、世の中のように灌頂した後、法本をあげて修行することができるのではなくて、まずは十年の顕教の基礎があって、更に閉関修行を通さなければならない。閉関修行を経過しなければ、自分が雷に落ちられて、夢の中で観音菩薩に会って、目が覚めて能力がある人だと言って、或いは自分が観音菩薩の身の回りの童子であり、神様に身体につけられることを言うのは、これらがすべて嘘付きである。観音菩薩はずっと皆に助けていて、実は我々はすべて嘗て観音菩薩の身の回りにいたことがあるのである。

今世の中のある人は彼があなたの前生が見えて、あなたの前生が何なんであるかと言って、彼らを信じないでください。私達はみんなもすべて生まれ変わりであるから、ただどちらから生まれ変わるのか分からない。転世のリンポチェを盲信しないでください。たとえ転世に来たリンポチェとしても必ず再び仏を学ばなければならない。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗てある転世のリンポチェに出会って、彼が前世にすでに神通を修め得て、飛行することができて、水上で歩くことができると言ったから、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼に、もしもある人はあなたに出演して見せると要求したら、あなたができるかと聞いた。だから、前世にどんなによく修行したことを言わないでください。最も一番重要なのはこの世で更に精進に修行するかどうかということである。尊き直貢チェツァン法王はすでに第8次に転生して直貢噶舉教派の法王を担任しても、この1世にやはり再び最初から学ばなければならなくて、5歳の時から先生達から再びお経、論、律を教えてもらって、すべてを学ばなければならなくて、更に密法を学んで、しかし代々の善根が深いため、直貢チェツァン法王は学ぶのがとても速い。生死に解脱することさえ決心すれば、上師の教えることに従って遂行して、リンチェンドルジェ・リンポチェは転世のリンポチェではないが、同様にこの1世に修行して成就することができて、ただ代々の善根が異なっていて、とてと速く修行して成就することができる。

ダライラマはチベットを離れる時、一生に神様を身体につける法門を修行している行者と問合せしたことがあるが、しかし仏法は神通を重んじない。もし神通が欲しいならば、その他の宗教を修行するほうがいい。例えば、道教の中であなたが神壇の下で49日よけるのでさえすれば、出てくると、神を身体につけて人に物事を言って聞かせることができる。

直貢噶舉教派はとても厳格な教派であり、行者が閉関修行しなければならなくて、上師の確認を得てからはじめて法座に上がることができる。リンチェンドルジェ・リンポチェが座るように高い法座は誰でも座ることができると思わないでください。もしそなた達は簡単に坐るならば、軽いのは重病になり短寿を得て、更にひどいのは死亡して、もう少し深刻なのは死んだ後に地獄に堕ちる。

リンチェンドルジェ・リンポチェは参列した大衆に、死ぬのが怖くない者がいるか、死ぬのが怖くない者が手を挙げてくださいと問合わせした。だれでも手を挙げていない。すべての人はいずれも死亡するから、皆はすべて自分の親友の往生する前に受けた病苦と医療の苦しみを見たことがあって、これらの苦しみは必ず受けなければならないのか。そうでもない。往生する時、穏やかに往生することができないのか。実はこれはやり遂げることができる。なぜ人はこの多くの苦しみを受けるのか、殺業のためである。お経の上に言うことがあり、人がなぜ病気になるのは心が病気があるから。私達が代々の貪、嗔、癡(仏法を信じない)、慢(貢高我慢)、疑(因果を信じない)のため、仏法に対して懐疑心が起こして、心は病気があると体が病気になる。医学上、もし一人の情緒は不安定ならば、比較的に病気にかかりやすいことを実証されたことがある。だから、どうしてお経に釈迦牟尼仏を医王だと称して、仏法が心の病気を治療することができるから、心は病気になっていないで、体の病気の痛苦がもたらす影響も軽減することができる。十善法の首善は殺生しないことであり、もしまだ肉を食べているのは十善法を行うのではない。今日あなたが人身を得るのは、ある1世に十善法を行ったことがあるから、十善法をよく修めれば、人の標準がやっとやり遂げることができて、人道に成ってから、はじめて仏道に成就することができる。

現代人は病気に罹るのは全て殺業のせいだ。凡夫は果を畏れ、菩薩は因を畏れる。凡夫は果報が怖ろしいから、発心して仏を習う事を分かって、未来は此の世に行った事を理解した。菩薩は因果を深く信じるから、全ての悪因を止める。そなた達未皈依の信衆を聞いて、因果を信じるかどうか。皆自分は信じると答えた。しかし、毎日肉を食べていて、死亡を恐れるのに死を恐れない事を行ったばかり。チベット人も肉を食べると言わず、密宗なら肉を食べられると思わない。直貢チェツァン法王は菜食しているが、インドのヂャンチュウブリンに於いて寺に全ての出家者及び直貢噶舉教派往生した多くの大成就者とも菜食した。リンチェンドルジェ・リンポチェも菜食している。他には問わず、直貢噶舉教派祖師ジッテン・サムゴンも八百年前にチベットで菜食した。祖師ジッテン・サムゴンの時代、チベットは野菜を植えられなかった。しかし、このような環境で祖師ジッテン・サムゴンは菜食できた。そなた達は仏法が自由な台湾に生きるから、菜食をしない理由を言うまでもないだろう。

「酒肉は腸を通しても、仏は心に残る」と思わない。この話を言う人は自分が腸もなし胃もなしと言うだろう。若しそなた達は魚を食べた後、吐き出した魚は生きるなら、肉を食べられる。肉を食べる人は仏号を唱えても真言を唱えても役に立たない。何故だろう。仏経に肉を食べると、慈悲の種を断ちとあるから。慈悲は仏法の源である。仏を唱えて真言を唱えるのは必ず慈悲の種があれば役に立つ。だから、肉を食べる人はいくら唱えても役に立たない。若し少しに唱えて効果が出れば、閉関修行をしなくても業を転じられる。そうすれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは始めてから自分が修めないと主張した。

菜食は唯一つの習慣である。そなた達はある物を食べず、強引に食べさせると、そなたは自分はあの物を決して食べないと主張すると同じだ。そうすると、そなたも自分が肉を食べず、菜食する事を言えばいい。若しまた肉を食べるなら、二度と来ない事をお願いする。寶吉祥仏法センターは厳しく菜食する。そなたは事業が有るから、菜食できないと思わない。リンチェンドルジェ・リンポチェも事業がある。戒を守る事を決心してから、すぐ酒を止め、戒を守る事を行えた。リンチェンドルジェ・リンポチェは根器が良い以外、決心があるから。そなたは通常に多くの事を決められるのに、菜食に関して却って決められない。実はそなたの決まりに関わるから、自分は菜食できないと言わないで、決心があれば、必ず出来る。

そなた達は此の世に得たのは全て累世に積んだ福だ。しかし、人は五十歳になると、福報はほぼ切れる。事業は始めて不況になるや健康に問題が現れる。現在平均年齢は70歳から見ると、そなたはまだ20年があって、残った福を使う。何故現在多くの若い人は早めに死んだだろう。それは彼達は皆一つの考えがある。若いうちに私は出来るだけ享受して、また数年間に遊んで、三十歳まで職場に入って仕事すると思う。三十歳前に父母に頼るのは自分の福を使い、福報は切れてから、自然に亡くなる。

ある者は大丈夫と言った。自分はまだ時間が有って、占い師は自分は八十歳まで生きられると言ったから。占い師の話は普通は当たらないが、二割引をする必要がある。それはそなたは肉を食べて悪を行うから、元々ある福報寿命を消耗した。ある者は私は此の世に悪いことをしないと言うかもしれない。しかし、誰か此の世に肉を一口食べないだろう。地蔵菩薩は嘗て凡夫は起心動念が全て業であると説いた。仏経に若し衆生の善業及び悪業は固体であれば、虚空さえ置けないとある。業は此の世だけではなくて、累世に積んだ業は尚更に数えられない。多くの人はリンチェンドルジェ・リンポチェに拝謁した時に、自分は此の世に悪いことを行わないのに、何故悪疾に罹っただろうと言った。しかし、自分は累世から連れてきた業を思わない。我々は此の世に人間であるだけではなく、此の世にしかいない。輪廻の中に多世の生及び死を経歴して、累世の業は此の世を連れてきた。暫く過去を問わず、此の世に肉を食べる業であれば、十分だ。仏経に八両の肉を食べると必ず半斤を返すとある。いくら食べるとその数を返す。そうすれば、そなた達はまた肉を食べる勇気があるか。

人は三種類を分ける。第一、悪業を行わない。生れてから聖人になる。第二は間違いを犯したけど、誠に懺悔する人である。懺とは完全に全て自分が行った事の果報を認めて、責任を取って、受けて、更に今後決して犯さない。リンチェンドルジェ・リンポチェはそういうタイプの人である。第三は引き続きに悪を行う人である。リンチェンドルジェ・リンポチェは46歳に皮膚癌に罹った時、医師に診察されなくて、仏菩薩、直貢チェツァン法王も求めなくて、法も修めなかった。完全に受けて懺悔した。それは自分は海鮮が食べ好きなので、当然に皮膚癌に罹り、歓喜に受けた。悔とは以後永遠に行わない事だ。密法では尚更に生々世々に永遠に行わない、顕教の盡形壽ではない。護法はリンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を利益できる事を分かるから、リンチェンドルジェ・リンポチェに今まで生きさせるから。

この前、リンチェンドルジェ・リンポチェはある番組を見た。ある科学者は古代エジプトのミイラを千人検査して、其の中に二人だけ癌のせいで亡くなった。一方台湾では何人の中に一人は癌に罹っただろう。リンチェンドルジェ・リンポチェは1997年から人を助けて、無数な衆生を助けた。十数歳や更にもっと幼い子供は癌に罹って亡くなった事を見た。リンチェンドルジェ・リンポチェさえ自分も皮膚癌に罹った事もあった。リンチェンドルジェ・リンポチェもとても幼い子供は夭折した事を見た。何故だろう。それは父母は殺業は重いから、同じな業力の子供を引き連れて転生した。彼達にこの事を苦しませる。また、瞋恚は重くて、常に怒っても癌に罹りやすい。皆は争わなくて、戦わないで、そなたは瞋恚を起こると、癌細胞も速く動く。

現在の人は死ぬ前に殆どICUに入って、医療の苦しみを受ける。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て三管齊下の苦しみを開示された。つまり、患者は身に呼吸器、胃管及び尿管を挿した苦しみを受ける。しかし、現在多くの子女は父母にこのような医療を受けさせるのは父母に親孝行だと思った。そなた達は試してみよう。三本の管を挿して、一日ベッドに寝る。そなた達は一日さえ耐えないのに、父母にこの治療を受けさせるのは親孝行があるわけではない。もう肉を食べないで、このような苦しみを受けたのは全て肉を食べる果報から。一口を食べると、一口を返さなければならない。肉を食べると、自分に利益がない。

仏経に本当の親孝行の人は仏を習う人であるとある。何故だろう。それはそなたが仏法の道理を習うと、父母に影響を及ぼして仏を習うから。リンチェンドルジェ・リンポチェの母は元々魚と肉を食べていたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは母に止めると説得して見なかった。しかしある日から母は魚を食べなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェに言って、自分は始めて坐禅して、観音菩薩の聖号を唱える。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは今まで母を教えず、要求しなかった。ある者は自分の父母は業が重いと言ったが、この話を話した子女の業は重い。如何なるかに関わらず、そなたの父母はそなたを生んだから、彼達に感謝しなければならない。

仏経に子女は父母を代わりに仏を習うとある。リンチェンドルジェ・リンポチェの父は生前に道教を修めた。更に霊魂は体から離れて事をするまで修められた。しかし、自分の生死を把握できなかった。最後心臓麻痺で亡くなった。理論的に心臓麻痺のような事故のせいで死んだ人は三悪道に堕ちる。しかし、。リンチェンドルジェ・リンポチェの父は生前に多くの善い事を行ったから、父はまだ輪廻していなかった。リンチェンドルジェ・リンポチェは仏を習った後、毎日父を代わりに三時間懺悔して、仏を頂礼して、半年に続けて、最後父は呂洞賓の側にいる事をはっきりに見た。そなた達は皆怠け者で父母を代わりにこの事をしたくない。ただ父母に病院に任せて、仏菩薩に任せて父母の寿命を延ばしてたい。此れは本当の親孝行ではない。本当の親孝行は仏を習う子女であり、仏を習う福報を父母に与える。

今日修める施身法はだんだん衰微していて、修める人は少なくなる。この法は特に難しく修める以外、主な原因は修法の重要な法器-人のすねの骨は現在既に難しく得るから。全ての人のすねの骨でも使えるわけではない。ある特別な規定があって、法本に要求した条件に合わないと出来ない。此れは密法の部分を属するから、今日話さない。世間の人は常に密宗に人の骨を使う事を批判して、此れは鬼を拝みと思う。実はそうではない。密宗は骨を使うのは我々に無常を提示して、一旦この体を失うと、残ったのは骨しかいない。

仏教は他の宗教と違う修行は「無常」の教法である。「人生無常」とは此の世ではなくて、この世間を示す事である。世間に一切の物事は止まらないままに変動していて、全て無常で変わらない事がない。物理を習った人も分かったが、全ての物は僅かな原子、分子から組み立てて、不断に分解して変化していた。。リンチェンドルジェ・リンポチェは自分が座った法席として例を挙げた。何故外観から見るといい法席は百年後崩れて消えただろう。此れは内部の分子は引き続きに変動しているから、永遠に変わらない物がない。世間の全ては無常である。同様に我々は此の世にいる時に体、感覚、満足があったが、死んだ後骨しか残さない。我々は世間に現れたことも無常である。此の世に全ての財産、家庭、健康も無常である。若し無常に少し体験すれば、ある者はそなたに悪口すれば無常と見て、ある者はそなたに好いと言っても無常と見る。そうすると、執着で苦しみに陥らない。リンチェンドルジェ・リンポチェは多くの亡者を済度したが、多くの人は子供の頃に亡くなった。死亡無常は影のように離れないから、いつかそなたは単独に死亡に向き合わなければならない。今日のニュースに報道されたが、ある女の子は十六歳なのに死んだ。

世間の一切はすべて無常である以上,もう執着するな。現在、整形は流行っている、自分を綺麗にさせる或いは保養品と化粧品等を使用して自分を綺麗にならせるのも悪くはあらない、また経済を促すことが出来た、全部消費がしなければ,多勢者は仕事がなくて、食べることは出来ない。自分を綺麗にさせても良いが自らの肉体に執着しない、そなた達は全部素食がすれば、自分は綺麗になって、心は善良になって、化粧品を使わなくてもとても綺麗に見える。無常が体得しなければ、自分の一生に執着して手を離せなくなった。ある鬼は守屍鬼という。なぜお墓場には鬼が多いだろう?これはこれ等衆生が死んだ後神識はまだ自分の身体を守っているのである。そのゆえ、仏教は火葬を唱導していて、衆生はもう自分の肉体に執着しないように助けて、仏法の教導をはじめて受け取れる事が出来た。また、施身法の行う行者は腿骨法器で吹いたとき、あの音は中陰生の衆生に同類が呼ばれたような感じをさせて、助けを取りに来る。リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て開示された、人は往生した後、大変耳ざわったメタル音が聞きたくない。リンチェンドルジェ・リンポチェは以前亡者のためポワ法を行った時亡者がすごく不安を感じた、亡者のそばにメタルの叩く音が聞こえた、弟子に指示して喪家に電話をかけて聞くと彼らが道士を雇って大体の側にメタル楽器を撃つ事をやっと分かった。亡者は中陰の状態の中に十分敏感でこんな事は亡者に対してとてもよいのではあらない。リンチェンドルジェ・リンポチェは道士が悪いと批判するのではなく、それはリンチェンドルジェ・リンポチェが見た、亡父が生前道教を大変高い境界まで修め得てもまだ自分の生死大事を解決するのが出来なかったのである。

学仏は男なますらおの行為で,古人が話したますらおとは勇ましい者である。そなた達は全部臆病者で、出来なくて従順さえもするべきである。≪妙法蓮華経≫の中に述べたのように、仏菩薩は玩具、真珠宝石などで衆生を誘って、火宅のような輪廻の中を離させたが、ちょっと気が付かなかったら、衆生はまた毒蛇猛獣の満ち溢れた森林に走って帰った。そなた達こそこのようである、リンチェンドルジェ・リンポチェは自分の命を尽くしてそなた達を助けたのに、そなた達はかえってあらためて悪を作ってまた戻って来て仏菩薩に願う、そうすると十名のリンチェンドルジェ・リンポチェがあってもそなた達に踏み躙られても足りないのである。普賢菩薩は嘗て申された、学仏者の心は自分が焼い髪の毛を撲滅するようにすぐするべきで、ゆっくりしてはいけないである。出来るかどうか実はそなたの決心である。これはそなた達を迷信させるのではなく、諸仏菩薩は全て人道より証果を修め得たのである。そなた達も必ず出来るとの現れである。

もう自分のため良い訳をするのをやめて、あることを先してからはじめて仏を学ぶのを思わない。そなたはお金を儲けるかどうか仏法と関係がない、それはそなたが累世全て出来た福報のため得た、なぜ仏を学んだ後そなたにお金を儲けさせたか?これもそなたが本来あった福報で、仏を学んで悪をやめたので、自然にそなたの手に戻って来た。そのゆえ、仏法は我らに一切悪をやめて善行すると教えた。しかし、人の寿命は善行することで延長できるがそれは大変な多い善をして、すごい大きい福を作った者しか出来ない。自分は何千円を基金会に寄付して、毎月あるお金を仏教団体にあげて自分が大善人と思わないで、そんな簡単であらない、そなたは10元をあれら基金会に寄付したが彼らは人事費用を支出するため、いつも本当に慈悲的な用途に使ったのは4,5元しかない。そなた達は割合に怠けであれば、リンチェンドルジェ・リンポチェのように毎年何百万元を政府に寄付して、政府役員はすでに給料があるので一分の献金さえもいつでもはっきり言いつけて無駄に使う勇気はない。そなた達が出来ないならば、少なくとも自分の手で需要な人の手まで送るべきである。

あなたはどんな原因で来るか問わず、そなた達は法会に参加する際は恭敬心、懺悔心と慈悲心を備えるべきである。恭敬心を備えるのは主法上師リンチェンドルジェ・リンポチェは諸仏菩薩の代表としてそなた達を助ける、そなた達は恭敬、懇切の心で参加しに来て、恭敬があればはじめて供養があって、供養があればやっと福報があった、そなた達が助けたい者は福があったこそ仏法の助けを受け取ることがやっと出来た。懺悔心があるべきとは、これら済度が必要衆生の代表として懺悔するから。其の他、慈悲心も備えるべき、今日そなた達は法会に参加することが出来たが、まだ沢山無数な衆生は参加が出来ないので、そなた達は自分が助けたい対象に限られるべきではない、この施身法会を通じて一切な苦しめている衆生が全部利益を得るのを出来させるように望むべきである。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは殊勝な直貢噶舉派の施身法を行い、それに、皆を引き連れて六字大明呪を唱えた。修法円満した後、リンチェンドルジェ・リンポチェは申された、今日合わせて1200あまり名がこの法会に参加した、法会時毎人1000回六字大明呪を読んだ、合わせて120万回で、こんな数量はそなた達がこの一生には出来ないのである。そなた達は常に読んでいるが効果は同じではなく、そなた達は此処に坐って、数時間話が出来なくてこれも閉関である。リンチェンドルジェ・リンポチェが修法する前に仰ったように、そなた達は恭敬心、懺悔心と慈悲心で法会に参加しに来て、沢山因縁福報がなくて参加出来ない衆生を助けた、全部一切な衆生の替わりに法会に参加する慈悲心で読めば、即ちそなたが読んだ呪文を一緒に法会に参加した者に供養して、こんなに合わせて極めて大きい功徳を、皆が一緒共にしたのである。

また自分の小さい苦難に限られないで、自分の苦しみは一番苦しいと思わないで、心を広くさせるべきである。世間には八苦しみがあり、毎人があった苦しみは実は殆ど同じで、只名前を取り替えて、身分顔つきが換えた、この苦しみが少しして、あの苦しみが少し多くて、この八つ苦しみは全部無くならない、特に求め得ない苦しみである。ある者は自分の相手が良くないと思って、これも自分の因果因縁とのことを深く信じるべきで、テレビのように相手を妖精と罵って、こんな話をする者は全部地獄に堕ちるべきで、妖精は神通力があり、そなたを叩きに来る。

ある者は往生する時に多勢者が側に呪文を唱えれば是非浄土へ往生出来ると思った?あんなに簡単であらない。他人のためそなたが呪文を唱えてあげれば自分が往生する時きっとある者がそなたの為読んでくれると思わない。職業で、専門的に他人に呪文を唱えてあげる者は、素食がしなくてまだ肉を食べていれば読んだものは必ず効果がない。本当な助念とはある者は生前浄土へ往生すると発願して、臨終の際、彼と一緒に仏を学ぶ相弟子が側に仏号を読んで、彼の恐い心を取り除くことが出来させて、彼が浄土へ往生する心を固めればはじめて助念と言う。例えある者はそなたのため呪文を唱えてあげて浄土へ往生することが出来たら、阿弥陀仏経文の中に述べた、阿弥陀仏浄土へ往生するのは全部福徳因縁の欠けない善男子、善女人との「善男子、善女人」の条件は不存在のではないか?ここに説いた善とは在世する時十善法を修めて、慈悲心を習って、慈悲心、菩提心を修めて浄土へ往生すると発願した者で、それに、また十分な福と因縁があればこそ、行くことが出来る。十善法を純善まで修めなくて、他人の助念で浄土へ往生するのは余り出来ない。

毎1回法会が終了する前読んだ求生浄土祈請文は非常に需要で、即ちそなた達が浄土へ往生するのを発願させるのである。釈迦牟尼仏はそなた達が一世で出来ないと分かったので阿弥陀仏の浄土を紹介した、そなた達が浄土へ往生すると発願させて、修め得た後また戻って来て衆生を済度する。だから、そなた達がまた多く読んで欲しいのはそなた達がこの善の因縁を作るのを助ける。そなた達は確かにこの願いを起して、唄うことと見ないで、心の中にすごくはっきり分かってこれは1つ方向で、一個目標でこの方向へしていこう。その中に一番重要な一語はそなた達は浄土へ往生すると発願すれば、全て仏菩薩は全部そなたを助けに来る。これはそなたにお金をあらせるのではなく、そなた達は浄土へ往生するの障碍を取り除くのを助ける、しかしそなたは必ず十善法を修めなければならない。そなた達はこの一生にどのくらい悪業をした、あれらは全部そなたが浄土へ往生するのを邪魔する、善業もそなたを妨げる。だから、是非仏菩薩の助けを得てそなたにこれらの障碍を解決する、前提はそなたが浄土へ往生する心はとても強烈べきである。

そなた達は普通に経を唱えたり、拝懺をしたり、仏を礼拝したり、供養したりする事がただ福報を累積し、修行があれば功徳があって始める。若し生死を解脱する心がないならば、総ての功徳は福徳に替わる。福徳が尽す事が出来て、ただ未来世だけに使うのである。功徳はそなたの業力を変わって始める。

密法の済度は異なっている。歴史には記載された事があり、蓮師はチベットに居た時代には、ある大臣の家に火事に遭った事があり、総ての家族が焼死んで仕舞った。この大臣は国王に彼が死んだ家族を助ける事を頼んだ。国王は蓮師に修法して済度する事を頼んで、蓮師は入定してから阿弥陀仏浄土に向いて、当面に阿弥陀仏に法の伝いを頼んで、阿弥陀仏は蓮師にポワ法を伝わった。施身法にはポワ法を含める事もある。ポワ法を修める事は禅定の力が要るけれども、一部だけで、最も重要なのは浄土に往生する信心である。信心は仏菩薩に信じる事ではなくて、自分は仏菩薩が我々に教える事を遣り遂げる事の信じる事も含めている。

リンチェンドルジェ・リンポチェが施身法を修めて遣り遂げた後初めの済度の衆生は多年前に陳進興(台湾で起きた白暁燕さん(*梶原一騎の娘)殺害事件の犯罪者)から殺害した女の看護婦である。意外で死ぬ業は極めて重くて、施身法にて済度する事が出来る。若し顕教の方式により49日間の毎日24時間で仏号を唱えるなら、済度する事が出来て初めて、そなた達は遣り遂げる事が出来ない。だから、我々が浄土に往生する事を発願する時には、仏菩薩は皆に非時で死ねずを守って来て、つまり意外で死ぬ事で、そなた達に足りる時間を与えて仏を学んで行って、浄土に往生する資糧と福徳因縁を累積している。浄土に往生する事が欲しいなら、福徳因縁がないと遣り遂げれない。大法会に多く参加する事つまり福徳因縁を累積する事で、大法会とは10人、100人のではない、1千人を超える法会は大法会である。

施身法には何故六字大明咒を唱えて、阿弥陀仏を唱えるのではないか?六道衆生は各々の因縁が違って、今日、済度を受けて来た衆生はあるのが仏を学ぶし、あるのがほとけを学ばないし、あるのが修めた事があるし、あるのが修めた事がないし、あるのが死んでも懺悔しないし、色々な様々な違う縁である。それで、観音菩薩と地蔵菩薩は特に一切の衆生を助けて、観音菩薩の大悲願は衆生を遍く済度し、「度」とは衆生に苦海を離れる事を助けて、衆生に仏を学ばせて彼岸に向く事が出来る。もし、そなた達の前世と今世は観音菩薩の助けを得ないなら仏を学ぶ事が不可能で、ここに法会に参加する事が不可能で、だから、六字大明咒をを唱えて、これは施身法の本尊とは観音菩薩わけである。施身法を済度して得る衆生は少なくとも三悪道に陥る事がない、然し、浄土げいけるかどうか、彼が浄土に往生する事を発願した事があるかどうか、十善法を修めるかどうか、足りる福徳因縁を累積するかどうか、原因は複雑である。仏を学ぶのは何故福報を累積する事が要るか?浄土に往生する事とは福がないなら行けられない。そなた達は台北から高雄に行くように、若しお金がないなら、列車、新幹線に乗る事が出来ない、駅に暫く立って待っても行けない、あるお金があって行った事がある者が要って、そなたに率いて行って始める。能力があって衆生を済度する行者は大福報を備えなければいけなくて、これは福があるとお金があるように、衆生に助ける事が出来て始める。

今日、そなた達は人になる事とはある世に十善法を修めた事があり、修める事がない、ここに現われる事とは仏を学んだ事があり、法会に参加した事があり、ただ学ぶ事を上手く遣り遂げる事がない、だから、この世に総て此処に集っている。リンチェンドルジェ・リンポチェは広告をしないし、宣伝もないし、然し依然としてこんなに多くの人々に現われて、そなた達の仕事がこんなに忙しいくて、然し、依然として工夫して参加してきて、必ず過去世にこのような法会に参加した事がある。交通はこんなに込んでいる退社時間に、皆は此処に駆けつける事が出来て、MRTに感謝して皆に順調な法会に参加させられる。総ての道場は満ち溢れた人が既に座る位置がない、施身法法会に参加したい事とはそなたが行きたいなら行けて、有る人は施身法に参加する事を求めて、リンチェンドルジェ・リンポチェがすぐに同意して、一部が同意しない、原因は何でしょうか?自分の為に法会に参加するならば、普通に彼を同意しない、若し他人の為に参加したら、リンチェンドルジェ・リンポチェが同意して始める。

だから、こんなに得難い因縁をよく珍重する。福を大切して、縁を大切するとは、食べ物が食べられないが続けて食べて、胃腸の調子が悪いになって診療を受けて薬を飲んで、これは福を大切する事ではなくて、これはあほうである。福を大切する事とは一旦に仏を学ぶ因縁をあうなら、簡単に放棄する事をしない、良く大切していく。この世にこんなんように命が要らなくて、こんなに多くの人々に公的な施身法を修める上師は、本当に少なく数えれて、特にまだアクセントを持っている中国語で仏法をそなた達に聞かせる事は極めて容易ではない。

肉にて祖先を祀ってはいけない、仏経には肉により祖先を祀るとは百キロにまたキロを加えて、彼に多くの苦しみを受けて、すぐに地獄に陥る。そなた達は若し菜食する事が出来ないなら、リンチェンドルジェ・リンポチェの前に再び現われない。素直に従っている。この末法時代には、特に在家者には悩みが特に多くて、目を開けてから、今日が何をする事を考えて、外出して運転をしても他人に喧嘩する事も可能で、然し、難しくて修めるので、懸命に修めていて、功徳が大きくなっていく。

多年前に、直貢チェツァン法王は台湾に始めて来た時には、十人余りに直貢チェツァン法王に従って学んで、同様である一緒に教えて、が、ただ一人だけのリンチェンドルジェ・リンポチェは直貢チェツァン法王の単独で法を伝える事を得て、リンポチェの果位を認めた。これはリンチェンドルジェ・リンポチェの累世の善根に関して、その上、この世には教法に従ってしっかり実践する事による。リンチェンドルジェ・リンポチェは最初仏を学ぶ時に、自分がリンポチェになる事を思わないで、毎日にこんなに多くの人々が周って、一切が縁に従うのである。有る者は直貢チェツァン法王にリンポチェになりたい事を言った事があり、直貢チェツァンん法王は「リンポチェがこんなに簡単にするのでしょうか」と説かれた。リンチェンドルジェ・リンポチェは経験者の経験により皆に教えて、リンポチェになる事が威風と思ってはいけない、リンポチェが私的に罵られる時に、まったく威風がない。リンポチェになると自分がまったくなくて、完全に衆生に利益させて、そなたが想像ような威風ではない。

修法が完了してから、リンチェンドルジェ・リンポチェが説く時には、とても明らかに気が足りない、これは何回目真言を唱えるわけではない、これは多くの衆生を済度するわけである。机の上に、厚い済度リストに置いて、若し一つの名前が1千台湾ドルを納めれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは今夜にお金持ちになって、然し、リンチェンドルジェ・リンポチェは必ず名利の故にこの事をする事ではなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが有名になりたくないが、有名になる事を恐れる。10月3日のこの大法会(*チベット仏教直貢噶舉教派阿弥陀仏無遮大超度法会)には、有る極めて有名な政治人物が法会に参加した事を伝えって、然し、ただ30分だけで参加するしかない、けれども、リンチェンドルジェ・リンポチェが断った。身元の高低或は如何に有名に関わらず、ただ法会に参加して、総て信衆の身元で、まもなく全程が参加するはずである。若し半時間だけ来てから離れて、必ず参列者の注意を引き起こして、気を散らして法会に専心する事が出来ない。若し、リンチェンドルジェ・リンポチェは有名になりたいなら、その人物に法会に参加してあげて、必ず多くの媒体が訪問して来た。実にはあるテレビ局がリンチェンドルジェ・リンポチェに訪問したいが、リンチェンドルジェ・リンポチェが総て婉曲的な断って、これは福報を自分で有名にさせる為に使わない、衆生に助けることを残ってしてはいけない。

リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような名利を求めずに皆に助けてくれて、若し皆が素直に従わないなら、依然として肉食をして、仏菩薩に最も申し訳ない、素直に従わないなら今後も来ないでください。

先、法会に参加した時には、皆は親友に代わって懺悔の心を持っていて参加すれば、それでは、今日の法会が必ず死者に善道に往生する事を助けてあげる。然し、そなた達の参列者にとって、法会に参加してから、一部の人がある事を遭ったり、一部の人が病気に罹ったり、一部の人が車が他人に事故が遭ったなどかもしれない、法会に参加してから引き起こす事を思ってはいけない、これはそなたが本来発生する事で、重い報いも軽く受けて、そなたがまた返却する事をおめでとう。

末法時代には、気候が変わっていて、多くの事柄の変化も速くて、とても容易で良くない共業に捲くれて、ある意外で総ての遊覧車が今までには探さない事は誰でも思えない。その上、有る信衆は「鍋辺素(*肉と雑じって料理する野菜を食べること)」をする事を言って、リンチェンドルジェ・リンポチェは、衆生の縁に従って、彼が「鍋辺素」なので、「鍋辺仏法」により彼に助けてくれる。これは随縁である。そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェと仏菩薩にそなたに助けてあげる事を頼んで、仏が説く話が素直に従わない、また肉食をして殺生して、何故仏菩薩に求めてくるのでしょうか?一部の人々は、寶吉祥仏法センターは何故こんなに厳格して、信衆に法会に参加したら菜食をしなければいけない事を要求させる事か、と思っていて、これはリンチェンドルジェ・リンポチェは仏経により従って、仏経が説かない事がリンチェンドルジェ・リンポチェがする勇気がない、その上、仏経に説く事がリンチェンドルジェ・リンポチェが必ず皆に遣り遂げる事を要求させる。自分も事業が忙しい事を言ってはいけない、誰かだ事業が無いでしょうか?自分が応対が要るなので、菜食をする事が出来ない事を言ってはいけない。誰かが嘘をついたことが無いでしょうか?善意てきな嘘をつく事が出来ないでしょうか?自分の胃腸が悪くて、肉を食べたら胃が破られる事を言ったらいいじゃない。これはそなたが決心がないのではないか?そなたがしたいなら、仏菩薩と上師がそなたに助けてくれて、一切がそなたの決心によるのである。

2010年10月30日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは台北寶吉祥仏法センターで、午後4時45分から夜10時30分まで、143名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

2010年10月31日

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは、台北寶吉祥仏法センターで、殊勝な綠度母法門法会を主催して、しかもその場で法会中、安詳に往生した一人の女子の弟子にポワ法を修めて円満に済度された。そして、法会終了した後に、信衆に接見して、36名の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。

法会前、1人の女子の弟子はこう分かち合った。尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の父にポワ法を円満に成功に修めて助けてくれたことに感謝した。同時に自分がよく直していないで、だから家族は自ら大修行者 リンチェンドルジェ・リンポチェに会うことができる因縁と福報がまだなくて、しかも無常を常に考えていなくて、直ちに父のため大供養をして福報を累積するように助けることができなかったことについて懺悔した。その上、まだ皈依していない前の自分は独りよがりな考えを満たして、多くの資料を探して父に気管切開手術を受けさせるように家族を説得して、様々な愚鈍な考えは彼女の父にたくさん多くの病気の苦しみを受けさせて、また自分が徹底的に自分を改正していないから、家族は彼女が仏を学ぶことに反対する意見を持つように招いて、ふだん家族に尊き金剛上師が亡者にポワ法を修めて助けた殊勝と瑞相を分かち合っていないから、家族は尊きリンチェンドルジェ・リンポチェに強大な信心と恭敬心を産んでいないで、彼女は上しが父にポワ法を修める大恩大徳に合わせる顔がない。彼女はきっと徹底的に自分の独りよがりと私利私欲の欠点を改正することを発願して、そして衆生を尊重することを学んで、しかもよく努力して仏法を学ぶことで上師の恩に返す。

10月5日夜明け方3時50分に、母の電話を受け取って、彼女が早く新竹から台中に帰るように要して、家に帰る時、父はすでに4時45分に往生した。彼女は5時30分に寶吉祥骨董会社に電話をかけて伝言して、リンチェンドルジェ・リンポチェに父に及び嘗て父に傷つけられた衆生にポワ法を修めて済度して助けるようにお願いした。6時に葬儀社の人も家に来てお経を唱えることを手配して、この時、彼女は夫と父の遺体の側で六字大明呪を唱えていて、あの時の自分は心の中で貪と欲求を満たして、一心に父が尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェが殊勝なぽワ法を修めて済度することを得ることができることだけを求めたい。父がこれまでリンチェンドルジェ・リンポチェに会ったことがないことを知っているのに、その上父は気管切開のことがあり、彼女は父に代わって大供養をしていないから、ポワ法を求め得る因縁と福報がないであろう。

リンチェンドルジェ・リンポチェは常開示して、亡者が死亡した後の8時間以内、体の触覚は最も鋭くて、だから遺体を移動しないでください。しかし葬儀社の人が父に体をきれいにして及び経帷子を替えて手伝う時、彼女は意外にも阻止していないで、父にとても大きな苦痛を受けさせた。兄弟子の電話の知らせを待つ同時に、内心は貪念を満たして、すべていかなる懺悔心が起きなくて、11時頃まで、葬儀社は冷蔵の箱を載せてきて、父の遺体を冷蔵の箱の中に入れることを用意して、彼女がやっと驚かしてヤバイと思って、慌てて急いで葬儀社の人員に午後2時以後になってからはじめて遺体を冷蔵の箱にいれるように要求して、しかし父の気管切開した傷口がずっと血を流れ出ているから、葬儀社の人員が午後まで待つことができないことを堅持して、彼女が父の遺体が目の前に再度が持ち運ばれたことを見て、内心の痛みと自責の念が自然に発生して、同時に上師の日頃の教導に合わせる顔がないことと深刻に感じて、すべて自分の間違いだと思って、教えることに従って遂行していなくて、家族が依然として彼女の信仰を認めることができないことを招いて、同時に父にこんなに多いの病気の苦しみを受けさせた。やっと因縁と福報がないと、ポワ法を求めえることが出来ないと分かった。そして自分の貪の念頭に対して懺悔心を思い始めた。八時間六字大明呪を唱え終わって、父の目が依然として小さく開いていて、歯がぴったり閉めるが、しかし唇がまだ開けている。しかも口の周囲は既に死体のぶちが現れて、この時はやっと明瞭したのは、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェがなければ、彼女は何もならなくて、彼女は往生した父にいかなる事をして助けることができない。

思い出せば2009年10月終わりに、彼女は深く分かった、自分は病気にかかった父親を助けるのが何も出来なかった、それで彼女は父親のお代わりに尊いリンチェンドルジェ・リンポチェに道場で大礼拝をするのを懇請した、慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の願いを受け入れたので父親が福報を蓄積するのを助け出来た。2010年6月12日端午節の前、父親の血糖値は突然に400-500まで上がった、それに水腫が全身に波及して意識も模糊としていた。彼女は父親がこんなに苦しめるのがもう見るに耐えなくて、リンチェンドルジェ・リンポチェが父親を加持するように願いに行った、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェに報告した:「父親は既に二年間半臥床した、リンチェンドルジェ・リンポチェに父親に害された衆生及び累世冤親債主を加持するようにお願いして、またリンチェンドルジェ・リンポチェに父親が早めに離苦得楽で浄土へ往生するように祈請した。」あの頃リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女に仰った:「そなたの要求はあまり多すぎではないか?そなたの望みに叶わなければどうするの?」彼女は直ちにあらためてリンチェンドルジェ・リンポチェに父親にとって一番いい手配をするように祈請した、リンチェンドルジェ・リンポチェはかえって彼女に聞いた:「一番いい手配は何だろう」彼女は答えが出来なかった、心の中には父親のお代わりにポワ法を希求したかったが自分は良く分かった、父親のために十分な福報を蓄積するのがまだ出来なかった、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女を答えさせた、心にはしばらく躊躇ったがやっと返事した:「リンチェンドルジェ・リンポチェは父親に三悪道を堕ちさせないようにお願い致す。」慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェはすぐ父親を持呪加持してまた彼女の父親の片手と片足は水腫かと聞いた、彼女は事前にリンチェンドルジェ・リンポチェに父親の水腫現象をお知らせなかったのにリンチェンドルジェ・リンポチェはかえって父親の病状を良く分かって、最後に一粒珍貴な甘露丸を賜ってまた「自然に任せ、端午節後見よう」と申された。しかも慈悲に彼女が父に代わった供養を受け取った。

リンチェンドルジェ・リンポチェの加持を得た父は、本来意識がぼんやりしていたが、甘露丸を飲んでから覚めて、端午節の後に病状が安定して言って、彼女は慈悲深いリンチェンドルジェ・リンポチェが父に福報を累積する機会を与える事を明白した。然し、その時、彼女の長姉も気が動転した母に率いて彼方此方に神を求めて占いをして、宮廟の人々が父の写真を見て、彼女の父が少なくとも何年間の寿命があり、彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェが開示した内容を家族に話して、然し、彼女の母が両方の説法の差異が大きくて判断して従う事ができない。彼女は長姉に母を率いて宮廟に神を求めて占いをしない事を勧めて、その後、長姉は母に率いて大悲水を求めて病気に罹った父に飲ませた。兄弟子は彼女に提示して、機会を探して父に率いて台北に向いてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見していて、父に死ぬ前にリンチェンドルジェ・リンポチェに縁を結んで、そうすると、父がその後尊きリンチェンドルジェ・リンポチェの済度を受けれるなら、リンチェンドルジェ・リンポチェが疲れすぎ事がない。しかし利己的である彼女は、ただ父が台中にいて呼吸器に頼む事が要り、その上、家族が彼女の信仰を不完全受け入れるので、勇気がないで家族と調整し、だから、ずっと彼女の父がリンチェンドルジェ・リンポチェに縁を結ぶ機会を外れた。10月3日大法会の前の1週に兄弟子と雑談する時に、その父がリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見した二日に往生して、その上、尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェの殊勝なポワ法の済度を得て、強烈な信心を生じて、様々な困難を消して、父に率いてリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して来て、無常の変動を思わない、父が大法会の後の二日に往生した。この3.5ヶ月の時間は彼女に父に代わって供養させて、福報を累積して、彼女に帰って家族と調整して、上師に讚揚して、然し、彼女が愚昧なので、機会を把握する事が分からない。

彼女の父は往生した午後15時28分兄弟子から電話を貰って、リンチェンドルジェ・リンポチェの開示を伝えた。「大法会後の翌日往生した人も同じで阿弥陀仏に迎えられた。」彼女の心に護法及び諸仏菩薩の加持を無限に感謝して、父に大法会後に往生させた。実は彼女もはっきり分かったが、父の福報は足りない。だから、父はリンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得る事を望まない。しかし、17時33分に兄弟子の電話を貰って、リンチェンドルジェ・リンポチェは既に父にポワ法を修めた事を伝えた。また彼女に速めに父の梵穴が暖かいかどうかを確認しなさい。当時の彼女は驚いて感謝したが、意外に「しかし父は既に遺体保管冷蔵庫に入った」と返事した。兄弟子の提示のお陰で、この前に通電の遺体保管冷蔵庫を通して、円満に修法した例が有った。慌てて彼女は夫の助けで遺体保管冷蔵庫を開いた。彼女はぶるぶる震える左手で父の頭の梵穴を触った。本当だ。本当に暖かかった。急いで家族を呼んで一緒にこの殊勝な一刻を見た。夫は触った後、母と三番目の姉も触って、皆は暖かいと言った。彼達の表情から見ると、不思議で半信半疑だった。惜しいなのは最も彼女が仏を習う事を反対した一番目の姉は当時いなかった。更に二番目の姉も生理なので、母に父の遺体を触る事を禁止されたから、この殊勝な一刻を逃した。

彼女の父はポワ法を得た後、顔と唇の色も赤くて、まるで眠ったようだ。更に口元に笑みを浮かべて、死斑さえもなくなった。また父の頭に赤いスポットは数箇所表れた。其の中にある一箇所の赤いスポットの面積は約台湾ドル五元くらいだ。このような殊勝なポワ法を修めて、円満に成功した瑞相は家族に始めて悲しませなかった。兄弟子は引き続きに父は嘗て豚を殺したか或いは他人の側に豚を殺すのを見たかと聞いた。母は父は豚を殺さなかったけど、鶏を殺したことがあった。母は確認のために伯父に聞いた。伯父は父は豚を殺したのは不可能だが、豚を殺した事を見たかどうか確定できないと返事した。しかし父の実家は豚を飼ったから、この点から見ると可能性は高いだ。其の後兄弟子はまた家族の中に事故死の人がいるかと聞いた。彼女は最初思い出したのは四番目の叔父だ。彼は二年前に物を食べるとき喉が詰まって亡くなった。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの人ではなくて、もっと前の人だと開示された。だから、彼女はまた伯父に確認した。始めて伯父は決して事故死の祖先がないと否定したが、詳しく解釈して、伯父に尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは父を助けてポワ法を修めて、円満に成功した瑞相を話した後、彼女は再び伯父によく考えると頼んで、最後伯父は突然お婆、つまりお爺の妹が幼い時に溺死したを思い出した。

リンチェンドルジェ・リンポチェは事故死のはこの女の幽霊だと開示された。うまく済度されなかったから、彼女の家族の中にとても長く時間に悪戯していた。だから父は長年に病気に罹った。(父は五十歳から始めて重病や軽い病気は絶えず、何回も病院に進出していた。今年までもう十九年に病気になった。)更に父は五人兄弟があったけど、現在一番目の伯父と末っ子の叔父はいる以外、二番目の伯父と四番目の叔父も中壮年の時に亡くなった。また婦女子ほぼ離婚や不妊した状況があった。母はこの開示を聞いた後、心の中からリンチェンドルジェ・リンポチェに無比な信心を起した。母はいつも祖先をうまく処置していないと思った。お婆は若しまだ生きれば、もう九十歳以上だろう。この八十や九十年の歴史は既に家族に忘れられた。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは父を済度した時、一匹の大きい豚を及び一群の鶏、鴨を見て、勿論この忘れられたお婆も見た。再度殺業が重い家族は多病、短寿、眷属は不円満という事は認証された。因果の恐ろしさを信じれなければならない。尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは家族が仏法を信じないと分かるから、一つは一続きに証明を挙げた。

えて、リンチェンドルジェ・リンポチェに皈依して仏法を習える事を感謝した。しかし、彼女は依教奉行せず、今年お正月の時に日本法会に参加した時、自分は墾丁で休日を過ごした理由として母を騙した。最後嘘は母にばれてしまった。仏弟子として、嘘をついて、不妄語戒を破った。家族に自分の不信及び上師に不恭敬を起させた。彼女は上師の教導に対して、恥ずかしいと思った。だから、全家族は上師の恩徳を得て、父のためにポワ法を修めた時、家族に父を助けてポワ法を修めたリンチェンドルジェ・リンポチェに恭敬心と感謝の気持ちを起させなかった。

彼女の一番目の姉は自分は家族の中に男の子がない悔やみを拾って、常に父母を連れてレストランへ食事に行ったり、遊んだりした。父はベッドで病気に罹った二年十ヶ月の中にも力を尽くして父を世話して、母の気持ちを関心していた。昔女弟子は父母に美味しい物を食べさせて、好い服を着せて、遊びに連れて喜ばせるのは親孝行だと思った。其の後、リンチェンドルジェ・リンポチェに従って仏を習った後、深く体験したが、「父母に親孝行した最もいい方法とは仏を習う事であり、父母を助けて福報を累積する」。

通夜の時期、彼女の一番目の姉は彼女が提出している考えと意見について、深く敵意を持って反発していた。何故自分は必ず菜食で父を供えるのを主張するのか分からなかった。一番目の姉は父生前の習慣に従えば親孝行だ、また、彼女は母及び姉達を尊重しないと思った。姉は自分の信仰を尊重しているけど、全ての供物や礼儀は自分の信仰の通りに従うのを納得できない。彼女は上師に深く信心を持っているが、自分はうまく行わないから、家族に悩みを起させるのは自分の間違いだ。夜アチ護法を修める時、アチ度母に懺悔して、依教奉行せず、自分をよく改めないから、このような障碍がある。また同時に護法に自分が仏を習う決心を加持する事を祈った。彼女は全て円満で順調に進めると信じた。其の夜家族は父に初7日の儀式を行った時、読経の人は一番目の姉に言った。「家族は亡者に対して心は最も重要だ。そなたの妹は遺体の側に八時時間六字大明呪を唱えていた。此れはお父さんによかった。だから必ず争わないで、そうすれば亡者によくない。」其の後、一番目の姉は彼女に態度はよくなった。

葬式を行った時期、父に供える供物は必ず菜食と主張するために、家族と少し争いを起して、心の中に比類のない苦しみがあった。葬儀社の管理者は送別式の当日礼儀とは必ずいけにえを捧げると行った。しかし、母は葬儀社の顧問と相談する時に彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェは母の頭にいると観想して、また「快楽と痛苦」の中にリンチェンドルジェ・リンポチェの法写真を見た。其の後母は話が終わって、皆に顧問は菜食でもいいと言った。元々いけにえを捧げるを決めた母は最後演劇性に菜食で供えると言った。彼女は上師に信心を具えれば、多くの事は必ず変わるきっかけがあると信じた。同時に「快楽と痛苦」の中に「仏菩薩及び上師の助けが必要の時、心の中に期待する結果を思わないで、完全に仏菩薩と上師はそなたによく、そなたを利益すると信じれればいい」と深く体験した。

自分は今まで家族にポワ法の殊勝を話さないと懺悔した。彼女はリンチェンドルジェ・リンポチェにポワ法を修められた亡者は火葬した後、其の其の頭蓋骨の梵穴に縁が整然として貫通された丸い穴が顕れた。それは亡者は必ず浄土に往生する事を表した。彼女は家族にこの殊勝な瑞相を写真を撮ると言ったけど、彼女達は写真を撮ると父に敬わないと思って家族だけ写真を撮ると同意した。しかし、写真を撮る前に先に擲筊を投げ、父の同意を得ないと出来ない。また今回火葬の時間は夜8時30分なので、翌日骨灰を受領した時に既に瓮に入れた。家族は彼女達を骨灰を裏返すと反対したから、短い一分間に彼女は完全の頭蓋骨を見て、綺麗なピンク色及び緑色と綺麗な白骨を見た。しかし、すぐ殊勝な丸い穴の瑞相を見えなかった。写真を撮る時間が間に合わないまま父の骨灰を封印した。元々好いことなのに、彼女は通常に家族にリンチェンドルジェ・リンポチェの衆生の済度の事跡を話せず、賛嘆しないから、家族は仏法及び慈悲なリンチェンドルジェ・リンポチェに感謝及び恭敬心を起させなかった。彼女は自分は親孝行しない娘と思って、上師を謝り、家族を謝り、更に彼女に因縁を与えて仏を習った父に謝った。

最後彼女は尊き金剛上師リンチェンドルジェ・リンポチェを感謝して、見た事がない(大法会さえに参加した事がない)父を助けて、ポワ法を修めて円満に成功した。更に父は気管切開を受けて、往生後既に十二時間に経て遺体は通電してステンレスの冷蔵庫に六時間に冷やした。父の梵穴はまた暖かい瑞相が有った。顔に元々現れた死斑も修法された後亡くなった。当時リンチェンドルジェ・リンポチェは日本にいて更に二日前に二万人の超度大法会を行なったばかり、それなのにリンチェンドルジェ・リンポチェも父を助けてポワ法を修めた。リンチェンドルジェ・リンポチェはこのような命を捨てて衆生を利益して、命で衆生を済度した。このような大きい恩徳は女弟子は本当に終生忘れることができない。

良く仏を学んで、それに未来の日に力を尽くして母親と家族のため沢山福報を蓄積して懺悔する、また自分の力を尽くして、教派を一生懸命守って、リンチェンドルジェ・リンポチェの仏法事業を護持して、仏の恩、上師の恩、父母の恩及び衆生の恩をはじめて返す。

尊きリンチェンドルジェ・リンポチェは法座に上がった後、皆に殊勝な仏法を開示された:今日修める緑度母は、チベット仏教の中に多い寺院が全て修める一つの本尊だが、漢が伝えた仏教の中はめったに修める。

観音菩薩は「普度衆生」とは、六道即ち人道、天道、阿修羅、地獄道、悪鬼道及び畜生道の中にの一切衆生は全部輪廻の中に苦しめている、それで六道の中にどの道の衆生が観音菩薩にお願いすれば観音菩薩は全てかれらを助ける。しかし《地蔵経》の中に述べるように、全宇宙の中に一番難しく済度するのは地球の人類である。経文の中に特に地球の人類しか言い及ばなくて、また「剛強自用、難く調伏」この二つ言葉で批判する。そなた達は考え見て自分はこのようであるか?リンチェンドルジェ・リンポチェはどんなに話して、教えて、お勧めてもそなた達はやはり受け取らなくて、従順ではなくて、また自分の考え方で上師の話を考える。なぜそなた達はこうしているか?それはそなた達は「我」の観念が強いすぎで、執着しすぎよう。そなた達は生々世々全部この「我」との世界中に生きて、一切全て利己的な考え方でやっている。

先ほど法会の始め前、自分のことを共にした女弟子は言い及んだ自分が日本へ法会に参加した時、母親に自分が墾丁へ行くと嘘ついた、法会に参加することはこんなに美事なのに彼女は嘘ついた、また自分が良い人と言えるか?そなた達は自分が良い人と思って、実は全て自分のことしか考えない、そなた達は信じなくてはいけない、確かにそうである。本当な良い人であれば既に浄土へ行ってしまった。

上師の修行、度衆の功徳を称賛することさえが出来ない者は家族皆に仏法に対して恭しい心を起こさせ出来るわけはない?皈依した時リンチェンドルジェ・リンポチェは嘗て申された、皆は上師の功徳を讃嘆するべき、なぜこうするか?そなた達は是非考えた、リンチェンドルジェ・リンポチェは名も利も要らないのではないか?どうしてまたそなた達を称賛させるか?リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達の賞讃が欲しくてはない、しかしそなた達の善根は小さいすぎで、福報が浅いすぎで、仏菩薩は衆生が速めに学仏の資糧を蓄積するのを助けるため、そなた達に良く上師の功徳を讃嘆することを教えた。そなた達の全て考えは全部悪で、1つ善念さえもない。諸仏菩薩と上師の考えは全て善で、それはなぜ仏経の中に「常億念」と説いた、即ちそなた達に諸仏菩薩と上師の善の功徳を想い出させる、そうするとそなた達の一切悪念を止めることが出来て、これは随喜功徳である。随喜とは他人は衆生を利益することが出来た時、そなたも喜んだのである。随喜はとても重要で、それも七支供養の中の1つである、そなた達は諸仏菩薩と上師を恭敬して、賞賛するこそ1つの供養である。そなた達は仏菩薩を見ることが出来ないが上師が衆生を助けるのを見たことがあった、それでそなた達に上師を憶念するとか上師の功徳を称賛するのを教えた。そなたは上師の出来ることが出来なくても随喜すれば結構でこんな功徳はとても大きいのである。

今回10月3 日の大法会の中に、リンチェンドルジェ・リンポチェは会場を回って法会の参加者皆に甘露水を撒き散らした時、司会者を担任する男弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェの功徳を称賛しようと思って、話そうとして気が切って話が繋ぎなかった、なのゆえだろう?これは護法が妨げたのである、彼は常にリンチェンドルジェ・リンポチェに信心が不足で、上師を讃嘆しないから。二万人の目の前に上師の功徳を称頌するのは大変な随喜功徳を蓄積することが出来る、しかし彼は日頃リンチェンドルジェ・リンポチェに対して十分な信心がない、それで護法は彼を妨げて彼にこの功徳を得させなかった。だからそなた達は普段リンチェンドルジェ・リンポチェに対して信心がとても重要である、仏経の中に述べてあり、信は一切功徳の母で、上師が必ずそなたを助けるのを信じであれば、自分は上師が全て教えたのに従っても、是非生死を離脱することも出来る。

まだ1人脳瘤があって既に数年皈依した男弟子は、現在眼が見えなくなって、諸仏菩薩と上師が見えない、それは、かれが嘗て悪念を引き起こしたことがあって、1つ考えであれば十分である。彼は1997年に脳瘤を診断出したのでリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた、あの頃彼は大学を卒業したばかりで、一般な若い者のように人生に対して抱負を満ち溢れた。彼はリンチェンドルジェ・リンポチェに伺った問題は、沢山こんな病状のある信者が聞いたものである:手術して腫瘤を取り除くべきかどうか、しかしリンチェンドルジェ・リンポチェが彼に答えたのも一貫な標準答案である:手術するかどうかそなたが自らで決めて、するかどうか問わず、リンチェンドルジェ・リンポチェは是非そなたを助ける。彼は手術すると決めて、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼が手術を受ける時死なないように加持した。あの時彼の状況によって、大体2000年までに生きれば良かったと思った。そなた達はいつも癌細胞を全部殺してしまったと思った、手術して腫瘤を取り除けば問題がないと思った、手術或いは化療は癌症を治せば、この世界中、癌のため亡くなったはずはなかった。

最初この男弟子はリンチェンドルジェ・リンポチェに面会を申し入れた時、すでに眼玉の後ろの腫瘤に圧迫されたため目が突き出た,それでリンチェンドルジェ・リンポチェは彼に教えた、お医者さんに検された腫瘤を除いて後ろにまたもう一粒小さいのがあり、お医者さんはまだ検査出さなかった。彼が手術を受けた後、お医者さんは後ろにやはりまだ1粒の腫瘤を発見した、リンチェンドルジェ・リンポチェはどんな検査を通じなくても既に分かった。リンチェンドルジェ・リンポチェの加持のしたに彼は手術を受けた後、一切良く回復した、突き出た眼玉も縮んだ、また堂堂な男に見えた、癌細胞は完全に消えてしまった。しかし、彼は思わなかった、仏菩薩は彼を助けて彼に時間を遣って人生を享受させるのではなく、彼に仏法を学ばせるのである、結局、彼は人生がもう一度拾ったと思って、恋をし始めた。リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達が恋愛することを反対するのではなく、そなた達は在家衆で、恋愛するのは正常で、しかしこの男弟子はあと恋情に問題があったため、心の中に嗔念を起した。

2004年末頃、一部の信心不足の弟子は道場の中に紛争を作って、上師リンチェンドルジェ・リンポチェを批判して戒を破った、この男弟子も彼らと一緒に話した、その後脳癌はまた起きた。仏経の中に述べてあり、我らは他人を批判してとても重い悪果が得る、ましてそなたに対して恩のある金剛上師を批判するなんで、そなた達は誤解しないで、リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達を罰するのではない、リンチェンドルジェ・リンポチェは従来そなた達を処罰しない、諸仏菩薩もそなた達を懲らしめない。直貢噶舉祖師ジッテン・サムゴンはかつて仰った、具徳修行の上師は衆生に病を治すことが出来る、しかし衆生は病気を治したら、自分が修め得て、もう続いて勉強しなければ病はもう一度戻って来る、それに今回は治さない。そなた達は諸仏菩薩が彼を懲戒するこそ彼に病気を再発させたと思わないで、実はそなた達は学仏と発心した時、諸仏菩薩と上師は先ずそなた達の寃親債主を妨げるのを助ける、寃親債主はそなたに修行して証果を得させて将来彼らもそなたに従って一緒に昇ることが出来ると分かった後、暫くそなたを邪魔しない。しかし、そなたは病気を治ったのはそなたに多い時間をやって、そなたが所謂人生を暮らさせると思って仏を学んで自分の行為を修正しなければ、諸仏菩薩と上師の加持力ははじめて切られた。実は、そなた達は良く考えて科学家の眼の中に我らの人類と動物と違わなく、我らは暮らす生活:食べる、寝る、セックスする、次の世代を育てて、次の世代にどのように食べ物を捜す、遊んで疲れたと寝る、これは動物とそっくりではない?

そなたは自らで諸仏菩薩と上師が与えた加持力を切ると寃親債主はもう一度訪ねて来た。この男弟子のように、悪念が起きられたため、脳瘤はまた再発した。そなた達は仏にお辞儀を多くすれば、ことを解決することが出来ると思わないで、一番大切のはそなたの考えである。この弟子は現在の状況によって、どうすれば彼が自ら決めるしか出来ない、彼は上師、仏菩薩に対して恭敬心と信心はあるか、自分が往生する時リンチェンドルジェ・リンポチェのポワ法を得させ出来るか?

昨日、リンチェンドルジェ・リンポチェが台北寶吉祥センターにて信衆を接見した時には、ある女の信衆は娘を率いて来て、彼女の娘が非常に太くて、その上、おでこの皮膚が猿のように前後を移す事が出来る。この女の信衆はリンチェンドルジェ・リンポチェに報告して、彼女の娘は16歳からこのおかしい病気に罹って、絶えずに食事をしていて、頬が全部太っても続けて食べていて、この後に精神疾患に罹って、今までには彼女が仕方が無い。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女の娘に会うと、彼女の家に必ず良くない仕事を働いて、問うと、彼女が煙草とお酒の売買の商売をして、リンチェンドルジェ・リンポチェは彼女にこの仕事を働かない事を勧めて、彼女は年末至ってから、煙草とお酒の商売を完了して来る。そなた達は因果が信じない、煙草とお酒の売買を言わない、仏経に開示された事があり、アルコール依存症の人々は糞地獄に陥れて、他人にお酒を飲むさせる事も事柄があり、あれは側に居るお客さんをも少し飲むように説得する人が、500世に手が無い果報が得られる。

飲酒者は神経に影響可能で、意識が明晰をしないて、話を間違えて、働き間違える事を引起して、来世に地獄道に陥れてから、オランウータン或はヒヒになる。人類とヒヒの差異は何処にいるか?科学者はオランウータンの遺伝子と人類の差別がただ2%だけあることを実証した。西洋科学者の論点を聞いてはいけなくて、その上、人類はヒヒから進化する事と思ってはいけない。そなた達は描いた図を見ると、このような説法を信じていて、実には、西洋の科学者がただ推測だけで、けれども、そなた達は全面的な西方の説法を受け入れる。若し、人類は真にヒヒから進化されるなら、それでは、今日、そなたに一匹のオランウータンを養って、それはどのように人類に進化させるかと見てみる。

実には、オランウータンとするのは人が生前の前に飲酒する事を愛するのでこの果報を得て、アルコール依存症の人々は糞地獄に陥れた後で、少なくとも地獄に人類時間の1千年を過さなければならない、それあとで地獄に離れて初めてオランウータンになて、オランウータンとする多くの世に経ると再び人類になって初めて、然し、精神発達障害である事があり得る。この女の信衆はこのような悪の業界に従事するので、このような子供が家に呼んで来て、彼女の娘の病気なので、娘が16歳から今の40歳余りまで、彼女が幾らお金をかかる事が計算できない、お金がないで食事しないではないし、リンチェンドルジェ・リンポチェに年末までに続けてしなければいけないと回答した。

総ての事情は因果であり、そなた達はそなたが因果を信じている事を常に話して、ただ実際にはそなた達は真に因果を信じない。そなた達は良くない事を遭うなら、自分の前世に何か悪業をした事かもしれない、然し、自分のこの世に多くの悪業をした事を承認しない、在席の皆はどちらがこの世に肉を食べた事がないでしょうか?ただ肉を食べる事と殺生の悪業はそなた達に返却しなけれなならない、修行者は「因」を恐れて、一分一厘の悪でもする勇気がない、然し、凡夫は「果」を恐れて、悪因をした後で悪果の発生を恐れている。

この前、ある男の信衆は父が往生したので、リンチェンドルジェ・リンポチェに父の済度を求めて謁見して来て、リンチェンドルジェ・リンポチェは、彼の父は何故病気に罹った原因が従事した業界に関係があり、彼にどんな仕事をするかと問い合わせて、彼の回答は夜の酒屋で男である給仕人を従事している。リンチェンドルジェ・リンポチェは彼にこのような業界を従事しない事を勧めると、彼は変わりたくない事を表示していた。

観世音菩薩は人々がこんなに愚癡を見て、救い終わられないので、二つの涙を流れて、「緑度母」と「白度母」になった。「度母」とは「法身仏」を修めない法身大士である。度母は母性と慈悲の化身である。その上、女の子はより注意深いわけであり、然し現在大部分の女の子はこのような特質がない、男の子によりさらに気にかけない、現在の社会には、男が男っぽいではない、女が女っぽいではに。今日、修めた緑度母はそなた達にとって、商売が不順で、或は家に誰かだ病気に罹って、或は家庭が円満ではないなら、常に喧嘩するなら、少しの助けがあり、離婚が良い或は離縁が良い、これは分からない、それはそなたの縁である。

仏の前には、如何なる衆生、男女としても、総て平等である。阿弥陀仏経には、我々は来世に女身を得ない事を発願する事があるが、女を差別する事ではない、仏経にはある16歳の女の子が10地菩薩を認めた事があり、釈迦牟尼仏の前には諸衆の為にこの神通を現る。女の子が受ける苦しみが男の子により多くて、女のことしたら体得する事が出来て、だから、我々は女身を得ない事を発願する。この世には何故女身を得るのでしょうか?これは前世に欲望が重いわけである。だから、この世に女の子になると、機嫌が穏やかでない、他人がそなたの要求が対応できないて怒り、現在には常に言った憂鬱症或は躁鬱病は欲望が重い事から生じていく。現在、台湾、香港などの所、総て女の子が多くて男の子が少ない、一方女の子は自分が極めて苦しんで、悩みが多くて、も一方のもの、男の子は自分が事業を頑張らなければいけない、仏を学ぶのは女の子の事と思っている。

小乗仏法に対して、一切の欲望を断つ事が要り、だから、炊飯しなくて、仏珠も掛けない。大乗仏法にて菩薩道を修める事に対して、欲望が我々に激励する動力で、金剛乗に対して、欲望が工具を以って衆生に仏を学ぶ事を助ける。そなた達は何か求めがあれば、諸仏菩薩と上師はそなたの願を満足させる。然し、諸仏菩薩はそなたに一回だけで救う事が出来て、二回目が出来ない、緊急な事を救って、貧乏な事を救わない、そなたが危難にあう時にはそなたに助けてくれて、然し、その後、そなたが自分でお金を稼いで債主に返却しなければならない、上師に自分が貧乏する事を話すが仕事をしたくない。リンチェンドルジェ・リンポチェはその脳癌に罹った弟子に助けて、この後は彼に自分がしなければならない。衆生が難しく済度して、仏経が曰くのように、仏菩薩は玩具にて衆生に火宅から離れる。が、衆生火宅から救ったばかりが、結局体の向きを変えて、衆生はまた毒蛇猛獣を充たす森に振り返る。

緑度母は今日、壇城の中央に奉った仏像で、リンチェンドルジェ・リンポチェは雲南昆明にこの仏像を迎えてきて、既に長い時間で、この聖像が極めて荘厳で、今年、直貢チェツァン法王は台湾に来た時にこの仏像を見て、十分に荘厳だ事も思っていて、だから、リンチェンドルジェ・リンポチェはこの聖像に裝蔵、開光、その上、時に今日に緑度母を修めて、緑度母を迎えて寶吉祥仏法センターに来て、緑度母は21度母の創め、その後は又20尊度母がいる。今日、道場に開光をして、緑度母に、皆に仏を学ぶ障害を減らして消して、そなたの慈悲本性を清浄して、この世に成就を得る事を望んでいる。一部人々は仏像の開光が要らない、ただ心の開光が要る事と言って、これは禅宗の話し方で、然し、明心見性を修めえる事が要る。緑度母を修める利益は戦争に停止させて、事業順調、家庭円満、身体の健康、寿命の延長、財運の延長、業障の消え、八難十六災難を救って、周りの国に喜んでいる。ただそなた達は法会に参加する時に、信心、尊重とうやうやしい心があったら、緑度母の加持を必ず得て、同じ主法者が同じように修めて、各々の効果が同じく無い、そなた達の心か誠心する事による。

仏像は大部分が銅で作って、中身が空いていて、裝臓とは仏像の中身に仏経、真言、穀類と他の貴重な物を入って、周りの鬼神が仏像の上に付ける事を避ける。仏像は裝臓と上師の開光をした後で、仏菩薩の報身、化身と法身になる。これは何故一部の人々がりんちぇンドルジェ・リンポチェの写真に恭しくな頂礼して、彼が同じように加持と助けを得るわけで、これはリンチェンドルジェ・リンポチェの写真がリンポチェの修行の善根、功徳、歴代上師の伝承と加持があり、だから有効があるわけである。ニュースの報道には中国で一部の古い仏像が出土してから、一部の人々が仏像の身体を破壊して、この中身の宝物を取って行って、これは極めて厳重なことで、「仏血を出る」とは、仏像の五臓さえ取る勇気があり、これは「五無間地獄」に陥れて、極めて良くない事で、微かな小さいな利益なので、厳重な果報を作ってはいけない。

続いてリンチェンドルジェ・リンポチェは始めて法を修めた。更に大衆を率いて緑度母真言を唱えた。

法本の中に始めてから供養である。法本の中に自身財産は全て供養するとある。この話はそなた達は言う勇気がないが、リンチェンドルジェ・リンポチェは法本に書かれた通りに皆を代わりに緑度母を祈って、健康及び財産を与え、皆に十分の仏を習う資糧を持たせる。

本尊の願力で全ての煩悩と苦痛を取り除くを祈って、身意病は全て治り、寿命財産全て増える事を祈って、願いは仏法のように円満と祈る。そなたたちは病気に罹ったのはそなた達の意識は病気に罹ったから、此処でそなた達の身と意を加持する事を祈って、寿命と財産は全て増える事もそなた達が好きに得た。しかし、其の後祈って、この物を得るのは願いを叶い如法に仏法を習うためだ。そなた達に財と寿命を持たせて人生を享受して、命を浪費させない。はっきりに仏菩薩は如何なる皆を助けて、全ては衆生を救済して輪廻苦海を解脱するためである。

自分の財産と善根は大悲心を具える者に供養する。リンチェンドルジェ・リンポチェは毎回円満に閉関修行した時、いつも閉関修行の得た一切功徳を三恩根本上師直貢チェツァン法王に供養した。そなた達は皆このように行う重要性を分からない。

恭しく仏菩薩を祈って、我々の供養を受ける。法本には「哀納」の心で仏菩薩を求めて、慈悲に衆生を憐憫して、衆生の供養を受けて、衆生に福報を累積する機会を与えるとある。それは仏菩薩は衆生の供養を受けた後、衆生の福報は起こった。だから、そなた達はリンチェンドルジェ・リンポチェに供養した時に「気持ちだけなので受けてください」と言ったが、このような残る心で供養すれば効果が起こらない。

直貢噶舉教派祖師ジッテン・サムゴン嘗て説いたが、ある果を証したリンポチェは病気を治す力がある。だから、何故リンチェンドルジェ・リンポチェは真言を唱えて加持すると、多くの物事を変えられる。皆も有る例を聞いたが、リンチェンドルジェ・リンポチェは息を吹くと、元々やけどをした皮膚は速めに治った。更に治った後、傷あとは残らなかった。此れは全て上師の慈悲である。自分の功徳福報を皆に与えた。先始めて開示された脳腫瘍に罹った弟子の事もそうである。

ある金剛乗の上師の行為、言行は全て全て衆生を利益するためだ。そなた達は分別心を持たないで、唯話を聞いて、依教奉行しかしない。リンチェンドルジェ・リンポチェは法席に座って仏法を開示した時だけ仏法を説き、そなた達はそれを聞いて従った。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェは法席から降りた後、話した事は仏法ではないと言う事を思わない。此れはそなたたちは分別した。リンチェンドルジェ・リンポチェは分別しない。リンチェンドルジェ・リンポチェにとって、24時間は仏法の生活を過ごしている。仏法で生活を過ごしているから、話したことは全ては仏法でそなたたちを助けるためだ。若しそなたは分別すれば、リンチェンドルジェ・リンポチェは毎週法席に三時間しか仏法を説かないが、一日中は24時間があるのに、そなたはリンチェンドルジェ・リンポチェの五十六分の一の加持しか得ない。そなた達は少しを残ると、リンチェンドルジェ・リンポチェも少しを残る。しかし、リンチェンドルジェ・リンポチェの少しはそなたたちの全部である。

リンチェンドルジェ・リンポチェが緑度母を修めた時には、参列のある女の弟子は平静な往生して、リンチェンドルジェ・リンポチェが他の弟子をすぐ大体をすぐに壇城の前に協力して移して、リンチェンドルジェ・リンポチェが既に彼女にポワ法を修めてあげた。修法完了してから、リンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の夫に大体頭頂上の梵穴を手で触れて、確かに温熱のものとした。もう一人の弟子は死者の頭頂への梵穴が温熱を除いて、梵穴の所も陥没した。これらはポワ法が修法成功の瑞相である。彼女の夫は死者が罹った病気が医学に治癒できない腎臓の糸球体方面の疾病で、蛋白質が患者の体内に残られない、絶えずに流失して続けて、だから水腫が極めて厳重である。普通の人々のクレアチニン指数が2.5に至ると腎臓透析が要り、或は痙攣を起こし、心脈が停止し、然し、この弟子が最近の指数が28を越えて、この弟子の主治医者が30年余りに見た事がない、然し、彼女が入院している間には、一切の事がリンチェンドルジェ・リンポチェの教えに恭しく従って、その故彼女の身体の状況が既に極めて大変であるが、普通の人々のようではなくて、意識が依然としてはっきりしている。

リンチェンドルジェ・リンポチェの開示は、死者がとても特別な女の子で、四年前にこの治癒できない疾病を持ってリンチェンドルジェ・リンポチェに謁見して、この間には水腫なので約30キロを増えて、然しリンチェンドルジェ・リンポチェに加持する事を求めた事がない、ずっとリンチェンドルジェ・リンポチェが彼女の水腫が極めて厳重なので、主動的な彼女に来させて、彼女に加持させた。一部の人々が同じではない、吐血してからリンチェンドルジェ・リンポチェに困らせて、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修める成就があって、離れたいなら何時に離れれて、そなた達は苦しめない。この弟子はこの病気に罹っても誰に恨んだ事がない、彼女が眉間を縮んで他人に文句を言ったこともない、毎回にリンチェンドルジェ・リンポチェに従って海外の法会に参加して、自分の福報を絶えずに累積して、だから10月30日の大超度法会(*チベット仏教直貢噶舉教派阿弥陀仏無遮大超度法会)に参加し、昨日の施身法に参加してから、今日の緑度母の法会に往生して、その上に薈供が完了してから去って、阿弥陀仏の接引を得て、往生の苦しみを得る事がない、また、皆に仏法の殊勝を見られた。その上、彼女が自分で言い、彼女は生前に上師に供養したい、往生してから他人により彼女に代わって供養する事をしたくない。彼らの夫妻の二人はお金持ちではない、大供養のお金もないし、然し、死者が生前にリンチェンドルジェ・リンポチェに極めて恭しくて素直に従うので、福報が上げた。今日、緑度母を修める特殊的な時には、この弟子が平静して、口もまっすぐに閉まって、死亡の苦しみを経ないで往生し、真に福報がある。我々は普通に仏を修めるのは、この時刻のため、尊厳があって苦しみがないで去る。現代の医学が発達するが、多くの人々が往生する前に、急救の過程を経なければならない、或は加護病室にて三管が一緒にして、非常に苦しんで去る。世間の事はまちまちで乱して、最後に至るか?総て同じで死亡に直面しなければいけなくて、そなたが如何に学問があって、往生している前の僅かな時間に、総て使わない、ただ速くて仏を学んで、ただ仏を学ぶ事がそなたに輪廻の苦しみを解脱する事を助けれる。この弟子は普通の人々が言う業が極めて重くて、治癒できない病気に罹って、然し、彼女が遣り遂げた事が、多くの出家者も遣り遂げない、上師に十分の信心があり、今日の善果があって始める。

続いて、リンチェンドルジェ・リンポチェは引き続きに緑度母の儀軌を進めた。最後皆を率いて迴向文を唱えた。其の中に「度母!私の苦しみを理解して私を加持して、私に悲しみと恐怖から離させてください」とある。此れは普通の迴向文にこのような言い方がない。度母の迴向文しかいない。「願わしく我が速めにこの善で聖度母尊を成就して、一切の衆生は無餘の尽きるまで、皆は全て彼仏地を安置し。」世間に多くの人はそなた達に教えて、迴向文を唱えると、功徳で特定な対象に迴向して、彼達によく転じられる。しかし、金剛乗の迴向はそなたたちを教えて、功徳は全て苦難の衆生を迴向して、彼達にこのお陰で機会があって仏法の助けを受けて仏土に行かせる。唯ある者しか迴向しないから、此れは正しい迴向である。

そなた達はとても福報があるから、今日自分の目で仏菩薩は如何なる衆生を済度した真実な状況を見た。先ほどそなた達は自分の目でリンチェンドルジェ・リンポチェはポワ法を修めた事を見た。短い数十分間に亡者の頭蓋骨に穴を開けて、神識を浄土に済度した。リンチェンドルジェ・リンポチェは次の如く開示された。仏法は真実に存在している。今日この弟子の往生はそなた達に見せて、仏法は証明できるだ。特にポワ法である。法を修めた後、そなた達に仏法が真実で嘘ではない事を見せて聞かせて感じさせた。また偶然なのは緑度母の法会の中に発生した。それもこの弟子の縁である。この弟子は上師は緑度母供養を修めた後、薈供した時落ち着いて往生した。そなた達に見せて重病に罹った弟子は上師に信心を具えれば、同じで往生した時に無事に離れるのを修められた。そなた達のように仏を習うのは開悟を求める事ではない。仏を習うのはこの瞬間に恐がらず、離れることだ。この弟子は息を止めると、上師にポワ法を修められて、すぐ神識を阿弥陀仏浄土に済度された。この様々な現象は極めて大きいな福報がないと得られなかった。

ただ短い10分だけ、幾つの声だけ、すぐに浄土に送り届けていく事が出来て、密法の偉いが此処にある。俗語で話す、舞台の上での10分、舞台の下での10年功夫、チベットに置けて、この法を修めるなら、1時間ぐらいにかかって、その上多くの条件が要る。然し、現在が商業社会なので、速さを求めるので、リンチェンドルジェ・リンポチェがこれを濃縮して、速度と時間とも速くなって、然し結果が同じである。これは修法者の慈悲力、禅定能力、及び修行功徳に関係がある。今日の法会が極めて殊勝で、そなたがポワ法の修法過程が自ら見て聞いて、これもそなた達の福報である。帰ると、自分が同じように従う事を思ってはいけない、リンチェンドルジェ・リンポチェがポワ法を修める時に出す声を学んではいけない、密法が上師の口授される事がないなら、そなたが聞いてしても役に立たない、その上、そなたに病気に罹らせて、その上死ぬかもしれない、不注意をしてはいけない。

リンチェンドルジェ・リンポチェは普通の人で、密法が成就する修行者がそなたに居て、そなたが知らなければいけない、そなたの眼前のこの修行者を再び軽視してはいけなくて、如何なる懐疑心を起こらなければいけない、一分一厘の懐疑があって、そなた達に如何なる助けがない、リンチェンドルジェ・リンポチェがこのような言う資格がある。中国功夫には空を経て牛を打つことがあり、リンチェンドルジェ・リンポチェが空を経て穴を打つ専門家で、大体を触らないで、依然として穴を打つ事が出来て、今日の大体がこの前にいて、距離が最も近くて、然し、大体が2千キロメートル以外にも、リンチェンドルジェ・リンポチェが依然としてポワ法にて空を経て穴を打つ事が出来る。

リンチェンドルジェ・リンポチェはそなた達に厳格ではない、そなた達は段々輪廻の深淵に向かう事を見える事に耐えられない、そなた達が苦しみを受ける事を惜しんで、だからずっと勧めて、ずっと教えて、リンチェンドルジェ・リンポチェが一切の力を尽して衆生に菩薩がするはず責任をやり遂げる。そなた達は仏法を受け入れて、自分に修正する事も望んでいる。

今日のこんな場面、そなた達は他の道場、仏寺に余り見えない、一部の仏寺の大雄の宝殿が死者が入った事が出来ない、多くとも大功徳主の牌位が偏殿に置いてそなたに経を唱えて、このような仏菩薩の前に済度する事がない。金剛乗はそれらの禁忌がない。普通にはそなた達は死者を見てから恐れて離れて、然し、今日、そなた達はこのような恐れがない、これは仏菩薩の慈悲がそなたに不同な感じせる。そなた達は他人にポワ法を修める能力がないが、リンチェンドルジェ・リンポチェが今日にした事が随喜しなければならない、随喜は最も大きな功徳で、そなた達に多くの福報を累積する事が出来て、そなたの未来に機会があってこの法の助けを得させられる。

法会が完了してから、緑度母を修めたばかりで、その上ポワ法を修めて弟子に済度して、リンチェンドルジェ・リンポチェが依然として信衆を接見して、36の信衆のためにこの世の一切の苦しみを解き、仏法を開示された。リンチェンドルジェ・リンポチェが衆生を惜しんで、無私無我の慈悲深い心が非常に感動させている。

2010 年 11 月 05 日 更新